「おい。リリカ、頬っぺた」
「んむー?」
夕食中。
暖炉の炎と天井のランプが、並んで座る三人の影をテーブルクロスに落とす。
今夜のメニューはトマトスパゲティ。
ルナサの指の先は、リリカの頬に付着した赤いソースに向けられていた。
リリカは口の周りを舌でべろりと嘗め取ると、すぐにフォークでスパゲティを巻き取るのを再開した。
「はしたないし、届いてもいないわ。もっと右」
「いいじゃん、食事終ってからにしようよ。飛んだのは後で纏めて拭いた方が効率的」
「飛散る事が、既に間違いなのよ」
「むぐむぐ、んっ、美味しいねぇ」
「あー、もう、見てる方が気になるって」
手元にあるナプキンを掴むと、ルナサは立ち上がり、隣に座るリリカの頬っぺたをやや強く擦る。
リリカは特に抵抗を見せず、ルナサの手に従った。
「くすぐったいなー」
「ほら、飛散らないように少なく掬うの。スプーンを使いなさい。その上で丸めて」
「何で私だけスプーンがあるのか、不思議」
「リリカのフォークの扱いが拙いから、貴方だけ特別に付いているのよ。私はフォークだけでもソースが飛散ったりしない」
「はいはい、そうでした」
「言ってるそばから、フォークを突き刺して回転させないの。そんな事をするからフォークにスパゲティが巻き付き過ぎて困る」
「だったら、メル姉はどうなるのよ?」
「あれは論外だって前から言ってるでしょう」
二人が向いたメルランの口には、毛糸玉並に巻き付いたスパゲティが突撃しようとしていた。
リスのように頬張ったままこちらを向いて『私はこのグルグルが大好きなの』という笑顔で返して来た。
如何なる時も、自分が楽しむ事が最優先。
メルランは鉄の意志でそれを貫いてきた。
食事とて例外じゃない。
ああ、いい迷惑。
「メルランは手遅れ。貴方はまだ直るの」
「好きに食べさせてよスパゲティくらい。みみっちぃなぁ」
「そういう言葉は、自分で料理が出来るようになってから言いなさい」
「トマトスパゲティなら私出来るじゃん? 前に作ったし」
「リリカのトマトソースは、トマトの皮どころかヘタが入ってたでしょう。誰が食えるのよ、何で緑なんだ」
「ルナ姉が食える」
「あれは誰も食わないから、私が仕方なく処理したの!」
「あ、姉さん~」
「何!?」
「おかわり、あるー?」
「あるわよ、鍋から勝手に取って……待て、待て待て! 止まれ! 自分のフォークを鍋に突っ込むな! 菜箸使え!」
かしましい三人娘。
騒がしいお食事タイム。
騒がしい二人にも、騒がしさを止めようとして結果的に騒がしくなっているルナサにも、この喧騒は平常であり、当たり前の日常だった。
こうやって三人は、自らの造り手がいなくなった後も、頑張って楽しく、この館で生きてきた。
「貴方達は、どうしてそう……私がいなくなったら、どうやって生きていくつもりよ」
「ルナ姉、いっつもそんな事言うけど、いなくなった試しがないじゃん」
「そうそう、べったりよね」
「一週間ぐらい消えてくれるの、歓迎中」
「のんびり出来るから、歓迎中~」
「のんびりしてみたいねぇ、本当に……」
「あら、何だか私達がお荷物みたいな溜め息」
「失礼だよね」
「ああ、そんなつもりは無いわ」
「おお? 事実そうじゃないのー、と返って来ませんぜメル姉?」
「リリカ、姉さんは今日はちょっとアンニョイなのよ」
「なるほど、今日もアンニョイなんだ」
「そう、貴方達のせいで、私はいつもアンニョイだ」
ルナサが見せた苦笑いを、メルランが笑った。
リリカはその笑顔を横目に、スパゲティをフォークに絡めて満足そうに口に運ぶ。
また頬っぺたにトマトソースが付着したのを見て、ルナサも笑った。
この館で生きてきた。
これからも生きていく。
一人も欠けることなく。
何とかして、何としても、三人揃って。
それは、三人が一致する唯一の望みだった。
―――――
「やれやれ、いよいよ止まったか……」
「寂しくなるわ~」
「仕方ない、降ろそう」
「えー、重いわよ?」
姉達が何か悩んでいる声を、リリカはソファーで寝転がって聞いていた。
なにやら厄介事らしい。
自分に回ってこないといいのだけど。
「考えてみれば、こいつも、ずいぶんと頑張ってくれた」
「こっちに飛ばされる前からだものね」
「レイラが好きだったね」
「あら、私も好きよ?」
「別に私だって嫌いじゃないさ……君も、長い間お疲れ様」
コンコンと木をノックするような音が響いた。
その音に、リリカはちらりと薄目を開けて、姉達の様子を伺った。
ああ、あれか。
玄関ホールにかかってある、自分の背丈ぐらいの大きな振り子時計。
あいつが、いよいよ止まったのだろう。
もっとも最近は時刻がずれまくっていて、さて、これをどうしたものかと何度も食卓で話題に上がっていた。
ルナサが調べてみると、振り子と直結してるゼンマイにガタがきてるらしく、自分たちで修理するのは無理な様子。
しかし、このままでもカチコチという音は風流なので、完全に止まるまでは誰も外そうとは言い出さなかった。
そういう時計。
「で、降ろすのよね?」
「降ろすよ」
「疲れるのは嫌だわぁ」
「メルランは普段元気が有り余っているでしょう。頑張りなさい」
「アーティストは繊細よ? 騒霊を見かけで判断しちゃ駄目」
「思い切り内面で判断してるのよ。ああ、もう一人、我が家にはお転婆さんがいるか」
「ええ、そこに転がってるわ」
「リリカー? おーい、リリカー」
まぁ、こうなるでしょうねと、リリカは前もってソファーに顔をうつ伏せていた。
肉体労働は御免蒙る。
無駄な労力を割くことは、すなわち人生の無駄に他ならないとリリカは考えているのだ。
別に私の手を借りなくても、二人で出来るでしょ?
二人で出来る事は二人で頑張ろうね!
リリカはそう思って、寝たふりを決め込む事にした。
「姉さん、リリカ寝ちゃってる」
「タヌキ寝入りよ、あれ」
「本当に?」
「メルランが額に生卵でもぶつけたら、元気良く飛び上がって起きてくるわ」
「あら、面白そう!」
「んがー!?」
メル姉ならやりかねんと、慌てて飛び上がったリリカの視線の先には、二人の笑顔があった。
やられたな、と思いながら自分も時計の下に向う。
姉も手強くなった、しかし私はもっと手強くなるわよ! と一人くだらない事を誓った。
「で、何? 私に何か御用ですかー?」
「ん。頼む」
時計の前にリリカを立たせたまま「頼む」とだけ残すと、ルナサは、壁と時計の間に手を突っ込んで、なにやら探し始めた。
「あった。メルラン、こっち来て手伝ってくれる?」
「うん、オーケー」
「止め具外したらゆっくり前に倒すから、二人で支えるわよ」
「は~い」
「で、私は?」
「リリカは、止め具外してそちらにゆっくり倒すから、それを受け止めておいて」
「げ、それって一番きつくない?」
「若い時の苦労は買ってでもしなさい」
「若い時の苦労を売ってあげてる、二人の姉に感謝せよ」
「って騒霊になったの、みんな同じ時期じゃん!」
必死の言葉届かず、時計はじりじりと前に倒れてくる。
潰されるんじゃないかと思いながらも、リリカは渾身の力で受け止めた。
が、意外と姉達が頑張ってくれているらしく、それほどの負担でもなかった。
床と水平にしてから、三人で改めて持ち直す。
「よし、このまま、外まで運ぶよ」
「うわ、埃っぽいなぁ……」
「姉さん、先に雑巾がけした方が良くない?」
「いや、外近いから、このまま一気に運んでしまおう」
「ラジャー」
リリカは、私って久々に床に足をつけて歩いているな、とか考えていた。
こういう体制を取らないと、力が入らないからなのであるが。
やがて三人は玄関を抜けて、庭に出て、隅にある銀杏の老木の下に時計を下ろした。
「……っしょっと」
「ふー、あーだるいー。やっぱり私には向いてないわ」
「だらしないね。ともかくお疲れ様」
ルナサは手を払い埃を落とすと、さっさと家に戻っていった。
時計の裏に溜まり放題の埃を落とすべく、雑巾を取りに行ったのだろう。
もう一人の姉は、何時の間にやら、芝生の上に腰を降ろしていた。
彼女の帽子の太陽のマークがてかてか光っている。
メル姉は明るい場所が良く似合うな、と思いながら、リリカもその横に腰を降ろす。
「この時計、惜しい所で止まってるね」
「そうよね、私もそう思ってたの。てっぺんの十二時に後一歩届かずよね」
「ねぇ、良く考えると、これも天寿なのかなぁ?」
「ん~?」
「時計の天寿。無事、止まるまで使ってもらえたのだから、天命を全うしたと言えない?」
「いい、天気ね~」
「この姉は、可愛い妹の話を無視するか」
「しんみりする話より、ハッピーな話をしましょう?」
「その春色の脳細胞、何とかしなよ」
「嫌い?」
「や、意外と気に入ってる」
その時、リリカは空を見上げていて、メルランの方を見ていなかった。
だから、メルランに何があったのか、リリカには何一つ解らなかった。
「メルランッ!!」
ルナ姉の叫び声が聞こえたなとリリカが思ったら、切羽詰った表情でルナサがメルランの足に飛びついた。
リリカに見えたのは、それだけである。
メルランに何があったのかというよりは、凄い速度で駆けて来たルナサの方にびっくりした。
「だ、大丈夫!? 何かあったの!?」
「え?」
「は? どしたの、ルナ姉?」
「何がってリリカ……これが見えないのか!?」
「見えない?」
「これって何??」
「どうして言ってくれない! 何時からこんな事に……あ?」
三者三様の疑問符が辺りを飛び交った。
二人の視線は当然ルナサに向けられていたが、ルナサの視線はと言えばメルランの足から離れていなかった。
妙な雰囲気に押されて、誰も口を開けなかった。
ルナサが、メルランの足首を恐る恐る握ると、首を傾げて、今度は撫で始めた。
メルランは笑って身をよじる。
えっと、足がどうかしたの? とリリカはスカートから覗く姉の足を眺めてみた。
白くて綺麗な足だった。
いつものメルランの足だった。
そこに、何も変わりはない。
ふくらはぎがもちもちして美味しそうだなとか思った。
何だそりゃ。
しかし、ルナサがいきなり何を錯乱しているのか、リリカには皆目解らない。
「ちょっと、ちょっと、ルナ姉、何か変な事に目覚めちゃったわけ?」
「い、いや、しかしさっき……確かに、な?」
「な? って言われても返答に困るのだけどぉ。あとくすぐった……ひゃう、ひゃはは」
「結局、何がどうしたのよ?」
「だから、ほら、その……足が」
ルナサは下唇を噛んで、続く言葉を飲み込んだ。
そのまま上を向いたり下を向いたりして、言葉に困ってる様子を二人に示した。
その仕草は、何だかおしっこを我慢してるみたいで、恥ずかしいやら色っぽいやらで判断に困る。
一言で言うとマニア向けな表情だ。
「……気のせい?」
「私に訊かれても」
「うん、気のせいなんじゃない?」
「本人が言うなら、そうなのかな」
「全然、解らないって」
「メルラン、何かあったら隠さず相談するのよ?」
「え、ええ」
「何だっていうのさ?」
「まぁ、勘違いなら無駄に不安を煽る必要もないし。私は黙っておこう」
「うわ、非常に自分勝手な発言に、大変不安を煽られた」
「……」
「メル姉?」
「ん?」
「どうしたの? 大丈夫?」
「ええ、まぁ」
歯切れの悪い返事だった。
その時のメルランの瞳は少し曇って見えた。
だけど、右手で太陽を遮って立ち上がった時には、何時もの晴れの笑顔に戻っていた。
メル姉ならこんなものか、とリリカも立ち上がった。
玄関前にバケツが転がっていて、濡れた芝生に雑巾が三つ寝ていた。
ルナサがその前で肩を落としていて、手伝えというジェスチャーを後ろにいるリリカに向けた。
水色の空に白色の太陽。
今日も空はメルランみたいな、秋晴れだった。
―――――
窓を開けて、窓枠に座る。
そこからメルランは、夜空を見上げた。
煌びやかな星と鋭い月が、仲良く夜空を飾り立てていた。
夜に太陽の出番は無い。
月と太陽は同時に存在できない。
そんな当たり前の事実が、今日だけは凄く悲しい事に思えた。
自分だけが仲間から外れている、そんな気がしてたまらない。
最近、何かおかしいなと感じていた問題が、今日はっきりしてしまった。
いつか来るだろうとは思っていたのだけど、今、それを受け入れるのはメルランには無理だった。
何とかして足掻きたい。
三人揃って生きて行きたい。
あの手のぬくもりを離す日が来るのが許せない。
マウスピースを口に含み、トランペットを星空に構え、メルランは勇壮な曲を吹いた。
冷たい夜の透き通る空気に、伸びやかな音が響いていく。
高揚する音の一つ一つを耳に沁み込ませ、自分を勇気付けた。
このトランペットが負担になっているのは確かだろうが、これを嫌いになるのは自分には出来そうもなかった。
だけど、精一杯の抵抗はさせてもらおう。
離すものか、絶対に離すものか。
レイラは離してしまったから駄目なんだ。
―――――
「あ、おはよーメル姉~、なーんか、起こさなくても起きてくるなんて珍し……な!?」
リリカが翌朝一番に目にしたのは、床に足をつけて、しかも兎のスリッパまで履いて降りてきた姉のメルランの姿であった。
「おっはよー、リリカ」
「う、嘘だッ!?」
「ねぇ、朝ごはん出来てる~?」
ペタンペタンと音を立てながら、メル姉が階段を降りて来て自分の横を通り過ぎるのを、リリカは唖然として見送った。
これはヤバイ事になったと思った。
メル姉と言えば、四六時中徹底してぷかぷか浮いている、根無し草の代名詞である。
朝起こしに行っても、本棚に片足を突っ込んでいたり、カーテンに引っ掛って丸まっていたりで、まともな起床姿勢を見た事が無い。
しかもその体勢で『ふわわぁ、ん~良く眠れてるわ~』とか言う。進行形かよ! とのリリカの突っ込みも空しく空振りに終わるのだ。
そんなメルランが。
朝っぱらから堂々と地面を歩いている。
リリカは思わず「ジーザス!」と叫んで右手で壁を殴った。
「なによぉ、リリカ?」
「あ、いえ、その、お元気ですか?」
「元気よー?」
「何ですか、それ? 心境の変化ですか? 失恋でもしました?」
「ううん、私は家族思いのいい姉なの~、きゃわっ!」
訳の解らない事を言いながら歩いてたメル姉は、階段下の大きな箱に躓いて、前のめりにこけた。
紙製の箱が体重で潰されて、へにょってなった。
「いたたたっ、何よ、昨日までこんなの無かったじゃないの。勝手に動かしたら危ないわ~、誰かが躓いたらどうするのよ?」
「躓いてから言うなっていうか、そんなでかい物に躓くなんてメル姉だけだっていうか、潰された箱の方が不憫だわよ」
「そうかなぁ? そうだといいんだけどなぁ……」
「ん?」
「で、朝ごはんはー?」
「うん、ルナ姉がもう作って置いてあるよ。トーストと山羊のミルク。あとサラダ」
「ありがとー、リリカも一緒に食べる?」
「そりゃ食べる。私も今起きたし」
メル姉がおかしいのは毎度の事だが、今日のこの人は何時もより数段ぶっ飛んでいるなぁ。
リリカはそんな事を考えて、遠ざかるスリッパの音を追い掛けて食堂に向った。
高い声で元気良く呼びかけるメルランと、それにぶっきらぼうに言葉を返すルナサの、いつもの朝の挨拶に何処かほっとしながら。
―――――
今日も朝から良く晴れた日だった。
プリズムリバー三姉妹は、冬祭りや宴会などに引っ張りまわされて、五箇所でのライブを終え、今、帰宅したところである。
本来なら目一杯騒げて満足した気持ちの良い凱旋となるはずなのであるが、しかし、三人の顔色は冴えなかった。
「何なのよメル姉は」
玄関を潜るなり、リリカは振り返ってメルランに怒号を浴びせた。
「お客、引きまくりじゃん!」
リリカが怒ってる内容は、ライブの事である。
今日は、何をやってもメルランのトランペットのテンションが上がらず、騒霊ライブ特有のノリが全然出せなかった。
仕方なくメルランに合わせて、予定していた曲目を大幅に変更して、何とかライブの体裁だけは保った次第である。
ただ、幻想郷に住む者は陽気なのが殆どだ。
静かでクラシカルな音を求める者は少ないし、またプリズムリバーに求められていた物はそれと違う。
演奏が終わっても、拍手はまばらだった。
「メル姉解ってんの? 大失敗だよ、今日回ったとこ全部!」
リリカは怒っていた。
怒ってはいたが、その口調ほどは怒ってはいなかった。
彼女は、グループでの自分の役割というのを理解していた。
メルランはああいう性格である。
多少きつめな表現ぐらいが丁度良く、控えめな表現では全く気にせず流されてしまう事が解っている。
だから、妹が暴走気味に怒った形にして、厳しい意見を場に出す必要がある。
はっきりと悪い所を伝えたら、そこで長女のルナサに止めてもらい、釘を刺された形で自分は引っ込む。
そうして、場を丸く治め、ギスギスした気持ちを残さないまま、次の演奏に生かす。
一見子供に見えるが、リリカはその位の事は普通に出来た。
「ったく、久々の大口だってのに……白玉楼から愛想尽かされたら終わりだよ?」
リリカは演技を続けた。
靴を脱ぎ散らかして、キーボードを宙に放り投げて、ドスドスと床を踏み鳴らしながら、喉の渇きを解消するため蛇口に向う。
少し距離をとってから、肩越しにチラリと二人を覗きこんだ。
二人は玄関に止まっている。
上がって来ようとしない。
それはリリカの予想の範疇であったが、どうしてか、メルランよりも、ルナサの方が深刻な表情を作っていた。
何故、ルナ姉が肩を落とす必要があるのだ。
(っていうか、いい加減何か言ってよね。こっちにだって止まる機会ってもんがあるのよ)
仕方ない、もう少し強く言おう。
姉達が発言をしなければならない状況を、自分が作ればいい。
「メル姉は間違いなく最悪だったけど、ルナ姉も酷いんじゃない? 全然リードする気無かったみたいだし」
これで、噛み付いてくると確信があった。
だけど、二人は表情をより一層曇らせて、元の場所に立っているだけだった。
――おかしい。
幽霊ちんどん屋、なんて呼ばれ方をされているが、それぞれ自分の演奏に誇りを持っているはずである。
楽団としての誇りを、少なくともリリカは持っている。
だから、この展開が良く解らない。
もう、ここらで反論が飛んで来ないとおかしい。
どうして、妹にここまで言われて、ルナ姉もメル姉も耐えてるだけなの?
一向に動かない姉達に、リリカは腹立ちよりも焦りを覚えた。
物語が自分の手を離れて、勝手に転がり出す事がリリカは何より怖い。
「あの出来じゃあねぇ、私一人でソロライブ張った方がお客さん喜びそうよ?」
自分が悪者になってでも、ここを切り抜けるべきだとリリカは考えた。
自分一人が道化でも構わない。
姉達が日頃の仕返しに共謀してたって、それでいい。
叱って欲しい。
「リリカ……」
ようやく聞こえてきたルナサの言葉に、リリカは演技も忘れて顔を崩した。
俯き気味の顔と、握った拳が小刻みに震えているのが見える。
良かった、怒ってた。
これから、溜まり溜まった怒りを爆発してくれるのだろう。
後は怒られた自分が拗ねたフリをして、少しの間自室に篭って、それから……
「リリカ、解った、もういいから。確かに私達が悪かったわ。ごめんなさい」
「……え?」
ルナサは目を合わせようともせず、二階に消えていった。
メルランはリリカの頭を撫でて「ごめんね、ちょっと調子が良くなくて」と呟いて微笑んでそれだけで去っていった。
リリカの胃の辺りの冷たく重い何かが生まれた。
振り返った時に、二人はもういなかった。
リリカは怖かった。
ルナサが怒らず、自分を避けた事が。
メルランが悪びれず、優しく微笑んだ事が。
何処か正常じゃない、この雰囲気が怖かった。
この感覚に、覚えがあったから。
リリカは、一人だけ何も知らされずに、絶望だけが突然訪れた日を知っている。
明日の幸せを信じていたのは自分一人だけで。
物語は自分の知らないところで勝手に進んでいて、その手に掴んでいたものは、ただの幻想だったと知る時が来た日を知っている。
あの時、リリカの目だけが、見たままを信じていた。
笑顔を疑うなんて、そんなのあの子への冒涜だよ、と思っていた。
それが正しい事だと、むしろ姉さん達を笑っていた。
「……ふーん、また隠すつもりなんだ」
リリカは精一杯強がって言葉を吐いた。
出来るだけ、皮肉めいた口調を使った。
姉達に甘えたい、騙されてでも安心したい、そんな弱い心を抑え付ける為に、敢えてそうした。
誰も見てないだろうが、その表情さえ凍りつかせた。
「私は誰よりも……したたかに生きてやるんだから……」
一度口の中で、二度目は頭の中で。
リリカは繰り返した。
あの日の誓いを。
(したたかに、生きてやる……!)
―――――
見た目何も変わらない。
ただ、三人の心は小さく波に揺れている。
お互いが微妙に相手を気にする中で、やがて夕食の時間がやってきた。
相変わらず、ルナ姉の作る料理は美味しかった。
わかめの卵スープに卵の殻が混じっていたのが、リリカには小さな不満ではあったけれど。
リリカは二人の様子に目を走らせながら、食事をわざと遅らせて食べた。
二人の姉は先に食事を済ませ、それぞれ思うままに動き出した。
ルナサは調弦をすると言い、二階に上がって行った。
メルランは欠伸をしながら応接間の方へ歩いていった。
メルランの動きはここからでも、リリカが振り返れば大体把握できた。
私に隠して二人だけの秘密を握っているなら、何時か二人は接触するはず。
自分が食事中で食堂にいる時が、機会の一つだ。
リリカはそう思って待ってみたものの、姉のどちらにも動きが見られなかった。
食事の速度を遅らせるのにも限度があり、食べ終わった食器を重ねてみても、まだ、何の動きも無かった。
テーブルの上、籠に持ったフルーツ群に手を伸ばして、蜜柑を掴んで食べ始めた。
たまに振り返っては、姉の動向を窺う。
気分は事件を追う名探偵である。
だけど、こうして、もぐもぐと蜜柑の咀嚼をしていると、リリカの懐疑的な心も次第に落ち着いてきた。
昼間は感情的になり過ぎたかなぁ、とか思ってくる。
只ならぬ雰囲気に、嫌な連想をして一人熱くなってしまったが、今の状況をあの時と結びつけるのは、早計だったかも知れない。
だけど、ひょっとしたらという思いも、未だ捨て切れない。
彼女らが、何かを隠しているのは確かなのだ。
ヒトデ形に剥いた蜜柑の皮が、三つ四つとテーブルに並んでくる。
いい加減、爪も黄色くなってきたところで、選ぶも無く二個三個フルーツを手に取ると、リリカはメルランのほうへ歩き始めた。
「ねーえーさん!」
「なぁに?」
飛び切りの甘え声で、リリカはメルランに近づいた。
腕にフルーツを抱いたまま、床に座るメルランの視線まで腰を降ろす。
メルランは床の上で何か分厚い紙を鋏で切っていた。
「私、メル姉と一緒に果物食べたいな~、ってあんた何やってんのさ?」
「あら、台無しよリリカ。せっかくの『リリカ必殺! 脅威の猫撫で声!』が泣くわ~」
「いや、マジで何やってるの?」
「鋏で分解して畳んでるのよ。ほら、いらない箱とか余ってきてるでしょう?」
ジャキジャキと鋏が厚紙を裁つ音が、リリカの耳に聞こえてくる。
「別に家広いんだから、そんなの隅にでも重ねときゃいいっしょ?」
「めるら~ん、くりーんあっぷけいかく~♪」
「可愛くない、可愛くない」
「家は広い方がいいわ」
「そうだけど。三人で住む分には今でも……」
何時もと違う開放感に、ふと辺りを見回すと、応接間が広くなっているのを感じた。
本やちり紙が床から消え、ソファーの位置も定位置に収まっている。
しかし、床だけ。
何故か棚とかは整理の手をつけていない。
「これ、メル姉がやったの?」
「そうよ」
「何で?」
「だから、家は広い方がいいわ」
応接間を出て、リリカは階段に駆けた。
やっぱりだ。
今朝、メル姉が躓いたあのでかい箱も、何処かに片付けられている。
メル姉が床に足をつけて歩き出したと思ったら、夕方には彼女が大嫌いな整理整頓を家中で行っている。
リリカはそこに消滅の危機は覚えなくても、何かしら作為は感じ取った。
もう一度、応接間に戻って、問い詰めるべく少し厳しい口調で、リリカは箱と鋏で格闘を続ける姉に話しかけた。
「どういう事?」
「リリカも協力してね、今日から家を綺麗に――」
「だから、何が目的なの!?」
「なるべく、地面に物を置かないで。それと何かを動かしたら元の位置に必ず戻しておいてね」
「……昼間の事と何か関係があるの?」
「ううん、大した事無いのよ。ほら、リリカが言うところの心境の変化」
「メル姉、はっきり言うよ?」
「んー? ありゃ、ここ結構固いわ、鋏通るかしら」
「何か隠してるよね?」
「乙女の秘密を一つ二つ?」
「お願いだから、そういうの止めてよ。私、もう子供じゃない」
「あははっ、どちらかと言うと私の方が手がかかる子供かしら?」
「……」
「ねえ、お願い、リリカ。もう少し姉さんの我侭を通させて」
「我が侭?」
「貴方の事はとても頼りにしている。貴方だけを除け者とか、特別扱いとか、そういうわけじゃないのよ」
「それならさ……!」
「リリカ、首を縦に振ってくれないかな?」
暗い声に、リリカはたじろいだ。
姉は、こんなに弱い影を見せる人だっただろうか?
理不尽で無茶苦茶で底抜けに明るい、そんなイメージしかリリカは持っていなかった。
気が付けば、自分に姉を懐柔させるために来たつもりなのに、空気はすっかり姉に飲み込まれてしまっている。
拳をぎゅっと握りこむ。
切り揃えられた爪が手の平に痒かった。
落ち着いて、肺に空気を取り込む。
首を振るつもりは無かった、だけどその時、僅かに振ってしまっていたのだろう。
メル姉の礼が聞こえた。
「ありがとっ」
広がる太陽の笑顔。
屈託の無い童女の微笑み。
隙の無い賢者の笑い。
姉の笑顔はリリカの心に合わせて、多様な広がりを見せた。
しかし、どう取っても疑惑は深まる一方だ。
「ね、フルーツ食べましょ?」
最後の箱を片付けると、メルランは二階へ向けて声を張り上げる。
ルナサが降りてくる足音が聞こえた。
すぐに、応接間に三人が揃った。
ルナサは笑っていた。
メルランも笑っていた。
リリカ一人がどうすればいいか解らない。
剥いだ蜜柑の汁が、赤い服に飛散った。
ルナサはメルランとの話に夢中で、リリカの服の染みに気が付きそうも無い。
リリカは自分で汚れを拭い去った。
寂しかった。
―――――
ある程度の自身を持って、メルランに挑んだリリカだっただけに、この結果には落ち込んだ。
短く舌打ちして、蛇口をひねる。
冷水を両手に溜め、直接顔にぶつける。
急激に冷やされた頬に、締め付けられる痛みが走った。
自分は一体何をやっていたのだろう?
ずっと、ずっと、あの日から成長を続けてきたつもりだった。
明日の自分は今日より強く、明日の自分は今日より賢く。
そうやって姉に追いつこうと、頑張ってきた。
しかし、差が詰まっていない。
「まだまだ、これから……!」
立ち止まっている時間は無かった。
どんな手強い牙城であれ、自分でそれを崩さねばならない。
リリカは直ぐに冷静さを取り戻して、方向を修正した。
今日の敗北を生かして、外堀から埋めてみよう。
一旦メルランを諦めて、ルナサ一人を狙うとリリカは決めた。
二人一緒のときは付け入る隙が無い。
朝早く部屋に押しかけて、リリカは不意打ちをかける。
太陽が昇る前に。
メルランが動く前に。
―――――
オレンジの太陽がゆっくりと山から顔を出しかけた頃、リリカはルナサの部屋を優しくノックした。
「ルナ姉~。ちょっといいかなー?」
当然返事がないので、もう一度ノックして呼びかける。
これをリリカは、起きるまで何度でも繰り返すつもりだ。
自分が早朝にこんな事やられたらキレるだろうなとか、リリカは思うのだが。
部屋の奥から衣ずれの音が聞こえた。
リリカはノックを止めて、極めて明るくドア越しに呼びかけた。
「ルナ姉ー、おっはよー。朝だよー」
「………」
無言だった。
何度かしつこく呼んでいるうちに、衣ずれの音に続き足音が聞こえてくる。
「……何?」
それがルナサの第一声だった。
すっごいテンション低かった。
気にせず、リリカは何度も朝を呼びかけた。
リリカの明るい挨拶にルナサが暗い疑問符を返す、そんな噛み合わぬやり取りをドアを挟んで繰り返したが、リリカの根気が勝ってドアが開いた。
パジャマ姿のルナサをリリカは久々に見た気がした。
寝間着のまま歩き回るという事を醜態だと考えているルナサは、起きて直ぐに着替えるし寝る時もギリギリまで普段着だ。
ついでに、ルナサのほうが早起きだし、寝るのもルナサのほうが遅い。
だから、同じ屋根の下姉妹と言えど、ルナサのパジャマ姿に遭遇するのは結構レアなのである。
滅多に無いぞー、とリリカは繁々と白い無地のパジャマを上から下まで観察した。
ルナサはまだ覚醒しきっていないのか、何度か眠そうに目を瞬いた後に「ああ、リリカか」と喋り、深く息を吐き出した。
「おぉ、今日もお美しい。おはようございます、姉さま」
「……今、何時?」
「朝だよ」
「……」
「うーん、爽快。朝一番にルナ姉の真っ白な姿を見ると心が安らぐな~」
「……私、昨日何かあなたに悪い事した?」
「いや、これは嫌がらせではなくて」
「いいわよ、入って。寒いわ、ここ」
さすがに中は廊下より暖かい。
ルナサの部屋は、屋敷の中でも一番片付いている事で有名だ。
自分の部屋と同じ面積のはずだが、これほど差が出るかとリリカは驚嘆した。
「うむ、さすがルナ姉だ」
「おやすみ……」
「でね、朝早く悪いんだけどさ、ちょっとメル姉の……って何ベッドに戻っちゃってんの! 寝るなよ!」
「朝ご飯前には起きるから」
「よぉし、いいだろう。じゃあ、一緒に布団の中で語らおうか」
「入るなよ」
入りかけたリリカを足蹴にして、もそもそと、ルナサが出てくる。
パジャマ姿ではさすがに寒いのか、ルナサは背中から布団を羽織った。
「で、何かしら? ふわわぁぁぁ……」
「投げやりだなー、大事な話なんだって」
「リリカの大事な話というと……おぉ、お赤飯?」
「違うっての」
「そうか、そうか、リリカもそんな歳になったのね」
「姉さん、つまらない事を引っ張ると自分が辛いわよ?」
これはまた、ルナ姉にしては、ずいぶんとボケる。
隠してる何かに触れられたくない為に、ルナサは意図的にシリアスな雰囲気を避けているのだろう。
メル姉より、だいぶ感情が掴みやすいとリリカは感じた。
これなら、いけると。
「昨日さ、姉さんメル姉の足に異様に驚いてたよね? 何かあった?」
「ん? いや別に」
ルナサはたまらず否定をした。
もっと話を伸ばせば良かったのに、いきなり痛いところを狙われて心が焦った。
リリカはその様子を見て、一気に畳み掛ける。
「ねえ、何が見えたの? 何を見たの?」
「何も見えてなんていないよ」
「何も見えていないか、見えなかった……例えばそうね、メル姉の足が薄くなっていた、もしくは一瞬見えなかったとか?」
「そんな事は無い」
「なるほど」
突拍子の無い話に対して否定が飛んでくるのが早すぎる。
ただ、カマをかけたつもりだったが、これはいい所突けてるとリリカは感じた。
しかし、それを知り、今度は悩んだ。
足が消えて見える、薄くなっている、もし本当ならば非常に安定性を欠いている証拠だ。
それは自分が一番恐れる、消滅という結末がぐっと色濃くなってくる。
「姉さん……あの」
「ねぇ、リリカ。そんな話なら、もういいでしょう? もう少し寝かせてくれない?」
「ごめん。最後に一つだけ」
次の質問に答えは返ってこないだろう。
だけど、今のルナ姉相手なら、その表情か動作で何かが掴める自信がリリカにはあった。
「メル姉は、消えかけているの?」
「え?」
「だからさ、メルラン姉さんは、消えかけてる?」
「メルランが?」
「う、うん」
その言葉に、腕組みをして俯いたルナサが再び顔を上げたのが三秒後。
「そうか、そういう意図もあったのか……」
「……?」
「まさか、あんなに元気なメルランが消えたりするわけ無いでしょう?」
真剣に話してる最中に急に脇腹をくすぐられた様な、真ん中のみが上がり調子の妙な口調で姉は答えた。
――消えないのか?
ルナサの緊張が崩れ、力を入れていた肩も少し楽になったように見える。
今までと明らかに雰囲気が違った。
「それが訊きたくて、わざわざ私の部屋に来たの?」
ルナ姉は素直で解りやすい。
おそらく、これはルナ姉の本音だ。
消えないんだ……。
心から安堵した。
昨日から腹の底で響き続ける、冷たい痛みが引いていく。
「リリカ、あまり身体を冷やしていると風邪を引くわよ。温かい紅茶でも淹れようか?」
「……ううん、いらない」
何かが解決したわけではない。
むしろ、線になりつつあった点が、またバラバラに散らばった。
しかし、最悪の可能性が消えただけ、リリカには十分過ぎる程の収穫があった。
「姉さん、隠している事。いつでもいいから私にも話してね」
「えぇ……」
また、ルナサの顔が暗くなる。
即座に否定すればいいのに、それが出来ないのが姉の良い所なのだろう。
隠し事とは何なのか。
もう焦らなくていい、時間はたっぷりあるのだから、ゆっくりと詰めていこう。
リリカはルナサに礼を言うと、立ち上がった。
カーテンの隙間から差す朝日が、入って来た時より部屋を明るく照らしていた。
―――――
朝ご飯までは、まだ時間があった。
どうしようか? 二度寝しようかな。
リリカは後ろに手を組んで、階段を目指し廊下を歩いていた、その途中。
「この家が壊れたら、私達はどうなるのかなー?」
きぃきぃと辛そうな音を立てる床に、リリカは少し不安になった。
衣食住の心配はもちろんだが、それ以上に姉妹として一緒に過ごした時間が崩れるようで嫌だった。
そんな不安が、別の不安を煽った。
リリカは階段前で反転して、メルランの部屋に向った。
折角早起きしたのだから、メル姉にも突撃しておこうと思った。
「メル姉~。いる~?」
居るに決まっているのだが、一応ノックして伺う。
ルナサと違ってメルランの部屋には鍵がかかってないので、出入りし放題なのだが。
リリカの目で見ても、メルランの部屋は散らかっており、ルナサからすれば、此処は何処の密林だ!? 状態であろう。
部屋の状態を巡り、ルナサとメルランが度々喧嘩してる事をリリカは思い出していた。
『いい加減片付けなさい! ベッドの周りに本とか服を積むな! っとにどれだけ散らかせば気が済むの!?』
『それは散らかしてるんじゃないのー! ベッドから手が届く、その配置がベストなのよー!』
駄目人間の典型である。
だいたいメル姉は、寝てるときも浮かんでるじゃん、それ、ベッドの意味無いから。
姉の痴態を散々思い出して満足してたリリカだが、返ってくる返事が無い事に今更ながら気が付いた。
「おや? メル姉~、メル姉~?」
再三、ドアを叩いてみたが、何の気配も感じられぬ。
リリカのシンボルであるキーボードを呼んで、軽く一曲演奏した。
………。
おいおい、これで起きないか。
「もう、入るよメル姉ー? 知らないよ、私はやるだけやったよ。起きないのが悪いんだからねー」
扉を開いた途端、リリカの足元を嬲るように冷たい空気が通っていく。
部屋の温度は低い。
「何これ?」
メルランの姿は何処にも無く、カーテンだけが風に揺れていた。
はっと気が付き、窓辺に駆け寄る。
開き窓をバンッと開けて、空を見回す。
メルランの姿は無い。
窓から飛び出して寝ている訳でもない。
朝日はようやく山の上の雲を赤から橙に変えていた。
こんな朝早くから、彼女は何処に消えたのか。
改めて、部屋を見渡す。
乱雑に積み重ねられている物はそのままであり、昨日一生懸命片づけをしていた殊勝なメル姉の姿はこの部屋になかった。
片付ける事も足をつけて歩く事も別段何の事は無いのだが、メル姉がやるとそれが奇異な行動に見えてしまう。
次いで今回の外出だ。
これで気にするなという方が無理ではないか。
(この部屋に何か秘密が隠されていないだろうか?)
リリカは油断無く部屋に視線を彷徨わせた後、ドア越しに廊下の気配を伺った。
メルランはもちろんの事、ルナサに見られても困る。
誰も居ない事を確認して、よしっと呟やき、本や楽器を掻き分けて目立つ物はないかと探り始めた。
しかし、三分と持たなかった。
この部屋から何かを探すのは、大幅に部屋の構成を変えなくてはならない。
そのくらい散らかっている。
そこまで危険を冒して、探し物も解らぬまま部屋を荒らす必要は無いだろう。
諦めたリリカは、部屋を出る前に窓を戻そうとして、カーテンの隙間から顔を出した。
そこで微かに聞こえた。
風に高い音が運ばれてくる。
聞き覚えのある金管楽器。
耳を澄ます。
メル姉だ。
間違いない。
高音で踊り続けるトランペットのリズムは、ルナサという土台から解放されて、好き勝手絶頂に朝を歌っていた。
こんなに離れていても、姉の魔力をひしひしと感じる。
――何故?
これだけ出来るのに、ライブの時の暗い音はどうしたというのか。
一体何の為に、音を抑える必要があった?
トランペットの音色が止む。
「あ、しまった」
聞き惚れてる暇があるなら、直ぐにでも外へ飛び出すべきだった。
どっちだ……。
距離が離れすぎていて、音の方角を正確に把握できていない。
「畜生っ!」
解らないが、それでも、リリカは飛び出した。
結局、朝の寒さばかりが身に堪え、メル姉の姿も演奏の跡も発見出来た事は何も無かった。
―――――
リリカが戻っても、屋敷にメルランの姿は無かった。
ルナ姉が起きる時間が近づいている。
正確な時刻を調べようとホールの壁に目をやったが、そこに目当ての物はなかった。
染み付いた習慣を笑う。
針が狂い出しても、三姉妹は大時計をよく見上げていた。
あいつはあいつで頼りにしていた。
私たちにとって家族みたいなものだったのかもしれない。
リリカは、がらんとした空間に、花でも置いてやりたい気分だった。
朝の空気の冷たさのお陰か、頭の中は意外と冴えている。
大時計がいた場所から視線を降ろし、悴んだ手を擦りながら、また玄関扉の隙間から空を見上げた。
メルランの行動のおかげで、リリカには事の全貌がおぼろげにだが見えて来ていた。
メル姉には随分と翻弄されたが、隠していた姉の気持ちも解からない事も無い。
だけど自分だって必死なんだ。
ルナサが起きる、それより前に彼女は帰ってこなければならない。
もう、そろそろだろう。
輝く白いブラウスが、庭先に降り立った。
芝生の上をゆっくりと歩いてくるメルランに屈託は無かった。
(それじゃ、計画通りやってみるか)
メルランの姿を確認すると、リリカは蜜柑の皮を玄関に一欠けら置いて、奥の物陰に身を潜めた。
玄関が静かに開き、金色のトランペットが入ってくる。
メルランは下駄箱に靴をしまう際に、下に落ちている物に気が付いた。
首をかしげ、しゃがみ込み、指で摘む。
見た目も手触りも蜜柑の皮であった。
メルランは良く解からないなといった表情でそれを手にしたまま、家に上がった。
そこでリリカは声をかけた。
「おはよう、メル姉」
「あ」
さすがにメルランも動揺を示した。
しかしそれも一瞬の事で、また屈託無い笑みを浮かべてリリカに話しかけた。
「おはよう。起きていたのリリカ? 早起きね~」
「姉さんこそ。わ、良く気が付いたね、そんな小さな蜜柑の皮」
「ええ、クリーンアップ計画中だもの。あ、これ、ひょっとしてリリカの悪戯?」
「随分と足元に神経を使ってるよね。メル姉の部屋なんてあんなに散らかってるのにさ」
「質問に答えなさいよ~。それと人の部屋に勝手に入るのも駄目~!」
「ふむ、足元にゴミがあると大変だよね。私も今から協力するよ。誰かが躓いて転んだりしたら危ないしー」
「それは良い心がけね」
「で、誰が躓くの?」
「え?……みんながでしょ?」
僅かに間があった。
注意深く聞いていたリリカには、その流れの不自然さがわかった。
話題を切り替える。
「ああ、そうそう。聞いたよ~。メル姉の演奏凄いじゃん。私、感動しちゃった」
「あら、聞いてたの?」
「こっそり近くでね。あれだけ出来るんならさぁ、ライブの時もっと張り切ってよ。次は絶対頼むよ?」
「うーん、最近ね、落ち着いた音をライブで演るのもいいかなーって思ってるの」
「へぇ、そうなんだー」
「綺麗で落ち着いた音と、私の賑やかな躁の音の切り替えが出来れば、ライブでもソロでも幅広くやっていけるじゃない?」
「あー、その為に地面に足を付けて、毎日歩いてるんだ?」
「そうね。『音が抜けてしまっているわ、地に足をつける練習をしなさい』って姉さんもしたり顔で言ってたし」
メルランのその言葉に嘘は無いのだろう。
隠している部分も本音、話している部分も本音。
そうして嘘は巧妙になる。
しかし、だからこそリリカの考えが纏まった。
メル姉は消えない。
ルナ姉の言は正しい。
消えないどころか、これでもかと言う程に元気である。
「というわけで当分さ、騒霊ライブの方向をね――」
「いいよ。音楽に関してはまた後で話そう。それよりも……」
リリカは考えた。
全てがそうなのだというのは、まさかという思いではあるが、メルランの態度から見るに一つ確かな事がある。
どうやら、自分は事件の主役を取り違えていた。
「ねぇ、メル姉」
「なぁに?」
「せっかく二人で早起きしたんだし。朝食、作ろうか?」
もう、ルナ姉にばかり負担を強いるわけにはいかないだろう。
―――――
「何が出来る?」
顔を向き合わせ、二人同時に訊いた。
もちろん料理の献立の事だ。
そして、お互いに答えに窮し、床を睨みながら、あー、とか、うー、とか唸った。
つくづくルナ姉がいないと、自分達は何も出来ないなと思い知らされる。
「サラダなら出来るわ!」
メルランは自信に満ちた声を上げ、胸の辺りで手を合わせた。
野菜を水で洗う、千切る、ボウルに入れる、完成。
そりゃ出来るだろう。
「サラダは料理なの?」
「料理よー」
「他に何作る?」
「サラダだけでいいんじゃない?」
「青虫みたいな生活だなー」
「わ、リリカ。見て見て! 発見! 発見! ロールパン!」
「おー、いいね」
「これ、私が見つけたから私の料理ね」
「そのまま出すだけじゃんか」
「後は、どうする?」
「もう一品は欲しいよね」
「スープ?」
「無理っしょ」
「目玉焼き?」
「あ、いけるんじゃない」
リリカは鉄鍋を持ってきて暖め始めた、適当に油を引いて卵をぱかんと上で割る。
後は放っておけば、何とかなるでしょう。
さて、朝の演奏の後の空白の時間の事も訊いておきますか。
リリカは隣で野菜を洗うメルランに声をかけた。
「姉さんさ、朝の演奏の後さ、何処に行ってたの?」
「……?何処だと思う?」
「はい?」
「リリカ、貴方、私の演奏を傍で聞いてなかったのね」
「え、いや。聞いてるよ?」
「その台詞は可笑しいわね。ちなみに演奏場所は何処だった?」
「……墓場?」
「うん、当たり。しかし、屋敷まで聞こえたとなると、もう少し遠い墓場の方がいいかなぁ」
「えー、何でばれてるのー?」
何時からばれてたんだろう。
日頃ぽわぽわしてるのに、たまにやたら切れ味鋭い。
まあ、とりあえず料理に集中しとこうか、とリリカは視線を鉄鍋に戻す。
半熟っぽい目玉焼きに満足し、一口箸で摘んで醤油を垂らし、味見してみた。
「ほぉ、意外と。でも、なんか」
半熟は半熟だったし、美味しいとさえ感じる出来なのだが。
「違うなぁ……」
皿を前に首を捻る。
それは、ルナサがいつも作る、目玉焼きではなかった。
リリカは舌の上で目玉焼きを転がして、何が違うのか確かめようとしたが、さっぱり解からない。
「どれ、みてあげる」
メルランも一口切り取って口に運んだ。
「ってそれは私の分! 取るなー!」
「ま、本当ね。姉さんの方が、味にとろみと丸みがあるわ~」
「うん、まさにそんな感じ」
「一言で言うと、まろみがあるわね」
「丸みと何が違うのさ」
「でも、リリカ。これはこれで美味しいわよ?」
「……むぅ」
何が違うのか解からないが、こんな簡単な料理で味が似ないとは。
リリカはルナサの目玉焼きが急に恋しくなった。
これがお袋の味というものなのかな。
リリカが目玉焼きを皿に移し、メルランのサラダボウルがテーブルの中央を占拠したところで、背後から二人に声がかかった。
―――――
何時切り出そうか、もういいだろうか、迷ってるうちにパンはどんどんちびてくる。
リリカはルナサの顔色を窺いながら、残り一欠けらの目玉焼をフォークで突付く。
ルナサはずっと微笑んでいる。
よほど私達が料理を作ってくれた事が嬉しいらしい。
リリカにとってはそんな笑顔だから話が切り出しにくい。
美味しい、美味しい、と言いながら、ただ焼いただけの目玉焼きや、洗っただけのレタスを口に頬張るのは、作り手としては逆に惨めになってくる。
まさか、こんなに喜んでくれるとは思わないものだから、リリカもメルランも手を抜いた事を後悔し始めていた。
(しかし、話し辛い……)
三人がテーブルに揃って仲良く笑っている。
この和やかな雰囲気をこれから壊そうとしている自分が、鬼にも悪魔にも思えてくる。
ええい、悪魔で結構。
リリカはいよいよちびたパンを口に放り込むと、遂に決意を固めて口を開いた。
「あのね、ルナ姉! どうしても訊いておかないといけない事があるの!」
「どうしたの、リリカ?」
「だ、だから……目玉焼きの美味しい作り方、今度教えて」
「ええ、お安い御用」
両肘をテーブルについて、リリカは頭を抱えた。
勝てない。
あの強烈な眩しさに対する免疫が自分には出来ていない。
あの笑顔を前にして人類が抵抗するのは不可能だ。
(止むを得ず……作戦を変更する)
直接聞き出すことは後回しにした。
今は、ルナサの症状がどの程度までなのか確かめる必要があると、リリカは判断した。
どの部分、恐らくメル姉の言動から考えるに、演奏にも大きく影響が出てるはずだけど、音楽の方は置いておいて。
目の具合から確かめてみようか。
朝日にメル姉の足が霞んで見えたり。
卵の殻がチョット入ってたりする程度のはずなのだけど。
椅子を引き、静かに席を離れ、リリカはルナサの後ろから声をかけた。
「ねぇ、紅茶作ってあげようか?」
「え?」
自分が席を立ち上がってからのルナ姉の不安そうな視線が、自分の声を聞いてようやく一つに定まった。
明らかに音に対しての動きだった。
目の方はかなり悪くなっているのだろうか。
いや、そんなに悪いはずは……。
昨日は殻付きとはいえ、料理だってちゃんと美味しく作ってたし。
「ええと、お湯沸いてるから、すぐ出来るよ?」
「リリカ……ああ、貰うよ。有難う」
姉、感涙の構えにて、妹驚く。
隣でメルランが怪訝そうにリリカを向いて、眉をしかめた。
悪戯したら承知しないわよという顔だ。
しかし、断る。
悪戯はさせてもらう。
まあ、ほんの些細な事だし勘弁してください。
何の害もないだろうし。
既に茶葉入りのティーポッドにお湯を注ぐ。
多少冷えるまで待つつもりだったが、じれったかったので、リリカはすぐにカップに注いだ。
高い位置から入れたから、熱湯ってわけでもないでしょう。
「はぁい、姉さんお待たせー」
「……ぐすっ……あ、ありがとう」
本当に泣いてるのか。
こちらは悪い気はしないが、ルナ姉に対して悪い気がしてくる。
「熱いから気をつけてね?」
「ええ、ご心配なく」
「なっ!? あれは一体!?」
「?」
リリカはルナサの背後を指差した。
ルナサが慎重に後ろを振り向いた。
どうでも良かったメルランが一番食い付いて来た。
好奇心の塊だな、この姉は、とリリカは思った。
この時、カップの取っ手がルナサの方を向いていたのを、リリカは逆向きに素早く変えていた。
ルナサの目が相当悪いのなら、取っ手を掴もうとした手が空振りに終わるはず。
そこそこ見えているならば、取っ手を自分の方へ戻してから飲むだろう。
これで、どの程度なのか調べられる。
そういう魂胆である。
「ああー、ごめん、勘違いだ。そこの柱にひびが入ってるように見えた」
「リアルで怖いわよ」
ルナサがテーブルに向き直り、カップに手を伸ばす。
リリカは自分の席に戻りながら、横目でその様子を隙無く窺っていた。
果たして、伸ばした姉の手は空を切って終わった。
(うわ、あれが見えてないのか……)
取っ手については自分向きだと先入観があっただろうし、それに白いテーブルクロスに白いティーカップだ。
目が悪いと確かに見逃すかも知れない。
それでも、ルナサの普段の性格からは考えられないミスだった。
目の当りにすると痛いものがある。
リリカは組んだ両手で額を抑えた。
姉のミスに対して妹達のミスは、同様に見逃した事である。
ルナサの行動は止まってはいなかった。
メルランはもちろん、リリカもそれに気付けていない。
ルナサがもう一度カップに手を伸ばした。
爪がカップの淵を引っ掻く。
そしてカップはゆっくりと音も無く手前に倒れた。
倒れたカップは僅かに円を描き転がった。
鮮やかな赤の色が白地に流れていく。
それはテーブルクロスだけに留まらず、テーブルの端からルナサの膝の上に零れていく。
黒色のスカートが滲んで色を変えた。
「姉さん!」
メルランの声が食堂に響いた。
リリカは思考を抜け出して、何事かと姉の方を向いた。
何が起こったのか瞬間頭が回らない。
今もクロスから流れ落ちる赤の液体に、ルナ姉がコップをひっくり返したのだと理解した。
黒のスカートは紅茶で足に張り付いている。
当のルナサはまだ呆然としていた。
紅茶は熱湯に近い、相当熱いはずなのに、姉は何の行動も取れていなかった。
反射的に席を離れるとか、スカートを摘んで肌に密着させないとか、そういう事は頭には無く。
ただ、呆然と……。
「リリカ! 濡れタオル!」
頭の中は疑問符でいっぱいだった。
だけど、リリカは布巾を掴んで蛇口に走った。
他に三本、乱暴にタオルを奪って、水に濡らし、戻る。
紅茶が零れたのが見えていないのか……それとも痛覚が無いのか……。
濡れたタオルを運びながら、リリカの混乱はますます酷くなる。
ルナ姉は実は相当やばい状態ではないのか。
「だ、大丈夫だから」
走るリリカに、ルナサの力ない声が聞こえた。
ようやく状況を理解したのか、ルナサは椅子から立ち上がって、布に足が当たらぬよう調整していた。
メルランが、運んできた濡れタオルをひったくって、スカートを捲くり上げて患部に当てた。
ルナサの白い太ももには、赤い蚯蚓腫れのようなものが走っていた。
手伝いたいのだが、冷やす他にする事はなさそうだし、二人の姉の間に入る隙間も無かった。
それでも何かしたくて、よたよたと近づくとメル姉に凄い目で睨まれた。
こんなつもりは無かった。
少し確認が取りたかっただけで。
こんなつもりは……。
弁明は形にならず、声にならない声が呻きとして漏れただけだった。
メル姉がルナ姉を心配する声が聞こえる。
手に残ったタオルから、床に水が落ちる音がする。
拭かないと――。
「リリカ……あなた解かっていてやったわね!?」
メルランの声に、弾かれるようにリリカは顔を上げた。
それはルナサも同じだった。
リリカとルナサの視線が合い、気まずくて、また下を向いてしまう。
「悪質よ、こんな悪戯!」
そんなに怒らないでよ。
そんなつもりは無かったんだってば。
だけど、リリカから声は出ない。
また喉から変な呻きが漏れた。
どうしちゃったんだろう。
ごめんなさいって。
反省してるそぶりを見せて、謝って、許してもらおう。
自分の得意技じゃないの。
「リリカのせいで大火傷するところだったのよ!?」
その言葉にカチンと来た。
反射的にリリカの口が開いた。
自分が悪くないと思った訳では決して無いが、雑多な感情が混じり合って生まれ出たのは怒りだった。
「うるさい! そもそもメル姉が隠さなきゃこんな事にならなかったんだ!」
「反省もしてないわけ!?」
「だって見えてないじゃない! ルナ姉、全然見えてない! 痛みも感じてない! 何でよ!?」
メルランを無視して、リリカはルナサに突っ掛かった。
昨日まで重たい時計を一緒に運んでいた。
青い空の下で、元気に姉妹仲良く運んでいた。
それが、どうしてこんなに急に衰えているのだ。
罪悪感も孤独も悲しみも、リリカの中で全て焦燥感に変わっていった。
後で幾らでも謝る、土下座したっていい、ううん、家事でも何でも手伝う、だから助けてよ。
リリカはこの理不尽な状況が、怖くて仕方ない。
「ルナ姉、そんな状態で演奏出来るの!? こんなになるまでどうして私一人だけ話してくれないの!」
「私だって姉さんから聞いたわけじゃないわよ! だ、大体こんなに酷いなんて」
「嘘だ! メル姉はずっと前から知ってた!」
「だから、それは――!」
「頼む、止めてくれ」
苦しそうな声に、全員の動きが止まる。
ルナサだった。
二人は母を見上げる気持ちで、ルナサの次の言葉を待った。
「すまない……」
暗く低い声より、吐いた息の深さの方が目立った。
それだけで、ルナサは席を立った。
タオルを足に当てたまま、ゆっくりと一人で出口に歩いていく。
「ね、姉さん、傷の手当てを」
「只の水脹れよ、包帯でも巻いておくわ、それくらい一人でも出来るから……」
覚束無い足取りで食堂を後にするルナサの背中は、二人が見た事無いほどに小さかった。
「んむー?」
夕食中。
暖炉の炎と天井のランプが、並んで座る三人の影をテーブルクロスに落とす。
今夜のメニューはトマトスパゲティ。
ルナサの指の先は、リリカの頬に付着した赤いソースに向けられていた。
リリカは口の周りを舌でべろりと嘗め取ると、すぐにフォークでスパゲティを巻き取るのを再開した。
「はしたないし、届いてもいないわ。もっと右」
「いいじゃん、食事終ってからにしようよ。飛んだのは後で纏めて拭いた方が効率的」
「飛散る事が、既に間違いなのよ」
「むぐむぐ、んっ、美味しいねぇ」
「あー、もう、見てる方が気になるって」
手元にあるナプキンを掴むと、ルナサは立ち上がり、隣に座るリリカの頬っぺたをやや強く擦る。
リリカは特に抵抗を見せず、ルナサの手に従った。
「くすぐったいなー」
「ほら、飛散らないように少なく掬うの。スプーンを使いなさい。その上で丸めて」
「何で私だけスプーンがあるのか、不思議」
「リリカのフォークの扱いが拙いから、貴方だけ特別に付いているのよ。私はフォークだけでもソースが飛散ったりしない」
「はいはい、そうでした」
「言ってるそばから、フォークを突き刺して回転させないの。そんな事をするからフォークにスパゲティが巻き付き過ぎて困る」
「だったら、メル姉はどうなるのよ?」
「あれは論外だって前から言ってるでしょう」
二人が向いたメルランの口には、毛糸玉並に巻き付いたスパゲティが突撃しようとしていた。
リスのように頬張ったままこちらを向いて『私はこのグルグルが大好きなの』という笑顔で返して来た。
如何なる時も、自分が楽しむ事が最優先。
メルランは鉄の意志でそれを貫いてきた。
食事とて例外じゃない。
ああ、いい迷惑。
「メルランは手遅れ。貴方はまだ直るの」
「好きに食べさせてよスパゲティくらい。みみっちぃなぁ」
「そういう言葉は、自分で料理が出来るようになってから言いなさい」
「トマトスパゲティなら私出来るじゃん? 前に作ったし」
「リリカのトマトソースは、トマトの皮どころかヘタが入ってたでしょう。誰が食えるのよ、何で緑なんだ」
「ルナ姉が食える」
「あれは誰も食わないから、私が仕方なく処理したの!」
「あ、姉さん~」
「何!?」
「おかわり、あるー?」
「あるわよ、鍋から勝手に取って……待て、待て待て! 止まれ! 自分のフォークを鍋に突っ込むな! 菜箸使え!」
かしましい三人娘。
騒がしいお食事タイム。
騒がしい二人にも、騒がしさを止めようとして結果的に騒がしくなっているルナサにも、この喧騒は平常であり、当たり前の日常だった。
こうやって三人は、自らの造り手がいなくなった後も、頑張って楽しく、この館で生きてきた。
「貴方達は、どうしてそう……私がいなくなったら、どうやって生きていくつもりよ」
「ルナ姉、いっつもそんな事言うけど、いなくなった試しがないじゃん」
「そうそう、べったりよね」
「一週間ぐらい消えてくれるの、歓迎中」
「のんびり出来るから、歓迎中~」
「のんびりしてみたいねぇ、本当に……」
「あら、何だか私達がお荷物みたいな溜め息」
「失礼だよね」
「ああ、そんなつもりは無いわ」
「おお? 事実そうじゃないのー、と返って来ませんぜメル姉?」
「リリカ、姉さんは今日はちょっとアンニョイなのよ」
「なるほど、今日もアンニョイなんだ」
「そう、貴方達のせいで、私はいつもアンニョイだ」
ルナサが見せた苦笑いを、メルランが笑った。
リリカはその笑顔を横目に、スパゲティをフォークに絡めて満足そうに口に運ぶ。
また頬っぺたにトマトソースが付着したのを見て、ルナサも笑った。
この館で生きてきた。
これからも生きていく。
一人も欠けることなく。
何とかして、何としても、三人揃って。
それは、三人が一致する唯一の望みだった。
―――――
「やれやれ、いよいよ止まったか……」
「寂しくなるわ~」
「仕方ない、降ろそう」
「えー、重いわよ?」
姉達が何か悩んでいる声を、リリカはソファーで寝転がって聞いていた。
なにやら厄介事らしい。
自分に回ってこないといいのだけど。
「考えてみれば、こいつも、ずいぶんと頑張ってくれた」
「こっちに飛ばされる前からだものね」
「レイラが好きだったね」
「あら、私も好きよ?」
「別に私だって嫌いじゃないさ……君も、長い間お疲れ様」
コンコンと木をノックするような音が響いた。
その音に、リリカはちらりと薄目を開けて、姉達の様子を伺った。
ああ、あれか。
玄関ホールにかかってある、自分の背丈ぐらいの大きな振り子時計。
あいつが、いよいよ止まったのだろう。
もっとも最近は時刻がずれまくっていて、さて、これをどうしたものかと何度も食卓で話題に上がっていた。
ルナサが調べてみると、振り子と直結してるゼンマイにガタがきてるらしく、自分たちで修理するのは無理な様子。
しかし、このままでもカチコチという音は風流なので、完全に止まるまでは誰も外そうとは言い出さなかった。
そういう時計。
「で、降ろすのよね?」
「降ろすよ」
「疲れるのは嫌だわぁ」
「メルランは普段元気が有り余っているでしょう。頑張りなさい」
「アーティストは繊細よ? 騒霊を見かけで判断しちゃ駄目」
「思い切り内面で判断してるのよ。ああ、もう一人、我が家にはお転婆さんがいるか」
「ええ、そこに転がってるわ」
「リリカー? おーい、リリカー」
まぁ、こうなるでしょうねと、リリカは前もってソファーに顔をうつ伏せていた。
肉体労働は御免蒙る。
無駄な労力を割くことは、すなわち人生の無駄に他ならないとリリカは考えているのだ。
別に私の手を借りなくても、二人で出来るでしょ?
二人で出来る事は二人で頑張ろうね!
リリカはそう思って、寝たふりを決め込む事にした。
「姉さん、リリカ寝ちゃってる」
「タヌキ寝入りよ、あれ」
「本当に?」
「メルランが額に生卵でもぶつけたら、元気良く飛び上がって起きてくるわ」
「あら、面白そう!」
「んがー!?」
メル姉ならやりかねんと、慌てて飛び上がったリリカの視線の先には、二人の笑顔があった。
やられたな、と思いながら自分も時計の下に向う。
姉も手強くなった、しかし私はもっと手強くなるわよ! と一人くだらない事を誓った。
「で、何? 私に何か御用ですかー?」
「ん。頼む」
時計の前にリリカを立たせたまま「頼む」とだけ残すと、ルナサは、壁と時計の間に手を突っ込んで、なにやら探し始めた。
「あった。メルラン、こっち来て手伝ってくれる?」
「うん、オーケー」
「止め具外したらゆっくり前に倒すから、二人で支えるわよ」
「は~い」
「で、私は?」
「リリカは、止め具外してそちらにゆっくり倒すから、それを受け止めておいて」
「げ、それって一番きつくない?」
「若い時の苦労は買ってでもしなさい」
「若い時の苦労を売ってあげてる、二人の姉に感謝せよ」
「って騒霊になったの、みんな同じ時期じゃん!」
必死の言葉届かず、時計はじりじりと前に倒れてくる。
潰されるんじゃないかと思いながらも、リリカは渾身の力で受け止めた。
が、意外と姉達が頑張ってくれているらしく、それほどの負担でもなかった。
床と水平にしてから、三人で改めて持ち直す。
「よし、このまま、外まで運ぶよ」
「うわ、埃っぽいなぁ……」
「姉さん、先に雑巾がけした方が良くない?」
「いや、外近いから、このまま一気に運んでしまおう」
「ラジャー」
リリカは、私って久々に床に足をつけて歩いているな、とか考えていた。
こういう体制を取らないと、力が入らないからなのであるが。
やがて三人は玄関を抜けて、庭に出て、隅にある銀杏の老木の下に時計を下ろした。
「……っしょっと」
「ふー、あーだるいー。やっぱり私には向いてないわ」
「だらしないね。ともかくお疲れ様」
ルナサは手を払い埃を落とすと、さっさと家に戻っていった。
時計の裏に溜まり放題の埃を落とすべく、雑巾を取りに行ったのだろう。
もう一人の姉は、何時の間にやら、芝生の上に腰を降ろしていた。
彼女の帽子の太陽のマークがてかてか光っている。
メル姉は明るい場所が良く似合うな、と思いながら、リリカもその横に腰を降ろす。
「この時計、惜しい所で止まってるね」
「そうよね、私もそう思ってたの。てっぺんの十二時に後一歩届かずよね」
「ねぇ、良く考えると、これも天寿なのかなぁ?」
「ん~?」
「時計の天寿。無事、止まるまで使ってもらえたのだから、天命を全うしたと言えない?」
「いい、天気ね~」
「この姉は、可愛い妹の話を無視するか」
「しんみりする話より、ハッピーな話をしましょう?」
「その春色の脳細胞、何とかしなよ」
「嫌い?」
「や、意外と気に入ってる」
その時、リリカは空を見上げていて、メルランの方を見ていなかった。
だから、メルランに何があったのか、リリカには何一つ解らなかった。
「メルランッ!!」
ルナ姉の叫び声が聞こえたなとリリカが思ったら、切羽詰った表情でルナサがメルランの足に飛びついた。
リリカに見えたのは、それだけである。
メルランに何があったのかというよりは、凄い速度で駆けて来たルナサの方にびっくりした。
「だ、大丈夫!? 何かあったの!?」
「え?」
「は? どしたの、ルナ姉?」
「何がってリリカ……これが見えないのか!?」
「見えない?」
「これって何??」
「どうして言ってくれない! 何時からこんな事に……あ?」
三者三様の疑問符が辺りを飛び交った。
二人の視線は当然ルナサに向けられていたが、ルナサの視線はと言えばメルランの足から離れていなかった。
妙な雰囲気に押されて、誰も口を開けなかった。
ルナサが、メルランの足首を恐る恐る握ると、首を傾げて、今度は撫で始めた。
メルランは笑って身をよじる。
えっと、足がどうかしたの? とリリカはスカートから覗く姉の足を眺めてみた。
白くて綺麗な足だった。
いつものメルランの足だった。
そこに、何も変わりはない。
ふくらはぎがもちもちして美味しそうだなとか思った。
何だそりゃ。
しかし、ルナサがいきなり何を錯乱しているのか、リリカには皆目解らない。
「ちょっと、ちょっと、ルナ姉、何か変な事に目覚めちゃったわけ?」
「い、いや、しかしさっき……確かに、な?」
「な? って言われても返答に困るのだけどぉ。あとくすぐった……ひゃう、ひゃはは」
「結局、何がどうしたのよ?」
「だから、ほら、その……足が」
ルナサは下唇を噛んで、続く言葉を飲み込んだ。
そのまま上を向いたり下を向いたりして、言葉に困ってる様子を二人に示した。
その仕草は、何だかおしっこを我慢してるみたいで、恥ずかしいやら色っぽいやらで判断に困る。
一言で言うとマニア向けな表情だ。
「……気のせい?」
「私に訊かれても」
「うん、気のせいなんじゃない?」
「本人が言うなら、そうなのかな」
「全然、解らないって」
「メルラン、何かあったら隠さず相談するのよ?」
「え、ええ」
「何だっていうのさ?」
「まぁ、勘違いなら無駄に不安を煽る必要もないし。私は黙っておこう」
「うわ、非常に自分勝手な発言に、大変不安を煽られた」
「……」
「メル姉?」
「ん?」
「どうしたの? 大丈夫?」
「ええ、まぁ」
歯切れの悪い返事だった。
その時のメルランの瞳は少し曇って見えた。
だけど、右手で太陽を遮って立ち上がった時には、何時もの晴れの笑顔に戻っていた。
メル姉ならこんなものか、とリリカも立ち上がった。
玄関前にバケツが転がっていて、濡れた芝生に雑巾が三つ寝ていた。
ルナサがその前で肩を落としていて、手伝えというジェスチャーを後ろにいるリリカに向けた。
水色の空に白色の太陽。
今日も空はメルランみたいな、秋晴れだった。
―――――
窓を開けて、窓枠に座る。
そこからメルランは、夜空を見上げた。
煌びやかな星と鋭い月が、仲良く夜空を飾り立てていた。
夜に太陽の出番は無い。
月と太陽は同時に存在できない。
そんな当たり前の事実が、今日だけは凄く悲しい事に思えた。
自分だけが仲間から外れている、そんな気がしてたまらない。
最近、何かおかしいなと感じていた問題が、今日はっきりしてしまった。
いつか来るだろうとは思っていたのだけど、今、それを受け入れるのはメルランには無理だった。
何とかして足掻きたい。
三人揃って生きて行きたい。
あの手のぬくもりを離す日が来るのが許せない。
マウスピースを口に含み、トランペットを星空に構え、メルランは勇壮な曲を吹いた。
冷たい夜の透き通る空気に、伸びやかな音が響いていく。
高揚する音の一つ一つを耳に沁み込ませ、自分を勇気付けた。
このトランペットが負担になっているのは確かだろうが、これを嫌いになるのは自分には出来そうもなかった。
だけど、精一杯の抵抗はさせてもらおう。
離すものか、絶対に離すものか。
レイラは離してしまったから駄目なんだ。
―――――
「あ、おはよーメル姉~、なーんか、起こさなくても起きてくるなんて珍し……な!?」
リリカが翌朝一番に目にしたのは、床に足をつけて、しかも兎のスリッパまで履いて降りてきた姉のメルランの姿であった。
「おっはよー、リリカ」
「う、嘘だッ!?」
「ねぇ、朝ごはん出来てる~?」
ペタンペタンと音を立てながら、メル姉が階段を降りて来て自分の横を通り過ぎるのを、リリカは唖然として見送った。
これはヤバイ事になったと思った。
メル姉と言えば、四六時中徹底してぷかぷか浮いている、根無し草の代名詞である。
朝起こしに行っても、本棚に片足を突っ込んでいたり、カーテンに引っ掛って丸まっていたりで、まともな起床姿勢を見た事が無い。
しかもその体勢で『ふわわぁ、ん~良く眠れてるわ~』とか言う。進行形かよ! とのリリカの突っ込みも空しく空振りに終わるのだ。
そんなメルランが。
朝っぱらから堂々と地面を歩いている。
リリカは思わず「ジーザス!」と叫んで右手で壁を殴った。
「なによぉ、リリカ?」
「あ、いえ、その、お元気ですか?」
「元気よー?」
「何ですか、それ? 心境の変化ですか? 失恋でもしました?」
「ううん、私は家族思いのいい姉なの~、きゃわっ!」
訳の解らない事を言いながら歩いてたメル姉は、階段下の大きな箱に躓いて、前のめりにこけた。
紙製の箱が体重で潰されて、へにょってなった。
「いたたたっ、何よ、昨日までこんなの無かったじゃないの。勝手に動かしたら危ないわ~、誰かが躓いたらどうするのよ?」
「躓いてから言うなっていうか、そんなでかい物に躓くなんてメル姉だけだっていうか、潰された箱の方が不憫だわよ」
「そうかなぁ? そうだといいんだけどなぁ……」
「ん?」
「で、朝ごはんはー?」
「うん、ルナ姉がもう作って置いてあるよ。トーストと山羊のミルク。あとサラダ」
「ありがとー、リリカも一緒に食べる?」
「そりゃ食べる。私も今起きたし」
メル姉がおかしいのは毎度の事だが、今日のこの人は何時もより数段ぶっ飛んでいるなぁ。
リリカはそんな事を考えて、遠ざかるスリッパの音を追い掛けて食堂に向った。
高い声で元気良く呼びかけるメルランと、それにぶっきらぼうに言葉を返すルナサの、いつもの朝の挨拶に何処かほっとしながら。
―――――
今日も朝から良く晴れた日だった。
プリズムリバー三姉妹は、冬祭りや宴会などに引っ張りまわされて、五箇所でのライブを終え、今、帰宅したところである。
本来なら目一杯騒げて満足した気持ちの良い凱旋となるはずなのであるが、しかし、三人の顔色は冴えなかった。
「何なのよメル姉は」
玄関を潜るなり、リリカは振り返ってメルランに怒号を浴びせた。
「お客、引きまくりじゃん!」
リリカが怒ってる内容は、ライブの事である。
今日は、何をやってもメルランのトランペットのテンションが上がらず、騒霊ライブ特有のノリが全然出せなかった。
仕方なくメルランに合わせて、予定していた曲目を大幅に変更して、何とかライブの体裁だけは保った次第である。
ただ、幻想郷に住む者は陽気なのが殆どだ。
静かでクラシカルな音を求める者は少ないし、またプリズムリバーに求められていた物はそれと違う。
演奏が終わっても、拍手はまばらだった。
「メル姉解ってんの? 大失敗だよ、今日回ったとこ全部!」
リリカは怒っていた。
怒ってはいたが、その口調ほどは怒ってはいなかった。
彼女は、グループでの自分の役割というのを理解していた。
メルランはああいう性格である。
多少きつめな表現ぐらいが丁度良く、控えめな表現では全く気にせず流されてしまう事が解っている。
だから、妹が暴走気味に怒った形にして、厳しい意見を場に出す必要がある。
はっきりと悪い所を伝えたら、そこで長女のルナサに止めてもらい、釘を刺された形で自分は引っ込む。
そうして、場を丸く治め、ギスギスした気持ちを残さないまま、次の演奏に生かす。
一見子供に見えるが、リリカはその位の事は普通に出来た。
「ったく、久々の大口だってのに……白玉楼から愛想尽かされたら終わりだよ?」
リリカは演技を続けた。
靴を脱ぎ散らかして、キーボードを宙に放り投げて、ドスドスと床を踏み鳴らしながら、喉の渇きを解消するため蛇口に向う。
少し距離をとってから、肩越しにチラリと二人を覗きこんだ。
二人は玄関に止まっている。
上がって来ようとしない。
それはリリカの予想の範疇であったが、どうしてか、メルランよりも、ルナサの方が深刻な表情を作っていた。
何故、ルナ姉が肩を落とす必要があるのだ。
(っていうか、いい加減何か言ってよね。こっちにだって止まる機会ってもんがあるのよ)
仕方ない、もう少し強く言おう。
姉達が発言をしなければならない状況を、自分が作ればいい。
「メル姉は間違いなく最悪だったけど、ルナ姉も酷いんじゃない? 全然リードする気無かったみたいだし」
これで、噛み付いてくると確信があった。
だけど、二人は表情をより一層曇らせて、元の場所に立っているだけだった。
――おかしい。
幽霊ちんどん屋、なんて呼ばれ方をされているが、それぞれ自分の演奏に誇りを持っているはずである。
楽団としての誇りを、少なくともリリカは持っている。
だから、この展開が良く解らない。
もう、ここらで反論が飛んで来ないとおかしい。
どうして、妹にここまで言われて、ルナ姉もメル姉も耐えてるだけなの?
一向に動かない姉達に、リリカは腹立ちよりも焦りを覚えた。
物語が自分の手を離れて、勝手に転がり出す事がリリカは何より怖い。
「あの出来じゃあねぇ、私一人でソロライブ張った方がお客さん喜びそうよ?」
自分が悪者になってでも、ここを切り抜けるべきだとリリカは考えた。
自分一人が道化でも構わない。
姉達が日頃の仕返しに共謀してたって、それでいい。
叱って欲しい。
「リリカ……」
ようやく聞こえてきたルナサの言葉に、リリカは演技も忘れて顔を崩した。
俯き気味の顔と、握った拳が小刻みに震えているのが見える。
良かった、怒ってた。
これから、溜まり溜まった怒りを爆発してくれるのだろう。
後は怒られた自分が拗ねたフリをして、少しの間自室に篭って、それから……
「リリカ、解った、もういいから。確かに私達が悪かったわ。ごめんなさい」
「……え?」
ルナサは目を合わせようともせず、二階に消えていった。
メルランはリリカの頭を撫でて「ごめんね、ちょっと調子が良くなくて」と呟いて微笑んでそれだけで去っていった。
リリカの胃の辺りの冷たく重い何かが生まれた。
振り返った時に、二人はもういなかった。
リリカは怖かった。
ルナサが怒らず、自分を避けた事が。
メルランが悪びれず、優しく微笑んだ事が。
何処か正常じゃない、この雰囲気が怖かった。
この感覚に、覚えがあったから。
リリカは、一人だけ何も知らされずに、絶望だけが突然訪れた日を知っている。
明日の幸せを信じていたのは自分一人だけで。
物語は自分の知らないところで勝手に進んでいて、その手に掴んでいたものは、ただの幻想だったと知る時が来た日を知っている。
あの時、リリカの目だけが、見たままを信じていた。
笑顔を疑うなんて、そんなのあの子への冒涜だよ、と思っていた。
それが正しい事だと、むしろ姉さん達を笑っていた。
「……ふーん、また隠すつもりなんだ」
リリカは精一杯強がって言葉を吐いた。
出来るだけ、皮肉めいた口調を使った。
姉達に甘えたい、騙されてでも安心したい、そんな弱い心を抑え付ける為に、敢えてそうした。
誰も見てないだろうが、その表情さえ凍りつかせた。
「私は誰よりも……したたかに生きてやるんだから……」
一度口の中で、二度目は頭の中で。
リリカは繰り返した。
あの日の誓いを。
(したたかに、生きてやる……!)
―――――
見た目何も変わらない。
ただ、三人の心は小さく波に揺れている。
お互いが微妙に相手を気にする中で、やがて夕食の時間がやってきた。
相変わらず、ルナ姉の作る料理は美味しかった。
わかめの卵スープに卵の殻が混じっていたのが、リリカには小さな不満ではあったけれど。
リリカは二人の様子に目を走らせながら、食事をわざと遅らせて食べた。
二人の姉は先に食事を済ませ、それぞれ思うままに動き出した。
ルナサは調弦をすると言い、二階に上がって行った。
メルランは欠伸をしながら応接間の方へ歩いていった。
メルランの動きはここからでも、リリカが振り返れば大体把握できた。
私に隠して二人だけの秘密を握っているなら、何時か二人は接触するはず。
自分が食事中で食堂にいる時が、機会の一つだ。
リリカはそう思って待ってみたものの、姉のどちらにも動きが見られなかった。
食事の速度を遅らせるのにも限度があり、食べ終わった食器を重ねてみても、まだ、何の動きも無かった。
テーブルの上、籠に持ったフルーツ群に手を伸ばして、蜜柑を掴んで食べ始めた。
たまに振り返っては、姉の動向を窺う。
気分は事件を追う名探偵である。
だけど、こうして、もぐもぐと蜜柑の咀嚼をしていると、リリカの懐疑的な心も次第に落ち着いてきた。
昼間は感情的になり過ぎたかなぁ、とか思ってくる。
只ならぬ雰囲気に、嫌な連想をして一人熱くなってしまったが、今の状況をあの時と結びつけるのは、早計だったかも知れない。
だけど、ひょっとしたらという思いも、未だ捨て切れない。
彼女らが、何かを隠しているのは確かなのだ。
ヒトデ形に剥いた蜜柑の皮が、三つ四つとテーブルに並んでくる。
いい加減、爪も黄色くなってきたところで、選ぶも無く二個三個フルーツを手に取ると、リリカはメルランのほうへ歩き始めた。
「ねーえーさん!」
「なぁに?」
飛び切りの甘え声で、リリカはメルランに近づいた。
腕にフルーツを抱いたまま、床に座るメルランの視線まで腰を降ろす。
メルランは床の上で何か分厚い紙を鋏で切っていた。
「私、メル姉と一緒に果物食べたいな~、ってあんた何やってんのさ?」
「あら、台無しよリリカ。せっかくの『リリカ必殺! 脅威の猫撫で声!』が泣くわ~」
「いや、マジで何やってるの?」
「鋏で分解して畳んでるのよ。ほら、いらない箱とか余ってきてるでしょう?」
ジャキジャキと鋏が厚紙を裁つ音が、リリカの耳に聞こえてくる。
「別に家広いんだから、そんなの隅にでも重ねときゃいいっしょ?」
「めるら~ん、くりーんあっぷけいかく~♪」
「可愛くない、可愛くない」
「家は広い方がいいわ」
「そうだけど。三人で住む分には今でも……」
何時もと違う開放感に、ふと辺りを見回すと、応接間が広くなっているのを感じた。
本やちり紙が床から消え、ソファーの位置も定位置に収まっている。
しかし、床だけ。
何故か棚とかは整理の手をつけていない。
「これ、メル姉がやったの?」
「そうよ」
「何で?」
「だから、家は広い方がいいわ」
応接間を出て、リリカは階段に駆けた。
やっぱりだ。
今朝、メル姉が躓いたあのでかい箱も、何処かに片付けられている。
メル姉が床に足をつけて歩き出したと思ったら、夕方には彼女が大嫌いな整理整頓を家中で行っている。
リリカはそこに消滅の危機は覚えなくても、何かしら作為は感じ取った。
もう一度、応接間に戻って、問い詰めるべく少し厳しい口調で、リリカは箱と鋏で格闘を続ける姉に話しかけた。
「どういう事?」
「リリカも協力してね、今日から家を綺麗に――」
「だから、何が目的なの!?」
「なるべく、地面に物を置かないで。それと何かを動かしたら元の位置に必ず戻しておいてね」
「……昼間の事と何か関係があるの?」
「ううん、大した事無いのよ。ほら、リリカが言うところの心境の変化」
「メル姉、はっきり言うよ?」
「んー? ありゃ、ここ結構固いわ、鋏通るかしら」
「何か隠してるよね?」
「乙女の秘密を一つ二つ?」
「お願いだから、そういうの止めてよ。私、もう子供じゃない」
「あははっ、どちらかと言うと私の方が手がかかる子供かしら?」
「……」
「ねえ、お願い、リリカ。もう少し姉さんの我侭を通させて」
「我が侭?」
「貴方の事はとても頼りにしている。貴方だけを除け者とか、特別扱いとか、そういうわけじゃないのよ」
「それならさ……!」
「リリカ、首を縦に振ってくれないかな?」
暗い声に、リリカはたじろいだ。
姉は、こんなに弱い影を見せる人だっただろうか?
理不尽で無茶苦茶で底抜けに明るい、そんなイメージしかリリカは持っていなかった。
気が付けば、自分に姉を懐柔させるために来たつもりなのに、空気はすっかり姉に飲み込まれてしまっている。
拳をぎゅっと握りこむ。
切り揃えられた爪が手の平に痒かった。
落ち着いて、肺に空気を取り込む。
首を振るつもりは無かった、だけどその時、僅かに振ってしまっていたのだろう。
メル姉の礼が聞こえた。
「ありがとっ」
広がる太陽の笑顔。
屈託の無い童女の微笑み。
隙の無い賢者の笑い。
姉の笑顔はリリカの心に合わせて、多様な広がりを見せた。
しかし、どう取っても疑惑は深まる一方だ。
「ね、フルーツ食べましょ?」
最後の箱を片付けると、メルランは二階へ向けて声を張り上げる。
ルナサが降りてくる足音が聞こえた。
すぐに、応接間に三人が揃った。
ルナサは笑っていた。
メルランも笑っていた。
リリカ一人がどうすればいいか解らない。
剥いだ蜜柑の汁が、赤い服に飛散った。
ルナサはメルランとの話に夢中で、リリカの服の染みに気が付きそうも無い。
リリカは自分で汚れを拭い去った。
寂しかった。
―――――
ある程度の自身を持って、メルランに挑んだリリカだっただけに、この結果には落ち込んだ。
短く舌打ちして、蛇口をひねる。
冷水を両手に溜め、直接顔にぶつける。
急激に冷やされた頬に、締め付けられる痛みが走った。
自分は一体何をやっていたのだろう?
ずっと、ずっと、あの日から成長を続けてきたつもりだった。
明日の自分は今日より強く、明日の自分は今日より賢く。
そうやって姉に追いつこうと、頑張ってきた。
しかし、差が詰まっていない。
「まだまだ、これから……!」
立ち止まっている時間は無かった。
どんな手強い牙城であれ、自分でそれを崩さねばならない。
リリカは直ぐに冷静さを取り戻して、方向を修正した。
今日の敗北を生かして、外堀から埋めてみよう。
一旦メルランを諦めて、ルナサ一人を狙うとリリカは決めた。
二人一緒のときは付け入る隙が無い。
朝早く部屋に押しかけて、リリカは不意打ちをかける。
太陽が昇る前に。
メルランが動く前に。
―――――
オレンジの太陽がゆっくりと山から顔を出しかけた頃、リリカはルナサの部屋を優しくノックした。
「ルナ姉~。ちょっといいかなー?」
当然返事がないので、もう一度ノックして呼びかける。
これをリリカは、起きるまで何度でも繰り返すつもりだ。
自分が早朝にこんな事やられたらキレるだろうなとか、リリカは思うのだが。
部屋の奥から衣ずれの音が聞こえた。
リリカはノックを止めて、極めて明るくドア越しに呼びかけた。
「ルナ姉ー、おっはよー。朝だよー」
「………」
無言だった。
何度かしつこく呼んでいるうちに、衣ずれの音に続き足音が聞こえてくる。
「……何?」
それがルナサの第一声だった。
すっごいテンション低かった。
気にせず、リリカは何度も朝を呼びかけた。
リリカの明るい挨拶にルナサが暗い疑問符を返す、そんな噛み合わぬやり取りをドアを挟んで繰り返したが、リリカの根気が勝ってドアが開いた。
パジャマ姿のルナサをリリカは久々に見た気がした。
寝間着のまま歩き回るという事を醜態だと考えているルナサは、起きて直ぐに着替えるし寝る時もギリギリまで普段着だ。
ついでに、ルナサのほうが早起きだし、寝るのもルナサのほうが遅い。
だから、同じ屋根の下姉妹と言えど、ルナサのパジャマ姿に遭遇するのは結構レアなのである。
滅多に無いぞー、とリリカは繁々と白い無地のパジャマを上から下まで観察した。
ルナサはまだ覚醒しきっていないのか、何度か眠そうに目を瞬いた後に「ああ、リリカか」と喋り、深く息を吐き出した。
「おぉ、今日もお美しい。おはようございます、姉さま」
「……今、何時?」
「朝だよ」
「……」
「うーん、爽快。朝一番にルナ姉の真っ白な姿を見ると心が安らぐな~」
「……私、昨日何かあなたに悪い事した?」
「いや、これは嫌がらせではなくて」
「いいわよ、入って。寒いわ、ここ」
さすがに中は廊下より暖かい。
ルナサの部屋は、屋敷の中でも一番片付いている事で有名だ。
自分の部屋と同じ面積のはずだが、これほど差が出るかとリリカは驚嘆した。
「うむ、さすがルナ姉だ」
「おやすみ……」
「でね、朝早く悪いんだけどさ、ちょっとメル姉の……って何ベッドに戻っちゃってんの! 寝るなよ!」
「朝ご飯前には起きるから」
「よぉし、いいだろう。じゃあ、一緒に布団の中で語らおうか」
「入るなよ」
入りかけたリリカを足蹴にして、もそもそと、ルナサが出てくる。
パジャマ姿ではさすがに寒いのか、ルナサは背中から布団を羽織った。
「で、何かしら? ふわわぁぁぁ……」
「投げやりだなー、大事な話なんだって」
「リリカの大事な話というと……おぉ、お赤飯?」
「違うっての」
「そうか、そうか、リリカもそんな歳になったのね」
「姉さん、つまらない事を引っ張ると自分が辛いわよ?」
これはまた、ルナ姉にしては、ずいぶんとボケる。
隠してる何かに触れられたくない為に、ルナサは意図的にシリアスな雰囲気を避けているのだろう。
メル姉より、だいぶ感情が掴みやすいとリリカは感じた。
これなら、いけると。
「昨日さ、姉さんメル姉の足に異様に驚いてたよね? 何かあった?」
「ん? いや別に」
ルナサはたまらず否定をした。
もっと話を伸ばせば良かったのに、いきなり痛いところを狙われて心が焦った。
リリカはその様子を見て、一気に畳み掛ける。
「ねえ、何が見えたの? 何を見たの?」
「何も見えてなんていないよ」
「何も見えていないか、見えなかった……例えばそうね、メル姉の足が薄くなっていた、もしくは一瞬見えなかったとか?」
「そんな事は無い」
「なるほど」
突拍子の無い話に対して否定が飛んでくるのが早すぎる。
ただ、カマをかけたつもりだったが、これはいい所突けてるとリリカは感じた。
しかし、それを知り、今度は悩んだ。
足が消えて見える、薄くなっている、もし本当ならば非常に安定性を欠いている証拠だ。
それは自分が一番恐れる、消滅という結末がぐっと色濃くなってくる。
「姉さん……あの」
「ねぇ、リリカ。そんな話なら、もういいでしょう? もう少し寝かせてくれない?」
「ごめん。最後に一つだけ」
次の質問に答えは返ってこないだろう。
だけど、今のルナ姉相手なら、その表情か動作で何かが掴める自信がリリカにはあった。
「メル姉は、消えかけているの?」
「え?」
「だからさ、メルラン姉さんは、消えかけてる?」
「メルランが?」
「う、うん」
その言葉に、腕組みをして俯いたルナサが再び顔を上げたのが三秒後。
「そうか、そういう意図もあったのか……」
「……?」
「まさか、あんなに元気なメルランが消えたりするわけ無いでしょう?」
真剣に話してる最中に急に脇腹をくすぐられた様な、真ん中のみが上がり調子の妙な口調で姉は答えた。
――消えないのか?
ルナサの緊張が崩れ、力を入れていた肩も少し楽になったように見える。
今までと明らかに雰囲気が違った。
「それが訊きたくて、わざわざ私の部屋に来たの?」
ルナ姉は素直で解りやすい。
おそらく、これはルナ姉の本音だ。
消えないんだ……。
心から安堵した。
昨日から腹の底で響き続ける、冷たい痛みが引いていく。
「リリカ、あまり身体を冷やしていると風邪を引くわよ。温かい紅茶でも淹れようか?」
「……ううん、いらない」
何かが解決したわけではない。
むしろ、線になりつつあった点が、またバラバラに散らばった。
しかし、最悪の可能性が消えただけ、リリカには十分過ぎる程の収穫があった。
「姉さん、隠している事。いつでもいいから私にも話してね」
「えぇ……」
また、ルナサの顔が暗くなる。
即座に否定すればいいのに、それが出来ないのが姉の良い所なのだろう。
隠し事とは何なのか。
もう焦らなくていい、時間はたっぷりあるのだから、ゆっくりと詰めていこう。
リリカはルナサに礼を言うと、立ち上がった。
カーテンの隙間から差す朝日が、入って来た時より部屋を明るく照らしていた。
―――――
朝ご飯までは、まだ時間があった。
どうしようか? 二度寝しようかな。
リリカは後ろに手を組んで、階段を目指し廊下を歩いていた、その途中。
「この家が壊れたら、私達はどうなるのかなー?」
きぃきぃと辛そうな音を立てる床に、リリカは少し不安になった。
衣食住の心配はもちろんだが、それ以上に姉妹として一緒に過ごした時間が崩れるようで嫌だった。
そんな不安が、別の不安を煽った。
リリカは階段前で反転して、メルランの部屋に向った。
折角早起きしたのだから、メル姉にも突撃しておこうと思った。
「メル姉~。いる~?」
居るに決まっているのだが、一応ノックして伺う。
ルナサと違ってメルランの部屋には鍵がかかってないので、出入りし放題なのだが。
リリカの目で見ても、メルランの部屋は散らかっており、ルナサからすれば、此処は何処の密林だ!? 状態であろう。
部屋の状態を巡り、ルナサとメルランが度々喧嘩してる事をリリカは思い出していた。
『いい加減片付けなさい! ベッドの周りに本とか服を積むな! っとにどれだけ散らかせば気が済むの!?』
『それは散らかしてるんじゃないのー! ベッドから手が届く、その配置がベストなのよー!』
駄目人間の典型である。
だいたいメル姉は、寝てるときも浮かんでるじゃん、それ、ベッドの意味無いから。
姉の痴態を散々思い出して満足してたリリカだが、返ってくる返事が無い事に今更ながら気が付いた。
「おや? メル姉~、メル姉~?」
再三、ドアを叩いてみたが、何の気配も感じられぬ。
リリカのシンボルであるキーボードを呼んで、軽く一曲演奏した。
………。
おいおい、これで起きないか。
「もう、入るよメル姉ー? 知らないよ、私はやるだけやったよ。起きないのが悪いんだからねー」
扉を開いた途端、リリカの足元を嬲るように冷たい空気が通っていく。
部屋の温度は低い。
「何これ?」
メルランの姿は何処にも無く、カーテンだけが風に揺れていた。
はっと気が付き、窓辺に駆け寄る。
開き窓をバンッと開けて、空を見回す。
メルランの姿は無い。
窓から飛び出して寝ている訳でもない。
朝日はようやく山の上の雲を赤から橙に変えていた。
こんな朝早くから、彼女は何処に消えたのか。
改めて、部屋を見渡す。
乱雑に積み重ねられている物はそのままであり、昨日一生懸命片づけをしていた殊勝なメル姉の姿はこの部屋になかった。
片付ける事も足をつけて歩く事も別段何の事は無いのだが、メル姉がやるとそれが奇異な行動に見えてしまう。
次いで今回の外出だ。
これで気にするなという方が無理ではないか。
(この部屋に何か秘密が隠されていないだろうか?)
リリカは油断無く部屋に視線を彷徨わせた後、ドア越しに廊下の気配を伺った。
メルランはもちろんの事、ルナサに見られても困る。
誰も居ない事を確認して、よしっと呟やき、本や楽器を掻き分けて目立つ物はないかと探り始めた。
しかし、三分と持たなかった。
この部屋から何かを探すのは、大幅に部屋の構成を変えなくてはならない。
そのくらい散らかっている。
そこまで危険を冒して、探し物も解らぬまま部屋を荒らす必要は無いだろう。
諦めたリリカは、部屋を出る前に窓を戻そうとして、カーテンの隙間から顔を出した。
そこで微かに聞こえた。
風に高い音が運ばれてくる。
聞き覚えのある金管楽器。
耳を澄ます。
メル姉だ。
間違いない。
高音で踊り続けるトランペットのリズムは、ルナサという土台から解放されて、好き勝手絶頂に朝を歌っていた。
こんなに離れていても、姉の魔力をひしひしと感じる。
――何故?
これだけ出来るのに、ライブの時の暗い音はどうしたというのか。
一体何の為に、音を抑える必要があった?
トランペットの音色が止む。
「あ、しまった」
聞き惚れてる暇があるなら、直ぐにでも外へ飛び出すべきだった。
どっちだ……。
距離が離れすぎていて、音の方角を正確に把握できていない。
「畜生っ!」
解らないが、それでも、リリカは飛び出した。
結局、朝の寒さばかりが身に堪え、メル姉の姿も演奏の跡も発見出来た事は何も無かった。
―――――
リリカが戻っても、屋敷にメルランの姿は無かった。
ルナ姉が起きる時間が近づいている。
正確な時刻を調べようとホールの壁に目をやったが、そこに目当ての物はなかった。
染み付いた習慣を笑う。
針が狂い出しても、三姉妹は大時計をよく見上げていた。
あいつはあいつで頼りにしていた。
私たちにとって家族みたいなものだったのかもしれない。
リリカは、がらんとした空間に、花でも置いてやりたい気分だった。
朝の空気の冷たさのお陰か、頭の中は意外と冴えている。
大時計がいた場所から視線を降ろし、悴んだ手を擦りながら、また玄関扉の隙間から空を見上げた。
メルランの行動のおかげで、リリカには事の全貌がおぼろげにだが見えて来ていた。
メル姉には随分と翻弄されたが、隠していた姉の気持ちも解からない事も無い。
だけど自分だって必死なんだ。
ルナサが起きる、それより前に彼女は帰ってこなければならない。
もう、そろそろだろう。
輝く白いブラウスが、庭先に降り立った。
芝生の上をゆっくりと歩いてくるメルランに屈託は無かった。
(それじゃ、計画通りやってみるか)
メルランの姿を確認すると、リリカは蜜柑の皮を玄関に一欠けら置いて、奥の物陰に身を潜めた。
玄関が静かに開き、金色のトランペットが入ってくる。
メルランは下駄箱に靴をしまう際に、下に落ちている物に気が付いた。
首をかしげ、しゃがみ込み、指で摘む。
見た目も手触りも蜜柑の皮であった。
メルランは良く解からないなといった表情でそれを手にしたまま、家に上がった。
そこでリリカは声をかけた。
「おはよう、メル姉」
「あ」
さすがにメルランも動揺を示した。
しかしそれも一瞬の事で、また屈託無い笑みを浮かべてリリカに話しかけた。
「おはよう。起きていたのリリカ? 早起きね~」
「姉さんこそ。わ、良く気が付いたね、そんな小さな蜜柑の皮」
「ええ、クリーンアップ計画中だもの。あ、これ、ひょっとしてリリカの悪戯?」
「随分と足元に神経を使ってるよね。メル姉の部屋なんてあんなに散らかってるのにさ」
「質問に答えなさいよ~。それと人の部屋に勝手に入るのも駄目~!」
「ふむ、足元にゴミがあると大変だよね。私も今から協力するよ。誰かが躓いて転んだりしたら危ないしー」
「それは良い心がけね」
「で、誰が躓くの?」
「え?……みんながでしょ?」
僅かに間があった。
注意深く聞いていたリリカには、その流れの不自然さがわかった。
話題を切り替える。
「ああ、そうそう。聞いたよ~。メル姉の演奏凄いじゃん。私、感動しちゃった」
「あら、聞いてたの?」
「こっそり近くでね。あれだけ出来るんならさぁ、ライブの時もっと張り切ってよ。次は絶対頼むよ?」
「うーん、最近ね、落ち着いた音をライブで演るのもいいかなーって思ってるの」
「へぇ、そうなんだー」
「綺麗で落ち着いた音と、私の賑やかな躁の音の切り替えが出来れば、ライブでもソロでも幅広くやっていけるじゃない?」
「あー、その為に地面に足を付けて、毎日歩いてるんだ?」
「そうね。『音が抜けてしまっているわ、地に足をつける練習をしなさい』って姉さんもしたり顔で言ってたし」
メルランのその言葉に嘘は無いのだろう。
隠している部分も本音、話している部分も本音。
そうして嘘は巧妙になる。
しかし、だからこそリリカの考えが纏まった。
メル姉は消えない。
ルナ姉の言は正しい。
消えないどころか、これでもかと言う程に元気である。
「というわけで当分さ、騒霊ライブの方向をね――」
「いいよ。音楽に関してはまた後で話そう。それよりも……」
リリカは考えた。
全てがそうなのだというのは、まさかという思いではあるが、メルランの態度から見るに一つ確かな事がある。
どうやら、自分は事件の主役を取り違えていた。
「ねぇ、メル姉」
「なぁに?」
「せっかく二人で早起きしたんだし。朝食、作ろうか?」
もう、ルナ姉にばかり負担を強いるわけにはいかないだろう。
―――――
「何が出来る?」
顔を向き合わせ、二人同時に訊いた。
もちろん料理の献立の事だ。
そして、お互いに答えに窮し、床を睨みながら、あー、とか、うー、とか唸った。
つくづくルナ姉がいないと、自分達は何も出来ないなと思い知らされる。
「サラダなら出来るわ!」
メルランは自信に満ちた声を上げ、胸の辺りで手を合わせた。
野菜を水で洗う、千切る、ボウルに入れる、完成。
そりゃ出来るだろう。
「サラダは料理なの?」
「料理よー」
「他に何作る?」
「サラダだけでいいんじゃない?」
「青虫みたいな生活だなー」
「わ、リリカ。見て見て! 発見! 発見! ロールパン!」
「おー、いいね」
「これ、私が見つけたから私の料理ね」
「そのまま出すだけじゃんか」
「後は、どうする?」
「もう一品は欲しいよね」
「スープ?」
「無理っしょ」
「目玉焼き?」
「あ、いけるんじゃない」
リリカは鉄鍋を持ってきて暖め始めた、適当に油を引いて卵をぱかんと上で割る。
後は放っておけば、何とかなるでしょう。
さて、朝の演奏の後の空白の時間の事も訊いておきますか。
リリカは隣で野菜を洗うメルランに声をかけた。
「姉さんさ、朝の演奏の後さ、何処に行ってたの?」
「……?何処だと思う?」
「はい?」
「リリカ、貴方、私の演奏を傍で聞いてなかったのね」
「え、いや。聞いてるよ?」
「その台詞は可笑しいわね。ちなみに演奏場所は何処だった?」
「……墓場?」
「うん、当たり。しかし、屋敷まで聞こえたとなると、もう少し遠い墓場の方がいいかなぁ」
「えー、何でばれてるのー?」
何時からばれてたんだろう。
日頃ぽわぽわしてるのに、たまにやたら切れ味鋭い。
まあ、とりあえず料理に集中しとこうか、とリリカは視線を鉄鍋に戻す。
半熟っぽい目玉焼きに満足し、一口箸で摘んで醤油を垂らし、味見してみた。
「ほぉ、意外と。でも、なんか」
半熟は半熟だったし、美味しいとさえ感じる出来なのだが。
「違うなぁ……」
皿を前に首を捻る。
それは、ルナサがいつも作る、目玉焼きではなかった。
リリカは舌の上で目玉焼きを転がして、何が違うのか確かめようとしたが、さっぱり解からない。
「どれ、みてあげる」
メルランも一口切り取って口に運んだ。
「ってそれは私の分! 取るなー!」
「ま、本当ね。姉さんの方が、味にとろみと丸みがあるわ~」
「うん、まさにそんな感じ」
「一言で言うと、まろみがあるわね」
「丸みと何が違うのさ」
「でも、リリカ。これはこれで美味しいわよ?」
「……むぅ」
何が違うのか解からないが、こんな簡単な料理で味が似ないとは。
リリカはルナサの目玉焼きが急に恋しくなった。
これがお袋の味というものなのかな。
リリカが目玉焼きを皿に移し、メルランのサラダボウルがテーブルの中央を占拠したところで、背後から二人に声がかかった。
―――――
何時切り出そうか、もういいだろうか、迷ってるうちにパンはどんどんちびてくる。
リリカはルナサの顔色を窺いながら、残り一欠けらの目玉焼をフォークで突付く。
ルナサはずっと微笑んでいる。
よほど私達が料理を作ってくれた事が嬉しいらしい。
リリカにとってはそんな笑顔だから話が切り出しにくい。
美味しい、美味しい、と言いながら、ただ焼いただけの目玉焼きや、洗っただけのレタスを口に頬張るのは、作り手としては逆に惨めになってくる。
まさか、こんなに喜んでくれるとは思わないものだから、リリカもメルランも手を抜いた事を後悔し始めていた。
(しかし、話し辛い……)
三人がテーブルに揃って仲良く笑っている。
この和やかな雰囲気をこれから壊そうとしている自分が、鬼にも悪魔にも思えてくる。
ええい、悪魔で結構。
リリカはいよいよちびたパンを口に放り込むと、遂に決意を固めて口を開いた。
「あのね、ルナ姉! どうしても訊いておかないといけない事があるの!」
「どうしたの、リリカ?」
「だ、だから……目玉焼きの美味しい作り方、今度教えて」
「ええ、お安い御用」
両肘をテーブルについて、リリカは頭を抱えた。
勝てない。
あの強烈な眩しさに対する免疫が自分には出来ていない。
あの笑顔を前にして人類が抵抗するのは不可能だ。
(止むを得ず……作戦を変更する)
直接聞き出すことは後回しにした。
今は、ルナサの症状がどの程度までなのか確かめる必要があると、リリカは判断した。
どの部分、恐らくメル姉の言動から考えるに、演奏にも大きく影響が出てるはずだけど、音楽の方は置いておいて。
目の具合から確かめてみようか。
朝日にメル姉の足が霞んで見えたり。
卵の殻がチョット入ってたりする程度のはずなのだけど。
椅子を引き、静かに席を離れ、リリカはルナサの後ろから声をかけた。
「ねぇ、紅茶作ってあげようか?」
「え?」
自分が席を立ち上がってからのルナ姉の不安そうな視線が、自分の声を聞いてようやく一つに定まった。
明らかに音に対しての動きだった。
目の方はかなり悪くなっているのだろうか。
いや、そんなに悪いはずは……。
昨日は殻付きとはいえ、料理だってちゃんと美味しく作ってたし。
「ええと、お湯沸いてるから、すぐ出来るよ?」
「リリカ……ああ、貰うよ。有難う」
姉、感涙の構えにて、妹驚く。
隣でメルランが怪訝そうにリリカを向いて、眉をしかめた。
悪戯したら承知しないわよという顔だ。
しかし、断る。
悪戯はさせてもらう。
まあ、ほんの些細な事だし勘弁してください。
何の害もないだろうし。
既に茶葉入りのティーポッドにお湯を注ぐ。
多少冷えるまで待つつもりだったが、じれったかったので、リリカはすぐにカップに注いだ。
高い位置から入れたから、熱湯ってわけでもないでしょう。
「はぁい、姉さんお待たせー」
「……ぐすっ……あ、ありがとう」
本当に泣いてるのか。
こちらは悪い気はしないが、ルナ姉に対して悪い気がしてくる。
「熱いから気をつけてね?」
「ええ、ご心配なく」
「なっ!? あれは一体!?」
「?」
リリカはルナサの背後を指差した。
ルナサが慎重に後ろを振り向いた。
どうでも良かったメルランが一番食い付いて来た。
好奇心の塊だな、この姉は、とリリカは思った。
この時、カップの取っ手がルナサの方を向いていたのを、リリカは逆向きに素早く変えていた。
ルナサの目が相当悪いのなら、取っ手を掴もうとした手が空振りに終わるはず。
そこそこ見えているならば、取っ手を自分の方へ戻してから飲むだろう。
これで、どの程度なのか調べられる。
そういう魂胆である。
「ああー、ごめん、勘違いだ。そこの柱にひびが入ってるように見えた」
「リアルで怖いわよ」
ルナサがテーブルに向き直り、カップに手を伸ばす。
リリカは自分の席に戻りながら、横目でその様子を隙無く窺っていた。
果たして、伸ばした姉の手は空を切って終わった。
(うわ、あれが見えてないのか……)
取っ手については自分向きだと先入観があっただろうし、それに白いテーブルクロスに白いティーカップだ。
目が悪いと確かに見逃すかも知れない。
それでも、ルナサの普段の性格からは考えられないミスだった。
目の当りにすると痛いものがある。
リリカは組んだ両手で額を抑えた。
姉のミスに対して妹達のミスは、同様に見逃した事である。
ルナサの行動は止まってはいなかった。
メルランはもちろん、リリカもそれに気付けていない。
ルナサがもう一度カップに手を伸ばした。
爪がカップの淵を引っ掻く。
そしてカップはゆっくりと音も無く手前に倒れた。
倒れたカップは僅かに円を描き転がった。
鮮やかな赤の色が白地に流れていく。
それはテーブルクロスだけに留まらず、テーブルの端からルナサの膝の上に零れていく。
黒色のスカートが滲んで色を変えた。
「姉さん!」
メルランの声が食堂に響いた。
リリカは思考を抜け出して、何事かと姉の方を向いた。
何が起こったのか瞬間頭が回らない。
今もクロスから流れ落ちる赤の液体に、ルナ姉がコップをひっくり返したのだと理解した。
黒のスカートは紅茶で足に張り付いている。
当のルナサはまだ呆然としていた。
紅茶は熱湯に近い、相当熱いはずなのに、姉は何の行動も取れていなかった。
反射的に席を離れるとか、スカートを摘んで肌に密着させないとか、そういう事は頭には無く。
ただ、呆然と……。
「リリカ! 濡れタオル!」
頭の中は疑問符でいっぱいだった。
だけど、リリカは布巾を掴んで蛇口に走った。
他に三本、乱暴にタオルを奪って、水に濡らし、戻る。
紅茶が零れたのが見えていないのか……それとも痛覚が無いのか……。
濡れたタオルを運びながら、リリカの混乱はますます酷くなる。
ルナ姉は実は相当やばい状態ではないのか。
「だ、大丈夫だから」
走るリリカに、ルナサの力ない声が聞こえた。
ようやく状況を理解したのか、ルナサは椅子から立ち上がって、布に足が当たらぬよう調整していた。
メルランが、運んできた濡れタオルをひったくって、スカートを捲くり上げて患部に当てた。
ルナサの白い太ももには、赤い蚯蚓腫れのようなものが走っていた。
手伝いたいのだが、冷やす他にする事はなさそうだし、二人の姉の間に入る隙間も無かった。
それでも何かしたくて、よたよたと近づくとメル姉に凄い目で睨まれた。
こんなつもりは無かった。
少し確認が取りたかっただけで。
こんなつもりは……。
弁明は形にならず、声にならない声が呻きとして漏れただけだった。
メル姉がルナ姉を心配する声が聞こえる。
手に残ったタオルから、床に水が落ちる音がする。
拭かないと――。
「リリカ……あなた解かっていてやったわね!?」
メルランの声に、弾かれるようにリリカは顔を上げた。
それはルナサも同じだった。
リリカとルナサの視線が合い、気まずくて、また下を向いてしまう。
「悪質よ、こんな悪戯!」
そんなに怒らないでよ。
そんなつもりは無かったんだってば。
だけど、リリカから声は出ない。
また喉から変な呻きが漏れた。
どうしちゃったんだろう。
ごめんなさいって。
反省してるそぶりを見せて、謝って、許してもらおう。
自分の得意技じゃないの。
「リリカのせいで大火傷するところだったのよ!?」
その言葉にカチンと来た。
反射的にリリカの口が開いた。
自分が悪くないと思った訳では決して無いが、雑多な感情が混じり合って生まれ出たのは怒りだった。
「うるさい! そもそもメル姉が隠さなきゃこんな事にならなかったんだ!」
「反省もしてないわけ!?」
「だって見えてないじゃない! ルナ姉、全然見えてない! 痛みも感じてない! 何でよ!?」
メルランを無視して、リリカはルナサに突っ掛かった。
昨日まで重たい時計を一緒に運んでいた。
青い空の下で、元気に姉妹仲良く運んでいた。
それが、どうしてこんなに急に衰えているのだ。
罪悪感も孤独も悲しみも、リリカの中で全て焦燥感に変わっていった。
後で幾らでも謝る、土下座したっていい、ううん、家事でも何でも手伝う、だから助けてよ。
リリカはこの理不尽な状況が、怖くて仕方ない。
「ルナ姉、そんな状態で演奏出来るの!? こんなになるまでどうして私一人だけ話してくれないの!」
「私だって姉さんから聞いたわけじゃないわよ! だ、大体こんなに酷いなんて」
「嘘だ! メル姉はずっと前から知ってた!」
「だから、それは――!」
「頼む、止めてくれ」
苦しそうな声に、全員の動きが止まる。
ルナサだった。
二人は母を見上げる気持ちで、ルナサの次の言葉を待った。
「すまない……」
暗く低い声より、吐いた息の深さの方が目立った。
それだけで、ルナサは席を立った。
タオルを足に当てたまま、ゆっくりと一人で出口に歩いていく。
「ね、姉さん、傷の手当てを」
「只の水脹れよ、包帯でも巻いておくわ、それくらい一人でも出来るから……」
覚束無い足取りで食堂を後にするルナサの背中は、二人が見た事無いほどに小さかった。
自身× 自信○