信州新報朝刊より
「十三日午前八時頃、石原市隼町矢黒のマンションの一室で、この部屋に住む東公彦くん(7)が死亡しているのがマンションの管理人の通報を受けた警察によって発見された。 司法解剖の結果、公彦くんの死因は内臓に大きな損傷を受けたことで、長野県警は同日午後五時頃、隼町七道の路上で、母親の自称飲食店従業員東夏名子容疑者(38)と、同居していた内縁の夫である無職倉坂満容疑者(39)を傷害致死の容疑で逮捕した。調べに対し二人はいずれも容疑を否認しており、警察は日常的に虐待が行われていたとみて捜査を進めている」
ぼくはお母さんのことが大好きだ。
お母さんはいつもぼくのことをなでてくれるからだ。だけどぼくはお母さんが連れてきた、あいつのことがきらいだ。だってお母さんはいつもあいつの相手ばかりしている。あいつはいつもイライラしていて、なにかあるとぼくをおつかいに行かせる。近くのタバコ屋さんのおばあちゃんは、本当はぼくにタバコを売っちゃいけないんだけどね、と言ってるけど、こっそりぼくにタバコを売ってくれる。おばあちゃんはタバコを売ってくれないとあいつがぼくをたたくことを知っているんだと思った。ぼくが強かったらあんなやつ、家から追い出してやるのに、っていつも思ってる。
あいつが家にやってくる前、ぼくはお母さんに連れられてお母さんの家に連れて行ってもらったことがある。
おばあちゃんと会うのは初めてだった。家の中でおばあちゃんとお母さんは大きな声で何か言い合っていた。
お母さんはぼくに、どこかで遊んでいなさい、と言ったので、ぼくは外に出て裏の山の中に入った。
山の中は町の中よりもすずしかった。木がたくさんあって、とても大きかった。ぼくはすうっといきをすった。草のにおいが体いっぱいに入った。そんなにおいは町の中ではかいだことがなかったから、ぼくはすごく気もちが良くなった。お母さんも来ればいいのにな、って思ったんだ。だからぼくは一人で山の中にいるのがすごくさびしかった。
ぼくは一人でどんどんと山の中に入っていった。山の中はとてもおもしろかった。きれいな川があったり、町の中では見たこともないほど大きな虫がいたりした。川のそこにはきれいな石があった。お母さんにも見せてあげたい、と思ったけど、ポケットには入り切らないな。大きな虫はつかまえてカゴに入れてクラスのみんなにじまんしたいけど、カゴもアミも持ってきていなかったんだ。だからぼくは、いいにおいのする花を何本かちぎってポケットに入れていった。
花はぼくの行くところにたくさん咲いていて、ぼくはむ中になっていっしょうけんめい花をとっていた。ときどき転んだりして土だらけになったりもしたけど、それでもぼくは花を集めることをやめなかった。
気がつくと、ぼくは深い森の中にいた。周りを見回したけど、どこをみても高い木ばかりで、どっちに行けば帰れるのかぜんぜんわからなかった。遠くの方では鳥が鳴いていた。その鳴き声にぼくはすごく心細くなった。お母さん、って小さな声でつぶやいた。でももちろんお母さんは来るはずがない。
そのとき、ぼくは周りで風がびゅう、と吹いた。
草がざんざんと揺れた。ぼくは不思議な気持ちになった。まるでだれかがそばにいるような、そんな感じだった。
後ろに誰かいるような気がする。すると声が聞こえた。
「あなた、私が見えるの?」
話しかけてきたのは黄色いリボンの付いた黒いぼうしを抑えながら、緑色のスカートをはいた、ぼくより年上にみえるお姉ちゃんだった。
「えっと、お姉ちゃんは誰?」
「私? 私の名前は古明地こいしっていうの」
お姉ちゃんはにこりと笑って名前を言ったけど、ぼくにとってはお姉ちゃん、と言うほうが呼びやすかったんだ。
「ぼくの名前は東公彦っていうんだ!」
「きみひこくんっていうのね。よろしくね!」
ぼくはお姉ちゃんと鬼ごっこをしたり水切りという遊びを教えてもらったりした。ぼくは引っこししてばかりだったから、友だちがぜんぜんいなかった。女の子の友だちなんてぜんぜんだ。だからぼくは初めて女の子と遊んだんだ。お姉ちゃんはすごく楽しそうだった。ぼくは一人っ子だった。弟も妹もお兄ちゃんもお姉ちゃんもいなかったけど、今日はじめてぼくにお姉ちゃんができたように思えた。
「お姉ちゃん、また遊びに来てもいい?」
「うん、いいけど……」
そう言ってお姉ちゃんはぼくの手を引いて歩いていく。しばらく歩いていると、目の前がぱあっと広くなった。
「ごめんね、今日はここでお別れ。じゃあ、またね、きみひこくん!」
「またね! お姉ちゃん!」
手をふるお姉ちゃんの笑顔はとてもステキだった! ぼくはお姉ちゃんのすがたが見えなくなるまでずっと手をふっていた。
どうやってお母さんのところにもどったのか覚えていない。ただ、ぼくは気がついたらお母さんの車の中でねむっていた。まだ日はのぼっていたけど、ぼくは遊びつかれてしまったんだ。家に帰るまでの間、お母さんは何もしゃべらなかった。だけど少し悲しそうに見えた。ぼくはお母さんに何があったのか聞く気になれなかった。
あいつがやってきたのはそれからしばらくしてからだ。あいつは最初だけにこにこしてた。でもそのにこにこ顔はすごくイヤなものだった。無理してにこにこしている、そんな気がしたんだ。お母さんはすごくうれしそうだった。そんなお母さんの顔を見るのはひさしぶりだった。その日の夜、お母さんはあいつを連れてどこかに出かけた。めずらしくおめかしをしていたから、多分外食かどこかに行ったんじゃないかな。ぼくは家にいて本を読んでいたけど、すごくたいくつだった。
「公彦くん、こんばんは!」
後ろから声をかけられた。ふりむくとあのお姉ちゃんが部屋にいた。
「なんだ、お姉ちゃん、ついてきてくれたんだね!」
「うん! 公彦くんとまた一緒に遊びたいな、と思って。よろしくね! 公彦くん!」
ぼくはすごくうれしかった。お姉ちゃんと会うのもずいぶんとひさしぶりだった。ぼくはお姉ちゃんと二人でテレビを見たり、いっしょに本を読んだりした。お姉ちゃんは学校とかには着いてこなかったけど、家に帰るといつもいてくれた。お母さんはそのころ、家を空けることが多くなっていたから、ぼくはお姉ちゃんと二人で遊んでいた。あいつもぼくのことがキライみたいだったから、あいつと二人でいっしょにいなくてもすんだのはとてもありがたかった。お姉ちゃんと遊ぶのは楽しかった。お姉ちゃんはいつもニコニコしていて、そのニコニコ顔はあいつの気持ち悪いニコニコ顔とはぜんぜん違った。すごくきれいだと思った。
「お姉ちゃんってきれいだね」
「そう? そう言ってもらえて嬉しいな!」
ぼくはその日、帰ってきたあいつになぐられた。あいつはお酒をたくさん飲んでいたけど、お酒がなくなったからぼくに買ってこいって言った。ぼくは買いに行ったけどタバコ屋のおばあちゃんとはちがってコンビニの人はぼくにお酒を売ってくれなかったから、あいつは怒ってぼくのことをなぐったんだ。お母さんは家にいなかった。ぼくはあいつと二人でいるのがすごくイヤだったけど、お母さんが帰ってくるまでガマンしようとおもった。あいつはお前が酒も買えないグズだからダメなんだ、って言って、またぼくのことをなぐった。お姉ちゃんはそんなぼくを心配そうに見つめていた。お姉ちゃんはぼうしをとって、2つの目でじっと、ぼくを見守ってくれていた。だからぼくは泣かずにすんだ。あいつはしばらくぼくをなぐっていたけど、そのうちイヤになったのか、ぼくを放り出して別の部屋に行ってしまった。お姉ちゃんはその間もずっとそばにいて、ぼくに声をかけてくれた。
「公彦くん、大丈夫? 痛くなかった?」
「ううん、平気。ぜんぜんだいじょうぶさ」
ぼくはお姉ちゃんに弱音をはかまいと思った。お姉ちゃんに心配をかけるのはお母さんに心配をかけるのと同じぐらいにダメだと思ったからだ。いつかお母さんも目をさまして、あいつからはなれてくれる、ぼくはそう信じているんだ。
あいつはその日、よっぱらっていた。お母さんはまた家にいなかった。あいつといっしょに家にいると、あいつはいつもイライラしてるから、ぼくは二人で家にいるのがすごくイヤなんだ。ぼくはだまって宿題をしていた。ホントはあいつといっしょな部屋にいるのはとてもイヤだけど、ちがう部屋に行くとあいつは、てめえ、おれがキライなのかよ、って言ってなぜか怒り始めるんだ。あいつがお酒を買ってくるようにぼくに言った。ぼくはお酒は買えないよ、って言ったら、それならぬすんで来いって言われた。ぼくは、そんなのイヤだよって言ったら、あいつは大きな声でどなり始めた。それでぼくをなぐった。あいつは顔を真っ赤にしていた。
「おい、背中だせや」
あいつは低い声を出してそう言った。ぼくは言われるとおりに背中を出した。言うことを聞かないとまた、なぐられると思ったからだ。
あいつは灰皿から火のついたタバコをとって、ぼくのせなかに押し付けた。ジュッっという音、そして肉がやけるときみたいなイヤなにおいがした。せなかをほうちょうでグサリとつきさされたみたいだった。あいつはなんどもなんどもぼくのせなかにおしつけた。そのたびにぼくは声を出したくなった。だけどお姉ちゃんがぼくのそばにいてくれたから、ぼくはお姉ちゃんによわいところを見せないようにしようと思った。あいつは、こんじょうやきだ、おれもおやじにやられたからな、がきはこれが一番だって言ってた。お母さんはこんなことしない。こんなことするのはあいつだけだ。ぼくはなんでお母さんがあいつといっしょにいるのかぜんぜんわからなかった。だってぼくよりもあいつのほうがきっと悪いやつだからだ。
すごく長い時間みたいに感じた。でもあいつもすぐにあきたのか、別の部屋に行ったので、後にはぼくとお姉ちゃんだけが残された。
「公彦くん、大丈夫?」
「うん、平気さ。あんなやつ、今に追い出してやるから」
「辛かったね、公彦くん」
そう言ってお姉ちゃんはぼくの頭をなでてくれた。お姉ちゃんの指は細くてすべすべしてた。お姉ちゃんは心配そうだった。だけどぼくはお姉ちゃんにもお母さんにも心配をかけたくなかった。だからぼくは泣いたりしちゃだめなんだ。
ある日、学校でぼくは先生に呼び出された。
「なあ、公彦、先生には最近お前の調子が少しおかしいように思えるんだ。大丈夫か?」
ぼくはなんて答えようかと迷った。でも、お母さんやお姉ちゃんに心配をかけたくなかった。
「大丈夫です。ぼくは一人じゃありません」
先生はふしぎそうな顔をしたけど、それ以上つっこんではこなかった。
「そうか……もし何かあったらすぐに先生に相談するんだ」
先生は心配そうにそう言った。
学校からの帰り道はめずらしくお姉ちゃんが着いてきてくれた。
「ねえ、公彦くん、先生に相談しなくても平気なの?」
「ぼくは平気さ。だってお姉ちゃんがいるもの」
「ありがとう、そう言ってもらって」
お姉ちゃんはそう言ってにっこりと笑ってくれた。
誰かに相談したらお姉ちゃんはぼくから離れてしまうような気がした。ぼくに友だちはいなかった。学校が終わったら、すぐに家に帰るように言われていたから、ぼくはだれかの家に遊びに行ったりしたことがなかった。でもお姉ちゃんがいつもいっしょに遊んでくれていたから、ぼくはぜんぜんさびしくなかった。ぼくはお姉ちゃんのためにもお母さんのためにも、もっと強くならなくちゃいけないんだ。
ある日、ぼくはお姉ちゃんといっしょにあいつにいわれたタバコを買いに行った。お姉ちゃんは初めて見るものばかりだったみたいで、ぼくは色々と説明をしてあげた。
「へえ、公彦くんって何でも知ってるんだね!」
お姉ちゃんにそう言われたのでぼくは照れくさかった。だれかと出かけるのはひさしぶりだった。お母さんはあいつとはよく出かけたけど、ぼくのことはあまりかまってくれなくなった。だからぼくはさびしかった。お姉ちゃんはいつもぼくのそばにいてくれた。ぼくが大きくなってもぼくの近くにいてくれるとうれしいんだけどな。
「公彦くん、ごめんねえ、タバコ、売ってあげられないんだ」
タバコ屋でおばあちゃんはもうしわけなさそうにそう言った。
「最近、すごく未成年にタバコを売るのが厳しくなってねえ」
帰り道。
「タバコ、買えなかったね」
「あいつがなんていうかな。お姉ちゃん、あいつのことどう思うの?」
「私もあいつのこと大キライ! だっていつも公彦くんに当たりちらすんだもの!」
「なんでお母さんはあいつなんかといっしょになったんだろう?」
「きっとお母さんにしかわからない事情があったのよ」
「お母さん、大丈夫かな……」
お母さんとあいつは家にいた。お母さんもあいつもよっぱらっていた。まだ昼間だったけど、あいつは大きくて下品な声をだして、大声で笑いながら何かわめいていた。
あいつは帰ってきたぼくをじろりとにらんだ。
「おい、タバコ買ってきたのかよ」
「ごめんなさい、タバコ、売ってもらえなくて……」
平手がとんできた。ぼくはふとんの上にたおれこんだ。
あいつはぼくのおなかをを左の足でけりとばした。ぼくはお腹をおさえて、風せんがしぼむときみたいな声を出して、口から何かはき出した。
あいつが何かわめいている。あいつはぼくの胸の辺りをつかんで、ぼくの顔をひっぱたいた。
お母さんは何もしない。お母さんはあっちを向いている。きっとお母さんはあいつにおどされているんだ。ごめんね、お母さん。ぼくがもっと強ければ、こんなやつなんかやっつけられるのに。
ぼくはあいつに強く踏みつけられた。うめき声を出す。ぼくは泣きたくなった。
お姉ちゃん、お母さん、助けて。
「ああ? てめえに姉なんかいるわけねーだろうが! 頭でもおかしくなったのかよ?」
あいつが何かわめていている。でもぼくには何を言っているのか分からなかった。
ぼくは床に投げられた。そしてまた、お腹を何度もけとばされた。そのたびになにかがこわれるような、変な音がした。お母さんは何もしてくれない。ねえ、お母さん、笑っているの?
ぼくはふとんの上にたおれていた。お腹がいたい。息が苦しい。となりの部屋からは楽しそうな声が聞こえてくる。
お姉ちゃんがぼくのそばに立っている。
お姉ちゃんはぼくのことを見下ろしている。お姉ちゃん、そんなに悲しそうな顔をしないで。
「ごめんなさい、公彦くん。私は君のことを助けることはできないの」
どうして? お姉ちゃん? ぼくのこと嫌いなの?
「ううん、そんなことはない」
じゃあ、どうしてぼくを助けてくれないの?
「ほんとは助けたいよ。私だって公彦くんのこと、たすけたい」
ごめんね、お姉ちゃん、弱音をはいて。ぼくがもっと強かったら、あんなやつには負けないのに。
あんなやつ、家から追い出してやれるのに。お母さんもきっとあいつにだまされているんだ。だからぼくはいつか強くなって、あいつなんかに負けないようにするんだ。あいつを家から追い出して、またお母さんといっしょにくらすんだ。お姉ちゃんもいれたら三人だね。
そのとき初めて、ぼくはお姉ちゃんが泣くのを見た。
お姉ちゃんは2つの目からはもちろんぽろぽろとなみだを流していた。
胸のあたりにある、ヒモがついているみたいな、むずむずと動く丸い目みたいなものからも、なみだがこぼれていた。
お姉ちゃんは腰をかがめて、ぼくの頭をそっとなでた。
お母さんはずっとぼくのことをなでてくれていなかった。だからなでてもらえるのはすごく気持ちがよかった。
ぼくはふわりと空にうかんだ。たおれていて、動かないぼくが見えた。お姉ちゃんはぼくの方を向いて、すごく悲しそうに笑って消えていった。
そしてぼくはゆっくりと、この世界から消えていった。
「珍しいわね、あなたがこんなところに来るなんて」
「なんかね、ふらふらしてたら知らない間に来ちゃったんだ」
「そう……最近は外の世界からやってくる子達がすごく多いんだ」
「そうなんだ。……私ね、一度だけ、外の世界の人間に会ったことがあるんだ。あの子、うっかり結界の緩みから中に入ってきたみたいで。結界のそばにいた私はあの子と一緒に遊んであげて、外に戻してあげた。あの子、どうしてるのかな……でもなんでこんなこと覚えてるんだろう」
「きっと元気にしてるわよ」
「ねえ、みんなに言ってることだし、あなたにそんな機会はないはずだけどさ、もしどこかであの子、「あずまきみひこ」くんに出会うことがあったなら、伝えてほしいな、すごく楽しかったよ、また会いたいな、って。瓔花ちゃん、さ」
「十三日午前八時頃、石原市隼町矢黒のマンションの一室で、この部屋に住む東公彦くん(7)が死亡しているのがマンションの管理人の通報を受けた警察によって発見された。 司法解剖の結果、公彦くんの死因は内臓に大きな損傷を受けたことで、長野県警は同日午後五時頃、隼町七道の路上で、母親の自称飲食店従業員東夏名子容疑者(38)と、同居していた内縁の夫である無職倉坂満容疑者(39)を傷害致死の容疑で逮捕した。調べに対し二人はいずれも容疑を否認しており、警察は日常的に虐待が行われていたとみて捜査を進めている」
ぼくはお母さんのことが大好きだ。
お母さんはいつもぼくのことをなでてくれるからだ。だけどぼくはお母さんが連れてきた、あいつのことがきらいだ。だってお母さんはいつもあいつの相手ばかりしている。あいつはいつもイライラしていて、なにかあるとぼくをおつかいに行かせる。近くのタバコ屋さんのおばあちゃんは、本当はぼくにタバコを売っちゃいけないんだけどね、と言ってるけど、こっそりぼくにタバコを売ってくれる。おばあちゃんはタバコを売ってくれないとあいつがぼくをたたくことを知っているんだと思った。ぼくが強かったらあんなやつ、家から追い出してやるのに、っていつも思ってる。
あいつが家にやってくる前、ぼくはお母さんに連れられてお母さんの家に連れて行ってもらったことがある。
おばあちゃんと会うのは初めてだった。家の中でおばあちゃんとお母さんは大きな声で何か言い合っていた。
お母さんはぼくに、どこかで遊んでいなさい、と言ったので、ぼくは外に出て裏の山の中に入った。
山の中は町の中よりもすずしかった。木がたくさんあって、とても大きかった。ぼくはすうっといきをすった。草のにおいが体いっぱいに入った。そんなにおいは町の中ではかいだことがなかったから、ぼくはすごく気もちが良くなった。お母さんも来ればいいのにな、って思ったんだ。だからぼくは一人で山の中にいるのがすごくさびしかった。
ぼくは一人でどんどんと山の中に入っていった。山の中はとてもおもしろかった。きれいな川があったり、町の中では見たこともないほど大きな虫がいたりした。川のそこにはきれいな石があった。お母さんにも見せてあげたい、と思ったけど、ポケットには入り切らないな。大きな虫はつかまえてカゴに入れてクラスのみんなにじまんしたいけど、カゴもアミも持ってきていなかったんだ。だからぼくは、いいにおいのする花を何本かちぎってポケットに入れていった。
花はぼくの行くところにたくさん咲いていて、ぼくはむ中になっていっしょうけんめい花をとっていた。ときどき転んだりして土だらけになったりもしたけど、それでもぼくは花を集めることをやめなかった。
気がつくと、ぼくは深い森の中にいた。周りを見回したけど、どこをみても高い木ばかりで、どっちに行けば帰れるのかぜんぜんわからなかった。遠くの方では鳥が鳴いていた。その鳴き声にぼくはすごく心細くなった。お母さん、って小さな声でつぶやいた。でももちろんお母さんは来るはずがない。
そのとき、ぼくは周りで風がびゅう、と吹いた。
草がざんざんと揺れた。ぼくは不思議な気持ちになった。まるでだれかがそばにいるような、そんな感じだった。
後ろに誰かいるような気がする。すると声が聞こえた。
「あなた、私が見えるの?」
話しかけてきたのは黄色いリボンの付いた黒いぼうしを抑えながら、緑色のスカートをはいた、ぼくより年上にみえるお姉ちゃんだった。
「えっと、お姉ちゃんは誰?」
「私? 私の名前は古明地こいしっていうの」
お姉ちゃんはにこりと笑って名前を言ったけど、ぼくにとってはお姉ちゃん、と言うほうが呼びやすかったんだ。
「ぼくの名前は東公彦っていうんだ!」
「きみひこくんっていうのね。よろしくね!」
ぼくはお姉ちゃんと鬼ごっこをしたり水切りという遊びを教えてもらったりした。ぼくは引っこししてばかりだったから、友だちがぜんぜんいなかった。女の子の友だちなんてぜんぜんだ。だからぼくは初めて女の子と遊んだんだ。お姉ちゃんはすごく楽しそうだった。ぼくは一人っ子だった。弟も妹もお兄ちゃんもお姉ちゃんもいなかったけど、今日はじめてぼくにお姉ちゃんができたように思えた。
「お姉ちゃん、また遊びに来てもいい?」
「うん、いいけど……」
そう言ってお姉ちゃんはぼくの手を引いて歩いていく。しばらく歩いていると、目の前がぱあっと広くなった。
「ごめんね、今日はここでお別れ。じゃあ、またね、きみひこくん!」
「またね! お姉ちゃん!」
手をふるお姉ちゃんの笑顔はとてもステキだった! ぼくはお姉ちゃんのすがたが見えなくなるまでずっと手をふっていた。
どうやってお母さんのところにもどったのか覚えていない。ただ、ぼくは気がついたらお母さんの車の中でねむっていた。まだ日はのぼっていたけど、ぼくは遊びつかれてしまったんだ。家に帰るまでの間、お母さんは何もしゃべらなかった。だけど少し悲しそうに見えた。ぼくはお母さんに何があったのか聞く気になれなかった。
あいつがやってきたのはそれからしばらくしてからだ。あいつは最初だけにこにこしてた。でもそのにこにこ顔はすごくイヤなものだった。無理してにこにこしている、そんな気がしたんだ。お母さんはすごくうれしそうだった。そんなお母さんの顔を見るのはひさしぶりだった。その日の夜、お母さんはあいつを連れてどこかに出かけた。めずらしくおめかしをしていたから、多分外食かどこかに行ったんじゃないかな。ぼくは家にいて本を読んでいたけど、すごくたいくつだった。
「公彦くん、こんばんは!」
後ろから声をかけられた。ふりむくとあのお姉ちゃんが部屋にいた。
「なんだ、お姉ちゃん、ついてきてくれたんだね!」
「うん! 公彦くんとまた一緒に遊びたいな、と思って。よろしくね! 公彦くん!」
ぼくはすごくうれしかった。お姉ちゃんと会うのもずいぶんとひさしぶりだった。ぼくはお姉ちゃんと二人でテレビを見たり、いっしょに本を読んだりした。お姉ちゃんは学校とかには着いてこなかったけど、家に帰るといつもいてくれた。お母さんはそのころ、家を空けることが多くなっていたから、ぼくはお姉ちゃんと二人で遊んでいた。あいつもぼくのことがキライみたいだったから、あいつと二人でいっしょにいなくてもすんだのはとてもありがたかった。お姉ちゃんと遊ぶのは楽しかった。お姉ちゃんはいつもニコニコしていて、そのニコニコ顔はあいつの気持ち悪いニコニコ顔とはぜんぜん違った。すごくきれいだと思った。
「お姉ちゃんってきれいだね」
「そう? そう言ってもらえて嬉しいな!」
ぼくはその日、帰ってきたあいつになぐられた。あいつはお酒をたくさん飲んでいたけど、お酒がなくなったからぼくに買ってこいって言った。ぼくは買いに行ったけどタバコ屋のおばあちゃんとはちがってコンビニの人はぼくにお酒を売ってくれなかったから、あいつは怒ってぼくのことをなぐったんだ。お母さんは家にいなかった。ぼくはあいつと二人でいるのがすごくイヤだったけど、お母さんが帰ってくるまでガマンしようとおもった。あいつはお前が酒も買えないグズだからダメなんだ、って言って、またぼくのことをなぐった。お姉ちゃんはそんなぼくを心配そうに見つめていた。お姉ちゃんはぼうしをとって、2つの目でじっと、ぼくを見守ってくれていた。だからぼくは泣かずにすんだ。あいつはしばらくぼくをなぐっていたけど、そのうちイヤになったのか、ぼくを放り出して別の部屋に行ってしまった。お姉ちゃんはその間もずっとそばにいて、ぼくに声をかけてくれた。
「公彦くん、大丈夫? 痛くなかった?」
「ううん、平気。ぜんぜんだいじょうぶさ」
ぼくはお姉ちゃんに弱音をはかまいと思った。お姉ちゃんに心配をかけるのはお母さんに心配をかけるのと同じぐらいにダメだと思ったからだ。いつかお母さんも目をさまして、あいつからはなれてくれる、ぼくはそう信じているんだ。
あいつはその日、よっぱらっていた。お母さんはまた家にいなかった。あいつといっしょに家にいると、あいつはいつもイライラしてるから、ぼくは二人で家にいるのがすごくイヤなんだ。ぼくはだまって宿題をしていた。ホントはあいつといっしょな部屋にいるのはとてもイヤだけど、ちがう部屋に行くとあいつは、てめえ、おれがキライなのかよ、って言ってなぜか怒り始めるんだ。あいつがお酒を買ってくるようにぼくに言った。ぼくはお酒は買えないよ、って言ったら、それならぬすんで来いって言われた。ぼくは、そんなのイヤだよって言ったら、あいつは大きな声でどなり始めた。それでぼくをなぐった。あいつは顔を真っ赤にしていた。
「おい、背中だせや」
あいつは低い声を出してそう言った。ぼくは言われるとおりに背中を出した。言うことを聞かないとまた、なぐられると思ったからだ。
あいつは灰皿から火のついたタバコをとって、ぼくのせなかに押し付けた。ジュッっという音、そして肉がやけるときみたいなイヤなにおいがした。せなかをほうちょうでグサリとつきさされたみたいだった。あいつはなんどもなんどもぼくのせなかにおしつけた。そのたびにぼくは声を出したくなった。だけどお姉ちゃんがぼくのそばにいてくれたから、ぼくはお姉ちゃんによわいところを見せないようにしようと思った。あいつは、こんじょうやきだ、おれもおやじにやられたからな、がきはこれが一番だって言ってた。お母さんはこんなことしない。こんなことするのはあいつだけだ。ぼくはなんでお母さんがあいつといっしょにいるのかぜんぜんわからなかった。だってぼくよりもあいつのほうがきっと悪いやつだからだ。
すごく長い時間みたいに感じた。でもあいつもすぐにあきたのか、別の部屋に行ったので、後にはぼくとお姉ちゃんだけが残された。
「公彦くん、大丈夫?」
「うん、平気さ。あんなやつ、今に追い出してやるから」
「辛かったね、公彦くん」
そう言ってお姉ちゃんはぼくの頭をなでてくれた。お姉ちゃんの指は細くてすべすべしてた。お姉ちゃんは心配そうだった。だけどぼくはお姉ちゃんにもお母さんにも心配をかけたくなかった。だからぼくは泣いたりしちゃだめなんだ。
ある日、学校でぼくは先生に呼び出された。
「なあ、公彦、先生には最近お前の調子が少しおかしいように思えるんだ。大丈夫か?」
ぼくはなんて答えようかと迷った。でも、お母さんやお姉ちゃんに心配をかけたくなかった。
「大丈夫です。ぼくは一人じゃありません」
先生はふしぎそうな顔をしたけど、それ以上つっこんではこなかった。
「そうか……もし何かあったらすぐに先生に相談するんだ」
先生は心配そうにそう言った。
学校からの帰り道はめずらしくお姉ちゃんが着いてきてくれた。
「ねえ、公彦くん、先生に相談しなくても平気なの?」
「ぼくは平気さ。だってお姉ちゃんがいるもの」
「ありがとう、そう言ってもらって」
お姉ちゃんはそう言ってにっこりと笑ってくれた。
誰かに相談したらお姉ちゃんはぼくから離れてしまうような気がした。ぼくに友だちはいなかった。学校が終わったら、すぐに家に帰るように言われていたから、ぼくはだれかの家に遊びに行ったりしたことがなかった。でもお姉ちゃんがいつもいっしょに遊んでくれていたから、ぼくはぜんぜんさびしくなかった。ぼくはお姉ちゃんのためにもお母さんのためにも、もっと強くならなくちゃいけないんだ。
ある日、ぼくはお姉ちゃんといっしょにあいつにいわれたタバコを買いに行った。お姉ちゃんは初めて見るものばかりだったみたいで、ぼくは色々と説明をしてあげた。
「へえ、公彦くんって何でも知ってるんだね!」
お姉ちゃんにそう言われたのでぼくは照れくさかった。だれかと出かけるのはひさしぶりだった。お母さんはあいつとはよく出かけたけど、ぼくのことはあまりかまってくれなくなった。だからぼくはさびしかった。お姉ちゃんはいつもぼくのそばにいてくれた。ぼくが大きくなってもぼくの近くにいてくれるとうれしいんだけどな。
「公彦くん、ごめんねえ、タバコ、売ってあげられないんだ」
タバコ屋でおばあちゃんはもうしわけなさそうにそう言った。
「最近、すごく未成年にタバコを売るのが厳しくなってねえ」
帰り道。
「タバコ、買えなかったね」
「あいつがなんていうかな。お姉ちゃん、あいつのことどう思うの?」
「私もあいつのこと大キライ! だっていつも公彦くんに当たりちらすんだもの!」
「なんでお母さんはあいつなんかといっしょになったんだろう?」
「きっとお母さんにしかわからない事情があったのよ」
「お母さん、大丈夫かな……」
お母さんとあいつは家にいた。お母さんもあいつもよっぱらっていた。まだ昼間だったけど、あいつは大きくて下品な声をだして、大声で笑いながら何かわめいていた。
あいつは帰ってきたぼくをじろりとにらんだ。
「おい、タバコ買ってきたのかよ」
「ごめんなさい、タバコ、売ってもらえなくて……」
平手がとんできた。ぼくはふとんの上にたおれこんだ。
あいつはぼくのおなかをを左の足でけりとばした。ぼくはお腹をおさえて、風せんがしぼむときみたいな声を出して、口から何かはき出した。
あいつが何かわめいている。あいつはぼくの胸の辺りをつかんで、ぼくの顔をひっぱたいた。
お母さんは何もしない。お母さんはあっちを向いている。きっとお母さんはあいつにおどされているんだ。ごめんね、お母さん。ぼくがもっと強ければ、こんなやつなんかやっつけられるのに。
ぼくはあいつに強く踏みつけられた。うめき声を出す。ぼくは泣きたくなった。
お姉ちゃん、お母さん、助けて。
「ああ? てめえに姉なんかいるわけねーだろうが! 頭でもおかしくなったのかよ?」
あいつが何かわめていている。でもぼくには何を言っているのか分からなかった。
ぼくは床に投げられた。そしてまた、お腹を何度もけとばされた。そのたびになにかがこわれるような、変な音がした。お母さんは何もしてくれない。ねえ、お母さん、笑っているの?
ぼくはふとんの上にたおれていた。お腹がいたい。息が苦しい。となりの部屋からは楽しそうな声が聞こえてくる。
お姉ちゃんがぼくのそばに立っている。
お姉ちゃんはぼくのことを見下ろしている。お姉ちゃん、そんなに悲しそうな顔をしないで。
「ごめんなさい、公彦くん。私は君のことを助けることはできないの」
どうして? お姉ちゃん? ぼくのこと嫌いなの?
「ううん、そんなことはない」
じゃあ、どうしてぼくを助けてくれないの?
「ほんとは助けたいよ。私だって公彦くんのこと、たすけたい」
ごめんね、お姉ちゃん、弱音をはいて。ぼくがもっと強かったら、あんなやつには負けないのに。
あんなやつ、家から追い出してやれるのに。お母さんもきっとあいつにだまされているんだ。だからぼくはいつか強くなって、あいつなんかに負けないようにするんだ。あいつを家から追い出して、またお母さんといっしょにくらすんだ。お姉ちゃんもいれたら三人だね。
そのとき初めて、ぼくはお姉ちゃんが泣くのを見た。
お姉ちゃんは2つの目からはもちろんぽろぽろとなみだを流していた。
胸のあたりにある、ヒモがついているみたいな、むずむずと動く丸い目みたいなものからも、なみだがこぼれていた。
お姉ちゃんは腰をかがめて、ぼくの頭をそっとなでた。
お母さんはずっとぼくのことをなでてくれていなかった。だからなでてもらえるのはすごく気持ちがよかった。
ぼくはふわりと空にうかんだ。たおれていて、動かないぼくが見えた。お姉ちゃんはぼくの方を向いて、すごく悲しそうに笑って消えていった。
そしてぼくはゆっくりと、この世界から消えていった。
「珍しいわね、あなたがこんなところに来るなんて」
「なんかね、ふらふらしてたら知らない間に来ちゃったんだ」
「そう……最近は外の世界からやってくる子達がすごく多いんだ」
「そうなんだ。……私ね、一度だけ、外の世界の人間に会ったことがあるんだ。あの子、うっかり結界の緩みから中に入ってきたみたいで。結界のそばにいた私はあの子と一緒に遊んであげて、外に戻してあげた。あの子、どうしてるのかな……でもなんでこんなこと覚えてるんだろう」
「きっと元気にしてるわよ」
「ねえ、みんなに言ってることだし、あなたにそんな機会はないはずだけどさ、もしどこかであの子、「あずまきみひこ」くんに出会うことがあったなら、伝えてほしいな、すごく楽しかったよ、また会いたいな、って。瓔花ちゃん、さ」
辛い話でしたがこいしがいなかったらもっと辛かったんだと思いました