――そうして、彼女は目を覚ました。
……ん。
「あれ、ここは……」
ゆっくりと瞼を開く。
薄く開いた目に飛び込んで来るのは、柔らかい光。色で言うなら琥珀か伽羅。もしくは、自分の髪のような――飴色の光。
これは屋内灯の輝きだ。そんな理解が頭の中に浮かぶものの、少女は今自分がどんな状況に置かれているかを把握できていなかった。
……お昼を食べて、店番をお父さんにお願いして、里を出て、魔法の森に入って、それから……。
「――おい小鈴、大丈夫か?」
「……え。まりさ、さん?」
少女の――小鈴と呼ばれた少女の視界に変化が生じた。
未だぼんやりと霞む像の中に、見慣れた魔法使いの姿が現れたのだ。
「あれ、どうして魔理沙さんがここにいるんですか?」
「何を言って――ああ、まだ記憶が――いや、まだ寝ぼけているだけか」
「へ?」
顔に手をやると、口元に涎の痕跡が感じ取れた。慌てて袖で拭おうとすると、見慣れないブランケットが自分の身体にかかっていることに気が付く。
「えーっと」
「さっきアリスの奴が、風邪を引くといけないからってな」
「アリス、さん……? ――あ!」
魔理沙の口から零れた名前に、脳が一瞬で覚醒を起こす。
アリス。アリス・マーガトロイド。
妖怪禁制の人里において、珍しくも侵入を許可されている魔法使い。
里で人形劇を披露しているところを見たこともあるし、神社の宴会に参加しているところを見たこともある。
まるで人形のように綺麗で、それでも人間の温かみを感じる。そしてなにより、遠目で見ただけでも優しそうだと思える、不思議な妖怪。
そんなアリスという存在のことを、脳が瞬時に想起した。
アリスはそういう妖怪で。
アリスの家に己はいて。
アリスに今、自分は客として迎えられている。
それらの全てを、思い出したのだ。
……確か、今日の朝……。
突然のことだった。鈴奈庵にふらりと現れた魔理沙が、こう切り出したのだ。アリスの奴がお前に頼みたいことがあるというから、今夜一緒に遊びに行かないか。料理を作って待っているみたいだぜ、と。
本当に突然のことで、言われてすぐには状況を飲み込むことすらできなかった。
けれど一瞬の後に得た感情は、決して後ろ向きなものではなかった。寧ろ逆だ。いつも妖怪相手に覚えているような――怖れと好奇がないまぜになった、好意にも似た感情が、胸の奥から湧き上がってきたのだ。
魔法の森の魔法使い。
人形屋敷に住まう妖。
童話のような怪しい魔女。
それなのに、どこか優しさを感じる女のヒト。
そんな相手に、興味を惹かれないわけがないのだった。
そして夕刻、黄昏に沈む人間の里を後にしたがついさっきのことである――、はずなのだが。
「ええと、ここはアリスさんの家で、そしてソファーの上で、私はここに座ったとたん、眠りこけてしまった……ということですよね?」
「そうだぜ小鈴。もうすっかり日も沈んだ後だ」
「え。窓の外、真っ赤だったのに……」
言われて窓を見る。しかしそこには、遠くまで広がる暗闇しか存在していなかった。
夜闇の向こうには何も無い。
硝子に映った自身の姿だけが、そこにはあった。
「うー、出かけるとわかっていれば、昨日夜更かしなんかしなかったのに……アリスさんにも謝らないと」
「――ああ、べつに気にしないで。きっと魔法の森で良くないものを吸ってしまったから、身体が疲れてしまったんだわ」
「あ――」
――鈴のようだ、と少女は感想した。自分がそんなことを思うのはおかしいと思いながら、だけれど彼女の――アリスの声は、鈴の音と呼ぶにふさわしい可憐な響きを有していた。
「アリス、さん?」
「ふふ。まだ寝ぼけているのね。さっきも挨拶はしたでしょう?」
「えと」
言われてみれば、そんな気もする。
段々と記憶が鮮明になる。まるで写真を現像するように、玄関で挨拶を交わした絵が頭の中に浮かび上がってきた。
「すみません、なんだかぼーっとしちゃってるみたいで」
「だから気にしないでいいわよ。えーとそうね、これはちゃんと森の中を案内してこなかった魔理沙が悪いということで」
「ま、そういうことにしておくか。あーあー、悪い魔女に冤罪を擦り付けられてしまったぜ」
アリスと魔理沙が、そんな軽口を叩く。一言二言のやり取りを見るだけで、旧知の仲であることが窺いしれた。
「……さ、丁度夕飯ができたところよ。私からの依頼は、ディナーの後にしましょう?」
朗らかに笑うアリスの顔を見ると、どうしてか安堵が胸を支配した。
まるでお母さんみたい、と。そんな益体もない発想が、脳に刻まれ離れなかった。
◆◆◆
どれもが、見覚えのないごちそうだった。
丸鶏の丸焼きは狐色に輝いて、じゅうじゅうと肉汁を滴らせることに余念がない。敷かれたレタスがまるで皿のように、滴る汁を受けて光った。
こげ茶色に照る生地を持つのは、魔理沙の帽子ほどもある大きなパイだ。サクリとナイフが通過すれば、小気味よい断裂音と共にシナモンの香りが宙を舞った。
対照的に小皿に盛られたグラタンは、しかし存在感では負けていない。チーズの合間から覗く鮮やかな色は、パプリカとほうれん草が持つものだ。色と、そして匂いがこれでもかと存在を主張している。
他にも、似た料理すらみたことがないものもあれば、何の肉を使っているのかわからないものもある。この全てを一日で作ってしまったという事実が、とても信じられなかった。
「凄い……! これ、全部アリスさんが作ったんですか?」
「ふふ。私だけじゃないわ。人形たちも一緒に、ね」
「さもしく一人で作ったことには変わりないけどな」
「この人形たち、アリスさんが動かしてるんですか? やっぱり凄い……」
今も人形たちはキッチンとダイニングを行き来して、配膳の手を休めない。暫く後に動きが鎮まったかと思えば、三人の前へとグラスを置いて、ボトル手にして開けにかかった。
「まずは乾杯しましょう? この日の為にとびっきりのものを用意したの」
「は、はい。わっ、泡が浮いてる」
「スパークリングワインか? 良く手に入ったな」
「ええ。諦めていたんだけど、お願いしていたものが運よく入荷していてね。それにお肉も……予想外のものが手に入ったものだから、少し作りすぎちゃったわ」
自分から料理に手を伸ばすまでもなく、人形たちが料理をサーブしてくる。慌てながらも口を付けると、まるで味覚が今この場で生まれたのではと錯覚するほど、記憶にない芳醇な味わいが舌の上に弾けた。
「美味しいです! 本当にこんなもの、ご馳走になってしまっていいんですか?」
「――そう、ちゃんと味わえるのね」
「え、何か言いました?」
「……いえ。喜んでもらえたらなら何より。私も腕を振るった甲斐があったわ」
一瞬と言えるほどの間もなく、アリスの顔に影が差した――ような気がした。
「どうした小鈴、アリスの顔を見つめて」
「ああええと……アリスさんは食べないんですか?」
誤魔化すようにアリスの顔から視線を外せば、彼女の手元に料理がないことに気が付く。人形たちはこちらばかりに料理をサーブしているし、アリス自身も料理を手に取ろうとしていなかった。
「味見をしていたら、お腹いっぱいになっちゃってね。魔法使いは魔力を消費すればお腹が空くから、日課の研究が終わったら頂くわ」
「はあ。そうですか」
「まあそういうわけだ。小鈴は気にせずに食べると良いぜ。勿論私もそうするが」
魔理沙はそれだけ言うと、山と積まれた料理たちと格闘し始める。凄まじい勢いで食べ物が口内に消えていくが、動作の一つ一つが丁寧なのがまた魔理沙らしい。
「さ。小鈴も遠慮なく食べて頂戴。言っておくけど、これは純粋な私からの気持ちだから――私の依頼を受けるかどうかは、また別で考えてもらって構わないわ」
にっこりと、口の端を歪めてアリスが笑う。
人形のように。綺麗な顔で、口だけを動かして。
「――――」
この時、小鈴は初めて思った。
ああこの人も、やっぱり妖怪なんだろうな、と。
――ご馳走は最後まで、不自然なほどに味わい豊かだった。
◆◆◆
「さて。貴方に依頼したいことというのは、翻訳なの」
「翻訳、ですか」
オウム返しの質問に、アリスは気を悪くした様子もなく微笑んで見せた。
あれほどあった料理は片付けられ、今テーブルの上にあるのは、一冊の古びた本だけだ。
「外国の魔女が書いたモノなんだけどね。私も魔理沙もまるで読むことができなかったの」
「大抵のグリモワールなら、単語程度なら読み摘まむことはできるんだがな」
「……なるほど。そこで私の、判読眼が必要ということですね」
――本居小鈴という少女は、ただの人間ではない。その眼が判読するのは人間の扱う言語に留まらず、妖のソレをも読み解く。
小鈴が言語を理解していなくとも、意味が直接脳に浮かぶ。そしてそれは言語のみを対象としたものではなく、絵や図であっても機能するものだ。
「理解が早くて助かるわ。このグリモワールさえ読み解ければ、完全自立人形が完成するはずなのよ」
「完全、自立人形ですか?」
「ええ。人間や妖怪と何も変わらない、自分で考えて動く人形よ。私が目指しているのは、五感さえも備えたヒトとの区別がつかない人形ね」
研究者の自負を感じさせる、澄まし顔をアリスは浮かべた。
「そうなんですね。なら、アリスさんの為にも私やってみます!」
「有難う。でも気負わなくていいわ。全てが上手く読み解けなくても、理解のフックにはなるはずだもの」
グリモワールは、まるで辞書のようだった。単に複写するだけでも、相当な時間がかかることは容易に想像できた。
だが、
「私に任せてください! なんだか楽しそうですし、もしかしたら私も魔法が使えるようになったりするかもしれませんし!」
「ふふ、それはないと思うけど……でも、そう言ってくれるなら嬉しいわ」
魔法が使えるかも、と言ったのは冗談に過ぎない。けれど、それ以外は全てが本心からの言葉だった。
「お礼は勿論するわ。紙代だってばかにならないでしょうし」
「でも、さっきあんなにご馳走してもらって――」
「言ったでしょう、あれは別で考えてって。正当な仕事には正当な報酬が必要よ」
笑みで、しかし確固たる意志を湛えてアリスが言う。
こちらがどう言ったところで、心変わりは期待できそうになかった。
「……わかりました。じゃあまずは、翻訳にどれくらいの時間がかかるかを計算してみます」
「簡単にできるの?」
「はい。と言っても、数頁翻訳してみてそこから割り出すだけですけどね」
本居小鈴は、製本の経験を豊富に持つ。故に翻訳の時間さえわかれば、用紙代は容易に割り出すことができると少女は考えたのだ。
「今日家に帰ったら、少しやってみます。明日にはお返事を出せるかと」
「それなら今日はうちに泊まっていくといいわ。せっかく来てもらったのだもの、もっとゆっくりしてもらっていいのよ」
「え、でも……」
確かに、鈴奈庵を出るときに親へ泊まりになる可能性があると告げた――記憶はある。だが、本当にそうなるとは思っていなかったし、ほとんど初対面の相手にここまでしてもらうのは気が引けた。
しかしここまでの経験で、アリスがそういう性格だと――好意を相手が受け取ることを心から喜ぶ性格であることは、既に理解できていた。
だから、
「……じゃあ、お言葉に甘えて。今日は泊まっていこうと思います」
「そうこなくっちゃな。あ、勿論私もいいだろ?」
「はいはい。最初からそのつもりよ。でも客室は小鈴に使ってもらうから、魔理沙はソファーで寝るように」
「そりゃないぜ。ああそうだ、アリスのベッドで一緒に寝るってのはどうだ?」
「馬鹿言わないの。そういうことは寝相を治してから言いなさいな。大体ね――」
また、二人が楽し気に言い争いを始める。
そんな光景に笑いを浮かべながら、テーブルに置かれたままのグリモワールを手に取った。
表紙には文字らしきものが書かれているが、それからは何も読み取れない。掠れているからか、それとも意味のない飾りのような部分なのか、原因はわからなかった。
何の気なしに、最初の頁を開く。そこには目次は無く、ひたすらに文字が詰め込まれているだけだった。
しかし――。
……え? これは……。
それは、まぎれもなく文字だった。
見覚えはない。しかし明確に記号じみた形を成している。自分が知らないだけの、遠い世界の言語には違いなかった。
なのに、
……どうして、なにもイメージが湧いてこないの?
双眸は、しっかりと文字を認識している。それでも、判読眼は何も返さない。意味が頭の中に浮かぶこともなく、イメージが眼に映りこむこともなく、何もかもが起こらなかった。
「あら、どうしたの? 何か難しい記述でもあった?」
「い、いえっ。何でもないんです」
びくり、と肩を震わせて返事をする。
私に任せてください、などと言った手前、何も読み取れないとは言えなかった。
そんな隠し事なんて、意味がないとはわかっている。それでも、何を言っていいのかまるでわからなかったのだ。
しかしアリスは、それに気が付く様子もなく、
「……そう。まあ、部屋でゆっくりやってもらえればいいわ。急いでもいないから、じっくり……ね?」
人差し指を立て、口を歪めた笑いで、アリスが言う。
いつの間にか、魔理沙も軽口をやめていた。
アリスも、魔理沙も、何も言わない。
耳の痛い静寂が、一瞬を支配した。
そんな不自然な静寂に、少しだけ不気味さを覚えて――、
「――あ、あの」
「じゃあ部屋に案内するわね。今日は貴方の部屋だと思って使ってくれて構わないから」
「え? あっアリスさん――」
何かを言おうとして、だけれど何も言えなかった。
アリスに手を取られて、引っ張られて、家の奥へと入っていく。
廊下は狭く、そして暗い。まるで昼から夜へ飛び込むように、明るいダイニングから、暗い客間へと歩みを進めていく。
アリスの手はずっとこちらの手を握っている。
――つめたい、と感じた。
驚きを胸中が支配した。妖怪の手だとしても、果たしてここまで冷たいものだろうか。
「――ねえ、小鈴」
「……なんでしょうか」
「身体におかしなところはない? どこか傷んだり、逆に何も感じないところがあったり、変なところはないかしら」
「ええっと……得には、ないですけど」
「目と舌、それと嗅覚も大丈夫なようだけど、耳は大丈夫? 手指の感覚はある?」
「……大丈夫です」
手を引くアリスは進行方向を向いたまま。
その顔はうかがい知れず、今しがたの質問の意味もわからない。
まるでこちらを観察するような――異常がないかを確かめるような、そんな質問だった。
「……あら、汗をかいているようね」
「えっ」
いつの間にかアリスが歩みを止めていた。
辿りついた部屋のドアには、客間と書かれたルームプレートが下がっている。それはぼんやりと青白く光って、薄く周りを照らしていた。
しかし、それでもアリスの表情はわからない。あの口元だけを動かす笑いすらも、今は見ることができなかった。
「ずっと手を引いていたからかしら? 御免なさいね」
そんなことを気にするのはおかしかった。
家の中を歩いただけなのだ。数秒を移動しただけで、汗なんてかくはずもない。
それでも現実に、手の中は汗ばんでいて――
「ねえ。なにか、怖いことでもあった?」
「いえ、怖いことなんてなにも……」
怖くはない。それは嘘ではない。
だけど、本当のことでもない。
怖さとは似て非なる、不気味さがあった。
得体のしれない何かが背中に貼りついているような――ざわざわとした感触が、意識から離れなかった。
「そう。なら今日はこのあたりで。朝になったら、起こしに来るわ」
「…………」
アリスの声色は変わらない。
目覚めたときとも、食事のときとも、少しも違わない優しい声だった。
それなのに、どうして――
「ああ、それと」
「っ、はい」
「向かいの部屋は、絶対に覗かないでね」
「向かいの……」
首だけを動かして――アリスは未だに握った手を離してくれない――後ろを見る。
そこには客間と同じようなドアがあった。違う箇所は一つだけ、ルームプレートにはこう書かれていたのだ。
実験室、と。
「中には危ない道具も置いてあるから、絶対に見ちゃ駄目だからね」
「……わかりました」
返事をすると、ようやくアリスが手を離す。
じんじんと、鈍い感触が手に残響した。
「部屋の電気はつくから、作業してもらっても構わないわ」
「……すみません、今日はちょっと疲れてしまったみたいで。やっぱり、家に帰ってからやろうと思います」
「ええ、わかったわ。それでお願い」
少しのわだかまりもなく、アリスが言う。
まるでそんな依頼など、どうでもいいことかのように。
「洗面所は廊下を突きあたったところよ。それじゃあ、また明日」
「……はい、おやすみなさい」
返事をするが、アリスは動かない。こちらが部屋に入るのを待っているのだろう。
アリスの視線に晒されながら部屋に入る。
ぱたん、と背後でドアが閉まって、一人になった。
瞬間――膝が崩れ落ちた。
……あ、れ。
ぺたんとドアの前に座り込む。
身体に力を入れようとしても、どうしてかぴくりとも動かなかった。
――恐怖だ、と少女は悟る。
アリスへの恐怖で身体が震えている。
暫くの時間をかけて、ようやくそのことが意識に落ちた。
「……へんなの。アリスさんは、あんなに良い妖怪なのに」
呟いた言葉は、しかし身体に何の変化も与えてくれない。
結局身体が動いたのは、それから一刻あまりの後だった。
◆◆◆
あれだけの食事をしたのだから、朝までベッドの中にいることは不可能である。
そのことを理解していながらも、夜の廊下に這い出すのには勇気が必要だった。
手指に纏わりつく水を服で拭って、洗面所から出る。
持参した荷物は客間におかれていて、幸いなことに今はいつもの寝間着姿だ。そのことが少女の心を少しだけ慰めた。とはいえ、今は部屋の外だ。心が今にも震えそうなことには変わりがない。
少しでも早くベッドの中に帰るべく、歩みを早める。
「それにしても、魔理沙さんもアリスさんも変だったなあ」
アリスはともかく、魔理沙に関してはその人となりを良く知っている。
騒がしく軽口を忘れない賑やかな人。そんな魔理沙が、今日は不自然に大人しかった気がする。
アリスにしたところで、一つ一つの動作に違和感を覚えて仕方がなかった。どう考えても優しいお姉さんのはずなのに、今まで出会ってきた怪異のような得体のしれなさを感じるのだ。
勿論、妖怪なのだからそれが正しいのだろうが――、
「……私の勘違いだよね。お呼ばれして、ご馳走になって、きっと緊張してるんだわ」
そんな結論が口から零れる。
それが自分を納得させるための言葉とはわかっていた。
それでも、言わずにはいられなかったのだ。
――と、
「あれ……」
客間の向かい側。件の部屋が、開いていた。
先ほど洗面所に行く際には、確か閉まっていたはずだ。戻ってくる間にアリスが来て、そして閉め忘れたのだろうか。
洗面所にいたときは、誰の気配も感じられなかった。なにより、こんな短時間で出入りすることの意味を見いだせなかった。
……見ちゃ、駄目だよね。
「そういえば――」
先ほどアリスは、こう言っていた。
絶対に覗かないで。
絶対に見ちゃ駄目だ。
それは中に危険物があるからだ――と。
違和がある。
何故アリスは、入ってはいけないではなく、覗くなと言ったのか。
身体を傷つける何かがあったとしても、入らなければいいだけの話ではないか。
それなのにどうして、アリスはわざわざ覗くなと言葉を選んだのか。
「…………」
勿論、そんなものは言葉のあやに過ぎないのだろう。
もしかすると、本当に見ただけで危害が及ぶ魔術の品があるのかもしれない。
そもそも、他者の家なんて勝手に覗くものではない。
見てはいけないと言われているのだから。
考えるまでもなく、ベッドの中へと帰るのが正解だ。
――だけど。
「もし、何かを隠しているとしたら……」
思えば、目を覚ましたときから不自然だった。
あのとき魔理沙はなんと言っていたか。
――まだ記憶が――。
記憶。記憶とはなんのことだろうか。
それに。客間まで歩いたとき、アリスが不自然な質問をしていたのはなんだったのか。
そしてなにより。どうしてあのグリモワールには、判読眼が機能しなかったのか。
――もしかすると、自分の身になにか起こっているのだろうか。
魔理沙に薬を盛られたとか。
アリスに実験に使われたとか。
もしくは、これはただの夢だとか。
全ては突飛な発想だ。
魔理沙は昔から変わりなく。
アリスも驚くほどに優しい妖で。
判読眼の不調だって、単に疲れていただけに過ぎないのだろう。
「そう。別に、変なことなんてないじゃない」
それでも脚は動いた。
ドアに近づく。
客間でははない。
その向かいだ。
実験室に、静かに近づく。
半開きのドアは、ぽっかりと空いた闇を湛えていた。
ほんの少しドアを引けば、簡単に中へ入ることができる。
呵責はある。あんなに良くしてくれたアリスの言葉を裏切ることに。
しかし同時に、こうも思う。アリスならばきっと、謝れば許してくれると。
そんな言い訳を胸にして、少女はゆっくりと、それでいて確実にドアに近づく。
近づく。
ドアに手をかける。
手をかけて、闇の中に入り込む――。
……なにも、見えない。
当然だ。深い森は光を飲み、中へ落とす月明かりは微々たるものなのだから。
家の中なら尚更だ。か細い光が窓から差し、それでもなお闇と呼んで差し支えない空間が広がっている。
その中で辛うじて見えるのは、直立するいくつかの影。
それもおぼろげな、縦に長い輪郭の何かであるとしかわからない影。
それだけが、闇の中に浮かんでいた。
――少女の足が動く。
後ろにではなく、前に。
少しずつ目が闇に慣れてくる。
少しずつ影の姿が露わになる。
一歩を踏むたび、胸の鼓動が大きくなる。
どうしてか、これ以上進んではいけない予感がした。
怪我をしそうなものがある、という危機感ではない。
見てはならないものがある、という忌避感があった。
だけど。
だけども。
心の動きと裏腹に、足は動く。
その瞬間、差し込む月光が強くなった。
月を覆う雲が退いたのか、それとも別の理由か。
理由はわからない。しかしそれによって、部屋の中が少しだけ明らんだ。
目の前に佇む影の正体。それは何か。もう一歩を踏むだけで、判明する。
だから、
「――――」
声にもならない声を吐いて、最後の一歩を踏んだ。
そうして見えたのは――、
「っ!」
見覚えのあるものがそこにはいた。
それは人の形を持っていた。
頭部には金の髪と赤いリボン。
身体にはトリコロールの鮮やかな三色。
そして何よりも、美しいその面貌。
その全てに、見覚えがあった。
「アリス、さん……?」
アリス・マーガトロイド。彼女そのものとしか思えない物体が、目の前に存在していた。
しかしこれは、
「人形、だよね……?」
口に出してしまえば心が少しだけ落ち着きを取り戻す。
髪も眼も肌も何もかもが偽物とは思えなかったが、生物の気配がない以上は人形だと判断する他がない。
「アリスさんが作ったのかな。でも、どうして自分の人形を……?」
まるで鏡に映したかのように、全てがそっくりだった。
このまま動き出しても不思議ではないと思えるほどに、人間に近しい人の形だった。
ふと、アリスの言葉を思い出す。
――このグリモワールさえ読み解ければ、完全自立人形が完成するはずなのよ。
――人間や妖怪と何も変わらない、自分で考えて動く人形よ。
もしかすると、この人形はその完全な創造物を生み出すための実験体なのかもしれない。そうでもなければ、ここまで精巧な人形を作る意味がわからなかった。
「……あれ、もしそうなら……意識もある、のかな」
考えて、喋って、意識のある人形。
客観的には人形とわからない人形。
それを目指しているのならば、この人形にも意識はあるのだろうか。
もし意識があるとするならば、それはアリスと似通った心なのだろうか。
「って。もし本当に心まで一緒なら、主観的にも判断が付かないじゃない」
どこまでも本物に近しい身体があって。
思考さえも本物と似通っているならば。
完全自立人形は、自分が自分で人形であると気が付かないのではないか――?
「…………あれ」
なんてことはない思考の飛躍が、何故か腹の底に重く落ちた。
自分は、何かを忘れようとはしていないか。
この部屋に入る前、自分は何を考えていたのか。
「記憶……身体……思考……私の眼……」
まさか、と心が総毛だつ。
咄嗟に手が前に出て、アリスの――アリスの人型を持つモノに、指が触れる。
髪はさらさらと艶やかだった。
肌は弾力と柔らかさがあった。
瞳には薄暗い光が灯っていた。
全てが、本物としか思えなかった。
しかし、やはりそれは人形だった。
脈を打っていなかった。
呼吸をしていなかった。
瞬きをしていなかった。
身体に、熱はなかった。
そして己の身体を顧みてみれば――脈も、呼吸も、瞬きも――なにより、熱が感じられた。
「…………何考えてるんだろう。そんなこと、あるはずないよね」
ばかみたい、と心が呟く。
良くしてくれた相手の言いつけを破って部屋に忍び込んで、あまつさえ変な想像をして。こんなこと、誰にも言えそうにない。
深呼吸をすると、鼓動は完全に落ち着きを取り戻していた。
大人しくベッドに帰って、寝ようと少女は思った。そして朝になったら、勝手に実験室に入ったことをアリスに謝るのだ。
それで全ては解決して、判読眼の調子だって元に戻るに違いない。心の底から、そう思えた。
……はあ。また阿求に怒られそう。
あの友人は自分が妖怪と親しくすると眉をひそめるきらいがある。
今回のことを話題にしたら、きっと不機嫌になりながらも怒ってくれるのだろう。そんな場面を想像したら、先ほどまでの気持ちは何処へやら。面白さにも似た感情が、心の中に湧き上がった。
――その瞬間だった。
部屋の入り口から、声が飛び込んできたのは。
「――そこで何をしているの」
「ひぁっ!」
背にナイフが差し込まれた。そんな連想をしてしまうほどに、その一言は冷たく鋭かった。
反射的に――けれども鈍間に、振り返る。
そうしてそこにいたのは、
「アリス、さん」
再び、暗闇の中に美貌が浮かび上がる。しかし今度こそ、そこに立っているのはアリス・マーガトロイド本人に間違いなかった。
「アリスさん……その、ええと、ごめんなさい! 私、言いつけを破って部屋の中に……」
「……はあ。別にいいわ、失敗作だもの」
「え?」
何を言っているのか、すぐにはわからなかった。しかし、直後に意味に思い当たる。恐らく失敗作というのは、背後にあるアリスの人形のことだろう。先ほどまでべたべたと粗雑に扱ってしまっていたが、その人形は失敗作だから気にしないで――と、アリスは言いたいのだ。
そんな推測を心の中で思い浮かべて、
「本当にごめんなさい! どうしても部屋の中が気になってしまいまして」
「だから、別にいいわ。うーん、今度は成功したと思ったのだけど」
「アリスさん?」
「記憶の定着も曖昧。疑似人格では無理があるのかしら。やはり一から構築したものでないと――」
「あの……」
間抜けな声を上げた瞬間――背後でガタンと音が鳴った。
今度は、言葉にすらならなかった。空気だけが口から洩れて、辛うじて背後を振り向くことしかできなかった。振り向きざまに膝が崩れて、したたかに膝を床に打ち付ける。
振り向いた先にいるのは、当然ながら先ほどと同じ物体。
アリス――の姿を持った、人形だ。
人形は声にもならない呻きの音を発しながら、こちらに迫って――そのまま後ろへと通り抜けた。
放心する暇もない。三度振り返ると、そこにはうり二つの姿が並んでいて、
『――ぉ』
「――あら、まだ意識が残っていたのね」
そう言ってアリスは、アリスの形を押しのける。
まるで虫か何かを手で払うように。
すると追加で音が生じた。
ぼん、と。アリスだったものの胸から音が鳴った。
それは爆発音だ――と、理解はできても理由がわからなかった。
どうして、そんなものが胸の中に?
「ああこれ? 私、人形の中にはいつも爆薬を埋めるようにしてるの。だってそのほうが、廃棄するときに楽でしょう?」
また、あの笑いをアリスが浮かべていた。けれどそれは今しがた浮かんだものではない。アリスの形を視界に入れたときから、アリスは笑っていた。
そういえば、魔理沙と話すときにはそんな笑いはしていなかったような――。
「さて」
「え?」
表情をぴくりとも変えずに、アリスがこちらを向いた。
「残念だけど、これ以上魔力を注いでも無駄みたいね」
「……うそですよね……?」
「残念だけど……ふふ」
アリスがしゃがんで、床に座り込むこちらと視線を合わせる。
笑っていた。
口元だけではない。目も笑っていた。冷たさしか感じない、細めた目で笑っていた。
それは初めて観察ではなく――愉快な物としてこちらを見たからに、違いなかった。
「ベッドを勝手に抜け出すなんて、悪い子ね」
「やめて……」
「でも、ちゃんと私が眠らせてあげるから安心して」
「やめて……やめて!」
「ほら」
「あ」
首元に、指が触れた。
氷のように冷たい指。
それが滑るように胸元に入り込んで――。
「それじゃあさようなら。でも安心して?」
何を、と問い返す気力はもはやなかった。
少女にはアリスが何を言おうとしているのか、わかっていた。
わかってしまっていた。
「――本物の小鈴は、今も鈴奈庵で眠っているわ」
「――――いや」
「おやすみなさい」
囁かれると共に、指が心臓の上で止まる。
一瞬だけ指先が熱くなって――すぐあとに、弾けるように熱が散じた。
同時に光が遠のく。
自分というものが消えていく。
眠りが、やってくる。
その眠りからは二度と目覚めないんだろうなと。
他人事のように思いながら――彼女は意識を喪失した。
◇◇◇
ぱっと部屋の明かりが灯る。
小鈴を腕に抱いたまま、アリスは深く頷いた。
納得とも、得心とも、全てを出し切ったとも見える深い表情を顔に湛えて。
アリスがくるりと首を回して後ろを見る。そこには“ドッキリ大成功”と書かれた札を持った魔理沙が照明のスイッチを押していて、
「……ふふ、上手くいったわね」
「…………」
「魔理沙から小鈴ちゃんのことを聴いたときは、まさかそんな人間がいるのかと思ったけど」
「…………」
「本当に驚かされたい人間がいるだなんてね。里の子ども相手じゃこういうことはできないから、ちょっと気合が入りすぎちゃったかも」
「…………ちょっと?」
「え?」
「え? じゃあないんだよ。ほら」
「え?」
魔理沙が指を刺した先――腕に抱いた小鈴を揺すってみるが、何も反応がない。
頭を叩いて、頬を叩いて、一応自分の頭も叩いてみるが、小鈴は特に喋り出すことなく白目を向いていて、
「……え?」
「……お前さあ、いや私も悪かったけどさあ、そういえばお前って結構そういうところあったよなあ」
「な、何よ」
「何が何よなんだ言ってみろほら」
「だから何がよ!」
「――やりすぎだろこれは! 泡吹いてるぞ小鈴の奴!」
「え? ――ああ大変! 誰がこんなことを!」
「お前だよ!」
取りあえず、魔理沙のそんな悲鳴が木霊した。
◇◇◇
魔法の森の魔法使い。
人形屋敷に住まう妖。
童話のような怪しい魔女。
それなのに、どこか優しさを感じる女のヒト。
そんな見立ては、決して間違ってはいなかったのだけれど。
一つだけ、小鈴は知らなかったのだ。
「……その、アリスさんって結構――お茶目さんなんですね」
「言葉を選ばなくていいぞ小鈴。ああそうだ、霊夢に言えば退治してくれるに違いない。さっそく今から神社に行こう」
「魔理沙、それはちょっと冗談になってないからやめて頂戴……」
……アリスさん、こんな表情もするんだ
「その、本当にごめんなさい。ちょっとやり過ぎたわ。いや本当にうん」
「あっいえそんな! そんなに謝らないでください確かに怖かったですけど!」
「気絶するくらいにな」
「反省してるわ……」
「魔理沙さんも! もう!」
客間にて眼を覚ました小鈴は、ベッドに腰かける魔理沙と、床に正座するアリスから話を聞いていた。
つまりは、二人の悪戯だったらしい。
本居小鈴のパーソナリティを聞き及んでいたアリスは、どうにも小鈴との距離を近めようと思ってくれていたようだ。
近しい距離に妖がいてほしい。そして、ちょっぴりの怖れを得たいと思っている。そんな小鈴という人格を、アリスは好ましいと思っていたのだ。
「魔理沙と霊夢から聞いていたけど、本当に面白い子ね。あんなに怖がっていたのに、すっかり落ち着いちゃって」
「いやまあその、昔色々ありましたので……」
魔理沙はアリスにどこまでのことを話しているのだろうか。過去に会った色々な出来事と怪異からしたら、怪我をしていないだけ今回はマシというものだ。
「それにしても手が込んでましたね。私の眼を欺いたのはどうやったんです?」
「ああ、それは簡単。あの本には言葉なんて書いてなかったの。架空の記号を規則性なく配置しているだけの、フェイクだったのよ」
「あー、なるほど」
判読眼はあらゆる言語を読み解く。しかしそれが、意味の無い形の羅列であれば何も読み解けないのは当然の話だった。
「アリスは凝り性だからな、それくらいのことはする。レミリアの奴に煽られて家のように大きい人形を創ったこともあるからな」
「別に煽られたから創ったわけじゃないわ。あれは純粋な知的好奇心と――」
「好戦意欲、だろ?」
「……否定はしないわ」
どうやら、この二人はいつもこんな調子らしい。
騒がしい魔理沙と、静かなアリス。けれども本質的な好奇心を、きっと二人は共有しているのだろう。
……もしかしたら、私にも同じものを感じてくれていたりして。
それはきっと思い込みなのだろうけれど。
ここまでのことをしてくれた二人を前にすると、どうにもそう思えて仕方ないのだ。
そんな心の内を悟られないように、小鈴は二人に言う。
「お二人とも、仲が良いんですね」
「それも否定はしないわ。今日のことだって、魔理沙と催したことだもの」
「内容はアリスに一任したがな。おかげさまで大成功だったみたいで何よりだ」
アリスが再びばつの悪そうな顔をする。だから小鈴は、
「はい。本当に楽しかったです。ええと怖かったのは本当ですけど」
「……本当に? 霊夢に告げ口しない?」
「霊夢さんにはしっかり言っておきます。アリスさんのところで、とっても美味しい料理をご馳走になったって」
「……そう。それなら、良かったわ」
そう言って、アリスが口元を綻ばせる。
それでこの話は終わりだった。
言われてもないうちからこんなことを思うのはどうかと思ったけれど。
きっと、これからもアリスの家には遊びに来ることになる。
そんな予感を、小鈴は感じていた。
「それじゃあ改めて。これからもよろしくね、小鈴ちゃん」
屈託なく笑うアリスを――今日一番の笑顔を見て、小鈴は悟った。直前まで感じていた予感が、己の中で確信に変わったのを。
「はい! こちらこそよろしくお願いします、アリスさん!」
「あ、出しどころなかったんだけど等身大小鈴ちゃん人形もあったのよ。見る?」
「えーっと……それはまだ怖いので、遠慮しておきます」
「そういうところだからな、アリス」
……ん。
「あれ、ここは……」
ゆっくりと瞼を開く。
薄く開いた目に飛び込んで来るのは、柔らかい光。色で言うなら琥珀か伽羅。もしくは、自分の髪のような――飴色の光。
これは屋内灯の輝きだ。そんな理解が頭の中に浮かぶものの、少女は今自分がどんな状況に置かれているかを把握できていなかった。
……お昼を食べて、店番をお父さんにお願いして、里を出て、魔法の森に入って、それから……。
「――おい小鈴、大丈夫か?」
「……え。まりさ、さん?」
少女の――小鈴と呼ばれた少女の視界に変化が生じた。
未だぼんやりと霞む像の中に、見慣れた魔法使いの姿が現れたのだ。
「あれ、どうして魔理沙さんがここにいるんですか?」
「何を言って――ああ、まだ記憶が――いや、まだ寝ぼけているだけか」
「へ?」
顔に手をやると、口元に涎の痕跡が感じ取れた。慌てて袖で拭おうとすると、見慣れないブランケットが自分の身体にかかっていることに気が付く。
「えーっと」
「さっきアリスの奴が、風邪を引くといけないからってな」
「アリス、さん……? ――あ!」
魔理沙の口から零れた名前に、脳が一瞬で覚醒を起こす。
アリス。アリス・マーガトロイド。
妖怪禁制の人里において、珍しくも侵入を許可されている魔法使い。
里で人形劇を披露しているところを見たこともあるし、神社の宴会に参加しているところを見たこともある。
まるで人形のように綺麗で、それでも人間の温かみを感じる。そしてなにより、遠目で見ただけでも優しそうだと思える、不思議な妖怪。
そんなアリスという存在のことを、脳が瞬時に想起した。
アリスはそういう妖怪で。
アリスの家に己はいて。
アリスに今、自分は客として迎えられている。
それらの全てを、思い出したのだ。
……確か、今日の朝……。
突然のことだった。鈴奈庵にふらりと現れた魔理沙が、こう切り出したのだ。アリスの奴がお前に頼みたいことがあるというから、今夜一緒に遊びに行かないか。料理を作って待っているみたいだぜ、と。
本当に突然のことで、言われてすぐには状況を飲み込むことすらできなかった。
けれど一瞬の後に得た感情は、決して後ろ向きなものではなかった。寧ろ逆だ。いつも妖怪相手に覚えているような――怖れと好奇がないまぜになった、好意にも似た感情が、胸の奥から湧き上がってきたのだ。
魔法の森の魔法使い。
人形屋敷に住まう妖。
童話のような怪しい魔女。
それなのに、どこか優しさを感じる女のヒト。
そんな相手に、興味を惹かれないわけがないのだった。
そして夕刻、黄昏に沈む人間の里を後にしたがついさっきのことである――、はずなのだが。
「ええと、ここはアリスさんの家で、そしてソファーの上で、私はここに座ったとたん、眠りこけてしまった……ということですよね?」
「そうだぜ小鈴。もうすっかり日も沈んだ後だ」
「え。窓の外、真っ赤だったのに……」
言われて窓を見る。しかしそこには、遠くまで広がる暗闇しか存在していなかった。
夜闇の向こうには何も無い。
硝子に映った自身の姿だけが、そこにはあった。
「うー、出かけるとわかっていれば、昨日夜更かしなんかしなかったのに……アリスさんにも謝らないと」
「――ああ、べつに気にしないで。きっと魔法の森で良くないものを吸ってしまったから、身体が疲れてしまったんだわ」
「あ――」
――鈴のようだ、と少女は感想した。自分がそんなことを思うのはおかしいと思いながら、だけれど彼女の――アリスの声は、鈴の音と呼ぶにふさわしい可憐な響きを有していた。
「アリス、さん?」
「ふふ。まだ寝ぼけているのね。さっきも挨拶はしたでしょう?」
「えと」
言われてみれば、そんな気もする。
段々と記憶が鮮明になる。まるで写真を現像するように、玄関で挨拶を交わした絵が頭の中に浮かび上がってきた。
「すみません、なんだかぼーっとしちゃってるみたいで」
「だから気にしないでいいわよ。えーとそうね、これはちゃんと森の中を案内してこなかった魔理沙が悪いということで」
「ま、そういうことにしておくか。あーあー、悪い魔女に冤罪を擦り付けられてしまったぜ」
アリスと魔理沙が、そんな軽口を叩く。一言二言のやり取りを見るだけで、旧知の仲であることが窺いしれた。
「……さ、丁度夕飯ができたところよ。私からの依頼は、ディナーの後にしましょう?」
朗らかに笑うアリスの顔を見ると、どうしてか安堵が胸を支配した。
まるでお母さんみたい、と。そんな益体もない発想が、脳に刻まれ離れなかった。
◆◆◆
どれもが、見覚えのないごちそうだった。
丸鶏の丸焼きは狐色に輝いて、じゅうじゅうと肉汁を滴らせることに余念がない。敷かれたレタスがまるで皿のように、滴る汁を受けて光った。
こげ茶色に照る生地を持つのは、魔理沙の帽子ほどもある大きなパイだ。サクリとナイフが通過すれば、小気味よい断裂音と共にシナモンの香りが宙を舞った。
対照的に小皿に盛られたグラタンは、しかし存在感では負けていない。チーズの合間から覗く鮮やかな色は、パプリカとほうれん草が持つものだ。色と、そして匂いがこれでもかと存在を主張している。
他にも、似た料理すらみたことがないものもあれば、何の肉を使っているのかわからないものもある。この全てを一日で作ってしまったという事実が、とても信じられなかった。
「凄い……! これ、全部アリスさんが作ったんですか?」
「ふふ。私だけじゃないわ。人形たちも一緒に、ね」
「さもしく一人で作ったことには変わりないけどな」
「この人形たち、アリスさんが動かしてるんですか? やっぱり凄い……」
今も人形たちはキッチンとダイニングを行き来して、配膳の手を休めない。暫く後に動きが鎮まったかと思えば、三人の前へとグラスを置いて、ボトル手にして開けにかかった。
「まずは乾杯しましょう? この日の為にとびっきりのものを用意したの」
「は、はい。わっ、泡が浮いてる」
「スパークリングワインか? 良く手に入ったな」
「ええ。諦めていたんだけど、お願いしていたものが運よく入荷していてね。それにお肉も……予想外のものが手に入ったものだから、少し作りすぎちゃったわ」
自分から料理に手を伸ばすまでもなく、人形たちが料理をサーブしてくる。慌てながらも口を付けると、まるで味覚が今この場で生まれたのではと錯覚するほど、記憶にない芳醇な味わいが舌の上に弾けた。
「美味しいです! 本当にこんなもの、ご馳走になってしまっていいんですか?」
「――そう、ちゃんと味わえるのね」
「え、何か言いました?」
「……いえ。喜んでもらえたらなら何より。私も腕を振るった甲斐があったわ」
一瞬と言えるほどの間もなく、アリスの顔に影が差した――ような気がした。
「どうした小鈴、アリスの顔を見つめて」
「ああええと……アリスさんは食べないんですか?」
誤魔化すようにアリスの顔から視線を外せば、彼女の手元に料理がないことに気が付く。人形たちはこちらばかりに料理をサーブしているし、アリス自身も料理を手に取ろうとしていなかった。
「味見をしていたら、お腹いっぱいになっちゃってね。魔法使いは魔力を消費すればお腹が空くから、日課の研究が終わったら頂くわ」
「はあ。そうですか」
「まあそういうわけだ。小鈴は気にせずに食べると良いぜ。勿論私もそうするが」
魔理沙はそれだけ言うと、山と積まれた料理たちと格闘し始める。凄まじい勢いで食べ物が口内に消えていくが、動作の一つ一つが丁寧なのがまた魔理沙らしい。
「さ。小鈴も遠慮なく食べて頂戴。言っておくけど、これは純粋な私からの気持ちだから――私の依頼を受けるかどうかは、また別で考えてもらって構わないわ」
にっこりと、口の端を歪めてアリスが笑う。
人形のように。綺麗な顔で、口だけを動かして。
「――――」
この時、小鈴は初めて思った。
ああこの人も、やっぱり妖怪なんだろうな、と。
――ご馳走は最後まで、不自然なほどに味わい豊かだった。
◆◆◆
「さて。貴方に依頼したいことというのは、翻訳なの」
「翻訳、ですか」
オウム返しの質問に、アリスは気を悪くした様子もなく微笑んで見せた。
あれほどあった料理は片付けられ、今テーブルの上にあるのは、一冊の古びた本だけだ。
「外国の魔女が書いたモノなんだけどね。私も魔理沙もまるで読むことができなかったの」
「大抵のグリモワールなら、単語程度なら読み摘まむことはできるんだがな」
「……なるほど。そこで私の、判読眼が必要ということですね」
――本居小鈴という少女は、ただの人間ではない。その眼が判読するのは人間の扱う言語に留まらず、妖のソレをも読み解く。
小鈴が言語を理解していなくとも、意味が直接脳に浮かぶ。そしてそれは言語のみを対象としたものではなく、絵や図であっても機能するものだ。
「理解が早くて助かるわ。このグリモワールさえ読み解ければ、完全自立人形が完成するはずなのよ」
「完全、自立人形ですか?」
「ええ。人間や妖怪と何も変わらない、自分で考えて動く人形よ。私が目指しているのは、五感さえも備えたヒトとの区別がつかない人形ね」
研究者の自負を感じさせる、澄まし顔をアリスは浮かべた。
「そうなんですね。なら、アリスさんの為にも私やってみます!」
「有難う。でも気負わなくていいわ。全てが上手く読み解けなくても、理解のフックにはなるはずだもの」
グリモワールは、まるで辞書のようだった。単に複写するだけでも、相当な時間がかかることは容易に想像できた。
だが、
「私に任せてください! なんだか楽しそうですし、もしかしたら私も魔法が使えるようになったりするかもしれませんし!」
「ふふ、それはないと思うけど……でも、そう言ってくれるなら嬉しいわ」
魔法が使えるかも、と言ったのは冗談に過ぎない。けれど、それ以外は全てが本心からの言葉だった。
「お礼は勿論するわ。紙代だってばかにならないでしょうし」
「でも、さっきあんなにご馳走してもらって――」
「言ったでしょう、あれは別で考えてって。正当な仕事には正当な報酬が必要よ」
笑みで、しかし確固たる意志を湛えてアリスが言う。
こちらがどう言ったところで、心変わりは期待できそうになかった。
「……わかりました。じゃあまずは、翻訳にどれくらいの時間がかかるかを計算してみます」
「簡単にできるの?」
「はい。と言っても、数頁翻訳してみてそこから割り出すだけですけどね」
本居小鈴は、製本の経験を豊富に持つ。故に翻訳の時間さえわかれば、用紙代は容易に割り出すことができると少女は考えたのだ。
「今日家に帰ったら、少しやってみます。明日にはお返事を出せるかと」
「それなら今日はうちに泊まっていくといいわ。せっかく来てもらったのだもの、もっとゆっくりしてもらっていいのよ」
「え、でも……」
確かに、鈴奈庵を出るときに親へ泊まりになる可能性があると告げた――記憶はある。だが、本当にそうなるとは思っていなかったし、ほとんど初対面の相手にここまでしてもらうのは気が引けた。
しかしここまでの経験で、アリスがそういう性格だと――好意を相手が受け取ることを心から喜ぶ性格であることは、既に理解できていた。
だから、
「……じゃあ、お言葉に甘えて。今日は泊まっていこうと思います」
「そうこなくっちゃな。あ、勿論私もいいだろ?」
「はいはい。最初からそのつもりよ。でも客室は小鈴に使ってもらうから、魔理沙はソファーで寝るように」
「そりゃないぜ。ああそうだ、アリスのベッドで一緒に寝るってのはどうだ?」
「馬鹿言わないの。そういうことは寝相を治してから言いなさいな。大体ね――」
また、二人が楽し気に言い争いを始める。
そんな光景に笑いを浮かべながら、テーブルに置かれたままのグリモワールを手に取った。
表紙には文字らしきものが書かれているが、それからは何も読み取れない。掠れているからか、それとも意味のない飾りのような部分なのか、原因はわからなかった。
何の気なしに、最初の頁を開く。そこには目次は無く、ひたすらに文字が詰め込まれているだけだった。
しかし――。
……え? これは……。
それは、まぎれもなく文字だった。
見覚えはない。しかし明確に記号じみた形を成している。自分が知らないだけの、遠い世界の言語には違いなかった。
なのに、
……どうして、なにもイメージが湧いてこないの?
双眸は、しっかりと文字を認識している。それでも、判読眼は何も返さない。意味が頭の中に浮かぶこともなく、イメージが眼に映りこむこともなく、何もかもが起こらなかった。
「あら、どうしたの? 何か難しい記述でもあった?」
「い、いえっ。何でもないんです」
びくり、と肩を震わせて返事をする。
私に任せてください、などと言った手前、何も読み取れないとは言えなかった。
そんな隠し事なんて、意味がないとはわかっている。それでも、何を言っていいのかまるでわからなかったのだ。
しかしアリスは、それに気が付く様子もなく、
「……そう。まあ、部屋でゆっくりやってもらえればいいわ。急いでもいないから、じっくり……ね?」
人差し指を立て、口を歪めた笑いで、アリスが言う。
いつの間にか、魔理沙も軽口をやめていた。
アリスも、魔理沙も、何も言わない。
耳の痛い静寂が、一瞬を支配した。
そんな不自然な静寂に、少しだけ不気味さを覚えて――、
「――あ、あの」
「じゃあ部屋に案内するわね。今日は貴方の部屋だと思って使ってくれて構わないから」
「え? あっアリスさん――」
何かを言おうとして、だけれど何も言えなかった。
アリスに手を取られて、引っ張られて、家の奥へと入っていく。
廊下は狭く、そして暗い。まるで昼から夜へ飛び込むように、明るいダイニングから、暗い客間へと歩みを進めていく。
アリスの手はずっとこちらの手を握っている。
――つめたい、と感じた。
驚きを胸中が支配した。妖怪の手だとしても、果たしてここまで冷たいものだろうか。
「――ねえ、小鈴」
「……なんでしょうか」
「身体におかしなところはない? どこか傷んだり、逆に何も感じないところがあったり、変なところはないかしら」
「ええっと……得には、ないですけど」
「目と舌、それと嗅覚も大丈夫なようだけど、耳は大丈夫? 手指の感覚はある?」
「……大丈夫です」
手を引くアリスは進行方向を向いたまま。
その顔はうかがい知れず、今しがたの質問の意味もわからない。
まるでこちらを観察するような――異常がないかを確かめるような、そんな質問だった。
「……あら、汗をかいているようね」
「えっ」
いつの間にかアリスが歩みを止めていた。
辿りついた部屋のドアには、客間と書かれたルームプレートが下がっている。それはぼんやりと青白く光って、薄く周りを照らしていた。
しかし、それでもアリスの表情はわからない。あの口元だけを動かす笑いすらも、今は見ることができなかった。
「ずっと手を引いていたからかしら? 御免なさいね」
そんなことを気にするのはおかしかった。
家の中を歩いただけなのだ。数秒を移動しただけで、汗なんてかくはずもない。
それでも現実に、手の中は汗ばんでいて――
「ねえ。なにか、怖いことでもあった?」
「いえ、怖いことなんてなにも……」
怖くはない。それは嘘ではない。
だけど、本当のことでもない。
怖さとは似て非なる、不気味さがあった。
得体のしれない何かが背中に貼りついているような――ざわざわとした感触が、意識から離れなかった。
「そう。なら今日はこのあたりで。朝になったら、起こしに来るわ」
「…………」
アリスの声色は変わらない。
目覚めたときとも、食事のときとも、少しも違わない優しい声だった。
それなのに、どうして――
「ああ、それと」
「っ、はい」
「向かいの部屋は、絶対に覗かないでね」
「向かいの……」
首だけを動かして――アリスは未だに握った手を離してくれない――後ろを見る。
そこには客間と同じようなドアがあった。違う箇所は一つだけ、ルームプレートにはこう書かれていたのだ。
実験室、と。
「中には危ない道具も置いてあるから、絶対に見ちゃ駄目だからね」
「……わかりました」
返事をすると、ようやくアリスが手を離す。
じんじんと、鈍い感触が手に残響した。
「部屋の電気はつくから、作業してもらっても構わないわ」
「……すみません、今日はちょっと疲れてしまったみたいで。やっぱり、家に帰ってからやろうと思います」
「ええ、わかったわ。それでお願い」
少しのわだかまりもなく、アリスが言う。
まるでそんな依頼など、どうでもいいことかのように。
「洗面所は廊下を突きあたったところよ。それじゃあ、また明日」
「……はい、おやすみなさい」
返事をするが、アリスは動かない。こちらが部屋に入るのを待っているのだろう。
アリスの視線に晒されながら部屋に入る。
ぱたん、と背後でドアが閉まって、一人になった。
瞬間――膝が崩れ落ちた。
……あ、れ。
ぺたんとドアの前に座り込む。
身体に力を入れようとしても、どうしてかぴくりとも動かなかった。
――恐怖だ、と少女は悟る。
アリスへの恐怖で身体が震えている。
暫くの時間をかけて、ようやくそのことが意識に落ちた。
「……へんなの。アリスさんは、あんなに良い妖怪なのに」
呟いた言葉は、しかし身体に何の変化も与えてくれない。
結局身体が動いたのは、それから一刻あまりの後だった。
◆◆◆
あれだけの食事をしたのだから、朝までベッドの中にいることは不可能である。
そのことを理解していながらも、夜の廊下に這い出すのには勇気が必要だった。
手指に纏わりつく水を服で拭って、洗面所から出る。
持参した荷物は客間におかれていて、幸いなことに今はいつもの寝間着姿だ。そのことが少女の心を少しだけ慰めた。とはいえ、今は部屋の外だ。心が今にも震えそうなことには変わりがない。
少しでも早くベッドの中に帰るべく、歩みを早める。
「それにしても、魔理沙さんもアリスさんも変だったなあ」
アリスはともかく、魔理沙に関してはその人となりを良く知っている。
騒がしく軽口を忘れない賑やかな人。そんな魔理沙が、今日は不自然に大人しかった気がする。
アリスにしたところで、一つ一つの動作に違和感を覚えて仕方がなかった。どう考えても優しいお姉さんのはずなのに、今まで出会ってきた怪異のような得体のしれなさを感じるのだ。
勿論、妖怪なのだからそれが正しいのだろうが――、
「……私の勘違いだよね。お呼ばれして、ご馳走になって、きっと緊張してるんだわ」
そんな結論が口から零れる。
それが自分を納得させるための言葉とはわかっていた。
それでも、言わずにはいられなかったのだ。
――と、
「あれ……」
客間の向かい側。件の部屋が、開いていた。
先ほど洗面所に行く際には、確か閉まっていたはずだ。戻ってくる間にアリスが来て、そして閉め忘れたのだろうか。
洗面所にいたときは、誰の気配も感じられなかった。なにより、こんな短時間で出入りすることの意味を見いだせなかった。
……見ちゃ、駄目だよね。
「そういえば――」
先ほどアリスは、こう言っていた。
絶対に覗かないで。
絶対に見ちゃ駄目だ。
それは中に危険物があるからだ――と。
違和がある。
何故アリスは、入ってはいけないではなく、覗くなと言ったのか。
身体を傷つける何かがあったとしても、入らなければいいだけの話ではないか。
それなのにどうして、アリスはわざわざ覗くなと言葉を選んだのか。
「…………」
勿論、そんなものは言葉のあやに過ぎないのだろう。
もしかすると、本当に見ただけで危害が及ぶ魔術の品があるのかもしれない。
そもそも、他者の家なんて勝手に覗くものではない。
見てはいけないと言われているのだから。
考えるまでもなく、ベッドの中へと帰るのが正解だ。
――だけど。
「もし、何かを隠しているとしたら……」
思えば、目を覚ましたときから不自然だった。
あのとき魔理沙はなんと言っていたか。
――まだ記憶が――。
記憶。記憶とはなんのことだろうか。
それに。客間まで歩いたとき、アリスが不自然な質問をしていたのはなんだったのか。
そしてなにより。どうしてあのグリモワールには、判読眼が機能しなかったのか。
――もしかすると、自分の身になにか起こっているのだろうか。
魔理沙に薬を盛られたとか。
アリスに実験に使われたとか。
もしくは、これはただの夢だとか。
全ては突飛な発想だ。
魔理沙は昔から変わりなく。
アリスも驚くほどに優しい妖で。
判読眼の不調だって、単に疲れていただけに過ぎないのだろう。
「そう。別に、変なことなんてないじゃない」
それでも脚は動いた。
ドアに近づく。
客間でははない。
その向かいだ。
実験室に、静かに近づく。
半開きのドアは、ぽっかりと空いた闇を湛えていた。
ほんの少しドアを引けば、簡単に中へ入ることができる。
呵責はある。あんなに良くしてくれたアリスの言葉を裏切ることに。
しかし同時に、こうも思う。アリスならばきっと、謝れば許してくれると。
そんな言い訳を胸にして、少女はゆっくりと、それでいて確実にドアに近づく。
近づく。
ドアに手をかける。
手をかけて、闇の中に入り込む――。
……なにも、見えない。
当然だ。深い森は光を飲み、中へ落とす月明かりは微々たるものなのだから。
家の中なら尚更だ。か細い光が窓から差し、それでもなお闇と呼んで差し支えない空間が広がっている。
その中で辛うじて見えるのは、直立するいくつかの影。
それもおぼろげな、縦に長い輪郭の何かであるとしかわからない影。
それだけが、闇の中に浮かんでいた。
――少女の足が動く。
後ろにではなく、前に。
少しずつ目が闇に慣れてくる。
少しずつ影の姿が露わになる。
一歩を踏むたび、胸の鼓動が大きくなる。
どうしてか、これ以上進んではいけない予感がした。
怪我をしそうなものがある、という危機感ではない。
見てはならないものがある、という忌避感があった。
だけど。
だけども。
心の動きと裏腹に、足は動く。
その瞬間、差し込む月光が強くなった。
月を覆う雲が退いたのか、それとも別の理由か。
理由はわからない。しかしそれによって、部屋の中が少しだけ明らんだ。
目の前に佇む影の正体。それは何か。もう一歩を踏むだけで、判明する。
だから、
「――――」
声にもならない声を吐いて、最後の一歩を踏んだ。
そうして見えたのは――、
「っ!」
見覚えのあるものがそこにはいた。
それは人の形を持っていた。
頭部には金の髪と赤いリボン。
身体にはトリコロールの鮮やかな三色。
そして何よりも、美しいその面貌。
その全てに、見覚えがあった。
「アリス、さん……?」
アリス・マーガトロイド。彼女そのものとしか思えない物体が、目の前に存在していた。
しかしこれは、
「人形、だよね……?」
口に出してしまえば心が少しだけ落ち着きを取り戻す。
髪も眼も肌も何もかもが偽物とは思えなかったが、生物の気配がない以上は人形だと判断する他がない。
「アリスさんが作ったのかな。でも、どうして自分の人形を……?」
まるで鏡に映したかのように、全てがそっくりだった。
このまま動き出しても不思議ではないと思えるほどに、人間に近しい人の形だった。
ふと、アリスの言葉を思い出す。
――このグリモワールさえ読み解ければ、完全自立人形が完成するはずなのよ。
――人間や妖怪と何も変わらない、自分で考えて動く人形よ。
もしかすると、この人形はその完全な創造物を生み出すための実験体なのかもしれない。そうでもなければ、ここまで精巧な人形を作る意味がわからなかった。
「……あれ、もしそうなら……意識もある、のかな」
考えて、喋って、意識のある人形。
客観的には人形とわからない人形。
それを目指しているのならば、この人形にも意識はあるのだろうか。
もし意識があるとするならば、それはアリスと似通った心なのだろうか。
「って。もし本当に心まで一緒なら、主観的にも判断が付かないじゃない」
どこまでも本物に近しい身体があって。
思考さえも本物と似通っているならば。
完全自立人形は、自分が自分で人形であると気が付かないのではないか――?
「…………あれ」
なんてことはない思考の飛躍が、何故か腹の底に重く落ちた。
自分は、何かを忘れようとはしていないか。
この部屋に入る前、自分は何を考えていたのか。
「記憶……身体……思考……私の眼……」
まさか、と心が総毛だつ。
咄嗟に手が前に出て、アリスの――アリスの人型を持つモノに、指が触れる。
髪はさらさらと艶やかだった。
肌は弾力と柔らかさがあった。
瞳には薄暗い光が灯っていた。
全てが、本物としか思えなかった。
しかし、やはりそれは人形だった。
脈を打っていなかった。
呼吸をしていなかった。
瞬きをしていなかった。
身体に、熱はなかった。
そして己の身体を顧みてみれば――脈も、呼吸も、瞬きも――なにより、熱が感じられた。
「…………何考えてるんだろう。そんなこと、あるはずないよね」
ばかみたい、と心が呟く。
良くしてくれた相手の言いつけを破って部屋に忍び込んで、あまつさえ変な想像をして。こんなこと、誰にも言えそうにない。
深呼吸をすると、鼓動は完全に落ち着きを取り戻していた。
大人しくベッドに帰って、寝ようと少女は思った。そして朝になったら、勝手に実験室に入ったことをアリスに謝るのだ。
それで全ては解決して、判読眼の調子だって元に戻るに違いない。心の底から、そう思えた。
……はあ。また阿求に怒られそう。
あの友人は自分が妖怪と親しくすると眉をひそめるきらいがある。
今回のことを話題にしたら、きっと不機嫌になりながらも怒ってくれるのだろう。そんな場面を想像したら、先ほどまでの気持ちは何処へやら。面白さにも似た感情が、心の中に湧き上がった。
――その瞬間だった。
部屋の入り口から、声が飛び込んできたのは。
「――そこで何をしているの」
「ひぁっ!」
背にナイフが差し込まれた。そんな連想をしてしまうほどに、その一言は冷たく鋭かった。
反射的に――けれども鈍間に、振り返る。
そうしてそこにいたのは、
「アリス、さん」
再び、暗闇の中に美貌が浮かび上がる。しかし今度こそ、そこに立っているのはアリス・マーガトロイド本人に間違いなかった。
「アリスさん……その、ええと、ごめんなさい! 私、言いつけを破って部屋の中に……」
「……はあ。別にいいわ、失敗作だもの」
「え?」
何を言っているのか、すぐにはわからなかった。しかし、直後に意味に思い当たる。恐らく失敗作というのは、背後にあるアリスの人形のことだろう。先ほどまでべたべたと粗雑に扱ってしまっていたが、その人形は失敗作だから気にしないで――と、アリスは言いたいのだ。
そんな推測を心の中で思い浮かべて、
「本当にごめんなさい! どうしても部屋の中が気になってしまいまして」
「だから、別にいいわ。うーん、今度は成功したと思ったのだけど」
「アリスさん?」
「記憶の定着も曖昧。疑似人格では無理があるのかしら。やはり一から構築したものでないと――」
「あの……」
間抜けな声を上げた瞬間――背後でガタンと音が鳴った。
今度は、言葉にすらならなかった。空気だけが口から洩れて、辛うじて背後を振り向くことしかできなかった。振り向きざまに膝が崩れて、したたかに膝を床に打ち付ける。
振り向いた先にいるのは、当然ながら先ほどと同じ物体。
アリス――の姿を持った、人形だ。
人形は声にもならない呻きの音を発しながら、こちらに迫って――そのまま後ろへと通り抜けた。
放心する暇もない。三度振り返ると、そこにはうり二つの姿が並んでいて、
『――ぉ』
「――あら、まだ意識が残っていたのね」
そう言ってアリスは、アリスの形を押しのける。
まるで虫か何かを手で払うように。
すると追加で音が生じた。
ぼん、と。アリスだったものの胸から音が鳴った。
それは爆発音だ――と、理解はできても理由がわからなかった。
どうして、そんなものが胸の中に?
「ああこれ? 私、人形の中にはいつも爆薬を埋めるようにしてるの。だってそのほうが、廃棄するときに楽でしょう?」
また、あの笑いをアリスが浮かべていた。けれどそれは今しがた浮かんだものではない。アリスの形を視界に入れたときから、アリスは笑っていた。
そういえば、魔理沙と話すときにはそんな笑いはしていなかったような――。
「さて」
「え?」
表情をぴくりとも変えずに、アリスがこちらを向いた。
「残念だけど、これ以上魔力を注いでも無駄みたいね」
「……うそですよね……?」
「残念だけど……ふふ」
アリスがしゃがんで、床に座り込むこちらと視線を合わせる。
笑っていた。
口元だけではない。目も笑っていた。冷たさしか感じない、細めた目で笑っていた。
それは初めて観察ではなく――愉快な物としてこちらを見たからに、違いなかった。
「ベッドを勝手に抜け出すなんて、悪い子ね」
「やめて……」
「でも、ちゃんと私が眠らせてあげるから安心して」
「やめて……やめて!」
「ほら」
「あ」
首元に、指が触れた。
氷のように冷たい指。
それが滑るように胸元に入り込んで――。
「それじゃあさようなら。でも安心して?」
何を、と問い返す気力はもはやなかった。
少女にはアリスが何を言おうとしているのか、わかっていた。
わかってしまっていた。
「――本物の小鈴は、今も鈴奈庵で眠っているわ」
「――――いや」
「おやすみなさい」
囁かれると共に、指が心臓の上で止まる。
一瞬だけ指先が熱くなって――すぐあとに、弾けるように熱が散じた。
同時に光が遠のく。
自分というものが消えていく。
眠りが、やってくる。
その眠りからは二度と目覚めないんだろうなと。
他人事のように思いながら――彼女は意識を喪失した。
◇◇◇
ぱっと部屋の明かりが灯る。
小鈴を腕に抱いたまま、アリスは深く頷いた。
納得とも、得心とも、全てを出し切ったとも見える深い表情を顔に湛えて。
アリスがくるりと首を回して後ろを見る。そこには“ドッキリ大成功”と書かれた札を持った魔理沙が照明のスイッチを押していて、
「……ふふ、上手くいったわね」
「…………」
「魔理沙から小鈴ちゃんのことを聴いたときは、まさかそんな人間がいるのかと思ったけど」
「…………」
「本当に驚かされたい人間がいるだなんてね。里の子ども相手じゃこういうことはできないから、ちょっと気合が入りすぎちゃったかも」
「…………ちょっと?」
「え?」
「え? じゃあないんだよ。ほら」
「え?」
魔理沙が指を刺した先――腕に抱いた小鈴を揺すってみるが、何も反応がない。
頭を叩いて、頬を叩いて、一応自分の頭も叩いてみるが、小鈴は特に喋り出すことなく白目を向いていて、
「……え?」
「……お前さあ、いや私も悪かったけどさあ、そういえばお前って結構そういうところあったよなあ」
「な、何よ」
「何が何よなんだ言ってみろほら」
「だから何がよ!」
「――やりすぎだろこれは! 泡吹いてるぞ小鈴の奴!」
「え? ――ああ大変! 誰がこんなことを!」
「お前だよ!」
取りあえず、魔理沙のそんな悲鳴が木霊した。
◇◇◇
魔法の森の魔法使い。
人形屋敷に住まう妖。
童話のような怪しい魔女。
それなのに、どこか優しさを感じる女のヒト。
そんな見立ては、決して間違ってはいなかったのだけれど。
一つだけ、小鈴は知らなかったのだ。
「……その、アリスさんって結構――お茶目さんなんですね」
「言葉を選ばなくていいぞ小鈴。ああそうだ、霊夢に言えば退治してくれるに違いない。さっそく今から神社に行こう」
「魔理沙、それはちょっと冗談になってないからやめて頂戴……」
……アリスさん、こんな表情もするんだ
「その、本当にごめんなさい。ちょっとやり過ぎたわ。いや本当にうん」
「あっいえそんな! そんなに謝らないでください確かに怖かったですけど!」
「気絶するくらいにな」
「反省してるわ……」
「魔理沙さんも! もう!」
客間にて眼を覚ました小鈴は、ベッドに腰かける魔理沙と、床に正座するアリスから話を聞いていた。
つまりは、二人の悪戯だったらしい。
本居小鈴のパーソナリティを聞き及んでいたアリスは、どうにも小鈴との距離を近めようと思ってくれていたようだ。
近しい距離に妖がいてほしい。そして、ちょっぴりの怖れを得たいと思っている。そんな小鈴という人格を、アリスは好ましいと思っていたのだ。
「魔理沙と霊夢から聞いていたけど、本当に面白い子ね。あんなに怖がっていたのに、すっかり落ち着いちゃって」
「いやまあその、昔色々ありましたので……」
魔理沙はアリスにどこまでのことを話しているのだろうか。過去に会った色々な出来事と怪異からしたら、怪我をしていないだけ今回はマシというものだ。
「それにしても手が込んでましたね。私の眼を欺いたのはどうやったんです?」
「ああ、それは簡単。あの本には言葉なんて書いてなかったの。架空の記号を規則性なく配置しているだけの、フェイクだったのよ」
「あー、なるほど」
判読眼はあらゆる言語を読み解く。しかしそれが、意味の無い形の羅列であれば何も読み解けないのは当然の話だった。
「アリスは凝り性だからな、それくらいのことはする。レミリアの奴に煽られて家のように大きい人形を創ったこともあるからな」
「別に煽られたから創ったわけじゃないわ。あれは純粋な知的好奇心と――」
「好戦意欲、だろ?」
「……否定はしないわ」
どうやら、この二人はいつもこんな調子らしい。
騒がしい魔理沙と、静かなアリス。けれども本質的な好奇心を、きっと二人は共有しているのだろう。
……もしかしたら、私にも同じものを感じてくれていたりして。
それはきっと思い込みなのだろうけれど。
ここまでのことをしてくれた二人を前にすると、どうにもそう思えて仕方ないのだ。
そんな心の内を悟られないように、小鈴は二人に言う。
「お二人とも、仲が良いんですね」
「それも否定はしないわ。今日のことだって、魔理沙と催したことだもの」
「内容はアリスに一任したがな。おかげさまで大成功だったみたいで何よりだ」
アリスが再びばつの悪そうな顔をする。だから小鈴は、
「はい。本当に楽しかったです。ええと怖かったのは本当ですけど」
「……本当に? 霊夢に告げ口しない?」
「霊夢さんにはしっかり言っておきます。アリスさんのところで、とっても美味しい料理をご馳走になったって」
「……そう。それなら、良かったわ」
そう言って、アリスが口元を綻ばせる。
それでこの話は終わりだった。
言われてもないうちからこんなことを思うのはどうかと思ったけれど。
きっと、これからもアリスの家には遊びに来ることになる。
そんな予感を、小鈴は感じていた。
「それじゃあ改めて。これからもよろしくね、小鈴ちゃん」
屈託なく笑うアリスを――今日一番の笑顔を見て、小鈴は悟った。直前まで感じていた予感が、己の中で確信に変わったのを。
「はい! こちらこそよろしくお願いします、アリスさん!」
「あ、出しどころなかったんだけど等身大小鈴ちゃん人形もあったのよ。見る?」
「えーっと……それはまだ怖いので、遠慮しておきます」
「そういうところだからな、アリス」
やはりドッキリはそこまでの語りが真に迫っていればいるほど楽しいですね!(やけくそ)
相変わらず見事に騙されました。お見事でした。楽しかったです。
でも実はこれ本当は人形なんでしょ?
分かってるんですよ?
楽しませてもらいました。
匂わせ方がとても上手で読んでいる最中にとてもドキドキしてしまいました。最後はドッキリエンドで爽やかな終わり型でお茶目なアリスを見れて良かったです。
小鈴ちゃんがビビるの大好き
小鈴への感情移入もとてもスムーズに行うことができ
畳み掛けるようなホラー展開(?)がとてもうまく描写されていて
最後までとてもドキドキしました。
最後の小鈴等身大人形は作者様が使おうとしていたネタだったのかは少し気になるところ。
次回作楽しみにしております。
とても楽しめました。