1
耳元を大音量で駆け抜けていく風の音。
吹きすさぶ風の中に身を躍らせる鴉天狗が一人。
突風に近い風を受けて提灯袖の白いシャツも、黒い濡れ羽色のスカートもはためいている。
これではスカートの下が丸見えだろう、と思われるかもしれないが、そもそも誰も見たりなんかしない、それが幻想郷のあり方である。
「うぅーんどのネタもイマイチ決め手にかけますね……」
幻想郷のブン屋、射名丸 文である。
風の中で舞い踊る木の葉のように飛びながらも彼女の視線は手元の手帳に注がれたままだ。
「このネタはすこし時期を逃した感じですし……」
ブツブツと手帳に向かって一人言を呟いている。
――このまま、今日は風まかせでネタを探そう。
そう決めて文が改めて前を見た瞬間、今まで身をまかせていた風の流れが止み、気流の流れから放り出される。
「おや……これもスクープの予感かな?」
季節はすでに冬となっている。
すでに落葉は止み、雪こそ積もっていないが辺りの景色は春や夏に比べると流石に色彩豊かとは、言い難い。
気流から放り出された文の眼下には幻想郷にあっても一際異彩を放つ建物、紅魔館が周囲の景色を圧倒するかのように鎮座している。
いかにも寒そうな格好をした文は、しかし寒さを気にしてない。風を操る彼女にとって、冷たい風を寄せ付けない事など造作も無い。
文は一人で、ふむ、と頷くと紅魔館に向かって降下していった。
2
「待ちなさい、そこの鴉天狗!」
上空からでは手のひら程であった紅魔館は、すでに全容が視界に収まりきらない程に大きくなってきている。
その窓からは忙しく掃除をしているメイドの姿がチラホラと見受けられた。
紅魔館はお昼時を過ぎた時間から動き始める。
それは館主であるレミリア・スカーレットが吸血鬼であり、日光が苦手な為であろう。
世間では昼時でも紅魔館の中では早朝なのである。
「ちょっと、止まりなさいってば!」
そんな時間帯に紅魔館を訪れた文は一人で笑みを浮かべる。
なにしろ紅魔館の館主、レミリア・スカーレットは日光が邪魔だ、というだけで幻想郷を赤い霧で包もうとする程の人物である。
新聞のトップを飾る記事の一つや二つぐらい隠し持っていてもおかしくは無い。
「これ以上無視するなら外敵と見なして攻撃しますよ!」
攻撃する、と言われて初めて文は声の主に気が付いた。
「あぁ、すみません、考え事をしてた物で」
――居ても居なくても同じぐらいなんだから無視したって変わらないじゃない。
内心の声を笑顔で隠して文が振り返ると、そこには緑の帽子に緑のチャイナ服を着込んだ妙齢の女性が文と同じ高度に浮かんでいた。
鮮やかに目に飛び込んでくる紅毛と、意思の強そうな大きな目が印象的な妖怪、紅 美鈴が眉を吊り上げて文を睨みつけている。
「まったく、近頃の鴉天狗は耳が遠くなったのかしら」
その言葉にむっとした文は、しかし表面の笑顔を崩さず言い返す。
「いえ、こんなに近づくまで出てこない門番なんて、なかなか珍しいなぁと思いまして」
「私はもっと前から声を掛けてたでしょうに……。それで? 今日は何の御用ですか?」
両手を腰に当て、呆れたように美鈴が文がここに居る理由を聞こうとする。
「そうですねぇ……、『悪魔の館に住む人間、十六夜咲夜さんに突撃インタビュー! 何故人間が悪魔に仕えるのか?』 です」
思いつきでペラペラと喋ってみたが、なるほど、これは面白そうだ、と文自身が納得してしまう。
そうだ、これで行こう。見出しは『悪魔の館に住む人間メイド長! 十六夜咲夜は今なに思う!?』で決まりだ。
自分の言った事に納得して勝手に頷いている文。それに対して美鈴は明らかに渋い顔をして眉根を寄せる。
「……それはお答えできません、今日はお引き取りください」
目を伏せた美鈴は両手で文の背中を押してお引取り願う。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ、そういう反応って事はあなたは何か知ってるんですね?」
このまま帰ってなるものか、と文は背中の両手に抵抗する。
この様子ではどうやら美鈴は咲夜の使えている事に関して何か知っている、という事だろう。
「しーりーまーせーん、ですがっ! その質問にはお答えできません!」
ぐいぐいと文の背中を押しながら美鈴は重ねて否定する。
「とりあえずっ! 取次ぎだけでもお願いできませんか?」
しつこく食い下がる文を何とか追い返そうと大きな声を出す。
「だーかーらー! その質問に咲夜さんが答えるわけないでしょう!? 今日は珍しくお休みなんですからっ!」
あっと気が付いた時にはもう遅い。美鈴は背中越しにも関わらず文の目がきらりと輝いたような気がした。
「休みならなおさらいいじゃないですか! 是非とも取材できるかどうか聞いてみて下さいよ!」
先程までの態度はどこへやら、と言った勢いで美鈴に食ってかかる文、その目は珍しい事に対する好奇心で輝いていた。
実際、文の頭の中では見出しが『密着!! 紅魔館のメイド長の休日!!』に変わっていたりするのだが、それは美鈴には伝わらない。
「えー、でも咲夜さんはそのインタビューには答えてくれないと思いますよ?」
あまりの勢いに押された美鈴が答えを渋っていると、文の目が危険な光を放った。
「どうしても通してくれないなら実力で通りますよ?」
すっ、と背中から団扇を取り出して物騒な事を言いはじめる文の目は本気だった。
「わかりましたって、とりあえず聞くだけ聞いてみますから正門前で待ってて下さいよ」
いつもなら積極的に侵入者を排除する美鈴だが、さすがに鴉天狗と正面から弾幕ごっこで勝てる確率は低いのでわざわざ話し掛けたのだ。
話して通じるならそれに越した事はないし、何しろ咲夜が話すワケなんて無いのだ、断られれば流石にこの天狗も諦めてくれるだろう。
そう思って美鈴は紅魔館に戻っていく。
文は言われた通り、正門前に降り立つと団扇を背中に戻して手帳と万年筆を取り出して待つ。
どちらも少しくたびれているあたりに持ち主の使い込みようがうかがい知れた。
文は美鈴を待つ間に手帳に向かってさらさらと書き込みはじめる、内容といえば質問したい事だったり、見出しの候補だったり、と自分の考えている事をそのまま書き出していく。
自分が思った事を少しでも漏らさないように文は手帳へと筆を走らせていた。
文が手帳に向かい始めて数分してから美鈴が戻ってきた。しかし首を傾げたその表情は困惑に歪められている。
「どうでした? 取材許可は下りましたか?」
待ちわびた、という風に文が勢い込んで美鈴を覗き込んでくる。
「えぇっと、とりあえずお通ししろ、とのお達しなんで、どうぞ……」
先ほどの威勢はどこへやら、といった調子でしきりに首を傾げながら文を中に通す美鈴。
顔にはありありとした疑問が浮かび、小声でどうして……、なんでまたこんな鴉を……とか呟いている。
「それでは失礼しますよ」
その美鈴の呟きはしっかりと文の耳に入っていたが、咲夜の休日という珍しいネタを取材できる事の方が今は優先だと思い直し、中庭を歩いて奥に向かう。
「あぁそうだ、咲夜さんなら自室に居るそうなんで、案内しますか?」
建物に向かって歩き出し、中庭を横切ろうとした文を後から美鈴が呼び止める。
「えっと……ではお願いします」
少し迷ってから文は道案内を頼んだ。
何しろ紅魔館の中は見た目以上に遥かに広いのだ、迷ったあげくに取材時間を減らしたくは無い。
「それでは」
美鈴が先に立って紅魔館の内門へと向き合った。
片方が高さ2メートル半以上もありそうな大きな両開きの鉄扉に美鈴が両手を押し当てる。
その名の通り深紅に染め上げられた鉄扉は見た目だけでも重量感があるこしらえとなっているが、美鈴はいつも通りの笑顔で押し開けた。
「ようこそ、紅魔館へ」
こちらを振り返った笑顔は彼女の使う弾幕のように華やかであったが、同時に不気味な紅魔館の存在もあってかどこか狂的なものを感じさせた。
――そう言えば彼女もこの館の住人でしたね、ならば少しはこの館の狂気に当てられていても不思議ではないですね……。
背筋にうすら寒い物を感じながら文は悪魔の住む館へと足を踏み入れた。
3
「あれ、今日はお休みだとうかがって来たのですが?」
部屋に招かれるなり文が漏らしたのはそんな言葉だった。
それもそのはずであろう、何しろ本日の取材相手である十六夜 咲夜は自室でいつものメイド服を着て待っていたのだから。
「何言ってるんですか、アナタは紅魔館のお客様です。きちんとおもてなしするにはメイド服でないとダメなのですよ」
片眉を跳ね上げて、それが当然だとばかりに言う咲夜。
「とりあえず立ち話もアレですので、中へどうぞ、お茶を用意致しますわ」
はぁ、と頷いて部屋に案内される。
咲夜の部屋は他のメイドよりも少し広い作りになっている。
部屋自体は洋室の作りとなっているが、畳20枚分ぐらいの広さに文は思わず溜息をついてしまう。
「はぁ~、なんと言うか、広い部屋ですねぇ」
しかしその広い部屋を飾り立てるには家具の量が少なく、余計に広さを感じさせる。
入って右手に壁に埋め込まれるようにして大きなクローゼットが据え付けられており、収納スペースとしては申し分ない大きさである。
そして右奥の壁に大き目のベッドがあり、ベッドの隣には小さめのサイドテーブルが置かれている。
サイドテーブルには古めかしい形をしたアンティーク調のアルコールランプと読みかけであろう本が置いてある。
入り口の正面の壁にはこの館には珍しい出窓が据え付けられていて、厚手の生地の青の遮光カーテンが両端にキレイにまとめられている。
部屋の左奥には大きな黒檀の机があり、その上には乱雑に書類が置いてあり、彼女の日頃の仕事量をうかがえる。
「そんなに私の部屋が珍しいですか? 左にテーブルとイスがあるので待っていてください」
咲夜が左を指し示すとそこには対面式の小さな白い丸テーブルとセットの小さ目のイスが置いてある。
「あぁ、はい」
文は生返事のままちょこんとイスに座ると目の前に瞬時にして暖かい湯気を立ち昇らせる紅茶が注がれたティーカップが現れる。
「それで、今日は私に用事があるんですって?」
反対側のイスに座りながら咲夜が自分のカップに口をつけようとして眉をしかめる。彼女は猫舌なのだ、それも結構な度合いで。
「えっ、あっ、はいはい、今日は珍しくお休みだと伺ったので直接インタビューさせてもらおうと思いまして……」
咲夜に促された文は呆けたように部屋を眺め回していたを戻して手帳と万年筆を取り出す。
「今さら私にインタビューしてどうするつもり? 新聞っていうのは世間を伝える物でしょう、私の休みは世間的にどうなのかしら?」
言外に取材拒否の色を含ませながら問い掛ける。
「充分珍しいですよ、何しろ紅魔館のメイド長がお休みなんて滅多にある事じゃないんです、珍しければそれは取材対象ですよ」
ひとしきり部屋を眺めた文はいつもの笑顔に戻って、その目を好奇心に輝かせる。
「それで、なんで今日はお休みなんですか?」
「その質問にはお答えできませんわ」
一番初めの質問をぴしゃりとシャットアウトされた文は思わず息を詰まらせた。
出鼻を挫かれたが、そこは持ち前の記者根性を引っ張り出してまだ諦めないぞ、と自分に言い聞かせる。
「うーん、そう来ましたか……、あっ、お紅茶頂きますよ」
手元の手帳を見ながらひとしきり唸つつ、紅茶を一口頂く。唇を湿らすといい香りが文を包み込んだ。
「では質問を変えましょう、お休みはいつも何してるんですか?」
「うーんそうねぇ、特に何も、ですか。お嬢様とお茶したりお喋りしたり、溜まってる仕事を片付けたりもしますね」
返ってきた答えはやはり面白くない答えで、これでは記事になりそうも無い。
「なんとも面白みの無い休日ですねぇ、こう、主に隠れて溜めていたヘソクリをパーっと使って飲み歩く、とかはしないんですか?」
「そんな事しませんよ」
片方の眉をぴくりと跳ね上げて否定する。
どうやら休みの日まで仕事をしているらしいというのは本当だろう、そう言えば部屋の奥に置かれた大きな黒檀の机には彼女の性格には珍しく乱雑と置かれた書類の類を見ることが出来る。
と、そこで文は咲夜の顔色がやや青ざめているのに気が付いた。
「ふむ、お体の具合でも悪いのですか? 顔色が優れないようですね」
取材相手が健康でないならば邪魔しては悪いし、何より記事にならない。
確かに紅魔館にその人あり、とまで言われたメイド長、十六夜咲夜その人の体調不良はそれだけでゴシップネタにはなる物の、それは文自身の矜持が許さない。
――私の記事は確かに真実を伝えますが、他人の弱みを公表するような真似はしません、ペンは剣よりも強し、でしたっけ。
「そうですか? そんな理由は……無いのですが」
今までハキハキと答えていた咲夜が言い澱む。
「おや、何か心当たりでもあるのでしょうか? だとすればそれを伺いたいですねぇ……」
「な、なんでもないですわ」
一瞬だけ、本当に一瞬だけ咲夜が視線を逸らしたのを文は見逃さなかった。
それは記者としての直感ともいえる物だったのかも知れない。
その直感を裏付けるようにさまざまな情報が文の頭の中を駆け巡る。
そして文は一つの結論に辿り着いた。
文はふむ、と一人で頷くと紅茶を飲み、ティーカップを置くときに『わざと』万年筆にぶつかるように置いた。
かちん、と固い物同士がぶつかる音がして万年筆が弾かれてコロコロとテーブルを転がる。
転がった万年筆は文とは反対側、つまり咲夜の方へとテーブルから落ちてしまう。
「あぁ、すみません、近いようなんで拾ってもらえますか?」
少し慌てたように咲夜へとお願いする。
「はいはい、いいですわ」
そう言って咲夜は身を屈め、自らの右へと転がり落ちた万年筆へと右手を伸ばし――。
「はい、どうぞ」
拾って貰った万年筆を受け取りながら文は己の直感が真実である事を実感する。
「えぇ、ありがとうございます」
さて、どうやって切り出そうかと考えながら紅茶をまた一口飲み、唇を湿らす。
「あぁそうだ、写真を何枚か撮らさせて貰っていいでしょうか? なにしろ写真がないとインパクトが薄いもので」
にっこりと笑ってそう申し出てみる。
その笑顔はとても爽やかで、邪気なんてどこにも無い笑顔だった。
「まぁいいですけど……あんまり好きじゃ無いですわ、写真って」
カメラを取り出して席を立ち、何枚か写真を撮っていく。
「好きではない」という言葉通り、写真に写る顔はいずれも表情に乏しい写真がフィルムに焼き付けられていく。
カシャリ、ジー、ジー、 カシャリ。と写真を撮ってはフィルムを巻く音が室内に響く。
一枚撮る度に文は「ではすいません、右側から」「すいませんもうちょっと左を向いてもらえますか」などと注文が飛ぶ。
「しかし見事な銀髪ですね、艶もしっかりとしていて、綺麗な髪ですね~。伸ばさないんですか?」
カシャリ、ジー、ジー。
「伸ばしすぎると鬱陶しくて、手入れも面倒になるし……コレぐらいが丁度いいのよ」
「はぁ、そうですか、でもそれだけ髪の毛が健康だと伸びるのも早いんじゃないですか?」
カシャリ、ジー、ジー。
「まぁ……そうですね、でも美鈴は私より綺麗ですよ、アレで手入れがあんまりいらないんですって、ホント妖怪って羨ましいわ……」
そういって溜息をつく咲夜の憂いの顔を一枚撮ってから、咲夜の左に回りこんでレンズを覗き込む。
そこにはしっかりと文が見つけた特ダネが写り込んでいた。
カシャリ、ジー、ジー。
「そう言えば、昨晩はお楽しみだったようで」
「何でそんな事――あっ」
そこまで言って咲夜は自ら墓穴を掘った、と言う事を自覚させられる。
反射的に右手は右の首筋を抑えてしまってる事も追い打ちとなっていた。
体ごと文を振り向くとそこにはニヤニヤと笑う天狗の顔が待ち受けていた。
手に持ったカメラには首筋に残る二つの傷跡が収められているのは想像に難くない事であった。
そう、咲夜は前日にレミリアへとその血液を捧げており、右の首筋にその時の牙痕が残っているのだ。
首筋に牙痕と言う事はそこに直接口付けられている、という事であり年若い少女がつけるにはあまりにも恥ずかしすぎる傷といえた。
咲夜は自分の顔に血液が集まるのを感じたが、あわてて表情を取り繕う。
「ふむ、そのわりにはアナタはまだ人間ですね、同族にしなかった、という事実を考えると……」
ふむふむ、と手帳を取り出し、熱心に書き込み始める文をまさしくナイフのように鋭い視線で射抜く咲夜。
「あなた、今見た事は忘れなさい、忘れないと今晩のディナーは鴉料理になるわよ」
普段の言葉遣いすらも忘れて、永久凍土を思わせる冷たい声で文を脅す。
その言葉が嘘でない事は咲夜の表情が雄弁と語っていた。
「私としても生きて帰りたいですが……ことネタになりそうな情報は一つでも多いほうがいいので……」
じりじりと後に下がりながらも笑顔は絶やさない文は逃げ道を考える。
一番手近なのは出窓だ、しかしあからさますぎるであろう。
ならばいっそ奇をてらって廊下に逃げようか、しかしそれでは地の利で向こうが有利だろう。
いずれにせよ、出窓か廊下の二者択一ならば……。
「失礼しますよっ!」
ガバッと身を翻して文は廊下に身を投げた!
「待ちなさいっ!」
出窓から逃げ出すと読んでいた咲夜は予想外の文の行動に反応が少し遅れてしまった。
急いで部屋の出口から飛び出した文は少しでも時間稼ぎになればと叩きつけるようにドアを閉めて飛び出す!
廊下に飛び出し、文字通り飛んで逃げる文の後ろで轟音とともにドアが蹴り開けられらるの見て愕然とする。
メイド服のスカートなのに蹴りでドアを開ける辺り、咲夜の怒り様がうかがい知れるという物だろう。
「……これは失敗でしたかね?」
そう呟いて文は廊下を飛ぶスピードを上げた。
上に向かえばテラスなりなんなりあるだろう、そこから外に出てしまえばとりあえずやり過ごせるだろう。
まずは紅魔館から出なくてはならない、なんせ鴉料理なんて聞いたことも無いが今の咲夜ならやりかねないのだから。
廊下に逃げ出したのは成功だったのだが、やはり相手のほうが地の利があるので長居などしていられない。
とりあえず相手から見つからない事が重要である、咲夜の時間停止の前には直線距離などまさしく無いに等しいのだ。
「逃げられないわよ! 出歯鴉!」
後からやはりいつもの瀟洒な姿からは想像もつかない怒声が鳴り響き、文の周りをナイフが通り過ぎて行く。
「本気ですかー!?」
文は手近な角を減速無しで右に曲がろうとするが、スピードを殺しきれそうも無い。
文の体は外へと流れ、壁に吸い込まれるように激突する――――瞬間!
「くっ!、このっ!」
ガンッと壁を一蹴! 勢いを前方向に変換させ、スピードを殺しきることなく曲がる事に成功!
しかし壁を蹴った次の瞬間には無数のナイフが壁に突き立って文を追い立てる。
「やはり命あってのモノダネ、ですねぇ」
冷たい汗を感じながら文はさらにスピードを上げて紅い廊下を駆け抜けた。
4
デタラメに幾重もの角を曲がり、長い廊下を最高速で駆け抜け、後ろも見ずに気が付けば後にあの鬼のメイド長の姿は無かった。
「外に出るにしても、窓は少ないし、通路は長いし、来た時の道は覚えてないし……とりあえず上に向かいますか」
スピードを落としてゆっくりと周囲を探るように館の中を見て回る。
改めて見回してみるが、どう見ても建物の外観よりも館内の空間の方が広い。
噂ではこの館の空間は咲夜が操作しているらしい。ならばなるほど、確かに時間と空間は密接な繋がりがある。
そこまで考えて文は自分の失策に気が付いた。
ならば、咲夜の方がこの館の中では圧倒的に有利なのではないか―――――。
背筋に氷柱を刺し込まれたような、ぞくりとしか何かが文の体中を走り抜ける。
ここは、まずい。一刻でも早くこの館から出なければ――!
冷たくなったはずの体が急に熱を帯び、逆に灼熱のように熱くなって体を包む。
自然と息が荒くなり、頭の中が上手くまとまらない。
落ち着けという言葉が脳内を埋め尽くし、弾き出される答えはここから出ろ、という以外の言葉を提示しない。
とにかく目に付いた階段を飛び上がり、上を目指す。
やがて最上階へと着いたのか階段が途切れ、廊下へと飛び出すと突き当りには大きな両開きの扉が据え付けられてある。
最上階にはそれ以外に扉は無く、また窓も存在しない。
体当たりをするように扉を押し開く。
まだ日は高く、冬とはいえ雲の少ない抜けるような青空が。
ナイフで埋め尽くされた。
「インフレーションスクウェア、銀の檻へようこそ」
見上げるナイフの空には全てを従えた咲夜が両腕を組んで文を見下ろしている。
大半は咲夜の魔力によって生み出されたナイフであるのだが、まさしく全天を覆っている。
もはや本数を数えるのが馬鹿らしいまでの量、軽く4ケタはあるだろう、いやもしかしたら万の位かもしれない。
果たしてこの銀の檻に捕らわれていたのは文なのか、それとも咲夜自身なのか―――。
「そうですか、全てはあなたの手のひらの上、でしたか」
全てを理解したかのように文が呟く。
空中にたたずむ咲夜は表情を変えずに無言を維持して文を見据える。
その無言を肯定と取ったのか文は言葉を重ねていく。
「窓の無い廊下が長いのも、空間を操って広く見せかけたりしたのも、その一方で逆に空間を縮めて圧迫感を出すため……でしたか」
それでも、咲夜は言葉を発しない。
「圧迫感を与えたところで空間を支配するあなたの存在を思い出させ、館の中では敵わないと焦燥感を与え、外へと誘導させる。
そこで再び空間を操り獲物をここまで誘き寄せる。……見事な手品です。」
そこまで文が理解したのを待っていたかのように咲夜が口を開く。
「そこまで理解できて、籠の中の鴉はどうするのかしら?」
今や籠の中の鴉にに空を飛ぶ自由は無く、この銀色の世界ではナイフに従うしかない事は解りきっている。
そしてそれ以上に文は出し抜かれた、という意識よりも、咲夜の見事な手品に感嘆する気持ちが勝っていた。
「完敗です、写真はここに置きます、そしてこの事を記事にする事は無いと誓いましょう、私の記者としての矜持に賭けて」
そう言って文は写真を取り出すと無造作に床にばら撒く。
それ以上写真が無い事をポーズで示した文は両手を広げて無抵抗を示す。
「最後にいくつか聞いてもよろしいですか?」
帰ってくるのは沈黙にして、それは肯定のサイン。
「あなたは人間ですか? それとも妖怪ですか?」
「私はどこまでいっても人間ですわ」
「ならばあなたは時間ですか? それとも月ですか?」
「いいえ、私は時計です……そういうあなたは本当に記者なのですか?」
「その答えは否、です。天狗とは語り伝える者、語り部なのです」
「そう、質問は終わりかしら?」
「はい、とても興味深いお答えでした」
「好奇心は身を滅ぼすわよ」
「私は猫では無いのですが、程々にしておきますね」
咲夜が腕組みを解いた瞬間に全天を覆っていたナイフが掻き消える。
ナイフが消えた空は青く高く、そして雲も少ない。
「それでは失礼させていただきますよ」
そう言って文の体がふわりと浮かび上がる。
「お体にはお気をつけて、またのお越しをお待ちしておりますわ」
咲夜はスカートの端をつまみ左足を軽く下げ、小さく、しかし瀟洒に頭を下げて文を見送る。
「お紅茶、ご馳走様でした、とても美味しかったので今度はお茶菓子を用意してきますね」
文は風とともに去っていった。
5
彼方へと飛び去った文を見送り、咲夜は盛大な溜息をつく。
「まったく、あの鴉はこんな写真でどんな記事を書こうとしたのかしら」
「そうね、見出しは『紅魔館の裏側を切る!! 主と従者の意外な関係!!』かしらね」
声とともにテラスの片隅から小さな日傘がぴょこぴょことやってくる。
「お嬢様……見ていらしたんですか?」
紅魔館の主、レミリア・スカーレットである。
吸血鬼がまだ日も高いというのに日傘一本で歩き回る主に咲夜は2度目の溜息をつく。
「誰かさんがドアを蹴り飛ばす音で目を覚ましたわ」
「それはそれは、今度あの鴉にはよく言って聞かせますわ」
主の嫌味に咲夜は涼しい顔で自分の責任を文になすりつける。
「あなたが蹴ったんじゃない……」
「ですから、今後私がドアを蹴るような事をしなくてもいいように、鴉に言い聞かせるのですよ」
さもあの鴉だけが悪いと言わんばかりの返答にレミリアも苦笑してしまう。
「あぁ、咲夜、紅茶が飲みたい――ってあなたは今日はお休みだったわね」
「紅茶ぐらい淹れますよ」
それが当然、と言うように微笑んで返す咲夜。
「じゃあ、淹れてきて頂戴。正直あなた以外の淹れた紅茶は一味足りなくてねぇ」
「私の紅茶は特別ですよ、特別な物が入ってますので」
咲夜の返答に振り向きもせずに片手を挙げて戻っていくレミリアの背中に向かってポツリと呟く。
「……それは愛情ですわ」
――――了――――
短い文章の中にもスピード感と緊迫感があってとても楽しめました。
しかし作り方がうまいですねぇ。
それにしても。
――昨晩はお楽しみでしたね。
文は2,3の前提条件を見てカマかけたようですが、この言葉の出典の人はどのようにして知ったのでしょうね、作品とはあまり関係ありませんがw
今年度、これからも良い紅魔館、咲夜を魅せてください。
うぅむ、咲夜さん 手品師の本領発揮、と言ったところでしょうか。メイドですけど。
ところで昨晩の様子はいつごろねちょろだに投下さr(ザ・ワールド
うーん、愛だなぁ。
そんな事より昨晩の様子を事細かに、
それはもう細部に至るまで描写された記事を見落としてしまったようです。
何処に行けば見r
かっちょいい咲夜さんキター!
相変わらず素敵で瀟洒な台詞回し。やっぱ咲夜さんは良いなぁ。
希少品、それが物であるならば或いは金を積めば手に入るかもしれない。
しかしそれが形を持たないものとなれば、なるほどなんとも希少な希少品ですね。
この羨ましくも美しい主従にはいつまでも幸せであって欲しいものです。
あと、追いかけっこのシーンは天狗になった気分でハァハァしながら読みました。
さすが咲夜さん!さすが紅魔館!いぇー!
ごちそうさまでした
これはもうご馳走様としか。
かっこいい咲夜さんはいいものです。
珍しく(苦笑)コメントが多くて狂喜乱舞しております。
>銀の夢さん
スピード感を感じてもらえてありがとうございます、スピード感出すの苦手なので……。
>bernerdさん
他人様のツボにハマる文章が書ける事ほど嬉しい事はありません。
今年もよろしく見放さないで下さい。
>鱸さん
誤字のご指摘ありがとうございます orz
昨晩の様子ですか? さてはて……(ニヤニヤ
>近藤さん
世界は愛でできています(ぉ
昨晩の様子をスキマに落としてしまいました。それでもよければ探して見て下さい、きっと見つかると思います。
>床間たろひさん
素敵で瀟洒な台詞回しは常に心がけてますw
特にラスト付近の掛け合いは気を使いましたw
>名前が無い程度の能力さん
純粋な気持ちはそれだけで希少であり特別ですよね。
追いかけっこのシーンに緊張感を出せてホッとしてます。
>二人目の名前が無い程度の能力さん
満点ありがとうございます。
自分がいつも気にかけている「らしさ」を感じてもらえて感謝しております。
>おやつさん
強く結ばれた絆は愛と言っても差し支えないでしょう。
咲夜さんはカッコよくて瀟洒ですよw
>コイクチ
100点ありがとうございます。
ただ、自分の目指す文章にはまだまだ到達できてないので、精進させていただきます。
相変わらずの遅筆ですが、今年も見捨てられないようにがんばりますので、よろしくお願いします。