night to night, brume to brume, blood to blood.――
ある晴れた日、パチュリー様が祈りと呼んでいいのか分かりませんが台詞を読み上げていました。ただ淡々と台詞を読み上げる女史の顔からは何も感情を窺うことはできませんでした。
パチュリー・ノーレッジ様は、七曜の魔法を操る稀代の魔法使いなのです。女史は成人まで幾年かございます少女のお姿をされていらっしゃるのですが、これは女史がそのお年にして、成長を止め生き永らえる捨虫の術を行使なされた天才であられることを示します。また、パチュリー様は私が働いております紅魔館の住人でございます。紅魔館は、人々に忘れられた神々や妖怪が集うここ幻想郷で、霧の湖の奥に建っております。女史は世界でも有数の所蔵量を誇る、紅魔館の大図書館のオーナーなのです。これはパチュリー様がレミリアお嬢様ことレディ・スカーレットの、古くからのご友人でしたことに因ります。お二人は、日頃から愛称でお呼びになり合われるご仲でした。
私は魔法使いでしたとしてもご親友の夭折に顔色一つ変えられない、パチュリー様への憤りを僅かにこの身から漏らしていたのでした。
墓石の前にはレミリアお嬢様の妹君、フランドール様が佇んでおられます。フランドール様は、その、申し上げにくいのですが対人関係上の問題を抱えておられました。精神的な病を患っておられたことに加え、常人よりも賢過ぎられるのです。そのため並大抵のお方は妹様を得体が知れぬと恐れました。お嬢様とは仲のよろしかったお方も、妹様と必要以上の会話しようといたしませんでした。一部の方々をお除きいたしますが。妹様は喪主として責務を全うされました。誰よりも悲しまれていますのに、力強く取り仕切られるお姿は生前のお嬢様を思わせました。
空は雲一つない晴天で、まるで神が悪魔たるお嬢様の死を嘲笑っているかのようでした。
湖畔に眠られたお嬢様に別れを告げ、私共は館へと戻りランチョンの給仕を始めました。ご葬列者方がいる以上、私共メイドは働かなければなりません。紅魔館の住人以外に心からお嬢様様を悼まれておられる方は多くありませんでしたが香霖堂の店主さん、森近霖之助様はそのようにはお見えしませんでした。
葬儀の全てが終わり、妹様や私は皆様と形式だけの会話をしていたところ、店主さんが話しかけてきました。
「フランドールさん、こんにちは。お悔やみ申し上げます。……お姉さんに渡すよう頼まれていた物があるんです」
周りの目を気にしていらっしゃるのか、敬語で話される店主さんがそう言ってお出しになったのは金の額縁に入った写真です。普段よりもドレッシーなお嬢様と妹様が笑みを浮かべておられます。店主さんが額縁をお作りになられたんでしょうか。緻密な彫刻が施された額縁はよりご姉妹を輝かせていました。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
フランドール様は幸せそうに写真をなぞっておられます。
「そう喜んでもらえると僕も手間を掛けた甲斐があった」
「咲夜、ご愁傷様。実は君にも渡すように言われていた物があるんだ」
それはお嬢様が生前ご愛聴されていた、ピアノソナタ第八番のレコードと修理された蓄音機でした。私は深い喜びと、哀しみのあまり狂ってしまうかと思いました。
「そう喜ばれると、僕と……きっとレミリアさんも嬉しいさ。じゃあ君もやることが多いだろうから、ここで失礼するよ」
「霖之助さん、感謝申し上げますわ。また近いうちに伺わせていただきます」
店主さんの背中を見送りました私はその後もご客人様を見送り、後片付けを行い、妹様のお手伝いをいたしました。結局、私がお嬢様に思いを馳せることができたのは丑の刻を過ぎてからでした。
この館で私が働き始めたきっかけはとても些細なものでございます。当初の私には忠誠心の欠片さえありませんでした。ただ雨風を凌ぎ明日も食つなぐため、お嬢様の勧誘に二つ返事で応じたのでした。それまで一日も安心して眠ることができなかった私にとって、ここでの待遇は素晴らしいものでした。そして仕事ぶりが認められお嬢様のお世話を仕るうちに私はしばしば、あることを思うようになったのです。このお方を守らねばならないと。生まれて初めて、人に無償の愛を捧げる喜びを知りました。当時の私はとても卑しく、いえそれは今とて変わりませんが、人の心は分かっても何一つ寄り添うことのできない下衆な人間であったと存じます。お嬢様は、そんな私を変えてくださったのです。
お嬢様は、五世紀以上もの時を永らえた吸血鬼でございました。しかし吸血鬼としてお嬢様はまだお若く、お姿は人間であれば十と少しといったところです。お嬢様はそんな見た目通りお可愛らしい部分と圧倒的なカリスマを併せ持たれていました。貴き血を引かれていることもあるのでしょうが、人の上に立つべくして生まれた才能と能力を持っておられました。
それはお嬢様が幻想郷を征服しようとされた吸血鬼異変よりも前のことです。お嬢様は天気の良い日にベランダで寛がれるのがお好きなようでした。その日も深夜、私は食後酒を愉しまれるお嬢様に給仕しておりました。
「やっぱり夏の夜って良い匂いがするわよね」
「仰る通りでございます。お嬢様。こうしてこの風を浴びていますと、昔のことを思い出します」
生温い風はとても心持ちが良くお酒を飲んでいない私までもが何かに酔っているようでした。ベランダは館の正面、南側にありましてよく見える大きな月がその陶酔感を更に加速させました。
「咲夜、貴女が時を止められるように、私も一つ能力を持っているの。それが何か分かるかしら」
「いえお嬢様。存じ上げません。」
「私はね、運命を操ることができるのよ。それは糸を手繰るように容易いわ」
こう仰られたにもかかわらず、お嬢様はこうしてお亡くなりになられました。私はただ、あのお方の蒼銀のお髪を梳いていられればよかったのです。アフタヌーンティーをお出ししていられればよかったのです。なぜこんな結末になってしまったのでしょうか。嘗ての私の不徳に対する天罰なのでしょうか。あの笑顔が、拗ねて膨れられているお顔が、不敵に嘲るお顔が、お髪の煌びやかさが、頭の中にこびりついて取れないのです。お嬢様、貴女様が運命を操れるというのならば、私に何を期待してこのような仕打ちをなさるのですか。私にはもう何をすればよいのか分かりません。
私はお話しできないほど乱れた姿で目覚めました。体調は最悪でしたが、メイド長としての矜持が、私を定刻通り起こしました。身支度と食事を済ませ今日の仕事はいつもと同じ筈なのに、とても億劫でございます。普段なら決して見落とすことのない埃を何度も見逃してしまいました。
――お嬢様にいただいた恩義を報いることができたのか。そのようなことばかり考えてしまうのです。私は良き従者だったのでしょうか。お嬢様の我儘なご命令は日常茶飯事でした。そして私はできる限り最善に近い働きをできたということは自負しております。ある時は妖怪達を打ちのめし、またある時は月にまでもお供いたしました。しかしそれでもお嬢様からお前は役に立ったと仰っていただかなければ、自らを許せないのでございます。誠に自分本位な願いであることは分かっております。然りとて、贖罪の機会はもう永遠に失われてしまいました。この受け入れ難い事実が私の脳を巣食い、業務を滞らせるのでございます。
何とかフランドール様がお目覚めになる前に館内の清掃を済ませることができました。只今は昼下がりでございます。お嬢様とフランドール様は新時代の吸血鬼であられます。古い仕来たりと嘗ての栄光に拘り、欧州の土に死したご老人方とは違うのです。ご姉妹は吸血鬼の時代が終わってしまった現実を正しく見据え、新しい世界に適応するため多くの努力をなされてきました。その一つが早寝早起きでございます。吸血鬼が活動する時間帯は普通、日没から日出までであります。しかしご姉妹はこれから時代全く人間との関係を築かず生きていくことは愚かであると思し召され、昼過ぎにはお起きになる生活をされているのです。
私はご寝室の分厚いドアをノックいたしました。
「入っていいよ」
「失礼します」
フランドール様はネグリジェ姿でベットに腰掛けておられました。
カーテンの隙間から差す西日のせいで、どのような表情を浮かべていらっしゃるのかは分かりませんでした。しかし、少なくともフランドール様の纏う空気に、ある種の重苦しい雰囲気はございませんでしたので一寸安心いたしました。
「おはようございます。今日のお召し物は何にいたしますか」
「おはよう。いつものドレスを頼むわ」
「かしこまりました」
私はこの衣擦れの音だけがする時間が好きでした。お嬢様にご奉仕差し上げていることを強く実感できるからでございます。
ある晴れた日、パチュリー様が祈りと呼んでいいのか分かりませんが台詞を読み上げていました。ただ淡々と台詞を読み上げる女史の顔からは何も感情を窺うことはできませんでした。
パチュリー・ノーレッジ様は、七曜の魔法を操る稀代の魔法使いなのです。女史は成人まで幾年かございます少女のお姿をされていらっしゃるのですが、これは女史がそのお年にして、成長を止め生き永らえる捨虫の術を行使なされた天才であられることを示します。また、パチュリー様は私が働いております紅魔館の住人でございます。紅魔館は、人々に忘れられた神々や妖怪が集うここ幻想郷で、霧の湖の奥に建っております。女史は世界でも有数の所蔵量を誇る、紅魔館の大図書館のオーナーなのです。これはパチュリー様がレミリアお嬢様ことレディ・スカーレットの、古くからのご友人でしたことに因ります。お二人は、日頃から愛称でお呼びになり合われるご仲でした。
私は魔法使いでしたとしてもご親友の夭折に顔色一つ変えられない、パチュリー様への憤りを僅かにこの身から漏らしていたのでした。
墓石の前にはレミリアお嬢様の妹君、フランドール様が佇んでおられます。フランドール様は、その、申し上げにくいのですが対人関係上の問題を抱えておられました。精神的な病を患っておられたことに加え、常人よりも賢過ぎられるのです。そのため並大抵のお方は妹様を得体が知れぬと恐れました。お嬢様とは仲のよろしかったお方も、妹様と必要以上の会話しようといたしませんでした。一部の方々をお除きいたしますが。妹様は喪主として責務を全うされました。誰よりも悲しまれていますのに、力強く取り仕切られるお姿は生前のお嬢様を思わせました。
空は雲一つない晴天で、まるで神が悪魔たるお嬢様の死を嘲笑っているかのようでした。
湖畔に眠られたお嬢様に別れを告げ、私共は館へと戻りランチョンの給仕を始めました。ご葬列者方がいる以上、私共メイドは働かなければなりません。紅魔館の住人以外に心からお嬢様様を悼まれておられる方は多くありませんでしたが香霖堂の店主さん、森近霖之助様はそのようにはお見えしませんでした。
葬儀の全てが終わり、妹様や私は皆様と形式だけの会話をしていたところ、店主さんが話しかけてきました。
「フランドールさん、こんにちは。お悔やみ申し上げます。……お姉さんに渡すよう頼まれていた物があるんです」
周りの目を気にしていらっしゃるのか、敬語で話される店主さんがそう言ってお出しになったのは金の額縁に入った写真です。普段よりもドレッシーなお嬢様と妹様が笑みを浮かべておられます。店主さんが額縁をお作りになられたんでしょうか。緻密な彫刻が施された額縁はよりご姉妹を輝かせていました。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
フランドール様は幸せそうに写真をなぞっておられます。
「そう喜んでもらえると僕も手間を掛けた甲斐があった」
「咲夜、ご愁傷様。実は君にも渡すように言われていた物があるんだ」
それはお嬢様が生前ご愛聴されていた、ピアノソナタ第八番のレコードと修理された蓄音機でした。私は深い喜びと、哀しみのあまり狂ってしまうかと思いました。
「そう喜ばれると、僕と……きっとレミリアさんも嬉しいさ。じゃあ君もやることが多いだろうから、ここで失礼するよ」
「霖之助さん、感謝申し上げますわ。また近いうちに伺わせていただきます」
店主さんの背中を見送りました私はその後もご客人様を見送り、後片付けを行い、妹様のお手伝いをいたしました。結局、私がお嬢様に思いを馳せることができたのは丑の刻を過ぎてからでした。
この館で私が働き始めたきっかけはとても些細なものでございます。当初の私には忠誠心の欠片さえありませんでした。ただ雨風を凌ぎ明日も食つなぐため、お嬢様の勧誘に二つ返事で応じたのでした。それまで一日も安心して眠ることができなかった私にとって、ここでの待遇は素晴らしいものでした。そして仕事ぶりが認められお嬢様のお世話を仕るうちに私はしばしば、あることを思うようになったのです。このお方を守らねばならないと。生まれて初めて、人に無償の愛を捧げる喜びを知りました。当時の私はとても卑しく、いえそれは今とて変わりませんが、人の心は分かっても何一つ寄り添うことのできない下衆な人間であったと存じます。お嬢様は、そんな私を変えてくださったのです。
お嬢様は、五世紀以上もの時を永らえた吸血鬼でございました。しかし吸血鬼としてお嬢様はまだお若く、お姿は人間であれば十と少しといったところです。お嬢様はそんな見た目通りお可愛らしい部分と圧倒的なカリスマを併せ持たれていました。貴き血を引かれていることもあるのでしょうが、人の上に立つべくして生まれた才能と能力を持っておられました。
それはお嬢様が幻想郷を征服しようとされた吸血鬼異変よりも前のことです。お嬢様は天気の良い日にベランダで寛がれるのがお好きなようでした。その日も深夜、私は食後酒を愉しまれるお嬢様に給仕しておりました。
「やっぱり夏の夜って良い匂いがするわよね」
「仰る通りでございます。お嬢様。こうしてこの風を浴びていますと、昔のことを思い出します」
生温い風はとても心持ちが良くお酒を飲んでいない私までもが何かに酔っているようでした。ベランダは館の正面、南側にありましてよく見える大きな月がその陶酔感を更に加速させました。
「咲夜、貴女が時を止められるように、私も一つ能力を持っているの。それが何か分かるかしら」
「いえお嬢様。存じ上げません。」
「私はね、運命を操ることができるのよ。それは糸を手繰るように容易いわ」
こう仰られたにもかかわらず、お嬢様はこうしてお亡くなりになられました。私はただ、あのお方の蒼銀のお髪を梳いていられればよかったのです。アフタヌーンティーをお出ししていられればよかったのです。なぜこんな結末になってしまったのでしょうか。嘗ての私の不徳に対する天罰なのでしょうか。あの笑顔が、拗ねて膨れられているお顔が、不敵に嘲るお顔が、お髪の煌びやかさが、頭の中にこびりついて取れないのです。お嬢様、貴女様が運命を操れるというのならば、私に何を期待してこのような仕打ちをなさるのですか。私にはもう何をすればよいのか分かりません。
私はお話しできないほど乱れた姿で目覚めました。体調は最悪でしたが、メイド長としての矜持が、私を定刻通り起こしました。身支度と食事を済ませ今日の仕事はいつもと同じ筈なのに、とても億劫でございます。普段なら決して見落とすことのない埃を何度も見逃してしまいました。
――お嬢様にいただいた恩義を報いることができたのか。そのようなことばかり考えてしまうのです。私は良き従者だったのでしょうか。お嬢様の我儘なご命令は日常茶飯事でした。そして私はできる限り最善に近い働きをできたということは自負しております。ある時は妖怪達を打ちのめし、またある時は月にまでもお供いたしました。しかしそれでもお嬢様からお前は役に立ったと仰っていただかなければ、自らを許せないのでございます。誠に自分本位な願いであることは分かっております。然りとて、贖罪の機会はもう永遠に失われてしまいました。この受け入れ難い事実が私の脳を巣食い、業務を滞らせるのでございます。
何とかフランドール様がお目覚めになる前に館内の清掃を済ませることができました。只今は昼下がりでございます。お嬢様とフランドール様は新時代の吸血鬼であられます。古い仕来たりと嘗ての栄光に拘り、欧州の土に死したご老人方とは違うのです。ご姉妹は吸血鬼の時代が終わってしまった現実を正しく見据え、新しい世界に適応するため多くの努力をなされてきました。その一つが早寝早起きでございます。吸血鬼が活動する時間帯は普通、日没から日出までであります。しかしご姉妹はこれから時代全く人間との関係を築かず生きていくことは愚かであると思し召され、昼過ぎにはお起きになる生活をされているのです。
私はご寝室の分厚いドアをノックいたしました。
「入っていいよ」
「失礼します」
フランドール様はネグリジェ姿でベットに腰掛けておられました。
カーテンの隙間から差す西日のせいで、どのような表情を浮かべていらっしゃるのかは分かりませんでした。しかし、少なくともフランドール様の纏う空気に、ある種の重苦しい雰囲気はございませんでしたので一寸安心いたしました。
「おはようございます。今日のお召し物は何にいたしますか」
「おはよう。いつものドレスを頼むわ」
「かしこまりました」
私はこの衣擦れの音だけがする時間が好きでした。お嬢様にご奉仕差し上げていることを強く実感できるからでございます。
内容はうーん、誰得?