『Pollyanna(ポリアンナ)
極端な楽観主義者◆Eleanor Porterの小説の主人公の名前から』
「ねえ、こころちゃん。今日から私は他の人の良いとこを探していこうと思うの」
公演が終わって楽屋で休んでいると、遊びに来た古明地こいしに突如そう告げられた。随分と真剣な表情だった。
「どうしたのさ、急にそんなことを言い出して」
「私ね、思ったんだ。私には感情なんて最初から存在しないけど、他の人には確かに存在する。他の人の感情を理解していこうと努めていったら、自分のそれについても分かってくるんじゃないかって。他の人の良いところを見つけていったら、きっとその人は嬉しい。そして私も見つけてあげれて嬉しい。そうやって嬉しさの共通部分を見出していければなって思ったの」
「それは良いけど、探すっていってもどんな感じで?」
「例えばさ……」
こいしは私の服の袖をつまんでこう言った。
「似合ってるよ、今日は特に。この服」
「別にそんなわざとらしく褒めてもらわなくても……いつも似たような服着てるわけなんだから……」
「いいや、そんなことはないよ。今日のこころちゃんの着こなしはすごくいい感じだよ」
「そういうのをわざとらしいって言うんだって……」
分かったのか分からないのか、そのあどけない表情から伺い知ることは出来ない。でも……きっと別に悪いことではない。確かに彼女の言うとおりだ。人を褒めてあげることは人を攻撃することなんかよりもずっとお互いに気持ちが良い。私は彼女のこのちょっとした変化を快く思った。彼女にとって良い影響が及ぶのならどういうものであっても悪くないことなのではないだろうか。
「まあいいよ。服、褒めてくれてありがとう。その、他の人の良いとこ探し、頑張ってね」
「うん、じゃあね。あ、今日の公演、すっごく良かった。例えばね……」
楽しそうに私の公演の感想を語りだした彼女を見て、やれやれ、と思った。わざわざ服を褒めるのと、何気なく私の公演の良かったところを語るの、どちらが相手にとって好ましい「良いとこ探し」なのか、今ひとつ分かっていないらしい。それも仕方がないかもしれないな。他の人の良いところなんて、見つけようと思うとなかなか見つからなくて、それほど気にしていないときに大体発見する、道端に落ちている形の良い石ころのようなものだ。無論、どちらの「良いとこ」についても彼女は他意なく述べているであろうことは分かっているのだが。
「それでまあ、こういう感じ。ごめん、長々と喋っちゃって」
「いいよ、全然。感想を言ってくれるのはありがたい」
「それじゃ、こんどこそまたね」
過ぎ去ってゆくその小さな背中はこの間見たときよりもぴんと張っていて、だけれどもどこかふわふわとしているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
私はいつも妹のことを心配している。分かっている。こいしだって愚かではない。でもあの子は昔から優しすぎるのだ。別にあの子がメンタルが弱いだの心が軟弱だのそんな侮蔑の言葉を述べたいのではない。そんなことを言うやつは二度とそんなことを口にできないような目に遭わせてやる。ただ、心を読むということにはそれに耐えられるだけの「図太さ」が必要である。それは心の強さとはたいして関係がない。相手の感情にずかずかと入り込むか、のこのこと明後日の方向を向いていれば「図太さ」は手に入る。そしてそれと引き換えに他人から空気が読めないだのなんだのと言われるようになる。言いたいやつには言わせておけばいい。だが、こいしはそうやって割り切ることが出来なかった。
こいしが目を閉ざしたのは周りから嫌われるということを恐れたから。だが無論それで直ちに周りから好かれるようになるということを意味しているのではない。難しいものだ。好かれるのには時間がかかるとしても嫌われるのは大概一瞬。とりわけ私達が覚妖怪である以上、好意を築くよりも崩してしまう方がずっとずっと簡単だ。だとしたら、どちらの陣営に属することもなく、ただ非武装中立地帯で両手を上げて立っていれば傷つくことも傷つけることもない。
こいしは自分が傷つくということ以上に相手を傷つけることを恐れたのではないだろうか? それはある意味で分かち難いものではあるし、そもそもそんなことは私の勝手な想像に過ぎない。もうこいしの心を読むことはできないのだから、あの子がどう思っていたのかなんてことはわからないのだ。それにしても閉ざす方を選んだのはやはりもったいないとは思うのだけど。
さて、そんなことをうだうだと言いたいのではない。最近こいしがちょっと妙なのだ。
「お姉ちゃんってお空やお燐にいつも優しくしてあげて偉いね」
ありがとう、こいし。
「お姉ちゃんって心を読んでも辛くならないなんで強いね」
感謝するわ、こいし。
「お姉ちゃんって物語を書けるなんてすごいね」
今度読ませてあげる、こいし。
他にも色々あるが。まあこうやって褒められるのは別に悪い気分になるものではない。そうしつこいわけでもないのだから。ただ、以前よりも大分頻度が上がった気がするので、ある日そのことについて尋ねてみた。
「こいし、あんた最近私のこと褒めてくれるけど、どういう風の吹き回しなの?」
「昔は褒めていなかったみたいに言わないでよ―」
「別にそんなつもりはないけど……」
「他の人の良いとこ探しをしてるんだ」
「良いとこ探し?」
「私ね、こうやって周りの人の良いとこを探すことで自分が幸せなんだって感じるの」
「どういうこと?」
「だってお姉ちゃんにしてもそうだし、お空やお燐、最近だとこころちゃんとか、いっぱい良い所あるじゃない。そんな良いところがいっぱいある人に囲まれている毎日ってすごく幸せだと思わない?」
「まあ、そう思うのならそう思えばいいけど……」
良いとこ探しか。他人の心を読んでいたらそんなことはわざわざ考えたくもないんだけどね。だからそういうことができるのはあの子の特権なのかもしれない。とりあえず私はそう思うことにした。
私は常に無表情だ。
無論感情がないわけではない。むしろ能楽を演じる以上、他人よりも感情に敏感な必要があると感じている。それは自分の感情であっても他人の感情であっても変わらない。芸術家だから他人の感情に寄り添えるとはもちろん限らないし、そうでない者のほうが多いような気もするけど、私は芸能家である以前に人に優しくできる者でありたい。
でも、そんなことをこいしに言う気にはとてもならない。こいしのあの言葉がじんじんと心のなかで根を張っている。「私には感情なんて最初から存在しない」という言葉が。こいしは表情豊かだ。もっともその表情はいつも一つの方向を向いている。それが本人にとってどういう意味を持っているのか、それを理解しようとするには人も妖怪もそして私も脳みそに脂肪が付きすぎている。一つ言えるのは、こいしだって人に優しくできる、いや、きっと私以上にそうすることができるだろうということ。私はそう信じている。
最近だってこいしは他の人の「良いとこ探し」を始めた。今日も公演前の楽屋にやって来て、いつもどおりのにこにこ顔で嬉しそうに話しかけてきた。
「こころちゃんってさ、この間博麗神社で能楽を披露して参拝客増やしてあげたんだって? すごいよね」
「まあ、ああやって舞台を用意してもらえると私もありがたい」
「でも参拝客をあんなに増やすなんてそんなの、そうそう他の人にできることじゃないよ?」
「私は私のやれるだけのことをやっただけ」
「でもそんなすごいことができる人が周りにいるなんて私は恵まれてるな」
「そう言っていただけると実に光栄」
「私ね、もっともっとこころちゃんの良いとこ探していきたいんだ。そうすればきっとこころちゃんのこと今以上に好きになれるし、今が幸せであるということをより実感できるようになると思うんだ」
「ありがとう。でも無理して探してもらわなくてもいいんだけどね。私だって足りない部分はいっぱいあるんだから」
「なるべく相手の良い部分に目を向けていきたいの。どんな悪い人にだって良いところはあるって最近信じられるようになったから」
「それは結構なこと」
「じゃあ、公演がんばってね。じゃあね」
その小さな背中はこの間と変わらないようにも見えた。だけどぴんと張っているというよりはぴしりとしているという感じだったし、ふわふわとしているというよりはどこか揺らぎを思わせるものだった。
地底の住人は「一般的」な観点から言えば嫌われるに相応しい者だらけというのが地上の人妖の通説だ。その嫌われ者の総大将みたいな私が言うのも何であるが、それはある意味で正しくある意味で大きく間違っている。完全な善人がいないのと同様に完全な悪人というのも存在しない。私は心を読めるからこそ、そのことを否応なく痛感する。嫉妬心を操るが故に地上の者からは蛇蝎のごとく嫌われている水橋パルスィでさえ、私から見ればその本質は優しさである。では、こいしはどうなのだろうか。姉妹とはいえあの子のことを理解してあげられたかどうかなんて私にはわからない。でも、最近とみにあの子のことが分からなくなっている気がする。無論第三の目を閉じているというのが最大の原因だ。私は自分の能力に頼りがちだから、一般的なコミュニケーションというものがそこまで得意ではない。こいしが何を考え、何を感じ、何を求めるのか、そういうことはあの子の表情や行動から読み取らなければならない。でもこいしはいつもにこにことしていて、いつもふらふらとしている。私は私のできる精一杯をやっているつもり。でもあの子がどう感じているかなんて分からない。だからそこには私なりの怖さもある。
「お姉ちゃん」
地霊殿の私の部屋に入ってきたこいしはいつもよりも上機嫌な様子だった。
「今日はお姉ちゃんにお礼を言いに来たの」
「お礼? なにかした?」
「私にお空とかお燐とか、すごく可愛くてすごく信頼できるペットをくれたこと」
「かなり前からじゃない」
「でもお礼は言ってなかったと思ってさ。ありがとう。優しいお姉ちゃんを持てて私はすごく幸せ」
「そう。どういたしまして」
そう、確かにこいしは上機嫌だ。でも私にはよくわからないのだ。なぜこの子がこれほどまでに上機嫌なのか。おそらく以前言っていた「良いとこ探し」の一環なのだろう。それは分かる。だが他人の良いところを見つけられたからと言ってそれが直ちに幸せにつながるのだろうか。私は心を読めるからこそ、それこそどんな悪人だからといって露ほどの良心を見つけ出すことはできる。でもその僅かばかりの良心に気づいたからと言って別に幸せになるということはない。相変わらず目の前のクソ野郎はクソ野郎のままで、そのクソ野郎と一緒な空間にいるということは相変わらず実にクソみたいなことだ。私はカンダタのようなクソ相手に蜘蛛の糸を下ろしてやるお釈迦様みたいに慈悲深くはない。別に親密な相手であっても変わらない。良いところに気づいたからといって別にそこまで幸せに繋がるというわけではない。幸せとはそこまで単純明快なものには思えないのである。これが悪いところだったら話は別で、悪いところを一つ見つけただけで、痘痕を笑窪だとでも思わない限りは大体が不幸に繋がる。はあ、随分と面倒なものだ。
「まあ、あんたが幸せになってくれたんならお姉ちゃんは嬉しいけど」
「うん、お姉ちゃんが嬉しいと私も嬉しい」
そう、これはこれでいいのかもしれない。私は無理矢理にでもそう思おうとした。
「良いとこ探し」を始めるようになって確かに彼女は以前よりも笑うようになったと思う。いや、彼女が幸せなのなら特に文句をつけることもないのだが。しかし私がこういう微妙なものを抱くに至ったのは先日のある出来事がきっかけだ。
こいしは公演後に楽屋にやってきた。相も変わらず笑顔を崩すことはない。
「こころちゃん、こんにちは」
「あ、ああ。こいし」
「どうしたの? なんかいつもと様子が少し変」
「今日の公演でちょっと失敗してしまってね……」
「それは辛かったね」
「別に褒めてもらわなくても良いよ。今日の公演は私の中では納得いってないから」
「でも、どこか良い部分は必ずあると思うよ。私の中ではあそこ、腕を大きく上げるところの演技がすごく良かった」
「あ、ありがと……」
「こちらこそありがとう。ごめんね、本当は公演に納得いってないだろうに、こんなこと言って」
「いや、良いんだけどね……」
「じゃあね、また公演あったら見せてもらうね」
そう言って離れていく小さな背中は以前よりも固くなっているように思えた。
「良い部分ねえ……」
なるほどなるほど、確かに良い部分に目をやることは大切だ。そのとおり。彼女の言うことに何も間違いはない。まさにそのとおりである。彼女の言うところの良い部分、ここでは腕を大きく上げる部分だが、それが私の中で悪い部分でなければの話ではあるが。
こいしが「良いとこ探し」を始めて一ヶ月ほど経った。今日もこいしは私の「良いとこ」を色々と見つけてくれる。前と比べたら、あまり品のない言葉を使えばベタベタとするようになった。別におべっかを使うとかそんな感じではない。あの子は本気で「良いとこ探し」を行っているからこそ、私はそれをどっしりと受け止めてあげようと思っている。
「お姉ちゃん、私は最近幸せなんだ」
「幸せ? それは良かったわね」
「だって私の周りはみんなたくさんの『良いとこ』があるんだよ? 私はお姉ちゃんの妹で良かったって思えるし、お姉ちゃんも私のお姉ちゃんでいてくれてありがとう」
「別にそんな褒めてもらわなくてもいいのに」
「ごめんね、あんまり良い気持ちにならなかったら」
「いや、そんなことはないの。褒めてもらえるのは嬉しいわ」
「ほんと? 私も嬉しい!」
やったーとでも言い出しそうな具合でぴょんぴょんと可愛らしく飛び跳ねるこいしを見ると、嬉しさの反面どうしても心配になってくる。この調子でずっと行き続ければまあ良いのだろうけど、私にはそれがどのようなものかはわからないが何かどす黒いものに近づいてしまったとき、それでもこいしは「良いとこ」を見つけようとすることができるのだろうか? そのときにはもはや強いとか弱いとかそんなものは関係がない。むしろそれはおそらく「狂気」に近い場所にいないとできないこと。私の大切な妹は確かにその心はからっぽなのかもしれない。でも決して「狂気」に侵されてはいない。そう信じている。
近々大事な公演が控えている。人里の大きな祭りで演目を披露するのだ。そのため私は最近はその練習に余念がない。
こいしは今日もやってきた。変わらない愛くるしい笑顔を振りまきながら、なにがそんなに面白いのか私の練習を眺めている。まあ練習に差し支えがなければ居てもらうことは全然構わないのだけど。
練習が一段落してふうと一息をつく。はい、これと私に水の入った水筒を手渡してくれる。ありがとう、助かるわ、と返してやる。
「それにしても練習なんか見て何がそんなに面白いの?」
「私はお能のことは全然わからないけど、きっとそこにも『良いとこ』はあるんじゃないかって」
「まあ練習で成長できることが『良いとこ』なのかもしれないけど、むしろ練習なんて『悪いとこ探し』よ? 悪いところを見つけてそこを修正していく。それの繰り返し」
「ふうん、私ってそういう練習ってしたことないからよくわからないんだ」
「だから私は練習でも本番でも『良いとこ』を指摘してくれる以上に『悪いとこ』を指摘してくれるのがありがたい。特にそれが具体的であるのならば改善ができる。……まあ、いくら改善を続けていったところで完璧な演技なんて出来っこないんだけど」
「悪いとこばっかりだと辛くならないの?」
「凹むことは多々あるけどね。自分の至らなさに。でも私はそれ以上に、自分の演技を成長させられることが嬉しいかな」
神妙な顔で聞いているが、わかったのかわからないのか相変わらずその表情から伺い知ることは難しい。
そういえば、自ら読心を司る第三の目を閉じてしまったのだと以前こいし本人から聞いたことがある。
「だってさ……すっごく辛くて苦しいんだよ? 私は別に心を読んでやろうだなんて思ってないのに周りから嫌われるのって」
あのときのこいしの悲痛な面持ちは今も忘れることができない。
どのような形であれ「成長」していくことはすなわち「変化」していくこと。無論、樹木の枝は色々な方向へと好き放題に伸びていくから、その重みに耐えられなくなるかもしれないし、隣の樹の邪魔になるかもしれない。そんなときはきっと枝を伐採することが必要だ。無責任に理想論を述べていいのならその痛みに耐えることは必要なことなのかもしれない。でも誰しもがその激痛に耐えられるとは限らない。かつては出産が女性の大きな死亡要因であったように。強いとか弱いとかそんなものは関係がなく、人も妖怪も基本的に棘が刺さったら痛いのである。だから私はこいしに、周りから嫌われるのを恐れるな、なんてことは絶対に、口が裂けても言うことは出来ない。そんなことができるのは極めて無神経な者だけである。
「こころちゃんは偉いね、そうやって練習を積み重ねていけて」
「ああ、ありがとう」
それが『良いとこ探し』の一環なのかどうかは聞かないことにした。聞くだけ野暮だろう。
「じゃあね、こころちゃん。公演の日、見に行くからね」
ふわふわとした様子で、まるで浮いているかのようにこいしは私からすうと離れていった。
こいしの第三の目の異変に気づいたのはつい最近だ。確かに以前から、それこそお空やお燐といったペットと遊ぶようになってから、第三の目は緩み始めていた。だけれどもこの1ヶ月の間でその緩みは急速に進行していた。そして本人がそれに気づいているのかが、いや、どれだけ関心があるのかが気になるのだ。そのことに気づいていればいいのだが、気づいていない、あるいは関心を向けていないのならば、それはいささか厄介なことになるように思えた。
しかしどうやって聞いてみたものだろうか。気づいていないところにいきなり自分のアイデンティティに強く関わる事柄について尋ねてみたりしたら強いショックを受けかねない。かといってこのままにしておくわけにもいかないのである。
もう随分と長い間、あの子は目を閉じたままだ。目を開き心を読むということにもああ見えて修練がいる。下手になんでもかんでも読んでしまうとこちらもいらぬダメージを食らう。それこそいきなり目を開いて不用意に心を読み、強い悪意に晒されたりでもしたらショック死でもしかねない。さて、どうしたものか。
「お姉ちゃんってすごく優しいよね。そういうところ私大好き!」
「別にそんなに優しくなんてないわよ」
「だって他の妖怪にだって優しくしてあげてるじゃない」
「私だって性根のねじ曲がった奴には優しくしないわ」
「そうかなー」
首を傾げるこいし。だが私は相変わらず第三の目が気になって仕方がなかった。あと半月もすれば完全に開いてしまうようにも思われる。さて、どうしたものか。
「それでね、お姉ちゃん、今日はお姉ちゃんに報告があるの」
「報告? 一体何?」
うきうきとした様子でこいしは私に告げる。
「私、閉じていた目を開いてみようかと思う」
そうだ。すごく嬉しそうだ。まるで自分が愚かだったことに気づいた愚か者のように。
「……どうしたの、急にそんなこと言いだして」
「私、『良いとこ探し』を通じて気づいたんだ。私はこんなにも幸せな世界に住んでるんだって。みんな誰しもが良いとこを持っている。だったらもっとみんなの良いとこを見つけたい。そうすれば私はもっともっと幸せを感じることができると思うんだ」
その言葉に何一つ偽りはないことは伺いしれた。そして悲しいことに、私はこいしの姉なのである。
「……止めないわ。というか止めてもやるでしょう?」
「ごめんね、お姉ちゃん」
「でも危ないと思ったらすぐにもとに戻しなさい。あんたは私の大事な妹なんだから」
「うん、わかった。ありがとう、お姉ちゃん。そうやって私を信じてくれるところもだーいすき!」
そう言うや否やこいしは私にハグを仕掛けてきた。されるがままになりながら、私の頭の中はこいしのことでパンパンに膨らみきっていた。
公演の三週間前のこと。大体の所作はうまい具合になった。私は仕上げのために一人黙々と練習に励んでいた。扉が開く。案の定こいしだ。
「ごめんね、こころちゃん、練習忙しいだろうに」
「いいよ、別に。朝からずっと一人だったから少し喋りたかったし」
「ほんとは一人で練習したいんでしょ? 分かるよ?」
ぎくりとした。もともと無表情だし、そんなことが伺えるような気配を出したつもりもなかった。
「そんなことない」
「私ね、この間ようやく目を開いたんだ」
「……それはつまり、心を読めるようになったということ?」
「うん!」
どこまでも元気に、どこまでも屈託なく、まるでこの世に悪意など存在しないことを十二分に理解しているかのように、そう答えた。
ああ、あの表情だ。あの沈痛な表情が脳裏を過ぎった。思い出すだけで彼女の苦しみが万分の一でも伝わってくる、あの表情。重なる。違うのは全ての色が反転されているというただ一点のみ。
「そうやって私に付き合ってくれるところとか、本当にこころちゃんは優しいね!」
「…………」
これは強さと言って良いのか? これは優しさと言って良いのか? いろいろな疑問が湧いてくる。
「私、目を開いてこの世界の解像度がもっと高くなるのを感じた。確かに悪い人もいっぱいいるし、普通の人だって悪いことを考えている。でもそんなことよりも良いことに目を向けることがきっと大切。そうすれば私の世界はきっと幸せでいっぱいになるんだから」
「……それならそれでいいんだけど……あなたが辛くなければ」
そう言うので精一杯。きっとどこかで何か違えている。そんな気がしてならない。でも私はそれほど賢くないからその何かを言葉に変えることができない。
「……自分に気をつけてね。私が言いたいのはただそれだけ」
「うん! ごめんね、お邪魔しちゃって。じゃあね」
去りゆく背中はどこまでも小さくなったように見えてならなかった。
こいしは第三の目を開いた。心配はしていたがそこまで大事にはならなかったのは幸いだった。こいしは相変わらず『良いとこ探し』を続けている。再び人の心を読めるようになったことで、人の些細に思えるかもしれない良いところを見つけれるようになったというのは本人の弁である。
「私、心を読めるようになってよかった。心を閉ざしているなんてもったいない、だってみんな心のどこかに良いとこを隠し持っているんだもの」
「あんたは優しいわね」
「お姉ちゃんほどじゃないよ。私、こんなに優しいお姉ちゃんの妹ですごーく幸せ!」
向けられたのは両のきらきらとした瞳。
ああ、そうだ。私が忘れてしまった、忘れざるを得なかったもの。その双眸から放たれる眼差しは私を一瞬幻惑の中へと引きずり込んだ。あの子の言う『良いとこ探し』の世界の中へと。ええ、私はそこにのっぺりとしたものを見た。狂気じみたものを抱いていなければ目の開いた者にはその世界は耐えられないのであろう。ごめんなさい、こいし。大事にはならなかった、というのは私の勘違いだったに違いない。
「……こいし、私の方をもっとしっかりと見て」
本当に久方ぶり。私はこいしの中へと飛び込んだ。
気がつくと私はこいしを強く抱きしめていた。こいしは私がなぜそんなことをしているのかわからないという感じでぽかんとしていた。
「お姉ちゃん、恥ずかしいよ……いきなり抱きしめてくるなんてさ……」
馬鹿だ、私は大馬鹿者だ。心が読めること、そしてこの子の心が読めないこと、その二つを言い訳にして、もっと根本的なコミュニケーション能力を磨くのを怠っていた。そんなことを後悔する日が来るなんて考えてもいなかった。もっとこの子のことを分かってあげる必要があった。そして私はたった一人の姉であるにも関わらず、心を読まないとこの子のことが分かってあげられなかった。それがあまりに歯がゆくて仕方がなかった。
「お姉ちゃん? どうしたの? 辛そうだよ?」
おそらく今のこの子はこの大馬鹿者である私の『良いとこ』すらひょいと見つけ出してしまうのだろう。それはきっとこいしにとっては何事にも代えがたい幸せへの鍵であり、そしてそれは同時に心の凹凸をどんどんとなくしていく鑢なのだ。
私はすり減って丸くなりきってしまった小さな石ころを抱いているような感覚に陥った。その感触はあまりに安楽だ。ずっと抱えていたくなるほどに。だけどその心地の良さを享受するほどに私は無責任ではない。こいし、貴方を助けるから。
古明地さとり、まあつまり、古明地こいしの姉なのだが、彼女が私の元に来たのは珍しいことであった。いや、地底の妖怪が人里に来るということ自体かなり珍しいことではあるのだが。
「こいしの言ってたお友達って貴方?」
「まあこいしの方が友達って思ってくれているのならそうなんでしょう」
「心を読むつもりはない。だから腹を割って話しましょう」
「……どういうつもり?」
「こいしのこと。……もしかしたら貴方も知ってるんじゃない?」
「……良いとこ探し、ですか」
「ええ……あの子にとって何が幸せなのか、それは私には分からない。でも、今のあの子はどこか無理をしている、そう思うの」
私は地底の妖怪というものにあまり会ったことがない。地上の者からは散々な言われようだということは知っている。しかしその長たる彼女のその口調、そしてその眼差しからは、どこであろうとどんな者であろうと、およそ大切な者をもつ誰もが抱く感情をひしひしと感じさせられた。それは私がある種の古典的な曲を演じるときに薄っすらと感じるそれに近かった。
「……ええ、同感です。貴方と比べればずっと短い付き合いですけど。私の知るこいしはとても優しいです。優しすぎるぐらいに。だから『良いとこ』ばかりの世界に耽溺してしまった。でもこの世界は『良いとこ』ばかりじゃない。分かってます。汚いところにも目を向けろとか、そんなことを言いたいんじゃない。ただ、世界は白と黒で割り切れるものではない、ということ」
「そこまで分かってもらえているのなら十分。貴方は私が思っていた以上に賢い方のようね」
「他の方からそう言っていただいたのは初めてです。……少し恥ずかしいですけど」
「私はあの子に目を閉じろ、なんてことは言うことは出来ない。私は姉。あの子の意思を優先させたい。あの子が今この瞬間に幸せなら、その「幸せ」を妨害することは出来ない」
「……それはきっと私の役割です。必要なときに殴ることができるのは肉親ではなくきっと友人だから」
「ごめんなさい、卑怯者で」
「いえ、こうやって地上にまで頼みに来て頂けたのは幸いです。おそらくこれは私とこいしだけの問題ではないでしょうから。……第一、何よりも大事なお姉さんであるはずの貴方が殴ったところで逆効果でしょう」
「本当にありがとうございます」
古明地さとりはそう言って深々と私にお辞儀をした。地霊殿の主であり、地底の支配者たる彼女がそのような行動をとったのはいつ以来だったのだろうか、そしてそれが彼女にとってどれほどの意味を持っているのか、十分に理解するには私にはまだまだ未熟すぎる気がした。
こいしが「良いとこ探し」を始めたのはやはり他人を傷つけることを恐れたからではないだろうか? あの日、秦こころの練習に邪魔をしたと私に語った日。あの子はあんなことを言っていた。
「こころちゃん、私が心を覗いてしまったの、苦しく思ってないかな……」
第三の目を開くことによって他人を傷つけるリスクは大きく高まる。いや、むしろ針だらけの服を着て往来を歩くようなものだ。こいしも馬鹿ではない。そんなことは十分にわかっていたはず。だけど今は――
「心を読むのってすっごく幸せにしてくれるんだ! みんな私に他意なく接してくれる! この世界がすごく幸せに満ち溢れているってことが分かって私はすごく幸せ!」
こいし。お願い。お願いだから軋まないで。そんなことをしていたら貴方はきっといつか壊れてしまう。貴方は強くて優しい子だから。この世界が幸せに満ち溢れていなくてもいい。不幸ばかりであっても全く構わない。だけれども貴方が「本当に」幸せである必要があるの。そのためなら私は地獄の底に突き落とされても構わない。だけどこいし、貴方だけは幸せでいなければならないの。
「お姉ちゃんってお空やお燐にいつも優しくしてあげて偉いね!」
もう止めて、こいし。
「お姉ちゃんって心を読んでも辛くならないなんで強いね!」
お願いだから、こいし。
「お姉ちゃんって物語を書けるなんてすごいね!」
それ以上言わないで、こいし。
私にはもう見えない。でもこいしの心はきっとぎしぎし音を立てている。弾けてしまう前に貴方を助けなくてはいけない。その手は私にはもちろん、他の誰にも向けられていない。手を掴めるのが私でないことは私の力不足。相応しい方に貴方を引き揚げてもらいたい。だから、お願い。
本番の日。
私は古明地さとりにこいしを公演に連れてきてもらうように頼んだ。おそらくこいしのことだから言っても言わなくても勝手に来ただろうけど。しかし大切なのは二人で来るということだ。
二週間半前、公演の直前であったが無理を言って演目を変えてもらった。本当は『心綺楼』のような新作能を演じるつもりだった。こんなことはするべきでないのだろう。だけど私はこうするしかなかった。私は芸能家である以前に人に優しく出来る者でありたい。たとえそれが極めてエゴイスティックなものであろうとも。
「この度はお集まりいただきましてありがとうございます。本日は新作能ではなく古典を演じさせていただきます」
ざわつき始める。無理もない。古典なんてほとんどの人にとっては退屈極まりないもの。だけど私は演じるしかないのだ。
「演目は観世元雅作『隅田川』です」
主催者側から観客へあらすじや謡の台詞とその現代語訳などが載った資料を配布してもらう。さて、後は私の腕の見せどころだ。
「ねえ、お姉ちゃん、ここに書いてある『狂女物』ってどういう意味?」
「文字通り女の人が『狂う』のだけど、今の『狂う』とはちょっと意味合いが違うみたいで、それは何か一つの相手に対して強い感情や想いを持ち続けることらしいわ。この演目では亡くなった息子に対してみたいだけど」
「へえー、お姉ちゃんって何でも知ってるんだね」
最前列で姉と楽しげに喋るこいしが見える。心を読まれるとでも思ったのか、二人の周りだけきれいに人がいなかった。
『隅田川』は狂女物の中で唯一の、悲劇で終わる演目だ。そして難易度の高い曲でもある。ただでさえ短い準備期間の中、今の私の腕前でどれほどのことが出来るのかは分からない。だが、私は自分の出来ることを精一杯やるだけなのだ。
さあ、始めよう。
神事能というものがある。文字通り、神社の祭礼に催す能楽のことだ。今の私はまるで何かそのような、目に見えない者のために舞っているような感覚だ。こいしが舞台上の私の心を読もうとしても普段どおりにはいかないだろう。おそらくだが、心を覗こうとするこいしの方が逆に飲み込まれてしまう、そうなるのではないだろうか。
こいしと目があった。いつもの笑みはない。ただどこまでも真剣で、どこか物憂げな表情だった。その表情はおそらくだが、表情のないはずの私が演じている『隅田川』に登場する狂女のものでもあるのだろう。
「お姉ちゃん……」
「どうしたの? こいし」
「自分の子供に会えないなんて悲しいね……」
「こいし……」
古明地さとりの方は表情を崩さなかった。私の勝手な想像だが、きっと相反する複雑な感情が渦巻いているのではないだろうか。
会場は先程までざわついていたようにも思える。しかしいつの間にか静まり返っていた。演者の声だけがただ、冷たい静寂の中に響き渡っていた。私は今まで何度も人里で演じてきた。だけれども、これほど静かなのは初めてだった。退屈から生じる寝息や欠伸すら存在しない、そんな風に思われた。少し離れたところで観劇する一人の男性を見た。神妙な面持ち、そんな風に捉えた。その近くにいる一人の女性を見た。感情を押し殺している、そんな風に感じられた。
そして私は最後に古明地こいしを見た。
静かに、泣いていた。
彼女の涙を見るのはこれで二度目だった。泣いているのだ。一度目は悲痛な気持ちで、そして二度目は素直な気持ちで。
古明地さとりは泣いていない。
古明地こいしは泣いている。
東雲の情景とともに終曲となる。狂女である母は結局、亡くなった息子の幻と手を取り合うことができなかった。荒れ放題の塚で彼女は涙にむせぶ。その心がいかほどなのか、私は理解できるほどの域に未だ達していない。これからも到達できるのかは分からない。
彼女は私より一足も二足も先にその心を解したのかもしれない。
すごく悔しくて、すごく心に染み入ることだった。
こいしは結局また目を閉じた。曰く「あんな風に簡単に泣いちゃったら恥ずかしいじゃない」とのこと。閉じてしまった以上、本当のところは分からない。「良いとこ探し」は相変わらず続いている。この間も、私の書いた拙い小説の「良いとこ」を色々と見つけ出してくれた。
「でもね、この辺りは安直な感じがしてちょっといただけないかな」
「こいし、その辺りは大きくならないとわからないのよ」
「そうかな、私はもうちょっとビターな感じでもいいと思うよ」
「珍しい、あんたがそんなこと言うなんて」
「私少しだけ分かったんだ。世の中にはそういうにがーいものもあるんだって」
「まあそりゃそうよね」
「でも……」
「でも、何?」
「思うんだ。やっぱり『良いとこ』もあるし、その『良いとこ』はいつの間にか、何気なしに感じ取っているものなんだって。たまに間違えるかもしれないけど、私はそんな気付きに敏感になれるようになりたいなって、さ」
私はそう語るこいしの両目を見た。もう心を読むことはできない。でも良いのだ。きっと「良いとこ探し」はこの子の特権。でも私も私なりにもっとこいしの「良いとこ」なんかを見つけていきたい。そうすることでこいしのことをもっと分かってあげれたら。きらきらと光るこいしの両の瞳を見るとそんな風に思ってしまうのだから。
極端な楽観主義者◆Eleanor Porterの小説の主人公の名前から』
「ねえ、こころちゃん。今日から私は他の人の良いとこを探していこうと思うの」
公演が終わって楽屋で休んでいると、遊びに来た古明地こいしに突如そう告げられた。随分と真剣な表情だった。
「どうしたのさ、急にそんなことを言い出して」
「私ね、思ったんだ。私には感情なんて最初から存在しないけど、他の人には確かに存在する。他の人の感情を理解していこうと努めていったら、自分のそれについても分かってくるんじゃないかって。他の人の良いところを見つけていったら、きっとその人は嬉しい。そして私も見つけてあげれて嬉しい。そうやって嬉しさの共通部分を見出していければなって思ったの」
「それは良いけど、探すっていってもどんな感じで?」
「例えばさ……」
こいしは私の服の袖をつまんでこう言った。
「似合ってるよ、今日は特に。この服」
「別にそんなわざとらしく褒めてもらわなくても……いつも似たような服着てるわけなんだから……」
「いいや、そんなことはないよ。今日のこころちゃんの着こなしはすごくいい感じだよ」
「そういうのをわざとらしいって言うんだって……」
分かったのか分からないのか、そのあどけない表情から伺い知ることは出来ない。でも……きっと別に悪いことではない。確かに彼女の言うとおりだ。人を褒めてあげることは人を攻撃することなんかよりもずっとお互いに気持ちが良い。私は彼女のこのちょっとした変化を快く思った。彼女にとって良い影響が及ぶのならどういうものであっても悪くないことなのではないだろうか。
「まあいいよ。服、褒めてくれてありがとう。その、他の人の良いとこ探し、頑張ってね」
「うん、じゃあね。あ、今日の公演、すっごく良かった。例えばね……」
楽しそうに私の公演の感想を語りだした彼女を見て、やれやれ、と思った。わざわざ服を褒めるのと、何気なく私の公演の良かったところを語るの、どちらが相手にとって好ましい「良いとこ探し」なのか、今ひとつ分かっていないらしい。それも仕方がないかもしれないな。他の人の良いところなんて、見つけようと思うとなかなか見つからなくて、それほど気にしていないときに大体発見する、道端に落ちている形の良い石ころのようなものだ。無論、どちらの「良いとこ」についても彼女は他意なく述べているであろうことは分かっているのだが。
「それでまあ、こういう感じ。ごめん、長々と喋っちゃって」
「いいよ、全然。感想を言ってくれるのはありがたい」
「それじゃ、こんどこそまたね」
過ぎ去ってゆくその小さな背中はこの間見たときよりもぴんと張っていて、だけれどもどこかふわふわとしているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
私はいつも妹のことを心配している。分かっている。こいしだって愚かではない。でもあの子は昔から優しすぎるのだ。別にあの子がメンタルが弱いだの心が軟弱だのそんな侮蔑の言葉を述べたいのではない。そんなことを言うやつは二度とそんなことを口にできないような目に遭わせてやる。ただ、心を読むということにはそれに耐えられるだけの「図太さ」が必要である。それは心の強さとはたいして関係がない。相手の感情にずかずかと入り込むか、のこのこと明後日の方向を向いていれば「図太さ」は手に入る。そしてそれと引き換えに他人から空気が読めないだのなんだのと言われるようになる。言いたいやつには言わせておけばいい。だが、こいしはそうやって割り切ることが出来なかった。
こいしが目を閉ざしたのは周りから嫌われるということを恐れたから。だが無論それで直ちに周りから好かれるようになるということを意味しているのではない。難しいものだ。好かれるのには時間がかかるとしても嫌われるのは大概一瞬。とりわけ私達が覚妖怪である以上、好意を築くよりも崩してしまう方がずっとずっと簡単だ。だとしたら、どちらの陣営に属することもなく、ただ非武装中立地帯で両手を上げて立っていれば傷つくことも傷つけることもない。
こいしは自分が傷つくということ以上に相手を傷つけることを恐れたのではないだろうか? それはある意味で分かち難いものではあるし、そもそもそんなことは私の勝手な想像に過ぎない。もうこいしの心を読むことはできないのだから、あの子がどう思っていたのかなんてことはわからないのだ。それにしても閉ざす方を選んだのはやはりもったいないとは思うのだけど。
さて、そんなことをうだうだと言いたいのではない。最近こいしがちょっと妙なのだ。
「お姉ちゃんってお空やお燐にいつも優しくしてあげて偉いね」
ありがとう、こいし。
「お姉ちゃんって心を読んでも辛くならないなんで強いね」
感謝するわ、こいし。
「お姉ちゃんって物語を書けるなんてすごいね」
今度読ませてあげる、こいし。
他にも色々あるが。まあこうやって褒められるのは別に悪い気分になるものではない。そうしつこいわけでもないのだから。ただ、以前よりも大分頻度が上がった気がするので、ある日そのことについて尋ねてみた。
「こいし、あんた最近私のこと褒めてくれるけど、どういう風の吹き回しなの?」
「昔は褒めていなかったみたいに言わないでよ―」
「別にそんなつもりはないけど……」
「他の人の良いとこ探しをしてるんだ」
「良いとこ探し?」
「私ね、こうやって周りの人の良いとこを探すことで自分が幸せなんだって感じるの」
「どういうこと?」
「だってお姉ちゃんにしてもそうだし、お空やお燐、最近だとこころちゃんとか、いっぱい良い所あるじゃない。そんな良いところがいっぱいある人に囲まれている毎日ってすごく幸せだと思わない?」
「まあ、そう思うのならそう思えばいいけど……」
良いとこ探しか。他人の心を読んでいたらそんなことはわざわざ考えたくもないんだけどね。だからそういうことができるのはあの子の特権なのかもしれない。とりあえず私はそう思うことにした。
私は常に無表情だ。
無論感情がないわけではない。むしろ能楽を演じる以上、他人よりも感情に敏感な必要があると感じている。それは自分の感情であっても他人の感情であっても変わらない。芸術家だから他人の感情に寄り添えるとはもちろん限らないし、そうでない者のほうが多いような気もするけど、私は芸能家である以前に人に優しくできる者でありたい。
でも、そんなことをこいしに言う気にはとてもならない。こいしのあの言葉がじんじんと心のなかで根を張っている。「私には感情なんて最初から存在しない」という言葉が。こいしは表情豊かだ。もっともその表情はいつも一つの方向を向いている。それが本人にとってどういう意味を持っているのか、それを理解しようとするには人も妖怪もそして私も脳みそに脂肪が付きすぎている。一つ言えるのは、こいしだって人に優しくできる、いや、きっと私以上にそうすることができるだろうということ。私はそう信じている。
最近だってこいしは他の人の「良いとこ探し」を始めた。今日も公演前の楽屋にやって来て、いつもどおりのにこにこ顔で嬉しそうに話しかけてきた。
「こころちゃんってさ、この間博麗神社で能楽を披露して参拝客増やしてあげたんだって? すごいよね」
「まあ、ああやって舞台を用意してもらえると私もありがたい」
「でも参拝客をあんなに増やすなんてそんなの、そうそう他の人にできることじゃないよ?」
「私は私のやれるだけのことをやっただけ」
「でもそんなすごいことができる人が周りにいるなんて私は恵まれてるな」
「そう言っていただけると実に光栄」
「私ね、もっともっとこころちゃんの良いとこ探していきたいんだ。そうすればきっとこころちゃんのこと今以上に好きになれるし、今が幸せであるということをより実感できるようになると思うんだ」
「ありがとう。でも無理して探してもらわなくてもいいんだけどね。私だって足りない部分はいっぱいあるんだから」
「なるべく相手の良い部分に目を向けていきたいの。どんな悪い人にだって良いところはあるって最近信じられるようになったから」
「それは結構なこと」
「じゃあ、公演がんばってね。じゃあね」
その小さな背中はこの間と変わらないようにも見えた。だけどぴんと張っているというよりはぴしりとしているという感じだったし、ふわふわとしているというよりはどこか揺らぎを思わせるものだった。
地底の住人は「一般的」な観点から言えば嫌われるに相応しい者だらけというのが地上の人妖の通説だ。その嫌われ者の総大将みたいな私が言うのも何であるが、それはある意味で正しくある意味で大きく間違っている。完全な善人がいないのと同様に完全な悪人というのも存在しない。私は心を読めるからこそ、そのことを否応なく痛感する。嫉妬心を操るが故に地上の者からは蛇蝎のごとく嫌われている水橋パルスィでさえ、私から見ればその本質は優しさである。では、こいしはどうなのだろうか。姉妹とはいえあの子のことを理解してあげられたかどうかなんて私にはわからない。でも、最近とみにあの子のことが分からなくなっている気がする。無論第三の目を閉じているというのが最大の原因だ。私は自分の能力に頼りがちだから、一般的なコミュニケーションというものがそこまで得意ではない。こいしが何を考え、何を感じ、何を求めるのか、そういうことはあの子の表情や行動から読み取らなければならない。でもこいしはいつもにこにことしていて、いつもふらふらとしている。私は私のできる精一杯をやっているつもり。でもあの子がどう感じているかなんて分からない。だからそこには私なりの怖さもある。
「お姉ちゃん」
地霊殿の私の部屋に入ってきたこいしはいつもよりも上機嫌な様子だった。
「今日はお姉ちゃんにお礼を言いに来たの」
「お礼? なにかした?」
「私にお空とかお燐とか、すごく可愛くてすごく信頼できるペットをくれたこと」
「かなり前からじゃない」
「でもお礼は言ってなかったと思ってさ。ありがとう。優しいお姉ちゃんを持てて私はすごく幸せ」
「そう。どういたしまして」
そう、確かにこいしは上機嫌だ。でも私にはよくわからないのだ。なぜこの子がこれほどまでに上機嫌なのか。おそらく以前言っていた「良いとこ探し」の一環なのだろう。それは分かる。だが他人の良いところを見つけられたからと言ってそれが直ちに幸せにつながるのだろうか。私は心を読めるからこそ、それこそどんな悪人だからといって露ほどの良心を見つけ出すことはできる。でもその僅かばかりの良心に気づいたからと言って別に幸せになるということはない。相変わらず目の前のクソ野郎はクソ野郎のままで、そのクソ野郎と一緒な空間にいるということは相変わらず実にクソみたいなことだ。私はカンダタのようなクソ相手に蜘蛛の糸を下ろしてやるお釈迦様みたいに慈悲深くはない。別に親密な相手であっても変わらない。良いところに気づいたからといって別にそこまで幸せに繋がるというわけではない。幸せとはそこまで単純明快なものには思えないのである。これが悪いところだったら話は別で、悪いところを一つ見つけただけで、痘痕を笑窪だとでも思わない限りは大体が不幸に繋がる。はあ、随分と面倒なものだ。
「まあ、あんたが幸せになってくれたんならお姉ちゃんは嬉しいけど」
「うん、お姉ちゃんが嬉しいと私も嬉しい」
そう、これはこれでいいのかもしれない。私は無理矢理にでもそう思おうとした。
「良いとこ探し」を始めるようになって確かに彼女は以前よりも笑うようになったと思う。いや、彼女が幸せなのなら特に文句をつけることもないのだが。しかし私がこういう微妙なものを抱くに至ったのは先日のある出来事がきっかけだ。
こいしは公演後に楽屋にやってきた。相も変わらず笑顔を崩すことはない。
「こころちゃん、こんにちは」
「あ、ああ。こいし」
「どうしたの? なんかいつもと様子が少し変」
「今日の公演でちょっと失敗してしまってね……」
「それは辛かったね」
「別に褒めてもらわなくても良いよ。今日の公演は私の中では納得いってないから」
「でも、どこか良い部分は必ずあると思うよ。私の中ではあそこ、腕を大きく上げるところの演技がすごく良かった」
「あ、ありがと……」
「こちらこそありがとう。ごめんね、本当は公演に納得いってないだろうに、こんなこと言って」
「いや、良いんだけどね……」
「じゃあね、また公演あったら見せてもらうね」
そう言って離れていく小さな背中は以前よりも固くなっているように思えた。
「良い部分ねえ……」
なるほどなるほど、確かに良い部分に目をやることは大切だ。そのとおり。彼女の言うことに何も間違いはない。まさにそのとおりである。彼女の言うところの良い部分、ここでは腕を大きく上げる部分だが、それが私の中で悪い部分でなければの話ではあるが。
こいしが「良いとこ探し」を始めて一ヶ月ほど経った。今日もこいしは私の「良いとこ」を色々と見つけてくれる。前と比べたら、あまり品のない言葉を使えばベタベタとするようになった。別におべっかを使うとかそんな感じではない。あの子は本気で「良いとこ探し」を行っているからこそ、私はそれをどっしりと受け止めてあげようと思っている。
「お姉ちゃん、私は最近幸せなんだ」
「幸せ? それは良かったわね」
「だって私の周りはみんなたくさんの『良いとこ』があるんだよ? 私はお姉ちゃんの妹で良かったって思えるし、お姉ちゃんも私のお姉ちゃんでいてくれてありがとう」
「別にそんな褒めてもらわなくてもいいのに」
「ごめんね、あんまり良い気持ちにならなかったら」
「いや、そんなことはないの。褒めてもらえるのは嬉しいわ」
「ほんと? 私も嬉しい!」
やったーとでも言い出しそうな具合でぴょんぴょんと可愛らしく飛び跳ねるこいしを見ると、嬉しさの反面どうしても心配になってくる。この調子でずっと行き続ければまあ良いのだろうけど、私にはそれがどのようなものかはわからないが何かどす黒いものに近づいてしまったとき、それでもこいしは「良いとこ」を見つけようとすることができるのだろうか? そのときにはもはや強いとか弱いとかそんなものは関係がない。むしろそれはおそらく「狂気」に近い場所にいないとできないこと。私の大切な妹は確かにその心はからっぽなのかもしれない。でも決して「狂気」に侵されてはいない。そう信じている。
近々大事な公演が控えている。人里の大きな祭りで演目を披露するのだ。そのため私は最近はその練習に余念がない。
こいしは今日もやってきた。変わらない愛くるしい笑顔を振りまきながら、なにがそんなに面白いのか私の練習を眺めている。まあ練習に差し支えがなければ居てもらうことは全然構わないのだけど。
練習が一段落してふうと一息をつく。はい、これと私に水の入った水筒を手渡してくれる。ありがとう、助かるわ、と返してやる。
「それにしても練習なんか見て何がそんなに面白いの?」
「私はお能のことは全然わからないけど、きっとそこにも『良いとこ』はあるんじゃないかって」
「まあ練習で成長できることが『良いとこ』なのかもしれないけど、むしろ練習なんて『悪いとこ探し』よ? 悪いところを見つけてそこを修正していく。それの繰り返し」
「ふうん、私ってそういう練習ってしたことないからよくわからないんだ」
「だから私は練習でも本番でも『良いとこ』を指摘してくれる以上に『悪いとこ』を指摘してくれるのがありがたい。特にそれが具体的であるのならば改善ができる。……まあ、いくら改善を続けていったところで完璧な演技なんて出来っこないんだけど」
「悪いとこばっかりだと辛くならないの?」
「凹むことは多々あるけどね。自分の至らなさに。でも私はそれ以上に、自分の演技を成長させられることが嬉しいかな」
神妙な顔で聞いているが、わかったのかわからないのか相変わらずその表情から伺い知ることは難しい。
そういえば、自ら読心を司る第三の目を閉じてしまったのだと以前こいし本人から聞いたことがある。
「だってさ……すっごく辛くて苦しいんだよ? 私は別に心を読んでやろうだなんて思ってないのに周りから嫌われるのって」
あのときのこいしの悲痛な面持ちは今も忘れることができない。
どのような形であれ「成長」していくことはすなわち「変化」していくこと。無論、樹木の枝は色々な方向へと好き放題に伸びていくから、その重みに耐えられなくなるかもしれないし、隣の樹の邪魔になるかもしれない。そんなときはきっと枝を伐採することが必要だ。無責任に理想論を述べていいのならその痛みに耐えることは必要なことなのかもしれない。でも誰しもがその激痛に耐えられるとは限らない。かつては出産が女性の大きな死亡要因であったように。強いとか弱いとかそんなものは関係がなく、人も妖怪も基本的に棘が刺さったら痛いのである。だから私はこいしに、周りから嫌われるのを恐れるな、なんてことは絶対に、口が裂けても言うことは出来ない。そんなことができるのは極めて無神経な者だけである。
「こころちゃんは偉いね、そうやって練習を積み重ねていけて」
「ああ、ありがとう」
それが『良いとこ探し』の一環なのかどうかは聞かないことにした。聞くだけ野暮だろう。
「じゃあね、こころちゃん。公演の日、見に行くからね」
ふわふわとした様子で、まるで浮いているかのようにこいしは私からすうと離れていった。
こいしの第三の目の異変に気づいたのはつい最近だ。確かに以前から、それこそお空やお燐といったペットと遊ぶようになってから、第三の目は緩み始めていた。だけれどもこの1ヶ月の間でその緩みは急速に進行していた。そして本人がそれに気づいているのかが、いや、どれだけ関心があるのかが気になるのだ。そのことに気づいていればいいのだが、気づいていない、あるいは関心を向けていないのならば、それはいささか厄介なことになるように思えた。
しかしどうやって聞いてみたものだろうか。気づいていないところにいきなり自分のアイデンティティに強く関わる事柄について尋ねてみたりしたら強いショックを受けかねない。かといってこのままにしておくわけにもいかないのである。
もう随分と長い間、あの子は目を閉じたままだ。目を開き心を読むということにもああ見えて修練がいる。下手になんでもかんでも読んでしまうとこちらもいらぬダメージを食らう。それこそいきなり目を開いて不用意に心を読み、強い悪意に晒されたりでもしたらショック死でもしかねない。さて、どうしたものか。
「お姉ちゃんってすごく優しいよね。そういうところ私大好き!」
「別にそんなに優しくなんてないわよ」
「だって他の妖怪にだって優しくしてあげてるじゃない」
「私だって性根のねじ曲がった奴には優しくしないわ」
「そうかなー」
首を傾げるこいし。だが私は相変わらず第三の目が気になって仕方がなかった。あと半月もすれば完全に開いてしまうようにも思われる。さて、どうしたものか。
「それでね、お姉ちゃん、今日はお姉ちゃんに報告があるの」
「報告? 一体何?」
うきうきとした様子でこいしは私に告げる。
「私、閉じていた目を開いてみようかと思う」
そうだ。すごく嬉しそうだ。まるで自分が愚かだったことに気づいた愚か者のように。
「……どうしたの、急にそんなこと言いだして」
「私、『良いとこ探し』を通じて気づいたんだ。私はこんなにも幸せな世界に住んでるんだって。みんな誰しもが良いとこを持っている。だったらもっとみんなの良いとこを見つけたい。そうすれば私はもっともっと幸せを感じることができると思うんだ」
その言葉に何一つ偽りはないことは伺いしれた。そして悲しいことに、私はこいしの姉なのである。
「……止めないわ。というか止めてもやるでしょう?」
「ごめんね、お姉ちゃん」
「でも危ないと思ったらすぐにもとに戻しなさい。あんたは私の大事な妹なんだから」
「うん、わかった。ありがとう、お姉ちゃん。そうやって私を信じてくれるところもだーいすき!」
そう言うや否やこいしは私にハグを仕掛けてきた。されるがままになりながら、私の頭の中はこいしのことでパンパンに膨らみきっていた。
公演の三週間前のこと。大体の所作はうまい具合になった。私は仕上げのために一人黙々と練習に励んでいた。扉が開く。案の定こいしだ。
「ごめんね、こころちゃん、練習忙しいだろうに」
「いいよ、別に。朝からずっと一人だったから少し喋りたかったし」
「ほんとは一人で練習したいんでしょ? 分かるよ?」
ぎくりとした。もともと無表情だし、そんなことが伺えるような気配を出したつもりもなかった。
「そんなことない」
「私ね、この間ようやく目を開いたんだ」
「……それはつまり、心を読めるようになったということ?」
「うん!」
どこまでも元気に、どこまでも屈託なく、まるでこの世に悪意など存在しないことを十二分に理解しているかのように、そう答えた。
ああ、あの表情だ。あの沈痛な表情が脳裏を過ぎった。思い出すだけで彼女の苦しみが万分の一でも伝わってくる、あの表情。重なる。違うのは全ての色が反転されているというただ一点のみ。
「そうやって私に付き合ってくれるところとか、本当にこころちゃんは優しいね!」
「…………」
これは強さと言って良いのか? これは優しさと言って良いのか? いろいろな疑問が湧いてくる。
「私、目を開いてこの世界の解像度がもっと高くなるのを感じた。確かに悪い人もいっぱいいるし、普通の人だって悪いことを考えている。でもそんなことよりも良いことに目を向けることがきっと大切。そうすれば私の世界はきっと幸せでいっぱいになるんだから」
「……それならそれでいいんだけど……あなたが辛くなければ」
そう言うので精一杯。きっとどこかで何か違えている。そんな気がしてならない。でも私はそれほど賢くないからその何かを言葉に変えることができない。
「……自分に気をつけてね。私が言いたいのはただそれだけ」
「うん! ごめんね、お邪魔しちゃって。じゃあね」
去りゆく背中はどこまでも小さくなったように見えてならなかった。
こいしは第三の目を開いた。心配はしていたがそこまで大事にはならなかったのは幸いだった。こいしは相変わらず『良いとこ探し』を続けている。再び人の心を読めるようになったことで、人の些細に思えるかもしれない良いところを見つけれるようになったというのは本人の弁である。
「私、心を読めるようになってよかった。心を閉ざしているなんてもったいない、だってみんな心のどこかに良いとこを隠し持っているんだもの」
「あんたは優しいわね」
「お姉ちゃんほどじゃないよ。私、こんなに優しいお姉ちゃんの妹ですごーく幸せ!」
向けられたのは両のきらきらとした瞳。
ああ、そうだ。私が忘れてしまった、忘れざるを得なかったもの。その双眸から放たれる眼差しは私を一瞬幻惑の中へと引きずり込んだ。あの子の言う『良いとこ探し』の世界の中へと。ええ、私はそこにのっぺりとしたものを見た。狂気じみたものを抱いていなければ目の開いた者にはその世界は耐えられないのであろう。ごめんなさい、こいし。大事にはならなかった、というのは私の勘違いだったに違いない。
「……こいし、私の方をもっとしっかりと見て」
本当に久方ぶり。私はこいしの中へと飛び込んだ。
気がつくと私はこいしを強く抱きしめていた。こいしは私がなぜそんなことをしているのかわからないという感じでぽかんとしていた。
「お姉ちゃん、恥ずかしいよ……いきなり抱きしめてくるなんてさ……」
馬鹿だ、私は大馬鹿者だ。心が読めること、そしてこの子の心が読めないこと、その二つを言い訳にして、もっと根本的なコミュニケーション能力を磨くのを怠っていた。そんなことを後悔する日が来るなんて考えてもいなかった。もっとこの子のことを分かってあげる必要があった。そして私はたった一人の姉であるにも関わらず、心を読まないとこの子のことが分かってあげられなかった。それがあまりに歯がゆくて仕方がなかった。
「お姉ちゃん? どうしたの? 辛そうだよ?」
おそらく今のこの子はこの大馬鹿者である私の『良いとこ』すらひょいと見つけ出してしまうのだろう。それはきっとこいしにとっては何事にも代えがたい幸せへの鍵であり、そしてそれは同時に心の凹凸をどんどんとなくしていく鑢なのだ。
私はすり減って丸くなりきってしまった小さな石ころを抱いているような感覚に陥った。その感触はあまりに安楽だ。ずっと抱えていたくなるほどに。だけどその心地の良さを享受するほどに私は無責任ではない。こいし、貴方を助けるから。
古明地さとり、まあつまり、古明地こいしの姉なのだが、彼女が私の元に来たのは珍しいことであった。いや、地底の妖怪が人里に来るということ自体かなり珍しいことではあるのだが。
「こいしの言ってたお友達って貴方?」
「まあこいしの方が友達って思ってくれているのならそうなんでしょう」
「心を読むつもりはない。だから腹を割って話しましょう」
「……どういうつもり?」
「こいしのこと。……もしかしたら貴方も知ってるんじゃない?」
「……良いとこ探し、ですか」
「ええ……あの子にとって何が幸せなのか、それは私には分からない。でも、今のあの子はどこか無理をしている、そう思うの」
私は地底の妖怪というものにあまり会ったことがない。地上の者からは散々な言われようだということは知っている。しかしその長たる彼女のその口調、そしてその眼差しからは、どこであろうとどんな者であろうと、およそ大切な者をもつ誰もが抱く感情をひしひしと感じさせられた。それは私がある種の古典的な曲を演じるときに薄っすらと感じるそれに近かった。
「……ええ、同感です。貴方と比べればずっと短い付き合いですけど。私の知るこいしはとても優しいです。優しすぎるぐらいに。だから『良いとこ』ばかりの世界に耽溺してしまった。でもこの世界は『良いとこ』ばかりじゃない。分かってます。汚いところにも目を向けろとか、そんなことを言いたいんじゃない。ただ、世界は白と黒で割り切れるものではない、ということ」
「そこまで分かってもらえているのなら十分。貴方は私が思っていた以上に賢い方のようね」
「他の方からそう言っていただいたのは初めてです。……少し恥ずかしいですけど」
「私はあの子に目を閉じろ、なんてことは言うことは出来ない。私は姉。あの子の意思を優先させたい。あの子が今この瞬間に幸せなら、その「幸せ」を妨害することは出来ない」
「……それはきっと私の役割です。必要なときに殴ることができるのは肉親ではなくきっと友人だから」
「ごめんなさい、卑怯者で」
「いえ、こうやって地上にまで頼みに来て頂けたのは幸いです。おそらくこれは私とこいしだけの問題ではないでしょうから。……第一、何よりも大事なお姉さんであるはずの貴方が殴ったところで逆効果でしょう」
「本当にありがとうございます」
古明地さとりはそう言って深々と私にお辞儀をした。地霊殿の主であり、地底の支配者たる彼女がそのような行動をとったのはいつ以来だったのだろうか、そしてそれが彼女にとってどれほどの意味を持っているのか、十分に理解するには私にはまだまだ未熟すぎる気がした。
こいしが「良いとこ探し」を始めたのはやはり他人を傷つけることを恐れたからではないだろうか? あの日、秦こころの練習に邪魔をしたと私に語った日。あの子はあんなことを言っていた。
「こころちゃん、私が心を覗いてしまったの、苦しく思ってないかな……」
第三の目を開くことによって他人を傷つけるリスクは大きく高まる。いや、むしろ針だらけの服を着て往来を歩くようなものだ。こいしも馬鹿ではない。そんなことは十分にわかっていたはず。だけど今は――
「心を読むのってすっごく幸せにしてくれるんだ! みんな私に他意なく接してくれる! この世界がすごく幸せに満ち溢れているってことが分かって私はすごく幸せ!」
こいし。お願い。お願いだから軋まないで。そんなことをしていたら貴方はきっといつか壊れてしまう。貴方は強くて優しい子だから。この世界が幸せに満ち溢れていなくてもいい。不幸ばかりであっても全く構わない。だけれども貴方が「本当に」幸せである必要があるの。そのためなら私は地獄の底に突き落とされても構わない。だけどこいし、貴方だけは幸せでいなければならないの。
「お姉ちゃんってお空やお燐にいつも優しくしてあげて偉いね!」
もう止めて、こいし。
「お姉ちゃんって心を読んでも辛くならないなんで強いね!」
お願いだから、こいし。
「お姉ちゃんって物語を書けるなんてすごいね!」
それ以上言わないで、こいし。
私にはもう見えない。でもこいしの心はきっとぎしぎし音を立てている。弾けてしまう前に貴方を助けなくてはいけない。その手は私にはもちろん、他の誰にも向けられていない。手を掴めるのが私でないことは私の力不足。相応しい方に貴方を引き揚げてもらいたい。だから、お願い。
本番の日。
私は古明地さとりにこいしを公演に連れてきてもらうように頼んだ。おそらくこいしのことだから言っても言わなくても勝手に来ただろうけど。しかし大切なのは二人で来るということだ。
二週間半前、公演の直前であったが無理を言って演目を変えてもらった。本当は『心綺楼』のような新作能を演じるつもりだった。こんなことはするべきでないのだろう。だけど私はこうするしかなかった。私は芸能家である以前に人に優しく出来る者でありたい。たとえそれが極めてエゴイスティックなものであろうとも。
「この度はお集まりいただきましてありがとうございます。本日は新作能ではなく古典を演じさせていただきます」
ざわつき始める。無理もない。古典なんてほとんどの人にとっては退屈極まりないもの。だけど私は演じるしかないのだ。
「演目は観世元雅作『隅田川』です」
主催者側から観客へあらすじや謡の台詞とその現代語訳などが載った資料を配布してもらう。さて、後は私の腕の見せどころだ。
「ねえ、お姉ちゃん、ここに書いてある『狂女物』ってどういう意味?」
「文字通り女の人が『狂う』のだけど、今の『狂う』とはちょっと意味合いが違うみたいで、それは何か一つの相手に対して強い感情や想いを持ち続けることらしいわ。この演目では亡くなった息子に対してみたいだけど」
「へえー、お姉ちゃんって何でも知ってるんだね」
最前列で姉と楽しげに喋るこいしが見える。心を読まれるとでも思ったのか、二人の周りだけきれいに人がいなかった。
『隅田川』は狂女物の中で唯一の、悲劇で終わる演目だ。そして難易度の高い曲でもある。ただでさえ短い準備期間の中、今の私の腕前でどれほどのことが出来るのかは分からない。だが、私は自分の出来ることを精一杯やるだけなのだ。
さあ、始めよう。
神事能というものがある。文字通り、神社の祭礼に催す能楽のことだ。今の私はまるで何かそのような、目に見えない者のために舞っているような感覚だ。こいしが舞台上の私の心を読もうとしても普段どおりにはいかないだろう。おそらくだが、心を覗こうとするこいしの方が逆に飲み込まれてしまう、そうなるのではないだろうか。
こいしと目があった。いつもの笑みはない。ただどこまでも真剣で、どこか物憂げな表情だった。その表情はおそらくだが、表情のないはずの私が演じている『隅田川』に登場する狂女のものでもあるのだろう。
「お姉ちゃん……」
「どうしたの? こいし」
「自分の子供に会えないなんて悲しいね……」
「こいし……」
古明地さとりの方は表情を崩さなかった。私の勝手な想像だが、きっと相反する複雑な感情が渦巻いているのではないだろうか。
会場は先程までざわついていたようにも思える。しかしいつの間にか静まり返っていた。演者の声だけがただ、冷たい静寂の中に響き渡っていた。私は今まで何度も人里で演じてきた。だけれども、これほど静かなのは初めてだった。退屈から生じる寝息や欠伸すら存在しない、そんな風に思われた。少し離れたところで観劇する一人の男性を見た。神妙な面持ち、そんな風に捉えた。その近くにいる一人の女性を見た。感情を押し殺している、そんな風に感じられた。
そして私は最後に古明地こいしを見た。
静かに、泣いていた。
彼女の涙を見るのはこれで二度目だった。泣いているのだ。一度目は悲痛な気持ちで、そして二度目は素直な気持ちで。
古明地さとりは泣いていない。
古明地こいしは泣いている。
東雲の情景とともに終曲となる。狂女である母は結局、亡くなった息子の幻と手を取り合うことができなかった。荒れ放題の塚で彼女は涙にむせぶ。その心がいかほどなのか、私は理解できるほどの域に未だ達していない。これからも到達できるのかは分からない。
彼女は私より一足も二足も先にその心を解したのかもしれない。
すごく悔しくて、すごく心に染み入ることだった。
こいしは結局また目を閉じた。曰く「あんな風に簡単に泣いちゃったら恥ずかしいじゃない」とのこと。閉じてしまった以上、本当のところは分からない。「良いとこ探し」は相変わらず続いている。この間も、私の書いた拙い小説の「良いとこ」を色々と見つけ出してくれた。
「でもね、この辺りは安直な感じがしてちょっといただけないかな」
「こいし、その辺りは大きくならないとわからないのよ」
「そうかな、私はもうちょっとビターな感じでもいいと思うよ」
「珍しい、あんたがそんなこと言うなんて」
「私少しだけ分かったんだ。世の中にはそういうにがーいものもあるんだって」
「まあそりゃそうよね」
「でも……」
「でも、何?」
「思うんだ。やっぱり『良いとこ』もあるし、その『良いとこ』はいつの間にか、何気なしに感じ取っているものなんだって。たまに間違えるかもしれないけど、私はそんな気付きに敏感になれるようになりたいなって、さ」
私はそう語るこいしの両目を見た。もう心を読むことはできない。でも良いのだ。きっと「良いとこ探し」はこの子の特権。でも私も私なりにもっとこいしの「良いとこ」なんかを見つけていきたい。そうすることでこいしのことをもっと分かってあげれたら。きらきらと光るこいしの両の瞳を見るとそんな風に思ってしまうのだから。
いい所を探そう、というそれだけでここまで周囲を引っ掻き回すこいしがすごいと思いました
苦しそうなさとりがとてもよかったです