しぶとく残る暑さに、私は朝、うなされるように目覚めた。時代は科学世紀ともてはやされている割に、こういう田舎の家は未だ断熱対策が悪く、そのせいで空調の効きも悪くなっている。この国は遥か昔から寒暖差が激しいはずなのに、なぜか家屋の断熱に対する意識が軽薄で大変困る。
私は部屋を出て下の階に降り、適当に顔を洗って朝食を摂った。リビングのモニターには、惰性的にニュースが垂れ流され、やれ能力開発教育の研究が進展しただの、やれ最近の若者は野心が無く無気力で困るだの、無機質な情報が聞こえてくる。つまらない。宗教が追いやられ、不完全な科学だけが残ったこの社会は、本当につまらないと、つくづく思う。
私はそっと目をつぶって、少し前に見つけた、前時代の物理学書の内容を思い出してみた。カオス。そんなものを、宇宙の始まりに見た人々がいた。相対論、量子論、ひも理論。物理学の超統一は目前だった。しかしカオスの問題だけが、最後に立ちはだかった。宇宙の始まりには、そしてブラックホールの奥底には、カオスが有るはずだ思われた。実際そこに行くことが出来なくとも、当時の人々は現実世界の向こう側にカオスを見出し、その謎の解明に取り組んでいた。そんな前時代の人々だったならば、決してこんな世界は望まなかっただろうに。
栄養の摂取を終えた私は、階段を上がって自分の部屋に戻った。今日は謎の動物の探索をした後に、あの前時代の本をゆっくり読み直そうと思い、私は自分の部屋の中を見渡した。
はて、一体どこに置いたっけか。
あの本は数日前ベッドに寝ころびながら読んで、そのまま横に置いた気がするのだが、ベッドの横にも、その周りにも、机の上にも見当たらない。
いや、さすがに、こんなすぐには無くさないだろう。
私は、ベッドの近くのものをガサガサと漁った。そうしている内に、目的の本が見つかった。本は単に書類の下に隠れていただけだった。最近家に送りつけられていたものを、私はそのまま放り投げてしまっていたのだ。
私は見つけた前時代の本を、愛用している鞄に入れて家を出た。
午前九時四十六分。探索開始。私は学校に続く道とは別の方向の茂みから山に入った。太陽は直視することが出来ないので、星と比べて時刻の計算はやや不正確になってしまうが、この緯度程度の地域ならさほど問題にならない。今日は月が西の空に残っているので、時刻と合わせて自分の位置を計算し、私は頭の中に自分を含めた山の地図を描いた。私は頭の中の自分を地図上で動かしながら、道の無い山の中を進んで行った。
今日の探索の目的は、あの謎の動物らしきものが通ったと思われるルートを辿ってみることだ。メリーの目撃証言と時刻、その時の不自然な影の場所と向き、その他諸々の情報を組み合わせれば、謎の動物がいつ廃校舎に現れがちで、どれほどの速度で動くのかが、ある程度予想できる。そしてそれらの引き算をすれば、この山の中で謎の動物がいつどこに現れるのかも、見当が付いてくる。その場所を辿って行けば、何か謎へのヒントを見つけられる可能性が高いはずだ。
私は茂みの中を進み続け、謎の動物が通ると思われるルートの候補の一つ、その端点に到着した。私は辺りを見渡したり、しゃがんで草木の根本を見たりしながら、不自然な点が無いか探しつつ、そのルートを辿って廃校舎まで進んで行った。どんな痕跡でも見逃したりするものか。私は暑さに絶えながら、探索をし続けた。
ルートを辿り続け、いつもの廃校舎に到着した。どうやらこのルートは外れだったらしい。もとよりこの謎は、解決が難しいと覚悟の上だ。メリーとも散々調べて、散々考え、未だにヒントすら得られていないのだ。私はすぐさま頭の中で再計算をして、次のルートの候補を割り出した。今度はこの廃校舎から、そのルートに沿って茂みの中に再び入って行った。
半年前ぐらい前の自分だったら、こういう事は出来なかっただろうなと、私は思った。GPSは電波の入りにくい物陰で、所々場所の表示が不正確になるし、こうして今までの情報と見えている情報を統合して、瞬時にルートにフィードバックを掛けたりするには、やはり自分の頭脳の中で全て完結させなければ出来ないことだ。
私には、メリーに見えているものが見えない。私に見える不思議は限られている。でも、自分の能力を高めるにつれて、僅かながらもその不思議は増えていった。最初の謎は、見えた影の位置が時間と矛盾しているといった大雑把なものだったのが、時間と空間を精密に把握して謎はより鮮明になり、全く正体の想像できなかった存在が、もしかしたらこういう存在なのではないかとも思えるようになってきた。
前時代で謎解きをしていた人々も、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。当時は今よりも遥かに技術水準が低かったはずだ。今でさえ、謎は実現不可能なエネルギースケールの先に追いやられているのだ。当時の人々はもっと絶望していたに違いない。それでも彼らは、この世界の裏側に思いを馳せた。かつて科学と宗教が混在していた時代に、そしてまだ世界に不思議をが残っていた時代に、人々はきっと世界の姿をもっと自由に想像していたのだろう。
私の能力はまだまだだ。私はもっと見えるものを増やしたい。この世界の不思議をもっと見たい。
私は何度もルートを立て直し、探索を続けたが、結局今日も収穫は無かった。がっかりとして、廃校舎に戻ろうとしたところ、急激に空気がべとっとして湿気を帯びてきた。これは夕立が来るに違いない。西の方を見ると、大きな積乱雲が近付いて来ていた。
これはまずい。
私は大急ぎで、廃校舎に向かった。時刻と自分の場所が分かるようになっても、天気ばかりは複雑でやはり予想が難しい。ただ空を眺めるだけでは、かなりの頻度で予想が外れてしまう。
廃校舎が見えて来た時、遠くの方からザーという強烈な音が聞こえて来た。一気に冷たい風も吹き抜ける。ついに夕立が自分を直撃した。私は大急ぎで廃校舎に逃げ込んだが、肩の辺りがびたっと濡れてしまった。帽子も一瞬でびしょ濡れになった。頭が直接濡れてない分だけ、まだマシな方だろうか。
私は教卓の上に鞄と帽子を置き、気休め程度にシャツをパタパタとした。そろそろ学校の方は昼過ぎなので、もしかしたらメリーが来ているかもしれないと思ったが、教室には誰も居なかった。メリーが居たら、タオルを貸してもらえそうなものだが、今日のところはそうも行かないらしい。この濡れた服でずっと座っていても気分が悪いので、私は服を乾かすがてら黒板で遊んでいることにした。私は今日通ったルートを全て黒板の上に書き出し、棄却された仮説を整理して、考察と新たな謎探しをした。
しばらくの間、私は黒板に文字を書いては後ろに引いて全体を眺め考え直し、よく分からなくなっては部屋の中をうろつく、といったことを繰り返していた。やはりこの謎は解くのが難しい。何度も可能性を考え直し、仮説を検証し続けているのに、解決の見通しが全く立たない。
再び黒板に背を向けて考え直そうとしたところ、部屋の入口にはメリーが立っていた。メリーが来たのに全く気付かなかったので、私はぎょっとして飛び跳ねそうになった。夕立の雨の音がザーザーと鳴り響き、足音が聞こえなかったのだろうか。部屋の入口に立っているメリーは俯いていた。頭はぐっしょりと濡れて、いつもの綺麗なブロンド髪はごわごわとしていた。肩もずぶ濡れで力なく垂れ下がり、スカートの裾には泥が撥ねていた。
どうやらメリーも突然の雨に降られてしまったらしい。いつも用意の良いメリーなのに、今日は折り畳み傘を忘れて来てしまっていたのだろうか。
「ちょっとメリー、ずぶ濡れじゃない、まあ私もなんだけど!」
「…ええ、」
「タオルとか持ってないの?」
「タオル…ああ、えっと、…あ、タオル、持ってない、と思う」
「え、珍しい事もあるものね。じゃあ乾くまで待つしか無いわね。ほら、風邪引かないように動いてましょうよ」
私は振り返って、チョークを手に取った。
「メリー、今日は面白い話があるのよ、カオスっていう物理分野のことでね、あ、カオスっていうのは混沌って訳されがちだけど、もともとは宇宙の始まりに関わる言葉でね、」
「…ええ、」
「その分野の本を少し前に読んだんだけどね、これがまた面白い文章ばっかりで、」
あれ、様子がおかしい。
さっきから、メリーの反応が薄いような気がする。
「…メリー?」
私はメリーに向き直してみた。声を掛けてもメリーは力なく俯いたままだった。やはり様子がおかしい。この少女は本当にメリーなのか疑ってしまうほどだ。メリーに明らかに力が無い。手を伸ばしたら、すっと通り抜けてしまいそうな位に、メリーに存在感が無い。数日前にメリーと話した時は、むしろゲラゲラと底抜けに明るく笑っていた気がするのだが、記憶違いだっただろうか。いや、記憶違いなんかではない。最近のメリーはむしろ、かなり陽気だった。それなのに、このメリーは、本当にメリーなのだろうか。
「ねえ、蓮子…」
メリーはぬっと顔を上げながら、力の無い声で言った。メリーの顔は青白く、目元には酷いクマが刻まれていた。あまりに生気の無いメリーの姿に、私は身構えてしまった。
「…どうしたのよ、メリー…」
私はごくりと息を飲んだ。
「私ね…、大学に行くの…、止めようと思うの…」
【続】
私は部屋を出て下の階に降り、適当に顔を洗って朝食を摂った。リビングのモニターには、惰性的にニュースが垂れ流され、やれ能力開発教育の研究が進展しただの、やれ最近の若者は野心が無く無気力で困るだの、無機質な情報が聞こえてくる。つまらない。宗教が追いやられ、不完全な科学だけが残ったこの社会は、本当につまらないと、つくづく思う。
私はそっと目をつぶって、少し前に見つけた、前時代の物理学書の内容を思い出してみた。カオス。そんなものを、宇宙の始まりに見た人々がいた。相対論、量子論、ひも理論。物理学の超統一は目前だった。しかしカオスの問題だけが、最後に立ちはだかった。宇宙の始まりには、そしてブラックホールの奥底には、カオスが有るはずだ思われた。実際そこに行くことが出来なくとも、当時の人々は現実世界の向こう側にカオスを見出し、その謎の解明に取り組んでいた。そんな前時代の人々だったならば、決してこんな世界は望まなかっただろうに。
栄養の摂取を終えた私は、階段を上がって自分の部屋に戻った。今日は謎の動物の探索をした後に、あの前時代の本をゆっくり読み直そうと思い、私は自分の部屋の中を見渡した。
はて、一体どこに置いたっけか。
あの本は数日前ベッドに寝ころびながら読んで、そのまま横に置いた気がするのだが、ベッドの横にも、その周りにも、机の上にも見当たらない。
いや、さすがに、こんなすぐには無くさないだろう。
私は、ベッドの近くのものをガサガサと漁った。そうしている内に、目的の本が見つかった。本は単に書類の下に隠れていただけだった。最近家に送りつけられていたものを、私はそのまま放り投げてしまっていたのだ。
私は見つけた前時代の本を、愛用している鞄に入れて家を出た。
午前九時四十六分。探索開始。私は学校に続く道とは別の方向の茂みから山に入った。太陽は直視することが出来ないので、星と比べて時刻の計算はやや不正確になってしまうが、この緯度程度の地域ならさほど問題にならない。今日は月が西の空に残っているので、時刻と合わせて自分の位置を計算し、私は頭の中に自分を含めた山の地図を描いた。私は頭の中の自分を地図上で動かしながら、道の無い山の中を進んで行った。
今日の探索の目的は、あの謎の動物らしきものが通ったと思われるルートを辿ってみることだ。メリーの目撃証言と時刻、その時の不自然な影の場所と向き、その他諸々の情報を組み合わせれば、謎の動物がいつ廃校舎に現れがちで、どれほどの速度で動くのかが、ある程度予想できる。そしてそれらの引き算をすれば、この山の中で謎の動物がいつどこに現れるのかも、見当が付いてくる。その場所を辿って行けば、何か謎へのヒントを見つけられる可能性が高いはずだ。
私は茂みの中を進み続け、謎の動物が通ると思われるルートの候補の一つ、その端点に到着した。私は辺りを見渡したり、しゃがんで草木の根本を見たりしながら、不自然な点が無いか探しつつ、そのルートを辿って廃校舎まで進んで行った。どんな痕跡でも見逃したりするものか。私は暑さに絶えながら、探索をし続けた。
ルートを辿り続け、いつもの廃校舎に到着した。どうやらこのルートは外れだったらしい。もとよりこの謎は、解決が難しいと覚悟の上だ。メリーとも散々調べて、散々考え、未だにヒントすら得られていないのだ。私はすぐさま頭の中で再計算をして、次のルートの候補を割り出した。今度はこの廃校舎から、そのルートに沿って茂みの中に再び入って行った。
半年前ぐらい前の自分だったら、こういう事は出来なかっただろうなと、私は思った。GPSは電波の入りにくい物陰で、所々場所の表示が不正確になるし、こうして今までの情報と見えている情報を統合して、瞬時にルートにフィードバックを掛けたりするには、やはり自分の頭脳の中で全て完結させなければ出来ないことだ。
私には、メリーに見えているものが見えない。私に見える不思議は限られている。でも、自分の能力を高めるにつれて、僅かながらもその不思議は増えていった。最初の謎は、見えた影の位置が時間と矛盾しているといった大雑把なものだったのが、時間と空間を精密に把握して謎はより鮮明になり、全く正体の想像できなかった存在が、もしかしたらこういう存在なのではないかとも思えるようになってきた。
前時代で謎解きをしていた人々も、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。当時は今よりも遥かに技術水準が低かったはずだ。今でさえ、謎は実現不可能なエネルギースケールの先に追いやられているのだ。当時の人々はもっと絶望していたに違いない。それでも彼らは、この世界の裏側に思いを馳せた。かつて科学と宗教が混在していた時代に、そしてまだ世界に不思議をが残っていた時代に、人々はきっと世界の姿をもっと自由に想像していたのだろう。
私の能力はまだまだだ。私はもっと見えるものを増やしたい。この世界の不思議をもっと見たい。
私は何度もルートを立て直し、探索を続けたが、結局今日も収穫は無かった。がっかりとして、廃校舎に戻ろうとしたところ、急激に空気がべとっとして湿気を帯びてきた。これは夕立が来るに違いない。西の方を見ると、大きな積乱雲が近付いて来ていた。
これはまずい。
私は大急ぎで、廃校舎に向かった。時刻と自分の場所が分かるようになっても、天気ばかりは複雑でやはり予想が難しい。ただ空を眺めるだけでは、かなりの頻度で予想が外れてしまう。
廃校舎が見えて来た時、遠くの方からザーという強烈な音が聞こえて来た。一気に冷たい風も吹き抜ける。ついに夕立が自分を直撃した。私は大急ぎで廃校舎に逃げ込んだが、肩の辺りがびたっと濡れてしまった。帽子も一瞬でびしょ濡れになった。頭が直接濡れてない分だけ、まだマシな方だろうか。
私は教卓の上に鞄と帽子を置き、気休め程度にシャツをパタパタとした。そろそろ学校の方は昼過ぎなので、もしかしたらメリーが来ているかもしれないと思ったが、教室には誰も居なかった。メリーが居たら、タオルを貸してもらえそうなものだが、今日のところはそうも行かないらしい。この濡れた服でずっと座っていても気分が悪いので、私は服を乾かすがてら黒板で遊んでいることにした。私は今日通ったルートを全て黒板の上に書き出し、棄却された仮説を整理して、考察と新たな謎探しをした。
しばらくの間、私は黒板に文字を書いては後ろに引いて全体を眺め考え直し、よく分からなくなっては部屋の中をうろつく、といったことを繰り返していた。やはりこの謎は解くのが難しい。何度も可能性を考え直し、仮説を検証し続けているのに、解決の見通しが全く立たない。
再び黒板に背を向けて考え直そうとしたところ、部屋の入口にはメリーが立っていた。メリーが来たのに全く気付かなかったので、私はぎょっとして飛び跳ねそうになった。夕立の雨の音がザーザーと鳴り響き、足音が聞こえなかったのだろうか。部屋の入口に立っているメリーは俯いていた。頭はぐっしょりと濡れて、いつもの綺麗なブロンド髪はごわごわとしていた。肩もずぶ濡れで力なく垂れ下がり、スカートの裾には泥が撥ねていた。
どうやらメリーも突然の雨に降られてしまったらしい。いつも用意の良いメリーなのに、今日は折り畳み傘を忘れて来てしまっていたのだろうか。
「ちょっとメリー、ずぶ濡れじゃない、まあ私もなんだけど!」
「…ええ、」
「タオルとか持ってないの?」
「タオル…ああ、えっと、…あ、タオル、持ってない、と思う」
「え、珍しい事もあるものね。じゃあ乾くまで待つしか無いわね。ほら、風邪引かないように動いてましょうよ」
私は振り返って、チョークを手に取った。
「メリー、今日は面白い話があるのよ、カオスっていう物理分野のことでね、あ、カオスっていうのは混沌って訳されがちだけど、もともとは宇宙の始まりに関わる言葉でね、」
「…ええ、」
「その分野の本を少し前に読んだんだけどね、これがまた面白い文章ばっかりで、」
あれ、様子がおかしい。
さっきから、メリーの反応が薄いような気がする。
「…メリー?」
私はメリーに向き直してみた。声を掛けてもメリーは力なく俯いたままだった。やはり様子がおかしい。この少女は本当にメリーなのか疑ってしまうほどだ。メリーに明らかに力が無い。手を伸ばしたら、すっと通り抜けてしまいそうな位に、メリーに存在感が無い。数日前にメリーと話した時は、むしろゲラゲラと底抜けに明るく笑っていた気がするのだが、記憶違いだっただろうか。いや、記憶違いなんかではない。最近のメリーはむしろ、かなり陽気だった。それなのに、このメリーは、本当にメリーなのだろうか。
「ねえ、蓮子…」
メリーはぬっと顔を上げながら、力の無い声で言った。メリーの顔は青白く、目元には酷いクマが刻まれていた。あまりに生気の無いメリーの姿に、私は身構えてしまった。
「…どうしたのよ、メリー…」
私はごくりと息を飲んだ。
「私ね…、大学に行くの…、止めようと思うの…」
【続】
怪異に一歩迫ったと思ったら新たな不穏の種が産まれていて続きが気になりました