吉弔。龍の卵から生まれる幻獣。
龍が生む2つの卵のうち一方が龍となりもう一方は吉弔となる。
目を開けて初めて見た空には龍が空へと舞っていた。
あれが選ばれた者なのだと本能的に理解した。
同時に、私が選ばれなかった者なのだと理解した。
生まれながらにして選ばれなかった者。
世界に選ぶ側があって、選ばれる側があって、
そして選ばれない者がいるなら。
私は誰に、何に、選ばれなかったのだろうか。
群雄割拠、動物霊達が争う畜生界。
力を持つ妖怪を筆頭としたいくつかの組織同士で縄張り争いが続くこの地獄の、少し昔のこと。
ひと昔前であっても畜生界が争い続きであることに変わりはなかった。少しだけ違うのは、饕餮率いる剛欲同盟が唯一力のある組織として畜生界を蹂躪していた。
力のある妖怪、饕餮の登場によりそれまであった無数の小規模な組織は続々と饕餮の傘下に下り、それらがいつしか同盟の名として呼ばれるようになったという。畜生界は剛欲同盟とそれ以外の者たちによる争いが続いていた。
彼女が、現れるまでは。
ある時、また一人の動物霊が畜生界に落ちてきた。
その動物霊が他の者と違ったのは、彼女は挨拶代わりと言わんばかりに襲ってきた剛欲同盟の者達を一人で返り討ちにしたということだった。
嘘か真か、ある者はその強さにあやかろうと、ある者はその強さを確かめようと、噂はそれぞれの目的を刺激し、翼を生やしたかのように畜生界全体を巡った。
彼女の名は驪駒早鬼といった。
早鬼は強かった。一対一なら敵う者はおらず、一対多であってもその差は歴然だったという。幾多の力自慢達が彼女に敗れた。
そんな相手に饕餮は様子見を続け、直接勝負を挑むことはなかったが、同盟の者達はその圧倒的な数に物を言わせ、来る日も来る日も早鬼へと戦いを挑んだ。剛欲同盟の名の下に。
しかし、剛欲同盟のその行動は早鬼を打ち倒すどころか逆効果であった。
強い、ということは来る日も来る日も戦いに明け暮れる畜生界の動物霊にとっては魅力であった。ある者はその強さに恐怖し、ある者は戦いの中でその強さに平伏し、剛欲同盟ではなく彼女に付いていくことを決めた。
早鬼本人はというと、その持ち前の面倒見の良さから、戦った者も降伏した者も付いてきた者達を快く受け入れた。そうしている内に集まった彼らをひとまとめとして組を名乗ることとした。勁牙組の発足である。
勁牙組は勢力を伸ばし、畜生界は追われる剛欲同盟と追う勁牙組の二大勢力の図となった。
そうして勁牙組ができて少しして、また一人の動物霊が畜生界に現れた。
(……あぁ、ここが)
ぼんやりとした意識の覚醒、そして徐々に身体の感覚が戻ってくる。
そして理解する。ここが私の落とされた地獄。畜生界だと。
自分の身体の感覚を取り戻し、次に感覚が伝えたのは周囲の様子。何者かが近くにいる。いや、囲まれている。
そしてそれが敵意であることも即座に理解する。
(なるほど……)
畜生界は日々強者達が争う、文字通り弱肉強食、畜生共の地獄。そんな所に新参者が一人落とされればどうなるか。考えるに容易いことである。
いま身体を起き上がらせようと、しばらくそのまま倒れていようと、これからの展開にそう違いはないだろう。ではどう行動すべきか。
(……周囲の気配は、10体……20体は居ない程度。実力は……大したことない。)
状況把握、そして取るべき戦略を頭の中で組み立てる。
痺れを切らしたのか、彼女を取り囲んでいた一体や動物霊が攻撃に出る。しかし、その攻撃は空振りに終わる。
上空、人型の影。
短めの金髪に動物的な、それでいて異形の角を宿し、スラリとした細身の身体とその身体には不釣合な甲羅と尻尾。
吉弔八千慧の姿が畜生界の昏い夕闇に照らされた。
(13……14体か)
上空からの視点で八千慧は包囲網の構成を瞬時に把握する。やや包囲の甘い一画を見切り、そこに配置されている一体に向けて着地する。ふぎゃあ、と情けない声が足元で呻いた。
「失礼」
失礼とも何とも思っていない空虚な言葉を足蹴にした動物霊に掛ける。
踏みつけた勢いでそのまま包囲を難なく抜ける。次は逃走戦の開始だ。呆気に取られた一瞬のあと、動物霊達の怒号が八千慧の背後で聞こえた。
夕闇の畜生界の森を八千慧は走る。走りながら思案する。
(追手を全滅させることはそう難しくはない。難しくはない、が……)
戦闘に身を預けながら八千慧は思案する。
(集団で私を包囲していたということは、こいつらは仲間同士……組織として動いている可能性が高い。完膚無きまでに叩きのめしてメンツを潰せば報復の懸念がある)
背後から飛んでくる、数だけは多い攻撃を躱しながら、相手の力量が大したことがないことはわかってきた。しかし群による数の暴力というのは厄介だ。
まだ落ちてきたこの世界の状況がわからない中、大きな動きは危険だ。
(ならば、どうする?)
難しい塩梅だ。舐められすぎず、畏れられすぎず、"単なる新参者"としてこの場を逃げ遂せる必要がある。
適当に攻撃を受け、負傷したように見せかけ、しかし追ってこれない程度のダメージを与える、これでどうにか死にかけながら逃げた、逃げ足だけの大したことのない奴、としてこの場もその後も切り抜ける。それがベターだ。
そう思っていたところにまた弾が飛んでくる。棘状の弾をわざと受け、少しよろめく、振りをする。背後から「よし!」と声がする。
少し逃げるスピードを落とすと、チャンスとばかりに二体の動物霊が飛び込んでくる。わかりやすい動きだ、振り向き様に回し蹴りを入れて吹き飛ばす。
受けた弾の傷口を拭い、焦りの様子を見せなかまら、八千慧は冷静にこの調子で少しづつ戦力を削る筋書きを頭の中で書き連ねていく。
「おおっと、そこまでだよ、新入り!」
その脚本を書いている最中、飛び入りの役者が現れた。
上空から声がする。
「新入りの躾に行ったら取り逃したと聞いて駆け付けてみれば……。」
楽しそうに、心底楽しそうに語り掛ける。
「なかなか骨のあるやつがいるじゃないか」
黒い羽がヒラヒラと落ちてくる。
羽の持ち主は空から私を見下ろしていた。見たことのない風貌の服を纏ったその女からは黒い翼が生えていた。
ここは地獄、畜生界と聞いたがこの姿を見ればまるで死を運ぶ黒い天使のようにも見間違えるかもしれない。
「……」
こいつは、危険だ。私の全身全霊が私に警告している。
「普通の奴ならこの世界がどういうところなのか、新入りに理解させる程度のことはできるはずなんだが……。いやはや失礼した、全然相手にならなかったようだね。」
地上に降り立ち、一歩。躊躇なく前進する。
「こいつらじゃあお前は満足できないだろ?私が相手をしてやるよ。」
笑顔。とても攻撃的な笑顔だ。
「勁牙組組長、驪駒早鬼が直々に、ね。」
相手の笑みにこちらも笑みで返す。外見を取り繕うのは慣れている。
「……大層な肩書きと御名前で、私なんかには勿体ありませんね」
組長と言ったか。長であるのに自分から戦おうとはどうやらよっぽど脳筋……いや、戦闘狂のようだ。
「そう謙遜するなよ、楽しもうじゃないか」
戦う気満々だ。しかしなるべくなら回避したい。
「降参する、と言ったら?」
「はは、そんな気はさらさら無いだろ?上手いことこの場を逃げるか……」
表情は変えずに、しかし鋭い視線が私を射抜く。
「不意打ちで私をやろうって目をしてるぜ」
読まれている。なるほど戦闘狂だがあながちそれだけではない。頭も多少は回るタイプの戦闘狂だ。
「さて、お喋りはそろそろ終わりにしようか」
……来る。
逃げの手は無くしたくないが成功率は低い。それなら戦うしかないが、恐らく……私はこいつに敵わない。良くて引き分けだろうが、仮に引き分けたとして、その時私の身体の状態は決して五体満足、良好な状態とはいかないだろう。
真正面からなら敵わない。
……そう、真正面からなら。
突然、地面に亀裂が入る。勿論入れたのは私だが。
私の足元から地に這わせた亀甲形の光線が私を中心とした広範囲の地面を破壊した。
周りから私を取り囲んでいた動物霊達の驚きの声と悲鳴が聞こえる。彼らの姿も私の姿も土煙の中へと消えていった。
「おっと」
土煙に紛れ身を隠す瞬間、驪駒が再度上空に飛んでかわしたのを見た。当然だ。飛べるのだから奇襲といえどわざわざ足元からの攻撃を受けることはない。
「目眩まし……と、他の奴等の無力化、か。さて、逃げたか、それとも隙を伺っているか……」
やはり戦闘に対しては頭が切れるようだ。相手の言う通り、砂埃による目眩まし、そして周りにいた動物霊達は全て飛べない者達だったことから足場を崩して無力化したのだが、瞬時に判断し見抜かれている。
他の動物霊を無力化して包囲を解いたところで、驪駒早鬼という最大の障害をどうにかしなくてはいけない状態は変わらない。この煙を使い上手く逃げたとしても、彼女の飛行速度ならすぐに私を見付け、追いつくことなど容易いだろう。さらにここに来たばかりの私には土地勘が無いため地の利も望めない。逃げは悪手だ。
地上にいた奴等と異なり彼女は飛べるので地表を崩した奇襲など効かないことは分かりきっていた。この煙が晴れるまでに次の手を仕込む。
煙で相手から姿を隠したが、それはつまり私からも相手の姿は見えないということだ。
(さて……攻めるにしても、ここから相手の位置をどう探るか……)
と思っていたら、煙の上から声がする。
「おーい!逃げてはいないんだろ???さっさと掛かってきな!!」
(やはり馬鹿だな……)
声のおかげで空にいる相手の位置を特定できた。もしかしたら声を別のところから反響させて位置を誤認させている……という可能性も考えたが、即座に脳裏から排除した。そんな小細工を考えるような相手ではなさそうだ。
声のした座標目掛けて弾を放つ。
「おおっと!」
撃たれた弾幕を彼女は空で華麗に躱す。そして弾幕が撃たれた場所とは別の所から、煙に紛れて驪駒の背後に姿が現れる。
くるりと驪駒は空中で反転し、強力な蹴りを放つ。黒い羽が土煙の上空に散らばる。
「後ろから来ると思っていたよ!」
たまらず彼女の強力な後ろ蹴りを喰らう。
……私ではなく、哀れな動物霊の体躯が。
「……そう言うと思ってましたよ」
土煙から先に出てきたのは私ではなく、先程土煙の中で気絶していた動物霊の一体だった、というわけだ。丁度私と大きさの似た者を煙の中から空に向かって放り投げ囮としたのだ。
「!!」
攻撃した相手が囮だったことと、裏の裏をかいて現れた私の姿により二重の同様が彼女から見て取れる。
反転した彼女のさらに背後からようやく私は土煙から姿を現し、至近距離から弾幕を放つ。
「……このっ!」
しかし彼女は空中で、しかも蹴りを後ろに放った直後の不安定な体勢からさらに体を捻り、私の弾幕を自身の体術で弾き飛ばす。
「……化け物め」
一撃でも、と思ったがまさか相殺されるとは。一旦距離を取り再度弾幕を張り距離を保つ。
しかし、距離は即座に縮まる。
驪駒は弾幕を物ともせず私に突っ込んできた。チリチリと弾幕の擦れる音がする。
「逃さないよ!」
距離を取り、体勢を立て直そうとしていた私の目の前に黒翼が広がる。
「……!」
この体制では驪駒の強襲を避けきれない。かと言って彼女の攻撃を防げるほどの力を私は持ち合わせていない、詰みだ。
「チェックメイト」
……と、私が言った。
「なっ……!?」
攻撃を振り被ったままの驪駒の動きが一瞬止まる。そこへ弾幕を乗せた強力な蹴りを叩き込む。完全に無防備な状態で喰らった驪駒の身体は黒い羽根を散らしながら木々を薙ぎ倒し森の奥まで吹き飛ばされていく。環境に優しくない戦いだ。
「切り札は最後まで取っておくものですよ」
逆らう気力を失わせる程度の能力。この能力で攻撃の瞬間、驪駒の逆らう気力……つまり攻撃の意志を失わせた。一瞬でも完全な隙ができればこちらのものだ。
「なるほど、切り札ね……」
「!!」
彼女は文字通り私の目の前に飛んできた。馬鹿な、手応えはあった、はずだ。
「なら私の切り札は……私自身だ!!!」
もう一度能力を試みるが彼女の勢いは止まらない。
「2度も効くかッッ!!!」
気力だけで私の能力を跳ね除けている?そんなことがあってたまるか……!
「あぁ、これだから馬鹿は嫌い……!!」
今度こそ、私の身体に凄まじい衝撃が与えられる。衝撃に耐えられず私の身体は地上へと叩き落される。
満身創痍の身体。頭が働かない、空に視線を移す
黒い翼が浮かんでいるのが朧気に見える。
(……選ばれた者と、選ばれない者がいる。)
選ばれた者は空へ飛んでいく、遠くへ。
(……どうして、お前は選ばれる?)
選ばれなかった私は、地上に伏せたまま、その姿を見送るだけ。
(……どうして、私は選ばれなかった?)
(……どうして?)
「……へぇ」
満身創痍のはずの私の身体は立ち上がっていた。
「意外と根性あるじゃないか」
ここで負けるわけには、朽ちるわけには、いかない。
怒りか焦燥か、わけのわからない感情で胸のあたりが熱くなるのを感じる。
「……別に、貴女に負けるというのがどうにも癪だな、と思っただけ、ですよ」
その熱を感じながらも頭には冷静になれと指示を与える。考えろ考えろ、こいつを倒す方法を。逃げる方法じゃない、倒す方法だ。
「さっきのは綺麗に入ったと思ったんだけどな、立ってるのもやっとなんじゃないのか?」
「……そう見えるんですか?」
見栄を張るにはダメージを受け過ぎている。しかし考える時間を稼げと口から言葉が出て来る。
「誰が見てもそう見えると思うよ。だが……」
目の前に彼女が着地する。
「まだ私を倒そうとしてるのは驚きだ」
私の目を見て彼女は続ける
「切り札とやらも使って、そんな身体で、まだ私を倒せるとでも?」
「切り札が一枚なんて誰が決めたんですか?」
ハッタリだ。今の私に切り札はもう無い。
「むしろ戦術など幾らでもありますよ。貴女には見えていないでしょうけど」
ハッタリだがこれは本当だ。それを今考えているのだから。
……問題は、その考えた戦術の悉くが失敗に終わる予測なことだが。
「……本当に倒せる気でいるのか?私を」
そう言うと、すぅ、と空気を吸い込んだ。……来る。
次の瞬間、爆発が起きたかのような声が響いた。
それは驪駒早鬼の笑い声だった。
「……?」
私も、周りで戦いを見ていた動物霊たちもキョトンとしている。
「……ははは!」
先程までの殺意、覇気はどこへやら、彼女はスタスタと私の元へと歩いてくる。
「気に入った!気に入ったよ、お前!」
どうやら上機嫌らしい。
「私とここまで戦えた奴も、本気で私を倒そうと死ぬ気で臨んで来た奴も初めてだ!!……まぁ死んでるんだがな!私たちは!」
そう言いながらまた大きな声で笑う。ああ、煩い……こっちは意識が吹き飛ぶ寸前だというのに。
「そういえばお前の名前を聞いてなかったな!お前、名前は?」
「……吉弔、吉弔八千慧」
私も拍子抜けしたのか、うっかり答えてしまった。
「そうか。改めて、私は驪駒早鬼だ。……さて、吉弔八千慧」
改めて彼女は私の目を見る。先ほどとは違う表情で。
「お前を、我が勁牙組に勧誘させてもらおう」
「……は?」
勧誘?つい今しがた殺し合っていた相手を自分の組に入れようというのか?何を考えているんだ、こいつは。
「実力や胆力も当然あるが、何よりお前は頭が切れる。頭脳戦、ってやつか?どうにもそういうのは私は苦手でね……」
「……まぁ、そうでしょうね」
いけない、頭がロクに回らないせいで思ったことが口に出てしまう。
「そうでしょうね、とはひどいやつだな。私は馬だが馬鹿じゃないぞ」
「そういうことにしておきます」
「捻くれ者め……。まぁいいや」
彼女は話を続ける、馬鹿で助かった。
「そんなわけで力だけで全部ねじ伏せたいが、どうにも今のこの畜生界ではそうもいかない。だが、私の組は私みたいな奴が集まってくるからなかなかどうして、考える前に行動する奴が多すぎてね」
「そこで私が欲しい、と」
「そういうことだ……さて」
そう言うと彼女はぐいと私の腕を掴む。
「勧誘、とは言ったが残念ながらお前に選択権はないよ」
彼女の瞳は変わらず私を写している。
「私がお前を選ぶんだ、吉弔」
「……」
選ぶ、と言った。
選ぶのか、私を。選ばれなかった者、吉弔を。
こいつは……。
少しして、言葉が出た。
「やっぱり馬鹿ですね、貴女」
質問の答えにはなってない。
「ふふ、良い返事ということで理解したよ」
それでも、彼女の態度を見れば肯定の意思が伝わたことは明確だった。
ボロボロの体を引きずりながらゆっくりと立ち上がる。
「せいぜい寝首を掻かれないようにしてください。私は初めに言いましたからね」
そう伝えても、彼女はニコニコと笑っている。まったく、こちらの気も知らないで。
彼女が掴んだ手が握り直される。
「早鬼でいい。よろしく頼むよ、八千慧」
「……こちらこそ。よろしく、早鬼」
私がこの畜生界へと落ちてきた時と何も変わらない昏い夕闇が、二人の握手を照らしていた。
そうして、八千慧が我が勁牙組に入ってしばらくの時が流れた。
我が勁牙組はその後も躍進を続け、剛欲同盟との戦いは力だけではなく戦術的にも有利を重ねるようになってきた。相変わらず饕餮自身と戦うことはなかったが。
その中で畜生界にも変化があった。
現世からやってくる数が増えたのか、畜生界でも霊長類……つまりは人間霊が落ちてくる数が増えてきたようだった。私は力のない者には興味などまるでなかったが、頭の回る饕餮や八千慧は人間霊を従え労働力として彼らを使役し始めた。
そのうち、ただただ広い空間の広がっていた畜生界には霊長類達が作った……作らされたという方が正しいが……様々な建築物が増えていった。
勁牙組も剛欲同盟も各地に建物を建てアジトとし、畜生界の争いは本格的に組織と組織の争いへと発展していった。
そして、勁牙組の長である私、驪駒早鬼はというと……戦闘以外の仕事が増えた。残念なことに。
「以上が各エリアからの報告です」
「ん、ありがと」
側近である八千慧からの報告を聞くのも慣れたものだ。彼女の淡々とした報告はどうにも眠気を運んでくるが、今では一瞬意識が途切れる程度で済むようになった。
「私が何もしなくても事は進んでいくねぇ」
「そうですね。今節は貴女も私も見回りだけで戦闘自体はなかったですが、配下の者達が他地域のアジトを潰してくれました」
「こうも自分で戦うことがないと身体が衰えてしまうよ。なぁ」
「嫌です」
ピシャリと八千慧が制止する。
「まだ何も言ってないし頼み事すらしてないぞ?!」
「私と戦えって言うんでしょう?嫌ですよ」
「日頃の訓練は大事だぞ」
「部下への指導と共に鍛錬もしてますのでご心配無く」
「いやいやもっと強い相手を想定して戦わないと、私みたいに」
「五体満足で終われるかもわからない訓練は訓練と言いませんよ」
最近はいつもこんな調子だった。八千慧とのこんな調子、が日常となってからどれだけ経ったのだろうか。
「……きっと、今のまま行けば近い将来剛欲同盟とも決着を付ける日が来るでしょうし、そっちを考えていてほしいですね」
剛欲同盟との決着。それはつまり饕餮と戦うということだった。饕餮は強い。だが饕餮自身は、だ。今の剛欲同盟は烏合の衆だ。個々の組員自体の強さは勁牙組が勝るし、饕餮本人とも私なら……いや、八千慧と組んだ私なら互角以上に戦えるはずだ。
「未だ小規模な組織は点在しているものの、事実上いまの畜生界は我々勁牙組と剛欲同盟の2大組織の争い……。決着を着ければ畜生界は統一されます」
「畜生界の統一、ね」
おそらく、かなりの確度でその未来は近いのだろう。八千慧ほど頭の良くない私でもわかる。
「おや、嬉しくないのですか?」
だがどうにも今はその景色に興味が持てなかった。自分の組の者達は今やそれを目指して私に付き従っているというのに、なんともな話だと自分でも思う。
「なんだか呆気なくてね」
「簡単に済むのならそれでいいのではないですか?」
八千慧の言うとおりだ。目的が達成できるならそれに越したことはない。だが、今の私はもはやそこを見ていなかった。
「……畜生界なんて地獄の一部に過ぎないよ。それに地獄でさえも世界の一部に過ぎない」
自分の口から出た言葉に自分で驚く。
あぁ、そうか。私は、
「まだ先があるよ、私はその先を見たい。」
昔、誰かが見ようとしていたものを、見ようとしているのかもしれない。
「……随分と遠くを見ているんですね、貴女は」
「遠いのかな。畜生界で成り上がるのだって最初は私一人からだったけど今や目前だ」
窓から見える空に向けて手をかざす。畜生界の冥い空。どれだけ飛んでも変わらないと思っていた空だが、いつの間にかこの空にも慣れ親しんでしまった。
「この脚で、この身体で……どんな遠くまで行けてしまうから、近いとか遠いとか、あまり考えたことなかったかもしれない、な」
「……」
少しの間の後に、口を開いたのは八千慧だった。
「……そうやって遠くを見過ぎていると足元を掬われますよ」
「え、手厳しいな……いまそういう流れだった?」
そうしてまたいつもの会話に戻る。
「近頃静かになったとはいえまだ剛欲同盟は健在です。饕餮がまた何かしてくるかもわからない」
「そこはお前がなんとかしてくれるだろう?」
我ながら、きっと悪い顔で笑いかけたのだと思う。
「……全く、頭を使うのは私に丸投げするんですから」
困ったような、知っていましたと言わんばかりの反応をしながら八千慧は部屋の出口へ向かう。
「そろそろ戻ります。その先に想いを馳せるのは良いですが、決して油断しないでくださいね、早鬼」
そう言って八千慧は私の部屋を後にした。
「願わくば、お前と一緒にその先とやらを見たい、かな」
彼女の去った部屋で、一人、呟いた。
「剛欲同盟が動きました」
今節の八千慧の報告はいつもと少し違っていた。
「起死回生の一手、と言ったところですかね。戦力を集中させた部隊が勁牙組の末端の地区を襲撃して周っているようです。」
「各個撃破で自分より弱いところを狙う、か。今までの動きとは随分違うな」
卓に地図を広げながら八千慧は説明を続ける。
「勢力が広がるとどうしても戦力を集中している地区、過疎化している地区の差が出ますからね。そして警戒しようにも範囲がこう広いと注意の目も分散してしまう……」
顔は変えずに、だが悔しそうに八千慧は説明を進める。
「しかし、いま相手の戦力が1つにまとまっているなら好都合。ここで全力で敵を……剛欲同盟を叩きましょう」
「総力戦、か」
今か今かと待っていた言葉だ。
「この敵部隊の中に饕餮がいるかは不明ですが、今までより統率が取れています。饕餮、もしくはより近い者が直接指揮を取っている。少なくともこれを叩けば饕餮も出て来ざるを得ないでしょう」
八千慧も同じ目をしている。待っていた時が来たのだと。
「統率が取れている分、次に彼らが攻め入る場所には検討がついています。私達は勁牙組の各地区の守りを均等に固めている……と見せ掛けて、ここに戦力を集中させます。」
八千慧の指が地図上の一点を指す。
「なるほどね、襲撃に備えて戦力を全体に分散させてると思わせておきながら、実際は本隊が迎え撃つ……ってわけだ」
八千慧お得意の奇襲の策だ。聞けばなるほどとは思うが私には思いつかない。
「ただ、戦力を分散させるように見せるため、一旦は実際に戦力を各地区に配置する必要があります。そして該当地区の戦力も外見上は少なく見せておく必要がある」
地図上に置いた駒を手際良く動かし八千慧は説明を続ける。
「そのために、私直属の奇襲部隊を戦闘地点に配置し、分散させておいた隊は後ほど合流させる仕組みです。……奇襲という手段は貴女があまり好まない手かもしれませんが……」
「まぁいけ好かないが、そうしないと向こうもこっちにぶつかって来ないんだろ?」
「でしょうね。矛盾しているようですが、ここで総力戦に持ち込むにはまず総力戦を相手に悟られないようにしないといけませんから」
「じゃあ何も言うまいさ。それに総力戦とは言うが、要するに組長である私が好き放題にできるように御膳立てしてくれるってことだろう?」
「気を遣ったつもりはないですよ。一番強い相手には一番強い者を当てるのが上策ですし、その方が皆の士気も上がるでしょう」
この最終局面においても私達のいつも通りのやり取りだ。
何でもないことのように淡々と説明を続ける。
「敵も味方も全てはお前の掌の上、か。全く敵に回したくないね、八千慧は」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
だが、きっとこの戦いで何かが変わる、互いにそれを確信している。
「早鬼」
卓を挟んで、私をまっすぐに見て八千慧は言う。
「これで、終わりにしましょう」
「終わりじゃないさ」
私も視線を返して、答える。
「ここから始める、だろう?」
少し驚いたような顔をして、彼女は笑った。
そして作戦決行の時が来た、細かな指示を八千慧に託し、私は作戦拠点へと移動する。
「早鬼、こちらです」
作戦拠点は地下に作ったアジトだった。
「……静かだな」
「地下なので音が聞こえにくいのか……または戦闘が膠着状態にあるのかもしれません。警戒を怠らないよう」
地下に到着すると、勁牙組と剛欲同盟の睨み合いが続いていた。大きなホールを挟んで2つの勢力が共に動かない、いや動けない状態でいる。
「なるほど、このアジトの奥まで追い詰めたようですが籠城していて手が出せない、と」
八千慧が先行していた部隊から情報を収集している。
「どうします?」
「ふん、決まってるだろ。私が来たからには、突撃だ」
でしょうね、と八千慧が笑う。
「行くぞ!!私に続け!!!」
敵へと突撃を開始する。
籠城していた剛欲同盟の動物霊をバリケードごと吹き飛ばす。
「呆気ないな!!」
あっさりと蹴散らしたバリケードの向こう側には更に大量の敵が陣を張っていた。攻撃する様子はなく、こちらの様子を眺め、まだ防御を固めている。
「ちっ、流石に数が多い……。全員、突撃!!!」
遙か後方に置いてきた味方に檄を飛ばす。
しかし、後方から声が返ってこない。
先行しすぎたか?いや、私が敵に先行するのはいつもと同じはずだ、何かがおかしい。
後ろを振り返ると、弾幕を展開する準備を整えた八千慧と動物霊が展開していた。
「全員!!攻撃準備!!!」
八千慧が部隊に指示を飛ばす。その瞬間、八千慧の側で控えていた部隊が照準を合わせる。
それだけではなかった。その反対側……剛欲同盟側の部隊も同時に弾幕を展開する準備をし、照準を合わせた。
八千慧の指が攻撃対象を指し示す。
「全員、目の前の敵に一斉攻撃!!!」
……その指は、私を指し示していた。
その瞬間、前方の剛欲同盟からだけでなく、後方……つまり味方であるはずの勁牙組からも怒涛の弾幕が展開された。
動物霊の個々の力は大したことはない、が、ここまでの大軍を相手に、しかも前後を挟まれての一斉砲撃はさすがの私も無傷ではいられなかった。
「ぐ……!」
更には場所も悪い。ここは地下だ。飛んで回避しようにも場所が狭すぎる。天井を破壊するのも一苦労だし、そも天井に飛ぶ隙も与えられない。
全てが最悪の状況下にあった。
「休むな!!隙を作ればここで全員終わりだぞ!!」
八千慧の声が聞こえる。彼女の指揮通り、弾幕は一向に止む気配が無い。
弾が多いだけではなく前後を挟まれ、更には数の多さで弾が途切れる隙もない。そして八千慧は私をしっかり目視しながら全体を指揮しているから弾の狙いも外れない。文字通り、いや文字以上の八方塞がりだ。
休む間も躱す隙も与えられない。体力を削られるうちに、ついに私は床に膝を付いてしまった。しかし尚も攻撃は止まない。
「倒れるわけには……いか、ない……」
膝は付いたがこれ以上は駄目だ。倒れれば本当にそのままやられてしまう。
「撃ち方、止め!」
八千慧の声が聞こえ、カツカツとこちらに歩み寄る靴音が聞こえる。
「私は言いましたよね」
靴音が止まると同時に鋭い脚技が私の身体を跳ねさせた。
「が……ッ」
「足元を掬われますよ、って」
八千慧の細い腕が私の胸ぐらを掴み持ち上げる。
ボロボロになった私を観客達に見せ付けるように。
「剛欲同盟!見ているな!饕餮に伝えろ……勁牙組の終わりと……」
掴まれ、無防備となった鳩尾に拳が入り、私の身体は再び地に倒れる。
「……吉弔八千慧率いる、鬼傑組の誕生をな!!!」
周りを囲む数多の動物霊の歓声が聞こえる。
ああ、煩い。只でさえ訳が分からないのに騒音が思考をさらに邪魔する。
いや、考えなくてもわかっていることがある。私は嵌められたということだ。
「いつから、だ……?」
擦れた声で言葉を捻り出す。
「何故、ではなくいつから、ですか」
騒ぎ立てる外野の中であっても八千慧の耳には届いたようだ。
「てっきり饕餮に付いたかとも思ったが……どうにも違うようだからな……。天下を取りたいのは畜生界なら誰だって考える、普通のことだろ……」
「普通のこと、と言う割にはそんな普通のことに騙される馬鹿がここに居ますがね」
変わらず冷たい瞳で私を見下ろしている。
少しの時間の後、彼女応えた。
「……私が選んだ」
「……?」
突然の言葉に疑問符が浮かぶ。
「……私が選んだ、と貴女は言いましたね」
「……」
構わず彼女は言葉を続ける
「選ぶ側と選ばれる側がいる。そして選ばれない者がいる」
「私がお前を選ぶんだ、吉弔」
「……」
選ぶ、と言った。
選ぶのか、私を。選ばれなかった者、吉弔を。
こいつは……
"選ぶ側"の存在だ。
"選ばれる側"でも"選ばれない側"でもない、
生まれたその時から自由に"選ぶ側"。
(……めない)
どうして、選ばれる者と選ばれない者がいる?
(……認めない)
どうして、選ぶ側と選ばれる側がいる?
(お前を、認めない)
選ばれなかった私は、選ぶ側のお前とは相容れない。
(私という存在は、お前の存在を認めるわけにはいかない……!)
「貴女はいつも自分が選ぶ側にいると思い込んでいる……それはとてもとても傲慢だ。お判りですか?」
彼女の言葉は耳に入ってくるが、私はそれを黙って聞くしかできない。
「……」
「……わからないでしょうね。ええ、そうでしょう」
一息付いて、倒れている私の頭を踏みつける。
「ぐ……ッ」
踏まれた痛みが思考を中断させる。
ボロ雑巾のようになった私の身体を再び彼女は細い腕で掴み上げた。
見せしめとばかりに掲げた腕に力が込められるのが見える。
「……さて、いつから?という話でしたね。お答えしましょう」
今まで幾度となく見た彼女の瞳が、見たこともないほど冷たい瞳でこちらを見た。
「貴女が私を選ぶと言った瞬間から、ですよ」
それは、つまり。
"初めから敵だった"と同義だった。
選ぶと言った、瞬間。
驪駒早鬼が、吉弔八千慧と出会った時。
そして、戦ったとき。
楽しかった。
……楽しかった?
そうだ、私は……
お前と戦うのを、望んでいたじゃないかーーーー!
笑い声が地下に響く。包囲する動物霊も、眼の前で私の胸倉を掴む八千慧も、狂ったようなその笑い声に凍り付いたように動けなかった。
その笑い声が自分のものだと気付くのに、少し時間を要した。
「は、はは……そうか、私の望みは“これ“か……」
身体の痛みも損傷も、嘘のように感じない。それよりも戦いたい。
器用に身体を跳ねさせ、八千慧の腕から逃れる。
「……ッ!総員!!」
一瞬遅れて八千慧が指示を飛ばそうと周囲を確認する。が、言葉は続かない。
周りを取り囲む動物霊は、動けなかった。
「……私がやるしか……ッ!」
「周りを気にしてる余裕はないんじゃないか!?」
指示を出そうとした八千慧の身体に速射砲のように弾幕が飛ぶ。
「が……ッ!」
至近距離で無数の弾幕を受けた彼女の身体が揺らぐ。
その隙を見逃さない。
「まだまだッ!」
すぐさま距離を詰め更に拳を入れて追撃する。
細い身体の節々が曲がっていく。
「あ……!」
生物が発せるとは思えない音が打撃の度に八千慧の口から漏れる。
「舐め……る……なッ!」
打撃を受けながらも彼女は私の顔面を掴む。
「死にぞこないがァ!」
そのまま私の身体ごと投げ、地面に叩き付ける。
地面に転がされ私は身体を起こす。
「はは……どっちが死にぞこないか、な…?」
自分では立っているつもりなのに視界が揺らぐ。
ああ、痛くないのではない、感覚がもう無いのだとようやく気付いた。
私を放り投げた八千慧を見やる。この一瞬でダメージを負った身体は私に負けず劣らずボロボロに見える。
そうして、二人は少しの距離を保ち向かい合う形となった。
場は静かだった。
周りを囲んでいる動物霊達は声も出せず、動けない。
存在を察知されれば"消される"、と本能が理解していた。
目の前にある2体の上位存在をただ目に映すこと以外、この場にいる者達には許されていなかった。
息をするのもやっと、互いに満身創痍の身体。
だが、まだ倒れない。倒れるわけにはいかない。
目の前の敵を、倒すまでは。
同じことを相手も考えている、そう確信していた。
「吉弔」
「驪駒」
その確信を裏付けるかのように互いに同時に相手の名前を呼ぶ。
だがその言葉には些細な、しかし明確な変化があった。
「……命乞いですか?」
「冗談。お前こそなんだ?」
「……いえ、最後にご挨拶を思いまして。消えゆく貴女への手向けに」
「奇遇だな、私も可愛い元片腕を切り落とす前に一言添えてやりたくてね」
すぅ、と互いに息を吸う。
「さよならだ、吉弔」
「さよならです、驪駒」
それが、終わりの合図だった。
ーーーこの場に居た動物霊はその時のことをこう語る。
彼処に居たのは驪駒早鬼でも、吉弔八千慧でもない。殺意のままに互いを殺し合う、二体の獣だった、と……。
意識が覚醒するのは突然だった。
無から意識が急速に覚醒する。
(ここは?今はいつだ?私の身体は?)
覚醒だけした意識は情報を求める。
それと共に朧気に記憶が脳裏に戻ってくる。
(……吉弔)
戦った、と言う言葉では的確ではない。互いの存在を否定し、殺し合った。本気で。
裏切りとか、罠とか、細かい経緯などもうとうに記憶から消し飛んでいた。ただ、吉弔八千慧と本能のままに殺し合った、そのことだけが記憶に残っている。
そうして記憶を辿っていると、看病に来たのであろうオオカミ霊が私を見て驚き、そして喜び他の者を呼びに行った。
どうやら私はかなりの日数寝込んでいたらしい。
容態の説明と共に、組の情報屋から近況を整理して説明された。
吉弔八千慧率いる鬼傑組のクーデターの報は瞬く間に畜生界に広がり、界全体を賑わせていた。
畜生界を破竹の勢いで進んでいた驪駒早鬼と互角に渡り合い、ついに膝を付かせた鬼才、吉弔八千慧の存在。そして彼女が率いる鬼傑組のインパクトはあまりにも大きかった。元々勁牙組の一部を引き抜いて作られた鬼傑組だったが、その後も更に鬼傑組へと所属を移すものも現れ、この抗争を機に鬼傑組は一気に畜生界の一大勢力の一つへと昇華した。
それだけではない。混乱、弱体化した勁牙組を剛欲同盟がさらなる追い討ちをかけたことにより、剛欲同盟の勢力も再び勢いを取り戻したのである。
勁牙組が剛欲同盟を打ち倒す寸前だった畜生界は勁牙組、鬼傑組、剛欲同盟の三大勢力による混沌の時代へと再び突入することとなったのだ。
「私を倒せなくても、私をあと一歩のとこまで追い詰めた。それだけで十分。その宣伝効果でここまで畜生界の戦況が変わるとはね……」
戦闘そのものだけでなく、その戦闘がもたらす影響まで綿密に考えられている。二手三手先まで考えた計画に改めて敵に回した相手の底知れなさを感じる。
「全く。何がもっと遠くに、だ。畜生界がこんなに面白くなってしまっては遠くなんて見てる場合じゃあなくなったじゃないか」
組全体にも自分自身にもこれだけのことをしてやられたのに、自身の魂が燃えているのを感じる。自然と不敵な笑みが浮かぶ。
この窓から見える仄暗い空を見る。この畜生界のどこかで、今もなお存在している好敵手に向かって呟いた。
「あの時、お前を選んで良かったよ。吉弔」
出会った日と変わらない昏い夕闇が照らす。
胸に空いた喪失感など埋める必要も無い、好敵手としての存在感と激情が早鬼の胸を焦がしていた。
龍が生む2つの卵のうち一方が龍となりもう一方は吉弔となる。
目を開けて初めて見た空には龍が空へと舞っていた。
あれが選ばれた者なのだと本能的に理解した。
同時に、私が選ばれなかった者なのだと理解した。
生まれながらにして選ばれなかった者。
世界に選ぶ側があって、選ばれる側があって、
そして選ばれない者がいるなら。
私は誰に、何に、選ばれなかったのだろうか。
群雄割拠、動物霊達が争う畜生界。
力を持つ妖怪を筆頭としたいくつかの組織同士で縄張り争いが続くこの地獄の、少し昔のこと。
ひと昔前であっても畜生界が争い続きであることに変わりはなかった。少しだけ違うのは、饕餮率いる剛欲同盟が唯一力のある組織として畜生界を蹂躪していた。
力のある妖怪、饕餮の登場によりそれまであった無数の小規模な組織は続々と饕餮の傘下に下り、それらがいつしか同盟の名として呼ばれるようになったという。畜生界は剛欲同盟とそれ以外の者たちによる争いが続いていた。
彼女が、現れるまでは。
ある時、また一人の動物霊が畜生界に落ちてきた。
その動物霊が他の者と違ったのは、彼女は挨拶代わりと言わんばかりに襲ってきた剛欲同盟の者達を一人で返り討ちにしたということだった。
嘘か真か、ある者はその強さにあやかろうと、ある者はその強さを確かめようと、噂はそれぞれの目的を刺激し、翼を生やしたかのように畜生界全体を巡った。
彼女の名は驪駒早鬼といった。
早鬼は強かった。一対一なら敵う者はおらず、一対多であってもその差は歴然だったという。幾多の力自慢達が彼女に敗れた。
そんな相手に饕餮は様子見を続け、直接勝負を挑むことはなかったが、同盟の者達はその圧倒的な数に物を言わせ、来る日も来る日も早鬼へと戦いを挑んだ。剛欲同盟の名の下に。
しかし、剛欲同盟のその行動は早鬼を打ち倒すどころか逆効果であった。
強い、ということは来る日も来る日も戦いに明け暮れる畜生界の動物霊にとっては魅力であった。ある者はその強さに恐怖し、ある者は戦いの中でその強さに平伏し、剛欲同盟ではなく彼女に付いていくことを決めた。
早鬼本人はというと、その持ち前の面倒見の良さから、戦った者も降伏した者も付いてきた者達を快く受け入れた。そうしている内に集まった彼らをひとまとめとして組を名乗ることとした。勁牙組の発足である。
勁牙組は勢力を伸ばし、畜生界は追われる剛欲同盟と追う勁牙組の二大勢力の図となった。
そうして勁牙組ができて少しして、また一人の動物霊が畜生界に現れた。
(……あぁ、ここが)
ぼんやりとした意識の覚醒、そして徐々に身体の感覚が戻ってくる。
そして理解する。ここが私の落とされた地獄。畜生界だと。
自分の身体の感覚を取り戻し、次に感覚が伝えたのは周囲の様子。何者かが近くにいる。いや、囲まれている。
そしてそれが敵意であることも即座に理解する。
(なるほど……)
畜生界は日々強者達が争う、文字通り弱肉強食、畜生共の地獄。そんな所に新参者が一人落とされればどうなるか。考えるに容易いことである。
いま身体を起き上がらせようと、しばらくそのまま倒れていようと、これからの展開にそう違いはないだろう。ではどう行動すべきか。
(……周囲の気配は、10体……20体は居ない程度。実力は……大したことない。)
状況把握、そして取るべき戦略を頭の中で組み立てる。
痺れを切らしたのか、彼女を取り囲んでいた一体や動物霊が攻撃に出る。しかし、その攻撃は空振りに終わる。
上空、人型の影。
短めの金髪に動物的な、それでいて異形の角を宿し、スラリとした細身の身体とその身体には不釣合な甲羅と尻尾。
吉弔八千慧の姿が畜生界の昏い夕闇に照らされた。
(13……14体か)
上空からの視点で八千慧は包囲網の構成を瞬時に把握する。やや包囲の甘い一画を見切り、そこに配置されている一体に向けて着地する。ふぎゃあ、と情けない声が足元で呻いた。
「失礼」
失礼とも何とも思っていない空虚な言葉を足蹴にした動物霊に掛ける。
踏みつけた勢いでそのまま包囲を難なく抜ける。次は逃走戦の開始だ。呆気に取られた一瞬のあと、動物霊達の怒号が八千慧の背後で聞こえた。
夕闇の畜生界の森を八千慧は走る。走りながら思案する。
(追手を全滅させることはそう難しくはない。難しくはない、が……)
戦闘に身を預けながら八千慧は思案する。
(集団で私を包囲していたということは、こいつらは仲間同士……組織として動いている可能性が高い。完膚無きまでに叩きのめしてメンツを潰せば報復の懸念がある)
背後から飛んでくる、数だけは多い攻撃を躱しながら、相手の力量が大したことがないことはわかってきた。しかし群による数の暴力というのは厄介だ。
まだ落ちてきたこの世界の状況がわからない中、大きな動きは危険だ。
(ならば、どうする?)
難しい塩梅だ。舐められすぎず、畏れられすぎず、"単なる新参者"としてこの場を逃げ遂せる必要がある。
適当に攻撃を受け、負傷したように見せかけ、しかし追ってこれない程度のダメージを与える、これでどうにか死にかけながら逃げた、逃げ足だけの大したことのない奴、としてこの場もその後も切り抜ける。それがベターだ。
そう思っていたところにまた弾が飛んでくる。棘状の弾をわざと受け、少しよろめく、振りをする。背後から「よし!」と声がする。
少し逃げるスピードを落とすと、チャンスとばかりに二体の動物霊が飛び込んでくる。わかりやすい動きだ、振り向き様に回し蹴りを入れて吹き飛ばす。
受けた弾の傷口を拭い、焦りの様子を見せなかまら、八千慧は冷静にこの調子で少しづつ戦力を削る筋書きを頭の中で書き連ねていく。
「おおっと、そこまでだよ、新入り!」
その脚本を書いている最中、飛び入りの役者が現れた。
上空から声がする。
「新入りの躾に行ったら取り逃したと聞いて駆け付けてみれば……。」
楽しそうに、心底楽しそうに語り掛ける。
「なかなか骨のあるやつがいるじゃないか」
黒い羽がヒラヒラと落ちてくる。
羽の持ち主は空から私を見下ろしていた。見たことのない風貌の服を纏ったその女からは黒い翼が生えていた。
ここは地獄、畜生界と聞いたがこの姿を見ればまるで死を運ぶ黒い天使のようにも見間違えるかもしれない。
「……」
こいつは、危険だ。私の全身全霊が私に警告している。
「普通の奴ならこの世界がどういうところなのか、新入りに理解させる程度のことはできるはずなんだが……。いやはや失礼した、全然相手にならなかったようだね。」
地上に降り立ち、一歩。躊躇なく前進する。
「こいつらじゃあお前は満足できないだろ?私が相手をしてやるよ。」
笑顔。とても攻撃的な笑顔だ。
「勁牙組組長、驪駒早鬼が直々に、ね。」
相手の笑みにこちらも笑みで返す。外見を取り繕うのは慣れている。
「……大層な肩書きと御名前で、私なんかには勿体ありませんね」
組長と言ったか。長であるのに自分から戦おうとはどうやらよっぽど脳筋……いや、戦闘狂のようだ。
「そう謙遜するなよ、楽しもうじゃないか」
戦う気満々だ。しかしなるべくなら回避したい。
「降参する、と言ったら?」
「はは、そんな気はさらさら無いだろ?上手いことこの場を逃げるか……」
表情は変えずに、しかし鋭い視線が私を射抜く。
「不意打ちで私をやろうって目をしてるぜ」
読まれている。なるほど戦闘狂だがあながちそれだけではない。頭も多少は回るタイプの戦闘狂だ。
「さて、お喋りはそろそろ終わりにしようか」
……来る。
逃げの手は無くしたくないが成功率は低い。それなら戦うしかないが、恐らく……私はこいつに敵わない。良くて引き分けだろうが、仮に引き分けたとして、その時私の身体の状態は決して五体満足、良好な状態とはいかないだろう。
真正面からなら敵わない。
……そう、真正面からなら。
突然、地面に亀裂が入る。勿論入れたのは私だが。
私の足元から地に這わせた亀甲形の光線が私を中心とした広範囲の地面を破壊した。
周りから私を取り囲んでいた動物霊達の驚きの声と悲鳴が聞こえる。彼らの姿も私の姿も土煙の中へと消えていった。
「おっと」
土煙に紛れ身を隠す瞬間、驪駒が再度上空に飛んでかわしたのを見た。当然だ。飛べるのだから奇襲といえどわざわざ足元からの攻撃を受けることはない。
「目眩まし……と、他の奴等の無力化、か。さて、逃げたか、それとも隙を伺っているか……」
やはり戦闘に対しては頭が切れるようだ。相手の言う通り、砂埃による目眩まし、そして周りにいた動物霊達は全て飛べない者達だったことから足場を崩して無力化したのだが、瞬時に判断し見抜かれている。
他の動物霊を無力化して包囲を解いたところで、驪駒早鬼という最大の障害をどうにかしなくてはいけない状態は変わらない。この煙を使い上手く逃げたとしても、彼女の飛行速度ならすぐに私を見付け、追いつくことなど容易いだろう。さらにここに来たばかりの私には土地勘が無いため地の利も望めない。逃げは悪手だ。
地上にいた奴等と異なり彼女は飛べるので地表を崩した奇襲など効かないことは分かりきっていた。この煙が晴れるまでに次の手を仕込む。
煙で相手から姿を隠したが、それはつまり私からも相手の姿は見えないということだ。
(さて……攻めるにしても、ここから相手の位置をどう探るか……)
と思っていたら、煙の上から声がする。
「おーい!逃げてはいないんだろ???さっさと掛かってきな!!」
(やはり馬鹿だな……)
声のおかげで空にいる相手の位置を特定できた。もしかしたら声を別のところから反響させて位置を誤認させている……という可能性も考えたが、即座に脳裏から排除した。そんな小細工を考えるような相手ではなさそうだ。
声のした座標目掛けて弾を放つ。
「おおっと!」
撃たれた弾幕を彼女は空で華麗に躱す。そして弾幕が撃たれた場所とは別の所から、煙に紛れて驪駒の背後に姿が現れる。
くるりと驪駒は空中で反転し、強力な蹴りを放つ。黒い羽が土煙の上空に散らばる。
「後ろから来ると思っていたよ!」
たまらず彼女の強力な後ろ蹴りを喰らう。
……私ではなく、哀れな動物霊の体躯が。
「……そう言うと思ってましたよ」
土煙から先に出てきたのは私ではなく、先程土煙の中で気絶していた動物霊の一体だった、というわけだ。丁度私と大きさの似た者を煙の中から空に向かって放り投げ囮としたのだ。
「!!」
攻撃した相手が囮だったことと、裏の裏をかいて現れた私の姿により二重の同様が彼女から見て取れる。
反転した彼女のさらに背後からようやく私は土煙から姿を現し、至近距離から弾幕を放つ。
「……このっ!」
しかし彼女は空中で、しかも蹴りを後ろに放った直後の不安定な体勢からさらに体を捻り、私の弾幕を自身の体術で弾き飛ばす。
「……化け物め」
一撃でも、と思ったがまさか相殺されるとは。一旦距離を取り再度弾幕を張り距離を保つ。
しかし、距離は即座に縮まる。
驪駒は弾幕を物ともせず私に突っ込んできた。チリチリと弾幕の擦れる音がする。
「逃さないよ!」
距離を取り、体勢を立て直そうとしていた私の目の前に黒翼が広がる。
「……!」
この体制では驪駒の強襲を避けきれない。かと言って彼女の攻撃を防げるほどの力を私は持ち合わせていない、詰みだ。
「チェックメイト」
……と、私が言った。
「なっ……!?」
攻撃を振り被ったままの驪駒の動きが一瞬止まる。そこへ弾幕を乗せた強力な蹴りを叩き込む。完全に無防備な状態で喰らった驪駒の身体は黒い羽根を散らしながら木々を薙ぎ倒し森の奥まで吹き飛ばされていく。環境に優しくない戦いだ。
「切り札は最後まで取っておくものですよ」
逆らう気力を失わせる程度の能力。この能力で攻撃の瞬間、驪駒の逆らう気力……つまり攻撃の意志を失わせた。一瞬でも完全な隙ができればこちらのものだ。
「なるほど、切り札ね……」
「!!」
彼女は文字通り私の目の前に飛んできた。馬鹿な、手応えはあった、はずだ。
「なら私の切り札は……私自身だ!!!」
もう一度能力を試みるが彼女の勢いは止まらない。
「2度も効くかッッ!!!」
気力だけで私の能力を跳ね除けている?そんなことがあってたまるか……!
「あぁ、これだから馬鹿は嫌い……!!」
今度こそ、私の身体に凄まじい衝撃が与えられる。衝撃に耐えられず私の身体は地上へと叩き落される。
満身創痍の身体。頭が働かない、空に視線を移す
黒い翼が浮かんでいるのが朧気に見える。
(……選ばれた者と、選ばれない者がいる。)
選ばれた者は空へ飛んでいく、遠くへ。
(……どうして、お前は選ばれる?)
選ばれなかった私は、地上に伏せたまま、その姿を見送るだけ。
(……どうして、私は選ばれなかった?)
(……どうして?)
「……へぇ」
満身創痍のはずの私の身体は立ち上がっていた。
「意外と根性あるじゃないか」
ここで負けるわけには、朽ちるわけには、いかない。
怒りか焦燥か、わけのわからない感情で胸のあたりが熱くなるのを感じる。
「……別に、貴女に負けるというのがどうにも癪だな、と思っただけ、ですよ」
その熱を感じながらも頭には冷静になれと指示を与える。考えろ考えろ、こいつを倒す方法を。逃げる方法じゃない、倒す方法だ。
「さっきのは綺麗に入ったと思ったんだけどな、立ってるのもやっとなんじゃないのか?」
「……そう見えるんですか?」
見栄を張るにはダメージを受け過ぎている。しかし考える時間を稼げと口から言葉が出て来る。
「誰が見てもそう見えると思うよ。だが……」
目の前に彼女が着地する。
「まだ私を倒そうとしてるのは驚きだ」
私の目を見て彼女は続ける
「切り札とやらも使って、そんな身体で、まだ私を倒せるとでも?」
「切り札が一枚なんて誰が決めたんですか?」
ハッタリだ。今の私に切り札はもう無い。
「むしろ戦術など幾らでもありますよ。貴女には見えていないでしょうけど」
ハッタリだがこれは本当だ。それを今考えているのだから。
……問題は、その考えた戦術の悉くが失敗に終わる予測なことだが。
「……本当に倒せる気でいるのか?私を」
そう言うと、すぅ、と空気を吸い込んだ。……来る。
次の瞬間、爆発が起きたかのような声が響いた。
それは驪駒早鬼の笑い声だった。
「……?」
私も、周りで戦いを見ていた動物霊たちもキョトンとしている。
「……ははは!」
先程までの殺意、覇気はどこへやら、彼女はスタスタと私の元へと歩いてくる。
「気に入った!気に入ったよ、お前!」
どうやら上機嫌らしい。
「私とここまで戦えた奴も、本気で私を倒そうと死ぬ気で臨んで来た奴も初めてだ!!……まぁ死んでるんだがな!私たちは!」
そう言いながらまた大きな声で笑う。ああ、煩い……こっちは意識が吹き飛ぶ寸前だというのに。
「そういえばお前の名前を聞いてなかったな!お前、名前は?」
「……吉弔、吉弔八千慧」
私も拍子抜けしたのか、うっかり答えてしまった。
「そうか。改めて、私は驪駒早鬼だ。……さて、吉弔八千慧」
改めて彼女は私の目を見る。先ほどとは違う表情で。
「お前を、我が勁牙組に勧誘させてもらおう」
「……は?」
勧誘?つい今しがた殺し合っていた相手を自分の組に入れようというのか?何を考えているんだ、こいつは。
「実力や胆力も当然あるが、何よりお前は頭が切れる。頭脳戦、ってやつか?どうにもそういうのは私は苦手でね……」
「……まぁ、そうでしょうね」
いけない、頭がロクに回らないせいで思ったことが口に出てしまう。
「そうでしょうね、とはひどいやつだな。私は馬だが馬鹿じゃないぞ」
「そういうことにしておきます」
「捻くれ者め……。まぁいいや」
彼女は話を続ける、馬鹿で助かった。
「そんなわけで力だけで全部ねじ伏せたいが、どうにも今のこの畜生界ではそうもいかない。だが、私の組は私みたいな奴が集まってくるからなかなかどうして、考える前に行動する奴が多すぎてね」
「そこで私が欲しい、と」
「そういうことだ……さて」
そう言うと彼女はぐいと私の腕を掴む。
「勧誘、とは言ったが残念ながらお前に選択権はないよ」
彼女の瞳は変わらず私を写している。
「私がお前を選ぶんだ、吉弔」
「……」
選ぶ、と言った。
選ぶのか、私を。選ばれなかった者、吉弔を。
こいつは……。
少しして、言葉が出た。
「やっぱり馬鹿ですね、貴女」
質問の答えにはなってない。
「ふふ、良い返事ということで理解したよ」
それでも、彼女の態度を見れば肯定の意思が伝わたことは明確だった。
ボロボロの体を引きずりながらゆっくりと立ち上がる。
「せいぜい寝首を掻かれないようにしてください。私は初めに言いましたからね」
そう伝えても、彼女はニコニコと笑っている。まったく、こちらの気も知らないで。
彼女が掴んだ手が握り直される。
「早鬼でいい。よろしく頼むよ、八千慧」
「……こちらこそ。よろしく、早鬼」
私がこの畜生界へと落ちてきた時と何も変わらない昏い夕闇が、二人の握手を照らしていた。
そうして、八千慧が我が勁牙組に入ってしばらくの時が流れた。
我が勁牙組はその後も躍進を続け、剛欲同盟との戦いは力だけではなく戦術的にも有利を重ねるようになってきた。相変わらず饕餮自身と戦うことはなかったが。
その中で畜生界にも変化があった。
現世からやってくる数が増えたのか、畜生界でも霊長類……つまりは人間霊が落ちてくる数が増えてきたようだった。私は力のない者には興味などまるでなかったが、頭の回る饕餮や八千慧は人間霊を従え労働力として彼らを使役し始めた。
そのうち、ただただ広い空間の広がっていた畜生界には霊長類達が作った……作らされたという方が正しいが……様々な建築物が増えていった。
勁牙組も剛欲同盟も各地に建物を建てアジトとし、畜生界の争いは本格的に組織と組織の争いへと発展していった。
そして、勁牙組の長である私、驪駒早鬼はというと……戦闘以外の仕事が増えた。残念なことに。
「以上が各エリアからの報告です」
「ん、ありがと」
側近である八千慧からの報告を聞くのも慣れたものだ。彼女の淡々とした報告はどうにも眠気を運んでくるが、今では一瞬意識が途切れる程度で済むようになった。
「私が何もしなくても事は進んでいくねぇ」
「そうですね。今節は貴女も私も見回りだけで戦闘自体はなかったですが、配下の者達が他地域のアジトを潰してくれました」
「こうも自分で戦うことがないと身体が衰えてしまうよ。なぁ」
「嫌です」
ピシャリと八千慧が制止する。
「まだ何も言ってないし頼み事すらしてないぞ?!」
「私と戦えって言うんでしょう?嫌ですよ」
「日頃の訓練は大事だぞ」
「部下への指導と共に鍛錬もしてますのでご心配無く」
「いやいやもっと強い相手を想定して戦わないと、私みたいに」
「五体満足で終われるかもわからない訓練は訓練と言いませんよ」
最近はいつもこんな調子だった。八千慧とのこんな調子、が日常となってからどれだけ経ったのだろうか。
「……きっと、今のまま行けば近い将来剛欲同盟とも決着を付ける日が来るでしょうし、そっちを考えていてほしいですね」
剛欲同盟との決着。それはつまり饕餮と戦うということだった。饕餮は強い。だが饕餮自身は、だ。今の剛欲同盟は烏合の衆だ。個々の組員自体の強さは勁牙組が勝るし、饕餮本人とも私なら……いや、八千慧と組んだ私なら互角以上に戦えるはずだ。
「未だ小規模な組織は点在しているものの、事実上いまの畜生界は我々勁牙組と剛欲同盟の2大組織の争い……。決着を着ければ畜生界は統一されます」
「畜生界の統一、ね」
おそらく、かなりの確度でその未来は近いのだろう。八千慧ほど頭の良くない私でもわかる。
「おや、嬉しくないのですか?」
だがどうにも今はその景色に興味が持てなかった。自分の組の者達は今やそれを目指して私に付き従っているというのに、なんともな話だと自分でも思う。
「なんだか呆気なくてね」
「簡単に済むのならそれでいいのではないですか?」
八千慧の言うとおりだ。目的が達成できるならそれに越したことはない。だが、今の私はもはやそこを見ていなかった。
「……畜生界なんて地獄の一部に過ぎないよ。それに地獄でさえも世界の一部に過ぎない」
自分の口から出た言葉に自分で驚く。
あぁ、そうか。私は、
「まだ先があるよ、私はその先を見たい。」
昔、誰かが見ようとしていたものを、見ようとしているのかもしれない。
「……随分と遠くを見ているんですね、貴女は」
「遠いのかな。畜生界で成り上がるのだって最初は私一人からだったけど今や目前だ」
窓から見える空に向けて手をかざす。畜生界の冥い空。どれだけ飛んでも変わらないと思っていた空だが、いつの間にかこの空にも慣れ親しんでしまった。
「この脚で、この身体で……どんな遠くまで行けてしまうから、近いとか遠いとか、あまり考えたことなかったかもしれない、な」
「……」
少しの間の後に、口を開いたのは八千慧だった。
「……そうやって遠くを見過ぎていると足元を掬われますよ」
「え、手厳しいな……いまそういう流れだった?」
そうしてまたいつもの会話に戻る。
「近頃静かになったとはいえまだ剛欲同盟は健在です。饕餮がまた何かしてくるかもわからない」
「そこはお前がなんとかしてくれるだろう?」
我ながら、きっと悪い顔で笑いかけたのだと思う。
「……全く、頭を使うのは私に丸投げするんですから」
困ったような、知っていましたと言わんばかりの反応をしながら八千慧は部屋の出口へ向かう。
「そろそろ戻ります。その先に想いを馳せるのは良いですが、決して油断しないでくださいね、早鬼」
そう言って八千慧は私の部屋を後にした。
「願わくば、お前と一緒にその先とやらを見たい、かな」
彼女の去った部屋で、一人、呟いた。
「剛欲同盟が動きました」
今節の八千慧の報告はいつもと少し違っていた。
「起死回生の一手、と言ったところですかね。戦力を集中させた部隊が勁牙組の末端の地区を襲撃して周っているようです。」
「各個撃破で自分より弱いところを狙う、か。今までの動きとは随分違うな」
卓に地図を広げながら八千慧は説明を続ける。
「勢力が広がるとどうしても戦力を集中している地区、過疎化している地区の差が出ますからね。そして警戒しようにも範囲がこう広いと注意の目も分散してしまう……」
顔は変えずに、だが悔しそうに八千慧は説明を進める。
「しかし、いま相手の戦力が1つにまとまっているなら好都合。ここで全力で敵を……剛欲同盟を叩きましょう」
「総力戦、か」
今か今かと待っていた言葉だ。
「この敵部隊の中に饕餮がいるかは不明ですが、今までより統率が取れています。饕餮、もしくはより近い者が直接指揮を取っている。少なくともこれを叩けば饕餮も出て来ざるを得ないでしょう」
八千慧も同じ目をしている。待っていた時が来たのだと。
「統率が取れている分、次に彼らが攻め入る場所には検討がついています。私達は勁牙組の各地区の守りを均等に固めている……と見せ掛けて、ここに戦力を集中させます。」
八千慧の指が地図上の一点を指す。
「なるほどね、襲撃に備えて戦力を全体に分散させてると思わせておきながら、実際は本隊が迎え撃つ……ってわけだ」
八千慧お得意の奇襲の策だ。聞けばなるほどとは思うが私には思いつかない。
「ただ、戦力を分散させるように見せるため、一旦は実際に戦力を各地区に配置する必要があります。そして該当地区の戦力も外見上は少なく見せておく必要がある」
地図上に置いた駒を手際良く動かし八千慧は説明を続ける。
「そのために、私直属の奇襲部隊を戦闘地点に配置し、分散させておいた隊は後ほど合流させる仕組みです。……奇襲という手段は貴女があまり好まない手かもしれませんが……」
「まぁいけ好かないが、そうしないと向こうもこっちにぶつかって来ないんだろ?」
「でしょうね。矛盾しているようですが、ここで総力戦に持ち込むにはまず総力戦を相手に悟られないようにしないといけませんから」
「じゃあ何も言うまいさ。それに総力戦とは言うが、要するに組長である私が好き放題にできるように御膳立てしてくれるってことだろう?」
「気を遣ったつもりはないですよ。一番強い相手には一番強い者を当てるのが上策ですし、その方が皆の士気も上がるでしょう」
この最終局面においても私達のいつも通りのやり取りだ。
何でもないことのように淡々と説明を続ける。
「敵も味方も全てはお前の掌の上、か。全く敵に回したくないね、八千慧は」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
だが、きっとこの戦いで何かが変わる、互いにそれを確信している。
「早鬼」
卓を挟んで、私をまっすぐに見て八千慧は言う。
「これで、終わりにしましょう」
「終わりじゃないさ」
私も視線を返して、答える。
「ここから始める、だろう?」
少し驚いたような顔をして、彼女は笑った。
そして作戦決行の時が来た、細かな指示を八千慧に託し、私は作戦拠点へと移動する。
「早鬼、こちらです」
作戦拠点は地下に作ったアジトだった。
「……静かだな」
「地下なので音が聞こえにくいのか……または戦闘が膠着状態にあるのかもしれません。警戒を怠らないよう」
地下に到着すると、勁牙組と剛欲同盟の睨み合いが続いていた。大きなホールを挟んで2つの勢力が共に動かない、いや動けない状態でいる。
「なるほど、このアジトの奥まで追い詰めたようですが籠城していて手が出せない、と」
八千慧が先行していた部隊から情報を収集している。
「どうします?」
「ふん、決まってるだろ。私が来たからには、突撃だ」
でしょうね、と八千慧が笑う。
「行くぞ!!私に続け!!!」
敵へと突撃を開始する。
籠城していた剛欲同盟の動物霊をバリケードごと吹き飛ばす。
「呆気ないな!!」
あっさりと蹴散らしたバリケードの向こう側には更に大量の敵が陣を張っていた。攻撃する様子はなく、こちらの様子を眺め、まだ防御を固めている。
「ちっ、流石に数が多い……。全員、突撃!!!」
遙か後方に置いてきた味方に檄を飛ばす。
しかし、後方から声が返ってこない。
先行しすぎたか?いや、私が敵に先行するのはいつもと同じはずだ、何かがおかしい。
後ろを振り返ると、弾幕を展開する準備を整えた八千慧と動物霊が展開していた。
「全員!!攻撃準備!!!」
八千慧が部隊に指示を飛ばす。その瞬間、八千慧の側で控えていた部隊が照準を合わせる。
それだけではなかった。その反対側……剛欲同盟側の部隊も同時に弾幕を展開する準備をし、照準を合わせた。
八千慧の指が攻撃対象を指し示す。
「全員、目の前の敵に一斉攻撃!!!」
……その指は、私を指し示していた。
その瞬間、前方の剛欲同盟からだけでなく、後方……つまり味方であるはずの勁牙組からも怒涛の弾幕が展開された。
動物霊の個々の力は大したことはない、が、ここまでの大軍を相手に、しかも前後を挟まれての一斉砲撃はさすがの私も無傷ではいられなかった。
「ぐ……!」
更には場所も悪い。ここは地下だ。飛んで回避しようにも場所が狭すぎる。天井を破壊するのも一苦労だし、そも天井に飛ぶ隙も与えられない。
全てが最悪の状況下にあった。
「休むな!!隙を作ればここで全員終わりだぞ!!」
八千慧の声が聞こえる。彼女の指揮通り、弾幕は一向に止む気配が無い。
弾が多いだけではなく前後を挟まれ、更には数の多さで弾が途切れる隙もない。そして八千慧は私をしっかり目視しながら全体を指揮しているから弾の狙いも外れない。文字通り、いや文字以上の八方塞がりだ。
休む間も躱す隙も与えられない。体力を削られるうちに、ついに私は床に膝を付いてしまった。しかし尚も攻撃は止まない。
「倒れるわけには……いか、ない……」
膝は付いたがこれ以上は駄目だ。倒れれば本当にそのままやられてしまう。
「撃ち方、止め!」
八千慧の声が聞こえ、カツカツとこちらに歩み寄る靴音が聞こえる。
「私は言いましたよね」
靴音が止まると同時に鋭い脚技が私の身体を跳ねさせた。
「が……ッ」
「足元を掬われますよ、って」
八千慧の細い腕が私の胸ぐらを掴み持ち上げる。
ボロボロになった私を観客達に見せ付けるように。
「剛欲同盟!見ているな!饕餮に伝えろ……勁牙組の終わりと……」
掴まれ、無防備となった鳩尾に拳が入り、私の身体は再び地に倒れる。
「……吉弔八千慧率いる、鬼傑組の誕生をな!!!」
周りを囲む数多の動物霊の歓声が聞こえる。
ああ、煩い。只でさえ訳が分からないのに騒音が思考をさらに邪魔する。
いや、考えなくてもわかっていることがある。私は嵌められたということだ。
「いつから、だ……?」
擦れた声で言葉を捻り出す。
「何故、ではなくいつから、ですか」
騒ぎ立てる外野の中であっても八千慧の耳には届いたようだ。
「てっきり饕餮に付いたかとも思ったが……どうにも違うようだからな……。天下を取りたいのは畜生界なら誰だって考える、普通のことだろ……」
「普通のこと、と言う割にはそんな普通のことに騙される馬鹿がここに居ますがね」
変わらず冷たい瞳で私を見下ろしている。
少しの時間の後、彼女応えた。
「……私が選んだ」
「……?」
突然の言葉に疑問符が浮かぶ。
「……私が選んだ、と貴女は言いましたね」
「……」
構わず彼女は言葉を続ける
「選ぶ側と選ばれる側がいる。そして選ばれない者がいる」
「私がお前を選ぶんだ、吉弔」
「……」
選ぶ、と言った。
選ぶのか、私を。選ばれなかった者、吉弔を。
こいつは……
"選ぶ側"の存在だ。
"選ばれる側"でも"選ばれない側"でもない、
生まれたその時から自由に"選ぶ側"。
(……めない)
どうして、選ばれる者と選ばれない者がいる?
(……認めない)
どうして、選ぶ側と選ばれる側がいる?
(お前を、認めない)
選ばれなかった私は、選ぶ側のお前とは相容れない。
(私という存在は、お前の存在を認めるわけにはいかない……!)
「貴女はいつも自分が選ぶ側にいると思い込んでいる……それはとてもとても傲慢だ。お判りですか?」
彼女の言葉は耳に入ってくるが、私はそれを黙って聞くしかできない。
「……」
「……わからないでしょうね。ええ、そうでしょう」
一息付いて、倒れている私の頭を踏みつける。
「ぐ……ッ」
踏まれた痛みが思考を中断させる。
ボロ雑巾のようになった私の身体を再び彼女は細い腕で掴み上げた。
見せしめとばかりに掲げた腕に力が込められるのが見える。
「……さて、いつから?という話でしたね。お答えしましょう」
今まで幾度となく見た彼女の瞳が、見たこともないほど冷たい瞳でこちらを見た。
「貴女が私を選ぶと言った瞬間から、ですよ」
それは、つまり。
"初めから敵だった"と同義だった。
選ぶと言った、瞬間。
驪駒早鬼が、吉弔八千慧と出会った時。
そして、戦ったとき。
楽しかった。
……楽しかった?
そうだ、私は……
お前と戦うのを、望んでいたじゃないかーーーー!
笑い声が地下に響く。包囲する動物霊も、眼の前で私の胸倉を掴む八千慧も、狂ったようなその笑い声に凍り付いたように動けなかった。
その笑い声が自分のものだと気付くのに、少し時間を要した。
「は、はは……そうか、私の望みは“これ“か……」
身体の痛みも損傷も、嘘のように感じない。それよりも戦いたい。
器用に身体を跳ねさせ、八千慧の腕から逃れる。
「……ッ!総員!!」
一瞬遅れて八千慧が指示を飛ばそうと周囲を確認する。が、言葉は続かない。
周りを取り囲む動物霊は、動けなかった。
「……私がやるしか……ッ!」
「周りを気にしてる余裕はないんじゃないか!?」
指示を出そうとした八千慧の身体に速射砲のように弾幕が飛ぶ。
「が……ッ!」
至近距離で無数の弾幕を受けた彼女の身体が揺らぐ。
その隙を見逃さない。
「まだまだッ!」
すぐさま距離を詰め更に拳を入れて追撃する。
細い身体の節々が曲がっていく。
「あ……!」
生物が発せるとは思えない音が打撃の度に八千慧の口から漏れる。
「舐め……る……なッ!」
打撃を受けながらも彼女は私の顔面を掴む。
「死にぞこないがァ!」
そのまま私の身体ごと投げ、地面に叩き付ける。
地面に転がされ私は身体を起こす。
「はは……どっちが死にぞこないか、な…?」
自分では立っているつもりなのに視界が揺らぐ。
ああ、痛くないのではない、感覚がもう無いのだとようやく気付いた。
私を放り投げた八千慧を見やる。この一瞬でダメージを負った身体は私に負けず劣らずボロボロに見える。
そうして、二人は少しの距離を保ち向かい合う形となった。
場は静かだった。
周りを囲んでいる動物霊達は声も出せず、動けない。
存在を察知されれば"消される"、と本能が理解していた。
目の前にある2体の上位存在をただ目に映すこと以外、この場にいる者達には許されていなかった。
息をするのもやっと、互いに満身創痍の身体。
だが、まだ倒れない。倒れるわけにはいかない。
目の前の敵を、倒すまでは。
同じことを相手も考えている、そう確信していた。
「吉弔」
「驪駒」
その確信を裏付けるかのように互いに同時に相手の名前を呼ぶ。
だがその言葉には些細な、しかし明確な変化があった。
「……命乞いですか?」
「冗談。お前こそなんだ?」
「……いえ、最後にご挨拶を思いまして。消えゆく貴女への手向けに」
「奇遇だな、私も可愛い元片腕を切り落とす前に一言添えてやりたくてね」
すぅ、と互いに息を吸う。
「さよならだ、吉弔」
「さよならです、驪駒」
それが、終わりの合図だった。
ーーーこの場に居た動物霊はその時のことをこう語る。
彼処に居たのは驪駒早鬼でも、吉弔八千慧でもない。殺意のままに互いを殺し合う、二体の獣だった、と……。
意識が覚醒するのは突然だった。
無から意識が急速に覚醒する。
(ここは?今はいつだ?私の身体は?)
覚醒だけした意識は情報を求める。
それと共に朧気に記憶が脳裏に戻ってくる。
(……吉弔)
戦った、と言う言葉では的確ではない。互いの存在を否定し、殺し合った。本気で。
裏切りとか、罠とか、細かい経緯などもうとうに記憶から消し飛んでいた。ただ、吉弔八千慧と本能のままに殺し合った、そのことだけが記憶に残っている。
そうして記憶を辿っていると、看病に来たのであろうオオカミ霊が私を見て驚き、そして喜び他の者を呼びに行った。
どうやら私はかなりの日数寝込んでいたらしい。
容態の説明と共に、組の情報屋から近況を整理して説明された。
吉弔八千慧率いる鬼傑組のクーデターの報は瞬く間に畜生界に広がり、界全体を賑わせていた。
畜生界を破竹の勢いで進んでいた驪駒早鬼と互角に渡り合い、ついに膝を付かせた鬼才、吉弔八千慧の存在。そして彼女が率いる鬼傑組のインパクトはあまりにも大きかった。元々勁牙組の一部を引き抜いて作られた鬼傑組だったが、その後も更に鬼傑組へと所属を移すものも現れ、この抗争を機に鬼傑組は一気に畜生界の一大勢力の一つへと昇華した。
それだけではない。混乱、弱体化した勁牙組を剛欲同盟がさらなる追い討ちをかけたことにより、剛欲同盟の勢力も再び勢いを取り戻したのである。
勁牙組が剛欲同盟を打ち倒す寸前だった畜生界は勁牙組、鬼傑組、剛欲同盟の三大勢力による混沌の時代へと再び突入することとなったのだ。
「私を倒せなくても、私をあと一歩のとこまで追い詰めた。それだけで十分。その宣伝効果でここまで畜生界の戦況が変わるとはね……」
戦闘そのものだけでなく、その戦闘がもたらす影響まで綿密に考えられている。二手三手先まで考えた計画に改めて敵に回した相手の底知れなさを感じる。
「全く。何がもっと遠くに、だ。畜生界がこんなに面白くなってしまっては遠くなんて見てる場合じゃあなくなったじゃないか」
組全体にも自分自身にもこれだけのことをしてやられたのに、自身の魂が燃えているのを感じる。自然と不敵な笑みが浮かぶ。
この窓から見える仄暗い空を見る。この畜生界のどこかで、今もなお存在している好敵手に向かって呟いた。
「あの時、お前を選んで良かったよ。吉弔」
出会った日と変わらない昏い夕闇が照らす。
胸に空いた喪失感など埋める必要も無い、好敵手としての存在感と激情が早鬼の胸を焦がしていた。
あとバトル描写ホント好き。良かったです。
戦いだけでなく、戦うことによって得られるもの与える影響を考えながら立ち回るという饕餮にも驪駒にもできないことをやってのけた八千慧が素晴らしかったです
こういう組長も面白いと思います
弱肉強食の世界では、選ばれようが選ばれなかろうが、実力さえあれば生きていけるのかなと思いました。