「分かりました。では当日はよろしくお願いします」
「ええ、楽しみにしてるわ。それより……」
客間の木製のテーブルを挟んで私と向かい合うはここ白玉楼の主、西行寺幽々子。
昼なかのこの時間帯は日差しが強く、日光が縁側に向かって燦燦と降り注いでいる。
彼女は会話の途中で言葉を切った。
私は何か問題のあることを言っただろうか。
黙っていると幽々子は少し困ったような顔をしている。
いつも穏やかな笑みを浮かべている彼女にしては珍しい気がした。
「敬語はいいって、いつも言ってるでしょ?」
ああ、なるほど。
確かに何度も言われていることだ。
私達プリズムリバー楽団にとってここ白玉楼はお得意様、上客中の上客だ。
演奏の依頼をしてもらった回数は数えきれない。
ライブの後は大抵宴会が開かれ、私達姉妹も彼女の好意で参加させてもらっている。
いつか、お酒に酔って頬を紅く染めた彼女から「もうルナサ達とは家族ぐるみの付き合いよね~」という言葉をもらったこともあった。
隣にいた従者の魂魄妖夢はほとんど飲んでいないのに何故か顔を真っ赤にしていた気がする。
何度も演奏に呼んでくれること、好意を持って接してくれることについてはとても嬉しく思っている。
でも、どんなに親しい間柄でも、依頼が終わるまでは私達は請負人で彼女は依頼人、なのだ。
礼儀はきちんとしていなければいけない。
それが私の持論だ。
とはいえ、幽々子のこんな表情を見せられてはこれ以上ビジネスライクな言葉使いを続けることも憚られた。
私は意識して口調を崩す。
「……ごめんなさい。そう言ってもらえることはとても嬉しいんだけど、音楽家として依頼を受ける以上礼儀はきちんとしたいの」
私は一呼吸置いた後、軽く頭を下げた。
それからゆっくりと頭を上げる途中、彼女と目が合った。
今はお互いにテーブルを挟んで座っているけど、幽々子の身長は私よりも頭一つ分ほど高い。
私は必然的にその顔を下から見上げるような形になった。
幸い、彼女の表情はいつもの穏やかなそれに戻っていた。
口元はうっすらと緩んでいる。
「相変わらずお堅いわねえ、うちの妖夢にそっくりだわ」
彼女は墨で桜の木が描かれた扇子を取り出して続ける。
「でも、貴女のそういう真面目なところは嫌いじゃないわ。今度の宴会も、ぜひ参加していって頂戴ね」
扇子が幽々子の手元でゆらゆらと揺れる。
彼女の言葉に私は安堵した。
「ありがとう。どうか今後とも、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね。妖夢、送ってあげて」
呼びかけから間もなく、周囲を浮遊する半霊と腰に提げた二本の刀が特徴的な少女がやってきた。
ここ白玉楼で庭師を務める、従者の魂魄妖夢だ。
彼女は返事とともに丁寧に礼をした。
「はい、幽々子様」
それから私は妖夢に先導してもらいながら門の外に向かった。
何度も足を運んでいるから一人で帰れると言ったけど、彼女は戸惑いながらこう返した。
「いえ、いくら付き合いが長くても、お客様をきちんとご案内することは私の務めですから……」
なるほど、確かに幽々子が私と妖夢をそっくりだと評したのも分かる気がする。
結構大雑把なところがある主と違って、従者の彼女は何事にも妥協をしない、生真面目な性格をしていることで有名だ。
宴会ではいつも主や来客の対応で世話しなく動き回っている。
その一生懸命な姿は自然と私に好感を持たせた。
「そうね、私がそんなことを言ったら妖夢だって困るわよね」
「い、いえ、私は決してそんな……」
妖夢はいかにもしどろもどろといった具合に微かに頬を赤らめると、口をぱくぱくさせ始めた。
反応が面白いからと、よく宴会で幽々子や友人の紫から揶揄われていた時の表情と同じだ。
彼女もまた、私のように礼儀を重んじている。
それに私が一人で屋敷を出て行ったところを幽々子が見たら、妖夢が職務を果たしていないと叱られる可能性もある。
従者というのは主人の世話以外にも色々と気にかけないといけないことがあるのだ。
そんなことを考えていたら、門がすぐそこに見えてきた。
門を出たところで私は足を止め、左前方を歩く妖夢に向かって言った。
「私が言っていいことかどうか分からないけど」
妖夢は後ろを振り返った。
私はその目を見て続ける。
彼女の身長は私より頭半分ほど低いので、僅かに見上げられるような形になる。
「いつもお仕事ご苦労様、今度のライブでもまたお世話になるけどその……よろしくね」
出来るだけ笑顔を作って言ったつもりだけど、どうだろうか。
私は笑うのがあまり得意ではない。
妹達から「姉さんは怒ってない時でも目が笑ってないことが時々あるから気を付けた方がいいよ」と言われたこともある。
自分では気を付けているつもりでも、周りからはそう見られているらしい。
妖夢は急に喋り始めた私にきょとんとした様子だったが、やがて急に時間が動き出したかのように口を開いた。
気のせいか先程よりも頬が赤くなっているように見える。
「い、いえ、とんでもありません。私もルナサさん達のライブ、楽しみなので!」
妖夢は一息にそれだけ言うと、深々と礼をした。
やはり慣れないことはするものじゃない。
余計に気を遣わせてしまったようだし、早く退散した方がいい。
私は一言「ありがとう」と言ってそのまま白玉楼を後にした。
夕食と入浴を終え、自室の襖を音が出ないようにゆっくりと閉める。
残っている仕事がないことを確認すると、私は布団にうつ伏せに倒れながら今日のことを思い出していた。
ルナサさんが、微笑みながら労いの言葉をかけてくれた。
それが嬉しくて、夕方からの仕事に集中しきれていないのが自分でも分かった。
枕に埋めた顔をゆっくりと上げる。
彼女との付き合い自体は最近に始まったわけではない。
幽々子様と親友の紫様がプリズムリバー楽団を呼ぶようになってから、従者の私は必然的に顔を会わせることが多くなった。
最初はなにかと賑やかな妹達と違って、あまり感情を出さないルナサさんのことは少しだけ怖かった。
幽々子様との打ち合わせの時はいつも必要最低限のことしか喋らないし、
表情も変えないのでなにを考えているのかがほとんど読み取れないからだ。
幽々子様が「敬語はいいのよ」と言っても演奏の依頼を完了するまではなかなか言葉使いを変えなかったこと、
宴会でもあまり喋らないことから、あくまで自分達は演奏をしに来ただけ、という気持ちを持っているようにも受け取れた。
ただ、音楽に対して強いこだわりを持っていることは打ち合わせ中の真剣な眼差しを見てすぐに分かった。
そんなルナサさんの印象が変わったのは演奏を何度も聴いてからのことだった。
彼女は確かに演奏中もほとんど笑わない。
時折口元を軽く緩める程度だ。
一方で彼女の妹達はいつでも楽しそうにはっきり口角を上げた笑顔で演奏をするのでその差はよく印象に残る。
演奏会において最も目立つ中央に立ち、満面の笑顔を振りまく次女がリーダーだと勘違いする人も中にはいるらしい。
でも、ある日私ははっきりと気が付いた。
彼女達三姉妹は演奏が終わった時、必ず三人で一度視線を合わせてから楽器を下ろし、最後の挨拶をしてライブを締めくくる。
その妹達と目を合わせる時彼女、ルナサさんは確かに白い歯を見せて笑うのだ。
それは心の底から楽しそうで、同時に大切な妹達を慈しむような優しい笑みだった。
その笑顔が見られるのは時間にして三秒にも満たない。
演奏が終わった直後というタイミングのせいもあって最初のうちは全く気が付かなった。
よく宴会に参加する面々も気付いていないのではないだろうか。
そして挨拶ではまたいつものクールな彼女に戻っているのだ。
それから私は演奏会の度に、給仕の仕事の合間を縫って彼女の姿を見つめるようになっていった。
彼女達三姉妹はその能力で手を使わずとも演奏をすることが出来る。
そのためルナサさんも両手はフリーの状態で愛用の楽器の霊から音を奏でる。
その手の動きは両手で楽団の指揮を取るような滑らかな動きで、気付けばそれをずっと目で追いかけていた。
一度動きを追うのに夢中になりすぎて幽々子様に呼ばれるまで気が付かなかったこともある。
すぐに視線を逸らしたからどこを見ていたのかは気付かれていない……と思う。
そうして次第に彼女に興味を持つようになり、一度二人きりで話をしてみたいと思い始めた。
しかしそれから半年が経っても、未だに私は声をかけられずにいた。
いつも沢山の人妖が集まる宴会でしか会う機会がないのにどうやって声をかけたらいいかが分からない。
もし話をする機会を設けられたとしても、拒否されたらどうしよう。
引っ込み思案な自分の性格を嫌悪しながら、私は思考を止めて布団の中に潜った。
そして宴会当日。
私は慣れた足取りで主人や来客の世話をして回りながら時折遠目から彼女、ルナサさんの演奏する姿を目に焼き付けた。
演奏は無事に終了し、それからはいつものように夜通しの宴会が本格的に始まった。
皆酔いが回るにつれて声も大きくなっていく。
右を向けば紫様が紅白の巫女に文字通りべったり絡んでは素っ気なく手で振り払われてがっくりと凹んでいるし、
左を向けば白黒の魔法使いが魔法の森の魔女となにやら言い合いをしている。
「魔法は派手でパワーがあるのが一番なんだ」とか「繊細さのない野良魔法使いに魔法の本当の理を理解するのは不可能よ」とか、
この前の宴会でも聞いた気がするけど気のせいだろうか。
そんなことを考えながら各所に目をやり、お酒や料理の不足に気付いたらすぐに追加をする。
最初のうちは慌てるばかりだったけど、何度もやっていれば流石に慣れてくる。
時々は足を止めて会話に交ざることもあるけど、ほとんどの時間は動き回って過ごす。
以前紅魔館の一行が来た時にメイド長の十六夜咲夜が給仕役を手伝おうかと申し出てくれたことがあったけど、
自分達が招待している側である以上来客にそんなことはさせられなかった。
それに彼女は紅魔館でどんなイベントを催している時も、絶対に来客の手は煩わせないようにしていた。
だからこそ、こんな時に彼女の助けを借りるのはなんだか従者として負けたような気がして嫌だったのだ。
空になった酒瓶を回収して回っていると縁側に一番近い席から一際大きい、よく通る声が聞こえてくる。
プリズムリバー三姉妹の次女、メルランさんの声だ。
私は会話が聞こえる距離まで何気ない仕草で近付いた。
「いえーい!」
「メルラン、もう少し静かにしなさい」
「えへへー、はあ~い」
だいぶ酔いが回ったのか、普段以上の高音で声を上げて笑うメルランさんとそれを諫めるルナサさんの姿があった。
同じ席にいる三女のリリカさんはと言うと、酔いが回って眠気がきたのか頬を赤くしながら
半分閉じた目で足を崩してルナサさんに体を預けていた。
頬にはルナサさんの手が触れているけど、嫌がっている様子は全くない。
ふと横目でルナサさんの顔色を見ると、明らかに酔いが回っているのが分かる次女、
三女と違って表情はいつもと全く変わらず意識もしっかりとしていた。
そしてそれは向かいの席で飲んでいる幽々子様も同じだった。
扇子を広げて口元を緩めながら言う。
「ふふ、ルナサのところは賑やかでいいわねえ」
「二人とも五月蠅いだけですよ、本当にもう……」
うんざりしているような口調だけど、それが本心でないことは分かっている。
本当はまんざらでもないはずだ。
そうでなければ演奏の終わりにあんなにも優しい笑顔は向けないに決まっている。
宴会も終わりが近づくと一人、また一人と帰っていく。
大抵の人妖は二人以上で来ているので酔いが回っていない方が回っている方を介抱する。
よく見る風景だけどそんな二人連れの姿も気付けばなくなっていた。
もう料理やお酒の追加も必要ないだろう。
大宴会の後の片付けはいつも大変だけど、ゆっくりやってもいい分日中の仕事より幾分気が楽に感じる。
まずは来客が完全にいなくなった席を片付けようと思い立った時だった。
幽々子様が呼ぶ声がする。
声のする方に近づくと幽々子様とルナサさんが向かい合って座っている。
これは先程この席で見た光景と同じだけど、違うのは次女のメルランさんとリリカさんが完全にダウンしていることだった。
二人ともルナサさんにしなだれかかり、気持ちよさそうに微かな寝息を立てている。
「今日、三人には泊まっていってもらおうと思って」
幽々子様が私に言った。
私が返事をする前にルナサさんが口を挟む。
「ごめんなさい。私もその、引っ張ってでも連れて帰るって言ったんだけど」
彼女にしては珍しく、歯切れが悪い。
私が「全然大丈夫なので、気にしないでください」と言おうとしたところで今度は幽々子様が先に口を開いた。
その言葉はいつものゆったりした口調だけど、浮かべた微笑みの中に有無を言わせない強い意志を感じた。
「いいじゃない、そんなに気持ちよさそうに寝ているのに起こしたらかわいそうだわ。妖夢、布団は十分あるでしょう?」
「はい、すぐに用意できます」
私は返事をしてすぐに客間に向かい、手早く片付けと掃除を済ませて布団を敷いた。
急な客人が来た時のために布団はいつも来客用の綺麗なものをキープしているのだ。
三人分の布団を敷き終え、僅かなずれもないことを確認し、再び幽々子様達のいる席に戻った。
妖夢が布団の用意をするために席から離れた直後のことだった。
幽々子は言った。
「ねえルナサ、一つお願いがあるんだけどいいかしら?」
「お願い?」
「ええ、宿泊賃代わりよ」
「……いいけど、何をすればいいの?」
こういう時にきつい要求を突きつけるような人じゃないことはこれまでの付き合いで分かっているけど、
急に真面目な口調で言われるとつい身構えてしまう。
「この後―」
そんなことでいいなら全然構わない。
でも安心すると同時に疑問も浮かぶ。
どうして急にそんなことを言ってきたのだろう。
そんな思いを胸に抱きつつも私は答えた。
「そんなことならお安いご用よ、この後一緒に行けばいいのね?」
「ええ、お願いするわ」
丁度会話が終わったタイミングで妖夢が戻って来た。
妖夢は私達を見て言った。
「お布団の用意出来ました、もうお休みになりますよね?」
幽々子は妖夢の報告を聞くと満足げに私と妖夢を交互に見て言った。
「ええ。ルナサ、一人じゃ二人ともは運べないでしょう? 妖夢、リリカちゃんは貴女が部屋まで運んであげて」
「はい、畏まりました」
そのやりとりを聞いて流石に恥ずかしくなってきた。
とはいえこれ以上ここでもたもたしていてはかえって迷惑に違いない。
私はその言葉に甘えることにした。
「ごめんなさい、起きたら二人によく言っておくわ……」
「いいからいいから、今日はゆっくりしていきなさいな」
「……ありがとう」
幽々子の言葉に頷いてお礼を言った。
妖夢にもお礼を言おうとしたけど、彼女は既にリリカを起こさないように慎重に抱えようとしていた。
すやすやと寝息を立てて眠るそのあどけない顔はいつもの狡猾さを少しも感じさせない。
普段は生意気なことばかり言うのに、眠っている時だけは可愛い。
そんなことを思いながら私もメルランを胸元に抱える。
私達は霊体だから重さはほとんど感じない。
それでも二人を起こさずに抱えるのは無理だったので妖夢が手伝ってくれるのはありがたかった。
それから私達は二人を布団に寝かせた。
熟睡しているからか起きる気配は全くなかった。
二人ともいい気なものだ。
私は思わず溜息をつきたくなった。
しかし私にはまだすることがある。
妖夢の方に向き直って言った。
「ごめんね、ありがとう」
妖夢は気にした様子もなく笑って言った。
「いえ、このくらい気にしないでください。ルナサさんももう休まれますよね?」
「ううん、妖夢はまだこの後片付けがあるでしょう? 私にも手伝わせて頂戴」
私のこの提案に妖夢ははっきり困惑の表情を見せた。
先程幽々子に言われた「宿泊賃」とはこれのことだ。
わざわざ妖夢がいなくなってから言ってきたことから想像はついたけど、やはり何も聞いていないようだ。
「そんな、お客様にそんなことはさせられません」
この返事も予想通り。
仕事熱心な妖夢が素直に手伝わせてくれるとは思っていない。
あまりやりたくないけど、仕方がない。
表情を上手く作れているだろうか。
「……手伝わせてくれないと、私泣くかも」
「えぇ!?」
妖夢は素っ頓狂な声を上げながら肩をぴくっと震わせ、目線を逸らした。
ほら、この反応だ。
私みたいな表情に乏しい奴がいきなりこんなことを言ったらさぞ驚くだろう。
そもそもこういう異性を揶揄うような台詞は私よりメルランやリリカが言った方が様になるに決まっている。
幽々子に「もし妖夢が断ったらこう言うのよ」と言われてそれを真に受ける私もどうかしているのかもしれない。
今日はそんなに飲んでいなかったはずなのだけど。
私がじっと反応を待っていると妖夢はゆっくり視線を戻した。
予想に反してその顔は笑ってはいなかった。
代わりに頬が真っ赤で、目線はちらちらと落ち着きがない。
妖夢はやがてゆっくりと、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「わ、分かりました……。お願いします」
「……ありがとう」
「ひゃ、ひゃい!」
明らかに平静を失っている。
そんなに縮こまるほど私の顔は怖かっただろうか。
酔いが一気に冷めていく感じがした。
これは真剣に鏡の前で笑う練習をしないといけないかもしれない。
ルナサさんと二人きりで黙々と宴会の片付けを始める。
空になったお皿や酒瓶を次々に炊事場に運んでいく。
私はふとしたことで手に持ったお皿を落としそうなほど自分が緊張しているのが分かった。
先程の出来事が頭の中を駆け巡る。
ルナサさんが突然あんなことを言うとは思っていなかった。
それにあの、普段の落ち着き払った態度とは似ても似つかない、
言うならば三女のリリカさんが何かを企んでいる時にするような表情。
ただただ、可愛いと思った。
本当はもっとはっきりと見たかったけど、あの時はあまりの衝撃と恥ずかしさに慌てて目を逸らしてしまった。
それでも、今までに見たことのなかった新たな一面を見られたことは、何故か私にある種の優越感を感じさせた。
気になる人の特別な一面を自分だけが知っている、ただそれだけのことでも私にとってはとても大きなことだった。
何故突然強引に自分を手伝うと言ってくれたのかについては結局聞けなかったけど、分からないままでもいい。
先日も労いの言葉をかけてくれたし、やっぱりあの人は優しい人なんだ。
片付けも粗方終わったところで当たりを見回す。
会場に残っているのは私とルナサさん、幽々子様の三人だけだ。
幽々子様と目が合うと、私のもとに近づいて小声で囁いた。
ひどく上機嫌な様子だ。
「ルナサとは上手くいきそうかしら?」
「え?」
「だから、ルナサとは上手くいきそうかと聞いてるの」
今度は子供が悪戯を見つかった時のような顔で繰り返し言う。
私は思わず聞き返した。
「もしかして、ルナサさんが片付けを手伝ってくれると言ったのは……」
「そうよ、私がお願いしたの」
何を当たり前のことを、と言わんばかりの口調に私は混乱した。
幽々子様はそんな私を他所に続ける。
「だってあの子のこと、気になるんでしょう?」
「みょん!?」
「貴女は本当に隠し事が下手ねえ。あんなに夢中でじっと見つめていたら誰だって気が付くわよ」
「わ、私はそんな……」
「ふーん、じゃあ」
幽々子様は一度言葉を切ってから、腰を屈めて私に目線を合わせる。
そしてまるで幼子によく言い聞かせるように私に向かってゆっくりと言った。
「私が先に、アプローチしちゃおうかしら」
「そ、それは」
私はしどろもどろになった。
考えがまとまらない。
まさか私の想いを知っている人がいるとは思わなかった。
それに幽々子様の今の言葉が本心なら、従者の私に諦める以外の選択肢は無い。
私の慌てぶりを見かねたのか幽々子様は今度は先程よりも穏やかな声で言った。
「安心なさい、冗談よ」
私は安堵から思わず無言で息をついた。
幽々子様が言葉を続ける。
「ただ、いつになっても声の一つもかけないからちょっとお節介を焼いただけよ。どうするかは勿論貴女が決めればいいわ」
そうだ、幽々子様が従者の私なんかのためにここまで手を焼いてくれたんだ。
私は慌てて頭を下げた。
「すみません、私なんかのために、ありがとうございます……」
「妖夢、なんかって言うのはやめなさい。貴女は私の自慢の従者なんだから。」
「……はい」
幽々子様は普段私の仕事ぶりに口を出さないけど、自分が従者として評価されていないと強く感じたことはない。
それでも、こうして直接お褒めの言葉をもらえることはやはり格別に嬉しい気持ちになる。
「貴女がいつも一生懸命頑張っているのはみんな知っているわ、もっと自分に自信を持ちなさい」
「……はい、幽々子様!」
私は礼をすると、最後の酒瓶数本を抱えて炊事場に向かった。
炊事場に入ると、ルナサさんは既にお皿を洗い始めていた。
部屋の入口の空瓶を納めるケースに自分の持ってきた酒瓶を入れる。
重い音がゴトリと鳴った。
その音で私に気付いたのかルナサさんが手を止めて洗いかけのお皿を流しの中に置いた。
「お疲れ様。妖夢はこの量をいつも一人で片付けているの?」
私は軽く頭を下げて答えた。
「はい、でも慣れてしまえばそんなに大変でもないですよ。今日はありがとうございます」
「大したことじゃないから気にしないで。妖夢や幽々子にはいつもお世話になりっぱなしだからね」
それから私達は時折雑談をしながら洗い物を続けた。
二人でかかるとやはり普段よりもだいぶ楽に感じた。
「ルナサさん、手際がいいですね。いつも家事をしているんですか?」
「妖夢ほどじゃないわよ。うちは料理も片付けも当番制にしているから、いつもやってるわけじゃないしね」
「……」
私はしばし無言になった。
ダメだ、せっかく二人きりになれてもいつもと同じようなことしか話せない。
どうしても一歩踏み込んだことが言えない。
これではせっかくここまでお膳立てをして後押しまでしてくれた幽々子様にも申し訳ない。
それでも、どうすればいいのかが分からない。
私は生まれてからずっとここ白玉楼で庭師、従者として生きてきた。
幽々子様を守る盾として。
それが私の使命であり、誇りでもあった。
春雪異変。
冬が終らないあの異変を起こすまではろくに外界の人妖と言葉を交わしたこともなかった。
自分の使命には必要のないものだからと、それを特別気にしたこともなかった。
でも、あの異変以来ここには様々な人妖がやってくるようになった。
白玉楼が宴会、ライブの会場になることも増え、その度にいろんな出会いがあった。
そして今では隣にいるルナサさんのことが気になって仕方がない。
もっと仕事以外で人と話をする練習をするべきだった。
今更悔やんでも仕方がないけど、そう思わずにいられなかった。
「妖夢?」
私ははっとした。
いつの間にか手が止まっていたようだ。
ルナサさんの顔が目の前にある。
勝手口からの隙間風でその鮮やかな金色の髪が靡き、ふわりといい匂いがした。
私は慌てて洗い物を再開し、詫びる。
「ご、ごめんなさい」
ルナサさんは少し心配そうな表情を向けて言った。
それは今日、妹達に向けていたそれと同じ、慈しみを感じさせるものだった。
「……妖夢、疲れてるんじゃない? それかなにか悩み事でもあるの?」
日々の鍛錬のおかげで体力には自信がある方だ。
だから今も肉体的には疲れていないし、眠くもない。
それよりもこの激しい動悸が収まらないことには簡単に眠れそうもない。
私の緊張は限界に達しようとしていた。
気付けば、声に出ていた。
「私、人と話をするのが苦手で……。その、ルナサさんは、人とお話をするのって、得意な方ですか?」
自分でも何を言っているのかと思う。
よりにもよって、何故今目の前の気になる人に聞いてしまったのか。
自分の愚かさにこの場から逃げ出したくなる。
ルナサさんの顔を見るのも怖い。
「ああ、妖夢もなのね、私も苦手よ。仕事のことだったら、流れで喋りやすいんだけど」
ルナサさんは予想に反して笑うでも呆れるでもなく、あっさりと言ってのけた。
私は思わず「え……」と返すのが精一杯だった。
「そんなに意外だったかしら?」
「その、ルナサさんって、いつでも堂々としてて、しっかりした人だなと思ってたので……」
「一応楽団のリーダーだからね、仕事中だけはそれっぽく振舞っているだけよ」
「でも、宴会でもいつも余裕たっぷりですよね……?」
「私はほとんど相手の話を聞いているだけよ。お酒に強いわけでもないし、
私が酔いつぶれたら妹達を連れて帰る人がいないからあまり飲まないしね」
ルナサさんの受け答えははきはきとしていて嘘を言っている感じは全くしない。
それにしても意外だった。
打ち合わせ、ライブ、宴会、いつでも余裕を感じさせる立ち振る舞いを見せていたあのルナサさんにそんな一面があったとは。
「そうだったんですね……」
「私は、妖夢が人と話すのが苦手、っていうのが意外だったかも」
「え?」
「だって、妖夢は素直な性格だしお仕事も一生懸命頑張ってるじゃない。
周りから好かれそうだし、プライベートもあんまり裏表とかないんだろうな、って」
「わ、私はそんな……」
私は言葉に詰まった。
気になっている人からこんな風に思われていたことは素直に、とても嬉しかった。
しかし、次の言葉は私を窮地に立たせた。
ルナサさんは少し悪戯っぽく笑って言った。
「そういうことが気になるということは、もしかして誰か気になる人でもいるの?」
「はうっ!?」
「ふふ、図星みたいね」
どうしよう、貴女のことですと言えたらどれだけ楽だろうか。
とはいえ、このまま黙っているわけにもいかない。
私は完全に隠し通すのは無理だと判断した。
「その、います……」
ルナサさんは、嬉しそうに私の肩を優しくポンと叩いて言った。
「応援してるわ、私に出来ることがあるなら言って頂戴」
その表情はなんだか今日一番生き生きとしているような気がした。
私は精一杯の勇気を振り絞って言った。
「じゃあ、その……また私と、お話してくれませんか?」
ルナサさんは間髪入れずに了承してくれた。
「ええ、喜んで」
「……ありがとうございます」
目線を下ろすと炊事場はすっかり綺麗になり、心なしか今朝よりも輝いているような気がした。
ルナサさんは言った。
「じゃあ、私からもお願い。今後ここでお話するときは、敬語とさん付けはやめてくれると嬉しいわ」
一瞬返事に詰まる私に構わず続ける。
「妖夢の気になる人が誰かは分からないけど、好きな人と敬語でずっとお話するわけはないでしょう? これも練習よ」
まさかこの人は私の気持ちに気付いているのではないのか、そんなことを勘繰りたくなるほど冷静さを失いそうだった。
私はたっぷり数十秒は沈黙してから言った。
「……うん。 ……ルナサ」
ルナサさんは満足したように微笑んだ。
「ありがとう、妖夢」
妖夢に先導してもらいながら妹達の眠る居間に向かう。
悩み事を相談して精神的に疲れたのか、移動中の妖夢は終始黙っていた。
考えてみれば、毎日主人と二人きりで暮らしていて、その主人にも相談出来ないような悩み事を
ずっと抱えていたわけだから心労が溜まるのは無理のないことだろう。
そんな彼女が私に相談をしてくれたことは、信頼されているようでなんだか嬉しかった。
妖夢は気になる相手、と言ったけど相手は私の知る限り多分幽々子ではないかと思えた。
その幽々子が今日わざわざ私と妖夢を二人きりにさせた理由は悩みを抱えていそうな妖夢に、
あわよくばそれとなく話を聞いて欲しかったからと考えれば説明がつく。
あまり詮索するようなことではないと思ったから聞かなかったけど、彼女の悩み事は
「人と話をするのが苦手」ということよりも「従者の自分が主にこんな感情を抱いていいのか」
ということの方ではないかと思った。
生真面目な妖夢のことだからさぞ苦しいだろうと思う。
当然当の本人に相談出来るはずもないし、普段から忙しくしている彼女が
外部の人妖とゆっくり言葉を交わす機会がないことも容易に想像がつく。
でも、相手が幽々子であっても、それ以外の人妖であっても、
誠実で飾ったところのない妖夢ならきっと大丈夫だろう。
私はせいぜい後押しをするだけで十分だ。
そんなことを思っていると客間の前に辿り着いた。
妖夢が口を開く。
「じゃあルナサ、今日は本当にその……ありがとう」
「気にしないで、いつもお世話になってるからね。じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ……」
客間をそっと覗くと布団が三組敷かれており、奥から順にリリカとメルランがすやすやと寝息を立てながら眠っていた。
メルランは自分の掛け布団を抱きしめながら私が寝る布団の方まで侵入してきている。
やれやれと思いながら、起こさないように布団に体を入れる。
すぐに眠気がきて、私の意識は闇に落ちていった。
その頃妖夢が自室の布団の中で眠れずにいたことは知る由もなかった。
あの日以来、私は宴会の後でルナサさんとお話をするようになった。
一ヵ月に一回ほどのペースで催されるここ白玉楼の宴会。
毎回ルナサさんは嫌な顔一つせずに私に付き合ってくれた。
今日も二人で横に並ぶ形で炊事場にいた。
「メルランが朝からね、起きろーって叫びながら大音量と一緒に飛び込んできたの、どうしてだと思う?」
「ええと……朝から何か用事でもあったの?」
「その日は人里に行く用事があったの。 ……昼からね」
苦々しい表情を浮かべながら昼から、のところを強調する。
げんなりしている理由が分かり私は同情した。
「時間を勘違いして起こしにきたんだ……。 それは災難だったね」
「リリカなんてメルランが勘違いで起こそうとしてることを知ってて止めもしなかったのよ、あんまりだわ」
面倒事を嫌うタイプの彼女なら確かに我関せずを貫くであろうことは容易に想像がついた。
こうして二人きりの時間を重ねると、話を聞いているだけなのにルナサさんの
日常が鮮明に見えてくるような気がしてなんだか嬉しかった。
敬語を使わずに話すことにもだいぶ慣れてきた。
急に話題が変わる。
「ところで妖夢」
「なあに?」
「もうすっかり普通に話すのにも慣れたようね」
「……うん、ありがとう。 ルナサの……おかげだよ」
「ふふ、力になれたようでよかったわ。ところで、もうそろそろ半年になるけど、そろそろ声をかけてみてもいいんじゃない?」
「ええと、それは……」
「妖夢なら大丈夫、貴女は真面目で頑張り屋さんだから」
ルナサさんは一旦言葉を切って身体を真っすぐ私に向けて言った。
「一緒にいて応援したくなるし、お話しててとっても楽しいもの」
「そ、そんな、照れるよ……」
「やっぱり、まだ怖い?」
言いたい、言ってしまいたい。
貴女が好きだと、もっとたくさん一緒にいたいと。
貴女のことをもっと知りたいと。
私が答えに詰まっているとルナサさんは優しく微笑んで言った。
「そうよね、大事な、大事なことだものね。急かしてしまって、ごめんね」
その言葉を聞いて私ははっとした。
ルナサさんは、待ってくれている。
いつになるかも分からないのに、私が勇気を出すのをずっと待ってくれている。
私の想い人が貴女自身だということも知らずに。
これ以上、待たせるわけにはいかない。
告白する勇気をその相手からもらうなんて、我ながら情けのない話だと自分が何度嫌になったか分からない。
それでも、私はこの人が好きだ。
この人にとっての、特別になりたい。
もっと、一緒の時間をたくさん共有したい。
私は軽く息を吸い込むと、意を決して口を開いた。
「……ルナサ」
「うん?」
「今まで、ずっと私の相談を聞いてくれてありがとう。ルナサと一緒の時間、いつも楽しみだった。だから、言うね」
無理しなくてもいいのよ、という彼女の控えめな声が聞こえたけど、私はあえて気付いていないふりをして一気に言った。
「私は貴女が、ルナサが好き。大好き。弱い私を、ずっと勇気を出せずにいた私をずっと待っててくれた貴女が」
「え……」
ルナサさんは私の告白に驚き、小さく口を開けたまま文字通り言葉を失っていた。
私は構わず続けるも、その言葉は上手くまとまらなかった。
「……本当は、最初にここで二人きりでお話した時から、ずっと気になってた。
演奏に向ける情熱も、規律を大事にする真面目な性格も、家族や周りの人を思いやれる優しさも」
「妖夢……」
「私が気持ちを伝えられずにいた時、優しく相談に乗ってくれたよね。
私が勇気を出せるのがいつになるかも分からないのに、文句の一つも言わずに。
これ以上、貴女を待たせることは出来ないよ。だから、その……ルナサの気持ちを、聞かせてほしい……です」
ルナサさんは無言のままだ。
返事を聞くのが怖い。
それでも、今のままなんて嫌だ。
二人でお出かけしたり、遊びに行ったりしてみたい。
しばらく炊事場に無言の時間が流れた。
時折夜風の吹き込む音だけが聴こえてくる。
風が不意に止む。
それと同時にルナサさんはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……妖夢、ありがとう。貴女にそんなにも想われていたなんて、とても嬉しいわ。その、こちらこそ……よろしくお願いします?」
承諾の返事に喜ぶ暇もなく、私の意識は彼女の表情に惹きつけられた。
ルナサさんの頬は暗い夜の闇を微かに照らし出すかのように赤く火照っている。
こんなにも顔色を変えた彼女は初めて見た。
しばらく無言でお互いを見つめ合っていると、苦笑しながらルナサさんは再び口を開いた。
「その、私も、偉そうに相談に乗るなんて言ったけど、こういうのには、慣れてないの。
だからその……こんな時どうしていいか分からなくて」
明らかに動揺したその口調は普段の落ち着き払った態度からは想像もつかない。
私は考えるよりも早く彼女の両手に自分の手をそっと添えた。
水仕事をしているにも関わらずその手には微かな温もりが感じられた。
「……私も、分からない。でも、ルナサのことは、私が絶対に守るから」
ルナサさんは肩をぴくっと震わせた後、ゆっくりと顔を上げて言った。
まだ頬は紅潮したままだ。
「ふふ、ポーカーフェイスは得意なつもりだったけど、妖夢の真っすぐな気持ちの前には形なしね。……ありがとう」
「……ルナサが演奏の後に一瞬だけ妹さん達ににこってする笑顔、とっても可愛いくて、大好き」
「……なんのことかしらね」
言葉と裏腹にその目は優しかった。
「妖夢~、もう時間来ちゃうわよ」
「は、はい!」
私は慌てて服装と身だしなみの確認を急ぐ。
外敵からルナサさんを守るため、愛用の刀だけでなく暗器の用意も忘れない。
「ふふ、デートなんて妖夢も大人になったのねえ。嬉しいわあ」
「……幽々子様がきっかけを作って下さったおかげです、本当に、ありがとうございました」
「そんなことないわ、妖夢が頑張ったからよ。大事なのはここからだから、しっかりね。あ、でも」
「なんでしょうか?」
「どこまで行ったか報告はちゃんとするのよ、いいわね?」
「は、はい……」
揶揄いの種がまた一つ増えてしまったけど、今の私は幸せだ。
願わくばこの幸せが、ずっと続きますように。
「ええ、楽しみにしてるわ。それより……」
客間の木製のテーブルを挟んで私と向かい合うはここ白玉楼の主、西行寺幽々子。
昼なかのこの時間帯は日差しが強く、日光が縁側に向かって燦燦と降り注いでいる。
彼女は会話の途中で言葉を切った。
私は何か問題のあることを言っただろうか。
黙っていると幽々子は少し困ったような顔をしている。
いつも穏やかな笑みを浮かべている彼女にしては珍しい気がした。
「敬語はいいって、いつも言ってるでしょ?」
ああ、なるほど。
確かに何度も言われていることだ。
私達プリズムリバー楽団にとってここ白玉楼はお得意様、上客中の上客だ。
演奏の依頼をしてもらった回数は数えきれない。
ライブの後は大抵宴会が開かれ、私達姉妹も彼女の好意で参加させてもらっている。
いつか、お酒に酔って頬を紅く染めた彼女から「もうルナサ達とは家族ぐるみの付き合いよね~」という言葉をもらったこともあった。
隣にいた従者の魂魄妖夢はほとんど飲んでいないのに何故か顔を真っ赤にしていた気がする。
何度も演奏に呼んでくれること、好意を持って接してくれることについてはとても嬉しく思っている。
でも、どんなに親しい間柄でも、依頼が終わるまでは私達は請負人で彼女は依頼人、なのだ。
礼儀はきちんとしていなければいけない。
それが私の持論だ。
とはいえ、幽々子のこんな表情を見せられてはこれ以上ビジネスライクな言葉使いを続けることも憚られた。
私は意識して口調を崩す。
「……ごめんなさい。そう言ってもらえることはとても嬉しいんだけど、音楽家として依頼を受ける以上礼儀はきちんとしたいの」
私は一呼吸置いた後、軽く頭を下げた。
それからゆっくりと頭を上げる途中、彼女と目が合った。
今はお互いにテーブルを挟んで座っているけど、幽々子の身長は私よりも頭一つ分ほど高い。
私は必然的にその顔を下から見上げるような形になった。
幸い、彼女の表情はいつもの穏やかなそれに戻っていた。
口元はうっすらと緩んでいる。
「相変わらずお堅いわねえ、うちの妖夢にそっくりだわ」
彼女は墨で桜の木が描かれた扇子を取り出して続ける。
「でも、貴女のそういう真面目なところは嫌いじゃないわ。今度の宴会も、ぜひ参加していって頂戴ね」
扇子が幽々子の手元でゆらゆらと揺れる。
彼女の言葉に私は安堵した。
「ありがとう。どうか今後とも、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね。妖夢、送ってあげて」
呼びかけから間もなく、周囲を浮遊する半霊と腰に提げた二本の刀が特徴的な少女がやってきた。
ここ白玉楼で庭師を務める、従者の魂魄妖夢だ。
彼女は返事とともに丁寧に礼をした。
「はい、幽々子様」
それから私は妖夢に先導してもらいながら門の外に向かった。
何度も足を運んでいるから一人で帰れると言ったけど、彼女は戸惑いながらこう返した。
「いえ、いくら付き合いが長くても、お客様をきちんとご案内することは私の務めですから……」
なるほど、確かに幽々子が私と妖夢をそっくりだと評したのも分かる気がする。
結構大雑把なところがある主と違って、従者の彼女は何事にも妥協をしない、生真面目な性格をしていることで有名だ。
宴会ではいつも主や来客の対応で世話しなく動き回っている。
その一生懸命な姿は自然と私に好感を持たせた。
「そうね、私がそんなことを言ったら妖夢だって困るわよね」
「い、いえ、私は決してそんな……」
妖夢はいかにもしどろもどろといった具合に微かに頬を赤らめると、口をぱくぱくさせ始めた。
反応が面白いからと、よく宴会で幽々子や友人の紫から揶揄われていた時の表情と同じだ。
彼女もまた、私のように礼儀を重んじている。
それに私が一人で屋敷を出て行ったところを幽々子が見たら、妖夢が職務を果たしていないと叱られる可能性もある。
従者というのは主人の世話以外にも色々と気にかけないといけないことがあるのだ。
そんなことを考えていたら、門がすぐそこに見えてきた。
門を出たところで私は足を止め、左前方を歩く妖夢に向かって言った。
「私が言っていいことかどうか分からないけど」
妖夢は後ろを振り返った。
私はその目を見て続ける。
彼女の身長は私より頭半分ほど低いので、僅かに見上げられるような形になる。
「いつもお仕事ご苦労様、今度のライブでもまたお世話になるけどその……よろしくね」
出来るだけ笑顔を作って言ったつもりだけど、どうだろうか。
私は笑うのがあまり得意ではない。
妹達から「姉さんは怒ってない時でも目が笑ってないことが時々あるから気を付けた方がいいよ」と言われたこともある。
自分では気を付けているつもりでも、周りからはそう見られているらしい。
妖夢は急に喋り始めた私にきょとんとした様子だったが、やがて急に時間が動き出したかのように口を開いた。
気のせいか先程よりも頬が赤くなっているように見える。
「い、いえ、とんでもありません。私もルナサさん達のライブ、楽しみなので!」
妖夢は一息にそれだけ言うと、深々と礼をした。
やはり慣れないことはするものじゃない。
余計に気を遣わせてしまったようだし、早く退散した方がいい。
私は一言「ありがとう」と言ってそのまま白玉楼を後にした。
夕食と入浴を終え、自室の襖を音が出ないようにゆっくりと閉める。
残っている仕事がないことを確認すると、私は布団にうつ伏せに倒れながら今日のことを思い出していた。
ルナサさんが、微笑みながら労いの言葉をかけてくれた。
それが嬉しくて、夕方からの仕事に集中しきれていないのが自分でも分かった。
枕に埋めた顔をゆっくりと上げる。
彼女との付き合い自体は最近に始まったわけではない。
幽々子様と親友の紫様がプリズムリバー楽団を呼ぶようになってから、従者の私は必然的に顔を会わせることが多くなった。
最初はなにかと賑やかな妹達と違って、あまり感情を出さないルナサさんのことは少しだけ怖かった。
幽々子様との打ち合わせの時はいつも必要最低限のことしか喋らないし、
表情も変えないのでなにを考えているのかがほとんど読み取れないからだ。
幽々子様が「敬語はいいのよ」と言っても演奏の依頼を完了するまではなかなか言葉使いを変えなかったこと、
宴会でもあまり喋らないことから、あくまで自分達は演奏をしに来ただけ、という気持ちを持っているようにも受け取れた。
ただ、音楽に対して強いこだわりを持っていることは打ち合わせ中の真剣な眼差しを見てすぐに分かった。
そんなルナサさんの印象が変わったのは演奏を何度も聴いてからのことだった。
彼女は確かに演奏中もほとんど笑わない。
時折口元を軽く緩める程度だ。
一方で彼女の妹達はいつでも楽しそうにはっきり口角を上げた笑顔で演奏をするのでその差はよく印象に残る。
演奏会において最も目立つ中央に立ち、満面の笑顔を振りまく次女がリーダーだと勘違いする人も中にはいるらしい。
でも、ある日私ははっきりと気が付いた。
彼女達三姉妹は演奏が終わった時、必ず三人で一度視線を合わせてから楽器を下ろし、最後の挨拶をしてライブを締めくくる。
その妹達と目を合わせる時彼女、ルナサさんは確かに白い歯を見せて笑うのだ。
それは心の底から楽しそうで、同時に大切な妹達を慈しむような優しい笑みだった。
その笑顔が見られるのは時間にして三秒にも満たない。
演奏が終わった直後というタイミングのせいもあって最初のうちは全く気が付かなった。
よく宴会に参加する面々も気付いていないのではないだろうか。
そして挨拶ではまたいつものクールな彼女に戻っているのだ。
それから私は演奏会の度に、給仕の仕事の合間を縫って彼女の姿を見つめるようになっていった。
彼女達三姉妹はその能力で手を使わずとも演奏をすることが出来る。
そのためルナサさんも両手はフリーの状態で愛用の楽器の霊から音を奏でる。
その手の動きは両手で楽団の指揮を取るような滑らかな動きで、気付けばそれをずっと目で追いかけていた。
一度動きを追うのに夢中になりすぎて幽々子様に呼ばれるまで気が付かなかったこともある。
すぐに視線を逸らしたからどこを見ていたのかは気付かれていない……と思う。
そうして次第に彼女に興味を持つようになり、一度二人きりで話をしてみたいと思い始めた。
しかしそれから半年が経っても、未だに私は声をかけられずにいた。
いつも沢山の人妖が集まる宴会でしか会う機会がないのにどうやって声をかけたらいいかが分からない。
もし話をする機会を設けられたとしても、拒否されたらどうしよう。
引っ込み思案な自分の性格を嫌悪しながら、私は思考を止めて布団の中に潜った。
そして宴会当日。
私は慣れた足取りで主人や来客の世話をして回りながら時折遠目から彼女、ルナサさんの演奏する姿を目に焼き付けた。
演奏は無事に終了し、それからはいつものように夜通しの宴会が本格的に始まった。
皆酔いが回るにつれて声も大きくなっていく。
右を向けば紫様が紅白の巫女に文字通りべったり絡んでは素っ気なく手で振り払われてがっくりと凹んでいるし、
左を向けば白黒の魔法使いが魔法の森の魔女となにやら言い合いをしている。
「魔法は派手でパワーがあるのが一番なんだ」とか「繊細さのない野良魔法使いに魔法の本当の理を理解するのは不可能よ」とか、
この前の宴会でも聞いた気がするけど気のせいだろうか。
そんなことを考えながら各所に目をやり、お酒や料理の不足に気付いたらすぐに追加をする。
最初のうちは慌てるばかりだったけど、何度もやっていれば流石に慣れてくる。
時々は足を止めて会話に交ざることもあるけど、ほとんどの時間は動き回って過ごす。
以前紅魔館の一行が来た時にメイド長の十六夜咲夜が給仕役を手伝おうかと申し出てくれたことがあったけど、
自分達が招待している側である以上来客にそんなことはさせられなかった。
それに彼女は紅魔館でどんなイベントを催している時も、絶対に来客の手は煩わせないようにしていた。
だからこそ、こんな時に彼女の助けを借りるのはなんだか従者として負けたような気がして嫌だったのだ。
空になった酒瓶を回収して回っていると縁側に一番近い席から一際大きい、よく通る声が聞こえてくる。
プリズムリバー三姉妹の次女、メルランさんの声だ。
私は会話が聞こえる距離まで何気ない仕草で近付いた。
「いえーい!」
「メルラン、もう少し静かにしなさい」
「えへへー、はあ~い」
だいぶ酔いが回ったのか、普段以上の高音で声を上げて笑うメルランさんとそれを諫めるルナサさんの姿があった。
同じ席にいる三女のリリカさんはと言うと、酔いが回って眠気がきたのか頬を赤くしながら
半分閉じた目で足を崩してルナサさんに体を預けていた。
頬にはルナサさんの手が触れているけど、嫌がっている様子は全くない。
ふと横目でルナサさんの顔色を見ると、明らかに酔いが回っているのが分かる次女、
三女と違って表情はいつもと全く変わらず意識もしっかりとしていた。
そしてそれは向かいの席で飲んでいる幽々子様も同じだった。
扇子を広げて口元を緩めながら言う。
「ふふ、ルナサのところは賑やかでいいわねえ」
「二人とも五月蠅いだけですよ、本当にもう……」
うんざりしているような口調だけど、それが本心でないことは分かっている。
本当はまんざらでもないはずだ。
そうでなければ演奏の終わりにあんなにも優しい笑顔は向けないに決まっている。
宴会も終わりが近づくと一人、また一人と帰っていく。
大抵の人妖は二人以上で来ているので酔いが回っていない方が回っている方を介抱する。
よく見る風景だけどそんな二人連れの姿も気付けばなくなっていた。
もう料理やお酒の追加も必要ないだろう。
大宴会の後の片付けはいつも大変だけど、ゆっくりやってもいい分日中の仕事より幾分気が楽に感じる。
まずは来客が完全にいなくなった席を片付けようと思い立った時だった。
幽々子様が呼ぶ声がする。
声のする方に近づくと幽々子様とルナサさんが向かい合って座っている。
これは先程この席で見た光景と同じだけど、違うのは次女のメルランさんとリリカさんが完全にダウンしていることだった。
二人ともルナサさんにしなだれかかり、気持ちよさそうに微かな寝息を立てている。
「今日、三人には泊まっていってもらおうと思って」
幽々子様が私に言った。
私が返事をする前にルナサさんが口を挟む。
「ごめんなさい。私もその、引っ張ってでも連れて帰るって言ったんだけど」
彼女にしては珍しく、歯切れが悪い。
私が「全然大丈夫なので、気にしないでください」と言おうとしたところで今度は幽々子様が先に口を開いた。
その言葉はいつものゆったりした口調だけど、浮かべた微笑みの中に有無を言わせない強い意志を感じた。
「いいじゃない、そんなに気持ちよさそうに寝ているのに起こしたらかわいそうだわ。妖夢、布団は十分あるでしょう?」
「はい、すぐに用意できます」
私は返事をしてすぐに客間に向かい、手早く片付けと掃除を済ませて布団を敷いた。
急な客人が来た時のために布団はいつも来客用の綺麗なものをキープしているのだ。
三人分の布団を敷き終え、僅かなずれもないことを確認し、再び幽々子様達のいる席に戻った。
妖夢が布団の用意をするために席から離れた直後のことだった。
幽々子は言った。
「ねえルナサ、一つお願いがあるんだけどいいかしら?」
「お願い?」
「ええ、宿泊賃代わりよ」
「……いいけど、何をすればいいの?」
こういう時にきつい要求を突きつけるような人じゃないことはこれまでの付き合いで分かっているけど、
急に真面目な口調で言われるとつい身構えてしまう。
「この後―」
そんなことでいいなら全然構わない。
でも安心すると同時に疑問も浮かぶ。
どうして急にそんなことを言ってきたのだろう。
そんな思いを胸に抱きつつも私は答えた。
「そんなことならお安いご用よ、この後一緒に行けばいいのね?」
「ええ、お願いするわ」
丁度会話が終わったタイミングで妖夢が戻って来た。
妖夢は私達を見て言った。
「お布団の用意出来ました、もうお休みになりますよね?」
幽々子は妖夢の報告を聞くと満足げに私と妖夢を交互に見て言った。
「ええ。ルナサ、一人じゃ二人ともは運べないでしょう? 妖夢、リリカちゃんは貴女が部屋まで運んであげて」
「はい、畏まりました」
そのやりとりを聞いて流石に恥ずかしくなってきた。
とはいえこれ以上ここでもたもたしていてはかえって迷惑に違いない。
私はその言葉に甘えることにした。
「ごめんなさい、起きたら二人によく言っておくわ……」
「いいからいいから、今日はゆっくりしていきなさいな」
「……ありがとう」
幽々子の言葉に頷いてお礼を言った。
妖夢にもお礼を言おうとしたけど、彼女は既にリリカを起こさないように慎重に抱えようとしていた。
すやすやと寝息を立てて眠るそのあどけない顔はいつもの狡猾さを少しも感じさせない。
普段は生意気なことばかり言うのに、眠っている時だけは可愛い。
そんなことを思いながら私もメルランを胸元に抱える。
私達は霊体だから重さはほとんど感じない。
それでも二人を起こさずに抱えるのは無理だったので妖夢が手伝ってくれるのはありがたかった。
それから私達は二人を布団に寝かせた。
熟睡しているからか起きる気配は全くなかった。
二人ともいい気なものだ。
私は思わず溜息をつきたくなった。
しかし私にはまだすることがある。
妖夢の方に向き直って言った。
「ごめんね、ありがとう」
妖夢は気にした様子もなく笑って言った。
「いえ、このくらい気にしないでください。ルナサさんももう休まれますよね?」
「ううん、妖夢はまだこの後片付けがあるでしょう? 私にも手伝わせて頂戴」
私のこの提案に妖夢ははっきり困惑の表情を見せた。
先程幽々子に言われた「宿泊賃」とはこれのことだ。
わざわざ妖夢がいなくなってから言ってきたことから想像はついたけど、やはり何も聞いていないようだ。
「そんな、お客様にそんなことはさせられません」
この返事も予想通り。
仕事熱心な妖夢が素直に手伝わせてくれるとは思っていない。
あまりやりたくないけど、仕方がない。
表情を上手く作れているだろうか。
「……手伝わせてくれないと、私泣くかも」
「えぇ!?」
妖夢は素っ頓狂な声を上げながら肩をぴくっと震わせ、目線を逸らした。
ほら、この反応だ。
私みたいな表情に乏しい奴がいきなりこんなことを言ったらさぞ驚くだろう。
そもそもこういう異性を揶揄うような台詞は私よりメルランやリリカが言った方が様になるに決まっている。
幽々子に「もし妖夢が断ったらこう言うのよ」と言われてそれを真に受ける私もどうかしているのかもしれない。
今日はそんなに飲んでいなかったはずなのだけど。
私がじっと反応を待っていると妖夢はゆっくり視線を戻した。
予想に反してその顔は笑ってはいなかった。
代わりに頬が真っ赤で、目線はちらちらと落ち着きがない。
妖夢はやがてゆっくりと、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「わ、分かりました……。お願いします」
「……ありがとう」
「ひゃ、ひゃい!」
明らかに平静を失っている。
そんなに縮こまるほど私の顔は怖かっただろうか。
酔いが一気に冷めていく感じがした。
これは真剣に鏡の前で笑う練習をしないといけないかもしれない。
ルナサさんと二人きりで黙々と宴会の片付けを始める。
空になったお皿や酒瓶を次々に炊事場に運んでいく。
私はふとしたことで手に持ったお皿を落としそうなほど自分が緊張しているのが分かった。
先程の出来事が頭の中を駆け巡る。
ルナサさんが突然あんなことを言うとは思っていなかった。
それにあの、普段の落ち着き払った態度とは似ても似つかない、
言うならば三女のリリカさんが何かを企んでいる時にするような表情。
ただただ、可愛いと思った。
本当はもっとはっきりと見たかったけど、あの時はあまりの衝撃と恥ずかしさに慌てて目を逸らしてしまった。
それでも、今までに見たことのなかった新たな一面を見られたことは、何故か私にある種の優越感を感じさせた。
気になる人の特別な一面を自分だけが知っている、ただそれだけのことでも私にとってはとても大きなことだった。
何故突然強引に自分を手伝うと言ってくれたのかについては結局聞けなかったけど、分からないままでもいい。
先日も労いの言葉をかけてくれたし、やっぱりあの人は優しい人なんだ。
片付けも粗方終わったところで当たりを見回す。
会場に残っているのは私とルナサさん、幽々子様の三人だけだ。
幽々子様と目が合うと、私のもとに近づいて小声で囁いた。
ひどく上機嫌な様子だ。
「ルナサとは上手くいきそうかしら?」
「え?」
「だから、ルナサとは上手くいきそうかと聞いてるの」
今度は子供が悪戯を見つかった時のような顔で繰り返し言う。
私は思わず聞き返した。
「もしかして、ルナサさんが片付けを手伝ってくれると言ったのは……」
「そうよ、私がお願いしたの」
何を当たり前のことを、と言わんばかりの口調に私は混乱した。
幽々子様はそんな私を他所に続ける。
「だってあの子のこと、気になるんでしょう?」
「みょん!?」
「貴女は本当に隠し事が下手ねえ。あんなに夢中でじっと見つめていたら誰だって気が付くわよ」
「わ、私はそんな……」
「ふーん、じゃあ」
幽々子様は一度言葉を切ってから、腰を屈めて私に目線を合わせる。
そしてまるで幼子によく言い聞かせるように私に向かってゆっくりと言った。
「私が先に、アプローチしちゃおうかしら」
「そ、それは」
私はしどろもどろになった。
考えがまとまらない。
まさか私の想いを知っている人がいるとは思わなかった。
それに幽々子様の今の言葉が本心なら、従者の私に諦める以外の選択肢は無い。
私の慌てぶりを見かねたのか幽々子様は今度は先程よりも穏やかな声で言った。
「安心なさい、冗談よ」
私は安堵から思わず無言で息をついた。
幽々子様が言葉を続ける。
「ただ、いつになっても声の一つもかけないからちょっとお節介を焼いただけよ。どうするかは勿論貴女が決めればいいわ」
そうだ、幽々子様が従者の私なんかのためにここまで手を焼いてくれたんだ。
私は慌てて頭を下げた。
「すみません、私なんかのために、ありがとうございます……」
「妖夢、なんかって言うのはやめなさい。貴女は私の自慢の従者なんだから。」
「……はい」
幽々子様は普段私の仕事ぶりに口を出さないけど、自分が従者として評価されていないと強く感じたことはない。
それでも、こうして直接お褒めの言葉をもらえることはやはり格別に嬉しい気持ちになる。
「貴女がいつも一生懸命頑張っているのはみんな知っているわ、もっと自分に自信を持ちなさい」
「……はい、幽々子様!」
私は礼をすると、最後の酒瓶数本を抱えて炊事場に向かった。
炊事場に入ると、ルナサさんは既にお皿を洗い始めていた。
部屋の入口の空瓶を納めるケースに自分の持ってきた酒瓶を入れる。
重い音がゴトリと鳴った。
その音で私に気付いたのかルナサさんが手を止めて洗いかけのお皿を流しの中に置いた。
「お疲れ様。妖夢はこの量をいつも一人で片付けているの?」
私は軽く頭を下げて答えた。
「はい、でも慣れてしまえばそんなに大変でもないですよ。今日はありがとうございます」
「大したことじゃないから気にしないで。妖夢や幽々子にはいつもお世話になりっぱなしだからね」
それから私達は時折雑談をしながら洗い物を続けた。
二人でかかるとやはり普段よりもだいぶ楽に感じた。
「ルナサさん、手際がいいですね。いつも家事をしているんですか?」
「妖夢ほどじゃないわよ。うちは料理も片付けも当番制にしているから、いつもやってるわけじゃないしね」
「……」
私はしばし無言になった。
ダメだ、せっかく二人きりになれてもいつもと同じようなことしか話せない。
どうしても一歩踏み込んだことが言えない。
これではせっかくここまでお膳立てをして後押しまでしてくれた幽々子様にも申し訳ない。
それでも、どうすればいいのかが分からない。
私は生まれてからずっとここ白玉楼で庭師、従者として生きてきた。
幽々子様を守る盾として。
それが私の使命であり、誇りでもあった。
春雪異変。
冬が終らないあの異変を起こすまではろくに外界の人妖と言葉を交わしたこともなかった。
自分の使命には必要のないものだからと、それを特別気にしたこともなかった。
でも、あの異変以来ここには様々な人妖がやってくるようになった。
白玉楼が宴会、ライブの会場になることも増え、その度にいろんな出会いがあった。
そして今では隣にいるルナサさんのことが気になって仕方がない。
もっと仕事以外で人と話をする練習をするべきだった。
今更悔やんでも仕方がないけど、そう思わずにいられなかった。
「妖夢?」
私ははっとした。
いつの間にか手が止まっていたようだ。
ルナサさんの顔が目の前にある。
勝手口からの隙間風でその鮮やかな金色の髪が靡き、ふわりといい匂いがした。
私は慌てて洗い物を再開し、詫びる。
「ご、ごめんなさい」
ルナサさんは少し心配そうな表情を向けて言った。
それは今日、妹達に向けていたそれと同じ、慈しみを感じさせるものだった。
「……妖夢、疲れてるんじゃない? それかなにか悩み事でもあるの?」
日々の鍛錬のおかげで体力には自信がある方だ。
だから今も肉体的には疲れていないし、眠くもない。
それよりもこの激しい動悸が収まらないことには簡単に眠れそうもない。
私の緊張は限界に達しようとしていた。
気付けば、声に出ていた。
「私、人と話をするのが苦手で……。その、ルナサさんは、人とお話をするのって、得意な方ですか?」
自分でも何を言っているのかと思う。
よりにもよって、何故今目の前の気になる人に聞いてしまったのか。
自分の愚かさにこの場から逃げ出したくなる。
ルナサさんの顔を見るのも怖い。
「ああ、妖夢もなのね、私も苦手よ。仕事のことだったら、流れで喋りやすいんだけど」
ルナサさんは予想に反して笑うでも呆れるでもなく、あっさりと言ってのけた。
私は思わず「え……」と返すのが精一杯だった。
「そんなに意外だったかしら?」
「その、ルナサさんって、いつでも堂々としてて、しっかりした人だなと思ってたので……」
「一応楽団のリーダーだからね、仕事中だけはそれっぽく振舞っているだけよ」
「でも、宴会でもいつも余裕たっぷりですよね……?」
「私はほとんど相手の話を聞いているだけよ。お酒に強いわけでもないし、
私が酔いつぶれたら妹達を連れて帰る人がいないからあまり飲まないしね」
ルナサさんの受け答えははきはきとしていて嘘を言っている感じは全くしない。
それにしても意外だった。
打ち合わせ、ライブ、宴会、いつでも余裕を感じさせる立ち振る舞いを見せていたあのルナサさんにそんな一面があったとは。
「そうだったんですね……」
「私は、妖夢が人と話すのが苦手、っていうのが意外だったかも」
「え?」
「だって、妖夢は素直な性格だしお仕事も一生懸命頑張ってるじゃない。
周りから好かれそうだし、プライベートもあんまり裏表とかないんだろうな、って」
「わ、私はそんな……」
私は言葉に詰まった。
気になっている人からこんな風に思われていたことは素直に、とても嬉しかった。
しかし、次の言葉は私を窮地に立たせた。
ルナサさんは少し悪戯っぽく笑って言った。
「そういうことが気になるということは、もしかして誰か気になる人でもいるの?」
「はうっ!?」
「ふふ、図星みたいね」
どうしよう、貴女のことですと言えたらどれだけ楽だろうか。
とはいえ、このまま黙っているわけにもいかない。
私は完全に隠し通すのは無理だと判断した。
「その、います……」
ルナサさんは、嬉しそうに私の肩を優しくポンと叩いて言った。
「応援してるわ、私に出来ることがあるなら言って頂戴」
その表情はなんだか今日一番生き生きとしているような気がした。
私は精一杯の勇気を振り絞って言った。
「じゃあ、その……また私と、お話してくれませんか?」
ルナサさんは間髪入れずに了承してくれた。
「ええ、喜んで」
「……ありがとうございます」
目線を下ろすと炊事場はすっかり綺麗になり、心なしか今朝よりも輝いているような気がした。
ルナサさんは言った。
「じゃあ、私からもお願い。今後ここでお話するときは、敬語とさん付けはやめてくれると嬉しいわ」
一瞬返事に詰まる私に構わず続ける。
「妖夢の気になる人が誰かは分からないけど、好きな人と敬語でずっとお話するわけはないでしょう? これも練習よ」
まさかこの人は私の気持ちに気付いているのではないのか、そんなことを勘繰りたくなるほど冷静さを失いそうだった。
私はたっぷり数十秒は沈黙してから言った。
「……うん。 ……ルナサ」
ルナサさんは満足したように微笑んだ。
「ありがとう、妖夢」
妖夢に先導してもらいながら妹達の眠る居間に向かう。
悩み事を相談して精神的に疲れたのか、移動中の妖夢は終始黙っていた。
考えてみれば、毎日主人と二人きりで暮らしていて、その主人にも相談出来ないような悩み事を
ずっと抱えていたわけだから心労が溜まるのは無理のないことだろう。
そんな彼女が私に相談をしてくれたことは、信頼されているようでなんだか嬉しかった。
妖夢は気になる相手、と言ったけど相手は私の知る限り多分幽々子ではないかと思えた。
その幽々子が今日わざわざ私と妖夢を二人きりにさせた理由は悩みを抱えていそうな妖夢に、
あわよくばそれとなく話を聞いて欲しかったからと考えれば説明がつく。
あまり詮索するようなことではないと思ったから聞かなかったけど、彼女の悩み事は
「人と話をするのが苦手」ということよりも「従者の自分が主にこんな感情を抱いていいのか」
ということの方ではないかと思った。
生真面目な妖夢のことだからさぞ苦しいだろうと思う。
当然当の本人に相談出来るはずもないし、普段から忙しくしている彼女が
外部の人妖とゆっくり言葉を交わす機会がないことも容易に想像がつく。
でも、相手が幽々子であっても、それ以外の人妖であっても、
誠実で飾ったところのない妖夢ならきっと大丈夫だろう。
私はせいぜい後押しをするだけで十分だ。
そんなことを思っていると客間の前に辿り着いた。
妖夢が口を開く。
「じゃあルナサ、今日は本当にその……ありがとう」
「気にしないで、いつもお世話になってるからね。じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ……」
客間をそっと覗くと布団が三組敷かれており、奥から順にリリカとメルランがすやすやと寝息を立てながら眠っていた。
メルランは自分の掛け布団を抱きしめながら私が寝る布団の方まで侵入してきている。
やれやれと思いながら、起こさないように布団に体を入れる。
すぐに眠気がきて、私の意識は闇に落ちていった。
その頃妖夢が自室の布団の中で眠れずにいたことは知る由もなかった。
あの日以来、私は宴会の後でルナサさんとお話をするようになった。
一ヵ月に一回ほどのペースで催されるここ白玉楼の宴会。
毎回ルナサさんは嫌な顔一つせずに私に付き合ってくれた。
今日も二人で横に並ぶ形で炊事場にいた。
「メルランが朝からね、起きろーって叫びながら大音量と一緒に飛び込んできたの、どうしてだと思う?」
「ええと……朝から何か用事でもあったの?」
「その日は人里に行く用事があったの。 ……昼からね」
苦々しい表情を浮かべながら昼から、のところを強調する。
げんなりしている理由が分かり私は同情した。
「時間を勘違いして起こしにきたんだ……。 それは災難だったね」
「リリカなんてメルランが勘違いで起こそうとしてることを知ってて止めもしなかったのよ、あんまりだわ」
面倒事を嫌うタイプの彼女なら確かに我関せずを貫くであろうことは容易に想像がついた。
こうして二人きりの時間を重ねると、話を聞いているだけなのにルナサさんの
日常が鮮明に見えてくるような気がしてなんだか嬉しかった。
敬語を使わずに話すことにもだいぶ慣れてきた。
急に話題が変わる。
「ところで妖夢」
「なあに?」
「もうすっかり普通に話すのにも慣れたようね」
「……うん、ありがとう。 ルナサの……おかげだよ」
「ふふ、力になれたようでよかったわ。ところで、もうそろそろ半年になるけど、そろそろ声をかけてみてもいいんじゃない?」
「ええと、それは……」
「妖夢なら大丈夫、貴女は真面目で頑張り屋さんだから」
ルナサさんは一旦言葉を切って身体を真っすぐ私に向けて言った。
「一緒にいて応援したくなるし、お話しててとっても楽しいもの」
「そ、そんな、照れるよ……」
「やっぱり、まだ怖い?」
言いたい、言ってしまいたい。
貴女が好きだと、もっとたくさん一緒にいたいと。
貴女のことをもっと知りたいと。
私が答えに詰まっているとルナサさんは優しく微笑んで言った。
「そうよね、大事な、大事なことだものね。急かしてしまって、ごめんね」
その言葉を聞いて私ははっとした。
ルナサさんは、待ってくれている。
いつになるかも分からないのに、私が勇気を出すのをずっと待ってくれている。
私の想い人が貴女自身だということも知らずに。
これ以上、待たせるわけにはいかない。
告白する勇気をその相手からもらうなんて、我ながら情けのない話だと自分が何度嫌になったか分からない。
それでも、私はこの人が好きだ。
この人にとっての、特別になりたい。
もっと、一緒の時間をたくさん共有したい。
私は軽く息を吸い込むと、意を決して口を開いた。
「……ルナサ」
「うん?」
「今まで、ずっと私の相談を聞いてくれてありがとう。ルナサと一緒の時間、いつも楽しみだった。だから、言うね」
無理しなくてもいいのよ、という彼女の控えめな声が聞こえたけど、私はあえて気付いていないふりをして一気に言った。
「私は貴女が、ルナサが好き。大好き。弱い私を、ずっと勇気を出せずにいた私をずっと待っててくれた貴女が」
「え……」
ルナサさんは私の告白に驚き、小さく口を開けたまま文字通り言葉を失っていた。
私は構わず続けるも、その言葉は上手くまとまらなかった。
「……本当は、最初にここで二人きりでお話した時から、ずっと気になってた。
演奏に向ける情熱も、規律を大事にする真面目な性格も、家族や周りの人を思いやれる優しさも」
「妖夢……」
「私が気持ちを伝えられずにいた時、優しく相談に乗ってくれたよね。
私が勇気を出せるのがいつになるかも分からないのに、文句の一つも言わずに。
これ以上、貴女を待たせることは出来ないよ。だから、その……ルナサの気持ちを、聞かせてほしい……です」
ルナサさんは無言のままだ。
返事を聞くのが怖い。
それでも、今のままなんて嫌だ。
二人でお出かけしたり、遊びに行ったりしてみたい。
しばらく炊事場に無言の時間が流れた。
時折夜風の吹き込む音だけが聴こえてくる。
風が不意に止む。
それと同時にルナサさんはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……妖夢、ありがとう。貴女にそんなにも想われていたなんて、とても嬉しいわ。その、こちらこそ……よろしくお願いします?」
承諾の返事に喜ぶ暇もなく、私の意識は彼女の表情に惹きつけられた。
ルナサさんの頬は暗い夜の闇を微かに照らし出すかのように赤く火照っている。
こんなにも顔色を変えた彼女は初めて見た。
しばらく無言でお互いを見つめ合っていると、苦笑しながらルナサさんは再び口を開いた。
「その、私も、偉そうに相談に乗るなんて言ったけど、こういうのには、慣れてないの。
だからその……こんな時どうしていいか分からなくて」
明らかに動揺したその口調は普段の落ち着き払った態度からは想像もつかない。
私は考えるよりも早く彼女の両手に自分の手をそっと添えた。
水仕事をしているにも関わらずその手には微かな温もりが感じられた。
「……私も、分からない。でも、ルナサのことは、私が絶対に守るから」
ルナサさんは肩をぴくっと震わせた後、ゆっくりと顔を上げて言った。
まだ頬は紅潮したままだ。
「ふふ、ポーカーフェイスは得意なつもりだったけど、妖夢の真っすぐな気持ちの前には形なしね。……ありがとう」
「……ルナサが演奏の後に一瞬だけ妹さん達ににこってする笑顔、とっても可愛いくて、大好き」
「……なんのことかしらね」
言葉と裏腹にその目は優しかった。
「妖夢~、もう時間来ちゃうわよ」
「は、はい!」
私は慌てて服装と身だしなみの確認を急ぐ。
外敵からルナサさんを守るため、愛用の刀だけでなく暗器の用意も忘れない。
「ふふ、デートなんて妖夢も大人になったのねえ。嬉しいわあ」
「……幽々子様がきっかけを作って下さったおかげです、本当に、ありがとうございました」
「そんなことないわ、妖夢が頑張ったからよ。大事なのはここからだから、しっかりね。あ、でも」
「なんでしょうか?」
「どこまで行ったか報告はちゃんとするのよ、いいわね?」
「は、はい……」
揶揄いの種がまた一つ増えてしまったけど、今の私は幸せだ。
願わくばこの幸せが、ずっと続きますように。
素晴らしいと思います。良かったです。健康になりました。
ルナサの魅力がこれでもかというほどに詰め込まれていて素晴らしかったです
妖夢といっしょに自分までどきどきしながら読んでいました
相談された相手が好きな相手なの、王道乍ら良いですよね。
言葉に出来ないほど素敵です。
本当にありがとうございます。
ルナみょんもっと流行れ(切実)