イロと白黒つける話
「いいイロをカってるようだね」
色街の飲食店、その奥まった個室で鬼は私に言った。その部屋は鬼の女親分である星熊勇義と閻魔である私の二人きりだ。
きっと彼女の息のかかった店なのだろう。特に挨拶もなく従業員が恭しく私たちをこの絢爛ながら薄暗い部屋に案内してきた。
「かっている?」
鬼は、はははと笑って私の器に酒を注いだ。しらばっくれちゃってとほんの少しだけ女らしい声色で目を細めていた。
私の部下の一人が、部下の男の一人が、繁華街で彼女の配下と問題を起こした。その翌日に鬼の親分である星熊が私と話がしたいとこの豪華な飲食店に私を招いた。カタい仕事をしている私におよそ不釣り合いな、色街の犯罪者がたむろする飲食店にヤクザの親玉と同席する理由は以上だった。
盃を勧められ、私は少しだけその液体をなめる。普段から溶けた金属を飲むことを戒めとしている閻魔の私にはさしたることもない液体だったが、飲みなれない酒の腐臭が鼻についたような気がした。
「ほかに何人いるんだ」
「え?」
「私にはあと二十はいるぞ」
彼女はそれから捲し立てるように、彼女の豊満な体の世話をさせている情夫の話を始めた。竿の太さがどうだの、一日に何度もできるだのとおよそ酒の席でもよほど佳境に入らなければできそうにもない話をあけすけと最初から大きな声で。
不思議なことにその猥雑な話を捲し立てる女鬼の声には焦りが滲んでいた。
私はここにある程度の覚悟をもってやってきた、いわばヤクザとの司法取引、部下の不始末をなかったことにするために、違法な取引をする覚悟をしてやってきた。
この話をするには、私のここ十年の話をする必要があるだろう。
私がイロにシロクロをつけてもらっていた話をまずしたいと思う。
「二目半勝ちですわね」
邪仙は得意げな顔をして紫煙を天井に向かって吹き付けた。その様子に舌打ちをしたくなる気持ちを抑えるべきかどうかかなりの葛藤を要した。
白黒をつける能力というのは裁判官たる私が喧伝している私の自己紹介だ、もちろんシロクロをつけるという慣用句は囲碁から引用されていることは言うまでもない。
よって、私が囲碁で負けるというのは大変に私の権威に関わることなのは言うまでもない。だが中華の遊戯を極めつくした奸智の仙人に囲碁で勝つというのは生易しいことではなかったのだ。
「参りました」
「よろしければ、指導して差し上げましょうか?」
嫌味なのか、それとも純粋な親切心なのか。彼女は普段から自他ともに認める異常な自信家かつ、秘密は守るちぐはぐな人物だ。私の囲碁の負けをあちこちで言いふらすようなこともしないだろうが、それがかえって情けをかけられているようで私の自尊心を深く傷つけていた。
いえ、申し出ありがたいですが、遊戯にかまけている時間もありませんし、と精いっぱいの見栄を張って適当な話題を作って話題を避けた、そんな私の心理を見透かすように、あら残念ですわと感情のない笑みを浮かべて邪仙は脚を組みなおしたり、たばこを持つ手を替えてみたり正体を得ない動作を繰り返していた。
ここ数年、娯楽のない幻想郷でにわかに囲碁が流行り始めていた。街のあちこちには碁会所が作られ、お遊びやら賭け事やらで、囲碁ができぬものは文化人にあらずといった具合の旺盛具合であった。
もちろん私も伊達に長生きしているわけでもないし、喧伝している能力が能力だから囲碁なら大概はほかに負けない自負はある、事実、戯れに人間から囲碁を挑まれるごとにコテンパンに相手をほんろうすることもしばしばであったが、ああいう知的遊戯が生きがいというような月の頭脳や賢者と呼ばれている妖怪たちにはやはり太刀打ちできず、ここ数年苦い敗北をたびたび喫しているというのが日常であった。
ずいぶんと練習した後に、先ほどの邪仙に挑んだりしてみるのだが、いつもあとすこしというところで負けるのだ、おそらくは相手もこちらにある程度は遠慮して大勝するような真似はしないのであろう。思うにかなり力量の差があるようにも思えた。
精一杯の言い訳と見栄を邪仙に張った後、ずいぶん時間をかけて人間の住む街に向かう。向かう先は囲碁を楽しみとしている人間たちがたむろしている場所、碁会所だ。
「お邪魔します」
違法な経営をしていないか、という題目で街の碁会所に顔を出す。私も彼らのたまの娯楽を取り上げるつもりは毛頭ないので、多少の金銭のやり取りがあろうと黙認している。では真の目的はなにかというと、先ほどの敗北の悔しさを少しでも紛らわせるために常人を囲碁で打ち負かして腹の虫を抑えるためであった。
これは、と店主が丁寧に頭を下げて私の世話をしてくる。違法な経営などしていないでしょうねと、私も一通りいつも通りの特に調べる気もないやり取りをして適当な相手を物色する。店主も私が囲碁好きということはわかっているので
「一つだれかに稽古でもつけてくれませんか」
といって適当な相手を、適当な接待相手を用意してくれる。ほどほどに他から囲碁の腕を認められているような、それでいて彼が負けても損にもならないようなそんな遊び相手を用意してくれるのだ、これが最近の私の何よりの楽しみの一つだった。
しようがありませんねと私も内心浮き上がって承諾する。
そうだな、おい、あいつはいるかと店内に声をはる。すると、それらしい人物がタバコのにおいで充満した部屋からのそり、とこちらにやってくる。
無精ひげを顔じゅうにはやした、大柄の男であった。こんな真昼から管を巻いている若い男などというのは碌な男ではないのは間違いないので、遠慮なくコテンパンにして先ほどの留飲を下げることができると思った。
「こいつは」
店主がその大男の紹介をしてくる、体裁としては昼間からふらふらしている人間に閻魔様のありがたいお言葉をかけてもらいながら遊んでもらえるという、実に得難い時間であるので、私もふむふむと関心をもって聞いたふりをする。
大工の家の男児らしいが、いろいろあって身を持ち崩して碌に仕事もしてないロクデナシということだった。ここ最近は一芸ある囲碁で賭けをして生計を立てているという正真正銘のゴロツキであった。
「あいさつしな」
へいとゴロツキはおそるおそる席に着く。店主はこいつに何か仕事でも紹介してやってくださいよと、適当な世間話をしてくるので、私は何やら仏教の教えらしい欲と自己研鑽の引用などをして適当な話題をゴロツキに振ってみるのだった。
「おねがいします」と男が黒持つ、私は当然白を持った。周囲の野次馬たちが閻魔様の腕前はいかほどと人だかりが集まる。このゴロツキはこの碁会所の中ではまぁ一番か二番という腕前の持ち主ということらしい。この碁会所には何度か顔を出していて何度か指導をしてやっているので相手の力量もほどが知れると思った。
打ち始めて三十分ほど経っただろうか
「家族はいるのですか」
などと私は相手を心配するような余裕を出しながら打つふりをしていたが、内心はそれどころではなかった。もうギリギリの戦いなのである。いやこれは私の目算では微妙に負けなのである。詰めの状態に入れば後は順番の問題なので事実勝負がついてしまう。なんとか勝つ見込みのある部分はないかと口と頭脳を分けながら勝つ方法を探すのはある意味でとてつもないハンディであるようにも思われた。
相手の指がぱちりと、微妙に甘い手を打ったところではっとしてすぐさまそのスキに乗じてその陣地を取られまいと自分でも笑えるくらい必死になって白石をおいた。もちろん口と顔はそんなことはちょっとでも出すまいとしてはいたが。
後は詰めの部分である、周囲の野次馬たちはその詰めの様子を息をのんで伺っている。極端に細かくて判断がつかないのだろう。黒のほうが有利だから白の私には目の前の陣地に7目程度の得点が余分につく。最初に6半か7目かを決めてから勝負するべきだったかと心底悔やんだ。
「三目ですね」
まいりました、と男が頭を下げた。額から汗がどっと出るのを気持ちでこらえながら、どこかで聞きかじった哲学者のセリフを諳んじていた。
閻魔様といい勝負ができたと「自信がつきました」などと男が不愛想な顔で私に言うと、周囲が
「ばか、指導碁だよ」
「テツがこの前コテンパンにされたの見てたろ」
などと場が沸き立つ。彼らには勝負の高度さがわからないのだ。私が以前にこの碁会所で調子をこいている無礼者を完膚なきまでに無茶苦茶に負かした時と比べると、もはや雲泥の差というのも憚られる技量の差だ。
へい、と男が適当に頭を下げている。普段なら相手をよりこけ下すためにここで反省会を開いて「ここはこうしたほうがよかった」などとご高説を垂れるところだが。
「見どころがありますよ」
というのが精いっぱいだった。私もある程度の腕前はあるわけだから、勝負が終わってようやく沸騰した頭が冷えてくると一つの可能性が浮かんでくる。
ゴロツキが適当に頭を下げて席を立とうとしたので、私は思わず声を張った。
「あなた」
「へい」
大きな声を張って周囲も驚いていたのか、店中の緊張した視線が私に向いていた。
いや、と頭を振って「仕事がないのなら」と見どころがあるから、私の下働きをさせてもいいといったのはさすがにやりすぎだっただろうか。
そのあと店は大騒ぎでよかったななどとゴロツキの肩をたたく中年たちの歓声で沸き立った。私は「囲碁にはその人となりが現れるのです」とかなんとか心にもないことを捲し立ててまた明日来るからと荷物をまとめてこの時間に来いと男に言い渡した。
もちろん、男の仕事の内容は、私の囲碁の指導だ。
鬼の女親分は酒を瓶から直接荒々しく飲み干した。
「どうだ」
お前にイロがそれほどいるのか。と捲し立ててきたあたりでやっと鬼が何を焦っているのか察しがついた。彼女が気にしているのは閻魔である私が『飼って』いる、私専用の囲碁の指南役が彼女のイロを喧嘩でのしてしまったのを痛く気にしている、彼女の関心はただそれだけだった。ひいては、つまりは、彼女は女の格というものを情夫の数と腕っぷしの強さで測っているのだとやっと合点がいったのだった。
「いや、まったく、及びもしません」
「そうだろう」
鬼がやっと一息を突いて鼻息荒く酒瓶を、赤いカーテンがひかれた豪奢なテーブルにたたきつける。彼女は私が情夫の数が少ないということを認めると満足したらしい。私からするとまったくもって私の尊厳に微塵も関係のない勝敗であるので、彼女の心理が理解できたあたりで可能な限り彼女のご機嫌を取ることとした。
「それに」
「なんだ」
「あなたほど、立派な躰でもありません」
「ううむ」
「自信がないのです」
鬼はその言葉で酷く機嫌をよくしたようで、それからはにこにこと敵対心を解いて食事を運ばせてきた。事実私の躰は彼女のそれからすると貧相でしかなかっただろう、うらやましくもあったので嘘を言ったつもりはない。
「それで、その後どうでしょうか」
「なにがだ」
「あなたの、その、恋人たちの体調は」
「あぁ」
鬼は僅かに機嫌を害したようで、ぼそりと「あいつらは食あたりで死んだよ」とぼそりとつぶやいた。
「それがどうした」
関係ないだろう、と鬼は不機嫌につぶやく。
「いえ、それは、なんでも、そう聞いたものですから」
私の事前の事情聴取によれば、私のゴロツキが休日に酒場で遊んでいたら、鬼の配下たちと喧嘩になり、刃傷沙汰に及んだということであった。その結果彼は憲兵に拘束され、私は身元保証のため彼をなんとか無罪で引き取るため、鬼の親分である彼女と違法な取引をしようと単身乗り込んだのだ、乗り込んだつもりだったのだ。
「悪酔いしたんだよ」
「はぁ」
勇義はそこでやっとはっとして手を打った。
「いや、そういえばお前のイロが運悪く居合わせて無実の罪を着せられているんだったな」
鬼は、いや悪いことをしてしまった、面倒をかけたな、などと平に謝罪してくる。
「こちらの勘違いだったとちゃんと言わないとな」
「そうでしたか」
鬼のこの倫理観というか常識の欠如には驚かされる、彼女にとっては配下が死んだことよりも、配下が喧嘩で負けたことのほうがよほど隠ぺいするべき重大な問題らしかった。
つまりはそういうことだった。
「このあと、お前のイロを迎えに行くんだろう」
「いや、えぇまぁ」
話は通しておいてやると鬼は言う。
「あいつらは食あたりで死んだんだ、悪酔いした上で体調がな」
きまりが悪そうに何度も何度も言った。
「お前のことを勘違いしていたよ」
鬼は帰り際に私の肩をたたいていう。
「もっと褪せた奴だと思っていた、堅苦しいやつじゃないかなと」
「いえ、きっとそうですよ」
ああいうのは大事にしろよと、どういう上からの視線なのかわからないが兎に角自信たっぷりな様子で鬼は私の退店を見送った。
「囲碁を打ちましょう」
仕事場に招いた男に初めて言った言葉はそれだった。男はしばらくきょとんとしていたが、お望みとあればと、私が適当に渡した事務作業のための資料を丁寧において席に座った。
誰もいないたった二人だけの部屋である。男が黒を持ち、私が白を持った。観客のいない部屋でしばらく囲碁を打っていると、やはり私の予想が当たっていたことを知った。まったくもって歯が立たない。しかし、無茶苦茶な勝ち負けを強要されるのではなく、私が正しい筋と予見ができるように丁寧に上からの視線で打ってくる、他人の視線がなければ、私が社会に対して見栄を張らなくてよいのであれば、実に気持ちの良い囲碁である。男は私に指導碁を打っているのである。
たかだか数十年の時間軸しかない人間に私が指導を受けている。男は名人だった。
「一目半の負けです」
男が頭を下げる。私も馬鹿ではないのでここに至って男に頭を下げた。
「申し訳ありません」
「どうかしましたか」
「私があなたを呼んだのは、仕事のためではないのです、あなたに訓告するためでもないのです」
私に囲碁の指導をしていただきたい、そのために呼んだのだ、私はいま私が置かれている状況を事細かに、一部始終話した。
「私は白黒をつける神としてここにいる、そんな私が、こと囲碁で負けるわけにはいかないのです」
男は少々唖然としていた、まさかと、たかが遊戯であなたの権威が損なわれるとは思えないとも言った。
「隙間の妖怪や月の追放者、中国の邪仙に私が負けるわけにはいかないのです」
私を強くしてくれと頼んだ。
「あなたには、定命の者には、私たちのような存在が遊戯における意義にかける重さを理解することはできない」
貴方の存在は私にとって代えがたいのです、私は彼女たちに指導をあからさまに乞うことなど到底無理なのです。貴方なら私の手元に置いておいても誰も不思議には思わない。
「あなたの囲碁の高さまで私を引っ張ってほしいのです」
男はしばし考えて、承諾した、そんな上位の存在に勝てる保証などできるわけもないが、私ができる範囲ならばと言った。
以上が私がイロに白黒をつけてもらうようになった経緯のすべてだ。
もちろん、最初から彼がわたしのイロだったわけではない、秘密の囲碁の指導者として飼い始めたのは事実ではあるが、最初から情夫だったわけではない。
休息を必要としない私は、暇があれば彼に囲碁を指導してもらうようになった。表向きの彼の立ち位置は、私が指導する元ヤクザ者の事務見習いである。表向きがそうだから、全く事務仕事をしないというのはほかの目から見て不審だろうということで全く必要最低限の仕事を課しておいて、周囲の目から一応は仕事をしているように見せかけた。彼の表向きの世話は息のかかった部下である小町に頼むこととした。小町のいいかげんな仕事ぶりがかえって幸いする日が来るとは思いもしなかった。
「映姫様も、また酔狂なことをするねぇ」
説教好きが昂じるとこうも他人の面倒を見るものかと小町は最初は笑っていた。はたから見れば世話好きな、善良なお人よしの私が縁のない若者を指導しているように見えただろう。
「仕事は終わりましたか」
私は裁判を終えると急ぎ足で彼の担当の場所に向かう。
「やあ映姫様、今日もまじめに仕事していましたよ」
小町は朗らかに男の肩をたたいて手を振ってこたえる、私は結構とすまし声で男の手を引く。
「では説教の時間です」
「うらやましいねぇ! 映姫様につきっきりでねぇ」
彼を従えて、私の控室まで行く。その途中で私の部下たちが物珍しいものを見る様子でこちらを見ていた。
彼と仲良くなっていくうちに彼の身の上の話を聞く機会は無限にあった。彼は里の大工の跡取り息子だったが、父の後妻に家を乗っ取られて、今は後妻の息子が跡取りになったということらしい。彼の母が死ぬ前に父から手ほどきをそれとなく受けていたのが父の唯一の趣味である囲碁だったという。
「何が幸いするかわからないものです」
彼はそういう、一度はもうどん底まで行ったと思った生活が、まさか閻魔様のかばん持ちができるとは、彼はそういって笑った。
彼の指導を受けながら、裁判と事務処理と、そんな暮らしを続けていた。繰り返しているうちに周囲のこちらを見る様子も変わっていく。ついには小町もただならぬ様子で聞いてくる。
「あいつとはどんな?」
「どんな、とは」
「いやぁ~」
同じ男を四六始終連れまわせば噂もたつ、特に幻想郷の住民たちはそういうゴシップに飢えていた。私のような公職に携わっているものにそういう噂も立てば、女の、女ざかりの小町が浮つくのも仕方がなかったのかもしれない。
彼には一種の口封じをしてあって、決して彼が私の囲碁の師匠であるとは公言しないようにと言い含めてあった。それは私にも言えることで、彼が私の指導に当たっていることがばれるくらいならば、むしろ彼が私の情夫であると認めたほうが私としては、白黒をつける能力を公言している閻魔としてはまだましといえた。
「ふむ」
「では?」
「決して公言してはいけませんよ」
「なんと!」
小町は嬉しそうに飛び跳ねる。明日には確実に地獄のあらゆるところでこの話が広がっているだろう。事実に比べればこの程度のことはなんでもない。
「いいですか小町、決して公言してはいけませんよ」
はいと見たこともない笑顔でいる彼女をみて、まぁ否定しておいてもよかったかなという気もした。
事実、その翌週に催された博麗神社の宴会ではその話題になった。最近映姫が連れている人間の男はどういう関係なのか?という。
「彼は私が指導している者ですよ」
「へぇ~」
では、と隙間妖怪が囲碁盤をどこからともなく持ち出してくる。
「では、これで白黒つけましょうか」
「負ければ真実を話すなんてのはどう?」
さすが隙間妖怪はやることがえげつないと思った。嘘をつこうが真実を突こうが私が負ければどのみち私は赤っ恥をかくというわけだ。いつかこんな時が来ると思った。
「面白い、いいでしょう」
周囲が一気に沸き立ってさぁ、映姫よ負けてしまえという視線が一斉に集まる。私の練習の成果が試される時が来たのだ、この時のために彼に指導を受けてきたのだ。絶対に負けるわけにはいかない。
「貴方が相手を?」
「いや、どうしようかしら」
皆が関心があることですし、と隙間妖怪はうそぶく。
「では私が」と月の追放者の医者が名乗りを上げた。周囲はこれはひどいと大いに嗤った。私が確実に負けるだろうと思っているのだろう。元々は超科学をもった軍隊の首領である。単純な年齢という点でも私が及ぶ相手ではない。
「握りますか」
「黒でもいいと思うわよ」
彼の顔を思い浮かべて石を握る。ここで負ければ彼にたてる顔がないし私の面目もあらゆる意味でつぶれる。
「では私が黒で」
「私は白ね」
勝負が始まるって数十分が経過する。
最初はせせら笑っていた医者の額から脂汗が出てくる。だがさすがに油断はできないのでこちらも彼の指導を思い出して打った。
「これどっちがかってんの?」
「う~~~ん」
それなりに心得のある外野たちが興味深げに盤面をのぞき込む。
詰めに入ると医者は眉を寄せて、彼女の主人である姫の様子を伺う。そうこのままいけば彼女は主人の前で返り討ちに会い赤っ恥をかくのだ。あれだけ余裕しゃくしゃくで出てきたものの末路としてはあまりに哀れな結末だろう。
「まだ続けますか?」
「ぐぐぐ」
「永琳?」
「思えば、私の負けの条件だけ突きつけてあるというのも不平等な話ですね」
まぁ確かに何年か前に彼女と戦った時はコテンパンにされたので彼女が油断していたのも当然の話である。
「い、いつの間に?」
いつの間にこんなに力をつけたのか?と彼女は言いたいのだろう。不滅の存在である我々からすればこういった知的遊戯の技量が突然あがるというのはあり得ないことであった。
「なに、簡単なことですよ。前は本気じゃなかった、それだけのことです」
「うぐぅうう」
周囲の者も驚いていた。私は得意になって続ける。
「常に勝ち続けることが正しい行為とは限らないのです、ただし時にはお灸をすえることも必要ですから」
月の姫はそれはもう面白くない顔をして医者をにらみつけていた。
「酒、酒が回ったのよ」
「まぁ理由はなんでもよいのですが、相手にペナルテイーを強要しようとしたのに自分は例外などというのは虫が良すぎる話です。そうですね、では私と似たような条件…ではどうでしょう、どんな男に抱かれるのが好みかでも話してもらいましょうか」
別に女でもよいですが。と付け加えると医者はステンとひっくり返って倒れた。
「少々お灸が効きすぎましたか」
内心ざまあみろとほくそ笑んで私は手近な酒をあおった。その日はもう部屋に戻ってからも酒を浴びるように飲んで彼にどんな風に勝ったかを一手一手順番に教えた。
囲碁の流行はずっと続いた。他の妖怪や神は私と囲碁の勝負を避けるようになった。たまに寺や霊廟の賢者たちが私に勝負を挑んでももはや私に勝つことはできない、私の白黒つける能力はいまやほかのどんな能力よりも価値のある代物だった。
私が閻魔になって以来最高の気持ちで暮らして何年たっただろうか、その時がやってくる。
「もはや、私が指導することはもうありません」
男は頭を下げる。男と私の囲碁の勝率は私がやや上回るほどになっていた。男は私にとってかばん持ちという以外の機能を失っていた。男もそのことを気にしていたのだろうか。
普通の人間であれば、生活にしがみつくために私に様々な交渉と人情に訴えようとするだろう。彼はそのことをしなかった。私も本来はそういう存在であった。契約が終われば彼を放逐するという契約。
「家族はいるのですか」
彼岸の時間の説明は困難。ここで数年、長い間暮らした彼はもはや現世においては異常な存在になっていた。今彼を放逐して彼はどんな生活をすることになるのだろうか。彼は端的に「家族はおりません」といった。それは彼が彼自身に告げる自分が天涯孤独であるという告白だ。彼を知るものはもう現世にはいないだろう。
私は黙って彼に私のやりかけの書類を差し出した。大して仕事のはかどらない彼を事務員として雇う理由は大してないだろう。囲碁が極端に名人、異常に名人、月の頭脳よりも隙間妖怪よりも名人という思えばおかしな男、だがそれ以外では大した力もないし誰かの役に立つわけでもない。ただ私の欲望を満たすためだけに生きているといって差支えがないように思える、その役目も、もはやない。
だが私は彼が、私が今日も裁判を終えたらいつものように囲碁盤の前で私の相手をしてくれるのだと安心していた。彼のいない風景を忘れていた。
彼は私の差し出した書類を恭しく受け取り、部屋を出る私の後ろにいつものように付き従った。
「今日の裁判は半刻ほどでおわるでしょうから」
それまで近くの店で管を巻いてもかまいませんよ、男にそう告げた。裁判を終えた私が店に行こうとする途中で彼がその近所の酒場で刃傷沙汰を起こしたことを知ったのだ。
ずらりと並ぶ薄暗い牢屋の奥まった部屋に彼がいた。彼が拘束されてから丸一日、顔に青あざをつけた彼が申し訳なさそうに顔を伏せていた。私は自分の語気が信じがたいほど荒くなるのを抑えられないでいた。
「私が身元を引き受けます」
私はそこから少し遠くの取り調べ用の机に座って管理者をにらみつけた。
「はっ、この度は誤認逮捕ということで」
「さっさと連れてこい」
周囲にいた鬼の看守たちが狭い部屋に一列に並んで私と視線を合わせないように遠くを見ていた。彼らも鬼の親分の息のかかった職員だろう。彼女から彼の扱いに関しては知っている様子であった。
「お待たせしました」
私は牢屋の前で彼に微笑んだ。誇らしい気持ちだった。彼の真新しい青あざをみて看守たちに告げた。
「お前たち、無辜の者に虐待などと」
「判決を待て」
自分で相当にドスが効いた声を出せたなと満足できた。
どうだ、お前の主人の威光はと彼に見せびらかしたかったのだ。きっと彼は私が権威で違法なやり方で彼を釈放させたのだろうと勘違いしているに違いない、それが心地よかった。
拘置所を出て、しばらく歩くとやはり彼が私に謝罪してきた。映姫様、申し訳ありませんでしたと、彼は一部始終を、彼が拘束された経緯を弁明とともに話し始めた。
私を酒場で待っていた彼は、酒場の一部を占有している妖怪たちの会話を聞いたそうだ。その内容というのが私を侮辱する、まぁ無法者が私に裁かれた仲間の噂ついでに、私を売女、石女、悪徳裁判官と侮辱したのを耳にしたそうだ。
彼はそれがたまらなくなり彼らに喧嘩を打ったのが原因だといった。やはり私は貴方のような立派な人の傍においてもらうような者ではない、もっとふさわしい部下がたくさんいると涙ながらに語った。私は彼のほうを見ないで黙って歩いた。
私はもうそれをきいて、周囲の噂を事実にしてしまっても構わないと思った。彼のほうをまともに往来で見ることができなかったのだ。たまらなくなって部屋に近づくと彼の腕を握りしめて部屋に放り込み、鍵をかけた。ベッドの上で彼の首を絞めながら彼の唇を強引に吸った。
それから彼はずっと私のかばん持ちをしている。囲碁の流行も今は落ち着いて、いよいよ彼の存在意義はない。だが彼を往来で常に連れていることで生じる良い変化も出てきた。
私の見た目というのは、閻魔といえども若い女性のそれなので、地獄の頭の足りない無法者というのは恐れ知らずなもので、公職に努めている私に突っかかってくることもしばしばある。だが彼を連れているとそんな無法者たちも視線をそらして道を譲るようになった。鬼の女親分が配下によく言い聞かせたのか、それとも彼の喧嘩の力を恐れているのかはわからない。
蜘蛛妖怪の女が挨拶をするようになった。
「やぁ姐さん」
「こんにちは」
「にいさんこんにちは」
無法者の無頼の女たちが私を同類とみるようになった。彼も蜘蛛妖怪に会釈して答える。彼が私の情夫だというのは公然の秘密であった。
鬼の女親分はたまに私を自分の店に呼んで酒を飲むようになった。酒の肴としての話題は自分の情夫の数と強さだ。
「お前のイロはまだまだだな」
「そうかもしれません」
そう答えると彼女は上機嫌で地獄の危険な普請を請け負ってくれる。
「よう、閻魔のところが飽きたら私のところに来な」
退店するときに決まって彼女は彼にそう言って肩をたたく。
「かわいがってやるから」
彼は何とも言えない顔をして、恐縮ですとか、恐れ入りますとかそういうことをもぞもぞとつぶやく。
「今日は、少し遅くなります」
男は大して回せない事務所類を抱えて私の帰りを待つ。今日は久しぶりに邪仙から囲碁のお誘いを受けたので遠出をしてお茶をしに行くためだ。
「よくおこしに」
「お久しぶりです」
大したおもてなしもできませんが、ゆっくりとと邪仙が煙をふかして豪奢な椅子を引き寄せる。
「どうですか、その後は」
「あまり変わり映えもしませんが」
「そうですか」
邪仙は笑った。
「私の目からは、ずいぶんとお変わりになられたように見えますわ」
「そうでしょうか」
「えぇ」
今日は楽しみましょうと飾りのついた薄い囲碁盤を机の上に引き寄せる。二三局打つと私が優勢で勝つ、私も彼女に恥を大いに書かせるなんてつもりもないので一目か二目の僅差で勝つようにする。彼女は負けなど微塵も気にしていないようで悔しそうに
「悔しい、負けてしまいましたわ」
と口だけは言って目元と声色は嬉しそうにしていた。一局打つごとに酒とたばこを勧めてくる。私にも一週間ほどそのイロを貸してくれないかしらと彼女はことのほか真剣な声色でいう。
「お断りします」
「残念」
彼女の差し出すタバコはおそらくは麻薬だろうか、普通のタバコではない味がした。
「悩みはありませんの?」
「いえ」
「申し上げにくいですが、今日お呼びしたのは、貴方がきっとお悩みになられてると思いまして」
「ほう」
「ほら、貴方、石から生まれました人でしょう? 名は体を表すものですから、特に私たちみたいなのは。きっとお悩みかと思いまして」
なるほどと思った、思わなかったわけではないが、私はそのことに真剣には悩んでいなかった。
「もしかしたら、いつか、頼りにさせていただくこともあるかもしれません」
「そうですか」
「まだまだこの生活を楽しみたいと思います」
「差し出がましいこと言いました」
許してくださいと邪仙は慇懃に頭を下げる。いつか彼女が私に囲碁を指導しようかと提案したのも案外、私を純粋に心配してのことだったのかもしれないなと思った。
「いいイロを見つけられたようで」
「えぇ」
「あなたに白黒つけてくれるイロなんて、めったに見つかるもんじゃないでしょうね」
その、気が利いたようなそうでもないような駄洒落のようなセリフを黙殺して黒石を打ち込んだ。
囲碁で打ち負かされる永琳や、色情を語る勇儀など出てくるキャラクターたちもたいへん魅力的で、心地よく読めました。とても面白かったです。
絶妙に融通の利く四季様が新鮮に感じられました
情夫のキャラもよかったです