◆
『さぁメリー、いこう! 夢の世界を現実に変えるのよ!』
制服の上からパーカーとダッフルコートを羽織り、白いリボンが巻かれた山高帽を被る友人は、軽やかにスキップをしながら私の前を軽やかに歩いている。
その姿や身なり、振る舞いは、秘封倶楽部の宇佐見蓮子そのもので。
「私の舞台の上では……だけど」
彼女に聞こえないよう、口の中で、ひとりごちた。
◆
放課後の視聴覚室は、肌寒いほどに冷えていた。
窓の外では時折、木枯らしが吹き、冬が迫っているから……というより、つい先日まで、都大会で最高の演技をするために、死力を振り絞り、煌々と熱を発し、練習し続けていた演劇部の部員達が、ほぼ全員居ないから、というのが大きいのだろう。
「今日の夜は、寒いかな」
皆を引っ張る部長であり、私の友人でもある、東山翠(とうやまみどり)は、重ね着したパーカーのフードを被り、プラスチック製の椅子に深く腰掛け、窓の外を見遣りながら呟いた。
「日が暮れる度に、冬が近づくからね。暖かくして寝てよ? 風邪引いちゃうから」
翠と対面する形で座っている私こと日向綾華(ひむかいあやか)は、眼鏡のレンズと一眼レフカメラのファインダー越しに彼女を見つめ、焦点を合わせてからシャッターを切りつつ答えた。
「平気。この前の結果発表の時より、悪い意味で震える事なんて、そうそう無いだろうから……あ、ごめん」
翠は口走った後、ばつが悪そうにフードを更に深々と被って目を伏せた。彼女は悪くないのに。カメラを机の上に置きつつ、ゆるゆると首を横に振る。
……我が校の演劇部は、何処にでもあるような弱小部だった。地区大会に出場すれど、結果は残せず、鳴かず飛ばず。やる気もあまりなく、その現状を良しとしていた。
そんな腑抜けた集まりに、東山翠は入部した。そして、部活の雰囲気を、塗り替えた。翠にはそれほどの実力が、魅力が、パワーがあった。
面影はどこかあどけなさがあるのに、やや釣り目で存在感のある瞳、形の整った鼻筋、麗しい口元。背は低めだけれど、伸び伸びしている手足を駆使した演技。艶めく黒のショートヘア。時には昂揚させ、時には悲しませる、或いは憎悪や嫉妬を呼び起こさせてしまう、七色に変化する声色。
観る人々を釘付けに、虜にする本物の演者であった。その魅力は、舞台の上は勿論のこと、冷たい現実の中でも、人々を動かす力として放たれていた。
ただなんとなく楽しむだけ。青春の思い出作りのため。真面目にやる気力も、実力も持ち合わせていない、柄じゃない。曖昧で緩い連帯感と達成感で寄り集まっていた部員の意識が、取り巻く空気が、翠の存在一つで、がらりと変化した。
彼女を引き立たせたい、スポットライトを当てたい。そうすれば、見えない景色が見られるのでは。部員達が抱いた直感は、正しかった。
去年、即ち私と翠が高校一年生の時。文化祭公演の後に行われた地区大会で、奨励賞を受賞したのだ。あの万年弱小校であった、我が校の演劇部が、である。
来年こそは、もっと上を。スローガンを胸に、部活動の練習はより活発になっていった。
努力は見事に実を結んだ。地区大会で初めて最優秀賞に輝いた。そして、都大会に出場することになったのだ。
流れが来ていた。熱量は高まるばかりだった。
都大会制覇、ブロック大会で最優秀賞、果ては全国大会出場だって、現実の目標となっていた。熱に浮かされていたと言えば、そうかも知れない。だが、夢のまた夢のような絵空事に、現実味を伴わせるほどの奔流が、部員を活気づかせていた。
そして、その都大会が、先日行われたのだ。
翠は勿論、他の部員も全員、全力で演じた。壇上で一つの物語を、創造した。確かに全力を出し尽くした。
結果は、優良賞だった。
無名校、都大会初出場の高校が、賞を取る。それだけで価値のある出来事ではあるけれど、知らず知らずのうちにその先を見据えていた部員達は、打ちひしがれた。
今日だって本当は部の活動日なのに、皆が燃え尽きてしまったようで、暫くは自主練という名目で各々休息を取ることになっている。
だからここには、部長である翠と、文字通り部外者ではあるが責任の一端を担っている私だけが居た。
「綾華の脚本は完璧だった。それを活かしきれなかった私の実力不足」
「違う。もっと脚本のクオリティを高めるべきだった。私の努力不足」
私は演劇部員ではない。文芸部員だ。翠とは小学校の頃からの友人というよしみで、演劇部の脚本を担当することとなった。
翠は演劇に関して天賦の才があった。そんな彼女が、私に期待してくれた。だから、目一杯努力した。それでも、見えてしまった彼方の目標には、届かなかった。
「文芸部の方の原稿をほっぽり出させて、我が儘に付き合って貰ったんだ。『どうして全国大会で最優秀賞を取るような演技をしなかったの!』って怒っても良いんだよ? 受け止めるからさ」
友人からの温かい言葉に、胸が熱くなる。目線を上げ、眼鏡の位置を直して、問いかける。
「じゃあさ、聞くけど、脚本の話は、本当に良かった?」
「勿論。綾華の書く物語は繊細で、鮮やかで、演技の甲斐があるよ」
「ありがとう。それだけで十分だから」
私は元々夢見がちな女の子だった。小学生の頃からずっと、色々な物語が浮かんでは消え、思いついては忘れていった。
ふとした拍子に、思いついたお話を、翠に語ってみた。
すると、顔を綻ばせ、褒めてくれた。綾華のお話、面白いね、と。
それからだった。もっと彼女に話を聞いて欲しくて、読んで欲しくて、物語を……小説を、書き始めたのは。
そんな経緯があったから、翠は私に脚本を任せてくれた。だから、私はその期待に応えたかった。
作品のクオリティを上げるためなら、何でもした。都会を題材にしたときは都心に足繁く通って取材を繰り返し、山が舞台なら実際に登山に出掛けた。手元にある一眼レフカメラも、今回のお芝居用に、自腹で購入したものだ。
先程撮影した翠の写真を確認するついでに、都大会の様子を撮ったデータに目を通す。舞台裏での部員の何気ない姿、ステージ上で舞う翠の姿、大会後に翠と私の妹、彼女の妹と一緒に撮った写真。
ふと疑問が浮かび、彼女に問いかける。
「翠は、これからどうするの? 演劇、続ける?」
「完全燃焼しちゃったから、分かんない。暫く休憩。どのみち、来年は受験だしね」
「……そっか」
「どうせ大学でも演劇はするんだろうけど、今はそのビジョンがよく見えない。なんだか不思議。
まるで、怪盗夢泥棒に夢を盗まれちゃったみたい」
唐突に出てきたワードに目をしばたたかせた。
「小学生の間で流行ってる噂話だっけ」
「そうそう」
怪盗夢泥棒。性別や身なりは語る人間によって様々だが、話の概要としては、子供の夢を思う気持ちを盗んでしまう、というもの。大方、遵守医務区で荒唐無稽な夢や目標を語る子供に対し、非情な現実を突きつけ、堅実な路線を歩ませようとする大人を指しているのだろう。でも……。
「もしかしたら、本当に居たりして。未来への想い、叶えたい目標へ突き進む決意や意欲を吸い取ってしまう、そんなオカルトが」
「オカルト……そう言われてみると、なんだか秘封っぽいわ!」
「まーた、すぐ安易に好きなものと結びつけるんだから」
フードを勢いよく脱ぎ、瞳を輝かせる友人に、思わず苦笑を浮かべてしまう。
秘封――秘封倶楽部。人妖入り交じる異世界、幻想郷を舞台に繰り広げられる「東方Project」の外伝的な立ち位置に当たる作品で登場する、とあるサークルの名前でも在り、1ジャンルを指す名称。
現代より少し先の未来、不思議が否定された現実世界で、深秘を追い求める、変わった力が宿る眼を持つ女子大生二人が所属するオカルトサークル。
サークルメンバーその一、宇佐見蓮子。夜空から時間と場所を視る瞳を持ち、不思議なことに興味津々で行動力旺盛な少女。
もう一人のサークルメンバー、マエリベリー・ハーン。結界のほつれや、別世界との綻び――境界を視たり、夢を通じて別の世界に触れられる体質を有する少女。
私が秘封倶楽部を知ったのは、数年前。翠に紹介されてからだった。秘封倶楽部に限らず、サブカル系にはお互い精通していて、読んだ漫画や見たアニメの感想を言い合ったり、スライドショーを駆使して布教しあったりしている。
東方自体は知識もあったし、少しだけ触れてもいたので、概要はすんなり把握できた。翠からCDを渡され、ブックレットと合わせて聴いたりしているうちに、自分もその世界観に引き込まれていった。
「秘封っぽい、みたいなワードって安直に使われがちだけど、それくらい、各々が思う"秘封らしさ"というものの解釈、範囲が広いのが面白いわよね」
「二次創作も色んな方向性の作品がたくさんあるし!」
秘封倶楽部に関して、公式の作品で明かされている事実はいくつかある。それをシンプルに結びつけてもいいし、裏側に潜む複雑に絡み合った糸を透かしてみてもいい。千差万別に受け取れるような余白、余地が存在しているのだ。
その隙間を自分なりに紐解いて、改めて形にするのが、二次創作。
例えば、世界観。我々よりもちょっと先の未来世界、その中に潜むオカルト、という題材に、筆者はどういった視座を有しているのか。科学が異様に発達したSFチックな作品だったり、東方の本編と絡ませた不思議な怪事件から、世界の命運が主題となる作品も数多く存在する。
蓮子とメリーの繋がり、関係性について深掘りしている人も多い。
不思議な力があるとはいえ、オカルトに対しては一般人の域を出ないながらも、深秘を信じて止まない少女、宇佐見蓮子。方や不思議な力と当たり前のように共存し、価値観も相まって何処か揺らめいている少女、マエリベリー・ハーン。
蓮子の明るさや気丈な立ち振る舞いから影や脆さを見出す者も居れば、メリーの姿見や能力から八雲紫との関連性を指摘する者も居て、それを作品に落とし込んだ二次創作は数知れず。
単純に彼女達が仲睦まじくしている様子を描写する作品もある。
その自由度の高さから、二次創作品も多様な形態が様々見受けられる。普通の漫画や小説から、装丁を拘った物、音楽のアレンジ、コスプレ、写真、ライブなどなど。
登場人物は同じなのに、千差万別、異なる物語を紡ぐことが出来、受け手も多様な感情を抱く。それでいて、秘封倶楽部という同じジャンルたり得る。そこが面白く、興味深いところだ。まるで、舞台のように。
ちなみに、翠は蓮子が主人公や主軸の作品が好みで、憧れているらしい。
「あ、そうだ。最近見つけた秘封作品で面白かったもの、共有するね。きっと、綾華も気に入ると思う」
「何々? 気になる気になる」
翠は満面の笑みを浮かべながらスマホを取り出した。相変わらず、秘封の話題になると楽しそうだ。あどけない、けれどガラスのように透き通った笑顔は、こちらの頬までも緩めてしまう魔力を秘めている。先程の物悲しく寂しい雰囲気よりも、こちらの翠の方が私は好きだ。
ひとしきり秘封に関する雑談を終えると、翠が不意に呟いた。
「暫くはやることも無いし、秘封倶楽部っぽい活動をしてみるのも楽しそう。蓮子になりきって、オカルト調査……怪盗夢泥棒の正体でも暴いてみようかな? ひょっとしたら、今後の演劇の参考になったりして」
単なる思い付きを口にしてみただけなのだろう。だが、脳裏にちょっとした妙案が思いついた。彼女をもっと笑顔に出来るかも知れない、そんな良案が。
◆
あれから数週間。暦は師走へと移っていた。世間はクリスマスや年の瀬に向かって目に見えぬボルテージが高まっていることを肌で感じられる日々が続いている。
都大会で燃え尽きていた演劇部の部員達も、灰の中から復活する火の鳥のように、やる気を取り戻し、練習が再開された。
翠を初めとした今の二年生は、来春には引退し、大会には出場できない。それでも、先立つ者として、部活に残り続ける一年生のために、心血を注いでいる。
本心を明かすなら、翠という要が抜けてしまえば、演劇部の大黒柱、主軸が喪失するのと同義だし、去年や今年のような快進撃は、望み薄だろうと思っている。翠もその点に負い目を感じているのか、人一倍後輩指導に熱心だ。願わくば、彼女のように光り輝く存在が頭角を現しますように。私も、携わってきた関係者として、脚本に興味のある部員にノウハウを伝授するようにしている。
今日も、そんな部活動があった日で、部活動の終了時刻である18時過ぎにもなると、太陽は沈み、すっかり暗くなっていた。
切れかかっているのか、時々ちらつく蛍光灯が照らす昇降口でローファーに履き替えていると、後ろから声を掛けられた。
「綾華、一緒に帰ろう」
振り返ってみると、翠だった。制服の上からパーカーとダッフルコートを羽織り、顔にはわざとらしい笑顔が張り付いている。取って付けたかの様な怪訝な視線を向けてやった。
「嘘。何かあるんでしょ?」
「バレた?」
彼女の家は、私の自宅と同じ方面に位置しているものの、通学手段が異なる。私は距離の関係でバスを利用しているが、翠は体力作りも兼ねて自転車で登下校している。そんな彼女が下校に誘う――自転車を学校に放置して行動を共にしたいと言い出すのだ。理由があるのは間違いない。
翠は誤魔化すように咳払いをしてから、目の色を変えて私に迫った。
「私、怪盗夢泥棒が落とした暗号を入手したのよ!」
目をしばたたかせながら返事をする。
「怪盗夢泥棒って、この前話してた、あの?」
「そう!」
蓮子になりきってオカルト調査を、怪盗夢泥棒の正体を暴いてみる。そんなことを彼女は言っていた。どうやらそれを、本当に実践していて、しかも成果があったらしい。
「暗号の先には、きっと、子供達の夢の隠し場所に違いないわ! どう、秘封倶楽部っぽくない?」
「ロマンチックね。結果の報告、楽しみにしてる」
「何言ってるのよ、綾華も一緒に、秘密を暴きに行くのよ?」
「どうして?」
さも当然とばかりに翠は言った。
「秘封倶楽部は二人で一人。私が蓮子なら、綾華はメリー!」
「勝手に抜擢しないでよ。確かにどちらかというとメリーの方が好きだけど……」
「いいからいいから、細かいこと気にしない! 兎に角、行くわよ!」
翠が、私に手を伸ばす。有無を言わせない力強い笑みを、浮かべながら。
……メリーが本当に居るとしたら、こんな気分になるのだろうか。微笑を噛み殺して平静を装いながら、私は彼女の手を取った。
◆
舞台のサスペンションライトのように、街灯によって等間隔に照らされた街道を歩む。時折前後から走り去っていく車の明かりは、さながらフットライトスポットか。道路に面した家々からは、時折テレビの音や一家団欒の声、犬の鳴き声が漏れ出ていた。
高校の最寄り駅にあるファミレスで晩ご飯を食べてから、翠に促されるままに、夜のを歩いていた。住み慣れた街とは言え、時間帯が異なるだけで、がらりと雰囲気が変わる。隣に翠が居なかったら、心細い思いをしていただろう。
「で、翠。例の暗号は一体どうやって……」
「ちょいちょいちょいストップ!」
冷たい夜の外気に触れないよう、ダウンコートの内側に身を縮こませながら、今夜の本題に入ろうとしたところ、彼女に遮られた。
「なに?」
「今は秘封倶楽部という舞台の上に居るのよ? だから、私のことは蓮子って呼んで。私は、綾華のことをメリーって呼ぶから。オーケー? 『さぁメリー、いこう! 夢の世界を現実に変えるのよ!』」
いつの間にか赤いネクタイを結び、制服の上からパーカーとダッフルコートを羽織り、白いリボンが巻かれた山高帽を被る友人は、軽やかにスキップをしながら私の前へ軽やかに歩み出た。
その姿や身なり、振る舞いは、秘封倶楽部の宇佐見蓮子そのもので。
いつの間にか、演目「秘封倶楽部」は始まっていたようだ。私の方はというと、下校時と同じ、厚着した制服姿に眼鏡のまま、髪だってウィッグがないので普通の黒のセミロングである。こんな格好ではマエリベリー・ハーンとはほど遠いけれど、翠は気にしていないらしい。
ともかく、この場は彼女に合わせておこう。ちょっとした即興劇ということで。
『……蓮子、怪盗夢泥棒の暗号は、どんな経路で入手したの?』
『私には裏表ルートがあるのよ、メリー』
煙に巻かれたが、深追いはしない。ここは原作に沿って、死体相手の念写か何かだろう、と思っておこう。
『どんな内容? 誰にでも解けそうな難易度だった?』
『んにゃ、難しいんじゃ無いかなぁ』
そう言いつつ、『蓮子』は暗号が書かれた紙を取り出した。
6-2,11-4
Mo1,1 Tu6,3 Th4,1 Mo2,2 We4,3 Fr2,4 Mo4,1 Fr3,3 Th6,3 We3,1 Tu1,1 We5,1
『数字とアルファベットばっかりね。どんな内容なのか、さっぱりだわ』
『ふふん、この蓮子様がスパッと解説してあげる!』
自信満々に『蓮子』はドドンと胸を叩いた。
『暗号って大別すると二種類に分けられるの。換字式暗号と、転置式暗号ね。ざっくり説明すると、前者は平文を暗号表に基づいて別の文字や記号に置き換えることで暗号文を生成するもの、後者だと、平文を一定のルールで並び替えることで暗号文を生成するもの。
問題の暗号は、数字が多いから、単純に平文を並び替えたようなものではないさそう、故に換字式と類推できる。となれば、参照元である暗号表を特定すれば、容易に解読が可能になる』
『そういう暗号表って、仲間内だけで共有しているから、秘密のやり取りが出来るのよね? そんな簡単に特定できるのかしら?』
『プランク並みの頭脳がある私には、お茶の子さいさいだったわ。とはいえ、こういうのは閃き、発想の飛躍、偶然の産物が大切。かく言う私も、卓上で、紙に穴が空くほどにらめっこをしていたら、ふと思いついたってわけ。このMoやThというのは、曜日を指しているんじゃないかって。ほら、MoはMonday、月曜日。ThはTuesday、火曜日。そんな感じで暗号文を少し変換すると……』
6-2,11-4
月曜1,1 火曜6,3 木曜4,1 月曜2,2 水曜4,3 金曜2,4 月曜4,1 金曜3,3 木曜6,3 水曜3,1 火曜1,1 水曜5,1
『メリー、これを見て何か閃かない?』
『ふむ……。曜日がここまで当て嵌まっていることから考えると、怪人はカレンダーを暗号表として用いていたのかしら。共有しているカレンダーには複数の集合場所や時間の候補が書かれていて、そこに順番に集まる、とか……』
『カレンダーを用いているという考えは鋭いわ。流石メリー。でも、私が思い至ったものとは、ちょっと違う。
平日しか無いことに注意して欲しいの。ほら、普通のカレンダーは平日に加えて、土日もあるでしょう? それに、一ヶ月のカレンダーであれば、最高でも5週目まで。暗号文の途中にある「Th6」つまり木曜の6週目なんてものは存在しない。
よって、この暗号表は、カレンダーの類でも、特殊なものを使用していると断定出来る』
『特殊なカレンダー?』
『月曜から金曜日までしかなくて、別軸は1から6までの項目がある……。そんなもの、時間割しか無いじゃない!』
確かに、学校は平日だけだし、1時間目から6時間目まで。暗号文の参照元としてはありそうだ。しかし、それだけでは暗号表は特定できていない。
『時間割を使ってそうな施設なんて、この近所だけで言っても、私達が通っていた小学校から中学、そして高校があるのよ? それに、学年によってもクラスによっても全く異なるし、一体どれが怪人が用いている時間割なのかなんて、特定できっこなくない? 一つ一つ、虱潰しで当てはめていくのかしら?』
こちらの指摘に対し、『蓮子』は怯むこと無く話を続ける。
『そんな非効率的な事をする必要は無いわ。ここで登場するのが、あえて無視していた最初の項目「6-2,11-4」よ。要はこれは参照する時間割を指しているの。つまり、6年2組の11月4週目の時間割を元にしろ、ってこと』
『なるほどね。でも、時間割って不変な物だったような気がするけど……』
『あら、メリーは外国育ちだから知らないのかもだけど、日本の小学校は、毎週必ず時間割が変わるのよ。中学校からは学期の初めに発表される時間割で固定だけどね』
『へぇ。勉強になったわ。で、もう暗号は解けるの?』
『ここまで来たらもう解けたも同然!』
彼女が別の紙を取り出す。6年2組の11月4週目の時間割だ。
『Mo1,1は月曜1時間目の教科の1文字目を指しているということだから、「こ」ね。というわけで、これを全て当てはめていくと……』
こうしゃこうほういどした
『つまり、この校舎の後方にある井戸の下、に何かがある!』
謎解きを聞いていたら、丁度タイミング良く小学校の裏門に到着した。私と翠が卒業した、縁のある小学校だ。固く閉ざされた門を乗り越え、夜の学校に侵入する。
『いくら倶楽部活動だからって、不法侵入は気が引けるわ』
『バレたらバレたで、忘れ物を取りに来ましたって言えばどうにかなるでしょ』
『一体何年前の忘れ物よ』
私達の母校とはいえ、卒業してから既に何年も経っている。加えて、今は夜だ。記憶している小学校の姿と、何処か異なって見える。そういった認知のズレから、メリーは境界を視ているのかも知れないと、そんなことを思った。
『ねぇ、蓮子。夢泥棒は、どうして夢を盗むんだろうね?』
静かに慎重に歩みを進めながら、台詞を投げかける。
手元にあるのは暗号だけで、夢泥棒の動機なんてものは、想像するしか無い。故に、これは答え合わせというより、『蓮子』の――いや、翠の考えが聞きたかったのだ。
彼女は大げさに首を捻ってから答えた。
『夢という概念をバリバリ貪るためだったりして』
『ファニーな姿をしていそうね。で、本当は?』
『うーん、……夢を抱いている存在を、妬んでいたのかも』
すぐ隣に建つ住宅と校舎の、決して広くない空間。明かりの類いは一つも無く、目が慣れていなければ、進むことはおろか、周囲を把握することも叶わないだろう。
砂利や土が混ざり合った、道でも無ければ広場でも無い、中途半端な空間を、物音を立てずゆっくり忍び歩きながら、『蓮子』は話を続ける。
『夢や希望、目標を抱き、追いかけるのって、並々ならぬ精神力が必要でしょう? ゴールの存在そのものを信じる心、叶えるために努力し続ける忍耐力、決して諦めない粘り強さ。そんな純情な人が居たら、そうではない人にとっては、眩しすぎて直視できない。そんな気持ちに魔が差して、邪魔したくなっちゃうのかも。
そう、いうなれば、怪盗夢泥棒は、夢とは対極の存在……現実に他ならない。そんな灰色の現実にとって、夢のような輝く代物は、あまりにも眩しくて、側に置いておけない。だから、盗んだ夢を隠したの。隠し場所が小学校なのは――まだそうと決着したわけじゃ無いけど――良心の呵責……とか?』
『確かに、小さい子が夢を語っているときの笑顔ほど、思わず目を背けてしまいたくなるような輝きは無いわね』
彼女の解釈は概ね筋が通っていて、なるほどと感心させられた。
『そして、夢を追いかけている秘封倶楽部も、煌めいていると』
『勿論! あったりまえでしょう?』
『なら……』
言いかけ、まごついてしまう。
秘封倶楽部にとっての夢、活動方針。
結界の綻びに飛び込んでみること。
オカルトを追い続けること。
夢の世界を現実に変えること。
……同じ世界を視ること。同じ世界に、触れること。
蓮子とマエリベリー・ハーンの夢も、同じなのだろうか?
秘封倶楽部というサークルの活動方針に沿ったものかもしれないし、互いが互いの隣に居続けたいという願望のために、サークルという形を堅持しているのかも知れない。もしかすると、その時点で既に考えは擦れ違っているかも知れない。様々な解釈が存在する。
二人の関係は、あくまでサークルメンバーとして、サークルの中だけで完結するのだろうか。それとも、サークルという枠を越えて、唯一二人だけの関係という形に昇華されるのだろうか。私は後者であって欲しいと解釈している。ただ純朴に、純粋に、秘密を暴き続けるだけ、という願いのみでは、二人の繋がりは長続きしないと考えているから。――いや、これは解釈に整合性や説得力を持たせるための導線に過ぎない。押しつけがましい、個人的願望に近い。そう、蓮子とメリーは、彼女達の関係は、代替不可能であって欲しいと私は願っている。蓮子とメリーという不思議な瞳を持つ者同士、特別な人同士が共感し、手を取り合い、ずっとずっと、隣に居続けられないのであれば、普通の人間による相互理解など、絶望的では無いか。
この願いは、翻って、翠が私のことをどう思っているか、という問題にも直結してくる。
翠。東山翠。私の大切な、一番の友人。
私はこれからも、彼女の傍に居られるのだろうか?
他の人間に、取って代わられたりしないだろうか?
彼女は、私という個の存在に興味関心を抱いているから、関係を保っているのか? それとも、私が単に物語を書くのが人より上手いから、友達で居続けているのか?
彼女が私をメリーと指名したのには、意味があるの? 彼女が蓮子とメリーの間に特別な関係を見出しているなら、メリーの役柄を安易に誰かを当てはめるだろうか? 単純に、私しか選択肢が無かったから? ただの帳尻合わせ?
……もちろん、今の考えは、ただの当て付け、難癖、言いがかりに過ぎない。でも、でも、考えずには、居られない。
きっと私も、遠い昔に、怪盗夢泥棒に、夢を盗まれてしまったのかも知れない。何があっても友人で居続けられるだろう、という淡い夢を。
だからこそ、この繋がりは――私が脚本を紡ぎ、彼女が演じるという繋がりだけは、藻掻き足掻き、続けていきたい。
『あ、あれがそうじゃない?』
思案を巡らせていると、不意に『蓮子』が声を上げた。暗闇に薄ぼんやりと浮かび上がるシルエット。井戸ポンプだ。
『よし、早速掘り返してみるかな!』
意気揚々と『蓮子』が井戸ポンプに近づくと、ひょいと屈み、何処からか取り出したスコップで掘削を始めた。私はその様子を隣でじぃと眺める。
『ちょっと、何ぼうっと突っ立ってるのよ。手伝って』
『墓暴きの真似を押しつけてきた時の意趣返し。ほら頑張る』
手を叩き作業を促すと、露骨に嫌な表情をされた。流石に少しは手を貸そうと、作業しやすいようにライトを当ててあげた。私としては、素手で土を掘り返すような真似はしたくないし。
暫く井戸ポンプの周囲を掘り返していると、とある箇所に突き刺したところで彼女の動作が止まり、続けていそいそと掘削しだした。何かを掘り当てたようだ。
『んしょ、これかな?』
スマホの明かりが掘り出し物を照らす。プラスチック製の、白い箱。これを暴けば、この舞台も終了だ。
さっそく『蓮子』が開けて――。
『ん、何かしら、これ』
きょとんとする翠が隣に居ることなんて気にならないくらい、私は、ただただ、驚愕した。
そこには、あるはずのない物が入っていたのだから。
◆
それは、一枚の写真だった。やや黄ばんでいて、表面に幾分か罅が入っている、古い写真。何処かの鳥居と、歪に欠けた月という夜景が焼き付いたそれは、見覚えが無かった。
おもむろに、『蓮子』が写真を裏返す。そこには「夜空を見ろ」という一文が。
『……20時12分』
彼女が夜空を見上げ、都会の明かりで霞んだ星を見て、時刻を呟く。その次の瞬間には、先程来た道を早足で戻り始めた。
「ちょ、ちょっと待って! 待ってよ、翠!」
制止する私を無視して、彼女は先を急ぐ。
『次の手掛かりが見つかったんだから、そこへ向かわない手は無いでしょ!』
一体何処へ? 何をしに? 何を考えているの?
掴んで引き留めようとするも、握ろうとした手は空を切るばかりで。
あっという間に学校を後にして、翠は住宅街を突っ切っていく。
吸い込む空気が冷たく、じくじくと肺を痛めつける。今日は、こんなにも寒かったか? 形容しがたい恐怖感に苛まれながら、声を大にして訴える。
「手掛かりなんてものは無い! 物語はあそこで終わるはずだったの! 全部私の作り話! なのに! なんで、私、そんな写真、入れてない!」
怪盗夢泥棒自体は本物の噂話、根も葉もないゴシップだ。
実態は在れど実体は存在しないオカルトに、具体的な代物――怪盗が作成したとする暗号と、付随するストーリーをでっち上げたのが、他ならぬ私。先日、夢泥棒の話を翠の口から聞いたあの日に思いついた、妙案だった。
つまり、実在する噂話と、他ならぬ現実を、脚本とステージとして活用し、演目「秘封倶楽部」を上演しようという試み。お話を書く身として、どんな場所でも物語は物語れるのか、という意図の実験。
だが、動機はもう一つある。
好きで好きで堪らない、憧れている秘封倶楽部を――宇佐見蓮子を、舞台の上で演じる機会。それを翠にプレゼントするため。都大会での自らの不甲斐なさに対する償いとして。
そう、全ては私の掌の上での出来事のはずなのだ。
時間割を使った暗号を考案したのは私。
暗号の入手手段だって、翠は「裏表ルート」なんて気取っていたが、実際は、私の妹と彼女の妹を通じて、調査と扮して近所の小学生に取材をしている彼女が自然に手に入れられるように、裏で手を引いていたのだ。彼女が地元の小学校に目標物が埋まっていると踏んでいたのだって、暗号が小学校の時間割を参照していたことや、近所の中学や高校に井戸ポンプが無いことの他に、あの小学校に通っている生徒を経由して暗号を手に入れたから、という経緯も関係しているはずだ。というか、そう結論づけるよう、導線を引いていたのだ。
暗号を解くことで得られる箱だって、夢のような煌めきや甘さを想起させたくて、金平糖を中に入れていた。それらを互いに口にしながら、少し会話をして、演目は終了する。そういう筋書きだった。
なのに、「夜空を見ろ」と書かれていた写真が入っていただって?
埒外から、何者かから干渉されているのは間違いない。
……妹か、或いは翠の手に渡る前に暗号を解いた第三者の仕業か? いいや、それはあり得ない。第一に、埋まっていた場所や状態、箱の様子も、最後に私が隠した時と全く同じだった。誰かが掘り返して埋め直したとは、とても思えない。第二に、彼らには動機や目的が存在しない。仮に、私達に対して悪意を持って嫌がらせをするのなら、写真を封入し埋め戻すより、箱自体を盗んだ方が幾倍も手間が省けて、こちらにとっては迷惑だ。
では、翠の仕業か? 暗号が私の仕業だと見抜いた上で、宇佐見蓮子と共に「脚本に踊らされている翠」を演じきり、手品のように中身を瞬時にすり替えて、私を茶化しているのだろうか。しかし、写真の裏側に書かれたメッセージの筆跡は、しっかり確認していないものの、翠や私が知っている人達のそれとはかけ離れていた。
まさか……本当に、本物の、怪盗夢泥棒か? それこそあり得ない! 所詮は小学生の噂話。空想の産物。存在するはずが無い!
『ごめん、つい夢中になって走っちゃった。……って、メリー、どうしたの? 浮かない表情をしてるけど』
思考が堂々巡りをしていると、急に翠がこちらに振り向き、首を傾げてきた。
思わず、目を見開いた。彼女の服装が替わっていたのだ。
厚手のコートの下には、制服では無く、黒いスカートに白のシャツ、黒のケープ、赤いネクタイを身につけていて。
髪色も、何処かブラウンが混ざっていて。
コスチュームを纏っているとか、そういった類いでは無い、宇佐見蓮子と瓜二つの格好をした翠が、そこに居た。
そもそも、彼女の走る姿をずっと視界に捉えていた。着替える隙など、微塵も無かったはずなのに。
理解の範疇を超えた出来事を前にして、私は逃げ出すしか無かった。
「あ、ああぁぁ!!」
意味不明で理解不能な目前の事実から、少しでも距離を置きたかった。しかし、奇妙な現実は私をも浸食していた。
街灯の真下、スポットライトで照らされた中のような、明るい光の下で、目前をきらりと輝く何かが横切った。
反射的に立ち止まって、頭部を確認する。
「な……、あ……、」
見間違いでは無かった。本来黒いはずの私の髪の毛が、ブロンドに染まっていたのだ。いや、染まっているというレベルでは無い。元から、ブロンドだったとしか思えない発色だった。加えて、ダウンコートの下から覗かせる袖が、服が、紫色になっていた。ファスナーを降ろすと、制服では無くワンピースを着ていた。
視界もおかしかった。いつの間にか、眼鏡の縁が無くなっていたのだ。
まさかと思い、スマホのインカメラで顔の様子を確認する。
そこには、私の顔の面影は立ち消え、マエリベリー・ハーンとしか思えない風貌を人間が、恐怖で表情を歪ませている様が映し出された。
周囲の様子も、おかしくなっていた。生まれてからずっと過ごしているはずの、住み慣れ見慣れたはずの街並みが、歪んでいる。変わっている。見たことも無い住宅街になっている。私が、世界が、おかしくなっている。
正気では、いられなかった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるして、」
謝罪を口にして、その場に蹲り、周囲から目を逸らす。
幻覚などでは決して無い、実感を伴った非現実的現象を前に、私が出来る事と言えば、心当たりを精一杯想起することだけで。唯一思い当たる節は、良かれと思って演目「秘封倶楽部」を、翠に黙って実行に移したことのみ。それはひょっとすると、傍から見れば、友人を騙しているだけと捉えられても、おかしくないのでは? だから、その罰が当たっているのだ。神様によって。そう、神様、そんな超常的存在が私に牙を剥いているとしか、思えなかった。
ああ、どうか、詫び言が神様の耳に届いて、周囲が、普通の、普段の景色に戻りますように。一心に、謝って、謝って、謝り続ける。
『メリー、大丈夫。落ち着いて』
唐突に、抱きしめられた。姿を見ずとも分かる。蓮子の姿をした翠だ。翠の声だけれど、舞台の上から聞こえてくるような、芝居がかっているような、彼女であって彼女では無い声で、語りかけてくる。
『何が怖くて、こんなに震えているの?』
「だって、何もかもが違って見えて、私が、私じゃ無いみたいで、わ、私には何も分からなくて、」
『東京は境界のほつれがほったらかしだから、きっと、開いた境界の向こう側に不気味な物が見えちゃって、混乱しているのよ。ゆっくり心を穏やかに保てば、冷静になれるわ』
「ちが、ちがう、ちがうの」
おかしいのは世界で、落ち着くべきは、普通に戻るべきは、世界の方だ。私がどういう心持ちを変えたって、世界は変わらない。
……本当にそうだろうか? 私はマエリベリー・ハーンであり、主観が世界を規定しているのなら、私自身の認識次第で、世界はどうにでも変わるのでは?
いや、おかしい! おかしい、おかしい。違う。間違っている。私はマエリベリー・ハーンでは無い。日向綾華。高校二年生で、文芸部で、妹が一人居る、ただの人間だ。マエリベリー・ハーンなんていう、創作上の存在では無い!
姿形だけで無く、意識までもが、曖昧に、ぐにゃりと潰れていく。輪郭が、喪失していく。
「世界が、おかしくなっていくの、理解、できないの」
『どれが現のメリーで、何が夢のメリーなのか……。ショックで、今の自己との繋がりを、見失っているのね。
大丈夫。今貴方の側にいる私は、貴方を抱きしめている私の温もりは、本物だから。今のメリーだけのものだから。それを寄る辺にして』
「今の、私、だけの……?」
ふつふつと湧き上がっている感情、想い。それが誤りであることも、この場で発露することは間違っているとも、理解しているのに、止め処なく溢れる心情が、メリーで無い私の口を突き動かす。
「翠、東山翠。私の友人、大切な人。
今は側にいると言ったけれど、その後は? これからは?
脚本なんて、誰にでも書ける。私よりも素晴らしい作品を創造できる人は沢山いる。そんな人が目の前に現れたら、どちらを選ぶかなんて、明白でしょう? 私は、それが怖い。クラスが変わっても、学年が上がっても、私の一番は翠だけだった。創作活動自体も楽しいけれど、貴方に褒められるのが、認めて貰えるのが堪らなく嬉しいから、私は物語を、そして脚本を、書き続けている。
だから、もし、貴方が私の脚本に魅力を感じなくなったら、他の人の作品の方が良いと感じたら、私を構成するほぼ全ての否定に等しいの。そうなったら、私は、わたしは、その後、生きている意味すら、」
「安心して、綾華」
唐突に名前を呼ばれ、顔を上げる。宇佐見蓮子であり、東山翠でもある彼女の顔が視界に映る。口元に微笑を浮かべながら、彼女は囁いた。
『「私」だって恐れを抱いているわ。いつまで「貴方」の期待に応えられるのか。「貴方」の側に立っていられるのか――主人公として、上手くやってけているのだろうか。仮に上手くやっているとして、いつまでもこれを続けていけるのだろうか、ってね。
そう、「私」は、主人公になりたかった。誰よりも前面に立ち、誰よりも引っ張り、誰よりも他者を照らし、誰よりも光り輝くモノを抱いている、主人公に。
けれど、そんな不安ももうお終い。「私」は「貴方」のお陰で、私になった。
私は――秘封倶楽部は、輝いている。世界が、社会が、不思議な物を否定し、拒絶していても尚、彼女達だけはそれを受け入れ、信じて、追い求められる、確固たる信念、自信がある。
メリーは眼で見えていて、触れられるのだから、信じられるのも頷ける。けれど、私は違う。私にだって変わった力があるけれど、不思議を全肯定するほどの説得力までは伴っていない。それでも、友人の言葉を信じ、持ち前の行動力を前面に押し出し、眼に見えない物を、強く強く信じている。まさしく主人公よ。
だから、私が、何度でも自信を込めて言うわ。安心して、ってね。
ひょっとしたら、「貴方」と似た存在は、他にも居るかもしれない。でも、「私」にとって必要なのは、「貴方」の力以上に、「貴方」が持つ価値観そのものなの。それは、他人で代替できるものでは無い、唯一無二で、「私」にとって、幾千もの煌めく星々を掻き集めても足りないくらい、価値があるの。そう、「貴方」の紡ぐ言葉が、空気が、そして「貴方」自身が、大好きだから』
彼女の吐露は、思いがけない物だった。
けれど、それは、その台詞は、想いは、宇佐見蓮子として? それとも、東山翠として? 私は、どう受け止めれば良いの?
「それと……『貴方をいつまでも舞台袖に居させたくなかった! いまこの瞬間に、私の隣に居てこそ、マエリベリー・ハーンなのだから!』
立ち上がった翠が、『蓮子』が、蹲る私に、『メリー』に、手を伸ばす。
『さぁ、立って! 倶楽部活動はまだ途中よ!』
強い熱量が宿った瞳。自信たっぷりに笑みを湛える口元。力強さが一本一本から感じられる指。動作でふわりと宙を舞うコートからも、彼女の感情が滲み出ていて。
ああ、ああ! その振る舞いを、その所作を、演技だと思いたくない! 舞台の上だけの、虚構にしたくない! 私だけの、現にしたい!
ならば、ここでの正しい行動は――。
『……えぇ、勿論!』
私の脚本から逸脱した――解き放たれた世界。
街灯というスポットライトが照らし出す、ステージならば。
ここが現実でもあり、舞台の上でもあるならば。
物語とリアルが、夢と現が、互いに溶け合う、特別な空間ならば。
東山翠が宇佐見蓮子となるなら、私も、日向綾華という存在を融かし、混ぜ合わせ、マエリベリー・ハーンになろう。
意を決して、彼女の手を握り、立ち上がった刹那。体の内側に、何かが流れ込んできた。同時に、自我が何処か希薄になっていく。私が揺らいでいく感覚に飲み込まれる。けれど、心の怯え、体の震えは、止まっていた。目前の事象なんて気にならないほど、大きな物が得られたのだから。
私のことを心の底から認めてくれていた。それだけで、この舞台を用意した甲斐があった。
掌から伝う温もりに包まれながら、私はメリーと一つになる。
薄れゆく意識の中で最後に捉えたのは、蓮子とメリーが夜の街へ駆け出す後ろ姿だった。
◆
「別の世界で私は、高校演劇の脚本を担当していたわ」
「そりゃまた、面白い夢を見たわね」
「ちなみに、蓮子も居たんだけど、演者だった」
「ええ? マジ? 平行世界って奴かしら……」
大学構内のカフェテラスで、相棒のこれまた突拍子も無い夢の話を聞かされ、蓮子は苦笑いを浮かべた。
「ちゃんと演じられてたかな?」
「けっこう上手だったよ。で、私は物語を書くことで、蓮子は役柄を演じることで、何かを求めていた。何かってのは、よく憶えてないのだけれど、とっても大切なモノだったはず」
「夢の最後に、求めていた何かは得られたの?」
「まぁね。不思議な夢にしては珍しく、寝覚めが良かったわ」
メリーはお皿にこんもりと積まれた金平糖を一粒摘み、口に含んだ。ほんのりと甘い味が口の中に広がる。蓮子もひょいと口へ放り込む。
「にしても、何かを演じるという行為って、危ういと思わない?」
「危うい? 何処が?」
「役柄をその身に宿すのって、巫女が神託のために神降ろしを行うのと何処か似ているでしょう? もしも自己意識の強い存在を憑依させてしまったら、憑かれた方の自我が消えてしまったりして……」
「怖いこと言わないでよ。それに、そんな話、聞いたこと無いわ。役者が役に乗っ取られるなんて」
「そりゃ、普通ではあり得ないもの。オカルト的な話ね。そうだ、折角だし、他のオカルトサークルを見習って、メリーも降霊術ごっことかしてみない? オールドアダムでさ。ひょっとしたら、何かが憑依したりして……」
メリーや多くの現代人にとって、夢と現は区別はするが同じ物である。
そんな彼女が、別の何かを憑依させたら、夢の自分はどうなるのだろう? 昼間の自分は? 一抹の恐ろしさに身震いしながら、メリーはキッパリと断った。
『さぁメリー、いこう! 夢の世界を現実に変えるのよ!』
制服の上からパーカーとダッフルコートを羽織り、白いリボンが巻かれた山高帽を被る友人は、軽やかにスキップをしながら私の前を軽やかに歩いている。
その姿や身なり、振る舞いは、秘封倶楽部の宇佐見蓮子そのもので。
「私の舞台の上では……だけど」
彼女に聞こえないよう、口の中で、ひとりごちた。
◆
放課後の視聴覚室は、肌寒いほどに冷えていた。
窓の外では時折、木枯らしが吹き、冬が迫っているから……というより、つい先日まで、都大会で最高の演技をするために、死力を振り絞り、煌々と熱を発し、練習し続けていた演劇部の部員達が、ほぼ全員居ないから、というのが大きいのだろう。
「今日の夜は、寒いかな」
皆を引っ張る部長であり、私の友人でもある、東山翠(とうやまみどり)は、重ね着したパーカーのフードを被り、プラスチック製の椅子に深く腰掛け、窓の外を見遣りながら呟いた。
「日が暮れる度に、冬が近づくからね。暖かくして寝てよ? 風邪引いちゃうから」
翠と対面する形で座っている私こと日向綾華(ひむかいあやか)は、眼鏡のレンズと一眼レフカメラのファインダー越しに彼女を見つめ、焦点を合わせてからシャッターを切りつつ答えた。
「平気。この前の結果発表の時より、悪い意味で震える事なんて、そうそう無いだろうから……あ、ごめん」
翠は口走った後、ばつが悪そうにフードを更に深々と被って目を伏せた。彼女は悪くないのに。カメラを机の上に置きつつ、ゆるゆると首を横に振る。
……我が校の演劇部は、何処にでもあるような弱小部だった。地区大会に出場すれど、結果は残せず、鳴かず飛ばず。やる気もあまりなく、その現状を良しとしていた。
そんな腑抜けた集まりに、東山翠は入部した。そして、部活の雰囲気を、塗り替えた。翠にはそれほどの実力が、魅力が、パワーがあった。
面影はどこかあどけなさがあるのに、やや釣り目で存在感のある瞳、形の整った鼻筋、麗しい口元。背は低めだけれど、伸び伸びしている手足を駆使した演技。艶めく黒のショートヘア。時には昂揚させ、時には悲しませる、或いは憎悪や嫉妬を呼び起こさせてしまう、七色に変化する声色。
観る人々を釘付けに、虜にする本物の演者であった。その魅力は、舞台の上は勿論のこと、冷たい現実の中でも、人々を動かす力として放たれていた。
ただなんとなく楽しむだけ。青春の思い出作りのため。真面目にやる気力も、実力も持ち合わせていない、柄じゃない。曖昧で緩い連帯感と達成感で寄り集まっていた部員の意識が、取り巻く空気が、翠の存在一つで、がらりと変化した。
彼女を引き立たせたい、スポットライトを当てたい。そうすれば、見えない景色が見られるのでは。部員達が抱いた直感は、正しかった。
去年、即ち私と翠が高校一年生の時。文化祭公演の後に行われた地区大会で、奨励賞を受賞したのだ。あの万年弱小校であった、我が校の演劇部が、である。
来年こそは、もっと上を。スローガンを胸に、部活動の練習はより活発になっていった。
努力は見事に実を結んだ。地区大会で初めて最優秀賞に輝いた。そして、都大会に出場することになったのだ。
流れが来ていた。熱量は高まるばかりだった。
都大会制覇、ブロック大会で最優秀賞、果ては全国大会出場だって、現実の目標となっていた。熱に浮かされていたと言えば、そうかも知れない。だが、夢のまた夢のような絵空事に、現実味を伴わせるほどの奔流が、部員を活気づかせていた。
そして、その都大会が、先日行われたのだ。
翠は勿論、他の部員も全員、全力で演じた。壇上で一つの物語を、創造した。確かに全力を出し尽くした。
結果は、優良賞だった。
無名校、都大会初出場の高校が、賞を取る。それだけで価値のある出来事ではあるけれど、知らず知らずのうちにその先を見据えていた部員達は、打ちひしがれた。
今日だって本当は部の活動日なのに、皆が燃え尽きてしまったようで、暫くは自主練という名目で各々休息を取ることになっている。
だからここには、部長である翠と、文字通り部外者ではあるが責任の一端を担っている私だけが居た。
「綾華の脚本は完璧だった。それを活かしきれなかった私の実力不足」
「違う。もっと脚本のクオリティを高めるべきだった。私の努力不足」
私は演劇部員ではない。文芸部員だ。翠とは小学校の頃からの友人というよしみで、演劇部の脚本を担当することとなった。
翠は演劇に関して天賦の才があった。そんな彼女が、私に期待してくれた。だから、目一杯努力した。それでも、見えてしまった彼方の目標には、届かなかった。
「文芸部の方の原稿をほっぽり出させて、我が儘に付き合って貰ったんだ。『どうして全国大会で最優秀賞を取るような演技をしなかったの!』って怒っても良いんだよ? 受け止めるからさ」
友人からの温かい言葉に、胸が熱くなる。目線を上げ、眼鏡の位置を直して、問いかける。
「じゃあさ、聞くけど、脚本の話は、本当に良かった?」
「勿論。綾華の書く物語は繊細で、鮮やかで、演技の甲斐があるよ」
「ありがとう。それだけで十分だから」
私は元々夢見がちな女の子だった。小学生の頃からずっと、色々な物語が浮かんでは消え、思いついては忘れていった。
ふとした拍子に、思いついたお話を、翠に語ってみた。
すると、顔を綻ばせ、褒めてくれた。綾華のお話、面白いね、と。
それからだった。もっと彼女に話を聞いて欲しくて、読んで欲しくて、物語を……小説を、書き始めたのは。
そんな経緯があったから、翠は私に脚本を任せてくれた。だから、私はその期待に応えたかった。
作品のクオリティを上げるためなら、何でもした。都会を題材にしたときは都心に足繁く通って取材を繰り返し、山が舞台なら実際に登山に出掛けた。手元にある一眼レフカメラも、今回のお芝居用に、自腹で購入したものだ。
先程撮影した翠の写真を確認するついでに、都大会の様子を撮ったデータに目を通す。舞台裏での部員の何気ない姿、ステージ上で舞う翠の姿、大会後に翠と私の妹、彼女の妹と一緒に撮った写真。
ふと疑問が浮かび、彼女に問いかける。
「翠は、これからどうするの? 演劇、続ける?」
「完全燃焼しちゃったから、分かんない。暫く休憩。どのみち、来年は受験だしね」
「……そっか」
「どうせ大学でも演劇はするんだろうけど、今はそのビジョンがよく見えない。なんだか不思議。
まるで、怪盗夢泥棒に夢を盗まれちゃったみたい」
唐突に出てきたワードに目をしばたたかせた。
「小学生の間で流行ってる噂話だっけ」
「そうそう」
怪盗夢泥棒。性別や身なりは語る人間によって様々だが、話の概要としては、子供の夢を思う気持ちを盗んでしまう、というもの。大方、遵守医務区で荒唐無稽な夢や目標を語る子供に対し、非情な現実を突きつけ、堅実な路線を歩ませようとする大人を指しているのだろう。でも……。
「もしかしたら、本当に居たりして。未来への想い、叶えたい目標へ突き進む決意や意欲を吸い取ってしまう、そんなオカルトが」
「オカルト……そう言われてみると、なんだか秘封っぽいわ!」
「まーた、すぐ安易に好きなものと結びつけるんだから」
フードを勢いよく脱ぎ、瞳を輝かせる友人に、思わず苦笑を浮かべてしまう。
秘封――秘封倶楽部。人妖入り交じる異世界、幻想郷を舞台に繰り広げられる「東方Project」の外伝的な立ち位置に当たる作品で登場する、とあるサークルの名前でも在り、1ジャンルを指す名称。
現代より少し先の未来、不思議が否定された現実世界で、深秘を追い求める、変わった力が宿る眼を持つ女子大生二人が所属するオカルトサークル。
サークルメンバーその一、宇佐見蓮子。夜空から時間と場所を視る瞳を持ち、不思議なことに興味津々で行動力旺盛な少女。
もう一人のサークルメンバー、マエリベリー・ハーン。結界のほつれや、別世界との綻び――境界を視たり、夢を通じて別の世界に触れられる体質を有する少女。
私が秘封倶楽部を知ったのは、数年前。翠に紹介されてからだった。秘封倶楽部に限らず、サブカル系にはお互い精通していて、読んだ漫画や見たアニメの感想を言い合ったり、スライドショーを駆使して布教しあったりしている。
東方自体は知識もあったし、少しだけ触れてもいたので、概要はすんなり把握できた。翠からCDを渡され、ブックレットと合わせて聴いたりしているうちに、自分もその世界観に引き込まれていった。
「秘封っぽい、みたいなワードって安直に使われがちだけど、それくらい、各々が思う"秘封らしさ"というものの解釈、範囲が広いのが面白いわよね」
「二次創作も色んな方向性の作品がたくさんあるし!」
秘封倶楽部に関して、公式の作品で明かされている事実はいくつかある。それをシンプルに結びつけてもいいし、裏側に潜む複雑に絡み合った糸を透かしてみてもいい。千差万別に受け取れるような余白、余地が存在しているのだ。
その隙間を自分なりに紐解いて、改めて形にするのが、二次創作。
例えば、世界観。我々よりもちょっと先の未来世界、その中に潜むオカルト、という題材に、筆者はどういった視座を有しているのか。科学が異様に発達したSFチックな作品だったり、東方の本編と絡ませた不思議な怪事件から、世界の命運が主題となる作品も数多く存在する。
蓮子とメリーの繋がり、関係性について深掘りしている人も多い。
不思議な力があるとはいえ、オカルトに対しては一般人の域を出ないながらも、深秘を信じて止まない少女、宇佐見蓮子。方や不思議な力と当たり前のように共存し、価値観も相まって何処か揺らめいている少女、マエリベリー・ハーン。
蓮子の明るさや気丈な立ち振る舞いから影や脆さを見出す者も居れば、メリーの姿見や能力から八雲紫との関連性を指摘する者も居て、それを作品に落とし込んだ二次創作は数知れず。
単純に彼女達が仲睦まじくしている様子を描写する作品もある。
その自由度の高さから、二次創作品も多様な形態が様々見受けられる。普通の漫画や小説から、装丁を拘った物、音楽のアレンジ、コスプレ、写真、ライブなどなど。
登場人物は同じなのに、千差万別、異なる物語を紡ぐことが出来、受け手も多様な感情を抱く。それでいて、秘封倶楽部という同じジャンルたり得る。そこが面白く、興味深いところだ。まるで、舞台のように。
ちなみに、翠は蓮子が主人公や主軸の作品が好みで、憧れているらしい。
「あ、そうだ。最近見つけた秘封作品で面白かったもの、共有するね。きっと、綾華も気に入ると思う」
「何々? 気になる気になる」
翠は満面の笑みを浮かべながらスマホを取り出した。相変わらず、秘封の話題になると楽しそうだ。あどけない、けれどガラスのように透き通った笑顔は、こちらの頬までも緩めてしまう魔力を秘めている。先程の物悲しく寂しい雰囲気よりも、こちらの翠の方が私は好きだ。
ひとしきり秘封に関する雑談を終えると、翠が不意に呟いた。
「暫くはやることも無いし、秘封倶楽部っぽい活動をしてみるのも楽しそう。蓮子になりきって、オカルト調査……怪盗夢泥棒の正体でも暴いてみようかな? ひょっとしたら、今後の演劇の参考になったりして」
単なる思い付きを口にしてみただけなのだろう。だが、脳裏にちょっとした妙案が思いついた。彼女をもっと笑顔に出来るかも知れない、そんな良案が。
◆
あれから数週間。暦は師走へと移っていた。世間はクリスマスや年の瀬に向かって目に見えぬボルテージが高まっていることを肌で感じられる日々が続いている。
都大会で燃え尽きていた演劇部の部員達も、灰の中から復活する火の鳥のように、やる気を取り戻し、練習が再開された。
翠を初めとした今の二年生は、来春には引退し、大会には出場できない。それでも、先立つ者として、部活に残り続ける一年生のために、心血を注いでいる。
本心を明かすなら、翠という要が抜けてしまえば、演劇部の大黒柱、主軸が喪失するのと同義だし、去年や今年のような快進撃は、望み薄だろうと思っている。翠もその点に負い目を感じているのか、人一倍後輩指導に熱心だ。願わくば、彼女のように光り輝く存在が頭角を現しますように。私も、携わってきた関係者として、脚本に興味のある部員にノウハウを伝授するようにしている。
今日も、そんな部活動があった日で、部活動の終了時刻である18時過ぎにもなると、太陽は沈み、すっかり暗くなっていた。
切れかかっているのか、時々ちらつく蛍光灯が照らす昇降口でローファーに履き替えていると、後ろから声を掛けられた。
「綾華、一緒に帰ろう」
振り返ってみると、翠だった。制服の上からパーカーとダッフルコートを羽織り、顔にはわざとらしい笑顔が張り付いている。取って付けたかの様な怪訝な視線を向けてやった。
「嘘。何かあるんでしょ?」
「バレた?」
彼女の家は、私の自宅と同じ方面に位置しているものの、通学手段が異なる。私は距離の関係でバスを利用しているが、翠は体力作りも兼ねて自転車で登下校している。そんな彼女が下校に誘う――自転車を学校に放置して行動を共にしたいと言い出すのだ。理由があるのは間違いない。
翠は誤魔化すように咳払いをしてから、目の色を変えて私に迫った。
「私、怪盗夢泥棒が落とした暗号を入手したのよ!」
目をしばたたかせながら返事をする。
「怪盗夢泥棒って、この前話してた、あの?」
「そう!」
蓮子になりきってオカルト調査を、怪盗夢泥棒の正体を暴いてみる。そんなことを彼女は言っていた。どうやらそれを、本当に実践していて、しかも成果があったらしい。
「暗号の先には、きっと、子供達の夢の隠し場所に違いないわ! どう、秘封倶楽部っぽくない?」
「ロマンチックね。結果の報告、楽しみにしてる」
「何言ってるのよ、綾華も一緒に、秘密を暴きに行くのよ?」
「どうして?」
さも当然とばかりに翠は言った。
「秘封倶楽部は二人で一人。私が蓮子なら、綾華はメリー!」
「勝手に抜擢しないでよ。確かにどちらかというとメリーの方が好きだけど……」
「いいからいいから、細かいこと気にしない! 兎に角、行くわよ!」
翠が、私に手を伸ばす。有無を言わせない力強い笑みを、浮かべながら。
……メリーが本当に居るとしたら、こんな気分になるのだろうか。微笑を噛み殺して平静を装いながら、私は彼女の手を取った。
◆
舞台のサスペンションライトのように、街灯によって等間隔に照らされた街道を歩む。時折前後から走り去っていく車の明かりは、さながらフットライトスポットか。道路に面した家々からは、時折テレビの音や一家団欒の声、犬の鳴き声が漏れ出ていた。
高校の最寄り駅にあるファミレスで晩ご飯を食べてから、翠に促されるままに、夜のを歩いていた。住み慣れた街とは言え、時間帯が異なるだけで、がらりと雰囲気が変わる。隣に翠が居なかったら、心細い思いをしていただろう。
「で、翠。例の暗号は一体どうやって……」
「ちょいちょいちょいストップ!」
冷たい夜の外気に触れないよう、ダウンコートの内側に身を縮こませながら、今夜の本題に入ろうとしたところ、彼女に遮られた。
「なに?」
「今は秘封倶楽部という舞台の上に居るのよ? だから、私のことは蓮子って呼んで。私は、綾華のことをメリーって呼ぶから。オーケー? 『さぁメリー、いこう! 夢の世界を現実に変えるのよ!』」
いつの間にか赤いネクタイを結び、制服の上からパーカーとダッフルコートを羽織り、白いリボンが巻かれた山高帽を被る友人は、軽やかにスキップをしながら私の前へ軽やかに歩み出た。
その姿や身なり、振る舞いは、秘封倶楽部の宇佐見蓮子そのもので。
いつの間にか、演目「秘封倶楽部」は始まっていたようだ。私の方はというと、下校時と同じ、厚着した制服姿に眼鏡のまま、髪だってウィッグがないので普通の黒のセミロングである。こんな格好ではマエリベリー・ハーンとはほど遠いけれど、翠は気にしていないらしい。
ともかく、この場は彼女に合わせておこう。ちょっとした即興劇ということで。
『……蓮子、怪盗夢泥棒の暗号は、どんな経路で入手したの?』
『私には裏表ルートがあるのよ、メリー』
煙に巻かれたが、深追いはしない。ここは原作に沿って、死体相手の念写か何かだろう、と思っておこう。
『どんな内容? 誰にでも解けそうな難易度だった?』
『んにゃ、難しいんじゃ無いかなぁ』
そう言いつつ、『蓮子』は暗号が書かれた紙を取り出した。
6-2,11-4
Mo1,1 Tu6,3 Th4,1 Mo2,2 We4,3 Fr2,4 Mo4,1 Fr3,3 Th6,3 We3,1 Tu1,1 We5,1
『数字とアルファベットばっかりね。どんな内容なのか、さっぱりだわ』
『ふふん、この蓮子様がスパッと解説してあげる!』
自信満々に『蓮子』はドドンと胸を叩いた。
『暗号って大別すると二種類に分けられるの。換字式暗号と、転置式暗号ね。ざっくり説明すると、前者は平文を暗号表に基づいて別の文字や記号に置き換えることで暗号文を生成するもの、後者だと、平文を一定のルールで並び替えることで暗号文を生成するもの。
問題の暗号は、数字が多いから、単純に平文を並び替えたようなものではないさそう、故に換字式と類推できる。となれば、参照元である暗号表を特定すれば、容易に解読が可能になる』
『そういう暗号表って、仲間内だけで共有しているから、秘密のやり取りが出来るのよね? そんな簡単に特定できるのかしら?』
『プランク並みの頭脳がある私には、お茶の子さいさいだったわ。とはいえ、こういうのは閃き、発想の飛躍、偶然の産物が大切。かく言う私も、卓上で、紙に穴が空くほどにらめっこをしていたら、ふと思いついたってわけ。このMoやThというのは、曜日を指しているんじゃないかって。ほら、MoはMonday、月曜日。ThはTuesday、火曜日。そんな感じで暗号文を少し変換すると……』
6-2,11-4
月曜1,1 火曜6,3 木曜4,1 月曜2,2 水曜4,3 金曜2,4 月曜4,1 金曜3,3 木曜6,3 水曜3,1 火曜1,1 水曜5,1
『メリー、これを見て何か閃かない?』
『ふむ……。曜日がここまで当て嵌まっていることから考えると、怪人はカレンダーを暗号表として用いていたのかしら。共有しているカレンダーには複数の集合場所や時間の候補が書かれていて、そこに順番に集まる、とか……』
『カレンダーを用いているという考えは鋭いわ。流石メリー。でも、私が思い至ったものとは、ちょっと違う。
平日しか無いことに注意して欲しいの。ほら、普通のカレンダーは平日に加えて、土日もあるでしょう? それに、一ヶ月のカレンダーであれば、最高でも5週目まで。暗号文の途中にある「Th6」つまり木曜の6週目なんてものは存在しない。
よって、この暗号表は、カレンダーの類でも、特殊なものを使用していると断定出来る』
『特殊なカレンダー?』
『月曜から金曜日までしかなくて、別軸は1から6までの項目がある……。そんなもの、時間割しか無いじゃない!』
確かに、学校は平日だけだし、1時間目から6時間目まで。暗号文の参照元としてはありそうだ。しかし、それだけでは暗号表は特定できていない。
『時間割を使ってそうな施設なんて、この近所だけで言っても、私達が通っていた小学校から中学、そして高校があるのよ? それに、学年によってもクラスによっても全く異なるし、一体どれが怪人が用いている時間割なのかなんて、特定できっこなくない? 一つ一つ、虱潰しで当てはめていくのかしら?』
こちらの指摘に対し、『蓮子』は怯むこと無く話を続ける。
『そんな非効率的な事をする必要は無いわ。ここで登場するのが、あえて無視していた最初の項目「6-2,11-4」よ。要はこれは参照する時間割を指しているの。つまり、6年2組の11月4週目の時間割を元にしろ、ってこと』
『なるほどね。でも、時間割って不変な物だったような気がするけど……』
『あら、メリーは外国育ちだから知らないのかもだけど、日本の小学校は、毎週必ず時間割が変わるのよ。中学校からは学期の初めに発表される時間割で固定だけどね』
『へぇ。勉強になったわ。で、もう暗号は解けるの?』
『ここまで来たらもう解けたも同然!』
彼女が別の紙を取り出す。6年2組の11月4週目の時間割だ。
『Mo1,1は月曜1時間目の教科の1文字目を指しているということだから、「こ」ね。というわけで、これを全て当てはめていくと……』
こうしゃこうほういどした
『つまり、この校舎の後方にある井戸の下、に何かがある!』
謎解きを聞いていたら、丁度タイミング良く小学校の裏門に到着した。私と翠が卒業した、縁のある小学校だ。固く閉ざされた門を乗り越え、夜の学校に侵入する。
『いくら倶楽部活動だからって、不法侵入は気が引けるわ』
『バレたらバレたで、忘れ物を取りに来ましたって言えばどうにかなるでしょ』
『一体何年前の忘れ物よ』
私達の母校とはいえ、卒業してから既に何年も経っている。加えて、今は夜だ。記憶している小学校の姿と、何処か異なって見える。そういった認知のズレから、メリーは境界を視ているのかも知れないと、そんなことを思った。
『ねぇ、蓮子。夢泥棒は、どうして夢を盗むんだろうね?』
静かに慎重に歩みを進めながら、台詞を投げかける。
手元にあるのは暗号だけで、夢泥棒の動機なんてものは、想像するしか無い。故に、これは答え合わせというより、『蓮子』の――いや、翠の考えが聞きたかったのだ。
彼女は大げさに首を捻ってから答えた。
『夢という概念をバリバリ貪るためだったりして』
『ファニーな姿をしていそうね。で、本当は?』
『うーん、……夢を抱いている存在を、妬んでいたのかも』
すぐ隣に建つ住宅と校舎の、決して広くない空間。明かりの類いは一つも無く、目が慣れていなければ、進むことはおろか、周囲を把握することも叶わないだろう。
砂利や土が混ざり合った、道でも無ければ広場でも無い、中途半端な空間を、物音を立てずゆっくり忍び歩きながら、『蓮子』は話を続ける。
『夢や希望、目標を抱き、追いかけるのって、並々ならぬ精神力が必要でしょう? ゴールの存在そのものを信じる心、叶えるために努力し続ける忍耐力、決して諦めない粘り強さ。そんな純情な人が居たら、そうではない人にとっては、眩しすぎて直視できない。そんな気持ちに魔が差して、邪魔したくなっちゃうのかも。
そう、いうなれば、怪盗夢泥棒は、夢とは対極の存在……現実に他ならない。そんな灰色の現実にとって、夢のような輝く代物は、あまりにも眩しくて、側に置いておけない。だから、盗んだ夢を隠したの。隠し場所が小学校なのは――まだそうと決着したわけじゃ無いけど――良心の呵責……とか?』
『確かに、小さい子が夢を語っているときの笑顔ほど、思わず目を背けてしまいたくなるような輝きは無いわね』
彼女の解釈は概ね筋が通っていて、なるほどと感心させられた。
『そして、夢を追いかけている秘封倶楽部も、煌めいていると』
『勿論! あったりまえでしょう?』
『なら……』
言いかけ、まごついてしまう。
秘封倶楽部にとっての夢、活動方針。
結界の綻びに飛び込んでみること。
オカルトを追い続けること。
夢の世界を現実に変えること。
……同じ世界を視ること。同じ世界に、触れること。
蓮子とマエリベリー・ハーンの夢も、同じなのだろうか?
秘封倶楽部というサークルの活動方針に沿ったものかもしれないし、互いが互いの隣に居続けたいという願望のために、サークルという形を堅持しているのかも知れない。もしかすると、その時点で既に考えは擦れ違っているかも知れない。様々な解釈が存在する。
二人の関係は、あくまでサークルメンバーとして、サークルの中だけで完結するのだろうか。それとも、サークルという枠を越えて、唯一二人だけの関係という形に昇華されるのだろうか。私は後者であって欲しいと解釈している。ただ純朴に、純粋に、秘密を暴き続けるだけ、という願いのみでは、二人の繋がりは長続きしないと考えているから。――いや、これは解釈に整合性や説得力を持たせるための導線に過ぎない。押しつけがましい、個人的願望に近い。そう、蓮子とメリーは、彼女達の関係は、代替不可能であって欲しいと私は願っている。蓮子とメリーという不思議な瞳を持つ者同士、特別な人同士が共感し、手を取り合い、ずっとずっと、隣に居続けられないのであれば、普通の人間による相互理解など、絶望的では無いか。
この願いは、翻って、翠が私のことをどう思っているか、という問題にも直結してくる。
翠。東山翠。私の大切な、一番の友人。
私はこれからも、彼女の傍に居られるのだろうか?
他の人間に、取って代わられたりしないだろうか?
彼女は、私という個の存在に興味関心を抱いているから、関係を保っているのか? それとも、私が単に物語を書くのが人より上手いから、友達で居続けているのか?
彼女が私をメリーと指名したのには、意味があるの? 彼女が蓮子とメリーの間に特別な関係を見出しているなら、メリーの役柄を安易に誰かを当てはめるだろうか? 単純に、私しか選択肢が無かったから? ただの帳尻合わせ?
……もちろん、今の考えは、ただの当て付け、難癖、言いがかりに過ぎない。でも、でも、考えずには、居られない。
きっと私も、遠い昔に、怪盗夢泥棒に、夢を盗まれてしまったのかも知れない。何があっても友人で居続けられるだろう、という淡い夢を。
だからこそ、この繋がりは――私が脚本を紡ぎ、彼女が演じるという繋がりだけは、藻掻き足掻き、続けていきたい。
『あ、あれがそうじゃない?』
思案を巡らせていると、不意に『蓮子』が声を上げた。暗闇に薄ぼんやりと浮かび上がるシルエット。井戸ポンプだ。
『よし、早速掘り返してみるかな!』
意気揚々と『蓮子』が井戸ポンプに近づくと、ひょいと屈み、何処からか取り出したスコップで掘削を始めた。私はその様子を隣でじぃと眺める。
『ちょっと、何ぼうっと突っ立ってるのよ。手伝って』
『墓暴きの真似を押しつけてきた時の意趣返し。ほら頑張る』
手を叩き作業を促すと、露骨に嫌な表情をされた。流石に少しは手を貸そうと、作業しやすいようにライトを当ててあげた。私としては、素手で土を掘り返すような真似はしたくないし。
暫く井戸ポンプの周囲を掘り返していると、とある箇所に突き刺したところで彼女の動作が止まり、続けていそいそと掘削しだした。何かを掘り当てたようだ。
『んしょ、これかな?』
スマホの明かりが掘り出し物を照らす。プラスチック製の、白い箱。これを暴けば、この舞台も終了だ。
さっそく『蓮子』が開けて――。
『ん、何かしら、これ』
きょとんとする翠が隣に居ることなんて気にならないくらい、私は、ただただ、驚愕した。
そこには、あるはずのない物が入っていたのだから。
◆
それは、一枚の写真だった。やや黄ばんでいて、表面に幾分か罅が入っている、古い写真。何処かの鳥居と、歪に欠けた月という夜景が焼き付いたそれは、見覚えが無かった。
おもむろに、『蓮子』が写真を裏返す。そこには「夜空を見ろ」という一文が。
『……20時12分』
彼女が夜空を見上げ、都会の明かりで霞んだ星を見て、時刻を呟く。その次の瞬間には、先程来た道を早足で戻り始めた。
「ちょ、ちょっと待って! 待ってよ、翠!」
制止する私を無視して、彼女は先を急ぐ。
『次の手掛かりが見つかったんだから、そこへ向かわない手は無いでしょ!』
一体何処へ? 何をしに? 何を考えているの?
掴んで引き留めようとするも、握ろうとした手は空を切るばかりで。
あっという間に学校を後にして、翠は住宅街を突っ切っていく。
吸い込む空気が冷たく、じくじくと肺を痛めつける。今日は、こんなにも寒かったか? 形容しがたい恐怖感に苛まれながら、声を大にして訴える。
「手掛かりなんてものは無い! 物語はあそこで終わるはずだったの! 全部私の作り話! なのに! なんで、私、そんな写真、入れてない!」
怪盗夢泥棒自体は本物の噂話、根も葉もないゴシップだ。
実態は在れど実体は存在しないオカルトに、具体的な代物――怪盗が作成したとする暗号と、付随するストーリーをでっち上げたのが、他ならぬ私。先日、夢泥棒の話を翠の口から聞いたあの日に思いついた、妙案だった。
つまり、実在する噂話と、他ならぬ現実を、脚本とステージとして活用し、演目「秘封倶楽部」を上演しようという試み。お話を書く身として、どんな場所でも物語は物語れるのか、という意図の実験。
だが、動機はもう一つある。
好きで好きで堪らない、憧れている秘封倶楽部を――宇佐見蓮子を、舞台の上で演じる機会。それを翠にプレゼントするため。都大会での自らの不甲斐なさに対する償いとして。
そう、全ては私の掌の上での出来事のはずなのだ。
時間割を使った暗号を考案したのは私。
暗号の入手手段だって、翠は「裏表ルート」なんて気取っていたが、実際は、私の妹と彼女の妹を通じて、調査と扮して近所の小学生に取材をしている彼女が自然に手に入れられるように、裏で手を引いていたのだ。彼女が地元の小学校に目標物が埋まっていると踏んでいたのだって、暗号が小学校の時間割を参照していたことや、近所の中学や高校に井戸ポンプが無いことの他に、あの小学校に通っている生徒を経由して暗号を手に入れたから、という経緯も関係しているはずだ。というか、そう結論づけるよう、導線を引いていたのだ。
暗号を解くことで得られる箱だって、夢のような煌めきや甘さを想起させたくて、金平糖を中に入れていた。それらを互いに口にしながら、少し会話をして、演目は終了する。そういう筋書きだった。
なのに、「夜空を見ろ」と書かれていた写真が入っていただって?
埒外から、何者かから干渉されているのは間違いない。
……妹か、或いは翠の手に渡る前に暗号を解いた第三者の仕業か? いいや、それはあり得ない。第一に、埋まっていた場所や状態、箱の様子も、最後に私が隠した時と全く同じだった。誰かが掘り返して埋め直したとは、とても思えない。第二に、彼らには動機や目的が存在しない。仮に、私達に対して悪意を持って嫌がらせをするのなら、写真を封入し埋め戻すより、箱自体を盗んだ方が幾倍も手間が省けて、こちらにとっては迷惑だ。
では、翠の仕業か? 暗号が私の仕業だと見抜いた上で、宇佐見蓮子と共に「脚本に踊らされている翠」を演じきり、手品のように中身を瞬時にすり替えて、私を茶化しているのだろうか。しかし、写真の裏側に書かれたメッセージの筆跡は、しっかり確認していないものの、翠や私が知っている人達のそれとはかけ離れていた。
まさか……本当に、本物の、怪盗夢泥棒か? それこそあり得ない! 所詮は小学生の噂話。空想の産物。存在するはずが無い!
『ごめん、つい夢中になって走っちゃった。……って、メリー、どうしたの? 浮かない表情をしてるけど』
思考が堂々巡りをしていると、急に翠がこちらに振り向き、首を傾げてきた。
思わず、目を見開いた。彼女の服装が替わっていたのだ。
厚手のコートの下には、制服では無く、黒いスカートに白のシャツ、黒のケープ、赤いネクタイを身につけていて。
髪色も、何処かブラウンが混ざっていて。
コスチュームを纏っているとか、そういった類いでは無い、宇佐見蓮子と瓜二つの格好をした翠が、そこに居た。
そもそも、彼女の走る姿をずっと視界に捉えていた。着替える隙など、微塵も無かったはずなのに。
理解の範疇を超えた出来事を前にして、私は逃げ出すしか無かった。
「あ、ああぁぁ!!」
意味不明で理解不能な目前の事実から、少しでも距離を置きたかった。しかし、奇妙な現実は私をも浸食していた。
街灯の真下、スポットライトで照らされた中のような、明るい光の下で、目前をきらりと輝く何かが横切った。
反射的に立ち止まって、頭部を確認する。
「な……、あ……、」
見間違いでは無かった。本来黒いはずの私の髪の毛が、ブロンドに染まっていたのだ。いや、染まっているというレベルでは無い。元から、ブロンドだったとしか思えない発色だった。加えて、ダウンコートの下から覗かせる袖が、服が、紫色になっていた。ファスナーを降ろすと、制服では無くワンピースを着ていた。
視界もおかしかった。いつの間にか、眼鏡の縁が無くなっていたのだ。
まさかと思い、スマホのインカメラで顔の様子を確認する。
そこには、私の顔の面影は立ち消え、マエリベリー・ハーンとしか思えない風貌を人間が、恐怖で表情を歪ませている様が映し出された。
周囲の様子も、おかしくなっていた。生まれてからずっと過ごしているはずの、住み慣れ見慣れたはずの街並みが、歪んでいる。変わっている。見たことも無い住宅街になっている。私が、世界が、おかしくなっている。
正気では、いられなかった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるして、」
謝罪を口にして、その場に蹲り、周囲から目を逸らす。
幻覚などでは決して無い、実感を伴った非現実的現象を前に、私が出来る事と言えば、心当たりを精一杯想起することだけで。唯一思い当たる節は、良かれと思って演目「秘封倶楽部」を、翠に黙って実行に移したことのみ。それはひょっとすると、傍から見れば、友人を騙しているだけと捉えられても、おかしくないのでは? だから、その罰が当たっているのだ。神様によって。そう、神様、そんな超常的存在が私に牙を剥いているとしか、思えなかった。
ああ、どうか、詫び言が神様の耳に届いて、周囲が、普通の、普段の景色に戻りますように。一心に、謝って、謝って、謝り続ける。
『メリー、大丈夫。落ち着いて』
唐突に、抱きしめられた。姿を見ずとも分かる。蓮子の姿をした翠だ。翠の声だけれど、舞台の上から聞こえてくるような、芝居がかっているような、彼女であって彼女では無い声で、語りかけてくる。
『何が怖くて、こんなに震えているの?』
「だって、何もかもが違って見えて、私が、私じゃ無いみたいで、わ、私には何も分からなくて、」
『東京は境界のほつれがほったらかしだから、きっと、開いた境界の向こう側に不気味な物が見えちゃって、混乱しているのよ。ゆっくり心を穏やかに保てば、冷静になれるわ』
「ちが、ちがう、ちがうの」
おかしいのは世界で、落ち着くべきは、普通に戻るべきは、世界の方だ。私がどういう心持ちを変えたって、世界は変わらない。
……本当にそうだろうか? 私はマエリベリー・ハーンであり、主観が世界を規定しているのなら、私自身の認識次第で、世界はどうにでも変わるのでは?
いや、おかしい! おかしい、おかしい。違う。間違っている。私はマエリベリー・ハーンでは無い。日向綾華。高校二年生で、文芸部で、妹が一人居る、ただの人間だ。マエリベリー・ハーンなんていう、創作上の存在では無い!
姿形だけで無く、意識までもが、曖昧に、ぐにゃりと潰れていく。輪郭が、喪失していく。
「世界が、おかしくなっていくの、理解、できないの」
『どれが現のメリーで、何が夢のメリーなのか……。ショックで、今の自己との繋がりを、見失っているのね。
大丈夫。今貴方の側にいる私は、貴方を抱きしめている私の温もりは、本物だから。今のメリーだけのものだから。それを寄る辺にして』
「今の、私、だけの……?」
ふつふつと湧き上がっている感情、想い。それが誤りであることも、この場で発露することは間違っているとも、理解しているのに、止め処なく溢れる心情が、メリーで無い私の口を突き動かす。
「翠、東山翠。私の友人、大切な人。
今は側にいると言ったけれど、その後は? これからは?
脚本なんて、誰にでも書ける。私よりも素晴らしい作品を創造できる人は沢山いる。そんな人が目の前に現れたら、どちらを選ぶかなんて、明白でしょう? 私は、それが怖い。クラスが変わっても、学年が上がっても、私の一番は翠だけだった。創作活動自体も楽しいけれど、貴方に褒められるのが、認めて貰えるのが堪らなく嬉しいから、私は物語を、そして脚本を、書き続けている。
だから、もし、貴方が私の脚本に魅力を感じなくなったら、他の人の作品の方が良いと感じたら、私を構成するほぼ全ての否定に等しいの。そうなったら、私は、わたしは、その後、生きている意味すら、」
「安心して、綾華」
唐突に名前を呼ばれ、顔を上げる。宇佐見蓮子であり、東山翠でもある彼女の顔が視界に映る。口元に微笑を浮かべながら、彼女は囁いた。
『「私」だって恐れを抱いているわ。いつまで「貴方」の期待に応えられるのか。「貴方」の側に立っていられるのか――主人公として、上手くやってけているのだろうか。仮に上手くやっているとして、いつまでもこれを続けていけるのだろうか、ってね。
そう、「私」は、主人公になりたかった。誰よりも前面に立ち、誰よりも引っ張り、誰よりも他者を照らし、誰よりも光り輝くモノを抱いている、主人公に。
けれど、そんな不安ももうお終い。「私」は「貴方」のお陰で、私になった。
私は――秘封倶楽部は、輝いている。世界が、社会が、不思議な物を否定し、拒絶していても尚、彼女達だけはそれを受け入れ、信じて、追い求められる、確固たる信念、自信がある。
メリーは眼で見えていて、触れられるのだから、信じられるのも頷ける。けれど、私は違う。私にだって変わった力があるけれど、不思議を全肯定するほどの説得力までは伴っていない。それでも、友人の言葉を信じ、持ち前の行動力を前面に押し出し、眼に見えない物を、強く強く信じている。まさしく主人公よ。
だから、私が、何度でも自信を込めて言うわ。安心して、ってね。
ひょっとしたら、「貴方」と似た存在は、他にも居るかもしれない。でも、「私」にとって必要なのは、「貴方」の力以上に、「貴方」が持つ価値観そのものなの。それは、他人で代替できるものでは無い、唯一無二で、「私」にとって、幾千もの煌めく星々を掻き集めても足りないくらい、価値があるの。そう、「貴方」の紡ぐ言葉が、空気が、そして「貴方」自身が、大好きだから』
彼女の吐露は、思いがけない物だった。
けれど、それは、その台詞は、想いは、宇佐見蓮子として? それとも、東山翠として? 私は、どう受け止めれば良いの?
「それと……『貴方をいつまでも舞台袖に居させたくなかった! いまこの瞬間に、私の隣に居てこそ、マエリベリー・ハーンなのだから!』
立ち上がった翠が、『蓮子』が、蹲る私に、『メリー』に、手を伸ばす。
『さぁ、立って! 倶楽部活動はまだ途中よ!』
強い熱量が宿った瞳。自信たっぷりに笑みを湛える口元。力強さが一本一本から感じられる指。動作でふわりと宙を舞うコートからも、彼女の感情が滲み出ていて。
ああ、ああ! その振る舞いを、その所作を、演技だと思いたくない! 舞台の上だけの、虚構にしたくない! 私だけの、現にしたい!
ならば、ここでの正しい行動は――。
『……えぇ、勿論!』
私の脚本から逸脱した――解き放たれた世界。
街灯というスポットライトが照らし出す、ステージならば。
ここが現実でもあり、舞台の上でもあるならば。
物語とリアルが、夢と現が、互いに溶け合う、特別な空間ならば。
東山翠が宇佐見蓮子となるなら、私も、日向綾華という存在を融かし、混ぜ合わせ、マエリベリー・ハーンになろう。
意を決して、彼女の手を握り、立ち上がった刹那。体の内側に、何かが流れ込んできた。同時に、自我が何処か希薄になっていく。私が揺らいでいく感覚に飲み込まれる。けれど、心の怯え、体の震えは、止まっていた。目前の事象なんて気にならないほど、大きな物が得られたのだから。
私のことを心の底から認めてくれていた。それだけで、この舞台を用意した甲斐があった。
掌から伝う温もりに包まれながら、私はメリーと一つになる。
薄れゆく意識の中で最後に捉えたのは、蓮子とメリーが夜の街へ駆け出す後ろ姿だった。
◆
「別の世界で私は、高校演劇の脚本を担当していたわ」
「そりゃまた、面白い夢を見たわね」
「ちなみに、蓮子も居たんだけど、演者だった」
「ええ? マジ? 平行世界って奴かしら……」
大学構内のカフェテラスで、相棒のこれまた突拍子も無い夢の話を聞かされ、蓮子は苦笑いを浮かべた。
「ちゃんと演じられてたかな?」
「けっこう上手だったよ。で、私は物語を書くことで、蓮子は役柄を演じることで、何かを求めていた。何かってのは、よく憶えてないのだけれど、とっても大切なモノだったはず」
「夢の最後に、求めていた何かは得られたの?」
「まぁね。不思議な夢にしては珍しく、寝覚めが良かったわ」
メリーはお皿にこんもりと積まれた金平糖を一粒摘み、口に含んだ。ほんのりと甘い味が口の中に広がる。蓮子もひょいと口へ放り込む。
「にしても、何かを演じるという行為って、危ういと思わない?」
「危うい? 何処が?」
「役柄をその身に宿すのって、巫女が神託のために神降ろしを行うのと何処か似ているでしょう? もしも自己意識の強い存在を憑依させてしまったら、憑かれた方の自我が消えてしまったりして……」
「怖いこと言わないでよ。それに、そんな話、聞いたこと無いわ。役者が役に乗っ取られるなんて」
「そりゃ、普通ではあり得ないもの。オカルト的な話ね。そうだ、折角だし、他のオカルトサークルを見習って、メリーも降霊術ごっことかしてみない? オールドアダムでさ。ひょっとしたら、何かが憑依したりして……」
メリーや多くの現代人にとって、夢と現は区別はするが同じ物である。
そんな彼女が、別の何かを憑依させたら、夢の自分はどうなるのだろう? 昼間の自分は? 一抹の恐ろしさに身震いしながら、メリーはキッパリと断った。