Coolier - 新生・東方創想話

夢と虚構に関する考察(あるいは困惑)

2022/04/24 22:03:42
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Scene1


「昨日ね、凄く面白い映画を観たの」
 メリーはこのところ、蓮子に会うたび決まってそう言う。
「へえ。どんな?」蓮子の答えも決まりきったものになる。
「それがちょっと思い出せないの。凄いものを観ちゃったって感覚だけは残ってるんだけど。言葉にしようとすると、どうしても混乱しちゃって…………」
 そうしている間に、「あ、そうだ。このあいだ借りた本なんだけど────」といった具合に、すぐに話題は切り替わる。
 もとより、蓮子はあまり映画を観ない。
 映画鑑賞というのは要するに、自分の代わりに他人に夢をみてもらう営みである。蓮子はそう考えている節があった。自分で夢を見て想像することのできない不感症の人間が、それでも消えかけの感受性に何らかの刺激を与えたいと願った末に開発された最広義の医薬品という評価を下していた。
 そんなことよりは、自分が何を考え、これからどう行動するかの方が、(たとえその結果が今のようにティーカップ片手にだらけるという一見しょうもないものになったとしても)大切なことなのだと考えていた。
 そう考えていたこともあり、メリーが観た映画が、いつ誰によって作られたもので、何がどう面白いのか、特段深掘りする気にはならなかった。
 メリーもそのことは承知だった。酔った蓮子がその話をしたとき「そういう考えもあるわよね」と流しはしたが、その理屈は、先人の残した業績を参照しないで研究をしなければならないという乱暴な考え方にも繋がりかねないものではないかと思い、突っ込んで話をしないようにしていた。
 そのような事情もあり、映画の話はそこまで盛り上がらないというのが常だった。
 それに、努めて映画の話をせずとも、二人の周りには話の種がいくらでもあった。暇を持て余した学生の退屈しのぎとしては、他愛のないことを、その他愛のなさにふさわしくのんびりと話しているだけで十分だった。
 しかしメリーとしては、凄いものを観たという感情を共有せずにはいられず、たとえカメラのフラッシュより短い間でも、その話をしたがった。
「この間も思い出せないって言ってたよね?」
「ええ、そうなの」
「不思議な映画もあるもんだ」そして蓮子は自分でも思いがけず、メリーにこう話しかけた。
「メリーって、通ってる映画館とかあるの?」
 それは、その日偶然カフェテリアの近くで映画研究部が撮影準備をしていたのを見かけたせいかもしれない。
 あるいは穏やかな春の陽光で気が緩んでいたせいかもしれないし、前日に飲んだ旧型酒が少し残っていたせいだったのかもしれない。
「言ってなかったっけ? このところ、夢の中で映画を観ているの」
「えっ、前に行った怪物達がいるような世界? あそこに映画館があるってこと?」
「私もマニアじゃないから詳しくはわからないけど、見た感じはごく普通の映画館よ」
「名前は?」
「忘れちゃったわ。もしかしたら名無しの劇場かも」
「てっきり京都のどこかにある映画館かと。夢の中って、怪我とかしそうでなんだか心配」
「行ってみればわかるけど、全然危ない場所じゃないの。今夜あたり一緒に行ってみましょうよ」


Scene2


 まどろみから抜け出し、靄のかかっていた意識がハッキリしてくると、蓮子はメリーに手を引かれて長い廊下を歩いていた。
「もうすぐ着くわ」
「ずいぶん薄暗いね」
「でしょ。それにここの廊下、進んだ端から壁になっていくの」
 蓮子が後ろを振り向くと、廊下だった筈の場所は既に無機質な壁へと変容していた。
「一方通行か。念のためだけど、帰れなくなったりしないよね?」
「大丈夫。私と一緒にいれば」メリーはそう断言する。
 やがて分厚いシールド扉が現れ、メリーは体重を掛けてそれを押し開ける。
 扉の真上にはランプが緑のランプが点灯していたが、非常口にあるような逃げる人影のシルエットではなく、これまでに見たことのない標章が照らし出されていた。
 それを見た蓮子は少しばかり警戒していたが、ドアの先の光景を見て拍子抜けした。
「普通に映画館だね。言ってたとおりだ」
「ね、普通に映画館でしょ。ちょっとレトロな感じ? ここには妖怪だとか発火する人間だとかはいないの。いるのはみんな、普通の人間」
「あと少しで開場になります。次の上映のチケットをお求めの場合は、お早めにどうぞ」
 チケットカウンターに座り、ツイードのジャケットを羽織っている老人が、二人にやさしく声を掛けた。
「大人二人でお願いします」
 メリーが呼びかけに応えてチケットを購入しているあいだ(日本円が通貨として通用しているらしい)、蓮子はロビーをうろうろと歩き回った。
 大きな防音のホールドアがロビーのすぐ奥に一つしかないことや、上映スケジュールがごく簡素だったことから(単に時刻を記載しただけで、作品名さえ書かれていない)、シアターを一つしか持たない映画館であることが窺われた。
「ミニシアターってやつかしら」蓮子はひとりつぶやく。
 張られているポスターも、ラックに整頓されたパンフレットも、蓮子の知らない映画ばかりだった。興味がないなりにも有名監督・有名俳優の名前くらいは認識しているつもりだったが、自分の見識が想像以上に乏しいのかもしれないと心細い気持ちになった。
 その近くに立っている背の高い有孔ボードには、観客の感想が記されたアンケート用紙が所狭しと貼り付けられている。隣のミニテーブルでアンケートを書くことができるらしい。
 ポスター沿いに等間隔で数台並べられたベンチには、メリーが言っていたとおり、開場を待つ人々の姿が見られた。たしかにおかしな様子は見られない。彼ら彼女らはいずれも、駅ですれ違っても特段の印象を覚えないであろう程度には「普通」という形容詞が似合う。
 だが、どうして普通の人々がこんなところに来られるのだろう。
 もしかしてメリーと同じ能力を持っているのではないか?
 そう考えた蓮子は、「あのー、突然こんな話をしてしまい不躾とは思いますが、今日はどうやってこちらへ……?」と、よれたスーツによれたネクタイの若者に、恭しい調子で尋ねた。
「え? 車ですけど、何か」
「いえ、何でもないんです! どうもありがとうございました」
 その後も憚ることなく数名に同じ質問をしたが、その答えは蓮子を困惑させた。ある女性は「覚えていない」と言うし、ある男性は「気付いたらここにいた」と言う。こともあろうに、ある老女は空港の搭乗ゲートをくぐってここに来た気がするとのことだった。
 どこから来たのかを聞きだそうとしたところで、チケットを携えたメリーが、売り場の老人と談笑しながら蓮子の元にやってきた。
 やがて老人はホールドアの入り口に立ち、もぎりの仕事を始めた。
 開場を待っていた面々はやおら立ちあがり、列をなしてシアターの闇に吸い込まれていく。
 最後尾に並んで列が捌けていくのを待つ間、蓮子はさきほどの疑念をメリーに伝えようか迷い、結局やめにした。楽しみにしている様子のメリーにそんなことを話せば、興を削いでしまうと思ってのことだった。
「今日やる映画、メリーは観たことあるの?」
「ええ。最近、大学で蓮子に話していたのと同じよ」
「えっ。ずっと同じ映画を観て、同じ映画の話をしていたってこと?」
「そう言われてみると、そうなるわね」メリーの答えはどこか要領を得ない。
「どういうジャンルなの?」
「それをここで話してしまったらもったいないわ。ちょうど今から始まろうとしているんだから、自分の目で確かめればいいのよ」
 メリーの言葉が全て本当なら、彼女は夜な夜な同じ映画を繰り返し観て、それを幾度にもわたって蓮子に報告してきたことになる。
 そんなことがあり得るのか?
 湧いてくる疑問符に対する一応の回答すら出すことができないまま、笑顔の老人に見送られ、二人はシアターに足を踏み入れた。


Scene3


 エンドロールが流れ終り、ぽつぽつと座席を立つ観客達を目にして、蓮子はようやく我に返った。
 気付けば自然と涙が溢れていた。
 その涙の流れはとめどないもので、目元を軽くこすった程度ではなかったことにできないものだった。
 悲しいわけではない。苦しいわけでもない。
 新しい活力の湧出が、涙という客観的に認識可能な形で表れている。
 広大で暗澹とした閉鎖空間で、音と映像が脳に流れ込んでくる。映画とは結局そのような事象にすぎないと高をくくっていたが、その映画が、自分にこんな影響を及ぼすということを、蓮子は想像だにしていなかった。
 蓮子の心に残されていたその感覚は、信頼できる人に温かく背中を押してもらったときのものようで、整然と完結した論理を鳥瞰して悦に浸るときのもののようで、果たさずにおかれている目的に向かって進まなければならないという前向きな焦燥感に駆られるようで、後頭部を鈍器で殴られるような圧倒的で唐突な衝撃の余韻のようで、整理して的確な評価をくだすことは極めて難しいといわざるを得ないものだった。健全な情緒の揺らぎというべきなのだろうか。
 だが、蓮子は同時に不可解さと困惑も心の中に抱えていた。
 自分が今まで何を観ていたのか、心がこれほどまでにかき乱されるその原因になったものが一体何なのか、鑑賞対象から何を感じ、いかなる因果経過をもって、こうしてその目に涙を湛えることになったのか、鑑賞直後の時点においてさえ、全く理解できなかった。
「凄かったね……」
 すぐ隣で泣き腫らした目にハンカチを当てるメリーも、内心ではきっと蓮子と同じ状態にあるのだろう。
「一体何があったんだろう……」
「…………」
 メリーはその情緒の起伏すらも慣れたものと言わんばかりに、蓮子よりも早く帰りの支度を済ませた。
 シアターを照らすオレンジ色の灯光が段々と強くなり、二人を除いて誰もいなくなったその空間の虚ろさを強調しているようだった。
「忘れ物がないよう、お気をつけください。次の上映もご鑑賞の場合には、この後チケットをお売り致しますので少々お待ちください」
 出口に佇んだ老人が、誰に話すでもなく、決まり文句を口にしている。
 なんだか急かされているような気がして、気もそぞろなまま二人はロビーに出た。
 蓮子がベンチの辺りで目を閉じて呼吸を整えている間にも、メリーは一人で進んで行ってしまう。
「さっきのドアは入り口専用。帰りはこっちのエレベーターから。準備ができたら行きましょう」
 メリーはそう言って、チケット売り場の傍にある出口から手招きしている。

 既にロビーの人影はまばらで、多くの人が帰途についているようだった。
 そのときの蓮子には、皆がどこに帰っていくのか尋ねようと考えることまではできなかった。
 そんな中、よれよれのスーツを着た彼が、ミニテーブルで一心不乱に何かを書き付けているのを見つけた。やたらに強い筆圧で書いているらしく、ミニテーブルが耐えきれずに小刻みに揺れている。
「何を書いているんですか?」
 酔い覚ましに冷たい水を飲むように、誰かと会話をすれば今のこの気分は落ち着くのかもしれない。
 そんなふうに気軽な心持ちで、蓮子は彼に話しかけた。
「大切なことを忘れないようにするために……書かないと、文字にしておかないと不安定なままになってしまう気がするんです。なにもかもが────ああ、こうして書いている間にも頭の中から消えて行ってしまう。すみません、少し書くのに集中させてもらってもいいでしょうか」
「ごめんなさい、失礼しました」
 勢いに圧されて蓮子はあとずさる。同じタイミングでメリーの呼ぶ声が聞こえる。ここでじっとしているわけにもいかないらしい。
 最後にちらりと紙に目をやったが、文字も文章も乱れており、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。『命』だとか、『希望』だとかいう単語の数々から、何か切実なことが書かれていることは推察されたが、それを質す気にはなれなかった。
 △△△△という彼の名前らしい文字列だけが、蓮子の脳裏に焼き付いた。

「6階で降りれば、この映画館からは出られるわ」
 メリーは慣れた様子でボタンを押す。階数表示は1階から99階までに及び、バカになってしまっているようだったが、点灯しているのは6階だけだったので、特段操作に迷うことはなさそうだった。
「どうだった?」
 そう尋ねるメリーの顔には、さっきまでの紅潮の残滓がみてとれた。
 その様子は、初めて鑑賞した蓮子のそれとさして変わらないように感じられた。少なくとも、これまで幾度も同じものを観てきた者が見せる様子に似つかわしいものではなかった。
「なんだろう、まだうまく言えない……戻ってから改めて話そう」
「わかったわ」
「メリーの感想は?」
「そうね…………蓮子と同じでうまく言えないんだけれど、また観に来たいわね」


Scene4


 翌日、蓮子はスッキリとした気持ちで目を覚ますことができたが、同時にどこか欠落を感じていた。
 真っ白で清潔な壁を見せられながら、その奥に塗り込められている物の正体を秘匿されている。そんな気分だった。
 早速、前日に観た映画の内容をメモに書き出そうとペンを握った。
 そこまでは良いが、何を書けばいいのか全く分からない。帳面は白紙のまま一向に埋まらず、ただ時間だけが過ぎて行ってしまった。
 そうしているうちにメリーとの待ち合わせの時間が近づき、蓮子はやむなくバタバタと身支度をして大学に向かった。
 いつも落ち合う食堂近くのカフェテリアに、メリーの姿はまだない。
 ただ待ちぼうけというのも気が乗らなかったので、蓮子は文房具の補充に大学生協へ足を向けた。
 店内では、こじんまりとした音量でニュース番組が垂れ流されている。ちょうどレジ担当の店員が見やすい位置に配置されているので、つまりそういうことなのだろう。
 普段は目もくれないニュースの映像だったが、その日の蓮子は釘付けにならざるを得なかった。
『現金輸送車強盗 民家への立てこもりから72時間経過 社員の生存は絶望的か』というテロップが目に飛び込んできた。
 プライバシーの概念を持たないらしいマスコミは、ご丁寧に死亡したと目される人物の氏名と顔写真も併せて報道している。あろうことか、液晶には『△△△△』の名前、そして、つい昨日劇場で目にした男性の顔写真が映し出されていた。
 それを目の当たりにした直後、蓮子は買う物も買わずにカフェテリアへと逆戻りした。
 ちょうどメリーがやってくるのが見えた。いつもどおり紫のワンピースをたなびかせて悠々と歩く様子からみるに、さっき蓮子が目にしたことはまだ知らないのだろう。
「おはよう!!」
「お、おはよう蓮子……どうしたの? そんなに急いで」
「もう一度連れて行ってほしいの。昨日の映画館」
「あら。とりあえず話はお茶を頼んでからにしましょう」
 いつもどおりのマイペースさに調子が崩れそうになったが、紅茶のおかげで緊張による喉が渇きはいくぶん和らいだ。
「蓮子にも映画の良さが分かるようになってきたのかしら?」
 頬杖をついてそう話すメリーの様子はなんとも優しげだが、どこか遠くを見ているようで、視線は心なしか虚ろだ。
「あの映画について聞きたいこともあるんだけど、それよりも……メリー、あの映画館のお客さんって、どこから来てるか聞いたことある?」
「いいえ? 夢の世界のことだし、、私が初めて行ったときには既にいたから、最初からそこにいる人たちなんじゃないの。ゲームのノンプレイヤーキャラクターみたいに」
「じゃあ、あの人達と話したことも?」
「これといって話をしたことはないけれど」
 蓮子はカップに視線を落とした。さっき見たことは知らせない方が良いと判断した。
 あの映画館で映画を観た人間は夢の中の幻ではなく、現実にも確かに存在する。そして現実世界で、映画を観た人間に良くないことが起こっている。それはもしかすると映画の鑑賞が原因なのかもしれないし、そうでないかもしれない。確かなことが言えない今の段階で話をして、不用意に混乱させるのは得策ではないと思った。
「話が戻るけど、メリーは今夜もあの映画館に?」
「ええ」
「今日も付いていっていいかな」
「もちろん」
 学生としていくらか不健康なことは承知の上で、蓮子は夜が訪れるのをはやる気持ちで待っていた。

 果たして二度目に来訪した映画館の様子は、昨日と全く変わらない。
 示し合わせたように、蓮子とメリーは開場直前の時間帯に到着し、老人の誘いを受け、チケット売り場で大人二人分のチケットを購入する。
「ここでお金を使っても、目が覚めると財布にお金が戻ってるの。便利よね」メリーはあくまでマイペースだ。
 今日もメリーに座席選びとチケットの購入を任せて、蓮子は早速よれよれのスーツの人影を見つける。怪我をしているようにはまるで見えない。少しみすぼらしい衣服については、犯罪から命からがら逃げてきたせいというよりは、単に日頃の手入れが行き届いていないせいに見える。
「あのー、すいません。ちょっといいでしょうか」
「あ、どうも。昨日も来てましたよね」
「覚えてらっしゃるんですか?」
「忘れられないですよ。あんな映画を初めて見た日のことは」
「それでですね、すみません、昨日に続いてつかぬことをお伺いするんですが」
「いいですよ、答えられることであればなんでも」
「単刀直入にお伺いするんですが、ここに来る前、強盗に遭われてたりします……?」
「強盗!?……………………うーん。すみません。よく思い出せなくて」
「昨日は車でいらしたと仰っていましたよね」
「そうでしたっけ? 今思うと、なんだかそれもあやふやな感じです」
「それって────」
 質問攻めにしているところに、メリーが割って入る。
「蓮子、何してるの? そろそろ入場よ。ほら、あなたのチケット」
「あ、うん、わかった…………すみません、どうもありがとうございました」
 少し訝しげな男性の視線を背に、二人は入場列に並んだ。


Scene5


 シアターに足を踏み入れてからは、男性のことはひとまず措き、蓮子は映画の中身に集中しようと努めた。
 今回こそは内容に集中して、観たことを絶対に忘れまい。
 そう固く決意していたはずだったにもかかわらず、やはりそれは不可能だった。
 気が付けば、蓮子はスクリーンに広がる世界の中に吸い込まれるように没入し、映画が終わる頃になるとお定まりのように涙を流し、心が揺さぶられているのだった。
 また観たい、いや、観なければならない、蓮子の心のどこかにそんな思いが生まれかけていた。


 明くる日に、強盗に遭ったらしい彼との会話を反芻して、蓮子は一つの仮説を建てた。
 彼は昨日、映画を観たのは前々日が初めてと言っていた。そして報道ベースでは、現実で事件が起きたのは96時間ほど前。してみると、彼は事件が起きてから映画を観たという時系列で整理するのが自然だ。そうだとすれば、映画を観たことをトリガーにして事件事故に巻き込まれるという可能性は低いのではないか。
 これをメリーにぶつけてみた。
「考えすぎじゃないかしら。ずいぶん昔だけど、皆の夢にでてくる同じ顔の男の話なんかもあったし、もしかしたらただの他人の空似かも」仮説に対するメリーのファーストインプレッションはこのようなものだった。
 彼女は仮説のことを(というか、例の映画と現実世界での不幸な出来事との関連性そのものを)蓮子ほど真剣に捉えていないようだった。
「そもそも現実と夢は連続性があるんだから、何らかの影響を受けるという意味での広い関連性は、あって当然じゃないかしら。蓮子だって、あの映画を観たときの感覚や印象を、目を覚ました後もずっと持っているでしょう? たとえ映画の中身を忘れてしまっていたとしても」
 いかにも相対性精神学専攻の学生が言いそうなことだ。
 主観と客観が統合されている前提で議論を進めることは詭弁と一蹴されがちだが、ことメリーのように、それを支える特殊な力を持つ人間が言うと相応の説得力がある。

 蓮子は表立って反論をしようとはしなかったが、釈然としない気持ちを抱えたまま、メリーに合わせて映画館への訪問を繰り返した。
 それは自分の疑念に答えをもたらすヒントが欲しかったからであり、あの映画を再び観たかったからでもある。
 メリーはといえば、蓮子がようやく映画文化に対する理解を示したと、このところいつも機嫌がよかった。

 二人は都合が合うたびに足繁く(?)映画館に向かった。
 帰宅する時間は早くなり、傍目には健全に見えるが、二人がその映画館で過ごす時間は段々と長くなっていった。
 暇なときには、(メリーがだだをこねたせいで)夢のなかから抜け出すことなく二回連続で鑑賞したこともあった。

 実害がないのであれば、こうして時間を過ごすのも悪くない。
 映画に惹かれ、そう思うようになっていく一方で、蓮子にはやはりどこか腹落ちしないところが残っていた。
 このままどんどん夢や虚構に浸かっていって、その先に何があるのだろう。
 わからない。少なくとも映画を観ている間、私は現実を生きていない。
 その人にとって夢や虚構の占める割合が高くなってしまえば、それはもはやその人にとっての現実になってしまうのではないか? 夢・虚構と現実は、ある境界を越えれば逆転してしまうのではないか?
 これもまた、わからない。
 わからないが、どこか健全ではないと感じる。やはり生きるべきは現実ではないだろうか?

 浮かぶ疑問はひとまずペンディングにして、二人はまた夢の中で待ち合わせをする。
 いつものように分厚いガード扉を押し開けて、鑑賞の準備を進める。
 いつものようによれよれのスーツを着た彼の姿もあった。
 心なしか、観客が数人増えたような気がしたが、そもそも前回の来場者人数を数えていないため、正確な比較ができない。
 いつものようにチケットの半券を老人から受け取るが、その日は少しだけ様子が違った。
 老人は、チケットの半券に合わせ、手のひらに収まってしまうような小さなメモ用紙を蓮子に手渡してきた。
 そのメモにはこう記されていた。
『少し話をしませんか。もし気が向いたら、途中で抜けて、売り場のところまで来てください』


Scene6


「抜け出してくるのは簡単ではなかったはずです」
「たしかに中座するのは気が引けましたけど、誰も私のことなんて気にしてませんでした。私の友達さえ」
「そうですか」
「このところ、彼女がここの映画にハマっちゃって困ってるんです」
「それはどうも、ご迷惑をおかけしています」
 老人は柔和な顔にたっぷりと皺を浮かべて笑う。その皺に時間の流れを感じさせられ、ここが夢であることを忘れそうになる。
 手狭な事務室で老人と対面しながら、蓮子は勧められるがままにコーヒーを啜る。香り高く、雑味のないコーヒーだった。老人が作っている様子を見るにどう考えてもインスタントだったが、夢の中であればその程度の味の調整は効くらしい。
「ああそうだ。いまさらですが、私はこの劇場の支配人をやっております。そしてこれもいまさらかもしれませんが、私はあなた達を取って食おうとか、この映画館から帰れなくしてしまおうとか、そういうことは全く考えていません。来る者は拒まず、去る者は追わず、ですね」
「それは結構ですが────」
「言いたいことはなんとなく分かりますが、先に一つだけ聞かせてください。あの映画、良いでしょう?」
「…………不思議な映画だと思います。見終わった後に、何というか、爽快で、感動して、でも不安で、いても立ってもいられないような気分になります。」
 老人は腕組みをして、うんうんと頷く。
 そしてテーブルの上の書類をいくらか乱雑にどけて肘をつき、少しだけ前のめりになる。「ご質問には、できる範囲で全てお答えしようと思います。何でもどうぞ」
 蓮子はまず最初に、よれよれのスーツの男性のことを尋ねた。映画のことも気がかりだったが、まずは現実とリンクしていることが明らかな彼のことを早く知りたかった。
「彼は大怪我をしたものの、命までは取られずに済んだそうです。肉体的にも精神的にも大きな外傷を負って、目下療養中とのことです。まあ、噂ですが」
 さっきの彼からは、まったくそんな様子は見受けられなかった。喜色隠しきれない様子でシアターに入場したのをこの目で見たが、矛盾するのではないか。蓮子はありのままの疑問をぶつける。
「これは夢です、当然のことながら。彼はややドラスティックなケースといえますが、それでも例外ではありません」
 老人の言葉は少し無機質さを帯びる。その様子は深刻さを覆い隠そうと平静を装っているようにも見えた。
「現実を捨て、虚構に身を委ねようという強い決心をした方が、ここを訪れます。彼のように。例えば死を眼前に意識した人間。罪の観念に耐えられなくなった人間。望む未来が完全に奪われてしまった人間。強烈な現実の前に押し潰されてしまった人間。人はそれぞれ十人十色の地獄を抱いて現実を生きていますが、皆がそれに耐えられるわけではありません。虚構に全てを委ねざるを得ない人間が必ず一定数いるものです。緩慢な幸福に倦んだ方、悪辣な家族に虐待されながら育てられた方、自殺に失敗して半身不随になった方。掲示してあるアンケートをご覧になれば、その一端を知ることができます。去るも自由、留まるも自由ですが、皆さん自由な意志に基づいて、ずっとここに留まっておられる」
「あの映画が、夢や虚構そのもの、ということですか」
「あれは、細胞分裂前夜の胚であり、羽化直前の卵であり、そしてその後に生じるあらゆる可能性を玉虫色に凝縮したものです。虚構と断じることはたやすいです。しかし、深いところでどこかその人の本質的な側面と繋がることができるのです…………たとえば、少年期の万能感から抜け出せなくなってしまい、流れゆく時間とのギャップに耐えられなくなった人に対して、あの映画は永遠に続く英雄譚を提供します。最後には必ずカタルシス、そして波乱含みの展開を匂わせて終幕する────」虚に焦点を合わせるように、老人は目を細める。「そういう心のカンフル剤を作りたいという気持ちから、あの映画は生まれたのだと思います……」
「観たいものを見ることができるということですか?」
「そのように表現することも可能かと思います」
「でも、私は決まって映画の内容を忘れてしまうんです。それも観た直後から」
「隠された何かを知りたいと望んだことはありませんか。そして『初めて探り当てたときの感覚』を、まるで記憶を消したかのように純な心もちで何度も経験できるとしたら、あなたはどうお考えになりますか? そういった経験をしたいと思ったことはありませんか」
「…………」
「あるいは心の奥底で、誰かに代行された結果得られた感動に対する抵抗をお持ちなのかもしれません。何事も自分の手によって成し遂げたいと考えておられる方であれば、誰かの想像の産物に心動かされるという経験は、不本意な愉悦であり、手放しで歓迎できるものではなくなってしまいますから」
 老人の分析はいずれも正鵠を射ており、蓮子には否定できなかった。
 興味深い謎を初めて暴いた時の感動を、まっさらな気持ちで幾度も愉しむことができたら。そう望んでいたことは確かだ。
 それに、どこかの誰かに代わりに考えてもらった、百万人のためのおあつらえ向きの感動に、自分が安直に共感してしまうことに躊躇を覚えていたこともまた確かだ。
「心の片隅でいま申し上げたような考えをお持ちの方の場合、干渉直後に映画の内容が頭から消えてしまう。そういうふうに、あの映画は作られています。そうすれば繰り返し繰り返し、その夢、その虚構を味わい尽くすことができるようになる……それも一つの楽しみ方ですから」
 蓮子は老人の考えにある程度共感できた。しかし、同意することはできなかった。
「映画は、ひいてはあらゆる創作物は、一過性の娯楽であるべきと思います。魅入られた人をいつまでも縛り付けておくべきじゃない。それは創作者の傲慢だと思います」あえて蓮子は断定する口調でそう言った。
「ずっと誰かの心に残ろうとすることは、そこまで咎められるべきことなのでしょうか?」
「終わらない夢はただの呪いです」
「あなたは強い。もしくは、徹底的に打ちのめされるという経験をまだなさっていない」老人は諭すように、しかし真剣な語り口で続ける。「先ほども申し上げたとおり、ここに来られる方々は、劇場を出ればつらく厳しい現実だけが待っている、そんな方ばかりです。その人たちにとっての呪いとは、いったい何なのでしょう。『現実を見ろ、戦え』と彼ら彼女らを突き放すことは、あまりにも残酷ではありませんか」
「夢の中で虚構に溺れ続けて、その先に何があるとお考えなんですか?」
「夢の果てに何もなくても、私は一向に構いません。そもそもゼロから始まった人生なのですから、夢であれ現実であれ、何も成し遂げることなくゼロのまま終わったところで、失われるものというのは存在しないんです。ですから、ここにいようが、向こうにいようが、本当のところはどうでもいい。夢から覚めるにふさわしい現実が訪れ、観客達が現実に戻ってもいいと思えるときがくれば、きっとそのとき彼ら彼女らは、長い夢に別れを告げここを出て行くでしょう。でもそれまでは、夢に、そして虚構に甘えることを許してあげてください。大切な当館の観客達にも、そしてあなた自身にもね」
 蓮子は押し黙った。自分が言っていることに、看過できない矛盾が含まれているように思われた。蓮子自身、夢・虚構の効能は知っている。そういったものを全く必要とせず、ただひたすら現実を実務的に生きていく才能のある人間では、少なくともない。他の観客のような深刻さはなかったとしても、未知や不可思議さというある種の虚構に惹かれるからこそ、今こうしてここにいる。だが、虚構に全てを委ねていいとも思えない。どこで折り合いをつければ良いのだろうか?
 苦し紛れにコーヒーを飲んでみるが、いつもよりも苦く感じる。それでもミルクと砂糖を入れなかったのは、ささやかな意地のせいだ。
 沈黙を破ったのは老人だった。彼は蓮子が認識する矛盾を、それと理解していながら、あえて指摘せずにいるように思われた。
「……どうもすみません。別に私は口論をしたいわけではないし、ましてあなたを言い負かしたいだなんて思ってはいなんです。虚構がどう、現実がどう、だなんて、心やすいひとときを味わうべきこの場にふさわしくない話題ですね」
 老人は申し訳なさそうに頭を掻く。
「あ、そうだ。他にもお聞きしたいことがあったんですけど良いですか」
「もちろんです」
「この映画の監督って誰なんですか? そこのポスターにも、エンドロールにも、名前が書かれているはずなんですが、私にはどうしても思い出せなくて」
 それは────────。
 老人はその先を話すことなく、腕時計を一瞥して「おや、もうこんな時間ですか」と一方的に会話を切り上げる。
「そろそろこの回の上映が終わります。お連れさんに怪しまれないよう、そろそろお戻りになるのがよろしいかと」
「え?」
「お連れさんにお土産を持たせておきます。それをどうするかは、あなたにお任せ致します」
「お土産って何です?」
 その返事を貰う間もなく、蓮子は慌ただしくシアターに戻されてしまった。
 帰りに出口で老人とすれ違った際も、「お気をつけてお帰りください」と言って微かにウインクするばかりで、新しく話をすることは叶わなかった。


Scene7


「もしもし」
「おはよう。どうかした?」
「私のバッグに、いろいろと知らない物が入ってたんだけど。これってもしかして蓮子の?」
 蓮子の脳裏に、夢で老人が口にした『お土産』の言葉が蘇る。
「……あぁごめん、多分私の。何かの拍子に紛れ込んじゃったみたい。今度会うときに貰っていいかな?」

 蓮子が手渡されたのは、1枚のカードキー、2つの鍵、5枚のポストカードだった。茶封筒に入って、丁寧に封までされていた。
 いずれもメリーには見に覚えがないとのことなので、これが『お土産』であろうことは十中八九明らかだった。
 不可思議な物に触れればすぐにそれを看破するメリーが、これらの品々には特段の興味を示さなかった。魔術的なアイテムの類ではないらしい。
 蓮子はまず、一番に目を惹くポストカードを眺めてみる。
 整然とした建造物の一室(オフィスのようだ)、同じアングルから撮影された夕暮れの一室、プロ仕様の古めかしいビデオカメラ、黒光りする万年筆と革の手帳、ビル群のミニチュアのように机上に並べられたカメラレンズたち。観光地の鮮やかな風景等とは異なり派手さには欠けていたが、だからといって趣味の悪い写真というわけでもなかった。
 奇妙なのは、送り元の住所だけが既に記載されているということだった。

 ポストカードに書かれた住所は偶然にも京都市内のもので、検索してみると、そこに書かれたとおりの住居表示のビルが見つかった。■■ビル。
 今はすでに閉鎖された雑居ビルであり、ややこしいことに、土地・建物の権利者が複数人存在し、ビルの処遇について長年意見を対立させてきた上、あまりに長年そのような状態が続くものだから、孫子の代まで持分権が枝分かれして承継され、連絡が取れなくなってしまった人間も多く、さらにその中には反社会的勢力と目される輩も混じっているらしい。京都駅からも遠くない良い立地に所在していながら、そして安全に影響を与えかねないくらいの相当な老朽化が進行していながら、新しいビジネスのための利活用も改修もなされないまま、その一画だけが時代から取り残されたようにみすぼらしい姿を見せている。
 経済新聞のこのような説明は、実際に■■ビルを何度か通り過ぎたことがあった蓮子の印象とも大きな齟齬はなかった。
 確かにあそこだけ、切り出されたように古ぼけた雰囲気のままだ。
「このビルに何かあるの?」
 メリーの素朴なその質問にどう答えたものか、蓮子は考えあぐねた。
 それは私があの人に聞きたいよ。そんな心の声を潜め、蓮子は「たまには廃墟探索も良いかと思いまして」と提案した。

 じっさいのところ、入手経路不明のポストカードに意味深な住所が書かれており、それがアクセス容易な場所に所在しているとなれば、現地を見聞せずにはおくことは二人の好奇心が許さなかった。
「あの記事どおりね。本当にここだけ廃墟になっちゃってる。それに管理人も警備員もいないみたい」
「給料を払う人もいなくなっちゃったんだろうね」
 夕暮れの雑踏に紛れてビルの下見を済ませると、近くのファストフード店で簡単に腹ごしらえをし、だらだらと時間を潰す。
 さらに暇を持て余した二人は、近くのシネマ・コンプレックスのレイトショーで一番過剰に宣伝されている映画を鑑賞する。アミューズメントパークのアトラクションのような映画だった。
 そして夜半、二人は再び■■ビルを訪れる。
 問題は建物内に侵入できるかというところだったが、これはフィクションのように簡単に進んだ。
 裏口の前に立ち、まず蓮子はインターホンのような機械が設置されていることに気付く。
「もしかして」そう口にすると、封筒から白いカードを取り出し、その機械にかざす。
「たぶんこれは警報装置なんだと思う。これで人を呼ばれずに済むはず」
 さらに、同封されていた鍵のうち一つが、ビル裏の勝手口ドアにぴたりとはまった。
「凄いわ。でもどうしてわかったの?」
 いずれについても、勘以外の何物でもなかったが、「直前まで何も言わない方が、映画っぽいでしょ」とだけ言い、蓮子は平然とした様子で進んでいく。
 結局、冒険も困難もないままに、蓮子とメリーはそのビルに侵入した。
「夜の廃墟っていうのはロマンチックね。これで周りに何もなかったら、もっと雰囲気出てたかも」
 呑気なメリーをよそに、蓮子は早足ですたすたと進んでいく。
 ポストカード以上の手がかりを持っていないこともあり、ビルに入って以降は、各フロアをしらみ潰しにあたってみて2つ目の鍵に合う部屋がないか探すという、きわめて原始的な手段によらざるを得なかった。
 古い景観条例のせいか、■■ビル自体はそこまで高層というわけではなく、確認すべきフロア数が少ないというのが救いだった。

「お、当たりみたい」
 メリーが通路の残置物に気を散らしている間に、目当ての部屋を見つけることができた。
 適合した鍵穴が回る確かな手ごたえと共に、ドアノブに手をかける。
 ドアの先に広がる空間は、予想を大きく裏切るものではなかった。
 所々折れ曲がったブラインドで閉め切られた、黴臭く埃っぽい空間。ライトで照らされた先の光景は、ポストカードの小綺麗な写真とは似ても似つかない。
「誰かいませんか?」
 当然のように、答えはない。
 蓮子がざっと見回して判断するに、そこは、オフィスとして用いられていたであろう場所に、強引に撮影編集用のスペースが増設された場所だった。
 段ボール箱に並べられた古ぼけたフィルム、開け放たれたままのファイルキャビネット、床に広がり放題の印刷物、空になった弁当箱やペットボトル、ライトの光から逃れるように駆けるネズミたち(彼らは急に足元から走り出したので、蓮子は頓狂な悲鳴をあげた)。
 多少の物珍しさはあったものの、夜逃げでもあったのだろうかと窺わせる、平凡な廃墟の一室だった。
 向かって奥にある棚には、フィルムの収められた段ボール箱がずらりと並べられている。フィルムとはディスクが用いられる前の記録媒体らしいということを知ってはいたが、蓮子は実物をほとんど見たことがなかった。
「聞きそびれいていたけど、ここには何があるの?」
「分からないの。目当てがあってそれを取りに来たというよりは、何があるかを探しに来たって言った方が正確かも」
「ふうん。それじゃ、私はあっちの部屋を見てくるわ。蓮子はこの辺り担当ね」
 そういうと、メリーは区切られた個室の方に歩みを進めていった。
 蓮子は気を取り直して広間の方を探索する。
 やはり映像制作に関連する物が多く見つかった。
 床に目をやれば、描きかけの絵コンテや原稿用紙が積み上げられていたり、机に目をやれば、映画制作の方法論や演技論に関する随分と年季の入った書籍が並べられている。
 だが、フィルムやディスクと同様に、並べられた書籍達には抜け漏れがあり、一部のみが持ち去られているようだった。
 ミスプリントらしい紙片の一部に、破産手続開始申立書、債権者一覧表などといった表題の書面があることに目がいく。
 そしてその書面の周囲にだけ、毛色の違う残置物がまとめられていた。事件名が背表紙に書かれたファイル、各種の印鑑、空欄のままになっている公文書の書式たち、そしていくらかの法律書。
 法人名は●●株式会社。破産の準備をするくらいだから、事業がうまくいかなかったのだろうかと、蓮子はぼんやり推測する。

「メリー、何か見つかった?」
「こっちこっち。見れば分かるわ。部屋は面白い感じに弄ってあるんだけど、珍しい物はあんまり見当たらない」
 メリーの後をついて行き、応接室や会議室として用いられていたであろう個室に足を踏み入れる。
 最初に案内された部屋は、倉庫のようになった会議室だった。会議机は制作台に様変わりしており、文房具、工具、ケーブル類、スライダー、ドリーやクレーン等の古びた撮影機材、小道具がところ狭しと並べられていた。小道具には統一性がなく、モデルガン、ウィッグ、ロープ、服を着た骨格標本など、使用された映画を想像することが困難なラインナップとなっていた。
「●●株式会社って、債権回収業をやっていた会社みたいね。ずいぶん昔の話みたいだし、あんまり評判は良くなかったみたい」
「映像制作の下請けとかをやっていたわけじゃないんだ?」
 メリーがその場で検索をかけた結果は、目の前の光景を説明するに十分なものではなかった。
「少なくともネット上ではそういう情報は見つからないわ」
 次に案内された部屋には、小さなシアター環境が整備されていた。
 部屋の中心には、ちょうど二人が座れるくらいのソファー。天井にもスピーカーが設置され、屋外イベントで使うような張込み式のスクリーンも鎮座している。といっても、張られた布はずいぶんとみすぼらしくなっていたし、映写機材や音響周りの環境にしてもずいぶん時代遅れで、値の張る本格的なものというわけでもない様子だった。個人宅のシアタールームと説明されれば納得できなくはなかっただろうが、これがオフィスビルの一画にあることに合理的な理由は見いだせない。
「ずいぶんと遊び心に溢れた会社だったみたいね」
「入ってすぐの部屋で、破産がどうのこうのっていう書類を見たわ。こういう部屋って、会社が破産する直前か、破産してすぐの頃に作られたんじゃないかしら、たぶん」
「誰が作ったの?」
「……それはわからないけど」
 背後には、ほとんど空っぽになった棚があった。推測するに、ここにもおそらく映画のフィルムやディスクが並べられていたのだろう。そして、お金に換えられそうなものだけが持ち去られたのだろう。自前で焼いた無地のディスクだけが、片隅に寂しそうに残されていた。

「ねえ蓮子! この部屋、電気が点くみたい」
 メリーのその声と共に、機械たちはエネルギーの供給を待っていたかのように動き出した。
 どれも古ぼけたものばかりだったので、故障していてもおかしくないと思われたが、予想に反し老いた機械たちは元気そうな様子だった。まだまだピンピンしてますよ、そう言わんばかりに駆動音が聞こえる。
「折角だから何か観てから帰りましょうか」
 そう言いながら、メリーはソファーにぼすんと腰掛ける。
残されたディスクにどんな映像が残されているのか確認するのも探索の一環ということで、蓮子も一緒に観ることにした。
 起動したてのプロジェクターが放つ光が、舞い上がる埃を鮮やかに反射させる。
 そこで何を観るべきか、そもそも観るべきものがあるか、いっとき蓮子は思案したが、やがてその必要はないことに気が付いた。何を操作するでもなく、映画は突然に始まったからだ。

 いくらかのノイズの後、少しくぐもった音質で往時のサックスジャズが流れ、ピントのぼけていた映像に焦点が定まる。映画が始まった。
 それはたしかに映像の連続性が維持されるよう編集が施された映像ではあった。
 だが、凝った編集や、気の利いたカメラワークとは無縁だった。
 そして何か具体的な筋書きのあるものではなく(少なくとも蓮子がそれを把握することはできなかった)、継ぎ接ぎの残像、もしくは人が死ぬ間際に観る走馬灯のような映像に思われた。
 暗闇の中で言い争う声。
「どうしてなの」と泣き崩れる、中年の女性。
 クロッキーに乱暴に書かれた、不思議な動物の絵(アリクイのように見えるが、獏だろうか?)。
 撮影者に怒号を浴びせかける強面の男性。
 脈絡のない独白と、人のいない風景。朝焼けに照らされた海沿いの工業地帯。鬱蒼と木々が生い茂る中にぽつりと佇む神社。街灯が驟雨を照らす中、通る車の一台もない道路。
 無邪気そうな笑顔を浮かべて、安っぽいモデルガンを携える小さな男の子。
 スーツを羽織ってネクタイを締めた、うつろな目をした男性。
 スクリーンに映る人々が演技をしているのかどうかさえも判然としない。
 ときおり、カメラを持った男が鏡や窓越しに自分の姿を撮影している。公衆トイレらしき場所で、自宅の姿見の前らしき場所で、夜景の見えるビルの一室で。
 川辺で燃やされる原稿用紙の束。
 ジャズから歌謡曲、ロックミュージック、クラシック音楽、ダンスミュージックと、思い出したように流れる音楽にも、全く統一性がなかった。
 民族音楽のような楽曲が鳴り止んだ後、映像が手持カメラの一人称視点になった。
 手ブレを気にすることもなく、カメラは建物の中を進み、ドアを開け、小さな部屋に入る。
 その部屋にはスクリーンが、スピーカーが、プロジェクターが、大量のガラクタとディスクと電子機器があり、真ん中には聖域のようにソファが備え付けられている。
 撮影者はソファに辿り着き、どっしりと腰を下ろす。
 そしてカメラはゆっくりとパンして、背後にある撮影者の顔に近づいていく。
 撮影者の首元が見える。痣がついている。
 撮影者の顎が少しだけ画面に入り込む。
 そしてその映画は瞼を閉じるかのように暗転し、始まったときと同じく、唐突に終りを告げた。

 スクリーンが暗転するのを待っていたかのように、部屋全体にも暗闇が訪れる。
 しかしその暗闇も長い間続くことはなく、やがて二人は灯光に照らされる。映画が終幕した後にいつも差し込んでくる、あの柔らかい橙色の光だった。
 蓮子はハッとして周囲を見渡す。そして、自分が廃墟の一室にしつらえられたソファーではなく、劇場の座席に腰を据えていることに気が付く。思い思いのタイミングで座席を立ってシアターを後にする他の観客。暗くて顔がよく見えない。
「メリー?」
「うん?」
 隣にはメリーがいた。そのことだけは蓮子を安心させた。
「さっきまで私たち、古ぼけた部屋のソファーに座って──」
「いやね蓮子。それはさっきまで観ていた映画でしょ?」
「あれ? そうだっけ?」
 混乱する頭のまま、メリーに手を引かれてシアターを出る。
 そこはこれまで幾度も足を運んだ夢の中の劇場だった。支配人の老人が、柔らかな笑顔を浮かべて会釈をする。
「本日はお越しいただきましてありがとうございました」
 そして通り過ぎざま、蓮子にだけ聞こえる声でこう耳打ちした。「ご足労をおかけしたようで、恐縮に存じます」
「え? それってどういう───」
 蓮子はそう問うたが、答えを確かめる暇は与えられなかった。
「ほら何してるの蓮子。エレベーター来ちゃったわよ。後ろがつっかえてるんだから、はやくはやく」
 その他の観客、メリー、そして蓮子と彼女の釈然としない気持ちを載せ、エレベーターは6階へと下降を始めた。


Scene8


 目を覚ますと、ブラインドの隙間から早朝の薄明かりが差し込んでいる。
 黴臭いソファに腰をかけたまま、いつのまにか眠りについてしまっていたらしかった。
 メリーの姿を探して部屋をぐるりと見回した後に、蓮子の太腿を枕代わりにしてソファに横になっている彼女に気が付いた。
「メリー、起きて」
「う~ん…………あぁ、おはよう…………ここは?」
「映画を観始めて、そのまま寝ちゃってたみたい。人通りが多くなる前に出たほうが良いかも」
 その声に応える代わりに、メリーは大きなあくびをする。それは蓮子にも伝染し、二人は同じように口元を手で隠し、部屋に流れる淀んだ空気を吸い込んだ。
「疲れてたのかしら、気が付いたら寝ちゃってた観たい……あれ? 機械の電源は蓮子が落としてくれたの?」
 そう言われてみると、唸り声を上げていた機械達は静まりかえっている。
「いや? 私もさっき目が覚めたばっかり」
 自動でスタンバイモードになっていはしないかと、背後のプロジェクターのボタンを適当に押してみる。だが、機械はうんともすんとも言わない。肝心の電源ボタンを押しても、動き出す様子はない。
「ねえ。こっちのプロジェクター、動かなくなっちゃってる」
「こっちのスピーカーも。主電源すら点かない。…………というかそもそも、こういう廃墟に電気って通ってるものなのかしら?」
 言われてみればそうだ。警備会社の装置用に特別に通電しておくならまだしも、人が来るはずのないこの部屋に電気を通しておく理由も必要もない気がする。
「でも、確かにここで映画を観た気がする」蓮子が確認する。
「そうね」メリーも同意する。
「しかもその後、例の映画館にも行ったわよね?」
「ええ」
「映画の中身、覚えてる?」
「いや────どうだったかしら。一日にたくさん映画を観ちゃったし、少し混乱してるのかも」
「それもそうね…………」蓮子は言葉を濁す。蓮子としては、夢の中に入り込んだ明確な記憶はない。ここで観ていた映画こそが、夢の中の映画の内容だったのではないかと思っている。そしてこれまでとは違い、映画の中身は(理解こそできなかったが)明瞭に覚えている。正体不明の涙が流れるわけでもなかったし、むやみに心が乱れるということもない。
「このところインドアな趣味にどっぷりだったから、フィールドワークがしたくなってきたわね。昨日ここに忍び込むときなんか、久しぶりに楽しかったわ。そういえばこのあいだ一人でオールドアダムに行ったときに、ドッペルゲンガーの話を聞かされたんだけど、これが面白そうな話でね────」
 あくまで呑気なメリーは、この状況でも特に混乱せずに今後の話をしていた。
 ついさっきまで観ていた映画のことは、すっかり頭の片隅に追いやられて行っているようだった。蓮子の比にならないほど入れあげていたにもかかわらず、既に立場は逆になっていた。


Scene9


「メリー、最近あの映画館に行ってる?」
 数日後、蓮子はタイミングを見計らって尋ねてみた。
 蓮子は毎晩のように訪問を試みていたが、とうとう辿りつくことができずにいた。メリーはもう飽きてしまったのではないか? そう尋ねたい気持ちもあったが、このことはメリーには伏せておいた。
「このところはご無沙汰。蓮子は行きたい?」
「うん、ちょっと気になることがあって」
 その夜の夢の中、長い廊下を抜け、ドアをくぐる。一枚の張り紙と共に、いつも開けっぱなしのガラス扉は閉め切られていた。
【都合により、一時休館とさせていただきます。なるべく速やかに営業を再開致しますが、具体的な時期を申し上げることが難しい状況にございます。ご迷惑をおかけし大変恐れ入りますが、またのお越しをお待ちしております。】
「残念ね」
 ガラス越しに、無人のチケット売り場やロビーの一部が目に入ってくる。
 奥のポスターに掲げられた、例の映画を創った監督の名前。その正体を知りたいようで、知りたくないようで、うっすら分かっている一方で、分かりたくない気持ちも持っているようで。会ってどう話そうか見当が付いていなかったが、とにかく彼に会わなければならないという決心だけはしていた。
 それが今夜は叶わない。そのことに、蓮子はどこか安心してもいた。
 誰もいない映画館からは、夢の残り香が漂ってきそうで、なかなか目を離すことができない。
 しかしずっとそうしているわけにもいかないので、蓮子は渋々帰りのエレベーターに乗り込む。
「気になることって何だったの?」
「ううん、大したことじゃなかったんだけどね。ちょっと支配人のお爺さんと話がしたかったの」
「ふうん。まぁ、完全に閉館するわけじゃないみたいだから、しばらく経てば、気が向いたときにいつでも行けるようになるわ」
 そう励ましてくれるメリーに生返事を返しつつ、そうなる見込みが薄いであろうことを、蓮子はぼんやりと予感していた。メリーにとって、ここはきっと一過性の非日常にすぎない。

 浅い眠りから目を覚まし、蓮子はコーヒーを淹れる。
 コーヒーの湯気と香りにいざなわれ、老人の顔が浮かんでくる。
『ずっと誰かの心に残ろうとすることは、そこまで咎められるべきことなのでしょうか?』
『夢の果てに何もなくても、私は一向に構いません』
 少なくとも蓮子は、夢を通して得た記憶を、答え合わせの済んでいない問いを、そしてあの映画を、しばらくのあいだ忘れられそうにない。
秘封倶楽部(主に蓮子)を主人公にして書くのは初めてです。
非常に楽しく書けたのですが、「これもしかして秘封じゃなくてもいいのでは?」という疑念が拭えずにいます。
ですが久しぶりに最後まで書き終えられたこともあり、供養がてら投稿させて頂ければと思います…………
夢違科学世紀のブックレットと多少リンクしている(はず)です。
何卒よろしくお願い申し上げます。
そらみだれ
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コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
夢というものは現実と続いているものだとは作中でも言及がありましたが、夢あるいは幻想やまやかしといったものと真正面から向き合いながら生きていくのが秘封倶楽部であり、だからこそ蓮子にしてみればこの素晴らしい映画が良いか悪いか、すぐに答えは出せないのだと感じました。ありきたりな倫理観では推し量れない問題提示で、悩みながら探っていくしかないのだとも。
最後のほうのメリーにして見れば一過性の享楽的な幻想に過ぎないというのも、二人の価値観の違いが表れているようでお気に入りです。
いろいろと考えてしまう作品でした。面白かったです。
3.100竹者削除
面白かったです
4.100ヘンプ削除
不安定な夢ということを追う蓮子がとても良かったです。
あのおじいさんは何を思っていたのだろうって思います。
面白かったです。
5.100夏後冬前削除
秘封倶楽部を題材にして書くお話として、抑えられるべきところをきちんと押さえた作品というふんわりとした印象を抱きました。基本的には古いミニシアターのレトロな雰囲気を楽しみつつ、出てくる不思議(オカルト)に明確で強い哲学があることがグッときました。
6.100名前が無い程度の能力削除
映写機のように廻る穏やかな謎の雰囲気が素晴らしかったです。
7.100Actadust削除
二人の踏み込み具合が凄く絶妙で、いい秘封でした。全てが謎のままでもなく全てが詳らかに語られることもなく、おじいさんの理屈に蓮子が悩みながらも秘封倶楽部が進んでいくのが、どこか印象的でした。
8.100名前が無い程度の能力削除
描写細かくて映画みたいでよかった
9.100めそふ削除
とても良かったです。支配人の老人のキャラクター性がとても好みで、夢や虚構の話が本当に自分に刺さりました。現実の不条理さに打ちのめされ、何もかもに耐えられなくなった状態でこの映画に辿り着くことができたらどんなに幸せなんでしょうか!この蓮子達は幸せな状態なまま生きてきて、恵まれてもいて、そういう点からも真の意味で支配人の言っている事を理解できたのかどうか分からないですけど、寧ろそれが秘封っぽくて良いかなって感じがしました。最後まで完全に秘密が明かされる事はなかったんですけど、それが夢を表してくれる感じがして、めちゃくちゃ面白かったです。最高でした。
11.100サク_ウマ削除
とろとろと自我の解けていくような感覚を幻視しました。良かったです。
12.100植物図鑑削除
良い秘封でした。文字通り夢を見ているような、それでいて確かに手触りを感じられる、そんな話でした。きっと夢には答えなんてない、だからこそ夢と言える、そう感じます。だからこそ夢に対して私達は様々な感情を抱くのだと思わざるを得ません。
14.100名前が無い程度の能力削除
雰囲気が好みでした。
直接的に結論が描かれないところ込みで、夢のようで良かったです。
15.100鈴木孫一削除
面白かったです