犬走椛は将棋が趣味だ。
白狼天狗仲間と将棋を指すとき、自分はどの天狗にも負けないのだと思っていた。
下手の横好きという有名な言葉がある。
将棋を指す時、白狼天狗はほぼ確実にこの下手の横好きである。
なにせ哨戒任務の合間を縫い暇つぶしに指すにすぎない素人将棋だ。
ちょいと定石を覚えるだけで王より飛車をありがたがるような愚将など簡単にその首級を挙げられる。
向上心の強い椛は定石に加えて種々の戦法を習得していった。
そのうち白狼天狗仲間の中で犬走椛は白狼名人と称されるようになった。
それを受けて椛は天狗にふさわしく鼻高々だった。
努力が実を結ぶことほど愉快なことはない。
そして努力が実を結ばないことほど不愉快なことはない。
その不愉快な苛立ちはすぐに犬走椛に襲いかかることとなった。
ある日のこと、姫海棠はたてが将棋の勉強をしている椛にちょっかいをかけた。
「へー、椛、あんた将棋好きなのね」
「頭の体操にもなるし、なにより非常に奥が深い」
「良いこと教えてあげる。龍さんも将棋、嗜むみたいよ」
飯綱丸龍とは役職が違うので椛は頻繁に面識はなかった。
しかし椛とて上司にあたる大天狗の名は覚えている。
自分の数少ない特技を披露する相手として不足はない、そう思い、はたてに紹介を頼んだ。
それが事の始まりだった。
後日、対局の場として準備されたのは白狼天狗にはいささか不釣り合いとも思える上等な畳敷きの部屋だった。
記録係として見習いの鴉天狗まで用意してくれた。
部屋の真ん中には人間の将棋盤の2倍以上はあるであろう大きく立派な榧(かや)製の将棋盤が置かれている。
椛が失礼します、と襖を開けると将棋盤の前で正座する龍はよく来たな、と出迎える。
椛の方もお手柔らかに、と向かいに鎮座する。
「ほう、それでお前も将棋を嗜んでいるのか」
「ええ、最近上達してきまして」
「それは良いことだ。将棋は指せば指すほど上手くなる」
「龍様はどれほど指されておられるのですか」
「ざっと400年ほどといったところかな」
400年。自分の10倍以上もの時間将棋を指している熟練者相手に自分はどう立ち向かうのか。
まあいい、自分は自分のできることをやるだけだ、そう思っていたらこんなことを告げられた。
「駒落ちはどうする? 天狗獅子麒麟金銀銅飛車角落ちぐらいでやってやろうか?」
椛はむっとした。
自分は誰と指すときにでも平手で指してきた。
今更駒落ちをつけられるいわれはない。
「平手でお願いします。こちらこそ手加減はいたしませんよ」
「まあ別にいいが……」
龍がそう言うと椛は歩を数枚手にとって盤上に振った。
「私が後手で、お前が先手か」
さて、対局の仔細は省く。
連日連夜に渡る対局の結果はこうだ。
龍の目の前には、金銀銅や飛車に角、天狗龍王龍馬飛龍青龍に白虎朱雀鳳凰麒麟、種々様々の大駒中駒をことごとく討ち取られ、顔を赤くしたり青くしたりしながらプルプルと小刻みに震えつつ玉の詰みを待つだけの犬走椛がいた。
「……まあそう気を落とすな」
次は裸王でやってやろうか、とでも言い出しそうな顔で龍はため息をついた。
こうして白狼名人の天狗鼻はぽっきりとへし折られたのである。
椛は将棋盤に触れたくもなかった。将棋駒を捨てたくすらなった。
あの無残極まる敗北が四六時中頭をよぎり、恥ずかしくて仕方がなかった。
白狼名人が惨敗した話はすぐに天狗たちの話題となった。
噂好きな連中のことだ。
白狼名人失冠! などという残酷な文言が天狗の瓦版の見出しに踊った。
もっとも飯綱丸龍に果敢に立ち向かったことに感嘆する者はいれども嘲弄するものはおよそ誰も居なかった。
しかし椛は自分に課せられたその視線を悪し様に受け取ってしまう。
井の中の蛙大海を知らず、今度はそんな言葉が身にしみた。
大海原に初めて繰り出した井蛙(せいあ)は足掻きも虚しく大魚の餌食と成り果てた。
なんという屈辱か。なんという生き恥か。
もとより高貴高潔な質であった椛はこの汚辱に耐えられるほど強くはなかった。
哨戒に就くときでさえ陰陰とした雰囲気が椛の周囲に漂っていた。
ある日のこと。
龍が珍しく椛のもとを訪れた。
「何か御用でしょうか、名人殿」
「お前らしくもないな、そんな嫌味なことを言うなんて」
龍はあのときと同じようにため息を付いた。
「たかだか30年程度しか将棋を指していないお前が私に勝ってしまったら私の立場はどうなるんだ……」
「かといってあんなふうに負けるのはやっぱり不愉快なものですよ」
「仕方のないやつだな。悔しかったらもっと精進するんだ」
「嫌です、もう将棋なんて指したくもありません」
「お前ってやつはなあ……」
その強情さに呆れた様子で龍は肩をすくめてみせた。
「私だってな、最初からお前を手篭めにできるほど強かったわけじゃないんだよ」
「じゃあどれぐらい指せば良いんですか」
「そうだな、一日にどれくらいの時間を割けるかにもよるが、大体300年ぐらいかな」
自分にとってはうんざりするほどの時間だった。
将棋一つのためだけにそれほどまでやらないといけないのかと思った。
年月だけを見てみればおおよそ自分が費やしてきた時間の約10倍である。
「どうするんだ? 別にヘボ将棋指しのままでもいいんだったらそのまま道楽として続けていたほうがずっと良いぞ」
椛は黙っていた。
果たして自分はこのままで良いのだろうか?
言葉通り、このまま下手くそのままでいたほうがずっと楽だろうし、何より楽しいに違いない。
だがこのまま負けっぱなしでいるのは白狼天狗としての沽券に関わる気さえした。
「私がお前に手ほどきしてやろうか?」
屈辱の極みだった。
椛にとってそれは靴を舐める行為にも近しかった。
しかし出藍の誉れという言葉がある。
こんな自分は藍から出づる青とならねばならない、歯ぎしりしながらそう認め、椛はついに龍へ頭を垂れた。
こうして飯綱丸龍と犬走椛の師弟関係は始まった。
もっとも龍は忙しく、なかなか椛の相手をしていられない。
そこで龍は100から300手詰め程度の詰将棋を何百題か椛に出題した。
最初は一題解くのに一年ほどかかった。
問題によっては十年考え続けた。
そうして最初に出題された問題を全て解き終えた時には既に50年が経過していた。
続いて500から1000手詰め程度へと昇段する。
これを全て解き終えるのには100年かかった。
既にこの頃、椛は鴉天狗はもとより一部の大天狗にも平手で勝てるようになっていた。
しかし椛は満足に飽かなかった。
師を超えて初めて弟子は本当の弟子といえる、そしてその時初めて師は本当の師となるのだと椛は思った。
2000手詰め以上の問題が師から課せられる。
最初はあれだけ苦労した詰将棋も、次第に解くのが早くなっているのを椛は実感した。
全ての問題を解き終えたのは最初に師弟関係を結んでからおおよそ280年程経ってからであった。
人の世の様は変わり果て、天狗の社会も幻想郷へと移ったが、龍と椛の師弟関係は揺らぐことはなかった。
たまに龍も椛の相手をしてやったものだった。
そして極々稀に平手ではないものの椛が勝つ日があった。
その極々稀が極稀に、極稀が稀に変わっていくのは椛のみならず龍も感じるところであった。
さて、その日はついにやってきた。
椛は300年目のその日、300年前に大敗を喫したその日に、龍に平手で勝負を申し入れた。
龍は仕方のないやつだ、と満更でもない様子で承諾した。
あの日と同じ部屋、同じ将棋盤。
龍は部屋のみならず盤や駒に至るまで300年間一日たりとも手入れを欠かさなかった。
二人の対局の場にはさながら人の世の名人戦のように多数の新聞記者が駆けつけていた。
白狼名人復冠なるか、各紙とも一面はその話題で持ちきりであった。
互いに挨拶を済ませ、脇に控える鴉天狗が駒を振った。
先手は椛、後手は龍だった。
そして椛が歩を前に進めた。対局が始まった。
対局は長期戦の様相を見せた。
詳細は割愛するが、時にはお互いに長考を見せ、また時には手を封じ、そして時には千日手一歩手前となった。
対局は半月以上も続き、その間天狗の社会に新鮮な話題を提供し続けた。
二人は共に持ち時間を使い果たし、両者一進一退のまま終盤戦へともつれ込んだ。
そして対局開始から21日目の夜。
「参りました」
そう告げて頭を下げたのは飯綱丸龍であった。
83手先での自王の詰み筋を読んだ末の投了であった。
犬走椛も深々と頭を下げる。
その礼はこれまでも続き、これからも続くであろう師弟関係を再確認するものでもあったのだろう。
二人の間に言葉はなかった。
言葉を交わす必要などなかった。
将棋の世界は冷酷無情な実力主義のそれである。
しかしたとえ弟子の実力が師の棋力を上回ろうとも、この二人の固い関係が解れることはないであろう。
300年前、かつて二人の最初の対局で記録係を担い、かつて白狼名人の失冠を報じた一人の鴉天狗の新聞記者は、これから書く記事をそう締めくくろうと思うのだった。
白狼天狗仲間と将棋を指すとき、自分はどの天狗にも負けないのだと思っていた。
下手の横好きという有名な言葉がある。
将棋を指す時、白狼天狗はほぼ確実にこの下手の横好きである。
なにせ哨戒任務の合間を縫い暇つぶしに指すにすぎない素人将棋だ。
ちょいと定石を覚えるだけで王より飛車をありがたがるような愚将など簡単にその首級を挙げられる。
向上心の強い椛は定石に加えて種々の戦法を習得していった。
そのうち白狼天狗仲間の中で犬走椛は白狼名人と称されるようになった。
それを受けて椛は天狗にふさわしく鼻高々だった。
努力が実を結ぶことほど愉快なことはない。
そして努力が実を結ばないことほど不愉快なことはない。
その不愉快な苛立ちはすぐに犬走椛に襲いかかることとなった。
ある日のこと、姫海棠はたてが将棋の勉強をしている椛にちょっかいをかけた。
「へー、椛、あんた将棋好きなのね」
「頭の体操にもなるし、なにより非常に奥が深い」
「良いこと教えてあげる。龍さんも将棋、嗜むみたいよ」
飯綱丸龍とは役職が違うので椛は頻繁に面識はなかった。
しかし椛とて上司にあたる大天狗の名は覚えている。
自分の数少ない特技を披露する相手として不足はない、そう思い、はたてに紹介を頼んだ。
それが事の始まりだった。
後日、対局の場として準備されたのは白狼天狗にはいささか不釣り合いとも思える上等な畳敷きの部屋だった。
記録係として見習いの鴉天狗まで用意してくれた。
部屋の真ん中には人間の将棋盤の2倍以上はあるであろう大きく立派な榧(かや)製の将棋盤が置かれている。
椛が失礼します、と襖を開けると将棋盤の前で正座する龍はよく来たな、と出迎える。
椛の方もお手柔らかに、と向かいに鎮座する。
「ほう、それでお前も将棋を嗜んでいるのか」
「ええ、最近上達してきまして」
「それは良いことだ。将棋は指せば指すほど上手くなる」
「龍様はどれほど指されておられるのですか」
「ざっと400年ほどといったところかな」
400年。自分の10倍以上もの時間将棋を指している熟練者相手に自分はどう立ち向かうのか。
まあいい、自分は自分のできることをやるだけだ、そう思っていたらこんなことを告げられた。
「駒落ちはどうする? 天狗獅子麒麟金銀銅飛車角落ちぐらいでやってやろうか?」
椛はむっとした。
自分は誰と指すときにでも平手で指してきた。
今更駒落ちをつけられるいわれはない。
「平手でお願いします。こちらこそ手加減はいたしませんよ」
「まあ別にいいが……」
龍がそう言うと椛は歩を数枚手にとって盤上に振った。
「私が後手で、お前が先手か」
さて、対局の仔細は省く。
連日連夜に渡る対局の結果はこうだ。
龍の目の前には、金銀銅や飛車に角、天狗龍王龍馬飛龍青龍に白虎朱雀鳳凰麒麟、種々様々の大駒中駒をことごとく討ち取られ、顔を赤くしたり青くしたりしながらプルプルと小刻みに震えつつ玉の詰みを待つだけの犬走椛がいた。
「……まあそう気を落とすな」
次は裸王でやってやろうか、とでも言い出しそうな顔で龍はため息をついた。
こうして白狼名人の天狗鼻はぽっきりとへし折られたのである。
椛は将棋盤に触れたくもなかった。将棋駒を捨てたくすらなった。
あの無残極まる敗北が四六時中頭をよぎり、恥ずかしくて仕方がなかった。
白狼名人が惨敗した話はすぐに天狗たちの話題となった。
噂好きな連中のことだ。
白狼名人失冠! などという残酷な文言が天狗の瓦版の見出しに踊った。
もっとも飯綱丸龍に果敢に立ち向かったことに感嘆する者はいれども嘲弄するものはおよそ誰も居なかった。
しかし椛は自分に課せられたその視線を悪し様に受け取ってしまう。
井の中の蛙大海を知らず、今度はそんな言葉が身にしみた。
大海原に初めて繰り出した井蛙(せいあ)は足掻きも虚しく大魚の餌食と成り果てた。
なんという屈辱か。なんという生き恥か。
もとより高貴高潔な質であった椛はこの汚辱に耐えられるほど強くはなかった。
哨戒に就くときでさえ陰陰とした雰囲気が椛の周囲に漂っていた。
ある日のこと。
龍が珍しく椛のもとを訪れた。
「何か御用でしょうか、名人殿」
「お前らしくもないな、そんな嫌味なことを言うなんて」
龍はあのときと同じようにため息を付いた。
「たかだか30年程度しか将棋を指していないお前が私に勝ってしまったら私の立場はどうなるんだ……」
「かといってあんなふうに負けるのはやっぱり不愉快なものですよ」
「仕方のないやつだな。悔しかったらもっと精進するんだ」
「嫌です、もう将棋なんて指したくもありません」
「お前ってやつはなあ……」
その強情さに呆れた様子で龍は肩をすくめてみせた。
「私だってな、最初からお前を手篭めにできるほど強かったわけじゃないんだよ」
「じゃあどれぐらい指せば良いんですか」
「そうだな、一日にどれくらいの時間を割けるかにもよるが、大体300年ぐらいかな」
自分にとってはうんざりするほどの時間だった。
将棋一つのためだけにそれほどまでやらないといけないのかと思った。
年月だけを見てみればおおよそ自分が費やしてきた時間の約10倍である。
「どうするんだ? 別にヘボ将棋指しのままでもいいんだったらそのまま道楽として続けていたほうがずっと良いぞ」
椛は黙っていた。
果たして自分はこのままで良いのだろうか?
言葉通り、このまま下手くそのままでいたほうがずっと楽だろうし、何より楽しいに違いない。
だがこのまま負けっぱなしでいるのは白狼天狗としての沽券に関わる気さえした。
「私がお前に手ほどきしてやろうか?」
屈辱の極みだった。
椛にとってそれは靴を舐める行為にも近しかった。
しかし出藍の誉れという言葉がある。
こんな自分は藍から出づる青とならねばならない、歯ぎしりしながらそう認め、椛はついに龍へ頭を垂れた。
こうして飯綱丸龍と犬走椛の師弟関係は始まった。
もっとも龍は忙しく、なかなか椛の相手をしていられない。
そこで龍は100から300手詰め程度の詰将棋を何百題か椛に出題した。
最初は一題解くのに一年ほどかかった。
問題によっては十年考え続けた。
そうして最初に出題された問題を全て解き終えた時には既に50年が経過していた。
続いて500から1000手詰め程度へと昇段する。
これを全て解き終えるのには100年かかった。
既にこの頃、椛は鴉天狗はもとより一部の大天狗にも平手で勝てるようになっていた。
しかし椛は満足に飽かなかった。
師を超えて初めて弟子は本当の弟子といえる、そしてその時初めて師は本当の師となるのだと椛は思った。
2000手詰め以上の問題が師から課せられる。
最初はあれだけ苦労した詰将棋も、次第に解くのが早くなっているのを椛は実感した。
全ての問題を解き終えたのは最初に師弟関係を結んでからおおよそ280年程経ってからであった。
人の世の様は変わり果て、天狗の社会も幻想郷へと移ったが、龍と椛の師弟関係は揺らぐことはなかった。
たまに龍も椛の相手をしてやったものだった。
そして極々稀に平手ではないものの椛が勝つ日があった。
その極々稀が極稀に、極稀が稀に変わっていくのは椛のみならず龍も感じるところであった。
さて、その日はついにやってきた。
椛は300年目のその日、300年前に大敗を喫したその日に、龍に平手で勝負を申し入れた。
龍は仕方のないやつだ、と満更でもない様子で承諾した。
あの日と同じ部屋、同じ将棋盤。
龍は部屋のみならず盤や駒に至るまで300年間一日たりとも手入れを欠かさなかった。
二人の対局の場にはさながら人の世の名人戦のように多数の新聞記者が駆けつけていた。
白狼名人復冠なるか、各紙とも一面はその話題で持ちきりであった。
互いに挨拶を済ませ、脇に控える鴉天狗が駒を振った。
先手は椛、後手は龍だった。
そして椛が歩を前に進めた。対局が始まった。
対局は長期戦の様相を見せた。
詳細は割愛するが、時にはお互いに長考を見せ、また時には手を封じ、そして時には千日手一歩手前となった。
対局は半月以上も続き、その間天狗の社会に新鮮な話題を提供し続けた。
二人は共に持ち時間を使い果たし、両者一進一退のまま終盤戦へともつれ込んだ。
そして対局開始から21日目の夜。
「参りました」
そう告げて頭を下げたのは飯綱丸龍であった。
83手先での自王の詰み筋を読んだ末の投了であった。
犬走椛も深々と頭を下げる。
その礼はこれまでも続き、これからも続くであろう師弟関係を再確認するものでもあったのだろう。
二人の間に言葉はなかった。
言葉を交わす必要などなかった。
将棋の世界は冷酷無情な実力主義のそれである。
しかしたとえ弟子の実力が師の棋力を上回ろうとも、この二人の固い関係が解れることはないであろう。
300年前、かつて二人の最初の対局で記録係を担い、かつて白狼名人の失冠を報じた一人の鴉天狗の新聞記者は、これから書く記事をそう締めくくろうと思うのだった。
椛がんばった