演奏を終えて舞台裏の廊下を進み、突き当たりの控室の扉を開く。
琵琶の付喪神こと九十九弁々は六畳ほど部屋の畳の上に腰を下ろした。
続いて部屋に入った彼女の妹、琴の付喪神こと九十九八橋はテーブルの上の白い水筒を手に取り、喉を潤すと頬を緩ませて言った。
「ふー、今日もいいライブだったね姉さん!」
ライブの熱気がまだ残っているかのように彼女の額には汗が光っていた。
弁々は自分の鞄から薄手のハンカチを取り出して手渡しながら言った。
「そうね、はい」
「あ、ありがとう姉さん」
思いがけず素っ気ない言い方になってしまったと気付いたが、
気にしないふりをして自分も妹とお揃いの白い水筒を取り出し、蓋を開ける。
冷水が喉を流れる感触が心地いい。
そうしていると、ハンカチで汗を拭った八橋が言った。
「ところで姉さん今日はなにかあったの?」
「ううん、なんにもないわよ。どうしたの?」
「いや、なんかいつもより元気がないような気がしてさ、気のせいだったらいいんだけど」
普段は大雑把で時折無鉄砲な行動も目立つ彼女にしては鋭い、と弁々は思った。
それとも、そんなに自分はいつもと違う表情を見せていただろうか。
それはさておき、今これ以上話をすると余計なボロが出かねない。
「いつも通りよ、ちょっと疲れただけ」
弁々はそう答えるとそのまま会話を切り上げるかのように帰り支度を始める。
八橋は微かに釈然としない表情を浮かべたがすぐにそれを打ち消し、自分も荷物を鞄にしまうと
姉に続く形で控室を出て行った。
その日の夜。
弁々は自宅の居間で弾法譜を書く手を止め、隣の寝室の襖を少しだけそっと開けた。
隙間に顔を近づけると、家の外から絶え間なく耳に入ってくる虫の音に混じって八橋の寝息が微かに聴こえてくる。
よく眠っているようだ。
八橋は掛け布団に抱き着くようにして眠っていた。
安らかな寝顔を浮かべる彼女を見ているといつも心が穏やかになるが、
今日の控室でのことを思い出し胸に微かな痛みを感じた。
元気がないのではないかと聞かれた時は心配をかけまいと隠したが、本当は演奏中に気になること、違和感があったからだ。
弁々は足音をたてないように注意を払いつつ、玄関から外に出た。
自宅のすぐ裏を流れる小川の側まで行き、座れそうな大きさの石を見つけると手で砂を払いそこに腰を下ろした。
自身の身体の一部でもある琵琶を膝に乗せ、何をするでもなく指で覆手のあたりを撫でながらゆっくりと思いを巡らせた。
普段私達は一緒に音楽活動をしており、その主な活動場所は人里だ。
最初のうちは私達が無名だったこともあって活動はなかなか実を結ばず、生活も安定していなかった。
それが人里の往来で地道に路上ライブを続けているうちに、少しずつ足を止めてくれる人妖が増えた。
徐々に名前も有名になり、今ではプリズムリバー楽団をはじめとする幻想郷の音楽活動家の一角に食い込むことが出来た。
また、人里での活動を続けているうちに自然とライブ以外での人脈も増えた。
生まれたばかりの頃は人間や他の妖怪達との距離の取り方を心得ていなかったせいもあって、
しばしば些細な行き違いでトラブルを起こしてしまったけどそれも最近ではほとんどなくなった。
弁々も八橋も、道具が支配する世界への夢を完全に諦めたわけではない。
しかし、彼女達が生まれるきっかけとなった輝針城異変の時は小槌の魔力の影響で気が大きくなっていたせいもあってか、
異変が解決した今では考えなしに暴れようなどとは思っていない。
そんなことをすればせっかく得られたファンも人脈も、全てを手放すことになるばかりか
演奏に耳を傾けてくれる人間が誰一人としていなくなってしまう。
それは楽器の付喪神として、存在意義にも直結する危機だ。
そういった事情もあってか彼女達は少なくとも今のこの生活を大切にしている。
「あ、やっぱりここだった」
弁々が一人物思いに耽っていると、後ろから聞き慣れた声がする。
振り返るとそこには八橋が薄い桜色の寝間着姿にサンダルを履いて立っていた。
この距離で気配に気が付かないとは、少し無防備すぎると弁々は心の中で自戒した。
「ちょっと外の風に当たりたくなってね。大丈夫、もうすぐ私も寝るわ」
そう言って立ち上がろうとすると、八橋はそれを手で制して隣に腰を下ろす。
「八橋?」
「ね、ちょっとだけお話しようよ」
八橋がそう言いつつもこちらから話し始めるのを待っている様子を見て察した。
多分この妹は、私が何かを隠していることには既に勘付いている。
話すべきか悩んだけど、しばし思惟してから私はゆっくりと語り始めた。
「最近演奏してて、時々自分が何をしているのか分からなくなることがあるの」
「何をしているか分からないって……姉さん今日の演奏も完璧じゃなかった?」
首を傾げる八橋に手を振りながら答える。
「弾法譜は体が覚えているから手が止まったりはしないんだけど、演奏中に聞き覚えのない声が耳に入ってきて、集中できないというか……」
「聞き覚えのない声? お客さんの声とかじゃなくて?」
「お客さんじゃないのは間違いないわ、私の耳元に直接語りかけてくるような声」
「その声は、なんて言ってるの?」
「……それが、全然聞き取れないの」
「聞き取れない……声はどんな感じ?」
「子供っぽい声、かしら」
「うーん、私も耳はかなりいい方だから一緒に演奏してて姉さんだけに聞こえるのは不思議だね」
確かにその通り、私達はいつも二人で演奏をするけど音楽家たるもの自分の音は当然として
パートナーの音色を聞き取る余裕も常になくてはならない。
私は八橋の音になにか異変があればすぐに気が付くしそれは八橋も同じだろう。
だから一方にしか聞こえない音の存在は私達にとって未知だった。
「その音って、演奏中だけなの?」
「最初のうちは演奏中だけだったわ、でも最近はそれ以外の時も聞こえてくるようになって……」
「……それさ、いつ頃から?」
八橋の口調が先ほどよりも詰問調になっている。
その理由に気付いて口を噤もうとしたがそれを許してくれる雰囲気ではなかった。
「……一ヵ月前ぐらいね」
答えを聞いた八橋は思った通り今度は不機嫌を隠そうともしない膨れっ面をこちらに向けてきた。
「もー、どうしてすぐ言ってくれないのよ!」
「……心配をかけたくなかったのよ」
八橋は短く嘆息して言った。
「私達誓ったよね、どんな時でも楽しいことは二人で二倍に、辛いことは二人で半分こに、って」
覚えている、姉妹の契りを交わした日に八橋が言い出し、私がすぐにそれに賛成したことも。
「……そうね」
追憶すると八橋と初めて出会ったあの日の情景が鮮明に思い出されてくる。
私達は姉妹を名乗ってはいるものの、血のつながりはない。
出会ったのはうだるような暑さ、大暑を少し過ぎたある日の日なかのことだった。
私は輝針城異変の主犯達によってもたらされた小槌の魔力によって付喪神としてこの幻想郷に生を受けた。
最初は自由に動ける体を手に入れたことを喜んだが、生まれたばかりで知人はおらずこの幻想郷の地理すらも分からない。
これから何をすればいいか、どうやって生きて行けばいいか、心の中には拭い切れぬ影が雨雲のように広がっていた。
妖怪である以上人間の暮らす人里に居て誰かに出くわした時のことを思うと迂闊に人里内を闊歩するのは
不味いかもしれないと本能的に危険を感じたため、一先ず人里の外に出て人気のない草地を当てもなく彷徨っていた。
そうしていた折に彼女に出会った。
鮮やかで濃い茶色の髪に紫色のカチューシャがよく似合っている。
そして両手に着けている琴爪、スカートを取り巻く赤い光の弦を見て確信した。
彼女も私と同じ、この異変がきっかけで生まれた付喪神なのだと。
私は考えるより先に彼女に歩み寄り、声をかけていた。
「こんにちは。貴女も、楽器の付喪神?」
「……え?」
私の声に気付いて応えたその表情は、如何にも不安に怯えていた。
しかし私がそれに構わず自分の身の上を説明すると彼女も思うところがあったのか
最初よりも幾分かよくなった顔色で丁寧に自己紹介をしてくれた。
そうしてお互いに自分が生まれた経緯、依り代の楽器、そして愛する音楽について語り合った。
同じ楽器の付喪神同士、話が合わないはずはなく私はすっかり心を許していた。
彼女、九十九八橋もきっとそうだったと思う。
そのはにかんだ笑顔はとても愛らしかった。
会話が一段落したところでふと周囲を見ると既に日が沈みかけており、結構な時間話し込んでいたことに気付いた。
彼女も今日生まれたばかりだと言っていた、おそらく帰る家と呼べるものはないことだろう。
八橋は夜が近いことに心づいたのか、沈みゆく太陽に一瞥をくれた後再び視線を私に戻す。
その表情に陰が差して見えたのが日没のせいだけではないことはすぐに分かった。
帰る家がない、この先どうやって生きていけばいいか分からない、先の見えない恐怖が彼女の心を支配している。
私は先程までの輝くような彼女の笑顔を思い出すと、思案する間もなく口を開いた。
「ねえ、私達……姉妹にならない?」
「……え?」
「私も、不安なの。でも、貴女みたいな家族がいたら、きっと頑張れる」
「……」
「嫌、かしら?」
「ううん、ただその……びっくりしちゃって」
「約束する、貴女の笑顔は私が守って見せるわ」
弁々が差し出した手を八橋は弱々しい手つきながら握り返した。
そして握る力はぎゅっと強くなり、呟く。
「……あったかい」
「この先どんなに大変なことがあっても二人一緒なら、必ず乗り越えて行けるわ。ね?」
「……うん!」
八橋は再び笑顔を取り戻し、愛嬌のある微笑を口元に湛えながら私を受け入れてくれた。
「えへへ、じゃあ貴女がお姉ちゃんで、私が妹ね!」
「ええ、これからよろしくね、八橋」
「これまでは一人だったけど、これからはお姉ちゃんと一緒だから楽しいことや嬉しいことは二倍、辛いことや楽しいことは二人で半分こに出来るね!」
「それは素敵ね、ふふ」
それから今に至るまで、私は曲がりなりにも姉として出来ることはやってきたつもりだ。
演奏会等で交渉事があれば必ず私が矢面に立って話をしたし、
演奏においても自分が模範となれるよう空いた時間にはひたすら練習をし、妹の様子も常に気にかけた。
でもこれは当たり前のこと、自分はいつでも理想の姉として妹のお手本であり続けなければならない。
そんな信念もあって、私は自分の弱みを八橋は勿論周りの誰に見せるのもよしとしていなかった。
しかし、そうして何もかもを自分で解決しようとするのはあの時に交わした契りに反する。
それを妹に指摘されるまで気が付かなかったことに内心忸怩たる思いだった。
「これまでずっとあたしに隠してて解決してないんだから、ちょっとはあたしの案にも乗ってもらうからね」
この子はこんなにも積極的に自己を主張してくる子だっただろうか。
初めて会ったあの時の弱々しい立ち振る舞いとは似ても似つかない。
しかし頭に浮かんだその疑問はすぐに氷解した。
違う、私のためだからこそ必死になってくれているんだ。
そう思うと嬉しさと申し訳なさの入り混じった感情が目頭を熱くした。
「でさ、姉さんの生まれた場所にもう一度行ってみようと思うんだけど」
「私の生まれた場所……」
私が付喪神として生まれたのは人里の外れのとある一軒家の中だ。
とはいえ目を覚ました時には既に誰も住んでおらず、建物の中を一通り見て回っても各部屋にはほとんど物が置かれておらず、
その様子から長いこと人が住んでいないことが分かった。
周りの住居もどうやら空き家ばかりであまり人が寄り付くような場所ではなさそうだった。
とはいえ誰か人間に見つかると厄介だと思った私はすぐにその場を離れた。
そして人里近くの草地で八橋に出会ったのだ。
それ以来近付いたこともない場所だがそこに行けばなにかが分かるだろうか。
八橋は腰を上げると私のすぐ隣、肩と肩が当たる距離に座り直しながら言った。
濃い茶色の髪がふわりと舞う。
「姉さんの琵琶って、過去に誰が弾いていたかは分からないって言ってたよね」
「そうね、生まれた時には周りに誰もいなかったし、もしかしたら捨てられたのかなとも思っていたけど……」
「あ、ごめん……」
「気にしないで」
詫びる八橋に手を振りながら返す。
明日も午前中に人里でライブの予定がある、細かい話は明日にしてそろそろ眠らないと明日の演奏に影響が出かねない。
憂鬱な話題を切り上げたいが故の言い訳だと我ながら呆れるけど、心がざわついた状態でいい音など出せないのは本当のことだ。
そう自分に言い聞かせ、続ける。
「じゃあ明日、ライブの後で行ってみましょうか、今日はもう遅いからそろそろ寝ましょ」
「あ、姉さん……」
八橋の返事を最後まで聞くことなく玄関に向かって歩を進める。
慌てて後ろをついてくる妹の気配を後ろに感じ取ると、振り向かずに呟く。
「……ありがとう、八橋」
聞こえたかどうかは分からなかった。
翌日、再び昨日と同じ人里の集会場であたしと姉さんは演奏を披露した。
演奏自体は半刻ほどで終わり、控室で帰る用意を始める。
姉さんは一言も言葉を発しない。
理由は分かっている。
今日姉さんは初めて、演奏中にミスをしたのだ。
二人で同時に演奏に入るところを姉さんがワンテンポ遅れてしまったのが一回、音を外してしまったのが二回。
それは私達の曲を聴いたことがない人でもミスとすぐに分かる代物で最前列の方が
ざわついていたのが嫌でも脳裏に焼き付いている。
それでも演奏会自体は無事に終了し、盛り上がりも昨日のそれと大差なかった。
私達が挨拶を終えて退場し始めたときに別れを惜しむかのように最前列まで押しかけて声援を送ってくれたファンも沢山いた。
そのときの姉さんは確かに昨日と変わらず、凛々しい笑顔を浮かべていた。
ハプニングにめげることもなくポーカーフェイスを保ち、最後までやり遂げたのだ。
その姿はあたしにはとても強く、立派に映った。
集会場の裏口から路地を抜け、しばし無言で人通りの少ない道を歩き続ける。
目指している方角は姉さんの生まれた場所だけど、今のこの空気で何を言えばいいかが分からない。
そうしてさらに歩を進め、すれ違う人妖もほとんどいなくなったところで前を歩く姉さんが足を止めた。
「……姉さん」
「ごめん、八橋。私は、自分が情けないわ……」
後ろを振り向かずに返ってくる返事は弱く、微かに震えている。
あたしは今にも消え入りそうなその声にいよいよ耐えられなくなった。
「姉さん、そんなこと言わないで。ミスぐらい誰だってするわ」
姉さんの声が急に激しくなる。
「私達はプロなのよ、ミスなんて許されないわ!」
「姉さん……」
「せっかく活動も実を結んできたのに、こんなことじゃ……」
姉さんがなにかと完璧主義なのは今に始まったことじゃない。
それにその理由が持って生まれた性格じゃないことも知っている。
あたしを守るために、奏者として、姉としてお手本であり続けようとする気持ちが今の姉さんを作ってる。
そんな姉さんはあたしの誇りで、大好きだ。
だから、姉さんが変わる必要なんてない。
姉さんは常に前を歩き続け、あたしは時々向かい風で倒れそうになる姉さんを後ろから支える、そんな妹でありたい。
あたしは考えるより先に姉さんの前に小走りで回り込み、正面からその顔を見据える。
姉さんは驚きと怯えの交じったような顔で、視線を泳がせている。
あたしは構わず両手で姉さんを抱き寄せた。
「姉さん、あたし、姉さんのこと、ずっとずっと、大好きだよ。
もし演奏が出来なくなっても、妖怪としての魔力を失っても、この世界の全てがあたし達の敵になっても、
あたしの居場所は姉さんの隣、他にはないんだから」
「八橋……」
「あたし、もちろん姉さんの悩みがなくなって、元通りに演奏が出来るようになって欲しいとは思ってるよ、でも……」
あたしは姉さんを左手で抱きしめながら右手で琵琶の弦に指を乗せて続けた。
「あたしが一番望むのは姉さんが元気でいてくれること、これからも一緒に笑っていられることだよ。
大好きな音楽が原因で苦しむ姉さんの姿なんて、見たくない……」
姉さんは片手で琵琶を支えながらもう片方の手を自分の目元を隠すように添えている。
「ありがとう、ありがとう、ごめんね、ごめんね……」
あたし達はしばし、無言のまま抱擁を続けた。
「……落ち着いた?」
「ええ、ありがとう、本当にごめんね、八橋」
どれだけの時間がたっただろうか、先に口を開いたのは姉さんだった。
目元を赤く腫らしてはいるけど顔色は元に戻っている。
「姉さんがあたしのこと想ってくれてるように、あたしも姉さんのこと、大切に想ってるんだよ」
「……貴女と出会えて、私は本当にいい家族を持ったわ。じゃあ、行きましょうか」
「うん!」
あたし達はいつだって二人一緒、今までも、これからも、ずっと。
目的地、姉さんの生まれた場所はすぐそこだ。
「……着いたわ、ここよ」
「あの耳鳴りみたいな音は今、聞こえる?」
「今も聞こえるわ、相変わらず何を言っているのかは聞き取れないけど」
あたし達はここに来るまで繋いでいた手を離し、姉さんの指差す先の建物に視線を向ける。
その建物は最初に出会った時に姉さんが説明してくれた通り、人の住んでいない古びた空き家だった。
続いて左右を見渡すと細い裏道を挟んで両側に数軒ずつの住居、あるいは倉庫のような建屋が立ち並んでいるのが見える。
周囲に人の気配はなく、寂れた印象が強い。
姉さんは玄関の木製の引き戸に手をかけた。
やはりというべきか施錠はされていなかった。
古くなってして開きづらくなっている戸をなんとか中に入れるだけの幅だけ開くと、あたし達は姉さんを先頭に家の中に入った。
玄関の三和土から廊下に足を下ろすと床からギシっと軋む音が響く。
「あのときより老朽化が酷いわね。足元に気を付けて」
「うん」
玄関から最も近い和室に足を踏み入れる。
畳は一部が腐食しており藁の嫌な臭いがした。
箪笥や机はおろか、座布団の一枚もないがらんとした部屋だ。
一通り部屋を調べたところで、あたしは姉さんに問いかけた。
「じゃあ昨日の話の続きだけど、あたし姉さんだけに聴こえる音があるって聞いた時に、
あたしと姉さんには何か違いがあるからじゃないかなと思ったの」
「違い?」
「うん。もちろんあたし達は違うところだらけだけど、付喪神として、なにか決定的に違う部分があって、
それが姉さんの耳だけに入る音、につながってるんじゃないかな、って」
「なるほどね、それが自分の生前の奏者を知っているかどうか、ということだと」
「うん、あたしが思いつく限り大きな違いはそこしかないと思ってる」
あたし達は初めて会った日にお互いの生まれた時の場所、状況については情報交換も兼ねてすぐに明かしている。
あたしは自分が生まれ変わった時の状況を改めて姉さんに語りながら振り返る。
あたしが生まれた場所は人里の中央通りを少し外れた居住地のとある老夫婦の家で、目が覚めた時はそこの和室の机の上に仰向けで横たわってた。
びっくりしたあたしは次に自分の身体とスカートの弦、指の琴爪を見て自分が付喪神に生まれ変わったことを知った。
そうしてあまりのことに動揺していたところに間もなく部屋の外から老爺のものらしき声が聞こえてくる。
「おい、大きな音がしたけどどうかしたか」
あたしがその声に心臓の動悸を激しくしていると今度は先ほどと違う方向から老婆らしき声が響く。
「私はここにおりますよ」
声とともに足音が自分のいる部屋に近づいてくる。
あたしは考える間もなく開いていた窓から外に飛び降り、無我夢中で庭から外に出ようと辺りを見回した。
「あなた、私の琴がないわ!」
間一髪で姿を見られることなく屋外に出ることが出来たのも束の間、老婆の慌てた声が響く。
その声を聞いてあたしは確信した。
あたしはこの家で使われてきた楽器だったんだ。
どうする、名乗り出るか急いでこの場を逃げるべきか。
一瞬だけ悩んだけどあたしは急いで庭の茂みに身を隠し、玄関の様子を伺う。
そして誰もいないことを確認すると、全速力で玄関から家の敷地の外へと走って逃げ出した。
いくら自分が人の姿をしていてもついさっきまでただの楽器だった物が突然妖怪になれば、
老夫婦は腰を抜かすどころか自分を受け入れず、きっと攻撃されるのではないかと本能的に感じたからだ。
それから輝針城異変が解決した数日後、八橋は一度だけ遠目にその老夫婦の家を覗いたが二人は特に変わった様子もなく生活していた。
そのことに安堵と寂しさの入り混じった思いを抱きながらもあえて改めて名乗り出ることはせず、それ以降は一度も足を運んでいない。
後に仲間の付喪神から聞いた話だけど、あたしの生まれた家の老婆は何度か人里の寺子屋で子供達に和楽器の演奏を披露したことがあったらしい。
今更顔は出せないけど、きっと大切にされてきたのだろうと思うと、悪い気はしなかった。
勿論姉さんにこの話はしていないけど。
「あたしの過去の弾き手はあのお婆ちゃんで間違いないと思う」
「なるほど、ね」
弁々は時折相槌を打ちながら八橋の話を聞いていた。
「その、これで違ったら姉さんにただ余計に嫌な思いをさせることになるから申し訳ないんだけど、
多分あたし達の大きな違いはこれぐらいしかないと思う」
「そんなこと気にしないで。確かに貴女の言うことには一理あるし、私も曖昧なままにしているよりここではっきりさせるべきだと思うわ」
弁々がそう言って家の中を入口に近い部屋から順番に物色し始めると、八橋もそれに倣って住人の痕跡を探した。
しかしどの部屋も物がほとんど置かれていないせいもあって、過去に誰が暮らしていたのかを伺い知ることは出来なかった。
八橋は一度作業を止めて呟く。
「うーん、何も出てこないね……」
「家具でも書棚でも、何かないかと思ったけど本の一冊すら出てこないなんてね……」
弁々にとってこの家をこれ以上調べても自分の出生の秘密が分かるかどうかは正直半信半疑だった。
しかし妹が一生懸命になって手伝ってくれている以上それを顔に出すわけにはいかない。
あるいは里の権力者なら人里の各区画の居住民を記した書物を持っているかもしれないが
私達のような妖怪に手を貸してくれるとは思えない。
やはり八方塞がりか、そう諦めかけながら最後の一部屋に足を踏み入れる。
その時だった。
耳元に聞こえ続けていたあの音が急に激しくなった。
私は思わずその場に屈んで膝をついた。
八橋が心配して声をかけてくる。
「姉さん、大丈夫!?」
大丈夫、と言おうとしたところで聞こえる音に明確な変化があった。
これまでは若い少女のような声、という以外に何も聞き取れなかったが、少しずつ言葉が鮮明に聞こえてくる。
まるで自分に対して何かを訴えかけるような必死さを感じた。
(来て……。 来て……)
これまで私を悩ませ続けているその声に、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
誰のものかも分からないのに、どこか落ち着きを感じさせる声だった。
「姉さん大丈夫、横になる?」
「大丈夫よ、ありがとう。少し静かにしてて欲しいの」
八橋は屈んでなおも心配そうに私の背を撫でてくれるが、私の言葉に察するものがあったのか手を止めてその場を一歩下がった。
私は部屋の中を一歩ずつゆっくり奥に進む。
部屋は入口から見て右の壁面に押入れ、入口と反対の壁面に木製の格子で組まれた窓があるだけの簡素な六畳間の和室で
特別目を引くような物は見当たらない。
畳の上には他の部屋と同様に何も置かれておらず、押入れの中も同様だった。
(お姉ちゃん……。 お姉ちゃん……)
今確かに、この声は私をそう呼んだ。
押入れの戸を閉めて窓の方に近づくと、その声はさっきより明瞭に私の耳元に響く。
(あたしの、あたしの……練習、しなくちゃ……)
聞き間違いではない、この声の主はそう言った。
私は深呼吸とともに部屋の入口に歩を進め八橋に言った。
「……ありがとう、貴女の予想した通りかもしれないわ、八橋」
「どういうこと?」
先程から耳に入ってきた音はかなり鮮明かつ大きな声として私の耳に響いたけど、やはり八橋には聞こえていない。
私はこの部屋で聞こえた音について説明した。
すると八橋は驚愕と歓喜の入り混じった表情を浮かべながら言った。
「じゃあ最近姉さんの耳に響いてた声は、姉さんが道具だった頃の琵琶を演奏していた子のものだった、ってこと?」
私は頷く。
まだ解けていない謎はあるけど、おそらく私が道具だった頃の所有者はこの声の主だ。
ならばと、私は宙に向かって語りかける。
「こんにちは。貴女が、私が道具だった頃の弾き手かしら?」
返事は返ってこない。
代わりに先程と同じ言葉が聞こえてくる。
(お姉ちゃん……。 お姉ちゃん……)
「私の名前は九十九弁々、貴女のお名前は?」
(あたしの、あたしの……練習、しなくちゃ……)
それから何度か問いかけてみたけど、結果は同じだった。
彼女には私の言葉が届いていない。
八橋の推測通りなら、自分が道具だった頃の使い手、奏者が誰か分かればこの耳鳴りも収まるはずだけど、依然収まる気配はない。
でもその推測が全くの的外れ、ということはなさそうだったし今は自分をかつて弾いていたであろう少女のことが気になってしょうがない。
しかし、話をしようにも私の出した声はあの子には届かない。
それなら、他に私に出来ることは一つしかない。
でも、今の私に満足な演奏が出来るだろうか。
今朝の苦い失敗の記憶が嫌でも目の前にちらついてくる。
吹っ切ったつもりでも、弦に手をかけるのが怖い。
失敗に気付いた時、観客のざわっとしたあの一瞬はまさに冷汗三斗だった。
演奏会でミスをしたことは一度もなかっただけに、トラウマになりそうだ。
「姉さん」
陰鬱とした気持ちが胸中を支配しかけていたところで八橋の声が聞こえ我に返る。
気付けば耳元で鳴り続けていたあの子の声もいつのまにか止んでいる。
「姉さんなら大丈夫だよ。いつだって音楽に真剣に取り組んで来た姉さんなら」
どうやら私の気持ちを察しているようだ。
今日は本当に情けないところばかりを見せているけど、不思議と午前のような無力感は感じなかった。
そうだ、私にはこんなにも自分を想ってくれる家族がいるんだ。
「……そうね、ありがとう」
私にあるのはこの、最愛の妹とともに磨き上げてきた音楽だけ。
言葉も音も通じなくても、ほんの少しでも私の気持ちを届かせてみせる。
眦を決して畳に腰を下ろし、演奏の構えを取る。
八橋は私達を二人きりにという気遣いなのか部屋を一歩出たところで腰を下ろした。
妹の気持ちに心の中で感謝しつつ、私はゆっくりとあの子に向かって語りかける。
「……私は自分のことを考えるばかりで、貴女の必死の呼びかけに気付こうともしていなかったわ。
今まで、貴女の声から逃げ続けて、本当にごめんなさい」
琵琶の弦に指を乗せる。
「そして、遅くなってしまったけど、私を使ってくれて、ありがとう。
もう貴女の知る道具だった頃の私じゃなくなってしまったけど、私が付喪神として今の心と体を得られたのは、
私を大切にしてくれたであろう貴女のおかげだと思う」
先日の輝針城異変で私達以外にも多くの仲間が付喪神として生まれ変わった。
ただ、魔力の影響を受けた道具が全て付喪神になるわけではない。
付喪神になる物とならない物の違いは明確には分かっていないけど、それには道具に宿る神の人間への恨み、復讐心であったり、
元の持ち主の強い思い入れであったり、感情が密接に絡んでいることだけははっきりしている。
きっとあの子は、どんな形であれ私、いや元の道具の琵琶を強く想ってくれていたのだ。
「今日はささやかながらそのお礼としまして、貴女だけに向けた私、
琵琶の付喪神こと九十九弁々のソロライブを贈らせて頂きます。
もし最後までご清聴頂けるなら、これほどの幸せはありません」
口上を終え、演奏を始める。
耳鳴りがなくなったせいだけじゃない、気持ちが落ち着いたからだろうか。
指の動きもここ最近で一番スムーズだ。
午前のライブで感じた妙な浮遊感、異物感もない。
演奏をするのがこれほど楽しく、幸せに感じられたのはいつぶりだろうか。
最初の曲を弾き終え、次の曲に入る前に宙を一目見上げる。
勿論私の目にはなにも映らないが、不思議とあの子がすぐそこで聴いてくれているように、見守ってくれているように感じられた。
ただの願望に過ぎないとしても、同じ部屋で同じ時間を共有しているかのようなこの瞬間がただただ、心地よかった。
そうして、最後の曲を弾き終えた。
私は締めくくりの挨拶をしようと琵琶の弦から指を離した。
その時だった。
「琵琶の、お姉ちゃん……」
目の前に白装束を纏った黒髪の少女が小さな声で私に呼びかけながら、うっすらと姿を現したのだ。
その背丈は私の肩にも届かないほど小さく、歳は十にも満たないように見える。
私は無我夢中で声をかけようとしたが、声が、音が出ない。
訳が分からず困惑する私に構わず、装束の彼女は足音も立てずに近寄ってくる。
そこでようやく気付いた、彼女には足がない。
古本屋に住み着いた物知りの付喪神から聞いたことがある、霊の中でも生前の姿を保ったままのものは亡霊と呼ぶのだと。
またこうも言っていた、亡霊は幽霊と違って生前の恨みが基となって現世を彷徨っている場合もある、と。
私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
驚きと焦りで身体が動かない私を他所に、手を伸ばせば触れられそうなほどの距離まで近づいてきた彼女は、
何事か聞き取れないほどの小さな声でぼそぼそと呟くとゆっくりと私にしなだれかかってきた。
重みは感じなかったけど、微かに感じる質感が彼女の存在を私に確信させた。
次の瞬間、彼女を眩い閃光が包み込んだ。
眩しくて直視出来ないほどの激しさだ。
急いで八橋のいる部屋の入口に向かって声を出そうとしたけどやはり音は出ない。
瞬く間に光は広がり気付けば部屋全体が白く塗りつぶされた。
あの少女もいつの間にかいなくなっている。
光に多少は目が慣れてきたところで部屋の様子を探るために歩き出そうとしたところ、不意に光が消え、視界が開けた。
室内の様相は一見元に戻っていたように見えたが大きく違うものがある。
私の目の前には白い布団が敷かれ、先程のあの少女が仰向けで横になっている。
しかもその顔色は青白く、頬も先程見たそれより痩せこけており明らかに病魔に侵されていた。
傍には彼女の母親だろうか、不惑と思しき年頃の割烹着の女性が悲痛な表情を浮かべて彼女を見守っている。
私は自分の琵琶をその場に置き、横たわった彼女の元に駆け寄って声をかけるも、差し出した手は彼女の身体をすり抜け触れることが出来ない。
声も届いていないようだ。
私の一連の動きに対する少女と女性の無反応具合から、彼女達には私が見えていないらしい。
これは少女の過去の記憶で私はそれを見せられているのだろうか。
その時、少女の苦し気な声がその小さな口元から紡ぎ出された。
「母様、私の琵琶を、出して下さい」
「……分かったわ、少し待っててね」
母親が腰を上げ、部屋の外に出ると、すぐに両手に琵琶を抱えて戻ってきた。
樺色、黄金色を基調としたそれは鈍く光っており、よく手入れされているのが分かった、
そしてそれを静かに少女の枕元に置くとついに耐えられなくなったのか嗚咽を漏らしながら目元を抑え泣き始めた。
「ごめんね、ごめんね……。あんたを守ってやれない母さんで、本当にごめんね……」
「母様、泣かないで下さい。ありがとう」
よく見れば彼女の割烹着は所々継ぎ接ぎだらけで腕には小さな切り傷、擦り傷が無数にあった。
おそらく彼女一人で働きながら病気の一人娘を養い続けたであろうことが伺えた。
弁々はこの後のことを想像するとこれ以上先を見たくない気持ちになった。
でも、決して目を離してはいけないと自分に言い聞かせて二人の様子を見守った。
少女は震える手を布団の外に向かって伸ばすと枕元に置かれた琵琶に手を触れ、優しく愛おしそうに撫で始めた。
あれが、あの琵琶が私の元の道具だったのか。
琵琶を撫でる手を止めると少女が再び語り始めた。
「我儘を言ってごめんなさい、母様。でも、父様と母様が私の誕生日に買ってくれたあの琵琶に、最後にもう一度、触れていたかったのです」
部屋の内装を見る限り、彼女の家が裕福とは思えない。
おそらく父親を亡くして、生活が苦しくなったのだと思われた。
「あんたはこんなにもいい子なのに、なにもしてあげられなくて、うっ、うっ……」
母親はなおも泣きじゃくっている。
大切な娘をこの若さで亡くすことなど、親ならとても耐えられないであろうことは想像に難くない。
「母様、もう悲しまないで下さい。母様が体の弱い私を養うためにいつも一生懸命働いてくれたことは分かっています。
私はそんな母様も、優しかった父様も、大好きです。この家に生まれてきて、私は幸せです」
間もなく自分は病魔に侵され命を落とす。
この年頃の子供が耐えられる運命ではないだろうに、少女は痛々しいほど健気に、
その痩せこけた頬に確かな微笑みを浮かべながら、自分を愛してくれた母親に感謝の言葉を述べている。
「千子……」
「心残りは、一つだけ。一回でいいから、買ってもらったこの琵琶で、母様や父様や、たくさんのお客さんの前で、
みんなに演奏を聴かせてあげたかった……」
それまで一度たりとも涙を見せなかった少女の目元から、一筋の涙が零れた。
少女の母親が涙をハンカチで優しく拭うと少女は嬉しそうに口元を緩ませたが、瞼がゆっくりと閉じていった。
それに気づいた母親は先程までの弱々しい声からは想像もつかないほどの大きな声で娘に呼びかけた。
「千子、千子!」
「……」
呼びかける声に少女が返事を返すことはなかった。
それでも母親は呼びかけることを止めず、少女の華奢な体を抱き起こし、呼びかけ続けた。
「千子!千子!行かないでおくれ!千子!」
徐々に母親の叫ぶ声が遠くなる。
同時に、再び部屋の中を先程と同じ白い光が包み込む。
私は弾かれたようにあの少女、千子の元に走り寄るとその手を彼女の眠る布団の上に添えた。
一目顔を見ようとしたが、光に阻まれてそれは叶わなかった。
私が後ろを振り返った次の瞬間、少女も母親も、なにもかもが白い輝きの中に消え去り、
一面が純白で境界のない景色が目の前に広がっていた。
私がその景色に圧倒されていると、再びあの少女、千子の声が聴こえてきた。
今度は耳の中に響くような声ではなく、背後から呼びかけられる声だった。
「お姉ちゃん、こっち、こっちだよ……」
私が声のする方向を振り向くと光の中から人間の手が伸び、私の手を取り引っ張ろうとした。
その袖はあの子の纏っていた白装束とよく似ている、間違いない。
その時、頭の中に付喪神仲間の何気ない言葉が追想される。
「最近本で読んだんだけど、亡霊ってのは当人に悪気がなくても生者を自分と同じ亡霊にしちゃうことがあるんだってね。
万が一会ったら貴女も気をつけなよ」
最愛の妹、八橋の太陽のようなはにかんだ笑顔とあの子、千子の弱々しいながらも凛々しい笑顔が映像となって頭の中を駆け巡る。
大丈夫、私はあの子を、千子を信じる。
だからあと少しだけ、待ってて頂戴、八橋。
私はその手を握って、引かれるままに声の主に着いて行った。
どのくらいの時間、歩いただろうか。
ほんの数分程度だったかもしれないし、三十分以上は歩き続けたかもしれない。
少しずつ光に目が慣れてきたからか、途中から声の主の輪郭がうっすらと見えてきた。
後姿ながら小さな背丈と艶やかな黒髪、そしてその身に纏った白装束。
間違いなくあの少女、千子だ。
足元に目線を向けると、光に視界を阻まれてよく見えなかったけどやはり足はない。
最初にあの部屋で見た姿と同じ姿だ。
話したいことはたくさんあったけど、なんとなく彼女の目指す目的地に着いてからにしないといけない気がして、道中私達はずっと無言だった。
もしも彼女の案内する先が冥界であったならと思うとぞっとしないでもなかったけど、
不思議と恐怖心はなく、二人無言で静寂の中を歩き続けるのは一種の心地よささえ感じた。
彼女が不意に足を止める。
そしてふっと繋いでいた手を離した。
私が慌てて手をつなぎ直そうとした時、周りの空間を覆い尽くしていた真っ白な光は消え、徐々に視界が開けてくる。
周囲を見やると、私達の今いる場所がよく見慣れた物だとすぐに気づいた。
縦長の長方形の部屋、木製の壁と床、一番奥に設けられた一段高いステージ。
部屋の前後に一ヵ所ずつある引き戸。
ここは私達姉妹がいつも演奏を披露しているあの人里の集会場だ。
そしてあの少女、千子はステージの上段に背を向けた状態で立っていた。
あの子の、叶わなかった夢。
私が後ろ姿に声をかけようとしたところで、彼女が振り向き、嬉しそうな微笑みを浮かべながら語りかけてきた。
「……お姉ちゃん」
「……千子、ちゃん」
「もう、千子って呼んでよ。私子供じゃないんだから」
頬をぷうと膨らませながらぼやく彼女は、初めて年相応の姿を見せたように思えた。
「ごめんごめん。それで……ええと……」
いざ向き合うと何から話をしたらいいのか考えがまとまらない私に構わず、千子は照れくさそうに言った。
「お姉ちゃん、ここまで来てくれてありがとう。ごめんね、私の我儘のために、色々迷惑かけちゃったんだよね?」
「ううん、そんなこと……。それよりも、さっき私が見た光景は、貴女の……」
「うん、あたし、病気で死んじゃったの。お母さんにはあんなこと言ったけど、本当は辛くて、悲しくて、
どうしてあたしばっかりがこんな目に遭わされないといけないの、って、ずっと思ってた。
もうすぐ寺子屋に通い始めて、買ってもらった琵琶をみんなに聴かせてあげるはずだったのに……」
千子は一息に言うと、目元に大粒の涙を潤ませていた。
やはりさっきの空間で見たこの子の気丈な態度は、母親を悲しませまいとする優しさがそうさせていたのだ。
本当は辛くて、悲しくて、怖くてしょうがなかったのだ。
私は琵琶を足元に置くと彼女の身体を両手でしっかりと抱きしめ、背中を撫でた。
「えらかったね、辛かったね……。もう、泣いていいんだよ……。ここにはお姉ちゃんしかいないから、ね……」
千子は抵抗せずに私に抱かれていたけど、ついに耐えられなくなったのか顔を震わせ、私の胸に顔を埋めるようにして泣き始めた。
母親のそれ以上に大きな、叫ぶような鳴き声だった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃあああん……」
しばらくすると、千子は自分から体を離し、赤く腫らした目元を袖で拭うと涙で濡れた私のワンピースを見て、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、お姉ちゃん……」
「いいのよ、そんなこと。それより、落ち着いた?」
「うん……」
「偉いわ。貴女は本当に強い子ね」
私は千子の頭を軽く撫でる。
艶のある綺麗な黒髪が指の間を滑らかに通り抜けた。
彼女は頬をほんのり紅く染めながらも嫌そうではなかった。
「……そんなことないよ、小さい頃からよく病気になってお父さんとお母さんをずっと困らせたもん」
どこか拗ねたような口ぶりでそう返す千子は先程の空間で見た彼女のイメージとはだいぶ違ったけど、これがこの子の本当の姿なのだと思った。
どんなに周囲を心配させまいと振舞っても、彼女が小さな子供であることに変わりはない。
本当はなりふり構わず親に甘えたかったに決まっている。
しかし、彼女の持つ優しさはそれを許さなかった。
そして、現世に未練が残ったままの彼女は生前大切にしていた琵琶に霊としてその意識を残すこととなったのだ。
私はそんな彼女に、何をしてあげられるだろうか。
「お姉ちゃん、あたしの琵琶から生まれた妖怪なんだよね?」
「……ええ、そうよ。貴女が大事にしてくれたから、私はこの姿になれたの」
小槌の魔力のことは今はどうでもいい。
私は再び彼女を、今度は片手を腰に添えて抱き寄せた。
千子は少しびっくりしながらも抵抗はせず、私に身を委ねてくれた。
「言わば貴女は、私の生みの親、と言ってもいいかもしれないわね」
「生みの親……お姉ちゃん、お名前はあるの?」
「ええ、九十九弁々。それが今の私の名前よ」
「つくも、べんべん……」
「弁々、でいいわよ」
今の彼女が正確に、どんな存在なのかは巫女でも霊媒師でもない私には分かりようがなかった。
それでも、今のまま彼女を現世に留まらせるわけにはいかない。
彼女が今ここにいて、現世の彼女の住居にもうずっと人が住んでいないことを考えると、
彼女の両親は父親だけでなく母親も既に亡くなっているはず。
彼岸で両親に会える保証はない。
しかしそれでも、千子は両親のいるであろう彼岸に旅立つべきだ。
私にはその後押しをする義務がある、彼女の道具として、彼女の想いから生まれた者として。
私はその場に腰を下ろし、先程足元に置いた琵琶を膝の上に置いた。
足は横に崩す形だ。
木製の床のひんやりとした感触が伝わってくる。
「千子、一緒に座りましょ」
千子は私の隣に腰を下ろそうとする。
私はそれを手で制し、自分の膝を指さした。
「こっち、私の膝の上よ」
千子は一瞬きょとんとしていたがすぐに頬を赤らめ、かぶりを振った。
「そんな、恥ずかしいよ……」
私は努めて真剣な表情を作りながら膝上に抱え込んだ琵琶を指差して続ける。
「貴女に、弾いて欲しいの。このステージで、私を大事にしてくれていた、優しいその手で……」
千子は部屋の奥のステージと私の膝元の琵琶に交互に目をやりながら言う。
「……無理だよ、あたし全然練習出来てないし、大体弾法譜もないじゃない」
「大丈夫、私がリードするから、貴女は私の動きに合わせて弾いて頂戴。貴女の手で、私を弾いて」
千子はしばし逡巡した後、恥ずかしそうに口をすぼめて呟いた。
「……信じるからね、絶対手離さないでよ」
「勿論よ。それにね、演奏家っていうのはステージに上がる時は成功することだけを考えて演奏に臨むものなのよ。大丈夫、貴女なら出来るわ」
「……うん」
千子は膝を崩して座っている私の上に、遠慮がちにそっと座り込んだ。
やはり霊体だからか重みは感じなかったけど、その存在は決して希薄ではなく確かに今ここにあることが肌で感じられた。
千子はおそるおそると言った手つきで赤く輝く弦に指を乗せる。
「あったかい……」
「ふふ、意外でしょ。私も詳しい原理は全然知らないけど、弦が温かいのは私の体温のせいかもしれないわね」
「この琵琶が、お姉ちゃんそのもの、なんだね」
「あら、やっぱり恥ずかしいかしら?」
「も、もうっ」
「ふふ、ごめんごめん」
少しは緊張も解れたのか、千子は私が手を重ねるのを催促するかのようにこちらを見つめてきた。
私は彼女の小さな手に、そっと重ね合わせるように手を添えた。
「……じゃあ、始めましょうか。二人だけの、ライブ」
「……うん!」
私は千子の指を自分の指で軽く押す形で合図をし、演奏を始める。
曲はいつも私達姉妹が演奏会で披露する曲、幻想浄瑠璃。
譜面は完璧に頭に入っているので千子の動きに意識を集中した。
千子は一生懸命に私の指の動きについてきている。
その動きの軽やかさを見て、少なくとも全くの初心者ではないことはすぐに分かった。
時間の許す限り、精一杯練習していたことが伺える。
そんな健気で心優しい彼女があまりにも早くこの世を去らなければならない、
そんな運命の残酷さにこの世界を恨まずにはいられなかったが、すぐに自戒した。
これは彼女を現世から解き放ち、彼岸に旅立たせるための演奏なのだ。
私がそんなことを思っているようではいけない。
曲が中盤にさしかかったあたりで、驚くべきことが起こった。
私のリードより先に、千子の指が動き始めたのだ。
千子の顔を横目でちらっと覗き込むと、悪戯っぽいそれにも見える笑みを浮かべていた。
そして次の瞬間、白い歯を見せて微笑んだ。
心底、楽しそうな表情だった。
それから最後まで、千子は私のリードがなくとも最後まで譜面を弾き切った。
フォローをするつもりだったのに、終わってみれば一つの楽器を二人で演奏した形だった。
演奏を終えて、弦から指を離す。
心なしか琵琶の赤い弦はいつも以上に輝いているように見えた。
私は千子を膝の上に乗せたまま話しかける。
「千子、貴女この曲……」
「……お姉ちゃんと、もう一人の楽器のお姉ちゃんがいつも演奏してたよね。あたしこの曲、大好き」
その言葉に私ははっとした。
ここ一ヵ月ほど、私が演奏をしている時に聞こえていた耳鳴りのような音。
それが彼女の声であったこと、それは彼女の姿を見た時点で気がついていた。
しかし、大事なことを見落としていた。
あの時、千子は私に語りかけてきていただけではない、観客の誰よりも間近で、私達の演奏を聴いていたのだ。
「……ずっと、私のすぐ傍で、聞いていてくれたのね、千子」
「……最初から、じゃないよ。真っ暗なお部屋で目が覚めたと思ったら、目は開けてるつもりなのに景色がずっと真っ暗で、
音もなにも聞こえないし、足も地面についてないし。それで、気づいたの。あたし、死んじゃったんだ、って……」
「千子……」
「でも、しばらくして、急に音が聞こえてきたの。始めはなにか楽器の鳴ってる音にしか聞こえなかったけど、
何回も聞いてるうちに、同じ人が、演奏してるんだって、気づいたの。それが、この曲だったの」
「……私も、最初は耳に響くのが誰の声か、全然分からなかった。でも、それからしばらくして、
貴女のお家の、貴女のお部屋に入ったところで、初めて貴女の言葉を、少しだけ聞き取れたわ」
「……お姉ちゃん、お家まで来てくれたの、嬉しかった」
「遅くなってごめんね。でも、何回か聴いただけの曲をいきなりここまで弾きこなせるなんて、貴女は間違いなくセンスがあるわ」
「えへへ。でも……」
分かっている。
残酷だけど、言わないといけない。
「千子、よく聞いて」
「……うん」
この子は賢い。
私のこの先の言葉にもおおよその見当がついていることだろう。
むしろ私の方が耐えられるかどうか分からなかった。
それでも、言わないといけないんだ。
「千子、貴女はずっとここにいてはいけないの。 お母さん達が、貴女を待ってるわ」
「お姉ちゃん、あたしとずっと一緒にいてくれないの……?」
目に涙を浮かべた千子の言葉に私の目頭は熱に震えている。
言わないと、言わないといけない。
私が必死に感情を押し殺し言葉を絞り出そうとしたその時、千子は装束の袖で涙を拭って言った。
「……えへへ、冗談だよ。千子はお姉ちゃんの生みの親、だもんね。親は子供よりしっかりしてなきゃ、だもんね!」
やっぱり、私はいつもどこかがしまらないなと心の中で自嘲した。
これでは千子の方がよっぽどしっかりしているじゃないか。
でも、これなら千子は心配なさそうだった。
「千子、どこに行ってしまっても、貴女のことはずっと忘れないわ。ずっと、ずっと……」
まだ涙の止まっていない彼女を、私は両手で抱き寄せる。
涙を全て受け止めるつもりで、強く、強く。
千子は私の胸から顔を上げる。
「お姉ちゃんとの演奏、とっても楽しかったよ。元の世界に帰っても、あたしに聞こえるぐらい、思いっきり、いっぱい、いっぱい、演奏してね」
「勿論よ、私も、本当に楽しかったわ。ありがとう、千子」
お互いの想いを伝え終えたところで、周囲を再び白い光が包み込んだ。
私は心を鬼にして千子と別れたくない想いを切り捨てると、抱きしめていた彼女の身体から手を離す。
千子の身体が白い光と一体になり、徐々にその体が希薄になっていくのが分かる。
光が完全に視界を塗りつぶす直前、彼女の優しい微笑みが、見えた気がした。
「ふー、今日もいいライブだったね姉さん!」
あれから二日が過ぎた。
あれ以来私に千子の声が聞こえることはなくなった。
それでも、演奏をしているといつもあの子がすぐ傍で私を見守ってくれているような気がした。
「ええ、大盛況でよかったわ。それよりもありがとう、今度のことは貴女が相談に乗ってくれたおかげで解決したようなものだわ」
「いいんだよ、そんなこと。それより今度はちゃんと最初からあたしを頼ってよ。あたしだって少しくらいは姉さんの力になれるんだから」
「……そうね、ありがとう。約束するわ」
「それからその……千子ちゃんのことはもう大丈夫なの?」
「……寂しくないと言ったら嘘になるわ。一度貴女と、三人で演奏がしたかったわね」
千子と別れて現世に戻った後、八橋には千子とのことを多少かいつまんで説明した。
話を聞いた八橋は最初はびっくりしていたけど、彼女が無事に旅立ったこと、
今後演奏中に不調が起こることはないであろうことを伝えるとようやく安堵の表情を浮かべた。
「それにしても、すごいよね。途中からとはいえ譜面も見ずにあたし達の幻想浄瑠璃を弾けたんでしょ?」
「そうね、私もびっくりしたわ。成長したら一流の演奏家になってたかもしれないわね」
今頃千子は無事に彼岸に辿り着けただろうか。
良く晴れた紺碧の青空を見上げながら弁々は彼女と一緒に演奏した時のことを思い出していた。
「よーし、千子ちゃんのところに届くぐらい、次のライブも頑張らなきゃね!」
八橋は勢いよく駆け出した。
私も後を追いかける。
千子、ありがとう。
私の生みの親にして、私のもう一人の妹。
私は八橋と一緒に、より素敵な音をみんなに届けられるように、これからもっと頑張ります。
貴女が無事、お父さんお母さんに逢えますように。
もし、次の世界で会うことがあれば、今度は三人で楽器を演奏しましょう。
琵琶の付喪神こと九十九弁々は六畳ほど部屋の畳の上に腰を下ろした。
続いて部屋に入った彼女の妹、琴の付喪神こと九十九八橋はテーブルの上の白い水筒を手に取り、喉を潤すと頬を緩ませて言った。
「ふー、今日もいいライブだったね姉さん!」
ライブの熱気がまだ残っているかのように彼女の額には汗が光っていた。
弁々は自分の鞄から薄手のハンカチを取り出して手渡しながら言った。
「そうね、はい」
「あ、ありがとう姉さん」
思いがけず素っ気ない言い方になってしまったと気付いたが、
気にしないふりをして自分も妹とお揃いの白い水筒を取り出し、蓋を開ける。
冷水が喉を流れる感触が心地いい。
そうしていると、ハンカチで汗を拭った八橋が言った。
「ところで姉さん今日はなにかあったの?」
「ううん、なんにもないわよ。どうしたの?」
「いや、なんかいつもより元気がないような気がしてさ、気のせいだったらいいんだけど」
普段は大雑把で時折無鉄砲な行動も目立つ彼女にしては鋭い、と弁々は思った。
それとも、そんなに自分はいつもと違う表情を見せていただろうか。
それはさておき、今これ以上話をすると余計なボロが出かねない。
「いつも通りよ、ちょっと疲れただけ」
弁々はそう答えるとそのまま会話を切り上げるかのように帰り支度を始める。
八橋は微かに釈然としない表情を浮かべたがすぐにそれを打ち消し、自分も荷物を鞄にしまうと
姉に続く形で控室を出て行った。
その日の夜。
弁々は自宅の居間で弾法譜を書く手を止め、隣の寝室の襖を少しだけそっと開けた。
隙間に顔を近づけると、家の外から絶え間なく耳に入ってくる虫の音に混じって八橋の寝息が微かに聴こえてくる。
よく眠っているようだ。
八橋は掛け布団に抱き着くようにして眠っていた。
安らかな寝顔を浮かべる彼女を見ているといつも心が穏やかになるが、
今日の控室でのことを思い出し胸に微かな痛みを感じた。
元気がないのではないかと聞かれた時は心配をかけまいと隠したが、本当は演奏中に気になること、違和感があったからだ。
弁々は足音をたてないように注意を払いつつ、玄関から外に出た。
自宅のすぐ裏を流れる小川の側まで行き、座れそうな大きさの石を見つけると手で砂を払いそこに腰を下ろした。
自身の身体の一部でもある琵琶を膝に乗せ、何をするでもなく指で覆手のあたりを撫でながらゆっくりと思いを巡らせた。
普段私達は一緒に音楽活動をしており、その主な活動場所は人里だ。
最初のうちは私達が無名だったこともあって活動はなかなか実を結ばず、生活も安定していなかった。
それが人里の往来で地道に路上ライブを続けているうちに、少しずつ足を止めてくれる人妖が増えた。
徐々に名前も有名になり、今ではプリズムリバー楽団をはじめとする幻想郷の音楽活動家の一角に食い込むことが出来た。
また、人里での活動を続けているうちに自然とライブ以外での人脈も増えた。
生まれたばかりの頃は人間や他の妖怪達との距離の取り方を心得ていなかったせいもあって、
しばしば些細な行き違いでトラブルを起こしてしまったけどそれも最近ではほとんどなくなった。
弁々も八橋も、道具が支配する世界への夢を完全に諦めたわけではない。
しかし、彼女達が生まれるきっかけとなった輝針城異変の時は小槌の魔力の影響で気が大きくなっていたせいもあってか、
異変が解決した今では考えなしに暴れようなどとは思っていない。
そんなことをすればせっかく得られたファンも人脈も、全てを手放すことになるばかりか
演奏に耳を傾けてくれる人間が誰一人としていなくなってしまう。
それは楽器の付喪神として、存在意義にも直結する危機だ。
そういった事情もあってか彼女達は少なくとも今のこの生活を大切にしている。
「あ、やっぱりここだった」
弁々が一人物思いに耽っていると、後ろから聞き慣れた声がする。
振り返るとそこには八橋が薄い桜色の寝間着姿にサンダルを履いて立っていた。
この距離で気配に気が付かないとは、少し無防備すぎると弁々は心の中で自戒した。
「ちょっと外の風に当たりたくなってね。大丈夫、もうすぐ私も寝るわ」
そう言って立ち上がろうとすると、八橋はそれを手で制して隣に腰を下ろす。
「八橋?」
「ね、ちょっとだけお話しようよ」
八橋がそう言いつつもこちらから話し始めるのを待っている様子を見て察した。
多分この妹は、私が何かを隠していることには既に勘付いている。
話すべきか悩んだけど、しばし思惟してから私はゆっくりと語り始めた。
「最近演奏してて、時々自分が何をしているのか分からなくなることがあるの」
「何をしているか分からないって……姉さん今日の演奏も完璧じゃなかった?」
首を傾げる八橋に手を振りながら答える。
「弾法譜は体が覚えているから手が止まったりはしないんだけど、演奏中に聞き覚えのない声が耳に入ってきて、集中できないというか……」
「聞き覚えのない声? お客さんの声とかじゃなくて?」
「お客さんじゃないのは間違いないわ、私の耳元に直接語りかけてくるような声」
「その声は、なんて言ってるの?」
「……それが、全然聞き取れないの」
「聞き取れない……声はどんな感じ?」
「子供っぽい声、かしら」
「うーん、私も耳はかなりいい方だから一緒に演奏してて姉さんだけに聞こえるのは不思議だね」
確かにその通り、私達はいつも二人で演奏をするけど音楽家たるもの自分の音は当然として
パートナーの音色を聞き取る余裕も常になくてはならない。
私は八橋の音になにか異変があればすぐに気が付くしそれは八橋も同じだろう。
だから一方にしか聞こえない音の存在は私達にとって未知だった。
「その音って、演奏中だけなの?」
「最初のうちは演奏中だけだったわ、でも最近はそれ以外の時も聞こえてくるようになって……」
「……それさ、いつ頃から?」
八橋の口調が先ほどよりも詰問調になっている。
その理由に気付いて口を噤もうとしたがそれを許してくれる雰囲気ではなかった。
「……一ヵ月前ぐらいね」
答えを聞いた八橋は思った通り今度は不機嫌を隠そうともしない膨れっ面をこちらに向けてきた。
「もー、どうしてすぐ言ってくれないのよ!」
「……心配をかけたくなかったのよ」
八橋は短く嘆息して言った。
「私達誓ったよね、どんな時でも楽しいことは二人で二倍に、辛いことは二人で半分こに、って」
覚えている、姉妹の契りを交わした日に八橋が言い出し、私がすぐにそれに賛成したことも。
「……そうね」
追憶すると八橋と初めて出会ったあの日の情景が鮮明に思い出されてくる。
私達は姉妹を名乗ってはいるものの、血のつながりはない。
出会ったのはうだるような暑さ、大暑を少し過ぎたある日の日なかのことだった。
私は輝針城異変の主犯達によってもたらされた小槌の魔力によって付喪神としてこの幻想郷に生を受けた。
最初は自由に動ける体を手に入れたことを喜んだが、生まれたばかりで知人はおらずこの幻想郷の地理すらも分からない。
これから何をすればいいか、どうやって生きて行けばいいか、心の中には拭い切れぬ影が雨雲のように広がっていた。
妖怪である以上人間の暮らす人里に居て誰かに出くわした時のことを思うと迂闊に人里内を闊歩するのは
不味いかもしれないと本能的に危険を感じたため、一先ず人里の外に出て人気のない草地を当てもなく彷徨っていた。
そうしていた折に彼女に出会った。
鮮やかで濃い茶色の髪に紫色のカチューシャがよく似合っている。
そして両手に着けている琴爪、スカートを取り巻く赤い光の弦を見て確信した。
彼女も私と同じ、この異変がきっかけで生まれた付喪神なのだと。
私は考えるより先に彼女に歩み寄り、声をかけていた。
「こんにちは。貴女も、楽器の付喪神?」
「……え?」
私の声に気付いて応えたその表情は、如何にも不安に怯えていた。
しかし私がそれに構わず自分の身の上を説明すると彼女も思うところがあったのか
最初よりも幾分かよくなった顔色で丁寧に自己紹介をしてくれた。
そうしてお互いに自分が生まれた経緯、依り代の楽器、そして愛する音楽について語り合った。
同じ楽器の付喪神同士、話が合わないはずはなく私はすっかり心を許していた。
彼女、九十九八橋もきっとそうだったと思う。
そのはにかんだ笑顔はとても愛らしかった。
会話が一段落したところでふと周囲を見ると既に日が沈みかけており、結構な時間話し込んでいたことに気付いた。
彼女も今日生まれたばかりだと言っていた、おそらく帰る家と呼べるものはないことだろう。
八橋は夜が近いことに心づいたのか、沈みゆく太陽に一瞥をくれた後再び視線を私に戻す。
その表情に陰が差して見えたのが日没のせいだけではないことはすぐに分かった。
帰る家がない、この先どうやって生きていけばいいか分からない、先の見えない恐怖が彼女の心を支配している。
私は先程までの輝くような彼女の笑顔を思い出すと、思案する間もなく口を開いた。
「ねえ、私達……姉妹にならない?」
「……え?」
「私も、不安なの。でも、貴女みたいな家族がいたら、きっと頑張れる」
「……」
「嫌、かしら?」
「ううん、ただその……びっくりしちゃって」
「約束する、貴女の笑顔は私が守って見せるわ」
弁々が差し出した手を八橋は弱々しい手つきながら握り返した。
そして握る力はぎゅっと強くなり、呟く。
「……あったかい」
「この先どんなに大変なことがあっても二人一緒なら、必ず乗り越えて行けるわ。ね?」
「……うん!」
八橋は再び笑顔を取り戻し、愛嬌のある微笑を口元に湛えながら私を受け入れてくれた。
「えへへ、じゃあ貴女がお姉ちゃんで、私が妹ね!」
「ええ、これからよろしくね、八橋」
「これまでは一人だったけど、これからはお姉ちゃんと一緒だから楽しいことや嬉しいことは二倍、辛いことや楽しいことは二人で半分こに出来るね!」
「それは素敵ね、ふふ」
それから今に至るまで、私は曲がりなりにも姉として出来ることはやってきたつもりだ。
演奏会等で交渉事があれば必ず私が矢面に立って話をしたし、
演奏においても自分が模範となれるよう空いた時間にはひたすら練習をし、妹の様子も常に気にかけた。
でもこれは当たり前のこと、自分はいつでも理想の姉として妹のお手本であり続けなければならない。
そんな信念もあって、私は自分の弱みを八橋は勿論周りの誰に見せるのもよしとしていなかった。
しかし、そうして何もかもを自分で解決しようとするのはあの時に交わした契りに反する。
それを妹に指摘されるまで気が付かなかったことに内心忸怩たる思いだった。
「これまでずっとあたしに隠してて解決してないんだから、ちょっとはあたしの案にも乗ってもらうからね」
この子はこんなにも積極的に自己を主張してくる子だっただろうか。
初めて会ったあの時の弱々しい立ち振る舞いとは似ても似つかない。
しかし頭に浮かんだその疑問はすぐに氷解した。
違う、私のためだからこそ必死になってくれているんだ。
そう思うと嬉しさと申し訳なさの入り混じった感情が目頭を熱くした。
「でさ、姉さんの生まれた場所にもう一度行ってみようと思うんだけど」
「私の生まれた場所……」
私が付喪神として生まれたのは人里の外れのとある一軒家の中だ。
とはいえ目を覚ました時には既に誰も住んでおらず、建物の中を一通り見て回っても各部屋にはほとんど物が置かれておらず、
その様子から長いこと人が住んでいないことが分かった。
周りの住居もどうやら空き家ばかりであまり人が寄り付くような場所ではなさそうだった。
とはいえ誰か人間に見つかると厄介だと思った私はすぐにその場を離れた。
そして人里近くの草地で八橋に出会ったのだ。
それ以来近付いたこともない場所だがそこに行けばなにかが分かるだろうか。
八橋は腰を上げると私のすぐ隣、肩と肩が当たる距離に座り直しながら言った。
濃い茶色の髪がふわりと舞う。
「姉さんの琵琶って、過去に誰が弾いていたかは分からないって言ってたよね」
「そうね、生まれた時には周りに誰もいなかったし、もしかしたら捨てられたのかなとも思っていたけど……」
「あ、ごめん……」
「気にしないで」
詫びる八橋に手を振りながら返す。
明日も午前中に人里でライブの予定がある、細かい話は明日にしてそろそろ眠らないと明日の演奏に影響が出かねない。
憂鬱な話題を切り上げたいが故の言い訳だと我ながら呆れるけど、心がざわついた状態でいい音など出せないのは本当のことだ。
そう自分に言い聞かせ、続ける。
「じゃあ明日、ライブの後で行ってみましょうか、今日はもう遅いからそろそろ寝ましょ」
「あ、姉さん……」
八橋の返事を最後まで聞くことなく玄関に向かって歩を進める。
慌てて後ろをついてくる妹の気配を後ろに感じ取ると、振り向かずに呟く。
「……ありがとう、八橋」
聞こえたかどうかは分からなかった。
翌日、再び昨日と同じ人里の集会場であたしと姉さんは演奏を披露した。
演奏自体は半刻ほどで終わり、控室で帰る用意を始める。
姉さんは一言も言葉を発しない。
理由は分かっている。
今日姉さんは初めて、演奏中にミスをしたのだ。
二人で同時に演奏に入るところを姉さんがワンテンポ遅れてしまったのが一回、音を外してしまったのが二回。
それは私達の曲を聴いたことがない人でもミスとすぐに分かる代物で最前列の方が
ざわついていたのが嫌でも脳裏に焼き付いている。
それでも演奏会自体は無事に終了し、盛り上がりも昨日のそれと大差なかった。
私達が挨拶を終えて退場し始めたときに別れを惜しむかのように最前列まで押しかけて声援を送ってくれたファンも沢山いた。
そのときの姉さんは確かに昨日と変わらず、凛々しい笑顔を浮かべていた。
ハプニングにめげることもなくポーカーフェイスを保ち、最後までやり遂げたのだ。
その姿はあたしにはとても強く、立派に映った。
集会場の裏口から路地を抜け、しばし無言で人通りの少ない道を歩き続ける。
目指している方角は姉さんの生まれた場所だけど、今のこの空気で何を言えばいいかが分からない。
そうしてさらに歩を進め、すれ違う人妖もほとんどいなくなったところで前を歩く姉さんが足を止めた。
「……姉さん」
「ごめん、八橋。私は、自分が情けないわ……」
後ろを振り向かずに返ってくる返事は弱く、微かに震えている。
あたしは今にも消え入りそうなその声にいよいよ耐えられなくなった。
「姉さん、そんなこと言わないで。ミスぐらい誰だってするわ」
姉さんの声が急に激しくなる。
「私達はプロなのよ、ミスなんて許されないわ!」
「姉さん……」
「せっかく活動も実を結んできたのに、こんなことじゃ……」
姉さんがなにかと完璧主義なのは今に始まったことじゃない。
それにその理由が持って生まれた性格じゃないことも知っている。
あたしを守るために、奏者として、姉としてお手本であり続けようとする気持ちが今の姉さんを作ってる。
そんな姉さんはあたしの誇りで、大好きだ。
だから、姉さんが変わる必要なんてない。
姉さんは常に前を歩き続け、あたしは時々向かい風で倒れそうになる姉さんを後ろから支える、そんな妹でありたい。
あたしは考えるより先に姉さんの前に小走りで回り込み、正面からその顔を見据える。
姉さんは驚きと怯えの交じったような顔で、視線を泳がせている。
あたしは構わず両手で姉さんを抱き寄せた。
「姉さん、あたし、姉さんのこと、ずっとずっと、大好きだよ。
もし演奏が出来なくなっても、妖怪としての魔力を失っても、この世界の全てがあたし達の敵になっても、
あたしの居場所は姉さんの隣、他にはないんだから」
「八橋……」
「あたし、もちろん姉さんの悩みがなくなって、元通りに演奏が出来るようになって欲しいとは思ってるよ、でも……」
あたしは姉さんを左手で抱きしめながら右手で琵琶の弦に指を乗せて続けた。
「あたしが一番望むのは姉さんが元気でいてくれること、これからも一緒に笑っていられることだよ。
大好きな音楽が原因で苦しむ姉さんの姿なんて、見たくない……」
姉さんは片手で琵琶を支えながらもう片方の手を自分の目元を隠すように添えている。
「ありがとう、ありがとう、ごめんね、ごめんね……」
あたし達はしばし、無言のまま抱擁を続けた。
「……落ち着いた?」
「ええ、ありがとう、本当にごめんね、八橋」
どれだけの時間がたっただろうか、先に口を開いたのは姉さんだった。
目元を赤く腫らしてはいるけど顔色は元に戻っている。
「姉さんがあたしのこと想ってくれてるように、あたしも姉さんのこと、大切に想ってるんだよ」
「……貴女と出会えて、私は本当にいい家族を持ったわ。じゃあ、行きましょうか」
「うん!」
あたし達はいつだって二人一緒、今までも、これからも、ずっと。
目的地、姉さんの生まれた場所はすぐそこだ。
「……着いたわ、ここよ」
「あの耳鳴りみたいな音は今、聞こえる?」
「今も聞こえるわ、相変わらず何を言っているのかは聞き取れないけど」
あたし達はここに来るまで繋いでいた手を離し、姉さんの指差す先の建物に視線を向ける。
その建物は最初に出会った時に姉さんが説明してくれた通り、人の住んでいない古びた空き家だった。
続いて左右を見渡すと細い裏道を挟んで両側に数軒ずつの住居、あるいは倉庫のような建屋が立ち並んでいるのが見える。
周囲に人の気配はなく、寂れた印象が強い。
姉さんは玄関の木製の引き戸に手をかけた。
やはりというべきか施錠はされていなかった。
古くなってして開きづらくなっている戸をなんとか中に入れるだけの幅だけ開くと、あたし達は姉さんを先頭に家の中に入った。
玄関の三和土から廊下に足を下ろすと床からギシっと軋む音が響く。
「あのときより老朽化が酷いわね。足元に気を付けて」
「うん」
玄関から最も近い和室に足を踏み入れる。
畳は一部が腐食しており藁の嫌な臭いがした。
箪笥や机はおろか、座布団の一枚もないがらんとした部屋だ。
一通り部屋を調べたところで、あたしは姉さんに問いかけた。
「じゃあ昨日の話の続きだけど、あたし姉さんだけに聴こえる音があるって聞いた時に、
あたしと姉さんには何か違いがあるからじゃないかなと思ったの」
「違い?」
「うん。もちろんあたし達は違うところだらけだけど、付喪神として、なにか決定的に違う部分があって、
それが姉さんの耳だけに入る音、につながってるんじゃないかな、って」
「なるほどね、それが自分の生前の奏者を知っているかどうか、ということだと」
「うん、あたしが思いつく限り大きな違いはそこしかないと思ってる」
あたし達は初めて会った日にお互いの生まれた時の場所、状況については情報交換も兼ねてすぐに明かしている。
あたしは自分が生まれ変わった時の状況を改めて姉さんに語りながら振り返る。
あたしが生まれた場所は人里の中央通りを少し外れた居住地のとある老夫婦の家で、目が覚めた時はそこの和室の机の上に仰向けで横たわってた。
びっくりしたあたしは次に自分の身体とスカートの弦、指の琴爪を見て自分が付喪神に生まれ変わったことを知った。
そうしてあまりのことに動揺していたところに間もなく部屋の外から老爺のものらしき声が聞こえてくる。
「おい、大きな音がしたけどどうかしたか」
あたしがその声に心臓の動悸を激しくしていると今度は先ほどと違う方向から老婆らしき声が響く。
「私はここにおりますよ」
声とともに足音が自分のいる部屋に近づいてくる。
あたしは考える間もなく開いていた窓から外に飛び降り、無我夢中で庭から外に出ようと辺りを見回した。
「あなた、私の琴がないわ!」
間一髪で姿を見られることなく屋外に出ることが出来たのも束の間、老婆の慌てた声が響く。
その声を聞いてあたしは確信した。
あたしはこの家で使われてきた楽器だったんだ。
どうする、名乗り出るか急いでこの場を逃げるべきか。
一瞬だけ悩んだけどあたしは急いで庭の茂みに身を隠し、玄関の様子を伺う。
そして誰もいないことを確認すると、全速力で玄関から家の敷地の外へと走って逃げ出した。
いくら自分が人の姿をしていてもついさっきまでただの楽器だった物が突然妖怪になれば、
老夫婦は腰を抜かすどころか自分を受け入れず、きっと攻撃されるのではないかと本能的に感じたからだ。
それから輝針城異変が解決した数日後、八橋は一度だけ遠目にその老夫婦の家を覗いたが二人は特に変わった様子もなく生活していた。
そのことに安堵と寂しさの入り混じった思いを抱きながらもあえて改めて名乗り出ることはせず、それ以降は一度も足を運んでいない。
後に仲間の付喪神から聞いた話だけど、あたしの生まれた家の老婆は何度か人里の寺子屋で子供達に和楽器の演奏を披露したことがあったらしい。
今更顔は出せないけど、きっと大切にされてきたのだろうと思うと、悪い気はしなかった。
勿論姉さんにこの話はしていないけど。
「あたしの過去の弾き手はあのお婆ちゃんで間違いないと思う」
「なるほど、ね」
弁々は時折相槌を打ちながら八橋の話を聞いていた。
「その、これで違ったら姉さんにただ余計に嫌な思いをさせることになるから申し訳ないんだけど、
多分あたし達の大きな違いはこれぐらいしかないと思う」
「そんなこと気にしないで。確かに貴女の言うことには一理あるし、私も曖昧なままにしているよりここではっきりさせるべきだと思うわ」
弁々がそう言って家の中を入口に近い部屋から順番に物色し始めると、八橋もそれに倣って住人の痕跡を探した。
しかしどの部屋も物がほとんど置かれていないせいもあって、過去に誰が暮らしていたのかを伺い知ることは出来なかった。
八橋は一度作業を止めて呟く。
「うーん、何も出てこないね……」
「家具でも書棚でも、何かないかと思ったけど本の一冊すら出てこないなんてね……」
弁々にとってこの家をこれ以上調べても自分の出生の秘密が分かるかどうかは正直半信半疑だった。
しかし妹が一生懸命になって手伝ってくれている以上それを顔に出すわけにはいかない。
あるいは里の権力者なら人里の各区画の居住民を記した書物を持っているかもしれないが
私達のような妖怪に手を貸してくれるとは思えない。
やはり八方塞がりか、そう諦めかけながら最後の一部屋に足を踏み入れる。
その時だった。
耳元に聞こえ続けていたあの音が急に激しくなった。
私は思わずその場に屈んで膝をついた。
八橋が心配して声をかけてくる。
「姉さん、大丈夫!?」
大丈夫、と言おうとしたところで聞こえる音に明確な変化があった。
これまでは若い少女のような声、という以外に何も聞き取れなかったが、少しずつ言葉が鮮明に聞こえてくる。
まるで自分に対して何かを訴えかけるような必死さを感じた。
(来て……。 来て……)
これまで私を悩ませ続けているその声に、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
誰のものかも分からないのに、どこか落ち着きを感じさせる声だった。
「姉さん大丈夫、横になる?」
「大丈夫よ、ありがとう。少し静かにしてて欲しいの」
八橋は屈んでなおも心配そうに私の背を撫でてくれるが、私の言葉に察するものがあったのか手を止めてその場を一歩下がった。
私は部屋の中を一歩ずつゆっくり奥に進む。
部屋は入口から見て右の壁面に押入れ、入口と反対の壁面に木製の格子で組まれた窓があるだけの簡素な六畳間の和室で
特別目を引くような物は見当たらない。
畳の上には他の部屋と同様に何も置かれておらず、押入れの中も同様だった。
(お姉ちゃん……。 お姉ちゃん……)
今確かに、この声は私をそう呼んだ。
押入れの戸を閉めて窓の方に近づくと、その声はさっきより明瞭に私の耳元に響く。
(あたしの、あたしの……練習、しなくちゃ……)
聞き間違いではない、この声の主はそう言った。
私は深呼吸とともに部屋の入口に歩を進め八橋に言った。
「……ありがとう、貴女の予想した通りかもしれないわ、八橋」
「どういうこと?」
先程から耳に入ってきた音はかなり鮮明かつ大きな声として私の耳に響いたけど、やはり八橋には聞こえていない。
私はこの部屋で聞こえた音について説明した。
すると八橋は驚愕と歓喜の入り混じった表情を浮かべながら言った。
「じゃあ最近姉さんの耳に響いてた声は、姉さんが道具だった頃の琵琶を演奏していた子のものだった、ってこと?」
私は頷く。
まだ解けていない謎はあるけど、おそらく私が道具だった頃の所有者はこの声の主だ。
ならばと、私は宙に向かって語りかける。
「こんにちは。貴女が、私が道具だった頃の弾き手かしら?」
返事は返ってこない。
代わりに先程と同じ言葉が聞こえてくる。
(お姉ちゃん……。 お姉ちゃん……)
「私の名前は九十九弁々、貴女のお名前は?」
(あたしの、あたしの……練習、しなくちゃ……)
それから何度か問いかけてみたけど、結果は同じだった。
彼女には私の言葉が届いていない。
八橋の推測通りなら、自分が道具だった頃の使い手、奏者が誰か分かればこの耳鳴りも収まるはずだけど、依然収まる気配はない。
でもその推測が全くの的外れ、ということはなさそうだったし今は自分をかつて弾いていたであろう少女のことが気になってしょうがない。
しかし、話をしようにも私の出した声はあの子には届かない。
それなら、他に私に出来ることは一つしかない。
でも、今の私に満足な演奏が出来るだろうか。
今朝の苦い失敗の記憶が嫌でも目の前にちらついてくる。
吹っ切ったつもりでも、弦に手をかけるのが怖い。
失敗に気付いた時、観客のざわっとしたあの一瞬はまさに冷汗三斗だった。
演奏会でミスをしたことは一度もなかっただけに、トラウマになりそうだ。
「姉さん」
陰鬱とした気持ちが胸中を支配しかけていたところで八橋の声が聞こえ我に返る。
気付けば耳元で鳴り続けていたあの子の声もいつのまにか止んでいる。
「姉さんなら大丈夫だよ。いつだって音楽に真剣に取り組んで来た姉さんなら」
どうやら私の気持ちを察しているようだ。
今日は本当に情けないところばかりを見せているけど、不思議と午前のような無力感は感じなかった。
そうだ、私にはこんなにも自分を想ってくれる家族がいるんだ。
「……そうね、ありがとう」
私にあるのはこの、最愛の妹とともに磨き上げてきた音楽だけ。
言葉も音も通じなくても、ほんの少しでも私の気持ちを届かせてみせる。
眦を決して畳に腰を下ろし、演奏の構えを取る。
八橋は私達を二人きりにという気遣いなのか部屋を一歩出たところで腰を下ろした。
妹の気持ちに心の中で感謝しつつ、私はゆっくりとあの子に向かって語りかける。
「……私は自分のことを考えるばかりで、貴女の必死の呼びかけに気付こうともしていなかったわ。
今まで、貴女の声から逃げ続けて、本当にごめんなさい」
琵琶の弦に指を乗せる。
「そして、遅くなってしまったけど、私を使ってくれて、ありがとう。
もう貴女の知る道具だった頃の私じゃなくなってしまったけど、私が付喪神として今の心と体を得られたのは、
私を大切にしてくれたであろう貴女のおかげだと思う」
先日の輝針城異変で私達以外にも多くの仲間が付喪神として生まれ変わった。
ただ、魔力の影響を受けた道具が全て付喪神になるわけではない。
付喪神になる物とならない物の違いは明確には分かっていないけど、それには道具に宿る神の人間への恨み、復讐心であったり、
元の持ち主の強い思い入れであったり、感情が密接に絡んでいることだけははっきりしている。
きっとあの子は、どんな形であれ私、いや元の道具の琵琶を強く想ってくれていたのだ。
「今日はささやかながらそのお礼としまして、貴女だけに向けた私、
琵琶の付喪神こと九十九弁々のソロライブを贈らせて頂きます。
もし最後までご清聴頂けるなら、これほどの幸せはありません」
口上を終え、演奏を始める。
耳鳴りがなくなったせいだけじゃない、気持ちが落ち着いたからだろうか。
指の動きもここ最近で一番スムーズだ。
午前のライブで感じた妙な浮遊感、異物感もない。
演奏をするのがこれほど楽しく、幸せに感じられたのはいつぶりだろうか。
最初の曲を弾き終え、次の曲に入る前に宙を一目見上げる。
勿論私の目にはなにも映らないが、不思議とあの子がすぐそこで聴いてくれているように、見守ってくれているように感じられた。
ただの願望に過ぎないとしても、同じ部屋で同じ時間を共有しているかのようなこの瞬間がただただ、心地よかった。
そうして、最後の曲を弾き終えた。
私は締めくくりの挨拶をしようと琵琶の弦から指を離した。
その時だった。
「琵琶の、お姉ちゃん……」
目の前に白装束を纏った黒髪の少女が小さな声で私に呼びかけながら、うっすらと姿を現したのだ。
その背丈は私の肩にも届かないほど小さく、歳は十にも満たないように見える。
私は無我夢中で声をかけようとしたが、声が、音が出ない。
訳が分からず困惑する私に構わず、装束の彼女は足音も立てずに近寄ってくる。
そこでようやく気付いた、彼女には足がない。
古本屋に住み着いた物知りの付喪神から聞いたことがある、霊の中でも生前の姿を保ったままのものは亡霊と呼ぶのだと。
またこうも言っていた、亡霊は幽霊と違って生前の恨みが基となって現世を彷徨っている場合もある、と。
私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
驚きと焦りで身体が動かない私を他所に、手を伸ばせば触れられそうなほどの距離まで近づいてきた彼女は、
何事か聞き取れないほどの小さな声でぼそぼそと呟くとゆっくりと私にしなだれかかってきた。
重みは感じなかったけど、微かに感じる質感が彼女の存在を私に確信させた。
次の瞬間、彼女を眩い閃光が包み込んだ。
眩しくて直視出来ないほどの激しさだ。
急いで八橋のいる部屋の入口に向かって声を出そうとしたけどやはり音は出ない。
瞬く間に光は広がり気付けば部屋全体が白く塗りつぶされた。
あの少女もいつの間にかいなくなっている。
光に多少は目が慣れてきたところで部屋の様子を探るために歩き出そうとしたところ、不意に光が消え、視界が開けた。
室内の様相は一見元に戻っていたように見えたが大きく違うものがある。
私の目の前には白い布団が敷かれ、先程のあの少女が仰向けで横になっている。
しかもその顔色は青白く、頬も先程見たそれより痩せこけており明らかに病魔に侵されていた。
傍には彼女の母親だろうか、不惑と思しき年頃の割烹着の女性が悲痛な表情を浮かべて彼女を見守っている。
私は自分の琵琶をその場に置き、横たわった彼女の元に駆け寄って声をかけるも、差し出した手は彼女の身体をすり抜け触れることが出来ない。
声も届いていないようだ。
私の一連の動きに対する少女と女性の無反応具合から、彼女達には私が見えていないらしい。
これは少女の過去の記憶で私はそれを見せられているのだろうか。
その時、少女の苦し気な声がその小さな口元から紡ぎ出された。
「母様、私の琵琶を、出して下さい」
「……分かったわ、少し待っててね」
母親が腰を上げ、部屋の外に出ると、すぐに両手に琵琶を抱えて戻ってきた。
樺色、黄金色を基調としたそれは鈍く光っており、よく手入れされているのが分かった、
そしてそれを静かに少女の枕元に置くとついに耐えられなくなったのか嗚咽を漏らしながら目元を抑え泣き始めた。
「ごめんね、ごめんね……。あんたを守ってやれない母さんで、本当にごめんね……」
「母様、泣かないで下さい。ありがとう」
よく見れば彼女の割烹着は所々継ぎ接ぎだらけで腕には小さな切り傷、擦り傷が無数にあった。
おそらく彼女一人で働きながら病気の一人娘を養い続けたであろうことが伺えた。
弁々はこの後のことを想像するとこれ以上先を見たくない気持ちになった。
でも、決して目を離してはいけないと自分に言い聞かせて二人の様子を見守った。
少女は震える手を布団の外に向かって伸ばすと枕元に置かれた琵琶に手を触れ、優しく愛おしそうに撫で始めた。
あれが、あの琵琶が私の元の道具だったのか。
琵琶を撫でる手を止めると少女が再び語り始めた。
「我儘を言ってごめんなさい、母様。でも、父様と母様が私の誕生日に買ってくれたあの琵琶に、最後にもう一度、触れていたかったのです」
部屋の内装を見る限り、彼女の家が裕福とは思えない。
おそらく父親を亡くして、生活が苦しくなったのだと思われた。
「あんたはこんなにもいい子なのに、なにもしてあげられなくて、うっ、うっ……」
母親はなおも泣きじゃくっている。
大切な娘をこの若さで亡くすことなど、親ならとても耐えられないであろうことは想像に難くない。
「母様、もう悲しまないで下さい。母様が体の弱い私を養うためにいつも一生懸命働いてくれたことは分かっています。
私はそんな母様も、優しかった父様も、大好きです。この家に生まれてきて、私は幸せです」
間もなく自分は病魔に侵され命を落とす。
この年頃の子供が耐えられる運命ではないだろうに、少女は痛々しいほど健気に、
その痩せこけた頬に確かな微笑みを浮かべながら、自分を愛してくれた母親に感謝の言葉を述べている。
「千子……」
「心残りは、一つだけ。一回でいいから、買ってもらったこの琵琶で、母様や父様や、たくさんのお客さんの前で、
みんなに演奏を聴かせてあげたかった……」
それまで一度たりとも涙を見せなかった少女の目元から、一筋の涙が零れた。
少女の母親が涙をハンカチで優しく拭うと少女は嬉しそうに口元を緩ませたが、瞼がゆっくりと閉じていった。
それに気づいた母親は先程までの弱々しい声からは想像もつかないほどの大きな声で娘に呼びかけた。
「千子、千子!」
「……」
呼びかける声に少女が返事を返すことはなかった。
それでも母親は呼びかけることを止めず、少女の華奢な体を抱き起こし、呼びかけ続けた。
「千子!千子!行かないでおくれ!千子!」
徐々に母親の叫ぶ声が遠くなる。
同時に、再び部屋の中を先程と同じ白い光が包み込む。
私は弾かれたようにあの少女、千子の元に走り寄るとその手を彼女の眠る布団の上に添えた。
一目顔を見ようとしたが、光に阻まれてそれは叶わなかった。
私が後ろを振り返った次の瞬間、少女も母親も、なにもかもが白い輝きの中に消え去り、
一面が純白で境界のない景色が目の前に広がっていた。
私がその景色に圧倒されていると、再びあの少女、千子の声が聴こえてきた。
今度は耳の中に響くような声ではなく、背後から呼びかけられる声だった。
「お姉ちゃん、こっち、こっちだよ……」
私が声のする方向を振り向くと光の中から人間の手が伸び、私の手を取り引っ張ろうとした。
その袖はあの子の纏っていた白装束とよく似ている、間違いない。
その時、頭の中に付喪神仲間の何気ない言葉が追想される。
「最近本で読んだんだけど、亡霊ってのは当人に悪気がなくても生者を自分と同じ亡霊にしちゃうことがあるんだってね。
万が一会ったら貴女も気をつけなよ」
最愛の妹、八橋の太陽のようなはにかんだ笑顔とあの子、千子の弱々しいながらも凛々しい笑顔が映像となって頭の中を駆け巡る。
大丈夫、私はあの子を、千子を信じる。
だからあと少しだけ、待ってて頂戴、八橋。
私はその手を握って、引かれるままに声の主に着いて行った。
どのくらいの時間、歩いただろうか。
ほんの数分程度だったかもしれないし、三十分以上は歩き続けたかもしれない。
少しずつ光に目が慣れてきたからか、途中から声の主の輪郭がうっすらと見えてきた。
後姿ながら小さな背丈と艶やかな黒髪、そしてその身に纏った白装束。
間違いなくあの少女、千子だ。
足元に目線を向けると、光に視界を阻まれてよく見えなかったけどやはり足はない。
最初にあの部屋で見た姿と同じ姿だ。
話したいことはたくさんあったけど、なんとなく彼女の目指す目的地に着いてからにしないといけない気がして、道中私達はずっと無言だった。
もしも彼女の案内する先が冥界であったならと思うとぞっとしないでもなかったけど、
不思議と恐怖心はなく、二人無言で静寂の中を歩き続けるのは一種の心地よささえ感じた。
彼女が不意に足を止める。
そしてふっと繋いでいた手を離した。
私が慌てて手をつなぎ直そうとした時、周りの空間を覆い尽くしていた真っ白な光は消え、徐々に視界が開けてくる。
周囲を見やると、私達の今いる場所がよく見慣れた物だとすぐに気づいた。
縦長の長方形の部屋、木製の壁と床、一番奥に設けられた一段高いステージ。
部屋の前後に一ヵ所ずつある引き戸。
ここは私達姉妹がいつも演奏を披露しているあの人里の集会場だ。
そしてあの少女、千子はステージの上段に背を向けた状態で立っていた。
あの子の、叶わなかった夢。
私が後ろ姿に声をかけようとしたところで、彼女が振り向き、嬉しそうな微笑みを浮かべながら語りかけてきた。
「……お姉ちゃん」
「……千子、ちゃん」
「もう、千子って呼んでよ。私子供じゃないんだから」
頬をぷうと膨らませながらぼやく彼女は、初めて年相応の姿を見せたように思えた。
「ごめんごめん。それで……ええと……」
いざ向き合うと何から話をしたらいいのか考えがまとまらない私に構わず、千子は照れくさそうに言った。
「お姉ちゃん、ここまで来てくれてありがとう。ごめんね、私の我儘のために、色々迷惑かけちゃったんだよね?」
「ううん、そんなこと……。それよりも、さっき私が見た光景は、貴女の……」
「うん、あたし、病気で死んじゃったの。お母さんにはあんなこと言ったけど、本当は辛くて、悲しくて、
どうしてあたしばっかりがこんな目に遭わされないといけないの、って、ずっと思ってた。
もうすぐ寺子屋に通い始めて、買ってもらった琵琶をみんなに聴かせてあげるはずだったのに……」
千子は一息に言うと、目元に大粒の涙を潤ませていた。
やはりさっきの空間で見たこの子の気丈な態度は、母親を悲しませまいとする優しさがそうさせていたのだ。
本当は辛くて、悲しくて、怖くてしょうがなかったのだ。
私は琵琶を足元に置くと彼女の身体を両手でしっかりと抱きしめ、背中を撫でた。
「えらかったね、辛かったね……。もう、泣いていいんだよ……。ここにはお姉ちゃんしかいないから、ね……」
千子は抵抗せずに私に抱かれていたけど、ついに耐えられなくなったのか顔を震わせ、私の胸に顔を埋めるようにして泣き始めた。
母親のそれ以上に大きな、叫ぶような鳴き声だった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃあああん……」
しばらくすると、千子は自分から体を離し、赤く腫らした目元を袖で拭うと涙で濡れた私のワンピースを見て、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、お姉ちゃん……」
「いいのよ、そんなこと。それより、落ち着いた?」
「うん……」
「偉いわ。貴女は本当に強い子ね」
私は千子の頭を軽く撫でる。
艶のある綺麗な黒髪が指の間を滑らかに通り抜けた。
彼女は頬をほんのり紅く染めながらも嫌そうではなかった。
「……そんなことないよ、小さい頃からよく病気になってお父さんとお母さんをずっと困らせたもん」
どこか拗ねたような口ぶりでそう返す千子は先程の空間で見た彼女のイメージとはだいぶ違ったけど、これがこの子の本当の姿なのだと思った。
どんなに周囲を心配させまいと振舞っても、彼女が小さな子供であることに変わりはない。
本当はなりふり構わず親に甘えたかったに決まっている。
しかし、彼女の持つ優しさはそれを許さなかった。
そして、現世に未練が残ったままの彼女は生前大切にしていた琵琶に霊としてその意識を残すこととなったのだ。
私はそんな彼女に、何をしてあげられるだろうか。
「お姉ちゃん、あたしの琵琶から生まれた妖怪なんだよね?」
「……ええ、そうよ。貴女が大事にしてくれたから、私はこの姿になれたの」
小槌の魔力のことは今はどうでもいい。
私は再び彼女を、今度は片手を腰に添えて抱き寄せた。
千子は少しびっくりしながらも抵抗はせず、私に身を委ねてくれた。
「言わば貴女は、私の生みの親、と言ってもいいかもしれないわね」
「生みの親……お姉ちゃん、お名前はあるの?」
「ええ、九十九弁々。それが今の私の名前よ」
「つくも、べんべん……」
「弁々、でいいわよ」
今の彼女が正確に、どんな存在なのかは巫女でも霊媒師でもない私には分かりようがなかった。
それでも、今のまま彼女を現世に留まらせるわけにはいかない。
彼女が今ここにいて、現世の彼女の住居にもうずっと人が住んでいないことを考えると、
彼女の両親は父親だけでなく母親も既に亡くなっているはず。
彼岸で両親に会える保証はない。
しかしそれでも、千子は両親のいるであろう彼岸に旅立つべきだ。
私にはその後押しをする義務がある、彼女の道具として、彼女の想いから生まれた者として。
私はその場に腰を下ろし、先程足元に置いた琵琶を膝の上に置いた。
足は横に崩す形だ。
木製の床のひんやりとした感触が伝わってくる。
「千子、一緒に座りましょ」
千子は私の隣に腰を下ろそうとする。
私はそれを手で制し、自分の膝を指さした。
「こっち、私の膝の上よ」
千子は一瞬きょとんとしていたがすぐに頬を赤らめ、かぶりを振った。
「そんな、恥ずかしいよ……」
私は努めて真剣な表情を作りながら膝上に抱え込んだ琵琶を指差して続ける。
「貴女に、弾いて欲しいの。このステージで、私を大事にしてくれていた、優しいその手で……」
千子は部屋の奥のステージと私の膝元の琵琶に交互に目をやりながら言う。
「……無理だよ、あたし全然練習出来てないし、大体弾法譜もないじゃない」
「大丈夫、私がリードするから、貴女は私の動きに合わせて弾いて頂戴。貴女の手で、私を弾いて」
千子はしばし逡巡した後、恥ずかしそうに口をすぼめて呟いた。
「……信じるからね、絶対手離さないでよ」
「勿論よ。それにね、演奏家っていうのはステージに上がる時は成功することだけを考えて演奏に臨むものなのよ。大丈夫、貴女なら出来るわ」
「……うん」
千子は膝を崩して座っている私の上に、遠慮がちにそっと座り込んだ。
やはり霊体だからか重みは感じなかったけど、その存在は決して希薄ではなく確かに今ここにあることが肌で感じられた。
千子はおそるおそると言った手つきで赤く輝く弦に指を乗せる。
「あったかい……」
「ふふ、意外でしょ。私も詳しい原理は全然知らないけど、弦が温かいのは私の体温のせいかもしれないわね」
「この琵琶が、お姉ちゃんそのもの、なんだね」
「あら、やっぱり恥ずかしいかしら?」
「も、もうっ」
「ふふ、ごめんごめん」
少しは緊張も解れたのか、千子は私が手を重ねるのを催促するかのようにこちらを見つめてきた。
私は彼女の小さな手に、そっと重ね合わせるように手を添えた。
「……じゃあ、始めましょうか。二人だけの、ライブ」
「……うん!」
私は千子の指を自分の指で軽く押す形で合図をし、演奏を始める。
曲はいつも私達姉妹が演奏会で披露する曲、幻想浄瑠璃。
譜面は完璧に頭に入っているので千子の動きに意識を集中した。
千子は一生懸命に私の指の動きについてきている。
その動きの軽やかさを見て、少なくとも全くの初心者ではないことはすぐに分かった。
時間の許す限り、精一杯練習していたことが伺える。
そんな健気で心優しい彼女があまりにも早くこの世を去らなければならない、
そんな運命の残酷さにこの世界を恨まずにはいられなかったが、すぐに自戒した。
これは彼女を現世から解き放ち、彼岸に旅立たせるための演奏なのだ。
私がそんなことを思っているようではいけない。
曲が中盤にさしかかったあたりで、驚くべきことが起こった。
私のリードより先に、千子の指が動き始めたのだ。
千子の顔を横目でちらっと覗き込むと、悪戯っぽいそれにも見える笑みを浮かべていた。
そして次の瞬間、白い歯を見せて微笑んだ。
心底、楽しそうな表情だった。
それから最後まで、千子は私のリードがなくとも最後まで譜面を弾き切った。
フォローをするつもりだったのに、終わってみれば一つの楽器を二人で演奏した形だった。
演奏を終えて、弦から指を離す。
心なしか琵琶の赤い弦はいつも以上に輝いているように見えた。
私は千子を膝の上に乗せたまま話しかける。
「千子、貴女この曲……」
「……お姉ちゃんと、もう一人の楽器のお姉ちゃんがいつも演奏してたよね。あたしこの曲、大好き」
その言葉に私ははっとした。
ここ一ヵ月ほど、私が演奏をしている時に聞こえていた耳鳴りのような音。
それが彼女の声であったこと、それは彼女の姿を見た時点で気がついていた。
しかし、大事なことを見落としていた。
あの時、千子は私に語りかけてきていただけではない、観客の誰よりも間近で、私達の演奏を聴いていたのだ。
「……ずっと、私のすぐ傍で、聞いていてくれたのね、千子」
「……最初から、じゃないよ。真っ暗なお部屋で目が覚めたと思ったら、目は開けてるつもりなのに景色がずっと真っ暗で、
音もなにも聞こえないし、足も地面についてないし。それで、気づいたの。あたし、死んじゃったんだ、って……」
「千子……」
「でも、しばらくして、急に音が聞こえてきたの。始めはなにか楽器の鳴ってる音にしか聞こえなかったけど、
何回も聞いてるうちに、同じ人が、演奏してるんだって、気づいたの。それが、この曲だったの」
「……私も、最初は耳に響くのが誰の声か、全然分からなかった。でも、それからしばらくして、
貴女のお家の、貴女のお部屋に入ったところで、初めて貴女の言葉を、少しだけ聞き取れたわ」
「……お姉ちゃん、お家まで来てくれたの、嬉しかった」
「遅くなってごめんね。でも、何回か聴いただけの曲をいきなりここまで弾きこなせるなんて、貴女は間違いなくセンスがあるわ」
「えへへ。でも……」
分かっている。
残酷だけど、言わないといけない。
「千子、よく聞いて」
「……うん」
この子は賢い。
私のこの先の言葉にもおおよその見当がついていることだろう。
むしろ私の方が耐えられるかどうか分からなかった。
それでも、言わないといけないんだ。
「千子、貴女はずっとここにいてはいけないの。 お母さん達が、貴女を待ってるわ」
「お姉ちゃん、あたしとずっと一緒にいてくれないの……?」
目に涙を浮かべた千子の言葉に私の目頭は熱に震えている。
言わないと、言わないといけない。
私が必死に感情を押し殺し言葉を絞り出そうとしたその時、千子は装束の袖で涙を拭って言った。
「……えへへ、冗談だよ。千子はお姉ちゃんの生みの親、だもんね。親は子供よりしっかりしてなきゃ、だもんね!」
やっぱり、私はいつもどこかがしまらないなと心の中で自嘲した。
これでは千子の方がよっぽどしっかりしているじゃないか。
でも、これなら千子は心配なさそうだった。
「千子、どこに行ってしまっても、貴女のことはずっと忘れないわ。ずっと、ずっと……」
まだ涙の止まっていない彼女を、私は両手で抱き寄せる。
涙を全て受け止めるつもりで、強く、強く。
千子は私の胸から顔を上げる。
「お姉ちゃんとの演奏、とっても楽しかったよ。元の世界に帰っても、あたしに聞こえるぐらい、思いっきり、いっぱい、いっぱい、演奏してね」
「勿論よ、私も、本当に楽しかったわ。ありがとう、千子」
お互いの想いを伝え終えたところで、周囲を再び白い光が包み込んだ。
私は心を鬼にして千子と別れたくない想いを切り捨てると、抱きしめていた彼女の身体から手を離す。
千子の身体が白い光と一体になり、徐々にその体が希薄になっていくのが分かる。
光が完全に視界を塗りつぶす直前、彼女の優しい微笑みが、見えた気がした。
「ふー、今日もいいライブだったね姉さん!」
あれから二日が過ぎた。
あれ以来私に千子の声が聞こえることはなくなった。
それでも、演奏をしているといつもあの子がすぐ傍で私を見守ってくれているような気がした。
「ええ、大盛況でよかったわ。それよりもありがとう、今度のことは貴女が相談に乗ってくれたおかげで解決したようなものだわ」
「いいんだよ、そんなこと。それより今度はちゃんと最初からあたしを頼ってよ。あたしだって少しくらいは姉さんの力になれるんだから」
「……そうね、ありがとう。約束するわ」
「それからその……千子ちゃんのことはもう大丈夫なの?」
「……寂しくないと言ったら嘘になるわ。一度貴女と、三人で演奏がしたかったわね」
千子と別れて現世に戻った後、八橋には千子とのことを多少かいつまんで説明した。
話を聞いた八橋は最初はびっくりしていたけど、彼女が無事に旅立ったこと、
今後演奏中に不調が起こることはないであろうことを伝えるとようやく安堵の表情を浮かべた。
「それにしても、すごいよね。途中からとはいえ譜面も見ずにあたし達の幻想浄瑠璃を弾けたんでしょ?」
「そうね、私もびっくりしたわ。成長したら一流の演奏家になってたかもしれないわね」
今頃千子は無事に彼岸に辿り着けただろうか。
良く晴れた紺碧の青空を見上げながら弁々は彼女と一緒に演奏した時のことを思い出していた。
「よーし、千子ちゃんのところに届くぐらい、次のライブも頑張らなきゃね!」
八橋は勢いよく駆け出した。
私も後を追いかける。
千子、ありがとう。
私の生みの親にして、私のもう一人の妹。
私は八橋と一緒に、より素敵な音をみんなに届けられるように、これからもっと頑張ります。
貴女が無事、お父さんお母さんに逢えますように。
もし、次の世界で会うことがあれば、今度は三人で楽器を演奏しましょう。
いい話でした!