少女はよろめき立ち上がろうとしたが、無慈悲な重力が萎え衰えた膝をあっさりと折れさせた。湿地の草むらの中を、虫けらのように泥だらけになりながら這い回るしかできなかった。真夜中だ。その背中に覆いかぶさってきていた月に監視されている気分だ。そんなふうに月を恐れながら動くので、移動速度は恐ろしくのろのろとしていた。ひょっとするとその場で足掻いているだけで、ちっとも進んでいなかったかもしれない。
もはや顔を上げる力も残っていなかったが、それでもどうにか動いて(あるいは動こうとして)いると、ふと、どこからか会話が聞こえた。話し手は、どうやらこの辺りに暮らす彼女の同族――野生の化け狐のようで、ひどい土地言葉だったが、訳すとおおむね次のような事を喋っていた。
知ってる? 月に攻め込もうとした、あの身の程知らずの妖怪たちは、案の定こっぴどくやられちまったらしいよ……。
うん。どうにか落ち延びた連中もどこかの山に籠って、お天道様どころかお月様の光の下も歩けないほどに打ちひしがれているってね。情けない話。
その後に続いた嘲り混じりの笑い声を聞いて、彼女は心まで萎えてしまった。
嫌な事を思い出した。
「死ね」崩壊していく軍勢の中で完全に惑乱した彼女の主人は、そう叫びながら従者の顔面を足蹴にした。「私のために死ね。死んで私を救え」
子が母に縋りつくように取りついたのを、そうして引き剝がされた。その後の記憶は曖昧になっている。……というよりも記憶のみならず、様々な物事が曖昧になってしまった。彼女は宇宙空間に放り出されてしまって、地上に戻る事ができたのは奇跡のようなものだった。帰還までには途方もない時間を要した気がしたが、狐たちの噂話が最新の話題をなぞる調子だったので、どうやらそこまで時間が経っているわけでもなさそうだ。
主人らはどこかに落ち延びているという。その場所にもなんとなく見当はついていた。彼女は妖怪軍団の結盟以前から主人に従ってきた。そのために、もしもの時の最終拠点を知っていたのだ。
妖怪の賢者とまで呼ばれていた主人に、彼女は従者として六十余州の各地に連れて行ってもらった。様々な冒険があった。天狗の内部抗争を妙策を用いて収拾して、恩を売った事があった。鬼の本拠地の只中にただ二人で乗り込み、巧みな弁舌で彼らの協力を取り付けた事もあった。主人は良い人だった……もちろんあくまで主従関係の範囲内ではあったが、少なくとも悪い人ではないと彼女は思った。何を考えているかはわかりにくいが、接していくうちに、なんとなく情の深い人であるような気さえしてきていた。だが今ではその予感も儚い。
息すると共に泥水を啜りながら、別に帰参する必要もないなと彼女は思った。私は見捨てられたのだし、相手もそれは承知しているに決まっている。そこで、主従の縁がぷつりと切れてしまっている。もういい。自分はこのあたりの狐に助けてもらって、そのままここに落ち着こう。田舎狐どもは外の血を歓迎するだろうし、そうなればどうとでも生きられるだろう(実際に月面戦争の落人の中には、そういう者も多かった。ただし彼らのほとんどは小ぢんまりとまとまってしまって土着の存在となり、中央への影響力を完全に失ってしまったが)。上手く立ち回れば、この辺りの一族を篭絡して転がす事だってできるかもしれない――彼女は自らの容姿に自信を持っていたし、政治能力に関しても賢者のやり方を間近で見てきて、その呼吸まで知っているという自負があった。
だが、その野望には今の身なりでは少々心もとない。少なくとも顔を洗わなければ……そういえば足蹴にされた顔はどうなってるだろう。目は開いているので腫れなどはないようだが、それでもひどい痣などになっていやしないだろうか。
水の匂いを嗅ぎ当てて、そちらに向かって這った。こうして主を捨てようと――本当は捨てられた側なのに――決めた今となっては、不思議と体が動いた。水辺に向かいながら、着るものはどうしようなどとも思った。今着ているものはみすぼらしく、泥まみれで、敗残者が着ていたもので、私にはふさわしくない。いずこかから、もっとましなものを盗むか、奪うかしなければならないと考えた。
ようやく水辺に辿り着いた。そこで草むらから出した手を小川の中に差し入れ、水を一掬いして顔を清めようとしたところで、悲鳴を上げた。恐怖に駆られた彼女はそのまま茂みに引っ込み、脇目も振らずに湿地を駆け抜けていって、この土地に戻ってくる事は二度となかった。
あとに流れる川面には、綺麗な月が映っていた。
ふたたび曖昧になってしまった記憶がようやくはっきりとしてきた頃には、彼女は霧深い山奥を彷徨っていて、しかもそれが主人の足取りを追っているものだと即座に自覚できた。なんだか嫌な気分になった。
それにしてもこの樹海の奥は、万が一妖怪軍団が敗走した時の、最後の根拠地と定められていた場所だ。彼らはそこまで追い詰められているのだろうか……。それを思うと情けない気持ちになったが、同時にどこか昏くて甘い悦びも覚えるのだ。落剝した主人と面会する時――私を捨てて落ちぶれたあの人に会う時、自分はどんな顔をしているだろうか、なんてね。
山中を彷徨い歩いていて、ちらほらすれ違う者たちがいた。当然この辺りに潜んでいるからには月面戦争の敗残者たちで、彼らは彼女の事など珍しくもない顔で眺めた。まだまだ落ち延びてくる妖怪も少なくないのだろう。
しかし再集結したところでどうするのやら……と考えていると、少し開けた場所に出た。なだらかに広がる巨大な山体の麓には、幾つもの風穴がぽつりぽつりと開いている。彼女の主人がどの洞窟に本陣を敷いているかはわからなかったが、誰かをつかまえて尋ねてみればわかる事だろう。
「ああ、あなたも生きていたのね」
八雲紫は、戦場で起きた事を忘れてしまったのか単に面の皮が厚いのか、かつての従者と再会してもなんでもない事のように接してきた。
「それじゃあ、これからも私に仕えてもらいましょう」
帰参した従者の方でも、なんの感動も怒りも湧かなかったし、やるべき仕事が幾らでもあった。再集結した軍団を維持するだけでも一苦労なのは当然だが、なにより八雲紫の軍団内での影響力の低下が深刻だった。今の紫がどうにか率いているのは、月面戦争で最も戦力を喪失した勢力だった。この戦いの発起人の一人ではあったので一応発言や意見を求められる事はあったが、諸勢力が集まる軍議の中でも決定権はほとんど失われていて、陣も山腹の隅っこの少々手狭な風穴の中に押し込められていた。
そのうえ、少しでも隙を見せれば味方にすら取って食われる恐れがあった。
「あそこの陣の奴ら、こちらの物資を奪おうと画策しているようですよ」
「追い返しなさい」
「殺しますか」
「できるだけ殺さないようにお帰りいただきなさい」
そんな調子のやりとりが幾日も続いた。しかし従者が見るところ、紫はすっかり覇気を失い、腑抜けてしまったようだった。大酒を飲み、酔っ払ったまま諸侯の軍議に出席して、狂ったように月への徹底抗戦を主張し、その他は終日ぼんやりとしていた。そんな様子を眺めていると、従者の心にはなぜだか主人に対しての愛おしさがよみがえってきた。もちろんそこには、廃人同然になったこの人をずっと眺めていたいという、あまりに屈折したものが多分に含まれていたが。
それにしても、月に対する徹底抗戦は不可能に思われた。この山に再集結した妖怪たちは、夜分になっても月光の下にさえ出たがらなかった。誰もが月からの反撃を恐れていた。やぶれかぶれの気分で月に縁があるという者を使者として送ってみたりもしたらしいが、使者は帰ってくることはなく、死んだか、逃げたのだろうと思われた。とにかく妖怪たちにとって、あの不吉な天体からの反攻が有るのか、無いのか。そればかりが彼らの心配事だった。
「無いよ」
そんなある晩、泥酔して寝床まで背負い運ばれる紫が、従者の耳元に囁いた。
「なにがですか」
「月の反攻は絶対に無いよ」
寝床の上に転がされて女体をくねらせながら、夢見るように紫は言った。
「この軍の中では、私だけがそれを知っているんだ。夢に見たからね」
はあ、そうですか。と言いながら、従者は寝床に腰掛けた。紫は言葉を続ける。
「だから私にはやるべき事がある。……だが今はその力が無い」
「やるべき事、とは」
「この先、私たちの末路は内部崩壊と殺し合いをするばかりになるでしょう。だからそうなる前に、私がここに駐屯する全ての勢力を呑みこむ。そこにしか私たちが生き延びる術はない」
そう言い終えた瞬間、紫は突然目を見開いて、びっくりしたように身を起こした。
「……今の言葉、聞いた?」
その狼狽した様子にどう答えたものか少し迷った末に、従者は答えた。
「聞きました」
「……聞かなかったことにしてちょうだい。単なる寝言よ」
「いいえ。聞きました」従者はきっぱりと言い張った。「私たちは早晩、疑心暗鬼と内部抗争の末に、このじめついた洞窟の中で、互いを殺戮しあって全滅します。たしかに否定のしようがありません。きっとそうなります」
あらゆる数字がその現実を指し示している事は、実務を取り仕切っている従者の方が、よく知っているくらいだった。
「それがわかっていて、どうして行動しようとしなかったのですか?」
「今の趨勢では不可能だからよ。今の私は力がなく、弱小で、なにを言っても聞き容れてもらえるとは思えない」
「そりゃあ私たちだけでは不可能でしょうが、ここにはあなたの友人も沢山おられるでしょう?」
「わからない、信頼できない。たとえ古くからの友人であっても、裏切られる事が怖い」紫はそう言いながら従者の顔を見つめて、悲しげに笑った。「私だって、あなたに死ねと言って捨てた」
従者は胸の奥にちくりと引っかかったままの棘を感じながら、それでも言い返した。
「信頼できなくても、やるんです」
「私なんざ利用されて、使い潰して捨てられるに決まっている」
「そりゃあ、みんなあなたを利用しようとするでしょうけれどね。でも利用される価値すらないよりはましです」
想像以上に幼稚な答えを聞いて従者は拍子抜けすると同時に、この人は他者から利用される事に慣れていないのか、とも思う。そう思った瞬間、なにかぞくぞくするものを身の内に感じた。
そして言った。「あなたは私に命じましたよね。自分を救ってくれと」ついでに死ねとも言われた事は、とりあえず忘れる事にした。「私があなたを救いましょう。これからも存分に私を利用してください」
八雲紫は、己の従者の顔をまじまじと眺めた。そして相手の胸元に顔を近寄せると、獣のように鼻を蠢かせて匂いを嗅いだ。まるで匂いで嘘か真かがわかるかのように。
「……会ってきてもらいたい人がいる」紫は囁いた。「摩多羅隠岐奈の陣よ」
摩多羅隠岐奈については、紫の古くからの知り合いであるという事くらいしか知らない。その他に、このたびの敗戦後も陣中に卑しい身分の男女を多数侍らせて、いかがわしい宴会ばかりしているなどという出所不明の噂も聞いた事があるが、それはどうやら真実のようだった。陣中を案内してくれた二人の従者は半裸――いや、ほぼ裸形と言ってよかった。ただ、彼らの性別までは不思議とわからないようになっている。一人は足が無く、もう一人の腕の無い者が肩車に担いでやって足代わりになっているのが目立った。それから周りを見回すと、陣中には五体満足な人が一人もいないようだ。身体のどこかしらが損なわれていたり、皮膚がひどく爛れていたり、背中が曲がっていたり、腫瘍や傷痕があったり、大きすぎたり小さすぎたり、太りすぎたり痩せすぎたり、一見五体満足ではあっても表情が妙に硬直していたり……ただ、そういった部分がある以外は、誰もが生き生きと生命力を感じさせて、美しい人々に見えた。
「紫のやつ、相変わらずうじうじしているのか」
隠岐奈は無礼にも椅子にふんぞり返り、近侍に足を洗わせながら会見に臨んできた。そして笑った後で、唾壺を抱えている者の口の中へ痰唾を吐いた。さすがに顔をしかめたが、同時にそれが古い胡人の風である事にも気がついた。
「あいつが逡巡していたおかげで、噂は他の陣中にも広がり始めているぞ。月の反撃は無いのかもしれない、あとは自分たち同士の勢力争いが始まる……なんてね。そうなったら、こんな寄り合い所帯はどうなる? 殺し合いさ。最後にちょっぴりは生き残るかもしれんが、弱体化した私たちは、本朝への影響力を完全に喪失してしまう。そうなったが全部、紫のせいになる。さっさと腕を振り上げてしまえばよかったのに」
それは乱暴な物言いだったが、隠岐奈は四六時中乱痴気騒ぎに浸りつつも、現状を完璧に把握しているようだった。
「呑み込んでしまえよ。こんな、たった一度の負け戦でぼろきれみたいになるような烏合の衆なんかさ。あいつなら今だってそれができるぜ」
そんな事を堂々と言ってきたが、なぜ自分ができないかは説明しなかった。ただ謙虚や慎ましさといったところからではないだろう。目の前のこいつは、なにかあれば紫を神輿に担いで利用するつもりだ。もし計画が失敗すれば、あっさりと友人を捨てるつもりだ。でもそれでいいのだ。
「……それでは」彼女は口を開いた。「ここで殺し合って潰れるのが怖いのなら、あなたはさっさと陣を畳み、山を下ってしまえばいいでしょう」
「面白い事を言う奴だね。さすがに紫が見込んで拾ってきただけはある」相手はそう言って大笑いしたが、すぐ考えを巡らせ始めた。「……そうか、それもありだな」
それから、即座に周囲に向かって撤収の命令を下した隠岐奈は、身を起こして従者に顔を近づけて囁いた。「よく聞けよ。私の軍は撤退後、樹海の外にひそかに陣を張り、そこから三日三晩待つ。そこで紫が討ち漏らしたり脱走した連中を、待ち受けて優しく包み込んでやろう。……だが三日だけだ……その晩はちょうど満月だ。刻限を過ぎたら、見限る。そうなっても恨むなよ。あいつもその程度の人物だったという事だ」
「あの人はやり遂げますよ」従者は自分でも驚くほどきっぱりと言った。「あなたもそこは信じているでしょう」
隠岐奈は笑った。その笑顔を見つつ、神でも生臭い息を吐く事ができるのだなと、それから遅れて漂ってきた蘭の香りを鼻腔で嗅ぎながら思う。
「ああ。今の私たちには、種族だの何だののしがらみを越えて、まとめ上げる妖怪が必要だ。しかも賢明で、手段を選ばない奴がね」
そういえば、あの人はどういう妖怪なのだろう……と従者はぼんやり考えた。隠岐奈は続ける。
「私はあいつをけっこう高く買ってるんだよ。……いいか、八雲紫は無色透明の女だ――名前は紫色だけどね。あいつはなにものにも染まっていなくて、ただただ妖怪だ。だからこそ、今のぼろぼろになって猜疑心だらけの私たちをまとめる事ができるのは、あいつしかいない。あの女は、鬼でも、天狗でも、神ですらないからな。そこだけが重要だ」
そう言って隠岐奈は身を引く。
「頼むよ。お前があいつの尻を蹴ってくれない事には、こちらとしてもどん詰まりなんだ……尻といえば、あいつのケツっぺたって案外薄いよな。意外と女っぽくないというか、なんというか……」
そう呟きながら、隣にいた近侍の尻を快音高らかに叩いた。
摩多羅隠岐奈の撤収は全軍に動揺を与えたが、その行動に追随する者はいなかった。月の反撃の可能性は相変わらずあったし、その懸念が払拭されない限りは、のこのこ野に下る愚を犯す事もできないというのが、多くの妖怪の一致した気分だった。
隠岐奈は紫の陣にも暇乞いの挨拶をしにやってきて、ほんの僅かだけ言葉を交わした。
「あなたがいなくなったら寂しくなるわ」
「なあに。どうせ私がいなくなっても隙間を埋めてくれる者が出てくるだろう」
そうして輿に乗せられて悠然と山を下りていく隠岐奈の背中を眺めながら、そういえば他の妖怪どもと違って、あいつは月などはなから恐れていなかったな、という事に従者は思い至った。
去りゆく者を見送って自陣に戻ると、一人の少女が「つまんなーいつまんなーい」と歌うようにぼやきながら、一人で器用に生首を蹴鞠していた。「紫から愉快なものが見られるって聞いて、せっかく来たのに」
そんな少女の側についている男と、ちらりと視線を交わした。彼もこのお嬢様の腕白には手を焼いているようで、困ったような表情になった。
西行寺幽々子が自分たちの陣に見舞いにやってきたのは、数日前の事だった。ちょうど物資の奪い合いで近くの陣と小競り合いがあった時の事で、諍いを止めようと慌てて出向いたときには、すでに相手の首が地面に転がっていた。今でも小気味よく蹴っている生首はそれだ。この少女は紫の古くからの友人で、月面戦争の勃発を知ってのんきに戦見物に出向いてきたのだと聞くが、詳しい人となりは誰もよく知らない。とにかくやってきた時の事件が衝撃的すぎて、不気味がって誰も近づこうとしなかった。
「あ、お狐さん」
が、なぜか従者には懐いているようだった。
「おひとつお尋ねしておよろしい?」
「私が知っている範囲であれば」
「いつ戦が始まるのかしら?」
その質問に、彼女は力なく微笑んだ。そして続けて「戦争はもうありませんよ。あなたが戦見物に来る前に、完膚なきまでに負けて終わったのです……」と言おうとしたのを、即座に遮られた。
「月面戦争の話じゃないわ。あなたたちが生き残るための戦いの話よ」
どう答えを返そうか窮していると、幽々子はすたすたと陣の奥へと歩いていった。
「この穴倉は天然のものなのね」
「ええ。山に来られる時にご覧になったと思いますが、同じような横穴がたくさんあります。私たちはそれを利用していて、それぞれの勢力の陣や、物資の貯蔵庫にしているんです」
「ふうん。その穴と穴って、どこか奥で繋がっている、という事もあるのかしら?」
「……天然なので、そういう事もあるでしょうね。きっと」
「それらをすべて把握している?」
「風穴の全貌は、誰にもわからないと思いますよ。昔この場所を見つけたとき、私も穴の一つを探検してみた事がありますが、すぐに迷ってしまいそうになって――」
「この穴は狭っ苦しいけれど、奥は比較的浅くて、どことも繋がっていないの」幽々子が付け加えた。「つまり誰の干渉も受けない場所よ。きっと、それが重要なのよ。紫がここに陣を敷いたのはそのためね」
その夜の紫は珍しく机に向かっていて、軍団の執務にあたっていた。摩多羅隠岐奈の離脱は早急に手を打たなければいけない問題で、組織が崩壊状態であっても解決しなければならないものだった。
「色んな勢力が、隠岐奈の空いた席を取りたがっているのよ」と紫は従者に説明した。「不思議な話よね。洞穴なんかどこだって一緒でしょ。あちらとこちらなんか、元来仲が悪いからって気を遣って遠ざけてあげていたのに」
「……彼らの風穴の入り口は遠く離れていますが、もしかすると奥で一つに繋がっているのかもしれません」従者はもはやわかりきっている仮説を言ってみた。「だからその奥のところで、なにか諍いがあったのかもしれませんね」
そういえば……と彼女は思った。自分は他の勢力の詳しい現状を把握できていない。もちろん摩多羅隠岐奈の陣くらいに風紀が乱れていれば下々の遠慮ない噂にも上る事ができるが、他の陣はどのような状況なのだろう。私は何も知らない。妖怪たちは総じて種族主義で、秘密主義だった。もしかすると、睨み合いの対立を通り越して、殺し合いを含んだ暗闘にまで発展しているところもあるのかもしれない。
「あらあら、それは大変ねぇ」返ってきた言葉は同情らしいが、紫はまったく感情を込めずにそれを言える女だった。「だからなに?」
「あなたは自分たちが破滅を待つのはある程度織り込みで、諸勢力をお互いに食わせ合うのが目的だったんですね」
「結果的にはそうなるかもしれない。それで、どう思う?」
「最低ですね」彼女はそうした軽口を返しながらも、待つだけでは不完全だと思った。結局それは自分たちをいたずらに痩せさせている事には変わらないのだし、それを平気で行っている紫は、どこか病んでいる。自傷行為だと思った。いや、矛先が他者に転嫁されているので自傷にすらなっていない――だから余計にたちが悪かった――が、これは主人なりの、我が身の破滅を待つ行為なのだろう。
「勝手に抗争を始める方が悪いわ。……そうして彼らが瘦せていく中、私たちはここで自勢力を保持し続けます」紫は自信満々に言った。「私は自分の勢力を失いすぎました。なので非常の戦いをするしかない。……なにより、山を下りた隠岐奈が、この山からの離脱者たちの受け入れ先になってくれるようだし。思ったよりひどい状況にはならないはず」
「摩多羅隠岐奈は、あと三日だけ待つと言いました」
従者がそう付け足した時の紫の表情は、見ものだった。一瞬虚脱した様子だが、即座に相手の言葉を飲み込んだ。そして次の瞬間には激昂した。その罵りようのひどい事といったら、ここに全てを書き出すことは憚られる。
「……そしたら、あいつの椅子にばかりふんぞり返ってぶ厚くなった尻を――」
「怒ったって仕方ありませんよ」従者は冷静に言った。「彼女の軍の主導権は彼女のものです。私どもではどうしようもない」
「やっぱり、あいつとは肝心なところで足並みが揃わないのよね」紫はぶすりと言いながら、すぐ考えを巡らせて尋ねた。「……三日ね?」
「ええ。三日後。満月の夜まで」
「ならば方法はある。なにかきっかけさえあれば――」
と言いかけて紫が言葉を切ったのは、策謀の場に余人がいて、部屋の隅で物音を立てたからだった。しかし、とくとくと話を聞いていた西行寺幽々子は、身じろぎもせずただじっと二人を見つめていた。物音を立ててしまったのは、彼女の付き人の魂魄妖忌の方だった。
幽々子は口を開いた。
「……じゃあ殺すか」
少女がそう呟くのと陣を飛び出していくのは同時だった。言葉の重みと比べると、その足取りは蝶を捕まえに行くように軽く、深刻さのかけらもなかった。
一連の動作で抜き身の刀をさらりと奪われていた妖忌は、鞘だけが腰に間抜けのように残っているのを俯いて眺めながら「なにせああいう方なので……」と困ったように言った。
「いいのよ……。それにしても、あの子がああも変わってしまうとはねぇ」
「なんだかすみません……」
「……放っておいていいのでしょうか」
待つだけの時間はさほど長くなかった。幽々子は首を一つ携えて戻ってきた。それはひどいご面相の生首で、どうやら刀の刃筋を立てる事さえせず、頬骨を張り飛ばして砕き割ったようだった。それでもどうにか首実検して、どこそこの勢力の長の誰々の首ね、とだけ紫は言った。名前以上の感慨は特になかったらしい。
「まあいいわ。使えるものは使ってやりましょう」
「ですね……」
「その方が、この首もきっと浮かばれます」
「それはどうでしょう……」
その点には首をかしげるしかなかった。
時を置かずして、山全体が大混乱に陥った。表面的にはちょっとした諍いや小競り合いくらいしか起こっていなかった現状が、一足飛びに勢力の長の暗殺にまで発展してしまった事に、さすがに動揺しない者はいなかった。
「誰がやったと思う?」
紫とその従者は、血まみれの犯行現場でへぼ探偵とその忠実なへっぽこ助手になり、自分たちにだけ種がわかっている推理ごっこをする羽目になっていた。
「……完全な密室殺人ですね」
「いいえ。月の技術ならこれでも暗殺者を送り込むことが可能でしょう」
そんな説を強硬に主張したおかげで、月の反撃の可能性はまだまだある、という事になった。もっともそれを信じない者も多く、きっと普段から仲が悪かった、あなたこなたの勢力がやったのだろうという憶測も、あっさりと広まっていった。
「微妙な立場になった連中から取り込んだ方がいい」紫は言った。「頭がいなくなった勢力を切り取り、この件で嫌疑をかけられて微妙な立場になった連中も包み込んでやりましょう。あなたも工作してきなさい」
そんな不穏な情勢下で、従者は単身各勢力の陣を渡り歩く事になったわけだが、その前に紫は指示を与えた。
「……実は私たちの洞窟にも、余所の洞窟に繋がっている隙間が一つだけあります」紫はその隙間の位置と、そこを出た後の道行きを詳細に指示してから続けた。「そこを巡って、あの風穴の奥が、どのような状況になっているか見てきてちょうだい。それだけでも、あなたの使者としての言葉に重みが出てくるでしょう。でも無理強いはしないわ。安全は保障できないから――」
「行きますよ」
「……身の安全は自分で守るしかない。それに白状すると、私もあそこで何が起きているのか、まったく想像がついていないの」紫はためいきをつきながら言った。「きっとひどい事になっているわ」
そうした経緯で、従者は何重にも各勢力が入り組んだ風穴の裏道を巡ったが、すぐ後悔させられた。ごつごつした岩盤の迷宮の奥では、軍規は完全に崩壊していた。完全武装して血相を変えた小勢がやってくるのをやり過ごすのはまだ良い方で、そんな勢力争いに疲れ果てて離脱してしまった者たちを幾人も見た。洞窟の奥には、自棄混じりの破滅的で堕落した性愛の饗宴に耽る者たちがいた。脱走して無気力に横たわり、目だけを神経質に光らせ何かを待っている者もいた。また、それらしい一角に石窟と祭壇を設けて、何かを神体のように掲げて祈り続ける集団もいた――妖怪が神仏に祈るというのはどうも滑稽だが、それでも無い話ではない。しかし淫祀邪教であるのは間違いなかった。彼らが祈りながら贄を捧げる対象は、日輪かそうでなければ月輪のようで、既に分派の気配があった。……かと思えば、そんな脱走者同士が手を取り合い身を寄せ合って互助する、道義的に美しい光景さえ見受けられた。善いように見える事と悪いように見える事が同じように行われていたが、それでも悪いように見える事の方が膨大だった。そうしたはぐれ者たちの気配さえ消えてしまった寂しい一角では、一族の自決の場にまで出くわした。腐り始めの死臭は小さな岩屋になっている場所から漂い出ていて、どうして彼らは自決したのだろうかと思わせた。そして現場を簡単に探ってみて、すぐ遺書とも誓文ともつかないものを発見した。そこに血でもって書かれている恨み言がなんであるにせよ、とにかく勢力内で血族間の政治抗争か何かがあったらしい。
気が滅入る地獄巡りを終えて、教えられた通りの道筋でようやく洞窟を這い出すと、そこは山の裾野を一望できる高台だった。眩しいほどの静けさと、しんとした光景が広がっている。
そうしてから出向いていった各勢力の長には気位が高い者も多かったが、それだけに八雲紫を与しやすい女と見ていた。今の紫は、月を恐れるあまりなんでも月の仕業と喚くようになっている、狂った賢者でしかなかった。そして、すっかり狂ってしまった主人との付き合いに倦み疲れ、くたびれてしまった女を演じるのが、従者である彼女だ。
「……ともかく、こんな時であればこそ、私たちは団結すべきです」
彼女は弱々しく、憐れみを誘うように言った。わざと色艶を褪せさせた髪の房から、後れ毛をちょろりと貧乏くさく垂れさせる。不安げな首の傾き、声のかすれ具合、唇の渇き具合まで完璧。
「天魔様は好色な方だから、やりすぎだったかもしれないよ」
天狗たちが駐屯している洞穴を訪問し終えて外に出たとき、そんなふうに声をかけられた。相手を見ると天狗の女性士官で、唐土から伝わったらしい測量機器を肩に担いでいる。
「あんたもとんだ狐だよ……いや、悪口じゃなしにさ。私、狐は大好きだもの。可愛いからね。だからあんたらの事好きになれるかもな。変な意味じゃなく」告白と付け足しが連なる奇妙な調子で相手は言ったが、そこにはなにか利を求めて喋っている雰囲気があった。女は即座に自己紹介も続けた。飯綱丸龍と名乗った。「飯綱権現の飯綱、まん丸の丸、めぐむは立つに月の龍を書くんだけれど、そんなもん読めねえってよく言われる」
そんな紹介をされても困惑するしかできない。どういうつもりだろうと思いつつさっさと先を歩く彼女に、なおも付き従いながら龍は言った。
「そっちの道は危ういよ。うちの天狗たちだって品のいい奴らばかりじゃない――藪の中に引きずり込まれても知らないぞ」
……無言で道を変えたが、歩調は心もち相手に合わせるようにする。
「気を悪くしないでね。どこにだって困り者はいるってだけのことさ……それにしても、これからどうなるんだろうね。私たち天狗も権力闘争は大好きだが、こんなみじめな争いは望んでいないってのに。……ねえ、妖怪の賢者様に伝えなよ。もっと私たちを利用してみろよ。利用したりされたりしてみろよ。それはきっと素敵な事になるわ」
従者は立ち止まる。振り返ると、天狗は地面に設置した測量機器の水平を調整していた。そうしながら、まだ話を続ける。
「……我々天狗は、既に先の事を考えている。私がこの辺を測量したりと、山師仕事をしているのもそれよ――それに仕事に打ち込んでいれば当面の心配は忘れられるしね……。ともかく、この山は最終拠点に選ばれただけの事はある。きっといい要塞になるよ――だから私らとしては、こんな最低な状況はさっさと終わって欲しいの」
どこかで物資が焼かれる、焦げた甘い匂いがした。また討ち入り帰りらしい小集団が騒がしく一段下の山際の道を駆けていったが、彼らは目が飛び出そうな滑稽な形相の残像と、血の匂いだけを残して去っていった。
「もう時間は残されていないかもしれないけれどね」龍はそう言いながら、懐から仙丹と見られる小さな丸薬を取り出し、舌の裏に転がしながら笑った。「最近は胃が痛くてたまらないわ」
よくしゃべる女だったと、別れてから思った――というより、すべての言葉が相手の独壇場で、こちらは一言も発していなかった。
一日かけた調略には成果があったものの、芳しいと言えるものではなかった。
「彼らに同調の兆しはありますが、それはあくまで消極的な協力――中立もしくは静観、様子見といったところですね」
「しょうがないわ。狂った賢者様に何もかも賭けてしまうのは危ういもの」
やりすぎたかもしれない、と紫は反省していた。
「でも、何かを演じるのは楽しいですからね」従者も同情した。「私も今度からくたびれた人妻役をやる自信がつきました」
「私たちは宴の余興の芸能大会の相談をしているんじゃないわ」紫はぴしゃりと言った。「ここから先は殺す事になると思う」
そうでしょうね、と従者もあっさり頷いた。元々戦争をするつもりで集った集団なのだから、そこで臆するはずもない。
事実、自分たちの強勢を鼻にかけて、絶対に紫の傘下に入るつもりが無いと思われる大勢力があった。しかも紫の方でも、彼らを恨むところがあった――彼らは月との戦いに際しても積極的に動こうとせず、そのために紫の軍は決定的な喪失を受けた。彼らが敗走の後も自前の勢力を維持し続けているのはそのおかげだったし、そうしてゆくゆくは紫を潰し、この山に居座る妖怪たちの盟主に成り上がろうとしている魂胆も見え透いていた。もしかすると、軍団に参陣した時からそういう腹積もりだったのかもしれない。
「彼らは除かねばなりません」
「既に手は打っている」紫は暦に目をやりながら言った。「……我々が月に負けてから、ようやくひと月が回るのね」
「ええ、そうですね」
「明後日の夜は満月だ。月の反攻の可能性は高い」ぼそりと言った。「今の言葉を、陣中に触れとして出しなさい。できるだけ騒がしく、他の洞穴にも私たちの様子が伝わるようにね」
翌日、従者は引っ越しの手伝いに駆り出されていた。
摩多羅隠岐奈が撤収した洞穴は、この山の風穴群では最大のもので、各勢力がこぞって手中に収めたがっていた。そして様々の政治的駆け引きが行われた結果、紫との因縁がある例の最大勢力の拠点と定められた。
「あんたも手伝いに来たのか」
作業の進捗管理をしていて声をかけてきたのは、先日の飯綱丸龍だった。
「連中、もう自分たちが妖怪軍団の第一党だと思ってやがるわ。……まだ月の大反攻の可能性だってあるのにね」そう言うと、ニヤリと笑顔を投げかけてきた。「ここに集まっている奴らの間には、そんな噂話が蔓延しているよ。今日は各勢力から手伝いが来ているから、そういう空気も持ち帰られるんでしょう」
従者は黙ったまま話を聞いていた。この勢力を越えた手助けを計らったのは、八雲紫だった。先だっての軍議で賢者は主張したのだ。我々は月に立ち向かうために団結しなければいけない、と。そして、自分たちはいがみ合っている場合ではない、ちょっとしたことでも協力し合わなければとも語った。前の言説は失笑を買ったが、後の言葉はとりあえず理解を得た。そんなわけで、各勢力からの様々な立場の妖怪たちが、この最大勢力の移転の手助けをしに来ている。
「だがこの交流で広がるのは、どういうわけか将来への希望ではなく不安ばかりだ。そういう噂を流している奴がいるんだろうな」龍はニヤリと笑った。「個人的にはうざったい事この上ないが、まあいいわ。もうちょっと様子を見てやりましょうか」
「この前、もっと利用したりされたいと言ったね」
従者は、相手の耳元で囁くように言った。龍はびくりと体を震わせた。その反応にどこか官能的なものがあったので、耳が弱いのかもしれない。
「ああびっくりした。……なによ、普通の声で話して」
「天狗は天候も操れると聞くわ」
「……ある程度は、そうね」
「明日は雨だといいな」彼女は言った。「雨じゃなくてもいいけれど、日中はどんより雲が分厚いのがいい……それが夜になると急にぱぁっと晴れて、そこに満月が昇るの。私たちをうっとり惑乱させて、殺戮する月が」
龍は少しけげんな表情になったが、努力してみようと言った。
それから周囲にちらりと目をやって、移転作業の進捗を推し量った。明日の夜までに事がなせるか不安はあったが、彼らの移動はあまりに手早く成し遂げられつつあった。
「こんなに足早な遷都があったものかな」
などと龍は目を細めて呆れたが、
「まあ、こっちの方が断然に居心地が良さそうだものな。天井も高いし」
と、のんきに伸びをしながら一人納得している。天狗たちは高く広い青空を飛ぶことを懐かしがっていた。
八雲紫の従者はというと、無表情に近い顔つきで移転を見守っている。たしかに彼らにとってもこの洞窟は居心地が良いだろう――もっとも、前が悪すぎたという事もあるだろうが。かの勢力が以前から布陣している洞穴は、収容力こそあるがじめついていて、天井から金物臭い湧水が滲みてしたたっているような場所だった。しかも風穴が幾多の他陣営と繋がっていたので、ちまちました物資の窃盗や略奪は慢性的な問題となっていた。そんな劣悪な立地に彼らの陣が割り振られるように仕向けたのは、もちろん八雲紫だ。賢者は敗戦の痛手に打ちひしがれていても、陰湿な嫌がらせだけは怠らなかったというわけだ。
そして物資の略奪といえば、当然この引っ越し作業中にも行われていた。ちょうど龍に仕えているらしい可愛い狐の従者が、一反の絹織物と何か丹薬が入っているらしい包みとを、ちょろまかして戻ってきたところだ。
「おやおや、お前は本当に手癖の悪い子だ……失敬」と龍は小さな狐の頭を撫でながら紹介した。「この子にまだ名前は無いんだけどね。前も言ったでしょ? 私は狐が好きだって」
その子が年頃相応の人見知りを見せると同時に、妙に婀娜っぽい首の傾げ方をしたのが気になる。そして主の腰への巻きつくような縋りつき方を見て、なんとなく、管狐であろうとも思った。
夜半から降り始めた雨は、明けた日を一日中灰色にしていた。
「……かの勢力は、昨日のうちに主力の移転を終えました。こんな雨ですが、今日一日もあれば残りの手勢も完全に移転を完了するでしょう」
「さんざ嫌がらせしてやった私が言うのもなんだけれど、あれだけの大勢にもかかわらず、足並みそろえて短期間で移動できる結束と統率力は、やはり怖いわね」
外に出て雨模様を眺めながら、紫は正直に言った。
「だからこそ除かなければならない……そして、それは月の仕業と思われるように仕向けます」とも付け加えた。「そうしてふたたび月人の力を目の当たりにした私たちは、これからも戦時体制を恒常的に維持したまま、月におびえながら生き続ける事になるでしょう」
「あなたは私たちに平和をもたらすつもりなんて、はなから無いんですね」彼女は感情を交えずに言った。
「どう思ってもらっても構わないけれど、私にはこれしかないの。なんのよすがも無い女が、この雑多な勢力をまとめるにはね。……とはいえ、警戒は時と共に少しずつ解かれていく事になるでしょうね。そして、そうなっていく中で、私たちは次第に腑抜けていくでしょう。……でもそれが問題になってくるのはまだまだ先の事」
そこまで言って紫は話を戻した。将来の事もいいが、今は当面の計略に没頭しよう。
「策にはできるだけ少人数で当たりたい」雨に向かって手を伸ばし、天から落下してくる雨粒を受けた。「方法は単純だし、前例のないやり方ではない。あの風穴の奥には、垂直の断崖になっている巨大な地下渓谷があります。そこで私たちは月からの反撃を装って、奴らを恐慌させる。そして死の淵まで追い詰め、彼ら自身が発した恐怖と行動で自殺させる」
「その為に彼らをあの洞穴に移動させたんですか」
「偽りの月の攻撃には式神を使います」紫は自分の話を続けた。「計画は出来る限り少人数で行い、秘されるべきよ」
「式神ですか?……事が事だけにそれなりの数を用いなければならないと思いますが、管理しきれるでしょうか?」
「単純な行動をさせるだけならね」そして行動はきっと単純な方がいい、とも付け加えた。「あなたも月の軍勢を見たでしょう。彼らは完全な命令系統を持ち、完全な管理の下で、完全な動作をしていました。完全さとは単純な見かけをしている。それを見せかけだけ模倣するのなら容易いものよ。――そして最後の総仕上げだけれども」紫は化粧道具と衣装を用意するように命じた。「私が月の姫君を演じるわ」
夜になって、雨はぴたりと止んだ。天狗たちは完璧な演出をしてくれた。夜闇の静寂は有史以来散々人間を恐れさせてきたものだが、今では妖怪たちにさえ、ぼんやりした不安を抱かせている。
それは妖怪たちの最大勢力の人々も一緒だった。彼らも月を恐れ、家族がいる場合は――夫婦で、あるいは家族ぐるみで従軍している者も少なくなかった――洞穴の中で身を寄せ合いながら、不穏な夜を過ごしていた。月の反撃があるとすれば今度の満月だろうと、なんとなく、そんな噂が流れていた。噂が本当だとすれば、月人は自分たちを滅ぼすだろう。それはきっと容易い事だ。
夜半、突風が陣中を流れていって、なにか嫌な予感を煽った。それが合図だった。当直の兵が洞穴の外に目を凝らすと、そこには幾列もの兵士が整然と立っていて、その背後には月の姫君が、美しい立ち姿の影絵で控えていた――そして彼らの背中いっぱいに広がり、妖怪たちの最後の隠れ処を覗き込む、魂が奪われるような月明かり。
月の軍勢はついに彼らを発見したのだ。
そこから先は文字通り急転直下になった。ただただ恐怖と混乱だけが場を支配した。前進を開始した寄せ手が手を下す必要は、ほとんどなかった。不気味に明るい月は尋常ではない大きさに映って、洞穴の出入りを塞いでいた。押し寄せてくる軍勢を少しばかりでも防ごうとする戦列が、種の保存の原理と僅かばかりの勇気から自然と構築されたが、それは自己保存の原理とほんの少しの自由意志からあっさり崩壊した。彼らは恐慌のままに後退した――陣を移して日が浅い彼らは、その先に活路が無い事を知らなかった。そんな中でも壮年の者は親や子を先に逃がし、夫は妻を先に奔らせた者が多かった。逃げた先は、天井がどんどんと低く、先細っていった。追い詰められた人々は断崖の下、なにも無い奈落へと突き落とされるしかなかった。最初に落下した者の頭上には、更に大量の同胞が落下してきた。子や老人は頭上から落下してくる家族に次々と圧し潰されて、その上に重なった妻たちは夫に圧し潰された。そして男たちの上には大量の土石が落下した。それらの無慈悲な物理を放り込む事だけが、兵士たちに組み込まれた、ただ一つの指令だった。
他の勢力の中には、この阿鼻叫喚を鋭い聴覚で聞きつけた者もいたが、誰もが満月の夜を恐れて、耳を塞ぎ、目をつむっていた。それだけでも恐怖に圧し潰されて発狂する者さえいた。全てが終わり、月の軍勢が整然とした動作で引き下がった後には、生命が死に絶えた静寂があった。
このようにして一晩で妖怪の山の底に滅びてしまった彼らが、どういった妖怪の集団だったのか、その長がどのような人物であったのか……彼らが滅亡した以上は、なにもわからなくなっている。
夜が明け、各々の洞穴から這い出してきた妖怪たちは、ようやく殺戮の現場を目の当たりにした――彼らは紫が主張していた月からの反撃には懐疑的だったが、それでも月人を恐れている事には変わりなかった――。ただ、この惨状を目の当たりにしても、どういうわけか混乱は少なく、なにか諦めのような空気の方が支配的だった。
八雲紫が状況を手早く取りまとめ、敗残の妖怪軍団の盟主になった。そうして軍内の主導権を握ると、即座に他の賢者たち――月面戦争の敗戦後、微妙な立場に置かれていた人たち――を呼び戻して内閣とした。
「信じていたよ」
輿に乗せられて引き返してきた摩多羅隠岐奈は明るく言ったものの、紫は冷たい声で
「挨拶するのなら輿から下りて私に跪きなさい」
と隠岐奈に頭を下げさせたが、これは彼らなりのおふざけだった。
「……いや、しかしよくやった。しかも戦時というのが素敵だ。連中は恐怖に震えきっていて、こっちは強権が振るえる。それでもまとめていくのは大変だろうがね」
だが紫は盟主となった直後の軍議で、開口一番に「就任してもらって早々で申し訳ないのですが、私たちが軍議でやるべき事は、ただ一つだけです。自分たちの辞職ですわ」と宣言した。その口調にはかけらの狂気も無く、きっぱりと続けた。「本日をもって、ここに集った妖怪軍団は解散します」
それを聞いた隠岐奈はあっけに取られた表情をしていたが、すぐ苦笑い交じりに紫を支持して、解散に関わる議事を積極的に進めさせ始めた。
会議は一日の中で度々中断し、そのたびに紫は別室に籠もり、公式に発令される通達文の草案を従者に口述筆記させた。
「全軍は統制を保ち、整然と兵を退き……」
と言いかけて、文机と二度叩いた。筆記を止めて、ちょっと雑談に付き合えという合図だ。
「……整然とした退却なんて不可能よ。絶対に混乱が起きるし、そんな事ができるならそもそもここまで至っていない」
「そうでしょうね」従者は書きかけの文書に向かって、沈んだ顔で視線を落としながら言った。「……この解散自体は支持したいところですが、これから私たちはどうなるでしょうか」
「今までとたいして変わらないかもね。これからも互いに利用しあったり、足を引っ張りあったり、殺しあったり……」紫は少しひきつった笑い声をあげた。「でも、だからといってこんな穴倉には籠っていられない。私はこんな場所で寂しく寄り集まって、権力の奪い合いなんかしたくないわ。こそこそと隠れて死ぬのなら、いっそ開き直って、みんな好き勝手に生きていくしかないじゃない」
紫の言葉は不可思議な理屈だったが、同時に惨めな敗残者たちの多くに漂う気分の、的確な代弁でもあった。彼らに通底していた奇妙な感情は、たしかに開き直りとしか言いようがなかった。彼らは月を恐れはしたが、もはや滅ぼされることは恐れていなかった。心の内に恐れるものを隠し持ちつつ、自分たちなりに好き勝手に、ただ懸命に生きてやろうと決意していた。
案文を携えて議事に戻ろうとした紫に、隠岐奈が静かに近寄っていった。
「一応、やらかす前に聞いておくからな?」と、この友人は小声で素早く囁いた。「先の戦でお前たちは力を失いすぎた。その上にこんな事をすれば、あんたら妖怪の、この天下に対する影響力の全てが失われてしまうぜ。それはつまり、上古以前から続いたある種の世界が終わるって事だ、この地上はついに人間たちの世になるって事だ。大げさに言ってしまえば、あんたら妖怪どもの時代の終わりだ。……私自身は負け戦に慣れているが、お前たちがそうだとは思えない。そりゃあ、敗北した上に力を維持し続けるのはしんどい事だし、それを手放すのはその時点では正しい事のように思えて仕方がないだろう――しかし私は、手放したものたちが結局どうなったか、その末路をたくさん見てきた。どれも気分のいいものではない。いいか、それだけは覚悟しておけ」
「妖怪の影響力が完全に潰える事はありません。人の世が訪れても、彼らはどこかで私たちを恐れ続けるでしょう――私たちがこうして月を恐れたようにね」
紫は確信を持って言った。
「わかったのよ。今までの私たちは恐怖を弄んでいた割に、恐怖というものに対してとんでもない思い違いをしていた。たとえば、人間たちは私たち妖怪を恐れていると言われるけれど、別にその力を恐れているわけじゃなかったの。ただ恐れているから恐れていただけなのよ。私たちがこんなふうに、月を勝手に恐れ続けたように……ってね」そう言ってニンマリと笑った。「それにね、今までの妖怪たちは、恐怖というものに無頓着で、知らなさすぎた。私にはそれがわかった。だから私はここに生きているのよ」
軍団の解散は、意外にも予想されたほどの混乱はなかった。そのまま山を下りていく者もいたし、そのまま山に居座って勢力を張る者もいた。多くは尾羽打ち枯らしながら、それぞれの本拠へと帰還していった。居座った者の中には、天狗たちのように山が険しく豊かである事に目をつけて、これを要塞化したしたたかな者たちもいたが、大半は国許に戻ったところでもはや居場所がないとか、勢力そのものが衰微して二進も三進もゆかなくなったとか、そもそも孤独を愛するはぐれ者だった。彼らは敗者の中でもいっそう敗者で、内輪で仲違いするような気力さえ萎えていた。
山に残った妖怪たちは何十か月も月に怯えながら過ごして、それからようやく月の光の下を歩けるようになった。そしてこの素晴らしい新世界に身を置いて以来、ようやく一息つこうという気分になった。その頃になると自勢力を盛り返す者も出てきた。またこの山の噂を聞きつけた新顔や、本拠地に戻ったが様々な事情からこちらに出戻る羽目になった者がぽつぽつと引き返してきて、いっそう賑やかになった。
そして、生きようとする者が集まる場所ならどこでもあり得る対立、騙し合い、勢力の拡張とそれに対する反発が、ふたたび起こるようになった。それまでなんとなく助け合ってきたはずの者同士さえ諍いを起こす事もあった。その挙げ句、樹海の外にある人間の里の風紀まで乱されるようになり、血が流れる事態もあったが、半ば隠居していた賢者たちは、それすらどこか懐かしい気持ちになりながら、包み込むように妖怪の山を見守り、問題に対処していった。
その先は、彼らにとってはすべてが終わった後の物語だ。
彼女の物語が残っている。彼女というのはむろん、八雲紫の従者の妖怪狐の事だ。
拍子抜けするほど平穏な日々が続き、妖怪たちがようやくそれぞれの道を歩み始めた頃、彼女は狂気を発した。八雲紫の方でもそれは薄々察知していて、あの娘が、どうかするとどんよりと異様な眼差しで自分を見ているということに気がついていた。元々、狐にしてはさっぱり割り切った性格の女だっただけに、その目つきは余計に不穏なものを感じさせた。
具体的な行動として現れたのは夢遊病だった。彼女は夜な夜な紫の寝所にふらりとやってきて、じっとその寝姿を眺めた。やがて周囲もその奇行に気がついて彼女を咎めたが、当人も恥じて反省しきりだったし、紫はその非礼を笑って許した――その頃には賢者の優秀な側近として、彼女は一目置かれるようになっていた。だが、それでも発作は続き、次第に彼女自身も何事かに懊悩するようになった。
ちょうどその頃、妖怪たちの間には深刻な薬物禍が蔓延しつつあった。それは戦後も大量に死蔵されていた軍需物資――鉱物の粉と麻薬を練り固めた丹薬――が膨大な量横流しされた挙句に起きた事態だったが、狂気を抑え込む為か、彼女もまたひっそりとその薬物に溺れるようになっていた。……しかしその事実が判明したのは、全てが手遅れになった後の事だ。
事件のあらましは次のようなものだ――その夜、何らかの理由で酒と共に大量の薬物を摂取した彼女は、またしても夢遊病の発作を起こした。その夜の発作にはなにか一個の目的があったに違いない。彼女は主人の枕頭に立つばかりでなく、寝床に潜り込んだ。そして子供のように紫に縋り、抱きつき、果てには首を絞めた。
「わかっていた」
紫は山の中の静養所で呟いた。どうにか布団から身を起こしたその首には、範囲の広い痣が掌の形になって残っている。
「あの子、ずっと私を殺そうとしていたの……そこに気付けなかったわけじゃない」
そんな話を聞いているのは、見舞いにやってきた友人の西行寺幽々子と付き人の魂魄妖忌だ。
「まあ、懸念から目を逸らしていた部分はあるにしてもね」
「……ともかく生きていた事はなによりです」妖忌は型通りの事を言った。
幽々子はというと、今のあなたの心境を歌に詠んであげましょうと言って、いいかげんに詠い始めた。
「どうしよう、ああどうしよう、どうしよう……ああどうしよう、ああどうしよう」
子供の戯れ歌ではないんですよと妖忌がたしなめたが、紫は物憂げに微笑みながら言った。
「でも幽々子が正しいわ。そうね……今のところ彼女は牢に繋いでいるけれど、どうしたらいいんでしょう。……どうしよう、ああどうしよう、どうしよう……ああどうしよう、ああどうしよう」
そう呟きながらふと首絞め痕をなぞる手つきがなんとなく情を感じさせるものだったので、幽々子は少しやっかんでやりたい気分になって、つい言ってしまった。
「……殺してしまえばいいのに」
「幽々子様!」
ついに妖忌が大喝した。それだけで、幽々子はびくりと震わせた体を縮こめた。緊張で腕が硬直し、蟷螂がか細い首を守ろうとするような格好になった。
「ごめんなさい」震える声で幽々子は言った。「わかってる。わかっているわ。わたし悪い事を言ったの。ごめんなさい、ごめんなさい……」親から咎めを受けた子供のように謝り続ける声は、なにか別の相手、別の時間軸に向かって呟かれているようだった。
妖忌は気まずそうに主人を慰め、紫の方に頭を下げた。
「失礼しました。この方は私に叱られるといつもこうなってしまって……」
「生きている以上、誰しも嫌な思い出というものはあるものです」紫はぼんやり呟いた。「私はあの子に死ねと言いました」
幽々子と妖忌は、その告白を聞いてぎくりとした。
「戦場で、死んで私を救えと言いました。しかし彼女は生き、生きることで私を救ってくれた。どうしてそこまで尽くしてくれたのかは、私でも理解の及ぶところではありません。……しかし心の奥底の部分では、きっと葛藤もあったでしょう。いずれにせよ、彼女の心をあそこまで歪めてしまったのは、私です。それでも彼女は私に尽くしてくれた。でも、だからこそ、最後には狂って私を殺す他になかったのでしょう」
結局、彼女は式神を貼られて、その人格と狂気を押し込められつつ、その後も紫に重用され続けた。八雲の姓に藍という名前も授けられた。そうした経歴を経た彼女は、今では紫にとって忠実ではあるが、いささか気の利かない従者になっている。
それについて八雲紫が内心どう思っているかは、推し量りかねるものがある。
もはや顔を上げる力も残っていなかったが、それでもどうにか動いて(あるいは動こうとして)いると、ふと、どこからか会話が聞こえた。話し手は、どうやらこの辺りに暮らす彼女の同族――野生の化け狐のようで、ひどい土地言葉だったが、訳すとおおむね次のような事を喋っていた。
知ってる? 月に攻め込もうとした、あの身の程知らずの妖怪たちは、案の定こっぴどくやられちまったらしいよ……。
うん。どうにか落ち延びた連中もどこかの山に籠って、お天道様どころかお月様の光の下も歩けないほどに打ちひしがれているってね。情けない話。
その後に続いた嘲り混じりの笑い声を聞いて、彼女は心まで萎えてしまった。
嫌な事を思い出した。
「死ね」崩壊していく軍勢の中で完全に惑乱した彼女の主人は、そう叫びながら従者の顔面を足蹴にした。「私のために死ね。死んで私を救え」
子が母に縋りつくように取りついたのを、そうして引き剝がされた。その後の記憶は曖昧になっている。……というよりも記憶のみならず、様々な物事が曖昧になってしまった。彼女は宇宙空間に放り出されてしまって、地上に戻る事ができたのは奇跡のようなものだった。帰還までには途方もない時間を要した気がしたが、狐たちの噂話が最新の話題をなぞる調子だったので、どうやらそこまで時間が経っているわけでもなさそうだ。
主人らはどこかに落ち延びているという。その場所にもなんとなく見当はついていた。彼女は妖怪軍団の結盟以前から主人に従ってきた。そのために、もしもの時の最終拠点を知っていたのだ。
妖怪の賢者とまで呼ばれていた主人に、彼女は従者として六十余州の各地に連れて行ってもらった。様々な冒険があった。天狗の内部抗争を妙策を用いて収拾して、恩を売った事があった。鬼の本拠地の只中にただ二人で乗り込み、巧みな弁舌で彼らの協力を取り付けた事もあった。主人は良い人だった……もちろんあくまで主従関係の範囲内ではあったが、少なくとも悪い人ではないと彼女は思った。何を考えているかはわかりにくいが、接していくうちに、なんとなく情の深い人であるような気さえしてきていた。だが今ではその予感も儚い。
息すると共に泥水を啜りながら、別に帰参する必要もないなと彼女は思った。私は見捨てられたのだし、相手もそれは承知しているに決まっている。そこで、主従の縁がぷつりと切れてしまっている。もういい。自分はこのあたりの狐に助けてもらって、そのままここに落ち着こう。田舎狐どもは外の血を歓迎するだろうし、そうなればどうとでも生きられるだろう(実際に月面戦争の落人の中には、そういう者も多かった。ただし彼らのほとんどは小ぢんまりとまとまってしまって土着の存在となり、中央への影響力を完全に失ってしまったが)。上手く立ち回れば、この辺りの一族を篭絡して転がす事だってできるかもしれない――彼女は自らの容姿に自信を持っていたし、政治能力に関しても賢者のやり方を間近で見てきて、その呼吸まで知っているという自負があった。
だが、その野望には今の身なりでは少々心もとない。少なくとも顔を洗わなければ……そういえば足蹴にされた顔はどうなってるだろう。目は開いているので腫れなどはないようだが、それでもひどい痣などになっていやしないだろうか。
水の匂いを嗅ぎ当てて、そちらに向かって這った。こうして主を捨てようと――本当は捨てられた側なのに――決めた今となっては、不思議と体が動いた。水辺に向かいながら、着るものはどうしようなどとも思った。今着ているものはみすぼらしく、泥まみれで、敗残者が着ていたもので、私にはふさわしくない。いずこかから、もっとましなものを盗むか、奪うかしなければならないと考えた。
ようやく水辺に辿り着いた。そこで草むらから出した手を小川の中に差し入れ、水を一掬いして顔を清めようとしたところで、悲鳴を上げた。恐怖に駆られた彼女はそのまま茂みに引っ込み、脇目も振らずに湿地を駆け抜けていって、この土地に戻ってくる事は二度となかった。
あとに流れる川面には、綺麗な月が映っていた。
ふたたび曖昧になってしまった記憶がようやくはっきりとしてきた頃には、彼女は霧深い山奥を彷徨っていて、しかもそれが主人の足取りを追っているものだと即座に自覚できた。なんだか嫌な気分になった。
それにしてもこの樹海の奥は、万が一妖怪軍団が敗走した時の、最後の根拠地と定められていた場所だ。彼らはそこまで追い詰められているのだろうか……。それを思うと情けない気持ちになったが、同時にどこか昏くて甘い悦びも覚えるのだ。落剝した主人と面会する時――私を捨てて落ちぶれたあの人に会う時、自分はどんな顔をしているだろうか、なんてね。
山中を彷徨い歩いていて、ちらほらすれ違う者たちがいた。当然この辺りに潜んでいるからには月面戦争の敗残者たちで、彼らは彼女の事など珍しくもない顔で眺めた。まだまだ落ち延びてくる妖怪も少なくないのだろう。
しかし再集結したところでどうするのやら……と考えていると、少し開けた場所に出た。なだらかに広がる巨大な山体の麓には、幾つもの風穴がぽつりぽつりと開いている。彼女の主人がどの洞窟に本陣を敷いているかはわからなかったが、誰かをつかまえて尋ねてみればわかる事だろう。
「ああ、あなたも生きていたのね」
八雲紫は、戦場で起きた事を忘れてしまったのか単に面の皮が厚いのか、かつての従者と再会してもなんでもない事のように接してきた。
「それじゃあ、これからも私に仕えてもらいましょう」
帰参した従者の方でも、なんの感動も怒りも湧かなかったし、やるべき仕事が幾らでもあった。再集結した軍団を維持するだけでも一苦労なのは当然だが、なにより八雲紫の軍団内での影響力の低下が深刻だった。今の紫がどうにか率いているのは、月面戦争で最も戦力を喪失した勢力だった。この戦いの発起人の一人ではあったので一応発言や意見を求められる事はあったが、諸勢力が集まる軍議の中でも決定権はほとんど失われていて、陣も山腹の隅っこの少々手狭な風穴の中に押し込められていた。
そのうえ、少しでも隙を見せれば味方にすら取って食われる恐れがあった。
「あそこの陣の奴ら、こちらの物資を奪おうと画策しているようですよ」
「追い返しなさい」
「殺しますか」
「できるだけ殺さないようにお帰りいただきなさい」
そんな調子のやりとりが幾日も続いた。しかし従者が見るところ、紫はすっかり覇気を失い、腑抜けてしまったようだった。大酒を飲み、酔っ払ったまま諸侯の軍議に出席して、狂ったように月への徹底抗戦を主張し、その他は終日ぼんやりとしていた。そんな様子を眺めていると、従者の心にはなぜだか主人に対しての愛おしさがよみがえってきた。もちろんそこには、廃人同然になったこの人をずっと眺めていたいという、あまりに屈折したものが多分に含まれていたが。
それにしても、月に対する徹底抗戦は不可能に思われた。この山に再集結した妖怪たちは、夜分になっても月光の下にさえ出たがらなかった。誰もが月からの反撃を恐れていた。やぶれかぶれの気分で月に縁があるという者を使者として送ってみたりもしたらしいが、使者は帰ってくることはなく、死んだか、逃げたのだろうと思われた。とにかく妖怪たちにとって、あの不吉な天体からの反攻が有るのか、無いのか。そればかりが彼らの心配事だった。
「無いよ」
そんなある晩、泥酔して寝床まで背負い運ばれる紫が、従者の耳元に囁いた。
「なにがですか」
「月の反攻は絶対に無いよ」
寝床の上に転がされて女体をくねらせながら、夢見るように紫は言った。
「この軍の中では、私だけがそれを知っているんだ。夢に見たからね」
はあ、そうですか。と言いながら、従者は寝床に腰掛けた。紫は言葉を続ける。
「だから私にはやるべき事がある。……だが今はその力が無い」
「やるべき事、とは」
「この先、私たちの末路は内部崩壊と殺し合いをするばかりになるでしょう。だからそうなる前に、私がここに駐屯する全ての勢力を呑みこむ。そこにしか私たちが生き延びる術はない」
そう言い終えた瞬間、紫は突然目を見開いて、びっくりしたように身を起こした。
「……今の言葉、聞いた?」
その狼狽した様子にどう答えたものか少し迷った末に、従者は答えた。
「聞きました」
「……聞かなかったことにしてちょうだい。単なる寝言よ」
「いいえ。聞きました」従者はきっぱりと言い張った。「私たちは早晩、疑心暗鬼と内部抗争の末に、このじめついた洞窟の中で、互いを殺戮しあって全滅します。たしかに否定のしようがありません。きっとそうなります」
あらゆる数字がその現実を指し示している事は、実務を取り仕切っている従者の方が、よく知っているくらいだった。
「それがわかっていて、どうして行動しようとしなかったのですか?」
「今の趨勢では不可能だからよ。今の私は力がなく、弱小で、なにを言っても聞き容れてもらえるとは思えない」
「そりゃあ私たちだけでは不可能でしょうが、ここにはあなたの友人も沢山おられるでしょう?」
「わからない、信頼できない。たとえ古くからの友人であっても、裏切られる事が怖い」紫はそう言いながら従者の顔を見つめて、悲しげに笑った。「私だって、あなたに死ねと言って捨てた」
従者は胸の奥にちくりと引っかかったままの棘を感じながら、それでも言い返した。
「信頼できなくても、やるんです」
「私なんざ利用されて、使い潰して捨てられるに決まっている」
「そりゃあ、みんなあなたを利用しようとするでしょうけれどね。でも利用される価値すらないよりはましです」
想像以上に幼稚な答えを聞いて従者は拍子抜けすると同時に、この人は他者から利用される事に慣れていないのか、とも思う。そう思った瞬間、なにかぞくぞくするものを身の内に感じた。
そして言った。「あなたは私に命じましたよね。自分を救ってくれと」ついでに死ねとも言われた事は、とりあえず忘れる事にした。「私があなたを救いましょう。これからも存分に私を利用してください」
八雲紫は、己の従者の顔をまじまじと眺めた。そして相手の胸元に顔を近寄せると、獣のように鼻を蠢かせて匂いを嗅いだ。まるで匂いで嘘か真かがわかるかのように。
「……会ってきてもらいたい人がいる」紫は囁いた。「摩多羅隠岐奈の陣よ」
摩多羅隠岐奈については、紫の古くからの知り合いであるという事くらいしか知らない。その他に、このたびの敗戦後も陣中に卑しい身分の男女を多数侍らせて、いかがわしい宴会ばかりしているなどという出所不明の噂も聞いた事があるが、それはどうやら真実のようだった。陣中を案内してくれた二人の従者は半裸――いや、ほぼ裸形と言ってよかった。ただ、彼らの性別までは不思議とわからないようになっている。一人は足が無く、もう一人の腕の無い者が肩車に担いでやって足代わりになっているのが目立った。それから周りを見回すと、陣中には五体満足な人が一人もいないようだ。身体のどこかしらが損なわれていたり、皮膚がひどく爛れていたり、背中が曲がっていたり、腫瘍や傷痕があったり、大きすぎたり小さすぎたり、太りすぎたり痩せすぎたり、一見五体満足ではあっても表情が妙に硬直していたり……ただ、そういった部分がある以外は、誰もが生き生きと生命力を感じさせて、美しい人々に見えた。
「紫のやつ、相変わらずうじうじしているのか」
隠岐奈は無礼にも椅子にふんぞり返り、近侍に足を洗わせながら会見に臨んできた。そして笑った後で、唾壺を抱えている者の口の中へ痰唾を吐いた。さすがに顔をしかめたが、同時にそれが古い胡人の風である事にも気がついた。
「あいつが逡巡していたおかげで、噂は他の陣中にも広がり始めているぞ。月の反撃は無いのかもしれない、あとは自分たち同士の勢力争いが始まる……なんてね。そうなったら、こんな寄り合い所帯はどうなる? 殺し合いさ。最後にちょっぴりは生き残るかもしれんが、弱体化した私たちは、本朝への影響力を完全に喪失してしまう。そうなったが全部、紫のせいになる。さっさと腕を振り上げてしまえばよかったのに」
それは乱暴な物言いだったが、隠岐奈は四六時中乱痴気騒ぎに浸りつつも、現状を完璧に把握しているようだった。
「呑み込んでしまえよ。こんな、たった一度の負け戦でぼろきれみたいになるような烏合の衆なんかさ。あいつなら今だってそれができるぜ」
そんな事を堂々と言ってきたが、なぜ自分ができないかは説明しなかった。ただ謙虚や慎ましさといったところからではないだろう。目の前のこいつは、なにかあれば紫を神輿に担いで利用するつもりだ。もし計画が失敗すれば、あっさりと友人を捨てるつもりだ。でもそれでいいのだ。
「……それでは」彼女は口を開いた。「ここで殺し合って潰れるのが怖いのなら、あなたはさっさと陣を畳み、山を下ってしまえばいいでしょう」
「面白い事を言う奴だね。さすがに紫が見込んで拾ってきただけはある」相手はそう言って大笑いしたが、すぐ考えを巡らせ始めた。「……そうか、それもありだな」
それから、即座に周囲に向かって撤収の命令を下した隠岐奈は、身を起こして従者に顔を近づけて囁いた。「よく聞けよ。私の軍は撤退後、樹海の外にひそかに陣を張り、そこから三日三晩待つ。そこで紫が討ち漏らしたり脱走した連中を、待ち受けて優しく包み込んでやろう。……だが三日だけだ……その晩はちょうど満月だ。刻限を過ぎたら、見限る。そうなっても恨むなよ。あいつもその程度の人物だったという事だ」
「あの人はやり遂げますよ」従者は自分でも驚くほどきっぱりと言った。「あなたもそこは信じているでしょう」
隠岐奈は笑った。その笑顔を見つつ、神でも生臭い息を吐く事ができるのだなと、それから遅れて漂ってきた蘭の香りを鼻腔で嗅ぎながら思う。
「ああ。今の私たちには、種族だの何だののしがらみを越えて、まとめ上げる妖怪が必要だ。しかも賢明で、手段を選ばない奴がね」
そういえば、あの人はどういう妖怪なのだろう……と従者はぼんやり考えた。隠岐奈は続ける。
「私はあいつをけっこう高く買ってるんだよ。……いいか、八雲紫は無色透明の女だ――名前は紫色だけどね。あいつはなにものにも染まっていなくて、ただただ妖怪だ。だからこそ、今のぼろぼろになって猜疑心だらけの私たちをまとめる事ができるのは、あいつしかいない。あの女は、鬼でも、天狗でも、神ですらないからな。そこだけが重要だ」
そう言って隠岐奈は身を引く。
「頼むよ。お前があいつの尻を蹴ってくれない事には、こちらとしてもどん詰まりなんだ……尻といえば、あいつのケツっぺたって案外薄いよな。意外と女っぽくないというか、なんというか……」
そう呟きながら、隣にいた近侍の尻を快音高らかに叩いた。
摩多羅隠岐奈の撤収は全軍に動揺を与えたが、その行動に追随する者はいなかった。月の反撃の可能性は相変わらずあったし、その懸念が払拭されない限りは、のこのこ野に下る愚を犯す事もできないというのが、多くの妖怪の一致した気分だった。
隠岐奈は紫の陣にも暇乞いの挨拶をしにやってきて、ほんの僅かだけ言葉を交わした。
「あなたがいなくなったら寂しくなるわ」
「なあに。どうせ私がいなくなっても隙間を埋めてくれる者が出てくるだろう」
そうして輿に乗せられて悠然と山を下りていく隠岐奈の背中を眺めながら、そういえば他の妖怪どもと違って、あいつは月などはなから恐れていなかったな、という事に従者は思い至った。
去りゆく者を見送って自陣に戻ると、一人の少女が「つまんなーいつまんなーい」と歌うようにぼやきながら、一人で器用に生首を蹴鞠していた。「紫から愉快なものが見られるって聞いて、せっかく来たのに」
そんな少女の側についている男と、ちらりと視線を交わした。彼もこのお嬢様の腕白には手を焼いているようで、困ったような表情になった。
西行寺幽々子が自分たちの陣に見舞いにやってきたのは、数日前の事だった。ちょうど物資の奪い合いで近くの陣と小競り合いがあった時の事で、諍いを止めようと慌てて出向いたときには、すでに相手の首が地面に転がっていた。今でも小気味よく蹴っている生首はそれだ。この少女は紫の古くからの友人で、月面戦争の勃発を知ってのんきに戦見物に出向いてきたのだと聞くが、詳しい人となりは誰もよく知らない。とにかくやってきた時の事件が衝撃的すぎて、不気味がって誰も近づこうとしなかった。
「あ、お狐さん」
が、なぜか従者には懐いているようだった。
「おひとつお尋ねしておよろしい?」
「私が知っている範囲であれば」
「いつ戦が始まるのかしら?」
その質問に、彼女は力なく微笑んだ。そして続けて「戦争はもうありませんよ。あなたが戦見物に来る前に、完膚なきまでに負けて終わったのです……」と言おうとしたのを、即座に遮られた。
「月面戦争の話じゃないわ。あなたたちが生き残るための戦いの話よ」
どう答えを返そうか窮していると、幽々子はすたすたと陣の奥へと歩いていった。
「この穴倉は天然のものなのね」
「ええ。山に来られる時にご覧になったと思いますが、同じような横穴がたくさんあります。私たちはそれを利用していて、それぞれの勢力の陣や、物資の貯蔵庫にしているんです」
「ふうん。その穴と穴って、どこか奥で繋がっている、という事もあるのかしら?」
「……天然なので、そういう事もあるでしょうね。きっと」
「それらをすべて把握している?」
「風穴の全貌は、誰にもわからないと思いますよ。昔この場所を見つけたとき、私も穴の一つを探検してみた事がありますが、すぐに迷ってしまいそうになって――」
「この穴は狭っ苦しいけれど、奥は比較的浅くて、どことも繋がっていないの」幽々子が付け加えた。「つまり誰の干渉も受けない場所よ。きっと、それが重要なのよ。紫がここに陣を敷いたのはそのためね」
その夜の紫は珍しく机に向かっていて、軍団の執務にあたっていた。摩多羅隠岐奈の離脱は早急に手を打たなければいけない問題で、組織が崩壊状態であっても解決しなければならないものだった。
「色んな勢力が、隠岐奈の空いた席を取りたがっているのよ」と紫は従者に説明した。「不思議な話よね。洞穴なんかどこだって一緒でしょ。あちらとこちらなんか、元来仲が悪いからって気を遣って遠ざけてあげていたのに」
「……彼らの風穴の入り口は遠く離れていますが、もしかすると奥で一つに繋がっているのかもしれません」従者はもはやわかりきっている仮説を言ってみた。「だからその奥のところで、なにか諍いがあったのかもしれませんね」
そういえば……と彼女は思った。自分は他の勢力の詳しい現状を把握できていない。もちろん摩多羅隠岐奈の陣くらいに風紀が乱れていれば下々の遠慮ない噂にも上る事ができるが、他の陣はどのような状況なのだろう。私は何も知らない。妖怪たちは総じて種族主義で、秘密主義だった。もしかすると、睨み合いの対立を通り越して、殺し合いを含んだ暗闘にまで発展しているところもあるのかもしれない。
「あらあら、それは大変ねぇ」返ってきた言葉は同情らしいが、紫はまったく感情を込めずにそれを言える女だった。「だからなに?」
「あなたは自分たちが破滅を待つのはある程度織り込みで、諸勢力をお互いに食わせ合うのが目的だったんですね」
「結果的にはそうなるかもしれない。それで、どう思う?」
「最低ですね」彼女はそうした軽口を返しながらも、待つだけでは不完全だと思った。結局それは自分たちをいたずらに痩せさせている事には変わらないのだし、それを平気で行っている紫は、どこか病んでいる。自傷行為だと思った。いや、矛先が他者に転嫁されているので自傷にすらなっていない――だから余計にたちが悪かった――が、これは主人なりの、我が身の破滅を待つ行為なのだろう。
「勝手に抗争を始める方が悪いわ。……そうして彼らが瘦せていく中、私たちはここで自勢力を保持し続けます」紫は自信満々に言った。「私は自分の勢力を失いすぎました。なので非常の戦いをするしかない。……なにより、山を下りた隠岐奈が、この山からの離脱者たちの受け入れ先になってくれるようだし。思ったよりひどい状況にはならないはず」
「摩多羅隠岐奈は、あと三日だけ待つと言いました」
従者がそう付け足した時の紫の表情は、見ものだった。一瞬虚脱した様子だが、即座に相手の言葉を飲み込んだ。そして次の瞬間には激昂した。その罵りようのひどい事といったら、ここに全てを書き出すことは憚られる。
「……そしたら、あいつの椅子にばかりふんぞり返ってぶ厚くなった尻を――」
「怒ったって仕方ありませんよ」従者は冷静に言った。「彼女の軍の主導権は彼女のものです。私どもではどうしようもない」
「やっぱり、あいつとは肝心なところで足並みが揃わないのよね」紫はぶすりと言いながら、すぐ考えを巡らせて尋ねた。「……三日ね?」
「ええ。三日後。満月の夜まで」
「ならば方法はある。なにかきっかけさえあれば――」
と言いかけて紫が言葉を切ったのは、策謀の場に余人がいて、部屋の隅で物音を立てたからだった。しかし、とくとくと話を聞いていた西行寺幽々子は、身じろぎもせずただじっと二人を見つめていた。物音を立ててしまったのは、彼女の付き人の魂魄妖忌の方だった。
幽々子は口を開いた。
「……じゃあ殺すか」
少女がそう呟くのと陣を飛び出していくのは同時だった。言葉の重みと比べると、その足取りは蝶を捕まえに行くように軽く、深刻さのかけらもなかった。
一連の動作で抜き身の刀をさらりと奪われていた妖忌は、鞘だけが腰に間抜けのように残っているのを俯いて眺めながら「なにせああいう方なので……」と困ったように言った。
「いいのよ……。それにしても、あの子がああも変わってしまうとはねぇ」
「なんだかすみません……」
「……放っておいていいのでしょうか」
待つだけの時間はさほど長くなかった。幽々子は首を一つ携えて戻ってきた。それはひどいご面相の生首で、どうやら刀の刃筋を立てる事さえせず、頬骨を張り飛ばして砕き割ったようだった。それでもどうにか首実検して、どこそこの勢力の長の誰々の首ね、とだけ紫は言った。名前以上の感慨は特になかったらしい。
「まあいいわ。使えるものは使ってやりましょう」
「ですね……」
「その方が、この首もきっと浮かばれます」
「それはどうでしょう……」
その点には首をかしげるしかなかった。
時を置かずして、山全体が大混乱に陥った。表面的にはちょっとした諍いや小競り合いくらいしか起こっていなかった現状が、一足飛びに勢力の長の暗殺にまで発展してしまった事に、さすがに動揺しない者はいなかった。
「誰がやったと思う?」
紫とその従者は、血まみれの犯行現場でへぼ探偵とその忠実なへっぽこ助手になり、自分たちにだけ種がわかっている推理ごっこをする羽目になっていた。
「……完全な密室殺人ですね」
「いいえ。月の技術ならこれでも暗殺者を送り込むことが可能でしょう」
そんな説を強硬に主張したおかげで、月の反撃の可能性はまだまだある、という事になった。もっともそれを信じない者も多く、きっと普段から仲が悪かった、あなたこなたの勢力がやったのだろうという憶測も、あっさりと広まっていった。
「微妙な立場になった連中から取り込んだ方がいい」紫は言った。「頭がいなくなった勢力を切り取り、この件で嫌疑をかけられて微妙な立場になった連中も包み込んでやりましょう。あなたも工作してきなさい」
そんな不穏な情勢下で、従者は単身各勢力の陣を渡り歩く事になったわけだが、その前に紫は指示を与えた。
「……実は私たちの洞窟にも、余所の洞窟に繋がっている隙間が一つだけあります」紫はその隙間の位置と、そこを出た後の道行きを詳細に指示してから続けた。「そこを巡って、あの風穴の奥が、どのような状況になっているか見てきてちょうだい。それだけでも、あなたの使者としての言葉に重みが出てくるでしょう。でも無理強いはしないわ。安全は保障できないから――」
「行きますよ」
「……身の安全は自分で守るしかない。それに白状すると、私もあそこで何が起きているのか、まったく想像がついていないの」紫はためいきをつきながら言った。「きっとひどい事になっているわ」
そうした経緯で、従者は何重にも各勢力が入り組んだ風穴の裏道を巡ったが、すぐ後悔させられた。ごつごつした岩盤の迷宮の奥では、軍規は完全に崩壊していた。完全武装して血相を変えた小勢がやってくるのをやり過ごすのはまだ良い方で、そんな勢力争いに疲れ果てて離脱してしまった者たちを幾人も見た。洞窟の奥には、自棄混じりの破滅的で堕落した性愛の饗宴に耽る者たちがいた。脱走して無気力に横たわり、目だけを神経質に光らせ何かを待っている者もいた。また、それらしい一角に石窟と祭壇を設けて、何かを神体のように掲げて祈り続ける集団もいた――妖怪が神仏に祈るというのはどうも滑稽だが、それでも無い話ではない。しかし淫祀邪教であるのは間違いなかった。彼らが祈りながら贄を捧げる対象は、日輪かそうでなければ月輪のようで、既に分派の気配があった。……かと思えば、そんな脱走者同士が手を取り合い身を寄せ合って互助する、道義的に美しい光景さえ見受けられた。善いように見える事と悪いように見える事が同じように行われていたが、それでも悪いように見える事の方が膨大だった。そうしたはぐれ者たちの気配さえ消えてしまった寂しい一角では、一族の自決の場にまで出くわした。腐り始めの死臭は小さな岩屋になっている場所から漂い出ていて、どうして彼らは自決したのだろうかと思わせた。そして現場を簡単に探ってみて、すぐ遺書とも誓文ともつかないものを発見した。そこに血でもって書かれている恨み言がなんであるにせよ、とにかく勢力内で血族間の政治抗争か何かがあったらしい。
気が滅入る地獄巡りを終えて、教えられた通りの道筋でようやく洞窟を這い出すと、そこは山の裾野を一望できる高台だった。眩しいほどの静けさと、しんとした光景が広がっている。
そうしてから出向いていった各勢力の長には気位が高い者も多かったが、それだけに八雲紫を与しやすい女と見ていた。今の紫は、月を恐れるあまりなんでも月の仕業と喚くようになっている、狂った賢者でしかなかった。そして、すっかり狂ってしまった主人との付き合いに倦み疲れ、くたびれてしまった女を演じるのが、従者である彼女だ。
「……ともかく、こんな時であればこそ、私たちは団結すべきです」
彼女は弱々しく、憐れみを誘うように言った。わざと色艶を褪せさせた髪の房から、後れ毛をちょろりと貧乏くさく垂れさせる。不安げな首の傾き、声のかすれ具合、唇の渇き具合まで完璧。
「天魔様は好色な方だから、やりすぎだったかもしれないよ」
天狗たちが駐屯している洞穴を訪問し終えて外に出たとき、そんなふうに声をかけられた。相手を見ると天狗の女性士官で、唐土から伝わったらしい測量機器を肩に担いでいる。
「あんたもとんだ狐だよ……いや、悪口じゃなしにさ。私、狐は大好きだもの。可愛いからね。だからあんたらの事好きになれるかもな。変な意味じゃなく」告白と付け足しが連なる奇妙な調子で相手は言ったが、そこにはなにか利を求めて喋っている雰囲気があった。女は即座に自己紹介も続けた。飯綱丸龍と名乗った。「飯綱権現の飯綱、まん丸の丸、めぐむは立つに月の龍を書くんだけれど、そんなもん読めねえってよく言われる」
そんな紹介をされても困惑するしかできない。どういうつもりだろうと思いつつさっさと先を歩く彼女に、なおも付き従いながら龍は言った。
「そっちの道は危ういよ。うちの天狗たちだって品のいい奴らばかりじゃない――藪の中に引きずり込まれても知らないぞ」
……無言で道を変えたが、歩調は心もち相手に合わせるようにする。
「気を悪くしないでね。どこにだって困り者はいるってだけのことさ……それにしても、これからどうなるんだろうね。私たち天狗も権力闘争は大好きだが、こんなみじめな争いは望んでいないってのに。……ねえ、妖怪の賢者様に伝えなよ。もっと私たちを利用してみろよ。利用したりされたりしてみろよ。それはきっと素敵な事になるわ」
従者は立ち止まる。振り返ると、天狗は地面に設置した測量機器の水平を調整していた。そうしながら、まだ話を続ける。
「……我々天狗は、既に先の事を考えている。私がこの辺を測量したりと、山師仕事をしているのもそれよ――それに仕事に打ち込んでいれば当面の心配は忘れられるしね……。ともかく、この山は最終拠点に選ばれただけの事はある。きっといい要塞になるよ――だから私らとしては、こんな最低な状況はさっさと終わって欲しいの」
どこかで物資が焼かれる、焦げた甘い匂いがした。また討ち入り帰りらしい小集団が騒がしく一段下の山際の道を駆けていったが、彼らは目が飛び出そうな滑稽な形相の残像と、血の匂いだけを残して去っていった。
「もう時間は残されていないかもしれないけれどね」龍はそう言いながら、懐から仙丹と見られる小さな丸薬を取り出し、舌の裏に転がしながら笑った。「最近は胃が痛くてたまらないわ」
よくしゃべる女だったと、別れてから思った――というより、すべての言葉が相手の独壇場で、こちらは一言も発していなかった。
一日かけた調略には成果があったものの、芳しいと言えるものではなかった。
「彼らに同調の兆しはありますが、それはあくまで消極的な協力――中立もしくは静観、様子見といったところですね」
「しょうがないわ。狂った賢者様に何もかも賭けてしまうのは危ういもの」
やりすぎたかもしれない、と紫は反省していた。
「でも、何かを演じるのは楽しいですからね」従者も同情した。「私も今度からくたびれた人妻役をやる自信がつきました」
「私たちは宴の余興の芸能大会の相談をしているんじゃないわ」紫はぴしゃりと言った。「ここから先は殺す事になると思う」
そうでしょうね、と従者もあっさり頷いた。元々戦争をするつもりで集った集団なのだから、そこで臆するはずもない。
事実、自分たちの強勢を鼻にかけて、絶対に紫の傘下に入るつもりが無いと思われる大勢力があった。しかも紫の方でも、彼らを恨むところがあった――彼らは月との戦いに際しても積極的に動こうとせず、そのために紫の軍は決定的な喪失を受けた。彼らが敗走の後も自前の勢力を維持し続けているのはそのおかげだったし、そうしてゆくゆくは紫を潰し、この山に居座る妖怪たちの盟主に成り上がろうとしている魂胆も見え透いていた。もしかすると、軍団に参陣した時からそういう腹積もりだったのかもしれない。
「彼らは除かねばなりません」
「既に手は打っている」紫は暦に目をやりながら言った。「……我々が月に負けてから、ようやくひと月が回るのね」
「ええ、そうですね」
「明後日の夜は満月だ。月の反攻の可能性は高い」ぼそりと言った。「今の言葉を、陣中に触れとして出しなさい。できるだけ騒がしく、他の洞穴にも私たちの様子が伝わるようにね」
翌日、従者は引っ越しの手伝いに駆り出されていた。
摩多羅隠岐奈が撤収した洞穴は、この山の風穴群では最大のもので、各勢力がこぞって手中に収めたがっていた。そして様々の政治的駆け引きが行われた結果、紫との因縁がある例の最大勢力の拠点と定められた。
「あんたも手伝いに来たのか」
作業の進捗管理をしていて声をかけてきたのは、先日の飯綱丸龍だった。
「連中、もう自分たちが妖怪軍団の第一党だと思ってやがるわ。……まだ月の大反攻の可能性だってあるのにね」そう言うと、ニヤリと笑顔を投げかけてきた。「ここに集まっている奴らの間には、そんな噂話が蔓延しているよ。今日は各勢力から手伝いが来ているから、そういう空気も持ち帰られるんでしょう」
従者は黙ったまま話を聞いていた。この勢力を越えた手助けを計らったのは、八雲紫だった。先だっての軍議で賢者は主張したのだ。我々は月に立ち向かうために団結しなければいけない、と。そして、自分たちはいがみ合っている場合ではない、ちょっとしたことでも協力し合わなければとも語った。前の言説は失笑を買ったが、後の言葉はとりあえず理解を得た。そんなわけで、各勢力からの様々な立場の妖怪たちが、この最大勢力の移転の手助けをしに来ている。
「だがこの交流で広がるのは、どういうわけか将来への希望ではなく不安ばかりだ。そういう噂を流している奴がいるんだろうな」龍はニヤリと笑った。「個人的にはうざったい事この上ないが、まあいいわ。もうちょっと様子を見てやりましょうか」
「この前、もっと利用したりされたいと言ったね」
従者は、相手の耳元で囁くように言った。龍はびくりと体を震わせた。その反応にどこか官能的なものがあったので、耳が弱いのかもしれない。
「ああびっくりした。……なによ、普通の声で話して」
「天狗は天候も操れると聞くわ」
「……ある程度は、そうね」
「明日は雨だといいな」彼女は言った。「雨じゃなくてもいいけれど、日中はどんより雲が分厚いのがいい……それが夜になると急にぱぁっと晴れて、そこに満月が昇るの。私たちをうっとり惑乱させて、殺戮する月が」
龍は少しけげんな表情になったが、努力してみようと言った。
それから周囲にちらりと目をやって、移転作業の進捗を推し量った。明日の夜までに事がなせるか不安はあったが、彼らの移動はあまりに手早く成し遂げられつつあった。
「こんなに足早な遷都があったものかな」
などと龍は目を細めて呆れたが、
「まあ、こっちの方が断然に居心地が良さそうだものな。天井も高いし」
と、のんきに伸びをしながら一人納得している。天狗たちは高く広い青空を飛ぶことを懐かしがっていた。
八雲紫の従者はというと、無表情に近い顔つきで移転を見守っている。たしかに彼らにとってもこの洞窟は居心地が良いだろう――もっとも、前が悪すぎたという事もあるだろうが。かの勢力が以前から布陣している洞穴は、収容力こそあるがじめついていて、天井から金物臭い湧水が滲みてしたたっているような場所だった。しかも風穴が幾多の他陣営と繋がっていたので、ちまちました物資の窃盗や略奪は慢性的な問題となっていた。そんな劣悪な立地に彼らの陣が割り振られるように仕向けたのは、もちろん八雲紫だ。賢者は敗戦の痛手に打ちひしがれていても、陰湿な嫌がらせだけは怠らなかったというわけだ。
そして物資の略奪といえば、当然この引っ越し作業中にも行われていた。ちょうど龍に仕えているらしい可愛い狐の従者が、一反の絹織物と何か丹薬が入っているらしい包みとを、ちょろまかして戻ってきたところだ。
「おやおや、お前は本当に手癖の悪い子だ……失敬」と龍は小さな狐の頭を撫でながら紹介した。「この子にまだ名前は無いんだけどね。前も言ったでしょ? 私は狐が好きだって」
その子が年頃相応の人見知りを見せると同時に、妙に婀娜っぽい首の傾げ方をしたのが気になる。そして主の腰への巻きつくような縋りつき方を見て、なんとなく、管狐であろうとも思った。
夜半から降り始めた雨は、明けた日を一日中灰色にしていた。
「……かの勢力は、昨日のうちに主力の移転を終えました。こんな雨ですが、今日一日もあれば残りの手勢も完全に移転を完了するでしょう」
「さんざ嫌がらせしてやった私が言うのもなんだけれど、あれだけの大勢にもかかわらず、足並みそろえて短期間で移動できる結束と統率力は、やはり怖いわね」
外に出て雨模様を眺めながら、紫は正直に言った。
「だからこそ除かなければならない……そして、それは月の仕業と思われるように仕向けます」とも付け加えた。「そうしてふたたび月人の力を目の当たりにした私たちは、これからも戦時体制を恒常的に維持したまま、月におびえながら生き続ける事になるでしょう」
「あなたは私たちに平和をもたらすつもりなんて、はなから無いんですね」彼女は感情を交えずに言った。
「どう思ってもらっても構わないけれど、私にはこれしかないの。なんのよすがも無い女が、この雑多な勢力をまとめるにはね。……とはいえ、警戒は時と共に少しずつ解かれていく事になるでしょうね。そして、そうなっていく中で、私たちは次第に腑抜けていくでしょう。……でもそれが問題になってくるのはまだまだ先の事」
そこまで言って紫は話を戻した。将来の事もいいが、今は当面の計略に没頭しよう。
「策にはできるだけ少人数で当たりたい」雨に向かって手を伸ばし、天から落下してくる雨粒を受けた。「方法は単純だし、前例のないやり方ではない。あの風穴の奥には、垂直の断崖になっている巨大な地下渓谷があります。そこで私たちは月からの反撃を装って、奴らを恐慌させる。そして死の淵まで追い詰め、彼ら自身が発した恐怖と行動で自殺させる」
「その為に彼らをあの洞穴に移動させたんですか」
「偽りの月の攻撃には式神を使います」紫は自分の話を続けた。「計画は出来る限り少人数で行い、秘されるべきよ」
「式神ですか?……事が事だけにそれなりの数を用いなければならないと思いますが、管理しきれるでしょうか?」
「単純な行動をさせるだけならね」そして行動はきっと単純な方がいい、とも付け加えた。「あなたも月の軍勢を見たでしょう。彼らは完全な命令系統を持ち、完全な管理の下で、完全な動作をしていました。完全さとは単純な見かけをしている。それを見せかけだけ模倣するのなら容易いものよ。――そして最後の総仕上げだけれども」紫は化粧道具と衣装を用意するように命じた。「私が月の姫君を演じるわ」
夜になって、雨はぴたりと止んだ。天狗たちは完璧な演出をしてくれた。夜闇の静寂は有史以来散々人間を恐れさせてきたものだが、今では妖怪たちにさえ、ぼんやりした不安を抱かせている。
それは妖怪たちの最大勢力の人々も一緒だった。彼らも月を恐れ、家族がいる場合は――夫婦で、あるいは家族ぐるみで従軍している者も少なくなかった――洞穴の中で身を寄せ合いながら、不穏な夜を過ごしていた。月の反撃があるとすれば今度の満月だろうと、なんとなく、そんな噂が流れていた。噂が本当だとすれば、月人は自分たちを滅ぼすだろう。それはきっと容易い事だ。
夜半、突風が陣中を流れていって、なにか嫌な予感を煽った。それが合図だった。当直の兵が洞穴の外に目を凝らすと、そこには幾列もの兵士が整然と立っていて、その背後には月の姫君が、美しい立ち姿の影絵で控えていた――そして彼らの背中いっぱいに広がり、妖怪たちの最後の隠れ処を覗き込む、魂が奪われるような月明かり。
月の軍勢はついに彼らを発見したのだ。
そこから先は文字通り急転直下になった。ただただ恐怖と混乱だけが場を支配した。前進を開始した寄せ手が手を下す必要は、ほとんどなかった。不気味に明るい月は尋常ではない大きさに映って、洞穴の出入りを塞いでいた。押し寄せてくる軍勢を少しばかりでも防ごうとする戦列が、種の保存の原理と僅かばかりの勇気から自然と構築されたが、それは自己保存の原理とほんの少しの自由意志からあっさり崩壊した。彼らは恐慌のままに後退した――陣を移して日が浅い彼らは、その先に活路が無い事を知らなかった。そんな中でも壮年の者は親や子を先に逃がし、夫は妻を先に奔らせた者が多かった。逃げた先は、天井がどんどんと低く、先細っていった。追い詰められた人々は断崖の下、なにも無い奈落へと突き落とされるしかなかった。最初に落下した者の頭上には、更に大量の同胞が落下してきた。子や老人は頭上から落下してくる家族に次々と圧し潰されて、その上に重なった妻たちは夫に圧し潰された。そして男たちの上には大量の土石が落下した。それらの無慈悲な物理を放り込む事だけが、兵士たちに組み込まれた、ただ一つの指令だった。
他の勢力の中には、この阿鼻叫喚を鋭い聴覚で聞きつけた者もいたが、誰もが満月の夜を恐れて、耳を塞ぎ、目をつむっていた。それだけでも恐怖に圧し潰されて発狂する者さえいた。全てが終わり、月の軍勢が整然とした動作で引き下がった後には、生命が死に絶えた静寂があった。
このようにして一晩で妖怪の山の底に滅びてしまった彼らが、どういった妖怪の集団だったのか、その長がどのような人物であったのか……彼らが滅亡した以上は、なにもわからなくなっている。
夜が明け、各々の洞穴から這い出してきた妖怪たちは、ようやく殺戮の現場を目の当たりにした――彼らは紫が主張していた月からの反撃には懐疑的だったが、それでも月人を恐れている事には変わりなかった――。ただ、この惨状を目の当たりにしても、どういうわけか混乱は少なく、なにか諦めのような空気の方が支配的だった。
八雲紫が状況を手早く取りまとめ、敗残の妖怪軍団の盟主になった。そうして軍内の主導権を握ると、即座に他の賢者たち――月面戦争の敗戦後、微妙な立場に置かれていた人たち――を呼び戻して内閣とした。
「信じていたよ」
輿に乗せられて引き返してきた摩多羅隠岐奈は明るく言ったものの、紫は冷たい声で
「挨拶するのなら輿から下りて私に跪きなさい」
と隠岐奈に頭を下げさせたが、これは彼らなりのおふざけだった。
「……いや、しかしよくやった。しかも戦時というのが素敵だ。連中は恐怖に震えきっていて、こっちは強権が振るえる。それでもまとめていくのは大変だろうがね」
だが紫は盟主となった直後の軍議で、開口一番に「就任してもらって早々で申し訳ないのですが、私たちが軍議でやるべき事は、ただ一つだけです。自分たちの辞職ですわ」と宣言した。その口調にはかけらの狂気も無く、きっぱりと続けた。「本日をもって、ここに集った妖怪軍団は解散します」
それを聞いた隠岐奈はあっけに取られた表情をしていたが、すぐ苦笑い交じりに紫を支持して、解散に関わる議事を積極的に進めさせ始めた。
会議は一日の中で度々中断し、そのたびに紫は別室に籠もり、公式に発令される通達文の草案を従者に口述筆記させた。
「全軍は統制を保ち、整然と兵を退き……」
と言いかけて、文机と二度叩いた。筆記を止めて、ちょっと雑談に付き合えという合図だ。
「……整然とした退却なんて不可能よ。絶対に混乱が起きるし、そんな事ができるならそもそもここまで至っていない」
「そうでしょうね」従者は書きかけの文書に向かって、沈んだ顔で視線を落としながら言った。「……この解散自体は支持したいところですが、これから私たちはどうなるでしょうか」
「今までとたいして変わらないかもね。これからも互いに利用しあったり、足を引っ張りあったり、殺しあったり……」紫は少しひきつった笑い声をあげた。「でも、だからといってこんな穴倉には籠っていられない。私はこんな場所で寂しく寄り集まって、権力の奪い合いなんかしたくないわ。こそこそと隠れて死ぬのなら、いっそ開き直って、みんな好き勝手に生きていくしかないじゃない」
紫の言葉は不可思議な理屈だったが、同時に惨めな敗残者たちの多くに漂う気分の、的確な代弁でもあった。彼らに通底していた奇妙な感情は、たしかに開き直りとしか言いようがなかった。彼らは月を恐れはしたが、もはや滅ぼされることは恐れていなかった。心の内に恐れるものを隠し持ちつつ、自分たちなりに好き勝手に、ただ懸命に生きてやろうと決意していた。
案文を携えて議事に戻ろうとした紫に、隠岐奈が静かに近寄っていった。
「一応、やらかす前に聞いておくからな?」と、この友人は小声で素早く囁いた。「先の戦でお前たちは力を失いすぎた。その上にこんな事をすれば、あんたら妖怪の、この天下に対する影響力の全てが失われてしまうぜ。それはつまり、上古以前から続いたある種の世界が終わるって事だ、この地上はついに人間たちの世になるって事だ。大げさに言ってしまえば、あんたら妖怪どもの時代の終わりだ。……私自身は負け戦に慣れているが、お前たちがそうだとは思えない。そりゃあ、敗北した上に力を維持し続けるのはしんどい事だし、それを手放すのはその時点では正しい事のように思えて仕方がないだろう――しかし私は、手放したものたちが結局どうなったか、その末路をたくさん見てきた。どれも気分のいいものではない。いいか、それだけは覚悟しておけ」
「妖怪の影響力が完全に潰える事はありません。人の世が訪れても、彼らはどこかで私たちを恐れ続けるでしょう――私たちがこうして月を恐れたようにね」
紫は確信を持って言った。
「わかったのよ。今までの私たちは恐怖を弄んでいた割に、恐怖というものに対してとんでもない思い違いをしていた。たとえば、人間たちは私たち妖怪を恐れていると言われるけれど、別にその力を恐れているわけじゃなかったの。ただ恐れているから恐れていただけなのよ。私たちがこんなふうに、月を勝手に恐れ続けたように……ってね」そう言ってニンマリと笑った。「それにね、今までの妖怪たちは、恐怖というものに無頓着で、知らなさすぎた。私にはそれがわかった。だから私はここに生きているのよ」
軍団の解散は、意外にも予想されたほどの混乱はなかった。そのまま山を下りていく者もいたし、そのまま山に居座って勢力を張る者もいた。多くは尾羽打ち枯らしながら、それぞれの本拠へと帰還していった。居座った者の中には、天狗たちのように山が険しく豊かである事に目をつけて、これを要塞化したしたたかな者たちもいたが、大半は国許に戻ったところでもはや居場所がないとか、勢力そのものが衰微して二進も三進もゆかなくなったとか、そもそも孤独を愛するはぐれ者だった。彼らは敗者の中でもいっそう敗者で、内輪で仲違いするような気力さえ萎えていた。
山に残った妖怪たちは何十か月も月に怯えながら過ごして、それからようやく月の光の下を歩けるようになった。そしてこの素晴らしい新世界に身を置いて以来、ようやく一息つこうという気分になった。その頃になると自勢力を盛り返す者も出てきた。またこの山の噂を聞きつけた新顔や、本拠地に戻ったが様々な事情からこちらに出戻る羽目になった者がぽつぽつと引き返してきて、いっそう賑やかになった。
そして、生きようとする者が集まる場所ならどこでもあり得る対立、騙し合い、勢力の拡張とそれに対する反発が、ふたたび起こるようになった。それまでなんとなく助け合ってきたはずの者同士さえ諍いを起こす事もあった。その挙げ句、樹海の外にある人間の里の風紀まで乱されるようになり、血が流れる事態もあったが、半ば隠居していた賢者たちは、それすらどこか懐かしい気持ちになりながら、包み込むように妖怪の山を見守り、問題に対処していった。
その先は、彼らにとってはすべてが終わった後の物語だ。
彼女の物語が残っている。彼女というのはむろん、八雲紫の従者の妖怪狐の事だ。
拍子抜けするほど平穏な日々が続き、妖怪たちがようやくそれぞれの道を歩み始めた頃、彼女は狂気を発した。八雲紫の方でもそれは薄々察知していて、あの娘が、どうかするとどんよりと異様な眼差しで自分を見ているということに気がついていた。元々、狐にしてはさっぱり割り切った性格の女だっただけに、その目つきは余計に不穏なものを感じさせた。
具体的な行動として現れたのは夢遊病だった。彼女は夜な夜な紫の寝所にふらりとやってきて、じっとその寝姿を眺めた。やがて周囲もその奇行に気がついて彼女を咎めたが、当人も恥じて反省しきりだったし、紫はその非礼を笑って許した――その頃には賢者の優秀な側近として、彼女は一目置かれるようになっていた。だが、それでも発作は続き、次第に彼女自身も何事かに懊悩するようになった。
ちょうどその頃、妖怪たちの間には深刻な薬物禍が蔓延しつつあった。それは戦後も大量に死蔵されていた軍需物資――鉱物の粉と麻薬を練り固めた丹薬――が膨大な量横流しされた挙句に起きた事態だったが、狂気を抑え込む為か、彼女もまたひっそりとその薬物に溺れるようになっていた。……しかしその事実が判明したのは、全てが手遅れになった後の事だ。
事件のあらましは次のようなものだ――その夜、何らかの理由で酒と共に大量の薬物を摂取した彼女は、またしても夢遊病の発作を起こした。その夜の発作にはなにか一個の目的があったに違いない。彼女は主人の枕頭に立つばかりでなく、寝床に潜り込んだ。そして子供のように紫に縋り、抱きつき、果てには首を絞めた。
「わかっていた」
紫は山の中の静養所で呟いた。どうにか布団から身を起こしたその首には、範囲の広い痣が掌の形になって残っている。
「あの子、ずっと私を殺そうとしていたの……そこに気付けなかったわけじゃない」
そんな話を聞いているのは、見舞いにやってきた友人の西行寺幽々子と付き人の魂魄妖忌だ。
「まあ、懸念から目を逸らしていた部分はあるにしてもね」
「……ともかく生きていた事はなによりです」妖忌は型通りの事を言った。
幽々子はというと、今のあなたの心境を歌に詠んであげましょうと言って、いいかげんに詠い始めた。
「どうしよう、ああどうしよう、どうしよう……ああどうしよう、ああどうしよう」
子供の戯れ歌ではないんですよと妖忌がたしなめたが、紫は物憂げに微笑みながら言った。
「でも幽々子が正しいわ。そうね……今のところ彼女は牢に繋いでいるけれど、どうしたらいいんでしょう。……どうしよう、ああどうしよう、どうしよう……ああどうしよう、ああどうしよう」
そう呟きながらふと首絞め痕をなぞる手つきがなんとなく情を感じさせるものだったので、幽々子は少しやっかんでやりたい気分になって、つい言ってしまった。
「……殺してしまえばいいのに」
「幽々子様!」
ついに妖忌が大喝した。それだけで、幽々子はびくりと震わせた体を縮こめた。緊張で腕が硬直し、蟷螂がか細い首を守ろうとするような格好になった。
「ごめんなさい」震える声で幽々子は言った。「わかってる。わかっているわ。わたし悪い事を言ったの。ごめんなさい、ごめんなさい……」親から咎めを受けた子供のように謝り続ける声は、なにか別の相手、別の時間軸に向かって呟かれているようだった。
妖忌は気まずそうに主人を慰め、紫の方に頭を下げた。
「失礼しました。この方は私に叱られるといつもこうなってしまって……」
「生きている以上、誰しも嫌な思い出というものはあるものです」紫はぼんやり呟いた。「私はあの子に死ねと言いました」
幽々子と妖忌は、その告白を聞いてぎくりとした。
「戦場で、死んで私を救えと言いました。しかし彼女は生き、生きることで私を救ってくれた。どうしてそこまで尽くしてくれたのかは、私でも理解の及ぶところではありません。……しかし心の奥底の部分では、きっと葛藤もあったでしょう。いずれにせよ、彼女の心をあそこまで歪めてしまったのは、私です。それでも彼女は私に尽くしてくれた。でも、だからこそ、最後には狂って私を殺す他になかったのでしょう」
結局、彼女は式神を貼られて、その人格と狂気を押し込められつつ、その後も紫に重用され続けた。八雲の姓に藍という名前も授けられた。そうした経歴を経た彼女は、今では紫にとって忠実ではあるが、いささか気の利かない従者になっている。
それについて八雲紫が内心どう思っているかは、推し量りかねるものがある。
やだなこれ
良かったです
厭な感じでした
藍と紫たちが織りなす敗戦処理の一幕をここまで書ききった作品は見たことがありません
情け容赦なくどんなことだってしようとする二人が最高に素敵でした
ただ少し藍を中心に描きたいのか軍記ものをかきたいのかちょっとわかりにくく
かと言って両方を書くには少し唐突なところもあったように
少し変わった八雲の過去話として
楽しめました
善人はひとりもいないし、かといって全員根っからの悪人でもない。浮かばれない…