走る。
今判っていることは、必死にならなければならない今の現状と、立ち止まったら確実に絶望しか残らないという事実の二つ。周りは雑木林。同じような形の針葉樹、曲がりくねった広葉樹が入り混じり、方向感覚などというモノはとうに捨てた。それすらも、彼女の力なのかもしれない。だいたい、もっと訝しがるべきだったのだ。
『滞り』が、無さ過ぎたことに。
この私、伊吹萃香が宴会を開くと公言し始めた時点で、幻想郷の誰かが疑いを持ったっていいのに。白玉楼の辻斬り庭師しかり、紅魔館の切り裂きメイド長しかり。それが、ただ、『酒を飲む』という名目のためだけに集まった。これ以上不審なことが、あると思うか?
「くすくす……何処まで逃げても同じなのに。神出鬼没の恐ろしさ、身をもって知りなさい。くすくすくす…………」
耳障りな声が、自分のすぐ後ろで聞こえる。
だが、決して振り返らない。振り返ったら、その大き過ぎる能力に飲み込まれてしまうから。なによりも、まさか彼女が敵になるとは思っていなかった。一体どういう心境の変化なのか、それとも単純な気紛れなのか。いや、そんなことよりも、今は逃げ切る方が先決だ。不意に地面に拳を尽き立てる。地面に存在する霊気の密度を高くし、背後に向かって射出。
「あらあら……」
回避の隙は与えない。萃香自身も後天宙返り、三メートル以上浮きくるくる回転する体躯で一気に彼女を飛び越える。同時に先程射出した霊気の密度を大幅に下げ、霧状へと転換。視界を奪う。しなやかに着地した萃香はそのまま足のバネを最大限に活かし、彼女に向かって思いっきり突進。鋭い角が、抵抗無く刺さった。
彼女の背中を覆うよう開いた不気味な『スキマ』に。
「~~ッ!」
「くすくす……悪戯が過ぎる子には、お仕置きね」
スキマが、萃香を包み込んだ。
「いらっしゃい、我が巣窟へ……」
彼女も、幻想の妖怪『八雲紫』も、隙間の中へ身を投じた。顔に張り付く薄い笑みは、逆に残酷さを漂わせる。扇子をパチンと音を立ててたたみ、くすくすと笑い声を残してスキマは閉じた。
旋風が虚しく吹き去る。
◆
事の始めは、おおよそ二日間遡る。
今日も今日とて博麗神社は佇んでいた。賽銭を投じる人間が参拝に来る訳でもなく、茶とほんの少しの茶菓子(主に羊羹だ)でひがな一日を過ごせるこの神社は、霊夢が居るという時点で萃香の活動拠点と成り果てていた。その活動拠点の主『博麗霊夢』は、どんな来訪者も拒まない。多少愚痴を漏らすことがあっても、決して追い返したりはしないのだ。七色魔法馬鹿の人形遣いしかり、自称幻想郷最速の魔砲使いしかり。
だがその来訪者は、あまりにも前触れが無さ過ぎた。
夜が白み、太陽が山々の間から姿を現した頃。なんと表現すればよいのかは判らないが、感覚的に知覚することの出来る『歪み』を感じ取った霊夢は、まだ起きない瞼を無理やり開け、屋根の上へと飛び乗った。案の定。
「あら、お目覚め? くすくす、まだ寝てても良いのよ?」
そこには紫が座っていた。スキマの上に鎮座する紫の瞳はどこかふてぶてしく、また自分を蔑んでいるようで気に入らない。偽の月異変のときは手を組んだが、それはあくまで異変解決のため。別段仲がいいと言うわけでもなく、正直この妖怪の底が知れない。霊夢としても、出来れば関わりたくない相手でもあった。
「アナタの力が強力過ぎるのよ。まったく、こんなに歪ませて……」
見れば博麗大結界に、小さな綻びが出来ている。その隙間は小さいがため、幻想郷に影響を及ぼすほどではないが、何がきっかけでその均衡が崩れるか判ったものではない。それを見て紫は小さく微笑んだ。
「あらあら、申し訳無かったわね。気が向いたら直しておくわ」
直す気など無いくせに。むすっとした表情で霊夢は紫を睨みつける。当の本人はのほほんとスキマから取り出した湯飲みで茶を啜っていた。これはもう、自分で直したほうが早いなぁ。めんどくさいけど。
「で、用事は何なのよ」
寝癖のついた髪をバリバリと掻き毟りながら、霊夢は瓦の上に腰を下ろした。ヒンヤリと伝わる瓦の感触がこれまた気に入らない。こういう時は紫のスキマが羨ましい。温かいのかな、アレ。
「例えば。ここ幻想郷は、和洋折衷で人妖の境も曖昧。それを繋ぎ止めるのが『博麗の巫女』たる存在の仕事の筈なんだけど……」
ジトッとした目で紫は霊夢を見、
「少し、何か催した方が良いんじゃない? 宴会とか。確か、萃香の一軒以来ご無沙汰よね」
「……アナタがお酒を飲みたいだけなんじゃないの」
「あら、大正解」
脈絡が無い上に、突然の満面の笑み。この表情の変化が機械的というか、とても不自然で気味が悪い。まるでシナリオ通りの演技をこなしているような。
「宴会?」
ふと、後ろからそんな声が聞こえた。振り向くとそこには目を輝かせる萃香。まずい、と思ったのもつかの間、霊夢はもはや遅すぎたことを後悔する。
「ホント!? やった、久しぶりにお酒をたらふく飲める~!」
嬉しそうな萃香をよそに、霊夢の表情はしまったと後悔の念で一杯になり、紫の顔には薄い笑みが張り付いた。また博麗神社で宴会を催すとなれば、片付けは私かよ。宴会の片付けは意外とめんどくさいのである。なんてったって、酔った勢いでスペルカードを発動する奴がいるから。
「くすくす……そうよ、宴会。さぁ萃香、このことを公言して来なさいな。期日は明後日、子の刻からよ。各自お気に入りの極上酒を持参すること、その旨を伝えてきなさい」
「りょ~かいッ!」
「あっ待ってす……いか~~!」
霊夢の静止よりもコンマ何秒早く、萃香が鳥居をくぐって明朝の幻想郷へ繰り出していったのはいうまでも無い。なんて足の速い鬼だろう。
「片付け手伝わすからね~! 覚悟しときなさいよ~~!!」
霊夢の叫びが聞こえたかどうかも定かではない。まったく、とんだじゃじゃ馬娘に懐かれたものだ。それはそれで面白いのだけど、と紫は笑う。いや、嘲笑うと表現した方が的確か。今はせいぜい浮かれなさい、この宴会は決して『最後の晩餐』でもないし、『末期の一服』でもない。
「くすくす……楽しみね…………。ああ、本当に楽しみ……くすくすくす」
「?」
霊夢が不審に思って振り向いたときに、紫はそこには居なかった。眠くて判断力及び思考力が鈍っていたのか、霊夢はあろう事かそのまま布団へと一直線。二度寝を決め込む。普段の霊夢が逃す筈の無い『事件』が、蠢き始めた。その日と次の日、鬼が幻想郷を駆けずり廻って色々とやらかしてしまったのはまた別の話。
そして、時間がやってきた。
博麗神社は騒がしい喧騒に包まれ、普段の閑静な様相を覆していた。萃香は彼方此方で呼んできた人妖の持参した酒を飲み比べている。自分の瓢箪から出して飲んだ量も合わせれば、軽く五升は飲んでいるのではないか。よく二日酔いにならないものだ、と霊夢は感心した。
「相変わらず宴会好きですね、あの子は」
「ええ、そうね。コッチの迷惑も考えて欲しいわホント」
神社の縁側で控えめに酒を飲むのは霊夢と、彼岸の裁判長・四季映姫である。割と倫理を心得ている二人は、『何人かは酒に酔っていない人も居ないと収拾がつかない』との理由から、こうして水割りの酒をちびりちびりやっているのだった。
「『酒は飲んでも飲まれるな』。世界の常識です。酒に強い人間など存在しません。皆一升程度飲めばたちどころに意識を失う、脆弱な存在なのですから」
映姫が何か御尤もなことを言っている。霊夢は耐え切れずに苦笑した。幻想郷に人間という存在は微々たるもので、それ以外は妖怪だというのに。ここで人間用の教訓を持ってこられても困る。
「……アナタのところの死神、大分出来上がっちゃってるけど」
見れば死神、小野塚小町がさっきからレミリア・スカーレットお気に入りのアルコール濃度の高い洋酒にばかり手を出している。もうべろんべろんである。映姫は目を覆い、大きな溜息を吐き出した。
「これだから小町は……あれほど自分の身分をわきまえろと折檻しているのに、懲りる様子が窺えません……。これでは幾ら私が他人を諭したとしても、納得のいく裁きが出来ないではありませんか……はぁ」
「はは……まぁ、今日くらいは良いんじゃないの?」
何気に映姫の頬もほんのり赤い。こっちも酔うのは時間の問題だな。ぱっと見た感じ映姫は泣き上戸のような気がするので、ばっちり手拭いは準備済みである。再び庭に目を移せば、萃香は幸せそうに酒を飲んでいた。その笑顔がなんだか忘れられずに脳裏に焼きついて、離れない。妙な胸騒ぎが、煩わしかった。
◆
「おい。そんなに飲んで大丈夫なのか?」
「んぁ? ぅ~~ん、大丈夫大丈夫」
さっきから瓢箪を傾ける手が止まらない。飲み比べもとうに終わり、結局は自分お気に入りの酒を騒霊楽団の演奏を肴に飲むことに決めた萃香は、呆けた声でそう答えた。
「こうして見ると只ののんだくれだが……まあいい。紫様が御呼びだ」
彼女のことを『紫様』と呼ぶのは、萃香の記憶上二人しか知らない。そのうち、こんなに凛々しい声なのは狐の方―藍、といったか、の方だろうと、萃香はもっとぼんやりした思考の中で思った。声の主は(いや、もう藍だと断定してしまっても良いだろう)、萃香の返事がないことに不満のようである。
「聞こえているか? ……紫様が御呼びだと言っているだろう」
「ふぇ? 紫が?」
「そうだ。……萃香、お前何かやらかしたんじゃないだろうな? 今日に限って……いや、元々限ってなどいないが……紫様の御様子が――」
「うわ~~~ん! 藍様ぁあああ~!!」
藍の言葉が最後まで吐き出されないうちに、助けを求める悲痛な叫びが喧しく聞こえてきた。同時に藍の胸に、グルグル回転しながら小さな少女が飛び込んでくる。
「うわッどうした橙!?」
「ひぐッ……私、何もしてないのに、ぐすッ、黒白魔砲使いが、『暇潰しだぜ』とかいっていじめてくるの、ふぇえええん!」
黒くつやの良い二本の尻尾の先が、ちりちりと燻っている。と、彼方から物凄いスピードで飛んでくる人影。どうも、自分が楽しむために橙をわざと逃がしたようだ。そうでなければ、こんなに時間差が開く筈は無い。こんなにも遠いのに、そいつの顔が笑っているのが見えた。ブチッと何かの切れる音。
「私の橙をいじめるなぁああ~~!!」
普段の三割増で藍の弾幕が展開され、対する黒白も最終魔砲で対抗する、下手をすれば博麗神社をふっとばす弾幕戦争が勃発。それを逸早く察知した騒霊楽団が、巻き込まれることを恐れて場所を移す旨の放送を流している。せっかくの肴が台無しだ。
「……紫が、私に?」
今更のように口をついて出てきた確認。が、確認の取れる対象は現在、目下弾幕ファイト中である。何人かの命知らずが、流れ弾の危険性をおしてまでこの対戦にハッパをかけている。やんややんやの大騒動だ。
……まぁ、暇だし。
用事が何であれ退屈はしないだろうと萃香は自負し、紫の力を感じる方向へ飛び立った。紫を見つけるのは、『其処に存在する』と判っていれば簡単である。彼女ほど異質な力は、他に無いのだから。それ故に、『そう判っていなければ』見つけることはほぼ不可能なわけである。
「くすくすくす……極上のお酒も準備したし、後は肴の到着を待つばかりね」
人知れず、紫は笑った。
くすくす、くすくす。
不気味に木霊する笑い声が、辺りに広がっては消えていく。
◆
「……ねぇ。何か聞こえない? 何かこう、気味の悪くなるような笑い声」
「……? いや、私にはさっぱりですが」
縁側に座る霊夢は、何か不気味なものを感じ取っていた。対する映姫も口ではそう言ったものの、やはりソレを感じ取っていた。どうやらさっきから自重して酒を飲むことを止め、ぽりぽりと燻った豆を食べるだけにしておいて正解だったようだ。おかげで集中力を失わずに、感覚を研ぎ澄ませる。
「これは……まさか、『幻想の境』八雲紫ですか?」
研ぎ澄ませた神経に捕らえられた力の波長。それは長年幻想郷を見守ってきた映姫にしてみても、まったく『異質』なものだった。なんというか、底が知れない。どこまでも深く深く掘られた渓谷よりも一層深く、だが、どこまでも高く高く聳える山岳よりも遥かに高い。狭いとも広いとも一概には表せず、表現する言葉は一言『幻想』。
「そ。……萃香もそっちに向かって、る……あれ?」
突然萃香の力が、紫から逃げるように動き出した。紫もそれを追うように動き始める。
「どうなってるんです? これは穏やかじゃありません」
「私だって判んないわよ。ま、紫のことだし、悪いようには―」
損失した。
突然『萃香』を感じられなくなったのだ。前言撤回、これは非常にまずい。まず過ぎる。霊夢と映姫は顔を見合わせ、まさか、とアイコンタクトをするも、もう一度感覚を研ぎ澄ませる。やはりもう感じられない。しかも、紫すら感じられないのだ。
考えられることは一つ。
霊夢はすくっと意を決したように立ち上がった。
「どこに行くのです?」
「決まってんでしょ。萃香を助けに」
「あの神出鬼没を相手にですか? 無茶です、彼女の居場所は彼女の従僕以外誰も知りませんよ!?」
確かに。映姫の言うことにも一理ある。けれど、博麗にはそれなりの、幻想郷を網羅することさえ可能な力があるのだ。
「何とかなるわよ。明日の風は明日吹くって言うように、ね」
霊夢の自信満々な物言いに映姫は些か面食らったようだが、
「……良いでしょう。私も行きます」
宴会も終わりが近い。まだまだ盛り上がる要素など幾らでもあるが、そんな気分になれやしない。まったく、迷惑ばかりかける奴らだ。そんな事を思いながら、霊夢は映姫と飛び立った。
◆
目が覚めるとそこは、不可思議な空間だった。何処までも果てしなく広がっているようで、底が知れない。拘束具がついている訳でもなく、体に異常があるとも感じられない。一体何がしたかったんだ、あのスキマ妖怪め。
「そんなの決まってるじゃない。『貴方が気に入らなくなった』、ただそれだけよ」
「……!」
そんな理不尽な理由が有るか。それはともかく、今は反論などをしている場合ではないのだ。明解に例えるならば、ここは彼女の『巣』である。蜘蛛がそうであるように、自分の巣で敵に負けることなどありえない。もっとも力を発揮できる条件の上で、どうして負けなどという言葉が浮かぶだろうか。
「足掻きなさい。せっかくのお酒があるのだもの、滑稽じゃなければつまらないわ。くすくす……」
辺りに目をやる。ありとあらゆる結界の外側に存在したと思しき、今ではただの漂流物に成り果てたモノが見えた。その背景は歪んでいるのか判らない、奇妙な模様の空間。時々激しく波打ち、新たな漂流物を吐き出している。その中にしゃれこうべを見つけてしまい、萃香は思わず目を背けた。
「ああ、それ」
なんでもないただの物質だとでも言いたげに、紫はしゃれこうべを近くに引き寄せ、扇子でこつんとそれをつついた。その音がこの空間に、空虚に響く。
「いつ迷い込んだのかしらね。きっと相当前よ、だって原形を留めてないもの」
「……なんで」
それは、遅すぎる知覚だった。今まで味わったことのない感情だったかもしれない。もともと鬼は、それを抱かせる者だったが故に、それ自体無縁の長物だったのである。だが、しかし。一度理解してしまえば、それは萃香に確信と絶望をもたらした。
「なんでよ紫! 私が何か悪いことをした!? 何で私が、『神隠し』に逢わなくちゃいけないのよぉッ!!」
「何で?」
背筋が泡立つ。
今まで感じたことのない『恐怖』が、萃香を侵食していった。紫の淡々とした口調、見たことも無い空間、決して心地良くなんか無い浮遊感、とどめとばかりにシャレコウベ。どれをとっても恐怖を駆り立てる要因にしかならず、平静を欠いた萃香が取った行動は、
「ぅ、わああああああッ!」
あろうことか、高圧の火の玉を紫に向かって投げつけること。無論そんなものが紫にあたる筈も無く、紫電一閃、紫は一瞬で萃香の背後に回りこむ。首筋に吐息がかかるほどの距離。世界が色を失っていくのを萃香は感じた。
「貴女を幻想郷に引き入れたのは、妖怪をものともしなくなった人間どもへの戒めのつもりだったのだけど……。今の貴女は、まるでダメ。買い被り過ぎたのかしらね、くすくす。……それどころか、まさか人間と寝食を共にするとは、思ってもみなかったわ」
(やめろ、それ以上は……ッ!)
歯がガチガチと、噛み合わない音を立てている。耐え切れず顔を背けたが、「あらだめじゃない」と紫に顎を掴まれ、無理やり正面を向かせられた。気味の悪い笑みが嫌がおうにも目に入る。
「くすくす……。人間と仲良くしたって、しょうがないと判っているのは貴女自身でしょう。ありとあらゆる問題、それこそ山の如く。それをどう打破するつもりだったのかしらね? ……所詮人間と妖怪は相容れぬ存在、貴女がどんなに望もうと、…………」
(嫌だッ、聞きたく、な…………)
にやりと笑う紫の口元は、愉悦で歪んでいる。
ようやく、悟った。
紫は、このためだけに私を神隠ししたのだと。私の望みを散らせるために、何から何まで仕組んでいたのだということを。その先の言葉は、もはや聞くまでも無い。すでに理解してしまったのだから。だから、聞こえてきた凛々しい声も、特には響かなかった。
「いい加減にしなさいよ」
「あら?」
絶対不可侵のスキマに、あろうことか博麗の巫女は存在した。紫は首をかしげ、萃香をぽいと手放す。それでも紫に焦りの色は伺えない。
「どうしてかしらね? どうして貴女が、此処にいるのかしら?」
「単純明快なことよ」
霊夢はいつもと変わらぬ口調で答える。悠然とした霊夢の振る舞いは、各所から荘厳さが滲み出ていた。陰陽玉が、霊夢の掌の上で回転を始る。
「博麗の力は『空を飛ぶ程度』。人はその程度かと笑うわ。……でもね。空を飛べるって事は、あらゆる障害、全てが意味を成さないって事。私にとって、世界は平坦な一枚の紙。何処にでも行ける私に、不可侵は通用しないわ」
陰陽玉が、膨張し始めた。途端いくつかに分裂、霊夢の周りを高速で回転し始める。『博麗大結界』、その布陣だった。紫も辺りの空間とは質の違うスキマを展開、『弾幕結界』の布陣を敷き始める。
「くすくす……。所詮人間程度の結界が、この私に敵うと思う?」
紫が嘲笑う。勝ちを確信した勝者の笑み、とでもいうのだろうか。
「ええ」
霊夢は余りにも呆気なく、その笑みを看破した。陰陽玉は、相変わらず高速回転をしている。その回転が緩やかになり、霊夢を取り囲むように四方へ広がっていった。ここで、ようやく紫は違和感に気付いた。博麗大結界は、多少の捻りはあれどあくまで『内から外へ』の弾幕の筈である。だが、これは『外から内へ』に成らざるを得ない。
(そんな『博麗』の弾幕、あったかしら?)
未知の弾幕の脅威を警戒し、弾幕結界を防御に回そうと自身の近くへ手繰り寄せる。無論、弾幕結界の布陣は消えていった。そして、ここが紫の失念である。霊夢は一度も「これが弾幕だ」などと言ってはいない。
霊夢の罠に、紫は見事に引っかかった。
突然霊夢は単身で正面へ突っ込む。勿論、弾幕による保身は無い。この無謀とも取れる霊夢の行動に、紫はまだ防御の陣を攻撃へ転換しなかった。少々訝しがり過ぎたのだろう、博麗がこのような無謀を冒す筈は無いと。何か罠があるのだろう、と。霊夢の狙いは『紫の撃破』ではなく、『萃香の奪還』それだけだった。初めからそれだけを念頭においていた霊夢は、紫の鼻先で掠めるように急降下、萃香を引っ掴み、驚き顔の紫を尻目に、
「夢・想・封・印!」
叫んだ。それに呼応し、陰陽玉が爆発。想像が容易い爆発ではなく、空間を一直線に走る光、という例えが最も正しいだろう。それが陰陽玉の均等な距離間を奔り、綺麗な正方形を描いた瞬間、まさしく空間が切り取られた。その向こうには夜の閑静な雑木林。ここまで来れば嫌がおうにも紫は、霊夢の罠に引っかかったと認めざるを得なかった。慌ててその空間を閉じようとするが、
「じゃ~ね紫ッ! 今回は私の勝ちよ~~!」
遅すぎた。霊夢はそこから雑木林に飛び出し、彼方の空へと飛んでいく。萃香も一緒に。完全にその空間が閉じたのは、霊夢が飛び出してから一呼吸置いてからだった。
「あらあら……」
なんだか、どうしようもない脱力感が体にずしりと重く圧し掛かる。
大きな欠伸。
そういえば、今日はこの時のために早起きをして準備をしたんだっけ。慣れない事はするもんじゃない、どうやら腹の虫も鳴り始めた。追いかけることも出来たかもしれない。いや、紫の力を持ってすればこの上なく簡単なことだったろう。だが、紫はそうしなかった。
ただ大きく二度目の欠伸をして、迷い家への帰路となるスキマを開く。
◆
「う~ん……。振り切れた、のかな?」
草むらからひょこっと首を出し、辺りを窺う。やはり何も見えない。
「映姫、どうよそっちは」
「いえ、何も見えませんが」
ふぅ、と霊夢は安堵の息を吐き出した。安心するのはまだ早いかもしれないが、紫ならばスキマ経由で瞬時にあらゆる所へ現れられる筈である。それが、これだけ間をおいても現れないのだ。振り切ったか諦めたと思ってしまっても、問題はないだろう。
「はぁ~~、助かったぁ~~……」
脱力。霊夢はペタリと近くの木に寄りかかる。
「まったく、実に無謀極まりない! よくあんな作戦を思いついたものです、下手をすれば大怪我じゃ済みませんでしたよ!?」
「あ~~、説教は後、後。一先ずは博麗神社に戻ろ…………あれ?」
ふと辺りを見渡すと、萃香の姿が見当たらない。まさか、気付かないうちに紫が? 慌ててバッと立ち上がった霊夢を諌めるように、映姫は霊夢の肩を掴んで無理やり座らせる。
「あの子なら大丈夫です。先程何処かへ走っていきましたよ。……目に涙を溜めて、ね」
「ッ! ならなおさら早く見つけて―」
「落ち着いてください。私にも考えがあるのです。……それに、あの子の裁判もまだでしたしね。とにかく、私に任せてください」
映姫は空を仰ぐ。
美しく瞬く星々、輝く月。
もはや危険は去ったのだと、あの子も気付いていればよいが。
◆
萃香は走る。
そんな必要は無いのに、何か運動をしていないと目に溜まった涙が零れてしまうと思ったから、どうしても止まれない。それでも涙が零れそうになる。幾ら拭っても次から次へと溢れてくるそれが煩わしく、自分が涙腺を有していることを呪った。
涙を乱暴に拭い、何処までも走ってやろうと意気込んだ所で――転んだ。
ドサッと地面に倒れこむ。
「~~~~ッ!」
地面を拳で殴りつけた。見た目は少女でも、彼女の力は大の大人を軽く凌駕する。地面がボコンと音を立てて凹んだ。何回も殴り続けるたびに、地面が硬くなるのを感じる。それと比例するように拳の痛みも増してきた。萃香はふと、目の前に緑色の茎があることに気付く。どんどん上へ目で追っていくと、それは何処にでもあるような彼岸花だった。
それに気付いた途端、草原だった筈の辺り一面にぶわっと彼岸花が咲き乱れた。赤い花が月の光に照らされ、筆舌に尽くしがたい美しい色へと変貌している。どっちかと言うと、紫に近い色。その色から連想されてしまった幻想の妖怪、そいつが言い放った言葉が萃香に突き刺さる。
遠くに、川が見えた。
かと思ったら、その川は自分のすぐそこ、手を伸ばせば水に浸かる程度の所にある。川の向こう岸は見えない。靄というか霧というか、そういうものが視界を遮っている。萃香は体を起こし、川の岸に腰掛けた。足が水に浸かる。ひんやりとしていて、心地良かった。
(人間どもへの戒め、か)
妖怪と人間は、相容れぬ存在なのだろうか。
私がしようとしたように、人間と……一生を添い遂げることなど、不可能なんだろうか。
(人間と仲良くしたって、しょうがない?)
そんな事は判っていた。
ただ、霊夢は、そんな私に優しく接してくれたから。
『人間と』じゃない。
『霊夢と』なんだ。
もう、何事にも変えられなくなってしまった。それ自体が生きる意味のようなものになって。それを紫に壊されて。これから先、どうしろというのだ。
……人間になりたい、と思った。
体を少しだけ霧散させ、すぐにまた元に戻す。
こんな力なんていらない。
ふと、こんな言葉が浮かんだ。
輪廻。
そう、この世は所詮六道輪廻。一度死ねば魂は何処かの『道』へと転生する。つまり、妖怪だった魂が人間に転生する事だって、ありえるのではないか。もしかしたら、私も人間に。目の前には川。その幅も、深さも、判らない。けれど……充分すぎるとは、思わないか。確かに、転生を果たしても再び霊夢と逢える可能性は低いに違いない。ゼロに近いかもしれない。それでも。いまの萃香にとっては、このまま妖怪しているよりも、遥かに希望のある話だった。
トプンと水に入ってみる。やはり岸際の水深は浅いようで、萃香の腰程度までしか水嵩は無い。だけど、向こう岸が(靄で)見えない程の幅なのだ。真ん中へ近づけば近づく程―――。
萃香は水を掻き分けるように歩き始めた。
途中で立ち止まる。
川岸を振り返った。
まだ、未練があるのか。そう自問して、ばっさりとその答えを断ち切った。再び川向こうへ歩き始めて、何かこの世に言い残しておく言葉を考え、それでも何も浮かばずに、
「自殺はいけません」
そんな声が反響した。それを無視して更に進もうとしたが、金縛りにあったように体が動かない。それどころか、体が勝手に岸へ向かって動いている。
「己の可能性を絶つなど、言語道断。そのような愚かしいことは、愚かな人間だけがすれば良いのです。アナタのような者がするような行為は、ありませんよ」
岸には、緑髪の女性が立っていた。彼女から滲み出す荘厳な雰囲気、それに違わぬ物言い。まるで、どこかでいつもそうしているから慣れているような。
「何故自殺など……服がびしょびしょじゃないですか、早く博麗神社へ戻りなさい」
「無理。……無理よ」
萃香は笑った。コイツがだれだろうと、そんな事は気にならない。と、言うか、どうでもいい。なんと表現すればよいのか。空虚、脱殻、骸、屍、空白。そんな感情全てが織り交じった、複雑な、悲しい笑みだった。
「始めっから無理な話だったの。ようやく気付いて、気力も失せて…………。これ以上妖怪の私に何が出来るって言うの? もう……シニタイ、よ」
女性はほぅ、と頷いた。そして、何を思ったか、岸辺に立っている萃香の胸を押す。予想通り、驚く暇も無く重力に抗うことも出来ず、萃香は水の中へドボン。
「なッ、なにをする……!」
水から即座に上がり、飲んでしまった水を吐き出しながら、萃香は叫んだ。その様子を、女性は何かする訳でもなく見つめている。
「ほらね。アナタはまだ生きようと足掻く」
「……ぁ」
言われてみれば、と気がついた。無意識の内に、私は死を避けたのか。コイツのみならず、自分にまで阻まれるとは。もう、この世に、信頼できる奴は―
「それは、アナタがまだ生きたいと願っているからです。それが何故あんな行為に走ったのか。それを知る由は私にはありません。ただ、アナタは少し悲観的過ぎる。一度や二度のちょっとした、正反対の意見にぶつかっただけで挫折など」
ハッと、鼻で笑ってやった。
「そうじゃない。……私は、この道に生まれた自分を呪う。この道に生まれさせた、世界を怨む。何度でも死んでやる、人間に生まれ変われると信じてッ!」
「馬鹿者がッ!!!!」
女性のとてつもなく大きな声に、思わず萃香は畏縮する。
「『元々地上には道は無い。歩く人が多くなればそれが道になるのだ』。ある高名な文豪の言葉です。正しくその通り、この世に道などありません。その道を切り開くのは、アナタ自身なのですよ?」
「…………」
何も言い返せなかった。
「死ぬということはアナタの場合、『伊吹萃香の道が途切れる』ということです。それがどうして、転生した先で同じ道を作れるでしょうか。はっきり言いましょう、転生して再び生前逢ったことのある人物に逢える可能性は、皆無です」
さぁッと風が吹き抜けた。一呼吸を置き、女性は再び口を開く。
「今、アナタが存在するという時間をもっと大切にすること。これがアナタに出来る善行です。更に言うならば、……霊夢も大事にしてあげなさいね」
何かが変わった。
萃香の中で、何かが。
目には見えないけれど、とてつもなく大きな何かが。
「……ほら、霊夢もアナタを探していますよ」
白み始めた空を、霊夢がこちらへ向かって飛んできていた。いつもと変わらぬ、『楽園の不思議な巫女』。その姿がとっても懐かしく感じられ、
「ほら、萃香。帰るわよ」
差し出された手を、握った。
温かかった。
「……寝ちゃった」
「相当の疲れが出たのでしょう。なにせこんなところまで飛ばないで走ったのですから。ゆっくりと休ませてあげなさいな」
はいはい、と霊夢は萃香を背負う。飛び立とうとして、ふと気付いたように、
「そういえば、アンタ萃香になんて言ったの? ……この子に出来そうな善行なんて、酒を控えること位じゃない」
「それは秘密です。閻魔の裁きは私と当事者以外、絶対に秘密厳守なのですよ」
ふ~ん、と霊夢は頷いた。
「まぁ、いいわ。今回はお礼を言っとく。本当にありがと」
「……当然のことを、したまでですから」
映姫はかわりといってはなんですけど、と言葉を結ぶ。
「小町を起こして、こちらへ向かわせてください。いい加減仕事のサボリ癖を直してあげなくちゃですから」
おやすいごようよ、と霊夢は言い、飛び立った。宴会はとうに終わったのだろうか、それともまだ続いているのだろうか。真の意味で、宴会は終わったといえよう。なんてったって、あの酔いどれ鬼っ娘が、こんなに幸せそうな寝顔をしているのだから。
終わり
今判っていることは、必死にならなければならない今の現状と、立ち止まったら確実に絶望しか残らないという事実の二つ。周りは雑木林。同じような形の針葉樹、曲がりくねった広葉樹が入り混じり、方向感覚などというモノはとうに捨てた。それすらも、彼女の力なのかもしれない。だいたい、もっと訝しがるべきだったのだ。
『滞り』が、無さ過ぎたことに。
この私、伊吹萃香が宴会を開くと公言し始めた時点で、幻想郷の誰かが疑いを持ったっていいのに。白玉楼の辻斬り庭師しかり、紅魔館の切り裂きメイド長しかり。それが、ただ、『酒を飲む』という名目のためだけに集まった。これ以上不審なことが、あると思うか?
「くすくす……何処まで逃げても同じなのに。神出鬼没の恐ろしさ、身をもって知りなさい。くすくすくす…………」
耳障りな声が、自分のすぐ後ろで聞こえる。
だが、決して振り返らない。振り返ったら、その大き過ぎる能力に飲み込まれてしまうから。なによりも、まさか彼女が敵になるとは思っていなかった。一体どういう心境の変化なのか、それとも単純な気紛れなのか。いや、そんなことよりも、今は逃げ切る方が先決だ。不意に地面に拳を尽き立てる。地面に存在する霊気の密度を高くし、背後に向かって射出。
「あらあら……」
回避の隙は与えない。萃香自身も後天宙返り、三メートル以上浮きくるくる回転する体躯で一気に彼女を飛び越える。同時に先程射出した霊気の密度を大幅に下げ、霧状へと転換。視界を奪う。しなやかに着地した萃香はそのまま足のバネを最大限に活かし、彼女に向かって思いっきり突進。鋭い角が、抵抗無く刺さった。
彼女の背中を覆うよう開いた不気味な『スキマ』に。
「~~ッ!」
「くすくす……悪戯が過ぎる子には、お仕置きね」
スキマが、萃香を包み込んだ。
「いらっしゃい、我が巣窟へ……」
彼女も、幻想の妖怪『八雲紫』も、隙間の中へ身を投じた。顔に張り付く薄い笑みは、逆に残酷さを漂わせる。扇子をパチンと音を立ててたたみ、くすくすと笑い声を残してスキマは閉じた。
旋風が虚しく吹き去る。
◆
事の始めは、おおよそ二日間遡る。
今日も今日とて博麗神社は佇んでいた。賽銭を投じる人間が参拝に来る訳でもなく、茶とほんの少しの茶菓子(主に羊羹だ)でひがな一日を過ごせるこの神社は、霊夢が居るという時点で萃香の活動拠点と成り果てていた。その活動拠点の主『博麗霊夢』は、どんな来訪者も拒まない。多少愚痴を漏らすことがあっても、決して追い返したりはしないのだ。七色魔法馬鹿の人形遣いしかり、自称幻想郷最速の魔砲使いしかり。
だがその来訪者は、あまりにも前触れが無さ過ぎた。
夜が白み、太陽が山々の間から姿を現した頃。なんと表現すればよいのかは判らないが、感覚的に知覚することの出来る『歪み』を感じ取った霊夢は、まだ起きない瞼を無理やり開け、屋根の上へと飛び乗った。案の定。
「あら、お目覚め? くすくす、まだ寝てても良いのよ?」
そこには紫が座っていた。スキマの上に鎮座する紫の瞳はどこかふてぶてしく、また自分を蔑んでいるようで気に入らない。偽の月異変のときは手を組んだが、それはあくまで異変解決のため。別段仲がいいと言うわけでもなく、正直この妖怪の底が知れない。霊夢としても、出来れば関わりたくない相手でもあった。
「アナタの力が強力過ぎるのよ。まったく、こんなに歪ませて……」
見れば博麗大結界に、小さな綻びが出来ている。その隙間は小さいがため、幻想郷に影響を及ぼすほどではないが、何がきっかけでその均衡が崩れるか判ったものではない。それを見て紫は小さく微笑んだ。
「あらあら、申し訳無かったわね。気が向いたら直しておくわ」
直す気など無いくせに。むすっとした表情で霊夢は紫を睨みつける。当の本人はのほほんとスキマから取り出した湯飲みで茶を啜っていた。これはもう、自分で直したほうが早いなぁ。めんどくさいけど。
「で、用事は何なのよ」
寝癖のついた髪をバリバリと掻き毟りながら、霊夢は瓦の上に腰を下ろした。ヒンヤリと伝わる瓦の感触がこれまた気に入らない。こういう時は紫のスキマが羨ましい。温かいのかな、アレ。
「例えば。ここ幻想郷は、和洋折衷で人妖の境も曖昧。それを繋ぎ止めるのが『博麗の巫女』たる存在の仕事の筈なんだけど……」
ジトッとした目で紫は霊夢を見、
「少し、何か催した方が良いんじゃない? 宴会とか。確か、萃香の一軒以来ご無沙汰よね」
「……アナタがお酒を飲みたいだけなんじゃないの」
「あら、大正解」
脈絡が無い上に、突然の満面の笑み。この表情の変化が機械的というか、とても不自然で気味が悪い。まるでシナリオ通りの演技をこなしているような。
「宴会?」
ふと、後ろからそんな声が聞こえた。振り向くとそこには目を輝かせる萃香。まずい、と思ったのもつかの間、霊夢はもはや遅すぎたことを後悔する。
「ホント!? やった、久しぶりにお酒をたらふく飲める~!」
嬉しそうな萃香をよそに、霊夢の表情はしまったと後悔の念で一杯になり、紫の顔には薄い笑みが張り付いた。また博麗神社で宴会を催すとなれば、片付けは私かよ。宴会の片付けは意外とめんどくさいのである。なんてったって、酔った勢いでスペルカードを発動する奴がいるから。
「くすくす……そうよ、宴会。さぁ萃香、このことを公言して来なさいな。期日は明後日、子の刻からよ。各自お気に入りの極上酒を持参すること、その旨を伝えてきなさい」
「りょ~かいッ!」
「あっ待ってす……いか~~!」
霊夢の静止よりもコンマ何秒早く、萃香が鳥居をくぐって明朝の幻想郷へ繰り出していったのはいうまでも無い。なんて足の速い鬼だろう。
「片付け手伝わすからね~! 覚悟しときなさいよ~~!!」
霊夢の叫びが聞こえたかどうかも定かではない。まったく、とんだじゃじゃ馬娘に懐かれたものだ。それはそれで面白いのだけど、と紫は笑う。いや、嘲笑うと表現した方が的確か。今はせいぜい浮かれなさい、この宴会は決して『最後の晩餐』でもないし、『末期の一服』でもない。
「くすくす……楽しみね…………。ああ、本当に楽しみ……くすくすくす」
「?」
霊夢が不審に思って振り向いたときに、紫はそこには居なかった。眠くて判断力及び思考力が鈍っていたのか、霊夢はあろう事かそのまま布団へと一直線。二度寝を決め込む。普段の霊夢が逃す筈の無い『事件』が、蠢き始めた。その日と次の日、鬼が幻想郷を駆けずり廻って色々とやらかしてしまったのはまた別の話。
そして、時間がやってきた。
博麗神社は騒がしい喧騒に包まれ、普段の閑静な様相を覆していた。萃香は彼方此方で呼んできた人妖の持参した酒を飲み比べている。自分の瓢箪から出して飲んだ量も合わせれば、軽く五升は飲んでいるのではないか。よく二日酔いにならないものだ、と霊夢は感心した。
「相変わらず宴会好きですね、あの子は」
「ええ、そうね。コッチの迷惑も考えて欲しいわホント」
神社の縁側で控えめに酒を飲むのは霊夢と、彼岸の裁判長・四季映姫である。割と倫理を心得ている二人は、『何人かは酒に酔っていない人も居ないと収拾がつかない』との理由から、こうして水割りの酒をちびりちびりやっているのだった。
「『酒は飲んでも飲まれるな』。世界の常識です。酒に強い人間など存在しません。皆一升程度飲めばたちどころに意識を失う、脆弱な存在なのですから」
映姫が何か御尤もなことを言っている。霊夢は耐え切れずに苦笑した。幻想郷に人間という存在は微々たるもので、それ以外は妖怪だというのに。ここで人間用の教訓を持ってこられても困る。
「……アナタのところの死神、大分出来上がっちゃってるけど」
見れば死神、小野塚小町がさっきからレミリア・スカーレットお気に入りのアルコール濃度の高い洋酒にばかり手を出している。もうべろんべろんである。映姫は目を覆い、大きな溜息を吐き出した。
「これだから小町は……あれほど自分の身分をわきまえろと折檻しているのに、懲りる様子が窺えません……。これでは幾ら私が他人を諭したとしても、納得のいく裁きが出来ないではありませんか……はぁ」
「はは……まぁ、今日くらいは良いんじゃないの?」
何気に映姫の頬もほんのり赤い。こっちも酔うのは時間の問題だな。ぱっと見た感じ映姫は泣き上戸のような気がするので、ばっちり手拭いは準備済みである。再び庭に目を移せば、萃香は幸せそうに酒を飲んでいた。その笑顔がなんだか忘れられずに脳裏に焼きついて、離れない。妙な胸騒ぎが、煩わしかった。
◆
「おい。そんなに飲んで大丈夫なのか?」
「んぁ? ぅ~~ん、大丈夫大丈夫」
さっきから瓢箪を傾ける手が止まらない。飲み比べもとうに終わり、結局は自分お気に入りの酒を騒霊楽団の演奏を肴に飲むことに決めた萃香は、呆けた声でそう答えた。
「こうして見ると只ののんだくれだが……まあいい。紫様が御呼びだ」
彼女のことを『紫様』と呼ぶのは、萃香の記憶上二人しか知らない。そのうち、こんなに凛々しい声なのは狐の方―藍、といったか、の方だろうと、萃香はもっとぼんやりした思考の中で思った。声の主は(いや、もう藍だと断定してしまっても良いだろう)、萃香の返事がないことに不満のようである。
「聞こえているか? ……紫様が御呼びだと言っているだろう」
「ふぇ? 紫が?」
「そうだ。……萃香、お前何かやらかしたんじゃないだろうな? 今日に限って……いや、元々限ってなどいないが……紫様の御様子が――」
「うわ~~~ん! 藍様ぁあああ~!!」
藍の言葉が最後まで吐き出されないうちに、助けを求める悲痛な叫びが喧しく聞こえてきた。同時に藍の胸に、グルグル回転しながら小さな少女が飛び込んでくる。
「うわッどうした橙!?」
「ひぐッ……私、何もしてないのに、ぐすッ、黒白魔砲使いが、『暇潰しだぜ』とかいっていじめてくるの、ふぇえええん!」
黒くつやの良い二本の尻尾の先が、ちりちりと燻っている。と、彼方から物凄いスピードで飛んでくる人影。どうも、自分が楽しむために橙をわざと逃がしたようだ。そうでなければ、こんなに時間差が開く筈は無い。こんなにも遠いのに、そいつの顔が笑っているのが見えた。ブチッと何かの切れる音。
「私の橙をいじめるなぁああ~~!!」
普段の三割増で藍の弾幕が展開され、対する黒白も最終魔砲で対抗する、下手をすれば博麗神社をふっとばす弾幕戦争が勃発。それを逸早く察知した騒霊楽団が、巻き込まれることを恐れて場所を移す旨の放送を流している。せっかくの肴が台無しだ。
「……紫が、私に?」
今更のように口をついて出てきた確認。が、確認の取れる対象は現在、目下弾幕ファイト中である。何人かの命知らずが、流れ弾の危険性をおしてまでこの対戦にハッパをかけている。やんややんやの大騒動だ。
……まぁ、暇だし。
用事が何であれ退屈はしないだろうと萃香は自負し、紫の力を感じる方向へ飛び立った。紫を見つけるのは、『其処に存在する』と判っていれば簡単である。彼女ほど異質な力は、他に無いのだから。それ故に、『そう判っていなければ』見つけることはほぼ不可能なわけである。
「くすくすくす……極上のお酒も準備したし、後は肴の到着を待つばかりね」
人知れず、紫は笑った。
くすくす、くすくす。
不気味に木霊する笑い声が、辺りに広がっては消えていく。
◆
「……ねぇ。何か聞こえない? 何かこう、気味の悪くなるような笑い声」
「……? いや、私にはさっぱりですが」
縁側に座る霊夢は、何か不気味なものを感じ取っていた。対する映姫も口ではそう言ったものの、やはりソレを感じ取っていた。どうやらさっきから自重して酒を飲むことを止め、ぽりぽりと燻った豆を食べるだけにしておいて正解だったようだ。おかげで集中力を失わずに、感覚を研ぎ澄ませる。
「これは……まさか、『幻想の境』八雲紫ですか?」
研ぎ澄ませた神経に捕らえられた力の波長。それは長年幻想郷を見守ってきた映姫にしてみても、まったく『異質』なものだった。なんというか、底が知れない。どこまでも深く深く掘られた渓谷よりも一層深く、だが、どこまでも高く高く聳える山岳よりも遥かに高い。狭いとも広いとも一概には表せず、表現する言葉は一言『幻想』。
「そ。……萃香もそっちに向かって、る……あれ?」
突然萃香の力が、紫から逃げるように動き出した。紫もそれを追うように動き始める。
「どうなってるんです? これは穏やかじゃありません」
「私だって判んないわよ。ま、紫のことだし、悪いようには―」
損失した。
突然『萃香』を感じられなくなったのだ。前言撤回、これは非常にまずい。まず過ぎる。霊夢と映姫は顔を見合わせ、まさか、とアイコンタクトをするも、もう一度感覚を研ぎ澄ませる。やはりもう感じられない。しかも、紫すら感じられないのだ。
考えられることは一つ。
霊夢はすくっと意を決したように立ち上がった。
「どこに行くのです?」
「決まってんでしょ。萃香を助けに」
「あの神出鬼没を相手にですか? 無茶です、彼女の居場所は彼女の従僕以外誰も知りませんよ!?」
確かに。映姫の言うことにも一理ある。けれど、博麗にはそれなりの、幻想郷を網羅することさえ可能な力があるのだ。
「何とかなるわよ。明日の風は明日吹くって言うように、ね」
霊夢の自信満々な物言いに映姫は些か面食らったようだが、
「……良いでしょう。私も行きます」
宴会も終わりが近い。まだまだ盛り上がる要素など幾らでもあるが、そんな気分になれやしない。まったく、迷惑ばかりかける奴らだ。そんな事を思いながら、霊夢は映姫と飛び立った。
◆
目が覚めるとそこは、不可思議な空間だった。何処までも果てしなく広がっているようで、底が知れない。拘束具がついている訳でもなく、体に異常があるとも感じられない。一体何がしたかったんだ、あのスキマ妖怪め。
「そんなの決まってるじゃない。『貴方が気に入らなくなった』、ただそれだけよ」
「……!」
そんな理不尽な理由が有るか。それはともかく、今は反論などをしている場合ではないのだ。明解に例えるならば、ここは彼女の『巣』である。蜘蛛がそうであるように、自分の巣で敵に負けることなどありえない。もっとも力を発揮できる条件の上で、どうして負けなどという言葉が浮かぶだろうか。
「足掻きなさい。せっかくのお酒があるのだもの、滑稽じゃなければつまらないわ。くすくす……」
辺りに目をやる。ありとあらゆる結界の外側に存在したと思しき、今ではただの漂流物に成り果てたモノが見えた。その背景は歪んでいるのか判らない、奇妙な模様の空間。時々激しく波打ち、新たな漂流物を吐き出している。その中にしゃれこうべを見つけてしまい、萃香は思わず目を背けた。
「ああ、それ」
なんでもないただの物質だとでも言いたげに、紫はしゃれこうべを近くに引き寄せ、扇子でこつんとそれをつついた。その音がこの空間に、空虚に響く。
「いつ迷い込んだのかしらね。きっと相当前よ、だって原形を留めてないもの」
「……なんで」
それは、遅すぎる知覚だった。今まで味わったことのない感情だったかもしれない。もともと鬼は、それを抱かせる者だったが故に、それ自体無縁の長物だったのである。だが、しかし。一度理解してしまえば、それは萃香に確信と絶望をもたらした。
「なんでよ紫! 私が何か悪いことをした!? 何で私が、『神隠し』に逢わなくちゃいけないのよぉッ!!」
「何で?」
背筋が泡立つ。
今まで感じたことのない『恐怖』が、萃香を侵食していった。紫の淡々とした口調、見たことも無い空間、決して心地良くなんか無い浮遊感、とどめとばかりにシャレコウベ。どれをとっても恐怖を駆り立てる要因にしかならず、平静を欠いた萃香が取った行動は、
「ぅ、わああああああッ!」
あろうことか、高圧の火の玉を紫に向かって投げつけること。無論そんなものが紫にあたる筈も無く、紫電一閃、紫は一瞬で萃香の背後に回りこむ。首筋に吐息がかかるほどの距離。世界が色を失っていくのを萃香は感じた。
「貴女を幻想郷に引き入れたのは、妖怪をものともしなくなった人間どもへの戒めのつもりだったのだけど……。今の貴女は、まるでダメ。買い被り過ぎたのかしらね、くすくす。……それどころか、まさか人間と寝食を共にするとは、思ってもみなかったわ」
(やめろ、それ以上は……ッ!)
歯がガチガチと、噛み合わない音を立てている。耐え切れず顔を背けたが、「あらだめじゃない」と紫に顎を掴まれ、無理やり正面を向かせられた。気味の悪い笑みが嫌がおうにも目に入る。
「くすくす……。人間と仲良くしたって、しょうがないと判っているのは貴女自身でしょう。ありとあらゆる問題、それこそ山の如く。それをどう打破するつもりだったのかしらね? ……所詮人間と妖怪は相容れぬ存在、貴女がどんなに望もうと、…………」
(嫌だッ、聞きたく、な…………)
にやりと笑う紫の口元は、愉悦で歪んでいる。
ようやく、悟った。
紫は、このためだけに私を神隠ししたのだと。私の望みを散らせるために、何から何まで仕組んでいたのだということを。その先の言葉は、もはや聞くまでも無い。すでに理解してしまったのだから。だから、聞こえてきた凛々しい声も、特には響かなかった。
「いい加減にしなさいよ」
「あら?」
絶対不可侵のスキマに、あろうことか博麗の巫女は存在した。紫は首をかしげ、萃香をぽいと手放す。それでも紫に焦りの色は伺えない。
「どうしてかしらね? どうして貴女が、此処にいるのかしら?」
「単純明快なことよ」
霊夢はいつもと変わらぬ口調で答える。悠然とした霊夢の振る舞いは、各所から荘厳さが滲み出ていた。陰陽玉が、霊夢の掌の上で回転を始る。
「博麗の力は『空を飛ぶ程度』。人はその程度かと笑うわ。……でもね。空を飛べるって事は、あらゆる障害、全てが意味を成さないって事。私にとって、世界は平坦な一枚の紙。何処にでも行ける私に、不可侵は通用しないわ」
陰陽玉が、膨張し始めた。途端いくつかに分裂、霊夢の周りを高速で回転し始める。『博麗大結界』、その布陣だった。紫も辺りの空間とは質の違うスキマを展開、『弾幕結界』の布陣を敷き始める。
「くすくす……。所詮人間程度の結界が、この私に敵うと思う?」
紫が嘲笑う。勝ちを確信した勝者の笑み、とでもいうのだろうか。
「ええ」
霊夢は余りにも呆気なく、その笑みを看破した。陰陽玉は、相変わらず高速回転をしている。その回転が緩やかになり、霊夢を取り囲むように四方へ広がっていった。ここで、ようやく紫は違和感に気付いた。博麗大結界は、多少の捻りはあれどあくまで『内から外へ』の弾幕の筈である。だが、これは『外から内へ』に成らざるを得ない。
(そんな『博麗』の弾幕、あったかしら?)
未知の弾幕の脅威を警戒し、弾幕結界を防御に回そうと自身の近くへ手繰り寄せる。無論、弾幕結界の布陣は消えていった。そして、ここが紫の失念である。霊夢は一度も「これが弾幕だ」などと言ってはいない。
霊夢の罠に、紫は見事に引っかかった。
突然霊夢は単身で正面へ突っ込む。勿論、弾幕による保身は無い。この無謀とも取れる霊夢の行動に、紫はまだ防御の陣を攻撃へ転換しなかった。少々訝しがり過ぎたのだろう、博麗がこのような無謀を冒す筈は無いと。何か罠があるのだろう、と。霊夢の狙いは『紫の撃破』ではなく、『萃香の奪還』それだけだった。初めからそれだけを念頭においていた霊夢は、紫の鼻先で掠めるように急降下、萃香を引っ掴み、驚き顔の紫を尻目に、
「夢・想・封・印!」
叫んだ。それに呼応し、陰陽玉が爆発。想像が容易い爆発ではなく、空間を一直線に走る光、という例えが最も正しいだろう。それが陰陽玉の均等な距離間を奔り、綺麗な正方形を描いた瞬間、まさしく空間が切り取られた。その向こうには夜の閑静な雑木林。ここまで来れば嫌がおうにも紫は、霊夢の罠に引っかかったと認めざるを得なかった。慌ててその空間を閉じようとするが、
「じゃ~ね紫ッ! 今回は私の勝ちよ~~!」
遅すぎた。霊夢はそこから雑木林に飛び出し、彼方の空へと飛んでいく。萃香も一緒に。完全にその空間が閉じたのは、霊夢が飛び出してから一呼吸置いてからだった。
「あらあら……」
なんだか、どうしようもない脱力感が体にずしりと重く圧し掛かる。
大きな欠伸。
そういえば、今日はこの時のために早起きをして準備をしたんだっけ。慣れない事はするもんじゃない、どうやら腹の虫も鳴り始めた。追いかけることも出来たかもしれない。いや、紫の力を持ってすればこの上なく簡単なことだったろう。だが、紫はそうしなかった。
ただ大きく二度目の欠伸をして、迷い家への帰路となるスキマを開く。
◆
「う~ん……。振り切れた、のかな?」
草むらからひょこっと首を出し、辺りを窺う。やはり何も見えない。
「映姫、どうよそっちは」
「いえ、何も見えませんが」
ふぅ、と霊夢は安堵の息を吐き出した。安心するのはまだ早いかもしれないが、紫ならばスキマ経由で瞬時にあらゆる所へ現れられる筈である。それが、これだけ間をおいても現れないのだ。振り切ったか諦めたと思ってしまっても、問題はないだろう。
「はぁ~~、助かったぁ~~……」
脱力。霊夢はペタリと近くの木に寄りかかる。
「まったく、実に無謀極まりない! よくあんな作戦を思いついたものです、下手をすれば大怪我じゃ済みませんでしたよ!?」
「あ~~、説教は後、後。一先ずは博麗神社に戻ろ…………あれ?」
ふと辺りを見渡すと、萃香の姿が見当たらない。まさか、気付かないうちに紫が? 慌ててバッと立ち上がった霊夢を諌めるように、映姫は霊夢の肩を掴んで無理やり座らせる。
「あの子なら大丈夫です。先程何処かへ走っていきましたよ。……目に涙を溜めて、ね」
「ッ! ならなおさら早く見つけて―」
「落ち着いてください。私にも考えがあるのです。……それに、あの子の裁判もまだでしたしね。とにかく、私に任せてください」
映姫は空を仰ぐ。
美しく瞬く星々、輝く月。
もはや危険は去ったのだと、あの子も気付いていればよいが。
◆
萃香は走る。
そんな必要は無いのに、何か運動をしていないと目に溜まった涙が零れてしまうと思ったから、どうしても止まれない。それでも涙が零れそうになる。幾ら拭っても次から次へと溢れてくるそれが煩わしく、自分が涙腺を有していることを呪った。
涙を乱暴に拭い、何処までも走ってやろうと意気込んだ所で――転んだ。
ドサッと地面に倒れこむ。
「~~~~ッ!」
地面を拳で殴りつけた。見た目は少女でも、彼女の力は大の大人を軽く凌駕する。地面がボコンと音を立てて凹んだ。何回も殴り続けるたびに、地面が硬くなるのを感じる。それと比例するように拳の痛みも増してきた。萃香はふと、目の前に緑色の茎があることに気付く。どんどん上へ目で追っていくと、それは何処にでもあるような彼岸花だった。
それに気付いた途端、草原だった筈の辺り一面にぶわっと彼岸花が咲き乱れた。赤い花が月の光に照らされ、筆舌に尽くしがたい美しい色へと変貌している。どっちかと言うと、紫に近い色。その色から連想されてしまった幻想の妖怪、そいつが言い放った言葉が萃香に突き刺さる。
遠くに、川が見えた。
かと思ったら、その川は自分のすぐそこ、手を伸ばせば水に浸かる程度の所にある。川の向こう岸は見えない。靄というか霧というか、そういうものが視界を遮っている。萃香は体を起こし、川の岸に腰掛けた。足が水に浸かる。ひんやりとしていて、心地良かった。
(人間どもへの戒め、か)
妖怪と人間は、相容れぬ存在なのだろうか。
私がしようとしたように、人間と……一生を添い遂げることなど、不可能なんだろうか。
(人間と仲良くしたって、しょうがない?)
そんな事は判っていた。
ただ、霊夢は、そんな私に優しく接してくれたから。
『人間と』じゃない。
『霊夢と』なんだ。
もう、何事にも変えられなくなってしまった。それ自体が生きる意味のようなものになって。それを紫に壊されて。これから先、どうしろというのだ。
……人間になりたい、と思った。
体を少しだけ霧散させ、すぐにまた元に戻す。
こんな力なんていらない。
ふと、こんな言葉が浮かんだ。
輪廻。
そう、この世は所詮六道輪廻。一度死ねば魂は何処かの『道』へと転生する。つまり、妖怪だった魂が人間に転生する事だって、ありえるのではないか。もしかしたら、私も人間に。目の前には川。その幅も、深さも、判らない。けれど……充分すぎるとは、思わないか。確かに、転生を果たしても再び霊夢と逢える可能性は低いに違いない。ゼロに近いかもしれない。それでも。いまの萃香にとっては、このまま妖怪しているよりも、遥かに希望のある話だった。
トプンと水に入ってみる。やはり岸際の水深は浅いようで、萃香の腰程度までしか水嵩は無い。だけど、向こう岸が(靄で)見えない程の幅なのだ。真ん中へ近づけば近づく程―――。
萃香は水を掻き分けるように歩き始めた。
途中で立ち止まる。
川岸を振り返った。
まだ、未練があるのか。そう自問して、ばっさりとその答えを断ち切った。再び川向こうへ歩き始めて、何かこの世に言い残しておく言葉を考え、それでも何も浮かばずに、
「自殺はいけません」
そんな声が反響した。それを無視して更に進もうとしたが、金縛りにあったように体が動かない。それどころか、体が勝手に岸へ向かって動いている。
「己の可能性を絶つなど、言語道断。そのような愚かしいことは、愚かな人間だけがすれば良いのです。アナタのような者がするような行為は、ありませんよ」
岸には、緑髪の女性が立っていた。彼女から滲み出す荘厳な雰囲気、それに違わぬ物言い。まるで、どこかでいつもそうしているから慣れているような。
「何故自殺など……服がびしょびしょじゃないですか、早く博麗神社へ戻りなさい」
「無理。……無理よ」
萃香は笑った。コイツがだれだろうと、そんな事は気にならない。と、言うか、どうでもいい。なんと表現すればよいのか。空虚、脱殻、骸、屍、空白。そんな感情全てが織り交じった、複雑な、悲しい笑みだった。
「始めっから無理な話だったの。ようやく気付いて、気力も失せて…………。これ以上妖怪の私に何が出来るって言うの? もう……シニタイ、よ」
女性はほぅ、と頷いた。そして、何を思ったか、岸辺に立っている萃香の胸を押す。予想通り、驚く暇も無く重力に抗うことも出来ず、萃香は水の中へドボン。
「なッ、なにをする……!」
水から即座に上がり、飲んでしまった水を吐き出しながら、萃香は叫んだ。その様子を、女性は何かする訳でもなく見つめている。
「ほらね。アナタはまだ生きようと足掻く」
「……ぁ」
言われてみれば、と気がついた。無意識の内に、私は死を避けたのか。コイツのみならず、自分にまで阻まれるとは。もう、この世に、信頼できる奴は―
「それは、アナタがまだ生きたいと願っているからです。それが何故あんな行為に走ったのか。それを知る由は私にはありません。ただ、アナタは少し悲観的過ぎる。一度や二度のちょっとした、正反対の意見にぶつかっただけで挫折など」
ハッと、鼻で笑ってやった。
「そうじゃない。……私は、この道に生まれた自分を呪う。この道に生まれさせた、世界を怨む。何度でも死んでやる、人間に生まれ変われると信じてッ!」
「馬鹿者がッ!!!!」
女性のとてつもなく大きな声に、思わず萃香は畏縮する。
「『元々地上には道は無い。歩く人が多くなればそれが道になるのだ』。ある高名な文豪の言葉です。正しくその通り、この世に道などありません。その道を切り開くのは、アナタ自身なのですよ?」
「…………」
何も言い返せなかった。
「死ぬということはアナタの場合、『伊吹萃香の道が途切れる』ということです。それがどうして、転生した先で同じ道を作れるでしょうか。はっきり言いましょう、転生して再び生前逢ったことのある人物に逢える可能性は、皆無です」
さぁッと風が吹き抜けた。一呼吸を置き、女性は再び口を開く。
「今、アナタが存在するという時間をもっと大切にすること。これがアナタに出来る善行です。更に言うならば、……霊夢も大事にしてあげなさいね」
何かが変わった。
萃香の中で、何かが。
目には見えないけれど、とてつもなく大きな何かが。
「……ほら、霊夢もアナタを探していますよ」
白み始めた空を、霊夢がこちらへ向かって飛んできていた。いつもと変わらぬ、『楽園の不思議な巫女』。その姿がとっても懐かしく感じられ、
「ほら、萃香。帰るわよ」
差し出された手を、握った。
温かかった。
「……寝ちゃった」
「相当の疲れが出たのでしょう。なにせこんなところまで飛ばないで走ったのですから。ゆっくりと休ませてあげなさいな」
はいはい、と霊夢は萃香を背負う。飛び立とうとして、ふと気付いたように、
「そういえば、アンタ萃香になんて言ったの? ……この子に出来そうな善行なんて、酒を控えること位じゃない」
「それは秘密です。閻魔の裁きは私と当事者以外、絶対に秘密厳守なのですよ」
ふ~ん、と霊夢は頷いた。
「まぁ、いいわ。今回はお礼を言っとく。本当にありがと」
「……当然のことを、したまでですから」
映姫はかわりといってはなんですけど、と言葉を結ぶ。
「小町を起こして、こちらへ向かわせてください。いい加減仕事のサボリ癖を直してあげなくちゃですから」
おやすいごようよ、と霊夢は言い、飛び立った。宴会はとうに終わったのだろうか、それともまだ続いているのだろうか。真の意味で、宴会は終わったといえよう。なんてったって、あの酔いどれ鬼っ娘が、こんなに幸せそうな寝顔をしているのだから。
終わり
しかし怖い紫さんも珍しい気がします。
やはりその気になった幻想郷最強のスキマは怖いですね。
楽しませていただきました。
分不相応ですが、誤字の指摘をお一つ。
ヤマd…映姫の「己の可能性を『立つ』など~」は「己の可能性を『絶つ』~」
だと思いますが如何でしょうか。
なんだかんだ言って紫は、幻想郷誕生以前から生きる、世を外れた力を持つ大妖怪。
こんなイメージ、あっても良いと思います。
そして萃香を楽しい宴会の後に捕らえた事。それが紫の優しい一面だと勝手に妄想してみたり。(汗)
あと…映季、格好いいっす。
このような恐ろしい一面も持っていて当然かも知れませんね。
妖怪は人間から畏怖される事が存在意義ですから。
それに比べたら人間よりの『鬼』は可愛いものです。
私はそっちの方が好きですけどね。
>加勢旅人様
あの34さんの怖さは異常!でした。怖い紫さんっていうのが、実は私の紫様に対する第一印象だったもので(汗
>元素番号50様
ほわぁあああ!?すみません何回も読み直した筈なんですけど気付けませんでしたッ……。仰る通りでございます、ご指摘ありがとうございました。
>れふぃ軍曹様
幼女キャラとして弄られ続ける閻魔様ですが、あくまで私のイメージは『クールビューティー』でしたので、クールになってもらいました(笑。
>夢銘様
実は、そのシーンがこの物語の中で一番初めに書いた部分だったりします。私は『見せ場執筆』→『ストーリーを考える』→『全体的に執筆』という手法をとっていますので。
>名無し毛玉様
こういう鬼でしたら大歓迎ですよね(笑。『げに恐ろしきは、人心に住まう鬼かな』と、公明な方も仰っていますし。それに妖怪という存在は、きっと『古き良き日本の伝統』なのだと思います。