宇佐見蓮子が小さかった頃、まだテレビは放映されていた。
母親が仕事に出て一人で家にいる時、蓮子は画面に映しだされる外国の風景に度々目配せをしていたが、公共放送は牧歌的なアルプスの山々だとか壮大な中国の大河だとかをよく放映していたので、暇だな退屈だなとか思いながらいつのまにか寝てしまうことが多く、ふと目が覚めるとノイズが暗がりの中で画面いっぱいにうねうねと群がっているのをしばしば目にした。
そんな夜は決まって再び寝つくことができず、母親が帰ってくるまで蓮子はテレビをつけっぱなしにしては、このノイズ画面が何か面白い番組に変わってくれたらいいのにな、とか思いながら、薄い板状の機械が垂れ流すザーザーという砂嵐の音を、さながら外で吹きすさぶ雨風のように子守唄としていた。
母親が帰ってくると寝たふりをしたが、テレビを消されるとノイズがかき消えるのでやはり寝ることができず、結局渋々寝入るのは母親が寝室に入ってきてからだった。
蓮子はたまに放映される、アヴァリス国が打ち上げた無人探査機パウサニアスが2億3000万キロメートル先の大地から発信し、13分かけ日本の東京都墨田区の電波塔を通じて杉並区阿佐ヶ谷の自宅の一室にあるテレビが受信した、火星の赤茶けた荒野の12K映像を見るのを楽しみとしていた。ニューエイジ的な番組にありがちな、やたら壮大な音楽を乗せるようなことはこの時代の公共放送はやらなかった。だからこそ蓮子は飽きることなく、荒野を征くパウサニアスによって延長された自分の目で火星の広漠とした大地を見ることができるのだった。
火星はたまに砂塵が吹き荒れる。そんなとき、蓮子は腕に抱かれたような感覚に陥った。
地球上にはもう既に荒野はほとんど残っていなかった。どこもかしこも国連と各国政府主導による世界的な緑化計画が進められ、砂漠や荒野には遺伝子を乱暴に組み替えられて水や肥料をほとんど必要としなくなった色とりどりの花々がまるでバカのように咲き乱れた。テキサスの荒野にしても、バグダッドの古代遺跡にしても、まるで土の色を拒むかのように何もかもが赤や青やら黄色やらの交通信号灯みたいな色をした花弁で塗りつぶされていった。
人類は地球上を楽園に変えようとしているように蓮子は思われた。そのうちジョン・レノンのイマジンをみんなで歌う必要すらなくなるのかもしれない。だけれども蓮子は押し付けがましいお花畑よりも天然ものの荒野の方がずっと心落ち着くような気がした。
最後の放送を蓮子は今でも覚えている。
その日の最後のニュースはアヴァリス国においてイオエルド将軍率いる軍部がクーデターを起こしたというものだった。軍が議会を占拠する映像が放映される。装甲車から体を覗かせる、マントヒヒによく似た顔をしたイオエルド将軍がこれは民衆の勝利であると議会前広場で高らかに宣言を行った瞬間はありありと思い出せる。わくわくした、当時小学校低学年だった蓮子はその後どうなるのかを知りたかった。しかしニュースはそこで終わり、今までご視聴ありがとうございましたと述べるニュースキャスターのお辞儀の後ノイズに切り替わった。
テレビは蓮子の生まれる前から既に時代遅れの産物となっていた。情報がその重みを加速度的に増していくというのにテレビは機器にしても番組内容にしてもその革新は遅々として進まなかった。次第に安価かつ高性能となったヴァーチャルリアリティー機器が普及していき、情報はすべてその機器に集約されていった。かつて固定電話がスマートフォンに駆逐されていったかのように、家庭用テレビジョン受信装置は各家庭から急速に姿を消していった。それに伴い民放各社も次々と別業種へと鞍替えを行い、そのうちのいくつかは事業に失敗し倒産した。結局残ったのは日本放送協会だけであり、それも漸次解体されることとなった。ようやく日本でテレビ放送が終了することとなったのはアメリカや中国、EUに遅れること10年以上後の話である。
あの鮮明な火星の映像はもはや流れてくることはなかった。
それはテレビがお役御免となったこともあるが、何より日本が政治的な理由からアヴァリス国の火星の映像を買わなくなったからである。プロパイダー各社はヴァーチャルリアリティ装置を通じて、日本が主導した遺伝子組み換え技術の結実である鮮やかな色の花々が植えられたアフリカや中東の映像を流すようになった。
蓮子はあのアルプスの山々だとか中国の大河だとかの映像すら懐かしく感じるようになった。
ヴァーチャルリアリティ装置に入り浸ってみたことはあった。確かにアメリカの探査機が撮影した火星の映像はそれなりに綺麗だった。だがなにぶん古い映像であるし今ほど高性能な探査機ではなかったから、その映像は蓮子を満足させるものではなかった。
高校2年のある日、母親に連れられて外食に行くことになった。母親はその頃ようやく仕事も軌道に乗ったらしく、たまに外食をするぐらいには余裕が出てきた。どこに行きたい? と言われたが特に行きたいところはなかったので、とりあえず蓮子はスカイツリーに行ってみたいと言った。
スカイツリーはかつての東京タワーがそうであったように、この時代においても東京を代表する観光スポットの一つであった。多くの飲食店がテナントとして入り、無論天気の良い日は富士山まで見ることができる。
東京都はスカイツリーよりも高い建築物の建造を認めていなかった。それは京都が景観を害する建造物を建てることを禁止しているのによく似ていた。首都京都と同じく旧都東京もまた、今や歴史を有する都市なのだ。
母親は珍しくランチタイムではなくディナータイムを選択した。星が好きな蓮子にとってはその方が都合が良かった。自宅のある杉並区阿佐ヶ谷からJR総武線の無人電車に乗り十分ほどかけて墨田区錦糸町に着くと遠くにスカイツリーが見えた。24時間運行のオートメーションバスに乗り込む。近づくに連れ段々と大きくなる銀地に美しくライトアップされたその姿は、建てられた当時の人々の希望に満ちた、まだ見ぬ近未来を想起させたのだろうか。かつての東京タワーが戦後復興の象徴であったのと同様に巨大な建造物には多くの人間の様々な夢が込められているものだ。目下建造中である卯酉東海道も旧都東京に住む人たちが、首都となった京都に抱く様々な思いが込められているはずである。
蓮子の母は東京の夜景が一番よく見えるという店を選んだ。スカイツリー内にあるレストランはどれも値段が高いのだが、選んだ店はミシュランガイドでも一つ星を獲得したという有名店だったので、予約をとり一万円札を数枚出さなければディナータイムは食事ができないはずだった。
美しく盛り付けられた料理の味は蓮子にはよくわからなかった。合成食品ではなく天然物を使っているのは蓮子にも分かったが、家の近くにある中華料理屋の、大量の合成調味料で味付けされた人工物まみれのラーメンの方が美味しく感じた。母親は随分と美味しそうに食べているので、お母さんは舌が肥えているのだなと考えることにした。
火星でも見えないかな、と蓮子は思った。雲ひとつない夜空だったものの、残念なことに、この店は火星の見える方角にはなかった。手持ち無沙汰なので蓮子は星空を眺めた。今は19時46分頃か。
「ところでさ」
母親が話を切り出した。
「もうすぐ受験でしょう? どこの大学に行きたいの?」
そういえばあまり考えたことがなかった。高校は自由な校風で進路指導もそれほどやってくれない。成績は一応上の方だった。進学校ではあったので、よほど高望みをしなければ大方の大学に行くことはできるだろう。そうだ、私が受験する頃にはもう卯酉東海道は完成しているはずだ。東京にも飽きてきた。別の地方に行ってみたい。この国の首都、なんてどうだろうか? 京都には色々なミステリースポットが存在していると聞く。東京の何倍もの歴史を有する土地である。
蓮子はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「お母さん、私京都に行きたい」
○○○○○が小さかった頃、国内のテレビ局は既にイオエルド将軍の命令によって全て国営となっていた。
イオエルド将軍は自身の武功と勲功に相応しい称賛を要求し、国民はみなそれに従った。国営テレビは偉大なる指導者イオエルド将軍の身辺の出来事をそのトップニュースとした。余った時間は環境映像を流している。
○○○○○は自分の名前を知らなかった。あったはずである。だけれども政府軍と反政府ゲリラとの戦いで自宅アパートが崩れたとき、助け出された○○○○○はまだ小さかった。両親は二人とも瓦礫に押しつぶされてしまった。
○○○○○は慈悲深き指導者イオエルド将軍が運営する児童保護施設に引き取られた。そこで後に、お前の両親は偉大なるイオエルド将軍の命令に背いた、薄汚い反逆者であったと○○○○○は告げられた。そうか、私の両親は薄汚い反逆者だったのか、とその当時○○○○○は理解した。お前の名前は57番だと言われ、○○○○○の名前は57番になった。そして57番の父親は全国民の父たる指導者イオエルド将軍となった。
その施設で57番は43番と仲良くなった。食事を分かち合うほどの仲になった。
ある日43番が教育係にどこかにつれていかれた。そしてそのまま二度と帰ってこなかった。
57番は一日30分だけ許されたテレビの時間が好きだった。偉大なる父イオエルド将軍の演説にはそれほど興味がなかったが、その合間合間を縫って放映される環境映像、とくに海外のきれいな花畑の映像が好きだった。アヴァリス国は国際世論に反し緑化計画に従わなかったので、皮肉なことに、荒野が国土の大部分を占める貴重な国となり、それを観光資源としていた。そのうち花畑の映像の代わりに国家の威信をかけたプロジェクトの産物である火星の映像が流されるようになった。57番にとってはひどくつまらないものだったのでがっかりしてしまった。
宇宙開発に多額の資金を投入していたアヴァリス国は国産の火星探査機パウサニアスを打ち上げることに成功していた。パウサニアスは火星に無事着陸し、赤く煤けた荒野の映像を国内へと送っていた。アメリカも中国も今では宇宙開発計画を凍結している。日本も尽力しているらしいが、未だ火星探査には成功していない。
当時も今も火星に着陸したのはかつて役割を終えたアメリカと中国の探査機の他にはパウサニアスだけだったので、火星の鮮明な映像は大変貴重であった。イオエルド将軍のクーデター以降、その火星の映像配信はささやかな外貨獲得手段の一つとなった。
イオエルド将軍のクーデターに反発する日本を含めた国々はその映像を買わなかった。それでもアヴァリス国は国交を結んでいる国々に健気に火星の映像を配信していた。
今日もパウサニアスは元気に火星を走り回っている。
57番は17歳になった年のある日教育係に呼び出された。
今まで立ち入りを許可されていなかった上の階にある、大きなドアをした部屋に入ると、勲章を多く身に着けた年配の高官と思しき軍人が、書類が多く置かれた机を挟んで立派な椅子に鎮座していた。
「1年後、お前は日本に行ってイオエルド将軍のために一働きしてもらうこととなった」
なぜ自分が選ばれたのか57番はよくわからなかった。
「それでお前の名前が決まった。マエリベリー・ハーンだ。何、安心しろ。一年後にはお前が本物のマエリベリー・ハーンだからだ」
ああ、そういうことか、私は会ったこともない『マエリベリー・ハーン』さんと姿かたちがよく似ていたから残されたのかと57番は呑気に受け止めた。日本のことはよく知らなかった。ただ、父イオエルド将軍の邪魔をする悪魔の国であるということだけは知っていた。
翌日から日本語と英語と数学の個人指導が始まった。
マエリベリーに課せられた指導は一日16時間にも及んだ。入浴と就寝時以外は基本的に勉強に費やした。当たり前なのだが指導教官は日本語が堪能だった。そして英語や数学についても同様である。女性であるし、なにより今までの教育係よりも表情があった。
指導教官は日本への滞在経験もあるエリートで、日本のことをよく話してくれた。
曰く、日本が我が国に対して悪逆非道の限りを尽くす邪悪な国家なのは事実であるが、個々の日本人は我々に対しても親切に接してくれたとよく述べていた。アヴァリス国では未だにテレビが現役で、日本人やアメリカ人や中国人が残虐な悪行を行いイオエルド将軍率いる民衆によって打ち倒されるという筋書きのアニメやドラマがしばしば流されていた。だからそういう話を聞くのはマエリベリーにとっては初めてのことであった。
特にマエリベリーにとって興味をかきたてられたのは、世界遺産にも登録された富士山の、山頂付近に広がるお花畑であった。曰く、そのお花畑はどの国のお花畑よりも色鮮やかな花々が咲き乱れているらしい。たとえ我が国であっても悔しいが勝つことはできないだろうな、と指導教官は笑いながら言ったものだった。
1年後、努力の甲斐もあってマエリベリーの日本語と英語は母語話者とほぼ遜色のないレベルにまで達していた。言葉の細かいニュアンスからイントネーションまで。読み書きも一級品である。おそらくマエリベリーが中国人や韓国人であったなら日本人と間違えられるだろうし、アメリカ人については言うまでもない。数学についてもアメリカの名門大学におけるアジア人留学生と同レベル程度に熟達した。
指導教官も、流石私の教え子だ、日本に行ってもイオエルド将軍のために頑張ってきてほしい、と涙ながらに褒めてくれた。褒められることにマエリベリーは慣れていなかったのでどことなく恥ずかしい気持ちになった。
マエリベリーが児童保護施設の外に出るのは久しぶりであった。待っていた公用車の後部座席に座り中央空港まで走る。そこで軍人から手渡されたのは中東にあるという、聞いたこともない国へ行くためのパスポートだった。自分の顔写真が貼ってあったが、名前はマエリベリー・ハーンではなかった。
「我が国は日本、アメリカのいずれとも敵対関係にあるゆえ、第三国経由でアメリカへと渡る。その後アメリカから日本へ渡るのだ」
飛行機に乗るのは生まれて初めてだった。思ったより座席が狭くて固いのだな、とマエリベリーは思った。無事発着した飛行機は半日後中東の国に着陸し、そこでマエリベリーは同志を名乗る男からマエリベリー・ハーン名義のパスポートとIDカードを渡された。
中東の国に滞在したのはアメリカ行きの飛行機が発つまでの2日間程度であったが、至るところで花が売られていたのがマエリベリーの印象に残った。日本のボランティアがやってきて荒野を花畑に変えた、と店の男性は語っていた。
「おかげで観光客相手にこういう商売ができるようになってね」
拙い英語で男性はそう告げた。
中東の国を離れるのは名残惜しかったが、いよいよアメリカへと渡る日が来た。マエリベリーは渡されたパスポートを手にして、再び飛行機に乗り込んだ。一日ほどかけ数カ国を経由しアメリカまでたどり着く。空港からバスに乗り、至るところにこれまた花が咲いている、ニューヨークと呼ばれる大都市へとマエリベリーは赴いた。
ニューヨークの指定されたアパートにある一室に掲げられた表札にはアルファベットで「マエリベリー・ハーン」と書いてあった。ここに会ったこともない「マエリベリー・ハーン」さんが住んでいたのだろうか。私がここに来ることでその「マエリベリー・ハーン」さんはどうなったのだろうか。気になったが気にしても仕方のないことだった。気にする必要のないことについては考える必要などない、無闇矢鱈に考えることは時に命取りとなる、保護施設にいた頃に繰り返し言われたことだ。
部屋の中は殺風景で、ベッドと机と椅子が置いてあるだけだった。およそ人が住んでいたような気配はなかった。机の上にはコロンビア大学のマエリベリー・ハーン名義の学生証が置いてあった。
指示によるとマエリベリーはしばらく大学に正規学生として通った後、毎年夏頃に募集がかかる長期留学プログラムにおいて日本の京都大学へと留学することとなっていた。
留学プログラムの募集まではおよそ4ヶ月程度あった。マエリベリーの専攻は相対性精神学で、コロンビア大学は特にこの分野において先進的な位置づけにあった。
大学では大量の課題が課せられたが、祖国にいたころの勉強に比べれば楽であった。自然マエリベリーは成績も上位となり、留学プログラムへの申請もスムーズに進むこととなった。日本は留学先として人気が高かったので成績が良くないと抽選になる恐れがあったが、マエリベリーにとってそれは杞憂であった。
大学では友人は作らなかった。勉強の妨げになると思ったし、その場合祖国からの指令を遂行できない恐れが出てくる。そうなったらどうなるかは、やはり考えないことにした。
そして無事日本への留学は決まった。
こうしてマエリベリーはジョン・F・ケネディ国際空港から日本の成田空港行きの飛行機に搭乗することになった。
アメリカへ行くときよりも心なしかワクワクしている、マエリベリーはそう感じた。
宇佐見蓮子がヒロシゲ36号に乗ったとき、隣の席にいたのはマエリベリー・ハーンであった。無事京都大学に合格した蓮子は夏季休暇の帰省を終えて京都へと戻る最中だった。マエリベリーの方も成田空港から卯東京駅に移動しヒロシゲ36号に乗り込んだのである。
二人がけの席でたまたま二人は隣同士となった。先に話しかけたのは蓮子の方であった。
「外国の方みたいですけど、観光ですか?」
「いえ、私はアメリカからの留学生なんです。これから京都大学へと向かうつもりで」
「奇遇ですね。私も京都大の学生なんです」
随分と流暢な日本語だな、というのが蓮子のマエリベリー・ハーンに抱いた第一印象だった。金髪で紫色の服を着ている彼女は垢抜けていない自分よりもお洒落であるように思えた。
マエリベリーの方は、目の前の日本人はどことなく彼女に似ているな、と思った。
「元の大学はどちらで?」
「コロンビア大学です。あ、申し遅れました、私、マエリベリー・ハーンと言います。アメリカ生まれです」
宇佐見蓮子です、と返す。コロンビア大学か。随分と有名な大学から来られたんだな、と思った。
「私は超統一物理学を専攻しているんですけど、マエリベリーさんの専攻はどちらですか?」
「相対性精神学です。超統一物理学専攻だなんて随分と賢いんですね」
蓮子はありがとうございます、と述べた。京都大学は比較的新しい学問分野である精神学について初期の頃から研究を進めていたこともあり、国内外でも有数の業績を誇っていた。コロンビア大学もやはりまた精神学についての先進的な研究を進めていると蓮子は聞いたことがあったので、なるほど、京都大学に留学に来るのも頷けると思った。
「もしよろしければ連絡先を交換しませんか? これも何かの縁かもしれません」
いいですよ、と蓮子は答えた。マエリベリーにとってはそれは一つの手段であった。一人でばかりいたら怪しまれる。普通の学生として友人を作れば、木を隠すなら森の中、と日本の諺にもあるように怪しまれるリスクは軽減される。それにあまり人付き合いをしたことのない自分にとって、こういう学友をつくるのは良いことかもしれないな、と思ったのだ。
マエリベリーはカレイドスクリーンに映る富士山に目をやった。
指導教官が言っていた、山頂に広がるお花畑を期待したが残念なことにそれは描かれていなかった。
「そろそろ着きますね、お話に付き合っていただきありがとうございました」
こちらこそ、とマエリベリーは言った。一応連絡先は交換したものの、また彼女と会うことはあるのだろうか? とお互いがお互いに思っての別れだった。
二人が再会したのはそれから半月ほど後の、京都大学構内にある中央食堂であった。
先に気づいたのは宇佐見蓮子の方である。マエリベリーはあのときと同じ服装をしており、やはり髪は金髪だったので日本人や中国人や韓国人が多いこの大学では自然目立つこととなった。
「こんにちは、マエリベリーさん」
「宇佐見蓮子さんでしたね。ご無沙汰しておりました」
マエリベリーの向かい側に蓮子は座る。
「マエリベリーさんさ、ちょっと付き合ってくれない?」
突然そんなことを言われたのでマエリベリーは少し驚いてしまった。もとより社交的な性格ではなかったし、児童保護施設にいた頃だって指導教官と43番以外とはほとんど会話をしなかった。コロンビア大学にいた頃もそれは変わらなかった。ヒロシゲ36号で連絡先を交換したは良いものの、結局それを活用するには至らなかったのである。
「えっと、どうすればよいのでしょうか?」
「京都タワー、行かない?」
京都タワー、という場所は知らなかった。祖国にいた頃、勉強のために読んでいた日本の小説にはしばしば東京タワーは出てきたが、京都タワーという場所は一度も出てこなかった。
「どこにあるのですか? その京都タワーという場所は」
「下京区。昔の京都駅の真ん前に立ってるんだけどね。京都が首都になってからも、あれが市内で一番高い建造物なんだ」
なるほど、あの中途半端な高さの建物が京都タワーというのか。酉京都駅は旧京都駅からは離れた場所にある。京都大学も左京区にあり旧京都駅からは、やはりやや離れた場所にある。だから大学近くの国際学生宿舎に寄宿しているマエリベリーは京都タワーを目にする機会はあまりなかった。
「わかりました、いいですよ」
「ありがと、私一人で行くのも寂しくてね」
そう言って蓮子はマエリベリーににこりと笑いかけた。慌ててマエリベリーの方も笑みを返した。そういう顔をするのは随分と久しぶりだとマエリベリーは思った。
京都タワーはやはり中途半端な高さの建造物だ、とマエリベリーは実物を目の当たりにして感じた。祖国の首都では数多くの高層建造物が建っていたこともあり、高い建物を見ることはマエリベリーにとっては珍しいことではなかった。展望台に登ると多くの外国人観光客と思しき人たちが京都市の眺めを楽しんでいた。
「昔はこの高さの建物を建てるのにもひと悶着あってね、東寺の塔よりも高い建物を建てないことを不文律としていたみたい。京都が首都になってからもその不文律は有効らしく、この京都タワーは今でも数少ない例外なの。昔はただの観光用タワーだったんだけど、VR装置とかの発達のおかげで首都移転の際に電波塔としても使われるようになったの」
蓮子はマエリベリーにそう語った。日本という国は合理的であり非合理的なのだな、とマエリベリーは思った。そして目の前にいるこの日本人の少女も同様だ。打算抜きで私と付き合ってくれているのだろうか? 祖国にいた頃、人間関係というものは基本的に打算有りきのものであった。指導教官もイオエルド将軍の命令でなければ自分に色々なことを教えてくれたりはしなかったはずだ。
マエリベリーは宇佐見蓮子という少女のことがたちまちわからなくなってしまった。
「ね、マエリベリーさん」
「どうしましたか、蓮子さん」
「メリー、って呼んで良い? あ、嫌なら良いんだけど、マエリベリーって呼びづらくってさ」
メリー、か。自分の名前をどう読めばメリーになるのかはよくわからなかったが、その呼び名は嫌いではなかった。もとより私の名前は57番なのだ。マエリベリー・ハーンという名前は会ったこともない誰かさんから譲り受けたものに過ぎない。でもどこかうれしかった。これで私の名前も何個目だろうか、と考えると少しおかしくなり思わず笑ってしまった。
「どうしたの? ごめんなさい、そんなに変なこと言っちゃった?」
「いや、いいの。ありがとう、うん、メリーって呼んでもらってもいいよ、蓮子さん」
「蓮子さん、なんてよそよそしいじゃない。蓮子、でいいから。よろしくね、メリー」
わかった、こちらこそよろしく、蓮子、とマエリベリーも返す。これも一つの打算であるようにマエリベリーには思われた。もっともその打算はギブアンドテイクというよりはギブアンドギブのようなものであるとマエリベリーは感じるのだった。やっぱり蓮子のことはよくわからないな、そう思わざるを得なかった。
「あ、メリー、あれ見て」
蓮子が指差した先には古びたテレビジョン装置が置いてあった。数十年前からそこに置いてあるであろうMade in Japan の印の入ったその装置はその刻印にふさわしく未だにしぶとく生きながらえていた。一回500円で30分間環境映像を見ることができるらしい。
「ちょっと観てみない? テレビなんて懐かしいじゃない」
マエリベリーは頷いた。蓮子が500円硬貨を投入してスイッチを入れるとアメリカの探査機マーズ2025が撮影したらしい火星の映像が大きな画面に映し出された。
「うん、やっぱり懐かしいな。私、テレビで火星の映像を見るのが好きだったの」
「そうなの?」
「なかなかやらなかったからさ」
「私の国では昔も今もよくテレビで放映されてるんだけどね」
「へー、メリーは他に何が好きだったの?」
「花畑かな。小さい頃からなかなか花なんて見ることができなくて、見るのが楽しみだった」
「そうなんだ、東京はいっぱい変な花が咲いているから今度見せてあげたいわね」
マエリベリーは実際の東京を見たことがなかった。成田空港と卯東京駅は直通の地下鉄で結ばれているため、成田空港から一度も地上に出ることなく京都に来ることとなったのだ。
「蓮子の実家は東京にあるの?」
「うん、東京の杉並区。阿佐ヶ谷って知ってる?」
祖国にいた頃、日本の地理文化風俗諸々の勉強のために読んだ小説で、東京にある高円寺という街の商店街を舞台にしたものがあったことを思い出した。確か高円寺の近くにある街ではないだろうか。
「今は結構ハイテクな街になっちゃったけど、昔は結構味のある街だったらしいわ」
マエリベリーには味のある、という言葉の意味がよくわからなかった。日本の乾物のように、噛めば噛むほど味が出てくる、というぐらいの意味であろうか? しかし噛めば噛むほど味が出てくる街、というのがピンとこない。祖国の街はかつてその多くが反政府ゲリラとの戦いで破壊されてしまったと聞いていた。イオエルド将軍の命令により再建された街は随分と機能的になり、かつての面影はほとんど残さなかったらしい。
いずれにせよ、私にはまだ知らないことが多々あるのだな、とマエリベリーはやはり呑気に思うのだった。
マエリベリーの日本での主な任務は学術スパイであった。かつて情報科学や分子生物学がそうであったように、新しい学問分野である精神学は発展の可能性を大いに残しているものであった。特に日本やアメリカ、中国は早くからその発展性に目をつけており、京都大学やコロンビア大学、清華大学を始めとする各国の主要な大学や研究機関の精神学部門には多くの研究資金が投入されていた。精神学は二十一世紀前半における純粋科学の行き詰まりから理論物理学者が精神分析学分野に数理的手法を持ち込んだことによって始まったもので、科学に新たな一面をもたらすこととなった。五感を支配する家庭用ヴァーチャルリアリティ体感装置などはその顕著な応用例である。
アヴァリス国はかねてから科学技術分野への重点的な資金投入を行っていた。しかし高度に発達した同国の官僚機構は宇宙開発を始めとした旧来の科学技術への投資に固執し、精神学という新たな分野のもつ可能性を見過ごしてしまった。結果アヴァリス国はこの方面で大いに立ち遅れることとなった。その禍根はイオエルド将軍が政権を奪取した現在まで続いており、精神学分野の発展が同国の学術面での急務とされていた。
2年次の終わりにマエリベリーは広域精神科学系統への登録を行い、山根研究室に配属されることとなった。山根博士は相対性精神学の草分け的存在であり、国際的にも有名な人物であった。もしもノーベル賞やウルフ賞に精神学部門が新設されたのならば受賞の最有力候補となるであろうと言われていた。
マエリベリーは研究室においても優秀だったので、教授や周りの学生からの信頼も厚かった。しかしマエリベリーは研究室のコンピュータに忍び込み、研究データを複製するということを行っていた。そして市内にある寺社仏閣でアヴァリス国の工作員にそのデータの入ったデバイスを渡していた。誰もマエリベリーを疑う者はいなかった。
あるとき山根教授がマエリベリーにこんなことを話した。
「相対性精神学はある意味で非常に危険な学問です。なぜだかわかりますか? マエリベリーさん」
「それは様々な応用可能性があるからですか? かつて量子力学が核兵器の開発に繋がったように」
「それも理由の一つです。しかし最も大きな理由として、精神学、特に相対性精神学においては、時に自らの精神そのものと対峙しなければならないということが挙げられます。精神科医やカウンセラーがクランケに対して逆転移を起こす、すなわち無意識のうちに自分の感情を向けてしまうことが極めて危険であるように、精神学に携わる者は皆、自らの精神がその理論によって知らずしらずのうちにかき乱されないように気をつけなければならないのです。常々申し上げていることですが。自己を強く持つ、というのは大切なことです。そうでなければ、さながら未熟な治療者が患者に対して恋愛感情や憎しみを抱くように、自分が自分という存在に対して無意識のうちに攻撃を始めるでしょう。そしてかつてのフロイトの夢判断ではないですが、その攻撃はしばしば抽象的かつ複雑な形をとるものなのです」
その頃、その言葉に従うようにマエリベリーは悪い夢に悩まされるようになった。
自分にそっくりな人間が自分に成り代わり、蓮子と一緒になるという夢をしばしば見た。
1年の終わりに、マエリベリーは蓮子が作った秘封倶楽部という怪しげなオカルトサークルに半ば無理矢理加入させられていた。主に蓮子主導のもと、市内外の様々なところへと繰り出していった。
「ねえ、メリー、京都には色々なミステリースポットがあるんだけど……」
祖国にいたころもアメリカにいたころもほとんど誰かと外に出たことがなかったマエリベリーにとってそれは極めて新鮮な体験であった。マエリベリーはそんな自分ではない誰かが、自分に成り代わるという夢が現実になることをひどく恐れた。そんなことは起こるはずがないことは分かっている。だが、胸騒ぎにも似た不安感はどうしても拭うことができなかった。
ある日、マエリベリーは別の夢を見た。
砂塵が時折吹き荒れる、広漠とした、赤い大地に自分が立っている。これは火星だろうか? 遠くには走り回る探査機が見える。あれは我が国が打ち上げたパウサニアスではないだろうか。
不思議に恐怖感はなかった。夢であると分かっているにも関わらず、妙な現実感がマエリベリーにはあった。人間が宇宙服もなしで火星に立つことなどできるはずはない。だがマエリベリーは自分が確かにそこにいるのだという奇妙な実感を抱かざるを得なかった。
祖国にいた頃にはテレビでしばしば火星の鮮明な映像を見せられた。マエリベリーはその映像が好きではなかった。だから火星に立っていてもいつものように、蓮子に言ったらどんな顔するかな、なんてことをこれまた呑気に考えるのだった。
そしてマエリベリーはいつものように京都市左京区にある国際学生宿舎の一室で目を覚ます。
翌日。大学で蓮子が興奮した面持ちをしてマエリベリーに話しかけてきた。
「ねえ、知ってる? パウサニアスが火星に人の足跡らしきものを見つけたんだって!」
そういえば蓮子は火星の映像を見るのが好きだったな。こういう能力はむしろ蓮子の方にふさわしいのではないか。蓮子だったら火星だろうが金星だろうが喜んで訪れるだろう。マエリベリーは自分が何か別のものになっていくような感覚に陥った。もとより私の名前は57番である。そこから別の人物になった人間だ。そんな自分はそうなるのがむしろ相応しい気さえしてしまう。だがそうなったら蓮子はどう思うのだろうか? 私が私でなくなっても、私がたとえ罪人であったとしても、今まで通り付き合ってくれるのだろうか? マエリベリーはそこで十数年前のことをふと思い出すこととなった。
43番はブロンドの髪をした快活な女の子だった。年はおそらく自分とほとんど変わりがなかったはずだ。43番と仲良くなったきっかけはよく覚えていない。だがおそらく、それはヒロシゲ36号での出会いと同じく、偶然隣の席になったとかそういう程度であったと思う。
43番と57番はよく話した。43番は明るく何事にも積極的で、57番はそんな彼女のことが大好きだった。
当時は内戦も終結したばかりだというのに、よりによってその年ひどい旱魃がアヴァリス国を襲うこととなった。食料は日常的に不足していたが、クーデターに反発する各国は化学原料のアヴァリス国への輸出を止めていたので合成食料の製造すら満足に行うことができなかった。当然のことながら児童保護施設に回される食料はひどく少なくなった。毎日の食事は小さなパン一個と薄いスープという有様だった。そのうち一日3食が一日2食になってしまった。子供たちの間ではそれが一日一食になるのではないかという恐れが蔓延した。
人は備えるべきものが備わらないと精神が荒廃する。それは年端も行かぬ子供であればなおさらである。精神が荒廃すれば理性ではなく暴力が先走ることとなる。こうして力の強かったり体が大きかったりする子供が弱そうな子供の食事を奪うということが度々起こった。57番はそんな子供たちの格好の標的であった。
そんな折、43番は黙って57番に食事を分けてやった。おかげで57番は生き延びることができた。43番の食事の量が多いことには57番は見て見ぬ振りをした。
後に教育係によって食事の強奪犯の摘発が行われた。その中には43番が含まれていた。43番はやはり57番に何も告げることなくある日突然いなくなってしまった。
マエリベリーはお互いの内どちらかが突然相手の前から消えてしまうのではないか、という漠然とした恐れを抱いていた。そしてそういう夢を見ることをひどく恐れていた。そのうちマエリベリーは自分がひどく罪深い人間なのではないかという感覚を抱くようになった。研究室の仲間を裏切りデータを盗んでいるという行為に対してであるが、それ以上に、自分は本来的に蜃気楼のような人間なのに「マエリベリー・ハーン」として宇佐見蓮子と付き合っているという事実に対して罪悪感を抱いていた。
だが蓮子が自分の本当の姿を知ったらどう思うだろうか? 最初から今に至るまで私は彼女のことを騙し続けてきたのだ。蓮子が私を見限るのならばそれでも構わない。本当は蓮子に何もかもを打ち明けたかった。そうやって蓮子を解放したかった。だがそんなことをしたら蓮子にも危害が及ぶこととなる。それだけはどうしても避けたかった。
どうしたらいいのだろうか? こんなことなら蓮子と会わなければよかった。そうすればお互いに傷つくことなんてこれからもないだろうに。だけれども、何も知らない蓮子とカフェテラスで話している他愛もない時間は自分にとってはやはりかけがえのないものであることをマエリベリーは認めざるを得ないのであった。
夜。学生宿舎の一室でマエリベリーは机に向かい、ペンを執った。
「たまに思うのだ。自分のIDカードに書かれた「マエリベリー・ハーン」という人の元となった「マエリベリー・ハーン」さんには友達や親族がいたのだろうか? この間一人で火星に行ったように、この間蓮子と人工衛星の中を覗いたように、近頃私は夢というものに対して随分とウェットな見方をするようになった。そういう夢を見るようになったのは日本に来てからだ。そもそも昔から夢を見るということがよくわからなかった。夢が現実になっている? では私の「夢」とは何だったのだろうか? もしかしたらそれは日本に来て富士山の山頂に広がる花畑を見ることだったのかもしれない。でもそれはおそらく「マエリベリー・ハーン」さんの夢ではない。私は「マエリベリー・ハーン」であり「マエリベリー・ハーン」ではない。私の本当の名前は57番だ。父イオエルド将軍の見る夢こそ私の見る夢なのではないだろうか? 元の「マエリベリー・ハーン」さんに友達や親族がいたのならば、人工衛星のときのように、自分がその方たちと共にいるかけがえのない夢を見るはずではないだろうか? 私は彼女の人生のみならず、彼女の「夢」すら奪ってしまったのかもしれない。もしかしたらそれが私の一番大きな罪なのかもしれない。
蓮子からは私がのんびりしているとよく言われる。だけれども実際の「マエリベリー・ハーン」さんのことを私は何一つ知らない。もしかしたら私の行動により「マエリベリー・ハーン」さんは塗りつぶされてしまうのかもしれない。いつか祖国へと戻る日が来る。この任務を遂げたとき、私は祖国ではおそらく一生安泰に暮らせるだろう。そのときまた新たな名前を与えられるのだろうか? そうなったら、宇佐見蓮子という人間の中で「マエリベリー・ハーン」は一体どうなるのだろうか?」
そんなことをノートに書き散らしたが、すぐにぐちゃぐちゃとペンで消し、ノート片をちぎってゴミ箱に捨てた。
その日の夢は随分と奇妙なものだった。
自分が日本のどこかの奥田舎のようなところで、人の姿をした狐やら猫やらを引き連れている夢である。どこか懐かしい空気だった。もしかしたら私はここに一度来たことがあるのかもしれない、なんてことを思わず思ってしまった。
「菫子ー、あんたまた来たの?」
その声の方を向くと、そこにはいわゆる巫女服を着た少女とメガネを掛けた少女がいた。
巫女服の少女が声をかける。
「ああ、紫じゃない。どうしたの? こんなところで」
どうやらここでの私の名前は「ユカリ」というらしい。
「紫さんさ、私もそろそろ誰か連れてきたいんだけど、Twitterに投稿しても全然反応が来ないんだよね」
Twitterという単語を実際に発言している人間を彼女は初めて見た。その言葉は既に歴史教科書の用語と化していたからだ。
「え、えっと……すいません、あなたはどなたでしたっけ?」
「どうしたのよ、紫さん、いつものあの余裕綽々な態度はどこに行ったの? ……まあいいわ。私の名前は……」
視界がぼやける。頭が痛い。周りの人たちが私を心配そうに見つめる。
気がついたらベッドの上だった。白い天井、カーテンの隙間から差し込む朝日。
ああ良かった。私は帰ってこれた。
私はたった一人で夢の世界へと旅立つこと、いや、そこから一人だけ帰ってこれないことがきっと怖いのだ。
あそこで彼女が発した言葉を私は覚えていない。しかしおそらく、そこで目が覚めてくれたのは幸運だったように思えた。あれ以上私が「ユカリ」でいたのならば、そしてあの少女の言葉を最後まで聞いたのならば、私の夢は現実と化してしまうように思われた。現実とするべきなのはイオエルド将軍が抱く壮大な夢の方である。
私にはまた新たな名前が付与された。「ユカリ」という名前である。では私が「ユカリ」となったなら、蓮子はどう反応するのだろうか? 一緒にいてくれるのだろうか? そんなことがぐるぐると彼女の頭の中をかき乱していた。そのうち一人で眠るのが怖くなるのかもしれない。
だから私は――
4年の夏。
「メリーさ、夏休み、一緒に東京に行ってみない?」
蓮子があるときマエリベリーにそう尋ねた。
「東京?」
「うん、私の実家」
特に断る理由もない。同志には連絡をつけて東京での受け渡しをしてもらうことにする。たまには場所を変えるのも悪くないだろう。
本当は蓮子との旅行が楽しみだったのだが。
その日は快晴だった。酉京都駅からヒロシゲ36号に乗り、卯東京駅から地下鉄を乗り継いで阿佐ヶ谷までたどり着く。
阿佐ヶ谷は変わった街だった。道路には赤い花が大量に咲いており、どこかレトロな雰囲気もあるのだが、ガラス張りの大きなビルも立ち並んでいる。昔はこうじゃなかったみたいなんだけどね、という蓮子の紹介とともに、二人はバスに乗り込んだ。道中のバスでは多くの花を踏み潰し、道路の状態も相まってよくバスが揺れたが、花は丈夫で踏まれたぐらいでは平気らしかった。
「この花も緑化計画の産物みたい。火力発電の燃料や雑草の駆逐のために、アメリカに日本や中国、国連とかが主導してやってたんだけど、結局良いのやら悪いのやら。京都は流石に景観が壊れるって言われて対象外になったんだけど」
蓮子の実家は阿佐ヶ谷駅の南口からバスで10分ほど行ったところにあった。
それほど高くもなくそれほど安くもないであろうマンションの2階だった。
蓮子がドアを開け、ただいまーと言うと、母親が出てきて、おかえりなさい、と言った。蓮子によく似ているな、とマエリベリーは思った。
「そちらの外人さんはお友達?」
「うん、サークル仲間」
「はじめまして、マエリベリー・ハーンといいます」
「ゆっくりしていってちょうだいね」
蓮子の部屋には初めて入ったが、学生宿舎での自分の殺風景な部屋と比べると随分とお洒落であるように思われた。
「こうやって自分の部屋に人を招くのも久々なのよね」
「そうなの?」
「うん、あんまり京大に進学する友人がいなくてさ」
「まあ、みんな東大とか東工大に行きそうだものね」
「蓮子はなんで京大にしたの?」
「うーん、だって京都って面白そうじゃない。とりあえずはそんなところかな」
マエリベリーにとってそれは意外な答えだった。自分には選択肢などなかった。日本に来るということも、相対性精神学を学ぶということも、全て生きるために他人から決められたことだった。それゆえ、そんなふうに軽く決めることのできる自由にマエリベリーは少し憧れてしまった。そしてその自由を自在に謳歌する宇佐見蓮子という人間のことをますます知りたくなった。
「やっぱりあなたって変わってる」
「そう? でもあんまりメリーに言われたくはないかなあ」
そう言って蓮子はくすりと笑った。
蓮子は翌日マエリベリーをスカイツリーに連れて行くことにした。
電車とバスを乗り継いでたどり着いたスカイツリーは4年前、母親と見たそれと姿を同じくしていた。ありがたいことにやはり快晴の空模様だったので、スカイツリーの天望回廊からは富士山をくっきりと見ることができた。
「メリー、それ覗いてごらん」
蓮子にそう言われマエリベリーはパノラマ装置を覗き込んだ。
見えたのは富士山の山頂付近を染め上げる、鮮やかな色をしたお花畑だった。息を呑む。祖国で指導教官に言われてからずっと見てみたいと思っていた。それを遠くからとは言え、マエリベリーはようやく見ることができた。
「富士山の花もやっぱり緑化計画の産物で、耐凍性だの繁殖性なんだのを獲得したんだけど、おかげで青地に白の富士山はもうどこかに消えてしまったわね。復興会とか観光協会は何も言わないのかな」
憧れのものは実際に見ると大したことはないとよく言うが、マエリベリーにとってはそんなことは決してなかった。荒野の広がるアヴァリス国では花は貴重だったことを思い出した。
「蓮子」
「ん? どうしたの、メリー」
「ありがとう」
「私、なにかしたのかしら?」
蓮子は首をかしげた。
その後天望デッキに下りた二人は、東京の景色が一番見えるという、ミシュランガイドで一つ星を獲得したレストランで食事をとることとなった。
出てきたのは天然素材を使ったボンゴレ・ビアンコであったが、マエリベリーは蓮子に悪いと思いながらも、その味がよくわからなかった。目の前の友人は美味しそうに食べているので、蓮子はこういうものを食べ慣れているのだな、と思った。
食事を終え、食後の紅茶を飲みながら二人は談笑した。
「楽しかった。ありがとう、蓮子」
「こちらこそ楽しかったわ」
そこで蓮子はカップを置いた。目つきが真剣なものに変わったことにメリーは気づいた。
「ねえ、メリー。怒らないで聞いてくれる?」
「どうしたの? 蓮子。よほど失礼なことを言いたいの?」
「……あなたは本当にアメリカの生まれなの?」
「えっ、当たり前じゃない。どうしてわざわざそんなことを聞くの?」
蓮子はそのまま続ける。
「変だな、と思ったのは1年の頃の京都タワーだった。あなた、小さい頃から花をなかなか見ることができない、って言ってたけど、アメリカは率先して自分の国の緑化計画を進めている。それに東京を見たでしょう? ニューヨークにもワシントンにも、テキサスにすらたくさんの花が咲いている。だからそういう発言が出ることがどこか不自然なの」
「だって私はあまり部屋から出たことがなくて……」
「じゃあ、他の何かで見てたってこと?」
「そうよ。部屋にはテレビがあったから……それでよく花畑をテレビで観ていたのよ」
「……テレビ放送が終了したのは日本では15年ほど前。アメリカではそれより更に10年以上前。ありえないのよ。あなたが生まれたときにテレビ放送がやってるなんて。それで、どうやって映りもしないテレビで花畑を観たの?」
「…………」
「そしてあなた、今でも火星の映像がテレビで流れてる、って言ってたけど、今火星の映像を配信しているのはアヴァリス国だけ。軍事独裁政権が支配するアヴァリス国はアメリカや日本、中国などの国と敵対関係にあるからその映像は流れてこない。あなたは本当はどこの国の人なの? ……ごめんなさい、メリー。もし私の言っていることが間違っているんだったらそう言って。これはただの推論に過ぎない。全ては状況証拠。でも、私はあなたのことが知りたい。あなたに何か言えない秘め事があるのだったら、少しでいいから私に分担させてほしい。最近あなたの様子が変な気がした。私達だってもうすぐ卒業。だからその前にどうしてもあなたの本当のことを知りたかった。私のことは心配しないで。こう見えて結構タフなんだから」
そう告げる蓮子の眼差しは、自分が会ってきたどの人間が自分に向けてきたものよりも真剣なものだとマエリベリーは感じた。最初はおそらく女性が持ち合わせている勘のようなものに近かったのだろう。だが蓮子はこの4年間、私に気づかれることなく注意深く自分を観察し続けていたはずだ。
辛かった。蓮子にこんなふうに詰められることが。しかしそれよりもずっと苦しかったのは、蓮子は本当はこんなことをしたくないだろうということに対してだった。
もう止めにしよう。
こうやって偽り続けることで間違いなく蓮子を近いうちに傷つけることになるだろうから。
マエリベリーは取り出したノートにおもむろにペンを走らせ、切れ端を蓮子に渡した。
(ごめんなさい、盗聴されている可能性があるから筆談させて)
それを見た蓮子は一瞬驚いたが、すぐに真剣な顔に戻り、頷いた。
「なーんてね、まったく、メリーがアメリカ人じゃなかったらどこの国の人間なのよ。そりゃあなたは東北人とかインド人みたいにのんびりしてるけどさ」
蓮子はそんなことを口にしながらノート片に文字を書いていく。
(わかった。ありがとう、メリー)
(私はスパイ。アヴァリス国からアメリカを経て日本に来た)
(それではあなたの名前はマエリベリー・ハーンではないの?)
(私の名前は57番。きっと生まれたときには名前はあったんだろうけど、もう忘れてしまった)
それを見た蓮子は、メリーが今まで見たことがないぐらいに悲しそうな顔をした。
それは私がずっと蓮子を騙し続けていたからだとマエリベリーは思った。
(ごめんなさい、あなたのことをずっと騙してきて)
(なんで謝るの? だいたい57番なんて数字よ。名前ではない)
(本物のマエリベリー・ハーンさんの替え玉として私が送り込まれた。私は彼女に悪いことをしてしまった)
(あなただって逆らうことはできなかったはず)
(でも私はマエリベリー・ハーンではないことには間違いない)
(じゃあ、これからずっとメリーって呼んであげる)
(いいの? これからもそう呼んでもらって)
(もちろん)
店から出てきた二人から10mほど離れた場所にTシャツ姿の男がいた。一見すると日本人である。こちらに近づいてくる。
それを見た蓮子は急いでマエリベリーの手を引き、すぐさま近くのエレベーターに飛び乗り、閉ボタンを押した。
Tシャツ姿の男も慌ててエレベーターに乗りこもうとしたが、扉の隙間をこじ開けて入ろうとしたところを蓮子に強く蹴り飛ばされた。そして扉は閉まり、高速エレベーターは下降していく。
「危なかった、やっぱり盗聴でもされてたのかしら? 大丈夫? 怖かったね、メリー」
流石にこんなところで銃器などを使えるとは思わなかった。だが外に出ればある程度乱暴な手段を使われる可能性もある。仲間も何人いるかわからない。
エレベーターが駐車場につながる4階にたどり着くまで約50秒。幸いなことに、他のエレベーターは天望デッキにたどり着いていなかった。だから大体2分ぐらいは余裕があると蓮子は思い、スマートフォンに何かを入力した。
「蓮子、早く私をあいつらに引き渡して! あなたまで殺されちゃう!」
「何言ってんのよ、秘封倶楽部はまだ解散しないわよ」
「……あなたって本当に馬鹿なのね」
「今、eVTOL(電動垂直離陸着陸機)のタクシー呼んだから。それに乗って逃げましょう」
「その後はどうするの? やっぱり警察?」
「警察じゃ駄目。とりあえず赤坂のアメリカ領事館に逃げ込むわ」
4階に着く。下りてくるまであと1分か。
そのまま立体駐車場へと入り、待っていたタクシーの運転手にアメリカ領事館へお願いします、と告げる。
「運転手さん、チップはずむから飛ばしてくれない?」
蓮子はそう言って財布から一万円札を5枚ほど取り出し、運転手に手渡した。
運転手は了解しました、と告げて、離陸する。
5分ほどして後ろから数台のeVTOLが追いかけてくるのが見えた。
「運転手さん、後ろの連中には追いつかれないようにお願い」
「了解です。なに、ご安心を。何のために高いお金を出してリムジンクラスを呼んだ上、チップまで奮発されたと思ってるんですか」
そう言って運転手はスピードを上げる。
「何分ぐらいで着きますか?」
マエリベリーが不安そうに訪ねる。
「そうですね、だいたい15分ぐらい見ておけばよろしいかと」
速度を早めたタクシーはたちまち後ろのeVTOLを引き離していく。
そして10分程で無事赤坂にある在東京アメリカ領事館までたどり着いた。
急いで下車した二人は敷地内に駆け込んだ。もちろん警備員に捕まったものの、マエリベリーは自分は亡命希望者だと告げ、連行された先で事情を話すこととなった。マエリベリーが名目上アメリカ国籍を持っているので話はややこしい部分が多々あったが、領事館員の尽力もあり概ね理解されることとなった。特にマエリベリーが工作員に渡す予定だった機密データを持っていたことは話を進める上で役に立った。
マエリベリーはアヴァリス国からアメリカへの亡命を希望し、事務的な手続きが終わり次第、アメリカへと移ることとなった。
それまでの間マエリベリーは東京に滞在し、蓮子は京都へと戻る。
蓮子が京都に帰る日、ホテルの一室で蓮子は彼女と会うこととなった。
蓮子がノックをして、どうぞ、という声とともにドアを開けると、穏やかな顔つきをした彼女が座っていた。
「体の方は大丈夫? メリー」
「うん。ありがとう、蓮子、色々助けてくれて。ホテルは警備もついていてくれるから随分久しぶりに安心して眠れるわ」
「嫌な夢を見ることはなくなったの?」
「変なところに行く夢は見なくなったけど、他の夢は、まだ……たまに見る。自分が自分でなくなる夢とか、保護施設でのあの子の夢を見ることが多くなって」
「そう……」
「あの子もきっと私を助けてくれようと思った。そして実際に私は助かった。でもあの子はそのせいでどこかに行ってしまった。夢が現実になり、私はあなたがどこかに行ってしまうかもしれないって不安だった。私があなたの前から消えてしまうことがとても恐ろしかった」
「あなたの本当の夢はなんだったの?」
「子供っぽいかもしれないけど……富士山の花畑を見ることだった」
「じゃあ、実際に夢は現実になったじゃない。夢も悪いものばかりじゃないわ」
「そうね……ありがとう、蓮子」
「アメリカに戻るのよね?」
「うん、今までありがとう」
「ねえ、落ち着いたらアメリカに行っても良い? それにもしかしたら大学院はアメリカの方に行くかもしれない」
「もちろん。会えるのを楽しみにしてる。それまでしばらくの間だけど、さようなら、蓮子」
「ええ、その時まで、さようなら、メリー」
その日、ロゼ・クリスタはアメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストンにある自宅の一室で、今朝、日本から届いたばかりの国際郵便を開封した。
それはロゼにとっていちばん大切な友人からの手紙だった。
お元気ですか。
京都も相変わらず暑い日が続いています。アメリカの方はいかがですか?
この度あなたが若くしてプリンストン大学の精神学の教授職に就いたことを知りました。
私の方は市内の高校で物理の教員として頑張っています。
さて、あなたがかつて、ロゼ・クリスタに名前を変えると言ったとき、
それはやはり仕方のないことだと思いました。
決してあなたのせいではないとはいえ、マエリベリー・ハーンさんの
代わりとなってしまったことはやはりあなたにとっては心苦しいことでしょう。
だけどやっぱり私はあなたのことをメリーと呼びたいのです。
それは私が秘封倶楽部でのあなたとのあのかけがえのない時間を
これからも大切にしていきたいからです。
近々そちらにお伺いできるかもしれません。
そうしたらまた、どこか不思議な場所にでかけましょう。
京都は相変わらずミステリースポットだらけです。
忙しいとは思いますが、もしよろしければいつか日本に来てください。
いつでも大歓迎です。
また秘封倶楽部として活動を楽しみましょう。
ロゼ・クリスタ様、あるいはメリー様
宇佐見蓮子
ロゼはペンをとり、便箋に走らせていった。
蓮子、お元気ですか。
お手紙ありがとうございます。こちらもまだまだ暑いです。
おかげさまで自分の学んできたことを生かせることができました。
あなたも私と同じく教員として頑張っていることを嬉しく思います。
アメリカではこの頃UFOだとかUMAだとかの噂が流行っていて学生たちは興味津々です。
もしこちらに来たらまた最近の日本のことを教えて下さい。
そちらも忙しいとは思いますが、私も近いうちに日本を訪れようと思います。
そのときはまた、スカイツリーや京都タワーでランチでも楽しみましょう。
そして色々なところへと繰り出しましょう。
秘封倶楽部の活動の一環として。
宇佐見蓮子様
メリー
母親が仕事に出て一人で家にいる時、蓮子は画面に映しだされる外国の風景に度々目配せをしていたが、公共放送は牧歌的なアルプスの山々だとか壮大な中国の大河だとかをよく放映していたので、暇だな退屈だなとか思いながらいつのまにか寝てしまうことが多く、ふと目が覚めるとノイズが暗がりの中で画面いっぱいにうねうねと群がっているのをしばしば目にした。
そんな夜は決まって再び寝つくことができず、母親が帰ってくるまで蓮子はテレビをつけっぱなしにしては、このノイズ画面が何か面白い番組に変わってくれたらいいのにな、とか思いながら、薄い板状の機械が垂れ流すザーザーという砂嵐の音を、さながら外で吹きすさぶ雨風のように子守唄としていた。
母親が帰ってくると寝たふりをしたが、テレビを消されるとノイズがかき消えるのでやはり寝ることができず、結局渋々寝入るのは母親が寝室に入ってきてからだった。
蓮子はたまに放映される、アヴァリス国が打ち上げた無人探査機パウサニアスが2億3000万キロメートル先の大地から発信し、13分かけ日本の東京都墨田区の電波塔を通じて杉並区阿佐ヶ谷の自宅の一室にあるテレビが受信した、火星の赤茶けた荒野の12K映像を見るのを楽しみとしていた。ニューエイジ的な番組にありがちな、やたら壮大な音楽を乗せるようなことはこの時代の公共放送はやらなかった。だからこそ蓮子は飽きることなく、荒野を征くパウサニアスによって延長された自分の目で火星の広漠とした大地を見ることができるのだった。
火星はたまに砂塵が吹き荒れる。そんなとき、蓮子は腕に抱かれたような感覚に陥った。
地球上にはもう既に荒野はほとんど残っていなかった。どこもかしこも国連と各国政府主導による世界的な緑化計画が進められ、砂漠や荒野には遺伝子を乱暴に組み替えられて水や肥料をほとんど必要としなくなった色とりどりの花々がまるでバカのように咲き乱れた。テキサスの荒野にしても、バグダッドの古代遺跡にしても、まるで土の色を拒むかのように何もかもが赤や青やら黄色やらの交通信号灯みたいな色をした花弁で塗りつぶされていった。
人類は地球上を楽園に変えようとしているように蓮子は思われた。そのうちジョン・レノンのイマジンをみんなで歌う必要すらなくなるのかもしれない。だけれども蓮子は押し付けがましいお花畑よりも天然ものの荒野の方がずっと心落ち着くような気がした。
最後の放送を蓮子は今でも覚えている。
その日の最後のニュースはアヴァリス国においてイオエルド将軍率いる軍部がクーデターを起こしたというものだった。軍が議会を占拠する映像が放映される。装甲車から体を覗かせる、マントヒヒによく似た顔をしたイオエルド将軍がこれは民衆の勝利であると議会前広場で高らかに宣言を行った瞬間はありありと思い出せる。わくわくした、当時小学校低学年だった蓮子はその後どうなるのかを知りたかった。しかしニュースはそこで終わり、今までご視聴ありがとうございましたと述べるニュースキャスターのお辞儀の後ノイズに切り替わった。
テレビは蓮子の生まれる前から既に時代遅れの産物となっていた。情報がその重みを加速度的に増していくというのにテレビは機器にしても番組内容にしてもその革新は遅々として進まなかった。次第に安価かつ高性能となったヴァーチャルリアリティー機器が普及していき、情報はすべてその機器に集約されていった。かつて固定電話がスマートフォンに駆逐されていったかのように、家庭用テレビジョン受信装置は各家庭から急速に姿を消していった。それに伴い民放各社も次々と別業種へと鞍替えを行い、そのうちのいくつかは事業に失敗し倒産した。結局残ったのは日本放送協会だけであり、それも漸次解体されることとなった。ようやく日本でテレビ放送が終了することとなったのはアメリカや中国、EUに遅れること10年以上後の話である。
あの鮮明な火星の映像はもはや流れてくることはなかった。
それはテレビがお役御免となったこともあるが、何より日本が政治的な理由からアヴァリス国の火星の映像を買わなくなったからである。プロパイダー各社はヴァーチャルリアリティ装置を通じて、日本が主導した遺伝子組み換え技術の結実である鮮やかな色の花々が植えられたアフリカや中東の映像を流すようになった。
蓮子はあのアルプスの山々だとか中国の大河だとかの映像すら懐かしく感じるようになった。
ヴァーチャルリアリティ装置に入り浸ってみたことはあった。確かにアメリカの探査機が撮影した火星の映像はそれなりに綺麗だった。だがなにぶん古い映像であるし今ほど高性能な探査機ではなかったから、その映像は蓮子を満足させるものではなかった。
高校2年のある日、母親に連れられて外食に行くことになった。母親はその頃ようやく仕事も軌道に乗ったらしく、たまに外食をするぐらいには余裕が出てきた。どこに行きたい? と言われたが特に行きたいところはなかったので、とりあえず蓮子はスカイツリーに行ってみたいと言った。
スカイツリーはかつての東京タワーがそうであったように、この時代においても東京を代表する観光スポットの一つであった。多くの飲食店がテナントとして入り、無論天気の良い日は富士山まで見ることができる。
東京都はスカイツリーよりも高い建築物の建造を認めていなかった。それは京都が景観を害する建造物を建てることを禁止しているのによく似ていた。首都京都と同じく旧都東京もまた、今や歴史を有する都市なのだ。
母親は珍しくランチタイムではなくディナータイムを選択した。星が好きな蓮子にとってはその方が都合が良かった。自宅のある杉並区阿佐ヶ谷からJR総武線の無人電車に乗り十分ほどかけて墨田区錦糸町に着くと遠くにスカイツリーが見えた。24時間運行のオートメーションバスに乗り込む。近づくに連れ段々と大きくなる銀地に美しくライトアップされたその姿は、建てられた当時の人々の希望に満ちた、まだ見ぬ近未来を想起させたのだろうか。かつての東京タワーが戦後復興の象徴であったのと同様に巨大な建造物には多くの人間の様々な夢が込められているものだ。目下建造中である卯酉東海道も旧都東京に住む人たちが、首都となった京都に抱く様々な思いが込められているはずである。
蓮子の母は東京の夜景が一番よく見えるという店を選んだ。スカイツリー内にあるレストランはどれも値段が高いのだが、選んだ店はミシュランガイドでも一つ星を獲得したという有名店だったので、予約をとり一万円札を数枚出さなければディナータイムは食事ができないはずだった。
美しく盛り付けられた料理の味は蓮子にはよくわからなかった。合成食品ではなく天然物を使っているのは蓮子にも分かったが、家の近くにある中華料理屋の、大量の合成調味料で味付けされた人工物まみれのラーメンの方が美味しく感じた。母親は随分と美味しそうに食べているので、お母さんは舌が肥えているのだなと考えることにした。
火星でも見えないかな、と蓮子は思った。雲ひとつない夜空だったものの、残念なことに、この店は火星の見える方角にはなかった。手持ち無沙汰なので蓮子は星空を眺めた。今は19時46分頃か。
「ところでさ」
母親が話を切り出した。
「もうすぐ受験でしょう? どこの大学に行きたいの?」
そういえばあまり考えたことがなかった。高校は自由な校風で進路指導もそれほどやってくれない。成績は一応上の方だった。進学校ではあったので、よほど高望みをしなければ大方の大学に行くことはできるだろう。そうだ、私が受験する頃にはもう卯酉東海道は完成しているはずだ。東京にも飽きてきた。別の地方に行ってみたい。この国の首都、なんてどうだろうか? 京都には色々なミステリースポットが存在していると聞く。東京の何倍もの歴史を有する土地である。
蓮子はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「お母さん、私京都に行きたい」
○○○○○が小さかった頃、国内のテレビ局は既にイオエルド将軍の命令によって全て国営となっていた。
イオエルド将軍は自身の武功と勲功に相応しい称賛を要求し、国民はみなそれに従った。国営テレビは偉大なる指導者イオエルド将軍の身辺の出来事をそのトップニュースとした。余った時間は環境映像を流している。
○○○○○は自分の名前を知らなかった。あったはずである。だけれども政府軍と反政府ゲリラとの戦いで自宅アパートが崩れたとき、助け出された○○○○○はまだ小さかった。両親は二人とも瓦礫に押しつぶされてしまった。
○○○○○は慈悲深き指導者イオエルド将軍が運営する児童保護施設に引き取られた。そこで後に、お前の両親は偉大なるイオエルド将軍の命令に背いた、薄汚い反逆者であったと○○○○○は告げられた。そうか、私の両親は薄汚い反逆者だったのか、とその当時○○○○○は理解した。お前の名前は57番だと言われ、○○○○○の名前は57番になった。そして57番の父親は全国民の父たる指導者イオエルド将軍となった。
その施設で57番は43番と仲良くなった。食事を分かち合うほどの仲になった。
ある日43番が教育係にどこかにつれていかれた。そしてそのまま二度と帰ってこなかった。
57番は一日30分だけ許されたテレビの時間が好きだった。偉大なる父イオエルド将軍の演説にはそれほど興味がなかったが、その合間合間を縫って放映される環境映像、とくに海外のきれいな花畑の映像が好きだった。アヴァリス国は国際世論に反し緑化計画に従わなかったので、皮肉なことに、荒野が国土の大部分を占める貴重な国となり、それを観光資源としていた。そのうち花畑の映像の代わりに国家の威信をかけたプロジェクトの産物である火星の映像が流されるようになった。57番にとってはひどくつまらないものだったのでがっかりしてしまった。
宇宙開発に多額の資金を投入していたアヴァリス国は国産の火星探査機パウサニアスを打ち上げることに成功していた。パウサニアスは火星に無事着陸し、赤く煤けた荒野の映像を国内へと送っていた。アメリカも中国も今では宇宙開発計画を凍結している。日本も尽力しているらしいが、未だ火星探査には成功していない。
当時も今も火星に着陸したのはかつて役割を終えたアメリカと中国の探査機の他にはパウサニアスだけだったので、火星の鮮明な映像は大変貴重であった。イオエルド将軍のクーデター以降、その火星の映像配信はささやかな外貨獲得手段の一つとなった。
イオエルド将軍のクーデターに反発する日本を含めた国々はその映像を買わなかった。それでもアヴァリス国は国交を結んでいる国々に健気に火星の映像を配信していた。
今日もパウサニアスは元気に火星を走り回っている。
57番は17歳になった年のある日教育係に呼び出された。
今まで立ち入りを許可されていなかった上の階にある、大きなドアをした部屋に入ると、勲章を多く身に着けた年配の高官と思しき軍人が、書類が多く置かれた机を挟んで立派な椅子に鎮座していた。
「1年後、お前は日本に行ってイオエルド将軍のために一働きしてもらうこととなった」
なぜ自分が選ばれたのか57番はよくわからなかった。
「それでお前の名前が決まった。マエリベリー・ハーンだ。何、安心しろ。一年後にはお前が本物のマエリベリー・ハーンだからだ」
ああ、そういうことか、私は会ったこともない『マエリベリー・ハーン』さんと姿かたちがよく似ていたから残されたのかと57番は呑気に受け止めた。日本のことはよく知らなかった。ただ、父イオエルド将軍の邪魔をする悪魔の国であるということだけは知っていた。
翌日から日本語と英語と数学の個人指導が始まった。
マエリベリーに課せられた指導は一日16時間にも及んだ。入浴と就寝時以外は基本的に勉強に費やした。当たり前なのだが指導教官は日本語が堪能だった。そして英語や数学についても同様である。女性であるし、なにより今までの教育係よりも表情があった。
指導教官は日本への滞在経験もあるエリートで、日本のことをよく話してくれた。
曰く、日本が我が国に対して悪逆非道の限りを尽くす邪悪な国家なのは事実であるが、個々の日本人は我々に対しても親切に接してくれたとよく述べていた。アヴァリス国では未だにテレビが現役で、日本人やアメリカ人や中国人が残虐な悪行を行いイオエルド将軍率いる民衆によって打ち倒されるという筋書きのアニメやドラマがしばしば流されていた。だからそういう話を聞くのはマエリベリーにとっては初めてのことであった。
特にマエリベリーにとって興味をかきたてられたのは、世界遺産にも登録された富士山の、山頂付近に広がるお花畑であった。曰く、そのお花畑はどの国のお花畑よりも色鮮やかな花々が咲き乱れているらしい。たとえ我が国であっても悔しいが勝つことはできないだろうな、と指導教官は笑いながら言ったものだった。
1年後、努力の甲斐もあってマエリベリーの日本語と英語は母語話者とほぼ遜色のないレベルにまで達していた。言葉の細かいニュアンスからイントネーションまで。読み書きも一級品である。おそらくマエリベリーが中国人や韓国人であったなら日本人と間違えられるだろうし、アメリカ人については言うまでもない。数学についてもアメリカの名門大学におけるアジア人留学生と同レベル程度に熟達した。
指導教官も、流石私の教え子だ、日本に行ってもイオエルド将軍のために頑張ってきてほしい、と涙ながらに褒めてくれた。褒められることにマエリベリーは慣れていなかったのでどことなく恥ずかしい気持ちになった。
マエリベリーが児童保護施設の外に出るのは久しぶりであった。待っていた公用車の後部座席に座り中央空港まで走る。そこで軍人から手渡されたのは中東にあるという、聞いたこともない国へ行くためのパスポートだった。自分の顔写真が貼ってあったが、名前はマエリベリー・ハーンではなかった。
「我が国は日本、アメリカのいずれとも敵対関係にあるゆえ、第三国経由でアメリカへと渡る。その後アメリカから日本へ渡るのだ」
飛行機に乗るのは生まれて初めてだった。思ったより座席が狭くて固いのだな、とマエリベリーは思った。無事発着した飛行機は半日後中東の国に着陸し、そこでマエリベリーは同志を名乗る男からマエリベリー・ハーン名義のパスポートとIDカードを渡された。
中東の国に滞在したのはアメリカ行きの飛行機が発つまでの2日間程度であったが、至るところで花が売られていたのがマエリベリーの印象に残った。日本のボランティアがやってきて荒野を花畑に変えた、と店の男性は語っていた。
「おかげで観光客相手にこういう商売ができるようになってね」
拙い英語で男性はそう告げた。
中東の国を離れるのは名残惜しかったが、いよいよアメリカへと渡る日が来た。マエリベリーは渡されたパスポートを手にして、再び飛行機に乗り込んだ。一日ほどかけ数カ国を経由しアメリカまでたどり着く。空港からバスに乗り、至るところにこれまた花が咲いている、ニューヨークと呼ばれる大都市へとマエリベリーは赴いた。
ニューヨークの指定されたアパートにある一室に掲げられた表札にはアルファベットで「マエリベリー・ハーン」と書いてあった。ここに会ったこともない「マエリベリー・ハーン」さんが住んでいたのだろうか。私がここに来ることでその「マエリベリー・ハーン」さんはどうなったのだろうか。気になったが気にしても仕方のないことだった。気にする必要のないことについては考える必要などない、無闇矢鱈に考えることは時に命取りとなる、保護施設にいた頃に繰り返し言われたことだ。
部屋の中は殺風景で、ベッドと机と椅子が置いてあるだけだった。およそ人が住んでいたような気配はなかった。机の上にはコロンビア大学のマエリベリー・ハーン名義の学生証が置いてあった。
指示によるとマエリベリーはしばらく大学に正規学生として通った後、毎年夏頃に募集がかかる長期留学プログラムにおいて日本の京都大学へと留学することとなっていた。
留学プログラムの募集まではおよそ4ヶ月程度あった。マエリベリーの専攻は相対性精神学で、コロンビア大学は特にこの分野において先進的な位置づけにあった。
大学では大量の課題が課せられたが、祖国にいたころの勉強に比べれば楽であった。自然マエリベリーは成績も上位となり、留学プログラムへの申請もスムーズに進むこととなった。日本は留学先として人気が高かったので成績が良くないと抽選になる恐れがあったが、マエリベリーにとってそれは杞憂であった。
大学では友人は作らなかった。勉強の妨げになると思ったし、その場合祖国からの指令を遂行できない恐れが出てくる。そうなったらどうなるかは、やはり考えないことにした。
そして無事日本への留学は決まった。
こうしてマエリベリーはジョン・F・ケネディ国際空港から日本の成田空港行きの飛行機に搭乗することになった。
アメリカへ行くときよりも心なしかワクワクしている、マエリベリーはそう感じた。
宇佐見蓮子がヒロシゲ36号に乗ったとき、隣の席にいたのはマエリベリー・ハーンであった。無事京都大学に合格した蓮子は夏季休暇の帰省を終えて京都へと戻る最中だった。マエリベリーの方も成田空港から卯東京駅に移動しヒロシゲ36号に乗り込んだのである。
二人がけの席でたまたま二人は隣同士となった。先に話しかけたのは蓮子の方であった。
「外国の方みたいですけど、観光ですか?」
「いえ、私はアメリカからの留学生なんです。これから京都大学へと向かうつもりで」
「奇遇ですね。私も京都大の学生なんです」
随分と流暢な日本語だな、というのが蓮子のマエリベリー・ハーンに抱いた第一印象だった。金髪で紫色の服を着ている彼女は垢抜けていない自分よりもお洒落であるように思えた。
マエリベリーの方は、目の前の日本人はどことなく彼女に似ているな、と思った。
「元の大学はどちらで?」
「コロンビア大学です。あ、申し遅れました、私、マエリベリー・ハーンと言います。アメリカ生まれです」
宇佐見蓮子です、と返す。コロンビア大学か。随分と有名な大学から来られたんだな、と思った。
「私は超統一物理学を専攻しているんですけど、マエリベリーさんの専攻はどちらですか?」
「相対性精神学です。超統一物理学専攻だなんて随分と賢いんですね」
蓮子はありがとうございます、と述べた。京都大学は比較的新しい学問分野である精神学について初期の頃から研究を進めていたこともあり、国内外でも有数の業績を誇っていた。コロンビア大学もやはりまた精神学についての先進的な研究を進めていると蓮子は聞いたことがあったので、なるほど、京都大学に留学に来るのも頷けると思った。
「もしよろしければ連絡先を交換しませんか? これも何かの縁かもしれません」
いいですよ、と蓮子は答えた。マエリベリーにとってはそれは一つの手段であった。一人でばかりいたら怪しまれる。普通の学生として友人を作れば、木を隠すなら森の中、と日本の諺にもあるように怪しまれるリスクは軽減される。それにあまり人付き合いをしたことのない自分にとって、こういう学友をつくるのは良いことかもしれないな、と思ったのだ。
マエリベリーはカレイドスクリーンに映る富士山に目をやった。
指導教官が言っていた、山頂に広がるお花畑を期待したが残念なことにそれは描かれていなかった。
「そろそろ着きますね、お話に付き合っていただきありがとうございました」
こちらこそ、とマエリベリーは言った。一応連絡先は交換したものの、また彼女と会うことはあるのだろうか? とお互いがお互いに思っての別れだった。
二人が再会したのはそれから半月ほど後の、京都大学構内にある中央食堂であった。
先に気づいたのは宇佐見蓮子の方である。マエリベリーはあのときと同じ服装をしており、やはり髪は金髪だったので日本人や中国人や韓国人が多いこの大学では自然目立つこととなった。
「こんにちは、マエリベリーさん」
「宇佐見蓮子さんでしたね。ご無沙汰しておりました」
マエリベリーの向かい側に蓮子は座る。
「マエリベリーさんさ、ちょっと付き合ってくれない?」
突然そんなことを言われたのでマエリベリーは少し驚いてしまった。もとより社交的な性格ではなかったし、児童保護施設にいた頃だって指導教官と43番以外とはほとんど会話をしなかった。コロンビア大学にいた頃もそれは変わらなかった。ヒロシゲ36号で連絡先を交換したは良いものの、結局それを活用するには至らなかったのである。
「えっと、どうすればよいのでしょうか?」
「京都タワー、行かない?」
京都タワー、という場所は知らなかった。祖国にいた頃、勉強のために読んでいた日本の小説にはしばしば東京タワーは出てきたが、京都タワーという場所は一度も出てこなかった。
「どこにあるのですか? その京都タワーという場所は」
「下京区。昔の京都駅の真ん前に立ってるんだけどね。京都が首都になってからも、あれが市内で一番高い建造物なんだ」
なるほど、あの中途半端な高さの建物が京都タワーというのか。酉京都駅は旧京都駅からは離れた場所にある。京都大学も左京区にあり旧京都駅からは、やはりやや離れた場所にある。だから大学近くの国際学生宿舎に寄宿しているマエリベリーは京都タワーを目にする機会はあまりなかった。
「わかりました、いいですよ」
「ありがと、私一人で行くのも寂しくてね」
そう言って蓮子はマエリベリーににこりと笑いかけた。慌ててマエリベリーの方も笑みを返した。そういう顔をするのは随分と久しぶりだとマエリベリーは思った。
京都タワーはやはり中途半端な高さの建造物だ、とマエリベリーは実物を目の当たりにして感じた。祖国の首都では数多くの高層建造物が建っていたこともあり、高い建物を見ることはマエリベリーにとっては珍しいことではなかった。展望台に登ると多くの外国人観光客と思しき人たちが京都市の眺めを楽しんでいた。
「昔はこの高さの建物を建てるのにもひと悶着あってね、東寺の塔よりも高い建物を建てないことを不文律としていたみたい。京都が首都になってからもその不文律は有効らしく、この京都タワーは今でも数少ない例外なの。昔はただの観光用タワーだったんだけど、VR装置とかの発達のおかげで首都移転の際に電波塔としても使われるようになったの」
蓮子はマエリベリーにそう語った。日本という国は合理的であり非合理的なのだな、とマエリベリーは思った。そして目の前にいるこの日本人の少女も同様だ。打算抜きで私と付き合ってくれているのだろうか? 祖国にいた頃、人間関係というものは基本的に打算有りきのものであった。指導教官もイオエルド将軍の命令でなければ自分に色々なことを教えてくれたりはしなかったはずだ。
マエリベリーは宇佐見蓮子という少女のことがたちまちわからなくなってしまった。
「ね、マエリベリーさん」
「どうしましたか、蓮子さん」
「メリー、って呼んで良い? あ、嫌なら良いんだけど、マエリベリーって呼びづらくってさ」
メリー、か。自分の名前をどう読めばメリーになるのかはよくわからなかったが、その呼び名は嫌いではなかった。もとより私の名前は57番なのだ。マエリベリー・ハーンという名前は会ったこともない誰かさんから譲り受けたものに過ぎない。でもどこかうれしかった。これで私の名前も何個目だろうか、と考えると少しおかしくなり思わず笑ってしまった。
「どうしたの? ごめんなさい、そんなに変なこと言っちゃった?」
「いや、いいの。ありがとう、うん、メリーって呼んでもらってもいいよ、蓮子さん」
「蓮子さん、なんてよそよそしいじゃない。蓮子、でいいから。よろしくね、メリー」
わかった、こちらこそよろしく、蓮子、とマエリベリーも返す。これも一つの打算であるようにマエリベリーには思われた。もっともその打算はギブアンドテイクというよりはギブアンドギブのようなものであるとマエリベリーは感じるのだった。やっぱり蓮子のことはよくわからないな、そう思わざるを得なかった。
「あ、メリー、あれ見て」
蓮子が指差した先には古びたテレビジョン装置が置いてあった。数十年前からそこに置いてあるであろうMade in Japan の印の入ったその装置はその刻印にふさわしく未だにしぶとく生きながらえていた。一回500円で30分間環境映像を見ることができるらしい。
「ちょっと観てみない? テレビなんて懐かしいじゃない」
マエリベリーは頷いた。蓮子が500円硬貨を投入してスイッチを入れるとアメリカの探査機マーズ2025が撮影したらしい火星の映像が大きな画面に映し出された。
「うん、やっぱり懐かしいな。私、テレビで火星の映像を見るのが好きだったの」
「そうなの?」
「なかなかやらなかったからさ」
「私の国では昔も今もよくテレビで放映されてるんだけどね」
「へー、メリーは他に何が好きだったの?」
「花畑かな。小さい頃からなかなか花なんて見ることができなくて、見るのが楽しみだった」
「そうなんだ、東京はいっぱい変な花が咲いているから今度見せてあげたいわね」
マエリベリーは実際の東京を見たことがなかった。成田空港と卯東京駅は直通の地下鉄で結ばれているため、成田空港から一度も地上に出ることなく京都に来ることとなったのだ。
「蓮子の実家は東京にあるの?」
「うん、東京の杉並区。阿佐ヶ谷って知ってる?」
祖国にいた頃、日本の地理文化風俗諸々の勉強のために読んだ小説で、東京にある高円寺という街の商店街を舞台にしたものがあったことを思い出した。確か高円寺の近くにある街ではないだろうか。
「今は結構ハイテクな街になっちゃったけど、昔は結構味のある街だったらしいわ」
マエリベリーには味のある、という言葉の意味がよくわからなかった。日本の乾物のように、噛めば噛むほど味が出てくる、というぐらいの意味であろうか? しかし噛めば噛むほど味が出てくる街、というのがピンとこない。祖国の街はかつてその多くが反政府ゲリラとの戦いで破壊されてしまったと聞いていた。イオエルド将軍の命令により再建された街は随分と機能的になり、かつての面影はほとんど残さなかったらしい。
いずれにせよ、私にはまだ知らないことが多々あるのだな、とマエリベリーはやはり呑気に思うのだった。
マエリベリーの日本での主な任務は学術スパイであった。かつて情報科学や分子生物学がそうであったように、新しい学問分野である精神学は発展の可能性を大いに残しているものであった。特に日本やアメリカ、中国は早くからその発展性に目をつけており、京都大学やコロンビア大学、清華大学を始めとする各国の主要な大学や研究機関の精神学部門には多くの研究資金が投入されていた。精神学は二十一世紀前半における純粋科学の行き詰まりから理論物理学者が精神分析学分野に数理的手法を持ち込んだことによって始まったもので、科学に新たな一面をもたらすこととなった。五感を支配する家庭用ヴァーチャルリアリティ体感装置などはその顕著な応用例である。
アヴァリス国はかねてから科学技術分野への重点的な資金投入を行っていた。しかし高度に発達した同国の官僚機構は宇宙開発を始めとした旧来の科学技術への投資に固執し、精神学という新たな分野のもつ可能性を見過ごしてしまった。結果アヴァリス国はこの方面で大いに立ち遅れることとなった。その禍根はイオエルド将軍が政権を奪取した現在まで続いており、精神学分野の発展が同国の学術面での急務とされていた。
2年次の終わりにマエリベリーは広域精神科学系統への登録を行い、山根研究室に配属されることとなった。山根博士は相対性精神学の草分け的存在であり、国際的にも有名な人物であった。もしもノーベル賞やウルフ賞に精神学部門が新設されたのならば受賞の最有力候補となるであろうと言われていた。
マエリベリーは研究室においても優秀だったので、教授や周りの学生からの信頼も厚かった。しかしマエリベリーは研究室のコンピュータに忍び込み、研究データを複製するということを行っていた。そして市内にある寺社仏閣でアヴァリス国の工作員にそのデータの入ったデバイスを渡していた。誰もマエリベリーを疑う者はいなかった。
あるとき山根教授がマエリベリーにこんなことを話した。
「相対性精神学はある意味で非常に危険な学問です。なぜだかわかりますか? マエリベリーさん」
「それは様々な応用可能性があるからですか? かつて量子力学が核兵器の開発に繋がったように」
「それも理由の一つです。しかし最も大きな理由として、精神学、特に相対性精神学においては、時に自らの精神そのものと対峙しなければならないということが挙げられます。精神科医やカウンセラーがクランケに対して逆転移を起こす、すなわち無意識のうちに自分の感情を向けてしまうことが極めて危険であるように、精神学に携わる者は皆、自らの精神がその理論によって知らずしらずのうちにかき乱されないように気をつけなければならないのです。常々申し上げていることですが。自己を強く持つ、というのは大切なことです。そうでなければ、さながら未熟な治療者が患者に対して恋愛感情や憎しみを抱くように、自分が自分という存在に対して無意識のうちに攻撃を始めるでしょう。そしてかつてのフロイトの夢判断ではないですが、その攻撃はしばしば抽象的かつ複雑な形をとるものなのです」
その頃、その言葉に従うようにマエリベリーは悪い夢に悩まされるようになった。
自分にそっくりな人間が自分に成り代わり、蓮子と一緒になるという夢をしばしば見た。
1年の終わりに、マエリベリーは蓮子が作った秘封倶楽部という怪しげなオカルトサークルに半ば無理矢理加入させられていた。主に蓮子主導のもと、市内外の様々なところへと繰り出していった。
「ねえ、メリー、京都には色々なミステリースポットがあるんだけど……」
祖国にいたころもアメリカにいたころもほとんど誰かと外に出たことがなかったマエリベリーにとってそれは極めて新鮮な体験であった。マエリベリーはそんな自分ではない誰かが、自分に成り代わるという夢が現実になることをひどく恐れた。そんなことは起こるはずがないことは分かっている。だが、胸騒ぎにも似た不安感はどうしても拭うことができなかった。
ある日、マエリベリーは別の夢を見た。
砂塵が時折吹き荒れる、広漠とした、赤い大地に自分が立っている。これは火星だろうか? 遠くには走り回る探査機が見える。あれは我が国が打ち上げたパウサニアスではないだろうか。
不思議に恐怖感はなかった。夢であると分かっているにも関わらず、妙な現実感がマエリベリーにはあった。人間が宇宙服もなしで火星に立つことなどできるはずはない。だがマエリベリーは自分が確かにそこにいるのだという奇妙な実感を抱かざるを得なかった。
祖国にいた頃にはテレビでしばしば火星の鮮明な映像を見せられた。マエリベリーはその映像が好きではなかった。だから火星に立っていてもいつものように、蓮子に言ったらどんな顔するかな、なんてことをこれまた呑気に考えるのだった。
そしてマエリベリーはいつものように京都市左京区にある国際学生宿舎の一室で目を覚ます。
翌日。大学で蓮子が興奮した面持ちをしてマエリベリーに話しかけてきた。
「ねえ、知ってる? パウサニアスが火星に人の足跡らしきものを見つけたんだって!」
そういえば蓮子は火星の映像を見るのが好きだったな。こういう能力はむしろ蓮子の方にふさわしいのではないか。蓮子だったら火星だろうが金星だろうが喜んで訪れるだろう。マエリベリーは自分が何か別のものになっていくような感覚に陥った。もとより私の名前は57番である。そこから別の人物になった人間だ。そんな自分はそうなるのがむしろ相応しい気さえしてしまう。だがそうなったら蓮子はどう思うのだろうか? 私が私でなくなっても、私がたとえ罪人であったとしても、今まで通り付き合ってくれるのだろうか? マエリベリーはそこで十数年前のことをふと思い出すこととなった。
43番はブロンドの髪をした快活な女の子だった。年はおそらく自分とほとんど変わりがなかったはずだ。43番と仲良くなったきっかけはよく覚えていない。だがおそらく、それはヒロシゲ36号での出会いと同じく、偶然隣の席になったとかそういう程度であったと思う。
43番と57番はよく話した。43番は明るく何事にも積極的で、57番はそんな彼女のことが大好きだった。
当時は内戦も終結したばかりだというのに、よりによってその年ひどい旱魃がアヴァリス国を襲うこととなった。食料は日常的に不足していたが、クーデターに反発する各国は化学原料のアヴァリス国への輸出を止めていたので合成食料の製造すら満足に行うことができなかった。当然のことながら児童保護施設に回される食料はひどく少なくなった。毎日の食事は小さなパン一個と薄いスープという有様だった。そのうち一日3食が一日2食になってしまった。子供たちの間ではそれが一日一食になるのではないかという恐れが蔓延した。
人は備えるべきものが備わらないと精神が荒廃する。それは年端も行かぬ子供であればなおさらである。精神が荒廃すれば理性ではなく暴力が先走ることとなる。こうして力の強かったり体が大きかったりする子供が弱そうな子供の食事を奪うということが度々起こった。57番はそんな子供たちの格好の標的であった。
そんな折、43番は黙って57番に食事を分けてやった。おかげで57番は生き延びることができた。43番の食事の量が多いことには57番は見て見ぬ振りをした。
後に教育係によって食事の強奪犯の摘発が行われた。その中には43番が含まれていた。43番はやはり57番に何も告げることなくある日突然いなくなってしまった。
マエリベリーはお互いの内どちらかが突然相手の前から消えてしまうのではないか、という漠然とした恐れを抱いていた。そしてそういう夢を見ることをひどく恐れていた。そのうちマエリベリーは自分がひどく罪深い人間なのではないかという感覚を抱くようになった。研究室の仲間を裏切りデータを盗んでいるという行為に対してであるが、それ以上に、自分は本来的に蜃気楼のような人間なのに「マエリベリー・ハーン」として宇佐見蓮子と付き合っているという事実に対して罪悪感を抱いていた。
だが蓮子が自分の本当の姿を知ったらどう思うだろうか? 最初から今に至るまで私は彼女のことを騙し続けてきたのだ。蓮子が私を見限るのならばそれでも構わない。本当は蓮子に何もかもを打ち明けたかった。そうやって蓮子を解放したかった。だがそんなことをしたら蓮子にも危害が及ぶこととなる。それだけはどうしても避けたかった。
どうしたらいいのだろうか? こんなことなら蓮子と会わなければよかった。そうすればお互いに傷つくことなんてこれからもないだろうに。だけれども、何も知らない蓮子とカフェテラスで話している他愛もない時間は自分にとってはやはりかけがえのないものであることをマエリベリーは認めざるを得ないのであった。
夜。学生宿舎の一室でマエリベリーは机に向かい、ペンを執った。
「たまに思うのだ。自分のIDカードに書かれた「マエリベリー・ハーン」という人の元となった「マエリベリー・ハーン」さんには友達や親族がいたのだろうか? この間一人で火星に行ったように、この間蓮子と人工衛星の中を覗いたように、近頃私は夢というものに対して随分とウェットな見方をするようになった。そういう夢を見るようになったのは日本に来てからだ。そもそも昔から夢を見るということがよくわからなかった。夢が現実になっている? では私の「夢」とは何だったのだろうか? もしかしたらそれは日本に来て富士山の山頂に広がる花畑を見ることだったのかもしれない。でもそれはおそらく「マエリベリー・ハーン」さんの夢ではない。私は「マエリベリー・ハーン」であり「マエリベリー・ハーン」ではない。私の本当の名前は57番だ。父イオエルド将軍の見る夢こそ私の見る夢なのではないだろうか? 元の「マエリベリー・ハーン」さんに友達や親族がいたのならば、人工衛星のときのように、自分がその方たちと共にいるかけがえのない夢を見るはずではないだろうか? 私は彼女の人生のみならず、彼女の「夢」すら奪ってしまったのかもしれない。もしかしたらそれが私の一番大きな罪なのかもしれない。
蓮子からは私がのんびりしているとよく言われる。だけれども実際の「マエリベリー・ハーン」さんのことを私は何一つ知らない。もしかしたら私の行動により「マエリベリー・ハーン」さんは塗りつぶされてしまうのかもしれない。いつか祖国へと戻る日が来る。この任務を遂げたとき、私は祖国ではおそらく一生安泰に暮らせるだろう。そのときまた新たな名前を与えられるのだろうか? そうなったら、宇佐見蓮子という人間の中で「マエリベリー・ハーン」は一体どうなるのだろうか?」
そんなことをノートに書き散らしたが、すぐにぐちゃぐちゃとペンで消し、ノート片をちぎってゴミ箱に捨てた。
その日の夢は随分と奇妙なものだった。
自分が日本のどこかの奥田舎のようなところで、人の姿をした狐やら猫やらを引き連れている夢である。どこか懐かしい空気だった。もしかしたら私はここに一度来たことがあるのかもしれない、なんてことを思わず思ってしまった。
「菫子ー、あんたまた来たの?」
その声の方を向くと、そこにはいわゆる巫女服を着た少女とメガネを掛けた少女がいた。
巫女服の少女が声をかける。
「ああ、紫じゃない。どうしたの? こんなところで」
どうやらここでの私の名前は「ユカリ」というらしい。
「紫さんさ、私もそろそろ誰か連れてきたいんだけど、Twitterに投稿しても全然反応が来ないんだよね」
Twitterという単語を実際に発言している人間を彼女は初めて見た。その言葉は既に歴史教科書の用語と化していたからだ。
「え、えっと……すいません、あなたはどなたでしたっけ?」
「どうしたのよ、紫さん、いつものあの余裕綽々な態度はどこに行ったの? ……まあいいわ。私の名前は……」
視界がぼやける。頭が痛い。周りの人たちが私を心配そうに見つめる。
気がついたらベッドの上だった。白い天井、カーテンの隙間から差し込む朝日。
ああ良かった。私は帰ってこれた。
私はたった一人で夢の世界へと旅立つこと、いや、そこから一人だけ帰ってこれないことがきっと怖いのだ。
あそこで彼女が発した言葉を私は覚えていない。しかしおそらく、そこで目が覚めてくれたのは幸運だったように思えた。あれ以上私が「ユカリ」でいたのならば、そしてあの少女の言葉を最後まで聞いたのならば、私の夢は現実と化してしまうように思われた。現実とするべきなのはイオエルド将軍が抱く壮大な夢の方である。
私にはまた新たな名前が付与された。「ユカリ」という名前である。では私が「ユカリ」となったなら、蓮子はどう反応するのだろうか? 一緒にいてくれるのだろうか? そんなことがぐるぐると彼女の頭の中をかき乱していた。そのうち一人で眠るのが怖くなるのかもしれない。
だから私は――
4年の夏。
「メリーさ、夏休み、一緒に東京に行ってみない?」
蓮子があるときマエリベリーにそう尋ねた。
「東京?」
「うん、私の実家」
特に断る理由もない。同志には連絡をつけて東京での受け渡しをしてもらうことにする。たまには場所を変えるのも悪くないだろう。
本当は蓮子との旅行が楽しみだったのだが。
その日は快晴だった。酉京都駅からヒロシゲ36号に乗り、卯東京駅から地下鉄を乗り継いで阿佐ヶ谷までたどり着く。
阿佐ヶ谷は変わった街だった。道路には赤い花が大量に咲いており、どこかレトロな雰囲気もあるのだが、ガラス張りの大きなビルも立ち並んでいる。昔はこうじゃなかったみたいなんだけどね、という蓮子の紹介とともに、二人はバスに乗り込んだ。道中のバスでは多くの花を踏み潰し、道路の状態も相まってよくバスが揺れたが、花は丈夫で踏まれたぐらいでは平気らしかった。
「この花も緑化計画の産物みたい。火力発電の燃料や雑草の駆逐のために、アメリカに日本や中国、国連とかが主導してやってたんだけど、結局良いのやら悪いのやら。京都は流石に景観が壊れるって言われて対象外になったんだけど」
蓮子の実家は阿佐ヶ谷駅の南口からバスで10分ほど行ったところにあった。
それほど高くもなくそれほど安くもないであろうマンションの2階だった。
蓮子がドアを開け、ただいまーと言うと、母親が出てきて、おかえりなさい、と言った。蓮子によく似ているな、とマエリベリーは思った。
「そちらの外人さんはお友達?」
「うん、サークル仲間」
「はじめまして、マエリベリー・ハーンといいます」
「ゆっくりしていってちょうだいね」
蓮子の部屋には初めて入ったが、学生宿舎での自分の殺風景な部屋と比べると随分とお洒落であるように思われた。
「こうやって自分の部屋に人を招くのも久々なのよね」
「そうなの?」
「うん、あんまり京大に進学する友人がいなくてさ」
「まあ、みんな東大とか東工大に行きそうだものね」
「蓮子はなんで京大にしたの?」
「うーん、だって京都って面白そうじゃない。とりあえずはそんなところかな」
マエリベリーにとってそれは意外な答えだった。自分には選択肢などなかった。日本に来るということも、相対性精神学を学ぶということも、全て生きるために他人から決められたことだった。それゆえ、そんなふうに軽く決めることのできる自由にマエリベリーは少し憧れてしまった。そしてその自由を自在に謳歌する宇佐見蓮子という人間のことをますます知りたくなった。
「やっぱりあなたって変わってる」
「そう? でもあんまりメリーに言われたくはないかなあ」
そう言って蓮子はくすりと笑った。
蓮子は翌日マエリベリーをスカイツリーに連れて行くことにした。
電車とバスを乗り継いでたどり着いたスカイツリーは4年前、母親と見たそれと姿を同じくしていた。ありがたいことにやはり快晴の空模様だったので、スカイツリーの天望回廊からは富士山をくっきりと見ることができた。
「メリー、それ覗いてごらん」
蓮子にそう言われマエリベリーはパノラマ装置を覗き込んだ。
見えたのは富士山の山頂付近を染め上げる、鮮やかな色をしたお花畑だった。息を呑む。祖国で指導教官に言われてからずっと見てみたいと思っていた。それを遠くからとは言え、マエリベリーはようやく見ることができた。
「富士山の花もやっぱり緑化計画の産物で、耐凍性だの繁殖性なんだのを獲得したんだけど、おかげで青地に白の富士山はもうどこかに消えてしまったわね。復興会とか観光協会は何も言わないのかな」
憧れのものは実際に見ると大したことはないとよく言うが、マエリベリーにとってはそんなことは決してなかった。荒野の広がるアヴァリス国では花は貴重だったことを思い出した。
「蓮子」
「ん? どうしたの、メリー」
「ありがとう」
「私、なにかしたのかしら?」
蓮子は首をかしげた。
その後天望デッキに下りた二人は、東京の景色が一番見えるという、ミシュランガイドで一つ星を獲得したレストランで食事をとることとなった。
出てきたのは天然素材を使ったボンゴレ・ビアンコであったが、マエリベリーは蓮子に悪いと思いながらも、その味がよくわからなかった。目の前の友人は美味しそうに食べているので、蓮子はこういうものを食べ慣れているのだな、と思った。
食事を終え、食後の紅茶を飲みながら二人は談笑した。
「楽しかった。ありがとう、蓮子」
「こちらこそ楽しかったわ」
そこで蓮子はカップを置いた。目つきが真剣なものに変わったことにメリーは気づいた。
「ねえ、メリー。怒らないで聞いてくれる?」
「どうしたの? 蓮子。よほど失礼なことを言いたいの?」
「……あなたは本当にアメリカの生まれなの?」
「えっ、当たり前じゃない。どうしてわざわざそんなことを聞くの?」
蓮子はそのまま続ける。
「変だな、と思ったのは1年の頃の京都タワーだった。あなた、小さい頃から花をなかなか見ることができない、って言ってたけど、アメリカは率先して自分の国の緑化計画を進めている。それに東京を見たでしょう? ニューヨークにもワシントンにも、テキサスにすらたくさんの花が咲いている。だからそういう発言が出ることがどこか不自然なの」
「だって私はあまり部屋から出たことがなくて……」
「じゃあ、他の何かで見てたってこと?」
「そうよ。部屋にはテレビがあったから……それでよく花畑をテレビで観ていたのよ」
「……テレビ放送が終了したのは日本では15年ほど前。アメリカではそれより更に10年以上前。ありえないのよ。あなたが生まれたときにテレビ放送がやってるなんて。それで、どうやって映りもしないテレビで花畑を観たの?」
「…………」
「そしてあなた、今でも火星の映像がテレビで流れてる、って言ってたけど、今火星の映像を配信しているのはアヴァリス国だけ。軍事独裁政権が支配するアヴァリス国はアメリカや日本、中国などの国と敵対関係にあるからその映像は流れてこない。あなたは本当はどこの国の人なの? ……ごめんなさい、メリー。もし私の言っていることが間違っているんだったらそう言って。これはただの推論に過ぎない。全ては状況証拠。でも、私はあなたのことが知りたい。あなたに何か言えない秘め事があるのだったら、少しでいいから私に分担させてほしい。最近あなたの様子が変な気がした。私達だってもうすぐ卒業。だからその前にどうしてもあなたの本当のことを知りたかった。私のことは心配しないで。こう見えて結構タフなんだから」
そう告げる蓮子の眼差しは、自分が会ってきたどの人間が自分に向けてきたものよりも真剣なものだとマエリベリーは感じた。最初はおそらく女性が持ち合わせている勘のようなものに近かったのだろう。だが蓮子はこの4年間、私に気づかれることなく注意深く自分を観察し続けていたはずだ。
辛かった。蓮子にこんなふうに詰められることが。しかしそれよりもずっと苦しかったのは、蓮子は本当はこんなことをしたくないだろうということに対してだった。
もう止めにしよう。
こうやって偽り続けることで間違いなく蓮子を近いうちに傷つけることになるだろうから。
マエリベリーは取り出したノートにおもむろにペンを走らせ、切れ端を蓮子に渡した。
(ごめんなさい、盗聴されている可能性があるから筆談させて)
それを見た蓮子は一瞬驚いたが、すぐに真剣な顔に戻り、頷いた。
「なーんてね、まったく、メリーがアメリカ人じゃなかったらどこの国の人間なのよ。そりゃあなたは東北人とかインド人みたいにのんびりしてるけどさ」
蓮子はそんなことを口にしながらノート片に文字を書いていく。
(わかった。ありがとう、メリー)
(私はスパイ。アヴァリス国からアメリカを経て日本に来た)
(それではあなたの名前はマエリベリー・ハーンではないの?)
(私の名前は57番。きっと生まれたときには名前はあったんだろうけど、もう忘れてしまった)
それを見た蓮子は、メリーが今まで見たことがないぐらいに悲しそうな顔をした。
それは私がずっと蓮子を騙し続けていたからだとマエリベリーは思った。
(ごめんなさい、あなたのことをずっと騙してきて)
(なんで謝るの? だいたい57番なんて数字よ。名前ではない)
(本物のマエリベリー・ハーンさんの替え玉として私が送り込まれた。私は彼女に悪いことをしてしまった)
(あなただって逆らうことはできなかったはず)
(でも私はマエリベリー・ハーンではないことには間違いない)
(じゃあ、これからずっとメリーって呼んであげる)
(いいの? これからもそう呼んでもらって)
(もちろん)
店から出てきた二人から10mほど離れた場所にTシャツ姿の男がいた。一見すると日本人である。こちらに近づいてくる。
それを見た蓮子は急いでマエリベリーの手を引き、すぐさま近くのエレベーターに飛び乗り、閉ボタンを押した。
Tシャツ姿の男も慌ててエレベーターに乗りこもうとしたが、扉の隙間をこじ開けて入ろうとしたところを蓮子に強く蹴り飛ばされた。そして扉は閉まり、高速エレベーターは下降していく。
「危なかった、やっぱり盗聴でもされてたのかしら? 大丈夫? 怖かったね、メリー」
流石にこんなところで銃器などを使えるとは思わなかった。だが外に出ればある程度乱暴な手段を使われる可能性もある。仲間も何人いるかわからない。
エレベーターが駐車場につながる4階にたどり着くまで約50秒。幸いなことに、他のエレベーターは天望デッキにたどり着いていなかった。だから大体2分ぐらいは余裕があると蓮子は思い、スマートフォンに何かを入力した。
「蓮子、早く私をあいつらに引き渡して! あなたまで殺されちゃう!」
「何言ってんのよ、秘封倶楽部はまだ解散しないわよ」
「……あなたって本当に馬鹿なのね」
「今、eVTOL(電動垂直離陸着陸機)のタクシー呼んだから。それに乗って逃げましょう」
「その後はどうするの? やっぱり警察?」
「警察じゃ駄目。とりあえず赤坂のアメリカ領事館に逃げ込むわ」
4階に着く。下りてくるまであと1分か。
そのまま立体駐車場へと入り、待っていたタクシーの運転手にアメリカ領事館へお願いします、と告げる。
「運転手さん、チップはずむから飛ばしてくれない?」
蓮子はそう言って財布から一万円札を5枚ほど取り出し、運転手に手渡した。
運転手は了解しました、と告げて、離陸する。
5分ほどして後ろから数台のeVTOLが追いかけてくるのが見えた。
「運転手さん、後ろの連中には追いつかれないようにお願い」
「了解です。なに、ご安心を。何のために高いお金を出してリムジンクラスを呼んだ上、チップまで奮発されたと思ってるんですか」
そう言って運転手はスピードを上げる。
「何分ぐらいで着きますか?」
マエリベリーが不安そうに訪ねる。
「そうですね、だいたい15分ぐらい見ておけばよろしいかと」
速度を早めたタクシーはたちまち後ろのeVTOLを引き離していく。
そして10分程で無事赤坂にある在東京アメリカ領事館までたどり着いた。
急いで下車した二人は敷地内に駆け込んだ。もちろん警備員に捕まったものの、マエリベリーは自分は亡命希望者だと告げ、連行された先で事情を話すこととなった。マエリベリーが名目上アメリカ国籍を持っているので話はややこしい部分が多々あったが、領事館員の尽力もあり概ね理解されることとなった。特にマエリベリーが工作員に渡す予定だった機密データを持っていたことは話を進める上で役に立った。
マエリベリーはアヴァリス国からアメリカへの亡命を希望し、事務的な手続きが終わり次第、アメリカへと移ることとなった。
それまでの間マエリベリーは東京に滞在し、蓮子は京都へと戻る。
蓮子が京都に帰る日、ホテルの一室で蓮子は彼女と会うこととなった。
蓮子がノックをして、どうぞ、という声とともにドアを開けると、穏やかな顔つきをした彼女が座っていた。
「体の方は大丈夫? メリー」
「うん。ありがとう、蓮子、色々助けてくれて。ホテルは警備もついていてくれるから随分久しぶりに安心して眠れるわ」
「嫌な夢を見ることはなくなったの?」
「変なところに行く夢は見なくなったけど、他の夢は、まだ……たまに見る。自分が自分でなくなる夢とか、保護施設でのあの子の夢を見ることが多くなって」
「そう……」
「あの子もきっと私を助けてくれようと思った。そして実際に私は助かった。でもあの子はそのせいでどこかに行ってしまった。夢が現実になり、私はあなたがどこかに行ってしまうかもしれないって不安だった。私があなたの前から消えてしまうことがとても恐ろしかった」
「あなたの本当の夢はなんだったの?」
「子供っぽいかもしれないけど……富士山の花畑を見ることだった」
「じゃあ、実際に夢は現実になったじゃない。夢も悪いものばかりじゃないわ」
「そうね……ありがとう、蓮子」
「アメリカに戻るのよね?」
「うん、今までありがとう」
「ねえ、落ち着いたらアメリカに行っても良い? それにもしかしたら大学院はアメリカの方に行くかもしれない」
「もちろん。会えるのを楽しみにしてる。それまでしばらくの間だけど、さようなら、蓮子」
「ええ、その時まで、さようなら、メリー」
その日、ロゼ・クリスタはアメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストンにある自宅の一室で、今朝、日本から届いたばかりの国際郵便を開封した。
それはロゼにとっていちばん大切な友人からの手紙だった。
お元気ですか。
京都も相変わらず暑い日が続いています。アメリカの方はいかがですか?
この度あなたが若くしてプリンストン大学の精神学の教授職に就いたことを知りました。
私の方は市内の高校で物理の教員として頑張っています。
さて、あなたがかつて、ロゼ・クリスタに名前を変えると言ったとき、
それはやはり仕方のないことだと思いました。
決してあなたのせいではないとはいえ、マエリベリー・ハーンさんの
代わりとなってしまったことはやはりあなたにとっては心苦しいことでしょう。
だけどやっぱり私はあなたのことをメリーと呼びたいのです。
それは私が秘封倶楽部でのあなたとのあのかけがえのない時間を
これからも大切にしていきたいからです。
近々そちらにお伺いできるかもしれません。
そうしたらまた、どこか不思議な場所にでかけましょう。
京都は相変わらずミステリースポットだらけです。
忙しいとは思いますが、もしよろしければいつか日本に来てください。
いつでも大歓迎です。
また秘封倶楽部として活動を楽しみましょう。
ロゼ・クリスタ様、あるいはメリー様
宇佐見蓮子
ロゼはペンをとり、便箋に走らせていった。
蓮子、お元気ですか。
お手紙ありがとうございます。こちらもまだまだ暑いです。
おかげさまで自分の学んできたことを生かせることができました。
あなたも私と同じく教員として頑張っていることを嬉しく思います。
アメリカではこの頃UFOだとかUMAだとかの噂が流行っていて学生たちは興味津々です。
もしこちらに来たらまた最近の日本のことを教えて下さい。
そちらも忙しいとは思いますが、私も近いうちに日本を訪れようと思います。
そのときはまた、スカイツリーや京都タワーでランチでも楽しみましょう。
そして色々なところへと繰り出しましょう。
秘封倶楽部の活動の一環として。
宇佐見蓮子様
メリー
近未来でありながら、実際に世界のどこかで生きている人間にありそうなメリーの背景、そんなメリーと向き合い彼女の真実に辿り着く蓮子。素晴らしい秘封倶楽部を読ませていただきました。とても面白かったです。
めちゃくちゃ良かったです。救いがあって嬉しいという気持ちになったのは久々だなあと思います。ありがとうございました。
幸せに終わることが出来たのが良かったです。ご馳走様でした。
かつて記号で呼ばれた子が自らの名前を手に入れるという構図が素敵でした
登場人物や各組織、それこそ国家から自治体レベルまでみんな自分の立ち位置と都合をもって動いていて最高でした
2回目に読んで、この話は蓮子と「メリー」の再会を描いた話なのだと自分なりに解釈でき、それを踏まえて読むと、最後の手紙のシーンでは本当に感動しました。これからも永遠に二人は蓮子・「メリー」と呼び合うのだろう。遠く離れていても変わらない呼称の強固さが胸を打つ非常に素敵な作品でした。ありがとうございました。
あるといった上でもここまでしっかりとストーリーを作り上げて
ちゃんと面白いとなると
ちょっとこの点数以外は私じゃ付けられない。
かなりぶっ飛んだお話しとも思いますが、
さすがにしっかりと練られている。
お見事でした。