昔々、ではないあるところ。一匹のようかいさんがいました。
妖怪らしく畏れられたり、怖がらせたり、煙に巻いたり人の営みを眺めたり、ようかいさんは忙しかったり暇だったりしながらも、幸せに暮らしていました。
そんなようかいさんが、特に好きな時間帯がありました。
それは布団に潜って幸せを嚙みしめる夜でも、光と自然のざわめきが手を引いてくれる朝でもなく。太陽がその身体を隠す黄昏時こそが、ようかいさんにとっていっとう尊い時間だったのです。
西日が差す縁側に、畳へ伸びる影一つ。その影はほんの少しですが、ゆらゆらと揺れています。日の光の所為でしょうか、真っ白にも見える金の髪。ようかいさんはゆっくりと目を閉じます。
生きているものは夢を見ます。それは妖怪でも変わらずに。
赤と白の光を瞼に焼き付けながら、ようかいさんは自分の中に扉を開きました。
ばいばあい
茜の空に風一つ。黄昏色に染まった児童公園に、小さな少女の影一つ。
友達は皆、ある子は一人で、またある子は迎えに来た親と一緒に。そうして少女だけが公園に残っています。
もう、世界の端が燃えています。世界が一日を急かしますが、それでも少女はなんの不安も、恐怖もありません。
ブランコに座り、少女は目を閉じました。
夕焼けの向こう、澄ました耳の向こう側。少女の記憶の奥底から、名前を呼ぶ両親の声が聞こえます。穏やかに笑う祖父母の声が聞こえてきます。さっきまで遊んでいた友達の声が、少女の耳と胸の奥に。
少女の耳にはたくさんの声が聞こえてきます。くるりくるりと、それは決して幻ではなく、少女の幸せを形作っていました。
声は少女に力をくれるのです。ですがそのことに少女に気づいてはいません、それに名前を付けるには少女はまだ幼く、それを知るには少女はまだ満ち満ちていたのです。
瞼に感じていた眩しさが陰ったことに、少女は気がつきました。その陰りは人の形をとっているようで、少女はゆっくりと目を開きます。
こんにちは
ゆっくりと、人影は挨拶をしました。
その顔は見たことも無い筈なのに、少女の記憶のどこかにある誰かに似ていました。
夕焼けを背に、人影は少女に近づきます。燃えているかのような金の髪に目を奪われました。
人影は少女に喋りかけます。その瞳は真っすぐに少女をとらえて、そして少女もまたその瞳から逃げはしませんでした。
一緒に、人を助けに行きませんか?
父も母も、少女に言っていました。知らない人についていってはいけないと。しかし、少女は一も二もなく頷きました。
だって、少女は目の前にいる人影をまず助けたかったから。その瞳が、少しだけ、哀しそうだったから。
錆びた鎖を鐘の音に、人影と少女は歩き出します。黄昏時は逢魔が時。微かに揺れるブランコだけを残して、公園は全てを見ていました。
人影はとても不思議な力を持っていました。何もないところから『世界の裏側』に行けたのです。少女が付いていった先には、星空に包まれていました。大きな大きな真っ白な足場からはたくさんの階段が横向きだったり、逆向きだったりに伸びています。それは星々につながっていて、星々だと思っていたそれが沢山の扉だということに、少女は気が付きました。
少女は一緒に歩く人影に問いかけます。あなたの名前はなんですかと。
人影は返します。私の名前は『ようかいさん』っていうの、と。
その言葉に、少女は顔をくしゃっとして笑うのです。変な名前だね、と。
ようかいさんが微かな微笑みを浮かべたことに、少女は少しだけ誇らしい気持ちになりました。自分の中にある、胸の奥で鳴り響く幸せを、ようかいさんに届けられた気がしたのです。
少女は幸せでした。父の大きな手から、人を愛する喜びを貰っていました。
少女は幸せでした。優しい母の笑顔から、人に愛される喜びを知りました。
少女は幸せでした。友からはかけがえのない時間を一緒に過ごす楽しみを教えてもらっていたから。
少女の心は無垢でした。光だけが続いていくと、今この瞬間も信じて疑わず。
だからでしょうか、ようかいさんは少女の笑顔に上手く応えることが出来ずに、浮かんだ感情を微笑みで隠すことしかできなかったのです。
どれほどに世界の裏側を歩いたでしょうか。少女とようかいさんは、一つの扉の前にたどり着きました。
お願いが、あるのです。
ようかいさんは神妙に……その感情が少女に伝わったかはわかりませんが、とにかく、少女にそう呟きました。
疑いも、恐怖もなく、少女はようかいさんに瞳を向けます。そのまっすぐな視線を受け止めきれなくなる前に、ようかいさんは言葉を続けました。
どうか、彼女の前で笑ってくれませんか?
その言葉を理解するよりも先に、一人と一匹は扉をくぐりました。
それはとてもとても、哀しい旅の始まりでした。
小高い丘に風一つ。重い身体を引きずって、旅人は近くの岩に腰を下ろしました。
視線の先は青空に。そこにあるのは大きな入道雲。
随分と遠くまで来たと旅人は下唇を噛みました。誰にも見られることもなく。
いつからだったでしょう、空の青さに鮮やかさを感じなくなったのは。
旅人は幸せでした。愛を教えてくれた優しい父と母は既に土の中。
旅人は幸せでした。かけがえのない時を過ごした友たちは遥か昔に道を違え。
旅人は幸せでした。自分の心の中に描いた神様は、救いを与えてくれるものから訣別の尊さを教えるものに替わっていたとしても。
旅人の心は褪せて擦り切れていました。
救いの光を見たことも何度もありました。その光は暖かく、鮮烈に旅人を惹きつけました。それを覚えていたが故に、旅人は陰に耐えることが出来なかったのです。
いつか見た光は一緒に走り回った犬になり、土の中に還った父母の形となり、幻想的な蝶になって。
どれだけ追い求めても捕まえられないことを知ったときに、旅人は誰もいない道で泣きました。誰にも知られず見られることも無く。
無垢に信じていた幼さゆえの全能感は、いつかの黄昏に落としてしまいました。乾いた風が若さを攫ってしまい、かわりに皺が顔に刻まれていました。
腰まで曲がるほど老いてはいません。ですが、星空を見て夢を語るよりも、地面の染みを見て終わりを考える時間の方が長くなっていました。
歩みを止めてへたりこんだことも幾度もありました。ただそれでも、もう助けてくれる人はいないのです。
助けてもらえないことが悲しいのではありませんでした。もう、ここまで来てしまったのだと、その事実が旅人の胸を何度も叩くのです。
只々泣き、誰にも知られずに自分を殺し、そうして立ち上がります。それがどれだけ辛くても。
杖代わりに拾った棒切れにしがみついて、旅人は立ち上がりました。どうしてでしょう、身体はまだまだ悲鳴を上げているのに、休む気にはなれませんでした。
丘の頂上、凪のむこう、耳を澄ましても、もう何も聞こえません。
旅人は歩き始めました。
穏やかな天気の下、旅人は俯きながら歩きます。その歩みはとても遅く、それでもゆっくりと、ゆっくりと旅人は歩きます。
ねえ、母さん。もう貴女の声を思い出せないの。あの子守唄が、もう聞こえないの。
ねえ父さん。もう、あんなに大きかった手を、私の頭を強く撫でてくれたその手のぬくもりを、もう思い出せないの。
神様。嗚呼神様、あの頃私が見ていたあなたたちは、幻だったのでしょうか。
段々と、歩くことのできる距離が短くなっていることに気がつきました。足首には枷が付いていて。旅人はゆっくりと枷から伸びる鎖に目をむけます。
伸びた鎖のその先には、沢山の棺桶。
棺桶の中には、今までの自分が入っているのです。あの日、あの時、あの場所で、選び取らなかった自分の死体が入っているのです。
もう、その重さもわからぬほどのそれを引きずりながらも、それでも旅人は歩き出します。ですがそれでも身体の自由は余りに効かず。
先程休んだような丘の上で、木を背にして旅人は腰を下ろしました。
穏やかな日でした。
だいじょうぶですか?
いつか、どこかで聞いたことのある声でした。
上げるだけでも『おっくう』な顔を上げると、青空を背景に子どもが立っていたのです。
自分が産んだ子ではありません。それでも、その少女の顔や雰囲気に、旅人は憶えがありました。
……あなた、ひとり?
ううん、ようかいさんと一緒なの
旅人には、少女が言うようかいさんとやらの姿を見ることは出来ませんでした。
旅人と少女の視線が交わりました。ちょうど陽光を背にした少女の顔は、いつかどこかで落としてしまった純真さをたたえていました。
少女の顔を見ていると、どうしてでしょうか、先程まで旅人のなかにあった立たなくては、歩まなくてはという気持ちが薄れていくのです。ですが旅人の心はむしろ穏やかになっていました。
……ようかいさんが、いっしょにこない? だって。
少女の言葉に、旅人は知らず、自身の手を差し出していました。どうしてそんなことをしたのかと自分の心に問いかけることもありません。それこそが本心でした。
うん、 いっしょに行こう!
少女が旅人の手を取ります。その温もりが、旅人が感じた最期でした。
旅人は、まるで最初からいなかったかのように砂のようになって消えてしまったのです。少女はびっくりしながらようかいさんに尋ねました。
真っ白な手袋に隠されたようかいさんの指は、少女の胸元をとん、と叩きます。あなたの中にいるのよ、と。
私の中にいるの?
ええ。
それで、いいの?
彼女は、迷子だったから。
ようかいさんと少女は、再び世界の裏側への扉をくぐります。そこにある歪んだ夜空と無数の扉たち。つまりはその扉の先々に迷子がいるのでしょうか?
まいごさんは、他にもいるの?
ええ。
じゃあ、行かなきゃね
少女はくしゃりと笑顔を浮かべます。そんな少女に、ようかいさんは微笑むことしかできませんでした。
ようかいさんと少女は、文字通りにたくさんの迷子さんを捜しました。
迷子さんたちに、ようかいさんの姿は見えません。だから、少女が迷子さんを救い出し、その気持ちを取り込んでいきました。
それは時には捧げられた生贄であり
その最期は、怒りに彩られ
それは時には満員電車に揺られながら船を漕ぐ『おーえる』であり
その疲れ果てた項に、少女は哀しみを見て
それは時に家庭を築き、今まさに旅立とうとする老婆であり
時間を積み上げることでしか成しえない喜びを、老婆の隣で感じ
それは時に、少女と同じように公園で、いつまでも来ない親の幻影を待ちわびる少女でした。
少女は、ただ気持ちのままに共に遊ぶのでした。
そうして迷子さんを取り込んでいくうちに、少女は段々と大きくなっていきました。その髪は艶やかな金色に。たくさんの迷子さんたちの哀しみと疲れを見た瞳は、何時の頃からかあの無垢ゆえの真っすぐさは消え、ようかいさんと同じように深い赤を湛えていました。
少女はそれでも、笑顔と、ただ迷子を救いたいという気持ちだけは忘れることはありません。
少女とようかいさんは鏡写しといってもいいほどに、その姿は似通っていました。
次はどこに行こうか、そう少女が問いかけ、ようかいさんは次の扉を開きます。くぐった先に見た景色は、忘れようもないものでした。
黄昏時、逢魔が時。黄金色の西日に照らされるブランコは、まだ揺れていました。
少女が振り返った先、ようかいさんは、いつものように微笑んでいました。ともに永い時間を過ごした少女にはわかるのです。それが哀しみだと。
これ以上一緒だと、あなたも迷子になっちゃうから、ね
その言葉は、旅の終わりを意味していました。
ようかいさんは、大丈夫なの? 迷子に、ならないの?
ともに歩いた、あの世界の裏側を思い出します。あの長い長い階段と星空に一人。それは孤独であり、その孤独は絶対に恐怖と哀しみを持ってくると少女は学んでいました。
ようかいさんは、答えます。私には帰る家があるからと。
あなたに救われて、きっとあの子たちも幸せだったと思います。私の声では、彼女たちを連れていくことは出来なかったでしょうから。
ようかいさんが腕を、ゆっくりと横に振りました。するとどうしたことでしょう、少女は自分の視線が低くなっていくことに気が付いたのです。ようかいさんに瓜二つだった少女の姿は、あの時、ブランコを漕いでいた時の姿に戻っていました。
もう、一緒には行けないの? そう少女は尋ねます。ようかいさんは背を向けると扉に足を向けます。それが答えでした。
ねえ!
力の限りに、少女は叫びました。一緒にいた時にも聞いたことがないほどの大きな声に、思わずようかいさんは振り向いてしまいます。
あなたの、なまえは?
……ゆかり
やっぱり!
くしゃりと、少女は笑顔を浮かべました。ずっとずっと、そんな気がしていたのです。
それが最後でした。ゆかりさんが扉をくぐると、そこにはもう、何もありませんでした。ついさっきまでの壮大な冒険が嘘のように。
少女の瞳が、夕日を捉えます。きっと、あのようかいさんはまたどこかで別の『ゆかり』と一緒に、迷子の『ゆかり』を救いに行くのでしょう。
少しだけでも、彼女の救いに、自分はなれたのだろうか。遠くから聞こえる父と母の声が、少女とようかいさんの物語を閉じるのでした。
西日が差す縁側に、畳へ伸びる影一つ。ゆらゆらと揺れていた影の主は、涙で霞んだ瞼を開きます。
夕餉が出来たと呼びに来た愛する家族が、ようかいさんの涙を見ておろおろとしています。何か哀しいことがあったのですかと。その姿を愛おしく思いながら、ようかいさんは家族と一緒に食卓を囲むのです。
生きているものは夢を見ます。それは妖怪でも変わりません。
ようかいさんは夢を見ます。泡沫の狭間で、迷子の自分を救うために。
哀しく、それでも幸せな旅を夢に見ます。
妖怪らしく畏れられたり、怖がらせたり、煙に巻いたり人の営みを眺めたり、ようかいさんは忙しかったり暇だったりしながらも、幸せに暮らしていました。
そんなようかいさんが、特に好きな時間帯がありました。
それは布団に潜って幸せを嚙みしめる夜でも、光と自然のざわめきが手を引いてくれる朝でもなく。太陽がその身体を隠す黄昏時こそが、ようかいさんにとっていっとう尊い時間だったのです。
西日が差す縁側に、畳へ伸びる影一つ。その影はほんの少しですが、ゆらゆらと揺れています。日の光の所為でしょうか、真っ白にも見える金の髪。ようかいさんはゆっくりと目を閉じます。
生きているものは夢を見ます。それは妖怪でも変わらずに。
赤と白の光を瞼に焼き付けながら、ようかいさんは自分の中に扉を開きました。
ばいばあい
茜の空に風一つ。黄昏色に染まった児童公園に、小さな少女の影一つ。
友達は皆、ある子は一人で、またある子は迎えに来た親と一緒に。そうして少女だけが公園に残っています。
もう、世界の端が燃えています。世界が一日を急かしますが、それでも少女はなんの不安も、恐怖もありません。
ブランコに座り、少女は目を閉じました。
夕焼けの向こう、澄ました耳の向こう側。少女の記憶の奥底から、名前を呼ぶ両親の声が聞こえます。穏やかに笑う祖父母の声が聞こえてきます。さっきまで遊んでいた友達の声が、少女の耳と胸の奥に。
少女の耳にはたくさんの声が聞こえてきます。くるりくるりと、それは決して幻ではなく、少女の幸せを形作っていました。
声は少女に力をくれるのです。ですがそのことに少女に気づいてはいません、それに名前を付けるには少女はまだ幼く、それを知るには少女はまだ満ち満ちていたのです。
瞼に感じていた眩しさが陰ったことに、少女は気がつきました。その陰りは人の形をとっているようで、少女はゆっくりと目を開きます。
こんにちは
ゆっくりと、人影は挨拶をしました。
その顔は見たことも無い筈なのに、少女の記憶のどこかにある誰かに似ていました。
夕焼けを背に、人影は少女に近づきます。燃えているかのような金の髪に目を奪われました。
人影は少女に喋りかけます。その瞳は真っすぐに少女をとらえて、そして少女もまたその瞳から逃げはしませんでした。
一緒に、人を助けに行きませんか?
父も母も、少女に言っていました。知らない人についていってはいけないと。しかし、少女は一も二もなく頷きました。
だって、少女は目の前にいる人影をまず助けたかったから。その瞳が、少しだけ、哀しそうだったから。
錆びた鎖を鐘の音に、人影と少女は歩き出します。黄昏時は逢魔が時。微かに揺れるブランコだけを残して、公園は全てを見ていました。
人影はとても不思議な力を持っていました。何もないところから『世界の裏側』に行けたのです。少女が付いていった先には、星空に包まれていました。大きな大きな真っ白な足場からはたくさんの階段が横向きだったり、逆向きだったりに伸びています。それは星々につながっていて、星々だと思っていたそれが沢山の扉だということに、少女は気が付きました。
少女は一緒に歩く人影に問いかけます。あなたの名前はなんですかと。
人影は返します。私の名前は『ようかいさん』っていうの、と。
その言葉に、少女は顔をくしゃっとして笑うのです。変な名前だね、と。
ようかいさんが微かな微笑みを浮かべたことに、少女は少しだけ誇らしい気持ちになりました。自分の中にある、胸の奥で鳴り響く幸せを、ようかいさんに届けられた気がしたのです。
少女は幸せでした。父の大きな手から、人を愛する喜びを貰っていました。
少女は幸せでした。優しい母の笑顔から、人に愛される喜びを知りました。
少女は幸せでした。友からはかけがえのない時間を一緒に過ごす楽しみを教えてもらっていたから。
少女の心は無垢でした。光だけが続いていくと、今この瞬間も信じて疑わず。
だからでしょうか、ようかいさんは少女の笑顔に上手く応えることが出来ずに、浮かんだ感情を微笑みで隠すことしかできなかったのです。
どれほどに世界の裏側を歩いたでしょうか。少女とようかいさんは、一つの扉の前にたどり着きました。
お願いが、あるのです。
ようかいさんは神妙に……その感情が少女に伝わったかはわかりませんが、とにかく、少女にそう呟きました。
疑いも、恐怖もなく、少女はようかいさんに瞳を向けます。そのまっすぐな視線を受け止めきれなくなる前に、ようかいさんは言葉を続けました。
どうか、彼女の前で笑ってくれませんか?
その言葉を理解するよりも先に、一人と一匹は扉をくぐりました。
それはとてもとても、哀しい旅の始まりでした。
小高い丘に風一つ。重い身体を引きずって、旅人は近くの岩に腰を下ろしました。
視線の先は青空に。そこにあるのは大きな入道雲。
随分と遠くまで来たと旅人は下唇を噛みました。誰にも見られることもなく。
いつからだったでしょう、空の青さに鮮やかさを感じなくなったのは。
旅人は幸せでした。愛を教えてくれた優しい父と母は既に土の中。
旅人は幸せでした。かけがえのない時を過ごした友たちは遥か昔に道を違え。
旅人は幸せでした。自分の心の中に描いた神様は、救いを与えてくれるものから訣別の尊さを教えるものに替わっていたとしても。
旅人の心は褪せて擦り切れていました。
救いの光を見たことも何度もありました。その光は暖かく、鮮烈に旅人を惹きつけました。それを覚えていたが故に、旅人は陰に耐えることが出来なかったのです。
いつか見た光は一緒に走り回った犬になり、土の中に還った父母の形となり、幻想的な蝶になって。
どれだけ追い求めても捕まえられないことを知ったときに、旅人は誰もいない道で泣きました。誰にも知られず見られることも無く。
無垢に信じていた幼さゆえの全能感は、いつかの黄昏に落としてしまいました。乾いた風が若さを攫ってしまい、かわりに皺が顔に刻まれていました。
腰まで曲がるほど老いてはいません。ですが、星空を見て夢を語るよりも、地面の染みを見て終わりを考える時間の方が長くなっていました。
歩みを止めてへたりこんだことも幾度もありました。ただそれでも、もう助けてくれる人はいないのです。
助けてもらえないことが悲しいのではありませんでした。もう、ここまで来てしまったのだと、その事実が旅人の胸を何度も叩くのです。
只々泣き、誰にも知られずに自分を殺し、そうして立ち上がります。それがどれだけ辛くても。
杖代わりに拾った棒切れにしがみついて、旅人は立ち上がりました。どうしてでしょう、身体はまだまだ悲鳴を上げているのに、休む気にはなれませんでした。
丘の頂上、凪のむこう、耳を澄ましても、もう何も聞こえません。
旅人は歩き始めました。
穏やかな天気の下、旅人は俯きながら歩きます。その歩みはとても遅く、それでもゆっくりと、ゆっくりと旅人は歩きます。
ねえ、母さん。もう貴女の声を思い出せないの。あの子守唄が、もう聞こえないの。
ねえ父さん。もう、あんなに大きかった手を、私の頭を強く撫でてくれたその手のぬくもりを、もう思い出せないの。
神様。嗚呼神様、あの頃私が見ていたあなたたちは、幻だったのでしょうか。
段々と、歩くことのできる距離が短くなっていることに気がつきました。足首には枷が付いていて。旅人はゆっくりと枷から伸びる鎖に目をむけます。
伸びた鎖のその先には、沢山の棺桶。
棺桶の中には、今までの自分が入っているのです。あの日、あの時、あの場所で、選び取らなかった自分の死体が入っているのです。
もう、その重さもわからぬほどのそれを引きずりながらも、それでも旅人は歩き出します。ですがそれでも身体の自由は余りに効かず。
先程休んだような丘の上で、木を背にして旅人は腰を下ろしました。
穏やかな日でした。
だいじょうぶですか?
いつか、どこかで聞いたことのある声でした。
上げるだけでも『おっくう』な顔を上げると、青空を背景に子どもが立っていたのです。
自分が産んだ子ではありません。それでも、その少女の顔や雰囲気に、旅人は憶えがありました。
……あなた、ひとり?
ううん、ようかいさんと一緒なの
旅人には、少女が言うようかいさんとやらの姿を見ることは出来ませんでした。
旅人と少女の視線が交わりました。ちょうど陽光を背にした少女の顔は、いつかどこかで落としてしまった純真さをたたえていました。
少女の顔を見ていると、どうしてでしょうか、先程まで旅人のなかにあった立たなくては、歩まなくてはという気持ちが薄れていくのです。ですが旅人の心はむしろ穏やかになっていました。
……ようかいさんが、いっしょにこない? だって。
少女の言葉に、旅人は知らず、自身の手を差し出していました。どうしてそんなことをしたのかと自分の心に問いかけることもありません。それこそが本心でした。
うん、 いっしょに行こう!
少女が旅人の手を取ります。その温もりが、旅人が感じた最期でした。
旅人は、まるで最初からいなかったかのように砂のようになって消えてしまったのです。少女はびっくりしながらようかいさんに尋ねました。
真っ白な手袋に隠されたようかいさんの指は、少女の胸元をとん、と叩きます。あなたの中にいるのよ、と。
私の中にいるの?
ええ。
それで、いいの?
彼女は、迷子だったから。
ようかいさんと少女は、再び世界の裏側への扉をくぐります。そこにある歪んだ夜空と無数の扉たち。つまりはその扉の先々に迷子がいるのでしょうか?
まいごさんは、他にもいるの?
ええ。
じゃあ、行かなきゃね
少女はくしゃりと笑顔を浮かべます。そんな少女に、ようかいさんは微笑むことしかできませんでした。
ようかいさんと少女は、文字通りにたくさんの迷子さんを捜しました。
迷子さんたちに、ようかいさんの姿は見えません。だから、少女が迷子さんを救い出し、その気持ちを取り込んでいきました。
それは時には捧げられた生贄であり
その最期は、怒りに彩られ
それは時には満員電車に揺られながら船を漕ぐ『おーえる』であり
その疲れ果てた項に、少女は哀しみを見て
それは時に家庭を築き、今まさに旅立とうとする老婆であり
時間を積み上げることでしか成しえない喜びを、老婆の隣で感じ
それは時に、少女と同じように公園で、いつまでも来ない親の幻影を待ちわびる少女でした。
少女は、ただ気持ちのままに共に遊ぶのでした。
そうして迷子さんを取り込んでいくうちに、少女は段々と大きくなっていきました。その髪は艶やかな金色に。たくさんの迷子さんたちの哀しみと疲れを見た瞳は、何時の頃からかあの無垢ゆえの真っすぐさは消え、ようかいさんと同じように深い赤を湛えていました。
少女はそれでも、笑顔と、ただ迷子を救いたいという気持ちだけは忘れることはありません。
少女とようかいさんは鏡写しといってもいいほどに、その姿は似通っていました。
次はどこに行こうか、そう少女が問いかけ、ようかいさんは次の扉を開きます。くぐった先に見た景色は、忘れようもないものでした。
黄昏時、逢魔が時。黄金色の西日に照らされるブランコは、まだ揺れていました。
少女が振り返った先、ようかいさんは、いつものように微笑んでいました。ともに永い時間を過ごした少女にはわかるのです。それが哀しみだと。
これ以上一緒だと、あなたも迷子になっちゃうから、ね
その言葉は、旅の終わりを意味していました。
ようかいさんは、大丈夫なの? 迷子に、ならないの?
ともに歩いた、あの世界の裏側を思い出します。あの長い長い階段と星空に一人。それは孤独であり、その孤独は絶対に恐怖と哀しみを持ってくると少女は学んでいました。
ようかいさんは、答えます。私には帰る家があるからと。
あなたに救われて、きっとあの子たちも幸せだったと思います。私の声では、彼女たちを連れていくことは出来なかったでしょうから。
ようかいさんが腕を、ゆっくりと横に振りました。するとどうしたことでしょう、少女は自分の視線が低くなっていくことに気が付いたのです。ようかいさんに瓜二つだった少女の姿は、あの時、ブランコを漕いでいた時の姿に戻っていました。
もう、一緒には行けないの? そう少女は尋ねます。ようかいさんは背を向けると扉に足を向けます。それが答えでした。
ねえ!
力の限りに、少女は叫びました。一緒にいた時にも聞いたことがないほどの大きな声に、思わずようかいさんは振り向いてしまいます。
あなたの、なまえは?
……ゆかり
やっぱり!
くしゃりと、少女は笑顔を浮かべました。ずっとずっと、そんな気がしていたのです。
それが最後でした。ゆかりさんが扉をくぐると、そこにはもう、何もありませんでした。ついさっきまでの壮大な冒険が嘘のように。
少女の瞳が、夕日を捉えます。きっと、あのようかいさんはまたどこかで別の『ゆかり』と一緒に、迷子の『ゆかり』を救いに行くのでしょう。
少しだけでも、彼女の救いに、自分はなれたのだろうか。遠くから聞こえる父と母の声が、少女とようかいさんの物語を閉じるのでした。
西日が差す縁側に、畳へ伸びる影一つ。ゆらゆらと揺れていた影の主は、涙で霞んだ瞼を開きます。
夕餉が出来たと呼びに来た愛する家族が、ようかいさんの涙を見ておろおろとしています。何か哀しいことがあったのですかと。その姿を愛おしく思いながら、ようかいさんは家族と一緒に食卓を囲むのです。
生きているものは夢を見ます。それは妖怪でも変わりません。
ようかいさんは夢を見ます。泡沫の狭間で、迷子の自分を救うために。
哀しく、それでも幸せな旅を夢に見ます。