ー1.
次第に夏へと向かっていく幻想郷、妖怪の山。
地上は既にうだるような暑さだが、ある程度標高を稼げば涼しい風が吹いている。
青い空にぽつりぽつりと白い雲が浮かんでいた。時刻は昼下がり。
山の中腹、見晴らしのいい岩場の突端に1本の松が生えている。その根元に1人腰を下ろしているのは下っ端哨戒天狗、犬走椛。
見かけは少女だが、艶やかな白髪から狼の耳が覗き、腰からは真っ白なふわふわとした尻尾を生やしている。身体つきも女の子としてはがっしりとしていた。
山伏の装束に赤い袴を合わせた仰々しい格好をし、傍らにはこれまた威圧的な柳葉刀を携えている。
それでも今日も今日とて長閑な幻想郷。いつもは厳めしい仏頂面の彼女も心地よい日差しに気が緩んだか、三途の川の船頭よろしくこっくりこっくりと舟を漕いでいた。
「もーみちゃん」
突然頭上から声がした。低めのハスキーボイス。椛は途端に覚醒する。慌てて姿勢を正す。
その声は確かに聞き覚えがあったが、いつもこの時間帯に現れては揶揄ってくる馴染みの声とは別物だった。
「あの…飯綱丸様?」
「なんだい?もみちゃん」
頭上の松の枝にぶら下がっていたのは鴉天狗の大将、飯綱丸龍。
凛々しい顔立ちの中で主張する深紅の瞳が椛をパッチリ捉えていた。大柄でしなやかな体躯。熨斗目花色の装束を着こみ、梵天を垂らしたマントを羽織っている。瑠璃を嵌め込んだ肩留めが陽光を受けて煌めく。豪奢な服装が天狗社会での彼女の地位を如実に物語っていた。
彼女は鴉天狗を統括する大天狗。厳密な上下関係の存在する天狗社会において、彼女が下っ端の椛に話しかけるという状況はまず無い。
目の前の大天狗の意図を量りかねて混乱する椛だったが、努めて冷静に声を絞り出した。
「その呼称はいささか率直に過ぎると思われます…本日は、大天狗ともあろうお方がどうされたのですか?」
大天狗はえいやっと松の木から飛び降りて、椛の横に着地する。
「ふむ…確かに私は大天狗だ。だが同時に鴉の報道部の長もやっているし、なんだかんだで私も新聞を書いている。まあ月一での発行だがな」
「はあ…それで?」
「新聞記者ってのは取材もこなす物だろう?だから今日は私が射命丸の代わりだ。伝統の幻想ブン屋飯綱丸龍。かっこいいだろ?」
「ええ〜」
その場の思い付きとしか思えない龍の説明に、椛は思わず声を上げた。
龍は聊か面食らった表情をしながら聞き返す。
「なんだ、嫌か?」
「いや、その…そういう訳ではございませんが…そうだ、文さんは?」
強引に話題を戻す。そうだ、あの腐れ縁の鴉天狗はどうした。現下の状況は間違いなく彼女が仕込んだものだ。今頃狼狽する自分を遠めに見てクスクス笑っているのだろうか。
しかし毎日のように顔を出す彼女の姿が見えないのはなんとなく落ち着かなかった。
椛の問いかけに龍はあっけらかんとして答える。
「ああ、射命丸なら病欠だ。一昨日だったかな、河童の工房を取材中に変なガスを吸い込んで、彼女ともあろうものが酔っぱらってな。スピリタスだと思って一気飲みしたのがメタノールだったらしく両目が吹っ飛んだ。今は永遠亭で治療中さ。天狗だからちゃんと治るらしいが、今頃薬師にこっ酷く怒られてるんじゃないか?」
「うわあ…自業自得ながらゾッとしますね」
なんと、想像以上の災難に遭っていたらしい。今回ばかりは彼女に同情した椛であった。
「それで今日の朝に見舞いに行ったところで彼女から伝言を得た。馴染みのわんこが寂しい思いをしているだろうからおちょくってやれと。そんな訳で今日は私が来た訳だ」
「お引き取り下さい」
「あん、いけずぅ」
龍の言を速攻で拒絶する椛。無礼は承知だが嫌なものは嫌だ。何が悲しゅうて腐れ縁の鴉天狗の上司の相手をしなくてはいけないのか。面倒くささが段違いだ。
「大天狗ともなると御多忙でしょう?私なんかに構っている暇は無いと思うのですが」
「ああ、それなら心配ない。ここ最近取り組んでいたプロジェクトに一応の目処が付いてここ暫くは暇なんだよ。だから休暇を申請してきた。
それに、たまには別の部署の者の生活に密着したいんだ。内情視察ってやつだな」
椛の反撃は明朗な回答で打ち消されてしまった。おまけにもっともらしい大義名分もつけ加えられて、それ以上の抵抗を封じられてしまう。
大きく溜息を吐く椛に龍はちょっと不満げだ。
「あ、めんどくさいとか思ってるだろう。なーに心配するな。典には1週間ほど暇を与えたからその間相手するのは私だけでいいんだぞ。仕事の邪魔はせんさ」
いや今の時点で邪魔になってるんですけど。喉まで出かかった文句をすんでの所で飲み込んだ椛だった。
どんよりとした空気になった所で、徐に龍が椛の肩を叩く。
「っと、駄弁っているうちに迷子が来たみたいだぞ。ほれ、応対してやれ」
龍の指摘の通り、山麓付近で1人の人間の男の子が迷い込んでしまっていた。
家族で山菜採りに来ていた所を森の奥まで入り込んだようだ。怯える男の子を抱きかかえて、彼を探していた両親の下へ送り届けて一件落着。
白狼天狗の哨戒部隊と聞くととにかく排他的なイメージが先行するが、相手に害意が無ければ丁重に送り返すというのが決まりである。
「どうだ、私も意外と感覚は鋭いだろう」
「凄いですね。私の千里眼より先に察知するとは」
少し日も傾いてきた頃。部隊の詰所に続く山道を並んで歩きながら、ちょっと誇らしげに自画自賛する龍を椛は素直に称賛する。
「ま、実際はたまたま目に入っただけなんだけどね~。もみちゃんの千里眼にゃ敵わないよ」
「それでも、あの距離は並の天狗でも見分けられないと思いますよ」
急におどけてみせる龍。根は意外とお茶目な性格のようだ。
椛は目の前の大天狗とは公的な宴の場くらいでしか言葉を交わした例がない。
ヒラの白狼天狗である椛にとって大天狗、それも鴉天狗の上に立つ彼女は雲の上に等しい存在である。
そんな訳で『上層部では珍しい位にフランクな人だよ』と文やはたてから聞いてはいた位で、彼女の人となりはほとんど知らないのだ。
それ故に椛にとっては大天狗のそんな一面を実際に見るのが新鮮だった。
「ああ、しかし腹が減ったな。お前今日の当番はまだあるのか?」
「今日はあと3時間勤務です」
「いやはや哨戒任務というのも中々に大変だな。ご苦労さん。じゃ私は今日はこれで。バイビー」
腹が減って相手をするのも面倒くさくなったか、龍は適当な所で切り上げると背中からズルリと鴉の翼を出す。
そのままふわりと浮き上がると、軽やかに山頂の方へと飛んで行ってしまった。
はあ、射命丸の代わりに大天狗か。気が滅入るな。
見る見る小さくなっていく影を見送りながら、それは深い溜息を吐く椛であった。
ー2.
次の日の夕方。
遠くの稜線に太陽が沈んだ頃に椛の当番も終わる。
晩飯は何にしようか。酒が切れそうだったから買っていくか。
そういえば今日の日中は飯綱丸様も来なかったな。やはり上流階級ならではの気まぐれだったのかな。
そんなことを考えながら天狗の里の一角にある自宅まで戻ってきた椛。
しかし戸を開けるなり前日以上に狼狽した。思わず叫ぶ。
「なんで飯綱丸様がうちにいるんですか!?」
「いや、今日も帰りが遅いというから晩御飯作って待っててあげようと思って」
目の前にはマントの代わりにエプロンを付けて、頭には三角巾を巻きつけた龍の姿。
彼女は台所で料理の真っただ中であった。台所には持ち込んだ食材がどっさりと置かれている。ジュウジュウ、パチパチと肉を焼く音がする。
しかし椛にとってはそれどころではない。
「鍵はどうしたんですか!?」
「壊して開けた。尤もひどく錆び付いてたから自壊するのも時間の問題だったぞ?」
椛の怒鳴り声にも龍は少しも悪びれずに答える。
思い付きか何か知らないが、流石にやりすぎだろう。
いくら鴉天狗のそのまた上司であっても見逃せない。ここは決然と抗議しようと一歩踏み出す。
「あのですねぇ…むむっ」
怒り心頭の椛もいい匂いに思わず立ち止まる。
目の前には熱々の七輪、適度に焼け目のついたソーセージがたくさん。肉汁がジワリと滲む。思わず椛の口にも涎が。
「暑い日が続くからな、日本酒よりもビールをグイっとやりたい気分だろう?だからそれっぽいつまみを用意したぞ」
本場のドイツソーセージとカリカリに揚げたポテトを盛りつけて、居間のちゃぶ台にどんと乗せる。エプロンと三角巾を解いた龍が、紅魔館から買い付けたであろうクラフトビールのボトルをジョッキと共に運んでくる。
普段はありつけない御馳走に椛は目を輝かせる。尻尾はパタパタと無意識に振られていた。
ここまでくると先程までの怒りはすっかり雲散霧消していた。なんだかよく分からないが、今は素直に大天狗様の好意にあずかっておこう。
誇り高き白狼天狗である椛といえど、根っこの部分は単純なわんこである。即ち、ごはんくれる人はいい人。
「おおお、見てるだけで幸せ…これはお酒に合いますよぉ~…いただきます!」
「たんと召し上がれ。どれ、私もちょっと頂こう。味はどうかな?」
龍が継いだクラフトビールをごくごくと喉を鳴らして飲む。ああ、喉越し最高。仕事の後の一杯が堪らない。このために生きてるわ。満足感でいっぱいだ。
あっという間にジョッキを空にしたら、今度は龍が用意したおつまみを頬張る。
ソーセージは期待を裏切らない絶品であった。表面はカリっとしており、中はジューシー。ほんのり唐辛子を効かせたピリ辛な味付けだったが、それもまた良いアクセントだった。
「ああ美味しい〜、飯綱丸様って料理上手だったんですねぇ」
「小さい頃から父上にくっついて飢饉の村で炊き出しをしていたからな。なんだかんだその頃から経験はある。これは最近知り合った紅魔館のメイド長から教わったんだ」
耳をピコピコ、尻尾はふりふり、心の底から幸せそうにハグハグとおつまみを頬張ってはビールを飲む椛を、龍は満足げに見やる。
あっという間に皿もボトルも空になった。美味いビールに旨い飯を腹いっぱい食べられて、椛は満面の笑みを浮かべる。
「とっても美味しかったですぅ~、御馳走様でした!」
「お粗末様でした…と」
「しかし、飯綱丸様ったら凄く親切ですねぇ。これも文さんの代理ですか?」
「ああ。押しかけ女房みたく時々家までついていっては飯を振舞っているとも聞いたからな。じゃ次はお風呂タイム…」
「…へ?」
きょとんとした様子の椛を龍も呆気に取られた表情で見返す。
「え、なんなら今日は泊まろうと思ってたんだが。嫌か?」
龍の提案に椛は再び混乱する。酔いが回って頭がグルグルする。
先程存分に御馳走させて頂いたから、お礼を返したいのだが、自分の小さくみすぼらしい家に泊めるのはとてもじゃないが釣り合わない。むしろ恩を仇で返すような物だ。
なにより一介のヒラ白狼天狗が大天狗を泊めるだなんて前代未聞である。
ギリギリ残っていた理性でなんとか反論する。
「え、えええええ、えと、その…畏れ多いですよ…」
「謙遜するな。はたてなんて宴会で私の頭を叩いてきたぞ?」
「それははたてさんがぶっとんでるだけですって!私なんて…」
動揺する椛に龍が優しく声をかける。
「まあそう卑屈になるなよ。それとも思い付きで家に上がられるのは嫌か?」
「うーんと、その…」
この期に及んでの椛の逡巡を目にして、龍の顔から笑みが消えた。部下に無下にされた事への失望か、寂しそうな表情になる。胸元に抱えていた荷物をギュッと抱きしめる。沈んだ声。
「そっか、嫌か…まあそうだよな。すまなかった。私は今日のところはお暇するよ」
「え、あ、ちょっと!」
椛が引き留めるが早いが、爆風と共に龍は庵から飛び立ってしまった。窓の外、月明かりに浮かぶシルエット。キラリと光ったのは肩留めの瑠璃か、それとも涙か。
部屋には酔いもすっかり醒め、呆然として座り込む椛だけが残された。
ー3.
あくる日。
空は青く一転の雲も無し。清々しいくらいに椛の気持ちと正反対の空模様だった。
あんなにも素敵な夕飯を頂いたのにもかかわらず、彼女の好意と期待を裏切ってしまった。
あの後一晩中反省と自己嫌悪を繰り返し、ロクに寝られなかった。
寝不足と二日酔いも相俟って最悪な気分で、目の下にベッタリとクマを作りながらも歩哨に立つ椛。
昼下がり、昨日と全く変わらない調子で例のハスキーボイスが飛んでくる。
「よっ、もみちゃん」
「飯綱丸様…昨夜は大変な御無礼を」
姿を見るなり土下座しようとする椛を慌てて制止する龍。昨夜の事なんてまるで気にかけていないかのような、いつも通りの振舞いだった。
「その様子ではあの後随分と思い悩んだようだな。私もちょっと無責任な帰り方をしてしまったか。悪かったね。
ただ、言ったろう?暫くは私が射命丸の代わりだ。同じように接してもらって構わない。
ま、流石の射命丸もアポ無しで泊まるような真似はしなかったか?」
まだまだ申し訳なさで胸がいっぱいの椛を精一杯フォローする龍。それでもお互いなんとなくやりづらい。生ぬるい空気が2人の間に流れた。
暫しの沈黙の後、ふと龍が椛に話しかける。
「そういやもみちゃんは事故以来、射命丸に会えていないよな。永遠亭まで行ってくるか?」
「そう…そうですね。今日は早番なのでお見舞いに行こうと思います」
自分の発言に漸く返してくれた椛を見て龍はニッコリと笑った。
「よし来た。私がいると気後れするだろうからな、もみちゃん1人で行ってきなさい」
「は、はい…」
じゃあ、私は新聞のネタ集めをしてくるからと飛び立った龍の後ろ姿を眺めながら椛は嘆息する。
やっぱりまだ気にしてるのかなぁ。そう思うと気持ちは晴れなかった。
その日の午後、椛は見舞いの品を持って迷いの竹林を訪れた。
長い廊下を看護士役の玉兎に連れられて進む。
「此方になります。
射命丸さん、面会ですよー」
薬品のツンとした匂いが鼻にくる。
鈴仙が案内した病室のベッドの1つに見慣れた少女の姿。上半身を起こしてぼんやりとしている。
黒いボブカットに小柄な体躯。今は入院着姿だがスパルタンな身体のラインは一目瞭然。顔の上半分に包帯が巻かれて両目とも隠されていたが、射命丸文その人だった。
目は見えなくとも親しい白狼天狗が見舞いに来てくれたのが気配で分かったようで、いつもの明るい笑顔になった。
「おー、椛ったらわざわざ来てくれたのね。ありがたいわ~。
午前中ははたてがお見舞いに来てくれたのよ。昨日は飯綱丸様ね」
「文さん、今回は大変でしたね。どっかの戦闘アンドロイドみたいな見た目になってますよ」
持ち込んだ黄色いスイセン―道中で幽香からお裾分けされた物である。香りが良いから選んだのであって、花言葉が『私のもとへ帰ってきて』だとは椛は知る筈も無い―を花瓶に生けながら椛が話しかけると、文は少し困った様子で目を覆う包帯を擦る。
「あーこれね。いやはや、災難だったわ。タンクから漏れ出る甘ったるいガスを吸ったら頭がフワフワーッとして。
夢心地で適当な小瓶を取って飲んだら意識がグラリ。視界も蝋燭を吹き消したかのように突如暗転して…まったく、にとりの工房は油断ならないわね」
「にとりですから、劇物を扱っているのも納得ですって。正直に言って因果応報ですよ?退院したら先方にちゃんと謝ってくださいね。
…で、どうなんです予後は?」
「永琳先生曰く順調らしいわよ。私にとっては初めての経験だから、どの位で治るかもよく分からないんだけど。あと1週間、場合によってはもう少し早く退院できるかもって。人間だと一生光を失ったままらしいけど。今回ばかりは妖怪で命拾いしたわ」
それを聞いて椛の表情もパッと明るくなった。パタパタと振られた尻尾が軽く風を起こす。
腐れ縁とはいえ、向こうが怪我をすれば心配するし回復すると嬉しい。夫婦喧嘩と揶揄されるくらいに普段は諍いが多いが、距離感は近いのである。
「もうじき治るのですね!良かったです!」
「ところで飯綱丸様が押しかけてるでしょ」
文が降ってきた話題に椛は少しばかり顔を曇らせた。昨日の一件を思い出して尻尾も垂れ下がる。声も若干沈んだ。
「文さんが話を回したんでしょう?
おかげで大変ですよ、勝手に押しかけてくるし 昨日は泊まろうとしてくるし。
確かにとても親しみやすくて話しやすい方ですけども、あんまり恐縮で私の気が休まりませんよ。少しは御自身の立場を考えて頂きたいです」
「あら、今回の話は飯綱丸様から持ってきたのよ?
新聞だの何だの言ってたかもしれないけど、あれは全て後付け。
配下の鴉じゃない、白狼天狗にも知り合いが欲しいから誰か紹介してくれって前から頼まれてたの。
だから椛を紹介しようと思っていたんだけど、今回私がこんな目に遭ったからね。
いっその事、これを機に私の代わりとして接してみてはどうでしょうって。私は後押ししただけよ」
意外な展開に目を瞬かせる椛。彼女の困惑を知ってか知らずか、文が続ける。
「いくら大天狗とはいえ今は射命丸役だもの、泊まっても何の問題も無いでしょうに。
まさか立場の違いを気にして追い払ったりしてないでしょうね?」
「うえぇえ?でも…」
昨夜の事を見透かされたようで動転する。そんな可愛い友人を見て文はイタズラっぽく笑った。やはり全てお見通しのようである。
「ふふふ、困ってる困ってる。
ま、飯綱丸様がいるなら退屈しないんじゃない?」
「もう、面倒事を持ち込まないでくださいよ」
「あ、ひどーい。あの方だっていい機会だと喜んで予定を調整してくれたのに。あんまりいじめちゃダメよ?ああ見えてガラスのハートの持ち主だから」
椛が口を尖らせると文はまたクスクスと笑った。まだ目は見えず、こうして病室から動けない身だが、2人のやり取りを想像して楽しんでいるのだろう。
もうすぐ文が本調子を取り戻すと聞き、またここ数日の龍の振舞いの背景も分かったようで椛はだいぶ気分が晴れたようだ。足取りも軽く山へと戻っていった。
夕刻の天狗の里。
1日の仕事が終わり、多くの天狗が通りを闊歩している。偽天棚ほか繁華街からそう遠くないのもあり、日中よりもずっと賑やかになっていた。
間もなく自宅…という所で、椛の瞳は見覚えのある人影を認めた。龍である。
「もーみちゃん」
「あの…昨日は本当に申し訳ありませんでした。改めて謝らせてください」
深々と頭を下げる椛。今度は龍もそれを制止しなかった。
「いや、私も悪かったよ。会って次の日にいきなりお泊まりは誰だってビビるよな。
ところで、今日も晩御飯作りに行っていいか?」
昨日のように勝手にずけずけ入り込んではまた警戒されると思ったのだろう、龍は今日は律儀に外で待っていた。
彼女の気づかいに椛は大いに恐縮した。
「2日連続は流石に畏れ多いです。今日は私がご馳走しますよ」
「おやいいのかい?じゃあお言葉に甘えようかな。もみちゃんの手料理だなんて楽しみだわ〜」
断るかと思ったら、椛の予想と違って龍はあっさりと提案に乗ってきた。
言葉にした後で、無謀だったかもと今更ながらに後悔する。
実際の所、椛は炊事がそれほど得意ではない。必要な栄養を摂れればいいという考えなので、日々の食事は質素なのである。味付けも適当だ。良くも悪くもガサツだった。
だからこそ昨日みたいなハレの食事には目を輝かせて喜ぶのであるが、自身がその提供者となる経験は今まで殆ど無かった。
目の前の龍は日頃から上質な物を召し上がっているのは確実だ。ましてや昨日の料理を見るに、食に一過言持っているのは間違いない。
そんな彼女のお目に敵う物を椛が作れるかは限りなく怪しい。というか殆ど絶望である。
しかし今更外へ食べに行きましょうとも言えない。前言撤回なんて以ての外だ。ココは踏ん張りどころ。
いつになく楽しそうな龍を前に、下手なりに腕によりをかけて作らなくてはと張り切る椛であった。
半刻後。
椛の家の台所は惨憺たる有様であった。
昨日も使った七輪の上には真っ黒に焦げた牛肉。焦げ臭いにおいが辺りに充満している。
奮発して買い込んだ霜降りでステーキをお出しするつもりだったのだ。
しかし慣れない舶来の肉料理に手を出したせいで焼き加減を間違えたのである。
膝を抱えて酷く落ち込んだ様子の椛と、七輪の上に乗っかった物体を代わる代わる見て大方の事情を察した龍はあちゃーと頭を抱えた。
「どうやら張り切りすぎてやる気が空回りしてしまったようだな」
「面目ないです…」
あまりに沈んでいる椛を見て可哀想になったか、龍が冷蔵庫をガサガサと漁る。生憎殆どの食材を切らしていた。
「んー、今からパッと作れる物は麦飯になっちゃうな。おゆはんには物足りないかもしれんがそれでもいいか?」
不甲斐なさで暗い表情のままだったが、椛は無言で頷く。
それから半刻後、皿にはこぶし大の麦飯がいくつか。椛はそれらをモソモソと食んでいた。大柄な身をこれ以上ない程に縮こまらせる。耳も尻尾もぺたんと力なく倒れていた。
なんとかか細い声を出す。
「結局昨日も今日も飯綱丸様のお手を煩わせてしまいました…」
「そう気に病むなよ。せっかく作ったんだ。美味しく食べてもらえたら私も嬉しい」
麦飯を肴に安い焼酎―これは椛の家にあった物だ―をちびりちびりとやる。昨日との落差は激しかったが、龍はお構いなしなようだ。腹が膨れる内に椛の気持ちも少しずつ上向いてきた。
「ところで今日こそ風呂を借りてもいいか?あの後興が乗らなくて昨日は結局入らなかったんだ。
図々しいお願いですまないが…」
「あ…はい、どうぞ」
昨日とうってかわって慎重にお願いをする龍と、今度はそれを素直に了承する椛。お互いに昨日の反省を活かした上でのやり取りだった。
2人の関係も一歩前進したようである。
「お風呂上がりましたよ〜」
褌をつけて、寝間着代わりの着流しを羽織った状態で居間に戻る。いつも少し身体を冷ましてから帯を締めるのだ。はしたないかとも思ったが、習慣には逆らえない。
一番風呂をいただいてくつろいでいた龍―今は藍で染めた着物に袴という略装だ―が、まじまじと椛の身体を見やる。
「渋い身体つきをしてるじゃないか。燻し銀だな」
龍の感想に椛は思わず苦笑する。
着流しの隙間からちらっと見える椛の身体は彼方此方に古傷が刻まれている。よく見ると左頬にも横に刀創が走っているし、左耳の先端も僅かに欠けていたりする。
これらはいずれも任務中に負った物だ。哨戒部隊というのは侵入者次第では危険な任務となる事も珍しくない。殉職者こそ滅多に出ないが、山でいち早く労災が導入される程度には痛みの伴う職場なのだ。そこそこ長い年数勤めている椛も適度にスレていた。
普段は同じくスカーフェイスの同僚と過ごしているので気にならないが、立場の違う者に身体を見られた時に驚かれるのはお約束である。
「いやぁ、こうもボロボロだとね…たまに山伏天狗との会合に出ても引かれちゃいます。女なのに野武士みたいだって。お嫁に行けるか分からんですよ、ははは」
適当に作り笑いをして誤魔化すと、龍がずいと迫ってきた。いつになく真剣な目つき。
「それは男共の見る目が無さすぎる。これだけ山の平和と安全の為に身体を張っているって事だろう。こんなに誠実な女が他にいるか?
卑屈になるな。この傷は勲章さ。なにも後ろめたく感じる事は無い。胸を張れ」
「そう言っていただけると光栄です…」
龍の言葉は力強かった。
大天狗という立場上、下々を激励する機会も多いだろう。しかし今の響きからして本心からの物のように感じられた。
いつもネガティブな反応を返される事の多い椛にとっては少し嬉しかった。
その晩は今度こそ龍が椛の家に泊まる事になった。
狭い居間は2人分の布団で既にいっぱいいっぱいだ。ぺしゃんこの綿布団を敷くと龍が年甲斐もなく飛び込んでくる。
「お布団!」
「ぼろ布団しか用意できず恐縮です」
布団に潜り込んではしゃいでいる龍がひょいと顔を出す。
「いんや気にしないよ。椛のもてなす気持ちがあればこの布団も十分に豪華さ。
実を言うとこの位の方が安心するんだ。フカフカの羽根布団なんて落ち着かない。今でも典を抱き枕にして床に雑魚寝しているくらいだ」
「ワイルドですねぇ」
「暑いし窓を開けて寝よう。蚊帳も持ってきたから虫の心配はしなくていいぞ」
南向きの窓を開け放ち、緑色の蚊帳を吊る。この時期にしては珍しく、夜になっても空は晴れていた。日中の気温も漸く下がってきたようで、頬を撫でる風が心地良い。
喧騒は遠い。時間も遅くなってきたので、天狗の里も少しずつ寝付いてきているようだった。
程なくして明かりを消し、2人は寝床に入った。
深夜。
厠の為に起きた椛は、横で寝ている筈の龍が布団から抜け出している事に気付いた。
彼女は蚊帳の外で窓枠に腰掛け、静かに空を見上げていた。
夏が近いと言うのに空には一点の雲も無く、空気は澄んでいた。冬のようにくっきりと星が見えている。天上には天の川が横たわり、夏の大三角が輝いていた。
「…やはり布団がお気に召しませんでしたか?」
「いや、ここから見える星空も趣深いと思って。建物に遮られてあまり見えないが」
椛が心配そうに声をかけると龍が振り向く。
「そういえば飯綱丸様は星空がお好きでしたか」
「昔からこの趣味だけは捨てられなくてね」
飯綱丸龍は星空を操る程度の能力を持つ。占星術を応用した妖術を得意とする彼女は、大の天文好きでもあった。その熱は自邸の一部を改造して天体観測ドームを建設するほどである。
冬の晴れ渡った夜にはカメラ一式と河童に特注させた望遠鏡を担いで山登りする姿がよく目撃されている。
「あれが鷲座。胸元に輝くのが牽牛星、つまり彦星として名高いアルタイルだ。太陽系からは凡そ17光年。つまり今見えている星は幻想郷が蘇生した頃の彼の星の姿になる。…」
椛も龍の横に並び、果てしなく広がる星空を眺める。気になる星を見つけると、自然と龍の講義が始まる。彼女の声をBGMに、天然のプラネタリウムをしばし堪能した。
夜もだいぶ更けて丑三つ時。人間は物の怪に恐れ戦く時間帯だが、当の妖怪達にとっては心の休まる時だ。
「以前文さんからお伺いしたのですが、飯綱丸様は元は幻想郷外のお生まれなのですよね?」
「そうだ。名の通り信州飯縄山の出身さ。凡そ400年前、お前が生まれた頃に此方に越してきた」
ふと椛が尋ねると龍も返す。リラックスした穏やかな口調。
普段はこうしたプライベートな話は聞けない。折角の機会だしこの時間を大切にしようと思って、椛は問いかけ続ける。
「やはり故郷は懐かしくなりますか?」
「外ではまだ親戚が頑張っているし、数年に一度は博麗大結界を抜け出して帰省している。此方で過ごしている時はたまに恋しくなるが、身につまされる程ではない。
ただ里帰りしてみても、故郷の山から見える景色は当然ながら変わっていく…面白いが寂しくもあるな。
光害とガスで、星空も外では随分と見難くなってしまったよ。この郷から見える空は相変わらず綺麗だ。昔を思い出す」
龍の告白を椛は黙って聞いていた。
幻想郷に住む者の出自は様々だ。此処で生まれた者もいるし、外界で忘れ去られて自然に流れ着いた者も多い。その一方で吸血鬼一家や山の神社、更には狸の親分のように自発的に引っ越してくる者もいる。龍は後者だった。
外との繋がりは完全には切れていないとはいえ、彼女が胸に抱く望郷の念は強かった。この山で生まれ育った椛には想像しづらかったが、それはかけがえのない物だというのは分かる。
龍は単なる天体マニアではない。故郷と昔日への思いを重ねるからこそ、深く星空を愛するのだ。
「…そういえば星が印象的に見える場所を知っているんですよ。以前巡回中に見つけたんです。今からでも行ってみますか?」
「おお、それは僥倖。ぜひ連れていってくれ」
椛の提案に龍は興味を示したようだった。深紅の瞳がじっと彼女を見据える。
「ただ、歩きでしか行けない場所ですので…空からでは見つけられません。私の足でも徒歩1時間はかかりますが、よろしいですか?」
「構わない。いずれにしろ鴉は夜目が効かないから、歩きになるのも必然さ。機材も一式持ってきたし、いつでも準備OKよ」
ガサガサと準備に取り掛かる2人。椛は寝間着から普段の装束に着替え、龍は仕舞っていたカメラ―外界では珍しくなった蛇腹式の大判フィルムカメラだ―に小型の三脚を取り出す。
それぞれ荷物を背負って、2人は小さな庵を抜け出した。
「此処です」
提灯の僅かな灯りを頼りに真っ暗な獣道を進み、時に藪を漕いで辿り着いた先にあったのは小さな池だった。
周囲は木々に囲まれているが、枝は池の真上までは届かず、ぽっかりと抜けができていた。そこから無数の瞬く星が覗いている。
森の中だけあって風は殆ど無く、水面は穏やかで揺らぎの一つも無かった。澄んだ池の水が鏡となって星空が写りこんでいた。
ここまで山奥に来ると獣も妖もいないようだ。静寂が辺りを支配していた。
ささやかながら味わい深い絶景に龍は息をのんだ。
「ほう…これは凄いな。なんとも素敵な穴場だ」
「あと数年もしたら枝が伸びて空は見えなくなると思います。ここは他の天狗はおろか山姥も知らないんじゃないでしょうか。
紹介したのは飯綱丸様が初めてです。盛夏の頃には蛍も飛ぶんですよ」
椛の説明を聞きながら、傍らで龍は手早く三脚を広げてカメラをセットする。レリーズで数分間の露光を開始してから再び椛の横に並んだ。
「いやー、見事見事。空を飛んでいては此処は絶対に分からんな。地を駆ける白狼天狗ならではの発見だろう」
「えへへ…」
ちょっと自慢気な椛。ピコピコと耳が動く。自分しか知らないとっておきのスポットを他の人に褒められるのは気分が良い。
その後も他愛もない話をしながら、飽きることなく眼前の景色を眺める。
物言わぬ情景は2人を見守っているかのようだった。
初夏の気の早い朝日が森の中を照らしてきた頃、椛と龍は庵に戻った。
ー4.
それから3日後。
この時期良い天気はあまり長くは続かない。やや雲が増えてきて湿度も上がる。じっとりと身体に纏わりつくかのような蒸し暑さ。梅雨入りを予感させる気候。
それでも椛の気持ちは晴れ晴れとしていた。
「よ、もみちゃん」
「飯綱丸様ですか、お疲れ様です!」
すっかりお馴染みになった挨拶を交わす2人。大天狗と下っ端哨戒天狗の仲睦まじい様子はちょっとした話題になっていたが、今まで射命丸と似たような絵面を繰り広げていたのもあり、現在ではすっかり受け入れられたようだ。元気な挨拶に思わずふふっと笑いかける龍。
「だいぶ自然な形で話してくれるようになったな。大変結構」
「鴉天狗の大将とはいえ全く別世界の住人でもない事が分かりましたからね。不敬ではありますがこの頃はなんとなく親しみを持てて…!?」
ふにゃんとした様子から一転、何者かの気配を察知して椛が押し黙る。いつになく険しい表情。全身の毛を逆立たせる。
真っ赤な瞳、その中に潜む瞳孔がどんどん小さくなる。千里先を見通す程度の能力。彼女特有の能力を発動していた。
ただならぬ雰囲気を察した龍も彼女が睨む方向に目をこらす。
「11時の方向、3km先。侵入者を確認。異形のトカゲ…否、竜のようです。どんどん近づいてきていますね。かなり大きいですよ」
果たしてその方向では巨大な爬虫類が暴れていた。
全長12m、高さも4m近くはある。トカゲやワニに似ていたが、後ろ足で直立していた。
全身はくすんだ灰色の鱗で覆われ、巨大な頭部を振り回している。口にはビッシリと鋭い歯が並ぶ。咆哮は山腹にまで響いてきた。
「デカい獲物だな。此処からでも強烈な気を感じる。
あ、おいもみちゃん…犬走!」
傍らで巻き起こった突風に思わず目をつぶると、次の瞬間には椛の姿は無かった。
鴉天狗には敵わないが、天狗にしか出せない飛行スピードで現場に急行したようだ。
彼女は真面目だが、少し後先考えず行動するきらいがある。この数日間で龍は椛の性質を掴んでいた。
「やれやれ、単独で行っちまったよ…
…そんなに自信があるんだろうな。少しお手並み拝見といこうか」
その猪突猛進っぷりに苦笑しながら、龍も鴉の翼を広げる。
ふわりと風に乗って飛び立つと、龍も椛の後を追った。
一刻後。
山の奥の奥、秘天崖から更に分け入った森の中。
斜面に突如として現れる地割れの跡に件の侵入者は頭から突っ込んで倒れ伏していた。ピクリとも動かない。
巨大な体躯のあちらこちらに列状の弾倉が見える。椛のスペルカード、狗符『レイビーズバイト』が掠めた痕だ。
勿論椛の方も無傷では済まなかった。当然だ。身一つでこんなに巨大な爬虫類―竜を相手取ったのだ。
森へと追い込む際にあちらこちらに枝葉が掠り、時に刺さった。竜の前足に生えた爪を受けた所もあった。
装束の彼方此方が裂け、そこから血を流している。特に頭から伝う血で顔の右半分は真っ赤に染まっていた。このままでは意識が途切れるのも時間の問題だろう。
相手の動作が停止したのを確認すると、頭上から声がした。
「なるほどな。自らを囮として誘導しながら、時たま奴に傷を負わせて激昂させ、判断力を失わせる。
鬱蒼と茂る森の中に追い込んだのは奴が巨体を持て余すのを狙ったんだろう。
思うように動けなくなったところで、終いに狭い谷に叩き落として封じると。
流石だ。文をして『フィールドでは戦いたくない相手』と言わしめた戦闘力の一端を見た」
冷静に椛の戦法を分析する龍。椛のすぐ近くに降り立つ。形だけの拍手で彼女をねぎらった。巨大な侵入者に対しての警戒を解いていない。
あえて龍は椛に手を貸さずに観察に徹した。こうした侵入者への対応―場合によっては相手の生死を問わない―は哨戒部隊の任務であり、椛の本分である。
いくら彼女に目をかけていたとしてもそれを邪魔してまで助ける程甘くはないし、援軍を要請する事も無くたった1人で侵入者に挑んだ彼女がどんな手を使うか興味があった。
80点といったところか。戦略自体に問題は無い。山の地理の詳細な理解は白狼天狗、特に哨戒部隊の武器だ。それを活用し、他に被害を出さずに仕留めた点は大いに評価できるだろう。
しかし1人で対処してこうも負傷するのなら仲間を呼ぶべきだったな。いや、あるいは同僚が駆け付けたのかもしれないが、彼等を危険にさらすまいと追い返したのかもしれない。
やれやれ、良くも悪くも真面目で、向こう見ずな天狗である。
口元の血を拭いながら椛が答える。
「我々白狼天狗は高等な妖術を扱える訳ではありませんからね…地の利を活かして、それで勝負するしかないんですよ。部隊の新人に、まず山中を隅から隅まで歩かせるのもそういった理由です」
「ふむ…ただ最後の詰めが甘かったな、犬走」
龍の言葉と共に地割れの跡から竜が身を起こした。
激突した衝撃で頭蓋骨が砕けたようで、1m近い頭はいびつに歪んでいる。右目は潰れており、眼孔から、鼻孔から、どす黒い血を垂れ流していた。
既に息も絶え絶えだが、最期に目の前にいる敵に一撃を加えようと大きな口を開ける。
気配に気づいた椛が振り返った瞬間、一陣の風が吹き―
―竜の頭が破裂した。
夥しい量のどす黒い血液と体液が辺り一帯に飛散する。
竜の喉から断末魔の咆哮が響き渡る。出鱈目な声量は周囲の木々を揺らした。
椛の目には視認できないスピードで、開いた口から脳天にかけて巨大な銃弾が貫通したかのようだった。
頭蓋が吹き飛び今度こそ事切れた竜は、椛の目の前にどうと倒れ伏す。
巨大な銃弾―龍が、一呼吸おいて椛の前に降り立った。頭から腰まで、全身が竜の返り血で染まっている。
ベチャリ。龍が手に掴んでいた、ブヨブヨした巨大な塊を足元に乱暴に投げ落とす。口から頭頂までを貫く中で抉り取った竜の脳髄だった。
目に人ならざる者の光を宿した龍が、ジロリと椛を睨みつける。
魔道に棲む者にしか出せない、冷酷な声で言い捨てた。
「山に害を為す者は必ず息の根を止める。それが我々の掟じゃなかったか?」
「八雲!」
龍が吠えると、目の前の何もない空間からスルリとスキマが開いた。
そこからひょこりと姿を現しのはゆったりとした漢服に身を包み、九つの尻尾を生やした女性。
すきま妖怪の式、八雲藍。使いとして紫から派遣されたらしい。
幻想郷各所を監督する立場にある彼女は、天狗社会の幹部である龍とも付き合いがあるのである。
顔を出すなり現場の臭いに顔を顰め、袖で鼻を覆った。
「うわ、ひっどい死臭だ。まず顔の血をどうにかしてくれ。臭くてかなわん」
返り血を拭いながら、龍が厳しい表情で責め立てる。
「随分と派手な『幻想入り』じゃないか。見たところ古代の竜のようだが。何故にこのような物が?」
藍はスキマからパサリと現場に降り立つと現場の検証を始める。いつのまにかガスマスクを付けて、血液の付着を防ぐ為の簡易な防護服に袖を通していた。
侵入者の巨大な骸を一通り見て回り、時にレンズで詳細に観察したり、携帯しているポラロイドカメラで現場写真を撮ったり。
しばらく見分した後、どうやら納得がいったらしい。
ガスマスクを外して椛と龍を前に説明を始める。
「確かにこれは幻想入りしたやつだな。こいつは見立て通り古代の竜。外界では恐竜と呼ぶらしいが、その内の一種・Saurophagusで間違いないだろう。
正確には外で忘れ去られた概念だ。古生物学の世界において学名の更新は日常茶飯事だからな。後に付けられた名がシノニムとして残るのはまだいい方。
これは現存種と被っていたから葬り去られた名前だよ。この恐竜種自体―今はSaurophaganaxと呼ばれている―、あるいはシロガシラショウビンを指す学名としてのSaurophagusは外で今も現役だ。
しかし『この恐竜種を指す学名としてのSaurophagus』という概念は外界では失われてしまった。
それがいつしか実態を持って、生前の姿へと蘇って幻想郷に流れ着いたらしい。
今回は迷惑をかけたな。結界が緩んでいた為に発生した事故だ。後は此方で引き取って対処する」
「よし頼んだ。再発防止の策をきちんと練ってくれ。こんなのがウヨウヨいたら流石の天狗も分が悪い」
龍がチラリと椛の方を見ながら念を押す。
「勿論。すまなかったね。あとは責任持って片付けるよ。ほら、紫様!起きてください!仕事ですよー!」
藍の怒鳴り声が響く。
程なくしてスキマはスルスルと拡張していき、巨大な竜の死骸は幾重もの目玉が漂う異空間に飲み込まれていった。
後には満身創痍の椛と龍が残される。辺りを再び静寂が支配した。
「まだまだ、私も、甘いですね…」
柳葉刀を杖代わりにして、足元に血溜りを作りながら、椛が声を絞り出す。気力は限界に近い。意識は既に途切れ途切れだ。
龍が厳しい声色で返す。任務中に甘さを見せた彼女を責める口調だった。
「全くだ。哨戒天狗として、その辺はちゃんとしてもらわないと困るぞ。
…ただお前はよくやったよ。あれだけ大きな獲物を殆ど1人で仕留めたんだからな」
途中から一転した龍の労いの言葉―今度は心からいたわる響きだった―を聞いて、椛は安堵の表情でその場に崩れ落ちる。
やがて森の向こうからバタバタと椛の同僚たちがやってきた。皆して手に大柄な機材を抱えている。龍が此処へ向かう途中、部隊の詰所に知らせた援軍である。
現場が普段は天狗が干渉しないような奥地だった為に場所の同定に手間取り、漸く辿り着いたのだ。
恐竜の血で一面真っ赤な現場と、倒れ伏す椛に白狼天狗達はショックを隠し切れない。
「椛先輩!?」「副長殿!!」
「遅いぞ。もう全部片が付いた。お前たちにできる仕事は犬走を病院に担ぎ込む事だ」
頑強な天狗のこと、この程度では死にはしない。しかし此処で傷を負った部下を見捨てる程に龍は冷血ではない。
「ええいまだるっこしい。私が運んでいってやる」
椛の大柄な身体が担架に据え付けられたのを確認すると、龍は担架を担いで翼を広げる。
翼開長4mの漆黒の羽根が力強く羽ばたき、山上の病院へと進路を取った。椛の同僚たちが慌てて追随する。
悠々と空を飛びながら、龍は独り言ちた。
「やれやれ勲章がまた増えたな。尤も増えないのに越したことは無いが」
ー5.
山の八合目に建てられた天狗専門の治療所。
白狼天狗の指定労災病院でもある此処は、負傷した哨戒部隊が専ら担ぎ込まれるところである。
椛が意識を取り戻したのはおよそ半日後。
全身包帯だらけで点滴も伸びた自身の姿にまず呆然としたが、すぐ横に腰掛けている大天狗の姿を見て愕然とした。
「え!え?え!?飯綱丸様までお怪我を…!?」
「あー…その、うん。診断の結果手首の骨にヒビが入っていたらしくてな…年甲斐もなく調子に乗ったらこのザマだ。
詰めが甘かったのは私も同じだったみたいだな」
椛が横たわるベッドの脇で左腕を吊った龍が気まずそうにポリポリと頬を掻く。
「なに鴉天狗の回復力を以てすれば骨折なぞ2、3日で…おい犬走、どうした?」
「私が、至らないばかりに、大天狗様に傷まで負わせてしまい…こうなったら死んでお詫びを…」
肩を震わせて、目元からポロポロと涙を零し始める。
椛はあまりに杜撰で不甲斐ない自分を呪った。
大天狗の手を煩わせるばかりか、怪我までさせてしまった。
白狼天狗としてあるまじき失態だった。
死を以て償うしかないと思った。
自らの犬歯を手首に突き立てようとしたところで龍が腕と頭を押さえて制止する。
「こらこら、そう思い詰めるんじゃない!これは私の手落ちさ。お前のせいじゃない。
それにお前が多少甘くともいい奴だってのはよく分かってるさ」
必死に慰めるものの、なおも泣き止まない椛を見て、龍は困ったように辺りを見回す。
そして病室の入口付近に蠢く人影を認めると合点がいったようにニヤリと笑った。
使える右手でポンポンと彼女の頭を優しく叩く。
「助けを呼ばず、1人で立ち向かっていったのも他の隊員を危機にさらさない為だろう?時として持ち前の真面目さが暴走して無鉄砲な真似をする。私はそっちの方がいかんと思うな。
ただまあ…それほどまでに突き抜けているからこそ、こんなにも慕われているんだろうな」
入口の方に目で合図をすると、ドカドカと哨戒部隊の同僚達が流れ込んできた。その数20人弱。皆心配そうな表情で、手に手に見舞いの品を携えている。
「椛先輩!大丈夫ですか?」
「あー、また思い切り無茶をして…心配しましたよ〜」
「椛副長が気負う事はないんですよ!大天狗様にお手数をおかけしてしまったのは私達も同じですから…」
「当番は私たちが代わりますから、しっかり療養なさってくださいね!」
彼女を慕う同僚たちにあっという間に囲まれる。唐突な面会に椛は目を白黒させたが、周りから温かい言葉をかけられて尚更涙腺が緩んでしまったようだ。
わんわんと泣く椛を皆が優しく見守り励ました。
やいのやいのの病室で、邪魔をしちゃ悪いと窓辺に移動した龍は1人椛の周りの喧騒を眺めていた。その眼差しはどこか寂しげだ。
(あー、私には見舞客ゼロか?百々世は地下奥深くにいるから知りようがないとして、典は…まあそういう奴としてもだ。鴉天狗の1羽も来てくれないのは…堪えるな。
大天狗というのはこれが辛い。無駄に地位が高いだけに、皆畏れ多いと言いながら結局私を避ける)
「だからこそ龍様はもみもみと立場に関係のない友情を結ぼうと思ったんですよねー」
「うひょい!?」
窓の外から心の内を見透かされたかのような台詞を唐突に掛けられて、龍は思わず飛び上がる。
外にいたのは椛の友人にして龍の部下である鴉天狗、姫海棠はたてだった。
その横には文の姿も見える。すっかり包帯は取れて全回復した様子だ。
先程の椛とのやり取りを全部聞いていたのか、鴉天狗コンビは両人ともやけに嬉しそうに笑っていた。
「あ、文!?目は治ったのか!?」
「ええ、お陰様で。
―1週間、射命丸文としての代理は如何でしたか?」
文の問いかけに龍は鼻を軽く擦りながら返す。
「ああ、うん。悪くなかったな。お前があの子を可愛がる理由がわかった気がするよ」
「それはなにより。ちょっとドジで残念な所もありますが、白狼天狗の友人としてこれ以上はない人物です」
「もみもみって一見ガチガチに強張ってるけど、一旦垣根を越えればどんな相手とも手を取り合ってくれるんですよねー。龍様としても良かったでしょう」
はたての言に龍も頷く。
相変わらず椛の周りは賑やかだ。それを慈しむかのように眺める3人の天狗達。
妖怪の山の天狗社会は厳密な上下関係が存在する。白狼天狗に鴉天狗、更に大天狗。各々には明確な立場、種族の違いがある。
しかしそんな差を超えた友情があるのもまた事実なのだ。
〈終〉
微笑ましくてきれいな話でした
どちらも優秀だけど対人がなんとなく不器用な2人がほほえましかったです。