Coolier - 新生・東方創想話

廻る夏のインカーネイション

2022/03/17 14:44:02
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白いペンキ塗りの看板に、遠い町の名前が生真面目な均等さを保って並んでいる。
塗装は点々と剥げて古びた木の地肌を覗かせているけれど、夏の日差しはそれをまるで鏡のように眩かせた。
自分の街から数えて八駅目、一番端の終点を見るのが好きだった。
それは他の駅とは違い、漢字が三つ、数字が四つ並んだ姿でそこにいた。難しい漢字も含んでいて、正しい読み方は見当がつかない。
数字は少なくとも千円札と幾つかの硬貨が必要なことを意味していた。それは途方もない金額で、その駅だけが四つの桁を持っていることは何か特別な意味があるのだろう。
根拠はまるでないけれど、そこはきっと煌びやかな繁華街か、人と車が忙しなく駆け巡る都会か、海外から運ばれてきた珍品で溢れる港町なのだと思う。
頭の中を巡る知らない三文字の街は毎日のように色を変えながら、いつだってぼくの胸をざわつかせた。

「まだ子供だから」

ことあるごとに、大人たちはそう言った。
爪先で立って券売機の一番上へと腕を伸ばすぼくを、彼らは大きな手で遮るのだ。

「どうして?」

ぼくの問いかけに答えることなく、大人たちは呆れたような顔をして立ち去っていく。まるでぼくが駄々を捏ねたかのように。
ぼくは飽き飽きしていた。いつまで「子供」でいなくちゃいけないんだと腹立たしかった。
「子供」であることは、ぼくの衝動を止める理由になるとは思えなかった。

苛立ちは、なぜだかそのとき履いていた靴に向かった。
それは大人――とうさんに買ってもらったものだからだろうか。
学校の屋上は十分な助走をつける広さがあり、タイミングよく吹いた追い風を合図にぼくは走り出す。
風はその背を捉えて止むことはなく、しっかりと脚を踏みしめないと宙に浮いてしまいそうだ。幸い地面は硬く、重力がぼくを見放すことはなかった。
耳の隣を風がすり抜けていく。それは山の頂上のように透き通り、潮風のように爽やかな香りがした。
その数歩の間、世界は紛れもなくぼくに味方していた。躓くことはなく、風向きが変わることもない。ぼくの一存にあらゆる事柄が同調して、ただ進むことを肯定していた。
会心の一瞬、靴を右脚から蹴り放つ。靴は一切の摩擦なく、爪先をすり抜けて宙を翔けた。
勢いのまま倒れ込む身体を鑢のような床が受け止める。熱と砂埃を湛えたざらつきは人が寝そべることを拒んでいるみたいだった。無骨なコンクリートの棘が肌を掻いて、その痛みがぼくを全能感から程よく揺り起こす。
靴は青空の彼方に吸い込まれるようにしてどこまでも昇る。その上昇は驚くほどに果てしなく、爪先はいつまでも重力を蹴り潰した実感に酔っていた。呼吸を整えながら、初めて触れた自由の名残を噛み締める。
やがて無防備に仰いだ目を太陽が刺して、空飛ぶ靴の追跡は打ち切られた。瞬きのあとも空は果てしなく広がっていて、風は称賛するようにぼくの髪を撫で乱していた。
それからぼくは回る鳶の軌跡を追い、雲の形を猫に喩え、床の罅割れを埋める護謨を爪で削いだ。どれだけ待ってみても、遂に靴が落ちてくることはなかった。
ぼくの右足はこの星の引力を超えられたのだろうか。

「どうしたの、これは!」

土まみれの片足で帰宅すると、当然ひどく叱られた。
靴下は踵が丸く破れ、露わになった素足が帰路の床土で黒く滑っている。振り返れば丸い押印が点々とぼくの後を追っていた。
洗面所に駆け込んだかあさんが、真っ赤な顔をして濡れた雑巾を投げ寄越す。

「なんとか言いなさい!」

そう言われても、理由なんて分からない。ありのままの気持ちを吐き出せたとしても、それを理解してもらえるとは思えなかった。
ぼくは俯いて「ごめんなさい」と小さく呟く。そうすることで全てが有耶無耶になればいいと思った。
それからもっともな叱責を黙って受け入れながら、ぼくは心の中であの靴が遠い宇宙を漂流している様を想像していた。
物持ちの悪さを咎められても、素足で帰ってくる神経を詰られても、叱り手が途中から帰ってきたとうさんに代わっても――無数の星々の中をぼくの薄汚れた靴が静かに泳いでいる光景は変わらず可笑しくて、音も空気もない世界の空想はそれぞれの怒号を幾分か掻き消してくれた。

「行ってきます」
「もう失くすんじゃないぞ」
「ごめんなさい、分かってる」

翌日には新しい靴で登校することになった。
それはやっぱりとうさんが買ってくれたもので、小さな反逆に浮かれていたぼくは改めて「子供」であることから逃げられないんだと悲しくなった。
白い爪先で小石を水田に蹴り落とす。新品の靴はひどく窮屈で、小指が締め付けられるような感じがした。
鼻の奥で何かが弾けて、その破片がつんと刺さる。こみ上げた涙を飲み込んだのは、ここで泣きじゃくるのは少なくとも「子供」のすることだと知っていたからだ。

「やあ」

その子に出会ったのは、そんな夏の日だった。
白い素足が跳ね上げた無数のきらめき。熱に揺らめく空気の中を、虹色の滴がゆっくりと水面に還っていく。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、露草色の瞳がぼくを見た。
すべての光が水面に落ち、無数の波紋が脈を打つ。
彼女は少し驚いたような表情をして、ぼくは曖昧にはにかんだ。警戒する彼女に、ぼくはできる限りの柔らかい口調で問いかける。

「君、名前は?」

狭い村だ。同級生とその兄弟姉妹はもちろん、どこの家の親戚の子が遊びに来るといった情報は普通どこからか耳に入るものだった。
その子がもつ若草色の髪、青い洋服、日焼けのない白い肌……。そのどれもがこの村には珍しく、けれど都会者特有の奇抜さも感じない。彼女にまつわる色合いは、どれもこの野山にありふれたものだった。
その肩で陽炎が揺れる。半透明の覆いは彼女自身の肩から生えており、それはぼくの知る限り人間のものではなかった。

「……妖精!」

意を決したように彼女は答えた。
その声は淡く澄んだ響きで、周りの音を掻き消すような音色は軒先で鳴る風鈴に似ていた。
茹だるような日々に吹き込んだ微風。凛と高く、胸の音を聞く。
誰に遮られたわけでもないのに声が詰まり、跳ね返っては肺のあたりに音を立てて落ちた。その瞬間、ぼくはあれほど憎かった大人たちの言葉を初めて呑み込んだ気がした。
悔しいけれど彼らは正しく、自分はどうしようもなく「子供」だった。
だって、それがいけないことだと知っていたから。

ぼくは彼女に恋をした。







目を覚ますと、ぼくは野原の上にいた。

「…………」

眠っていたのだろうか。
目覚めを確かめるように瞼を擦ってみる。ぼやけた視界の端で、どくだみの白い花が淡い日陰に揺れた。
それまでの記憶があまりない。まるで頭の中が空っぽになったみたいだ。
けたたましい蝉の声が、鼓膜を通じてがらんどうの頭蓋を揺らしていた。
こんな騒々しい中で眠っていたなんて驚きだ。みんなぼくのことをのんびり屋だと言うけれど、案外それは正しいのかもしれない。
身を起こし、腕を掴んで伸びをする。首のうしろが緩むような感じがして、背骨が小さく音を立てた。
欠伸を吐きながら空を仰ぐ。日差しを遮る新緑の天蓋と、その彼方に雲ひとつない空が広がっていた。
涼しく吹き寄せる風、青いさざめき、柔らかな大地の敷布団。騒々しい蝉の歌も、夏をかたどる調和のひとつに感じられる。
この場所はこんなにも穏やかで心地いい。少しくらい眠ったっていいじゃないか。
湿った泥の匂いをまとう風が空を覆う木の葉を揺らして、間近に迫る太陽が寝惚け眼に瞬いた。

「ノム?ナオキ?」

呼びかけに返事はない。足の早い友達は、みんなぼくを置いてどこかに行ってしまった。
それは今に始まったことではなく、ノムはとにかく走るのが好きで、ナオキは秘密の基地を作りたがる。ぼくは捕まえた虫や空に漂う生き物を眺めていたいから、時折こうしてばらばらになってしまうのだ。
寂しいとは思わない。みんなきっとそう遠くない場所にいる。
幼い頃からずっと駆け回ってきた野山。飽くなき冒険を経て、その全てを熟知したぼくたちにとって、はぐれることは然して珍しいことではなかった。
合流できればそれで、できなかったらまた明日。
青く乾いた空はきっと明日も晴れ、夏はどこまでも続いていく。

「……そうだ」

眠気を払い、冒険の続きを思い出す。
ぼくはずっと、この山で"妖精"と名乗る少女を探していた。
初めて出会った水辺、颪に削られた岩場、"空狸"の縄張り、出来損ないの滝、紅葉の溜まる神社跡……彼女と過ごした数々の場所を廻りながら。
この野原もそのひとつ。彼女はぼくの隣で寝そべりながら、どこかで啄木鳥が樹を叩く音を数えるのが好きだった。それはまるで"妖精"が鳥の言葉を訳しているようで、不規則に刻まれる数字は穏やかな歌のように感じられた。
そしてほとんどの場合、最後の数を聞くことなくぼくは眠りに落ち、日暮れの前に揺り起こされた。

「行かなくちゃ」

ぼくは虫網を手繰り寄せて身を起こす。その穂先で白い網が空を捕らえ、果敢な旗印のように膨らんだ。
麦藁の帽子もあった気がするけど、それはどこにも見当たらない。眠っているうちに風に飛ばされて、何処かへ行ってしまったのだろうか。
かあさんの顔が思い浮かぶ。それは怒っているようでもあり、呆れているようでもあった。
ぼくはかあさんほど夏の日差しが嫌いではない。失くしてしまうくらいなら、あんなものは最初からいらなかったのに。
時間を超えて今から小言が聞こえてくるようだった。
ぼくは溜息を吐いて、憂鬱な気持ちとともに背中に貼り付いた草を払い、再び"妖精"を探し始めた。



横たわる枯れ木を抜けて山道に出ると、"虹の子"を見かけた。
それに出会うのは久しぶりだった。以前はよく見かけたものだ。
それはひだ状の脚を燻らせて宙を漂う糸のような生き物で、個体差はあるけれどおおよそぼくの掌と同じか、それよりも小さい。白く肉感のある体は、虫というよりも茸の類に似ていた。
そして不思議と、それがたくさん集まる場所には決まって虹が架かるのだった。

「光を食べてるんだよ」

かつて"妖精"はそう教えてくれた。特に虹色のものを好むのだと。

「"虹の子"が虹を作ってるわけじゃないんだ」
「むしろ逆だね」

"妖精"はそう言って笑った。
それは激しくて短いにわか雨が降った後で、空にはこれまで見たことのないほどの大きな虹が架かっていたのを覚えている。それはどれだけ洗っても褪せない落書きみたいに、強い輪郭と彩度を保ちながら空と大地を繋いでいた。

「虹がすぐ消えるのは、この子たちが食べちゃうから」

見上げれば数え切れないほどの"虹の子"がぼくらの視界を埋め尽くしていた。彼らは全身の襞を揺らめかせながら、稀に見るご馳走を目指して空を泳いでゆく。
虹を生む神秘の生物という付票が剥がされたことは、ぼくに悲しい衝撃を与えた。
いつしか自分の中に住み着いた生物博士が恥ずかしげに萎んでいく。ぼくと同じ顔をした彼は"虹の子"の名付けの親であり、根拠のない憶測を信じ込む癖があった。
落ちる目線を拾い上げるように、彼女は問いかける。

「虹を生んでるほうがよかった?」
「うん、そっちの方が夢がある」

ほとんどの場合、現実は夢よりもつまらない。
不意に漢字三文字の駅の名前が連想された。その本当の名前にどれほどの価値があるだろう。
知らないほうがいいことは、案外身近に溢れている。

「そうだね、私もそっちの方が好き」

頷く”妖精”の前髪が笑顔に細む睫に重なる。ただそれだけのことが、走り出したいほどに愛しい。
不意に一匹の”虹の子”がぼくらの間に割って入る。ぼくは彼女に手を伸ばし、その頬に近付く糸屑を追い払った。
人の接触をひどく嫌うその生き物は、彼女の頬に映る虹の反射を啄ばむことなく空を追う。

「知らなかったら、多分こうして追い払うこともなかったんだ」

彼女の頬を掠めた手は春を掻いたように温かく、ぼくは灯る指先を掌に握り締めた。それは滲んだように汗ばんでいて、妙に恥ずかしかったのを覚えている。
空を仰ぐ"妖精"の瞳に宿った無限の光彩。それは青と赤の中間にあって紫ではなく、元の緑に融けて波打ち、漂っていた。その色は常に姿を変え、名前に縛られることを拒んでいるようだった。
この瞬間にもお腹を空かせた"虹の子"が七色の光を食い潰していく。それは子供じみたことだと知りながら、ぼくは永遠を願わずにはいられなかった。
その瞳にたゆたう色彩を見つめる時間。奇跡のような空を見上げる時間。
手の中に宿る温もりを握り締める時間。"妖精"にかける言葉を探す時間。
どれかを選べばどれかを取りこぼしてしまう。残酷な現実に目を回しながら、ぼくはどれを取るともなくそれらの間を放浪する。
このまま世界の全てが収束し、自重に圧し固められて小さな宝石になってしまえばいいと思った。

「…………」

それ以来、ぼくはあの景色を齧り尽くしてしまった白い糸を憎んでいる。
それは今も変わらず、虫網を伸ばすと"虹の子"は慌てたように螺旋を描いて宙へ昇り、やがて見えなくなった。

「またここで待ってる」

あの時、"妖精"はそう言った。
やがて消えてしまう光と無数の羽ばたきを背に、明日を約束してくれた。
だから今日もぼくはその場所を訪ね、日ごと消えてしまいそうになる彼女の面影をなぞっては掘り起こす。
彼方の山々を俯瞰できるこの丘は昔からのお気に入りで、"妖精"もそれを気に入った。だからぼくはもっとこの場所が好きになった。
二人で腰掛けていた岩は今もまだそこにあり、頭上の樫も変わらぬ陰を落としていた。
黄色のリボンを揺らした風の音すら思い出せそうなほど焼き付いた記憶。それは今も色褪せることなく、ぼくの心に柔らかくもざらついた質感で触れた。
彼女は既にこの村にはいない。ぼくの知らない遠い所へ去ってしまった。
心のどこかでは理解しているけれど、それでもぼくは彼女の足跡を探し続ける。あの日の約束とこの気持ちを、自分の側から途切れさせたくなかった。
陰に凍えた岩肌が触れる手から熱を吸う。虹のない空を雲が往く。丸々と肥えた栗鼠の艶やかな瞳が嘲るようにぼくを見ていた。
虹と少女だけが抜け落ちたこの場所はひどく静かで、まるで時が止まったみたいだった。空も、大地も、ぼく自身も。
あるいは取り残されたのだろうか。誤魔化しようのない孤独と静寂はあの日望んだ永遠に似て、ぼくをひどく惨めな気持ちにさせた。
岩に背を預ければまた眠ってしまいそうだ。背中を自然に触れさせ、その地と同化することはやり場のない気持ちを処理する数少ない方法だった。先のうたた寝もその類だったと今更思い出す。
また眠ってしまうわけにはいかない。数時間のうちに日が暮れ始める。
夕飯の時間もあり、あまりかあさんに心配をかけるわけにもいかなかった。
ぼくは岩を降り、虹のない空が続く帰路に就いた。最後に一度振り、何かがこの背を引きとめてくれるのを待ってみる。
もちろんそこには誰の姿もなく、陰の差した白岩と樫のさざめきが哀れむようにしてぼくを見ていた。





「今日はどこに行っていたの?」
「別に……」

素っ気ない返事――にならないように、ぼくは少し気を遣った。
正直に答える気はなく、その後を続けるつもりもなかったので胡瓜を咀嚼して「今は口が塞がっている」と暗に主張する。

「素っ気ないんだから」

ぼくの配慮はうまく機能しなかったようだ。
噛み砕いた胡瓜を飲み込んで、補うように答えた。

「ちょっと散歩だよ」
「あんまり心配かけないでね」

かあさんは小皺に下がった目元を落としてそう言った。口の端から漏れた溜息の音を聞く。
ふとした瞬間に、その人の老いが目に付く。世話ばかり焼かせている自覚はあった。
労いの言葉のひとつでもかけてあげればいいのだが、やっぱりどこか気恥ずかしい。償うように、水の味しかしない胡瓜に向けて「美味しい」と呟いた。
心配する気持ちは分かるけど、ぼくだってもう大人だ。
西の溜め池、崖に続く竹薮、急に深さが変わる小川、蛇が出る畦道、崩れやすい岩場、麓の茶畑の怒りっぽいおじさん。"雨ふらし"が姿を見せると半刻のうちに雨が降るし、"尻切れ"が飛んでいる場所は獣の通り道なので近付かない。
どこに何があって、何が危険なのか。かあさんの警告よりもずっと具体的に、ぼくは自分の足であの山の全てを把握している。
もちろん"妖精"のことを話そうとは思わない。彼女がいわゆる人間とは違うことは理解していたし、何より恥ずかしかった。
あるいは胸の中に確かに灯る気持ちを蔑ろにされることが怖かったのかもしれない。いずれにせよ、かあさんはぼくの気持ちを理解してはくれないだろう。
沈黙を埋めるように、やっぱり水っぽいお粥の端に口をつけ、音を立てて啜った。

「明日も出かけるの?」

もちろんそのつもりのぼくは頷く。かあさんは「そう」と呟いて、頬の皺を深めながら蕩けた米を噛んだ。溜息を形にしたような声色だった。
かあさんは、ぼくが遊びに出歩くことを快く思っていない。じっと座って勉強でもしていてほしいのだろう。
かあさんには悪いけれど、ぼくは自分が立派な学者になれないことを知っている。
勉強は好きではないし、どれだけ必死になって覚えたことも夕食の頃には忘れてしまう。先生たちは口うるさいだけで、何を言われても素直に聞こうとは思えなかった。
学のないぼくは畑を耕しながら、のんびりと生きていければそれでいい。
少なくとも、こんな水っぽいだけの胡瓜は作らないつもりだ。

「ちゃんと夕方には帰ってくるからさ」

許しを請うような気持ちでぼくは言う。何かを諦めたような沈黙を前にして、咀嚼音を立てるのはばつが悪かった。

「だったらいいんだけどね」
「さすがに夜の山はぼくだって怖いからさ」

かあさんは満足していない様子だが、ぼくなりに義理は果たしたつもりだ。もっと上手に嘘を吐くか素直になれたらいいのだろうが、どちらも難しいことだった。

「あんまり心配かけないでね」

かあさんは繰り返す。
ぼくは申し訳なさを覚えながらも誓うように頷いた。



次の日も山に出た。
昨日足を運ぶことが出来なかった川辺、岩場、葦が伸びる草原……。
どれもが"妖精"と過ごした日々の延長線にあった。ぼくはそこで記憶を手繰りながら佇み、耽り、大地に背中を預けて、たまに眠った。

次の日も、また次の日も。

繰り返されてゆく毎日。一続きの空は同じように晴れ渡り、いつだってぼくの探索を迎え入れた。
初めて"妖精"と会った川の水に素足を浸しながら彼女を探す。山の中腹にあるこの場所まで登ってくるのはさすがに疲れるけれど、今日こそその場所に彼女がいるかもしれないと思うと無理な距離ではなかった。
水流に歪む足元に"川雪"が生じて流れてゆく。"川雪"は川に踏み入った動物の熱を食べる綿状の生き物だ。
食べられるのは水に溶け出したほんの僅かなもので、別段危害はない。無数の綿が触れる足首は小さく冷えて心地よかった。それは魚のように泳ぐことができないので、出現するなり水流に浚われて去ってゆく。力なく川下へ落ちてゆくその姿を雪に喩えたのは、我ながら風情があると思う。
"川雪"が姿を見せるのは珍しいことだ。最後にそれを見たのはいつだっただろうか。
"妖精"と、その白い素足を思い出す。彼女は"川雪"を呼ぶのが上手く、その足元からは無数の輝きが生まれては流れていった。
ぼくは彼女に教わったように、両手を擦り合わせて水に浸す。瞬く間に"川雪"が群れて、摩擦で生じた温度を啄ばんだ。
思えば、こうするのも随分久しぶりな気がする。"川雪"が珍しいわけではなく、単にぼくが川の水に触れる機会が減っただけかもしれない。
しばらく餌をやってから岸に上がる。手拭を持ってくればよかったと思っている間に、真夏に照らされた花崗岩が濡れた足をすっかり乾かしていた。
靴を履いて、川沿いを下る。この先にある橋の麓で、ぼくたちは日差しを凌ぎながら珍しい石を集めたりした。そこで見つけた翡翠の破片は"妖精"の瞳の色に少し似ていて、未だに机の引き出しに仕舞ってある。
そこを過ぎれば立ち枯れの杉、"空狸"のねぐらである滝、そして再会の約束をした虹の丘へと続く。
無数の蝉の声が、鈍間なぼくを追い立てている。
それは日に日に強くなり、ぼくは逃げるように足を踏み出した。丸い石は中央部分を踏まないと重心が傾いて転んでしまう。ぼくは慎重に、頂点から頂点へと足を置いた。
当たり前のようだけど、この夏はいつまでも続くわけではない。
永遠などないということをぼくは知っていた。あれほど大きな虹が無数の糸に食い尽くされてしまったように。
世界は儚く、刻一刻と変わっていく。

「分かっているさ」

誰もいない河原に向かって吐き捨てる。狂騒めいた叫びは答えることはなく、ただぼくを追い立てる。
そうとも、彼らの言う通り。
いつまでもここにはいられない。
すっかり履き潰した靴とともに、ぼくは次の思い出へと急いだ。





それでも明日はやって来る。
空は同じように明けて、またぼくは歩き出す。
何度も、何度も。

川の畔で石を投げ、季節はずれの蝶に網を翳し、紫陽花が枯れてゆくのを見送り、額に滲んだ汗を肘で拭い、朽ちた樹のうろ穴に”水落”を見つけ、清流で手を洗い、結露に塗れたボトルの麦茶を飲み干し、夕暮れに鴉の声を聞き、滝の裏をくぐり、悪茄子の蔦を払い、乾涸びたもぐらに土をかけ、苔生した階段を下り、空に漂う糸を追い、突然足元を這った百足に飛び上がり、落ちた瓦に躓き、通り雨に降られ、打ち捨てられた祠に青い椛を添えて、樹に宿る蝸牛の甲羅を弄び、架橋の淵に脚をばたつかせ、崩れそうな積み石を見送り、抜け殻になった蝉を踏み砕き、拾った硝子片を空に透かし、人懐っこい野犬に餌をやり、幼い筍を掘り起こし、”茨角”の先端に石を投げ、際どい斜面を滑り落ち、打ち棄てられた小屋に潜み、子連れの雌鹿に出会い、白菜の虫食いを呪い、夜露に塗れた坂を上り、大地に背を預けて眠り、伸びすぎた枝を手折り、奇妙な模様の茸をつつき、腕に留まる蚊を潰し、沼から吹く風の生臭さを浴び、伸びすぎた爪を噛み切り、”歩き馬”の尾を畳み、シャツに溜まった汗を搾り、半透明の月の軌道を仰ぎ、湧き水を頭に被り、啄木鳥の歌を数え、粒立った実を無為に摘み、”綿食み”の穂先を弾き、黒く湿った腐葉土に団栗を撒く。

飽きもせずに日は巡り、同じようにぼくは往く。
何度も、何度も。

何度でも。





その変化は不意に起こったようで、けれど抵抗はなかった。そうなることは心のどこかで分かっていたし、ともすると待ち望んでもいた。
地表に溢れた"砂苔"を避けて足を踏み出した。いつもと違う歩幅に膝が揺らぐ。
あわや転びそうになったぼくを虫網の先端が支えた。よろめく脚は、それでもぼくを地面に立たせ続ける。
息を吐いて空を見上げる。"虹の子"がひらりと身を躱してぼくの視線を通り抜けた。
"蜘蛛糸"が虚空を掻いた指の先で閃く。それが繋いだ片方の樹の幹に"眠り蜂"が樹脂の巣を作っている。風が吹くと"旋毛"の尾が灰色の螺旋を描きながら、その後を追うように駆け抜けた。
溢れかえる半透明の生き物たち。あらゆる場所や現象に付随して、無数の神秘が世界に満ち満ちてゆく。

「久しぶりだね、みんな」

ぼくは幾度も重ねた探索から、その全てを知っていた。
"瓦沈み"が地を蹴って"雲打ち"が天を仰ぐ。野苺を食む"立ち蛇"に"あま泡"がお零れに預かろうと集い、その葉先から"摘み蟻"が飛び立った。その小さな生命たちはどれも、いつしかぼくの世界から姿を消していたものだ。
さっきは避けた足元の"砂苔"を、今度は踏みつけた。地面に次々と版図を広げていくそれを避け続けるのは難しく、おそらく無意味なことだった。
それは水溜りの際のような感触で小さく沈んでぼくを迎え入れる。その感覚は懐かしく、それでいて親しみがあった。
それは当然のことだ。昨日も一昨日も、ずっとずっと、ぼくはその上を歩いてきたのだから。
山に入るといよいよ生命たちは際限なく溢れ、あらゆる景色を埋め尽くしていた。
大地を空を、草を樹を、岩を砂礫を、風を光を土を水を――ありとあらゆる何もかもを。
それは混沌めいていて、けれどもおそろしく緻密な調和の上に成っていた。
ひとつを摘めば一斉に崩れてしまうほどに脆く、けれどきっと何者もそれを害することはできない。神秘の覆いは軟い沈みとともにぼくを受け入れ、虚構の彼方は積み重ねた日々とひと繋ぎの空を、連れ去るように結ぼうとしていた。
確かな予感がした。
虫取り網を投げ出して、衝動のままにぼくは走り出す。
こんなに早く走るのはいつぶりだろうか。自由になった両腕で、掻き分けるようにして調和の渦の中を進む。誰もそれを咎めることはない。もう振り返ることのない背中の向こうで、幾度もぼくを支えてくれた黒壇の持ち手が別れを告げた。
脚が震えて膝が軋んだ。何度も転びそうになるけれど、それでも齧りつくように次の足場を掴み続ける。それは丸い石の上を歩くよりも少しだけ難しかった。
足の早い友人たちはこのようにして走っていたのだろうか。
随分待たせてしまったけれど、ようやく彼らに追いつける気がした。

「こんなに大きな"枝魚"が!」

樹の上からぼくを見下ろす鱗の塊を目に焼き付ける。
泥鰌に似たその生き物は極めて珍しく、特にこんなに大きい個体は初めてだ。宿る枝から垂れた尾はその下を駆け抜けるぼくの頭を掠めるほどだった。その姿はきっといい土産話になるだろう。
けれど彼らにとって、そんなものは既にありふれた光景なのかもしれない。
だとしたら友人たちは、ぼくの鈍間を笑いながらどんな冒険を語ってくれるのだろう。
そして、ぼくは負けじと語るのだ。ここに至るまでの旅の話、一人の少女をめぐる永遠の夏の物語を。

「お待たせ!」

それはずっと考えていた台詞で、けれども不思議といつもと同じものだった。
"妖精"はそこにいた。額の汗を拭って、ぼくは半透明の翼をもつ背に呼びかける。
彼女は白い岩に腰掛けて、連なる山々の彼方に虹を探していた。
吹き抜けの空から落ちてきた風が若草色の髪とそれを束ねる黄色のリボンを揺らし、懐かしい香りを乗せてぼくに触れる。

「ううん、全然」

どれだけこの瞬間を希っていただろう。ぼくは肩で息を整えて、頬から額へ汗を拭う。心臓が暴れるように脈打って、けれども心はどこか冷静でいた。まるで自分が二人いるような不思議な感覚だ。
振り返る"妖精"はあの頃と何一つ変わらない姿で微笑んだ。小さな翼がひらめいて、半透明の彼方に青空を映し出す。
周囲の雑音を吸い込むような鈴の音は、あの頃と同じようにぼくの鼓動を高く鳴らした。
落ちる滴の代わりに揺れる樫の葉が彼女を照らし、翡翠に似た瞳がぼくを見る。
二人分の座席、飛び交う生命、夏の日差しとさざめく陰。あの夏の続きは今も変わらず、ぼくが望んだ永遠のかけらは未だその場所を彷徨っていた。

「来てくれてありがとう」
「約束、だから」

覚束ない手を取って"妖精"はぼくを迎える。相変わらず白く繊細な指先が、日に焼けてくすんだ手を包んでいた。”川雪”が好む体温は柔らかく、触れた傍から熱を帯びる。
確かにそこにある感覚。ずっと忘れていた、懐かしい温もり。

「あんまり時間は多くないみたいだね」

繋いだ手から何かを読み取り、”妖精”は言った。
ぼくは同意する。彼女の言うとおり、残された時間は多くない。割れた砂時計は既に逆さを向いていて、一定の速度で世界を削り取っていく。
永遠めいた世界は、そのなり損ないを強く拒んでいた。水の中では息はできないものだ。

「気付いてた?私がずっとここにいたこと」
「……ごめん」

それに気付いたのはつい先程のことだ。ぼくは正直に頭を下げた。
その事実は残酷なようで、けれど決して受け入れがたいものではなかった。

「心のどこかで、合図があると思ってたんだ」
「合図?」
「ある日目覚めたら、家族や友達がぼくを囲んでいて、そのうちの何人かは馬鹿げた仮装なんかをしていて……」

ぼくは続けた。

「みんなぼくを祝いながら、腕時計や髭剃りなんかをくれるんだ。減らない電池と、削れることのない刃の……」

腕時計の中に、小さな電池が入っているなんて知らなかった。剃刀の刃が、あんなに簡単に磨り減っていくなんて知らなかった。
それらは根拠なく、同じ永遠の魔法にかけられているような気がしていたのだ。

「大人になるって、そういうことだと思ってた」

ずっと、ぼくは思い違いをしていた。
”妖精”は、姿を消したわけではなかったのだ。それは極めて自然なことだった。
現実は音もなく忍び寄り、そっとぼくを夢から引き剥がした。それは夜が明けて朝が来るように前触れなく、青空に蹴り上げられた靴のように無責任に。

「約束を忘れていたのは、ぼくの方だ……」

そうしてぼくらは別たれた。
気付かぬうちに大人になっていたぼくは徐々に夢を見なくなり、幻想への扉を閉ざした。神秘で溢れた山は変わらずそこにあったけれど、それらを認識する術を失ってしまったのだ。

「そう、ずっといたんだよ。君の隣にね」

“妖精”は身体を傾けて、ぼくの肩に体重を預ける。それは稲穂のように軽くて柔らかく、陽炎のような翼がぼくの背中で揺らめいた。
溢れ出した生命、虹に照らされた季節。ぼくらはここで、ずっと同じ景色を見ていたのだ。
“妖精”は穏やかな風に翼を燻らせながら、琥珀色に病んだぼくの爪を撫でた。

「それは仕方なくて、当たり前のことなんだよ」
「でも……」
「それでも君は来てくれた」

"妖精"は人差し指を口元に当ててぼくを制し、覗き込むような笑みで陰りを照らす。

「今も、今までも」

樫の木の葉がさざめいて、その隙間から光が降り注いだ。
"妖精"の髪を撫でながら、風が重なる肩をすり抜ける。
運ばれるようにして現れた"虹の子"が、伸ばした手に身を翻した。

「"妖精"――」

ぼくはもう「子供」ではない。
それはずっと分かっていたことだ。
鍵盤みたいに並んだ駅の表示、その一番端。
三文字の漢字の読み方を、ぼくはもう、知ってしまっていた。

「好きだ。ずっと、君に恋していた」

抱き締めた"妖精"の身体は暖かく、過ぎ去った春の匂いがした。
その瞬間、何かが弾ける音を聞く。永遠の夏の魔法が終わる音だった。
世界が大きく罅割れて、縫い止められた時間は動き出し、あるべき季節が滲み出す。それは少なくとも、茹だるように眩しい夏ではなかった。
ぼくはもう、お札も硬貨も、券売機が吐き戻すくらい入れることができる。一番右上のボタンを押すために背伸びをすることもない。誰もぼくを遮ることはなく、靴だって自分で買えてしまう。
もう汗ばむこともない手が、木漏れ日のような髪に触れた。
そして、ずっと反芻してきた言葉は途切れた。煌びやかな言葉、ありのままの想い、そして少しの照れくささを誤魔化す冗句……手作りの花束が詰まっていたはずの部屋は空っぽで、まるで最初から何も用意していなかったかのようだ。
きっと、無数の蝉の合唱が全てを押し流してしまった。
嗚咽に詰まった喉が震える。不器用な床が撓み、何年も編み続けた言葉に代わって涙が溢れ出した。

「うん……」

"妖精"もまた、ぼくの背を抱いて応えた。
灰色に間引かれた髪を梳き、皺と日差しに汚れた頬へ触れながら。
受諾でもなく拒絶でもなく、何よりも優しい答えだった。
それは最初の恋で、最後の友情。縋るように信じ続けた願いが叶う場所。
ぼくらの間は何一つ綻びることなく、時の砂が零れるままに崩れ始める。夢に囚われた生涯と、骨に被さる褪せた皮。剥がれ落ちた幻想が瞬きながら空の彼方へ吸い込まれてゆく。

「私を見つけてくれてありがとう」

ぼくは頷いた。言葉を添えようとしたけれど、声は既に失われていた。息を止めて溺れるようにして幻想に縋り、強くその背中を抱きしめる。
涙に霞んだ視界の彼方、光を食む無数の糸が空を昇り、四散した残照を呑み下してゆく。それは彼らの好む虹色ではないけれど、それでも羽ばたく霞は貪欲にその光を追った。
溢れる混沌たちはそうして消えてゆく。音にならない嗚咽は脈を打ち、暴かれた虚構は塵に還る。"妖精"に触れた手が空を掻いた。
淡い春の匂いは遂にぼくの中に染み渡り、温かい滴となって流れ出す。
そうして幻想は押し流される。現実がやってくる。隙間を埋めるように染み渡るそれはいつだって色褪せていて、苔のない道だけが続いていた。
折れた身体を岩が抱きとめる。
吐いたつもりの息は赤い塊となって現れた。それはまるで水のようで、何の味もせず熱を帯びてもいなかった。
ぐらつく視界を仰向けにして天を仰ぐ。背中越しに試みた夢への交信は二度と結ばれることはなく、けれど久方ぶりの曇天はさほど悪いものではなかった。
蝉の声だけが、今もぼくを捕らえて離さない。
彼らは狂ったように歌い続けていた。誰もが立ち去った後にも、夏の終わりを忘れたように。





目を覚ますと、ぼくは白い部屋にいた。
天井、壁、そこにいる人々、ぼくを包む布団。そのどれもが示し合わせたように白く、煤けたように霞がかっていた。それらは多分、やがて黒くなるためにその色をしていた。
意識はあり、電子化された鼓動が晒しもののように小さく波打っている。全てが曖昧だけれども、ここが最期の場所ということは何となく理解できた。
起き上がることは叶わなかった。胸から下の感覚がなく、ぼくの身体は既に役目を終えたらしい。丈夫なのをいいことに、最後まで無理をさせてしまった。
蝉が鳴いている。
広がり続けるぼくの頭の中の隙間に棲むそれは、架空の羽根を震わせて訪れることのない夏に呼びかけていた。
その向こうで、かあさんの怒号が聞こえる。ああ、最後まで心配をかけてしまった。
この期に及んで、足繁く初恋の面影を探しに出掛けていたなんて知ったらどんなに怒るだろうか。
幸いにしてぼくは全ての言葉を吐き終えてきた。いつからか萎みきってしまった喉は誠実で、最期まで襤褸を出すことはないだろう。
かあさんには苦労をかけた。稼ぎも多くなかったし、子供も作ってやれなかった。畑の胡瓜はずっと水っぽいままだ。
埃の積もらない部屋、解れることのない衣服、色鮮やかな食事。繰り返される毎日。
ぼくを支え続けた地道な積み重ねに気付いていながら、これっぽっちも報いることができなかった。そしてぼくは最期まで後ろめたい秘密を抱えて、あんな寂れた家に置き去りにしてしまうのだ。優しくて生真面目なこの人の人生は、不出来な伴侶に食い潰されてしまった。
それなのに、どうして。虚ろな手の甲を熱が伝う。
強く握り締められた手はぼくを繋ぎ止めるように、涙混じりの叫びは呼びかけるように。その人は、こんなぼくをまだ側に置こうとしていた。
骨が蕩けて流れ出してしまったような果てにも、不思議と手は動いた。靄の端から白い姿の先生が、驚いた表情でぼくを覗き込む。
皺枯れたふたつの手が、互いを埋めるように強く結んだ。
この人といる間、ぼくはきっと「大人」でいられた。それはどこか淡白で、だからこそ変わらぬ熱を保ち続けたのだと思う。何もない我が家だけれど、橙の灯は今も灯っている。
ひどく不器用だったけれど、そして矛盾するようだけど、ぼくはこの人を愛していた。
どうか幸せであってほしい。おそらく残りの少ない人生だ。せめて零れ落ちる砂が優しい器に注がれることを、心から願った。
蝉が鳴いている。かあさんの声と体温が洪水のように音量を増してゆくそれと重なり、それから何かがすり抜け、そしてゆっくりと消えていった。



いつしか閉じた瞼の向こうに一筋の"虹の子"がいた。
手を伸ばすとそれは身を翻して、柔らかな羽根が擽るようにして指先を掠める。
それはぼくの手よりも少しだけ小さく、細い身体を折りたたむようにして掌に根を下ろした。
不思議な感覚だ。浮いているようで、落ちているような。そこが光なのか闇なのかも、眠っているのか醒めているのかも分からない。全てがどこか曖昧で、ただぼくの意志に従う小さな掌だけがあった。
さざめきは遠く、陽炎に揺らぐ意識の水面に溶けてゆく。
ゆっくりと編み上げる森は覚束なく、けれどいつか連なる山々を満たすだろう。
砕けた月日の名残にも、繰り返す夢は宿るのだろうか。

「お待たせっ」

懐かしい声が手を取る。
幾つかの風が背を押して、陽に焼けた石の川を伝って涙が落ちた。
彼女はいつもと変わらぬ笑顔を眩かせて、光が揺蕩う空気の中でぼくを呼ぶ。

「今日は何して遊ぼうか!」

いつか呑み込んだ言葉を携えて、導かれるままにぼくは走り出した。
これはきっと、廻り続けた日々の終わりの向こう側。
見上げれば空はどこまでも広がっていて、夏の太陽が尽きぬ明日を照らしていた。
お読みくださりありがとうございます。うつしのと申します。
大人と子供、愛と恋、生と死……重さを増しながら連なり続けた主題を、先日の脳内決議で看取られたい東方キャラ第一位に選ばれた大妖精に演じてもらいました。
生でもって無から来て、死でもって無へ還る。形を得てゆく幼少期と、形を失いゆく終末期、形なきものとの交信はその曖昧さの中でのみ叶うのだと仮定しました。
奇しくもそれぞれの期間は愛(養育/介護)のもとにあり、恋は創造期ともいうべき成人の特権といえるかもしれません。恋を知って少年は大人になるんだよ…的な。

叙述トリック的なものに挑戦してみたく、読み返したときに発見があるように細工したつもりです。以下はその一部で、もし面白いなって思うことがあれば遡って探していただけると頑張った甲斐があります。

がらんどうの頭蓋:老人である彼の脳は文字通り「がらんどう」に近い状態です。騒々しい蝉は夏の象徴であり、死んだ脳細胞がもたらすノイズでもあります。
足の早い友達:一般的には「足の速い」が正しく、ここでは先立っていった同級生たちを示唆しています。
かあさん:母と妻のダブルミーニングで、それぞれの記憶が混濁しています。どちらも覚束ない自分の身を案じる人の象徴。

くどくなってしまいましたが最後に、小説主体ではありませんが東方の二次創作で元気に活動しています。フォローなどしていただけると嬉しいなー。
Twitter→@Shino_0606

以上です。忘れがたい季節が、いつまでも私たちと共にありますように。
ありがとうございました。
うつしの
[email protected]
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コメント



0.150簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
幻想的な生物たちののどかで美しい響きのある名称や、「ぼく」の感性に心地よい雰囲気が漂っていて、没頭しながら読み進めました。年を取り寿命が近づくと徐々に子供に還るとはよく言いますが、「ぼく」が過去の思い出を想起して、淡い記憶に突き動かされて、そして見えなくなったものが濃く見えてきて、少しづつ最後に近づいているのだと思うと、感傷とでも言いますか、胸の内側に来るものがあります。幼いころの恋心と、大人になってからの愛は両方とも熱を持っていますが、在り方がまったく異なるもので、その対比が見事だと感じます。素晴らしかったです。
3.100サク_ウマ削除
素晴らしく美しい幻想賛歌でした。良かったです
4.100ヘンプ削除
とてもとても幻想的なお話をありがとうございました。僕の初恋を追いかけているのがとてもすきでした。
5.100Actadust削除
幻想の象徴たる大妖精と、その幻想を追いかけ続けた"ぼく"。
淡い恋心、記憶と現実の間で揺れ動く、ぼくの姿が実に印象的で、素晴らしいものがありました。最高でした。
途中、「子供にしては地の文が固いな……」と思ってましたが、すっかり騙されましたよ……叙述トリックも見事でした。
7.100南条削除
とても面白かったです
透き通るような素晴らしいお話でした
8.100めそふ削除
面白い話ではないけれど凄い作品だなってのが一番に思いました。常時といっても過言では無いほど情景と比喩を描き、全ての文章に深く意味を込めたような印象を受けました。大抵そういう文というのは偶に来ることでより印象的にかっこよく見えるのですが、寧ろそれを常に出し続ける事が余計にこの作品を印象深くしているのかもしれません。何より難しいですし。この作品はずっと妖精との思い出を懐かしんでおり、それをまた現地に行くことで体験しているのかなというような印象でしたがラストを読んだ事で「ぼく」が終末期に至った老人であり回顧に勤しんでいる状態なのだということがわかりました。この叙述トリックと言いますか、こういった作品がラストで印象が変わるとは思っていなかったのでとても意外で、良かったです。主人公が常に子供である自分を憂いていて、しかしいつの間にか自然と夢を失って大人になってしまったことがとても印象的で好きなシーンでした。ありがとうございました。
9.100植物図鑑削除
なんと言葉にしてよいかわかりません。どのような言葉もこの小説には野暮のような気もします。もしかしたら最初から最後まで「ぼく」の一人相撲だったのかもしれません。しかし「ぼく」は間違いなく幸せだった、そう思います。
12.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしく綺麗な文章で、とても面白く読めました。
文章が綺麗なだけで終わってしまわず、しっかりとストーリーが付いていたのが良かったです。
かあさんのダブルミーニングは途中から自然と解るようになっていたと思え、丁度良い塩梅で紐解ける間隔が気持ち良かったです。他のところは少し読み取れなかったものの、試みとして良かったと感じました。
有難う御座いました。
13.100そらみだれ削除
情緒的で綺麗な文章だと思いました。
また読み返してみようと思います。
ありがとうございました。
14.100名前が無い程度の能力削除
文体のあざやかさや想像力の質の良さに圧倒されました。
15.100異文きたん削除
澄み切った文章と想像力を掻き立てられるような比喩表現が素晴らしかったです。途中でどこか辻褄が合わないと感じる描写があるなと思いましたがなるほど叙述トリックでしたか。すっかり騙されてしまいました。幻想を追いかけ続けて生きる、それはある意味幸せなようでもあり、残酷であるのかもしれません。最後に見た彼女は今際の際に見た幻だったのかもしれません。それどころか「ぼく」が今まで見てきた彼女でさえも幻だったのかもしれません。それでも私は、彼女は間違いなく「ぼく」の傍にいたのだと、幻想と共にに生きた「ぼく」の人生は決して無意味でも無価値でもなく確かに意味のあるモノだったのだと、そう思います。素敵な作品をありがとうございました。
16.100名前が無い程度の能力削除
大人になると夢を見れなくなってしまうのは、悲しいけれども大方の人が認めていることで、それでもその夢を奇想として片づけずに記憶にとどめ続けた執念がもたらした結末だったように思います。
素晴らしい作品をありがとうございました。