やあ。私はダンテ。森に住むキノコだ。
この文章は私、ダンテがこの森での暮らしや他者との交流について思ったことなどを心赴くままに書き連ねたもの。
小難しいことを書いたつもりは一切ないので、ぜひ、お菓子でも食べながら軽い気持ちで読んでもらえたらこれ幸いに思う。
☆
月並みだが、私の住むこの森は、キノコにとって極上の環境だ。
まずなんと言っても一年中、適度な湿気に覆われている。乾燥した砂漠ではキノコが育たない(一部の変態種はそれでも育つが)事からもわかるように、キノコにとって湿気は命よりも大事。日陰が多くほどよい湿気に覆われた、この森はまさにキノコの楽園なのだ。だが、これだけなら他にも似たようなところは、世界中を探せば見つかるのかもしれない。
しかし、他の場所とこの森では決定的な違いがある。それは何かというと、この森には、キノコの神さまが住んでいるということだ。
その神さまの名前は霧雨魔理沙。私に名を授けてくれた者でもある。
彼女は魔法という不思議な力を扱うのだが、その力の源にキノコを使っている。それ故、キノコに詳しく、キノコを愛してくれている。
そして我々も同じように彼女を神さまと呼んで敬愛している。まさに相思相愛なのだ。なぜ彼女がキノコから敬愛されているか。それにはもちろん理由がある。
彼女は、この森に住むキノコを分別するため一つ一つに名前を付けてくれているのだ。「なんだ、そんなことかよ」と、思うかもしれない。だが、よく考えてみてほしい。キノコが暮らしているのはなにも地上だけではない。中には地中に生えて地中で一生をひっそり終えるキノコだってある。そんな地味で陰キャな彼らに対しても神さまは、きちんと名前を授けてくれる。そう、すべてのキノコに分け隔てなく手を差し伸べてくれるのだ。
ちなみに名前を付けるときは、本を参考に名付ける場合もあれば、見た目から名付ける場合もあるようだ。
例えば、白い菌糸の塊のような者にはゴハンツブノカタマリ。白くて太い柄に茶色の大ぶりな傘を広げた者にはコレゾキノコ。ジャガイモのような形をした者には、マルデイモガミタケと言った具合だ。
我々にとって名前を付けてもらうこと。それは神さまに認めてもらえたということでもある。
我々の間では、神さまに名前を付けてもらうことが一種のステータスとなっており、いかに神さまの目に付くところへ現れるかを常々競っている。
かつて目立ちたいあまりに神さまの寝室の柱に生えたツワモノ(というよりならず者)がいたが、そんな彼に対しても、神さまは嫌な顔一つせずネドコタケという立派な名前を授けてくれた。そんなわけで、この森においては、神さまに名前を付けてもらって初めて一人前のキノコと呼べるのだ。
今日も森の中ではまだ名のないキノコ達が、神さまに見つけてもらおうとあれこれ策を練っていることだろう。
ちなみに森には他にも人が住んでいるが、基本我々には見向きもしてくれない。
いや、見向きもしないならまだ良い方で、中には見かけるなり、気持ち悪いと蹴り潰したり、ストレス発散とばかりにバラバラにしてしまう残酷非道極まりない者もいる。
そういうキノコに害をもたらす者達を我々は「ブス」と呼んで忌み嫌っている。このブスは「毒」と言う意味のブスであって、不細工という意味のブスではない。決して。
むしろ顔だけで言うなら、個人的には神さまよりもブスの人形つかいの女の方が好みなくらいだ。彼女がブスであるのが本当に悔やまれる。世の中、上手くいかないものだ。
☆☆
ご存じの方もいるかもしれないが、我々キノコの本体はいわゆる、一般的に言うキノコの部分ではない。
あの部分は専門的には子実体(しじつたい)と呼び、胞子を飛ばすためのもの。ようは生物で言う生殖器官のようなものだ。つまり他の生物たちは老若男女、我々の生殖器官を美味しそうに食べているという事実……は、とりあえず置いておいて、我々キノコの本体は、その子実体の下に広がる菌糸そのものなのだ。そして、この森の地面や木には、様々なキノコの菌糸が広がっていて、それぞれ情報を共有し合っている。
言ってしまえばこの森にはキノコのネットワークが張り巡らされており、キノコ同士で話をしているのだ。
例えば
「おい、アシダカグモタケ。今、そっちに蓑傘かぶりのブスが行ったぞ。もう胞子を飛ばした方がいいんじゃないか? その方が被害少ないだろ」
「オーケイ! それじゃすぐに飛ばすとしよう。ありがとよ。カレキニヨクハエテルヤツ」
と、いったブス動向のやりとりや
「いやあ、今日も立派な傘を広げているね。見てて惚れ惚れするよ。カラカサタケくん」
「そういうキミだって、一際目立つ全身黄色のコントラストのその鮮やかさ。本当羨ましい限りだよ。ツノマタタケくん」
と、いった社交辞令などなどが常に飛び交っている。勿論、神さまの話題もしかりだ。
我々キノコたちはこう見えてもおしゃべり好きで、常に何かしらの話をぺちゃくちゃと喋り続けている。それこそ、よくもまあ飽きないものだと思うくらいだ。
もっとも、こうやってつらつらと好き勝手に書き連ねている自分も「ご多分にもれず」と、いうことなのだろう。
ともかく、他の生き物達にとってこの森は静寂の世界に感じるかもしれないが、キノコにとってはこの森ほど賑やかなところはない。
多種多様の様々なキノコが暮らし、交流しているこの森は、さながらキノコ銀座。はたまた菌類の町ということで、菌糸町といったところか。
いずれにしても、ここがキノコ界の最先端都市であることに対して異論はないだろう。この森がある限り、キノコ界の未来は明るいのだ。
☆☆☆
さて、前の章でも話したとおり、キノコたちは、いつも神さまの話題で持ちきりだ。それだけ彼女は魅力に溢れているということでもある。
白と黒を基調としながらも、お洒落な装いは見てて飽きないし、常にコロコロと表情を変える様は、まるで姿を次々と変えていく粘菌たちのようだ。更に頭にかぶっている大きな帽子は、さながらシロオニタケの大きく立派に広げた傘を彷彿させる、そしてその金色の髪はシモコシのように鮮やかで……って、さすがにこじつけが過ぎるか。どうも比喩は苦手だ。
脱線したが、ともかく身体の端々からにじみ出る隠しきれないキノコ好きのオーラ。やはり彼女はキノコの神さまなのだ。
ここで彼女がキノコの神さまたらしめるエピソードを一つ紹介しよう。
以前、神さまが、毒キノコを食べて中毒を起こした(それこそ三日三晩のたうち苦しむくらい大変だった)事があったのだが毒キノコとわかっても、彼女はそのキノコをまた食べようとする。
話によると、どうやら毒キノコを食べ続けることで毒への耐性が付くと考えたらしい。そんなことはあり得ないし、むしろ逆に毒が身体に蓄積して危険なのだが、それを聞いたその毒キノコは、神さまがかわいそうだと思ったのだろう。なんと自身の毒性分を弱くしたのだ。キノコを食べた神さまは、毒に強くなった、と、たいそう喜んだ。すると、その話を聞いた他の毒キノコたちも次々と自身の毒を弱くしていった。そして、結果的に神さまはこの森の毒キノコを克服することになったのだ。
もちろん、実際に毒に強くなったわけではない。キノコの方が勝手に毒を弱くしただけだ。しかし彼らは皆、神さまの喜ぶ顔が見たいという一心で自らを弱毒化した。つまり彼女は、彼らの心を動かしたのだ。キノコの心を動かすなんて離れ業は、キノコの神さまである彼女にしかできないことだろう。それだけ彼女はキノコから親しまれ、敬愛されているということを象徴するエピソードと言えるのではないだろうか。
ちなみに一つ付け加えておくと、毒性分が弱くなるのは神さまの時だけで、他の人が食べるときは本来の毒の強さに戻るのであしからず。キノコはそんなに甘くはない。
☆☆☆☆
よく他の場所のキノコたちの話が風の噂で流れてくるが、どうやらこの森とは比べものにならないくらい過酷な環境を生きているようだ。 湿度を求めてひたすらに彷徨い、ようやく子実体を付けるまできても胞子を飛ばす前に食べられる、もしくは踏み壊されてしまう。そうして枯葉などを分解しながら細々とたくましく生き抜いている。
もしかするとそれが、キノコの本来の生き方なのかもしれない。我々の暮らしぶりを知った彼らは、もしかすると我々を苦労知らずの温室育ちとあげつらうのかもしれない。しかしそれでも、私はこの森に生まれて本当に良かったと心から思っている。
それは単にサバイバルな生活と無縁であるというだけではない。他のキノコとの楽しい交流、そしてキノコの神さまとの運命的な出会い。いずれもこの森だからこそ経験できたことなのだ。
もし今後、例えこの森の生態系に異変が起きてキノコの住みにくい環境になってしまったとしても大丈夫だと私は思っている。なにしろこう見えてもキノコはしぶとい。きっと外の世界のキノコのように隙間をぬって細々と生き続けるだろう。更に我々にはキノコの神さまが付いている。その時はきっと森のキノコを守るために動いてくれるだろうし、我々キノコも彼女に精一杯協力するつもりだ。
これからもこの森は、キノコの楽園として神さまと共存し栄え続けていくことだろう。
願わくば、神さまとこの森に幸多からんことを。
この文章は私、ダンテがこの森での暮らしや他者との交流について思ったことなどを心赴くままに書き連ねたもの。
小難しいことを書いたつもりは一切ないので、ぜひ、お菓子でも食べながら軽い気持ちで読んでもらえたらこれ幸いに思う。
☆
月並みだが、私の住むこの森は、キノコにとって極上の環境だ。
まずなんと言っても一年中、適度な湿気に覆われている。乾燥した砂漠ではキノコが育たない(一部の変態種はそれでも育つが)事からもわかるように、キノコにとって湿気は命よりも大事。日陰が多くほどよい湿気に覆われた、この森はまさにキノコの楽園なのだ。だが、これだけなら他にも似たようなところは、世界中を探せば見つかるのかもしれない。
しかし、他の場所とこの森では決定的な違いがある。それは何かというと、この森には、キノコの神さまが住んでいるということだ。
その神さまの名前は霧雨魔理沙。私に名を授けてくれた者でもある。
彼女は魔法という不思議な力を扱うのだが、その力の源にキノコを使っている。それ故、キノコに詳しく、キノコを愛してくれている。
そして我々も同じように彼女を神さまと呼んで敬愛している。まさに相思相愛なのだ。なぜ彼女がキノコから敬愛されているか。それにはもちろん理由がある。
彼女は、この森に住むキノコを分別するため一つ一つに名前を付けてくれているのだ。「なんだ、そんなことかよ」と、思うかもしれない。だが、よく考えてみてほしい。キノコが暮らしているのはなにも地上だけではない。中には地中に生えて地中で一生をひっそり終えるキノコだってある。そんな地味で陰キャな彼らに対しても神さまは、きちんと名前を授けてくれる。そう、すべてのキノコに分け隔てなく手を差し伸べてくれるのだ。
ちなみに名前を付けるときは、本を参考に名付ける場合もあれば、見た目から名付ける場合もあるようだ。
例えば、白い菌糸の塊のような者にはゴハンツブノカタマリ。白くて太い柄に茶色の大ぶりな傘を広げた者にはコレゾキノコ。ジャガイモのような形をした者には、マルデイモガミタケと言った具合だ。
我々にとって名前を付けてもらうこと。それは神さまに認めてもらえたということでもある。
我々の間では、神さまに名前を付けてもらうことが一種のステータスとなっており、いかに神さまの目に付くところへ現れるかを常々競っている。
かつて目立ちたいあまりに神さまの寝室の柱に生えたツワモノ(というよりならず者)がいたが、そんな彼に対しても、神さまは嫌な顔一つせずネドコタケという立派な名前を授けてくれた。そんなわけで、この森においては、神さまに名前を付けてもらって初めて一人前のキノコと呼べるのだ。
今日も森の中ではまだ名のないキノコ達が、神さまに見つけてもらおうとあれこれ策を練っていることだろう。
ちなみに森には他にも人が住んでいるが、基本我々には見向きもしてくれない。
いや、見向きもしないならまだ良い方で、中には見かけるなり、気持ち悪いと蹴り潰したり、ストレス発散とばかりにバラバラにしてしまう残酷非道極まりない者もいる。
そういうキノコに害をもたらす者達を我々は「ブス」と呼んで忌み嫌っている。このブスは「毒」と言う意味のブスであって、不細工という意味のブスではない。決して。
むしろ顔だけで言うなら、個人的には神さまよりもブスの人形つかいの女の方が好みなくらいだ。彼女がブスであるのが本当に悔やまれる。世の中、上手くいかないものだ。
☆☆
ご存じの方もいるかもしれないが、我々キノコの本体はいわゆる、一般的に言うキノコの部分ではない。
あの部分は専門的には子実体(しじつたい)と呼び、胞子を飛ばすためのもの。ようは生物で言う生殖器官のようなものだ。つまり他の生物たちは老若男女、我々の生殖器官を美味しそうに食べているという事実……は、とりあえず置いておいて、我々キノコの本体は、その子実体の下に広がる菌糸そのものなのだ。そして、この森の地面や木には、様々なキノコの菌糸が広がっていて、それぞれ情報を共有し合っている。
言ってしまえばこの森にはキノコのネットワークが張り巡らされており、キノコ同士で話をしているのだ。
例えば
「おい、アシダカグモタケ。今、そっちに蓑傘かぶりのブスが行ったぞ。もう胞子を飛ばした方がいいんじゃないか? その方が被害少ないだろ」
「オーケイ! それじゃすぐに飛ばすとしよう。ありがとよ。カレキニヨクハエテルヤツ」
と、いったブス動向のやりとりや
「いやあ、今日も立派な傘を広げているね。見てて惚れ惚れするよ。カラカサタケくん」
「そういうキミだって、一際目立つ全身黄色のコントラストのその鮮やかさ。本当羨ましい限りだよ。ツノマタタケくん」
と、いった社交辞令などなどが常に飛び交っている。勿論、神さまの話題もしかりだ。
我々キノコたちはこう見えてもおしゃべり好きで、常に何かしらの話をぺちゃくちゃと喋り続けている。それこそ、よくもまあ飽きないものだと思うくらいだ。
もっとも、こうやってつらつらと好き勝手に書き連ねている自分も「ご多分にもれず」と、いうことなのだろう。
ともかく、他の生き物達にとってこの森は静寂の世界に感じるかもしれないが、キノコにとってはこの森ほど賑やかなところはない。
多種多様の様々なキノコが暮らし、交流しているこの森は、さながらキノコ銀座。はたまた菌類の町ということで、菌糸町といったところか。
いずれにしても、ここがキノコ界の最先端都市であることに対して異論はないだろう。この森がある限り、キノコ界の未来は明るいのだ。
☆☆☆
さて、前の章でも話したとおり、キノコたちは、いつも神さまの話題で持ちきりだ。それだけ彼女は魅力に溢れているということでもある。
白と黒を基調としながらも、お洒落な装いは見てて飽きないし、常にコロコロと表情を変える様は、まるで姿を次々と変えていく粘菌たちのようだ。更に頭にかぶっている大きな帽子は、さながらシロオニタケの大きく立派に広げた傘を彷彿させる、そしてその金色の髪はシモコシのように鮮やかで……って、さすがにこじつけが過ぎるか。どうも比喩は苦手だ。
脱線したが、ともかく身体の端々からにじみ出る隠しきれないキノコ好きのオーラ。やはり彼女はキノコの神さまなのだ。
ここで彼女がキノコの神さまたらしめるエピソードを一つ紹介しよう。
以前、神さまが、毒キノコを食べて中毒を起こした(それこそ三日三晩のたうち苦しむくらい大変だった)事があったのだが毒キノコとわかっても、彼女はそのキノコをまた食べようとする。
話によると、どうやら毒キノコを食べ続けることで毒への耐性が付くと考えたらしい。そんなことはあり得ないし、むしろ逆に毒が身体に蓄積して危険なのだが、それを聞いたその毒キノコは、神さまがかわいそうだと思ったのだろう。なんと自身の毒性分を弱くしたのだ。キノコを食べた神さまは、毒に強くなった、と、たいそう喜んだ。すると、その話を聞いた他の毒キノコたちも次々と自身の毒を弱くしていった。そして、結果的に神さまはこの森の毒キノコを克服することになったのだ。
もちろん、実際に毒に強くなったわけではない。キノコの方が勝手に毒を弱くしただけだ。しかし彼らは皆、神さまの喜ぶ顔が見たいという一心で自らを弱毒化した。つまり彼女は、彼らの心を動かしたのだ。キノコの心を動かすなんて離れ業は、キノコの神さまである彼女にしかできないことだろう。それだけ彼女はキノコから親しまれ、敬愛されているということを象徴するエピソードと言えるのではないだろうか。
ちなみに一つ付け加えておくと、毒性分が弱くなるのは神さまの時だけで、他の人が食べるときは本来の毒の強さに戻るのであしからず。キノコはそんなに甘くはない。
☆☆☆☆
よく他の場所のキノコたちの話が風の噂で流れてくるが、どうやらこの森とは比べものにならないくらい過酷な環境を生きているようだ。 湿度を求めてひたすらに彷徨い、ようやく子実体を付けるまできても胞子を飛ばす前に食べられる、もしくは踏み壊されてしまう。そうして枯葉などを分解しながら細々とたくましく生き抜いている。
もしかするとそれが、キノコの本来の生き方なのかもしれない。我々の暮らしぶりを知った彼らは、もしかすると我々を苦労知らずの温室育ちとあげつらうのかもしれない。しかしそれでも、私はこの森に生まれて本当に良かったと心から思っている。
それは単にサバイバルな生活と無縁であるというだけではない。他のキノコとの楽しい交流、そしてキノコの神さまとの運命的な出会い。いずれもこの森だからこそ経験できたことなのだ。
もし今後、例えこの森の生態系に異変が起きてキノコの住みにくい環境になってしまったとしても大丈夫だと私は思っている。なにしろこう見えてもキノコはしぶとい。きっと外の世界のキノコのように隙間をぬって細々と生き続けるだろう。更に我々にはキノコの神さまが付いている。その時はきっと森のキノコを守るために動いてくれるだろうし、我々キノコも彼女に精一杯協力するつもりだ。
これからもこの森は、キノコの楽園として神さまと共存し栄え続けていくことだろう。
願わくば、神さまとこの森に幸多からんことを。
もしかしたら幻想郷の色んな場所で、こういう面白おかしくて不思議な世界がそれぞれの環境、それぞれの色合いで広がっているのかも知れませんね。
個性的なキノコたちが光る、良い作品でした。
キノコ主人公は新しすぎます
素晴らしかったです
読み終わってもなんだこれ?ってなった作品
悪い意味ではありませんので悪しからず。
不思議な発想だけど面白いのは作者さんの確かなセンス
地味な陰キャにも優しい総受魔理沙とキノコたちのカプ
魔理キノは公式カプ……?