Coolier - 新生・東方創想話

My Fairy Lady

2022/04/22 21:43:40
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 太陽も月も、身勝手だと思う。みんなみんな、私を置いて、全く別の姿へと変わってしまうのだ。

 太陽というものは、昔はもっと優しい存在だったはずだ。昼の世界に微笑みを浮かべ、暖かな大地を抱くもの。私はいつもその輝きに、頬を溶かして見惚れていた。

 月というものは、昔はもっと明るい存在だったはずだ。夜の世界に優雅に輝き、見果てぬ暗闇を照らすもの。私はいつもその輝きに、寝るのを忘れて見入っていた。

 それが、今ではどうだ。太陽は段々とこの地上に近付いてきて、苛烈な昼を押し込めて肌を刺し。月は夜の事なんかまるで忘れてしまったみたいに、小さく弱くなっていく。はてさて、その二つを失ってしまったら、それでは私はどうやって宙を飛べば良いのだろう。何を以て、この宇内を生きていけば良いのだろう。

 目印が欲しかった。物差しが欲しかった。私が一眠りした後に、何も変わらず不動のままで、眼を開けた私に、見つめ返してくれるものが欲しかった。



 ああ、ほんと。たったそれだけなんだけど。

 それはそんなにあまりにも、身勝手なお願いなのかしら?






 夢の中の私が、一人寂しく呟いたところで、現実の私は瞼を上げた。南の空を独り占めするように肥大化した太陽から降り注ぐ閃光が、竹の葉擦れの合間を縫って私の頬に落ちてくる。その日差しに耐えられなくなって、手を眼の前に持ってくると、樹冠の陰よりずっと低いところから声が落ちた。

「……き、て」

 赤青の奇天烈な服装に似合わない、白。

 白昼夢のような曖昧に宿るスキマの空白でも、羽根を焼き焦がすような陽光が注いでくるフラッシュアウトでもなく。人間が垂らす白髪の灰色を極限まで薄めたような、そんな白色を冠にした人が、そこには居た。

「起きて。ここは永遠亭の寝台じゃあないわよ」

 おそらくは、私が眠りに落ちたときと、何らその目の色を変えないままで。じいっと、瞳の奥を見通すかのように、私に焦点を合わせている。

「私、いつのまに寝てた?」

「……そんなに眼を離した訳じゃ無いから、おそらくは数分ぐらいだろうけれど」

 上体を起こそうとすると、地面に落ちている竹の葉が、掌を凹ませて痕を作る。繊維質がそのまま線形をとったような剥き出しの直線は、皮膚に親しむ事は無い。

「真っ昼間から気絶するように眠るのは、見過ごせない症状ね」

 雑草が生えておらず、いつまでも竹の死骸しか積み重なっていない地上は、こうして横になっていた身からすれば、随分と寝心地が悪いベッドだった。竹林内部の下草が貧弱なのは、竹が樹冠を覆い尽くして日光を遮る事とはあまり関係が無く、殆どは根の特性から来ている。恐ろしい勢いで生息域を拡大していく彼らに対して、それでも水と栄養分を奪い取る事を辞さない、強い草だけが生き残れるのだ。

 そんなものだから、私の目線に息づく星は、酷く疎らだった。この世界に蠢く星は、酷く距離が離れた疎集団となっている。地上はこんなにも立ち並ぶ竹達で賑わっているというのに、実際に生きている星は、ごく僅かだなのだ。地下深くに潜んでいる大きな大きな星が、四方八方にタコの如く触手を伸ばして、さもここが星口密度の高い騒がしい空間のように見せかけているだけ。端々で、ここからは我が竹の生息域だ、と先鋒を突き合わせて威嚇をしているけれども、本星同士が顔を合わせることは決して無い。竹の本体だけが独りぼっちで点在するこの宇宙は、蝉時雨よりも声が大きい葉擦れの落差と相まって、酷く虚しい領域だった。

 ……ただ。

 たった一つ、他のどんな星とも違う、鮮やかな輝きを放つ星がある。竹林が押し流してくる寂しさに圧殺されず、美しく煌めく星がある。そんな星が、永い長い眠りの目覚めを伴にしてくれたら。きっと私は世界一の幸せ者になれるだろう。

「兎に角、今日はもう戻った方がいいわ。日陰の多い林を選んで帰るから、さっさと薬を飲んで、暖かい布団の中で横になりなさい。こんな竹林の草枕じゃなくて」

「いや。そんな、永琳に手間を掛けさせる程じゃ……」

 しかし。その星は、何者にも応えない。

「……立派なお姫様になりたい、って言ったのは貴方の方よね。体調管理も、上に立つ者としての立派な仕事だと思うのだけれど?」

 ……その星は。何者にも交わらない。



 黄昏の帳が降りる天蓋の表面で、星々はお互いに離ればなれになろうとしているように見える。夜がさらに深まれば、きっとすぐに星ごみでぎゅうぎゅう詰めの満員運航が始まるけれど。昼と夜のスキマだけは、この黄昏時の間だけは。空虚な空が本質なんじゃあないかと思うのだ。闇の中にほんの僅かな希望の灯りを立てて、寄せては返す大気の揺らめきに洗い流され。本当に強い輝きだけが自己を確立し、それ以外の数多の雑魚星は、膨張する空と共にとんでもないスピードで独りぼっちになっていく。

 黄色い昏の中で生きる。きっとそれが、本来の形なんだろう。今までずっと、太陽と月に甘やかされていた私が、それに気付かなかっただけで。

「……陽が落ちるのも、もう大分早くなったわね」

「ん……」

 永琳は、この黄昏も、星が去って行く暁をも越えて、延々とこの竹林で竹を取って生きている。雨が降ろうと、雪が降ろうと、数日間は永遠亭に戻ってこないことなども良くある事なのだ。この広大な竹林の中で、きっとその切り痕が他の誰にも見つからなくたって。永琳は一人で竹を切っている。ずうっと、ずっと。

 そんな永琳も、こうして身勝手に後を付いてきた私の体調が悪くなると、眉を顰めながらも私の身体を背に負って、永遠亭に向かって歩き出してくれるのだ。背丈だって、もう幾分も変わらないであろうに、長く伸びた私の黒髪を林床に擦らないように、注意を払いながら。

「……あれ?」

 永琳が倒竹の藪を踏み越えた瞬間、私の顔が大きく揺れて、頬の上の辺りが熱くなった。手の甲を鼻に当てると、しっとりとした湿気が指を覆った。溢れる水は止まらなくて、瞼をぱちくりと動かしても、収まることを知らない。

 おかしいな。眼にゴミなんか入っていない。あくびなんかもしていないのに。自分の掌のみの被害で抑えようという努力も報われず、永琳のほっそりとした首筋に私の涙が落ちた。ああ、しまった。これでは気付かれてしまう。

「……泣いてるの?」

 永琳も困るだろう。おんぶをしていたら、急に泣き出してしまう奴がいたら。馬鹿、馬鹿、私の馬鹿、早く涙を止めなければ……と。思えば思うほど、私を嘲笑うかのように、塩水の流出量は増えていく。どうしよう、どうしようと頭を回しても、涙腺に回された血の分だけ、私の脳はすっからかんだ。出来たことといえば、精々自分の脚が地面に着いた事くらいで。

「これ。使って」

「え……」

 開閉機能がバカになった私の瞼を持ち上げると、永琳は白い素朴なハンカチを私の目元に宛がっていた。

「馬鹿ね……一人前になりたいなら、独りでも涙を抑えなさいな」

 永琳は、そう言った。白い髪とハンカチを夜空が挿す黄金で染めながら、随分と手慣れた様子で。



 永琳は、独りで在ろうとする星だけれど。誰かの為に生きる術をも知っている。この、誰もが独りで生きる黄昏の空の中で。

 ……だから、私は泣いたのだろうか?






「つきにはうさぎがいるってきいたことあるけど。ひめさまは、つきのうさぎ、みたことある?」

「……ええ。あるわ」

 孤独な空は、地上の兎にも影響を与える。てゐが、最近の若い子は皆ヒトガタをとれなくて情けないと言っていたけれど、それも仕方の無い事だろう。妖気は天上を支配する大きな満月に、最も充填されるもの。こうも月が遠ざかってしまっては、身体に十分な妖気を留めておける兎は殆ど居ない。今、私の膝の上に頭を載せて月を見上げているこの子だって、まだまだ覚束ない喋り方だけれど、ここまで人体変化を続けていられる事が奇跡のようなものなのだ。

「へええ。ほんとにいるんだ。わたしもいって、あってみたいな」

「大変よ?……月に行くのは。ずうっとずうっと、遠くにあるから」

「そんなにとおいの。どれくらい、とおくにあるの?」

「え。ええっと、そうねえ……」

 約三十八万四千キロメートル。永琳の書庫に置いてある文献には、大抵そういうふうに書いてある。そして、月の軌道は、年に四センチ程遠ざかっている……こういうふうに注意書きが続いていることも、往々にして存在する。

 しかし。私とこの子が今座っている永遠亭の縁側から、あの小さな小さな月まで。今は一体、どれほどの距離があるのだろうか。私には分からない。

 あの本たちが記された時代と、餅搗きをする兎さえ肉眼で見えない現在。その時間が、どれだけ離れているかが分かれば、遠ざかる月軌道の年速にかけ算をするだけで、答えが導き出せるだろう。しかし、時を計る方法すら、私は知らないのだ。

 きっと、永琳に聞けば、その答えを教えてくれるか、解を導くために必要な知識が載っている本を渡してくれるだろう。けれどもそれでは、与えられる餌を目一杯腹に収めようと、嘴を突き出すひな鳥と同じだ。

「えっと。月の……光がね。地球に届くまで、一秒ちょっと掛かるの」

「うぇ?」

「あの、その、つまり……」

 別に。この子は、月と地球の距離を正確に知りたいわけでは無かったのだろう。私との他愛も無いやりとりの中で、未完成の博物誌に記されている空白に、疑問を発しただけなのだろう。だから、顔を真っ赤にして答えようとムキになるのも可笑しいのだけれど。永遠亭の姫たらんとしている私は、独りで完成された姫でなければならないと叫ぶ私は。無理矢理に、薄い宙に向かって手を伸ばす。

「私達の目に入る光も。空気と一緒で、移動していてね。……ここ、に、いる私達の姿が、月にいる兎に届くまで、一秒も掛かるの。私達が、縁側でおしゃべりしてるって分かるまで、一秒も」

「……」

「でも、私と、貴方は。今、その瞬間に眼の前にいるのが分かる。私達は、同じ地球の同じ場所にいるから」

 ……たとえその姿が、繕いだらけの、みすぼらしいものであっても。

「そのくらい、月は遠いのよ……」

「ふうん。……すっごくとおいんだね」

 多分、私は月と地球の距離を、上手く伝えられていない。それでもこの子は納得したように頷いてくれる。自分の不甲斐なさが情けなかった。

「やっぱり、すごいなあ、ひめさまは」

「……え?」

 月を見上げていたはずの、仔兎の眼が、いつの間にか私の顔を見つめていた。まん丸のほっぺたの上に、きらきらと輝く星が並んでいる。

「だって。わたしがわからないこと、なんでもしってるんだもん!」

「……」

 確かに、私の知識は昔に比べて随分と拡張された。人前に出ても、ボロが出ない程度に演技をすることは出来ている。けれども、知れば知るほど思うのだ。独りを保つことの、なんと難しいことか。他者の光を借りずに輝く事の、なんと難しい事か。

「まるで、あのおはなしのおひめさまみたい。つきからきた……」

「……かぐや姫?」

「そ!」

 月が大威張りで闊歩していた夜と、隅に子犬のように縮こまった今夜。後者の夜空の方が、より美しく星々が散りばめられているのだろう。しかし勘違いしてはならないのが、星そのものの輝きが、絶対的に増している訳では無く。星空はいつも相対的に観測される、ということだ。

 今はもう、膨張する太陽の光に飲み込まれてしまって、最も明るかった明星は見えないけれど。火星をはじめとする惑星たちは、自身で光を放っているわけではない。それでも、何光年も向こうにある、星の命を燃やして蒼く輝くシリウスと等しく、地球に見つめられている。太陽という強大な止まり木にあやかって。

「かみがつやつやくろくひかってて、とってもきれいで、みんながだいすきになっちゃって」

 だから。自分の輝きを、心を鎮めて眺められるその日まで。決して傲ってはいけない。忘れてはならない。私は、欠けた双子星の複製品に過ぎない、ということを。

「きっと。かぐやひめって、ひめさまみたいなひとだったんだろうなあって。おもうもの」

「……ふふ。ありがと」



 そう。私は、かぐや姫にはなれないのだ。

 今は、まだ。






 鏡台の手前、お姫様である事を取り繕っている私。これは、道化だ。

 鏡台の向こう側、立派なお姫様に見える私。これは、かぐや姫だ。

「ああ……貴方には、本当によく似合うわね」

 もし、私の目元に、歌舞伎役者のように縁取られた濃いクマがあったら、きっとこの白粉もよく似合うのだろう。けれども、一日の内、半分ほどを眠りに費やしているこの身体にも、永琳は容赦なく粉をはたいていく。ホタテ貝一枚分では足りずに、二枚目を用意するほどに。

 正直言って、私はこの化粧というものは嫌いなのだ。自然のままで在りたい、というのが本心だった。けれども、この仮面を被ることで、鏡の世界の向こう側には、お伽噺のお姫様が顕現してしまう。……永琳は彼女を待ち望んでいるのだから、この顔を無碍にすることは出来はしない。

「ちょっと動かないでね、今度はこの蒼を試してみるから……」

 煌びやかな螺鈿細工と、黒光りする漆で彩られた引き出しの中には、古今東西から集められたであろう化粧品が納められている。私には単なる粉や液体にしか見えないけれど、永琳からすれば魔法の蒐集品に等しい価値があるのだろう。何処にでも居る冴えない女を、魔性の女にするまじないが掛けられた化粧品なのだ、これは。

「……ね」

「ん。もう少し薄めの方がいい?」

「……永琳も、よく飽きないねえ」

 私なんかを設えちゃって。

 私では少し袖が余る桜色の洋服に、長い朱色のスカート。そして、顔を埋め立てていく化粧品には、誰かの匂いが混じっている。永琳の薄い香の匂いでもなく、緊張して少し汗臭い私の匂いでもなく……他の女の匂いが。

「貴方は、素材が良いから。ついつい、楽しくなっちゃうの」



 初めてこの引き出しを開けた時、私はもっと小さかった。兎に角、永遠亭の姫として相応しい振る舞いを、と無理に背伸びをしていた私は。柔らかな香りに包まれながら、真っ赤な口紅を螺鈿の渦中に見つけたのだ。この紅は誰のモノなのだろう。当時の私も、逡巡したとは思う。けれども、永琳と肩を並べたいから、少しでも早くお姫様になりたいから。様々な理由と共に胸を膨らませて、私はぎこちない手つきで紅を引いた。この紅を横一文字に引き切った後には、別人のようなお嬢様がそこにいることを信じて。

 けれども、鏡写しの世界に居たのは、立派な女性ではなく、ただの道化。

 伸びていない目鼻立ちに、鮮烈に引かれた赤。おでこが広く、不出来なこけし人形のように、腹を抱えて笑ってしまう顔がそこにはあった。鏡の向こうの私が、これが現実だ、お前には野原で星を数えているのが似合っている、と囃し立てた。

 ショックで寝込んでしまった私を看病してくれた永琳の顔だけが、熱に浮かされた世界で唯一鮮やかに映されていたのを良く覚えている。



 今、永琳が引き出しから取り出したのも、あの紅だ。お姫様によく似合う、素敵な口紅で……何の変哲も無い紅なのに、何度も付けた口紅なのに。私にはあれが断頭台のように見える。濃い紅が、横に一線動かされたその瞬間に、私の頸がゴトリと畳の上に落ち零れる様子が、鏡の向こう側に見えるような。そんな気がするのだ。

「ああ……」

 仮面が完成した瞬間、永琳の手が震えて、私の唇を軽く弾く。薬草の味が、ほんの少しだけ指に残っていた。

「やはり。貴方は」

 永琳は、私が拒まなければ、何もかも与えてくれる。おいしい食事も、健やかな住処も、美しい着物も……お姫様として相応しい姿も。だけど、オモテだけを着飾っても、素顔の私がみすぼらしいままでは、意味がない。だからこそ、永琳に一つのことを与えられるたびに強く思うのだ。永遠亭に相応しい姫になりたいと。

「美しい……」



 鏡の前には、道化が座っている。






「【コイの病】じゃないかって。あたしゃ思うんだよね」

「鯉?」

 永遠亭の庭先に設けられた池には、鯉は居ない。それどころか、この水の中に入った生物は、殆どが死に絶えてしまうだろう。なにせ、この水の塩分濃度は海水と同じになるように調整されているのだから。

「この阿呆らしい儀式をやるたびに思うんだけど。初代のてゐ様ってさ、長く生き過ぎて、【コイ】にやられちゃったんじゃないかって……」

 塩水の池に泳ぐ幻想の鯉を見つめながら、兎はそう言った。



 てゐは、月が遠ざかったこの世において、完全人体変化を保つことの出来る優秀な兎である。彼女は永琳と私の助手として働きながら、兎たちを治めているが……てゐ、という名を継ぐ者にはもう一つ、課せられた責がある。

 それこそが今てゐが実行している、月に一度程の頻度で鮫皮で傷付けた身体を塩水に沈める、という奇怪極まりない『素兎の儀』であった。

「だから、鯉じゃなくてさぁ。自己中心的、と言うか、欲しがり、っていうか……そっちのね?」

 鮫皮のヤスリで手首を傷付け、塩水を傷口に染みこませる。馬鹿みたいな初代てゐの狂行に端を発するこの儀式は、廃れることも無く連綿と受け継がれている。言い伝えでは、彼女は神話に謳われる因幡の素兎そのものであるらしいのだが、大国主命を想ってこのような行為に及んだ、という話は何度聞いても理解できない。

「ああ、そういう。たしかに、こんな事をし始めた初代てゐは、稀代のドMなんでしょうね」

「いや、そっちでもなくて!」

 自分を痛めつけて、鞭打って。成長した自分を以て、恋い慕う相手の前に立つ。それは今昔の恋愛物語に於いて、手垢に塗れた手法だろう。しかし初代てゐの不可思議な所は、結局大国主命に告白することも無く、出血多量で死んだ、ということなのだ。一体彼女は、何がしたかったのだろうか。何を目的として、疑似海水に手を浸したのだろうか?

「思い違いしないで欲しいのはね、今あたしが言ってるのは、サディズムとかマゾヒズムって言っても……夜の性癖の話じゃなくて。歳を取るほど、恥知らずになる、ってことなのさ」

「恥知らず……?」

 塩池の表面をパチャパチャ揺らしながら、てゐは続ける。

「SMプレイで例えるとさあ」

「やっぱり寝台の話じゃないの」

「いや、例えだから、例え話!……姫様は、その、マゾ側の方が、自分勝手だって。なんとなく思わない?」

 ……そう言われると、確かにそうかもしれない。鞭を手にした側は、その力加減の次第でマゾを傷付けるという恐怖に襲われる。お互いが楽しむ為に、サドは常にマゾのことを想っていなければならないのだ。

 それに対して、無恥を手にした側はどうだろう。三角木馬の上で股ぐらを濡らし、ただ次に襲い来る鞭を待つ。巣の中で餌を待つひな鳥のように、嘴をとがらせ、身体をブルブル震わせながらながら。頭の中は快楽中枢を治めるのに必死で、自分を責め立ててくれる人のことなんて、何一つ考えちゃいないだろう。

「まあ。それはそう……かもしれないわね」

「だろう。同じ事が起きるんだよ、永く生きれば、生きるほど……あたしも、薄々自覚してきてるんだけど。興味関心が、心のアンテナが麻痺してきて。だんだんと内向きになっていく。少しずつ、自分だけの世界に閉じていく」

 自己肯定感が強くなり、欲しがりな自分で満足することだけで世界が完結していくようになる。世界の理を忘れて、奪うことだけを繰り返すようになる。確かにそれは、長命の機構の定めであるのかもしれない。けれどもその先に道は無い。

「そうして、膨らみに膨らんだ自尊心に押し潰されて……最後は自爆する。それが、【乞いの病】なんだって。何匹も看取ってきて、あたしはそう感じたんだ」

 諸行無常、盛者必衰。永遠に栄えた国家が存在しないように。不定の命が決して存在してはいけないように。そう世界は形作られている。

 もう天球に存在しない、かの星ベテルギウスもそうやって滅んだのだ。あの赤き光を誇らしく振り回し、オリオンの肩に燦々と輝いていた巨星もやはり、最後は光のみを乞うた。水素だけでは飽き足らず、ヘリウムをも食い潰しはじめ、我こそが世界の中心であると膨らんで。最後は宇宙の一片となって消えた。この宙はそうやって廻っている。

「だからさ。この儀式は……別に、大国主命との思い出に浸りたかったんじゃなくて。自分勝手に浸りたかっただけなんじゃないかって。そう思うのさ」

 ベテルギウスも、初代てゐも、今ここで塩水に浸かっているてゐも、そして私も。

 何者も、【乞いの病】からは逃れられない。唯一、例外があるとすれば、それは……。

「……それなら」

「うん?」

「もし、不死者が実在したとしたら。その人は、一体どんな人になるのかしら」

「えぇ?……そりゃあ、まあ……」



「あきれかえるほどに厚顔無恥で。何もかもを須く、自分自身で終えてしまって。【乞いの病】さえ吹っ飛ばす、破裂する事の無い強靱な心を持った……宇宙の何処を探しても比肩することは無い、究極のマゾヒスト。なんじゃあ、ないか?」






 その日は夜を越えて、朝日の向こうからやってくる。だって私は、限りある生命なのだから。

 右脚を抱えて引き上げて、左脚だけを診察台の下に落とす。床に跪く永琳は、竹を抱えるように足首を持ち上げて、ふくら脛を揉んだ。膝から下を解すようにマッサージしていく永琳は、一通り揉み込むのを終えると、溜息をつく。

「奇麗ね、貴方の脚は」

 永琳はそう言うが、私はそうは思わない。永琳と比べると私は明らかに胴長で短足だった。一緒に風呂に入り、体型を見比べるたびにそう思う。身長が並んできたというのに、腰の高さが遙か高みに位置しているのだ。

「こんな、傷一つ無い脚なのに。動かないの……ね」

 なんで、と言われれば、それは私が生きている証に他ならない。元々翅を生やして宙を飛んでいた生き物だ。寿命が近付けば、衰えて、使わない場所から自然に還っていくのだろう。竹林の床が、永遠に変化が無いように見えながら、分解反応が僅かながら進んでいるように。私の身体も、徐々にこの星空に融けていく。

「あは。なんか変な感じね。眼の前で、永琳が私の脚を必死に揉んでいるのに……全然、触られている感覚が無いから」

 まるで、麻酔をかけられているみたいに、何も感じない。そう言いながら笑うと、永琳も笑った。

 哀しみや怒り、そういった負の感情は、この診察室に持ち込んでいなかった。これはただ、私の体調をお互いにはっきり確認するという作業をこなしただけだ。ただ一つ、曇りがあるとすれば、それは私の焦りだけ。タイムリミットまでに、私が本物のお姫様になれるのか、という焦燥だけだ。視線をぶつけ合って、その心境を共有すると、永琳は再び私の脚に目を向けて、より一層深く頸を降ろす。後頭部の白いまとめ髪から、一筋の銀糸がほつれて、足指をくすぐった。

「んむ……」

 最初に永琳の口に含まれたのは、小指だった。親指をデザートとして取っておくつもりだろうか。ゆっくりと、指の間の垢もこそぎ落とすように、舌が割って入ってくる。

 足を舐められるのは初めてではなかった。初体験の時は、随分苦労したものだ。べったりとした頬裏の密着感に、舌が巻き付いてくる感覚。口腔のざらつきや、唇のツルツルした感触が、私の腰を跳ね上げて。あの時は、永琳が舐め終わった際には起き上がれなくなってしまったっけ。

 しかし、脚を亡くした今の私に、その触感はもう伝わらない。跪かれたその先で、指はたしかに唇に挟まれているというのに、何も感傷を抱きはしないのだ。他人に煽られるのは耐えがたいと思った、下腹の辺りからこみ上げてきて、全身を廻るような溶けた熱も、湧き上がることは絶対にないのだ。残っているのは、片方の口が仕事をしているならば、室内に会話は亡くなるという事実。世界中の誰よりも、私達は近しい二人なのに。この束の間だけは、互いに遥か重力圏の遠く。

 寂しいな。と、浮かべてはいけない負の感情が心中に打ち上がったその瞬間。

「……え?」

 がちり。

 微細な振動が、腰に伝わった。私にその波が伝わったのを確認したと同時に、永琳が顔を上げる。その唇には、赤黒い紅が引かれていて。私の親指に空いた歯形のリングに向けて、糸を引いていた。

「……痛い?」

「……痛く、ない」

「……これは?」

「痛く、ないわ」



 てゐはああ言うけれど。私はずうっと、永琳は【乞いの病】に犯されているんじゃないかと思うのだ。死ななかったのは、破裂しないギリギリの崖っぷちで、どうにかこうにか粘っているだけで。

 永琳は私の何もかもを握っている。すぐさまに私を押し倒して、紅の無い唇も、意味の無い純潔も、何もかもを奪って。頭の足りない馬鹿な奴隷とし、この竹林を檻として、飼い殺しても良かったはずなのだ。

 だというのに、永琳は私に小分けにされたガイドポストを落として、彼方への航路を辿らせている。まるで何かを待っているように。私の中にある何かを【乞ふ】ように。












 それは私だけの輝き。私のお星様。

「ね。待ってよ、永琳」

 視界が暗く青ざめていく。緑色の青竹に、サファイアの輝きが差し込まれていく。これは、夜が降りてきた訳では無い。私の眼が潰れようとしているのだ。もう二度と、この私という個体は、黄金の風を黒眼に受けることは叶わない。

 永琳は、私の声を聞き届けると、いくつかの黒点を滑らせて。少し困った様に、口を開いた。

「……貴方はとっくに消滅したかと思っていたけど」

「ええ、でも、もう少しだけ時間があるみたい。ねえ、永琳。今、星空は見えるかな。天の北極に星は輝いている?」

 ここは永琳しか知らないであろう、永遠亭から遠く離れた竹林のど真ん中。何故憑いてきたのか、と問われれば、それはもう後を追いたかったからとしか言い様がない。誘蛾灯に惹かれる虫のように。それくらい、永琳の輝きは毒だった。

「……そうね、こぐま座からケフェウス座にポラリスが明け渡されるまで、あと数刻という所かしら」

 そうか、そうなのか。もう、私の頭の中の星しか見えなかったから気付かなかったけど。いよいよ魔法が切れる刻限はすぐそこに迫っているらしい。

「そっか、じゃあ……最期に一言、言いたいんだけど」

 一緒にいてくれて、ありがとう?

 かぐや姫になれなくて、ごめんなさい?

 脚を舐められるの、本当は気持ち悪かったわよ?

 どうして、抱いてくれなかったの?

 大人の姿と子供の姿、どっちが好きだった?

 いやあ、違う、違う。永琳にぶちまけたい言葉はそんなもんじゃあ、ない。本当の私の言葉があるのだ。今、この天球に溶け落ちそうな、こぐま座アルファ星の依り代が。悪戯好きの星妖精が、ようやく気付いた事実が。

 この私。スターサファイアには、言いたいことがあるのだ。

「貴方は、この無味無臭のくだらない不死の日々を、奇跡を待つことに費やしていたんだ、って。ようやく分かったの」



 不死の竹取が落とす竹は、腰の丈ほどの高さで切られている。立派に成竹として成長した竹がこの背で切られる事は、即ち死を意味する。周囲の樹冠に届くほどの頸を取り落としてしまったら、そこから元通り太陽を覗くことは二度と無いだろう。

「何でもかんでも、誰にでも蓬莱の薬を濫用する。それはきっと、駄目なんでしょう」

 だから、頸を落とされた竹は、土中を這う地下茎からは見捨てられ、水分と栄養を送るバルブを絞られる。本体から無視されるようになった頸ナシは、残りの余生を陰鬱な影と共に棒立ちして、腐り落ちながら終えていくのだ。

「本当に、必要な人にだけ、蓬莱の薬を使う。それも又、きっと駄目だったんでしょう」

 ……ただ。

 ごく稀に。頸が落ちているくせに、地下茎が生死の判別を保留する事が起きる。それは、土中の成分、斬られた高さ、標高、日光の当たり具合、その他様々な要因に依って発生するバグだ。

「でも、上手くいかないのも当たり前よね。だって、彼らは永琳から蓬莱の薬を受け取ったんだから。その優しい不死は、いつか必ず牙を剥く」

 生死判定を下されないまま生き存えた頸ナシは、もっと水を。もっと栄養を。と地下茎に懇願する。そうして放たれた命令は、根元のバルブを全開にして、じゃんじゃかと栄養液を汲み上げていくのだ。決して天に届くことの無い、一方通行の管を通って。

「永久機関の穴は、一度見過ごされたから穴なのであって」

 頸の切断痕にたっぷりと命の水を湛えて、コポコポと水源のように竹輪からあふれ出しても。それでも水は滾々と湧き出てくる。彼は自分が成長したいという欲求を止めない。決して蘇ることの無い、頸から先を延ばしたいという命令を止めない。何故なら彼は死んでいないのだから。彼の生死は、宇宙から見過ごされたのだから。

「二度も三度も続いたら、それはもう欠陥なんだもの……」

 同様の例が付近に数本出来たとしても、当然ポンプは止まらない。不死の免罪符を振りかざして、足下の備蓄を奪っていく。各々の竹達は、我は不死身だと最期まで叫んでいるのだろう。地下茎が消えて亡くなるまで。



「……だから。永琳は竹を切っているんでしょう。光る竹が眼の前に現れるのを待っているんでしょう」

「……かも、ね」

 以上の自殺機構は竹を根から駆逐する手法として有効だけれど。竹林というこの光疎らな寂しい星圏において、私の能力にとっては。もう一つ意味がある。

「もう一つ、宇宙のあやまちが生まれてくれないかって」

「ええ、気の永い話だけれど……」

 不死竹の頸痕に溜まる命の水は、昏く貧栄養な竹林宇宙にとって、貴重な餌場となる。地に墜落し、羽根を焦がした竹の匂いがすると、周囲から小虫や菌類がワッと集まってくるのだ。散り散りになった星団の中、一体何処にそんなに隠れていたのかと疑問に思うくらいに。

「私も……」

「うん」

「私も、まだ待ってるの?」

「……そうね。貴方の生死が分かる……地球から観た天球が消えるまで。太陽が地球を飲み込むことになる、数十億年後くらいまで待つつもり」

 永琳が竹を取った、腰の高さ程の中空。そこには、無数の星が浮いている。多量の栄養が溶けた水には、無数の生命が蠢いている。いつか尽きる事になる水を、まるで永久に湧くかのように浪費して。

「……そこまで待ってみて、もし私が、光り輝く竹じゃあなかったら?」

「それでも待つわよ。ずうっと……この竹林も、あの太陽も、果ての銀河さえ消えてしまっても。私、待つわ。永遠に」

 でも、星って元々からしてそんなものだ。

「ね、永琳……」

 核融合を続ける事を乞いて、お腹いっぱいの鉄で中心核が埋まるまで。儚い命の煌めきを駆け抜けてゆく。それが一生。



「今回の私じゃ、駄目かな?」



 永琳は、何本の竹を取ったのだろうか。無数に流れる砂を、どれだけ数えたのだろうか。何本の竹を不死にして、その頸元に微生物の星を浮かべたのだろうか。行く先に一本の光る竹も無いまま、来た道筋に幾つの竹を光らせたのだろうか。



「駄目なんでしょうね、きっと」



 長い時間の中で、幾つもの笹筋が身体を締め付けていて。きっとその藪に残した痕こそが永琳なのだろう。星に照らされた幻影の後ろ。その形こそが永琳なのだろう。

 その目映い光源の端っこで。今の私に見えるのは、永琳の辿った航路に、光る竹は確かに存在したということだけ。

「……あーあ」

 これじゃあ、この巨大なお星様が、私だけを見つめてくれるなんてあり得ない。私は負けたのだ。永琳の背後にいる無数の人々と、過去の私達に。

「フラれちゃった、なあ……」

 一世一代の告白を終えて、フッと意識が希薄になった。いよいよ私も交代の時間なのだろう。体中から力が抜けて、永琳の星さえ見えなくなっていくのが分かる。それでも、私はあの輝きを追っていたい。たとえこの眼が潰れ、能力さえ失ったとしても。取られた竹を道しるべとして後を追って。

 貴方に必ず会いに行こう。












「えい、りん」

「なあに?」

「ついていっても、いい?」

「良いわよ、別に」

「ほんと?……やったあ」

「随分上機嫌ね?」

「だって、えーりんってば、いつもひとりでいこうとするんだもの」

「え?……ああ」

「さびしかったのよ?」

「……おばか。妖精って、その辺の機微が鈍くて困るのよねえ」

「わたし、ばかじゃないもん!」

「……ふふ、あのねぇ」



「教え子がついてきてくれて、嬉しく思わない先生なんて。居るわけがない、でしょう……」


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コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
おとぎ話然とした優しい言葉選びの文章と、艶めかしい表現の対比がとても良い雰囲気を醸し出していて最後まで没入しながら楽しめました。良かったです。
3.100サク_ウマ削除
スターと輝夜ってどっちも黒髪ロングで似てて……みたいなろくろ回し、分かるのは分かるんですけど、だからってその展開はだいぶ読者の胃に容赦がないと思います。いや、すっごく好きですけど。
スターがたいへんに健気で可愛らしく、それ故に〆が心に来ますね。良かったです。
4.100クソザコナメクジ削除
面白かった
5.90めそふ削除
もう何もかも終わった後の話だったのかなあと思いました。ちゃんと読み取れたか分からないんですけど、蓬莱の薬の不死性には欠陥というか、実際には永琳にしか機能しなくて、たった一度、世界から死が見過ごされたという事例に過ぎなかったからこんな風になったというわけでしょうか。そうであれば結局、永琳は不死としてもう誰もがいなくなったつまらない日々を送る訳で、そうした日々を耐える為にすがる先としてスターを輝夜として見出したのでしょう。だとしてもそれは不完全である訳で、結局いつか破綻していく訳です。いかに妖精でも地球から見える星々が無くなってしまえば、本当に消滅するわけで、結局何かしらの奇跡を待ち続けるしかなかった永琳の複雑な心境は中々言葉で表せません。それをスターの視点からしっかりと描写し、かつスターの諦観を描いたこの作品の雰囲気は非常に重たく、しかしとても綺麗でありました。良いお話でした。面白かったです。
6.100名前が無い程度の能力削除
スター…お前だったのか…!