「今日はもう良いわ。その目を治しに行ってらっしゃい」
冷たい声で幽々子は言った。
目を患っている今では剣の指導もままならない事を考えると当然の一言であったが、その言い方には落胆の色が伺える。
師の妖忌が頓悟してからは歴史ある西行寺家の剣術指南役として、恥の無いように毎日厳しい鍛錬に明け暮れる日々であったが、如何に切磋琢磨しようとも積み重ねた年月の軽さだけは覆せなかった。
自分が未熟であるがゆえに病に罹り、挙句の果てに主を失望させる破目になった事を考えると妖夢は自責の念に駆られた。
目の前で幽々子が舞を始める。曲りなりにも剣術家の目でそれを見ると妖夢はいつも驚きに打たれる。
僅かな手の動き、足の運び、体勢の変化の全てにおいて隙が無く、それでいて美しさも内包している。時には激しく、時には緩やかに、緩急自在、千万変化の舞は見る者を陶然とさせる。
一芸は万芸に通ずの言葉通り、舞踊を習熟した幽々子の剣も相当な腕前である。
指南役としての自分が情けなく思えてくる。妖忌は何故このように至らない自分を残して去ってしまったのかと、妖夢は恨み言の一つも言いたくなってきた。
週に一度の診療を受けに医者の家に赴く。目が不自由でも昼間の行動にはそれほどの支障は無い。いつも通りの問診をした後、薬を貰ってそこを去る。
病の根治には時間を要すると言われているが、妖夢には一刻の時すら惜しかった。
千日の修行を鍛とし、万日の修行を錬とする。目指す果ては遠く、師のいる高みにまで辿り着けるかと不安になる。
悩みながら歩いていると、何時の間にか道を外れて竹林にいた。これも自分の至らなさを示すものと妖夢は自分自身に呆れた。
元来た道に戻ろうと辺りを見回すと、竹林の合間に一筋の煙が昇っているのが見えた。
火事かと思ったが、煙は直ぐに消えた。人里離れた場所で何が起きているのかと、妖夢は悩みを忘れてその煙の元へと向かった。
空けた場所に一軒の家とそこから少し離れた場所に大きなかまどがあるのが見えた。かまどの側には小屋があり、伐採された竹が蓄えられている。
先ほどの煙は竹炭を造っていたからだと妖夢は理解した。製造の最終段階において、空気を遮断するために煙突を塞ぐので煙は突然消えたのだ。
家に近付くと、裏手から雀が飛び上がった。程なくして銀色の髪の女性が裏手から回ってきた。
「あなたは確か……」
「妖夢、と言ったか。何か用か?」
こちらが覚えていなくても向こうが覚えていたようだ。以前、上白沢慧音の宅で何度か見かけた事がある人だ。名前は……
「藤原妹紅さんですよね?」
名前も碌に知らずに此処に来たのかと彼女は驚いているようだった。
此処に来た理由を説明すると彼女は悪くも無いのに、それは無用な心配をかけた、と謝った。
大したもてなしも出来ないがと、茶に誘われた妖夢は一瞬断わろうかと思ったが、このような場所で暮らす彼女に興味を覚えて誘いを受ける事にした。
家は簡素だが整然とした内装だった。西行寺の家の華やかさとは違い、風雅な趣がある。この家の主の人となりが知れる。
水墨画が掛けてある。夜の竹林を描いたもののようだ。細い線でありながらも竹の丸みを感じさせる。唐竹割りのように真っ直ぐとした線で竹が力強く描かれている。天に伸びようとする竹の遥か上に満月がある。
自分もこの竹と同じだ、と妖夢は思った。決して届かない目標に向かう哀れな存在。竹が月に届く事は決して無いように、自分もまた師のいる高みに到達することは適わないのではないか。
そんな事を考えていると芳しい香りと共に茶が出された。
遠くのかまどで竹が爆ぜる音が時々聞こえる。時間はゆっくりと過ぎていった。
「悩みでもあるのか?」
静寂を破って妹紅が聞いた。詳しく知らない間柄であるのに見破られるとはそれほど分かり易い顔をしていたのだろうか。武を志す者が他人に心を悟られるようでは失格だ。妖夢は一時の間忘れていた悩みを思い出した。
「何故分かったのですか?」
「お前は西行寺家に仕えているんだろう。それがこんな昼間から油を売っているんだ。暇でも出されたのかと思ってな」
分かってて妖夢を茶に誘った妹紅が言うのもおかしいが、その言葉は正鵠を射ている。
誰にも話した事の無い悩みだが、何故か妹紅には打ち明けられた。この人には老成したような不思議な重みがあると妖夢は感じたのだ。
話を聞き終えると妹紅はおかしな事を聞いた。
「来る前に雀が飛び立つのを見ただろう? 何で飛んだか分かるか?」
この問いに答えられないでいると妹紅は呆れたように言った。
「お前が来たからだよ。お前の放つ殺気に驚いて逃げたんだ」
帰り道の途中、妖夢は妹紅の言葉の意味を考えていた。妖夢の放つ殺気を感じて鳥が逃げた。剣を握っているのならばともかく、無刀の状態にあっても殺気を放っていたのは何故か?
ふと、早朝の鍛錬の時にいつも聞こえる鳥のさえずりを最近は聞いていない事に気付いた。確か、目を患ってからのことだった。
医者には目を酷使するなと言われたが、病に罹った己の不甲斐なさを嘆いて一層鍛錬を厳しくしたからか。焦りが心の余裕を無くして剣が鈍り、不必要な殺気を放つようになってしまったのだろう。
思い返すと病気になってからは普段の自分ではなかったような気がする。このように乱れた心で剣を教える事など出来る筈が無い。
幽々子は少し休めと再三勧めたが、妖夢は頑なにもそれを拒んでいた。今朝の幽々子の言葉は妖夢の頑迷さに呆れたが故の命令だったのだ。
出かける前に見た幽々子の舞を思い出す。
舞には序、破、急がある。序で緩やかに舞い始め、破ではそれに変化を加える。急では激しく舞い、やがて終焉を迎える。
人生も序、破、急の繰り返しではないか。
自分は今まで急を繰り返してきたが、それでは何時まで経っても先には進めない。急を終え、序に帰る事が必要なのだ。緩やかに過ごす事で英気を養い、次に備える。
幽々子の舞は口で言っても分からない妖夢に、これでも見て好い加減に自分の状態に気付けとの無言の助言だったのだ。
妖夢は主の優しさに感謝すると共に、要らぬ心配をかけた事を心で詫びた。
いや、実際に会って早く言おう。感謝の念を伝えよう。
夕焼けに赤く染まる中、駆け出した妖夢の足取りは軽かった。
冷たい声で幽々子は言った。
目を患っている今では剣の指導もままならない事を考えると当然の一言であったが、その言い方には落胆の色が伺える。
師の妖忌が頓悟してからは歴史ある西行寺家の剣術指南役として、恥の無いように毎日厳しい鍛錬に明け暮れる日々であったが、如何に切磋琢磨しようとも積み重ねた年月の軽さだけは覆せなかった。
自分が未熟であるがゆえに病に罹り、挙句の果てに主を失望させる破目になった事を考えると妖夢は自責の念に駆られた。
目の前で幽々子が舞を始める。曲りなりにも剣術家の目でそれを見ると妖夢はいつも驚きに打たれる。
僅かな手の動き、足の運び、体勢の変化の全てにおいて隙が無く、それでいて美しさも内包している。時には激しく、時には緩やかに、緩急自在、千万変化の舞は見る者を陶然とさせる。
一芸は万芸に通ずの言葉通り、舞踊を習熟した幽々子の剣も相当な腕前である。
指南役としての自分が情けなく思えてくる。妖忌は何故このように至らない自分を残して去ってしまったのかと、妖夢は恨み言の一つも言いたくなってきた。
週に一度の診療を受けに医者の家に赴く。目が不自由でも昼間の行動にはそれほどの支障は無い。いつも通りの問診をした後、薬を貰ってそこを去る。
病の根治には時間を要すると言われているが、妖夢には一刻の時すら惜しかった。
千日の修行を鍛とし、万日の修行を錬とする。目指す果ては遠く、師のいる高みにまで辿り着けるかと不安になる。
悩みながら歩いていると、何時の間にか道を外れて竹林にいた。これも自分の至らなさを示すものと妖夢は自分自身に呆れた。
元来た道に戻ろうと辺りを見回すと、竹林の合間に一筋の煙が昇っているのが見えた。
火事かと思ったが、煙は直ぐに消えた。人里離れた場所で何が起きているのかと、妖夢は悩みを忘れてその煙の元へと向かった。
空けた場所に一軒の家とそこから少し離れた場所に大きなかまどがあるのが見えた。かまどの側には小屋があり、伐採された竹が蓄えられている。
先ほどの煙は竹炭を造っていたからだと妖夢は理解した。製造の最終段階において、空気を遮断するために煙突を塞ぐので煙は突然消えたのだ。
家に近付くと、裏手から雀が飛び上がった。程なくして銀色の髪の女性が裏手から回ってきた。
「あなたは確か……」
「妖夢、と言ったか。何か用か?」
こちらが覚えていなくても向こうが覚えていたようだ。以前、上白沢慧音の宅で何度か見かけた事がある人だ。名前は……
「藤原妹紅さんですよね?」
名前も碌に知らずに此処に来たのかと彼女は驚いているようだった。
此処に来た理由を説明すると彼女は悪くも無いのに、それは無用な心配をかけた、と謝った。
大したもてなしも出来ないがと、茶に誘われた妖夢は一瞬断わろうかと思ったが、このような場所で暮らす彼女に興味を覚えて誘いを受ける事にした。
家は簡素だが整然とした内装だった。西行寺の家の華やかさとは違い、風雅な趣がある。この家の主の人となりが知れる。
水墨画が掛けてある。夜の竹林を描いたもののようだ。細い線でありながらも竹の丸みを感じさせる。唐竹割りのように真っ直ぐとした線で竹が力強く描かれている。天に伸びようとする竹の遥か上に満月がある。
自分もこの竹と同じだ、と妖夢は思った。決して届かない目標に向かう哀れな存在。竹が月に届く事は決して無いように、自分もまた師のいる高みに到達することは適わないのではないか。
そんな事を考えていると芳しい香りと共に茶が出された。
遠くのかまどで竹が爆ぜる音が時々聞こえる。時間はゆっくりと過ぎていった。
「悩みでもあるのか?」
静寂を破って妹紅が聞いた。詳しく知らない間柄であるのに見破られるとはそれほど分かり易い顔をしていたのだろうか。武を志す者が他人に心を悟られるようでは失格だ。妖夢は一時の間忘れていた悩みを思い出した。
「何故分かったのですか?」
「お前は西行寺家に仕えているんだろう。それがこんな昼間から油を売っているんだ。暇でも出されたのかと思ってな」
分かってて妖夢を茶に誘った妹紅が言うのもおかしいが、その言葉は正鵠を射ている。
誰にも話した事の無い悩みだが、何故か妹紅には打ち明けられた。この人には老成したような不思議な重みがあると妖夢は感じたのだ。
話を聞き終えると妹紅はおかしな事を聞いた。
「来る前に雀が飛び立つのを見ただろう? 何で飛んだか分かるか?」
この問いに答えられないでいると妹紅は呆れたように言った。
「お前が来たからだよ。お前の放つ殺気に驚いて逃げたんだ」
帰り道の途中、妖夢は妹紅の言葉の意味を考えていた。妖夢の放つ殺気を感じて鳥が逃げた。剣を握っているのならばともかく、無刀の状態にあっても殺気を放っていたのは何故か?
ふと、早朝の鍛錬の時にいつも聞こえる鳥のさえずりを最近は聞いていない事に気付いた。確か、目を患ってからのことだった。
医者には目を酷使するなと言われたが、病に罹った己の不甲斐なさを嘆いて一層鍛錬を厳しくしたからか。焦りが心の余裕を無くして剣が鈍り、不必要な殺気を放つようになってしまったのだろう。
思い返すと病気になってからは普段の自分ではなかったような気がする。このように乱れた心で剣を教える事など出来る筈が無い。
幽々子は少し休めと再三勧めたが、妖夢は頑なにもそれを拒んでいた。今朝の幽々子の言葉は妖夢の頑迷さに呆れたが故の命令だったのだ。
出かける前に見た幽々子の舞を思い出す。
舞には序、破、急がある。序で緩やかに舞い始め、破ではそれに変化を加える。急では激しく舞い、やがて終焉を迎える。
人生も序、破、急の繰り返しではないか。
自分は今まで急を繰り返してきたが、それでは何時まで経っても先には進めない。急を終え、序に帰る事が必要なのだ。緩やかに過ごす事で英気を養い、次に備える。
幽々子の舞は口で言っても分からない妖夢に、これでも見て好い加減に自分の状態に気付けとの無言の助言だったのだ。
妖夢は主の優しさに感謝すると共に、要らぬ心配をかけた事を心で詫びた。
いや、実際に会って早く言おう。感謝の念を伝えよう。
夕焼けに赤く染まる中、駆け出した妖夢の足取りは軽かった。
短い語りの中に凝縮された想い。素敵です。
「もうだめだ」と言ってる人は余力を残しており
「まだいける」と言ってる人は本当に壊れる。
意外と自分じゃ解んないものなんですよね。
俺? いっつも「もー駄目だー」って言ってますよw
後ろに飛び去っていく小さな駅舎。線路端に働く農夫の姿。
美しい川のせせらぎの音も、枝に囀る小鳥の声も、車内にいては聞こえてこない。
味気なく通り過ぎていく車窓の景色。線路を足で歩かなければ見つけられない綺麗な花が、
人生の道端にはいくつも咲いているのかもしれませんね。