明け方の虹龍洞。仕事に取り掛かる準備をすっかり済ませた百々世は、虹龍洞の事務所に朝刊とともに届けられていた一枚の紙を熱心に眺めていた。タレ目の瞼の端から端に、ブルーグレーの瞳が動く。一通り眺め終わると、百々世は紙を円卓の上に置き、今度は腕組みをし、胡坐をかいて座った。口を真一文字に結び、顎をしゃくりあげている。何かを思案しているが、踏ん切りがつかないといった様子だ。やがて彼女はため息を一つ付くと、パンパンと自らの頬を2度叩いて、仕事に取り掛かりに外に出ていった。
午後3時。物憂げな日光がぼんやりと世界を包み、渓流に木漏れ日を作っていた。仕事上がりの百々世が水浴びをしている。しなやかな肢体を伝って流れる、渓流の透き通った水。川から上がり、体を拭いて着物を着ていると、背後から枯れ葉が砕ける音がする。その音の規則性から動物ではないなと思いながら百々世が振り返ると、龍(めぐむ)が立っていた。
「相変わらずきれい好きなのね。それに毎日汗を流しているからか、肌理が細かいこと。惚れ惚れするような健康美だわ。」
「褒めても何も出ねぇゾ。今日は何の用だ龍。」
「実はあたし、ここに行ってみたいのよー。でも一人で行くのはちょっと恥ずかしくって。ご一緒してくれないかしら。」
そう言うと龍は、片手で一枚の紙をピラリと百々世の眼前に掲げ、もう片方の手は自分の腰に当てて、ウインクして見せた。百々世はハッとした。自分が今朝熱心に見ていた紙と同じものだったからだ。紙にはこう書いてある。
“西洋薄皮焼き菓子 くれ江ぷ 3月1日開店”
百々世は驚きと、降ってわいたチャンスに心をときめかせたのを混ぜた複雑な表情をした。すぐにその表情を引っ込め、つとめて平静を装いながら返事を告げた。
「めっ…龍がどうしてもってんなら、ちょうどこのあとは俺も休みだ、付き合ってやってもいいぜ。」
クレープ屋の前に立つ二人を含む行列もだんだん消化されて行き、龍と百々世のひとつ前に立つ女の子の番が来た。女の子はキャラメルソースとリンゴのクレープを注文した。調理の様子は百々世も興味津々で、腕を組んだまま首をちょっと伸ばし、厨房を見つめている。百々世自身も気づかぬうちに、彼女の上唇と下唇がわずかに離れて、半開きになっていた。視線の先には大きな黒い円形の鉄板がある。店主が鉄板に生地を落とし、木べらで薄く広げると、あたりにふわりと甘い香りが広がる。女の子と龍、百々世の3人はうっとりと目を閉じた。すると意識はふっと現実を離れ、まだ見ぬ仏蘭西の異国情緒が彼女らの心に描かれるのだった。少女は焼きあがったばかりのクレープを受け取ると、目を細めて弾むように小走りで駆けていった。
「ほら百々世ちゃん、お先に注文どうぞ。」
百々世は龍にうながされ、ズラリと並んだクレープの食品サンプルを目で追った。タレ目の瞼の端から端に、ブルーグレーの瞳が動いた。龍は彼女の視線をたどっていくと、その先には”たっぷりフルーツと濃厚クリームのチャーミングメルヘンスペシャル”に行き当たった。他のクレープと比べてもひときわ色とりどりで、真ん中にはハート型のブラウニーまであしらってある。龍が見たところ、このお店で一番かわいらしいメニューだ。
(さぁ、自分の気持ちに素直になって、注文しちゃいなさい!)
という龍の気持ちとは裏腹に、百々世はなかなか声が出ない。
(こっ…これを食べてみたい…!でも荒くれもので誰もが恐れる大蜈蚣のおれが、みんなが見てる中でこんな乙女っぽいのを注文したら、イメージが壊れて恥ずかしい…でも、せっかくのチャンスを逃したらきっとこの先後悔するんじゃねぇか?…あわわっ、後ろの人も並んで待ってるから早く決めないと…ええい!)
「たっぷり…
意を決して口を開いた百々世を見て、龍は眉間をキリリと寄せて、握りこぶしを作って応援の念を送る。
「たっぷり野菜とえびアボカドのそば粉ガレットを…」
龍はずっこけそうになった。店主は大きな円形の鉄板に灰色のそば生地を落とし、木べらで薄く広げると、あたりにはふわりとそばの香りが広がる。龍と百々世は先ほどと同じように目を閉じた。今度はまだ見ぬ仏蘭西の異国情緒は彼女らの心には描かれず、代わりに信州の田舎情緒が彼女らの心に描かれたのだった。
「ほっ、ほらっ、いろんな野菜が入ってて栄養がありそうだし、そば粉は小麦粉よりタンパク質が多いしなッ!…」
上ずった早口で、謎の弁明を始める百々世の広い背中は、心なしか哀愁が漂っていたという。龍は(仕方ないわねぇ~)という流し目をチラッと百々世に送り、
「私はたっぷりフルーツと濃厚クリームのチャーミングメルヘンスペシャルをお願い。」
と、サラリと注文してしまった。
「どう?おいしい?」
「うん。」
「素っ気ないわねぇ~。食レポしてみてよ。私のは、焼きたての生地の上品な小麦の香りが鼻をくすぐったと思ったら、間髪を入れずに洋梨や苺のさわやかな果汁があふれ出て、まるで果樹園にいるようだわ。かと思うと、優しい甘さのクリームが全体をまとめ上げて、果物のほのかな酸味とハーモニーを奏でていて素晴らしいわ。」
「こっちのやつもね…野菜がしゃきしゃきしててえびがちょうどよくしょっぱくておいしい。」
「うふふっ。やっぱ言葉じゃわかりかねるわね。どう?取り換えっこしましょうよ。」
龍のクレープはたった今大層な言葉を並べた割には、味見程度にかじられただけだった。龍は百々世のガレットをひったくるように受け取ると、自分の色とりどりのクレープを百々世に渡した。百々世は目をぱちくりさせながら、自分の手に収まったクレープと龍を交互に見ている。龍は自分の手に取ったガレットの、百々世の歯型にかじり取られた部分にパクッと食いつき、
「へぇ~、そばのワイルドな風味と野菜の旨味、ほろ苦さが加わって、お酒が欲しくなる味ね!蒸しエビからのお出汁っぽい味もいいし、ちょっとパサつきがちなのをアボカドの油っぽさがカバーしてるわ。百々世ちゃん、そっちはどう?」
「くだものがジューシーでクリームが甘くておいしい。」
百々世が目を輝かせながらクレープを食べる姿を、龍は満足そうに眺めていた。
食べ終わった二人は、手をつなぎながらそぞろ歩いて岐路についた。道の左手に目をやると、梅林に夕日がさしている。気の早い梅がすでに花びらを広げんとつぼみを膨らませていた。百々世は龍とともに歩む一定のリズムにうながされて思案にふけった。
(…俺は虹龍洞でつるはしやスコップをふるっているときは、自信に満ちていて頼りがいのある奴だと自分でも思っているけど、一歩外に出てこうして里に下りてくると、まるで小さい子供だな。その点、龍は堂々としたもんだよ。どこへ行っても龍が中心になるんだ。流れるように弁が立って…。俺が行きたかったクレープ屋に連れてきてもらったうえに、注文まで龍にやってもらったようなもんさ。クレープを注文するときに俺は素直に自分の気持ちをそのまま出せなかったけど、龍に感謝を伝えるのだけは恥ずかしがらずにやろう。そのために俺が知ってる少ない言葉だけじゃ、安っぽいものになっちまうよな。)
そんなことを考えつつ歩いていると、もう目の前の辻の一方が百々世の住む洞で、もう一方が龍の住む山なので、ここでお別れだ。二人とも足を止めると、龍が話しかけた。
「今日は私のわがままに付き合ってくれてありがとね、百々世ちゃん。それじゃまた…」
言い終わらるか終わらないかのところで、百々世が龍の目の前にずいっと出て、龍の体は百々世の長い腕と厚い体にすっぽりと包まれてしまった。百々世の体温が伝わってくる。
龍は軽く顎を上げると、百々世の顔がそこにはあった。(近くで見ても肌理が細かいのね…)と、関係のないことを観察したりもした。龍はなんだか体の奥からきゅんきゅんしたものが湧き上がってくるのを感じた。
百々世は微笑んで、
「お礼を言うのは俺のほうだぜ。またな。」
と低い声で言うと、抱擁を解いて意気揚々と帰っていった。
「最後の最後に大逆転を食らっちゃったわ…。」
龍は腰が抜けそうになりながら、自分の動悸を聞いたのだった。
午後3時。物憂げな日光がぼんやりと世界を包み、渓流に木漏れ日を作っていた。仕事上がりの百々世が水浴びをしている。しなやかな肢体を伝って流れる、渓流の透き通った水。川から上がり、体を拭いて着物を着ていると、背後から枯れ葉が砕ける音がする。その音の規則性から動物ではないなと思いながら百々世が振り返ると、龍(めぐむ)が立っていた。
「相変わらずきれい好きなのね。それに毎日汗を流しているからか、肌理が細かいこと。惚れ惚れするような健康美だわ。」
「褒めても何も出ねぇゾ。今日は何の用だ龍。」
「実はあたし、ここに行ってみたいのよー。でも一人で行くのはちょっと恥ずかしくって。ご一緒してくれないかしら。」
そう言うと龍は、片手で一枚の紙をピラリと百々世の眼前に掲げ、もう片方の手は自分の腰に当てて、ウインクして見せた。百々世はハッとした。自分が今朝熱心に見ていた紙と同じものだったからだ。紙にはこう書いてある。
“西洋薄皮焼き菓子 くれ江ぷ 3月1日開店”
百々世は驚きと、降ってわいたチャンスに心をときめかせたのを混ぜた複雑な表情をした。すぐにその表情を引っ込め、つとめて平静を装いながら返事を告げた。
「めっ…龍がどうしてもってんなら、ちょうどこのあとは俺も休みだ、付き合ってやってもいいぜ。」
クレープ屋の前に立つ二人を含む行列もだんだん消化されて行き、龍と百々世のひとつ前に立つ女の子の番が来た。女の子はキャラメルソースとリンゴのクレープを注文した。調理の様子は百々世も興味津々で、腕を組んだまま首をちょっと伸ばし、厨房を見つめている。百々世自身も気づかぬうちに、彼女の上唇と下唇がわずかに離れて、半開きになっていた。視線の先には大きな黒い円形の鉄板がある。店主が鉄板に生地を落とし、木べらで薄く広げると、あたりにふわりと甘い香りが広がる。女の子と龍、百々世の3人はうっとりと目を閉じた。すると意識はふっと現実を離れ、まだ見ぬ仏蘭西の異国情緒が彼女らの心に描かれるのだった。少女は焼きあがったばかりのクレープを受け取ると、目を細めて弾むように小走りで駆けていった。
「ほら百々世ちゃん、お先に注文どうぞ。」
百々世は龍にうながされ、ズラリと並んだクレープの食品サンプルを目で追った。タレ目の瞼の端から端に、ブルーグレーの瞳が動いた。龍は彼女の視線をたどっていくと、その先には”たっぷりフルーツと濃厚クリームのチャーミングメルヘンスペシャル”に行き当たった。他のクレープと比べてもひときわ色とりどりで、真ん中にはハート型のブラウニーまであしらってある。龍が見たところ、このお店で一番かわいらしいメニューだ。
(さぁ、自分の気持ちに素直になって、注文しちゃいなさい!)
という龍の気持ちとは裏腹に、百々世はなかなか声が出ない。
(こっ…これを食べてみたい…!でも荒くれもので誰もが恐れる大蜈蚣のおれが、みんなが見てる中でこんな乙女っぽいのを注文したら、イメージが壊れて恥ずかしい…でも、せっかくのチャンスを逃したらきっとこの先後悔するんじゃねぇか?…あわわっ、後ろの人も並んで待ってるから早く決めないと…ええい!)
「たっぷり…
意を決して口を開いた百々世を見て、龍は眉間をキリリと寄せて、握りこぶしを作って応援の念を送る。
「たっぷり野菜とえびアボカドのそば粉ガレットを…」
龍はずっこけそうになった。店主は大きな円形の鉄板に灰色のそば生地を落とし、木べらで薄く広げると、あたりにはふわりとそばの香りが広がる。龍と百々世は先ほどと同じように目を閉じた。今度はまだ見ぬ仏蘭西の異国情緒は彼女らの心には描かれず、代わりに信州の田舎情緒が彼女らの心に描かれたのだった。
「ほっ、ほらっ、いろんな野菜が入ってて栄養がありそうだし、そば粉は小麦粉よりタンパク質が多いしなッ!…」
上ずった早口で、謎の弁明を始める百々世の広い背中は、心なしか哀愁が漂っていたという。龍は(仕方ないわねぇ~)という流し目をチラッと百々世に送り、
「私はたっぷりフルーツと濃厚クリームのチャーミングメルヘンスペシャルをお願い。」
と、サラリと注文してしまった。
「どう?おいしい?」
「うん。」
「素っ気ないわねぇ~。食レポしてみてよ。私のは、焼きたての生地の上品な小麦の香りが鼻をくすぐったと思ったら、間髪を入れずに洋梨や苺のさわやかな果汁があふれ出て、まるで果樹園にいるようだわ。かと思うと、優しい甘さのクリームが全体をまとめ上げて、果物のほのかな酸味とハーモニーを奏でていて素晴らしいわ。」
「こっちのやつもね…野菜がしゃきしゃきしててえびがちょうどよくしょっぱくておいしい。」
「うふふっ。やっぱ言葉じゃわかりかねるわね。どう?取り換えっこしましょうよ。」
龍のクレープはたった今大層な言葉を並べた割には、味見程度にかじられただけだった。龍は百々世のガレットをひったくるように受け取ると、自分の色とりどりのクレープを百々世に渡した。百々世は目をぱちくりさせながら、自分の手に収まったクレープと龍を交互に見ている。龍は自分の手に取ったガレットの、百々世の歯型にかじり取られた部分にパクッと食いつき、
「へぇ~、そばのワイルドな風味と野菜の旨味、ほろ苦さが加わって、お酒が欲しくなる味ね!蒸しエビからのお出汁っぽい味もいいし、ちょっとパサつきがちなのをアボカドの油っぽさがカバーしてるわ。百々世ちゃん、そっちはどう?」
「くだものがジューシーでクリームが甘くておいしい。」
百々世が目を輝かせながらクレープを食べる姿を、龍は満足そうに眺めていた。
食べ終わった二人は、手をつなぎながらそぞろ歩いて岐路についた。道の左手に目をやると、梅林に夕日がさしている。気の早い梅がすでに花びらを広げんとつぼみを膨らませていた。百々世は龍とともに歩む一定のリズムにうながされて思案にふけった。
(…俺は虹龍洞でつるはしやスコップをふるっているときは、自信に満ちていて頼りがいのある奴だと自分でも思っているけど、一歩外に出てこうして里に下りてくると、まるで小さい子供だな。その点、龍は堂々としたもんだよ。どこへ行っても龍が中心になるんだ。流れるように弁が立って…。俺が行きたかったクレープ屋に連れてきてもらったうえに、注文まで龍にやってもらったようなもんさ。クレープを注文するときに俺は素直に自分の気持ちをそのまま出せなかったけど、龍に感謝を伝えるのだけは恥ずかしがらずにやろう。そのために俺が知ってる少ない言葉だけじゃ、安っぽいものになっちまうよな。)
そんなことを考えつつ歩いていると、もう目の前の辻の一方が百々世の住む洞で、もう一方が龍の住む山なので、ここでお別れだ。二人とも足を止めると、龍が話しかけた。
「今日は私のわがままに付き合ってくれてありがとね、百々世ちゃん。それじゃまた…」
言い終わらるか終わらないかのところで、百々世が龍の目の前にずいっと出て、龍の体は百々世の長い腕と厚い体にすっぽりと包まれてしまった。百々世の体温が伝わってくる。
龍は軽く顎を上げると、百々世の顔がそこにはあった。(近くで見ても肌理が細かいのね…)と、関係のないことを観察したりもした。龍はなんだか体の奥からきゅんきゅんしたものが湧き上がってくるのを感じた。
百々世は微笑んで、
「お礼を言うのは俺のほうだぜ。またな。」
と低い声で言うと、抱擁を解いて意気揚々と帰っていった。
「最後の最後に大逆転を食らっちゃったわ…。」
龍は腰が抜けそうになりながら、自分の動悸を聞いたのだった。
ひたすらかわいらしい2人でした
こういうのが好きなんだという情熱を感じました