Coolier - 新生・東方創想話

永遠亭始めました vol.フォウ

2006/01/01 08:59:59
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 どさがらぐしゃごとん。

 ――がら。

「――あ?」
 玄関口にて。
「どうも」
 振り向くと、射命丸文が立っていた。
 冷たい床に広がっていく水溜りに、天井と、さかしまに映る自分と天狗の姿が見えた。
 転がり落ちた木箱と、散らばった工具は、いずれも水に濡れていて、いずれも染みを広げている。
 それは、数秒かそこらの空白だった。
 腰を屈める。
「……なんだ?」
 木箱に手を伸べながら、慧音は再び問いかけた。
「取材ですよ。取材。ほら」
 その視線の先で今しがた、戸の間からまろび出てきた鴉天狗はへらりと笑って、片手に酒瓶を持ち上げた。
 薄明りの下、黒髪が濡羽色に照っていた。
「雨見酒」
 記憶違いか。
「今なんと言った……取材だろ?」
「ああ、いけません。間違えました」
 少し呆れる。
「酔ってるのか?」
「いえいえ。天狗は並大抵では酔いません」
 嘘か方便か言い訳か、雨はまだ降り続いている。追い返す理由も、余裕も、口に出すには少し足りない。
「まあ――とりあえず上がれ」
「ああ、どうも」
 では、お邪魔します。
 指先はかじかみが酷かった。握り返しの弱い手を強引に伸ばして、工具を木箱へ、木箱は小脇へ、抱えなおして、思い出したように靴を脱いだ。その後に、下駄靴を指先にぶら下げた文が続く。ともに手酷く濡れていた。
「どうしたんです? その格好」
「ああ……別に、屋根が腐っていてな」
「修繕ですか?」
「そんなところだ。風邪を引かなければいいんだが――」
「ですねえ――ああ、これです。こちらです」
 長く短い廊下を行く途中、文はどこからか手帳を取り出すと、折り目付きの頁を示してみせた。文字の羅列で埋まったそれは、談話かなにかの写しのようだった。
「記者冥利に尽きるというものです。貴重な言葉を頂けました。それも(自称)人間のお二人から」
「……永遠亭に行っていたのか?」
「ええ。ついさっきまで、火の鳥の――藤原さんと一緒に」
「そうか」
 気になります? と、天狗の目が問いかけていた。
 口で返す。
「今から風呂を沸かす。先に入れてやるから、」
 荷物はその間、預かっておこう。
「わかりました」
 天狗は特に表情を示さなかった。
 戸を開ける。客間に入る。それと同時に、文が口を開いた。
「じゃあ薪は私がくべますよ」
 雨音は家の中まで埋めていく。
「この天気じゃあ、上手く風を送らないといけませんしね。私が居て、運が良かった」
「――そうだな」
 窓の向こうの空を見ている視線に、慧音は適当に同意して、荷物を受け取る。手帖とカメラ。「信用してますから」と天狗は笑った。慧音も笑う。お互い、含みのない笑みだった。
「じゃあ、水張っててくださいね」
 そう言って、天狗は再びもと来た道を返していった。
 慧音も、ささくれた畳の上に荷物を置くと風呂場まで一人で歩き、何故か木箱を抱えたまま、曇り硝子の戸に手をかけた。
「っ」
 どさがらぐしゃごとん。
 どしゃ。
――じわ。
「……、あー……」
 遠く、雨音が、前にも増して酷く聴こえた。
 指先がじんじんして、思わず目を向ける。右手の人差し指。ささくれの根元が突き出て、血の気が引いた。
 足元を攫うより先に、軋む指先を口元にやっていた。
 染みる。
「……結構痛いな」
 舌に染みたのは紛れもない血の味で、引き抜いたささくれは紛れもない血の色で、色は、勿論のこと真っ赤だった。
「まあ、」
――半分は人間だからな。
 そして戸を開く。
 血を旨いと感じたのは、これで三度目だと意識の端で考える。
 広がっていく味覚。塞がっていく痛覚。傷は程なくして消えて、己の血の、残り半分を思い知る。まあ、
「半分は妖怪だからな」
 外は、未だ夏の夜だった。



 *



 いつか見た月。
 そう、真実の月。
 かつての月。
 私の居た月。師匠の居た月。姫の居た月。
 全てが過去に流された月。
 ならばこの月。
 この月はいつの月だろうか。
 冬は白くて、
 秋は赤くて、
 夏は青くて、
 春は黒くて、
 ときに狂い、
 ときに光り、
 ときに輝く。
 なんだろう。
――そう。喩えるのなら、真実の月。
 ぐるぐる空を動き回る月。
 夜を刻む月。
 時を刻む月。
 漂っていく月。
 波に浮かぶ月。
 波を起こす月。
 波はやがて月から届く。
 それを私は

――元気? 鈴仙。

 月世界便り、と名づけよう。
 そう思った。
 そう思う。
 だって。
 この月は、きっと私の月だから。
 違う。
――私はレイセンだった。










永遠亭始めました vol.フォウ









『コラム:昼ごろ幻想郷 第9回』

【永遠を生きる旅館を訪ねる】

・今号のゲスト
――――――――――――――――――――――――――
蓬莱山輝夜さん
(ほうらいさん・かぐや)年齢不詳月生まれ。人間[自称]。
大罪を犯し地上に流刑とされたのち、幻想郷へ至る。
かの月の姫であり先だっての永夜異変の主犯でもあるが、
今では幻想郷の空気に染まった様子。永遠亭在住。

藤原妹紅さん
(ふじわらの・もこう)年齢不詳都生まれ。人間[自称]。
過去に禁薬「蓬莱の薬」を下し、以後千年の時を生きる。
蓬莱山輝夜とは、末永く仲良く喧嘩しなとは周囲の弁。
近年は里の半獣とも交流がある。竹林の深奥在住。
――――――――――――――――――――――――――
これまでとはまったく違った方面の対外政策を打ち出した
ウワサの永遠亭。そこで今回は、その永遠亭の主である
蓬莱山輝夜と、氏と浅はかならぬ因縁を持つ藤原妹紅に、
今回の件について意見を伺った。


『お金が欲しい』

―――まず、今回の計画の起こりについてなんですが。
輝夜 私はほとんど関与していないんだけどね。
妹紅 それでも大将なんだ。
輝夜 あら、大将は永琳(従者)よ。女将だけど。
妹紅 じゃあお山の大将ね。
輝夜 それはいいわね。で、何の話だっけ?
―――計画の起こりですよ。
輝夜 そうそう。
妹紅 私が慧音(半獣)から聞いた話だと、なんでも金欠
    だから、って。
輝夜 その辺りも知らないわね。そうなのかしら。
妹紅 どうなのよ。
輝夜 食事が安くなったとか、そういうのは感じないけど。
妹紅 舌が枯れてるんじゃないの?
輝夜 失礼ね。これでも貴族の身よ?
妹紅 失礼な。身だけなら私だってそうだ。
輝夜 いずれにしろ、永琳が取り計らってくれているんで
    しょうけどねえ。私が知るところじゃないわ。
妹紅 使えないわねー。
輝夜 ちょっと使い辛いくらいがちょうどいいのよ。主と
    いうものはね。
妹紅 使い、というより扱いね。煮ても焼いても食えない。
輝夜 焼いて美味しいのは人肉以外よ。
妹紅 含みのある言い方。因幡は?
輝夜 美味しいわよ。
妹紅 あ、そう。で、つまりはお金が欲しいから、と。
輝夜 そうなるのかしらね。さ、次の話題は何?
―――はあ。


『細工は流々?』

―――で、現在どのあたりまで計画は進行中なんですか?
輝夜 前、いろいろあって。現在永遠亭自体が建て直しの
    最中なんだけど。
妹紅 あんたはやはり何もやってない、と。
輝夜 つっかかるわねぇ。
妹紅 私はこの場ではこれくらいしかすることがないし。
輝夜 あ、そういえば永遠亭、なんで壊れたのかしら。
妹紅 知らなかったのか。
輝夜 考えもしなかったわ。
妹紅 偉大で尊大な脳無しね。
輝夜 脳は有るわよ。意味は無いかもしれないけど。
―――そういえば、これは余談になりますけど。
輝夜 ええ。
妹紅 なに?
―――そちらの言う時刻頃に、幻想郷の空を謎の飛行物体
    が通過していったとの報告が寄せられていますが。
妹紅 それ、ビンゴじゃない?
―――いえ、ダーツじゃないでしょうか。
妹紅 なんでよ。
―――報告件数は二つ。いずれも夜の話ですから仔細は伺
    えませんでしたが、一つは丸い板切れだったそう
    ですよ。テーブルでなければダーツ板でしょう。
輝夜 フリスビーかもね。
妹紅 そんな玩具で全壊したのか、あんたの家は。
輝夜 半壊よ。重要なものは、永琳がだいたい地下に仕舞
    っていたようだし、被害総額は数えたらそれほど
    でもなかったそうよ。
妹紅 でも屋根と布団が無いんじゃねえ。
輝夜 そうねぇ。物的価値とこういう価値はまた別物ね。
妹紅 衣食住くらい自分で賄えないとねえ。
輝夜 あら、心配?
妹紅 ああ、野ざらしの姫の屍を食べちゃう動物様がね。
輝夜 そのときはペットにするわ。――ああ、もう因幡が
    いたんだっけ。じゃあ困るわね。
妹紅 どうでもいいよ。
輝夜 自分で話振っといて~。
妹紅 で、実際、後どのくらいで建つんだ? 新宅。
輝夜 それは永琳に訊いてみないと……。
―――あ、窓から紙が。
輝夜 あら、間合いが良いわね。どれ。――ふうん、はい。
―――どうも。……『後は仕掛けをご覧じろ』、ですか。
輝夜 答えになってないわね。
妹紅 手前の文を汲んで欲しいんじゃないの?
輝夜 具体的な日取りは決まってない。多分それが答えよ。
―――なるほど。難解ですね。
輝夜 物事を難解にするのは、それを考えるものの意識そ
    のものよ。深く掘り下げようとせずに、浅く掃く
    ように思考することね。
妹紅 つまり、馬鹿になれってこと?
輝夜 それは馬鹿の思考ね。浅くどころか宙を掻いてるわ。
                              

『展望は絶望、それとも希望?』

―――最後になりますが、今後の展望について、お聞かせ
    願いますか?
輝夜 だから、その辺りは永琳の仕事なのにー。
妹紅 ねえ。人選間違えてない?
―――それを言われると。
輝夜 むっ。聞き捨てならないわね。私を選んだのは正解
    だと思うけど? 消去法的に。
妹紅 お前は残り物か。
輝夜 残り物の素晴らしさを謳う言葉は数知れずあるのよ。
妹紅 福がある、とか?
―――最後まで残ったものこそ、次代に語り継がれていく
    ものですよね。格言、至言、全て。
輝夜 そうそう。
妹紅 でもそこら辺、あんたには適用されないでしょ。
輝夜 あれ?
妹紅 あんたは最後に残るんじゃなくて、振っても払って
    も、単に剥がれないだけだ。
輝夜 カレーの染みみたいなもの?
―――あれは落ちませんねー。
妹紅 確かにー。
輝夜 というか、論点がずれてるわよ。
妹紅 あー?
輝夜 まず永琳が駄目な理由。会話にならないわよ。特に、
    あなたがやってる、真実を汲み取ろうという作業
    の対象としては最悪ね。
―――別に構わないんですけどねー。汲み取れる真実は、
    汲み取る人の数だけありますし。ただ、最初から
    汲み取れない話もあるかもしれませんけど。
輝夜 そうね。で、次に鈴仙(月兎)。あれは単にものを
    知らない。おとぼけね。
―――それは致命的ですね。
妹紅 知ってることなら一番上手く話せそうでもあるけど。
輝夜 でも知らない。いや、知ろうとしてないんじゃない
    かしら。自分の及ぼせる範囲が視えてるのよ。
妹紅 で、後はあの、歩く賽銭箱?
―――てゐ(因幡)さんのことですか?
輝夜 うちの因幡に賽銭箱なんていたかしら。
妹紅 箱型の兎がいるか。あの小さいののこと。
―――そういえば私も入れましたよ。お賽銭。
輝夜 うーん、思い出せないわねー。まあ、消去法的思考
    はもう終わりよ。後は私しかいないというわけ。
妹紅 ふうん。で、肝心の展望は?
―――そうやって話を戻してくれるのが頼もしい。
妹紅 いやいや。
輝夜 ……そうねえ。続けるかどうかも定かじゃないし。
    極端な話、オープン間近になって、私が気が変わ
    れば取り止めるかも。
妹紅 極端と言うか、単に我侭なだけだろうそれは。
輝夜 主は傍若無人たれ。と私は言うわね。
妹紅 他の主に説いてもらえ。色々と。
輝夜 美食と快眠には興味あるかも。うち、娯楽がほんと
    少ないし。退屈なのよね。
妹紅 じゃあやればいいじゃない。最後まで。
輝夜 そうね。それまではやるわ。お山の大将をね。
妹紅 お、いい感じに纏まった?
―――んー、どうしましょう。何か一言ありますか?
妹紅 そうねえ……。
輝夜 気になる人の名前でも言ってみたら?
妹紅 ベタだなそりゃ。まあいいけど。
輝夜 じゃあ私もそれで。
―――(わくわく)
妹紅 私は輝夜が大嫌い。
輝夜 私は妹紅が大好きよ。
―――なんと!
妹紅 あはははは。
輝夜 うふふふふ。
―――うーん。では、いろいろ中てられないうちに
    最後の質問にいくとしましょう。
妹紅 いいよー。
輝夜 どうぞ?
―――お二人の関係は?
二人 (馬の骨)(親の仇)よ。
輝夜 建前だけはね。
妹紅 私は本音なんだがな。一応。
―――ありがとうございました。



 *



「――、よっ」
 閉じた手帳を部屋の隅、カメラその他の山に向け、放った。卓に伏せるのも面倒臭く、結局その場に寝転がる。
 雨漏りは少し前に収まった。天井の染みは残るだろうけど、気にしないことにする。これも歴史と、半ば妥協するように認める。
「上がりましたよー」
 頭越しの声。起き上がって見ると、文が戸を開いたところだった。
「遅かったな。待ってたのか?」
 読み終わるのを。と目で問いかけた。
「いえ、」文は手を広げて、「服を乾かすのに時間がかかって「湯気が立ってない」と遮られて目を瞬かせる。
「へ」
「それに、」
 指し示す。文の頬。肌色だった。
「火照りも止んでるしな」
「……」
「天狗は水に濡れないんだったか?」
 数秒して、
「ああ。それもそうですね」
 文は得心顔を浮かべると、おもむろに卓の前に膝を折った。
「しかし、ばれてましたか」
「いや。姿は窺えなかったんだが」
 指先で脇に置いたヤカンと湯飲みを示したが、文は手を広げて、儀礼的な笑みとともにそれを辞退した。
「まあ、なんだ。天狗は覗き見が好きだろうと思ってね」
「ふむ。ずいぶんな言い様ですが、偏見とも言い切れないので黙りますね。ここは」
「そうしろ」
 息を吐く。天井の明かりだけが白く、屋内は全体的に灰色の色調補正がかかっていた。日はもう沈んでいる。窓の外は墨色で何も見えない。遠くの里はもう闇に沈んだ頃だろう。
「さて、と」
 もう一度息を吐いて、慧音は立ち上がる。腰に手を当て、んっと捻った。首を傾げる文に言う。
「お前は、夕飯はどうする?」
「お気遣いなく。少ししたら帰りますから」
「そうか。じゃあ餞別に米でも結ぼうか」
「それは縁起がいいですね」
「少し待ってろ」
 慧音はそう言って戸を潜り、廊下に半歩踏み出したところで、「ぐるるるる」と腹を鳴らせた。
 文は、目を丸くするでもなくその背を見つめている。慧音は「あー、」と唸り頭を一度だけ掻くと、三秒後、後ろ髪を揺らせて振り向いた。
「なあ」
「はい?」
 文が視線を向けた。
「原稿、勝手に読んだ――いや、読ませて貰ったわけだが」
「ああ」
 文は確認するように頷いた。
「あいつらは、字面通りに笑っていたか?」
 文は質問するように瞬きした。
 慧音は訊いた。
「お前は、あれをどう見る? いや、その場に居たなら見ただろう。お前の目にはどう映った?」
 文は、笑い顔とも泣き顔とも、思案顔とも何ともかけ離れた中庸な表情でそれを聴いていた。
 そして答えた。
「ええ」
 慧音は、笑い顔とも泣き顔とも思案顔とも、何ともかけ離れた中庸な表情でそれを聴いていた。
 そして尋ねた。
「本当に?」
「ええ」
 文はさらりと、けれども強く断定した。強い笑みを浮かべて、
「文々。新聞は真実を、どんなに縦に伸ばしたとしても、横に曲げたりはしませんよ。決して」
 ですから、本当なのです。
 口ほどに目で、目ほどに口で、射命丸文はそう言った。
「そうか」
 慧音は頷き、今度こそ廊下へ消えた。「まったく、」と声が遠く響く。
――どうして連中は、笑うことばかり得意なんだろうなあ。
 遠ざかるつぶやきと足音とを聞きながら、文は「ふう」と息を吹き、手帖のページをひとつ破いた。
「好きだからじゃないんですかね」


 慧音が戻ると、座布団は既に冷たくなっていた。見れば荷物も消えている。ただ、置き土産とばかりに肩肘張った四文字が、卓上の紙片に乗っかっていた。
『一ヶ月後』とある。それをなんとなく見つめる。瞳を二度、瞼で濡らす。二度の瞬き。
「……ふむ」
 ムスビを包んだ籠を下げたまま、慧音は独りごちた。籠を開き、ムスビを掴み、一個丸ごと頬張って。
 噛み、噛み、潰す。
 一息吸って。
 飲み、飲み、下す。
「……んむ」
――結びは梅干しに限る。
 世界は強い。
 紛れもない強がりを抱いて、睨みつけた窓枠の中で、夏の夜は広がっている。
 雨は止んでいた。
「帰ったかな」
 雨が止んだから、天狗は空へ飛んで帰った。そういうことか。そういうことなのだろうか。
 うん。そういうことだ。そう思うことにして、開き直った慧音は二つ目に手をつけることにした。
 蟻地獄じみた空きっ腹が、転がり落ちた喜びに再び鳴いた。
 やはりというかなんというか、文は帰ってこなかった。
「……寝よう」



 *



「起きなさいって」
――使えないわねー。
 と、点のような波長。藤原妹紅。
「……?」
――ちょっと使い辛いくらいがちょうどいいのよ。主というものはね。
 と、線のような波長。姫。
「ちょっと、ほら魔理沙、右腕。運ぶわよ」「むにゃむにゃ私はまだ食い足りないぜ」「寝言は寝て言う」
――使い、というより扱いね。煮ても焼いても食えない。
 と、点が打たれた。
「……あれ、」「あ」「お」
――焼いて美味しいのは人肉以外よ。
 と、線が引かれた。
「驚いたわよ。一応。急に倒れるんだもの――ちょっと、手抜かない。こっちばっかり重いわよ」
――含みのある言い方。因幡は?
 と、点が叩いて、
「寝不足じゃないのか? 謝罪とかはしないぜ。こっちは有志なんだから」
――美味しいわよ。
 と、線が延びる。
「……なんか不吉な波が聴こえる」
――あ、そう。で、つまりはお金が欲しいから、と。
 と、点が寄せて、
「因幡A、閉めちゃって」
――そうなるのかしらね。さ、次の話題は何?
 と、線が返して、
「てゐ」「てゐくらい覚えろよアリス」「あなたも今知った顔じゃない」
―――はあ。
 と、感じ覚えの有る波が立ち、
「バレたか」

 ぱたし。

 途端、凪になった。
 薄目を開いた中に映るのは金と青。
「目、」
 大写しの金色と青二つ、と薄い肌色に白と青。
 部屋の隅が映った視界一杯の湾曲した世界に、アリス・マーガトロイドの、屈み込んだ顔と鼻先が大写しになった。
「醒めた?」
 大写しのアリスの目が波を送る。私を見ている人形遣いの青い目が私の確か赤い、目と合う。
「――、」
 あ。
 唐突に『ピント』が合わさった。そして『反対』に、耳の感覚が遠くなる。
「何よ。『あ』って」
 間近で聴こえたアリスの声が、耳の根元に突き刺さる。頭がぐわんぐわん揺れる。
「ん……なんでもない――、多分」
「はっきりしない」
「目は醒めたわよ。ごめん。ちょっと」
 どいて。と目の前の胸を手で押した。
「――あ?」
 押されたアリスは一瞬胸元と手とに視線を巡らせる。巡る瞳がまた合った。
「……ふうん」
 アリスは次の一瞬でため息とともに傍らに腰を下ろした。視界の外で魔理沙のはち切れそうな声が。視界の隅で、アリスは疲れきったような声で。
「なあアリス。ライフセーブ行為は失敗か?」
「そんな資格持ってないわ」
「惜しいな、あとちょっとで綺麗な花が咲くところだったんだが。知ってるか。鱗茎はいい薬になるらしいぞ」
「欲しければ明日にでも用意するわよ」
「まだそこまで枯れちゃいないぜ」
「素直に貰っときなさいよ。人間はすぐ枯れるから」
「言ったな。次の酒盛りは逃げるなよ」
「誰が」
 部屋が暗いのが灯りがないせいだと気付く。私はむくり、と上半身を持ち上げて、てゐに「灯りをお願い」とだけ告げた。耳を揺らせたてゐは、眠たいのか大儀そうな顔で特に茶化すことなく、けれども頷くこともなく立ち上がり、別の襖から縁側、廊下に消えた。「ふあぁ」と廊下で木霊が起きる。やはり眠かったのだと納得した。
 そして私は改めて、二人に正面切って、首を折った。傾けた脳が寄せるように圧迫されて、酷く苦しい。
「……ごめん。なんかよく解らないけど、ごめん」
「くすぐったいな。今すぐ止めることを推奨するぜ」
「そうよ。こんなのに下げる頭があったら、どこぞの神社に参った方が幾分かましよ」
「指差すんじゃない。神無神社を見上げようとは、私の徳も低く見下げたものだな」
「一度死んでみなさいよ。徳の程が確認できるわよ」
「なんだ。三途か? お前と違って、私には全財産を投げ打ってくれる奴に当たりがあるからな。無問題だ」
「一切ね」
「あ?」
「一切よ。金輪際では詭弁は通じないのよ。匙投げ打たれても知らないから」
「そうか?」
「そうよ」
「そんなものか?」
「そんなものよ」
 アリスはそう、冷然と告ぐ。魔理沙は首を、少し傾ける。どちらも、私にすればどうとでもとれそうな仕草だった。
 魔理沙がぼやいた。
「……そんなことないさ」
 アリスはぎょっとし、身じろぎした。
 私も、遅れてぎょとし身じろぎした。
 きっと、全幻想郷がぎょっとした。身じろぎした。
 廊下向きの襖がごとっ、と揺れた。
 魔理沙の帽子が少し、俯く。唾と髪とで顔は見えない。
 アリスの唇が僅かに動く。私はただ黙したままで。
 黙したままでは、間がもたなくて。
「あのさ」
 ふたつ視線が向くのが解る。もう後には退けない。半ば投げ遣りに、口を開いた。
「さっき、夢を見た」
 顔を上げた魔理沙が、流し目を一度瞬かせて、また伏せた。
「……で?」
 と、アリス。
「いつかいた場所の夢。満月の夢」
「へえ」
 と、魔理沙。笑みを浮かべていた。普通の笑みだった。私は少し安心する自分に気付き、心の内で苦笑した。
「月に夢を見せられたのか。満月に?」
「いや、――いや。そうね。月からの、満月からの、方が正しいわ。きっと。受け取ったの。この耳が」
 頭の内側、上の方。少し力を込めると、頭上の空気が揺らめいた。横目に映る。薄い闇と、縁側の障子に染み付くシルエット。その天辺で、ふたつの影がそよいでいた。
「悲しかった?」
 アリスが訊いた。
「懐かしかったか?」
 魔理沙が訊いた。
「どっちも違う」
 私は首を振った。部屋の空気がまた揺れた。熱の篭った、少し居苦しい空間はただ夜の闇に囲まれている。思い出したように、首に貼り付いた髪がザラついた。
「正負どっちの揺れもなかった」
「揺れときたか」
「よく解らなかったのよ。他に表現しようがない」
「波長論で語らないでよ。月面兎はこれだから」
「ごめん」
「ただいまかえりー」
 廊下向きの襖が、がらっと開いた。
 風が流れて、色が浮かんで、影が染み出し、声がした。
「おかえりなさい」
「出迎えご苦労」
 てゐだった。間はどうにか無事保たれた、と見ていいのだろう。安堵する。
「はい。灯り」
 重みを感じさせない音がして、部屋の明暗がより濃くなった。目を向けた先の行灯は黒い空気の中、薄赤い影と黄色い光が混ざり合っていて、その向こうに赤と黒が浮かび上がっても気が付くのには軽く見積もって三秒かかった。浮かんだ影と目が合った。
「……どうしたの。あなた」
 二色の影は少し、ほんの少しだけ驚いて、次いで、肩をすくめたようだった。
「遠い目をしてるわね。凄く遠い目」
「え?」
 揺れた銀髪が、灯りを緩く照り返していた。
「……師匠?」
「いかにもね」
 八意永琳、その人。師匠だった。
「抜けてきたわ。向こう側には不要だからね、私の席は」
 師匠は気楽な調子でそう言うと、手にした小筆でもう片手の、和紙か何かに器用に毛先を走らせると、それを部屋の空気に放るようにして爪先で弾く。和紙はするりと襖を抜けて、隣の部屋に消えていった。おお。という声が襖を越えて、師匠がくく、と苦笑した。
「姫にも本当、困ったものよ」
 師匠は喩えようのない笑みを浮かべた。師匠以外の誰にも汲み取りようのない理由から湧き出た笑みのようだった。
「もっと真剣に答えてあげればいいのに。で、そっちの魔法使いさん方は?」
 帰る? という無言の問い。二人は口を揃えて別々に、思い思いを口にした。
「帰るぜ。土産貰ったらな」
「現物支給ね。ここお金無さそうだし。ヒャクゴウの調薬法が欲しいわ」
 魔理沙はアリスに向き直る。
「お前本気だったのか」
「木簡でいいんだけど」
「これはいかん、聞いてないとは乙女の危機だぜ。跡形もなく消し飛ばさねばならんようだ」
「なるほど」
 頷くと、師匠は極めて自然な動作で後手に襖を開け放つ。
「姫が送ってくれるそうよ」
「私が送ってあげるそうね」
 こちらに向いた姫がいた。師匠が言った。
「そうなのですよ」
「そうなのですか。でもほら」
 姫が見た。姫は背後の部屋を顧みて、藤原妹紅は背を向けて、立ち上がって、向こうの襖に手をかけたところで振り向いて、眉をひそめて「何見てんのよ」とつぶやいた。つぶやいて、出て行った。天狗は既にいなかった。
 姫はこちらに向き直る。
「行っちゃったわ」
「そうですね」
「あ、でも追いかければいいじゃない」
「それもそうですね」
 姫は此方に指をさす。
「代わりといってはなんだけど、追跡のお供はそっちの二人でいいかしら」
「それはどうぞ。御勝手に」
「そうね、じゃあそうするわ」
 二人の金髪は渋面をきっかり三秒間だけ浮かべると、やれやれというように立ち上がる。
「釈然としないが、よし」
「泰然としましょうか、ふう」
 魔理沙が膝を伸ばす音。アリスが裾をはたく音。遠くに雨音が強くなり、私は意識が沼に沈む感覚を覚えた。
 私とてゐと、あなたは一緒ね。留守番よ。
 師匠にそう言われると、私としてはどうしようもなかった。
 頭が少し熱い。耳の先が熱い。肩が震えた。夏風邪だろうか。
 解らない。
 私は姫と幾人かの背を縁側の、夜霧の向こうに見送った。
「忙しくなるわね。そろそろ」
 師匠が急須を取り出した。隣の残りだといっていた。
「師匠」
 私は、雲に呼びかけるような心地で問いかけた。
「なに」
「月は音速が早いんでしたっけ」
「桁が違うわ。月は光速が早いのよ」
 鼻先に湯呑みが突き出された。飲みなさいとも言っていた。
 部屋は暗くて、色は分定かにからない。鼻が熱くて、香りは定かに分からない。ただ、茶渋が妙に黒かった。
 私は疑問を覚えなかった。



 *



「これが終わったらあれだ。ここの薬、幾つか貰っていっていいか」
「私は構わないけど、要は永琳が何と言うかね」
「ふうむ。あいつはなかなか話が通じないからな。やはり図書館のようにいくかな」
「私は付き合わないわよ」
「あーん、ノリが悪いな。私とアリスの仲だろうに」
「私とあなたの仲じゃないのよ」
「おうおう。なんか高度な切り返しを受けたぞ」
「困ったわね」
「なんで輝夜が困るんだ」
「だって、可笑しいんだもの」
「ふうん――? なあアリス、意味が解るか」
「知らない」
「おーい」
 霧雨魔理沙は箒に腰掛けたまま、アリスの目線でブーツの先をぶらつかせる。「おーい。おーい。アーリースやーい」人形遣いの眉間が軋む。舌打ちが出る半歩前で魔理沙は笑って、一段階ほど高度を上げた。「嫌われたらしいぞ」輝夜は始終笑っていた。「そのようね」ずっと先で、炎と羽ばたく妹紅の背中が「なんだこいつら」と言っていた。



 *



 突然の音の波。

 弾かれて、私は顔を上げる。
 どこにでもあるような風景だった。
 歩き回る人々。歩き回る兎にその他。動き回る物に者にもの、が、街路を埋め尽くしている。
 流れていく空気は、私を嫌って流れていった。
 流れていく瞳たちは、私を厭って避けていった。
 銀色の木が立ち並んでいた。
 金色の枝が鈍色の箱の上、夜空を割って走っていた。
 銅色の葉が舞っていた。私の目の前でも一枚、制止したように舞っていた。
 黒い空の向こうに白い星が散らばっていた。
 白い星よりずっと手前に青い球があった。
 全ての星が目を剥いた。
 全ての星の目が向いた。
 全ての星が私を見た。
 私はどこまでも孤独なこの街で更に孤独を極めながら。
 街のどこかで、何かが弾ける音がした。
 私はどこまでも孤独なこの街で更に孤独を極めながら、
 あまりに全てを知り過ぎて、気を失うことすら許されない。



 *



「この雨」
「なに?」
 アリスは口をつぐんだままで、口を開いたのは魔理沙で、反応したのは輝夜だった。つぶやいた魔理沙はそれを特に気にすることなく続けて言った。
「降り続いたら気が腐るな、とね」
「竹は腐らないわよ」
「お前は竹を割ったような人間だからなぁ」
「さっぱりね」
 魔理沙は笑った。輝夜も笑った。
「何が可笑しいのよ」
 アリスが訊いた。
「別に、なんでもないさ」
「そう」
 密度の薄い会話。とぼやくアリスの声が、雨粒に揺れる笹の葉音で割かれていく。
 天狗は空を飛ぶものらしい。
「天狗は空を飛ぶものですよ」と射命丸文は早々に竹林を抜けた。後に残された人妖にそれほど急ぐ理由もなく、思い思いに道を歩いた。
「雨は――」
 輝夜が瞳を瞬かせた。魔理沙の声だった。ばしゃ、と水溜りを踏んでアリスが立ち止まる。
「雨は――、あれ」
「人の気分を憂鬱にさせると云うわね」
 輝夜が言った。一同が一同、吸い寄せられるように空を見上げた。
「言うなあ」
「言うわね。私は別にどうもしないけど」
「私は先に言われたよ」
「にしても、魔理沙はやはり人間なのね」
「なんだ。お前は漏れなく仲間外れか」
「当然じゃない」
「漏れなくというなら私と妹紅もね」
「あー?」
 ずいぶん先で声がした。
「嘘は言ってないじゃない」
「そりゃ、まあねー」
 声は憮然とした調子だった。
「って、まともな人間は私だけか」
「何よ。私はまともよー?」
 妹紅の声はそれきりだった。
「――さて、と」
 竹林が晴れる。雲の広がる空、夜が広がる坂道は一気に下り、霧の底まで続いている。雨は幾分か弱まっていて、空はひたすら深く見えた。
「見送りも、出口までが長いと考え物ね」
「なあ。今更なんだがな」
「なにかしら」
 輝夜は最後尾で歩みを止めていた。帽子を目深に被り直し、箒を両足で挟み込むと、魔理沙は土を踏みしめる。視線が輝夜と交差した。
「お前、もう飽き始めてるだろ」
「あら。心外ね」
 輝夜はむっとしてみせた。
「これ以上、何かに飽きることなんてないわよ」
 全部飽きた。
 と、姫の顔には綴ってあった。
――なんだ、このお月様は。
 魔理沙は呆れた。呆れ返って、指先で輝夜を呼びつける。
「そうか。おい、そこの生き飽きてるの」
「なにかしら」
「お前は病気だな」
「私が?」
 ああそうだ。と魔理沙は地を蹴る。重力が去って、箒と帽子と金髪と笑みが舞い上がる。
「もう治らないぜ。それ。なんたって、一番の特効薬がもうないからな」
 輝夜は小首を傾げてみせた。
「あなたたち、もう死なないんでしょ」
 アリスが言った。風が辺りに吹き込んだ。数拍おいて、
「……ああ」
 と輝夜は頷いた。
「馬鹿にしてる?」
 ざあ、と竹藪が揺れた。ざわめきの中、魔法使いは瞬きをして、お互い顔を見合わせて、また輝夜へと向き直り、
「いやいや」
「いいえ」
 と手の平を揺らした。
「もうとっくに馬鹿じゃないか」
「そこは同意ね」
 輝夜は目をパチくらせた。
 そして、魔理沙は箒にまたがって、アリスは宙に腰掛けて、
「んじゃあな」
「じゃあね」
 と、今度は肘から先の手を振った。ひらひらと、音もなく。
 輝夜は。
 輝夜は、肺から空気を抜くような深い深い息を吐いて、
「そうね」
 と言った。そして肩を大きく回し、
「またね」
 と手を振った。
 竹が揺れていた。林がざわざわ鳴いていた。雨がまた少し小降りになり、揺れる小袖が水気に重く、それでも揺れて、遠い背中が「ざーとらしい」と言っている。



 *



 街をひた走る私がいた。
 解りきったようなことを。と諦めている私がいた。
 まだ大丈夫。大丈夫。と諦めきれない私がいた。
 本当の私は瞳の奥で、くるくる狂ってばかりでいるばかり。
 人気が見る間に失せていく。たちまち視界にはなにもかもが消え、後には基より殺された風景が並んでいる。
――あれ。

 だん。

 どっ。
 ――ごつ、ん。
 さ。ばさ。ばさばさ。ばさ。
――あ。
 地面に広がっていく髪が、海草みたいに揺れている。
 水面に。池が生まれているみたいに見えて、けれども他人事のように、身体はぎしりとも悲鳴を上げない。
 視界が捻じ曲がった中で、私は酷く冷めた心地で差し伸べられた手の平と、突き付けられた鉄の棒を見た。
 棒の先から煙が上がる。
 それを見上げる私がいた。
 やっぱりだ。と諦めきった私が言った。
 まだ、嫌だ。と諦められない私が言った。
 本当の私は瞳の奥で、くるくる狂ってばかりでいるばかり。
 視覚以外の初めての感覚、感触。
 おなかが熱い。ただのそれだけ。
「…………嫌だ」
 頬が熱い。血が止まらないんじゃない。たぶん、きっと。
 私は、生きたくないと泣いていた。
 鉄棒の先の影が、ぐにゃり曲がって、ぶちぶちばきばき捻じ切れた。
 其処に転がる私がいた。
 始まった。とまた諦めた私が泣いた。
 どうしよう。と諦めそうな私も泣いた。
 本当の私は瞳の奥で、くるくる狂ってばかりで――
 やがて血の雨。



 *



 輝夜はふと足元を見た。泥と笹とが、紅色の衣が酷い彩りを撫で付けていた。黒髪の奥の脳味噌が、永琳に悪いかも、とどこか妙なことを考えていた。
「…………さて、と」
 それはさておき。
 今日の終わりを告げよう。告げよう。
「妹紅」
「んー」
 ざちゃ、と泥の潰れる音。久しぶりの差し向かいで会った妹紅のズボンは少しも汚れていなかった。
「便利ね。その火」
「そうね。偶には」
「本題。いい?」
「結構。どうぞ」
 妹紅も退屈そうだった。
「半ば適当で言ったことだけど、一ヶ月後くらいには元の布団で眠れそうよ」
「そりゃあ良かった」
「それまでは、しばらくご無沙汰でいましょうよ」
「どういう意味?」
 妹紅は輝夜に対して表情を変えることを止めてずいぶんと経つ。腕を組んで、それで終わりだった。
「前夜祭か、後夜祭か、どうなるのかは知らないけどね」
 月の姫の本領発揮だった。
 妹紅は遠い地平が白むのを見る。足元と空が明るむのを見る。手を翳す。一滴触れて、それが端からこぼれる間、次の一滴は続かなかった。白い肌色が浮き上がる。首を傾げて、見上げた空に妹紅は渋面を突き上げる。
「何が言いたいんだよ」
 雲が退いた。雨はもう退いていた。
 輝く満月が、天に轟く。輝く夜に、姫は誘い手を伸べて仰った。
「盛り上げるのよ」
「盛り上げるとな」
 蓬莱の人の形は両手をズボンに突き込むと、据えた目つきで背中を赤で染め上げた。
「ここでやるの? いいけど、雨よ?」
 輝くばかりの姫が言った。笑った。燃え尽きんばかりに盛る娘は「別に」とたちまち火を消した。
 輝夜は言った。
「盛り上げるのは、私たちよ藤原妹紅。私のお友達」
 濡れた髪が舞う。たちまちに柔らかく、しなって光を跳ね返した。
「待っているわ」
 そして、蓬莱山輝夜は夜に言った。
「聞こえねー」
 妹紅は。
 妹紅は、目を閉じて、鼻をつまみ、「聞こえねー」とまた言った。
「あはは」
 輝夜は。
 輝夜は、目を伏せて、裾を翻し、手を伸べて、「それじゃあね」と微笑んだ。
 振り向けば竹林。輝夜は手を振り、闇に溶けていく。後には人間[自称]がひとり、目を閉じて、鼻をつまみ、残った指で耳の穴も塞ぎ、流れていく夜と雲と数限りない永劫までの時間の中で「聞こえねー」とまた言う。
 雲の立ち込めた空に、また雨がぱらつき始めた。



 *



 恐れていた。
 けれど、夢見ていた。
「…………嫌だ」
 震えていた。
 泣いていた。
 怯えていた。
 儚んでいた。
「嫌だ…………嫌だ、嫌だ、嫌だ…………嫌、嫌……いやだ……」
 けれど、なにより、悔いていた。
 感情の激流だった。
「……困ったわねえ」
 布団が時々浮き上がり、また蠢いて沈み込む。ここ一時間はその繰り返し。
 永琳は行灯の火を一段落とすよう因幡に告げると、腰を上げ、襖を開けて縁側に出た。
「あら。永琳じゃない」
 廊下を長すぎるスカートを引き歩いてきた輝夜は、永琳を見ると基の笑顔をもう一段ほころばせた。
「姫。色々と困りました」
 永琳は輝夜を部屋に呼び込むと、襖を音もなく閉じ因幡に行灯の火を遠ざけるよう言いつけた。
「ウドンゲが悔いています」
「それは困ったわね」
 眉をおもむろにひそめ、輝夜は頬に手をやった。
「鈴仙が悔いて、永琳が困っているとなると、私にはより困るしか手がないわ」
「ですねえ」
「というか、どうしたの? それ」
 輝夜は上座によいしょと座り込むと、袖から細い指先を覗かせて鈴仙を示した。同じく座った永琳は、両手を掲げ、頭上で手をはたはたと揺らして見せた。
「耳です」
「それ、耳なの?」
「耳です。問題は耳だったのですよ」
「そうなの」
 ええ。と言い永琳は手を下ろした。
「近頃は耳の感度がいいのか、月から色々と受け取ってしまっているようなので。気付けがてらに薬を少し」
「薬は門外漢なのだけれど。何をあげたの?」
「春眠を舞う、八意印の胡蝶夢丸っ! 今なら一週間分無料お試し期間実施中!」
 てゐが言った。部屋の片隅で雑巾を絞る手を止めるでもなく。永琳は苦笑し、輝夜は一瞬呆気にとられ、次いで「ああ」と頷いた。
「前に見たわね。素敵な悪夢が見られるとか言うあれかしら」
「それはナイトメアタイプですね」
「あら。違うの? これ」
 輝夜はまた鈴仙を示し、「酷いことになってるけど」と言ってのけた。
「ええ。だから困っているんです」
 永琳はふう、と息を吐いた。炎が揺れるごとに部屋全体が傾いで見える。影が歪んでいるからだった。
「調薬を間違えた覚えはないんですけどねえ」
「永琳は天災でしょう?」
「姫、それは言い掛かりというものです」
「ああ。天才ね。で、その天才がどうしてまた」
「寝ている相手をおいそれと弄れませんし。夢というのは寝て醒めて、見て見終えて一回りですから」
「じゃあ、起きるまでは?」
 ぼぼ、と行灯の内で炎が揺れた。
「ええ。手が出せません」
 じじ、と行灯の内で炎が焦れた。「そういうこと」と輝夜は頷き、永琳は、
「では。とりあえず対策を立てましょう」
 と両手をすっと持ち上げ、手の平をぱし、ぱしんと打ち合わせた。襖が開き、何羽かの因幡が二本の足で入ってくる。永琳は視線を輝夜に向け、応えた輝夜は静かに呼びかけた。
「それ。別の部屋につれていってあげなさい。それと永琳」
「はい」
 途端、小さな間は騒がしくなる。因幡がどやどやと部屋を動き回り始め、「あー、こら。もっとゆっくり!」とてゐが言っている。輝夜は首を少し傾け、瞳を伏せる。口を横に裂き、細く白い指を添えつけた。
「私、やる気が出てきたわ」
「それはそれは。結構なことで」
 永琳はそう言って、ああ。と言葉を付け加えた。
「ウドンゲの枕、着付けの本でも挟んでおきますね」
「それはいいアイディアね。永琳」
 がらっ、と襖が開かれる。
「うぬう、う~ううう」
 潰されそうな石猿さながらの表情で、てゐが先陣を切って布団を運んでいった。「ぬおお、お~おおお」と声が廊下に続いていく。因幡がそれに続いていく。行灯の火は揺れ続け、夜はもう少しで明けようとしている。
 二人は顔を見合わせた。
「寝ましょうか。姫」
「そうね。永琳」
 悔いることなど、とうに忘れた二人だった。



 **



『コラム:昼ごろ幻想郷 第10回』

【幻想旅館永遠亭、いよいよオープン間近】

・今号のゲスト
――――――――――――――――――――――――――
八意永琳さん
(やごころ・えいりん)年齢不詳月生まれ。人間[自称]。
薬師。近年薬局らしきものを経営しているが、それは各種
様々な薬を日々調合する傍ら、依頼に沿って調薬を行う、
もしくは気ままに想像を形にする程度のものである。現在
は、再建した永遠亭の内装チェックに余念がないという。

博麗霊夢さん
(はくれい・れいむ)年齢黙秘出生不明。人間。
巫女。幻想郷を守護する博麗神社の巫女であり、幻想郷の
異変を日々様々な理由から憂いでいる。縁側で茶をすする
ことを生き甲斐とする、記者のもっとも苦手とする巫女で
あることをここに追記する。
――――――――――――――――――――――――――
先日の永遠亭突撃インタビューからはや一ヶ月近くのとき
が過ぎている。驚異的なピッチで体裁を整えることに成功
した新生永遠亭は、現在内部の装飾について侃々諤々の様
相とのこと。そこで今回は、その現場指揮を担当するかの
天才八意永琳氏と、偶然居合わせた巫女・博麗霊夢氏に、
現状と迫るオープンへの思いを語ってもらった。


『最初のうちは好き放題』

―――では、まず自己紹介からどうぞ。
永琳 あら。以前はそんなことしてたかしら。
霊夢 してなかったの?
―――今回で、このコラムが10回目となりまして。
永琳 はあ。
霊夢 へえ。
―――そこで、折角なので対談するお二人に自己紹介でも、
    と思いまして。
永琳 話が繋がらないわね。
霊夢 というか、こういうのって事前に載せてるんでしょ
    う? 紹介文とか。
―――ええ、まあ。
永琳 じゃあ別にいいわ。で、今着手してるのがね、何だ
    と思う?
―――仕方ありませんねえ。
霊夢 料理のコースに兎を加えるか。
永琳 惜しい。それは二日前に決着がついたわ。
霊夢 どうなったの?
永琳 加えない。不可よ。
霊夢 なんだってー。って、料理は持ち込みでしょう?
永琳 大部分はね。で、その持ち込みに兎肉はアウト、と。
霊夢 何よそれ。
永琳 ウドンゲが寝てるから通ると思ってたんでしょ。
霊夢 まあね。近頃すっかり眠り姫が板についたじゃない。
永琳 ところがどっこいね。反対派は二人いた。
霊夢 あー、賽銭因幡?
永琳 正解。彼女は侍従長というのかしら、あの辺を任せ
    ちゃったから、結構今は発言力大きいのよね。
    『兎肉を用意させるなら因幡を一切使わせない』
    ってストライキ起こされちゃって。
霊夢 またはた迷惑な人選を…。って、普通そこは侍従長
    じゃないでしょ。
永琳 しょうがないじゃない。始めは姫のお遊びだったん
    だから。好き放題騒ぎに騒いで、有耶無耶のうち
    にお開きにする予定だったのよ。
霊夢 それが何でまた? って、私いつの間に訊き役よ。
永琳 途中からね。姫がやる気出しちゃって。
霊夢 それはまた珍しい。何をするつもりなのかしら。
―――巫女の血が騒ぎますか?
霊夢 偶には静ませておいてよ。私は基本的に荒事が嫌い
    なの。面倒臭いし、疲れるし。
永琳 まあ気にしなさんな、ということね。内輪だけの話
    だから、小さく纏まって終わるわよ。
霊夢 それならいいけど。あと、お金、前払いしたいんで
    今日来たんだけど、このくらいでいいかしら。
永琳 ああ、そうね。あなたならそのくらいね。
霊夢 馬鹿にされてる?
―――いえいえ。
永琳 食い意地の張ってるところからはそれなりに頂くわ
    よ。いかに現物支払いが基本だとしてもね。
霊夢 じゃあもっと物品持ってくれば、お金の方は減らせ
    るわけ?
永琳 持ってくるのは構わないけど、規定料金は貰うわよ。
    もともとお金欲しさもあって始めたことだし。
霊夢 現物だけじゃままならないことも多いしねー。
永琳 そうねえ。
―――あの、しみったれた話は今日はなしの方向で。
霊夢 あー? 誰がしみったれてるですって?
永琳 図星刺されてガンを飛ばす、その辺りよ。


『禁薬にご用心』

霊夢 ――で、格好はついてるの?
永琳 というと?
霊夢 ほら。居酒屋とか旅館ならあるじゃない、店員の。
永琳 ああ、服のこと。それと店員という言葉はここでは
    漏れなく誤用よ。女中か仲居がいいところね。
霊夢 そんなことどうでもいいわよ。ついたかつかないか。
永琳 一応用意はしてあるけどね。まだ着付けがままなら
    ないのが多過ぎて。そんなに数は多くないし。
霊夢 誰が着付けとか教えてるわけ?
永琳 てゐが出来るのには助かってるけど、あとは外から
    呼んでるわ。
霊夢 外からって、そういうのが出来そうなヤツねえ…。
永琳 西行寺幽々子。
霊夢 え、あいつが来てるの?
永琳 ええ。呼んだら来たわよ。
霊夢 どこかのヒーローみたいね。
永琳 で、彼女とてゐに任せているわ。その辺は。
霊夢 ふうん。……さて、もう話題が切れたわ。
―――ええ? 困りますよ。
霊夢 困られてもなあ。
永琳 何でもいいから訊いてみなさいな。
霊夢 蓬莱の薬って妖怪にも効くの?
永琳 またまた妙な質問を。まあいいわ。答えましょう。
    確かに効くわよ。呑む妖怪がその気なら。
霊夢 その気って何よ。
永琳 プラシーボ効果。
霊夢 いやまあ、そりゃまあ、ねえ。
永琳 というか、もともと妖怪なんて半分不死みたいな物
    だしね。肉はおまけみたいなものよ。だからその
    気なら効くわ。
―――なるほど。
霊夢 あんたが感心してどうする。
―――いえ、今後の参考に。
霊夢 何の参考か知らないけど、碌なもんじゃないわよ。
    死なないなんて。
永琳 そうね。願うなら、誰にもお勧めしないですむこと
    を願うわ。この薬は人を選ぶわよ。
霊夢 輝夜にもよく言っときなさいよ。
永琳 姫のやることに口は出せませんわ。
霊夢 よく言うわ。その気になれば腕づくで止められる癖
    に。どうして下手に出てるの?
永琳 姫は姫だからよ。
霊夢 解らないわねえ。
―――では、この辺でそろそろ本題に。
霊夢 そんなものがあるなら始めから訊く!
永琳 その通りね。
―――うう。


『元の木阿弥』

―――で、本題なんですが。
霊夢 どうせ変なこと訊くんでしょう?
―――あなたほどじゃありませんよ。
霊夢 酷い言われようね。
―――これは以前、こちらの輝夜さんにも尋ねてみた質問
    なんですが。今後の展望についてです。
永琳 爆発オチとか。
―――はい?
霊夢 それ面白そうね。
永琳 いやいや。本気にされても困るんだけどね。
―――真面目に答えてくださいよお。
永琳 十分真面目よ。この目を見なさいな。
霊夢 ……これといって濁ってるわね。
―――沼の底のようです。
永琳 酷い言われようだわ。部屋が暗いせいね。
霊夢 責任転嫁。
永琳 元の鞘に収まったのよ。事実暗いわ。
霊夢 真昼間に襖を閉め切る意味が解らないわ。折角オー
    プンな感じに建て替えたのに。
永琳 言ったでしょ。内装がまだ不完全だって。半端な出
    来の状態ではお客様には見せられませんわ。
    で、今後の展望なんだけど。
霊夢 やっとね。
―――わくわく。
永琳 今のところ、姫も心変わりの兆しはないわ。最低で
    も、前夜祭くらいは行えそうね。
霊夢 それってまだ始まってもないじゃない。
永琳 前夜祭よ。前夜。みんなを集めて、一晩泊まりつつ
    騒げばいいじゃない。結局は娯楽なんだし。
霊夢 飽きたらそれまでなわけ? やっぱり。
永琳 姫もねえ。あの飽きっぽさはいかんともし難いわ。
霊夢 姫だから、仕様がないんじゃないの。
永琳 そうね。結局は其処に落ち着くのよ。
―――結局ですか。
永琳 そうね。まあ、飽きれば止めるということは、逆接、
    飽きなければずっと続くということよ。
霊夢 そんな、夜じゃなければ昼だ、みたいなこと言われ
    てもねえ。
―――いえ、夜でも昼でもない時刻は存在しますよ。
永琳 黄昏時とか。
―――大禍時とか。
霊夢 大禍時はどうかしら。というか、朝があるじゃない。
―――それもそうでした。
永琳 で、それが展望と何か関係があるのかしら。
霊夢 大した肝ね。あんた。
永琳 それはもう。
―――んー。まあ、こんなものでしょうかね。輝夜さんの
    言っていた通りでした。
永琳 あら。うちの姫が何か?
―――あなたからは碌に真実が読み取れない、と言われま
    した。
永琳 姫も姫で、勝手な言い分でしょうにね。
霊夢 で、もう終わり? 私は速く帰って境内を掃かない
    といけないんだけど。
―――そうですね。今回はありがとうございました。
永琳 はいはい。此方こそ。
霊夢 そうね。じゃあね。またね。
永琳 律儀ねえ。
―――巫女ですから。
霊夢 あんたは巫女じゃない。
―――誰が好き好んで巫女になんかなりますか。
霊夢 私だって好き好んで巫女やってるんじゃないのよ。
    慣れちゃったから続けてるだけ。じゃあね。


前回、今回の対談の内容を踏まえた結果、大変遺憾ではあ
るが、とりあえず、現段階では前夜祭までは行われること
が確定している。宴会騒ぎはお家芸とまで言われる幻想郷
の猛者たちが一堂に会してのお祭り騒ぎ、これを手に取っ
てみたあなたも、流れ弾に気をつけつつ足を運んでみては
いかがだろう。納涼、肝試しも兼用の、種々様々なスリル
が味わえること請け合いであろう。尚、記者は永遠亭より
参加許可を受けており、前夜祭の翌朝には実況レポートを
号外として配ることを約束する。期待していて貰いたい。
(射命丸)



 **



 白熱する空の下、境内は熱気に燃えていた。
 ざっ。と箒が空を切り、まだ青い葉が塵取りの中に掃き込まれる。
「うーん」
「どうだ。事実か?」
「九割九分九厘はね」
「何だそりゃ」
 ざっ、ざ。と箒が走り、大き目の玉石がじゃらじゃら塵取りに叩き込まれる。
 蝉のやかましい季節だった。針葉樹ばかりの博麗神社においても分け隔てなくやってくる夏の群れ。霊夢は、落ち葉が少なくて結構と夏をいたく評価していた。風を切るのが気持ちいいと魔理沙も同じく。だが、他の季節に比べれば風情がないよと慧音は酷評をつけていた。「だってね」と箒を操る手を休め、霊夢はぼやく。
「『抜いてと言った部分』が残ってるのに。『抜いて』と言った部分は消えてるのよ」
「訳が解らんな」
 魔理沙は後ろ手を組んで板張りの上に転がった。差し込む光に、帽子を顔面に被せてもうひと転がり。
「私にはまるで解らん。解らんから、寝る」
 背を丸めた。
「私は解らんでもないが……報道なんてそんなものだろう」
 慧音は前屈みで差し込む夏日に目を細める。頬に流れた汗を指ですくい、庭に弾く。じりじりと、太陽に炙られた廊下は濃い影の下にもかかわらず異様に暑い。
「天狗の新聞は、いつも話半分で見るものだからな」
「そうね。だけど、あいつのは特に――」
 ざっ。と箒が大きく振られ、本日最後の土ぼこりが舞う。タイミングよく吹き込んだ突風が、黄色い竜巻を境内まで運んでいった。
「性質が悪い」
「だな」
「同意」
「さて、と」
 霊夢は箒を脇にそそり立つ石灯篭に倒した。手にした新聞を気持ちよく丸め、落とし、塵取りに蹴り込んでから大きく伸び。んー、と唸って、
「こんな駄文は置いといて、お茶出すわよお茶。いいのを持ち出したから、今日は一番煎じ」
「おー」
「おー」
 帽子頭と、頭帽子から拍手が起こる。霊夢は靴を放って縁側に上がると、そのまま奥へと足音を残して消えた。頭帽子は浮かせた帽子の隙間から影に溶ける紅白の背を覗き、「元気なこった」とまた伏せた。
 慧音が隣を見やって言った。
「なんだ。元気はお前の専売特許だろう」
「……お前もあいつもどいつもこいつも、私を少々誤解してるな」
 帽子がもごもご揺れ動き、「なに?」と慧音は問い返す。「なんて言った?」
「私は普通に、乙女だってこと」
 頭帽子はまた転がって、
「だぜ」
 とつぶやく。
「アンニュイな気分にも、時としてなるんだ」
「……なんだ。徹夜でもしていたのか?」
 転がった背中は、今度は答えなかった。慧音は嘆息とともに肩を落とした。
「寝てるよ」



 **



 じ――――っ。

 その音だけは、忘れたくないと思った。
 夢を忘れるのは、その人の精神の働きなのだという――。
 私は、きっと夜ごと願った。そして、今も願う。
 この夢を、全て忘れて目覚めるように。
 何も知らないことを幸せと思えるのは、きっと私が臆病だから。
 どんどん忘れていく。
 それが怖くて、どこか、喜ばしくも感じる私の心なんか、バラバラになって壊れればいい。
 誰かに助けて欲しいとか、言えるほど、思えるほどに強くない。
 私はそんなに弱かっただろうか。
 私の勘違いじゃないだろうか。
 私は強い私でいたい。そう、ありたい。
 たとえ結果がどうだとしても、本当の私が強いか弱いかなんて、今の私には解らない。
 夢の私は弱くても、目覚める私は強くあって欲しい。
 瞳の中の私は、くるくる狂ってばかりで。
 頼りない。
 頼りたい。
 突飛でも唐突でも回りくどい直言でも、自慢でも韜晦でも何でもいい。あの人、誰かの声が、今は聞きたい。
 疑問。
 私は無の中で、全ての無に向けて問いを発した。
――あの人って?

 じ――――っ、じ――――っ。

 目覚めろ。と音が言っている気がした。



 **



「そうかな」
 かっ。と西日が照っていた。
 ばさ、と背を撫でる髪を、瞼を、やたらに重たく感じてる。
 握り締めた拳と腕が、軋んだ鳴声を上げている。
 薄く開いた目が痛い。瞳が熱く焼けそうで、実際焼けているような気がして、泣き喚いて咽び疲れた子どもみたいに、私は喉を鳴らしている。もう幾つだ。考えてもみろ。みっともない。
 私は誰。
 そんなことを思う。
「あれ、」
 思って、思わず声が出た。耳が活動を開始して、今の今まで響き続けていた、蝉の大音声もまた甦る。
 『私は誰。』
 なんて問いだろう。でも考えてしまった以上、考えよう。
 名前はあっさり思い出せた。レイセン――違って、鈴仙。優曇華院、因幡、イナバ。
 分類、いきもの。種族は当然ながら人間、ではなく、月の兎で、当然、自然、月の生まれで――そして、
 ここは幻想郷で、永遠亭。だった。
「そうだ」
 目薬を落としたような、とは行かないまでも、目が醒めた。
「ん」
 つぶやくのと同時、晴れ渡っていくような明瞭さはなく、ゆら、と視界が揺らいだ。いや、揺らいだのは、きっと私の瞳の方だ。
 セピア色の四角い部屋。埃が舞って、ゆるやかに時が止まっている。耳の奥に、微かに残る残響。
 銅鑼を思い切り叩いたような、金属的な反響音。

 じ――――っ。

 私は周りを見回した。横殴りの光。障子越しの光。薄く濁って、粘り気のある光。その光の中に浮かび上がる私の布団に、身を起こした私の部屋着。蹴れば倒れそうな小棚。あまり使わない押入れ。片面一面に並ぶ襖。
 私は身を起こしている。目覚めている。
 そして、暑かった。
 背中から肩から、じっとり汗がにじんでいた。頬に流れて、髪が引っかかる。髪。いつか見たときより、少しばかり伸びている気がした。
「……起きなきゃ」
 と、突然耳が逆立った。声なき声でもなく、予感にも似た感覚。
……そろそろだと思ってるんだけど――
……だとしたら間の取り方上手いね――
……あ、ここよ、ここ。
「――、」
 どばぁん。と竹の陰影が染み込んだような襖が、いきなり左右に吹き飛んだのが横目に見えた。
「…………」
 二度、私は瞬く。一度目は驚き、二度目はゆっくり。『住み慣れた我が家』に帰ってきたような、じわりと郷愁を感じた瞬きで。
「おー、ほんとに起きてる」
「起きてるわね」
 入ってきたのは師匠、とてゐだった。師匠は私がいつか見た、墨色の和服に紅い帯を巻いていた。てゐはいつも通りのワンピース。
「どうかしら」
 師匠はそう言って、後ろ頭に挿し込んだ竹簪を弄って見せた。
「似合ってる?」
「似合う似合う」
 てゐはそう、手を叩いてからから笑う。
 私はただ、瞬きを繰り返す。
「久々に着てみたんだけど」
 師匠はそう言って、垂れ下がった袖に散りばめられた金の刺繍を広げた見せた。
「どうかしら」
「似合う似合う」
 てゐはそう、手を叩いてからから笑う。
 私はただ、瞬きを繰り返す。
 やがて、師匠は肩をすくめた。
「……似合うってお世辞くらい言いなさいよ」と肩をすくめたのだ。そして「これくらいじゃなくてもね」と視線を一度、脇に放った。
「ごめんなさい」
「すいません」
 と私たちは揃って言った。
「さて、ここからが本番よ」
 と、師匠は活き活きとした声で言った。
「あと十二時間で、全ての準備を完了させるの」
 布団がぼふ、と埃を巻き上げた。布団の上、腹の辺りに折り畳まれた呉服があった。小豆色の。
「はい、あなたの分」
 師匠が示す。
「私の?」
 私は顔を上げる。師匠の目は別段冷たくもない、暖かくもない、じっと見つめて楽しいものでもない。
「用意したじゃない。いつか」
 思考が溝攫いを十秒ほどした結果、それらしい記憶が打ち上げられた。
――ああ。
 もう随分前のような気がする。そんなこともあったような気がする。
 師匠が言った。
「着替えてみて」
「……はあ」
「効果の程を確かめたいの」
「……?」
「時間が無いから手短に言うとね。というか、今言ったばかりだけど」
「……」
 師匠は膝を折って私に目線を合わせて告げた。
「今晩なのよ。前夜祭」
 現実は酷薄だった。
 私は寝ぼすけな私を呪うと同時に、そんな呪いの一厘くらい、変なの飲ませたのはそっちじゃないのかと思っていた。
 外は変わらず暑そうだった。
「……あ、眩しい?」
 記号的に蝉が鳴いている。



 **



「咲夜咲夜。準備はできたのー?」
「妹様がまだですが」
「後から来いって伝えなさい」
「レミィ。それは私に酷というものよ」
「パチェは留守番してなさいな。本の埃食べないと生きていけないんでしょ?」
「人を本の虫みたいに言わないことよ。住み慣れた我が家というものは、偶に離れて良さを再確認しないとね」
「ふうん。じゃあフランが留守番だ。咲夜、ちょっと言ってきてあげて」
「面倒ごとはいつも私任せですね」
「情報伝達はメイドごとだものね」
「レミィ。上手いこと言っても何も出ないわ」
「吸血鬼の嗜みよ」



 **



「妖夢妖夢ー。準備は出来たのかしら」
「はい。一応具材も取り揃えましたが……幽々子様、何を作るんですか? 桜の葉なんかで」
「お肉を焼くのよ」
「何の肉かは……訊かないでおきます」
「賢明ね。うちの式にもその賢明さを分けてあげて」
「あら。紫じゃない」
「呼ばれた気がしたのだけれど」
「別に?」
「そう。じゃあ行きましょうか」
「紫も御呼ばれしているの?」
「いえ。だからいわゆるお礼参りというやつね。血沸き肉踊るわ。お肉とか持っていっちゃう」
「まあ、呼んでませんけどね」
「賢明じゃないわね」
「どっちが?」
「兎軍団」
「行きますか」
「ええ」
「お二人とも、少しは荷物を持ってくださいよ~」



 **



「霊夢は食い物持ってくのか?」
「この前先払いしてきたわ。だから今日は手ぶら」
「奇遇だな。私とその他も今日は手ぶらで行けそうだ。働いた甲斐、ここに結集だぜ」
「誰がその他よ」
「やあその他」
「一緒に行く? その他」
「行ってもいいけど。そのその他っての止めて欲しいわ」
「いいじゃないか。いっそのこと、ソノタ・マーガトロイドと改名しろよ」
「私が死ぬまであんたが生きてたら、墓石にでもそう書きなさい」
「そりゃいいな」
「じゃ。行きますか」
「そうね」
「そうだな」
「にしても暑いわ」
「そうね」
「そうだな」
「犬かあんたら」
「失敬ね」
「失敬だな」



 ***



 夜。に近い夕方。
 黄昏時。
 竹。竹。竹。光る竹は無論なく。
 竹林の奥。
 光る竹はなく、それでも灯りは灯る。
 新生、永遠亭。
 の、正面玄関。内側。ロビー。
「プリズムリバー三姉妹、スタジヲ入り五時半のご予定だけど」
 勘定台、曰く、カウンターに伏せたてゐは「あー?」と顔を私に向けた。困るほどに不機嫌。
「いや、もう来たのかな。と」
 私はこれ以上火種を投げ込まないよう発言した。頬杖をつくてゐはしばし考え込むように視線を外し、記憶を探っているようだった。
 バインダーに挟まった紙切れ、イコール客としての招待券は、今のところ指の数で足りそうだった。人間二人に妖怪一人、それから天狗。亡霊まで来ているのはご愛嬌だろうが、いつものメンバーだと思えば気にもならない。
「もう入ってる。今は鹿脅しに張り付いて音採ってるよ。一番下の子」
「シシオドシ?」
「庭の『かこーん』ってやつ」
「ああ。珍しいのかな」
 ピカピカに明るい電灯が頭上に灯っていた。昼間みたいな眩い光を放つそれは玄関から湯治場まで天井に端から端までぶら下がっていて、どこから持ってきたのか私もよく分からない。
 投げ遣りな調子でてゐは言った。
「珍しいんじゃないの」
「ふーん」
 かこんかこーん。と、鹿脅しの鳴る音が聴こえた。それほどまでに、永遠亭は静かだった。
「本格的に忙しくなるのは日が沈んでからだからそのつもりでいればいいと思うのよ私は。うん。そうそう」
 そうよねー? と笑顔で脅す。
 てゐはいたって不機嫌そうにカウンターに突っ伏している。小豆色の衣に黒い髪は少し地味かもしれない。と思う。いや、それを言ったらまた「前後が違う。髪の色が先にあってその後ろから服の色でしょ?」と厳しい声が飛びそうだ。
 私は努めて黙ったまま、思いを声に出さないよう、口をつぐんで玄関を見つめていた。
 ぼうっと。
 ずうっと。
「暇だな……」
「だから言ったじゃない」
「なに? お揃いなのがそんなに嫌? 私傷つくなあ」
「私も、自分用の柄頼んだのに通らなかったの。うう、永琳がいぢわるする」
 なんだ。空振りか。
「にしてもねえ」
「暇だわー」
 蝉の声は途絶えない。竹林で蝉の声とか、どうなってるんだろう。
「どうなってるの?」
「なにが?」
 てゐの不機嫌度が幾らか増した。
 向こう数時間は、ずっとこの調子だった。



 ***



 がら。

 土気色の床に、四角く明かりが伸びていった。
「妹紅」
 明かりの中に、人の影がある。影は珍妙な帽子を被っている。
「――――――――」
 刳り貫かれた光の映る床。転がる靴が一足。段を越えたその奥で、壁際に、煤けた布団がもぞついた。影は息を吐き、先ほどよりも強く呼びかけた。
「……妹紅」
「――――、んー」
 布団が呻いた。影は戸よりも中には進まず、いつまでも明かりを背にしている。
「いつまで腐ってる」
「――あー?」
「今晩だ。一緒に行くか?」
「――先行って」
「後から来るか?」
「ああ。行く」
「約束はしたぞ」
「行くよ。行くったら行く。約束は、ちゃんとしてる」
「ああ……、輝夜とか?」
「んー?」
「他にいるか」
 布団は口をつぐんだ。
 ふっと、明かりが弱まり、影が薄まる。風が小屋の中にまで吹き込み、薄まった影は少し慌てた様子で戸を潜ると後手に閉めた。途端、小屋の中は全くの闇に沈む。風に揺れる木戸が、定期的に隙間風を吐いていた。
「……ったく」
 布団が、開き直ったように言った。
「あー、人望なかったんだな。私」
「私からなら、半分ほどあるぞ」
「妖怪からなら、妖望?」
 布団の声が、皮肉げな調子で尋ねる。影は土間との段に腰を下ろし、含み笑いを漏らしている。
「それだと意味がずれるな。118°近く」
「いいよ。慧音からは人望だけ受け取っておく」
「そうしろ」
 隙間風が収まってきていた。今まで見えなかった明り取りの四角が、静かに浮かび上がっていく。 
「じゃあ。そっちは先にね。後から乗り込む」
 布団から、腕が一本突き出て言った。
「まったく。くれぐれも、穏便にな」
 光が強くなる。暗闇に浮かぶ影が、堪え切れずに失笑していた。腕はあくまで不敵に応える。
「口約束には、期待しないことだよ」
「……まったく」
 失笑を苦笑に変えて、「それじゃあな」と影は告げる。
「うん。また来世」
 肩をすくめて立ち去る以外、影に他にすることはなかった。
 外に出ると、月下、元の色を取り戻した慧音はふと顔を上げる。
 空は綺麗な十五夜で、満月が天辺まで届くにはまだ一刻ほど間があった。
「まるで計ったようだな……」
 傾く帽子を支えながら、慧音は見上げる眉目をひそめた。
 雲の浮かぶ高みの果てで、十五夜の月は昇っていく。



 ***



 これは今まででも言えたことだが、永遠亭は、内側の広さと裏腹に外観は小さい。俯瞰してみると、大まかな呂の字の形をとっている。北の本館、南の別館は池を挟んで、互いを渡り浮橋で結んでいる。
 その真ん中の橋の上、いつものようにスカートを引きずる輝夜は、橋げたに寄りかかる見慣れない七色と会った。
 視線が見合う。輝夜の歩みが止まる。橋の左右の水面に写像がふたつ、揺れていた。
「あら」
「あら」
 抑揚も発音も、どこか似ている。どちらも、様々な意味で儀礼的な声だった。
「……んー」
 七色は、それだけでもう自分の顔は一生分見た、とでもいうように瞳を逸らした。組んだ腕に顔を埋め、「お邪魔してるわ」とその口が言う。
「そのようね」と輝夜は答えた。「アリス、ここの空気はどう?」
 笑いかけた。七色魔法使いたるアリス・マーガトロイドの視線が、今一度向く。小さめの唇がきっぱりと動いた。
「笹の葉臭いわ」
 更にアリスは「これが気にならないようじゃ重症ね」とつぶやいた。輝夜は二、三度、確かめるように鼻を動かし、結論付けに首を傾げた。
「私は、どうやら重症のようね」
 服が重たいので肩をすくめたりはしない。いつも通り、笑顔を返した。
「――そのようね」
 アリスは会話に疲れたようだった。また目を逸らす。「あんたこそ、外の世界で養生したら」
「私はここがいいわ」
 少し、即答が過ぎたかもしれなかった。輝夜は自分を見つめるアリスの目が、幾分か驚きを孕んでいるのを見て取った。顔だけ輝夜に向けたまま、
「私……見立て違いしていたのかしらね」
「そうでもないわ」
「そうなの?」
「どうかしら」
「どうなのよ」
「さあ。じゃあ、また後で」
 輝夜は再び歩き出し、アリスの背中とすれ違う。髪が流れて、
「お話しましょう」
 遠ざかっていく。その背中を、橋げたに寝そべる姿勢で見送る視線。
「……何なのよ。あれ」
――歩く永遠。いや、停滞? 湖底のヘドロ。それとも、微生物すら生存できない徹底して透明な、透徹した湖の固化物質?
 はあ。と息をつく。
 永遠に解かりそうもない。それに、解かろうとする気もない。
 アリス・マーガトロイドはそう結論付け、また池の自分と見つめ合う。
「こっちの方が、まだ話が通じそうだわ」
 ねえ? と問う。
 眼下、僅かに揺らぐ自分の顔が、そうだそうだと頷いた。
「……にしても、蝉。五月蝿いわねえ――」
 片手には、ベルトで下げた魔本の金具。風にキイキイ揺れている。



 ***



 酒瓶のぶつかり合う音が響き合う中で、魔理沙は目を細めた。
「なあー、アリスどこ行った?」
「知らないわー」
――んむ。
 酒瓶のぶつかり合う音が響き合う中で、霊夢は剥かれた枝豆を十個纏めて頬張った。
「んむ、んむ、ん――――。あー、おいし」
 それを見た魔理沙は「あっ」と声を上げ、この世の終わりのような顔をした。経費削減の煽りを食らった足の短い安物机が、急遽涙の受け手となった。
「それ私が剥いてたヤツ……」
 机に池を広げつつ、独りごちた。
「知らないわー」
――んむ。
 酒瓶のぶつかり合う音が響き合う中で、霊夢は猪口を咥えて「んふふ」と笑う。魔理沙は机を枕につぶやいた。
「なんだ、嫌にご機嫌だな。こっちまで気味が悪くなってくる、ぜ」
 霊夢は机に頬杖をついている。口の動きにつられるように、猪口がかたかた上下した。
「普通伝わるなら、同じくご機嫌になるもんじゃないの?」
「可愛いことを言うな。お前が笑うとこっちは恐怖を感じるぜ」
「日頃の行いがものを言うわねー」
 霊夢は「私は潔白そのものじゃない」と空笑いとともに猪口をつまみ、大手を振る。遠くの咲夜に催促した。
「で、何がご機嫌の理由なんだー?」
「だって、準備しなくてもいいのよー?」
 と、霊夢の視線が望遠に切り替わる。魔理沙もそれを追い、しばらく会話は途絶した。

――咲夜、紅茶かワインないのー? あとお肉。
――どっちも持ってきてはいますけど、このペースだと程なくして切れますねえ。
――肉は兎ならそこらじゅうにあるわね。けれど、取って食ったりしちゃ駄目よ。紅白が怒るわ。
――ふうむ、しょうがない。現地調達よ。活きのいいのを集めなさい。一列縦隊で。
――その前に、霊夢がご機嫌な様子で焼酎要求してるんで。
――うちの瓢箪貸したげようか? 普通に底なしだよ。
――ああ、いるじゃない。活きのいいのが。
――んー? タダでは借りるまいという心意気は買うがねえ。
――へえ。レンタル料はお前の命だ、とか?
――レミィ。お願いだからほどほどにね。
――あら、無礼講と違うの?
――まあそうだけどね。暴れないように、暴れさせないように、ってこと。吸い慣れない埃は堪えるわ。
――なあんだ。ほんと本の虫ねー。
――おまけに虫の息。で、パチェは何も飲まないの?
――そうねえ。ねえ、咲夜。紅茶とかお酒以外に何かないの?
――防虫剤なら……。
――咲夜、パチェにそれは私に十字架を突きつけることに等しいわ。
――実際は効かないということですね?
――効かないの? そりゃ凄いわね。
――普通に死ぬわよー。
――萃香。瓢箪借りに来たわよ~。
――む、紫。
――『む、紫。』とは失礼ね。いいから貸す。
――なになに? 面白いこと? 貸したげるから首突っ込ませて。
――単なる呑み比べ。いつもやってるでしょ? 今日は天狗さんも出るっていうわね。
――おー? そりゃ面白そうだ。首といわず全身全霊突っ込んじゃう。
――そちらさんも、どちらさんか参加してみる?
――よーし、パチェ。君に決めた。
――私? 言っておくけど私、食、かなり細いわよ?
――酒くらい片っ端から水に変えなさい。東の仙人は水を酒にしてのけるらしいわよ。
――無理じゃないけど、水ばっかり飲んだら思いっきり水太りするわー。
――そこはお得意の魔法で何とか。
――魔法は宴会芸じゃないわよー。
――へー。でも、水符は水芸じゃないの?
――あ、行っちゃいましたよ。
――あー! パチェ、こうそくいどう!
――置いてかないでー。

「……楽しそう?」
「……いや、別に」

『さぁーあお立会い! 今日も始まったのん兵衛・ザ・のん兵衛イン・永遠亭『A¥杯』!』

――待ってましたー!

『司会は、ご存知幸せを運ぶ素兎、因幡てゐでぇっす! ヨロシクお願いしま――――っす!』
『解説もおなじみ、上白沢慧音だ。よろしく頼む』

――さっさと始めろ瓢箪隠すぞー!

『という声があったので早速始めます! 参加者全員横一列に並んで並んで、端から順に名乗りを上げろ――っ!』

――いっちばーん・伊吹萃香ー! 今日で三冠、V3は頂きねっ!
――二番・メルラン・プリズムリバー! 今日は思いっきり、頑張っちゃうよー!
――三番・魂魄妖夢です……。あの、本当にやらなきゃ駄目ですかー?(外野「駄目よー」)
――四番・八雲藍だよ。お前も、その辺であきらめろ。私はもう慣れた。(外野「ちょっと出かけてくるわー」)
――五番・射命丸文です。初参加ですが、今日は軽く勝ち抜けてみようと思います。(いっちばーん「上等だーコノヤロー」)
――六番・パチュリー・ノーレッジ。(外野「パチェー、飲んで飲んで飲み尽くしなさいー!」)

『現在開始時刻まではまだ間があります! 蟒(オロチ)券引き続き販売中! 今すぐ売り場へGO!』
『金のない輩は物々交換も可だ。存分につぎ込め。歴史が許す』

――くあー、盛り上がるぅー!
――これは、いい記事が書けそうですねー。いろいろと騒ぎます。
――現在人気はダントツでいっちばーん伊吹! そして五番射命丸が食いついています! ウィンドウをご覧下さい!
――おー、何か下がってきたわ。咲夜。
――幻想郷も進んだものですねー。お嬢様。
――連複は1-5が圧倒的かー。見なさいな。オッズ、四捨五入しなくても1よ。
――あれ、お嬢様競馬とか知ってるんで?
――いや、適当に言ってみたのだけど。合ってた?
――……まあ、割と。ちなみにお嬢様は買ったんですか?
――六番蟒。
――……豪気ですねぇ。
――友達だものねぇ。でも、当たれば大きいわよ? 素敵。夢が広がるわー。咲夜は美鈴、買ったの?
――冷やかし程度にですがね。にしても、お嬢様それは……。
――何よ。心配?
――そりゃまあ。
――心配要らないわ。秘策があるの。
――はあ。

「――あ」
「どうした?」
「忘れてた。約束」
「約束?」
「行ってくるわ」
「へ?」

『でぇは、そろそろ試合を始めたいと思いますが――』

――ちょっと待ったぁ!

『おおーっとここで突如巫女乱入巫女乱入! 博麗霊夢の登場だぁ――――!』

――私も出たいの。アリ?

『ルール的にはナシですねぇー』
『まあな』

――あんたの命的には? ズバリ。

『全然アリ! 七番・博麗霊夢追加してー!』
『いいのか?』
『いいの!』
『そうか。まあ、私も命は惜しい』

――まあ、今更出ても券買えませんしね。焼酎持って行かなくて済みそうですわ。
――ところがどっこい、よ。咲夜。
――お嬢様? それと、焼酎は持って行くんで?
――誰が単勝と言ったのかしら? 見てみなさい。それに焼酎はもういいわ。
――そうですか……って、連単6-7!?
――頼んだわよ。霊夢。
――というか、七番って今まで無かったんじゃ……まさか、貼りました?
――勝つのはパチェよ。あくまでも。
――それじゃあ?
――霊夢はフェイク。

「……まづいな。私の出る幕がないぞ」

『――それじゃあ解説、音頭を!』
『よし、ウワバミ共! 今宵は呑み潰れるまで謡うがいい騒ぐがいい。では、「始め」っ!!』



 ***



 飛んで抜けるような廊下は、もうなかった。あるのは、踏めば軋むわけでもない先の見えた板張りと、襖一枚隔てた溢れんばかりの、実際溢れている喧騒の漏れ声。
 輝夜はひた歩いた。
「ん」
 視界を横切る影。背の高いシルエットに、長い金髪、豪奢な日傘。足を止めて、両者見合って。
「……ああ。あなた」
 笑顔が漏れるのを輝夜は眺める。向けられる瞳の色が、なにやら解らないものを主張していた。輝夜は構わず笑いかける。
「ええ、私だけど。ここの空気はどう?」
「死んでるわね」
 即答だった。
「あらそう」
「まあ、多少なりとも風が通ってまともになったわー。――ところで、キッチンはどこ?」
「さあ」
「ままならないわね。酒と料理が切れちゃったのよ。とっとと調理して頂戴」
 紫の影はぷんぷんと煙を吐き、憤慨している様子だった。ただ、「まったく、なんでまた私がこんなことしなくちゃいけないのかしらね?」と漏らす声にも愉快さが見え隠れしている。大方、賭けか何かで伺いを立てる役を決めたのだろう。輝夜は、目の前の妖怪が崩れそうな顔のポーカーフェイスを、内心笑顔で維持しているのをぼんやりと思い浮かべた。
「幽々子の頼みじゃ断れないしねー……って、何笑ってるの?」
「ああ。ごめんなさい。そこで相談なんだけど」
「なにかしら」
「腰の重くて気位の高そうな人、纏めて外で開かない? 宴」
「へえ」
 紫は手の日傘をばさばさ揺らし、如何なものかと思案している。
「……んー。悪く、はないわねー。うん、ないわねー」
 二度言った? と輝夜は疑問符を浮かべた。
 その一方で、そう。と輝夜は好意的な笑みも同時に浮かべる。
「良かったわ。なら、乗ってくれた人たちとで橋を渡ってきて頂戴。永琳が席を設けてくれるわ」
 そして、輝夜はまた歩き出す。視線を前から後ろへ回す紫も疑問符を飛ばす。「あなたは出ないの?」
「出てくるわ」
 黒髪が揺れ、背中が止まり、くるり、と横顔の笑顔が向けられる。紫は、そこに不安でもなんでもない、不穏な気配を覚える。悪巫山戯を企む餓鬼の面だと思った。
「外?」
「ええ。私は私の相手を待つの」
「そう。好きにしなさい」
 紫が背中を見せた。が、日傘だけは後ろを向き肩をとん、と叩いて「ただし」と告げる。
 肩越しに首を向けた。
「やるんなら、思いっきりね。私たちが見惚れるくらいに」
 ふわっ、と笑う。歯を見せて。
「それこそ天地を灼くくらい、派手な感じで頼むわよ?」
 夜闇に煌く瞳がにっこり笑い、輝夜の笑みと、似て非なるものが廊下で爆ぜた。
「――うん」
 うん。うん、うん。ええ、そうね。
 輝夜は目を丸くして一層笑みを深めると、今度こそ向こうへ振り向いた。指が上がった。
「花火くらいには、期待してなさい」
 大振りな袖を揺らして、遠ざかっていく姫の背中をじっと見つめるスキマ妖怪の目、目、目。
 本物のつぶやき。
「……何なのかしらね、あれ」
「――なんか、」
 その真後ろで、
「私と同じことしてない? あなた」
 その真後ろで、呆れた顔のアリスが言った。紫は、ふう、と鼻息も軽く嘯いた。
「知らないわ……ここの空気が悪いのよー」
 壁に寄りかかり、負けじと腕組み。言い訳じみて聴こえる言葉。だがアリスは頷いた。
「ええ……そうね」と。青い瞳がすいっと動き、紫を捉える。「で、その大御所席には私の分はあるのかしら」
「ただの妖怪Aさんは、そっちで楽しく騒ぎなさい」
 日傘で襖を押し開く。アリスは「はいはい」と答え襖を寄せると、光の中へと滑り込む。「――あ、」と声がして、紫は目を向けた。
「厨房、私が来た方みたいよ」
 最後に、こちらに残った腕がそう告げた。声だけが残る。襖が音もなく閉まる。根が生真面目なのだろう。漏れる騒音は先より小さい。
「……あの子、本当に妖怪にカテゴリしてよかったのかしら」
 頬を掻き掻き、半眼の紫はそう言って、「まあいいわ」また長い廊下を歩き始めた。輝夜の向きとは、正反対を。
「さて、キッチンはどこかしら」
 八雲紫はどこまでも雲上の妖。つまるところお気楽だった。



 ***



『ああ――――っと! 出だしから鬼天狗鬼天狗飛ばす飛ばす飛ばす飛ばす! 限界酒量の桁の違いを見せ付ける余裕っぷりっ! ラッパ飲みを始めてかれこれ三十分が経過! 呼吸は要らないのか真性共――――!』
『あの勢いが最後まで続くから恐ろしいな……』

――(まま、最初はこんなものでしょう。敵は、ひとりだけ)
――(ふうむ、なかなか。これは負けられませんね)
――……ふん。そのラッパ飲みが命取りよ……紅白。
――解ってるわよ。
――ちょっと、んぐ、これ、んぐ、なんで、んぐ、なくなら、んぐ、ないんで、んぐ、すか?
――各自の徳利と、鬼の瓢箪とが繋がってるんだ。んぐ。無理するな。適当なところで潰れて見せればいい。
――止め所が、んぐう、全然、ぐう、解りませ、う、ん、っぷ。
――半分死ぬなよ?
――ちょっと魔理沙、どうなってるのよ。これ。
――おお、やっと話し相手が戻ってきたか。
――はい?



 ***



 赤い風が、夜風を染めた。

「は、はかったなてゐー」
 天井に浮かび上がった煙声は、どこまで昇っても空虚だった。私は、先のてゐを思い返して息をついた。
「暇だ……」
「暇そうね」
 気がつくと、勘定台、もといカウンターの正面に姫がいる。私は横に潰れた頬を伸縮させた。
「暇ですよ。もの凄く。姫は何か御用ですか?」
 適当な調子で問いかけて、しまった、と思う。けれど姫は、そういうことを気にする姫ではなかった。
「人を待ってるの。人間、自称を」
「ああ……」
「まだ、来てないわね」
 大方の事情を察する。私は、なんとなく手元のバインダーを掴み台の上に載せた。姫の目線より、台の高さは幾らか小さいくらいで、実際姫は手に取らない。意思表示の一種だと思っていた。「ええ。目ぼしいのは大体来ましたけど――半獣の人も。でも、姫の待ち人はまだのようですよ」
「そう」
 姫は笑った。
「ありがとう」

 赤い光が、夜空に舞った。

「いえ――」
 私は対応に困った。永遠亭での私生活において、自分が姫と一対一で対話はおろか、対面することなどまずないのだ。
「……あのですねー」
「なに?」
 姫は快く応じてくれた。私はうつ伏せた上半身を起こし、正面から、少し見下ろす形で姫を見据える。
「私、しばらく眠っていたじゃないですか」
「そうだったかしら」
「眠っていたんですよ」
「そうなの」
 姫は頷いた。「それで?」

 赤い翼が、夜気を打った。

「その間、夢を見ていたんです」
 私の瞳の色が、姫の瞳の中に映っているのを、確かに私の瞳は捉えている。
「夢」
「はい」
 姫の瞳が私の瞳の中に映っているのを捉える姫の瞳の色もまた、私の瞳の中にある。
「人の夢と書いて、儚いとできるわね」
「……ですね」
 それぞれの過去と未来と現在全てが湛えられた瞳の瞳が私の瞳の中に、今はある。
「言葉遊びもいいところよね」
「……ですね」
 それぞれの過去と未来と現在全てが湛えられた私の瞳が姫の瞳の中に、今はある。
「でも、あなたは月の兎だから」
「……」
 二つの瞳。一対の瞳が二つある。
「夢は、いつまでも残るわよ」
「いつまでも?」
 私の瞳が、揺れた。

 赤い粉が、夜霧に散った。

「そう」
 姫の瞳は揺るがない。輝夜姫は、静かに詠う。
「月の兎は長生き兎。幾千年からご挨拶」
――結局は、自信の問題だったんだと私は思う。
「月の兎は高飛び兎。ひと飛び地上へご到着」
――私は、自分に自信がなかった。
「月の兎は気狂い兎。瞳と瞳で繋げて捻る」
――最後まで、あそこで生きる自信が私には足りなかった。いや、なかった。
「月の兎は耳肥え兎。蝉の小波も」
 聴き取れる。
 私ははっとした。何故って、私に微笑む姫の瞳が、
「知ってるかしら」
 私の眼より赤かったから。

 とある竹が、ばちんと爆ぜた。

 知らないわよね。と姫は言った。
「今作ったの。いや、昔どこかで聞いたのかしら」
 姫は、改めるまでもなく笑顔だった。
「どちらにしろ、全然謡には聴こえないわね」
「……姫は」
「ん?」
 私は問いかけた。私の耳には、未だ、聴こえ続ける声がある。
「姫は、蝉の声が聴こえます?」
 私は、問いかけた。
「蝉の声です」
「蝉の?」
 姫はきょとんとして言った。

 竹林が、にわかに黄昏時に戻った。

「あ」と。
 姫の視線がぐりっと動き、私は一瞬声を上げた。
「――知らないわ」
「え?」
 姫が外を向いていた。私は、二重三重の意味できょとんとした。
「鈴仙」
「あ、はい」
「伏せてなさい」
「え?」
 私は、久しぶりに見た。
「来たわ」
 姫の、蓬莱山輝夜たる月の姫の、
「私の、待ち人がね」
 満面の笑顔を。

 次の瞬間、永遠亭を赤い光が突き抜けた。










モニタの前のあなたに伝えたい。
神主に「委託ありがとう」。終止符に「マジごめんもうしばらくさようなら」。
そして、全ての東方好きな人達に、おめでとう。

あけまして。
ハルカ
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コメント



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4.100削除
>ウワサの永遠亭。
ウサウサの永遠亭。に見えた私は末期ですか。まっきじゃなくてまつご。意味分からん。
萃香の息吹瓢は飛影の剣(暗黒武術会準決勝第二試合当時)なのかーとか、パチェの顔色がデスラー総統になったらレミリアは めのまえがまっくらになった!なのかーとか。
パチェモンマスターって言うとパチモンみたいでいやな感じですけど151人のパチェを集めるとかだったら喜んで。パチェ萌え。
5.80床間たろひ削除
さーけーはー飲めー飲ーめー飲ーむーなーらーばー♪

めっちゃ楽しげな宴! そしてその裏で蠢く大妖たちの悪巧み!
そして永遠亭に大きな花火が上がる!

たーまーやー♪

わくわくしながら、お待ちしてますぜw
16.80Mya削除
 以前にも書きましたが、一瞬が間延びして永遠になるんです。それが面白くて面白くて仕方がありません。かみ合っているようでどこかずれていそうな、それでいて何故か最後は安穏な一所に収斂する飄々とした文章がたまらなくて、知らず読み手も享楽的な微酔いの空気に呑まれてしまう。
 そんな永遠亭に完敗して乾杯。

>『抜いてと言った部分』が残ってるのに。『抜いて』と言った部分は消えてるのよ

 本作で一番、大笑いした箇所。
21.70銀の夢削除
不思議不思議。読んでいてこれこそ東方風味のSSかと思うような、なんとも不思議な気分になりました。

とりあえずみんな楽しそうだ。その裏で悩む鈴仙に、ささやかな光あれ。
34.80名前が無い程度の能力削除
>末永く仲良く喧嘩しなとは周囲の弁。
周囲は生温かい目で見てるのか、もう諦めてるのかw