意識が大きな流れに飲まれていく。
それは、例えるなら濁流の中に放り出された人形のよう。
揉みくちゃにされて引き千切られて、彼女の意識は散っていく。散った彼女の意識は流れに乗って奥へ奥へと流される。
流れの行き着く先には幻想郷と外側を隔てる結界――博麗大結界があった。
その光景をどう言葉にすればいいのだろうか?
……そう、まるで、一つの存在が、その大元へと還っていくような、そんな感じ。
彼女の意識は結界へと流れ込み、代わりに結界は一つの光を地上へと産み落とした。
その夜、妖怪といくらかの人間が二つの流れ星を見た。一つは地面に落ち、間をおいて現れたもう一つもやはり地に――それも同じ場所に落ちた。
幻想郷の歴史を知る妖怪たちは流れ星の正体を知っていたので「ああ、またか」とか「今度は長く生きた」などと言い、歴史に疎い人間たちはその流れ星をたいそう不思議がって、吉凶の兆しではないかと騒ぎもした。中には何が起こったかを察する勘の良い、博識な者もいたようだが。
しかし、これも結局は幻想郷における日常の一コマであり、一月も経てば噂も消えて誰もが元の生活に戻っていった。
◇
いぐさの匂いがする。薄く目を開くと規則正しく編まれた畳の目が見えた。
目を擦りながらぼーっとしていると、次第に意識がはっきりとしてくる。
肩から下が暖かい。見れば、コタツの中で寝ていたらしい。どうりで。
よっこいせと起き上がる。コタツの上にはお約束のように、木皿にみかんが盛られていた。
とりあえずみかんを食べながら状況を整理する。
三つ目に取り掛かったところで、さて問題です。彼女は自分に問い掛ける。
――ここはどこで、私はどうしてここにいるんだろう?
わからない。頭の中が真っ白で、問いに対する答えがまったく浮かんでこない。
ここにはどうして、どうやって来たのか。ここで何をしていたのか。一つとしてわからない。
というより、なんだろう。自分という存在がひどく曖昧だ。
「……これって、いわゆる記憶喪失って奴かしら?」
いいや、そうじゃない。そんな言葉が嘘っぱちだということは自分が一番良くわかっている。
記憶喪失になんてなるわけがない。
――だって、私には……。
途端に吐き気を覚えて、彼女は口元を抑えながらよろよろと立ち上がった。
障子を開けて板張りの縁側へ出る。外気にさらされた縁側はとても冷たく、足の裏が凍ってしまうと思ったほどだ。おかげで吐き気も引っ込んだからよしとしておこう。
ぺたぺたと音を立てて歩く。
どこへ向かおうという明確な目的地はなかった。彼女がこの家について何も知らなかったせいもあるが、今はどこへ行くかではなくて誰かに会うことが必要だと思えたからだ。でも、誰に? そこまで頭は回らなかった。
障子を片端から開けて部屋の中を覗いていく。冷たい床の上を歩き続けたせいで足の裏の感触もわからなくなっていたが、彼女は気にしなかった。
障子を開けて部屋を覗いて、奥にふすまがあればそれも開けて中を調べる。
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。
誰もいない。次の部屋へ。
ぺたぺたぺたぺた。
誰もいない。次の部屋へ。
ゆっくりとした歩みは次第に早足になり、駆け足になっていく。
「誰か、誰かいないの?」
静けさに耐えかねて、ついに声を出した。
けれど誰の返事もない。
「誰かいるんでしょ! 出てきなさいよ!」
あらん限りの声で怒鳴ってみたけれど、やはり返事はなかった。
肩から力が抜けていく。
この家には誰も住んでいないのかもしれない。それなら外に、と思ったけど、やたら寒いうえに雪まで降り始めた。とてもじゃないが出歩く気にならない。
「……とりあえず部屋に戻ろう」
待っていれば、もしかしたら誰かが帰ってくるかもしれないから。
言い聞かせるように呟いて元来た方へとぺたぺた歩く。
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた、ぺた……、……ぺた、……、……。
「――?」
奇妙な違和感。
厚く積まれた真綿の上を歩いているような、なんとも頼りない感じ。初めは足の裏の感覚が冷たさのせいで麻痺してしまったからだと思っていたけど、どうも違うらしい。
見れば、しっかりと地面を踏んで歩いているはずなのに、ふっと気を抜くと足が地面から離れている。
……浮いている。私は空を飛べるのか?
好奇心が沸いたのでさらに脱力してみると、ふわふわ、ふわふわ、体はどんどん浮き上がる。
鳥になったようでなかなか面白い。同時に全身が弛緩して眠たくなってきた。このまま身を任せてしまえば、きっといい夢を見られるに違いない。
それならと目を閉じようとした瞬間、悪寒が体中を駆け巡った。そのまま気を抜いていると、体が空に浮いて、心も魂もどこまでも浮き上がって、最後には『 』から帰ってこられなくなる気がしたからだ。
頭から冷水を浴びせられたように一気に眠気が吹き飛ぶ。
それはいけないことだ。
私は私。今、私は確固としてここに存在している。いずれは『 』に還らなければならないのだとしても、それは今じゃない。今、そこに向かおうとすることは自分を放棄すること。自殺と同義だ。
だから絶対にしてはならない。
目を閉じて自分を強く思う。体が浮き上がらないように、しっかりと地面に足が着くように――私が私であるように。
ややあって。
冷たい板張りの床に足の裏が触れて、続いて足に、膝に体の重みを感じた。
これでようやく一安心。ほっと一息ついてから目を開ける。
ずいぶんと時間が経っていたらしく外には雪が積もっていた。
そして、その光景に目を留めて綺麗だと思えるくらいには、彼女は落ち着きを取り戻していた。
「……とりあえず部屋に戻ろう」
さっきと同じ言葉をもう一度繰り返す。
……今度のは、単に早くコタツに潜り込みたかったからだけど。
◇
「これからどうするかよね」
相変わらず自分が何なのかまったくわからない。気を抜いてだらけていると、またさっきみたいなことにもなりかねない。意外と自分は切羽詰った状況に置かれているらしい。これは早期解決を目指さなければならない。……コタツにすっぽり入ってみかんを食べながら言っている時点で真剣さの欠片も感じられないのだが――いつの間にやらお茶とお煎餅が追加されていることも追い討ちをかけているけれど、彼女はいたって真面目だった。
ここが自分の家だということはわかった。落ち着いてみると、部屋の間取りを、家具や物の位置を、身体が覚えているのだ。
……まあ、なんとなく、だけど。
『なんとなくここにある気がする』と思って戸棚を開けたら急須と湯飲みとお茶の葉を見つけたし、同じように別の戸棚を開けたらお煎餅が出てきた。
台所を見つけたのも『なんとなく』。これでもし他人の家だったら、自分はとてつもなく運が強い人間なんだろう。そう思った。
とりあえずお腹も膨れたし何をするか決めてしまおう。
「あ、そういえば……」
彼女はまだ自分の顔を知らない。体つきはおおよそわかるけど、顔は自分では知りようがない。鏡でも見てみないことには。
よし。まずはそこから始めよう。
勢いよく立ち上がろうとして、あまりの寒さに腰が引けてしまった。
「……あと一杯お茶を飲んでからでも遅くない……わよね?」
誰もいないのに言い訳をしていそいそとコタツの中に潜り込む。
この『あと一杯』は、結局、急須と木皿が空になるまで続いた。
どうせだから顔だけじゃなくて全体像を拝んでおこう。
で、見つけた姿見には白衣に袴という、ごく普通の巫女服を着た少女が映っていた。
「んー……」
意外と美少女だったけど(?)服の上から見る限り、残念ながら女性として理想的な体型とはいかなかった。でもそれは○年後の楽しみということで。
姿見を見て、一つわかったことがある。
それは自分が巫女だということ。さっき家中を走り回ったときにちらりと見えた鳥居や賽銭箱は本物で、ここは神社だったのだ。
だからどうということもないか。ここが神社で私が巫女だからといって事態が好転するわけもない。やはり外に誰かを探しに行かなければならないようだ。
「この雪の降る中を、か。やれやれね――?」
頭の辺りにピクンときた。例えるなら釣り針に魚が食いついたときのような感覚。
刺激に反応して顔が自然とそちらを向く。ふすまと障子と、その向こう側に何かがある。彼女には確信に近いものがあった。
ふすまを開けて、部屋を横切って縁側に出てぐるっと周り、最後に正面の戸を開けると、そこは本堂だった。
よくはわからないが、祭壇のようなものが設けられていて、
「……あった」
その手前にぽつんと、それは置かれていた。
白と黒の二色の石で作られている、陰陽を模った不思議な玉。薄暗くひんやりとした堂内にあって、その周りだけが明るく、暖かかった。
彼女が感じたのか、それともこの玉――陰陽玉に彼女が呼ばれたのかはわからない。でも、それは確かに彼女が探していたものだ。
陰陽玉に吸い寄せられるように、彼女はゆっくりと近づいていく。
膝をついてそれを両手で抱え、しっかりと胸に抱く。
その刹那、
――あーあ、ドジ踏んだなあ……。
夜の森。血まみれで呟く私。
――結婚かぁ。……いいなあ。
村の入り口。皆に祝福される男女を遠目に見て羨む私。
――しぶといわねぇ……さっさと倒れなさいよ!
暗い洞窟の中。妖怪相手に弾幕を展開する私。
――これとこれとこれとこれ貰ってくわね。お代はつけで!
古めかしい店。店主の声を背に、両手にお札の束を抱えて走り出す私。
見たこともない誰かの記憶を見た。
しばらくは呆然となって動くこともできない。空っぽだった自分の頭の中に、誰かの一生分の記憶が流れ込んできたからだ。
おかげで自分の視点と誰かの記憶の視点が重なって見える。二人の間に線引きをしないとその誰かに引きずられてしまいそう。
そんなのはごめんだ。
さっきの要領で、今の自分を強くイメージする。
私が私であるように。ただその一点のみを強く、強く……。
◇
「疲れたー」
日が落ちる頃になって、彼女は床にごろんと寝転がった。ようやく記憶の整理がついたらしい。
改めて本堂の中を見渡してみる。……よし、もう誰かの記憶が見えたりはしなくなった。意外と何とかなるもんだ。彼女は満足そうに笑う。
「……日が完全に落ちると厄介だからさっさと行くことにしようかな」
彼女は跳ね起きると本堂を出て、上掛けを羽織り、靴を履いた。それから蔵に行きお払い棒と一束のお札を持って、境内の先の階段を下りていく。その後ろを陰陽玉がふわふわと浮かびながらついていった。
「じゃ、道案内よろしくね」
長い階段を降りきった彼女は陰陽玉に言った。すると、今まで彼女の後ろを飛んでいた陰陽玉は、逆に彼女を先導するかのように森の方へと進んでいく。木の生い茂る森の中は暗かったが、陰陽玉の光が足元まで照らしてくれるので安心して進むことができた。
人の通る道か獣道か、どちらでも呼べそうな道を進んでいく。森に入ってずいぶん経ち、空を見上げても木に阻まれて星の一つも見えない。同様に、民家の明かりなど見えるはずもない。
それなら、と彼女は思う。私を囲んでいるこの光は何なのだろう、と。
「……やっぱり、これだけ明るいと襲ってくださいって言ってるようなものか」
夜は妖怪の世界。人里を一歩出れば、そこは人間にとって死と隣り合わせの世界。森に住む妖怪は夜目が効く。だから明かりなど必要としない。ならば明りをつけて夜の森を歩くということがどういうことか、言わなくてもわかるだろう。
面倒くさいなあと言いながら片手でお払い棒を構える。もう一方の手には数枚のお札が握られていた。
「ま、雑魚ばっかみたいだし。肩慣らしにちょうどいいわ」
投げた札が奇妙な軌跡を描いて飛び、何体かの妖怪を消滅させる。
それが戦いの合図となった――
◆
ドンドンドン。
もう店は閉まってるっていうのにドアを叩く音がする。
彼は布団の中でもぞもぞ動きながら、枕元に置いておいた眼鏡を掛けた。
『デジタル時計』を見ると表示は……
「――0:07!? 真夜中じゃないか!」
ドンドンドンドンバキッ!
彼が素っ頓狂な声を上げると同時に、ドアを叩く音に混じって致命的な音が聞こえた。
このまま放っておくと店のドアが完膚なきまでに破壊されかねない……ではなく、こんな時間に店を訪ねてくるなんてよほどのことがあったに違いない。この森は夜に人がうろついていいところではないからだ。
着替える時間さえ惜しい。寝巻きのまま彼は急いで寝室を飛び出した。
「――待ってくれ! 今、開ける!」
言ってから彼はほとんど外れかかっているドアの鍵を開けて内側へ引いた。ドアの前に立っていた人影が走りこむのを確認してからドアを閉め、鍵を掛ける。幸いにしてドアは重傷、直せばまだ使えるはずだ。あと十秒遅れていたらどうだったかはわからないけれど。
ほっとしながら彼は明かりをつける。
「こんな時間にどうし――」
振り返った彼は言葉を詰まらせた。立っていたのは彼の良く知る格好をした少女。
しかし彼女ではない。彼女とは別の人間がその格好をしているということは……。
「……そうか。彼女は亡くなったのか」
「ええ。次は私の番ってわけ。これからよろしくね、森近霖之助さん」
少女は手を差し出す。
霖之助は少女の手を握り、“名”を告げる。
――こちらこそよろしく、博麗霊夢。
一子相伝か、外界の赤子か。
何度か己の中だけで答えの出ない疑問を投げかけた事はありましたが、どれも納得はいきませんでした。
納得です。
幻想郷が人を惹きつける源泉を見た気がしました。
後書きを読むまで、残機についての考察だと思ってましたorz
ううむ、スケールがでかい。自分は小さい小さい……
いやはや、感服至極ですはい。
だって『気づいたらそこにいた』とかそんな感じだろうし。
ちなみに。
冬の聖祭のときに陰陽玉を持ってる人を見つけましたが、
形としては野球ボールみたいな模様でした。
この評価点数のあらわす言葉を捧げる。