*ご注意のお願い*
今更ですが、花映塚のネタバレっぽいものがあります。
多分今まで以上にオリジナル要素が強いです。原作も一部無視している気がします。
性的表現と多少のホラー、暴力的描写があります。
その上陰湿なお話です。
以上の点で一つでも嫌悪なさる方は、大変申し訳ないのですがご遠慮をお願いします。
「Melancholy Flower」
アリスが糸を操る手を止めた。
魔法の森、マーガトロイド邸。日中太陽も高いが、圧倒的に生い茂る木々に遮られ
光は殆ど差さない。
アリスは針を山に戻し、一つため息をついた。
両手で自分が作り上げた人形を持ち上げる。
命持たない人形は、当然力なく両手足をぶらんと垂れた。
だが。
閉じた両目、肌の色、髪の質……まるで生きているような存在感。
その人形は、アリスが今まで作り上げてきた人形の中でも最高の出来であった。
しかしアリスは微笑まない。
持ち上げて、ランプが放つ薄い光に晒して見ているその顔色は、険しい。
アリスが作ってきた人形達の中でも、最高に出来の良い人形。
生きているかと見間違えるような人形。
これを作る事は、実はアリスにとってさほど難しい事ではなかった。
もちろんかなりの技術と材料、時間、根気等が必要だ。さほど難しい事ではないと言え
何か一つでも欠けたら出来上がらない。それに失敗する可能性もある。百発百中ではないが、
作ろうと思い下準備を完璧にして望めば、八割以上でこれくらいは仕上げられるのである。
だが、今までアリスは、こういう人形を作ろうと思ったことを一度も無い。
これは……既に、人形の域を超えているからである。
あまりに『生の存在感』を持ち過ぎた人形は既に人形では無い。
魂の無い人の器だ。魂を入れる空の容器だ。
故に、そこには魂が宿り易い。いやここまで完璧な器なら、放っておけば間違いなく
魂が宿る。そうなればそれはもう、生き物である。人間でも人形でもない生き物。かと言って
妖怪でもない、酷く虚ろな存在。
アリスはそんな命を生み出す事を罪と考えていた。望まれず、愛されず、遂行すべき命すら
持たない生き物を生み出すなど、閻魔も激怒する深き深き罪である、と。
だから今まで、技術は有れどこんなものを作り出そうなどと考えなかったのである。
なのに、今彼女の両手は、その忌むべき物を生み出し持ち上げている。
自分が生み出したモノに嫌悪するなどという状況を招く切っ掛けは、一週間前にあった。
アリス・マーガトロイドは妖怪である。
妖怪とは人を襲い喰らう存在。そして人に退治される存在。
だが中には人間と共存しようと考える者も存在する。理由は様々であるが、アリスも
その中の一匹であった。決して人を襲わず、人間と同じ食料を食べて生きている。
だがそれでも、人間と完全に一緒になれるかと言えば、それは違うと断言出来る。
何故なら人は、己を食料とする妖怪を激しく恐れるからである。存在自体がある日突然に
自分の命を奪いかねないのだから、恐れるのは当然であろう。
人間と妖怪が一所に居れば、人間は妖怪を恐怖する。
そして人間に力があれば、妖怪を滅する事を一番に考える。
だからアリスがどれだけ人と共存を望もうとも、一緒になれる事は無い。
もっとも彼女が共存を望むのは、ある一部の人間と一緒に居たいからなのだが。
さて、そういう訳で、人と共存を望む為に人の立ち入らぬ魔法の森深くに住む
アリスではあるが、人と同じ生活を営もうとすれば当然必要なものがある。
人の流通に沿うならば、貨幣というものは絶対に必要だ。
月に何度か人里に出向いて、アリスは自慢の人形達を使った芸を披露していた。
ただの街頭芸では片付けられない見事な演劇に、あっと言う間に有名となった。
アリスがいつもの場所に立つと、何もしないでも人が集まってくる。人形劇を見るに
相応しい年頃の子供達から、若者、中年、年寄りまでが集まってくる。
アリスが紡ぐ物語は、人間にとって新鮮で面白い。その上に人形の操りがまるで生きて
いるかのような見事さであるから、それは老若男女問わず惹き付けるに十分なのであった。
語られるストーリーは、短ければ一回で、長ければ十回を超えて演じられる。
だから続き物であれば、同じ顔が何度も見に来るのは当然である。それに演劇を楽しみに
毎回顔を出す人間は多く、珍しいことは無い。
だが、いつしかアリスは、毎度やってくる一人の男を気にかけていた。
男は客の中に入らない。遠くからぼんやりとこちらを見つめている。そこではとても
アリスの声など聞こえず、演劇の内容を理解しているとは思えなかった。
劇が終わると、人々は思い思いの金額をアリスに渡して去っていく。
だが男は一度も金を払う事が無かった。
劇の見物料は演じる者が決める事ではない、見た者がその価値を決める。
アリスはそう考えている。
だから金を払わない者を咎めようとは思わない。それは自分の腕に、相手を感動させるだけの
技量が足らなかっただけだ。
物語を聞かず、何を楽しむ事も無いのに、毎度のように訪れる男。
何を思うのか気になっていた。
一度アリスが、劇に集中する事を止めて男を見た事がある。
男はアリスも人形も見てはいなかった。別の何かをじっと見つめている。
すぐに意識を劇に戻した為、男が何を見ていたのかは解らなかった。
ある日の、劇が終わり人々が去っていった直後の事である。
「君に頼みがある」
男が始めて語りかけてきた。
アリスが自らの手で忌むべき物を生み出した日の一週間前だった。
「お断りさせてもらうわ」
アリスは男の顔も見ずに、舞台を片付けながら言った。
「何故だ」
「失礼だからよ。名も名乗らず、相手の意向も聞かず、自分の都合だけを押し付ける
初対面の相手に、どうして友好的になれると言うの」
男は苛立っていた。
「僕はこの町の名士の跡継ぎだ。この町で僕の父を知らない者は居ない」
「生憎ね、私はこの町の人間ではないから存じませんわ」
片付けを終え、すっと立ち上がったアリス。
男はその腕を掴み、強引に自分の元へ引き寄せた。
されるがままのアリスの胸元に右手を押し付ける。大量の金が握られていた。
「これでも足りないなら、まだくれてやる」
「……私を買う気?」
アリスはその手を退けようともせず、険しく男を睨む。
「違う。僕が欲しいのは人形だ」
その威圧に臆する事無く男が言った。
「…ただし、お前がさっきまで使っていた人形じゃない」
「異な事を。じゃあ、あなたが欲しいのは何だと言うのよ」
「お前の使う人形は、お前が全て作っているのだろう?」
「何故そうだと?」
「そこらの人形とは明らかに出来が違う。お前の人形を操る技術もあるんだろうが、あれが
生きているように見えるのは人形の作りが良いからだ」
「……何が言いたいのかしら」
「僕が欲しいのは、もっと、限りなく、人間に近い人形だ。お前はそれを作れるか?」
「作れないわ」
「ならば作ってみせろ。そして僕に売れ、言い値で買ってやる」
「……人に近い人形なんて業の深いもの、何故欲するの」
男はアリスの腕を掴んだ手に力を籠め、その顔と自分のそれを間近まで近付けた。
「僕はお前の人形劇など興味が無かった。僕が毎度楽しみにしていたのは、お前の
人形劇を見に来る女達だった」
「…言ってくれるわ。だったらご自慢の財力で好きなだけ買ったら如何?」
「闇で売っているのは熟れた女だけだ」
「……何ですって」
「僕が欲しいのは、まだ何も知らない未成熟な女だよ」
その瞬間アリスは、間近の男の顔に激しく嘔吐を催すほどの嫌悪感を持った。
この穢れきった手に触られている事が堪らなく嫌になって、男を突き放す。
その容姿は可憐な少女だが、幻想郷でも強力な部類に入る妖怪。力はある。
細腕から繰り出された思わぬ力に、男は軽く引き剥がされて尻餅を付いた。
「……汚らわしい…!」
「お前に僕を理解してもらおうとは思わない。だけど、この町で、僕が手を汚す事は
出来ないんだよ」
…見えていないのか。アリスは身震いする。
その両手が既にどうしようもないほど汚れている事、男はまったく見えていない。
「人形なんぞ代わりになるものかと思った。だけどな、お前のを見て考えは変わったよ。
お前の手で作られた人形なら、僕は満足出来るかもしれないんだ」
「…断ったら?」
男は立ち上がり、あちこちに付いた埃を叩いて掃った。
「お前が何者か知らないが、僕に逆らうのは止せ。この町で二度と演劇など出来なくなるぞ」
正直、アリスはこの男を殺してしまいたかった。
目に映すのも嫌なほど穢れたこの者など、殺しても世界に被害はないだろうに。
だが。
人の世界で生きていくと決めた以上、それは出来ない。
妖怪の視点で人を殺めてしまえば、その瞬間から人との共存は不可能になる。
……退治されるべき妖怪になってしまうのである。
「……解ったわ」
少し間を置いて、アリスは言った。
「金など要らないわ。二度と私に近寄らないと約束するなら、あなたの望む人形を
作りましょう」
男はにやりと下卑た笑いを浮かべ、
「約束しよう」
と、答えた。
アリスの抱える人形は男の欲望を叶える為に、限りなく人の少女に近い。
出来たばかりで全裸であるそれは、男が欲望を抱くであろう箇所も細部にいたるまで
完璧に作ってある。
人の少女と違うのは、もはや材質と意識(命)の存在だけだ。
あらかじめ作ってあった服を着せる。赤と黒を基調としたドレスを。
金色の髪に赤いリボンを飾った。
「……あいつがこれを見たら、何と言うかしら…ね」
ぼそりと呟く。
そして装飾された綺麗な箱の中に、人形を入れて蓋を閉めた。
町の一角、高級住宅が並ぶ場所。
その中でも男が住む館は一層大きく、華やかであった。
アリスは出迎えた執事に案内され門をくぐった。中庭の噴水に目をやりながら
館の中に入っていく。
ロビーの階段を上り二階へ。いくつも並ぶドアの一つ、その前で執事が足を止めた。
ノックをする。
「入れ」
聞き覚えのある声だ。
また嫌な相手と会うという暗い気持ちを抑え、執事が開けたドアに入った。
客間のソファに男が座っていた。
男はアリスにも座るよう促したが、アリスはそれを無視した。
早足で男の近くに歩み寄り、テーブルの上に黙って持ってきた箱を置いた。
男は黙ってそれを開ける。
「……素晴らしい」
息を弾ませた声。
「この質感…まるで生きているかのようだ。眠っているかのようだ」
男はゆっくり指を近付け、人形の頬に触った。
すると、ゆっくりと、瞑っていた目が開かれた。紫色の瞳が男を見つめる。
一瞬吃驚したが、やがてその瞳に目を奪われた。吸い寄せられるように己の顔を近づける。
そして……
「!」
アリスは目を瞑って視線を逸らした。
男が、人形の頬をべろりと舐めたのだ。その姿の…何と醜悪な事か。
その口から笑いがこぼれる。くくく、と、下卑た笑いが。
「…約束よ、二度と私に近付かないで」
逸らした視線を男に戻さず、アリスはそのまま背を向けて、入ってきたドアに足を運んだ。
「待てよ。お前、家で雇われないか。あんな小さな舞台じゃなくもっと豪華なモノを用意して
やるよ。それに貴族の連中にも紹介してやる。あんな場所で程度の低い愚民なんぞ相手にするより
よほど良い客になるぞ」
アリスは足を止めた。
だが顔は向けない。何故なら、
「…私が、そんな業の深いモノを作った理由はね。あなたのような人間に関わらず、この町で
上手くやっていく為よ」
二度と男の顔を見たくなかったからだ。
部屋を出て、ドアを閉めた。
「……フン」
男が小さく鼻を鳴らした。
アリスの繕った紫色のドレスは、箱から出された瞬間に引き裂かれた。
特殊な製法で作られた皮膚は丈夫でありながら、質感は限りなく人間に近い。
どこもかしこも嘗め回す男、涎を拭おうともせずその感触に酔いしれ、笑った。
荒い息。
そして、その歪んだ欲望のカタマリを、人形の全身に幾度も吐いた。
毎日。
飽きる事無く。
ろくな手入れもされない人形は、見る見る汚れていった。
男の欲望の色に、まさに染まったかの様に。
美しかった金色の髪もばさばさに荒れてしまった。
その体にはすっかり異臭が染み付いている。
閉じた両目は、もはやどこを触っても開く事は無かった。
最初は毎晩のように人形と戯れた男ではあったが、
人形が徐々に汚れていくと、次第に興味を失っていった。
だが男の中の欲望が枯れた訳ではない。
いや、寧ろ人形が使い物にならなくなるにつれ、それは肥大化していった。
男のベッドの上に、元の美しさなど面影も無いほど汚れた人形が横たわっている。
男は虚ろな瞳でそれを眺めていた。
好きなだけ欲望を吐き出すことを憶えてしまった。我慢出来る程にも、すでに男の
モラルは残っていなかった。元々そんなものは少なかったのだ。
だけど目の前のガラクタでは、もう滾る欲望を吐き出す対象にはなり得ない。
開けっ放しの窓から風が吹き込んでくる。
同時に、子供達がはしゃぐ声も聞こえた。
男が窓から顔を覗かせる。
この辺りは上流階級者のみが暮らす住宅街。だが広くて綺麗な公園があって、時折
平民の子供達が遊びに来る事がある。
男の子二人に女の子一人、噴水の周りで仲良く遊んでいた。
その、長い黒髪の、整った顔立ちの少女を見て、
男が舌なめずりをした。
そして男が冷静になったのは、酷く溜まっていたモノを存分に吐き出した後である。
自分のベッドの上、全裸で座っていた。
体中、体液でべとついている。
自分の隣に、長い黒髪の少女が全裸で転がっている。
少女は全身にあざを付け、右手と右足があらぬ方向に曲がっていた。そして首筋に真っ赤な
手の後がくっきり残っている。目は見開いたままであった。
「…はぁ……はぁ……」
それを見る男は、それでも心地よいと思える疲労感の余韻に浸っていた。表情は笑っている。
「はぁ……はぁ……はは、くははは……」
声が漏れる。狂気の笑い。
「ははは、あはははは……、は」
男の視界に、あの人形が入った。
ぴくりとも動かぬ少女の傍らに、まったく同じように転がったアリスの人形。
壊れて開かなかったはずの両目が男を見つめていた。
「ひっ」
小さく悲鳴をあげる。
同じベッドの上で暴れていたのだ、触ったり叩いたりは知らぬ間にしていただろう。
その時に偶然スイッチが上手く入って、両目が開いた…おそらくそれが正解。
それでも、
壊れてもなを人に近い人形は、
まるで、
少女の怨念が乗り移ったかのように、
紫色の瞳に底知れぬ闇を感じさせながら、男をじっと見つめ続けていた。
男は恐怖する。
乱暴に人形を捕まえると、アリスが持ってきた箱の中にねじ込んで蓋を閉めた。
外はまだ真っ暗であった。
男は数人の兵と共に町を出た。
その兵の内二人、手には人形の箱と黒い布で包まれた少女。
馬を走らせ、ぐんぐん町から遠ざかっていく。
こんな時間に、例え護衛が居たとしても、人里を離れるのは異常である。何故なら
今この時間こそ、人を喰らう妖怪が跳梁跋扈するからだ。
喰ってくれと言っているようなものだ。
だが男はそんな事など気にも留めない。
ひたすら馬を走らせ、人の居ない方へ…人の行かない方へと進んでいった。
それから。
アリスが人形を渡してから、実に半年が過ぎていた。
相変わらず彼女は町に赴き、人形劇で稼ぎを得ている。
評判も上場。彼女が舞台を開くと、必ず大勢の人が見に来るようになっていた。
「おい女、劇を中断しろ」
劇の最中である。
数人の兵士が見物客を除けて割り込んできた。
アリスの手が止まる。今まで生きているかのように動いていた人形は、元の無機物的な
状態に戻ってしまった。
兵士達がアリスを囲む。
客達は後退し、遠目から見るかすごすごと逃げていく者達かに分かれた。
「…どういう事かしら」
大柄の、武装した兵士達に囲まれながらも、アリスはそれらを睨みながら言った。
「女、お前は貴族に対し敵対行動をとったという疑いがある」
兵士の一人が、構えた剣の先をアリスの顔に近付ける。
「敵対? 私はこの通り、人形を使って劇を演じているだけですわ。それがもしや、貴方達の言う
敵対行動になるとでも?」
「我々はお前を捕らえるように命令されている。一緒に来てもらおうか」
……この者達では話が通じない。
アリスはそう思い、やれやれとため息をついた。
「…解ったわよ。今舞台を片付けるから」
兵士は突き付けた剣を収めない。
「……片付ける暇さえ与えないと言うの?」
仕方なくその誘導に従う。アリスの両手に手かせがはめられる。
その気になれば容易く破壊出来るのだが、今は大人しくしておこうと思った。
町の者達が見守る中、アリスは罪人の様に連行された。
その行き先とは、
「……反吐が出そうだわ」
いつか見た門を見て呟く。
そこは、あの人形を渡した男の屋敷だった。
以前とは違い物々しい警備に固められている。
執事ではなく、門を開けたのも兵士であった。
いつぞやに案内された時と違い、今度は強引に連れ歩かされた。
前と同じ部屋に連れて行かれる。
同じソファの上に、二度と会いたくないと思っていた男が座っていた。
目の下は真っ黒で、異常に痩せこけている。
ぎょろりとした目は落ち着かず動き、瞬きし、アリスを見ていた。
―――以前見た時より醜くなっているわ。
手かせを壊して立ち去りたいのを堪え、兵士の誘導のまま、男の対面にあるソファに座った。
「―――お前達、外せ。部屋の外で待機していろ」
男が言う。兵士達は顔を見合わせてその言葉を疑った。
だが男が睨むと、一礼して去って行った。
バタンとドアが閉められる。
「……約束はどうなったのかしら」
低い声でアリスが言う。
「お前、拾ったのか」
男の言葉は、アリスの質問に答えたものではなかった。
「拾った? 何を」
「お前に貰ったあの人形だ」
「……捨てたのね」
「捨てた。ああ捨てたはずさ…! 町から遠く遠く、人の立ち入らない森と山の奥にな!」
男が右手の、親指の爪を噛んだ。
「だのに、アレは毎晩やって来る! 気が付けば隣にある! でも次の瞬間にはどこにも
ないんだ!」
「それを私の仕業と考えた……でも違うわ。私はあなたと関わりたくないんですもの」
「じゃあアレは何だ!?」
「あなたが愛した人形でしょう」
男が黙った。
「…いい? 人形とは人の形を模したもの。だから、それを人形として使っていればそれ以上の
意味など無かったし、別のものに変異することも無かった」
「……変異だって?」
「そう。人形が人形としての存在理由を失った時…それは意識の入っていない空の器になる。
ましてあれほど人に近い造形なら、意識も芽生えやすいし魂が入り込みやすいはずだわ」
「…魂だと」
「肉体を失った人の残留思念と思えば解りやすいかしら……憎悪とか、ね」
憎悪。その言葉を聞いた瞬間、男の体がびくりとすくみ上がった。
「…心当たりがあるみたいね」
男の顔色が酷く青ざめる。
「…し、知らん」
「本当に?」
「僕は何も知らない! 僕は何も悪くない!」
男は立ち上がった。恐怖に引き攣った顔でアリスを睨む。
「わ、悪いのはお前だ! そうだお前だ! お前が僕に雇われていれば、僕が人形を
捨てる事も無かった! お前は捨ててはいけないなどと一度も言わなかったじゃないか!」
アリスはため息を吐いた。
「…あなたに会う前に、あいつと出会えて良かったわ。もし順序が逆だったら、私は人間を
嫌悪していたかもしれない」
「何だ? ああ何を言っているんだ!?」
掴みかかろうとする男の目の前に、枷に封じられた両手を突き出す。
男が動きを止めた。
手かせが青白い炎をあげて燃え盛り、瞬時灰になって消滅した。
見ていた男が驚愕する。
やっと理解したのだ。ずっと人間だと思っていたこの少女が、実は人の天敵である妖怪だ、と。
自分より弱い存在だと思っていた者が、その正体はいつでも自分を殺せる化物だった、と。
「…人形はどこへ捨てたの?」
尻餅をつき震える男に、立ち上がったアリスが睨みつけて問う。いや脅迫する。
「……」
男はガチガチと奥歯を鳴らし、答えない。
アリスが青白く光る右手を男に翳す。
男はびくりと固まった。
「二度も聞かないわよ」
「…!」
震えて上手く喋れない。
途切れる声と指差す方向で、アリスは大体の目的地を割り出した。
「……あなたがどうなろうと、知った事ではないけれど」
その部屋を出て行く前に、振り返らずに男に言った。
「その矮小な欲望で生まれてしまった命は、あまりに可哀想だわ」
最後まで男を見ないまま、そのドアを閉じた。
その日の夜。
男の部屋は武装した兵によって囲まれていた。
屋敷の外も、中も。通路から全ての部屋まで。もちろん男が眠ろうとしている部屋にも
数人ずつ配置されていた。
それでも男は怯えていた。
右手、親指の爪は噛みすぎてボロボロになっている。
「…一晩中、我々がお守り致します。どうか安心してお休みください」
兵がその言葉を三度使い、やっと男は眠りについた。
始めは少しの物音にも敏感に反応していたが、元々体力も著しく低下していたから、眠ると
なればすぐに深く沈んで行った。
しばらくの後。
…静かだ。
男はまどろむ意識で、ぼんやり思った。
…静か過ぎる。
男の意識が一気に覚醒する。
布団を跳ね除け上半身を起こす。
「…! げふっ!」
呼吸が苦しい。涎を撒き散らしながら咽た。
匂いがする。
植物の香りのようだが、その正体は検討も付かない。植物などこの部屋には存在しないからだ。
「だ、誰か居ないのか…! 苦しいんだ…!」
返事は無い。
物音もしない。
辺りを見回してみれば、
警護をしていたはずの兵達は、床に寝たままぴくりとも動かない。
呼吸をする動きすら無い。
ベッドから体を引き摺り降りて、仰向けの兵を寝返らせた。
目を見開いて死んでいた。
「ひっ…!」
男は手を離し身を引いた。
体が重い。自由に動けない。そして途轍もなく苦しい。
這い蹲って、出入り口のドアに向かって手を伸ばした。
キキキ…
奇妙な音が聞こえる。
後ろから聞こえる。
恐る恐る…男は振り返った。
先ほどまで自分が寝ていたベッド、その上。
全裸の、ボロボロの、男が弄んだ人形が居た。
「!! …あ…!」
恐怖と苦しさで声も出ない。
逃げようにも体が言う事を聞かない。
人形が動く。
人の体の動かし方を知らない、そう思わせる移動。四つん這いでカクカクと蛇行しながら
ゆっくりと男に近付いてくる。
「く、来るな…!」
声を絞り出す。
人形は聞かない。少しずつ距離を縮めてくる。
「来るな…!! く、来るなぁ…!!」
涙も鼻水も涎も漏らしながら、擦れた声で哀願する。
人形は聞かない。男の間近まで迫ってきていた。
ぱ、ぱ。
人形の口から声が聞こえた。
いや、それは声のように聞こえる奇妙な音だ。
それは確かに言った。「パパ」と。
「あ、あぁ……!」
男が漏らした声は、必死に捻り出した悲鳴。
ぱぱ。
「キキキ…」
わたし、うらんでないよ。
すてられたこと、うらんでないよ。
「キリキリキリ…」
わたしがうごけないから、ぱぱはわたしをすてたんだよね。
わたしがうごけないから、うごけるひとをあいしたんだよね。
「キキキキキキキキキ」
でも、わたし、うごけるようになったんだよ。
わたしも、ぱぱを、あいしてあげられるようになったんだよ。
人形が男の右足を握る。
それを捻り、
千切った。
「あぁぁ…!」
目を見開く男。顎が外れんばかりに口を開けるが、出でるのは擦れた小さな声。
鮮血が飛び散る。男の纏う白のガウンが染まる。
ぱぱがあのひとをあいしたの、みてたの。
だからしってる。
あいするって、こうやるんだよね。
今度は右手を握り、へし折った。白い骨が皮膚を食い破って露出する。
「あぁ、あぁぁ…!!」
男の口の端から泡が漏れた。股間がびしょびしょに濡れていく。
ほら、わたしもぱぱをあいせる。
ここからなにかをだすの、ぱぱがわたしをあいしてくれているからだよね。
うれしい。ぱぱ、あいしてる。
その両手は男の体を伝い、上り、
か細く呼吸の動きをする喉を押さえた。
「た、助けて…!」
喉が圧迫される。舌が突き出て目玉が浮き出る。血の涙が頬を伝った。
「か、かふぇへぇえ…!」
指が食い込む。皮膚を破って突き刺さる。
勢い良く噴出する血液。人形はそれを全身に浴びた。
ぱぱ。いいよ。もっとかけて。
もっとわたしをあいして。
わたしも、もっと、ぱぱをあいしてあげる。
ぱぱ、すきよ。すき。だいすき。あいしてる。
あいして、して、アイ、アイシ、テル、テル、シル、アイ…
男はもう生きてはいなかった。
だけど人形は、その体を、自分がそうされたように貪った。
男であったものを、原型を留めなくなるまで、全身に擦り続けた。
夜が明ける。
太陽が昇り、大地を照らしていく。
アリスの美しい金色の髪が、風に揺れてきらきらと輝いた。
足元には朽ちた死体が一つ。黒い布に包まれ、顔だけを覗かせていた。
そしてアリスが立つ大地は、彼方までそうであるかと思わせるほど群生した花に
支配されていた。
白い花。
鈴蘭だ。
障壁を張ってもなを体を蝕むほど、強力な毒が辺りに充満していた。
とさり、と、音がして、アリスは振り返った。
いつそこに現れたのか。ボロボロの人形が倒れている。
「…そう。そういう事だったのね」
アリスはゆっくりと歩き、人形に近付いた。
抱き上げてみる。両目を瞑り、ただの人形であるかのように動かなかった。
人形は、恐らくアリスが作り上げてから程なくして意識を持ったのだ。
ただそれは、何の目的も感情も持たないから、無いに等しい存在だった。
それに意味を与えたのは男の欲望だ。
人形は男に必要とされ、その意識に明確な目的を持った。男が自分を愛してくれたように
自分も男を愛そうという目的を。そこから感情が芽生えるのは難しい事ではない。
だがいくら意識を持っても、人形はただの人形であり、人に弄ばれる物でしかなかった。
そして自分が朽ちていくほど、男の愛も遠退いていった。それは芽生えた意識にとって
まさに死を意味する。人形はそれに全力で逆らった。
少女の怨念が大地に染み、無何有の『ここ』には『それ』が満ちた。鈴蘭の花という存在を
もって、大地は世界にそれを示した。
人形の思いに、鈴蘭の力が宿る。
そして人形はついに一人で動く力を手に入れたのである。
ただしそれは、鈴蘭の力を供給されなければ持続しない。結局は無機物である人形には、
独自に力を生み出すことなど出来ない。ここを離れればすぐに動けなくなり…死ぬ。
それでも、人形は、愛する男の元に行きたかった。
愛されたかった。愛したかった。
何故なら、それが人形が持つ唯一の生きる方法であったから。
毎晩屋敷を訪れ、力が続く限り男の側に居る。そして力が尽きる前にここに戻り、再び
移動出来るまで力の回復を待つ。
人形はそうやって、この半年間ずっと通っていたのだ。
結局アリスは生み出してしまった。そう理解した。
酷く虚ろで悲しい命を生んでしまったと理解した。
アリスの両目から涙が流れる。頬を伝い人形の顔に落ちた。
「…ごめんね」
そう言うしか無い。アリスには、それ以外に償う方法が無かった。
人差し指を人形の額に当てる。
その時、人形の目が開いた。
紫色の瞳がアリスを見つめる。
やめて。
ころさないで。
やっとうごけるようになったのに。
ぱぱをあいせるようになったのに。
しにたくないの。もっといきたいの。
だから、やめて。
「……ごめんね」
もう一度、アリスが言った。
ぱちん、と、弾けるような音がした。アリスの指先が一瞬光った。
人形はゆっくり目を閉じていく。まるで眠るかのように。
「このままあなたが生き続けるのは…誰にとっても、あなたにとってすら不幸なのよ」
望まれぬ命を生み出し、今それを殺した。
アリスが負った罪は深い。少なくともその心が抱えた業は果てしなく重い。
しかし、せめて、それを秘めて生きていくのが唯一の償いだと……アリスは思った。
鈴蘭の毒で指先が上手く動かない。何度も魔法の針を誤って刺し、両手は傷だらけ。
それでもアリスは鈴蘭畑の真ん中で、必死に人形を直した。
髪も、皮膚も、目も…全て補修した。作り直す事はしない。この人形を作る部品は
全て、既に一つの命のモノであり、アリスが自由にして良いモノではなくなっている。
元の完全な形には出来ないだろう…けど、このままの汚れた体では、ここで眠るには
あまりに可哀想過ぎる。だからアリスは必死に指を動かした。
…その甲斐あってか。夕日が鈴蘭畑を染める頃、一つ美しい人形が、アリスの手に
抱かれていた。
纏うドレスは、骸と一緒に黒い布の中にあった服を使って作成した。
全てが終わると、アリスは魔法で大地に穴を作り、骸を埋葬した。
その上に人形を寝かせた。せめてお互いが寂しくないように、と、願いを込めて。
「…あなたも、この子達の友達になってあげてね」
アリスがどこからか取り出した人形は、町での劇でヒロインを演じた人形であった。
その役は、心優しい清らかなる乙女。きっとこの子なら、暗い生を歩んでしまった
二つの魂に安息を与えてくれるだろう。
太陽が沈む。
アリスは弱りきった体をふらふらと宙に浮かせ、闇の向こうに消えていった。
鈴蘭の白い花が風に揺れる。
さぁっと、柔らかな音が静かに響いた。
長い、長い年月。
季節になると、人も妖怪も立ち入らぬ鈴蘭畑に白い花が咲き乱れた。
一切の目に触れる事無く。
静かに、ただ静かに。
何かを語りかけるように。
何かを訴えるように。
そして。
例年のように鈴蘭が咲き乱れる日、彼女達は目を覚ました。
「…えっと、どうしようか?」
少女の姿をしたそれは、目の前を浮遊する人形に向かって話しかけた。
人形は、さて困ったというような感じで、首を斜めに捻る。
「じゃあ、とりあえず、解る事を確認しようか」
少女の姿をしたそれが言うと、人形は同意を示す。
「うん。じゃ、まずね……私とあなたの名前は?」
…沈黙。そして人形は首を横に振った。
「解らない? …んー、何かヒントとか無いかなぁ。それとも私達には名前なんて
無いのかなぁ」
少女の姿をしたそれが、自分の体をぺたぺた触りながら調べていく。
すると、
「…あ、見て見て! ここに何か書いてあるよ!」
服の裾…裏側に、刺繍がしてあった。
「あなた、読める?」
そこを人形の前に出して見せる。人形はこくりと頷いて、刺繍の文字を目でなぞった。
「…メディスン? そう書いてあるの?」
人形はこくりと頷いた。
「そっかー、じゃ、きっと私の名前はメディスンだね」
人形はこくりと頷いた。
嬉しそうに、『メディスン』は微笑んだ。
「じゃあ、次はあなた。何かヒントはあった?」
メディスンが訊ねると、人形は残念そうに首を横に振る。
「うーん、そうかー…、何でちゃんと二人分の名前を用意しなかったんだろうねぇ、
私達の作り主は」
人形はこくりと頷いた。
二人(?)は、自分達が人形である事を知っているようだ。
「でも名前が無いのは可哀想だし不便だよねぇ。じゃ、私が考えてあげる!」
人形はこくこくと何度も頷いた。
と言ったものの、何か案があったわけでは無いので、取り合えずメディスンは辺りを
見回した。
真っ白い鈴蘭が咲き乱れている以外は、ここには何も存在しない。
自分達に動く力を与えているのがこの鈴蘭だとは、生まれた瞬間から直感で解っている。
だから。
「そうだ、じゃあ力をくれるお花達の名前を貰おう! あなたは今日からスズランさんよ!」
人形が首を横に捻った。
「そう、スズランさん! んーちょっと呼びにくいから…スズさん…あ、スーさんって呼ぶね!」
人形はちょっと考えて(そんな素振りを見せて)、やがて嬉しそうに頷いた。
「よーし、お互い名前は解ったね!」
スーさんはこくりと頷いた。
「じゃあ、次は…」
「…えっと、どうしようか?」
二人はまた、最初と同じように首を横に捻った。
そう、二人は祝福されて、この世に生まれてきたのだ。
その目の前には、無限とも思える程の、可能性と時間がある。
命の力と世界の広さに、
生まれたばかりの二人は、とりあえず途方に暮れた。
~終~
今更ですが、花映塚のネタバレっぽいものがあります。
多分今まで以上にオリジナル要素が強いです。原作も一部無視している気がします。
性的表現と多少のホラー、暴力的描写があります。
その上陰湿なお話です。
以上の点で一つでも嫌悪なさる方は、大変申し訳ないのですがご遠慮をお願いします。
「Melancholy Flower」
アリスが糸を操る手を止めた。
魔法の森、マーガトロイド邸。日中太陽も高いが、圧倒的に生い茂る木々に遮られ
光は殆ど差さない。
アリスは針を山に戻し、一つため息をついた。
両手で自分が作り上げた人形を持ち上げる。
命持たない人形は、当然力なく両手足をぶらんと垂れた。
だが。
閉じた両目、肌の色、髪の質……まるで生きているような存在感。
その人形は、アリスが今まで作り上げてきた人形の中でも最高の出来であった。
しかしアリスは微笑まない。
持ち上げて、ランプが放つ薄い光に晒して見ているその顔色は、険しい。
アリスが作ってきた人形達の中でも、最高に出来の良い人形。
生きているかと見間違えるような人形。
これを作る事は、実はアリスにとってさほど難しい事ではなかった。
もちろんかなりの技術と材料、時間、根気等が必要だ。さほど難しい事ではないと言え
何か一つでも欠けたら出来上がらない。それに失敗する可能性もある。百発百中ではないが、
作ろうと思い下準備を完璧にして望めば、八割以上でこれくらいは仕上げられるのである。
だが、今までアリスは、こういう人形を作ろうと思ったことを一度も無い。
これは……既に、人形の域を超えているからである。
あまりに『生の存在感』を持ち過ぎた人形は既に人形では無い。
魂の無い人の器だ。魂を入れる空の容器だ。
故に、そこには魂が宿り易い。いやここまで完璧な器なら、放っておけば間違いなく
魂が宿る。そうなればそれはもう、生き物である。人間でも人形でもない生き物。かと言って
妖怪でもない、酷く虚ろな存在。
アリスはそんな命を生み出す事を罪と考えていた。望まれず、愛されず、遂行すべき命すら
持たない生き物を生み出すなど、閻魔も激怒する深き深き罪である、と。
だから今まで、技術は有れどこんなものを作り出そうなどと考えなかったのである。
なのに、今彼女の両手は、その忌むべき物を生み出し持ち上げている。
自分が生み出したモノに嫌悪するなどという状況を招く切っ掛けは、一週間前にあった。
アリス・マーガトロイドは妖怪である。
妖怪とは人を襲い喰らう存在。そして人に退治される存在。
だが中には人間と共存しようと考える者も存在する。理由は様々であるが、アリスも
その中の一匹であった。決して人を襲わず、人間と同じ食料を食べて生きている。
だがそれでも、人間と完全に一緒になれるかと言えば、それは違うと断言出来る。
何故なら人は、己を食料とする妖怪を激しく恐れるからである。存在自体がある日突然に
自分の命を奪いかねないのだから、恐れるのは当然であろう。
人間と妖怪が一所に居れば、人間は妖怪を恐怖する。
そして人間に力があれば、妖怪を滅する事を一番に考える。
だからアリスがどれだけ人と共存を望もうとも、一緒になれる事は無い。
もっとも彼女が共存を望むのは、ある一部の人間と一緒に居たいからなのだが。
さて、そういう訳で、人と共存を望む為に人の立ち入らぬ魔法の森深くに住む
アリスではあるが、人と同じ生活を営もうとすれば当然必要なものがある。
人の流通に沿うならば、貨幣というものは絶対に必要だ。
月に何度か人里に出向いて、アリスは自慢の人形達を使った芸を披露していた。
ただの街頭芸では片付けられない見事な演劇に、あっと言う間に有名となった。
アリスがいつもの場所に立つと、何もしないでも人が集まってくる。人形劇を見るに
相応しい年頃の子供達から、若者、中年、年寄りまでが集まってくる。
アリスが紡ぐ物語は、人間にとって新鮮で面白い。その上に人形の操りがまるで生きて
いるかのような見事さであるから、それは老若男女問わず惹き付けるに十分なのであった。
語られるストーリーは、短ければ一回で、長ければ十回を超えて演じられる。
だから続き物であれば、同じ顔が何度も見に来るのは当然である。それに演劇を楽しみに
毎回顔を出す人間は多く、珍しいことは無い。
だが、いつしかアリスは、毎度やってくる一人の男を気にかけていた。
男は客の中に入らない。遠くからぼんやりとこちらを見つめている。そこではとても
アリスの声など聞こえず、演劇の内容を理解しているとは思えなかった。
劇が終わると、人々は思い思いの金額をアリスに渡して去っていく。
だが男は一度も金を払う事が無かった。
劇の見物料は演じる者が決める事ではない、見た者がその価値を決める。
アリスはそう考えている。
だから金を払わない者を咎めようとは思わない。それは自分の腕に、相手を感動させるだけの
技量が足らなかっただけだ。
物語を聞かず、何を楽しむ事も無いのに、毎度のように訪れる男。
何を思うのか気になっていた。
一度アリスが、劇に集中する事を止めて男を見た事がある。
男はアリスも人形も見てはいなかった。別の何かをじっと見つめている。
すぐに意識を劇に戻した為、男が何を見ていたのかは解らなかった。
ある日の、劇が終わり人々が去っていった直後の事である。
「君に頼みがある」
男が始めて語りかけてきた。
アリスが自らの手で忌むべき物を生み出した日の一週間前だった。
「お断りさせてもらうわ」
アリスは男の顔も見ずに、舞台を片付けながら言った。
「何故だ」
「失礼だからよ。名も名乗らず、相手の意向も聞かず、自分の都合だけを押し付ける
初対面の相手に、どうして友好的になれると言うの」
男は苛立っていた。
「僕はこの町の名士の跡継ぎだ。この町で僕の父を知らない者は居ない」
「生憎ね、私はこの町の人間ではないから存じませんわ」
片付けを終え、すっと立ち上がったアリス。
男はその腕を掴み、強引に自分の元へ引き寄せた。
されるがままのアリスの胸元に右手を押し付ける。大量の金が握られていた。
「これでも足りないなら、まだくれてやる」
「……私を買う気?」
アリスはその手を退けようともせず、険しく男を睨む。
「違う。僕が欲しいのは人形だ」
その威圧に臆する事無く男が言った。
「…ただし、お前がさっきまで使っていた人形じゃない」
「異な事を。じゃあ、あなたが欲しいのは何だと言うのよ」
「お前の使う人形は、お前が全て作っているのだろう?」
「何故そうだと?」
「そこらの人形とは明らかに出来が違う。お前の人形を操る技術もあるんだろうが、あれが
生きているように見えるのは人形の作りが良いからだ」
「……何が言いたいのかしら」
「僕が欲しいのは、もっと、限りなく、人間に近い人形だ。お前はそれを作れるか?」
「作れないわ」
「ならば作ってみせろ。そして僕に売れ、言い値で買ってやる」
「……人に近い人形なんて業の深いもの、何故欲するの」
男はアリスの腕を掴んだ手に力を籠め、その顔と自分のそれを間近まで近付けた。
「僕はお前の人形劇など興味が無かった。僕が毎度楽しみにしていたのは、お前の
人形劇を見に来る女達だった」
「…言ってくれるわ。だったらご自慢の財力で好きなだけ買ったら如何?」
「闇で売っているのは熟れた女だけだ」
「……何ですって」
「僕が欲しいのは、まだ何も知らない未成熟な女だよ」
その瞬間アリスは、間近の男の顔に激しく嘔吐を催すほどの嫌悪感を持った。
この穢れきった手に触られている事が堪らなく嫌になって、男を突き放す。
その容姿は可憐な少女だが、幻想郷でも強力な部類に入る妖怪。力はある。
細腕から繰り出された思わぬ力に、男は軽く引き剥がされて尻餅を付いた。
「……汚らわしい…!」
「お前に僕を理解してもらおうとは思わない。だけど、この町で、僕が手を汚す事は
出来ないんだよ」
…見えていないのか。アリスは身震いする。
その両手が既にどうしようもないほど汚れている事、男はまったく見えていない。
「人形なんぞ代わりになるものかと思った。だけどな、お前のを見て考えは変わったよ。
お前の手で作られた人形なら、僕は満足出来るかもしれないんだ」
「…断ったら?」
男は立ち上がり、あちこちに付いた埃を叩いて掃った。
「お前が何者か知らないが、僕に逆らうのは止せ。この町で二度と演劇など出来なくなるぞ」
正直、アリスはこの男を殺してしまいたかった。
目に映すのも嫌なほど穢れたこの者など、殺しても世界に被害はないだろうに。
だが。
人の世界で生きていくと決めた以上、それは出来ない。
妖怪の視点で人を殺めてしまえば、その瞬間から人との共存は不可能になる。
……退治されるべき妖怪になってしまうのである。
「……解ったわ」
少し間を置いて、アリスは言った。
「金など要らないわ。二度と私に近寄らないと約束するなら、あなたの望む人形を
作りましょう」
男はにやりと下卑た笑いを浮かべ、
「約束しよう」
と、答えた。
アリスの抱える人形は男の欲望を叶える為に、限りなく人の少女に近い。
出来たばかりで全裸であるそれは、男が欲望を抱くであろう箇所も細部にいたるまで
完璧に作ってある。
人の少女と違うのは、もはや材質と意識(命)の存在だけだ。
あらかじめ作ってあった服を着せる。赤と黒を基調としたドレスを。
金色の髪に赤いリボンを飾った。
「……あいつがこれを見たら、何と言うかしら…ね」
ぼそりと呟く。
そして装飾された綺麗な箱の中に、人形を入れて蓋を閉めた。
町の一角、高級住宅が並ぶ場所。
その中でも男が住む館は一層大きく、華やかであった。
アリスは出迎えた執事に案内され門をくぐった。中庭の噴水に目をやりながら
館の中に入っていく。
ロビーの階段を上り二階へ。いくつも並ぶドアの一つ、その前で執事が足を止めた。
ノックをする。
「入れ」
聞き覚えのある声だ。
また嫌な相手と会うという暗い気持ちを抑え、執事が開けたドアに入った。
客間のソファに男が座っていた。
男はアリスにも座るよう促したが、アリスはそれを無視した。
早足で男の近くに歩み寄り、テーブルの上に黙って持ってきた箱を置いた。
男は黙ってそれを開ける。
「……素晴らしい」
息を弾ませた声。
「この質感…まるで生きているかのようだ。眠っているかのようだ」
男はゆっくり指を近付け、人形の頬に触った。
すると、ゆっくりと、瞑っていた目が開かれた。紫色の瞳が男を見つめる。
一瞬吃驚したが、やがてその瞳に目を奪われた。吸い寄せられるように己の顔を近づける。
そして……
「!」
アリスは目を瞑って視線を逸らした。
男が、人形の頬をべろりと舐めたのだ。その姿の…何と醜悪な事か。
その口から笑いがこぼれる。くくく、と、下卑た笑いが。
「…約束よ、二度と私に近付かないで」
逸らした視線を男に戻さず、アリスはそのまま背を向けて、入ってきたドアに足を運んだ。
「待てよ。お前、家で雇われないか。あんな小さな舞台じゃなくもっと豪華なモノを用意して
やるよ。それに貴族の連中にも紹介してやる。あんな場所で程度の低い愚民なんぞ相手にするより
よほど良い客になるぞ」
アリスは足を止めた。
だが顔は向けない。何故なら、
「…私が、そんな業の深いモノを作った理由はね。あなたのような人間に関わらず、この町で
上手くやっていく為よ」
二度と男の顔を見たくなかったからだ。
部屋を出て、ドアを閉めた。
「……フン」
男が小さく鼻を鳴らした。
アリスの繕った紫色のドレスは、箱から出された瞬間に引き裂かれた。
特殊な製法で作られた皮膚は丈夫でありながら、質感は限りなく人間に近い。
どこもかしこも嘗め回す男、涎を拭おうともせずその感触に酔いしれ、笑った。
荒い息。
そして、その歪んだ欲望のカタマリを、人形の全身に幾度も吐いた。
毎日。
飽きる事無く。
ろくな手入れもされない人形は、見る見る汚れていった。
男の欲望の色に、まさに染まったかの様に。
美しかった金色の髪もばさばさに荒れてしまった。
その体にはすっかり異臭が染み付いている。
閉じた両目は、もはやどこを触っても開く事は無かった。
最初は毎晩のように人形と戯れた男ではあったが、
人形が徐々に汚れていくと、次第に興味を失っていった。
だが男の中の欲望が枯れた訳ではない。
いや、寧ろ人形が使い物にならなくなるにつれ、それは肥大化していった。
男のベッドの上に、元の美しさなど面影も無いほど汚れた人形が横たわっている。
男は虚ろな瞳でそれを眺めていた。
好きなだけ欲望を吐き出すことを憶えてしまった。我慢出来る程にも、すでに男の
モラルは残っていなかった。元々そんなものは少なかったのだ。
だけど目の前のガラクタでは、もう滾る欲望を吐き出す対象にはなり得ない。
開けっ放しの窓から風が吹き込んでくる。
同時に、子供達がはしゃぐ声も聞こえた。
男が窓から顔を覗かせる。
この辺りは上流階級者のみが暮らす住宅街。だが広くて綺麗な公園があって、時折
平民の子供達が遊びに来る事がある。
男の子二人に女の子一人、噴水の周りで仲良く遊んでいた。
その、長い黒髪の、整った顔立ちの少女を見て、
男が舌なめずりをした。
そして男が冷静になったのは、酷く溜まっていたモノを存分に吐き出した後である。
自分のベッドの上、全裸で座っていた。
体中、体液でべとついている。
自分の隣に、長い黒髪の少女が全裸で転がっている。
少女は全身にあざを付け、右手と右足があらぬ方向に曲がっていた。そして首筋に真っ赤な
手の後がくっきり残っている。目は見開いたままであった。
「…はぁ……はぁ……」
それを見る男は、それでも心地よいと思える疲労感の余韻に浸っていた。表情は笑っている。
「はぁ……はぁ……はは、くははは……」
声が漏れる。狂気の笑い。
「ははは、あはははは……、は」
男の視界に、あの人形が入った。
ぴくりとも動かぬ少女の傍らに、まったく同じように転がったアリスの人形。
壊れて開かなかったはずの両目が男を見つめていた。
「ひっ」
小さく悲鳴をあげる。
同じベッドの上で暴れていたのだ、触ったり叩いたりは知らぬ間にしていただろう。
その時に偶然スイッチが上手く入って、両目が開いた…おそらくそれが正解。
それでも、
壊れてもなを人に近い人形は、
まるで、
少女の怨念が乗り移ったかのように、
紫色の瞳に底知れぬ闇を感じさせながら、男をじっと見つめ続けていた。
男は恐怖する。
乱暴に人形を捕まえると、アリスが持ってきた箱の中にねじ込んで蓋を閉めた。
外はまだ真っ暗であった。
男は数人の兵と共に町を出た。
その兵の内二人、手には人形の箱と黒い布で包まれた少女。
馬を走らせ、ぐんぐん町から遠ざかっていく。
こんな時間に、例え護衛が居たとしても、人里を離れるのは異常である。何故なら
今この時間こそ、人を喰らう妖怪が跳梁跋扈するからだ。
喰ってくれと言っているようなものだ。
だが男はそんな事など気にも留めない。
ひたすら馬を走らせ、人の居ない方へ…人の行かない方へと進んでいった。
それから。
アリスが人形を渡してから、実に半年が過ぎていた。
相変わらず彼女は町に赴き、人形劇で稼ぎを得ている。
評判も上場。彼女が舞台を開くと、必ず大勢の人が見に来るようになっていた。
「おい女、劇を中断しろ」
劇の最中である。
数人の兵士が見物客を除けて割り込んできた。
アリスの手が止まる。今まで生きているかのように動いていた人形は、元の無機物的な
状態に戻ってしまった。
兵士達がアリスを囲む。
客達は後退し、遠目から見るかすごすごと逃げていく者達かに分かれた。
「…どういう事かしら」
大柄の、武装した兵士達に囲まれながらも、アリスはそれらを睨みながら言った。
「女、お前は貴族に対し敵対行動をとったという疑いがある」
兵士の一人が、構えた剣の先をアリスの顔に近付ける。
「敵対? 私はこの通り、人形を使って劇を演じているだけですわ。それがもしや、貴方達の言う
敵対行動になるとでも?」
「我々はお前を捕らえるように命令されている。一緒に来てもらおうか」
……この者達では話が通じない。
アリスはそう思い、やれやれとため息をついた。
「…解ったわよ。今舞台を片付けるから」
兵士は突き付けた剣を収めない。
「……片付ける暇さえ与えないと言うの?」
仕方なくその誘導に従う。アリスの両手に手かせがはめられる。
その気になれば容易く破壊出来るのだが、今は大人しくしておこうと思った。
町の者達が見守る中、アリスは罪人の様に連行された。
その行き先とは、
「……反吐が出そうだわ」
いつか見た門を見て呟く。
そこは、あの人形を渡した男の屋敷だった。
以前とは違い物々しい警備に固められている。
執事ではなく、門を開けたのも兵士であった。
いつぞやに案内された時と違い、今度は強引に連れ歩かされた。
前と同じ部屋に連れて行かれる。
同じソファの上に、二度と会いたくないと思っていた男が座っていた。
目の下は真っ黒で、異常に痩せこけている。
ぎょろりとした目は落ち着かず動き、瞬きし、アリスを見ていた。
―――以前見た時より醜くなっているわ。
手かせを壊して立ち去りたいのを堪え、兵士の誘導のまま、男の対面にあるソファに座った。
「―――お前達、外せ。部屋の外で待機していろ」
男が言う。兵士達は顔を見合わせてその言葉を疑った。
だが男が睨むと、一礼して去って行った。
バタンとドアが閉められる。
「……約束はどうなったのかしら」
低い声でアリスが言う。
「お前、拾ったのか」
男の言葉は、アリスの質問に答えたものではなかった。
「拾った? 何を」
「お前に貰ったあの人形だ」
「……捨てたのね」
「捨てた。ああ捨てたはずさ…! 町から遠く遠く、人の立ち入らない森と山の奥にな!」
男が右手の、親指の爪を噛んだ。
「だのに、アレは毎晩やって来る! 気が付けば隣にある! でも次の瞬間にはどこにも
ないんだ!」
「それを私の仕業と考えた……でも違うわ。私はあなたと関わりたくないんですもの」
「じゃあアレは何だ!?」
「あなたが愛した人形でしょう」
男が黙った。
「…いい? 人形とは人の形を模したもの。だから、それを人形として使っていればそれ以上の
意味など無かったし、別のものに変異することも無かった」
「……変異だって?」
「そう。人形が人形としての存在理由を失った時…それは意識の入っていない空の器になる。
ましてあれほど人に近い造形なら、意識も芽生えやすいし魂が入り込みやすいはずだわ」
「…魂だと」
「肉体を失った人の残留思念と思えば解りやすいかしら……憎悪とか、ね」
憎悪。その言葉を聞いた瞬間、男の体がびくりとすくみ上がった。
「…心当たりがあるみたいね」
男の顔色が酷く青ざめる。
「…し、知らん」
「本当に?」
「僕は何も知らない! 僕は何も悪くない!」
男は立ち上がった。恐怖に引き攣った顔でアリスを睨む。
「わ、悪いのはお前だ! そうだお前だ! お前が僕に雇われていれば、僕が人形を
捨てる事も無かった! お前は捨ててはいけないなどと一度も言わなかったじゃないか!」
アリスはため息を吐いた。
「…あなたに会う前に、あいつと出会えて良かったわ。もし順序が逆だったら、私は人間を
嫌悪していたかもしれない」
「何だ? ああ何を言っているんだ!?」
掴みかかろうとする男の目の前に、枷に封じられた両手を突き出す。
男が動きを止めた。
手かせが青白い炎をあげて燃え盛り、瞬時灰になって消滅した。
見ていた男が驚愕する。
やっと理解したのだ。ずっと人間だと思っていたこの少女が、実は人の天敵である妖怪だ、と。
自分より弱い存在だと思っていた者が、その正体はいつでも自分を殺せる化物だった、と。
「…人形はどこへ捨てたの?」
尻餅をつき震える男に、立ち上がったアリスが睨みつけて問う。いや脅迫する。
「……」
男はガチガチと奥歯を鳴らし、答えない。
アリスが青白く光る右手を男に翳す。
男はびくりと固まった。
「二度も聞かないわよ」
「…!」
震えて上手く喋れない。
途切れる声と指差す方向で、アリスは大体の目的地を割り出した。
「……あなたがどうなろうと、知った事ではないけれど」
その部屋を出て行く前に、振り返らずに男に言った。
「その矮小な欲望で生まれてしまった命は、あまりに可哀想だわ」
最後まで男を見ないまま、そのドアを閉じた。
その日の夜。
男の部屋は武装した兵によって囲まれていた。
屋敷の外も、中も。通路から全ての部屋まで。もちろん男が眠ろうとしている部屋にも
数人ずつ配置されていた。
それでも男は怯えていた。
右手、親指の爪は噛みすぎてボロボロになっている。
「…一晩中、我々がお守り致します。どうか安心してお休みください」
兵がその言葉を三度使い、やっと男は眠りについた。
始めは少しの物音にも敏感に反応していたが、元々体力も著しく低下していたから、眠ると
なればすぐに深く沈んで行った。
しばらくの後。
…静かだ。
男はまどろむ意識で、ぼんやり思った。
…静か過ぎる。
男の意識が一気に覚醒する。
布団を跳ね除け上半身を起こす。
「…! げふっ!」
呼吸が苦しい。涎を撒き散らしながら咽た。
匂いがする。
植物の香りのようだが、その正体は検討も付かない。植物などこの部屋には存在しないからだ。
「だ、誰か居ないのか…! 苦しいんだ…!」
返事は無い。
物音もしない。
辺りを見回してみれば、
警護をしていたはずの兵達は、床に寝たままぴくりとも動かない。
呼吸をする動きすら無い。
ベッドから体を引き摺り降りて、仰向けの兵を寝返らせた。
目を見開いて死んでいた。
「ひっ…!」
男は手を離し身を引いた。
体が重い。自由に動けない。そして途轍もなく苦しい。
這い蹲って、出入り口のドアに向かって手を伸ばした。
キキキ…
奇妙な音が聞こえる。
後ろから聞こえる。
恐る恐る…男は振り返った。
先ほどまで自分が寝ていたベッド、その上。
全裸の、ボロボロの、男が弄んだ人形が居た。
「!! …あ…!」
恐怖と苦しさで声も出ない。
逃げようにも体が言う事を聞かない。
人形が動く。
人の体の動かし方を知らない、そう思わせる移動。四つん這いでカクカクと蛇行しながら
ゆっくりと男に近付いてくる。
「く、来るな…!」
声を絞り出す。
人形は聞かない。少しずつ距離を縮めてくる。
「来るな…!! く、来るなぁ…!!」
涙も鼻水も涎も漏らしながら、擦れた声で哀願する。
人形は聞かない。男の間近まで迫ってきていた。
ぱ、ぱ。
人形の口から声が聞こえた。
いや、それは声のように聞こえる奇妙な音だ。
それは確かに言った。「パパ」と。
「あ、あぁ……!」
男が漏らした声は、必死に捻り出した悲鳴。
ぱぱ。
「キキキ…」
わたし、うらんでないよ。
すてられたこと、うらんでないよ。
「キリキリキリ…」
わたしがうごけないから、ぱぱはわたしをすてたんだよね。
わたしがうごけないから、うごけるひとをあいしたんだよね。
「キキキキキキキキキ」
でも、わたし、うごけるようになったんだよ。
わたしも、ぱぱを、あいしてあげられるようになったんだよ。
人形が男の右足を握る。
それを捻り、
千切った。
「あぁぁ…!」
目を見開く男。顎が外れんばかりに口を開けるが、出でるのは擦れた小さな声。
鮮血が飛び散る。男の纏う白のガウンが染まる。
ぱぱがあのひとをあいしたの、みてたの。
だからしってる。
あいするって、こうやるんだよね。
今度は右手を握り、へし折った。白い骨が皮膚を食い破って露出する。
「あぁ、あぁぁ…!!」
男の口の端から泡が漏れた。股間がびしょびしょに濡れていく。
ほら、わたしもぱぱをあいせる。
ここからなにかをだすの、ぱぱがわたしをあいしてくれているからだよね。
うれしい。ぱぱ、あいしてる。
その両手は男の体を伝い、上り、
か細く呼吸の動きをする喉を押さえた。
「た、助けて…!」
喉が圧迫される。舌が突き出て目玉が浮き出る。血の涙が頬を伝った。
「か、かふぇへぇえ…!」
指が食い込む。皮膚を破って突き刺さる。
勢い良く噴出する血液。人形はそれを全身に浴びた。
ぱぱ。いいよ。もっとかけて。
もっとわたしをあいして。
わたしも、もっと、ぱぱをあいしてあげる。
ぱぱ、すきよ。すき。だいすき。あいしてる。
あいして、して、アイ、アイシ、テル、テル、シル、アイ…
男はもう生きてはいなかった。
だけど人形は、その体を、自分がそうされたように貪った。
男であったものを、原型を留めなくなるまで、全身に擦り続けた。
夜が明ける。
太陽が昇り、大地を照らしていく。
アリスの美しい金色の髪が、風に揺れてきらきらと輝いた。
足元には朽ちた死体が一つ。黒い布に包まれ、顔だけを覗かせていた。
そしてアリスが立つ大地は、彼方までそうであるかと思わせるほど群生した花に
支配されていた。
白い花。
鈴蘭だ。
障壁を張ってもなを体を蝕むほど、強力な毒が辺りに充満していた。
とさり、と、音がして、アリスは振り返った。
いつそこに現れたのか。ボロボロの人形が倒れている。
「…そう。そういう事だったのね」
アリスはゆっくりと歩き、人形に近付いた。
抱き上げてみる。両目を瞑り、ただの人形であるかのように動かなかった。
人形は、恐らくアリスが作り上げてから程なくして意識を持ったのだ。
ただそれは、何の目的も感情も持たないから、無いに等しい存在だった。
それに意味を与えたのは男の欲望だ。
人形は男に必要とされ、その意識に明確な目的を持った。男が自分を愛してくれたように
自分も男を愛そうという目的を。そこから感情が芽生えるのは難しい事ではない。
だがいくら意識を持っても、人形はただの人形であり、人に弄ばれる物でしかなかった。
そして自分が朽ちていくほど、男の愛も遠退いていった。それは芽生えた意識にとって
まさに死を意味する。人形はそれに全力で逆らった。
少女の怨念が大地に染み、無何有の『ここ』には『それ』が満ちた。鈴蘭の花という存在を
もって、大地は世界にそれを示した。
人形の思いに、鈴蘭の力が宿る。
そして人形はついに一人で動く力を手に入れたのである。
ただしそれは、鈴蘭の力を供給されなければ持続しない。結局は無機物である人形には、
独自に力を生み出すことなど出来ない。ここを離れればすぐに動けなくなり…死ぬ。
それでも、人形は、愛する男の元に行きたかった。
愛されたかった。愛したかった。
何故なら、それが人形が持つ唯一の生きる方法であったから。
毎晩屋敷を訪れ、力が続く限り男の側に居る。そして力が尽きる前にここに戻り、再び
移動出来るまで力の回復を待つ。
人形はそうやって、この半年間ずっと通っていたのだ。
結局アリスは生み出してしまった。そう理解した。
酷く虚ろで悲しい命を生んでしまったと理解した。
アリスの両目から涙が流れる。頬を伝い人形の顔に落ちた。
「…ごめんね」
そう言うしか無い。アリスには、それ以外に償う方法が無かった。
人差し指を人形の額に当てる。
その時、人形の目が開いた。
紫色の瞳がアリスを見つめる。
やめて。
ころさないで。
やっとうごけるようになったのに。
ぱぱをあいせるようになったのに。
しにたくないの。もっといきたいの。
だから、やめて。
「……ごめんね」
もう一度、アリスが言った。
ぱちん、と、弾けるような音がした。アリスの指先が一瞬光った。
人形はゆっくり目を閉じていく。まるで眠るかのように。
「このままあなたが生き続けるのは…誰にとっても、あなたにとってすら不幸なのよ」
望まれぬ命を生み出し、今それを殺した。
アリスが負った罪は深い。少なくともその心が抱えた業は果てしなく重い。
しかし、せめて、それを秘めて生きていくのが唯一の償いだと……アリスは思った。
鈴蘭の毒で指先が上手く動かない。何度も魔法の針を誤って刺し、両手は傷だらけ。
それでもアリスは鈴蘭畑の真ん中で、必死に人形を直した。
髪も、皮膚も、目も…全て補修した。作り直す事はしない。この人形を作る部品は
全て、既に一つの命のモノであり、アリスが自由にして良いモノではなくなっている。
元の完全な形には出来ないだろう…けど、このままの汚れた体では、ここで眠るには
あまりに可哀想過ぎる。だからアリスは必死に指を動かした。
…その甲斐あってか。夕日が鈴蘭畑を染める頃、一つ美しい人形が、アリスの手に
抱かれていた。
纏うドレスは、骸と一緒に黒い布の中にあった服を使って作成した。
全てが終わると、アリスは魔法で大地に穴を作り、骸を埋葬した。
その上に人形を寝かせた。せめてお互いが寂しくないように、と、願いを込めて。
「…あなたも、この子達の友達になってあげてね」
アリスがどこからか取り出した人形は、町での劇でヒロインを演じた人形であった。
その役は、心優しい清らかなる乙女。きっとこの子なら、暗い生を歩んでしまった
二つの魂に安息を与えてくれるだろう。
太陽が沈む。
アリスは弱りきった体をふらふらと宙に浮かせ、闇の向こうに消えていった。
鈴蘭の白い花が風に揺れる。
さぁっと、柔らかな音が静かに響いた。
長い、長い年月。
季節になると、人も妖怪も立ち入らぬ鈴蘭畑に白い花が咲き乱れた。
一切の目に触れる事無く。
静かに、ただ静かに。
何かを語りかけるように。
何かを訴えるように。
そして。
例年のように鈴蘭が咲き乱れる日、彼女達は目を覚ました。
「…えっと、どうしようか?」
少女の姿をしたそれは、目の前を浮遊する人形に向かって話しかけた。
人形は、さて困ったというような感じで、首を斜めに捻る。
「じゃあ、とりあえず、解る事を確認しようか」
少女の姿をしたそれが言うと、人形は同意を示す。
「うん。じゃ、まずね……私とあなたの名前は?」
…沈黙。そして人形は首を横に振った。
「解らない? …んー、何かヒントとか無いかなぁ。それとも私達には名前なんて
無いのかなぁ」
少女の姿をしたそれが、自分の体をぺたぺた触りながら調べていく。
すると、
「…あ、見て見て! ここに何か書いてあるよ!」
服の裾…裏側に、刺繍がしてあった。
「あなた、読める?」
そこを人形の前に出して見せる。人形はこくりと頷いて、刺繍の文字を目でなぞった。
「…メディスン? そう書いてあるの?」
人形はこくりと頷いた。
「そっかー、じゃ、きっと私の名前はメディスンだね」
人形はこくりと頷いた。
嬉しそうに、『メディスン』は微笑んだ。
「じゃあ、次はあなた。何かヒントはあった?」
メディスンが訊ねると、人形は残念そうに首を横に振る。
「うーん、そうかー…、何でちゃんと二人分の名前を用意しなかったんだろうねぇ、
私達の作り主は」
人形はこくりと頷いた。
二人(?)は、自分達が人形である事を知っているようだ。
「でも名前が無いのは可哀想だし不便だよねぇ。じゃ、私が考えてあげる!」
人形はこくこくと何度も頷いた。
と言ったものの、何か案があったわけでは無いので、取り合えずメディスンは辺りを
見回した。
真っ白い鈴蘭が咲き乱れている以外は、ここには何も存在しない。
自分達に動く力を与えているのがこの鈴蘭だとは、生まれた瞬間から直感で解っている。
だから。
「そうだ、じゃあ力をくれるお花達の名前を貰おう! あなたは今日からスズランさんよ!」
人形が首を横に捻った。
「そう、スズランさん! んーちょっと呼びにくいから…スズさん…あ、スーさんって呼ぶね!」
人形はちょっと考えて(そんな素振りを見せて)、やがて嬉しそうに頷いた。
「よーし、お互い名前は解ったね!」
スーさんはこくりと頷いた。
「じゃあ、次は…」
「…えっと、どうしようか?」
二人はまた、最初と同じように首を横に捻った。
そう、二人は祝福されて、この世に生まれてきたのだ。
その目の前には、無限とも思える程の、可能性と時間がある。
命の力と世界の広さに、
生まれたばかりの二人は、とりあえず途方に暮れた。
~終~
生々しくもノルスタジックな雰囲気がたまりません。個人的にはもう少しメディスン部分を多くして欲しかったです。
しかぁし! こう優しさが存分に伝わってくるような話はたまりません。
というか怖かったです。後ろに居る人形が。
マジで。ホラーかと思いましたよー(ぇー
読んでいて目を背けたくなるようなシーンもあるのに凄く考えさせられる話でとても新鮮でした。(長文ごめんなさい)
が、物語としては非常に面白く、楽しめました。
感じた違和感の分を差し引いて、点数を入れますー。
今後もがんばってほしいと思います。
アリスの目指すところってそんな感じなのかなぁと。
自然発生するものを自らの手で発生させたいっていう、クローンとか人工授精とかのもう少し先の段階。
アウトフィットとか、その辺の。A・N・D各シリーズのような。
いつも以上に散文で失礼。
二言言えばとてもおもしろかったです
多少思い描いてた世界観にずれはありますけどそれを抜いても良かったと思います
僕にとってもそれは代わらない・・・・はづなんですがねw
正直楽しんで読める設定でもないのに苦もなく読めるその文才、およびしっかり作られたお話に感謝します。
その在り方については、私も私なりに色々考えていました。
――あるいは捨てられた人形に宿った付喪神。
――あるいは狂った人形師が生み出した偶然の産物。
――あるいは……自分を人形だと思い込んでいる……壊れた少女。
このメディスンは、当然私が考えていたものとは異なる存在ですが、
なぜか『人形』という響きは、哀しいものを想像させますね。
さて、メランコリックな気分になってきました。
花映塚を起動して、無邪気に笑うメディスンに会いに行こう。
瑣末なことですが、結構突っ込まれる誤変換ですので。
「切欠」→「切っ掛け」または「契機」。
思ってたのに…! ありがとうございます皆様!!
えと、最初に、誤字の報告ありがとうございました! 早速修正します。
それから、今回はお話を作る事に集中し過ぎて、『東方らしさ』を失念
していたようです。ご指摘で気が付きました迂闊者です。スイマセン~
メディスンが『外』からの『移住者』であるって考えは、実は初耳です。
あれ、原作にそれっぽい話があったかな? ってちょっとメディ周りを
一通りクリアしてみたのですが…さっぱり解りませんでした。読解力不足?
あと、確かに万人向けどころか一握り向けの作品でしたw
でも私「こーいう路線で行く」とか、あんまり考えてませんのです。
思い付きです。面白そうだと思ったら書いてます。今回はたまたま
後ろ暗い物語だっただけで…
次は明るく楽しい話を書…けたら良いなぁ…です。
また長文失礼しました。
そして読んでくださった皆様…本当にありがとうございました!
さらにコメントをくださった皆様…愛してますよー!
ダークなパートも臨場感があって、どきどき。
このまま悲しい終わり方するのかな、と思いきや最後の締めがとてもメディ達らしくて、ほんわか。
東方自体、ダークな部分が見え隠れしている感じがするのでこんな雰囲気の作品が今後増えたらいいなと思ったり……少数派でしょうけど。
アリスと人形の関係も、深く考えさせられました
とても面白かったです。グイグイと引き込まれていきました。
切なくて哀しい、いろいろと考えさせられる作品をどうもありがとうございました。きっとこれからはメディスンの見方が変わると思われます(もちろん良い方に)。
本当は80点くらい入れたいところなのですが、すみません……、最初に言ったとおりです。でもでも、ホントに面白かったです。次回も期待していますよー。
ただ自分の場合、文中の「あいつ」のことをメディスンだと勝手にミスリードされて読んでしまったので折角のラストに困惑してしまいました。閻魔という語で花映塚の話以降のイメージで読んでしまったもので……