―― 時は来た!
薫風そよぐ緑の丘で独り、忌々しいまでに澄み渡る青空を見上げ、少女は吠え猛らんばかりの気勢を張った。
地にひとつ、滲みにも似た陰を落とすのは、空に浮かぶ立派な天守。ただ其処に在るだけでも珍妙な城の頂きは地を向き、石垣は根差す場所もなく腹を陽に焼き。
かつては誰しもがその佇まいの異様さを一目すれば驚き戸惑ったものだが、この暢気な幻想郷(せかい)では近寄り難さから恐い物見たさに、恐い物見たさから物見遊山に変わるまでそう時間は掛からぬ。果てに昨今ときたら、仰いでは季節外れの凧揚げよろしく中空を漂う様を飽いたよに目の端に写すのみ。
そう、今やこの有様なのだ。
自らの興した逆さ城の異変より早や幾年。惜しくも夢破れ、挙句お尋ね者のレッテルまで貼られ、西へ東へ逃げに逃げ回ったのも過日の如く。
今となっては野面で往来を歩いても咎められるどころか、妖怪連中と鉢合わせても気の毒そうに視線を逸らされる程度。ついこないだなぞは茶屋の老婆にまで大変だったねぇと労われ牡丹餅を御馳走になる始末。
嗚呼、何たる屈辱! 天に立つ偉ぶった輩を地へと貶めんとしていた大悪党である己が、市井の同情をかう程に落ちぶれていようとは。この有様を彼の逆さ城に重ねずして何とする。
だが悲嘆すれど絶望になど暮れようものか、地に落ちてからこそが己の本領発揮というものだ。牡丹餅は旨かったが野望は未だ潰えぬ、ならばこそ立ち上がるは今を置いて後に無し。そうであろう、我が城よ。
―― 束の間の平和に惚けた莫迦(ばか)者共め、今こそ逆しまの恐怖を再び刻み込んでくれよう!
反逆のあまのじゃく鬼人正邪は不敵な笑みを浮かべ、すうと宙に身を踊らせる。そして誰に聞かせるでも無い哄笑を上げながら逆さ城こと輝針城へと向け、真っ逆さまに天を落ちていった。
§
「……で、コイツぁ一体どういう事なんスかねぇ、姫?」
果たして、世に蔓延せし平和惚けは嘗ての陣中にまで及んでいた。
天守の窓より堂々入城した正邪がまず目にしたのは、かつて共に異変を興した小人族の末裔、少名針妙丸と見知らぬ輩が二名。
新たに配下を従えたというのであれば、どれほどか心強かったろう。しかし目の前で繰り広げられていたのは、矢鱈偉そうに上座で胡座をかく闖入者に、へえこらと酌をしたり肩を揉んだりと媚びを売る針妙丸となんか辛気臭くてひょろ長い奴。
前者と後者の素性はさておき、ひとまずの問題はその間であるところの豆炭である。
目を合わせるなり一瞬気不味そうな表情を浮かべたのは本人にも幾許かの自覚があったのだろう。ひとつ咳払い、その小さな身をすすと引くと、取り繕うように声色を変えよった。
「こ、こほん! これ正邪や、お客様の前であまりはしたない言葉を使うものではないのわよ……あれ? なくてよ? なくなかなき……」
「何でも良ござんすよ……ったく、久し振りに面ァ合わせてみりゃ随分な体たらくだな。おまけに客前だからか知らねぇけど他所行き決め込みやがって、気ッ色悪ぃ」
「気色悪いって! ひどい!」
嘗ての戦友との邂逅などという湿っぽい空気は真っ平御免ではあったが、折角気合を入れて帰ったというのにこの有様では、昨日の口喧嘩の続きにも似た空気にもなろうものだ。
「酷ぇってのはさっきまでの間抜け面を鏡で見てから言うんだな。それともなンだ、この城じゃ逆さ城だけに城のモンが上がり込んだ客の肩揉んだり媚びへつらうのが仕来りだって決め事でもしたってのか?」
「そ、それは、その、私にだって色々と事情があって……」
「ほーん、そいつぁ御大層なこった。私が留守にしてる間どんな事情があったかじっくり腰を据えて聴いてやろうじゃあねぇか」
正邪は僅かばかりの荷を投げ捨て言葉通りどっかと腰を下ろすや、益々の意地悪を面の皮に貼り付けて口を開きかけた針妙丸の先を打つ。
「ああ、ちなみに言っとくけどな、こちとら手前のやんちゃ三昧は全部耳に入ってんだからな?」
「っぐ、ぐぬぬ~……!」
根城へ近付かぬとて狭い世界、噂話やそこいらに捨てられた新聞で世情を掴むことなど容易いものだ。
とりわけこの一寸法師様にあっては、やれ人魚と河下りやら、やれ緑の小人を率いておかると何某集めで大暴れやら悪目立ちもいいところで、そばだてずとも耳に届いて来ようという有様だった。
「こっちが異変の始末ってなもんで這々の体で逃げ回ってる間に、あちこちで小槌の大盤振る舞いたぁ景気のいいこっちゃねえか、針の字よぉ? その異変の時にゃ出し惜しみしてたくせに、随分とまあ理想までちみっちゃくなっちまったもんだなぁ」
「それっ、それは、その、小槌を振るうだけの理由が……」
「ほぉん、おかると玉だか河下りだかは下剋上より成就すべき悲願だったってか。結構結構、それなら私は何も言いますまいよ。巻き込んだ付喪神や木っ端妖怪共だって、そりゃもう手を叩いて大歓迎だ。全ては姫の意のままにってな」
「うぐ……うぅ~っ……!」
口八丁に二枚舌の天邪鬼相手に舌戦で敵う理由もなし。正邪とて別段本気で怒るつもりはないが、ぺらぺらと調子に乗せて厭味の弾をばらまけば、針妙丸も的を射られてか撃ち返せず苦虫を噛み潰すのみ。
いい気味だ。どうせ真っ当な理由なんて無ぇんだろうし、このまま客前で醜態晒しちまえ、と多少の溜飲が下がろうかというその時、盤面に図りもしない返しの一手が叩き付けられた。
「も、元はと言えば正邪が天邪鬼こじらせて帰ってこないのがいけないんじゃない!」
「は……はァ?」
「私、正邪のことずーっと待ってたんだからね? なのに全然音沙汰ないし、どれだけ寂しかったか分かってるの!?」
「な、ばっ、こんなとこで何言ってんだお前!」
詰めろ詰めろで左団扇の軍配で煽っていたところに突如槍を突き付けられ、あっさり窮してしまうのは小物の証か。あまつさえサシならまだしも岡目に晒された一番で舞台裏を露わにされてしまい、敢え無く正邪も泡を食う。
「そもそもこの状況を他人のせいにするか普通!? 大体お前のやんちゃと私が帰らない事に何の関係が……」
「普通がなんだ、天邪鬼のくせに! 関係なんて関係あるか、お前が全部悪いっ! 正邪がぜーんぶわるいんだからっ!」
話題のすり替えだとしても強引極まるところだが、まくし立てる小人の目尻にじわりと砂中の金が如く滲んだ輝きには悪意どころか頓珍漢に気付いている様子など微塵もない。
「そうよ、そもそもお尋ね者のお触れが出た時に素直にごめんなさいすれば良かったのに! 私だってわざわざ追いかけて言ったよね? なのになによ、何か上手いこと逃げ果せちゃってさ! そのまま生きてるのか死んでるのかわかんないし、わ、私がどれだけ正邪の、正邪のこと……っ!」
こうなるとこの小人はタチが悪い。普段阿呆ほど他人の話を鵜呑みにするくせに、一旦臍を曲げると御覧の通り頑として聞かなくなってしまう。
「あ~、分かった分かった。それは後で話してやるから、とりあえずこの状況を説明して……」
さしもの正邪も一旦御為ごかそうと舌鋒を収めようとしたが時既に遅し、火の回った鼠花火は尻の火薬を盛大に破裂させた。
「うっさい! 正邪の莫迦阿呆間抜け芥虫鋏虫! こんこんちきのおたんちんのすっとこどっこい! 巫女に蹴られて地獄へ堕ちろ、二度堕ちろ!」
反駁の言葉に詰まったとて聴くに堪えない罵詈雑言の弾幕を一気にぶち撒け、針妙丸は部屋の隅に置いた椀に飛び込むやしっかと蓋をして閉じ籠もってしまった。
「ったく何だってんだ帰って早々。喚きてぇのはこっちの方だってのによ……」
こうなっては天の岩戸も斯くや。どれだけ宥めすかせど踊り踊れど、椀の蓋をこじ開けるのが至難の業であることは短からぬ付き合いで分かっている。
まあ、暫くして腹でも空かせて出てくるのを待つしかなかろう。諦め半分の深い溜息を吐き、足を放り出したその時だった。
「やれやれ、ついに幻想郷の賢者気取り共相手に謀反でも起こすものかと楽しみに聞いていれば、狗も喰わぬような痴話喧嘩だったとはとんだ拍子抜けだな」
「あァ?」
皮肉にしても当てつけがましい耳障りな失笑に、正邪の苛立ちは尚煮えながら矛先を変えた。
「そもそも誰なんだ手前は。さっきから図々しく胡座かきやがって……城の主に名乗りもしねぇで堂々と出歯亀決め込むたぁ、さては余程の田舎モンだな?」
「乞われたからには答うてあげるわ。私は非想非に在る天人、比名那居天子。お前のことは針妙丸から毎夜の如く聞いているよ、卑小な天邪鬼」
寄らば聞け、この話の噛み合わなさを。流石針妙丸とつるむだけの肝の太さである。結構結構、先程から煮えに煮えて遣り場のないこの状況、張り合おうってなら真っ向張り返すだけだ。
「天人だか天丼だか知らんが、他所様の城に居座ってそこまで不遜に振る舞えるとはお郷里が知れたもんだ」
「郷里はとうに捨ててきたわ。しかし食客の扱いも知れない三下が礼節を説こうとは見下げ果てたもの。捨てた郷里でも末席すら己の身の丈を弁えたものよ」
あからさまな挑発をやはり真正面から受け、天子は上品な所作で酒器に口付けつ尚不敵な笑みを上乗せする。その胆が無闇な腕っぷしや向こう見ずな傲岸に任せたものでないことぐらいは正邪にも理解出来た。
成程成程、これが天上におわす輩の豪胆か。下界の城に踏み込んで上座で胡座をかくなぞ、彼奴(きゃつ)にとっては道端の切り株に腰を下ろす程度の事なのだろう。
ならばこそ、だからこそ、気に食わぬ。天邪鬼の本分が疼きに疼く。
「くくっ……そうかいそうかい、捨てたなんて触りの良いこと言ってるが、さしずめ郷里を追われた挙句に手前の頭が下がらねえ場所探してお山の大将気取りってなもんだろうよ!」
「……追手に怯えて城に近付きも出来なかった腰抜けが吠えたものね」
謂れのない当て推量だが期せずして的を掠めてしまった挑発に天子の声音は低く、瞳の奥が僅かに陰を落とす。痛い所を突かれた正邪もまた、噛んだ奥歯を軋ませながら牙を剥き出した。
「豆炭の入れ知恵か知らんが勝手に言ってろ。生憎だが城主様のお帰りでお前はここで御払い箱ってことさ。分かったらとっとと捨てられた郷里に頭下げて帰んだな」
「どの口が宣ったものやら、針妙丸が居らねば城にも帰れぬ暗君が。おめおめと顔を出して城主気取りとは聞いて呆れる」
暫し、ちりちりと空気の焦げるよな睨み合いから、破落戸(ごろつき)の天邪鬼が威嚇の一歩を踏み鳴らすのと、酒器を捨てた不良天人がすっくと立ち上がったのはほぼ同時だった。
「上等だ、表ぇ出ろ! この城の主が誰か分からせてやる!」
「小物風情がいっそ清々しいまでの虚勢ね! いいだろう、値は安いがその喧嘩買ってやる!」
買い言葉と裏腹に、愉快が満ち満ちんばかりの破顔一笑。天子は両手を一杯に広げ京劇の如く軽やかに連子窓から外へと身を躍らせると、正邪もそれを追うように床を蹴り空へと躍り出た。
後に残されたのは未だ所在なく挙動不審な貧乏神と蓋の閉じた塗りの椀がひとつ。
「ね、ねぇ、どうしよう針妙丸、止めた方がいいんじゃ……」
「知らない!」
この殺伐の残り香も濃い空間ではいっそ真っ当な仲裁案だったがけんもほろろ。椀の中から一喝されると、貧乏神は尚おろおろと澄み渡る空に弾幕咲く窓の外と閉じた椀に代わる代わる視線を彷徨わせるばかりだった。
§
「うぅ……痛ってぇ……」
喧嘩を売って四半刻も足らず、正邪は痛む額を摩りながら再び地の上、逆さ城の落とす影より人里へと続く小川沿いの街道をとぼとぼと歩いていた。
「弾幕勝負なのにあんな棒っこで殴るのアリかよ、畜生!」
「あんたも小槌みたいなので殴り掛かってたくせに……それにあれは棒じゃなくて天人様の緋想の剣……」
「はン、そんな大層なモンで一撃賜ったんだからさぞ御利益があんだろうよ」
弾幕勝負はどう贔屓目に見ても終始天子の優勢であったが、逆転の一手とばかりに距離を詰めた正邪が似非小槌を振り抜いたところに緋想の剣で強烈な抜き面を喰らい、敢え無く決着と相成った。
「ったく、踏んだり蹴ったりってのはこの事だな……」
流石に売った喧嘩に負けたとあってはおめおめと城へは戻れず、すっかり口に馴染んだ捨て台詞と共に背を向けて来たが、反則道具は使い切り、なけなしの荷まで城に置いたままなのは痛かった。おまけに気が付いてみれば腰に結わえていた巾着すら弾幕勝負のどさくさで落としたのか見当たらぬ。
今や手に届く場所にあるのは、辛気臭い面構えのみときたもんだ。
「で、なんでお前着いてきてるんだよ。って言うかお前誰なんだよ?」
「ぇ、あ、貴女に憑いちゃっ、憑いたから。あと私は依神紫苑、貧乏神……」
律義に問いに答える自称貧乏神を頭から爪先まで睨め付け、正邪は心底面倒そうに大きな溜息をひとつ吐いた。
「貧乏神だぁ? ははぁ、巾着まで無くなったと思ったらそういうことかよ」
「ど、どう? 私の力……怖ろしい、でしょう?」
「へぇへぇ、怖ろしいねぇ」
僅かに力を誇示してはみたが、このまるで気のない返しに逆に毒気を抜かれたのは紫苑である。
「何よへぇへぇって。貧乏神に憑かれたのよ、貴女?」
「あぁ、だからなンだよ? ああ、まあ嫌がらせの塊みてぇな天邪鬼が嫌われ者筆頭の貧乏神に取り憑かれるってのもなかなかタチの悪ぃ冗談だわな」
自嘲にしては他所の皮肉を鼻で笑うような横顔は、決して負け惜しみや強がりだけではなさそうだ。
故に天邪鬼なのか、それとも貧乏神に憑かれる厄介を理解していないのか、どちらにせよ今までと違う反応が胸の内で靄となってわだかまる。
「っつーか貧乏神云々より、その辛気臭ぇどんよりした面ァどうにかなんねぇのかよ」
「……悪かったわね」
口ほど悪びれず、むしろ臍を曲げた風すら口元に浮かべて紫苑はそっぽを向くと、益々の辛気臭さを漂わせ始める。
「私だってあんたになんて憑きたくなかった。でも……」
でも天人様が憑いてみろって言うから、それに天人様手を上げるなんて許せないし、天人様の代わりにこいつをこらしめると思えば云々。ぶつくさと、しかし聞こえよがしな不平にさもありなん、正邪の苛立ちも募っていく。
「黙って聞いてりゃ勝手に憑いておいて随分な言い草並べ立ててくれるじゃねえか、オイ」
「な、なによ……やるっていうの? い、言っとくけど私がやられても取り憑いたままだからね? そ、それに私が憑いたら最後あんたには持たざる運命が決定付けられてるんだから! て、天人様や針妙丸に、た、楯突いたことをせいぜい後悔すればいいんだわ!」
脅す言葉の威勢はいいが、吃り吃りの声音は細く、手も届かぬ場所でへっぴり腰になってくたびれた黒猫のぬいぐるみを盾のよにかざすのみ。
そのまま黒猫と天邪鬼が対峙すること暫し、意外にも先に視線を切ったのはまたしても正邪の方だった。
「まあ、そんなら好きにしろよ」
溜息ひとつ、何かばつが悪い事にでも思い至ったのか、正邪は軽く頭を振ってのろのろと人里への道を歩き始める。
「えっ、ま、待ちなさいよ……!」
やはり、暖簾に腕押しのよな肩透かし……先程まで城の面子に噛み付いていた態度とはまるで違う覇気のなさ。こうもあしらわれるとわざわざ憑いた甲斐というものもないが、正面切って掛かって来られるのもそれはそれで迷惑だ。
(どうせ里に向かっても何も買えないし、私が憑いてれば掏摸(スリ)や巾着切りしたって片っ端から無駄に失くしていくんだ)
そこで嫌というほど己が厄介な存在に目を付けられたか知ればいい。そうすれば天人様や針妙丸のところへ頭を下げて戻らざるを得なくなろう……。皮算用をしつつ、紫苑は正邪の後を追う。
何故か胸の中で引っ掛かっている一抹の虚しさからは、目を逸らした。
§
半刻ほどの後、人里に差し掛かった正邪がまず訪れたのが呉服屋だった。
呉服屋とはいえ里の外れにある、屋号もなければ吹けば飛ぶよな安普請。服どころか頭陀(ずだ)袋から襤褸(ぼろ)切れまで古しの布であれば何でも扱う、古着屋とも端切屋とも名乗るにもおこがましい様相だ。
しかしそれとて先立つものがなければ冷やかしにしかなるまい。それこそが商いの常識であるし、そこを困窮させるのが紫苑の力。
「ね、ねえ、あんた荷物も巾着も無いけど、お金持ってるの?」
念の為、嫌味も込めて天邪鬼に問うたが、返ってきたのは逆に呆れたような表情だった。
「あ? 取り憑いた貧乏神が野暮なこと訊いてんじゃねぇよ」
要するに見たままの文無しということだ。その上弾幕勝負で地に落とされたままでお世辞にも小綺麗とは評しにくい出で立ち。更に鬼と呼ぶには寸足らずな角を隠すためか、腰に下げていた小汚い手拭いをほっかむりになぞして、益々見窄らしさに磨きをかける。
このまま貧乏神に憑かれた凡百が如く物乞いでも始めるのかと思えば、しかし軽い威勢と共に堂々と暖簾を潜っていきよった。
「やぁい、ちょいと邪魔するよォ」
(えっ、嘘、嘘でしょ……?)
戸惑いつつも暖簾の隙間から様子を窺えば、雑然と服だか襤褸だかの積み上がる店内をふてぶてしくも物色して回る文無しの姿。
「いやぁようやく実入りがあってさ、ここは帽子でも一丁見繕ってもらおうかってな。何かお薦めはあるかい?」
嘘八百を並べ立てても尚見窄らしい姿だが、この手の薄汚れた客は見慣れたものか、へぇへぇお幾らぐらいのをご所望でと店主が問う。生地や形ではなく逆にお足から尋ねるあたり、やはり客層が知れたものである。
「今日は思い切ってこれだけよ」
と、正邪が掌を広げ応えて見せれば、ほう五円かい五十銭かい、うんにゃ五銭だと無味乾燥なやり取り。たかが五銭、子供が駄菓子屋で奮発した程度の値段だがやはり慣れたもの、店主は雑然とした中から継ぎ当てだらけでつばもへたれたハンチングをひとつ探り当て、嫌な顔もせずほれ今日の掘り出しモンだと寄越した。
「おう、こりゃまた結構な……ふむん、寸法も悪くない、流石大した目利きだねぇ。んじゃ、こいつに決まりだな」
正邪は渡されるままハンチングを被り手拭いを抜くと、申し訳程度に置かれた罅(ひび)だらけの鏡に映る自分へ分かった風に二度三度頷いてみせる。そして鐚(ビタ)一文入っていないはずのポケットをやおら探り出した。
「えェと、大事な大事な五銭ちゃんっと……あぁ、入れたのこっちか。慣れねぇ大金持ってると普段使わねぇ方に入れちまうなぁ。おぅ、悪いけどちょっとこいつ持っててくれないか?」
右ポケットを探り終えると、正邪はおもむろに被っていた手拭いを丸めて店主へ放り投げる。反射的に受け取ろうと、店主の目が手拭いに向いたその瞬間だった。
か細いが、確かに金属のそれと分かる何かが地面を叩く音がした。
「あっ、あぁ~っ!」
(えっ、えぇ~っ!?)
その瞬間、店内と間口にいた木っ端妖怪共が、ほぼ同時に目を丸くする。
方や手妻師の演技で、方や手妻を裏から見てしまった童子の表情で。
「あっ、わ、私の五銭が!」
店主が何事かを理解するよりも早く、手妻師こと正邪は土間に這いつくばり、汚れるのも構わず雑多に積まれた在庫入れの茶箱の隙間に手を捩じ込んだ。
……先程店主の目線が手拭いへと逸れた瞬間に、どこで拾ったのか折れ釘を爪弾いた先へと向けて。
「あぁ、悪ぃ親父さん、ちょっと待ってくれろや。五銭銅貨そこの隙間に落としちまって……嗚呼糞、なけなしの金なのに!」
身体を捩らせ、尚も落としてもいない代金を拾おうと棚の隙間を必死でまさぐる。ついでに指に触れた折れ釘を更に奥へ押しやり、もひとつ音を立てては泡を食った表情をしてみせる。
とんだ猿芝居だ。紫苑は呆れ果てた表情を浮かべてそれを見遣っていた。
要するに、店内で金を失くしたことにして商品をせしめようという、恐ろしく安直な犯罪だ。こんなもの、店主が軽く茶箱を動かしてやるだけで露呈するし、ここで自分が入って声を上げれば一瞬で台無しだというのに……。
(……本当に?)
しかし紫苑は逡巡した。
よしんば茶箱の間にたまたま他の客が落とした五銭が落ちていたら? まともに金銭を持って訪れる客なら、たった五銭落ちたところで仕方ないと諦めているかもしれない。
それにここで割って入って本当に悪事を暴けるのか? 人見知りで口下手な自分では、まざまざと見せつけられた天邪鬼の口八丁に太刀打ちできるとは到底思えない。
とは言え、己は貧乏神だ。偶然金が落ちているなんて幸運は呼び込まないし、割って入って揉め事になればこいつの勝算だって限りなく低くなるはず。
そう意を決し、この大根役者に引導を渡してやろうと暖簾を潜りかけた時だった。
(えっ!?)
思わず声を上げそうになった紫苑が見たものは、しょうがねぇなと苦笑しつつ帽子は持ってけと手を振る店主の姿。
「いやぁ堪忍な親父さん、次に金が入ったらすぐ届けに来るから! その手拭い、抵当だと思って取っといてくれな!」
頼まれてもお断りしたい薄汚れた手拭いではあったが、さも当然のように襤褸切れの山へと積まれ、またおいでましなぞと皮肉とは聞こえぬ声で見送られる。
必死の演技が果たして店主の憐憫を誘っのたか、面倒な輩だと体よく追い返されたのかは分からぬ。ただ一つ言える確かなことは、結果としてこの文無しの天邪鬼はまんまと帽子一丁をロハでせしめてしまったということ。
「んー、こんなボロじゃ格好つかねぇけど、まあほっかむりよかマシだな」
おまけに当の本人は店を離れるや澄まし顔でこの憎まれ口だ。
何か皮肉の一つでもぶつけてやりたいが、口下手な自分が言った所でひとつふたっつ乗せて投げ返されるのが関の山。あの時店に割って入らなかった事だけが只々悔やまれる。
「ンだよ、辛気臭ぇ上に恨めしげな面乗っけやがって……あ、この帽子欲しかったのか?」
「い、いるわけないじゃない!」
「そうかいそうかい、十銭で売ってやろうと思ったんだけどなぁ」
悪事が上手く運んだからか、先程より機嫌の良い天邪鬼はけらけらと耳障りに笑いつ里の往来へとずんずん歩みを進める。
「ねぇ、それよりあんたこのまま里にいるつもりなの?」
「あァ? 折角角隠し買ったんだ、そのまま出てく莫迦もいねぇだろ。それにお前はさっさと天丼サマのいる城に戻りたいみたいだしな、まあ暮れるまで憑き合えや」
帽子は買ってもいないだろうという突っ込む暇も与えられず袖に振られた上に、お得意の嫌がらせときた。憑いて僅か一刻足らずだというのに、何から何まで腹に据えかねる。
こんな時でも拳を振り上げるに至らぬ気弱な生来がもどかしい。
(精々強がってればいいわ……貧乏を侮るような愚か者は絶対に足元を掬われるんだから……)
更に不平を漏らすように、きつく抱いた黒猫のぬいぐるみが腕の中でひしゃげていた。
§
「そういや朝からドタバタしてたし、ここいらで茶でも啜ってくか」
「えっ? ここいらって、何も無いじゃない……」
ぶらぶらと気の向くまま歩いていた正邪がふと思い出したように足を止めたのは、貧乏長屋と称されてもやむない薄汚れた裏路地の長屋前。また茶でも一杯と当然のように言い放つが、帽子を手に入れど変わらず文無しだ。
天邪鬼をこじらせたとて何もかも無茶苦茶な言葉に呆然としていると、正邪は長屋の一軒の戸を乱暴に開け、ずかずかと入り込んで行った。
「おぅ、邪魔するぜ!」
先程の呉服屋紛いへの入店とは随分と異なる横柄な態度だ。たしなめるに及ばぬながらも問い質す間もなし、紫苑も慌てて後に続く。
(えっ、な、なにここ……)
戸を潜った紫苑は早速その違和感に戸惑った。
剥がれかけて継ぎ当てた土壁と雨漏りが染みた畳は表の見てくれからそう遠くはない安普請だ。僅かな土間に長椅子は置かれているものの、御世辞にもこれを茶屋と言い張るには度胸が要るだろう。
しかし、生活感すら削いだように隅々まで行き届いた掃除や片付けが、外観から断絶したような空間を作り上げていた。
その上茶の湯の精神とでも云えば聞こえは良いか、きちんと白髪を結い、清潔そうな小袖と前掛けを着付けた老婆がいらっしゃいましと物腰穏やかに現れると、若干なり雰囲気が変わるから不思議なものだ。
「よぉ婆ァ、こないだ見た時にゃ死にそうだったのにまだ生きてるじゃねえか!」
そんな雰囲気すら鼻息で吹き飛ばすように、口さがないにしてもあまりに不躾な言葉を投げ、正邪は底意地悪い笑みを浮かべつつ長椅子にどっかと腰を下ろした。
悪餓鬼が因縁を吹っ掛けるにも似たこの態度にも老婆は変わらず穏やかな笑みで、まあまあお正ちゃんも元気でなによりねぇ、なぞと全く響いていない様子。
「へぇ、今日は豆大福か。こないだの牡丹餅はまあ食えたしとりあえず出してくれろや」
何の感銘もなく正邪が一瞥呉れたのは、遣り紙にでも使われたであろう安紙に認められた達筆の品書き。
もう全てがちぐはぐだ。そもそも正邪と顔見知りらしいこの老婆は何者なのか……あまりの情報量に立ち尽くしている紫苑に、老婆は変わらず穏やかにまあまあお正ちゃんのお友達まで来てくださってと長椅子の座布団を勧める。
「あ、わ、私は……」
「ああ、勝手に着いて来てるだけの金魚の糞さ。こいつにゃ馬糞(まぐそ)でも出しときゃいいって」
品のない冗談にしかして老婆は微笑みを決して崩さず、年頃の子がそんなはしたない言葉遣いをするものじゃありませんよ、などと町娘を嗜める口調で応えつつ、香り立つ焙じ茶の湯呑と豆大福の乗った塗りの皿を差し出した。
手を付けるべきか逡巡し正邪を横目に見るが、案の定何を意に介する素振りなく豆大福にかぶりつく様を見てそれに倣う。
(あ、美味しい……)
餅皮のむっちりとした柔さと厚さ、ふっくらの手前に炊かれた赤豌豆(あかえんどう)の歯触りと仄かな塩味、それに引き立つ小倉餡の優しい甘味と薫り……。
針妙丸には貧乏舌と揶揄されてはいるが、美味不味分け隔てなく食べるだけの事であって味に対する機敏ぐらいは身についている。これは間違いなく趣味や道楽でこさえた物ではない。
ならば、何故こんな人の往来も絶えた貧乏長屋で看板も掲げずにいるのか。老婆から垣間見える品の良さも相まって疑問は募るばかりだ。
「あ、あの……お婆さんはどうしてこんな……」
「熱っつッ! おい婆ァ、舌が煮える程熱い茶出しやがって、水だ水!」
意を決して問おうと恐る恐る口を開いたその時、後の先を取るかの如く正邪の罵声が遮った。
既に一口啜っておきながら、まるでやくざ者の因縁だが、老婆はあらあらと微笑みながら共用井戸へと水を汲みに勝手口を出て行った。
「いきなり何無茶苦茶言ってるのよ、全然熱くなんか……!」
「……店失くして呆けちまってンだよ。昔ゃ金物横丁の辻で女手一つでそこそこ繁盛させてた茶屋だったらしいけどな」
紫苑の叱声を無視しつ正邪は老婆への問いを代弁すると、どこかつまらなそうに豆大福をもう一口かじっては熱いと罵った焙じ茶を啜って続ける。
「博打狂いで金に困った莫迦倅(せがれ)が方々で借金背負っちゃ無心して、挙句勝手に店を抵当に入れちまったんだと。婆さんも粘って商売で返そうとしたけど金貸しのけしかけたチンピラに居座られてハイそれまでよ。倅も簀巻きで揚がって一切合財失くしちまった」
文字通りの他人事に調子を呉れながらも、心做しかその声音は密やかだった。
「この長屋に押し込められた時はすげぇ取り乱しようだったって話さ。でもある日ぱたっと静かになったもんだから大家が覗いてみたら、おやいらっしゃいましご注文は、なんて三つ指揃えてたときたもんだ」
それ以上の顛末を正邪は語らないが、心労で呆けてしまい未だ茶屋を営んでいると逃避しているということなのだろう。
腰を浮かしかけていた紫苑もひとつ深い溜息を吐き、その茶屋でも出していたであろう豆大福を一口、しみじみと噛み締める。
「この茶も菓子の材料も、昔婆さんの世話になった誼(よしみ)が少しずつ分けてるんだとよ。まあ本人は買い付けてるつもりなんだろうけどな」
「……事情は分かったけど、なんであんたがそんな事知ってるのよ」
「さてね。まあ負け犬にゃ同族のニオイが分かるってなもんさ」
自嘲を交えて晦(くら)ますその横顔は、心なしかここまでで見た事のない、どこかしんみりと陰を落としたようにも映る。
何の答えにもなってはいないが、茶飲み話でそれ以上踏み込むべきでもなかろう。それにこんな身の上だが、あんな柔和な老婆が自らの業でもなく貧乏に転げ落ちていった素性を掘り起こしてしまい気が重くなったというのに……。
「……なんて顔してんだ、貧乏神さんよ。こんなお前が憑いた奴の末路ってのは五万と見てるんじゃねぇのか?」
「み、見てるわけないでしょう、そんなもの!」
正邪の言う通り自分の取り憑いた者の転落の仕方としては典型的か知らんが、貧乏神は憑いた者を貧乏に貶めるのが役目であり、別にそこから貧乏な生活を見守る存在ではない。
当然、これまで憑いた者の中には貧するあまり身を投げたり悪事に手を染めた者がいたかもしれぬが、それは当然その者の本分が為す業であり紫苑が与り知らねばならぬなどという謂れもない事。
………だった、はずだ。この話を聞くまでは。
これまでに憑いた相手は、大概碌でもない輩ばかりだったから気に掛ける事もない。けれどこの茶屋の老婆のように、やがて貧困が何の罪もない身内に及んでいたかもしれない……
「へぇ、そんなもの、ねぇ」
と、懊悩しかけた紫苑は頬に刺さるにやけた視線に我を取り戻した。
「貧乏に落としたらそれでお役御免ってか。かかっ、莫迦だねぇ、落ちぶれた相手を眺めて手ェ叩いて笑ってやりゃあそんな辛気臭ぇ面にもならなかったろうによ」
やはりこいつは天邪鬼だ。僅かでも情に流されそうになった自分があまりに情けない。
嘲りながら悠々と残りの豆大福を頬張る正邪の横顔を益々の辛気臭さで睨(ね)め付け返すが、蛙の面になんとやら。老婆の運んできた水の湯呑を一息で干すとおもむろに膝打ちひとつして立ち上がった。
「じゃ、お暇(いとま)すっか。おう婆ァ、豆大福もこないだの牡丹餅と合わせてツケといてくれ、金鍔でもこさえときゃまた寄るからよ」
「ちょ、ちょっと、あんな話までしておいてお金払わないつもりなの……!?」
「しゃあねぇだろ、誰かさんのせいで文無しなんだからよ」
そう言われてしまうと口を噤(つぐ)むより他ない。
二つ返事でツケを承諾する老婆の穏やかな表情にやるせなさを募らせながら、紫苑はせめてもの嫌味を絞り出す。
「あんた絶対碌な目に遭わないわよ……」
「ふん、そうかい。貧乏神が因果応報を説くようじゃあ、あの生臭妖怪寺もそう長かぁねえな」
馬耳東風は覚悟していたが、熨斗(のし)を付けて返されてしまっていよいよぐうの音も出ず、肩を落としながら正邪の後に続いて長屋を出るしかなかった。
(お寺といえば、女苑どうしてるかな……)
ふと、暫く顔を合わせていない妹の事が頭をよぎった。
風の噂では件の妖怪寺で寝泊まりしているようだったが、また里で夜な夜な派手に遊ぶ姿が見られていると聞く。
さもありなん、錫(すず)や鉛じゃあるまいし持って生まれた気質など如何で高僧とてそうそう叩き直せるものか。
そういう意味では、幻想郷中から追い回されて尚天邪鬼を貫く正邪と似た部分はあるのかもしれない。何より同じように幻想郷をある意味転覆させようなどと大風呂敷をと広げた者同士だ。
ひょっとして天人様は女苑と正邪が似た者同士だからお守り出来ると思って憑依してみろと宣ったのだろうか。だとしたら、あまりにつれない仕打ちじゃなかろうか。
「お前さぁ、折角旨いモン食ったのに辛気臭さが増してるってどういうこったよ」
人通りの多い往来へと差し掛かったところで、見かねた正邪が呆れたように物申した。まったく、この辛気臭さの一片は誰の所為だと思っているのか。
「うるさいわね……それより満足したならさっさと帰ればいいのに……」
「はン、お前に一々指図される筋合いはねぇよ。それともなんだ、お前は私のお守りに着いてきたのか?」
「そんな訳ないじゃない! わ、私だって好きで憑いてるんじゃないって言ってるでしょう!」
今し方抱いた不満へ的を射かけたよもやの一言に、紫苑は思わず声を荒げる。
「あ、あんたが素直に天人様に謝ればそれで……!」
しかし噛み付きかけて、酷く冷めた視線とかち合ったかと思うと正邪は興味を失くしたように踵を返してしまった。
「へぇ、そうかいそうかい、そりゃご苦労なこったな。こっちゃ舌二枚噛んだって彼奴に詫び入れる義理なんざ更々ねえし、せいぜい天丼様のお気に召すまで憑いてりゃいいや」
まただ。こちらが腰を入れて喰って掛かろうとすると、途端に受け流すように気勢を逸らされる。
別に口喧嘩がしたい訳ではないし、説き伏せられるとも思ってはいない。ただ、根本的な何かが噛み合っていない事を暗に示されているようでもどかしい。
今紫苑に出来るせめてもの反撃といえば哀しいかな、この天邪鬼の言う通り後ろを憑いて回るぐらいのことだった。
§
それにしても紫苑にとってこれほど草臥(くたぶ)れる一日も無いと思うほど、野放図に里中でけちた悪事を働く天邪鬼に引っ張り回された。
履物屋で洋下駄の修繕をさせた挙句ちゃんと直っているか確認してから払いに来るなどと吹かしてお代をちょろまかしては、織物売りの露天商にはここなで買った巾着が切れて大損をしたと因縁を付けては後払いを取り付けて代品をせしめ……。
貧乏神として妨害せねばと幾度となく思ってはいたものの、間に割って入る度胸もなければ正邪の口先三寸を邪魔立てするだけの知恵も回らない。
これではあたかも悪党に付き従う三下のようではないか……痩せこけた胸の内を映すかのように浅い夕暮れもまた里を包んでいた。
「はー、方々面倒臭ぇことにゃなったけど、これでどうにか人心地ってヤツかねぇ」
薄汚れた姿で里に入った上に未だ文無しの癖に、やおら小ざっぱりとした風になった小悪党はひとしきり満足したかのように伸びを打った。
「はぁ……ようやく帰れるのね……」
「なんだ、お前まだいたのかよ。やけに静かになったから天丼様ンとこへ泣きつきに帰ったのかと思ったわ」
最早嫌味にすら構いたくもなく無視を決め込むが、正邪もまたそれ以上構う素振りも見せず足取りも軽く俄か活気付き始めた盛り場へと足を進めていた。
どうせこの時間じゃ夕飯にでもありつこうというのだろう。余計な事を呟かなければ良かったと猫背に肩を落としながら諦めて紫苑も後に続く。
焼き物の香ばしい煙、煮物のこく深い匂い、間もなくふっくらが炊き上がるであろう白飯の濃く漂う香り。疲れと賑わいに当てられ空腹に目眩すら覚えていると、ふと正邪は一軒の縄暖簾の前で立ち止まり、二度三度確認するように周囲を見渡した。
「うし、ここにすっか」
何かに合点がいったのだろうが、もう理由を訊く気力もなければ知りたいとも思わない。ここまでと異なり静かに縄暖簾を潜る正邪の後に紫苑も続く。
店内は何の変哲もない煮売居酒屋だが、外の喧騒とは裏腹に座敷席に四五人二組、お世辞にも柄が良いとは言えぬ輩共が酒盛りをしているのみ。
「大将、飯大盛と汁物、あと大皿の三つ適当に見繕ってくれろ。ああそれと鯰の蒲焼に梅酒大甘で」
正邪はそれを一瞥し、座敷からは離れた立ち卓に着くと調子良く注文を投げ付ける。
「今度は食い逃げするつもりなの……?」
「ごちゃごちゃうるせぇなぁ。お前はなんか食わないのかよ」
食べたいに決まっている。
もしここで同卓していたのがこいつでなければ、良からぬことを企んでいたとしても頷いて無遠慮に注文をしていただろう。
「いらない」
「ふん、そうかい。高楊枝なんざ咥えてても腹は膨れねえのによ」
「だとしてもアンタと顔合わせて食事なんて真っ平御免だわ」
「ははっ、これから辛気臭い面見て食うこっちの身にもなれってなもんだ」
言葉と裏腹にどこか嬉しそうなのは夕餉に嫌がらせの一品が付いたからか。やがて出来上がった膳を付け場から取って戻るや塗箸を手に取ると浸し菜と蒲焼きを一口大ずつ飯の上に乗せ、素晴らしい速さで掻っ込み始めた。
その食べっぷりはひもじさを加速させ、苛立ちを増長させる。
「これからお金を払わずに出ようっていうのに、よく平気な顔で食べられるわね……」
言ったところで無駄な嫌味は蓮根のきんぴらと共に虚しく飲み込まれ、紫苑はいよいよ無力感に打ちひしがれた。
天人様にどんな意図があったにせよ、ここまで付きまとっておいてこの天邪鬼の傍若無人を邪魔するどころか、眉を顰めかしたのは己の望まぬ辛気くささだけときたものだ。
「ふん、月並みな嫌味なんざ飽き飽きなんだよ。それより今度こそお代をちょろまかす悪い天邪鬼を止める手立てとか考えたらどうよ?」
きちんと口の中の物を飲み込み、一旦梅酒で整えてから正邪は意地悪げに問いを返した。今日一日憑いていて、この天邪鬼は時折思い出したように常識に則った振る舞いをするところがまた気持ち悪い。
「手立てなんかあるわけないでしょ……大体、今日一日憑いてたのに、なんであんたには私の力が全然効いてないわけ?」
「私が知るかよそんなん。でもまぁ、ハナっから負けてた上に貧乏だから効いてないンじゃねぇの」
いじけた態度を一笑に付されるかと思いきや、ふざけているとも思えぬ表情で仄か遠くに視線を遣りながら正邪は蕪の新香を口に放り込む。
「こちとら異変で大負けした上にお尋ね者扱いされて延々とんずらこいてたんだ。やっとほとぼりが冷めたと思って城に戻ってみりゃこの有様だしよ」
自業自得、因果応報としか言い様がないが、不思議とその口調に怨瑳や悲嘆は欠片も感じられなかった。
「まあ御陰様で貧乏なんざ慣れっこさ。追い回されてる間は極貧なんてもんじゃない毎日だったからな」
改めて正邪は思い返す。自業自得とは言えよくもまあ苛烈な環境に耐え続けていたものだ。追われに追われ地の果て地の底、泥水を啜り木の根を噛みを譬(たと)えではなく強いられる時すらあった。
針妙丸の言う通り、素直にごめんなさいすればそれで終わっていたに違いない。実際今とあっては拍子抜けするぐらい何事も無い日々なのだから。
「だからお前なんかが憑かなくたって、負けと貧乏は間に合ってたって話さ」
分かったかと一息置いて、またぞろ蒲焼きに箸をのばすその表情に強がりや後悔の色はない。
しかしそう叩きつけられても紫苑にはまだ合点がいかなかった。堂々と自らの失態を語るあたり、天邪鬼をこじらせてると針妙丸は言っていたが、何かもっと根本的な認識が違う気がしてならない。
ひょっとして、こいつは負けた貧乏だと吹聴しているが何かとんでもない奥の手を隠しているのか。そもそも出会ってから能力らしい能力も見ていないではないか。
「ねぇ、その、ひょっとして……あんたの能力って負けとか貧乏とかをひっくり返したり出来たりするわけ?」
考えるだに大それた能力だし、それが出来たのならば勿論こんな事になってはいないだろう。だが、承知の上で紫苑はそれを訊かずには居られなかった。
「……出来たとしたら、なんだ?」
「な、なんだ、って?」
どうせはぐらかされると思っていた問いが、低く剣呑(けんのん)な口調で研がれ、射るような視線で突き返された。
「負けを勝ちにして、貧乏を富豪にすることが出来たとしたら、どうだっていうんだ?」
「えっ、で、出来たとしたら……?」
全てを逆転させる力。地を這う己にとって、なんと魅惑的な力だろうか。そもそもは女苑と共にこの幻想郷を訪れた目的はそれに近いものだったのだ。
それが叶ったのなら、どうなってしまうのだろう。
当然、土地を変えてもあばら屋でひもじさに震えるような生活とはおさらば、富や勝ち運を運ぶとあればちやほやだってされよう。
天人様や針妙丸だって、自分に接する態度が変わるはずだ。それどころか立場すら逆転するか知らん。
でも、それで良いのだろうか。
それは依神紫苑の望む力、望む結果なのだろうか……。
「なぁに真剣に考えてンだよ」
と、くつくつと噛み殺すよな笑い声に妄想が打ち切られた。
「へっ? あっ……」
「ははぁん、さては天丼様相手に下剋上でもしたろうって魂胆だな? かかっ、従順なフリしてお前もなかなかの悪だねぇ」
「ちっ、違うに決まってるでしょう! あぁもう、そんな力があったって、あんたになんか頼りたくないわよ……!」
またも口先三寸に乗せられた上に邪推まで掠められ、怒りよりも情けなさに顔を赤くしながら紫苑は湯呑の蕎麦茶を一息に流し込んだ。
「はいはい、そういう事にしといてやるよ……さぁて、そろそろお暇すっかねぇ。おぅい、大将!」
にやにやと受け流しつつ正邪は爪楊枝を一本斜に銜(くわ)え、わざとらしく噫(おくび)をひとつ噛ますと、おもむろに付け場へ向けて帽子を角が見える高さまで上げて会釈する。
(えっ!? なっ……何してるのよこんな所で!)
一日中付き合って尚突飛な天邪鬼の行動に紫苑は色を失った。
まさか自分が妖怪だと明かして脅そうというのか。そんな事をしたら、博麗の巫女に地の果てまでも追い回されて調伏されるのがオチだろう。たかだか夕飯一食の為にこの悪党がそんな分の悪い悪事を働くはずがない。
当然、店主の顔は一瞬強張った。しかし相も変わらず出来上がった輩共が野放図に騒ぐ座敷席へと正邪が顎をしゃくると、震えながらも二度三度と頷きを返した。
ここに来て真っ当に勘定を済ませるとなぞ思えぬ……今度は一体何をするつもりだと、最早問うたところで聞く耳すら持たれぬ無為な言葉を紫苑が紡ごうとした時だった。
「ほいじゃ、御勘定といきますか」
正邪の呟きと共に、厠(かわや)にでも行くつもりだったのか立ち上がろうとしたやくざ者が踏んだ座布団が突然ぐるりとひっくり返った。姿勢を崩した男は座卓に顔から突っ込み皿やら椀やら徳利やらをなぎ倒して派手な音を立てると、酒席は水を打ったように静まり返る。
「ひぃっ……!?」
情けない悲鳴と共に紫苑が息を呑んだ次の瞬間、転ばされた輩は背後の者の仕業かと因縁を吹っかけると同時に殴り掛かった。当然相手は身に覚えもないが、言い訳などする素振りすらなく柄の悪さを剥き出しに殴り返し、仲間はそれを止めるどころか加勢に回り。瞬く間に座敷二卓の輩共の大乱闘がおっ始まった。
こうなるともう店内はわやくちゃだ。怒号が飛び食器が飛び酒器が飛び、卓が割れ椅子がへしゃげ硝子戸が割れ。店主は口でこそ止めてくれろと嘆願するが、巻き込まれぬよう板場の陰に隠れて声を飛ばすのが精一杯。
その様子を愉快痛快と謂(い)わんばかりに眺める天邪鬼の表情といったら……。
「ね、ねえ、逃げなくていいの!?」
「んぁ? あぁ、そうだな。かかっ、お前もいよいよ勘所が解ってきたじゃねえか」
勘も何もあったものか、こうなってはこの場から離れるよりないだろう。
二人は縄暖簾と喧嘩見物の野次馬を掻い潜りそそくさと益々煮え滾る煮売居酒屋を後にした。
§
「あー、いい腹ごなしになったなぁ。それにしても見たかよ連中の有様……くくく、大の大人が顔真っ赤にして転んだだのぶつかっただの何だのって」
盛り場から早足で歩き続けること暫し、ようやく里の外れへと差し掛かった頃には宵の口。
貧乏神もついに解放されると痩せた胸を撫で下ろすかと思われたが、はたと立ち止まり神妙な面持ちで口を開いた。
「……やっぱり、納得いかない」
「なんだよ、やっとひもじくなったのか? それじゃあもう一軒行っとくか、里出た先に爪弾きモンしかいねえような店が……」
「あんたがやった事は食い逃げ以上に最低なことじゃない。喧嘩をけしかけて怪我人まで沢山出して、それでどうしてそうやってへらへらしていられるのよ……!」
軽くいなそうとする言葉を遮り、紫苑は一気にまくし立てた。
安い正義感を借りて、今日一日溜まりに溜まった鬱憤をぶつけているだけなのは自覚している。けれど、このままではこの天邪鬼の行動を全て肯定して終わってしまうような胸の悪さがあった。
「ふん、チンピラ同士が殴り合ってくたばったところで微塵も心は痛まないね」
「でもお店が滅茶苦茶になっちゃったじゃない! たかだか夕飯食べるのにそこまでやる必要なんてなかったでしょう?」
紫苑の怒気を酌んだか、正邪は薄笑いを貼り付けたまま振り返った。
「まあ、ただ食い逃げするだけじゃあ芸がないしな。酒場の大将も一悶着焚き付けてくれて、むしろ私に感謝してるんじゃねぇのか?」
「なによ、それ……感謝なんてされる訳ないじゃない!」
「ンだよ、いちいち説明しないと駄目かよ」
訝しさを増す紫苑の口調に面倒そうに咥えていた楊枝を道端に吐き捨てると、里の境界である堀に架けられた橋の欄干に跳び乗り腰を下ろした。
「いいか? まず座敷にいた柄の悪ぃ連中、あれがどっちも筋モンの三下連中だってのは分かるよな?」
「柄は悪そうだったけど、そんな事まで分からないわよ」
「あのなぁ、袖から漏れたモンモンとこのご時世に刀傷作ってるの見てなかったのかよ。とんだ節穴だな」
「で、でもあんたは狙ってあのお店に入ったんでしょう? そんなの中に入るまで判らないじゃない」
「狙ったなんて大層なこっちゃねぇよ。日の入り過ぎの書き入れ時だってのに、縄暖簾越しに座敷半分しか埋まってねぇのが見えたら寄り付くもんじゃねえなんて横丁の野良猫だって知ってら」
悉くを反論しきれぬ経験則で返され、しかしどこか納得いかぬ面持ちの貧乏神に正邪は尚も続ける。
「三下とはいえ家のモンが内輪の喧嘩に……しかも下らねぇ理由でカタギ巻き込んだとあっちゃ示しがつかん。器の弁償やら店の修理やら何やらは全部組持ちだし、奴らも暫く寄り付けねぇだろうな。何ならみかじめ料も負かるんじゃねぇか?」
「で、でも、結局食い逃げした分はお店の損じゃない!」
ここまで店の得を並べられて苦しいとは自覚しながら紫苑が食い下がると、意外にも正邪はバツが悪そうな表情を浮かべて目を逸らした。
「あー、そこはしゃあねえな……ま、後で巾着探して、見つかんなかったら癪だが針の字にでもせびって払いにゃ来るさ。今日は余計なモンが憑いてたせいで結構方々で吹いて回っちまったからな」
「なっ……何よ今更!」
あまりに意外すぎる天邪鬼の反省の弁に、どこか裏切られたような心持ちさえ覚えながら黒猫のぬいぐるみをひしゃげるほど握りしめる。
「あちこちで人を騙して悪さしてたくせに、よくそんな取り繕った綺麗事をいけしゃあしゃあと言えるわね!」
この悪党がそんな殊勝なことをするはずもない、また舌先三寸でこの場を丸め込もうとしても今度はそうはいかぬと身構えた紫苑に返されたのは、心底から呆れた溜息だった。
「おいおい、お前まさかとは思うけどよ……今日一日、私の嘘やしでかしを里の連中が見抜いてなかったとでも思ってたのか?」
「えっ……どういう、こと……?」
無理もねえか、気勢の遣り場を見失い茫然とする表情に正邪は座りを直し説くように語り始めた
「あんな場末の襤褸屋だって、やっていけるのは払いがあるからなンだよ。『今は文無しだからツケといてくれ』なんて貧乏人の口約束が簡単に通ってたら、商売も何もあったもんじゃねえ。折れ釘弾いて必死に演技して、ようやく五銭程度をツケるお目こぼしを頂いてんのさ」
その見窄らしさで得た帽子を指先で回し、見せ付けるように巾着を叩き足を遊ばせる。
「履物屋も露店も、金勘定してるの見て今日は儲けてそうだから狙っていったり、巾着に至っちゃ紐が切れて落としちまったのは本当だしな。それに考えてみろよ、これで本当に踏み倒したら里に二度と出入り出来なくなるだろうがよ」
矢継ぎ早な種明かしが真意なのか言いくるめられているのか、最早紫苑の中では整理がつかなくなっていた。
けれど天邪鬼は尚も詰めるように欄干から飛び降りると、一際真剣な表情で紫苑の顔を下から覗き込んだ。
「さっき天邪鬼の力で負けや貧乏をどうにかしてるのかとか言ってたな? 残念だが私の力ってのはそんな大それたもんじゃねぇんだよ。小槌の力がなきゃ畳六畳ひっくり返せりゃ上等な方さ。まあ、それでも困った験(ため)しはねぇけどな」
己の矮小さを恥ずかしげもなく、むしろ弱さを誇るように暴露する。それこそが、無敵の力であるかのように。
「拍子抜けしたか? 異変を起こした妖怪がこんな小物で。だから下剋上ってのは堪らなく面白ぇんだよ」
その表情は針妙丸が、あまつさえ天人様もが、とびっきりの威勢を張る輝きと同じ何かがあった。
しかし、それもほんの一瞬のこと。
「……それにしてもお前さぁ、貧乏神のクセにとことんナメ腐ってるよなぁ、貧乏ってヤツをよ」
視えていたはずの光は蜃気楼の如く、目の前には意地悪を煮染めた厭らしいにやにや笑いで眼(ガン)を呉れる天邪鬼の表情があった。
「金が無きゃ落ちぶれるだろ、仕事がコケりゃ不幸せになるだろって、持てる者を引き摺り下ろす手段ってだけ考えてんじゃねぇのか?」
なのに、その瞳だけは依然淀みなく真っ直ぐに紫苑の心臓を目掛けて弓を引き絞っている。
「でもよ、お前が突き落として蔑んでるどん底には、ハナからそこにいる連中がいるんだわ。望んでもいないのによ」
「知ってる……知ってるわよ、そんな事!」
そう、そんな事知っている 己こそが、そのどん底をのたうっている存在なのだから。故に嫌われもした、疎まれもした。それが貧乏神である日常だった。だからこそ、貧乏とは己の武器だった。
「知ってる? かかッ、今日一日付き纏われててそうは思えなかったけどなァ!」
ならばその武器を目の前の天邪鬼、鬼人正邪のように誇れるだろうか。
誇るべき武器は今や己の喉元に突き付けられているというのに。
「そこに在る貧乏に、敗北に目も向けず、盲滅法に貶める力だけを振り翳(かざ)してるだけじゃねぇか。お前は所詮ハリボテの禍いに縋ってるだけの似非貧乏神なんだよ!」
「わ、私は、わたしは……」
何故だろう、追い詰められた刹那に過ぎったのは妹の、己を詰る表情とけれども呆れたように手を差し伸べる表情。
何を格好つけて難しい事考えてんのよ。
毎日々々貧乏に喘いで、泡銭(あぶくぜに)浪費して喘いで、抗っても負けてまた喘いで……余所(よそ)の不幸せまで気を回そうなんて、姉さんのくせに烏滸(おこ)がましいにも程があるわ。
理屈なんか無いから私達は畏れられる、それで十分なんじゃない?
まあ姉さんのは畏れられるっていうか嫌われてるだけなんだろうけど。
「……くふ、くふふっ……。そうね、そうよね……」
「何が分かったんだよ、辛気臭ぇ上に気持ち悪ぃ笑い方しやがって」
まったく、妄想の中でくらい優しい言葉を掛けてくれてもいいだろうに、どう繕っても女苑は女苑だ。
「私は、取り繕ってまで他人の貧乏や敗北を理解したいなんて思わない。そんなもの、目も向けたくない」
「おいおい、結局貶めてるのは認めちまうのか、貧乏神サンよ」
「貶めて何が悪いっていうの? どんなに虚勢を張っても貧乏は辛く厳しいもの、敗北は惨めで恥ずべきものかを私は身を以て知ってる。それ以上もそれ以下もない」
今日一日何度も何度も打っていた火打ち石の火種が、漸(ようや)く心の奥底に立つ蝋燭の芯に落ちた。
「私の力は下を見る為の力じゃない。負けた者に、持たざる者に同情する力じゃない。私が識る貧乏と敗北の底へ引きずり込む、ただそれだけの力。だから私は疎まれる! だから私は畏れられる! だから……」
紫苑は天邪鬼を突き放すと、猫背すら伸ばし最上段から訣別を叩き付ける。
「だから、私は、私は負けを恥じず負けに溺れ、貧乏を厭(いと)わず良いように弄ぶお前なんか大嫌いだ!」
「ははッ、貧乏神にまで面と向かって嫌われるとは天邪鬼冥利に尽きるじゃねぇか!」
ようやっと、互いの視線がかち合った気がした。
そうだ、行いが正であれ邪であれ、矮小な力であれ、こいつは己を振りかざして生きている。
天人様も針妙丸も、女苑だってそうだ。彼女らを取り巻く森羅万象を己のものと声を上げ、清濁併せ呑んで己の力として振るうからこそ、顔を合わせ、目を合わせ、相対する事が出来る。
こんな、自分も周囲も不幸にしか出来ない力だけれど、そんな中で糧を見出して生きる事を決して軽んじたことはない。確りと視線を上げろ、その力で全てを覆すために女苑と共にこの幻想郷へ足を踏み入れたのではないか!
「私は……持てる者を持たざる者の底のまたどん底へと堕とす最凶最悪の貧乏神、依神紫苑だ!」
憑依を解いた紫苑の周囲に禍々しさとは違う、純粋なる負の力が渦巻いて集ってくる。
何が正しい、何が間違っている。永く貧しさと敗北に曝され、そんな事飽くほど問い質されてきた。
正邪の言うことだって全てが間違っている訳ではない。でも、決して相容れない、相容れてはいけない。貧乏神が故に。
「勝負しろ天邪鬼! お前をどん底すら温く思える奈落の底まで引き摺りこんでやる!」
「……けッ、ようやく張り合い出しやがって。上等だ、吐いた唾飲むんじゃねぇぞコラァ!」
禍々しい言葉とは裏腹な凛とした宣戦布告に、正邪は牙を剥いて、しかし口の端に笑みを以て応えた。
その夜、人里近くの河川敷で勃発した弾幕勝負はあまりに鬱蒼とした弾幕がぐるぐると不規則に渦巻き、観ているだけで気分が悪くなると見物客がまるで集まらなかったという。
§
「只今戻りましたぁ……」
とっぷりと夜が更けた頃、紫苑はよれよれと天守の窓から一時の根城に帰ってきた。
「おかえり。ははっ、結構派手にやらかしてきたみたいじゃない、此処からでも弾幕が見えたもの」
「ほんとあのどんよりした弾幕どうにかならないのかねぇ」
出掛けはどたばたしたが、戻れば城の中はいつも通り。天人様は泰然と酒器を傾け、針妙丸は泣いた烏がなんとやら、けろっとした顔で桃を頬張っている。
そうか、あの天邪鬼にあっては、これはかつて在った筈のいつも通りの風景ではなかったのか……同情してやる余地は無いが、紫苑は複雑な心持ちで下座に佇む。
「で、勝ったの? 負けたの? まあ正邪じゃなくて紫苑が帰って来たってことはそういう事なんだろうけど」
「う、うん、まぁ、勝ったけど……」
「大したものじゃない。勝ったのなら胸を張ればいい、正々堂々弾幕勝負で勝ったんでしょう?」
「はい……」
己の力で天人様に仇為す者をとっちめてやったのだ、褒められるなど至上の喜びの筈だった。
けれど、今は到底そんな気分にはなれなかった。
「それで、どうだ? あの天邪鬼に憑……」
「あの、今日はもうくたくたなんで先に寝ます」
心ここに在らずといった調子で天子の言葉を遮り、紫苑は猫背だか一礼だか分からない姿勢で襖の開いた寝間へと向かう。
「おやすみー」
「ああ、おやすみ……ふむん、成程々々。随分いい面構えになって帰ってきたじゃない。たった一日でああも変わるとは、やはり私の目利きは正しかったわね」
「まあ、あいつと絡めば誰でもそうなるのよ。まったく、追いかけ回されて少しは懲りたかと思ったけど全然変わってないんだから!」
しみじみと頷く天人様の言葉と、何故か嬉しそうな小人の声が紫苑の耳を上滑りする。
遮るように布団を頭から被り、紫苑は胎児のようにうずくまって黒猫のぬいぐるみを抱いた。こんなにも疲れたのは、妹と異変を起こした時以来かもしれない。
(長い、一日だったなぁ)
眠りとの境界でつるつると回顧し、ふと思い起こす。
あの貧乏長屋の茶屋で老婆を婆ァ呼ばわりしていた正邪が、彼女の身の上を語る時には『婆さん』と呼んでいたことを。
それに前に訪れた時には巾着を落とさず金を持っていたであろうに、その牡丹餅のお代もツケていたことを。
ひょっとして次の茶菓子を所望して去ったのは、また訪れることを匂わせていたのかも知れない。
転げ落ちた弱者が、再び立ち上がれるように。立ち上がろうとした脚が折れないように……
(……そんなこと、ある訳ないじゃない)
きっと羊羹を食べ、落雁を食べ、金鍔を食べ、偉そうに嘘を並べ立て、ふんぞり返るのが楽しいだけ、そうに決まっている。否、そうでなくてはならない。貧乏神である自分と同じ。そう思って、真正面から対峙するからこそ天邪鬼がそこに在るのだから。
今度は誰のためでもない、出会い頭から最凶最悪の貧乏神依神紫苑として向き合い、受けて立とう。
そのためにも、まずは……
「あ、あの……桃まだあります? よく考えたら今日豆大福しか食べてなくておなかぺこぺこで……」
ずるりと布団から這い戻ってきた紫苑の情けない表情に、いつも通りの笑いが起こる。
錫や鉛じゃあるまいし、染み付いた性格をそうそう叩き直せるものか。
でも、これでいい。何にも転じない今の自分こそが、最凶最悪の貧乏神そのものなのだから……。
§
「あーぁ、結局今日はこんなんばっかじゃねぇか」
またもお世辞にも接戦とは言えぬ弾幕勝負で貧乏神に叩き落とされ半刻程。正邪は河川敷の草むらで大の字になり、満天の星空を見るでもなく目に映しつ、いっそ呆れたように独りごちていた。
「ははっ、でも久々に面白ぇ一日だったなぁ……」
なし崩しに終えた逃亡劇からこちら物足りぬ日々が続いていたが、やはり打って響く相手がいるのは良いものだ。
それに城に居座った輩共がまあまあ使えそうな事も分かったのは収穫とも言えよう。
天人の奴めはいけ好かんし針妙丸ほどちょろくはないが性質は似たようなもんだ、ちょいと下手に出てやれば隙も作れよう。風の噂ではあの隙間妖怪とも反目し合っているようだし、焚き付けるのも容易すそうだ。
貧乏神もあれはあれで戦力になる事が分かったし、天人にべったりだから黙っていてもいずれ芋蔓で着いてこよう。今日は変に焚き付けてしまった気もするが、なあに、錫や鉛じゃあるまいし、染み付いた性格なぞそうそう叩き直せるもんじゃない。
そう、時は来たのだ。
「なかなか面白くなってきやがった……ふふん、お楽しみはこれからだってか」
温い南風に吹かれながら、口角を上げ目を閉じる。
今一度の反逆を、とびっきりの反逆を夢見て、天邪鬼は久しく穏やかな眠りに就いた。
(了)
貧乏神すらドン引きする正邪がカッコよかったです
やってることがしょぼすぎることも正邪らしくて素晴らしかったです