「おや、これはこれは」
そういいながら少女が土の中からぼこり、と体を這い出して来る。
非常に奇妙な光景ではあるがさらに不思議なことに少女の体には土一つ付いていない。
その少女──というより幼子と言った方が似つかわしいくらいの見た目の彼女──は白い丸に黒い点がついた
まるで目玉のようなこれまた不思議な飾りのついた帽子をかぶっていた。
だがそんなことも霞む程その幼い容姿からは想像もつかない、まるで何百年と生きなければ出せないほどの妖艶な笑みがその顔には浮かんでいた。
「天狗の犬がこんな所まで何をしに来た?」
その目線の先には地面から出てきた少女よりも背こそ高いもののまだ少女と呼べるほどの娘がいた。
だがその体格には不釣り合いな幅広の大剣を背負い、左手には盾を携え、更に頭には犬に似た耳が生えていた。
ただその少女もまたそれ以上に目を引くのが容姿に似つかないまるで老練の兵士を彷彿とさせるほどの鋭い視線で正面を見据えていた。
「何って、ただの監視業務ですよ。守矢の諏訪子様」
「ほう、とぼける気かい」
「いや、もう半日はここに居ますよ」
「………」
「来たとおっしゃいましたけど来たのは諏訪子様の方では?」
「………暇なんだよ~!かまえ~!」
そう言いながら諏訪子と呼ばれた少女は目の前の娘に飛びつく。
娘はひょい、と軽い身のこなしで避けて諏訪子はびたっ、と地面に突っ込むようにして倒れる。
諏訪子は無言のまま土を払いながら立ち上がり拾った木の棒を娘に向ける。
「あんた、名前は」
「…椛です。犬走椛」
「まったく。最近の天狗はノリが悪くて困るよ」
「天狗なんて昔から頑固者か腹黒かしかいないでしょう」
「言うねえ。じゃああんたはどっちなんだい?」
「私は──」
椛はどう答えようかと思案している所に諏訪子がこちらも見ずに地面にガリガリと木の棒で何か書いていた。
「………どっちでもいいじゃないですか」
「女は謎がある方が~ってやつかい?なんにしろそんな睨んでちゃ美人も何もないだろう」
「これは申し訳ない。能力に集中するとどうしても眉間に力が入ってしまって」
「へえ、なんて能力だい?」
「千里先まで見通す程度の能力ですが」
「それはあんたら共通の物かい?」
「………それは私の口からはどうにも」
「ああ、言いたく無いならいいよ。しかしあんたそれで素面かい?あんたは将来尻に敷くタイプだね」
「…愛想がなくてすいませんね。生まれつきなもんで」
「私は嫌いじゃないよ、気が強いのは」
「……そうですか」
「ところでさー、これ」
と言って諏訪子が地面に書いていたものを木の棒で軽く叩く。
それは丸と線を適当に落書きしたようにしか見えなかった。
「なんだい?」
と椛に問いかける。何、と聞かれても椛はわからなかった。
そもそも書いた本人がわからないことをなぜ私がわかると思ったのか。
やはり神のような上の考えることは私には理解できないな、という結論に達し深く考えないようにした。
「何、と言われましても──」
「あれだろ、たしかトンツーって言うんだろ」
理解した時に全身の鳥肌が立った。わからないと言おうとしたが椛には一つ頭に思い浮かんだものがあった。
だがそれはあまりにも荒唐無稽すぎて無意識の内に選択肢から外してしまっていた。
それはいくら神とはいえこちらを見もせずに尚且つ見せてもいない後ろの尻尾の動きを見て、さらにそれが暗号だと理解できるな
パァン!
という音に思考が遮られ、反射で体が強張る。なんてことはない諏訪子がただ手を叩いただけの様は猫だましなのだが、
動揺と緊張がどちらもピークに達しかけていた椛には強張りを止められず、無防備なのを曝け出すしかなかった。
ただその硬直だって1秒もかからない。だが諏訪子はその刹那の硬直が終わるより更に早く肉薄し、椛の首に手をかけ終えていた。
「言ったろ、気が強いのは好きだって。その方が堕とす甲斐があるってもんだろう?」
物騒な物言いをする諏訪子は人を食う蛇のような顔──とは真逆でその顔は我が子を見る母親のように優しかった。
首に掛けられている手も子を抱きしめる程度の力しか掛かっていない。特別な力がなくとも簡単に跳ね除けられるほどだ。
「無理強いはしないよ。でも私はあんたのことをを知りたくなったんだ。だからあんたの方から来てくれないか?」
と、もう片方の手をさらに椛の首に掛け、体重をかけ軽く引き寄せる。その重さも先ほどの人外の動きとは裏腹に見た目通りの重さしかなく、
大の男であれば軽く持ち上げられる程だった。椛は軽く身を屈むことになったが諏訪子はそれ以上の力はかけてこない。
まるでそれ以上は必要ない、ここまで押せばあとは勝手に岩が坂を転がり落ちるように堕ちてくるだけだという様に。
実際これまでにも椛は何もしなかった。いや、できなかったという方が正しい。ただ勿論これは椛が人一倍弱いというわけではなく、
むしろ力は常人を遥かにしのぎ、天狗内の戦闘力だけで言えば上から数えたほうが早いくらいであった。
確かに諏訪子の接近速度は人間には出せない速度だったが、速さだけで言うならこれより速いものを椛は既に知っている。
平常時であれば半歩身を引き、相手が相手であれば切りかかるくらいの力は椛にはあった。
だがそれを止めたのがあの猫だましだった。あのタイミングより早ければ猫だましなんかに体が反応することは無かった。
逆にあれより遅ければあの音に反応して臨戦態勢を取っていたかもしれない。椛の緊張が張りつめるまさにあの瞬間だからこそここまで追い込まれた。
確かに神である諏訪子に勝てる力は椛にはないだろう。だが椛は自分より強い存在は既にいくらでも居ることを知っており、
格上だからと言って怯んだり怖気づくような性格でもなかった。
椛はその力ではなく、相手を油断させるための話術や相手の機微を悟る観察眼といった技量の高さに恐怖していた。
凡人であればあまりの力量差に感情が麻痺して恐怖することすら出来なかっただろう。
だが椛は、弛まぬ鍛錬をし、相手が本当に持っている力を見極めることが出来たからこそ恐怖している。
では恐怖によって動けないでいるかというと結果的にそうなのだが正確には少し違う。本当に椛を支配しているのは恐怖を塗りつぶしてなお有り余る快楽であった。
目が離せなくなる宝石のような瞳に、神に包まれていると錯覚する程の安心感のする手、脳髄を溶かすように甘い声。
畏れてもなおこの人の為になりたい、全てを捧げたいという名付けるなら自己犠牲欲とでも言う様な物に椛は支配されていた。
むしろその行動を抑制しているのが恐怖であり、恐怖しているから動かずに居られたというのが正しい。
だがそれも時間の問題だった。光に集まる虫の様に、渇いた者が水場を見つけた様に、危険だとわかっていてもそれを意思だけで止めるのは不可能なところまで来ていた。
同性である椛にさえ蠱惑的に映る唇がだんだんと近づいてくる。この後に諏訪子ではなく自分から近づいていることに気づき、
既に体が理性のコントロールを離れかけていることを理解した。おそらく十秒と待たずにかろうじて残っている理性も消し飛ぶことも。
「こ、こ、これから起こる無礼をお許し頂けるのならば、さ、先ほどの暗号をお、おしえます!」
呂律も回っておらず、自分が何を口走っているかも曖昧であったが、かろうじでて動く口だけで言葉を発する。
「ほう?これから。」
「ここから、あんたはあたしに何かしてくれると、出来ると、そう言ってるんだね」
諏訪子が何か期待するように手を椛の首から離す。
遊びに夢中になっていた子が親を見失ったことに初めて気が付いた様な泣き叫びたくなる程の喪失感が椛を襲う。
だがそのおかげかいくらかの理性が戻ったので屈んでいた身を正し直立する。
しかし手を離されただけでこの喪失感ではこれ以上のことは無理だ。椛にはもうここから逃げ出す、離れるというのは自力では選べなかった。
「──そんな顔をするなよ。本気で遊びたくなっちまう」
椛は瞳から大粒の涙をぼろぼろと流していた。恐怖なのか、惨めさなのか、喪失感なのか、はたまたこれ以上見てはいけないものを見ないための防衛本能なのか、本人にもわからない。
ただそれでも椛は涙も拭かず直立不動を崩さない。これが椛の今できる唯一の抵抗だった。
「……いいよ。言ってみな」
諏訪子から赦しが出る。
「い、異変発生です!」
諏訪子がもたれ掛かるように自然な動作で後ろに下がる。そこに頭上から光の玉が降ってくる。
ジジジ、という高圧電線のような機械的な音をしながら光球は諏訪子の鼻先を掠める。それでもなお瞬きもせず椛から目を離さない。
光球はそのまま地面に着弾し、周囲に土煙が舞う。土煙の中でも少しも動じず、諏訪子は手を上に掲げ振り下ろす。
土煙は磁石に吸い寄せられる様に自然ではありえない動きで地面に落ちる。
視界が晴れた後も諏訪子は上空を一瞥もせずに周囲を見回す。椛の姿はもうそこにはなかった。
頭上から先手ひっしょう!という聞き慣れた声がして、諏訪子は諦めたように苦笑いをし、ここでやっと頭上を見る。
「相手くらいは見ようよぉ~早苗ぇ~」
「あれ?諏訪子様でしたか?異変って聞いたんですけど」
「あれは天狗の誤報だよ。後であたしから言っとくから許してやってくれ」
「まぁいいんですけどぉ。せっかく張り切ってきたのになー」
と言いながら当たり前のように空中に浮いていた早苗と呼ばれた少女は地面に降り立ち、足元の石を蹴る。
「おいおい。それより謝罪も無しかい?親しき仲にも礼儀あり、だよ」
「え~。あんなの諏訪子様ならなんともないでしょ。ほら、赤子の手でパンチ!ってやつですよ」
「赤子の手を捻る?」
「そう!それです!」
「何もかもが違うよ…」
「それより!諏訪子様なんか嬉しそうじゃないですか?」
「あー、いや、まーちょっと面白い奴がいてね」
「ふーん…やりすぎて泣かせたりしないでくださいね。これからも付き合いあるんですから」
早苗が全てを見透かしたかの様な口調で言い、諏訪子をのぞき込む。
「あー、うん、善処するよ」
諏訪子が目を逸らしながら言う。
「……まさか、もう泣かしたりしてないですよね?」
「………」
「うわー、諏訪子様の方がよっぽど悪いじゃないですか!悪女ですよ悪女!」
「そういう意味でもないしそういう問題じゃない!」
その後もぎゃーぎゃーと言い合いながら二人は歩いてその場を後にする。
あとにはクレーターの出来た地面だけが残っていた。
そういいながら少女が土の中からぼこり、と体を這い出して来る。
非常に奇妙な光景ではあるがさらに不思議なことに少女の体には土一つ付いていない。
その少女──というより幼子と言った方が似つかわしいくらいの見た目の彼女──は白い丸に黒い点がついた
まるで目玉のようなこれまた不思議な飾りのついた帽子をかぶっていた。
だがそんなことも霞む程その幼い容姿からは想像もつかない、まるで何百年と生きなければ出せないほどの妖艶な笑みがその顔には浮かんでいた。
「天狗の犬がこんな所まで何をしに来た?」
その目線の先には地面から出てきた少女よりも背こそ高いもののまだ少女と呼べるほどの娘がいた。
だがその体格には不釣り合いな幅広の大剣を背負い、左手には盾を携え、更に頭には犬に似た耳が生えていた。
ただその少女もまたそれ以上に目を引くのが容姿に似つかないまるで老練の兵士を彷彿とさせるほどの鋭い視線で正面を見据えていた。
「何って、ただの監視業務ですよ。守矢の諏訪子様」
「ほう、とぼける気かい」
「いや、もう半日はここに居ますよ」
「………」
「来たとおっしゃいましたけど来たのは諏訪子様の方では?」
「………暇なんだよ~!かまえ~!」
そう言いながら諏訪子と呼ばれた少女は目の前の娘に飛びつく。
娘はひょい、と軽い身のこなしで避けて諏訪子はびたっ、と地面に突っ込むようにして倒れる。
諏訪子は無言のまま土を払いながら立ち上がり拾った木の棒を娘に向ける。
「あんた、名前は」
「…椛です。犬走椛」
「まったく。最近の天狗はノリが悪くて困るよ」
「天狗なんて昔から頑固者か腹黒かしかいないでしょう」
「言うねえ。じゃああんたはどっちなんだい?」
「私は──」
椛はどう答えようかと思案している所に諏訪子がこちらも見ずに地面にガリガリと木の棒で何か書いていた。
「………どっちでもいいじゃないですか」
「女は謎がある方が~ってやつかい?なんにしろそんな睨んでちゃ美人も何もないだろう」
「これは申し訳ない。能力に集中するとどうしても眉間に力が入ってしまって」
「へえ、なんて能力だい?」
「千里先まで見通す程度の能力ですが」
「それはあんたら共通の物かい?」
「………それは私の口からはどうにも」
「ああ、言いたく無いならいいよ。しかしあんたそれで素面かい?あんたは将来尻に敷くタイプだね」
「…愛想がなくてすいませんね。生まれつきなもんで」
「私は嫌いじゃないよ、気が強いのは」
「……そうですか」
「ところでさー、これ」
と言って諏訪子が地面に書いていたものを木の棒で軽く叩く。
それは丸と線を適当に落書きしたようにしか見えなかった。
「なんだい?」
と椛に問いかける。何、と聞かれても椛はわからなかった。
そもそも書いた本人がわからないことをなぜ私がわかると思ったのか。
やはり神のような上の考えることは私には理解できないな、という結論に達し深く考えないようにした。
「何、と言われましても──」
「あれだろ、たしかトンツーって言うんだろ」
理解した時に全身の鳥肌が立った。わからないと言おうとしたが椛には一つ頭に思い浮かんだものがあった。
だがそれはあまりにも荒唐無稽すぎて無意識の内に選択肢から外してしまっていた。
それはいくら神とはいえこちらを見もせずに尚且つ見せてもいない後ろの尻尾の動きを見て、さらにそれが暗号だと理解できるな
パァン!
という音に思考が遮られ、反射で体が強張る。なんてことはない諏訪子がただ手を叩いただけの様は猫だましなのだが、
動揺と緊張がどちらもピークに達しかけていた椛には強張りを止められず、無防備なのを曝け出すしかなかった。
ただその硬直だって1秒もかからない。だが諏訪子はその刹那の硬直が終わるより更に早く肉薄し、椛の首に手をかけ終えていた。
「言ったろ、気が強いのは好きだって。その方が堕とす甲斐があるってもんだろう?」
物騒な物言いをする諏訪子は人を食う蛇のような顔──とは真逆でその顔は我が子を見る母親のように優しかった。
首に掛けられている手も子を抱きしめる程度の力しか掛かっていない。特別な力がなくとも簡単に跳ね除けられるほどだ。
「無理強いはしないよ。でも私はあんたのことをを知りたくなったんだ。だからあんたの方から来てくれないか?」
と、もう片方の手をさらに椛の首に掛け、体重をかけ軽く引き寄せる。その重さも先ほどの人外の動きとは裏腹に見た目通りの重さしかなく、
大の男であれば軽く持ち上げられる程だった。椛は軽く身を屈むことになったが諏訪子はそれ以上の力はかけてこない。
まるでそれ以上は必要ない、ここまで押せばあとは勝手に岩が坂を転がり落ちるように堕ちてくるだけだという様に。
実際これまでにも椛は何もしなかった。いや、できなかったという方が正しい。ただ勿論これは椛が人一倍弱いというわけではなく、
むしろ力は常人を遥かにしのぎ、天狗内の戦闘力だけで言えば上から数えたほうが早いくらいであった。
確かに諏訪子の接近速度は人間には出せない速度だったが、速さだけで言うならこれより速いものを椛は既に知っている。
平常時であれば半歩身を引き、相手が相手であれば切りかかるくらいの力は椛にはあった。
だがそれを止めたのがあの猫だましだった。あのタイミングより早ければ猫だましなんかに体が反応することは無かった。
逆にあれより遅ければあの音に反応して臨戦態勢を取っていたかもしれない。椛の緊張が張りつめるまさにあの瞬間だからこそここまで追い込まれた。
確かに神である諏訪子に勝てる力は椛にはないだろう。だが椛は自分より強い存在は既にいくらでも居ることを知っており、
格上だからと言って怯んだり怖気づくような性格でもなかった。
椛はその力ではなく、相手を油断させるための話術や相手の機微を悟る観察眼といった技量の高さに恐怖していた。
凡人であればあまりの力量差に感情が麻痺して恐怖することすら出来なかっただろう。
だが椛は、弛まぬ鍛錬をし、相手が本当に持っている力を見極めることが出来たからこそ恐怖している。
では恐怖によって動けないでいるかというと結果的にそうなのだが正確には少し違う。本当に椛を支配しているのは恐怖を塗りつぶしてなお有り余る快楽であった。
目が離せなくなる宝石のような瞳に、神に包まれていると錯覚する程の安心感のする手、脳髄を溶かすように甘い声。
畏れてもなおこの人の為になりたい、全てを捧げたいという名付けるなら自己犠牲欲とでも言う様な物に椛は支配されていた。
むしろその行動を抑制しているのが恐怖であり、恐怖しているから動かずに居られたというのが正しい。
だがそれも時間の問題だった。光に集まる虫の様に、渇いた者が水場を見つけた様に、危険だとわかっていてもそれを意思だけで止めるのは不可能なところまで来ていた。
同性である椛にさえ蠱惑的に映る唇がだんだんと近づいてくる。この後に諏訪子ではなく自分から近づいていることに気づき、
既に体が理性のコントロールを離れかけていることを理解した。おそらく十秒と待たずにかろうじて残っている理性も消し飛ぶことも。
「こ、こ、これから起こる無礼をお許し頂けるのならば、さ、先ほどの暗号をお、おしえます!」
呂律も回っておらず、自分が何を口走っているかも曖昧であったが、かろうじでて動く口だけで言葉を発する。
「ほう?これから。」
「ここから、あんたはあたしに何かしてくれると、出来ると、そう言ってるんだね」
諏訪子が何か期待するように手を椛の首から離す。
遊びに夢中になっていた子が親を見失ったことに初めて気が付いた様な泣き叫びたくなる程の喪失感が椛を襲う。
だがそのおかげかいくらかの理性が戻ったので屈んでいた身を正し直立する。
しかし手を離されただけでこの喪失感ではこれ以上のことは無理だ。椛にはもうここから逃げ出す、離れるというのは自力では選べなかった。
「──そんな顔をするなよ。本気で遊びたくなっちまう」
椛は瞳から大粒の涙をぼろぼろと流していた。恐怖なのか、惨めさなのか、喪失感なのか、はたまたこれ以上見てはいけないものを見ないための防衛本能なのか、本人にもわからない。
ただそれでも椛は涙も拭かず直立不動を崩さない。これが椛の今できる唯一の抵抗だった。
「……いいよ。言ってみな」
諏訪子から赦しが出る。
「い、異変発生です!」
諏訪子がもたれ掛かるように自然な動作で後ろに下がる。そこに頭上から光の玉が降ってくる。
ジジジ、という高圧電線のような機械的な音をしながら光球は諏訪子の鼻先を掠める。それでもなお瞬きもせず椛から目を離さない。
光球はそのまま地面に着弾し、周囲に土煙が舞う。土煙の中でも少しも動じず、諏訪子は手を上に掲げ振り下ろす。
土煙は磁石に吸い寄せられる様に自然ではありえない動きで地面に落ちる。
視界が晴れた後も諏訪子は上空を一瞥もせずに周囲を見回す。椛の姿はもうそこにはなかった。
頭上から先手ひっしょう!という聞き慣れた声がして、諏訪子は諦めたように苦笑いをし、ここでやっと頭上を見る。
「相手くらいは見ようよぉ~早苗ぇ~」
「あれ?諏訪子様でしたか?異変って聞いたんですけど」
「あれは天狗の誤報だよ。後であたしから言っとくから許してやってくれ」
「まぁいいんですけどぉ。せっかく張り切ってきたのになー」
と言いながら当たり前のように空中に浮いていた早苗と呼ばれた少女は地面に降り立ち、足元の石を蹴る。
「おいおい。それより謝罪も無しかい?親しき仲にも礼儀あり、だよ」
「え~。あんなの諏訪子様ならなんともないでしょ。ほら、赤子の手でパンチ!ってやつですよ」
「赤子の手を捻る?」
「そう!それです!」
「何もかもが違うよ…」
「それより!諏訪子様なんか嬉しそうじゃないですか?」
「あー、いや、まーちょっと面白い奴がいてね」
「ふーん…やりすぎて泣かせたりしないでくださいね。これからも付き合いあるんですから」
早苗が全てを見透かしたかの様な口調で言い、諏訪子をのぞき込む。
「あー、うん、善処するよ」
諏訪子が目を逸らしながら言う。
「……まさか、もう泣かしたりしてないですよね?」
「………」
「うわー、諏訪子様の方がよっぽど悪いじゃないですか!悪女ですよ悪女!」
「そういう意味でもないしそういう問題じゃない!」
その後もぎゃーぎゃーと言い合いながら二人は歩いてその場を後にする。
あとにはクレーターの出来た地面だけが残っていた。
……諏訪子出現はそれだけで異変扱いなのだろうか。祟り神ゆえ致し方なしか。
短いながらも印象に残る軽快なお話でした