あくまで私は夢とか目標の為なら泥を啜るくらい構わないと思いながらこれまでを生きてきたけれど、最早その夢を何処かに置いてきた以上、泥を啜る事が生きる目的に成り果てているのではないかとさえ思う。
もう既に私は純真さを失っていて、かつての子供染みた振る舞いも、いつからか馬鹿らしくなってやめていた。しもべにしようとしていた猫達も餌をやるのをやめてからは、私の事などとっくに忘れてしまった様で、私に飛び付いてくる事はおろか、近付く事すら許さなくなった。マヨヒガの管理などという口だけの行いをやめた後は、私は寝るか飯を貪るだけの価値の無い存在に成り下がっていて、藍様はそんな気力を全て無くした様な私に、表情には出さなかったけれど、確かな呆れを感じているようだった。
少し前に藍様と紫様の会話を、意図せず盗み聞きした様な形になった時、あの人達は私の状態を俗に言う反抗期と形容していて、私はそれに酷い不快感と怒りを覚えていた。諦観と虚無に占められた今の心情を、ありふれた言葉一つで表されてしまった事が、どうしようもなく私の感情を逆撫でていた。
私はその時以来確かに、自分の主人達に対して名状し難い煩わしさを感じてはいるが、だからといってあの人達が嫌いな訳ではないし、それどころかちゃんと好きだと思う。特に藍様に至っては、式を憑かせて知恵を与えてくれた事は今でもずっと感謝している。世界の見え方が変わったし、何よりただの化け猫だった時以上に色々な事が出来る様になった。
あの人達は沢山のものを与えてくれて、私はそれがひどく心地良かった。紫様は藍様には少し厳しい様だけれど、別に私に対してはそうでもないと言うか、寧ろ甘くあったし、何も不平不満を覚える様な事はなかった。
そういう穏やかな環境を提供してくれるからこそ、私はあの人達を好きになったのであって、同時に、好きだからこそあの人達に憧れを覚えるようにもなったのだと思う。想像もつかないような多くの事をこなしていく様は、私の目にはひどく格好が良く映っていて、結局、あの人達の背中を追っていくにつれて、少しでも肩を並べられる様になりたいと思うようになるのは道理にかなっている筈だ。
それはまるで、人間の子供が親に憧れを抱く事があるのと同じ様であり、だとすれば、私にとっての親はあの人達なのだろう。私を産んでくれた訳でも化け猫になるまで育ててくれた訳でもないけれど、今の私と私を取り巻く環境を人間の世界として例えるならば、親と表現するのが最も近い様な気がする。
しかし、人間と私とでは一つ決定的な違い、もとい私にとっては不幸な違いがあって、それは、結局私では主人達には決して追い付けないという事だ。所詮人間同士なら、成長するにつれて差は無くなっていき、いつか親を超える事だってそう珍しくはない。ただ、私の場合はそうじゃない。あの人達は生まれついての格が違う。あれは私なんかじゃ、たとえ差し出すものが生命であるような邪法を用いたとしても足元にすら及ばないだろう。
純粋さを保っていたかつてでも、きっと薄々は勘づいてはいた筈で、しかし、それに苦悩する程の頭を持ち合わせていなかったから今までやってこれていた。けれど、追い付く為の努力をする程、その事実に直面しなくてはならなくて、いつの日か私は全てから逃げ出す事を決めていた。
マヨヒガは一応住処として使い続けてはいたが、それでも以前よりはよっぽど帰る事がなくなったと思う。藍様から呼び出される事がない限りは、基本的に私は何処かを放浪していた。日当たりの良い草原を見つければ、そこで飽きるまで惰眠を謳歌し、日が沈みかける頃には目を覚まして、そのまま太陽が沈み切るまでを眺め続ける。
私の名前と同じ色に染まった空を眺めている分には、多少救われた様な気分になる事が出来た。恐らくそれは、私の名前が使われているというごく単純な点から、自分が眼前の大空に認められている様な錯覚を覚えるからだった。
正直、ただの猫であった頃と生活の内容自体は殆ど変わらなくなったと思う。一つ異なる点を挙げるとするなら、かつての私は日々を過ごすにあたってこれ程の心労を抱えてはいなかった事だろう。少なくとも、今よりも私の視線は前向きであった筈である。
藍様の式神となってから初めて明確な夢として抱いたのが、彼女のように強くなりたいというものだった。それに付随して具体的な目標というのが定まってきて、あれが出来る様になりたい、これが出来る様になりたいと、結局いっぺんに抱えるのが大変な位には私の夢は膨れ上がっていた。
自分の夢を持つ事や主人への羨望なんかは、所謂頑張るという行為への強いモチベーションになっていて、私は大抵の苦渋には打ち勝ってきた。しかし、例え強固な精神を持てたとしてもそれは知らぬ間に摩耗していくものであって、一向に先が見えない現状に疲れ始めていた。加えて私が抱えていた夢達はやはり私にとっては多過ぎた様で、いつの日か少しずつ少しずつ、夢を何処かに捨てていくようになった。
結局、最後に残ったのは一番大事であった藍様のようになりたいという夢と疲れ切ってしまった精神だけで、最早、原点だったその夢も今の私が抱えるには重くあり過ぎていた。
先が見えないと言っても、決して私が成長していないという訳ではない。寧ろ自分が成長を自覚しているからこそ、主人達との差が縮まらない事に強く絶望したのだ。
こんな事になるなら頑張らなければ良かったとさえ思う。幼く純真であったが故に私はここまで頑張れて、自分の殻を破っていくというこれまでの積み重ねが私にとって自信になり、そうして得た自信が私が夢を捨てる事を拒ませていて、それが私の首を絞め続けていた。
夢を捨てる事はこれまでを否定する様で、仮にそうだとするならば辛くて堪らなかった。夢を追う日々は充実していてとにかく濃密だった。努力を重ねて強くなって、あの人達に一歩でも近づこうとしていた。けれど、それが出来るのも全ては夢を叶えるという動機の為であって、それが私では為し得ないと知ってしまった今では、もうこの夢を抱えてはいられない。
叶える為の夢を叶わない夢にしてしまう行為は酷く悲しい。それは耐え難いもので、しかし依然として叶わない夢を抱えられる程、もう自分を騙してはいられない。そういう矛盾や葛藤といった複雑に絡まった気持ちは、最早どうしようも出来なくなってしまった。だから、この事を考える時はいつも泣く。今日だって夕日を見ながら泣いた。何人かの妖精に見られていたけど、そんな事気にしていられなかった。
久しぶりに藍様から呼び出されて指定された場所に向かうと、結界の綻びがないかを確認してきて欲しいと言われた。定期的な補修点検のようなもので、然程難しい任務でもなかった。気乗りはしなかったが、命令である為に仕方なく引き受ける事にして、私と藍様は二手に分かれて結界の点検作業に取り組んだ。
どんなに簡単な作業だと言っても、もう今の私では微塵も気力を奮わせられなくて、半ば無意識に取り組んでいたことからも周囲への警戒など少しもしていなかった。そういう油断が祟ったのか、私は背後から近づいて来たのであろう知恵のない下等な妖怪に気付かなくて、右腕に噛み付かれていた。牙が肉に食い込む感覚は気持ちが悪いとしか言いようがなく、傷口はただひたすらに熱かった。
私は咄嗟に反撃をして撃退に成功したけれど、思ったよりも傷が深く、どうしようか少し迷った。ただ、任務を中断した未来を思うと、こんな簡単な任務を遂行できなかった自分に無性に腹が立ったので、冷静に考えればすぐに治療するべきである筈なのに、私はその結論を無視して点検を進めた。それが最早、自暴自棄である事は分かっていたが、しかし今は荒み切った精神に身を任せるべきだと思った。
お互いに作業を終えて集合場所に戻ると、藍様は血塗れになった私の右腕を見て狼狽し、どうして早く言わなかったんだと、叱る様な心配する様な声色で私に駆け寄った。私が、怪我をした時には任務がもう終わりそうだったのでそちらを優先したと答えると、藍様はひどく困った様な顔をして私の腕の応急処置を始めた。それを見て、この人は私が任務をやけくそで強行したのを何となく分かっているのかもしれないなと思った。
かなり重傷だった事からも、経過観察として私は紫様の屋敷へ連れて行かれた。空き部屋に布団を敷いてもらい、私はそこで寝かされた。思ったより疲労があったのか、それとも久しぶりの布団に心地が良かったのか、私はすぐに寝付いていてしまって、次に目が覚めた時にはもう既に夜も耽っている頃だった。
起き上がるのが面倒だったのでそのまま布団の感触を味わっていると、隣の部屋から話し声が聞こえてきた。いつかの盗み聞きのような形になってしまうが、目が冴えてしまっているし、このまま横になっていたい以上、会話が聞こえてしまうのは仕方のない事だと自分を正当化して、私はか細く聞こえる声に耳を澄ませた。
暫く経つと耳が慣れてきて、声の正体は、当然の事だけれど紫様と藍様である事が分かった。紫様の方は何ともない様であったが、藍様の方は間延びした声になって珍しく饒舌に話している事から、多分酔っ払っているんだろうなと思った。
「やっぱり、最近の橙にどう接したら良いか分からないんですよ。ずっと投げやりな態度で、マタタビだって要らないって言うし、今日だって……」
「まあ、あれは反抗期のようなものだし、あんまり過干渉しない方がいいのよ」
「そうは言っても、また今日みたいな事があったら困るんですよ」
「……藍、貴方もすっかり教育者が似合うようになったわねえ」
「何ですかそれは」
「最近は、ずっと橙、橙ってあの子の話ばっかりするもの。少し前まではもっと自分の事にも意識を向けてたでしょう?」
「少しって言われても、もうかなり昔の事ですよ」
「あら、そうだっけ?」
「ええ。まあ、恥ずかしい話、あの頃は紫様に追い付こうと必死でしたから。橙を式にしたのもその修行の一環でしたし」
「へえ、そう言ってくれると嬉しいわね」
「でも、その夢については……もういいと言いますか、前よりもそれついて考える事がなくなってきていて、いつしか、もうあの子の事の方が……おや、橙。起きたのかい? おい、ちょっと待ちなさい。何処に行くんだ!」
それはまるで私に対する凌辱であり、暴力でもあった。私と同じ夢を持ち、私と同じ結果を迎えた者が現れたとて、それに仲間意識だとかは、事実それが藍様であっても微塵も感じられなかった。それどころか、先程の言葉が私の耳に入ってきたという事実が、私への浅はかな共感や同情のようなものとしか思えなくて、世界が私に媚びてくる様な奇妙な不快感すら感じた。あれは私だけの痛みであって、寧ろそうでなくてはならなかった。
これ以上この場所に居る事が耐えられなくて、私は気付かれない様に外に出ようとした。けれど、恐らく襖が開く音や足音なんかで気付かれてしまって、藍様が廊下を歩く私に声をかけた時には、勿論外に出るのに程の良い嘘なんて思いつく筈もなかったから、走って逃げ出す事しか出来なかった。幸い、適切な治療が受けられたのと布団で身体を休められた事もあり、腕の痛みは幾ばくかましになっていて、全力で走る事にも何ら問題は感じられなかった。
もう何処とも分からない所まで走ってきて、付近に生えていた一本の木に腰掛けた。酸欠による胸の痛みが酷くて、私は蹲って暫く動けなくなったが、身体的な苦痛がこれまでの苦悩を、一時的にではあるけど上書きしてくれる様な気がして、呼吸が落ち着くまでは少しだけ気分が楽であった。
夜空には三日月が浮いていた。薄く光り続ける月を私は何故か見続けていた。酸欠の症状はもう無くなくなったが、私は依然としてこの場から動く事は出来なくて、空を見上げたまま、もう自分でも分からなくなってしまった心の中を整理しようと努めていた。
夜風に当たる事で冷静になれてきてはいたが、しかし、私は未だに先程の出来事に踏ん切りをつけられずにいた。別に藍様から面と向かって辛いのはお前だけじゃないんだ、なんて鞭を打たれるような事を言われた訳では無いけれど、だからと言ってあの事態が起こったとなると、世界が私に対してそう言っているという風にしか捉えられないと思う。
実際、辛いのが私だけであるなんてのが暴論であるというのはもう分かっている。皆一様に各々の痛みを抱えていて、けれど、その事実は別に私の痛みを如何にかしてくれる訳ではない。みんな辛いんだからお前だけ逃げるなとか、頑張ろうとか言われた所で、結局、そんな事を言われても如何にもならないという終着点に落ち着いてしまう。
まあ、しかし、それでも冷静になってきたことで、やはり藍様の言葉に必要以上に我を忘れてしまったのは間違いであったのではないかとも思う。確かに、あの人の言った言葉は私が今抱えている問題とそっくりで、加えてそれを容易に乗り越えてしまったかのような発言をしていたから、私の苦悩に対する浅い共感の様に感じてしまっていた。しかし、あの主人ですら私と同じ様な夢を持ち、それに破れていたと考えれば、それはある意味救いなのではないかとも思う。夢を諦める事がほんの少しだけ軽くなる様な、逃げる理由ができた様な、そんな気分になれる。しかし、それを私にさせるのが、夢を諦めさせた張本人によるものだと思うと、そう簡単に受け入れたくはなかった。
気付くと遠くから藍様の声が聞こえた。私の名前を何度も呼んでいて、どうやら私を探しに来ている様だった。あんな突っぱねた態度をとってしまったのに、わざわざ探しに来てくれた事が申し訳なかった。あの人は私の痛みの原因であるけれど、しかし、それはそれとして私はあの人の事が大好きだから、そんな人に迷惑をかけている自分がひどく情けなくなった。
本当にどうして良いか分からない。私は藍様の様になろうと思って努力してきたが、結局それが無理だという事に気付いてしまってこうなっている。だから私は藍様の事を嫌いになってしまいそうで、けどやっぱり嫌いになんてなれなくて未だに憧れは消えてない。でも、その藍様だってかつて私と同じ様に紫様を追っていた時期があった。盗み聞きした限りではもう諦めてしまった様な口ぶりをしていて、実際そうであるのだろう。
あの人も、もしかしたら今の私と同じ様に苦悩していたのかもしれない。でも今の私とは違って、あの人は夢を諦めて、新しい道に進んでいるように見える。私も本当はそうするべきなんだとは思う。けれど、私は未だに自分の中の多くのものを捧げてきた夢を捨てるという事に耐えられないでいる。本当は諦めたくなくて、自分の無力さを認めたくない。だから私は、目の前の現実に怒りを向ける事で逃避を続けてきて、でも、いつまでもこうして前に進めないでいる訳にはいけない筈なんだ。
誰かが此方に向かって走ってくる音がして、そちらを見ると藍様の顔が見えた。藍様も私を見つけたらしく、一瞬驚いた後、すぐに駆け寄ってきた。その時の藍様の顔はひどく心配そうで、辛そうであった。自分を責めているような、若しくは罪悪感を感じているのか、何はともあれ私の事をずっと想ってくれているようだった。
私はそれを見て何故だが無性に泣きたくなって、我慢しようとしたけど堪えきれずに涙で目の前が一杯になった。結局、私はこの人にずっと嫉妬していて、夢を諦める事の辛さを押し付けようとしていたんだなと思った。でもそれは、私のことをこんなに心配して、想ってくれるような人にするような仕打ちじゃなくて、私はやっぱりもうこれ以上、こんなに私を好きでいてくれる人に嫌な感情を覚えたくはないと思った。結局、何処までいっても私は藍様の事が大好きで、そんな素晴らしい人と生きていく為には、無理な夢を見続けるなんてのはやっぱり欲張り過ぎたんだろうなとも思った。
久しぶりに藍様と手を繋いで帰った。藍様は私が泣いていたのを見て、しきりに悩みがあるなら聞くよと私を慰めてくれたけど、私はすぐに大丈夫ですと答えてみせた。
実際それは半分くらいは本当で、確かに吹っ切れたような気分ではいる。でも、もう半分は嘘であって、きっと当分は何も出来ないと思う。だって、心の中を占めていたものを置いてきて寂しくなる筈だから。それでも、ゆっくりとでも良いからまた新しい夢でも探していこうと思う。私は結局無力で、あの人達に頼ってもらえるようには絶対になれないかもしれないけど、それはそれで割り切っていくしかないんだろう。新しい夢を見つけて、それもまた諦める事になるかもしれない。もしくはそれをこれから先ずっと繰り返していくのかもしれない。それでも、あの人の事をずっと好きでいられる為にも、これから頑張っていかないとなあと思った。
もう既に私は純真さを失っていて、かつての子供染みた振る舞いも、いつからか馬鹿らしくなってやめていた。しもべにしようとしていた猫達も餌をやるのをやめてからは、私の事などとっくに忘れてしまった様で、私に飛び付いてくる事はおろか、近付く事すら許さなくなった。マヨヒガの管理などという口だけの行いをやめた後は、私は寝るか飯を貪るだけの価値の無い存在に成り下がっていて、藍様はそんな気力を全て無くした様な私に、表情には出さなかったけれど、確かな呆れを感じているようだった。
少し前に藍様と紫様の会話を、意図せず盗み聞きした様な形になった時、あの人達は私の状態を俗に言う反抗期と形容していて、私はそれに酷い不快感と怒りを覚えていた。諦観と虚無に占められた今の心情を、ありふれた言葉一つで表されてしまった事が、どうしようもなく私の感情を逆撫でていた。
私はその時以来確かに、自分の主人達に対して名状し難い煩わしさを感じてはいるが、だからといってあの人達が嫌いな訳ではないし、それどころかちゃんと好きだと思う。特に藍様に至っては、式を憑かせて知恵を与えてくれた事は今でもずっと感謝している。世界の見え方が変わったし、何よりただの化け猫だった時以上に色々な事が出来る様になった。
あの人達は沢山のものを与えてくれて、私はそれがひどく心地良かった。紫様は藍様には少し厳しい様だけれど、別に私に対してはそうでもないと言うか、寧ろ甘くあったし、何も不平不満を覚える様な事はなかった。
そういう穏やかな環境を提供してくれるからこそ、私はあの人達を好きになったのであって、同時に、好きだからこそあの人達に憧れを覚えるようにもなったのだと思う。想像もつかないような多くの事をこなしていく様は、私の目にはひどく格好が良く映っていて、結局、あの人達の背中を追っていくにつれて、少しでも肩を並べられる様になりたいと思うようになるのは道理にかなっている筈だ。
それはまるで、人間の子供が親に憧れを抱く事があるのと同じ様であり、だとすれば、私にとっての親はあの人達なのだろう。私を産んでくれた訳でも化け猫になるまで育ててくれた訳でもないけれど、今の私と私を取り巻く環境を人間の世界として例えるならば、親と表現するのが最も近い様な気がする。
しかし、人間と私とでは一つ決定的な違い、もとい私にとっては不幸な違いがあって、それは、結局私では主人達には決して追い付けないという事だ。所詮人間同士なら、成長するにつれて差は無くなっていき、いつか親を超える事だってそう珍しくはない。ただ、私の場合はそうじゃない。あの人達は生まれついての格が違う。あれは私なんかじゃ、たとえ差し出すものが生命であるような邪法を用いたとしても足元にすら及ばないだろう。
純粋さを保っていたかつてでも、きっと薄々は勘づいてはいた筈で、しかし、それに苦悩する程の頭を持ち合わせていなかったから今までやってこれていた。けれど、追い付く為の努力をする程、その事実に直面しなくてはならなくて、いつの日か私は全てから逃げ出す事を決めていた。
マヨヒガは一応住処として使い続けてはいたが、それでも以前よりはよっぽど帰る事がなくなったと思う。藍様から呼び出される事がない限りは、基本的に私は何処かを放浪していた。日当たりの良い草原を見つければ、そこで飽きるまで惰眠を謳歌し、日が沈みかける頃には目を覚まして、そのまま太陽が沈み切るまでを眺め続ける。
私の名前と同じ色に染まった空を眺めている分には、多少救われた様な気分になる事が出来た。恐らくそれは、私の名前が使われているというごく単純な点から、自分が眼前の大空に認められている様な錯覚を覚えるからだった。
正直、ただの猫であった頃と生活の内容自体は殆ど変わらなくなったと思う。一つ異なる点を挙げるとするなら、かつての私は日々を過ごすにあたってこれ程の心労を抱えてはいなかった事だろう。少なくとも、今よりも私の視線は前向きであった筈である。
藍様の式神となってから初めて明確な夢として抱いたのが、彼女のように強くなりたいというものだった。それに付随して具体的な目標というのが定まってきて、あれが出来る様になりたい、これが出来る様になりたいと、結局いっぺんに抱えるのが大変な位には私の夢は膨れ上がっていた。
自分の夢を持つ事や主人への羨望なんかは、所謂頑張るという行為への強いモチベーションになっていて、私は大抵の苦渋には打ち勝ってきた。しかし、例え強固な精神を持てたとしてもそれは知らぬ間に摩耗していくものであって、一向に先が見えない現状に疲れ始めていた。加えて私が抱えていた夢達はやはり私にとっては多過ぎた様で、いつの日か少しずつ少しずつ、夢を何処かに捨てていくようになった。
結局、最後に残ったのは一番大事であった藍様のようになりたいという夢と疲れ切ってしまった精神だけで、最早、原点だったその夢も今の私が抱えるには重くあり過ぎていた。
先が見えないと言っても、決して私が成長していないという訳ではない。寧ろ自分が成長を自覚しているからこそ、主人達との差が縮まらない事に強く絶望したのだ。
こんな事になるなら頑張らなければ良かったとさえ思う。幼く純真であったが故に私はここまで頑張れて、自分の殻を破っていくというこれまでの積み重ねが私にとって自信になり、そうして得た自信が私が夢を捨てる事を拒ませていて、それが私の首を絞め続けていた。
夢を捨てる事はこれまでを否定する様で、仮にそうだとするならば辛くて堪らなかった。夢を追う日々は充実していてとにかく濃密だった。努力を重ねて強くなって、あの人達に一歩でも近づこうとしていた。けれど、それが出来るのも全ては夢を叶えるという動機の為であって、それが私では為し得ないと知ってしまった今では、もうこの夢を抱えてはいられない。
叶える為の夢を叶わない夢にしてしまう行為は酷く悲しい。それは耐え難いもので、しかし依然として叶わない夢を抱えられる程、もう自分を騙してはいられない。そういう矛盾や葛藤といった複雑に絡まった気持ちは、最早どうしようも出来なくなってしまった。だから、この事を考える時はいつも泣く。今日だって夕日を見ながら泣いた。何人かの妖精に見られていたけど、そんな事気にしていられなかった。
久しぶりに藍様から呼び出されて指定された場所に向かうと、結界の綻びがないかを確認してきて欲しいと言われた。定期的な補修点検のようなもので、然程難しい任務でもなかった。気乗りはしなかったが、命令である為に仕方なく引き受ける事にして、私と藍様は二手に分かれて結界の点検作業に取り組んだ。
どんなに簡単な作業だと言っても、もう今の私では微塵も気力を奮わせられなくて、半ば無意識に取り組んでいたことからも周囲への警戒など少しもしていなかった。そういう油断が祟ったのか、私は背後から近づいて来たのであろう知恵のない下等な妖怪に気付かなくて、右腕に噛み付かれていた。牙が肉に食い込む感覚は気持ちが悪いとしか言いようがなく、傷口はただひたすらに熱かった。
私は咄嗟に反撃をして撃退に成功したけれど、思ったよりも傷が深く、どうしようか少し迷った。ただ、任務を中断した未来を思うと、こんな簡単な任務を遂行できなかった自分に無性に腹が立ったので、冷静に考えればすぐに治療するべきである筈なのに、私はその結論を無視して点検を進めた。それが最早、自暴自棄である事は分かっていたが、しかし今は荒み切った精神に身を任せるべきだと思った。
お互いに作業を終えて集合場所に戻ると、藍様は血塗れになった私の右腕を見て狼狽し、どうして早く言わなかったんだと、叱る様な心配する様な声色で私に駆け寄った。私が、怪我をした時には任務がもう終わりそうだったのでそちらを優先したと答えると、藍様はひどく困った様な顔をして私の腕の応急処置を始めた。それを見て、この人は私が任務をやけくそで強行したのを何となく分かっているのかもしれないなと思った。
かなり重傷だった事からも、経過観察として私は紫様の屋敷へ連れて行かれた。空き部屋に布団を敷いてもらい、私はそこで寝かされた。思ったより疲労があったのか、それとも久しぶりの布団に心地が良かったのか、私はすぐに寝付いていてしまって、次に目が覚めた時にはもう既に夜も耽っている頃だった。
起き上がるのが面倒だったのでそのまま布団の感触を味わっていると、隣の部屋から話し声が聞こえてきた。いつかの盗み聞きのような形になってしまうが、目が冴えてしまっているし、このまま横になっていたい以上、会話が聞こえてしまうのは仕方のない事だと自分を正当化して、私はか細く聞こえる声に耳を澄ませた。
暫く経つと耳が慣れてきて、声の正体は、当然の事だけれど紫様と藍様である事が分かった。紫様の方は何ともない様であったが、藍様の方は間延びした声になって珍しく饒舌に話している事から、多分酔っ払っているんだろうなと思った。
「やっぱり、最近の橙にどう接したら良いか分からないんですよ。ずっと投げやりな態度で、マタタビだって要らないって言うし、今日だって……」
「まあ、あれは反抗期のようなものだし、あんまり過干渉しない方がいいのよ」
「そうは言っても、また今日みたいな事があったら困るんですよ」
「……藍、貴方もすっかり教育者が似合うようになったわねえ」
「何ですかそれは」
「最近は、ずっと橙、橙ってあの子の話ばっかりするもの。少し前まではもっと自分の事にも意識を向けてたでしょう?」
「少しって言われても、もうかなり昔の事ですよ」
「あら、そうだっけ?」
「ええ。まあ、恥ずかしい話、あの頃は紫様に追い付こうと必死でしたから。橙を式にしたのもその修行の一環でしたし」
「へえ、そう言ってくれると嬉しいわね」
「でも、その夢については……もういいと言いますか、前よりもそれついて考える事がなくなってきていて、いつしか、もうあの子の事の方が……おや、橙。起きたのかい? おい、ちょっと待ちなさい。何処に行くんだ!」
それはまるで私に対する凌辱であり、暴力でもあった。私と同じ夢を持ち、私と同じ結果を迎えた者が現れたとて、それに仲間意識だとかは、事実それが藍様であっても微塵も感じられなかった。それどころか、先程の言葉が私の耳に入ってきたという事実が、私への浅はかな共感や同情のようなものとしか思えなくて、世界が私に媚びてくる様な奇妙な不快感すら感じた。あれは私だけの痛みであって、寧ろそうでなくてはならなかった。
これ以上この場所に居る事が耐えられなくて、私は気付かれない様に外に出ようとした。けれど、恐らく襖が開く音や足音なんかで気付かれてしまって、藍様が廊下を歩く私に声をかけた時には、勿論外に出るのに程の良い嘘なんて思いつく筈もなかったから、走って逃げ出す事しか出来なかった。幸い、適切な治療が受けられたのと布団で身体を休められた事もあり、腕の痛みは幾ばくかましになっていて、全力で走る事にも何ら問題は感じられなかった。
もう何処とも分からない所まで走ってきて、付近に生えていた一本の木に腰掛けた。酸欠による胸の痛みが酷くて、私は蹲って暫く動けなくなったが、身体的な苦痛がこれまでの苦悩を、一時的にではあるけど上書きしてくれる様な気がして、呼吸が落ち着くまでは少しだけ気分が楽であった。
夜空には三日月が浮いていた。薄く光り続ける月を私は何故か見続けていた。酸欠の症状はもう無くなくなったが、私は依然としてこの場から動く事は出来なくて、空を見上げたまま、もう自分でも分からなくなってしまった心の中を整理しようと努めていた。
夜風に当たる事で冷静になれてきてはいたが、しかし、私は未だに先程の出来事に踏ん切りをつけられずにいた。別に藍様から面と向かって辛いのはお前だけじゃないんだ、なんて鞭を打たれるような事を言われた訳では無いけれど、だからと言ってあの事態が起こったとなると、世界が私に対してそう言っているという風にしか捉えられないと思う。
実際、辛いのが私だけであるなんてのが暴論であるというのはもう分かっている。皆一様に各々の痛みを抱えていて、けれど、その事実は別に私の痛みを如何にかしてくれる訳ではない。みんな辛いんだからお前だけ逃げるなとか、頑張ろうとか言われた所で、結局、そんな事を言われても如何にもならないという終着点に落ち着いてしまう。
まあ、しかし、それでも冷静になってきたことで、やはり藍様の言葉に必要以上に我を忘れてしまったのは間違いであったのではないかとも思う。確かに、あの人の言った言葉は私が今抱えている問題とそっくりで、加えてそれを容易に乗り越えてしまったかのような発言をしていたから、私の苦悩に対する浅い共感の様に感じてしまっていた。しかし、あの主人ですら私と同じ様な夢を持ち、それに破れていたと考えれば、それはある意味救いなのではないかとも思う。夢を諦める事がほんの少しだけ軽くなる様な、逃げる理由ができた様な、そんな気分になれる。しかし、それを私にさせるのが、夢を諦めさせた張本人によるものだと思うと、そう簡単に受け入れたくはなかった。
気付くと遠くから藍様の声が聞こえた。私の名前を何度も呼んでいて、どうやら私を探しに来ている様だった。あんな突っぱねた態度をとってしまったのに、わざわざ探しに来てくれた事が申し訳なかった。あの人は私の痛みの原因であるけれど、しかし、それはそれとして私はあの人の事が大好きだから、そんな人に迷惑をかけている自分がひどく情けなくなった。
本当にどうして良いか分からない。私は藍様の様になろうと思って努力してきたが、結局それが無理だという事に気付いてしまってこうなっている。だから私は藍様の事を嫌いになってしまいそうで、けどやっぱり嫌いになんてなれなくて未だに憧れは消えてない。でも、その藍様だってかつて私と同じ様に紫様を追っていた時期があった。盗み聞きした限りではもう諦めてしまった様な口ぶりをしていて、実際そうであるのだろう。
あの人も、もしかしたら今の私と同じ様に苦悩していたのかもしれない。でも今の私とは違って、あの人は夢を諦めて、新しい道に進んでいるように見える。私も本当はそうするべきなんだとは思う。けれど、私は未だに自分の中の多くのものを捧げてきた夢を捨てるという事に耐えられないでいる。本当は諦めたくなくて、自分の無力さを認めたくない。だから私は、目の前の現実に怒りを向ける事で逃避を続けてきて、でも、いつまでもこうして前に進めないでいる訳にはいけない筈なんだ。
誰かが此方に向かって走ってくる音がして、そちらを見ると藍様の顔が見えた。藍様も私を見つけたらしく、一瞬驚いた後、すぐに駆け寄ってきた。その時の藍様の顔はひどく心配そうで、辛そうであった。自分を責めているような、若しくは罪悪感を感じているのか、何はともあれ私の事をずっと想ってくれているようだった。
私はそれを見て何故だが無性に泣きたくなって、我慢しようとしたけど堪えきれずに涙で目の前が一杯になった。結局、私はこの人にずっと嫉妬していて、夢を諦める事の辛さを押し付けようとしていたんだなと思った。でもそれは、私のことをこんなに心配して、想ってくれるような人にするような仕打ちじゃなくて、私はやっぱりもうこれ以上、こんなに私を好きでいてくれる人に嫌な感情を覚えたくはないと思った。結局、何処までいっても私は藍様の事が大好きで、そんな素晴らしい人と生きていく為には、無理な夢を見続けるなんてのはやっぱり欲張り過ぎたんだろうなとも思った。
久しぶりに藍様と手を繋いで帰った。藍様は私が泣いていたのを見て、しきりに悩みがあるなら聞くよと私を慰めてくれたけど、私はすぐに大丈夫ですと答えてみせた。
実際それは半分くらいは本当で、確かに吹っ切れたような気分ではいる。でも、もう半分は嘘であって、きっと当分は何も出来ないと思う。だって、心の中を占めていたものを置いてきて寂しくなる筈だから。それでも、ゆっくりとでも良いからまた新しい夢でも探していこうと思う。私は結局無力で、あの人達に頼ってもらえるようには絶対になれないかもしれないけど、それはそれで割り切っていくしかないんだろう。新しい夢を見つけて、それもまた諦める事になるかもしれない。もしくはそれをこれから先ずっと繰り返していくのかもしれない。それでも、あの人の事をずっと好きでいられる為にも、これから頑張っていかないとなあと思った。
体面と内面の板挟みという訳ではありませんでしたが、藍への敬慕や煩わしさといった感情がごちゃ混ぜになって居るに堪えなくなり駆け出すまでの一連の流れにどっしりした感情が乗せられていて、それが一文一文スルスルと読めてしまう物ですから、
ある意味では自身の置かれた状況をここまではっきりと言語化出来てしまう橙の現状の残酷さをも纏っていたのかもしれません。
後はあとがきの一文が全てのような気がします。ありがとうございました、面白かったです。
越えられない壁があって、そしてその壁を好きでいられる橙はきっととても恵まれているのだと思います。だからこそ悩む時間が増え、その悩みの正体も自己完結してしまうのでしょうが。式の式という立場の悩みの形を描いたよき作品でした。
この橙にはこれからも頑張ってほしい、そう思えました。
話の内容として感じたことですが、これは自分の勝手な妄想かもしれませんが、この橙は多少なりとも作者自身を投影しているのかなと感じました。理想と現実の解離に戸惑い、そして壁に当たり、もがいて、のたうち回って、時には後ろに戻ったり、寄り道したり、そして数々の葛藤の末、自分で答えを見つける。この橙まさにその最中なのでしょう。一般的に思春期は二十歳前後まで続くとされます。その間というのは憧れの人物、目標の人物さえ時には自分にとっての足枷となってしまうことがあります。最後の文章を読んで、きっとこの橙は自分なりの答えを出して更に先へ進んでいけるのだろうと安心しました。
素敵なお話ありがとうございました
努力の果てに少なからぬ力を得て、それ故に目標の遠さに気付いてしまった橙の苦しみがありありと伝わってきました。
その絶望を反抗期のひと言で表現してほしくないという気持ちがやけにリアルで、そこがまた橙のやり場のない閉塞感を表現していたと思います
苦しみとは自分だけのものなのですね
素晴らしかったです
近づくがゆえに遠さを知りそれに絶望すると言ってしまえば
割りと王道なお話ですが
これをすごく丁寧にかつ会話文をほとんどなしに地の文で書き上げる技量が本当に羨ましい。爪の垢ください。
「紫と藍」と「藍と橙」は違うんですよね。でもそんな八雲家も素敵でした。
言葉にできたりできなかったりする自分の苦しみ・葛藤を「反抗期」という既存の単語の枠に当てはめられたり、安直に共感を示されることへの拒否感は、凄く「わかる……」となりました。
適切な距離感をもって夢・理想と付き合うことができず、ギャップに苦しんでしまうというのは、本作の橙に限らず誰しも多かれ少なかれあることと思いますが、本作は葛藤の末に(暫定的な)結論を出して成長するという過程が凄く説得的に書かれていて、その点で普遍的だなと感じました。
この先、橙はきっとより良く夢と付き合っていけるだろう予感を覚えさせる、希望のあるラストなのも良かったです。
ありがとうございました。
この小説はその(あくまでも一つのステップとしての)解決に至るまでの橙の心情や痛みが緻密に描かれていて、非常に共感するものがありました。