Life style for Magic girl
ライフスタイル・フォー・マジックガール
わたしのライフスタイルは自明です。
夕暮れに目覚めて、朝に眠る。
お姉様は結婚するというんです。
合衆国生まれの男の人で、三年半文通して、週末ここへやってきた。
昨日はさいてーな夜だった。
大広間じゃ夜通しパーティをやっていて、いむの地下室でうるさいなあと思いながらクマのぬいぐるみを抱えたまま布団をかぶってパーティが通り過ぎるのを待っていると、どんどんと部屋の戸が叩かれて、やがてお姉様が入ってきました。
この人が貴方とお話がしたいらしいの、とお姉様の結婚相手をわたしに紹介しました。彼は簡単な挨拶をして人間と吸血鬼の結婚についての自虐的で穏当で上手なジョークを言い、それから君と話がしたいと言いました。
つまり僕たちはこれから家族ということになるんだからね。
気に食わない親族に対するたいていの終着点、こういうのがひとり親族にいてもまあ悪くはない、にあらかじめ先回りして、わたしは肯きました。
最初はちょっとした世間話からはじめて、彼のこと(彼の暮らした国のこと、仕事のこと、故郷の家族のこと)、わたしのこと(わたしについて言うことはあんまりない)を話して、いつのまにか話題は幻想郷の政治議論に移っていた。少し話しただけで、彼は頭がいいこと、寛容で現実的な物の見方をするけれど、決して野心や理想がないわけではないことはすぐに感じることができました。そういう人がお姉様が好きになるタイプなのかとかはよくわからない。
彼はどうやら幻想郷にも、もっと強力な民主主義を導入するべきだと考えているようでした。
わたしはぜったいぜったいぜったい絶対王政。
王政主義のよいところはたったひとりの善良で優れた人間がそこにいれば社会を良い方向に進めることができるというところです。それは確率の問題だった。過半数が善良で正しい判断ができることを信じるよりも、選ばれたたったひとりが善良で優秀である可能性のほうが信頼できるということです。でも、民主主義は最良を得るための手段ではなく、最悪を回避するための体制なのだと彼は主張しました。そのへんから雲行きは怪しくなっていたのです。君は状況が見えてないと彼は言いました。それからわたしの地下室を中心とした暮らしに言及し、とうとうわたしの抱きかかえたクマのぬいぐるみにまで攻撃をはじめました。
「つまりは、そのぬいぐるみなんだ。それは君の幼児性、独善さの象徴なんだね。君は怜悧で知識もある、強い意志や論理的な思考もあるし、それゆえに本来失われがちなもの——なんて言えばいいだろうか——イメージを現実に変える力、ある種の狂気のようなものも持っている。それなのに君は誰に言われたわけでもないのにこの小さな地下室に留まっている。みなが君に接したときに第一に抱く感覚、たとえば君の破壊的な性向やヒステリックなわかりづらさ、それは君の本質ではなくて、君の世界に対する恐れから来るものなんじゃないか。僕が思うに君はクマのぬいぐるみなんて抱いて寝るべきではない」
そうしていつかは、君はそんな軽薄な男を抱いて寝るべきではない、とか言うつもりなのかな。父親気取りでさあ。
お姉様の手前、そんなことを口するわけにもいかずに、わたしは抱きしめたクマのぬいぐるみにそっと囁きました。
ねえねえ、キッドナップ、わたしが誰を抱こうがわたしの勝手だよね?
すると、キッドナップは、フランちゃんはわたしをとても乱雑に扱うからフランちゃんだけには抱かれたくない他のぬいぐるみたちもみんなそう言ってるよって言うのです。
「うるさいな!もう!」
わたしは家を飛び出しました。
行くあてもなく森の中をさまよい歩き、疲れて木の下に座って闇の中を見つめていた。
厚い雲が空を覆うのになぜだか明るい夜で、なんだか出そうだなあとかそんなことを思っていたのです。
すると、出た。
それは、魔法少女でした。
絵本に出てくるような、変身する魔法少女みたいなひらひらの格好をした女の子がステッキをもって少し先のところを歩いていた。
へんてこだ、とわたしは思った。
熱を出したときに見る夢みたいな感じ。
でも、それはすぐに小鹿のようにささやかな音を立てて闇の中に消えて見えなくなってしまう。しばらく待ってみても、それ以上はなにも起こらなかった。
わたしは帰ることにした。
夢から覚めたら朝がやってくる。
薄い光にカーテンをさすように細い雨が降りはじめました。
わたしのライフスタイルは自明です。
★
わたしの向精神薬はソーダの味がする。
口の中でぱちぱちと弾けるのです。
一週間分、もらって帰った。
こどもたちのごっこあそび、森の妖精たちの診療所。
君には君の話をよく理解してくれる優れた精神科医だってお義兄様が言うから、わたしは行ったのです。
「ほら、はなしてみなさい。あたいにかかればなんでもそっこーでかいけつね!」
「ある人がわたしは頭がおかしいって言うんです。わたしがずっと地下室に閉じこもってるから」
「それはよくないわね。おそとがいちばんよ」
「でも、わたしには世界への恐れがあるんだとその人は言うんです。たとえばそれはこの世界が常にわたし脅かしているというような感覚、根拠のない被害妄想、肉体から乖離した痛覚……それらの不安はすべてこの現実とは別のところにあって、イメージの紛争がわたしの実存に損傷を加えることでわたしは現実的な対処を失い、それは不調和な行動として現れて……」
「あのー、しつもんします!」
「はい」
「おなまえは?」
「フランドール・スカーレットです」
「しつれーですが、ごねんれいは?」
「500歳とちょっと」
「にゃあ!」
「にゃあ?」
「あたいはびっくりしたのです。すきないろは?」
「赤色かなぁ?」
「どこがいたいですか?」
「性格が」
「ふむふむ。じゃあ、すきなたべものは?」
「血液……」
「いま、あたい、ぜんぶがわかりました」
「え、本当に?」
「はい。これからあなたはすきなものをたくさんたべて、いっぱいねてください。そうすればすべてがよくなります!」
「やったー!」
おくすりです、といって妖精は袋に入ったラムネ菓子をくれました。それを食べるとソーダの味がする。ぱちぱちと少し口の中で弾ける。すべてがよくなる。
夜だった。
帰り道。
わたしはそれをまた見つけてしまうのです。
魔法少女。
月明かりの下で、ちょっぴりブルー。髪の色は緑色、透明な羽(きっと生まれつきの。あとで虫みたいだねって言ったら口聞いてくれなくなっちゃったから二度と言わないよ)、ピンクまじりのひらひらの服、魔法のステッキ。
彼女の前に立って、はろーとわたしは言った。
「また会ったね」
「ちがうの! わ、わたしはねっ、やめようって言ったんだ。わたしたちなんかが立派な吸血鬼の精神診断なんかできないって。でもチルノちゃんは……」
「??」
そういえば、さっきも見た。あの雨の夜じゃない。助手をやってた。妖精の診療所で。たしか大ちゃんって呼ばれてたっけ。
「ふふ、ひどいのね。人のせいにするんだ?」
「ち、ちがくて! それはちがくて、ですね、そうなんですけど、ぜんぜんちがくて、わたしにも責任の一端があって、っていうかわたしも悪くて、ごめんね?」
「べつにいいけど、それさ」
「これ?」
「そう、その服、恥ずかしくないの?」
わたしがひらひらの服を指差してそう言うと大ちゃんは少しむっとして答えるのです。
「恥ずかしくはないよ、使命だもん」
「使命?」
「うん。この世界には悪夢がはびこっているんだ。わたしはこの子と契約して魔法少女になったの。悪夢を滅ぼすために」
よく見ると大ちゃんの肩には小さなリスのような人形が乗っかっている。そっか、これはごっこ遊び。そういう設定なのです。あのお医者さんが悪夢の役なのね、とわたしは言いました。やられ役をやるような性格には見えなかったけれど。
「チルノちゃんはちがうよ。これはわたしひとりでやってることなの。悪夢との戦いは孤独なんだ」
「それってさあ、楽しいの?、実際」
「楽しいとかじゃないよ。使命なんだ。悪夢は選ばれた女の子にしか見えない。悪夢の見える女の子しか悪夢と戦うことはできない。悪夢は巨大なブルドーザーみたいで、その戦いはとても孤独で辛いものなんだ」
「かりかり」
大ちゃんは気合いが入ってる。とても高いところを飛んでいる。こうなるとどうしようもない。わたしは黙ってラムネを食べます。
かりかりかりかり。
「んーわたしも一緒に闘おうかな、悪夢と」
「え、この子の声がフランドールちゃんにも聞こえるの?」
「その……リス?」
「りるるん、だよ」
「……。でも、わたしもクマちゃんとお話しするのよ」
わたしは抱いたクマちゃんの腕を後ろから動かして大ちゃん向けて手を振らす。大ちゃんは無邪気に手を振りかえしきたりするのです。わたしは大ちゃんのこと、睨んだ。
「そればかしてんの? わたし、むかついちゃうかも……」
「ひ、ひぅ、ごめんなさい……です」
そのまま踏み込んで大ちゃんのひらひらの服の襟首を掴み上げた。
「ごっこ遊びは飽きたわ。本当は悪夢なんて見えないんでしょ?」
でも、大ちゃんはわたしの眼を真剣な表情で見つめて、それから首を振るのです。
悪夢はあるよ。人の心に入り込んで人をおかしくしちゃうんだ。わたしは悪夢と戦わなきゃ。
わたしは大ちゃんを解放し、ため息をついて空を仰ぐ。
まんまるのお月様。
悪夢がはびこっている、と大ちゃんが言いました。
★
あの子のライフスタイルはあの子のためだけのものです。
だれにも触れない。
わたしの狂気は駄菓子のラムネの味がする。
心療内科通い(こども診療所!)、精神薬漬け(1袋平均18粒入り60円)、お義兄様との政治議論(民主主義万歳!)、とっても知的なクマちゃん(わたしはフランちゃんが思うことだけを思ってフランちゃんがわたしにこうやって言わせることだけを言うんだよ?)
楽しいね。
楽しすぎて今すぐにでも死んでしまいたいです。
夜には大ちゃんに会いに行く。
大ちゃんはひらひらの魔法少女の服を着てきらきらのステッキを持って肩に木彫りのりすを乗せて夜な夜な悪夢と闘っているのです。悪夢は巨大なブルドーザーのような形をしていると大ちゃんは言います。悪夢は選ばれた少女にしか見えないのだと大ちゃんは言います。
わたしは大ちゃんが悪夢と闘っているところを見たことがない。わたしは選ばれた魔法少女ではないのです。
「今夜はどうだったかしら?」
「つらい戦いだったよ」
「勝ったの?」
「勝ったからここにいるんだよ」
「それはそーね」
「でも逃しちゃったの」
「そうなの?」
「うん」
「それは残念ね。あ、そうだ、ラムネ食べる? 悪夢に効くらしい」
「ほんとうに?」
「そう。だからわたしは健康で善良で安定。悪夢なんてみないの」
「かりかり」
「でも他人に悪夢を見せることはできるわ。喧嘩は強いもの」
「や、やだ……いじめないで」
「あはは、冗談だってば。大ちゃんがいなきゃ悪夢を退治する人いなくなっちゃうもんね」
「そ、そうだよ」
「わたしに手伝えることってある?」
「ない、かも」
「そっか。じゃあ祈っておくね。せめて。がんばれって」
「ありがとう」
「ねえ」
「な、なに?」
「世の中がよくなるといいよね」
いつもの地下室に帰るとお姉様とお義兄様が上の回でふたりきりのパーティをやっていた。地下室といってもこれは木造の館で、だからその音は一つ下のこの部屋まで響いて聞こえてくるのです。軋んでいた。甘い声がした。名前を呼んでいた。この部屋は小さな地震みたいにほんのちょっとだけ揺れていて、その震動がやがてわたしたちの鼓動に変わってわたしに息をあたえ、わたしがこれから先すること感じることそれらすべてを思わせて、わたしはここでうんざりしたり天井にボールをぶつけてみたりくまのぬいぐるみを抱いたりするのです。
ねえ、貴方、わたしたちに子供ができたらさ、とお姉様が言いました。毎日散歩に出かけて、夏には家族みんなでキャンプに行って、この家で英語と中国語を教えて、6歳の頃には私立学校に通わせよう。
ねえ、もしも、わたしに子供ができたらね、一緒に木登りをして、ベリーをとって、川で鮭の取り方を教えて、冬には家族みんなで冬眠するんだよ。って、キッドナップがわたしの腕の中で言った。
★
わたしの癇癪玉は太陽系に順番に並ぶ玉のうちでいちばん大きい。
もしも、それが爆発したら小惑星ひとつだって残らない。
だからいっつも我慢ばかりしてるのです。
週末はみんなのパーティ。食卓にはきっとブルゴーニュ産のピノ・ノワール、海老とオニオンのマリネ、血液、血液、ローストチキン。咲夜の得意料理は牛肉とポテトのエチュベ。芸術の話題はたとえば象徴主義の近親相姦的な腐敗について(わたしはぜったい印象派!)とか? 地下室でそんな空想にふけっていると、お義兄様がやってきました。
「君はどうしてみんなのパーティに参加しないんだ?」
「あらこれってお誘い? でもあんまりわたしにばかりかまってると、お姉様が嫉妬しちゃうんじゃないかしら……」
それからわたしたちはお話をしました。楽しいパーティのこと、お姉様がわたしについて考えていること、わたしの精神問題のこと、心療内科でもらう薬の名前のこと(ラムネ菓子の銘柄をお義兄様はわたしのジョークだと思って笑った)、妖怪と人間の融和のこと、21世紀の未来的な社会のこと、向こうで彼のやっていたビジネスのこと、彼の子供時代のこと、わたしの子供時代のこと。(この人には熱意がある……。わたしについて知りたいと考えている……。人間の本質や物事の理由というものを信仰している。なにもかもどうだっていい、って、そういうことを理解できない。だからわたしの言う的外れなことを冗談だと思って笑う……。その奥にあるものを暴いてしまいたいと思っている……。ときにはわたしのことを魅力的にさえ思うのかもしれない。そこには無数の錠のついた箱があり、単に錠の数によってその中身が素晴らしいものだと考えるように……。まるでわたしがあの子に感じるように……。でも、あの子は空っぽの箱だ。子どもじみた空想と怯えてうるうると震える瞳。あの子の狂気は張子の虎……。あの子はまるでわたしのように……。でも、もし、あの子が、あの子が、あの子が、あの子が、本当に……!)
そして、弾けた。
弾けたものは顔面に張り付いて笑顔に変わるのです。
「そうだ、お義兄様、夜伽にはもう少し声を抑えたほうがいいんじゃないかしら。とっても楽しいのはわかるけど、幸せを他人に知られれば妬みを買うわ」
わたしは部屋を飛び出しました。
大ちゃんを見つけた。
ふたりで夜の道を歩いていた。
木々のカーテンが月の光を濾して、ちょっぴりブルー。わたしの冗談は大ちゃんにあんまり伝わらない。タイミング。それがそうだと伝わるくらいにはたくさん言ったから、へたくそな愛想笑いをしてくれるのです。
「ねえ、どう? 調子ってやつ、今夜はさ……」
「今日は悪夢を見つけられなかったんだ」
「平和! そういうこともあるのね」
「うん」
「わたしも最近悪夢を見るよ」
「どんな悪夢?」
「んー。大ちゃんはセックスのとき女の人がどんな声を出すか知ってる?」
「な、なに?」
「あおーーんって言うの、夜を告げる狼の遠吠えみたいに」
「あ、あはは……。そうなんだ」
「わたし、ずれたな」
「ちょ、ちょっとだけね?」
「うっさいな……」
かりかり。わたしの向精神薬はソーダの味のラムネです。だから食べたところで会話が上手になるわけじゃない。でも慰めにはなるよね。よくなる、よくなる。すべてがよくなる。やったー。
あてもなく歩いていたらやがて森を抜けて開けたところに辿り着きます。行き止まりで、少し高く崖のようになっていて、眼下に町が見下ろせる。足を投げ出すようにそこに腰掛けると、少し後ろに大ちゃんが座りました。
「この前さ、お姉様が結婚したんだ」
「そうなんだ。おめでとう?」
「おめでとうじゃないって、とってもひどいんだから」
「そうなの?」
「その男っていうのがさ、ひどいのよ。近代的を自負してるっていうのかな、わたしの生活に口を出してくるし、君はもっとな高度な生活をするべきだとか言ってね」
「き、きっとフランちゃんのことを思ってだよ?」
「週末にはいっつもホームパーティやるしさ、アメリカ人気取りでね、まあアメリカ人なんだけど、しかもさぁ、毎晩上の階で、ふたりでやってんの」
「ボードゲームとかかな?」
「ふふ、大ちゃんもずれたね」
「そ、そうだよね、言わなきゃよかった」
「いーーっぱいね。こんくらいだよ、こんくらい」
「う、うるさいな……」
大ちゃんの方まで広げたわたしの手を大ちゃんが押し返す。夜風が吹いている。わたしの足は地の底に向かって揺れている。
「実際さ、兄弟が結婚するって嫌な感じだよ。特に一緒に住んでる場合には。大ちゃんって兄弟いる?」
「いないな」
「それはいいよね。自分の血の繋がった姉が結婚してその旦那が家にいてとかほんとうざいもん。まるで未来の自分を見てるみたいなんだ。家でようかな」
「どこに住むの?」
「大ちゃんはどこに住んでるの?」
「大きな木の中」
「それはやだなあ。わたし、いいとこの生まれだから、きっと耐えられないもの」
「うん」
「ごめんね。こんなん聞いても楽しくないでしょ?」
「別にいいけど、でも……」
「でも?」
「フランちゃんは寂しいんだ?」
大ちゃんはとても卑怯なことを言うのです。こんなことを言われたら、たとえばわたしが本当にぜんぜん寂しくないんだとしても、これから何を言っても強がってるみたいに聞こえてしまう。だからわたしは黙ってラムネを口に入れてかじっていた。
(夜の底から風が吹きあげる……。冷感がわたしの肌を流れ落ちてその感覚がナイフのようにわたしとわたし以外のすべてを切り分ける……。いま、わたしはまるでここでひとりぼっちみたいだ……。まるで地下室にいるときみたいに……。あの頃のわたしにあったのは、すべてが、印象、印象……。でも、最近、わたしはとても内省的になっている……。心の内をだれかに話したくってたまらないって感じ……。わたしにも心があるってことを知ってほしい……。これが寂しいってことかしら。こんなふうに思うのはお義兄様のせいだろうか……。夜ごとの政治議論でお義兄様を打ち負かしてみたい……。あるいは、芸術の話題でもいいな、わたしが人並みの立派な考えがある女の人だとあの人に思ってもらいたい……。お姉様があの人を愛する理由がわかる気がする。お義兄様には情熱がある……。その熱はやがて周囲に伝播して、たとえばわたしをたしからしい生き物に変えてくれる……。でも、お義兄様はあの子のことをなんて言うかしら。ちょっとした精神の不調和って言う? やさしい人だから、幼い頃には誰もが似たようなことを考えるものだよっていうかもね。そしたらわたしは彼女にら本物の狂気があるって言い返すだろうか……。お義兄様に反駁するそのためだけに……。でも、あの子は、あの子は、あの子は……。わたしはあの子のことを考えると消えてしまいたくなる…………。わたしはあの子について誰にも何も言いたくない、誰にも何も言わせたくない、わたしがだれかにあの子のことを告げ口してしまうその前に、あの子の秘密を抱えたままひとりで消えてしまいたい……。わたしがあの子のことをこんなに思うことを、お姉様の結婚への子どもじみた反抗の態度やお義兄様に特別だと思われたいための行動だって、だれかが言うならそれはいい。わたしのことなんかべつにどうでも……。わたしの狂気はありふれた病理で診療内科で治るんってなら行くし、わたしがクマちゃんのぬいぐるみの抱くべきじゃないっていうならやめるしでも、でも、あの子のことはわたしが守ってあげる。わたしが健康で穏やかな暮らしができることが、あの子が夜な夜な悪夢と戦ってくれているおかげなら、わたしは健康で穏やかなかわいいフランドールにだってなれる……)
「かりかり、かりかり」
そしたら、突然、大ちゃんが、ちゅーした。
わたしのほっぺたに。
(わぁ……。)
そして、そのあとはすべてが、スロウ、スロウ、クイック、スロウ……。
今日は星の綺麗な夜です。空気が澄んでいてまるで缶ジュースの表面みたい。犬を飼いたいな。大型犬。レトリーバー飼って大ちゃんの名前をつけようかな。フリスビー、投げて、大ちゃんが馬鹿みたいな速度でそれを取りに行って、魔法、魔法、魔法……。少しだけ濡れた頬を手の甲でぬぐって、わたしは夜の星をひとつずつ指差して言うのです。
「ほら、あれが異種間結婚、あれが民主主義、あれが安全な精神、あれが健康な暮らし、わたしたちの明るい未来だよ」
でも悪夢がはびこっているよ、って、大ちゃんは言いました。
そうだね。
たしかに未だにこの世界に悪夢は蔓延っていて、大ちゃんがもう一度わたしのほっぺたにちゅーしてくれないかなってわたしはずっと思っていたけれど、蔓延った悪夢との戦いが大ちゃんの頭を覆うので、しかたなくわたしがちゅーした。
(暮らしの)終わり。
ライフスタイル・フォー・マジックガール
わたしのライフスタイルは自明です。
夕暮れに目覚めて、朝に眠る。
お姉様は結婚するというんです。
合衆国生まれの男の人で、三年半文通して、週末ここへやってきた。
昨日はさいてーな夜だった。
大広間じゃ夜通しパーティをやっていて、いむの地下室でうるさいなあと思いながらクマのぬいぐるみを抱えたまま布団をかぶってパーティが通り過ぎるのを待っていると、どんどんと部屋の戸が叩かれて、やがてお姉様が入ってきました。
この人が貴方とお話がしたいらしいの、とお姉様の結婚相手をわたしに紹介しました。彼は簡単な挨拶をして人間と吸血鬼の結婚についての自虐的で穏当で上手なジョークを言い、それから君と話がしたいと言いました。
つまり僕たちはこれから家族ということになるんだからね。
気に食わない親族に対するたいていの終着点、こういうのがひとり親族にいてもまあ悪くはない、にあらかじめ先回りして、わたしは肯きました。
最初はちょっとした世間話からはじめて、彼のこと(彼の暮らした国のこと、仕事のこと、故郷の家族のこと)、わたしのこと(わたしについて言うことはあんまりない)を話して、いつのまにか話題は幻想郷の政治議論に移っていた。少し話しただけで、彼は頭がいいこと、寛容で現実的な物の見方をするけれど、決して野心や理想がないわけではないことはすぐに感じることができました。そういう人がお姉様が好きになるタイプなのかとかはよくわからない。
彼はどうやら幻想郷にも、もっと強力な民主主義を導入するべきだと考えているようでした。
わたしはぜったいぜったいぜったい絶対王政。
王政主義のよいところはたったひとりの善良で優れた人間がそこにいれば社会を良い方向に進めることができるというところです。それは確率の問題だった。過半数が善良で正しい判断ができることを信じるよりも、選ばれたたったひとりが善良で優秀である可能性のほうが信頼できるということです。でも、民主主義は最良を得るための手段ではなく、最悪を回避するための体制なのだと彼は主張しました。そのへんから雲行きは怪しくなっていたのです。君は状況が見えてないと彼は言いました。それからわたしの地下室を中心とした暮らしに言及し、とうとうわたしの抱きかかえたクマのぬいぐるみにまで攻撃をはじめました。
「つまりは、そのぬいぐるみなんだ。それは君の幼児性、独善さの象徴なんだね。君は怜悧で知識もある、強い意志や論理的な思考もあるし、それゆえに本来失われがちなもの——なんて言えばいいだろうか——イメージを現実に変える力、ある種の狂気のようなものも持っている。それなのに君は誰に言われたわけでもないのにこの小さな地下室に留まっている。みなが君に接したときに第一に抱く感覚、たとえば君の破壊的な性向やヒステリックなわかりづらさ、それは君の本質ではなくて、君の世界に対する恐れから来るものなんじゃないか。僕が思うに君はクマのぬいぐるみなんて抱いて寝るべきではない」
そうしていつかは、君はそんな軽薄な男を抱いて寝るべきではない、とか言うつもりなのかな。父親気取りでさあ。
お姉様の手前、そんなことを口するわけにもいかずに、わたしは抱きしめたクマのぬいぐるみにそっと囁きました。
ねえねえ、キッドナップ、わたしが誰を抱こうがわたしの勝手だよね?
すると、キッドナップは、フランちゃんはわたしをとても乱雑に扱うからフランちゃんだけには抱かれたくない他のぬいぐるみたちもみんなそう言ってるよって言うのです。
「うるさいな!もう!」
わたしは家を飛び出しました。
行くあてもなく森の中をさまよい歩き、疲れて木の下に座って闇の中を見つめていた。
厚い雲が空を覆うのになぜだか明るい夜で、なんだか出そうだなあとかそんなことを思っていたのです。
すると、出た。
それは、魔法少女でした。
絵本に出てくるような、変身する魔法少女みたいなひらひらの格好をした女の子がステッキをもって少し先のところを歩いていた。
へんてこだ、とわたしは思った。
熱を出したときに見る夢みたいな感じ。
でも、それはすぐに小鹿のようにささやかな音を立てて闇の中に消えて見えなくなってしまう。しばらく待ってみても、それ以上はなにも起こらなかった。
わたしは帰ることにした。
夢から覚めたら朝がやってくる。
薄い光にカーテンをさすように細い雨が降りはじめました。
わたしのライフスタイルは自明です。
★
わたしの向精神薬はソーダの味がする。
口の中でぱちぱちと弾けるのです。
一週間分、もらって帰った。
こどもたちのごっこあそび、森の妖精たちの診療所。
君には君の話をよく理解してくれる優れた精神科医だってお義兄様が言うから、わたしは行ったのです。
「ほら、はなしてみなさい。あたいにかかればなんでもそっこーでかいけつね!」
「ある人がわたしは頭がおかしいって言うんです。わたしがずっと地下室に閉じこもってるから」
「それはよくないわね。おそとがいちばんよ」
「でも、わたしには世界への恐れがあるんだとその人は言うんです。たとえばそれはこの世界が常にわたし脅かしているというような感覚、根拠のない被害妄想、肉体から乖離した痛覚……それらの不安はすべてこの現実とは別のところにあって、イメージの紛争がわたしの実存に損傷を加えることでわたしは現実的な対処を失い、それは不調和な行動として現れて……」
「あのー、しつもんします!」
「はい」
「おなまえは?」
「フランドール・スカーレットです」
「しつれーですが、ごねんれいは?」
「500歳とちょっと」
「にゃあ!」
「にゃあ?」
「あたいはびっくりしたのです。すきないろは?」
「赤色かなぁ?」
「どこがいたいですか?」
「性格が」
「ふむふむ。じゃあ、すきなたべものは?」
「血液……」
「いま、あたい、ぜんぶがわかりました」
「え、本当に?」
「はい。これからあなたはすきなものをたくさんたべて、いっぱいねてください。そうすればすべてがよくなります!」
「やったー!」
おくすりです、といって妖精は袋に入ったラムネ菓子をくれました。それを食べるとソーダの味がする。ぱちぱちと少し口の中で弾ける。すべてがよくなる。
夜だった。
帰り道。
わたしはそれをまた見つけてしまうのです。
魔法少女。
月明かりの下で、ちょっぴりブルー。髪の色は緑色、透明な羽(きっと生まれつきの。あとで虫みたいだねって言ったら口聞いてくれなくなっちゃったから二度と言わないよ)、ピンクまじりのひらひらの服、魔法のステッキ。
彼女の前に立って、はろーとわたしは言った。
「また会ったね」
「ちがうの! わ、わたしはねっ、やめようって言ったんだ。わたしたちなんかが立派な吸血鬼の精神診断なんかできないって。でもチルノちゃんは……」
「??」
そういえば、さっきも見た。あの雨の夜じゃない。助手をやってた。妖精の診療所で。たしか大ちゃんって呼ばれてたっけ。
「ふふ、ひどいのね。人のせいにするんだ?」
「ち、ちがくて! それはちがくて、ですね、そうなんですけど、ぜんぜんちがくて、わたしにも責任の一端があって、っていうかわたしも悪くて、ごめんね?」
「べつにいいけど、それさ」
「これ?」
「そう、その服、恥ずかしくないの?」
わたしがひらひらの服を指差してそう言うと大ちゃんは少しむっとして答えるのです。
「恥ずかしくはないよ、使命だもん」
「使命?」
「うん。この世界には悪夢がはびこっているんだ。わたしはこの子と契約して魔法少女になったの。悪夢を滅ぼすために」
よく見ると大ちゃんの肩には小さなリスのような人形が乗っかっている。そっか、これはごっこ遊び。そういう設定なのです。あのお医者さんが悪夢の役なのね、とわたしは言いました。やられ役をやるような性格には見えなかったけれど。
「チルノちゃんはちがうよ。これはわたしひとりでやってることなの。悪夢との戦いは孤独なんだ」
「それってさあ、楽しいの?、実際」
「楽しいとかじゃないよ。使命なんだ。悪夢は選ばれた女の子にしか見えない。悪夢の見える女の子しか悪夢と戦うことはできない。悪夢は巨大なブルドーザーみたいで、その戦いはとても孤独で辛いものなんだ」
「かりかり」
大ちゃんは気合いが入ってる。とても高いところを飛んでいる。こうなるとどうしようもない。わたしは黙ってラムネを食べます。
かりかりかりかり。
「んーわたしも一緒に闘おうかな、悪夢と」
「え、この子の声がフランドールちゃんにも聞こえるの?」
「その……リス?」
「りるるん、だよ」
「……。でも、わたしもクマちゃんとお話しするのよ」
わたしは抱いたクマちゃんの腕を後ろから動かして大ちゃん向けて手を振らす。大ちゃんは無邪気に手を振りかえしきたりするのです。わたしは大ちゃんのこと、睨んだ。
「そればかしてんの? わたし、むかついちゃうかも……」
「ひ、ひぅ、ごめんなさい……です」
そのまま踏み込んで大ちゃんのひらひらの服の襟首を掴み上げた。
「ごっこ遊びは飽きたわ。本当は悪夢なんて見えないんでしょ?」
でも、大ちゃんはわたしの眼を真剣な表情で見つめて、それから首を振るのです。
悪夢はあるよ。人の心に入り込んで人をおかしくしちゃうんだ。わたしは悪夢と戦わなきゃ。
わたしは大ちゃんを解放し、ため息をついて空を仰ぐ。
まんまるのお月様。
悪夢がはびこっている、と大ちゃんが言いました。
★
あの子のライフスタイルはあの子のためだけのものです。
だれにも触れない。
わたしの狂気は駄菓子のラムネの味がする。
心療内科通い(こども診療所!)、精神薬漬け(1袋平均18粒入り60円)、お義兄様との政治議論(民主主義万歳!)、とっても知的なクマちゃん(わたしはフランちゃんが思うことだけを思ってフランちゃんがわたしにこうやって言わせることだけを言うんだよ?)
楽しいね。
楽しすぎて今すぐにでも死んでしまいたいです。
夜には大ちゃんに会いに行く。
大ちゃんはひらひらの魔法少女の服を着てきらきらのステッキを持って肩に木彫りのりすを乗せて夜な夜な悪夢と闘っているのです。悪夢は巨大なブルドーザーのような形をしていると大ちゃんは言います。悪夢は選ばれた少女にしか見えないのだと大ちゃんは言います。
わたしは大ちゃんが悪夢と闘っているところを見たことがない。わたしは選ばれた魔法少女ではないのです。
「今夜はどうだったかしら?」
「つらい戦いだったよ」
「勝ったの?」
「勝ったからここにいるんだよ」
「それはそーね」
「でも逃しちゃったの」
「そうなの?」
「うん」
「それは残念ね。あ、そうだ、ラムネ食べる? 悪夢に効くらしい」
「ほんとうに?」
「そう。だからわたしは健康で善良で安定。悪夢なんてみないの」
「かりかり」
「でも他人に悪夢を見せることはできるわ。喧嘩は強いもの」
「や、やだ……いじめないで」
「あはは、冗談だってば。大ちゃんがいなきゃ悪夢を退治する人いなくなっちゃうもんね」
「そ、そうだよ」
「わたしに手伝えることってある?」
「ない、かも」
「そっか。じゃあ祈っておくね。せめて。がんばれって」
「ありがとう」
「ねえ」
「な、なに?」
「世の中がよくなるといいよね」
いつもの地下室に帰るとお姉様とお義兄様が上の回でふたりきりのパーティをやっていた。地下室といってもこれは木造の館で、だからその音は一つ下のこの部屋まで響いて聞こえてくるのです。軋んでいた。甘い声がした。名前を呼んでいた。この部屋は小さな地震みたいにほんのちょっとだけ揺れていて、その震動がやがてわたしたちの鼓動に変わってわたしに息をあたえ、わたしがこれから先すること感じることそれらすべてを思わせて、わたしはここでうんざりしたり天井にボールをぶつけてみたりくまのぬいぐるみを抱いたりするのです。
ねえ、貴方、わたしたちに子供ができたらさ、とお姉様が言いました。毎日散歩に出かけて、夏には家族みんなでキャンプに行って、この家で英語と中国語を教えて、6歳の頃には私立学校に通わせよう。
ねえ、もしも、わたしに子供ができたらね、一緒に木登りをして、ベリーをとって、川で鮭の取り方を教えて、冬には家族みんなで冬眠するんだよ。って、キッドナップがわたしの腕の中で言った。
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わたしの癇癪玉は太陽系に順番に並ぶ玉のうちでいちばん大きい。
もしも、それが爆発したら小惑星ひとつだって残らない。
だからいっつも我慢ばかりしてるのです。
週末はみんなのパーティ。食卓にはきっとブルゴーニュ産のピノ・ノワール、海老とオニオンのマリネ、血液、血液、ローストチキン。咲夜の得意料理は牛肉とポテトのエチュベ。芸術の話題はたとえば象徴主義の近親相姦的な腐敗について(わたしはぜったい印象派!)とか? 地下室でそんな空想にふけっていると、お義兄様がやってきました。
「君はどうしてみんなのパーティに参加しないんだ?」
「あらこれってお誘い? でもあんまりわたしにばかりかまってると、お姉様が嫉妬しちゃうんじゃないかしら……」
それからわたしたちはお話をしました。楽しいパーティのこと、お姉様がわたしについて考えていること、わたしの精神問題のこと、心療内科でもらう薬の名前のこと(ラムネ菓子の銘柄をお義兄様はわたしのジョークだと思って笑った)、妖怪と人間の融和のこと、21世紀の未来的な社会のこと、向こうで彼のやっていたビジネスのこと、彼の子供時代のこと、わたしの子供時代のこと。(この人には熱意がある……。わたしについて知りたいと考えている……。人間の本質や物事の理由というものを信仰している。なにもかもどうだっていい、って、そういうことを理解できない。だからわたしの言う的外れなことを冗談だと思って笑う……。その奥にあるものを暴いてしまいたいと思っている……。ときにはわたしのことを魅力的にさえ思うのかもしれない。そこには無数の錠のついた箱があり、単に錠の数によってその中身が素晴らしいものだと考えるように……。まるでわたしがあの子に感じるように……。でも、あの子は空っぽの箱だ。子どもじみた空想と怯えてうるうると震える瞳。あの子の狂気は張子の虎……。あの子はまるでわたしのように……。でも、もし、あの子が、あの子が、あの子が、あの子が、本当に……!)
そして、弾けた。
弾けたものは顔面に張り付いて笑顔に変わるのです。
「そうだ、お義兄様、夜伽にはもう少し声を抑えたほうがいいんじゃないかしら。とっても楽しいのはわかるけど、幸せを他人に知られれば妬みを買うわ」
わたしは部屋を飛び出しました。
大ちゃんを見つけた。
ふたりで夜の道を歩いていた。
木々のカーテンが月の光を濾して、ちょっぴりブルー。わたしの冗談は大ちゃんにあんまり伝わらない。タイミング。それがそうだと伝わるくらいにはたくさん言ったから、へたくそな愛想笑いをしてくれるのです。
「ねえ、どう? 調子ってやつ、今夜はさ……」
「今日は悪夢を見つけられなかったんだ」
「平和! そういうこともあるのね」
「うん」
「わたしも最近悪夢を見るよ」
「どんな悪夢?」
「んー。大ちゃんはセックスのとき女の人がどんな声を出すか知ってる?」
「な、なに?」
「あおーーんって言うの、夜を告げる狼の遠吠えみたいに」
「あ、あはは……。そうなんだ」
「わたし、ずれたな」
「ちょ、ちょっとだけね?」
「うっさいな……」
かりかり。わたしの向精神薬はソーダの味のラムネです。だから食べたところで会話が上手になるわけじゃない。でも慰めにはなるよね。よくなる、よくなる。すべてがよくなる。やったー。
あてもなく歩いていたらやがて森を抜けて開けたところに辿り着きます。行き止まりで、少し高く崖のようになっていて、眼下に町が見下ろせる。足を投げ出すようにそこに腰掛けると、少し後ろに大ちゃんが座りました。
「この前さ、お姉様が結婚したんだ」
「そうなんだ。おめでとう?」
「おめでとうじゃないって、とってもひどいんだから」
「そうなの?」
「その男っていうのがさ、ひどいのよ。近代的を自負してるっていうのかな、わたしの生活に口を出してくるし、君はもっとな高度な生活をするべきだとか言ってね」
「き、きっとフランちゃんのことを思ってだよ?」
「週末にはいっつもホームパーティやるしさ、アメリカ人気取りでね、まあアメリカ人なんだけど、しかもさぁ、毎晩上の階で、ふたりでやってんの」
「ボードゲームとかかな?」
「ふふ、大ちゃんもずれたね」
「そ、そうだよね、言わなきゃよかった」
「いーーっぱいね。こんくらいだよ、こんくらい」
「う、うるさいな……」
大ちゃんの方まで広げたわたしの手を大ちゃんが押し返す。夜風が吹いている。わたしの足は地の底に向かって揺れている。
「実際さ、兄弟が結婚するって嫌な感じだよ。特に一緒に住んでる場合には。大ちゃんって兄弟いる?」
「いないな」
「それはいいよね。自分の血の繋がった姉が結婚してその旦那が家にいてとかほんとうざいもん。まるで未来の自分を見てるみたいなんだ。家でようかな」
「どこに住むの?」
「大ちゃんはどこに住んでるの?」
「大きな木の中」
「それはやだなあ。わたし、いいとこの生まれだから、きっと耐えられないもの」
「うん」
「ごめんね。こんなん聞いても楽しくないでしょ?」
「別にいいけど、でも……」
「でも?」
「フランちゃんは寂しいんだ?」
大ちゃんはとても卑怯なことを言うのです。こんなことを言われたら、たとえばわたしが本当にぜんぜん寂しくないんだとしても、これから何を言っても強がってるみたいに聞こえてしまう。だからわたしは黙ってラムネを口に入れてかじっていた。
(夜の底から風が吹きあげる……。冷感がわたしの肌を流れ落ちてその感覚がナイフのようにわたしとわたし以外のすべてを切り分ける……。いま、わたしはまるでここでひとりぼっちみたいだ……。まるで地下室にいるときみたいに……。あの頃のわたしにあったのは、すべてが、印象、印象……。でも、最近、わたしはとても内省的になっている……。心の内をだれかに話したくってたまらないって感じ……。わたしにも心があるってことを知ってほしい……。これが寂しいってことかしら。こんなふうに思うのはお義兄様のせいだろうか……。夜ごとの政治議論でお義兄様を打ち負かしてみたい……。あるいは、芸術の話題でもいいな、わたしが人並みの立派な考えがある女の人だとあの人に思ってもらいたい……。お姉様があの人を愛する理由がわかる気がする。お義兄様には情熱がある……。その熱はやがて周囲に伝播して、たとえばわたしをたしからしい生き物に変えてくれる……。でも、お義兄様はあの子のことをなんて言うかしら。ちょっとした精神の不調和って言う? やさしい人だから、幼い頃には誰もが似たようなことを考えるものだよっていうかもね。そしたらわたしは彼女にら本物の狂気があるって言い返すだろうか……。お義兄様に反駁するそのためだけに……。でも、あの子は、あの子は、あの子は……。わたしはあの子のことを考えると消えてしまいたくなる…………。わたしはあの子について誰にも何も言いたくない、誰にも何も言わせたくない、わたしがだれかにあの子のことを告げ口してしまうその前に、あの子の秘密を抱えたままひとりで消えてしまいたい……。わたしがあの子のことをこんなに思うことを、お姉様の結婚への子どもじみた反抗の態度やお義兄様に特別だと思われたいための行動だって、だれかが言うならそれはいい。わたしのことなんかべつにどうでも……。わたしの狂気はありふれた病理で診療内科で治るんってなら行くし、わたしがクマちゃんのぬいぐるみの抱くべきじゃないっていうならやめるしでも、でも、あの子のことはわたしが守ってあげる。わたしが健康で穏やかな暮らしができることが、あの子が夜な夜な悪夢と戦ってくれているおかげなら、わたしは健康で穏やかなかわいいフランドールにだってなれる……)
「かりかり、かりかり」
そしたら、突然、大ちゃんが、ちゅーした。
わたしのほっぺたに。
(わぁ……。)
そして、そのあとはすべてが、スロウ、スロウ、クイック、スロウ……。
今日は星の綺麗な夜です。空気が澄んでいてまるで缶ジュースの表面みたい。犬を飼いたいな。大型犬。レトリーバー飼って大ちゃんの名前をつけようかな。フリスビー、投げて、大ちゃんが馬鹿みたいな速度でそれを取りに行って、魔法、魔法、魔法……。少しだけ濡れた頬を手の甲でぬぐって、わたしは夜の星をひとつずつ指差して言うのです。
「ほら、あれが異種間結婚、あれが民主主義、あれが安全な精神、あれが健康な暮らし、わたしたちの明るい未来だよ」
でも悪夢がはびこっているよ、って、大ちゃんは言いました。
そうだね。
たしかに未だにこの世界に悪夢は蔓延っていて、大ちゃんがもう一度わたしのほっぺたにちゅーしてくれないかなってわたしはずっと思っていたけれど、蔓延った悪夢との戦いが大ちゃんの頭を覆うので、しかたなくわたしがちゅーした。
(暮らしの)終わり。
フランの自立を予見させるお話でした
家の外でも友人ができたみたいでよかったです