なにかになるなんて真っ平だった。なんにもならないようになりたかった。何かを諦めるには常に絶好の毎日だけど、枯渇しきった荒野にも咲く花はある。だから窮地が拓くのはいつだって活路で、活路はお誂え向きにぬらぬらと湿っていた。吸い殻、唾、汚い猫、死体、吹き溜り。こんな場所を走ってきたことには気味が悪いし、息の切れた今なら、歩いてゆくことにすらぞっとする。このぬらぬらを行く以上、靴底を汚さないなんて不可能だし、それでも汚したくなければぬらぬらと同化するまで座り込んでいなければならない。泥の中にいたってキレイに咲く花がある。ひとはきっと誰だって、泥に塗れていたとしても、それでもまだキレイでありたがる。滑稽だ、そう叫び出したくなるときがある。けれど、ぬらぬらの一部の担う老人たちは白い髭を蓄えて、まるで悟ったような顔するから、俄然追い立てられるような気持ちにもなる。老人たちは足掻くことをしない。この掃き溜めで手足を放り出して、子供のように泣き喚くのは酷く無様だ。老人たちは不自由で、それは自分にしても同じことで、ぬらぬらから与えられる選択肢は常に二つで、それはいつだって両極端の語句だった。迎合停止逃走死。それらの斜め四十五度の対角、眩しくて目の眩むような言葉の数々。とにかく、足掻く以外にはなんにもなかった。それがどれだけ無様で醜く滑稽だとしても、それ以外に、出来ることなどなに一つとして存在しない。
だから、止まれない。止まれなかった。
あー。
「……神様神様、どうか私を見つけてください。私をこの世の使い物にしてください。そして私を許してください。今の私を壊してください」
どうした! 僕の名前を呼んでみろ!
「舞っ! てめえ待ちやがれ!」
なんちゃって。
待てと言われて待つ馬鹿がどこの世界にいるというのだろう。それとも僕はそんなに馬鹿っぽく見えるのだろうか。ならその馬鹿に金を盗まれる馬鹿をなんと形容したらいい。馬鹿に馬鹿にされるなんて馬鹿馬鹿しい。屈辱は屈辱から逃げるための力をひとに与える。曲がり角にて待ち伏せるだけの忍耐を与える。逃げた先に待つ屈辱も、振り向きざまに与える刺し傷も、呼んで字の如く道理だった。凶器を持つ手は震えない。ひぃ、ふぅ、みぃ……いま。
通り雨が過ぎた頃だ。張り巡るパイプの中を轟音と共に滑っていく水の色は空想の上に黒く淀んでいた。どこにでもある都会の一角、喧騒に囲まれたビルとビルの背中合わせを二組見つければ、そこが僕らの住処になった。僕らが落とし穴と呼称する住処にはひどい雨漏りがあった。雨漏りもなにも吹き曝しの空き地では仕方がない、ましてや廃材置き場と化した空き地に利便性を求めたりなんかしない。替えの服ならごまんとあった。保管するための寿命付きロッカーの延命装置だってついさっき手に入れた。奪い取るのは簡単だが、奪い去る位置まで近づくのには骨が折れる。このご時世に太鼓持ちなんて羽振りの良い職はないし、そもそもそうならないために僕は落とし穴に巣を張った。とにかくとして手に入れた数十枚の紙切れはどこか誇らしく、汚れた野良猫を見つければ頭の裏っ側に取り憑いて縦横無尽を好き勝手でやりたくなった。
「おかえり」
聞き馴染みのある声がして僕はひとつ溜息を吐く。この溜息には二通りの意味があった。ひとつは落胆と、もうひとつはやり遂げた安堵のそれだ。どちらにせよ、向こうには伝わらなくてもいい感嘆で、しかしどうしても向上心のないやつは好きにはなれない。この寝ぐらでそんなご挨拶をされてしまっては、まるでこのぬらぬらが僕らの家であって、これ以上は望めないように思えてくる。あーあ、嫌だなあ。聞こえないように、舌の上で言葉を溶かした。
「はいこれ」
紙切れのすべてをポケットから取り出してそいつの上に落とした。濡れたスポンジの上で漫画雑誌を広げていたそいつは慌てることもなく落ちた紙切れのすべてを集める。ゆったりとした動作だった。
「こりゃまた、ご苦労なこって」
「あんたは?」
聞かれたそいつはさも当然のようにポケットから硬貨の数枚を取り出す。緩慢な動作だった。
「俺はこんだけ」
「ひぃ、ふう、みぃ……千と百二十円! なっさけなー」
投げ返せばまた嫌そうな顔をしてポケットにねじ込む。僕の潜む眉がそいつに顔を隠させた。気まずいんだかなんだか漫画雑誌で隠した表情を窺い知ることはできないけれど推測はできる。なんてったって長い付き合い。アタリマエ。こいつはちょっとでも都合が悪くなれば、漫画雑誌で表情を隠すのとおんなじに、それがどれほど大事なことだろうがおかまいなくなんだって隠すのだ。習性としては犬猫とさして変わらない。施設にいた頃から、こいつに隠し切れないのはのろまで臆病な性質だけだった。
「いくら溜まった?」
「さあ」
雑誌の陰からチラリと視線がすれ違う。その目つきとくれば心底どうでもよさげ、投げやり、面倒、それらの語句を物質にしてミキサーにかけて飲み干したようなものであり、僕の胸中にたちまち怒りが嘶いた。
「さあ、じゃないでしょ。さぁ、じゃ、さぁ! ……僕がどんだけ危ないことしてきたかわかってんの? それこそ、そんな「さあ」なんてテキトー口走ろうもんなら指の飛ぶような界隈の御仁だまくらかして盗ってきてんの。そういう金なの。それをさあ……おい! 聞いてんのかー?」
今度は顔の上に乗せた雑誌を片手でおさえて、なにが可笑しいのかくつくつ笑う。上塗り、上塗りだった。奴の笑いには所謂失笑苦笑それらに類する含意があって、すなわちそれは火に注ぐ油だった。赤い〝キリ〟を赤く塗ってなにが変わるというだろう。なにも変わらない。これからもきっと、僕はどうして、穴の空いた貯金箱に小銭を入れる日々を送る。
「あーあ、言っちゃった。く、くくく……」
「あー? なにがさ。まあ、もう喋んなくていいけどさあ! どうせもういっしょだし」
合ってもなくても変わらない様々のことを思うと僕はすかさず後ろポッケの〝キリ〟に手をかけた。いっちょまえに、ジーンズなんかせしめやがって! よれよれだけど!
「く、くく……違う、違うって舞。君さっき、盗ったって言った」
あっ、として、ハッとした。
「ねえ舞。君はぼく……俺にこわい御仁と仕事してるって言った。あと君、俺のことよく、ばかにしてた。小銭拾いのやり方がどうとか……犯罪すれすれ、でも合法……そんなうまい儲け話について、いろいろ……くっ」
そこまで言って大笑いを始めやがる。僕はしらけて、ばかばかしくなった。バカはバカ、わかっていた。バカと関わるのは馬鹿のすることなのだ。こいつなんてのは所詮、僕にくっついてきただけの、のろまな、ただの! 臆病者……僕は踵を返して自分のねぐらに向かう。
「でも君! 盗ったんだ! ハハ! 僕にあれだけ言って、結局やってたなんてさあ!」
後ろの方からひいひい、バサバサ。息を切らして雑誌をパタつかせているのが見てとれる。僕は片手で片耳を押さえて寝ぐらに潜り込んだ。廃材、パイプで囲んだ骨組み、壁はビルの外壁だ。そこにいい感じのスポンジを置いたのが僕のねぐらで、なんと昨日カーテンを取り付けたのだ。天井から覆いかぶさるブルーシートに穴を開けて紐を通せば、扉のようなカーテンのような、そんなふうに使える。さっさと紐を括って閉めてしまえ。そう思った矢先、軒先から不快な声がする。同じ落とし穴。ねぐらとねぐら、距離は近い。
「まあ、そうつんけんしないでよ。ぼく……ああいや、俺だって金の管理くらいできるさ。安心して、ちゃんととってあるから。三桁、もう近いよ」
「なら、よし!」
シートの端と端をビシャッと閉じて紐を括る。ビルの陰の空き地、さらにそのビルの壁ッ端は根元とくれば昼の陽などは問題じゃない。ねぐらは暗く、狭いおかげか、不思議と静かだ。僕のねぐらには寝具であるスポンジと、ぐちゃぐちゃな布団代わりの替えの服の山しかない。替えはすべて男物、それも学生服、詰襟ってやつばかり。僕はやっと座り込んで、スポンジの柔らかさに安堵する。窮屈なニット帽を脱ぎ捨てる。ぐちゃぐちゃ布団の一部と化したニット帽はすぐにびしょ濡れた。
「おかえり、舞。あーあ。また危ないことしてきたんでしょう」
落とし穴にも雨は降り注ぐ。先刻のちょっとした通り雨のひとつで、僕のねぐらは濡れ鼠だ。雨漏りなんて、いくら直してもきりがない。だから、直さない。
「うるさいなあ。里乃には関係ないじゃん。それより僕、疲れたんだから。……こわかったんだから。だからさー? だから……ほら」
「……舞はいつまで経っても甘えんぼさんねー? しょうがないんだから、もう。……ほら、なでなで。なで、なで……」
ぐちゃぐちゃの盛り上がりを枕に横たわると長い髪が鬱陶しく濡れた。僕の髪も、落とし穴の乾かないスポンジと、ねぐらのぐちゃぐちゃな盗品の山と、なにも変わらない。だから、だから……。
「いいじゃんか、別にさー。あ。ちがうよ、ちがう……もっとやさしくして。ぎゅって、ぎゅってしてさ、それでぇ、それから……えへへ」
「舞は本当に変わらないのねぇ。あとどのくらい、ふふ。寝ずに耐えていられるかしらねー。ほらぁ。いい子、いい子……」
お金だって、本当は、あってもなくても変わらない。きっと、そんなことはどうだってよくて。僕らにとって大切なのは、こんなふうに、ずっと幸せが続くこと。たぶんおそらく、そうなんだ。
でも、だけどさ。里乃。えへへ。三桁……百万、百万円だってさ。ふふ、これで僕ら、何ができるだろうね。
「ああ、それと舞。お疲れのところ済まないけれど。そのキリ、ちゃんと洗っておきなよ」
なんだよもう。うるさいなぁ……。
おお神よ! 近頃ではこの擬勢都市にさえ魑魅魍魎が蔓延っています! 彼らは黒く、そして若い! 彼らの標的は彼らよりより黒く若い魑魅魍魎の子羊達……真昼間、老人たちはチェックを着て歩きます! 街路樹が並び立って……そう、見たこともないようなラグジュアリーショップのわきにいつか行こうと思っていたパン屋があり、そしてはす向かいにはぐるぐるの床屋が立ち並び、その脇を! チェックの老人たちが笑いながら歩いて、似たようなのとすれ違っていくのです! なんと平和なことでしょうか、まるで貼り付けた厚紙の青空が如くではありませんか! それが、それが夜になれば一変……街はネオンと排水と粘こい喧噪と、国道をゆく長距離トラックの振動、駆動音……それらが支配する闇の魔の! ……温床となり果てるのです。なんと嘆かわしい事でしょうか。ご覧ください。例の街路樹、タイルの道を子羊が歩いています……今から獲り殺されることなどちっとも知らずに! 悪いのは例のアヤカシなのでございます……。アレを止められる者などはもう、一人としてこの街に残ってはいないのです。そら今まさに! アレが子羊を食い殺してしまいました! そして、アレもすぐに食われてしまうのです……。歩いてゆきます……満足げな表情で。街路樹、例のタイルの道を、悠々と……。お判りでしょうか。この街の夜はもう……。この夢ははずれ。
今日は濡れた布団の代わりを取りに行くことにした。じめじめしたねぐらを出て、干しておいた“マシなやつ”を着る。空き地に降った雨は路地に流れて染みて落ちて、地下排水へ流れてゆく。いっそ衣類なんかも濡れれば、いつかの綿菓子みたく溶けてなくなってしまえばいい。とにかく、僕には四方をビルに囲まれた四角形のなかでそれらを“マシ”にすることしかできない。それは濡れスポンジに雑誌を読むあいつにしても同じはずだが、あいつがこういったことで困ったという話は聞いたことがない。ちらと横目に見やればまた、例のごとくに仰向けで雑誌を眺めている。どこぞせしめたジーンズやシャツが濡れている、といった様子もない。
他者にバレずに得をするのも、兎にも角にも知りたがらないことも、どちらも施設由来の処世だ。
チッ、と気付けば無意識に舌打ちをした。
「今日は表に行くから」
「あれ、もう替えないの。治んないもんだねぇ。俺は四歳くらいで治ったけどな」
「なにそれ、イミフメー。それよりあんた、今日も自分は小銭さえ拾ってりゃいい、だなんて都合のいい事、考えてるわけじゃないよねー?」
「いいじゃないか。どうせ八対二。どうせ八対二なんだから」
着替えを見られちゃいないかと声をかけたつもりだが、やつは此方に見向きもせずに雑誌を眺め続けていた。すると一瞬、雑誌から片手を離す。なんだと思ってみていると、やつはその片手で自身のおつむを指先でとんとんせしめる。一日数百、数千円如きの成果で、およそ百万ある共有財産の二割を持っていこうという精神性の異常さに自覚を持ったのかと思ったが、どうやら違った。
「けっ。やなんだよなーニット帽。まだ乾いてないし、それにまだ春だし。バカみたいでさー」
「詰襟しか持ってない女の子がよくいう。……あと。さすがに、そろそろ無理あるんじゃないの、それじゃあ」
ねぐらをかき混ぜてニット帽を引っ張りだす。やつのいうそれが何を指しているかはわからないが、気にせずにニット帽をかぶった。鬱陶しい髪を仕舞い込むにはこれがお誂えで、この辺で問題を起こすのにも、詰襟という擬態がお誂えだった。成人や女子供なんてのは加害者側だって被害者側だって、事件に遭えばあとが面倒だった。
「じゃあセーラー服でもかっぱらってブルセラやって、あんたにはお縄についてもらおうか」
「いいさ、なんでも。好きにしたら」
苛々として一瞥すれば、あいつは未だ雑誌を眺め続けていた。コンプレックスを持つと人間哀れだ。ろくに読めもしない文字を読みたがる。
「補導されないように気を付けてね。本当は表出るだけで危ないし、その上、ぼくらあとがないんだから」
路上生活をやって判ったのは、路上という言葉の持つ意味の狭さだった。路上生活の指す路上と、単に路上という言葉が指す路上では、子育てと養育くらい意味が変わる。
「あんたは“ぼくら”じゃなくて“俺ら”だろ!」
吐き捨てて、僕は落とし穴をあとにした。
表。僕らが表と呼ぶのは人通りの多い場所、つまるところは裏路地以外。表に出るのに危険が伴うそのわけなんて、それは決して僕のせいででもなければ、あいつのせいでもない。ただ、僕とあいつはあと少しで十五歳になる。そして僕らはそれを祝うべき日だって知らないまま生きている。
路地のぬらぬらには苛々する。一歩一歩を踏みしめるたびに頭の奥のほうで歯軋りみたいに、何かが詰まって擦れているような気がする。陽のあたらない陰鬱な路地を抜ければ一転、表の景観は晴れ渡る……。路地は薄汚れていて、僕の足元には空き缶や、煙草の吸や、ガムがへばりついている。空き缶の一つを蹴りとばすと、地面を跳ねてからんと鳴いた。
「ねー里乃。十五歳ったってさ、僕なら何も変わらないよね。どういうわけって、そりゃあさー……
「そうかも。でも、こんなの長く続かないわ。わたし心配だな。舞が大変なことになっちゃって、離れ離れになっちゃったりしたら」
「そんなの。僕の方がさみしいよ。生きていけないね、ぜったい」
「うー、わたしのほうが先に死んじゃうよう
「でもさ、でもまっぴらだよ。自立援助なんてさ。現に僕はいま立ってるし、歩いてる。名前が変わったって、所詮は施設だよ」
「そうね、もうちゃんとひとりよね。二桁以上の計算ができなくたって。舞はちゃんと立ってるし、歩けるもの」
皮肉じゃん! と、僕は笑って路地を抜ける。路地の終わりには表通りから陽が目いっぱい差し込んでいて、まるで光の扉みたいにみえた。そして僕は扉を潜り抜ける。表通りは人であふれて、やはり嘘みたいに晴れ渡っていた。裏路地には無い無数の足音、人間たちの疎らな話し声。途端に世界は騒々しかった。射し込む陽がひときわ眩しくなって、ハッとする。惚けている場合じゃない。僕はこれから身包みを剥ぐ。今考えるべきは路地よりもっと暗い事だ。詰襟の、黒よりずっと……。
奇遇じゃん、その一言で同じ制服を着た学生の警戒心は、まるで初めからなかったみたいにして溶ける。バスでも待っていたのだろうか、気弱そうなそのアホ面は駅真ん前のハンバーガーショップの前をうろうろしていた。クラスやなんかをでっちあげると、これまで彼らがそうしてきたように、相手はすぐに例に漏れずの言葉を吐いた。
「趣味じゃないよ。そういう、ヘンタイっぽいのじゃなくてさー。……セーラーだとさ、何かと面倒なんだよね。この街でなにかやるっていうと」
声を潜めて言えば、相手はたちまち興味津々って面をして、同調しては声を潜めてみせる。
「な、なにさ。その、なにかってのは」
「ほらぁ。アレだよ、“アレ”。最近みんな噂してるでしょ? その“アレ”。わたし、売ってんの」
言葉の妖しさにうらなりはやおら高揚したように頬を緩める。眉こそ潜めているがこうなればこいつの警戒はすべて見せかけだ。
「え、えっと。……いくらぐらいのものなのかな。その、ここいらの相場では」
「そういう話はここじゃちょっとね。ついてきなよ」
そういって僕は馴染みの路地へと歩き出す。うらなりは子猫みたくどっか所在なさげに僕の後ろに着いてくる。そしてきっと、こいつはアレを何かも知らない。快晴、無数の足音、平和な街の平和な喧噪……扉は入口でもあって出口でもある。さらば人類。僕はまた扉を潜る。照り付ける陽光、焦がされた詰襟の背の温かさはふっと消え、なんだか裏寒い気分になる。ぞわぞわと、二の腕あたりが震えてくる。身体のど真ん中は痙攣していた。「神様、どうか私を……」心は暗く溺れるみたいに嘶いた。
男が泣き叫ぶ。
「痛いよぉあげたじゃん! あげたあげたあげた! もうあげたじゃんかあげたのに! 痛っ、痛い、痛い痛い痛い痛いからぁ! やめて! 許して、もう許してよぉ! こわいよぉもうやめてってばぁ……」
「脱げ! 黙れ! 謝れよ! 象徴だろ、象徴だろうが! 脱げ、脱げ、脱げ!」
拳に走る衝撃は震えと判別が付かなかった。「謝れ!」金も服も学生証も尊厳も自由意志もすべて僕のものだ。方法はいくらでもある、方法はいくらでもある。「謝れ! 黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」じゃあ僕に脱げって言うのか! この、僕に! 殴打の最中、ふ、と自分の息が止まっていることに気が付いた。顔の熱さと、感覚の遠い身体と、底冷えするような胸の奥とが、地べたで渦を巻いていた。しくしくと泣いている。いまだけ、すべての暴力だった。細い曲がり角から足音が聞こえた途端、僕は滅茶苦茶になったのか駆けだしたのかわからなくなった。乱反射に仰いだ狭い空は吸い込まれそうな青色で、それは靴底のぬめりだけを知っていた。
里乃、里乃、里乃、里乃。
「……さい……な……い……んなさい……
「……大丈夫、だいじょうぶだよ……大丈夫だから……」
小さくなる、肩を抱く。狭い。薄暗い。湿っている、濡れている。室外機と室外機のあいだ、或いはもっと狭い場所……。
うずくまっていること……? 時間の感覚が無いこと。それだけ頭の隅に白々と認めていた。
夕暮れだった。落とし穴に戻るとあいつは飽きもせず、仰向けになって雑誌を読んでいた。ただ戻ってきた僕に気がつくと、やつはふいと僕の方をみて、なんだか馬鹿にするみたいにして、ちいさく笑う。
「おお、おお。取ってきたね、みごと。セットーも舞にはもう慣れっこかい? 丈もちょうど良さそうじゃないか。さすがだね」
「へへへー、いいでしょ。あんたのぶんはないよーだ」
いらない、いらない。そう言ってやおら立ち上がり、ふらふら物置の方へ向かう。こいつは暇そうにしてても案外やることはやってくれる。稼ぎはてんでダメダメだけど、食べ物の調達はこいつの仕事だった。
「今日はなにさー? たのしみ。僕ってば腹ぺこだったりして。あ、金は? ちゃんと稼いできたのかよお」
「はいはい腹ぺこね。ちょっと待ちなよ今出すから。金は二百円、自販機。一度に何個も質問しないように……はいこれ」
そういって手渡されたのは結構有名なチェーン店の弁当だった。ハンバーグ好き。僕は嬉しくなってやつの頭をなでまわした。「あんたはえらい!」わしゃわしゃやってる手を冷たく振り払われても僕は以前うれしいままだ。だって、お弁当はまだ温かそうだから。
「舞は好きだね、ハンバーグ。毎日これ買ってこようか?」
「ほんと! いいじゃん! それでいいし、それがいいと思うな、僕!」
失笑と箸を渡される。「ごくろー!」僕はさっそく寝ぐらに戻る。施設のなかでも、食事にマナーがあることを知ってるやつと知らないやつがいて、僕はやつがそのどちらかなのかを知らないし、やつだって、僕がどっちかを知らないでいる。知る必要なんてどこにもないから、施設のなかではみんながそうした。だけど、やつは毎日、よれてるけど湿ってないジーンズを履いて、シャツを着て、食べ物をしっかり調達してくる。金はぜんぜん持ってこないけど……。ねぐらに潜って、弁当の透明の蓋を外す。いい匂い! 箸を割って、ハンバーグに突き刺して、たくさん頬張る。あんまりおいしいから、「お」が「ほ」に変化してほいしー、ほいしーなんて感嘆がもれる。飲み込むときも幸せだった。好きだな、嚥下。いいな、食べるって。おいしいし……。
「……でも、あいつは知ってるんだろうな」
暗いねぐらが、もうちょっとだけ暗くなった気がした。またハンバーグを頬張る。
「おいしー。里乃、これおいしいよ。ほらほら、里乃も食べなー?」
「えー。わたし、舞が帰ってくる前に食べたのに。太っちゃうよう」
「いいじゃん別にー! ほらほら、あーんしてあげよっか」
「もー。……じゃあお言葉に甘えて」
食べ方について、そのマナーについて。知ってるか、知らないかなんて、どうでもいいし、指摘する奴もいなかったから、そんなのはなんの問題でもない。ただ僕らは対等でないことを許せなかった。僕とあいつは似てる。だからずっと、ここにいる。
食べ終わって眠気でうとうとぼやぼやしていたら、あいつが絆創膏やら持ってきて傷の手当てをしてくれた。怪我なんて拳の擦り傷くらいなものなのに、あいつは甲斐甲斐しく手当てして、説教めいたことまで言った。衣類をせしめる方法なんて数多にあるし、理由もなく人を殴るのはよくない、なんて。そんなことはわかってる。ただ理由もなく人を殴るのがよくないなら、理由があって人を殴るのは正当なのかな、と思う。なんにせよ殴らなきゃいけないのなら、理由なんてないほうがマシだと思った。
「里乃、あいつって優しすぎるよね。男のくせにさ、女々しいっていうかー」
「いいことじゃない。舞は荒っぽすぎるわ。女の子なんだから、もっとかわいくしてもいいのに」
ふーん、と息をついてぐちゃぐちゃにの上に横たわる。そろそろ眠たくなってきた。何か考えているうちにすぐにうつらうつら、微睡はじめて、思考と現実は半分半分の夢みたいになってくる。
「……ちがうよ、里乃。ちがうもん……そんなんだから、僕らここにいるんだもん……」
昨日と比べて、髪はあまり濡れずに済んだ。
狼だ! 真夜中の村に狼が湧いた! 群れをなして襲来した狼たちは村民を次々襲いまわる! 村民たちは泡を食って逃げ出したが、中には米櫃を二階へと運ぶトンチキもいる! 人は不幸だ。そんなのの臭いを鋭敏に嗅ぎつけて、狼達は大きな群れから小さな群れのいくつかに分かれて、各家の二階へと駆け上がる。夜空に星が瞬き、高速道路をトラックが走っていた。トラックはいずれ県道へ降りて山道を往く。山の中腹に差し掛かった頃、星は燦然と輝いていた。狼と村はいつのまにか消えていた。この夢もはずれ。
目が覚めてからというもの、今日はねぐらから一歩も出ていない。気分が優れないというのもあるし、なによりねぐらの暗さや、ごちゃまぜの匂いには安心感があった。
「まーいー? おでかけ、今日はしないの。健康に悪いよ、つまんないよ? 陽に当たらないと馬鹿になるって、あの子に馬鹿にされちゃうよ」
「いいのいいの。言ってる本人が馬鹿なんだから。それに、里乃はぜんぜん、頭いいじゃんか。僕と違ってさ。まあねえ」
幸い、ねぐらの外にあいつの気配はない。今日はどこかにでてるらしい。いまはたぶん昼過ぎ。この時間まであいつが帰らないのは珍しいけど、今日は殊勝な気でも起こして隣町の自販機まで出張してるのかもしれない。なんにせよ、気怠い昼下がりだった。
「ねえ、ねえねえねえ舞? あの子いないならさ、いろいろ物色しちゃいましょうよぅ。あの子いっつも雑誌みてるけど、何読んでるかさっぱりでしょう? もしかすると、舞の云う〝俺〟っぽいやつ、読んじゃってたりしたりして! ね、ね? みてみましょうよぅ」
「ハ、そんなわけ。やつはまだまだボクだよ、ボ・ク。僕のような僕とは違うのさ、変なこというようだけども。てへ」
あいつがそういった如何わしいモノに興味を持つはずがない。それは僕の確信で、そして僕らをかろうじて繋ぎ止める強固な鎹なのだ。まあ、そういったものに興味をもったとして、それはそれで、ううむ。複雑なところである。実際、あいつからは未だ〝俺〟って感じはしない。あいつも僕とおんなじなのに、どうして同じくやれないのだろう。僕はもう完全に僕だ。だって――「ひっ」
「……ああ、ああ! 知らない、知らない、バカ! バカ、バカバカバカ! 里乃、さとの!」
縋り付く。身体に数多の感覚が蘇る。引きつけを起こしたみたいに、体がびく、と跳ねる。僕は布団代わり、衣服の山を精一杯かき集めて抱き寄せた。「ああ!」匂いがした。いろいろな匂い。生活の、人の匂い……。慌ててそれらを掻き散らして、必死に後ずさる。ねぐらに逃げ場などなくて、私は大顕でねぐらを飛び出た。
春の陽は高く、そして長い。長いと云うのは単に時間的な話のみでなく、なんというべきか、伸びやかなのだ。こんな日なら、落とし穴にも陽は注ぐ。やつのスポンジ――マットレスは僕のねぐらにあるそれよりも状態が良くて、座り心地は最高だった。
「さてと!」
立ち上がって、僕はやつのねぐらの方へ近づく。端から端まで一寸ない落とし穴にも一応の区分けがあって、ひとつは僕のスペース、僕のねぐらとその周辺。そしてひとつは、やつがいつも雑誌を読むマットレスの共有スペース。それから最後やつのスペース。やつのねぐらとその周辺だ。
「えー。舞ってば、ほんとにやるの? よくないんじゃないかな」
やつのねぐらは無防備なもので、僕のと違って〝とびら〟がない。外から丸見えの四角形のなか、カタイベッドなんかの上で寝る。いっそいつものマットレスで寝てしまえばいいのに。共有スペースだからとかなんとか、やつときたら妙に律儀だった。
「いいのいいの! あいつなんてろくに稼ぎもしないんだからさ。もしへそくりなんか隠してたら、別の場所に隠して、ひひ、慌てさせてやる」
代わりにといってはなんだが、やつのねぐら周辺にはどこから拾ってきたか沢山のタンスやら机など、収納家具が散乱していた。僕の狙いはそれらであって、なんだか妙にワクワクして、すこしドキドキしたりもして……とにかくひとつ、僕は棚に手をかける。引っ張り出すときの昂揚感はふわっとしてて、その中身にはがっくしだった。
「……なんでー。漫画雑誌ばっかりじゃんよー」
「あ! でもでも舞、ほらこれとかアヤシイんじゃない?」
「えーそんなの。文字ばっかのつまんない本でしょ。どうせつまんないよ。だってつまんないものなんだから」
「あら。だけどこれって……」
僕はしばらく真剣になっていろいろ見て、いろいろ物色した。いろんないろいろを見て考えて、あいつはまだ俺じゃなくてぼくで、施設のころとおんなじ、何にも変わらないことがわかった。えっちな本なんてひとつもないじゃんか。僕もバカだ。
飽きもせず陽は落ちて街は朱。落とし穴ならちょっと紅色。あいつはひょっこり帰ってきて僕にハンバーグ弁当をくれた。やりい。ねぐらに戻ろうとすると引き留められる。なにさ、言うと、やつは身に付けていたちゃちな革の鞄をごそごそはじめる。そのあいだ訝しげにやつを睨め付けていたか、それともおべんと食べたさにねぐらをちらちら見やっていたか、その判別は僕には付かない。ただやつが「これ」と手渡してきたのは小さなコンビニのビニール袋で、それがなにかは僕にもわかった。
「舞、コインロッカーの期限忘れてたろう。無用心だなぁ。ほらこれ。入ってるんだからさ、ずっしり、お金が」
真上の方から数羽のカラスが鳴きながら飛来した。それは僕らの全財産が入ったコンビニ袋だった。
「さあほら」
僕は受け取った手できょとんとする。カラスの鳴き声がやかましく響いている。コインロッカーの期限を忘れてたことはやつの言う通り無用心だと思うし、反省するし、なんなら謝ったっていい。けど、なにがどうして持って帰ってくる必要があるのか。期限を覚えていてくれたなら、そのまま延長してくればいい。まさかそんな小銭がないとは思えないし、なんならこんな大金を一人で持ち出すなんて危なさすぎる。それも、こんな心許ないコンビニ袋一枚を……ハッと見りゃ、カラスたちはみんなして、たぶん虫かなんかを啄んでいた。まずはうっすらとした憤り、経由してさまざまな感情が降っては消える。
「そのまま、また仕舞ってくりゃよかったじゃんか」
結局、僕の吐いたセリフはごくシンプルなものだった。街は朱、落とし穴ならちょっと紅色。ビルの落とす影はやつの表情を隠さない。
「やだよ。そしたらずっと、オレの仕事になるじゃないか」
やつはさも当然のような顔をしてぬけぬけ言いはなつ。そして、街も当然みたいな顔をして夜になった。気付けばカラスたちも消えていた。
暗いねぐらに鎮座する大金入りのコンビニ袋は妙に恐ろしく、気が気でなくて仕方なかった。なんだか中身を検める気にもなれず、僕は座して腕を組んでは袋を睨んでいる。飽和する衣類の山、詰襟。布団代わり。どこかに埋もれた目覚まし時計すら、きっと寝息を立てている。静かな夜だと思う。
「……百万、ありそうだよ。どうしよう」
「どうしようって、舞? いいじゃない。なんだってできるわ。百万円よ、ひゃくまんえん! おいしいもの食べて、服も買って、それからそれからぁ……」
ブルーシートの扉を夜風が撫ぜる。不思議なほど、僕の心は凪いでいた。それこそ、しみったれた夜風みたいに。しっとりと。別に、このなかから二割引かれて、僕の取り分が減るのが嫌、とかそんなんじゃないし、そもそも百万稼いで終わり、とかそんな話でもない。僕はこれからだってこの生活を続けるつもりだ。
「なあに、舞ったら。シンミョーなかお。じゃあ、だったらさ。こんなとこ出ちゃって、安ホテルなり、ねっとかふぇ? なり。そーゆーとこで暮らすってのはどう? 便利ね、ぜったい!」
「だめだよそんなの。すぐ足がつく」
「足がつくって。なにも私たち悪いことしたわけじゃないじゃない。あ、舞はちょっとしてるんだったか。てへへ」
「とにかく、人の多いところはだめだ。とにかく決定、この話は保留!」
僕らはまだまだこの生活を続けていく。コンビニ袋の中の金がどこから来たものかなんて、ひとつひとつ正確に覚えちゃいない。この服の山にしてもそうだ。拾ったのもあれば、そうじゃないのもある。そして僕らに金やらなにやら奪われた者たちがどうしたのかなんて、考えたことは一度もないし、それはこれからだって変わらない。所詮、僕はあのカラスたちがどこへ行ったかも知らないのだから。
「ちょっといいかい?」
と、眠りかけていたら、やつがねぐらの外から呼んだ。面倒に感じつつも扉に手をかける。「ああいや!」と声がして、思わずかけた手を止める。
「そのままでいいから聞いてくれ。それで、二、三答えてくれればいい」
「なにさ、もう」
「じゃあひとつね。別に怒っちゃいないから、正直に答えて欲しいんだけども。その。君、オレのねぐら物色したろう?」
「した」
「ええと。そのときなにか、変なものみなかったよね? ボク自身、変なものがないことは知ってる。変なものってのはつまりええと……」
「みてない。なかったよ、そんなもんは」
ここまでこたえて、シートの向こうが沈黙する。なんだか要領を得ないし、眠たいし。とっとと眠りたいんだが、やつは一体どういうつもりなのだろう。
「……ああ! いや別に、謝って欲しいとかそういうわけじゃなくてさ。そのう。……タンスとか、ねぐらに。そういう変なものが無くてさ。舞。君は、オレのことどう思った?」
「別に。あんたらしいなって。当然だし……しょうがないし」
そう答えるとまた少し沈黙する。しかし今度は一寸しないうちに声がした。「ならよかった。それじゃあ」それから遠ざかる足音がして、代わりに静寂か睡魔か、どちらかがすばやく訪れて、僕は微睡む。あいつがオレになったのと同じように、私が僕になったのにも理由がある。
「いまさらじゃんか……そんなことって……」
「でも、でも……。おやすみ、里乃……」
僕はきっと、すやすやと、穏やかな寝息を立てて眠る。神様、かみさま……。
六人の子供達が、二列になって眠っている。部屋は暗いが、蛍光灯の燭光が淡く灯って、暖かな卵黄色が部屋に注いで、子供達の寝顔を照らしている。男女六人、その中には舞もいた。そして猫も。猫は隣の布団から、舞にこっそりと、耳打ちをするみたいにして喋りかけた。
「ねえ、起きてる?」
舞はその声でうっすら目を覚ましてしまい、本当は眠たがったが、猫のことが好きで、かわいかったから、しかたない、といったふうに返事をした。
「へへへ、やっぱり起きてた。舞、わたし眠れないの。ちょっとお喋りしちゃおう? ね、ね。いいでしょ?」
猫は普段話好きではなく、無口で、むしろ施設にはあまり馴染めていないような、そんな猫だった。けれど、猫は舞とだけはおしゃべりをできた。夜毎、舞にすてきな夢の話をしてくれた。舞は夢想家で、本当は愛想のいい猫のことが可愛くて、好きで、ほんのすこしだけうらやましかった。
「なんだかね、猫ちゃんはお姉ちゃんと似てるの」
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
「えっとねえ……」
舞が返答に困ってはにかむと、脳の一箇所でこれが夢であることに気付いた。そして同時に、もう一箇所で別の夢が始まる。おお神よ! 夜空に輝く星達の下、荒寥かつ人工的なあのハイウェイを走るのはトラック、ではなく! よもやバンではありませんか? 車種について詳しくないのです、白い車は全てトラックに見えてしまうのです。猫はお気に入りのかみさまの話を始める。
「そっかあ。でもね、かみさま! かみさまがいるもん。かみさまはさ、いつもわたしたちを見てくれてるんだよ。かみさまかみさま――ってお祈りしたら、なんだって叶っちゃうんだから。お母さんが言ってたから、これは絶対!」
トラックは走り続けて、高速を降ります。県道をひた走れば遠くには山が見えました。山の端の月は綺麗に欠けてちかちかと、色硝子のかけらのようでした。舞はこの話が大好きだった。かみさまの話をするときの、元気な猫のことが好きだったし、猫を見つけてくれたかみさまのことも大好きだった。
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
山の中腹でトラックは停止します。猫は毛並みを気に入られ、どこか遠くへ買われていきました。なにが起きたかと思い運転手が辺りを見渡すと、トラックはなんと狼の群れに囲まれているではありませんか。「逃げて!」と誰かが叫びまして、舞はやっとはにかみながらも、返事をすることができた。
「……えへへ、わかんない」
この夢は――
――まずい! 僕は飛び起きる。全身にかいた冷や汗なんて気にも留めずにねぐらを転がり出た。走って、小走りになってやつのねぐらに急ぐ。
「おい! ……おい!」
声をかけても返事がない。近づいて、ねぐらを引っ掻き回すようにしてやつを探した。やつはいなかった。本当は、僕は目がいい。だから近づくより前からやつがここにいないことなんてわかっていたのだ。でも、体はなにかに突き動かされて……そしてそのなにかは、いま僕の体からすっと、煙みたいに消えていく。僕は胃の冷たくなるほどの脱力感を、数分前までやつの寝ていたであろう寝具の上で噛み締めていた。あの夢のあとはいつも……ふ、と気がつく。ハッとした。寝具はまだ暖かい。数分前まで、やつはここにいた!
僕は夜の街を人目も気にせず走った。詰襟のまま、右手には例のコンビニ袋を引っ掴んで、それでもそのまま走り続けた。やつが落とし穴を出てどこへ行くかなんて知らない。ただなんとなく、人の多い方へ行けばやつはそこにいる気がした。臆病なくせに、いつも人の後ろをついていく。昔から、そんなやつだったから。
「ああ、くそ! ばか、ばかばかばか!」
こんなときは名前や愛称やなんかを大声で呼びながら探すのがきっと一般的なんだ。そう思うと、たちまち僕は悔しくなった。ムカついた! 僕はやつの名前を知らない。それはやつにしたってそうだ。やつも自分の名前を知らない。それがたまらなく悔しかった。施設で付けられた名前はあった。けれど、あいつはその名前で呼ばれるたびに微妙な顔をしたし、なにより、僕らは対等でありたかった。だから、ヨシオ、なんて名前は僕には呼べない、叫べない。本当は呼ぶべきだ、叫んで居所を捉えてとっとと引っ捕まえるべきなんだ。でもだけど、僕はそれをしないほど、できないほどにやつとは対等に、対等でいたくて、信じてたのに! 煙みたいに消えやがった! 八対二の、二も持たずに!
ならばいっそ、こんなもの捨ててしまおうか。そんなことを考えながら、僕は夜の街を走り続けた。ときおり、左肩とぶつかる右肩よりずっと、きっと他のどこかが痛かった。
雨が降り出した。冷たい雨で、真っ暗な夜。そんな夜の不思議な蒼さ……。僕はとっくに走るのをやめてただ歩いていた。側から見たなら恐らくはとぼとぼ歩いている。長いこと走っていたから、もう街は閑散として、住宅もまばらな、車線が四つくらいある工業地帯。広い車道に追いやられた、狭すぎる歩道のわきにはうっそうと背の高い草が生えまくってて、都度身体を横にしたり、屈んだり、避けながら歩くことを強いられる。もうとっくにずぶ濡れなのに、これを避ける意味はあるのだろうか。そんなことを考えている。ぽつり、ぽつりと通り過ぎるコンビニエンスストアには、どこも大きなトラックが止まっていて、店内から溢れる白い光はなんだか雨で滲んでぼやぼやだった。
気付けば行き止まりだった。大きな工場の大きな入り口の前に、バス停と街灯が寄り添うみたく、ぽつねんと佇んでいる。道路の舗装は剥げて、欠けて、どうしようもなくなおざりな感じ。ふと、施設で一緒だった女の子のことを思い出す。あの子はいつもはにかんでいて、よくわからなさそうでいて、口下手で、でも、神様を信じていた。神さまはいつもわたしを見ていてくれて、見ていなかったとしても、いずれわたしを見つけてくれる。そしたらあとは、いいことばっかり。だけど。――ふいに聞き馴染みのある声がした。この夜、こんな辺鄙な場所でその声に、僕は不思議と驚かなかった。
「だけど、あの子が引き取られていったのは、単に容姿が良かっただけだよ。ねえ、舞?」
そして、そのバス停に。雨避けもおざなりなそのバス停にやつはいた。丸い照明のやさしい灯りは、雨風を弾く屋根には足りえない。だけどやつは傘をさして、ベンチに腰をかけていた。「ねえ舞、かみさまなんてさ」やつが一方的に続けようとするから、僕は遮る。
「あんた、街から出てどうするつもりさ」
先日物色したタンスから出てきた求人誌にはなんぞわからん意味不明の下線や丸でマークされていて、落とし穴をいずれ出るつもりだということは、うっすらとわかっていたし、こいつが街を嫌っていることも、なんとなく知っていた。
「なにって。働くのさ。子供だろうが外人だろうが犯罪者だろうが、気にせず働かせてくれる田舎の町も、結構あるんだとさ」
「うまくいくわけないだろ」
やつの普段とまったく変わらない声色に、僕の声はすこし震えてしまったかもしれない。それか、冷たい雨に濡れたせい。或いはもっと別のなにかで、それが怒りなのかは何なのか、僕には判然としなかった。喉の奥が震えている。
「やれるわけない……やれるわけないだろ、あんたにそんな大層なこと! 何が働くだ何が田舎の町だ、ふざけんな! じゃあなんで……っ」
止まらない。やつは黙ってそっぽをみている。気に入らない、止まれない。
(じゃあなんで、金を持って行かなかった! お前がそうしたいなら、こんなもんぜんぶくれてやる! やるのにさあ!)
いつもの怒りとは違う、もっと弱いところが嘶くみたいにして、ぐらぐらとして、胸の奥から溢れるみたいに、言葉が止まらなかった。
「だいたい、出ていく必要がどこにある? あんたみたいな臆病なのろまが、ここを離れてうまくやれるとでも思ってんのか? バカ! そんなんだからお前はボクなんだ、いつまで経っても変われない、情けないボク、ボクボクボクボク! いつになったらわかるんだよ! お前は僕と違ってうまくやれないんだから、ここにいるしかないんだよ!」
やつはふいと一瞥して、やおら立ち上がりながらいう。「僕は君とは……」持ってた傘を乱暴に投げ捨てて、バス停の柱からガン! とすごい音がする。僕は怯んで、泣き出しそうになる。もうとっくに泣いていたかもわからない。とにかく雨は激しさを増していて、夜の冷たさも増していく。
「僕は君とは違う! 君に僕の何がわかる? なにが〝ボク〟だ! 僕は僕をやめてない! 僕はスカートなんて履いちゃいない! そんな詰襟ばかりを着て、僕に何も言ってくれるな!」
ハッとした。呆然とした。塞いだ穴の蓋がごとりと落ちて空漠になった。後方が明るく照らされる。ゴツゴツと、メリメリと地面が鳴っている。僕は呆然として、それがバスのヘッドライトであることも、タイヤが地を噛む音だとも気がつくことができなかった。バスが到着する。停止して、ドアが開く。おぼろげな頭、きっとやつは乗り込んだ。ドアの閉まる音がしない。「……君、乗るかい」ぶら下げたコンビニ袋ばかり、それがひどく心許なく思えてしまって、僕はきっとそればかりを……。ハッとする!
「八割! 八割をやるから! 僕は二割でいい、二割を僕が持ってるから! おまえ持っていけよ! 持っていってよぉ!」
僕が飴の掴み取りみたいにして差し出す右手に。やつはいつもの一瞥をして、それから寂しそうに笑った気がした。
「ごめん。いらないよ」
そう言って奥の席の方に離れていって、運転手さんはみかねて僕に尋ねる。僕は掴んだ飴の手をおろせずに、または中途半端におろしたままで、雨に濡れて、濡れているとそのうちに、ドアが閉じて……。
雨はとっくに通り過ぎて、空は夜明け前の薄青に晴れている。雲が少ない空はなんだかさっぱりとしていた。やつの乗ったあれは終バスで、僕はベンチに座って、始発を待っていた。体が軽いような、重いような。寒いような、なんでもないような。脱力感みたいなものだけあって、他にはたぶん何にもなかった。ふいと見上げる工場の窓はすべて灰色で、来た道の街路樹はしみったれてて、行き止まりには人ひとり通らなかった。今日は祝日かも。だから、工場のひとも来ないんだ。そんなことを考えた。夜はとっくに終わっていた。
空はだんだん白んできた。どこかでスズメたちが鳴き始める。それに合わせて遠くにカラス。椋鳥はいなさそう。そもそも。そもそも僕は、あまり昔のことは考えない。怖いことばかりだから、考えないようにしてる。
「まい、だいじょうぶ? 心配だな、わたし。寒くない? 疲れてるよね、眠たくない? でも。バス、もうすぐ来るからね? あとちょっとの辛抱だよ」
「さとの、あいつ行っちゃったよ。金も受け取らずにさ」
「大丈夫よ。あの子なら心配いらない。あの子がしっかりしてるの、舞がいちばん知ってるでしょ。それは受け取らなかったけど、しっかりお金持ってるわ。ちゃんとしてるんだもの、あの子って」
「ネコちゃんのときもそうだった。ネコちゃんは大好きなネコちゃんのストラップくれたのに、僕なにも渡せなくて……またなにも残んなかった」
「でも舞は、ネコちゃんのこと、ちゃんと覚えてる。あの子のこと忘れちゃう? ありえないよ。あの子も舞のこと忘れない。だから、だいじょうぶ!」
「……忘れないなんて、わかんないよ」
「忘れないわよ。少なくともあの子は。きっと舞もね。ふふ、だって舞も気付いてたくせに。あの子が、ちゃんと“男の子”だったってこと! ふふ、あはは! ね、ちょっと可笑しいでしょ」
バスを待っている。水たまりが夜明け前、白い朝に照らされて、工業地帯の風景を綺麗に反射している。それから僕も、あはは、と笑った。
ちょっと経って、バスが来る。ドアが開く。スロープに足をかけて、一瞬の間、振り返る。ベンチに置かれた大金入りのコンビニ袋と立て掛けられたやつの傘のバス停は、なかなかどうしてよく映えて、僕はバスに乗り込んだ。晴れた空のもと、バスは発車する。風景が車窓を滑っていく。不思議なほど穏やかな気分だった。水滴の残る窓に頬をつけてみれば、それほど冷たくはない。むしろあたたかいような感じがするのはきっと、どうしようもない、この眠気のおかげだろう。そんなふうに思う。
バスを降りて街を歩く。朝早いスーツたちとすれ違いながら、しらじらとした頭で考えていたのはシャワーのことだ。いつも近くの銭湯を使っていた。でも、例の大金はバス停に置き去りだし、いつも使うちょっとした小銭なんかはねぐらに置いてきてしまった。だから、なんにせよ一度帰らなきゃいけない。それでも考えるのはあたたかいシャワーのことだった。はやく帰ろう、帰って小銭を持って、シャワーを浴びて、帰って、とりあえず寝て、それから、それから……それから、僕はどうするのだろうか。
「これからも――これから、僕ら自由だね。ふたりきりでさぁ、もっと、ずっと、自由で、ふたりきりで……それってさ! しあわせだよね」
「そうね、そうだよ! あの子には悪いけど、わたしちょっと嬉しかったりして。だって、これからはいつでも好きな時にお喋りできるんだもんね」
僕ははにかんだ。喋っていると心がやおら軽くなっていく気がして、僕は帰るまでにたくさん口を動かした。それは本当にたのしくて、本来望んでいたのはこれからはじまる、ほんとうの、自由な、ふたりきりの生活だったのかもしれない。神さま、かみさま……ネコちゃんの云うかみさまは、たぶん僕を見つけてくれたのだろうと思った。落とし穴には若い警官が二人、待ち構えていた。
そして、僕の生活は終わった。警官ふたりは巡回中に不審な“住居らしきもの”をみつけて、物色中だったという話だ。警察署で、スーツをきたおっさん相手にいろいろ取り調べをされて、いろいろが曖昧に、いろいろが有耶無耶になって、僕は数日のあいだ、保護の名目で警察のお世話になった。いろいろがいろいろと軽傷で済んだのには、確かな大きな理由と不確かな小さな理由のふたつがあって、不確かなほうから云えば、バス停に置き去りにした大金だ。そして確かな理由は、僕の取り調べをしたスーツのおっさんの温情だと思う。あの数えきれない布団代わりの布切れたちは、順次持ち主のもとへ返還されてゆくらしい。
それから僕に養母さんができた。にべもなく開始された孤児に向けた自立援助は実に残酷に思えたが、実際のところなかなか悪くない。養母さんは気は弱いけどいいひとだし、なんたって僕は高校に通っているのだ。それも、セーラー服をはためかせて。なんとなく毛嫌いしてた地方都市にすぐ馴染めたのも、絶対に心を許すものかと考えていた養母さんに素直に感謝できるのも、くだらないと思っていた高校生活をなんだかんだ楽しくやれているのも、いちばんはあのスーツのおっさんのおかげだと思う。心はあんがい単純で、ひとのやさしさが心地いいものだと簡単に覚えてしまった。春はもうじきに終わり、季節は初夏だ。
「舞、おはよー。今日もはやいね~」
教室の窓から風が吹き抜けて、分厚いカーテンが揺れる。セーラー服もはたと揺れて、僕は笑う。
「あはは、おはよーっ!」
こんなふうに。
因数分解ができる。ローマ時代も知っている。僕は意外とベンキョーができた。意外と、というか、ふつーくらいには。高校の範囲に追いつくのにはちょっとの苦労だけで済んだ。四限の終わるチャイムが鳴れば、養母さんが作ってくれたお弁当を食べる。なんと、一緒に食べる友達だっているのだ。流行とか、たまについていけない話題はあるけど、みんな優しい。施設にいたころは集団生活なんて、あらゆるいじめやあらゆる暴行のトレード・ショー会場なのだと決めつけていたが、実態はもっとずっとふんわりふんわりとしていた。アカネが定期テストのたびにしょげるのは恒例で、みんなで面白可笑しく慰めるのも恒例だった。レイカが女子高の当然を不条理みたいに嘆くのも恒例で、ヒマリがよくわからないふわっとしたことを云えばみんな首を傾げてツッコんだりもする。
そう、このヒマリが奇遇も奇遇で、云わば僕の幼馴染にあたる存在だったのだ。ヒマリはあの“ネコちゃん”だった。ネコちゃんは編入してきた僕に気付くと「かみさま、かみさま!」と傍目にはへんな感嘆をあげて大喜びしてくれた。もちろん、僕はうれしかった。僕はネコちゃんが大好きだ。みんなにはばからず、僕だけはネコちゃんをネコちゃんと呼ぶ。呼んじゃう。好きだから。
部活はみんなばらばらで、アカネがバレー部、僕は家の都合で演劇部のユーレイ。ネコちゃんは意外にも陸上部、運動が得意なネコちゃんには驚いた。なんだか、イメージとちがうから。ネコちゃんはもっとこう、口下手で、なんというか……とにかく、それにはちょっとだけさみしかったりもする。そしてレイカがヨット部――ヨット部ってなんだ? 漕ぐのか? ヨットを。あるのか? 実態。――こんな具合だから、放課後や土日の予定が合わないことが多いけど、それでもタイミングを計ってよく集まった。
「えー舞ってば。今日もユーレイ? 見たいなー、舞がエンゲキしてるとこ。かっこいいのに。セイシュントハ、トカクオノレニー! って」
「してるじゃんか、バカに。しょうがないだろーバイトしなきゃいけないんだからさ。生活費もいれないとだしぃ……。でも、浮いた分で遊べるしさ! やっぱ同級生のみんなよりお金持ってるって、なんかユーエツ感あるよ。里乃とデートもいけるしさー!」
「デート! やーんたのしみ~。とかいって。舞がたのしいとこ連れてってくれた記憶、わたしないな~」
「いいじゃんか、山」
「いやよ、山」
週四日のコンビニ勤めは楽しいといったらうそになるけど、これもまたまた悪くない。高校近くのコンビニだから、同級生と鉢合わせて気恥ずかしいこともあるけど、働いて得たまっとうなお金は、なんだか誇らしい感じもする。養母さんは申し訳なさそうな顔をするけど、養母さんと僕、足りない分を補いあうのはなんだか自然で、不可思議なほどにとても自然で、とにかく素晴らしく素敵なことに思えるから、バイトをやめるつもりはない。やめたら実際立ち行かないし、結局やめらんないんだけど。
「もう。じゃあ今度の休みはどうなの。またネコちゃんたちと?」
「山行くよ、山!」
まあ、僕の生活はこんな感じ。ぜんぜんまったく悪くなくって、むしろけっこういい感じ、なのだ。
急に雨が降り出して、街は黒い雲で色調を落としている。傘を持っていない僕はバス停から往来を眺めていた。せわしない傘の群れが揺れてぶつかって。雨はすぐに小降りになって、一寸しないうち――あ、これ夢じゃん!――完全に止んだ。どうやら通り雨だったようだ。だけど、僕はなにかを待たないといけない気がして、ただ川のようなひとびとの流れを眺め続けていた。何を待っていたかといえば、きっとかみさまなんだろうと思う。急にぴしゃっと光って、通りから人が消え失せる。それはきっと雷だったから、空はまた泣き出すみたいに大粒の雨を降らした。ハッとして、僕はもうなにをも待たなくてもいいことに気が付く。濡れたっていいから、どこへでも行ってしまおう。そんな気が起きた。だけど、そのときにはなんだかもう気怠くて、むなしいような感じもして、かなしさみたいなものがおもりになって……。たぶん、傘を持っていたとしても、動けなかったんじゃないかと思う。
初めて見る夢だな、と思った。
スズメが鳴いている。カーテンの隙間から朝日が差し込んで、部屋の勉強机から扉までをぶった切って照らしている。ちょうど僕のおなかのあたりも陽射しでぶった切られているから、一瞬、ぞっとする。パジャマからはだけたおなかをさすって、上半分と下半分がちゃんと繋がっているのを確認して、ほっとした。僕の部屋は二階で、一階には養母さんがいるはずだけど、朝はパートにでてるから今は家に僕ひとり。なんだか楽しい夢をみたような、なんともいえない良い気分で階段を降りて、朝食のラップを剥がした。サンドイッチとおにぎり、トマトたまごレタス梅干しコメパンノリ。ぜんぶおいしいし、ぜんぶ好きだ。おいしいから。
「里乃、今日山いくよ、山」
「げ、またいくの~? 山つまんないよぅ。ネコちゃんたちと遊べばいいのに、せっかくの土曜なのに。山とか言って、けっきょく登んないじゃん、山にぃ」
ネコちゃんたちは今日、みんなで集まって街に行くらしい。このところは毎週で、僕も都度付き合ってきたけど、今回はパスした。たまには一人でゆっくりのんびりしたいときがある。
「そんなのさ、僕は誰だってそうだと思うな」
「知らなーい。着いていくけど、つまんないんだからね、わたしぃ」
それにしても、みんなは休みのたびに街、街って繰り言にして、節操なしでバスに乗って行ってしまう。みんなで行けば楽しいけど、正直、あんな街のどこがいいのか、今じゃさっぱりわからない。人は多いし、車も多い。イヤな思い出だってたくさんだ。それこそ、みんなで遊びに行くとか、楽しい理由がなきゃ近づきたくもない。それにせっかくこんな地方にいるんだから、休みの日はそれらしく振る舞うべきなのだ。山に行くのだ、僕は。明日も、今日も。
車の一台が通り抜ける。青いミニバンだった。
「つくば400、み6046」
「げー。変な癖。でも珍しいの、つくばナンバー。ここらへんみんな水戸なのに。観光……? あっちいっても見るものないじゃん、変なの」
僕はバス停のベンチに座ってそこらを眺めていた。褪せた歩道橋の手すりに鳩が止まっている。街路樹は等間隔で葉をつけて、地面は“無駄に”小奇麗なタイルで舗装されている。今日の雲はまばら、空の色は青。もはや見慣れた風景だ。見飽きたといってもいい。もちろんこんなものを見るためにベンチに座っているわけじゃない。なにかって、無論バスを待ってる。もう来てもいいはずなのに、三分くらい遅れてる。僕はのんびりする予定だけど、運転手さんがのんびりするのはなんか違う。ちょっとだけイラっとする。でも、のんびりするはずなのにイラっとするのもなんか違う。だから苛立ちは抑えて、僕は努めてのんびりするのだ。それも、なんか違うかも。
「練馬334、む99の8」
「それいつ見たやつ? きもちわるぅ」
二分待って、バスが到着した。バスのナンバーはみない。主義だ。
バスは山の麓で停車する。230円を払って降車して、そのままそのバス停のベンチに座る。来たのだ、山に……。――意識の明滅を世界と呼ぶなら日暮れは世界の終わりであって、微睡みは再生で、始まりは土曜の晴れた日で――ああ! ポエットになってしまう! 大満足だった。僕は休日、この山の麓のバス停でぼんやりとする時間を愛していた。見渡す限り雑木林、なおざりにされた舗装路、濃すぎず、また薄すぎない、草木の匂い……。次のバスは四時間後、日に三度の運行。ウケる。ただ、そのド田舎がありがたい。だって、四時間も座っていられるんだから。
「まーいー? 来て早々ぼーっとする。いちおーデートなんでしょ? お喋りしてよ、お喋りー」
「いいじゃんか。ぼーっとしようよ、のんびりと。ふたりきりで、ぼーっとさ」
本当は、これがうれしかった。ここに来ると里乃が“自分から”喋ってくれるから。薄々、里乃は僕の作り出したまぼろしなんじゃないかと思っていたけど、そうじゃないらしい。みんなには見えてないけど、みんなとは話せないけど、里乃はちゃんと僕の隣にいてくれる。僕にはそれがたまらなくうれしくて、これだけで、もう死んだっていいやと思えた。
「そんなこと言って。ほっといたらそのうち昔のこと考え始めて、思い出してハッとして、ぞっとして、アンニュイになって、今のこと考えてほっとして、また思い出してハッとしてぞっとしてほっとして! 繰り返すだけのくせに~」
「そんなことないよ。……ちょっとあるけど。でも、里乃と話してるとたのしいよ」
里乃は訝しむみたいに笑って、僕に問いかける。
「ほんとにぃ?」
そんなシンプルな言葉だけで、僕は本当に満たされた気持ちになって、幸せすぎて、幸せが余って、本当に、死んじゃいそうになる。もちろん会話が続かない日だってあるけど、人と人なら、そんなことはあって当たり前で、そんな当たり前が僕には本当にうれしかった。ただほんのすこし、ほんのすこしだけ泣きたくなる。
「ほんと、ほんとだよ。里乃ってば、僕のこと疑うんだ? ふーん、里乃がそういう態度なんだったら、僕……」
里乃の気を引ける言葉が出てこない。里乃は僕と一緒に学校へ行く。里乃は僕と一緒にご飯を食べる。里乃は僕と一緒にお喋りをする。僕と一緒にいないときの里乃のことを、僕はひとつも知らないのだ。
「こら! またぞっとしてるでしょ、アンニュイしちゃってるんでしょ。もー。わかってるよ、舞がわたしに嘘つかないなんてこと」
「えへへ」
風が吹いて、草木の匂いが纏わりつく。山の麓とはいえ、雑木林から吹き抜ける風はやっぱりどこか陰があるような感じがした。僕は取り繕う。風も草木のざわざわもすぐにやむ。
「ねえねえねえ! 里乃、里乃はさ! ……デート、どこでも好きなところいけるとしたら。ねえ、どこに行きたい? どこでも行けるよ、本当にどこでも、いつだって行けるんだから!」
「げー、変なまいー。張り切っちゃって……。でも、そうだなあ……」
里乃は真剣に悩んでしばしうなる。風は吹かない。一瞬前となんら変わらないはずの静けさは、なにかの怪物のように膨張して、僕らのあいだを支配する。
「……遊園地、行きたいなぁ」
「今度行こうよ」
また、一秒に満たない静寂が僕にのしかかる。怪物だってかみさまだってなんだっていいから、一秒よりもっとずっとはやく、このなにかから僕を解放してはくれないか。そんなふうを考えている僕を助けてくれるのはいつも里乃だ。いまに里乃は悪戯みたいに笑って僕を……。
「……ふふん。うそつきー」
そして、嘘みたいな風が僕の頬を滑っていく。僕は笑う。セーラー服がはためいた、あのときとおんなじようにして。
あと三時間と四十六分。いっそ世界中のバスぜんぶがみんな事故っちゃえばいい。そしたらきっと二週間くらい、僕らはここから動けない。二週間もあれば、僕らは否応なしにどうにかなる。楽しかろうがなんだろうが、きっとそれ以外にはなんにもならなくなるだろうから。そうでなきゃ隕石でも降ってみんな消えてしまえばいいんだ。里乃に嘘をつかせるこんな世界なら、いっそ無くなってしまえばいいんだ! ああ。……だけど、だけど。
行きたいなぁ。遊園地……。
――だいいちここじゃなきゃいけないわけ? 人のいない場所なんてたくさんあるし、ここ虫いっぱいでやだよ、わたし。登るっていうなら、わかるけどさー? 舞いっぺんも登ったことないし、登ろうともしないし、わかんないなあ。舞の言うところの、イミフメー、ってやつね。あはは! でもさでもさ、きっと登ればたのしいよ? つまんない神社とかあるよ。さびれた展望台もあるし、それだってきっとつまんなくて、ここでじっとしてるより面白いよ。そうだ! 面白いといえば昨日のドラマよね。とにかく明るい殺人事件! 舞、あれちゃんと見てた? 主役の女の子の演技がすごくよかったんだから、まだ子供なのに、舞よりうんと演技上手で……ふふ、あはは! コノヨノカンセツガァ、ハズレテイルゥ! あははは! 舞ってば、ほんとに演技へたっぴよね。思い出すだけで、ふふ、あはは! うぅ、可笑しいよぅ。わたしが思うに、舞はね。もっと感情移入すべきなのよ。読むべきなのよ、本を。台本じゃなくて。そもそも台本だけ読んで、練習とはいえ、自信満々で舞台に上がって……ふふふ、あははは! 舞ってほんと、お調子者よね。わたし好きだな、舞のそういうところ。でもね! 幽霊部員とはいえ、わたしはやっぱりもっとちゃんとすべきだと思うのよ! おはよー、わっ幽霊が出た! ハムレットやるよー、わっ幽霊が舞台に立った! 大衆というやつは、理性で判断するということを知らない。ただ目に見えるところだけで好悪を決めるのだ。ビシィ! 決まったー! 幽霊が決めたー! 部員総立ちで拍手、ひゅーひゅーぱちぱち。それから喝采、うおおお! 常ならざる盛り上がりに全人類が体育館に引き寄せられた! 喝采を超える大喝采はもはや震災で、みんな飛んで跳ねてするから、地震が起こっちゃうの。震度3がなんども! ね、ね。幽霊部員なのにふらっと出没して、そのくらい上手にキメられたらかっこいいと思わない? あ、そうそうかっこいいといえば――
おつかれっした、をきわめて元気よく発音してコンビニを出る。最近、自動ドアの機嫌が悪いのか、僕が近づいても開かないときがある。店長が云うには、なんかそーゆーひといるよね、といった感じらしい。ならば今日の僕は別人なのだろうか、自動ドアは難なく開いた。店長はちょこちょこ変なとこがあって、僕はよく笑わせられてしまう。そう簡単に人が変わってたまるものか。やっぱり単に胸三寸、自動ドアの機嫌次第というわけだ。今日のドアは上機嫌。ふふん。かくいう僕も、ちょこちょこ変だ。こと修学旅行の班決め以降。僕はきたるネコちゃんたちとのあばんちゅーるに胸を膨らませてしまっている。なんてったって沖縄だった。ともすれば自動ドア、やつも旅行に行くのかも。
「ねえねえ里乃、いま僕、機嫌よさそうでしょ?」
「はいはい。最近そればっかりねー」
地方都市の夜道といえばホラー映画みたいな間隔の街頭で、街頭といえばやっぱり羽虫、羽虫は爆ぜる! ぱち、ぱち、ぱち。横目に僕の足取りは軽やかだ。スキップなんかをやってしまう。傍目じゃ残酷趣味だけど、僕には鮮やかな青春を彩る華々しい演出効果なのだ。夏の暑さもなんのその、制汗スプレーにモノをいわせて、流れる汗には有無を言わさず、僕は帰途を辿っている。
「アハハ! 実はボク、沖縄にいくんダ! たのしみだナー」
「うええ、僕のセリフ取んないでよう」
どれだけ同じような日々を繰り返しても、修学旅行は迫ってくる。それが今の僕には最高だった。なんだって、なんどだって繰り返してやったろうというものなのだ。知らん家の明るい窓にピースしちゃったりなんかして。ぶい。ちょっと反省。カーテンを閉められる。これはもうやんない。
もういくつ寝るとお正月、みたいなフィーリングがあって、僕はお正月と聞いてもあまりわくわくしないけど、それでもクリスマスやらなにやら、世間におめでたいムードが流れていたら僕もやはりそわそわとする。とにかく僕はそんなフィーリングで来る修学旅行を待っていたのだが、なんと事件があった。これが事件も事件、大事件で、なんと沖縄へは三年生にならないと行けないらしい。京都、沖縄、韓国とどこへ行きたいかの投票がクラスで行われたのだが、僕はそれを今年度の修学旅行先と勘違いした。その後に行われた班決めというのは、近場の広い国営の、しょうもない海浜公園に行くための手続きだったというわけだ。僕はがっかりした。しょんぼりした。どんよりとした。その公園にはしょうもない花畑のいくつかが点在しているという話で、僕らはそれを写生して、ほどほどに“みずあそびのひろば”なぞで足を濡らすという段取りになっている。ちっとも心が動かない。実際、養母さんとのやり取りのなかで発覚した沖縄消失の事実は僕を放心させて、それからは食事の味もわからなくなっている。養母さんの作るご飯はおいしいし、気弱なあのひとだから僕は都度おいしいを言葉にして表明していた。それが僕と養母さんのなかで執り行われる一種儀式的な心の交流だったのだ。しかし、僕は養母さんの「おいしい?」に沈黙のほかを返せなくなっている。養母さんも沈黙して、この家の雰囲気は最近なんだかくらーい感じだ。僕のせいなのだろうか? いや、毎月のバイト代から積み立て? のなんたらを半年ものあいだ学校へ収め続けてきた僕に、沖縄を期待するなと言う方が愚かなのだ。それとも、飛行機に乗るのってそんなにお高くつくのだろうか。こんなことならあの百万……。
「バカねえ。……舞、舞ってば。もう。いいじゃない沖縄じゃなくても、どうせ三年になればいけるんだしさ。それに、しょーもない公園だって、きっとなにもしないよりずっと面白いって」
「でも、でも行きたかったよ、沖縄……」
「いつまでもぐちぐち言わなーい。わたし好きよ、お花とか、そーゆーの。舞が写生してるとこ、ずっと見ててあげちゃう」
「なさそうじゃんか、興味ぃ……」
ご飯~……と、一階から自信なさげな声が響く。僕の部屋は二階にあるから、養母さんはいつもこんなふうな、申し訳ない感じで僕を呼ぶ。養母さんは立派で、やさしいひとだし、ご飯はおいしい。ひとりのさみしさを紛らすために僕を引き取ったのだとしても、それに関して、僕はまったく、当然許されるべきことだと思う。だから、一階から香ってくるおいしそうな匂いの数々に、僕は今日こそおいしいと言おう。そんなことを考えつつも、やはり脳裏に浮かぶ椰子の木やら白い砂浜にはため息をつかされた。
「バカねえ……」
なんだか自嘲気味な感じで、言った。
寝る前に聞こえていた、どしん、どしんという足音が、沖縄ではなくしょーもな海浜公園のものと気付いた時にはもう手遅れ。それはもはや眼前に立ちはだかっていた。にべもなく朝食やら準備を済ませて家を出た僕に、虫の知らせというか、遅れて来た英雄というか、とにかくそんな感じのうれしい事実のふたつが舞い降りた。ひとつは、せいぜい絵なぞ描いて足なぞ濡らして終了、と思っていたこの修学旅行は、案外それで終わりではなかった。さびれた旅館ではあるが、なんとわざわざ一泊をして帰るらしい。あるじゃん、あばんちゅーる! そのときめきは朝礼のときに訪れて、そしてもうひとつが、ときめきを超え、もはや衝動的かつ壊滅的なわくわくを僕に与えたのである。しょーもな海浜公園にはちょっとしたジェットコースターと、ちょっとした観覧車が設置されていた! 僕がそれに気付いたのはしょーもな花畑の写生中のときだった。居ても立っても居られない、今すぐにカンバスやら筆ほっぽり出して駆けだしたい。そう思っているのが、今現在なのである。僕は隣のネコちゃんに声をかけた。
「ネコちゃん、ネコちゃんさ。悪いんだけども。僕ね、アレにどうしても乗りたいんだけども。センセの目を掻い潜ってあそこまで行くのに、なにかいい考えとか、そういうの……」
「えー? なにも、ふつーに行ってくればいいと思うな。なんかこう……ふつ~~~~~にして」
いつもかみさまがみてくれていると、そう信じてやまないネコちゃんにはかみさま以外の視線なぞ取るに足らないもののようだった。それとも、ネコちゃんの云う、ふつーな奇跡的行軍も、かみさまがみていてくれて……とか、そういう安心に担保された考えなのだろうか。わからないが、僕はネコちゃんが好きだし、遊園地めくアレらにも乗りたいしで、結局ネコちゃんの云うように、ふつーにいってみることにした。
筆やらをすべて地に置いて、すくと立ち上がる。「写生おわるまで戻んなかったら、わたしが持っておくからね」とさも当然のようにネコちゃんが言う。僕は歩き出す。ちら、とセンセの方をみやれば、ばっちりと目が合ってしまう。――熊と遭遇したら視線を離さずに、そのままゆっくり後退すべし――どこで読んだか僕はその通りにした。センセは警戒したまなざしで僕をじっと見据えていたが、自然と視線が切れるくらい距離が離れるまで、追ってくることはなかった。僕のせいであのセンセにはきっと不名誉なあだ名がついてしまう、古谷の“古”は新しく“熊”とかになるのだろう。だって、僕とセンセの動向を、しょーもな写生大会中のみなが見ないなんてこと、ありえない。とにかく僕はみんなの輪から抜け出せた。やおら、心が踊りはじめた。テンポといえば、なんだろう。ラテン系の、それだった。
里乃、里乃! 券売機でチケットを二枚買って観覧車に乗り込む。なんだか不安になる駆動音を上げて、観覧車はぐんと動き始めた。
「里乃、観覧車だよ、観覧車! ねえ、初めて乗るね、こういうの! なんだかさ、僕って高いところ、怖いかもしれない! だっていまからドキドキしてるんだ」
「ワクワクしてるだけじゃないの。いやよ、上まで行って過呼吸、なんて。わたし助けらんないんだから。緊急のボタンとかきっと、パニックになって押せないんだからね」
観覧車が上り始める。まだ低いとこにいるのに、風だか何だか、けっこう大きく揺れるからちょっとこわい。だけどそれ以上に僕はうれしかった! 里乃と、一緒に観覧車に乗れること。握り込んだ一枚が手汗でじんわりと湿ってハッとする。やっぱり高いところは怖いかもしれなかった。
「……ふふん。ゾッとしてる?」
「してないし!」
さらにぎゅっと握りこむ。一枚はもう手の中で、ぐちゃぐちゃの丸まった何かになった。そんなことより景色を、と窓を見る。窓から見える風景には、がん! と頭を小突かれたような感じがした。
「ちゅ、駐車場じゃんか……めちゃくちゃ広い、駐車場しか見えないじゃんか!」
「ま、まあ。もっと上までいけば、わかんないわよ。だって観覧車よ。なにかを観覧するための車なんだから、もっと、あるよ。なんか、きっと!」
「……車を観覧する車かもしれないじゃんか!」
「し、しらなーい。わたしに怒んないでよぅ」
観覧車が高く上れば上るほど、僕の心はさいてーだった。僕の高所恐怖症は明確なものとなり、窓から見えるのは広い駐車場と、その向こうは県道のだだっ広い車線と、そこを走るしょぼい車の数台のみ。そしてなによりいちばんひどいのはその先の遥か遠く、目を凝らすとやっと見えるアレだった。
「ゆ、遊園地! 遠くに豪華な遊園地が見える!」
「……な、なんなのこの、観覧車!」
遠くに見える豪華な遊園地はきっと夢の国ではないのだろうけれど、いまこの状況下においてあの豪華さは十分に夢の国足り得るソレっぽさだった。なにより僕の心はさいてーで、さいてーの心で望む景観なんてものはいつだって、輝いて見えてしまう。それ以降は閉口して観覧車が下るのを待った。出口を出てみんなのところ――しょーもな花畑、バラ園――に戻ると、そこには僕の画材道具が打ち捨てられているのだった。ネコちゃんにはそういうところがある。悪気がないことだけを知ってる。でも、かみさまはみてるはず。なのだった。
「でも、楽しかったわ。だって舞が可笑しいんだもん」
「いいよ、もう。今度はちゃんとした遊園地に行こう」
近くにあったゴミ箱に紙屑を投げ捨てて、そんな約束をした。
夜になれば僕も里乃が言ったように、あの観覧車の忸怩たる記憶は、やおら楽しいものへと変容しつつあった。結局、僕は里乃と観覧車に乗った。それだけで、夢の遊園地に近づけたような気もしたし、実際約束だってしたのだから。あの観覧車の近くにあったジェットコースターに乗らなかったのはいろいろ理由があるけど、いちばんの理由は僕の高所恐怖症だった。ゆっくり上って下るだけの観覧車が恐ろしいのに、高速でアップダウンを繰り返されたら僕はきっと水揚げされた蟹になる。泡を吹くのだ。無様に。そもそも上って下る、アップダウンの繰り返しはなんだか不幸な感じ。上ったら上りっぱなしでいいし、下ったら下りっぱなしがいい。初めから上りも下りもしないのなら、結局それがいちばんなのではないかとも思う。けど、実際は上ったら下るし、下ったら上る。どっちかの上りは下りとはよく云ったもので、最悪なのはこの夜だった。
しょーもな海浜公園を抜ければ僕ら含め学童一行は旅館に向かった。きっと学生には旅館なんて新鮮すぎるし、僕ならみんなの数倍はしゃいでいたと思う。HRめいた高説を聞き流せばご飯までの自由時間に、みんなでお風呂に入ったり卓球――あるんだ、実際!――をしたりして、とにかくもう楽しかった。ご飯のとき、いつも小食なアカネが例のごとく「もうおなかいっぱい」を口にすれば、レイカは「こんなときくらい!」と唇を尖らせた。ネコちゃんはそんなやり取りをなんだかわからなさそうに笑っていたし、僕もなんだか幸せだった。そしてご飯が終われば消灯までトランプだのいろいろをして、消灯時間がくれば、たぶんお決まりであろうのお喋りが始まった。その、お喋りがまずかった。
アカネの好きな男子が他校にいるとか、それに対するレイカのやけに斜め上からの助言とか、そういうのはよかった。僕もネコちゃんもはにかんで、それでなんとなく楽しかったし、幸せだった。夜が更けて来たころ、二転三転していた話題は“それぞれのいちばんの秘密を打ち明けよう”というもので、アカネは自分が鎖骨フェチだとカミングアウトするなりバっと布団をかぶってそのまま眠ってしまった。アカネのどうでもいい秘密を詰っているうちに、レイカもうとうとと寝息を立て始める。ふたりだけになった僕とネコちゃんはちょっとだけ気まずいような感じがして、それでも、施設からの奇縁を思えばどこかうれしくて、夜にしあわせのもやがかかっているような、そんな気分だった。
内緒話、というだけで興奮して眼が冴えている様子のネコちゃんは「おしえてよう、おしえてよう」と繰り言にして、僕も悪い気はしなかったけど、聞いてくるばかりのネコちゃんにいじわるがしたくなって「ネコちゃんがさきにいってくれたら、僕も言おうかな」なんて。そんなことを言った。すると、ネコちゃんはううんと悩んだわりに、案外すんなりと口を開いた。ネコちゃんは、どうも女の子が好きらしかった。こういう性に関することを打ち明けるというのは、なかなか大変なことだと思う。アカネみたいなどうでもいい秘密じゃなくて、ほんとうに秘密と云える秘密を話されてしまったら、僕も誠実に応えなきゃいけないと思った。でも、僕がそれをネコちゃんに喋ってしまったのは、それ以外にもいろいろ理由がある。夜にかかったしあわせなもやと、初めての旅館や初めての内緒話でふわふわしていた気持ちと、眠気とか。あとはやっぱり、僕はネコちゃんが大好きだったから。
「僕ね、その。実は、ネコちゃん以外にも親友がいるんだ。親友というか……」
「……里乃っていうんだ、いつも一緒にいてくれる。みんなとはお喋りできないけど、いまだって居るんだよ」
ネコちゃんは「すてき!」と夢をみるみたいな笑顔で言った。でも。僕はとんでもない失敗をしでかしたような気がして、絶対に後悔する確信があって……。そのあと、ネコちゃんがすーすーと寝息を立て始めたあと、案の定、激しい後悔が僕を苛んだ。ネコちゃんがいると里乃とうまくお喋りができないような気がした。ネコちゃんがいない場所でもきっとそれはおんなじで、ネコちゃんがいる限り、きっと、僕と里乃はぎこちなくなってしまう。根拠がないし、半ば異常な感情だとはわかっていたけど。
だけど。その夜に、僕はネコちゃんを殺すことを考え始めた。
――かみさまかみさま、どうかわたしをみつけてください。私をこのよのつかいものにしてください。そしてわたしをゆるしてください。いまのわたしを――
これも夢。そしていつか見た夢でもあり、夢のなかで聞くこの言葉は、いつだって、僕のものじゃなかった。この言葉を聞くとき、僕はいつも微睡んで……。
スズメが鳴いている。カーテンの隙間から朝日が差し込んで、部屋の勉強机から扉までをぶった切って照らしている。ちょうど僕のおなかのあたりも陽射しでぶった切られているから、一瞬、ぞっとする。
「うう、さとの。切れてない? ぼくのおなか……」
パジャマからはだけたおなかをさすって、上半分と下半分がちゃんと繋がっているのを確認して、ほっとした。
「そっか、よかった……」
いつもの朝だ。
ご飯~……と、一階から自信なさげな声が響く。僕の部屋は二階にあるから、僕はのたのたと起き上がって一階に降りる。今日は平日だから、養母さんと一緒にご飯を食べる。だけど祝日だから、なんと、みんなと遊びに行けちゃうのだ。おはようっていうと、おはようっていう。それは独り言と似ているかも。そんなことを考えながら、食卓について、いただきますも発音する。
「……ねえ舞ちゃん、おいしい?」
「もー。おいしいってば!」
「そう……? だって、舞ちゃんいつも半分くらい残すんだもん……。そんなの、おかあさん不安になっちゃう……。最近はぁ、ちゃんと食べてくれるしぃ……うれしいけど、やっぱりふあーん……」
「もー。おいしいってばー!」
だ、もんである。養母さんが一人になっちゃったのも、きっとここら辺のやり取りのなかに原因がある気がしてならない。だけど本当に、ご飯はおいしい。水味噌米卵油塩魚胡麻草、ぜんぶすきだ。
「それで、今日のことなんだけど……。まいちゃんほんとにだいじょうぶ……? 友達と一緒っていっても、子供だけでキャンプなんて……。夏場なんて、夜、怖いひとしかいないのにぃ……。おかあさん、やっぱりふあーん……」
「もー! ……大丈夫だよ。ぜったい!」
そう、僕は今日みんなとキャンプに行く。夏だから、人気のない川辺でテントなんか張っちゃったりする予定。花火なんかもやる予定。夜が更けたらお喋りメインの川釣りなんかもする予定。アカネは上機嫌も上機嫌のノリノリでOKしてくれたし、レイカなんかはヨット部らしく川に自信アリのふうでいた。もちろんネコちゃんならいちばんに喜んで、行く前から目をきらきら輝かせて、はしゃいでたりなんかして。乗り気じゃないのは、きっと誘った僕だけだろう。食べ終わればごちそうさまを発音してさっそく準備。キャンプ道具の一式を大きなカバンに詰め込んで、それから、いってきますを発音した。
キャンプ場ってわけじゃない。例の山の麓、雑木林をすこしかき分ければその川辺はある。草木はうっそうとしているが夏の陽射しはしたたかで、生い茂る草葉なぞ知ったことではないと言いたげに照って、川面はぎらぎらと輝いていた。岩場に流れが当たって、ちいさく飛沫がはじけている。僕らはそんな川辺をキャンプ地として、一日、明日の朝までを過ごす予定だ。
レイカは僕が到着するより先に到着していて、待たされた、と言わんばかりに低血圧ふうの態度でおはようと言う。
「おはよーっ! はやいね。そんなにたのしみだったんだ? キャンプ!」
「……別に。あんたたちが無茶なことして、水難事故みたいなことになったらいやだから、はやめに来ただけ」
レイカはいつもこんな調子だけど、なんだかんだ、こういう行事が好きなことを僕は知ってる。なんならキャンプ用のちんまい椅子にいちばん高いお金を払っていたのはレイカだ。その椅子に座っているのをにやにや眺めていると、レイカはふう、と格好つけて口を開く。
「幸い、今日は雨は降らないらしいから。まあ、よっぽどのことがない限りは安心ね」
通り雨がくるよ。里乃が言った。
黒い長髪を手でかき分けながら、ふう、と吐く。僕はレイカのこういった、わかりやすいところが好きだった。実際頭もいいし、頼りになる。こういう頼りになる人間がいると、もしものときには最善を尽くせるから好い。もしものときなんてないのがいちばんだけど、あるときにはあるものだから。そんなもしもにぼけっとしてたら、人間を疑われてしまうのだ。それはきっと誰だって、疑うに違いない。地面はごつごつとした大きめの砂利で、レイカはその上に置いていた大きなカバンを指して、僕に言う。
「もう設営しちゃいましょうよ。のたのたやってきた二人が完成したテントを見る……きっと驚くわね、ふたりとも!」
折半で買ったでっかいテントを持ってくる役を引き受けたのには、こういうわけがあったのか。僕は納得しながら快く頷いて、レイカとテントの設営をした。これがなかなか、むずかしかった!
テントが完成してから、僕らはしばらく椅子に座って――僕のはレイカのと違って、いちばん安くてちゃっちいの――コーヒーなんかを沸かして、ゆっくりしていた。アカネとネコちゃんはかなりの遅刻なのだけど、僕らは織り込み済みで光る川面を眺めながら苦いだけのそれを啜っていた。アカネの方向感覚にはかなりの問題があった。未だに音楽室にたどり着けないこともあるし、しょーもな海浜公園では僕とは関係なしに“居なかった”。右と左の違いもわからないことがあるらしいが、だからといって利き手と逆で箸を使っていたら、不思議に思わないものなのだろうか。まあ、それを補うべくアカネを連行する役としてネコちゃんが抜擢されたわけだけど、そもそもネコちゃんだってふらふらしているから、到着するのはちょうどお昼時だろうと、僕らはそんなことを話しながら苦笑した。実際、アカネとネコちゃんがやってきたのはお昼時・ジャストだった。
僕は風景をみるのが好きらしい。薄々自覚はあったけど、実際指摘されるとなんだか面映ゆい感じがする。風が吹いて草木がざわざわすると、川面はきらきらと輝く。そうでなくても、岩場に当たってはじける飛沫はでていなくても虹の出てる感じがする。川の底でぼんやりとある影が石か魚かはたまた水草か、じっと考え込んだりもするし、そうして疲れたら空を見上げて、あお、と思ったりもする。そんなんだから、僕はレイカは当然として、アカネにも、あのぼんやりのネコちゃんにさえ「またぼんやり!」と笑われたりしてしまう。気恥ずかしいけど、楽しい時間だ。お昼時。僕らはこれから、バーベキューなんかをしちゃったりしてる。僕は米炊きを任されていて、さあ炊こう、という時すでに、アカネとネコちゃんは肉を焼き始めるから、なんだかなあ、という感じがして、僕は笑う。みんなで食べるバーベキューは、ご飯なんかなくたって大満足のおいしさだった。
ご飯を食べ終わるとアカネが重大なことに気付いた。
「忘れてたね。飲み物買ってくるのを、さ!」
レイカはため息を吐く。ネコちゃんは笑う。照れ隠しのアカネの口調はたしかに変で、僕もなんだか笑ってしまった。
「川の水を煮沸すれば問題ないわ」
通り雨が来るよ! 里乃が言った。
「そんな。温めなくても飲めちゃうよ。だって川きらきらしてるもん。きれいだし、だいじょうぶ……ぜったい
!」
ネコちゃんが根拠のない自信を込めて言った。飲み物の買い出しを任命されていたアカネは生来っぽい楽観に徹して「だいじょぶだいじょぶ~」なんて、ネコちゃんに同調している。問題ない、大丈夫、だいじょうぶ……その都度、里乃は叫んだ。
通り雨が来るよ!
そんなのやだな、と思った。この楽しい時間が通り雨のひとつ来て、どんと流されてしまったら、僕はかなしくて死んでしまうかもしれない。でもそれ以上にいやなことがあって……。そう、僕はまたぼんやりしていた。ちゃっちい椅子に座って。レイカとほかふたりが水問題について甲論乙駁しているのが、すべてきゃっきゃと変換される程度にはぼんやりとしていたのだ。草木のあいだから狭い青空が覗いている。ちいさい雲は肥えていて、雨なんて一粒降りそうになかった。かみさま。ぼんやりとしているとき、僕はきっとかみさまのことを考えている。草木の匂いが混ざった風が、僕の頬を滑っていく。「ほら、こうやって……」ネコちゃんが川から直に水を汲んでいる。「あはは。溢し放題。湯水が如し」アカネがなんか云う。「バカ……バカ!」レイカが怒る……。ハッとした。まるで、天啓みたいに。
そうだ。
僕が眺めていたのは風景なのだ。
こんな単純なことに気付かないなんて、僕はなんて……。
「さとの。僕ってやっぱり、あんまし頭よくないよ」
「なにさいまさら。でもかわいいよ。舞ってば」
えへへ。と、僕は笑う。風景を眺めながら。
僕らは夜にカレーを作って、煮沸したお湯でコーヒーを飲んでお喋りをして、それからみんなで持ち寄った花火をやった。レイカはふつうの、いろいろな種類が入った980円くらいのバラエティセットを買ってきて、ネコちゃんは置くタイプの派手なやつ、アカネは飲み物を買い忘れたくせにロケット花火をごまんと持ってきていた。一通り遊んで、最後に残った線香花火をやることになる。
「じゃあさじゃあさ、せーのでつけようね。そんで、誰がいちばん長く持つか、勝負するんよ」
そういったのはたぶんアカネ。
「いやよ。こういうのって風情が大事なのよ、風情が」
こういったのはたぶんレイカ。
「えー。おもしろそうだけどなぁ!」
これはきっとネコちゃん。
「僕は賛成かも。でも勝負じゃなくても、みんなでやればどうせ楽しいよ。ぜったい!」
これが僕。
それぞれがそれぞれを風から守るみたいにして、くるりと四人輪になった。ぱち、ぱち、と火のついた瞬間、アカネだけ火種を落っことして、もう一本に着火しようと慌てていた。アカネのもう一本めが燃え始めたころには、僕らの花火はバチバチとはじけていて、それは実に夏らしく、レイカもネコちゃんも綺麗だ、なんていってうっとりとしている。実際、僕にもたまらなくきれいに思えた。
「ねえ、僕さ。僕……いま思ったんだけどね」
「いまこうして、みんなで花火やって、きれいだなって思うのはさ。そんなきれいなものが、本当にあると思いたいからっていうか……本当にあると信じたいものがきれいなんじゃないかなって。だからさ……その、なんていうか。この線香花火がこんなにきれいに見えるのはきっと……」
「……エヘヘ、ユージョーってやつのおかげなんじゃないか、ってさ!」
火種がぽつりと落ちる。これがアカネの云う勝負なら、僕の完敗。そして僕は風景を眺めながら、曖昧に笑うのだった。
それからすぐに通り雨がやってきて、夜釣りの時間はなしになって、みんなテントで身を寄せ合って眠った。もちろん夜が更ければ内緒話が始まるけど、どんな秘密を打ち明けようと、僕はもう大丈夫だった。ひとり、ふたりと眠っていく。ネコちゃんも寝た。ネコちゃんの寝顔は昔とぜんぜん変わらない。かみさま、かみさま、って……本当の天使みたいに思えた。
ねえ里乃? 僕、ネコちゃんを殺さないで済んで、本当によかったよ。こら。その物騒なのやめなさい、って、ずっと言ってきたのに。だから、もうやめたんだって。二度と考えない? 考えるわけない。友達だもん。ネコちゃんだもん。それならいいけど。でも、そもそもなんでそんな物騒なこと考えついたのさ。それは、その……愛ってやつかも、えへへ。そんな物騒な愛はいりませーん。だから、もうやめたってば。
朝になれば外はすっかり晴れていて、水溜まりひとつ残らなかった。
六人の子供達が、二列になって眠っている。部屋は暗いが、蛍光灯の燭光が淡く灯って、暖かな卵黄色が部屋に注いで、子供達の寝顔を照らしている。男女六人、その中には僕もいた。そしてネコちゃんも。ネコちゃんは隣の布団から、舞にこっそりと、耳打ちをするみたいにして喋りかけた。
「ねえ、起きてる?」
僕はその声でうっすら目を覚ましてしまい、本当は眠たがったが、ネコちゃんのことが好きで、かわいかったから、しかたない、といったふうに返事をした。
「へへへ、やっぱり起きてた。舞、わたし眠れないの。ちょっとお喋りしちゃおう? ね、ね。いいでしょ?」
ネコちゃんは普段話好きではなく、無口で、むしろ施設にはあまり馴染めていないような、そんな子だった。けれど、ネコちゃんは僕とだけはおしゃべりができた。夜毎、僕にすてきな夢の話をしてくれた。僕は、夢想家で、本当は愛想のいいネコちゃんのことが可愛くて、好きで、ほんのすこしだけうらやましかった。
「なんだかね、ネコちゃんはお姉ちゃんと似てるの」
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
「えっとねえ……」
僕が返答に困ってはにかむと、脳の一箇所でこれが夢であることに気付いた。そして同時に、もう一箇所で別の夢が始まる。おお神よ! 夜空に輝く星達の下、荒寥かつ人工的なあのハイウェイを走るのはよもやトラックではなく――うるさい!――白いミニバンだった。ネコちゃんはお気に入りのかみさまの話を始める。
「そっかあ。でもね、かみさま! かみさまがいるもん。かみさまはさ、いつもわたしたちを見てくれてるんだよ。かみさまかみさま――ってお祈りしたら、なんだって叶っちゃうんだから。お母さんが言ってたから、これはぜったい!」
ミニバンは走り続けて、高速を降りる。県道をひた走れば遠くには山が見えた。山の端の月は綺麗に欠けてちかちかと、色硝子のかけらのようだった。僕はネコちゃんの話が大好きだった。かみさまの話をするときの、元気なネコちゃんのことが好きだったし、ネコちゃんを見つけてくれたかみさまのことも大好きだった。
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
山の中腹でミニバンは停車する。ネコちゃんは容姿がよかったから、かわいそうな夫婦に貰われていった。僕の背中をちいさな手が突き飛ばした「逃げて!」と誰かが叫んで、僕は山道にひとりきり。僕ははにかみながらも、返事をすることができた。
「……えへへ、わかんない」
この夢は――
――もう見慣れた。スズメの鳴き声にも、僕のおなかをぶった切る朝の陽射しにも。目覚まし時計だって、鳴る五分前に押せるのだ。ふふん。
「ふぁーあ。得意になっちゃって……おはよ、舞」
「ふふん、ふふーん。おはよう、里乃! 今日の約束、覚えてる? なんて、覚えてるに決まってる! 愚聞、愚聞だね、実際ぃ」
あれから、僕と里乃はいつも通りで、そんないつも通りが僕には妙にしあわせで、里乃にはしばしば冷ややかなことを言われちゃったりする。でも、それだってしあわせだった。起き上がって窓から風景を眺める。タイルの通りには木枯らしみたいな風がふいて、落ち葉が踊っていたし、実際、街路樹はもう紅葉のほとんどを落としておじいさんみたいになっている。季節はまさしく秋だった。枯れ木も山の賑わいなんていうけど、僕にはそれがよくわかる。今日、僕は里乃とあの遊園地に行くのである。枯れ木を賑やかすのは山だけではないのだ。或いは僕も、山。なのだ。
僕の部屋は二階で、一階には養母さんがいるはずだけど、朝はパートにでてるから今は家にふたりきり。猫も杓子もゼッコーチョーの心持ちで階段を降りて、朝食のラップを剥がす。サンドイッチとおにぎり、トマトたまごレタス梅干しコメパンノリ。ぜんぶおいしいし、ぜんぶ好きだ。ふたりで食べればなんだっておいしいに決まってる。僕がそんなことを言うと里乃が笑って、僕も笑った。
秋だから、車は一台も走らない。二車線の車道はがらんとしている。
「つくば400、み6046」
「げー。まだ覚えてる。ほんと変、気持ちわるぅ。あ、でもあの青いミニバン、遊園地に向かってたのか。納得、なっとく」
僕はバス停のベンチに座ってそこらを眺めていた。褪せた歩道橋の手すりに鳩が止まっている。枯れた街路樹は等間隔で立ち並んで、“無駄に”小奇麗なタイルで舗装されている道に、枯れ葉が舞い踊っている。今日の雲はまばら、空の色は薄ら青。もはや見慣れた風景で、今となっては大好きな風景だ。この風景のなかにあるこのバス停が、僕らをあの遊園地に連れて行ってくれるのだから。もうすぐ向かいのバス停に反対側のバスが着て、その数分後、僕らは山を越えて、遊園地まで運んでくれるバスに乗る。いつもなら悠長でのんびりな運転手さんにいらいらとするところだが、今日は違う。待つのもたのしい時間のひとつであって、たのしい時間はいくらあってもいいものなのだ。運転手さんも好きなだけ悠長にしてくれればいい。きっと、のんびりするのにはそれ相応の理由が、僕らと同じように引き延ばしたいたのしみな時間あってのことなのだろうから。
一寸経って、排気音が遠くから響いてくる。だんだん近づいてくるそれは、反対側のバスのものに違いなかった。向かいのバス停に停車したところは一度もみたことがない。時間帯かなんなのか、とにかく乗客がいないらしかった。そうこうして、反対側のバスが近づく。やおら排気音がちいさくなるから、僕は怪訝に思った。
「あれ。停まるのかな」
里乃はなぜか応えない。なんだか嫌な予感がする。バスは速度を徐々に緩めて、案の定で停車する。
「乗客、あ。降りてくる……」
独り言ちる。バスが、ぷしゅうと鳴って、向こう側で扉が開いた。そしてまた、ぷしゅう、と鳴って。バスは発車する。ゆっくり、ゆっくりと動き始める。まるで、風景からずれていくようにゆっくりと。バスがずれて、枯れ木の一本が現れる。またずれて、バス停の標識が現れる。そして、バスは急速に加速して、僕の風景から姿を消した。そして、時間が止まる。ひゅー、と鳴る木枯らしみたいな風の音も、木枯らしみたいな風に踊る枯れ葉たちも、すべてが静止する。
「あっ……」
目が合った。そのひとは反対側のバス停で、傘を持って、目を丸くして、僕を見ていた。僕の驚きは、天気を確認し忘れたことでも、傘を忘れたことでも足りない、もっとずっと深刻で、重篤で、壊滅的な衝撃だった。彼女が傘をぎゅっとつかんで、僕はハッとする。乾いた風の音も、枯れ葉も、すべての時間が動きだした。同時に、彼女も駆けだした。ぎゅっと掴んだ傘を振って、まるで僕から逃げるように。僕は茫然として動けなかった。ひゅー、と木枯らしが頬を滑る。そう、呆然とした。塞いだ穴の蓋がごとりと落ちて空漠に……。遠くからなにか走る音がして、次第に、ゴツゴツと、メリメリと地面が鳴った。僕は呆然として、それがバスの駆動音であることも、タイヤが地を噛む音だとも気がつくことができなかった。バスが到着する。停止して、ドアが開く。
「……乗りますか?」
運転手さんはみかねて僕に尋ねた。
「いや、あの……ええと」
僕はぼんやりとして、または中途半端にハッとして、木枯らしが吹いて、枯れ葉がタイルの上を舞い踊ってそれから、それから……ドアが閉じて……。
雨が降っている。遊園地を歩いている。雨の遊園地は閑散として、それでも親子連れやカップルのはしゃぐ声が響いている。みんな傘を持っていた。空は灰色に曇って、雨はきらびやかな電飾の光をぼかして、滲ませている。メリーゴーランドに乗る母娘がいて、それを見守っている男の人はきっとお父さん。ジェットコースターがきっとすごい音を立てながら急降下して、観覧車はゆっくりと見下ろすみたいに廻っている。傘を持っていない僕は、濡れたまま、そんな風景のいくつかを見送った。ぼやけた電飾の光がやたら眩しくて、気が付いたら僕はまたバス停にいた。遊園地前のバス停は車も人も少なくて、それでもたまに、つがいみたいな傘が揺れていて、タイヤが水溜まりを弾いたりしていて……僕にはそれがいやに辛辣で、けれど、僕は動けずに、視界は風景を眺め続けていた。メリーゴーランドが廻る、観覧車が廻る、電飾の光がぼやけて、反射して……。僕はいくつかのバスを見送って、それからようやく乗り込んだバスの座席で理解した。ひとひとり殺して守ろうとした僕の里乃が一瞬にして消えたこと、それから、僕と目が合ったあのひとが、おそらく本当の里乃であること。雨で歪んだ窓に頬をつける。それは心の凍るような感じの冷たさで、けれど、雨はいつまでも降りやまなかった。
バスが揺れる。
もしかみさまがいたとして、かみさまは僕に何を与えて何を奪ったのだろう。かみさま、かみさま……考えるのは、そればかりだった。
そう。
僕の物語はこれでおしまいで、ここから先は、きっとすべて蛇足なんだろうな。
そんなふうに思った。
まわる、まわる。丸い窓のうちがわで、衣服たちがまわっている。コインランドリーの丸椅子に座って、僕はぼんやりとそれを眺めていた。そもそも僕は、あまり昔のことは考えない。いやなことばかりだから、考えないようにしてる。しかし今となっては僕も立派にこの世の使い物であるからして、たまにはいろいろ振り返るのもいいかもしれない。仕事だって順調で、丸い窓の内側でまわる衣服が詰襟でないことがその証左だ。結局、あの頃の僕というのは本当に付ける薬のない大馬鹿で、金は取るわ人は刺すわで最低だった。しかも、あいつには自分のトラウマばかりを重ねて、ちっともあいつ自身を見てやろうともしなかった。せいぜい盗み見たのはタンスの中身くらいなもので、そのなかに有ったエロ本の一冊すら見ないふりをした。けれどそれも、今となってはいささかどらまちっくすぎる淡い恋と形容できる。たまに、あいつがどうしてるかなんて考えていたのも高校の頃くらいまでで、ネコちゃんと付き合い始めてからというもの、昔のことなんてまるっきりどうでもよくなってしまった。もちろん、サトノのことだってそれは変わらない。今の僕が考えるのは、帰ったときに「乾燥は40分って言ったじゃん」とネコちゃんから叱責を受けないよう、100円玉を追加投入したあとの気怠さに耐えることくらいなものだ。
それにしたって、人生とは奇妙なものである。あんな半ぐれ通り越してがっつり犯罪者だった僕がほぼほぼ、お咎めなしでいられたのも奇妙だし、あんなにいい養母さんができたのも奇妙だし、ふつーに高校生をやれたのもやっぱりどっか気味が悪い。いま安定した職業につけていることも、ネコちゃんとの奇縁もどうしたって偶然の域を逸脱してる感じがする。本来、誰かからの恨みで突然後頭部を殴られて死ぬべき人間なのだ、僕みたいなのは。けれど、こんなことをいうとネコちゃんは例のカミサマを持ち出すから、僕はネコちゃんの前では極めて無神論者でいる。
そう、奇妙と云えばもうひとつあって、それは今現在コインランドリーないで進行中の奇縁なのだ。というのも、僕がまわる衣服を眺めるのには理由がある。ふつーこんなぐるぐるをまじまじ眺めたりはしない、目がまわるから。人がなにかを眺めるときはたいていの場合が逃避であることを、僕はよくよく知っている。そして僕のこれはやはりまたしても逃避だった。何から逃げているといえば、そう。背後にひとり、いやな人物がいるのである。それは女で、長髪で、よく知っている顔なのに、実際、なにひとつを知らない女……。
女は僕が缶コーヒーなぞやりながら鼻歌をうたい、乾燥が終わるのを待っている折ふいにランドリーに入店せしめた。一瞬目が合って、僕はハッとしてすぐさま視線を切ったのだが、それ以降ずっと背後から視線を感じるのだ。それ以降ずっと、まわる衣服に釘付けなのだ。ああ、かわいそうな僕……。未だ僕の背中、或いは後頭部に視線を刺す女は間違いなく、本物の里乃で違いなかった。
「……あなた」
ああ! 声をかけられる。不運なぼく、不幸なぼく……。
「……な、なんでしょうか」
「あなたのせいで、わたしの“マイ”が消えちゃったの」
す、と得心がいく。僕は薄々気付いていた。あの日、あのバス停でこの女が僕から逃げるように駆けだしたその理由について。
「……へえ、奇遇。そういえば、僕の“サトノ”も消えちゃったんだよね」
「あら、そう。それで、あなた知らない? わたしのマイと……それからあなたのサトノが、どこに行っちゃったのか」
僕は返答に窮する。視線はまわる衣服をじっとみている。目がまわってきたような、意識がまわってきたような、とにかく窮して窮して、適当に、思ってもない言葉を吐いてしまう。
「……さあ。案外、どっかでふたり仲良く、やってんじゃないかなぁ」
あら、そう。と、女は二度目のそれをまったく同じトーンで吐いて、ランドリーを出ていったようだ。ようだ、というのは、僕は未だに動けずに、窓にくぎ付けでいたから、足音だけしか聞いていないから。実際のところはわからない。けれど心は単純で、あの女との対話が終わったというだけで、緊張の糸をぷっつり切断せしめて、僕にふかいため息と脱力を与えたもうた。脱力のままうなだれて、丸い窓に頬をつける。なかなか、安心する暖かさだった。そして、僕は当たり前のことを考える。
でも、でもやっぱり。あの女は里乃だけれど、僕の里乃じゃなかった。僕の里乃ならきっと、いまに僕の頭をこつんと叩いてきっと言うんだ。ばかね、舞ってば。なんて……。
そして、自嘲気味に笑う僕の後頭部に、鈍い衝撃が走った。こつん、或いはガツン、と。振り向いたとき、そこに立っているのが希望か絶望かなんてわからない。結局人生なにがあるかなんてわからなくて、今後、僕がどのように振り返ってもそれは変わらない。だけどひとつ何かを云うのなら、それはやっぱり。
かみさまかみさま――
――僕はあんたがだいっきらいだ!
だから、止まれない。止まれなかった。
あー。
「……神様神様、どうか私を見つけてください。私をこの世の使い物にしてください。そして私を許してください。今の私を壊してください」
どうした! 僕の名前を呼んでみろ!
「舞っ! てめえ待ちやがれ!」
なんちゃって。
待てと言われて待つ馬鹿がどこの世界にいるというのだろう。それとも僕はそんなに馬鹿っぽく見えるのだろうか。ならその馬鹿に金を盗まれる馬鹿をなんと形容したらいい。馬鹿に馬鹿にされるなんて馬鹿馬鹿しい。屈辱は屈辱から逃げるための力をひとに与える。曲がり角にて待ち伏せるだけの忍耐を与える。逃げた先に待つ屈辱も、振り向きざまに与える刺し傷も、呼んで字の如く道理だった。凶器を持つ手は震えない。ひぃ、ふぅ、みぃ……いま。
通り雨が過ぎた頃だ。張り巡るパイプの中を轟音と共に滑っていく水の色は空想の上に黒く淀んでいた。どこにでもある都会の一角、喧騒に囲まれたビルとビルの背中合わせを二組見つければ、そこが僕らの住処になった。僕らが落とし穴と呼称する住処にはひどい雨漏りがあった。雨漏りもなにも吹き曝しの空き地では仕方がない、ましてや廃材置き場と化した空き地に利便性を求めたりなんかしない。替えの服ならごまんとあった。保管するための寿命付きロッカーの延命装置だってついさっき手に入れた。奪い取るのは簡単だが、奪い去る位置まで近づくのには骨が折れる。このご時世に太鼓持ちなんて羽振りの良い職はないし、そもそもそうならないために僕は落とし穴に巣を張った。とにかくとして手に入れた数十枚の紙切れはどこか誇らしく、汚れた野良猫を見つければ頭の裏っ側に取り憑いて縦横無尽を好き勝手でやりたくなった。
「おかえり」
聞き馴染みのある声がして僕はひとつ溜息を吐く。この溜息には二通りの意味があった。ひとつは落胆と、もうひとつはやり遂げた安堵のそれだ。どちらにせよ、向こうには伝わらなくてもいい感嘆で、しかしどうしても向上心のないやつは好きにはなれない。この寝ぐらでそんなご挨拶をされてしまっては、まるでこのぬらぬらが僕らの家であって、これ以上は望めないように思えてくる。あーあ、嫌だなあ。聞こえないように、舌の上で言葉を溶かした。
「はいこれ」
紙切れのすべてをポケットから取り出してそいつの上に落とした。濡れたスポンジの上で漫画雑誌を広げていたそいつは慌てることもなく落ちた紙切れのすべてを集める。ゆったりとした動作だった。
「こりゃまた、ご苦労なこって」
「あんたは?」
聞かれたそいつはさも当然のようにポケットから硬貨の数枚を取り出す。緩慢な動作だった。
「俺はこんだけ」
「ひぃ、ふう、みぃ……千と百二十円! なっさけなー」
投げ返せばまた嫌そうな顔をしてポケットにねじ込む。僕の潜む眉がそいつに顔を隠させた。気まずいんだかなんだか漫画雑誌で隠した表情を窺い知ることはできないけれど推測はできる。なんてったって長い付き合い。アタリマエ。こいつはちょっとでも都合が悪くなれば、漫画雑誌で表情を隠すのとおんなじに、それがどれほど大事なことだろうがおかまいなくなんだって隠すのだ。習性としては犬猫とさして変わらない。施設にいた頃から、こいつに隠し切れないのはのろまで臆病な性質だけだった。
「いくら溜まった?」
「さあ」
雑誌の陰からチラリと視線がすれ違う。その目つきとくれば心底どうでもよさげ、投げやり、面倒、それらの語句を物質にしてミキサーにかけて飲み干したようなものであり、僕の胸中にたちまち怒りが嘶いた。
「さあ、じゃないでしょ。さぁ、じゃ、さぁ! ……僕がどんだけ危ないことしてきたかわかってんの? それこそ、そんな「さあ」なんてテキトー口走ろうもんなら指の飛ぶような界隈の御仁だまくらかして盗ってきてんの。そういう金なの。それをさあ……おい! 聞いてんのかー?」
今度は顔の上に乗せた雑誌を片手でおさえて、なにが可笑しいのかくつくつ笑う。上塗り、上塗りだった。奴の笑いには所謂失笑苦笑それらに類する含意があって、すなわちそれは火に注ぐ油だった。赤い〝キリ〟を赤く塗ってなにが変わるというだろう。なにも変わらない。これからもきっと、僕はどうして、穴の空いた貯金箱に小銭を入れる日々を送る。
「あーあ、言っちゃった。く、くくく……」
「あー? なにがさ。まあ、もう喋んなくていいけどさあ! どうせもういっしょだし」
合ってもなくても変わらない様々のことを思うと僕はすかさず後ろポッケの〝キリ〟に手をかけた。いっちょまえに、ジーンズなんかせしめやがって! よれよれだけど!
「く、くく……違う、違うって舞。君さっき、盗ったって言った」
あっ、として、ハッとした。
「ねえ舞。君はぼく……俺にこわい御仁と仕事してるって言った。あと君、俺のことよく、ばかにしてた。小銭拾いのやり方がどうとか……犯罪すれすれ、でも合法……そんなうまい儲け話について、いろいろ……くっ」
そこまで言って大笑いを始めやがる。僕はしらけて、ばかばかしくなった。バカはバカ、わかっていた。バカと関わるのは馬鹿のすることなのだ。こいつなんてのは所詮、僕にくっついてきただけの、のろまな、ただの! 臆病者……僕は踵を返して自分のねぐらに向かう。
「でも君! 盗ったんだ! ハハ! 僕にあれだけ言って、結局やってたなんてさあ!」
後ろの方からひいひい、バサバサ。息を切らして雑誌をパタつかせているのが見てとれる。僕は片手で片耳を押さえて寝ぐらに潜り込んだ。廃材、パイプで囲んだ骨組み、壁はビルの外壁だ。そこにいい感じのスポンジを置いたのが僕のねぐらで、なんと昨日カーテンを取り付けたのだ。天井から覆いかぶさるブルーシートに穴を開けて紐を通せば、扉のようなカーテンのような、そんなふうに使える。さっさと紐を括って閉めてしまえ。そう思った矢先、軒先から不快な声がする。同じ落とし穴。ねぐらとねぐら、距離は近い。
「まあ、そうつんけんしないでよ。ぼく……ああいや、俺だって金の管理くらいできるさ。安心して、ちゃんととってあるから。三桁、もう近いよ」
「なら、よし!」
シートの端と端をビシャッと閉じて紐を括る。ビルの陰の空き地、さらにそのビルの壁ッ端は根元とくれば昼の陽などは問題じゃない。ねぐらは暗く、狭いおかげか、不思議と静かだ。僕のねぐらには寝具であるスポンジと、ぐちゃぐちゃな布団代わりの替えの服の山しかない。替えはすべて男物、それも学生服、詰襟ってやつばかり。僕はやっと座り込んで、スポンジの柔らかさに安堵する。窮屈なニット帽を脱ぎ捨てる。ぐちゃぐちゃ布団の一部と化したニット帽はすぐにびしょ濡れた。
「おかえり、舞。あーあ。また危ないことしてきたんでしょう」
落とし穴にも雨は降り注ぐ。先刻のちょっとした通り雨のひとつで、僕のねぐらは濡れ鼠だ。雨漏りなんて、いくら直してもきりがない。だから、直さない。
「うるさいなあ。里乃には関係ないじゃん。それより僕、疲れたんだから。……こわかったんだから。だからさー? だから……ほら」
「……舞はいつまで経っても甘えんぼさんねー? しょうがないんだから、もう。……ほら、なでなで。なで、なで……」
ぐちゃぐちゃの盛り上がりを枕に横たわると長い髪が鬱陶しく濡れた。僕の髪も、落とし穴の乾かないスポンジと、ねぐらのぐちゃぐちゃな盗品の山と、なにも変わらない。だから、だから……。
「いいじゃんか、別にさー。あ。ちがうよ、ちがう……もっとやさしくして。ぎゅって、ぎゅってしてさ、それでぇ、それから……えへへ」
「舞は本当に変わらないのねぇ。あとどのくらい、ふふ。寝ずに耐えていられるかしらねー。ほらぁ。いい子、いい子……」
お金だって、本当は、あってもなくても変わらない。きっと、そんなことはどうだってよくて。僕らにとって大切なのは、こんなふうに、ずっと幸せが続くこと。たぶんおそらく、そうなんだ。
でも、だけどさ。里乃。えへへ。三桁……百万、百万円だってさ。ふふ、これで僕ら、何ができるだろうね。
「ああ、それと舞。お疲れのところ済まないけれど。そのキリ、ちゃんと洗っておきなよ」
なんだよもう。うるさいなぁ……。
おお神よ! 近頃ではこの擬勢都市にさえ魑魅魍魎が蔓延っています! 彼らは黒く、そして若い! 彼らの標的は彼らよりより黒く若い魑魅魍魎の子羊達……真昼間、老人たちはチェックを着て歩きます! 街路樹が並び立って……そう、見たこともないようなラグジュアリーショップのわきにいつか行こうと思っていたパン屋があり、そしてはす向かいにはぐるぐるの床屋が立ち並び、その脇を! チェックの老人たちが笑いながら歩いて、似たようなのとすれ違っていくのです! なんと平和なことでしょうか、まるで貼り付けた厚紙の青空が如くではありませんか! それが、それが夜になれば一変……街はネオンと排水と粘こい喧噪と、国道をゆく長距離トラックの振動、駆動音……それらが支配する闇の魔の! ……温床となり果てるのです。なんと嘆かわしい事でしょうか。ご覧ください。例の街路樹、タイルの道を子羊が歩いています……今から獲り殺されることなどちっとも知らずに! 悪いのは例のアヤカシなのでございます……。アレを止められる者などはもう、一人としてこの街に残ってはいないのです。そら今まさに! アレが子羊を食い殺してしまいました! そして、アレもすぐに食われてしまうのです……。歩いてゆきます……満足げな表情で。街路樹、例のタイルの道を、悠々と……。お判りでしょうか。この街の夜はもう……。この夢ははずれ。
今日は濡れた布団の代わりを取りに行くことにした。じめじめしたねぐらを出て、干しておいた“マシなやつ”を着る。空き地に降った雨は路地に流れて染みて落ちて、地下排水へ流れてゆく。いっそ衣類なんかも濡れれば、いつかの綿菓子みたく溶けてなくなってしまえばいい。とにかく、僕には四方をビルに囲まれた四角形のなかでそれらを“マシ”にすることしかできない。それは濡れスポンジに雑誌を読むあいつにしても同じはずだが、あいつがこういったことで困ったという話は聞いたことがない。ちらと横目に見やればまた、例のごとくに仰向けで雑誌を眺めている。どこぞせしめたジーンズやシャツが濡れている、といった様子もない。
他者にバレずに得をするのも、兎にも角にも知りたがらないことも、どちらも施設由来の処世だ。
チッ、と気付けば無意識に舌打ちをした。
「今日は表に行くから」
「あれ、もう替えないの。治んないもんだねぇ。俺は四歳くらいで治ったけどな」
「なにそれ、イミフメー。それよりあんた、今日も自分は小銭さえ拾ってりゃいい、だなんて都合のいい事、考えてるわけじゃないよねー?」
「いいじゃないか。どうせ八対二。どうせ八対二なんだから」
着替えを見られちゃいないかと声をかけたつもりだが、やつは此方に見向きもせずに雑誌を眺め続けていた。すると一瞬、雑誌から片手を離す。なんだと思ってみていると、やつはその片手で自身のおつむを指先でとんとんせしめる。一日数百、数千円如きの成果で、およそ百万ある共有財産の二割を持っていこうという精神性の異常さに自覚を持ったのかと思ったが、どうやら違った。
「けっ。やなんだよなーニット帽。まだ乾いてないし、それにまだ春だし。バカみたいでさー」
「詰襟しか持ってない女の子がよくいう。……あと。さすがに、そろそろ無理あるんじゃないの、それじゃあ」
ねぐらをかき混ぜてニット帽を引っ張りだす。やつのいうそれが何を指しているかはわからないが、気にせずにニット帽をかぶった。鬱陶しい髪を仕舞い込むにはこれがお誂えで、この辺で問題を起こすのにも、詰襟という擬態がお誂えだった。成人や女子供なんてのは加害者側だって被害者側だって、事件に遭えばあとが面倒だった。
「じゃあセーラー服でもかっぱらってブルセラやって、あんたにはお縄についてもらおうか」
「いいさ、なんでも。好きにしたら」
苛々として一瞥すれば、あいつは未だ雑誌を眺め続けていた。コンプレックスを持つと人間哀れだ。ろくに読めもしない文字を読みたがる。
「補導されないように気を付けてね。本当は表出るだけで危ないし、その上、ぼくらあとがないんだから」
路上生活をやって判ったのは、路上という言葉の持つ意味の狭さだった。路上生活の指す路上と、単に路上という言葉が指す路上では、子育てと養育くらい意味が変わる。
「あんたは“ぼくら”じゃなくて“俺ら”だろ!」
吐き捨てて、僕は落とし穴をあとにした。
表。僕らが表と呼ぶのは人通りの多い場所、つまるところは裏路地以外。表に出るのに危険が伴うそのわけなんて、それは決して僕のせいででもなければ、あいつのせいでもない。ただ、僕とあいつはあと少しで十五歳になる。そして僕らはそれを祝うべき日だって知らないまま生きている。
路地のぬらぬらには苛々する。一歩一歩を踏みしめるたびに頭の奥のほうで歯軋りみたいに、何かが詰まって擦れているような気がする。陽のあたらない陰鬱な路地を抜ければ一転、表の景観は晴れ渡る……。路地は薄汚れていて、僕の足元には空き缶や、煙草の吸や、ガムがへばりついている。空き缶の一つを蹴りとばすと、地面を跳ねてからんと鳴いた。
「ねー里乃。十五歳ったってさ、僕なら何も変わらないよね。どういうわけって、そりゃあさー……
「そうかも。でも、こんなの長く続かないわ。わたし心配だな。舞が大変なことになっちゃって、離れ離れになっちゃったりしたら」
「そんなの。僕の方がさみしいよ。生きていけないね、ぜったい」
「うー、わたしのほうが先に死んじゃうよう
「でもさ、でもまっぴらだよ。自立援助なんてさ。現に僕はいま立ってるし、歩いてる。名前が変わったって、所詮は施設だよ」
「そうね、もうちゃんとひとりよね。二桁以上の計算ができなくたって。舞はちゃんと立ってるし、歩けるもの」
皮肉じゃん! と、僕は笑って路地を抜ける。路地の終わりには表通りから陽が目いっぱい差し込んでいて、まるで光の扉みたいにみえた。そして僕は扉を潜り抜ける。表通りは人であふれて、やはり嘘みたいに晴れ渡っていた。裏路地には無い無数の足音、人間たちの疎らな話し声。途端に世界は騒々しかった。射し込む陽がひときわ眩しくなって、ハッとする。惚けている場合じゃない。僕はこれから身包みを剥ぐ。今考えるべきは路地よりもっと暗い事だ。詰襟の、黒よりずっと……。
奇遇じゃん、その一言で同じ制服を着た学生の警戒心は、まるで初めからなかったみたいにして溶ける。バスでも待っていたのだろうか、気弱そうなそのアホ面は駅真ん前のハンバーガーショップの前をうろうろしていた。クラスやなんかをでっちあげると、これまで彼らがそうしてきたように、相手はすぐに例に漏れずの言葉を吐いた。
「趣味じゃないよ。そういう、ヘンタイっぽいのじゃなくてさー。……セーラーだとさ、何かと面倒なんだよね。この街でなにかやるっていうと」
声を潜めて言えば、相手はたちまち興味津々って面をして、同調しては声を潜めてみせる。
「な、なにさ。その、なにかってのは」
「ほらぁ。アレだよ、“アレ”。最近みんな噂してるでしょ? その“アレ”。わたし、売ってんの」
言葉の妖しさにうらなりはやおら高揚したように頬を緩める。眉こそ潜めているがこうなればこいつの警戒はすべて見せかけだ。
「え、えっと。……いくらぐらいのものなのかな。その、ここいらの相場では」
「そういう話はここじゃちょっとね。ついてきなよ」
そういって僕は馴染みの路地へと歩き出す。うらなりは子猫みたくどっか所在なさげに僕の後ろに着いてくる。そしてきっと、こいつはアレを何かも知らない。快晴、無数の足音、平和な街の平和な喧噪……扉は入口でもあって出口でもある。さらば人類。僕はまた扉を潜る。照り付ける陽光、焦がされた詰襟の背の温かさはふっと消え、なんだか裏寒い気分になる。ぞわぞわと、二の腕あたりが震えてくる。身体のど真ん中は痙攣していた。「神様、どうか私を……」心は暗く溺れるみたいに嘶いた。
男が泣き叫ぶ。
「痛いよぉあげたじゃん! あげたあげたあげた! もうあげたじゃんかあげたのに! 痛っ、痛い、痛い痛い痛い痛いからぁ! やめて! 許して、もう許してよぉ! こわいよぉもうやめてってばぁ……」
「脱げ! 黙れ! 謝れよ! 象徴だろ、象徴だろうが! 脱げ、脱げ、脱げ!」
拳に走る衝撃は震えと判別が付かなかった。「謝れ!」金も服も学生証も尊厳も自由意志もすべて僕のものだ。方法はいくらでもある、方法はいくらでもある。「謝れ! 黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」じゃあ僕に脱げって言うのか! この、僕に! 殴打の最中、ふ、と自分の息が止まっていることに気が付いた。顔の熱さと、感覚の遠い身体と、底冷えするような胸の奥とが、地べたで渦を巻いていた。しくしくと泣いている。いまだけ、すべての暴力だった。細い曲がり角から足音が聞こえた途端、僕は滅茶苦茶になったのか駆けだしたのかわからなくなった。乱反射に仰いだ狭い空は吸い込まれそうな青色で、それは靴底のぬめりだけを知っていた。
里乃、里乃、里乃、里乃。
「……さい……な……い……んなさい……
「……大丈夫、だいじょうぶだよ……大丈夫だから……」
小さくなる、肩を抱く。狭い。薄暗い。湿っている、濡れている。室外機と室外機のあいだ、或いはもっと狭い場所……。
うずくまっていること……? 時間の感覚が無いこと。それだけ頭の隅に白々と認めていた。
夕暮れだった。落とし穴に戻るとあいつは飽きもせず、仰向けになって雑誌を読んでいた。ただ戻ってきた僕に気がつくと、やつはふいと僕の方をみて、なんだか馬鹿にするみたいにして、ちいさく笑う。
「おお、おお。取ってきたね、みごと。セットーも舞にはもう慣れっこかい? 丈もちょうど良さそうじゃないか。さすがだね」
「へへへー、いいでしょ。あんたのぶんはないよーだ」
いらない、いらない。そう言ってやおら立ち上がり、ふらふら物置の方へ向かう。こいつは暇そうにしてても案外やることはやってくれる。稼ぎはてんでダメダメだけど、食べ物の調達はこいつの仕事だった。
「今日はなにさー? たのしみ。僕ってば腹ぺこだったりして。あ、金は? ちゃんと稼いできたのかよお」
「はいはい腹ぺこね。ちょっと待ちなよ今出すから。金は二百円、自販機。一度に何個も質問しないように……はいこれ」
そういって手渡されたのは結構有名なチェーン店の弁当だった。ハンバーグ好き。僕は嬉しくなってやつの頭をなでまわした。「あんたはえらい!」わしゃわしゃやってる手を冷たく振り払われても僕は以前うれしいままだ。だって、お弁当はまだ温かそうだから。
「舞は好きだね、ハンバーグ。毎日これ買ってこようか?」
「ほんと! いいじゃん! それでいいし、それがいいと思うな、僕!」
失笑と箸を渡される。「ごくろー!」僕はさっそく寝ぐらに戻る。施設のなかでも、食事にマナーがあることを知ってるやつと知らないやつがいて、僕はやつがそのどちらかなのかを知らないし、やつだって、僕がどっちかを知らないでいる。知る必要なんてどこにもないから、施設のなかではみんながそうした。だけど、やつは毎日、よれてるけど湿ってないジーンズを履いて、シャツを着て、食べ物をしっかり調達してくる。金はぜんぜん持ってこないけど……。ねぐらに潜って、弁当の透明の蓋を外す。いい匂い! 箸を割って、ハンバーグに突き刺して、たくさん頬張る。あんまりおいしいから、「お」が「ほ」に変化してほいしー、ほいしーなんて感嘆がもれる。飲み込むときも幸せだった。好きだな、嚥下。いいな、食べるって。おいしいし……。
「……でも、あいつは知ってるんだろうな」
暗いねぐらが、もうちょっとだけ暗くなった気がした。またハンバーグを頬張る。
「おいしー。里乃、これおいしいよ。ほらほら、里乃も食べなー?」
「えー。わたし、舞が帰ってくる前に食べたのに。太っちゃうよう」
「いいじゃん別にー! ほらほら、あーんしてあげよっか」
「もー。……じゃあお言葉に甘えて」
食べ方について、そのマナーについて。知ってるか、知らないかなんて、どうでもいいし、指摘する奴もいなかったから、そんなのはなんの問題でもない。ただ僕らは対等でないことを許せなかった。僕とあいつは似てる。だからずっと、ここにいる。
食べ終わって眠気でうとうとぼやぼやしていたら、あいつが絆創膏やら持ってきて傷の手当てをしてくれた。怪我なんて拳の擦り傷くらいなものなのに、あいつは甲斐甲斐しく手当てして、説教めいたことまで言った。衣類をせしめる方法なんて数多にあるし、理由もなく人を殴るのはよくない、なんて。そんなことはわかってる。ただ理由もなく人を殴るのがよくないなら、理由があって人を殴るのは正当なのかな、と思う。なんにせよ殴らなきゃいけないのなら、理由なんてないほうがマシだと思った。
「里乃、あいつって優しすぎるよね。男のくせにさ、女々しいっていうかー」
「いいことじゃない。舞は荒っぽすぎるわ。女の子なんだから、もっとかわいくしてもいいのに」
ふーん、と息をついてぐちゃぐちゃにの上に横たわる。そろそろ眠たくなってきた。何か考えているうちにすぐにうつらうつら、微睡はじめて、思考と現実は半分半分の夢みたいになってくる。
「……ちがうよ、里乃。ちがうもん……そんなんだから、僕らここにいるんだもん……」
昨日と比べて、髪はあまり濡れずに済んだ。
狼だ! 真夜中の村に狼が湧いた! 群れをなして襲来した狼たちは村民を次々襲いまわる! 村民たちは泡を食って逃げ出したが、中には米櫃を二階へと運ぶトンチキもいる! 人は不幸だ。そんなのの臭いを鋭敏に嗅ぎつけて、狼達は大きな群れから小さな群れのいくつかに分かれて、各家の二階へと駆け上がる。夜空に星が瞬き、高速道路をトラックが走っていた。トラックはいずれ県道へ降りて山道を往く。山の中腹に差し掛かった頃、星は燦然と輝いていた。狼と村はいつのまにか消えていた。この夢もはずれ。
目が覚めてからというもの、今日はねぐらから一歩も出ていない。気分が優れないというのもあるし、なによりねぐらの暗さや、ごちゃまぜの匂いには安心感があった。
「まーいー? おでかけ、今日はしないの。健康に悪いよ、つまんないよ? 陽に当たらないと馬鹿になるって、あの子に馬鹿にされちゃうよ」
「いいのいいの。言ってる本人が馬鹿なんだから。それに、里乃はぜんぜん、頭いいじゃんか。僕と違ってさ。まあねえ」
幸い、ねぐらの外にあいつの気配はない。今日はどこかにでてるらしい。いまはたぶん昼過ぎ。この時間まであいつが帰らないのは珍しいけど、今日は殊勝な気でも起こして隣町の自販機まで出張してるのかもしれない。なんにせよ、気怠い昼下がりだった。
「ねえ、ねえねえねえ舞? あの子いないならさ、いろいろ物色しちゃいましょうよぅ。あの子いっつも雑誌みてるけど、何読んでるかさっぱりでしょう? もしかすると、舞の云う〝俺〟っぽいやつ、読んじゃってたりしたりして! ね、ね? みてみましょうよぅ」
「ハ、そんなわけ。やつはまだまだボクだよ、ボ・ク。僕のような僕とは違うのさ、変なこというようだけども。てへ」
あいつがそういった如何わしいモノに興味を持つはずがない。それは僕の確信で、そして僕らをかろうじて繋ぎ止める強固な鎹なのだ。まあ、そういったものに興味をもったとして、それはそれで、ううむ。複雑なところである。実際、あいつからは未だ〝俺〟って感じはしない。あいつも僕とおんなじなのに、どうして同じくやれないのだろう。僕はもう完全に僕だ。だって――「ひっ」
「……ああ、ああ! 知らない、知らない、バカ! バカ、バカバカバカ! 里乃、さとの!」
縋り付く。身体に数多の感覚が蘇る。引きつけを起こしたみたいに、体がびく、と跳ねる。僕は布団代わり、衣服の山を精一杯かき集めて抱き寄せた。「ああ!」匂いがした。いろいろな匂い。生活の、人の匂い……。慌ててそれらを掻き散らして、必死に後ずさる。ねぐらに逃げ場などなくて、私は大顕でねぐらを飛び出た。
春の陽は高く、そして長い。長いと云うのは単に時間的な話のみでなく、なんというべきか、伸びやかなのだ。こんな日なら、落とし穴にも陽は注ぐ。やつのスポンジ――マットレスは僕のねぐらにあるそれよりも状態が良くて、座り心地は最高だった。
「さてと!」
立ち上がって、僕はやつのねぐらの方へ近づく。端から端まで一寸ない落とし穴にも一応の区分けがあって、ひとつは僕のスペース、僕のねぐらとその周辺。そしてひとつは、やつがいつも雑誌を読むマットレスの共有スペース。それから最後やつのスペース。やつのねぐらとその周辺だ。
「えー。舞ってば、ほんとにやるの? よくないんじゃないかな」
やつのねぐらは無防備なもので、僕のと違って〝とびら〟がない。外から丸見えの四角形のなか、カタイベッドなんかの上で寝る。いっそいつものマットレスで寝てしまえばいいのに。共有スペースだからとかなんとか、やつときたら妙に律儀だった。
「いいのいいの! あいつなんてろくに稼ぎもしないんだからさ。もしへそくりなんか隠してたら、別の場所に隠して、ひひ、慌てさせてやる」
代わりにといってはなんだが、やつのねぐら周辺にはどこから拾ってきたか沢山のタンスやら机など、収納家具が散乱していた。僕の狙いはそれらであって、なんだか妙にワクワクして、すこしドキドキしたりもして……とにかくひとつ、僕は棚に手をかける。引っ張り出すときの昂揚感はふわっとしてて、その中身にはがっくしだった。
「……なんでー。漫画雑誌ばっかりじゃんよー」
「あ! でもでも舞、ほらこれとかアヤシイんじゃない?」
「えーそんなの。文字ばっかのつまんない本でしょ。どうせつまんないよ。だってつまんないものなんだから」
「あら。だけどこれって……」
僕はしばらく真剣になっていろいろ見て、いろいろ物色した。いろんないろいろを見て考えて、あいつはまだ俺じゃなくてぼくで、施設のころとおんなじ、何にも変わらないことがわかった。えっちな本なんてひとつもないじゃんか。僕もバカだ。
飽きもせず陽は落ちて街は朱。落とし穴ならちょっと紅色。あいつはひょっこり帰ってきて僕にハンバーグ弁当をくれた。やりい。ねぐらに戻ろうとすると引き留められる。なにさ、言うと、やつは身に付けていたちゃちな革の鞄をごそごそはじめる。そのあいだ訝しげにやつを睨め付けていたか、それともおべんと食べたさにねぐらをちらちら見やっていたか、その判別は僕には付かない。ただやつが「これ」と手渡してきたのは小さなコンビニのビニール袋で、それがなにかは僕にもわかった。
「舞、コインロッカーの期限忘れてたろう。無用心だなぁ。ほらこれ。入ってるんだからさ、ずっしり、お金が」
真上の方から数羽のカラスが鳴きながら飛来した。それは僕らの全財産が入ったコンビニ袋だった。
「さあほら」
僕は受け取った手できょとんとする。カラスの鳴き声がやかましく響いている。コインロッカーの期限を忘れてたことはやつの言う通り無用心だと思うし、反省するし、なんなら謝ったっていい。けど、なにがどうして持って帰ってくる必要があるのか。期限を覚えていてくれたなら、そのまま延長してくればいい。まさかそんな小銭がないとは思えないし、なんならこんな大金を一人で持ち出すなんて危なさすぎる。それも、こんな心許ないコンビニ袋一枚を……ハッと見りゃ、カラスたちはみんなして、たぶん虫かなんかを啄んでいた。まずはうっすらとした憤り、経由してさまざまな感情が降っては消える。
「そのまま、また仕舞ってくりゃよかったじゃんか」
結局、僕の吐いたセリフはごくシンプルなものだった。街は朱、落とし穴ならちょっと紅色。ビルの落とす影はやつの表情を隠さない。
「やだよ。そしたらずっと、オレの仕事になるじゃないか」
やつはさも当然のような顔をしてぬけぬけ言いはなつ。そして、街も当然みたいな顔をして夜になった。気付けばカラスたちも消えていた。
暗いねぐらに鎮座する大金入りのコンビニ袋は妙に恐ろしく、気が気でなくて仕方なかった。なんだか中身を検める気にもなれず、僕は座して腕を組んでは袋を睨んでいる。飽和する衣類の山、詰襟。布団代わり。どこかに埋もれた目覚まし時計すら、きっと寝息を立てている。静かな夜だと思う。
「……百万、ありそうだよ。どうしよう」
「どうしようって、舞? いいじゃない。なんだってできるわ。百万円よ、ひゃくまんえん! おいしいもの食べて、服も買って、それからそれからぁ……」
ブルーシートの扉を夜風が撫ぜる。不思議なほど、僕の心は凪いでいた。それこそ、しみったれた夜風みたいに。しっとりと。別に、このなかから二割引かれて、僕の取り分が減るのが嫌、とかそんなんじゃないし、そもそも百万稼いで終わり、とかそんな話でもない。僕はこれからだってこの生活を続けるつもりだ。
「なあに、舞ったら。シンミョーなかお。じゃあ、だったらさ。こんなとこ出ちゃって、安ホテルなり、ねっとかふぇ? なり。そーゆーとこで暮らすってのはどう? 便利ね、ぜったい!」
「だめだよそんなの。すぐ足がつく」
「足がつくって。なにも私たち悪いことしたわけじゃないじゃない。あ、舞はちょっとしてるんだったか。てへへ」
「とにかく、人の多いところはだめだ。とにかく決定、この話は保留!」
僕らはまだまだこの生活を続けていく。コンビニ袋の中の金がどこから来たものかなんて、ひとつひとつ正確に覚えちゃいない。この服の山にしてもそうだ。拾ったのもあれば、そうじゃないのもある。そして僕らに金やらなにやら奪われた者たちがどうしたのかなんて、考えたことは一度もないし、それはこれからだって変わらない。所詮、僕はあのカラスたちがどこへ行ったかも知らないのだから。
「ちょっといいかい?」
と、眠りかけていたら、やつがねぐらの外から呼んだ。面倒に感じつつも扉に手をかける。「ああいや!」と声がして、思わずかけた手を止める。
「そのままでいいから聞いてくれ。それで、二、三答えてくれればいい」
「なにさ、もう」
「じゃあひとつね。別に怒っちゃいないから、正直に答えて欲しいんだけども。その。君、オレのねぐら物色したろう?」
「した」
「ええと。そのときなにか、変なものみなかったよね? ボク自身、変なものがないことは知ってる。変なものってのはつまりええと……」
「みてない。なかったよ、そんなもんは」
ここまでこたえて、シートの向こうが沈黙する。なんだか要領を得ないし、眠たいし。とっとと眠りたいんだが、やつは一体どういうつもりなのだろう。
「……ああ! いや別に、謝って欲しいとかそういうわけじゃなくてさ。そのう。……タンスとか、ねぐらに。そういう変なものが無くてさ。舞。君は、オレのことどう思った?」
「別に。あんたらしいなって。当然だし……しょうがないし」
そう答えるとまた少し沈黙する。しかし今度は一寸しないうちに声がした。「ならよかった。それじゃあ」それから遠ざかる足音がして、代わりに静寂か睡魔か、どちらかがすばやく訪れて、僕は微睡む。あいつがオレになったのと同じように、私が僕になったのにも理由がある。
「いまさらじゃんか……そんなことって……」
「でも、でも……。おやすみ、里乃……」
僕はきっと、すやすやと、穏やかな寝息を立てて眠る。神様、かみさま……。
六人の子供達が、二列になって眠っている。部屋は暗いが、蛍光灯の燭光が淡く灯って、暖かな卵黄色が部屋に注いで、子供達の寝顔を照らしている。男女六人、その中には舞もいた。そして猫も。猫は隣の布団から、舞にこっそりと、耳打ちをするみたいにして喋りかけた。
「ねえ、起きてる?」
舞はその声でうっすら目を覚ましてしまい、本当は眠たがったが、猫のことが好きで、かわいかったから、しかたない、といったふうに返事をした。
「へへへ、やっぱり起きてた。舞、わたし眠れないの。ちょっとお喋りしちゃおう? ね、ね。いいでしょ?」
猫は普段話好きではなく、無口で、むしろ施設にはあまり馴染めていないような、そんな猫だった。けれど、猫は舞とだけはおしゃべりをできた。夜毎、舞にすてきな夢の話をしてくれた。舞は夢想家で、本当は愛想のいい猫のことが可愛くて、好きで、ほんのすこしだけうらやましかった。
「なんだかね、猫ちゃんはお姉ちゃんと似てるの」
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
「えっとねえ……」
舞が返答に困ってはにかむと、脳の一箇所でこれが夢であることに気付いた。そして同時に、もう一箇所で別の夢が始まる。おお神よ! 夜空に輝く星達の下、荒寥かつ人工的なあのハイウェイを走るのはトラック、ではなく! よもやバンではありませんか? 車種について詳しくないのです、白い車は全てトラックに見えてしまうのです。猫はお気に入りのかみさまの話を始める。
「そっかあ。でもね、かみさま! かみさまがいるもん。かみさまはさ、いつもわたしたちを見てくれてるんだよ。かみさまかみさま――ってお祈りしたら、なんだって叶っちゃうんだから。お母さんが言ってたから、これは絶対!」
トラックは走り続けて、高速を降ります。県道をひた走れば遠くには山が見えました。山の端の月は綺麗に欠けてちかちかと、色硝子のかけらのようでした。舞はこの話が大好きだった。かみさまの話をするときの、元気な猫のことが好きだったし、猫を見つけてくれたかみさまのことも大好きだった。
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
山の中腹でトラックは停止します。猫は毛並みを気に入られ、どこか遠くへ買われていきました。なにが起きたかと思い運転手が辺りを見渡すと、トラックはなんと狼の群れに囲まれているではありませんか。「逃げて!」と誰かが叫びまして、舞はやっとはにかみながらも、返事をすることができた。
「……えへへ、わかんない」
この夢は――
――まずい! 僕は飛び起きる。全身にかいた冷や汗なんて気にも留めずにねぐらを転がり出た。走って、小走りになってやつのねぐらに急ぐ。
「おい! ……おい!」
声をかけても返事がない。近づいて、ねぐらを引っ掻き回すようにしてやつを探した。やつはいなかった。本当は、僕は目がいい。だから近づくより前からやつがここにいないことなんてわかっていたのだ。でも、体はなにかに突き動かされて……そしてそのなにかは、いま僕の体からすっと、煙みたいに消えていく。僕は胃の冷たくなるほどの脱力感を、数分前までやつの寝ていたであろう寝具の上で噛み締めていた。あの夢のあとはいつも……ふ、と気がつく。ハッとした。寝具はまだ暖かい。数分前まで、やつはここにいた!
僕は夜の街を人目も気にせず走った。詰襟のまま、右手には例のコンビニ袋を引っ掴んで、それでもそのまま走り続けた。やつが落とし穴を出てどこへ行くかなんて知らない。ただなんとなく、人の多い方へ行けばやつはそこにいる気がした。臆病なくせに、いつも人の後ろをついていく。昔から、そんなやつだったから。
「ああ、くそ! ばか、ばかばかばか!」
こんなときは名前や愛称やなんかを大声で呼びながら探すのがきっと一般的なんだ。そう思うと、たちまち僕は悔しくなった。ムカついた! 僕はやつの名前を知らない。それはやつにしたってそうだ。やつも自分の名前を知らない。それがたまらなく悔しかった。施設で付けられた名前はあった。けれど、あいつはその名前で呼ばれるたびに微妙な顔をしたし、なにより、僕らは対等でありたかった。だから、ヨシオ、なんて名前は僕には呼べない、叫べない。本当は呼ぶべきだ、叫んで居所を捉えてとっとと引っ捕まえるべきなんだ。でもだけど、僕はそれをしないほど、できないほどにやつとは対等に、対等でいたくて、信じてたのに! 煙みたいに消えやがった! 八対二の、二も持たずに!
ならばいっそ、こんなもの捨ててしまおうか。そんなことを考えながら、僕は夜の街を走り続けた。ときおり、左肩とぶつかる右肩よりずっと、きっと他のどこかが痛かった。
雨が降り出した。冷たい雨で、真っ暗な夜。そんな夜の不思議な蒼さ……。僕はとっくに走るのをやめてただ歩いていた。側から見たなら恐らくはとぼとぼ歩いている。長いこと走っていたから、もう街は閑散として、住宅もまばらな、車線が四つくらいある工業地帯。広い車道に追いやられた、狭すぎる歩道のわきにはうっそうと背の高い草が生えまくってて、都度身体を横にしたり、屈んだり、避けながら歩くことを強いられる。もうとっくにずぶ濡れなのに、これを避ける意味はあるのだろうか。そんなことを考えている。ぽつり、ぽつりと通り過ぎるコンビニエンスストアには、どこも大きなトラックが止まっていて、店内から溢れる白い光はなんだか雨で滲んでぼやぼやだった。
気付けば行き止まりだった。大きな工場の大きな入り口の前に、バス停と街灯が寄り添うみたく、ぽつねんと佇んでいる。道路の舗装は剥げて、欠けて、どうしようもなくなおざりな感じ。ふと、施設で一緒だった女の子のことを思い出す。あの子はいつもはにかんでいて、よくわからなさそうでいて、口下手で、でも、神様を信じていた。神さまはいつもわたしを見ていてくれて、見ていなかったとしても、いずれわたしを見つけてくれる。そしたらあとは、いいことばっかり。だけど。――ふいに聞き馴染みのある声がした。この夜、こんな辺鄙な場所でその声に、僕は不思議と驚かなかった。
「だけど、あの子が引き取られていったのは、単に容姿が良かっただけだよ。ねえ、舞?」
そして、そのバス停に。雨避けもおざなりなそのバス停にやつはいた。丸い照明のやさしい灯りは、雨風を弾く屋根には足りえない。だけどやつは傘をさして、ベンチに腰をかけていた。「ねえ舞、かみさまなんてさ」やつが一方的に続けようとするから、僕は遮る。
「あんた、街から出てどうするつもりさ」
先日物色したタンスから出てきた求人誌にはなんぞわからん意味不明の下線や丸でマークされていて、落とし穴をいずれ出るつもりだということは、うっすらとわかっていたし、こいつが街を嫌っていることも、なんとなく知っていた。
「なにって。働くのさ。子供だろうが外人だろうが犯罪者だろうが、気にせず働かせてくれる田舎の町も、結構あるんだとさ」
「うまくいくわけないだろ」
やつの普段とまったく変わらない声色に、僕の声はすこし震えてしまったかもしれない。それか、冷たい雨に濡れたせい。或いはもっと別のなにかで、それが怒りなのかは何なのか、僕には判然としなかった。喉の奥が震えている。
「やれるわけない……やれるわけないだろ、あんたにそんな大層なこと! 何が働くだ何が田舎の町だ、ふざけんな! じゃあなんで……っ」
止まらない。やつは黙ってそっぽをみている。気に入らない、止まれない。
(じゃあなんで、金を持って行かなかった! お前がそうしたいなら、こんなもんぜんぶくれてやる! やるのにさあ!)
いつもの怒りとは違う、もっと弱いところが嘶くみたいにして、ぐらぐらとして、胸の奥から溢れるみたいに、言葉が止まらなかった。
「だいたい、出ていく必要がどこにある? あんたみたいな臆病なのろまが、ここを離れてうまくやれるとでも思ってんのか? バカ! そんなんだからお前はボクなんだ、いつまで経っても変われない、情けないボク、ボクボクボクボク! いつになったらわかるんだよ! お前は僕と違ってうまくやれないんだから、ここにいるしかないんだよ!」
やつはふいと一瞥して、やおら立ち上がりながらいう。「僕は君とは……」持ってた傘を乱暴に投げ捨てて、バス停の柱からガン! とすごい音がする。僕は怯んで、泣き出しそうになる。もうとっくに泣いていたかもわからない。とにかく雨は激しさを増していて、夜の冷たさも増していく。
「僕は君とは違う! 君に僕の何がわかる? なにが〝ボク〟だ! 僕は僕をやめてない! 僕はスカートなんて履いちゃいない! そんな詰襟ばかりを着て、僕に何も言ってくれるな!」
ハッとした。呆然とした。塞いだ穴の蓋がごとりと落ちて空漠になった。後方が明るく照らされる。ゴツゴツと、メリメリと地面が鳴っている。僕は呆然として、それがバスのヘッドライトであることも、タイヤが地を噛む音だとも気がつくことができなかった。バスが到着する。停止して、ドアが開く。おぼろげな頭、きっとやつは乗り込んだ。ドアの閉まる音がしない。「……君、乗るかい」ぶら下げたコンビニ袋ばかり、それがひどく心許なく思えてしまって、僕はきっとそればかりを……。ハッとする!
「八割! 八割をやるから! 僕は二割でいい、二割を僕が持ってるから! おまえ持っていけよ! 持っていってよぉ!」
僕が飴の掴み取りみたいにして差し出す右手に。やつはいつもの一瞥をして、それから寂しそうに笑った気がした。
「ごめん。いらないよ」
そう言って奥の席の方に離れていって、運転手さんはみかねて僕に尋ねる。僕は掴んだ飴の手をおろせずに、または中途半端におろしたままで、雨に濡れて、濡れているとそのうちに、ドアが閉じて……。
雨はとっくに通り過ぎて、空は夜明け前の薄青に晴れている。雲が少ない空はなんだかさっぱりとしていた。やつの乗ったあれは終バスで、僕はベンチに座って、始発を待っていた。体が軽いような、重いような。寒いような、なんでもないような。脱力感みたいなものだけあって、他にはたぶん何にもなかった。ふいと見上げる工場の窓はすべて灰色で、来た道の街路樹はしみったれてて、行き止まりには人ひとり通らなかった。今日は祝日かも。だから、工場のひとも来ないんだ。そんなことを考えた。夜はとっくに終わっていた。
空はだんだん白んできた。どこかでスズメたちが鳴き始める。それに合わせて遠くにカラス。椋鳥はいなさそう。そもそも。そもそも僕は、あまり昔のことは考えない。怖いことばかりだから、考えないようにしてる。
「まい、だいじょうぶ? 心配だな、わたし。寒くない? 疲れてるよね、眠たくない? でも。バス、もうすぐ来るからね? あとちょっとの辛抱だよ」
「さとの、あいつ行っちゃったよ。金も受け取らずにさ」
「大丈夫よ。あの子なら心配いらない。あの子がしっかりしてるの、舞がいちばん知ってるでしょ。それは受け取らなかったけど、しっかりお金持ってるわ。ちゃんとしてるんだもの、あの子って」
「ネコちゃんのときもそうだった。ネコちゃんは大好きなネコちゃんのストラップくれたのに、僕なにも渡せなくて……またなにも残んなかった」
「でも舞は、ネコちゃんのこと、ちゃんと覚えてる。あの子のこと忘れちゃう? ありえないよ。あの子も舞のこと忘れない。だから、だいじょうぶ!」
「……忘れないなんて、わかんないよ」
「忘れないわよ。少なくともあの子は。きっと舞もね。ふふ、だって舞も気付いてたくせに。あの子が、ちゃんと“男の子”だったってこと! ふふ、あはは! ね、ちょっと可笑しいでしょ」
バスを待っている。水たまりが夜明け前、白い朝に照らされて、工業地帯の風景を綺麗に反射している。それから僕も、あはは、と笑った。
ちょっと経って、バスが来る。ドアが開く。スロープに足をかけて、一瞬の間、振り返る。ベンチに置かれた大金入りのコンビニ袋と立て掛けられたやつの傘のバス停は、なかなかどうしてよく映えて、僕はバスに乗り込んだ。晴れた空のもと、バスは発車する。風景が車窓を滑っていく。不思議なほど穏やかな気分だった。水滴の残る窓に頬をつけてみれば、それほど冷たくはない。むしろあたたかいような感じがするのはきっと、どうしようもない、この眠気のおかげだろう。そんなふうに思う。
バスを降りて街を歩く。朝早いスーツたちとすれ違いながら、しらじらとした頭で考えていたのはシャワーのことだ。いつも近くの銭湯を使っていた。でも、例の大金はバス停に置き去りだし、いつも使うちょっとした小銭なんかはねぐらに置いてきてしまった。だから、なんにせよ一度帰らなきゃいけない。それでも考えるのはあたたかいシャワーのことだった。はやく帰ろう、帰って小銭を持って、シャワーを浴びて、帰って、とりあえず寝て、それから、それから……それから、僕はどうするのだろうか。
「これからも――これから、僕ら自由だね。ふたりきりでさぁ、もっと、ずっと、自由で、ふたりきりで……それってさ! しあわせだよね」
「そうね、そうだよ! あの子には悪いけど、わたしちょっと嬉しかったりして。だって、これからはいつでも好きな時にお喋りできるんだもんね」
僕ははにかんだ。喋っていると心がやおら軽くなっていく気がして、僕は帰るまでにたくさん口を動かした。それは本当にたのしくて、本来望んでいたのはこれからはじまる、ほんとうの、自由な、ふたりきりの生活だったのかもしれない。神さま、かみさま……ネコちゃんの云うかみさまは、たぶん僕を見つけてくれたのだろうと思った。落とし穴には若い警官が二人、待ち構えていた。
そして、僕の生活は終わった。警官ふたりは巡回中に不審な“住居らしきもの”をみつけて、物色中だったという話だ。警察署で、スーツをきたおっさん相手にいろいろ取り調べをされて、いろいろが曖昧に、いろいろが有耶無耶になって、僕は数日のあいだ、保護の名目で警察のお世話になった。いろいろがいろいろと軽傷で済んだのには、確かな大きな理由と不確かな小さな理由のふたつがあって、不確かなほうから云えば、バス停に置き去りにした大金だ。そして確かな理由は、僕の取り調べをしたスーツのおっさんの温情だと思う。あの数えきれない布団代わりの布切れたちは、順次持ち主のもとへ返還されてゆくらしい。
それから僕に養母さんができた。にべもなく開始された孤児に向けた自立援助は実に残酷に思えたが、実際のところなかなか悪くない。養母さんは気は弱いけどいいひとだし、なんたって僕は高校に通っているのだ。それも、セーラー服をはためかせて。なんとなく毛嫌いしてた地方都市にすぐ馴染めたのも、絶対に心を許すものかと考えていた養母さんに素直に感謝できるのも、くだらないと思っていた高校生活をなんだかんだ楽しくやれているのも、いちばんはあのスーツのおっさんのおかげだと思う。心はあんがい単純で、ひとのやさしさが心地いいものだと簡単に覚えてしまった。春はもうじきに終わり、季節は初夏だ。
「舞、おはよー。今日もはやいね~」
教室の窓から風が吹き抜けて、分厚いカーテンが揺れる。セーラー服もはたと揺れて、僕は笑う。
「あはは、おはよーっ!」
こんなふうに。
因数分解ができる。ローマ時代も知っている。僕は意外とベンキョーができた。意外と、というか、ふつーくらいには。高校の範囲に追いつくのにはちょっとの苦労だけで済んだ。四限の終わるチャイムが鳴れば、養母さんが作ってくれたお弁当を食べる。なんと、一緒に食べる友達だっているのだ。流行とか、たまについていけない話題はあるけど、みんな優しい。施設にいたころは集団生活なんて、あらゆるいじめやあらゆる暴行のトレード・ショー会場なのだと決めつけていたが、実態はもっとずっとふんわりふんわりとしていた。アカネが定期テストのたびにしょげるのは恒例で、みんなで面白可笑しく慰めるのも恒例だった。レイカが女子高の当然を不条理みたいに嘆くのも恒例で、ヒマリがよくわからないふわっとしたことを云えばみんな首を傾げてツッコんだりもする。
そう、このヒマリが奇遇も奇遇で、云わば僕の幼馴染にあたる存在だったのだ。ヒマリはあの“ネコちゃん”だった。ネコちゃんは編入してきた僕に気付くと「かみさま、かみさま!」と傍目にはへんな感嘆をあげて大喜びしてくれた。もちろん、僕はうれしかった。僕はネコちゃんが大好きだ。みんなにはばからず、僕だけはネコちゃんをネコちゃんと呼ぶ。呼んじゃう。好きだから。
部活はみんなばらばらで、アカネがバレー部、僕は家の都合で演劇部のユーレイ。ネコちゃんは意外にも陸上部、運動が得意なネコちゃんには驚いた。なんだか、イメージとちがうから。ネコちゃんはもっとこう、口下手で、なんというか……とにかく、それにはちょっとだけさみしかったりもする。そしてレイカがヨット部――ヨット部ってなんだ? 漕ぐのか? ヨットを。あるのか? 実態。――こんな具合だから、放課後や土日の予定が合わないことが多いけど、それでもタイミングを計ってよく集まった。
「えー舞ってば。今日もユーレイ? 見たいなー、舞がエンゲキしてるとこ。かっこいいのに。セイシュントハ、トカクオノレニー! って」
「してるじゃんか、バカに。しょうがないだろーバイトしなきゃいけないんだからさ。生活費もいれないとだしぃ……。でも、浮いた分で遊べるしさ! やっぱ同級生のみんなよりお金持ってるって、なんかユーエツ感あるよ。里乃とデートもいけるしさー!」
「デート! やーんたのしみ~。とかいって。舞がたのしいとこ連れてってくれた記憶、わたしないな~」
「いいじゃんか、山」
「いやよ、山」
週四日のコンビニ勤めは楽しいといったらうそになるけど、これもまたまた悪くない。高校近くのコンビニだから、同級生と鉢合わせて気恥ずかしいこともあるけど、働いて得たまっとうなお金は、なんだか誇らしい感じもする。養母さんは申し訳なさそうな顔をするけど、養母さんと僕、足りない分を補いあうのはなんだか自然で、不可思議なほどにとても自然で、とにかく素晴らしく素敵なことに思えるから、バイトをやめるつもりはない。やめたら実際立ち行かないし、結局やめらんないんだけど。
「もう。じゃあ今度の休みはどうなの。またネコちゃんたちと?」
「山行くよ、山!」
まあ、僕の生活はこんな感じ。ぜんぜんまったく悪くなくって、むしろけっこういい感じ、なのだ。
急に雨が降り出して、街は黒い雲で色調を落としている。傘を持っていない僕はバス停から往来を眺めていた。せわしない傘の群れが揺れてぶつかって。雨はすぐに小降りになって、一寸しないうち――あ、これ夢じゃん!――完全に止んだ。どうやら通り雨だったようだ。だけど、僕はなにかを待たないといけない気がして、ただ川のようなひとびとの流れを眺め続けていた。何を待っていたかといえば、きっとかみさまなんだろうと思う。急にぴしゃっと光って、通りから人が消え失せる。それはきっと雷だったから、空はまた泣き出すみたいに大粒の雨を降らした。ハッとして、僕はもうなにをも待たなくてもいいことに気が付く。濡れたっていいから、どこへでも行ってしまおう。そんな気が起きた。だけど、そのときにはなんだかもう気怠くて、むなしいような感じもして、かなしさみたいなものがおもりになって……。たぶん、傘を持っていたとしても、動けなかったんじゃないかと思う。
初めて見る夢だな、と思った。
スズメが鳴いている。カーテンの隙間から朝日が差し込んで、部屋の勉強机から扉までをぶった切って照らしている。ちょうど僕のおなかのあたりも陽射しでぶった切られているから、一瞬、ぞっとする。パジャマからはだけたおなかをさすって、上半分と下半分がちゃんと繋がっているのを確認して、ほっとした。僕の部屋は二階で、一階には養母さんがいるはずだけど、朝はパートにでてるから今は家に僕ひとり。なんだか楽しい夢をみたような、なんともいえない良い気分で階段を降りて、朝食のラップを剥がした。サンドイッチとおにぎり、トマトたまごレタス梅干しコメパンノリ。ぜんぶおいしいし、ぜんぶ好きだ。おいしいから。
「里乃、今日山いくよ、山」
「げ、またいくの~? 山つまんないよぅ。ネコちゃんたちと遊べばいいのに、せっかくの土曜なのに。山とか言って、けっきょく登んないじゃん、山にぃ」
ネコちゃんたちは今日、みんなで集まって街に行くらしい。このところは毎週で、僕も都度付き合ってきたけど、今回はパスした。たまには一人でゆっくりのんびりしたいときがある。
「そんなのさ、僕は誰だってそうだと思うな」
「知らなーい。着いていくけど、つまんないんだからね、わたしぃ」
それにしても、みんなは休みのたびに街、街って繰り言にして、節操なしでバスに乗って行ってしまう。みんなで行けば楽しいけど、正直、あんな街のどこがいいのか、今じゃさっぱりわからない。人は多いし、車も多い。イヤな思い出だってたくさんだ。それこそ、みんなで遊びに行くとか、楽しい理由がなきゃ近づきたくもない。それにせっかくこんな地方にいるんだから、休みの日はそれらしく振る舞うべきなのだ。山に行くのだ、僕は。明日も、今日も。
車の一台が通り抜ける。青いミニバンだった。
「つくば400、み6046」
「げー。変な癖。でも珍しいの、つくばナンバー。ここらへんみんな水戸なのに。観光……? あっちいっても見るものないじゃん、変なの」
僕はバス停のベンチに座ってそこらを眺めていた。褪せた歩道橋の手すりに鳩が止まっている。街路樹は等間隔で葉をつけて、地面は“無駄に”小奇麗なタイルで舗装されている。今日の雲はまばら、空の色は青。もはや見慣れた風景だ。見飽きたといってもいい。もちろんこんなものを見るためにベンチに座っているわけじゃない。なにかって、無論バスを待ってる。もう来てもいいはずなのに、三分くらい遅れてる。僕はのんびりする予定だけど、運転手さんがのんびりするのはなんか違う。ちょっとだけイラっとする。でも、のんびりするはずなのにイラっとするのもなんか違う。だから苛立ちは抑えて、僕は努めてのんびりするのだ。それも、なんか違うかも。
「練馬334、む99の8」
「それいつ見たやつ? きもちわるぅ」
二分待って、バスが到着した。バスのナンバーはみない。主義だ。
バスは山の麓で停車する。230円を払って降車して、そのままそのバス停のベンチに座る。来たのだ、山に……。――意識の明滅を世界と呼ぶなら日暮れは世界の終わりであって、微睡みは再生で、始まりは土曜の晴れた日で――ああ! ポエットになってしまう! 大満足だった。僕は休日、この山の麓のバス停でぼんやりとする時間を愛していた。見渡す限り雑木林、なおざりにされた舗装路、濃すぎず、また薄すぎない、草木の匂い……。次のバスは四時間後、日に三度の運行。ウケる。ただ、そのド田舎がありがたい。だって、四時間も座っていられるんだから。
「まーいー? 来て早々ぼーっとする。いちおーデートなんでしょ? お喋りしてよ、お喋りー」
「いいじゃんか。ぼーっとしようよ、のんびりと。ふたりきりで、ぼーっとさ」
本当は、これがうれしかった。ここに来ると里乃が“自分から”喋ってくれるから。薄々、里乃は僕の作り出したまぼろしなんじゃないかと思っていたけど、そうじゃないらしい。みんなには見えてないけど、みんなとは話せないけど、里乃はちゃんと僕の隣にいてくれる。僕にはそれがたまらなくうれしくて、これだけで、もう死んだっていいやと思えた。
「そんなこと言って。ほっといたらそのうち昔のこと考え始めて、思い出してハッとして、ぞっとして、アンニュイになって、今のこと考えてほっとして、また思い出してハッとしてぞっとしてほっとして! 繰り返すだけのくせに~」
「そんなことないよ。……ちょっとあるけど。でも、里乃と話してるとたのしいよ」
里乃は訝しむみたいに笑って、僕に問いかける。
「ほんとにぃ?」
そんなシンプルな言葉だけで、僕は本当に満たされた気持ちになって、幸せすぎて、幸せが余って、本当に、死んじゃいそうになる。もちろん会話が続かない日だってあるけど、人と人なら、そんなことはあって当たり前で、そんな当たり前が僕には本当にうれしかった。ただほんのすこし、ほんのすこしだけ泣きたくなる。
「ほんと、ほんとだよ。里乃ってば、僕のこと疑うんだ? ふーん、里乃がそういう態度なんだったら、僕……」
里乃の気を引ける言葉が出てこない。里乃は僕と一緒に学校へ行く。里乃は僕と一緒にご飯を食べる。里乃は僕と一緒にお喋りをする。僕と一緒にいないときの里乃のことを、僕はひとつも知らないのだ。
「こら! またぞっとしてるでしょ、アンニュイしちゃってるんでしょ。もー。わかってるよ、舞がわたしに嘘つかないなんてこと」
「えへへ」
風が吹いて、草木の匂いが纏わりつく。山の麓とはいえ、雑木林から吹き抜ける風はやっぱりどこか陰があるような感じがした。僕は取り繕う。風も草木のざわざわもすぐにやむ。
「ねえねえねえ! 里乃、里乃はさ! ……デート、どこでも好きなところいけるとしたら。ねえ、どこに行きたい? どこでも行けるよ、本当にどこでも、いつだって行けるんだから!」
「げー、変なまいー。張り切っちゃって……。でも、そうだなあ……」
里乃は真剣に悩んでしばしうなる。風は吹かない。一瞬前となんら変わらないはずの静けさは、なにかの怪物のように膨張して、僕らのあいだを支配する。
「……遊園地、行きたいなぁ」
「今度行こうよ」
また、一秒に満たない静寂が僕にのしかかる。怪物だってかみさまだってなんだっていいから、一秒よりもっとずっとはやく、このなにかから僕を解放してはくれないか。そんなふうを考えている僕を助けてくれるのはいつも里乃だ。いまに里乃は悪戯みたいに笑って僕を……。
「……ふふん。うそつきー」
そして、嘘みたいな風が僕の頬を滑っていく。僕は笑う。セーラー服がはためいた、あのときとおんなじようにして。
あと三時間と四十六分。いっそ世界中のバスぜんぶがみんな事故っちゃえばいい。そしたらきっと二週間くらい、僕らはここから動けない。二週間もあれば、僕らは否応なしにどうにかなる。楽しかろうがなんだろうが、きっとそれ以外にはなんにもならなくなるだろうから。そうでなきゃ隕石でも降ってみんな消えてしまえばいいんだ。里乃に嘘をつかせるこんな世界なら、いっそ無くなってしまえばいいんだ! ああ。……だけど、だけど。
行きたいなぁ。遊園地……。
――だいいちここじゃなきゃいけないわけ? 人のいない場所なんてたくさんあるし、ここ虫いっぱいでやだよ、わたし。登るっていうなら、わかるけどさー? 舞いっぺんも登ったことないし、登ろうともしないし、わかんないなあ。舞の言うところの、イミフメー、ってやつね。あはは! でもさでもさ、きっと登ればたのしいよ? つまんない神社とかあるよ。さびれた展望台もあるし、それだってきっとつまんなくて、ここでじっとしてるより面白いよ。そうだ! 面白いといえば昨日のドラマよね。とにかく明るい殺人事件! 舞、あれちゃんと見てた? 主役の女の子の演技がすごくよかったんだから、まだ子供なのに、舞よりうんと演技上手で……ふふ、あはは! コノヨノカンセツガァ、ハズレテイルゥ! あははは! 舞ってば、ほんとに演技へたっぴよね。思い出すだけで、ふふ、あはは! うぅ、可笑しいよぅ。わたしが思うに、舞はね。もっと感情移入すべきなのよ。読むべきなのよ、本を。台本じゃなくて。そもそも台本だけ読んで、練習とはいえ、自信満々で舞台に上がって……ふふふ、あははは! 舞ってほんと、お調子者よね。わたし好きだな、舞のそういうところ。でもね! 幽霊部員とはいえ、わたしはやっぱりもっとちゃんとすべきだと思うのよ! おはよー、わっ幽霊が出た! ハムレットやるよー、わっ幽霊が舞台に立った! 大衆というやつは、理性で判断するということを知らない。ただ目に見えるところだけで好悪を決めるのだ。ビシィ! 決まったー! 幽霊が決めたー! 部員総立ちで拍手、ひゅーひゅーぱちぱち。それから喝采、うおおお! 常ならざる盛り上がりに全人類が体育館に引き寄せられた! 喝采を超える大喝采はもはや震災で、みんな飛んで跳ねてするから、地震が起こっちゃうの。震度3がなんども! ね、ね。幽霊部員なのにふらっと出没して、そのくらい上手にキメられたらかっこいいと思わない? あ、そうそうかっこいいといえば――
おつかれっした、をきわめて元気よく発音してコンビニを出る。最近、自動ドアの機嫌が悪いのか、僕が近づいても開かないときがある。店長が云うには、なんかそーゆーひといるよね、といった感じらしい。ならば今日の僕は別人なのだろうか、自動ドアは難なく開いた。店長はちょこちょこ変なとこがあって、僕はよく笑わせられてしまう。そう簡単に人が変わってたまるものか。やっぱり単に胸三寸、自動ドアの機嫌次第というわけだ。今日のドアは上機嫌。ふふん。かくいう僕も、ちょこちょこ変だ。こと修学旅行の班決め以降。僕はきたるネコちゃんたちとのあばんちゅーるに胸を膨らませてしまっている。なんてったって沖縄だった。ともすれば自動ドア、やつも旅行に行くのかも。
「ねえねえ里乃、いま僕、機嫌よさそうでしょ?」
「はいはい。最近そればっかりねー」
地方都市の夜道といえばホラー映画みたいな間隔の街頭で、街頭といえばやっぱり羽虫、羽虫は爆ぜる! ぱち、ぱち、ぱち。横目に僕の足取りは軽やかだ。スキップなんかをやってしまう。傍目じゃ残酷趣味だけど、僕には鮮やかな青春を彩る華々しい演出効果なのだ。夏の暑さもなんのその、制汗スプレーにモノをいわせて、流れる汗には有無を言わさず、僕は帰途を辿っている。
「アハハ! 実はボク、沖縄にいくんダ! たのしみだナー」
「うええ、僕のセリフ取んないでよう」
どれだけ同じような日々を繰り返しても、修学旅行は迫ってくる。それが今の僕には最高だった。なんだって、なんどだって繰り返してやったろうというものなのだ。知らん家の明るい窓にピースしちゃったりなんかして。ぶい。ちょっと反省。カーテンを閉められる。これはもうやんない。
もういくつ寝るとお正月、みたいなフィーリングがあって、僕はお正月と聞いてもあまりわくわくしないけど、それでもクリスマスやらなにやら、世間におめでたいムードが流れていたら僕もやはりそわそわとする。とにかく僕はそんなフィーリングで来る修学旅行を待っていたのだが、なんと事件があった。これが事件も事件、大事件で、なんと沖縄へは三年生にならないと行けないらしい。京都、沖縄、韓国とどこへ行きたいかの投票がクラスで行われたのだが、僕はそれを今年度の修学旅行先と勘違いした。その後に行われた班決めというのは、近場の広い国営の、しょうもない海浜公園に行くための手続きだったというわけだ。僕はがっかりした。しょんぼりした。どんよりとした。その公園にはしょうもない花畑のいくつかが点在しているという話で、僕らはそれを写生して、ほどほどに“みずあそびのひろば”なぞで足を濡らすという段取りになっている。ちっとも心が動かない。実際、養母さんとのやり取りのなかで発覚した沖縄消失の事実は僕を放心させて、それからは食事の味もわからなくなっている。養母さんの作るご飯はおいしいし、気弱なあのひとだから僕は都度おいしいを言葉にして表明していた。それが僕と養母さんのなかで執り行われる一種儀式的な心の交流だったのだ。しかし、僕は養母さんの「おいしい?」に沈黙のほかを返せなくなっている。養母さんも沈黙して、この家の雰囲気は最近なんだかくらーい感じだ。僕のせいなのだろうか? いや、毎月のバイト代から積み立て? のなんたらを半年ものあいだ学校へ収め続けてきた僕に、沖縄を期待するなと言う方が愚かなのだ。それとも、飛行機に乗るのってそんなにお高くつくのだろうか。こんなことならあの百万……。
「バカねえ。……舞、舞ってば。もう。いいじゃない沖縄じゃなくても、どうせ三年になればいけるんだしさ。それに、しょーもない公園だって、きっとなにもしないよりずっと面白いって」
「でも、でも行きたかったよ、沖縄……」
「いつまでもぐちぐち言わなーい。わたし好きよ、お花とか、そーゆーの。舞が写生してるとこ、ずっと見ててあげちゃう」
「なさそうじゃんか、興味ぃ……」
ご飯~……と、一階から自信なさげな声が響く。僕の部屋は二階にあるから、養母さんはいつもこんなふうな、申し訳ない感じで僕を呼ぶ。養母さんは立派で、やさしいひとだし、ご飯はおいしい。ひとりのさみしさを紛らすために僕を引き取ったのだとしても、それに関して、僕はまったく、当然許されるべきことだと思う。だから、一階から香ってくるおいしそうな匂いの数々に、僕は今日こそおいしいと言おう。そんなことを考えつつも、やはり脳裏に浮かぶ椰子の木やら白い砂浜にはため息をつかされた。
「バカねえ……」
なんだか自嘲気味な感じで、言った。
寝る前に聞こえていた、どしん、どしんという足音が、沖縄ではなくしょーもな海浜公園のものと気付いた時にはもう手遅れ。それはもはや眼前に立ちはだかっていた。にべもなく朝食やら準備を済ませて家を出た僕に、虫の知らせというか、遅れて来た英雄というか、とにかくそんな感じのうれしい事実のふたつが舞い降りた。ひとつは、せいぜい絵なぞ描いて足なぞ濡らして終了、と思っていたこの修学旅行は、案外それで終わりではなかった。さびれた旅館ではあるが、なんとわざわざ一泊をして帰るらしい。あるじゃん、あばんちゅーる! そのときめきは朝礼のときに訪れて、そしてもうひとつが、ときめきを超え、もはや衝動的かつ壊滅的なわくわくを僕に与えたのである。しょーもな海浜公園にはちょっとしたジェットコースターと、ちょっとした観覧車が設置されていた! 僕がそれに気付いたのはしょーもな花畑の写生中のときだった。居ても立っても居られない、今すぐにカンバスやら筆ほっぽり出して駆けだしたい。そう思っているのが、今現在なのである。僕は隣のネコちゃんに声をかけた。
「ネコちゃん、ネコちゃんさ。悪いんだけども。僕ね、アレにどうしても乗りたいんだけども。センセの目を掻い潜ってあそこまで行くのに、なにかいい考えとか、そういうの……」
「えー? なにも、ふつーに行ってくればいいと思うな。なんかこう……ふつ~~~~~にして」
いつもかみさまがみてくれていると、そう信じてやまないネコちゃんにはかみさま以外の視線なぞ取るに足らないもののようだった。それとも、ネコちゃんの云う、ふつーな奇跡的行軍も、かみさまがみていてくれて……とか、そういう安心に担保された考えなのだろうか。わからないが、僕はネコちゃんが好きだし、遊園地めくアレらにも乗りたいしで、結局ネコちゃんの云うように、ふつーにいってみることにした。
筆やらをすべて地に置いて、すくと立ち上がる。「写生おわるまで戻んなかったら、わたしが持っておくからね」とさも当然のようにネコちゃんが言う。僕は歩き出す。ちら、とセンセの方をみやれば、ばっちりと目が合ってしまう。――熊と遭遇したら視線を離さずに、そのままゆっくり後退すべし――どこで読んだか僕はその通りにした。センセは警戒したまなざしで僕をじっと見据えていたが、自然と視線が切れるくらい距離が離れるまで、追ってくることはなかった。僕のせいであのセンセにはきっと不名誉なあだ名がついてしまう、古谷の“古”は新しく“熊”とかになるのだろう。だって、僕とセンセの動向を、しょーもな写生大会中のみなが見ないなんてこと、ありえない。とにかく僕はみんなの輪から抜け出せた。やおら、心が踊りはじめた。テンポといえば、なんだろう。ラテン系の、それだった。
里乃、里乃! 券売機でチケットを二枚買って観覧車に乗り込む。なんだか不安になる駆動音を上げて、観覧車はぐんと動き始めた。
「里乃、観覧車だよ、観覧車! ねえ、初めて乗るね、こういうの! なんだかさ、僕って高いところ、怖いかもしれない! だっていまからドキドキしてるんだ」
「ワクワクしてるだけじゃないの。いやよ、上まで行って過呼吸、なんて。わたし助けらんないんだから。緊急のボタンとかきっと、パニックになって押せないんだからね」
観覧車が上り始める。まだ低いとこにいるのに、風だか何だか、けっこう大きく揺れるからちょっとこわい。だけどそれ以上に僕はうれしかった! 里乃と、一緒に観覧車に乗れること。握り込んだ一枚が手汗でじんわりと湿ってハッとする。やっぱり高いところは怖いかもしれなかった。
「……ふふん。ゾッとしてる?」
「してないし!」
さらにぎゅっと握りこむ。一枚はもう手の中で、ぐちゃぐちゃの丸まった何かになった。そんなことより景色を、と窓を見る。窓から見える風景には、がん! と頭を小突かれたような感じがした。
「ちゅ、駐車場じゃんか……めちゃくちゃ広い、駐車場しか見えないじゃんか!」
「ま、まあ。もっと上までいけば、わかんないわよ。だって観覧車よ。なにかを観覧するための車なんだから、もっと、あるよ。なんか、きっと!」
「……車を観覧する車かもしれないじゃんか!」
「し、しらなーい。わたしに怒んないでよぅ」
観覧車が高く上れば上るほど、僕の心はさいてーだった。僕の高所恐怖症は明確なものとなり、窓から見えるのは広い駐車場と、その向こうは県道のだだっ広い車線と、そこを走るしょぼい車の数台のみ。そしてなによりいちばんひどいのはその先の遥か遠く、目を凝らすとやっと見えるアレだった。
「ゆ、遊園地! 遠くに豪華な遊園地が見える!」
「……な、なんなのこの、観覧車!」
遠くに見える豪華な遊園地はきっと夢の国ではないのだろうけれど、いまこの状況下においてあの豪華さは十分に夢の国足り得るソレっぽさだった。なにより僕の心はさいてーで、さいてーの心で望む景観なんてものはいつだって、輝いて見えてしまう。それ以降は閉口して観覧車が下るのを待った。出口を出てみんなのところ――しょーもな花畑、バラ園――に戻ると、そこには僕の画材道具が打ち捨てられているのだった。ネコちゃんにはそういうところがある。悪気がないことだけを知ってる。でも、かみさまはみてるはず。なのだった。
「でも、楽しかったわ。だって舞が可笑しいんだもん」
「いいよ、もう。今度はちゃんとした遊園地に行こう」
近くにあったゴミ箱に紙屑を投げ捨てて、そんな約束をした。
夜になれば僕も里乃が言ったように、あの観覧車の忸怩たる記憶は、やおら楽しいものへと変容しつつあった。結局、僕は里乃と観覧車に乗った。それだけで、夢の遊園地に近づけたような気もしたし、実際約束だってしたのだから。あの観覧車の近くにあったジェットコースターに乗らなかったのはいろいろ理由があるけど、いちばんの理由は僕の高所恐怖症だった。ゆっくり上って下るだけの観覧車が恐ろしいのに、高速でアップダウンを繰り返されたら僕はきっと水揚げされた蟹になる。泡を吹くのだ。無様に。そもそも上って下る、アップダウンの繰り返しはなんだか不幸な感じ。上ったら上りっぱなしでいいし、下ったら下りっぱなしがいい。初めから上りも下りもしないのなら、結局それがいちばんなのではないかとも思う。けど、実際は上ったら下るし、下ったら上る。どっちかの上りは下りとはよく云ったもので、最悪なのはこの夜だった。
しょーもな海浜公園を抜ければ僕ら含め学童一行は旅館に向かった。きっと学生には旅館なんて新鮮すぎるし、僕ならみんなの数倍はしゃいでいたと思う。HRめいた高説を聞き流せばご飯までの自由時間に、みんなでお風呂に入ったり卓球――あるんだ、実際!――をしたりして、とにかくもう楽しかった。ご飯のとき、いつも小食なアカネが例のごとく「もうおなかいっぱい」を口にすれば、レイカは「こんなときくらい!」と唇を尖らせた。ネコちゃんはそんなやり取りをなんだかわからなさそうに笑っていたし、僕もなんだか幸せだった。そしてご飯が終われば消灯までトランプだのいろいろをして、消灯時間がくれば、たぶんお決まりであろうのお喋りが始まった。その、お喋りがまずかった。
アカネの好きな男子が他校にいるとか、それに対するレイカのやけに斜め上からの助言とか、そういうのはよかった。僕もネコちゃんもはにかんで、それでなんとなく楽しかったし、幸せだった。夜が更けて来たころ、二転三転していた話題は“それぞれのいちばんの秘密を打ち明けよう”というもので、アカネは自分が鎖骨フェチだとカミングアウトするなりバっと布団をかぶってそのまま眠ってしまった。アカネのどうでもいい秘密を詰っているうちに、レイカもうとうとと寝息を立て始める。ふたりだけになった僕とネコちゃんはちょっとだけ気まずいような感じがして、それでも、施設からの奇縁を思えばどこかうれしくて、夜にしあわせのもやがかかっているような、そんな気分だった。
内緒話、というだけで興奮して眼が冴えている様子のネコちゃんは「おしえてよう、おしえてよう」と繰り言にして、僕も悪い気はしなかったけど、聞いてくるばかりのネコちゃんにいじわるがしたくなって「ネコちゃんがさきにいってくれたら、僕も言おうかな」なんて。そんなことを言った。すると、ネコちゃんはううんと悩んだわりに、案外すんなりと口を開いた。ネコちゃんは、どうも女の子が好きらしかった。こういう性に関することを打ち明けるというのは、なかなか大変なことだと思う。アカネみたいなどうでもいい秘密じゃなくて、ほんとうに秘密と云える秘密を話されてしまったら、僕も誠実に応えなきゃいけないと思った。でも、僕がそれをネコちゃんに喋ってしまったのは、それ以外にもいろいろ理由がある。夜にかかったしあわせなもやと、初めての旅館や初めての内緒話でふわふわしていた気持ちと、眠気とか。あとはやっぱり、僕はネコちゃんが大好きだったから。
「僕ね、その。実は、ネコちゃん以外にも親友がいるんだ。親友というか……」
「……里乃っていうんだ、いつも一緒にいてくれる。みんなとはお喋りできないけど、いまだって居るんだよ」
ネコちゃんは「すてき!」と夢をみるみたいな笑顔で言った。でも。僕はとんでもない失敗をしでかしたような気がして、絶対に後悔する確信があって……。そのあと、ネコちゃんがすーすーと寝息を立て始めたあと、案の定、激しい後悔が僕を苛んだ。ネコちゃんがいると里乃とうまくお喋りができないような気がした。ネコちゃんがいない場所でもきっとそれはおんなじで、ネコちゃんがいる限り、きっと、僕と里乃はぎこちなくなってしまう。根拠がないし、半ば異常な感情だとはわかっていたけど。
だけど。その夜に、僕はネコちゃんを殺すことを考え始めた。
――かみさまかみさま、どうかわたしをみつけてください。私をこのよのつかいものにしてください。そしてわたしをゆるしてください。いまのわたしを――
これも夢。そしていつか見た夢でもあり、夢のなかで聞くこの言葉は、いつだって、僕のものじゃなかった。この言葉を聞くとき、僕はいつも微睡んで……。
スズメが鳴いている。カーテンの隙間から朝日が差し込んで、部屋の勉強机から扉までをぶった切って照らしている。ちょうど僕のおなかのあたりも陽射しでぶった切られているから、一瞬、ぞっとする。
「うう、さとの。切れてない? ぼくのおなか……」
パジャマからはだけたおなかをさすって、上半分と下半分がちゃんと繋がっているのを確認して、ほっとした。
「そっか、よかった……」
いつもの朝だ。
ご飯~……と、一階から自信なさげな声が響く。僕の部屋は二階にあるから、僕はのたのたと起き上がって一階に降りる。今日は平日だから、養母さんと一緒にご飯を食べる。だけど祝日だから、なんと、みんなと遊びに行けちゃうのだ。おはようっていうと、おはようっていう。それは独り言と似ているかも。そんなことを考えながら、食卓について、いただきますも発音する。
「……ねえ舞ちゃん、おいしい?」
「もー。おいしいってば!」
「そう……? だって、舞ちゃんいつも半分くらい残すんだもん……。そんなの、おかあさん不安になっちゃう……。最近はぁ、ちゃんと食べてくれるしぃ……うれしいけど、やっぱりふあーん……」
「もー。おいしいってばー!」
だ、もんである。養母さんが一人になっちゃったのも、きっとここら辺のやり取りのなかに原因がある気がしてならない。だけど本当に、ご飯はおいしい。水味噌米卵油塩魚胡麻草、ぜんぶすきだ。
「それで、今日のことなんだけど……。まいちゃんほんとにだいじょうぶ……? 友達と一緒っていっても、子供だけでキャンプなんて……。夏場なんて、夜、怖いひとしかいないのにぃ……。おかあさん、やっぱりふあーん……」
「もー! ……大丈夫だよ。ぜったい!」
そう、僕は今日みんなとキャンプに行く。夏だから、人気のない川辺でテントなんか張っちゃったりする予定。花火なんかもやる予定。夜が更けたらお喋りメインの川釣りなんかもする予定。アカネは上機嫌も上機嫌のノリノリでOKしてくれたし、レイカなんかはヨット部らしく川に自信アリのふうでいた。もちろんネコちゃんならいちばんに喜んで、行く前から目をきらきら輝かせて、はしゃいでたりなんかして。乗り気じゃないのは、きっと誘った僕だけだろう。食べ終わればごちそうさまを発音してさっそく準備。キャンプ道具の一式を大きなカバンに詰め込んで、それから、いってきますを発音した。
キャンプ場ってわけじゃない。例の山の麓、雑木林をすこしかき分ければその川辺はある。草木はうっそうとしているが夏の陽射しはしたたかで、生い茂る草葉なぞ知ったことではないと言いたげに照って、川面はぎらぎらと輝いていた。岩場に流れが当たって、ちいさく飛沫がはじけている。僕らはそんな川辺をキャンプ地として、一日、明日の朝までを過ごす予定だ。
レイカは僕が到着するより先に到着していて、待たされた、と言わんばかりに低血圧ふうの態度でおはようと言う。
「おはよーっ! はやいね。そんなにたのしみだったんだ? キャンプ!」
「……別に。あんたたちが無茶なことして、水難事故みたいなことになったらいやだから、はやめに来ただけ」
レイカはいつもこんな調子だけど、なんだかんだ、こういう行事が好きなことを僕は知ってる。なんならキャンプ用のちんまい椅子にいちばん高いお金を払っていたのはレイカだ。その椅子に座っているのをにやにや眺めていると、レイカはふう、と格好つけて口を開く。
「幸い、今日は雨は降らないらしいから。まあ、よっぽどのことがない限りは安心ね」
通り雨がくるよ。里乃が言った。
黒い長髪を手でかき分けながら、ふう、と吐く。僕はレイカのこういった、わかりやすいところが好きだった。実際頭もいいし、頼りになる。こういう頼りになる人間がいると、もしものときには最善を尽くせるから好い。もしものときなんてないのがいちばんだけど、あるときにはあるものだから。そんなもしもにぼけっとしてたら、人間を疑われてしまうのだ。それはきっと誰だって、疑うに違いない。地面はごつごつとした大きめの砂利で、レイカはその上に置いていた大きなカバンを指して、僕に言う。
「もう設営しちゃいましょうよ。のたのたやってきた二人が完成したテントを見る……きっと驚くわね、ふたりとも!」
折半で買ったでっかいテントを持ってくる役を引き受けたのには、こういうわけがあったのか。僕は納得しながら快く頷いて、レイカとテントの設営をした。これがなかなか、むずかしかった!
テントが完成してから、僕らはしばらく椅子に座って――僕のはレイカのと違って、いちばん安くてちゃっちいの――コーヒーなんかを沸かして、ゆっくりしていた。アカネとネコちゃんはかなりの遅刻なのだけど、僕らは織り込み済みで光る川面を眺めながら苦いだけのそれを啜っていた。アカネの方向感覚にはかなりの問題があった。未だに音楽室にたどり着けないこともあるし、しょーもな海浜公園では僕とは関係なしに“居なかった”。右と左の違いもわからないことがあるらしいが、だからといって利き手と逆で箸を使っていたら、不思議に思わないものなのだろうか。まあ、それを補うべくアカネを連行する役としてネコちゃんが抜擢されたわけだけど、そもそもネコちゃんだってふらふらしているから、到着するのはちょうどお昼時だろうと、僕らはそんなことを話しながら苦笑した。実際、アカネとネコちゃんがやってきたのはお昼時・ジャストだった。
僕は風景をみるのが好きらしい。薄々自覚はあったけど、実際指摘されるとなんだか面映ゆい感じがする。風が吹いて草木がざわざわすると、川面はきらきらと輝く。そうでなくても、岩場に当たってはじける飛沫はでていなくても虹の出てる感じがする。川の底でぼんやりとある影が石か魚かはたまた水草か、じっと考え込んだりもするし、そうして疲れたら空を見上げて、あお、と思ったりもする。そんなんだから、僕はレイカは当然として、アカネにも、あのぼんやりのネコちゃんにさえ「またぼんやり!」と笑われたりしてしまう。気恥ずかしいけど、楽しい時間だ。お昼時。僕らはこれから、バーベキューなんかをしちゃったりしてる。僕は米炊きを任されていて、さあ炊こう、という時すでに、アカネとネコちゃんは肉を焼き始めるから、なんだかなあ、という感じがして、僕は笑う。みんなで食べるバーベキューは、ご飯なんかなくたって大満足のおいしさだった。
ご飯を食べ終わるとアカネが重大なことに気付いた。
「忘れてたね。飲み物買ってくるのを、さ!」
レイカはため息を吐く。ネコちゃんは笑う。照れ隠しのアカネの口調はたしかに変で、僕もなんだか笑ってしまった。
「川の水を煮沸すれば問題ないわ」
通り雨が来るよ! 里乃が言った。
「そんな。温めなくても飲めちゃうよ。だって川きらきらしてるもん。きれいだし、だいじょうぶ……ぜったい
!」
ネコちゃんが根拠のない自信を込めて言った。飲み物の買い出しを任命されていたアカネは生来っぽい楽観に徹して「だいじょぶだいじょぶ~」なんて、ネコちゃんに同調している。問題ない、大丈夫、だいじょうぶ……その都度、里乃は叫んだ。
通り雨が来るよ!
そんなのやだな、と思った。この楽しい時間が通り雨のひとつ来て、どんと流されてしまったら、僕はかなしくて死んでしまうかもしれない。でもそれ以上にいやなことがあって……。そう、僕はまたぼんやりしていた。ちゃっちい椅子に座って。レイカとほかふたりが水問題について甲論乙駁しているのが、すべてきゃっきゃと変換される程度にはぼんやりとしていたのだ。草木のあいだから狭い青空が覗いている。ちいさい雲は肥えていて、雨なんて一粒降りそうになかった。かみさま。ぼんやりとしているとき、僕はきっとかみさまのことを考えている。草木の匂いが混ざった風が、僕の頬を滑っていく。「ほら、こうやって……」ネコちゃんが川から直に水を汲んでいる。「あはは。溢し放題。湯水が如し」アカネがなんか云う。「バカ……バカ!」レイカが怒る……。ハッとした。まるで、天啓みたいに。
そうだ。
僕が眺めていたのは風景なのだ。
こんな単純なことに気付かないなんて、僕はなんて……。
「さとの。僕ってやっぱり、あんまし頭よくないよ」
「なにさいまさら。でもかわいいよ。舞ってば」
えへへ。と、僕は笑う。風景を眺めながら。
僕らは夜にカレーを作って、煮沸したお湯でコーヒーを飲んでお喋りをして、それからみんなで持ち寄った花火をやった。レイカはふつうの、いろいろな種類が入った980円くらいのバラエティセットを買ってきて、ネコちゃんは置くタイプの派手なやつ、アカネは飲み物を買い忘れたくせにロケット花火をごまんと持ってきていた。一通り遊んで、最後に残った線香花火をやることになる。
「じゃあさじゃあさ、せーのでつけようね。そんで、誰がいちばん長く持つか、勝負するんよ」
そういったのはたぶんアカネ。
「いやよ。こういうのって風情が大事なのよ、風情が」
こういったのはたぶんレイカ。
「えー。おもしろそうだけどなぁ!」
これはきっとネコちゃん。
「僕は賛成かも。でも勝負じゃなくても、みんなでやればどうせ楽しいよ。ぜったい!」
これが僕。
それぞれがそれぞれを風から守るみたいにして、くるりと四人輪になった。ぱち、ぱち、と火のついた瞬間、アカネだけ火種を落っことして、もう一本に着火しようと慌てていた。アカネのもう一本めが燃え始めたころには、僕らの花火はバチバチとはじけていて、それは実に夏らしく、レイカもネコちゃんも綺麗だ、なんていってうっとりとしている。実際、僕にもたまらなくきれいに思えた。
「ねえ、僕さ。僕……いま思ったんだけどね」
「いまこうして、みんなで花火やって、きれいだなって思うのはさ。そんなきれいなものが、本当にあると思いたいからっていうか……本当にあると信じたいものがきれいなんじゃないかなって。だからさ……その、なんていうか。この線香花火がこんなにきれいに見えるのはきっと……」
「……エヘヘ、ユージョーってやつのおかげなんじゃないか、ってさ!」
火種がぽつりと落ちる。これがアカネの云う勝負なら、僕の完敗。そして僕は風景を眺めながら、曖昧に笑うのだった。
それからすぐに通り雨がやってきて、夜釣りの時間はなしになって、みんなテントで身を寄せ合って眠った。もちろん夜が更ければ内緒話が始まるけど、どんな秘密を打ち明けようと、僕はもう大丈夫だった。ひとり、ふたりと眠っていく。ネコちゃんも寝た。ネコちゃんの寝顔は昔とぜんぜん変わらない。かみさま、かみさま、って……本当の天使みたいに思えた。
ねえ里乃? 僕、ネコちゃんを殺さないで済んで、本当によかったよ。こら。その物騒なのやめなさい、って、ずっと言ってきたのに。だから、もうやめたんだって。二度と考えない? 考えるわけない。友達だもん。ネコちゃんだもん。それならいいけど。でも、そもそもなんでそんな物騒なこと考えついたのさ。それは、その……愛ってやつかも、えへへ。そんな物騒な愛はいりませーん。だから、もうやめたってば。
朝になれば外はすっかり晴れていて、水溜まりひとつ残らなかった。
六人の子供達が、二列になって眠っている。部屋は暗いが、蛍光灯の燭光が淡く灯って、暖かな卵黄色が部屋に注いで、子供達の寝顔を照らしている。男女六人、その中には僕もいた。そしてネコちゃんも。ネコちゃんは隣の布団から、舞にこっそりと、耳打ちをするみたいにして喋りかけた。
「ねえ、起きてる?」
僕はその声でうっすら目を覚ましてしまい、本当は眠たがったが、ネコちゃんのことが好きで、かわいかったから、しかたない、といったふうに返事をした。
「へへへ、やっぱり起きてた。舞、わたし眠れないの。ちょっとお喋りしちゃおう? ね、ね。いいでしょ?」
ネコちゃんは普段話好きではなく、無口で、むしろ施設にはあまり馴染めていないような、そんな子だった。けれど、ネコちゃんは僕とだけはおしゃべりができた。夜毎、僕にすてきな夢の話をしてくれた。僕は、夢想家で、本当は愛想のいいネコちゃんのことが可愛くて、好きで、ほんのすこしだけうらやましかった。
「なんだかね、ネコちゃんはお姉ちゃんと似てるの」
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
「えっとねえ……」
僕が返答に困ってはにかむと、脳の一箇所でこれが夢であることに気付いた。そして同時に、もう一箇所で別の夢が始まる。おお神よ! 夜空に輝く星達の下、荒寥かつ人工的なあのハイウェイを走るのはよもやトラックではなく――うるさい!――白いミニバンだった。ネコちゃんはお気に入りのかみさまの話を始める。
「そっかあ。でもね、かみさま! かみさまがいるもん。かみさまはさ、いつもわたしたちを見てくれてるんだよ。かみさまかみさま――ってお祈りしたら、なんだって叶っちゃうんだから。お母さんが言ってたから、これはぜったい!」
ミニバンは走り続けて、高速を降りる。県道をひた走れば遠くには山が見えた。山の端の月は綺麗に欠けてちかちかと、色硝子のかけらのようだった。僕はネコちゃんの話が大好きだった。かみさまの話をするときの、元気なネコちゃんのことが好きだったし、ネコちゃんを見つけてくれたかみさまのことも大好きだった。
「お姉ちゃん? 舞、お姉ちゃんいるの?」
山の中腹でミニバンは停車する。ネコちゃんは容姿がよかったから、かわいそうな夫婦に貰われていった。僕の背中をちいさな手が突き飛ばした「逃げて!」と誰かが叫んで、僕は山道にひとりきり。僕ははにかみながらも、返事をすることができた。
「……えへへ、わかんない」
この夢は――
――もう見慣れた。スズメの鳴き声にも、僕のおなかをぶった切る朝の陽射しにも。目覚まし時計だって、鳴る五分前に押せるのだ。ふふん。
「ふぁーあ。得意になっちゃって……おはよ、舞」
「ふふん、ふふーん。おはよう、里乃! 今日の約束、覚えてる? なんて、覚えてるに決まってる! 愚聞、愚聞だね、実際ぃ」
あれから、僕と里乃はいつも通りで、そんないつも通りが僕には妙にしあわせで、里乃にはしばしば冷ややかなことを言われちゃったりする。でも、それだってしあわせだった。起き上がって窓から風景を眺める。タイルの通りには木枯らしみたいな風がふいて、落ち葉が踊っていたし、実際、街路樹はもう紅葉のほとんどを落としておじいさんみたいになっている。季節はまさしく秋だった。枯れ木も山の賑わいなんていうけど、僕にはそれがよくわかる。今日、僕は里乃とあの遊園地に行くのである。枯れ木を賑やかすのは山だけではないのだ。或いは僕も、山。なのだ。
僕の部屋は二階で、一階には養母さんがいるはずだけど、朝はパートにでてるから今は家にふたりきり。猫も杓子もゼッコーチョーの心持ちで階段を降りて、朝食のラップを剥がす。サンドイッチとおにぎり、トマトたまごレタス梅干しコメパンノリ。ぜんぶおいしいし、ぜんぶ好きだ。ふたりで食べればなんだっておいしいに決まってる。僕がそんなことを言うと里乃が笑って、僕も笑った。
秋だから、車は一台も走らない。二車線の車道はがらんとしている。
「つくば400、み6046」
「げー。まだ覚えてる。ほんと変、気持ちわるぅ。あ、でもあの青いミニバン、遊園地に向かってたのか。納得、なっとく」
僕はバス停のベンチに座ってそこらを眺めていた。褪せた歩道橋の手すりに鳩が止まっている。枯れた街路樹は等間隔で立ち並んで、“無駄に”小奇麗なタイルで舗装されている道に、枯れ葉が舞い踊っている。今日の雲はまばら、空の色は薄ら青。もはや見慣れた風景で、今となっては大好きな風景だ。この風景のなかにあるこのバス停が、僕らをあの遊園地に連れて行ってくれるのだから。もうすぐ向かいのバス停に反対側のバスが着て、その数分後、僕らは山を越えて、遊園地まで運んでくれるバスに乗る。いつもなら悠長でのんびりな運転手さんにいらいらとするところだが、今日は違う。待つのもたのしい時間のひとつであって、たのしい時間はいくらあってもいいものなのだ。運転手さんも好きなだけ悠長にしてくれればいい。きっと、のんびりするのにはそれ相応の理由が、僕らと同じように引き延ばしたいたのしみな時間あってのことなのだろうから。
一寸経って、排気音が遠くから響いてくる。だんだん近づいてくるそれは、反対側のバスのものに違いなかった。向かいのバス停に停車したところは一度もみたことがない。時間帯かなんなのか、とにかく乗客がいないらしかった。そうこうして、反対側のバスが近づく。やおら排気音がちいさくなるから、僕は怪訝に思った。
「あれ。停まるのかな」
里乃はなぜか応えない。なんだか嫌な予感がする。バスは速度を徐々に緩めて、案の定で停車する。
「乗客、あ。降りてくる……」
独り言ちる。バスが、ぷしゅうと鳴って、向こう側で扉が開いた。そしてまた、ぷしゅう、と鳴って。バスは発車する。ゆっくり、ゆっくりと動き始める。まるで、風景からずれていくようにゆっくりと。バスがずれて、枯れ木の一本が現れる。またずれて、バス停の標識が現れる。そして、バスは急速に加速して、僕の風景から姿を消した。そして、時間が止まる。ひゅー、と鳴る木枯らしみたいな風の音も、木枯らしみたいな風に踊る枯れ葉たちも、すべてが静止する。
「あっ……」
目が合った。そのひとは反対側のバス停で、傘を持って、目を丸くして、僕を見ていた。僕の驚きは、天気を確認し忘れたことでも、傘を忘れたことでも足りない、もっとずっと深刻で、重篤で、壊滅的な衝撃だった。彼女が傘をぎゅっとつかんで、僕はハッとする。乾いた風の音も、枯れ葉も、すべての時間が動きだした。同時に、彼女も駆けだした。ぎゅっと掴んだ傘を振って、まるで僕から逃げるように。僕は茫然として動けなかった。ひゅー、と木枯らしが頬を滑る。そう、呆然とした。塞いだ穴の蓋がごとりと落ちて空漠に……。遠くからなにか走る音がして、次第に、ゴツゴツと、メリメリと地面が鳴った。僕は呆然として、それがバスの駆動音であることも、タイヤが地を噛む音だとも気がつくことができなかった。バスが到着する。停止して、ドアが開く。
「……乗りますか?」
運転手さんはみかねて僕に尋ねた。
「いや、あの……ええと」
僕はぼんやりとして、または中途半端にハッとして、木枯らしが吹いて、枯れ葉がタイルの上を舞い踊ってそれから、それから……ドアが閉じて……。
雨が降っている。遊園地を歩いている。雨の遊園地は閑散として、それでも親子連れやカップルのはしゃぐ声が響いている。みんな傘を持っていた。空は灰色に曇って、雨はきらびやかな電飾の光をぼかして、滲ませている。メリーゴーランドに乗る母娘がいて、それを見守っている男の人はきっとお父さん。ジェットコースターがきっとすごい音を立てながら急降下して、観覧車はゆっくりと見下ろすみたいに廻っている。傘を持っていない僕は、濡れたまま、そんな風景のいくつかを見送った。ぼやけた電飾の光がやたら眩しくて、気が付いたら僕はまたバス停にいた。遊園地前のバス停は車も人も少なくて、それでもたまに、つがいみたいな傘が揺れていて、タイヤが水溜まりを弾いたりしていて……僕にはそれがいやに辛辣で、けれど、僕は動けずに、視界は風景を眺め続けていた。メリーゴーランドが廻る、観覧車が廻る、電飾の光がぼやけて、反射して……。僕はいくつかのバスを見送って、それからようやく乗り込んだバスの座席で理解した。ひとひとり殺して守ろうとした僕の里乃が一瞬にして消えたこと、それから、僕と目が合ったあのひとが、おそらく本当の里乃であること。雨で歪んだ窓に頬をつける。それは心の凍るような感じの冷たさで、けれど、雨はいつまでも降りやまなかった。
バスが揺れる。
もしかみさまがいたとして、かみさまは僕に何を与えて何を奪ったのだろう。かみさま、かみさま……考えるのは、そればかりだった。
そう。
僕の物語はこれでおしまいで、ここから先は、きっとすべて蛇足なんだろうな。
そんなふうに思った。
まわる、まわる。丸い窓のうちがわで、衣服たちがまわっている。コインランドリーの丸椅子に座って、僕はぼんやりとそれを眺めていた。そもそも僕は、あまり昔のことは考えない。いやなことばかりだから、考えないようにしてる。しかし今となっては僕も立派にこの世の使い物であるからして、たまにはいろいろ振り返るのもいいかもしれない。仕事だって順調で、丸い窓の内側でまわる衣服が詰襟でないことがその証左だ。結局、あの頃の僕というのは本当に付ける薬のない大馬鹿で、金は取るわ人は刺すわで最低だった。しかも、あいつには自分のトラウマばかりを重ねて、ちっともあいつ自身を見てやろうともしなかった。せいぜい盗み見たのはタンスの中身くらいなもので、そのなかに有ったエロ本の一冊すら見ないふりをした。けれどそれも、今となってはいささかどらまちっくすぎる淡い恋と形容できる。たまに、あいつがどうしてるかなんて考えていたのも高校の頃くらいまでで、ネコちゃんと付き合い始めてからというもの、昔のことなんてまるっきりどうでもよくなってしまった。もちろん、サトノのことだってそれは変わらない。今の僕が考えるのは、帰ったときに「乾燥は40分って言ったじゃん」とネコちゃんから叱責を受けないよう、100円玉を追加投入したあとの気怠さに耐えることくらいなものだ。
それにしたって、人生とは奇妙なものである。あんな半ぐれ通り越してがっつり犯罪者だった僕がほぼほぼ、お咎めなしでいられたのも奇妙だし、あんなにいい養母さんができたのも奇妙だし、ふつーに高校生をやれたのもやっぱりどっか気味が悪い。いま安定した職業につけていることも、ネコちゃんとの奇縁もどうしたって偶然の域を逸脱してる感じがする。本来、誰かからの恨みで突然後頭部を殴られて死ぬべき人間なのだ、僕みたいなのは。けれど、こんなことをいうとネコちゃんは例のカミサマを持ち出すから、僕はネコちゃんの前では極めて無神論者でいる。
そう、奇妙と云えばもうひとつあって、それは今現在コインランドリーないで進行中の奇縁なのだ。というのも、僕がまわる衣服を眺めるのには理由がある。ふつーこんなぐるぐるをまじまじ眺めたりはしない、目がまわるから。人がなにかを眺めるときはたいていの場合が逃避であることを、僕はよくよく知っている。そして僕のこれはやはりまたしても逃避だった。何から逃げているといえば、そう。背後にひとり、いやな人物がいるのである。それは女で、長髪で、よく知っている顔なのに、実際、なにひとつを知らない女……。
女は僕が缶コーヒーなぞやりながら鼻歌をうたい、乾燥が終わるのを待っている折ふいにランドリーに入店せしめた。一瞬目が合って、僕はハッとしてすぐさま視線を切ったのだが、それ以降ずっと背後から視線を感じるのだ。それ以降ずっと、まわる衣服に釘付けなのだ。ああ、かわいそうな僕……。未だ僕の背中、或いは後頭部に視線を刺す女は間違いなく、本物の里乃で違いなかった。
「……あなた」
ああ! 声をかけられる。不運なぼく、不幸なぼく……。
「……な、なんでしょうか」
「あなたのせいで、わたしの“マイ”が消えちゃったの」
す、と得心がいく。僕は薄々気付いていた。あの日、あのバス停でこの女が僕から逃げるように駆けだしたその理由について。
「……へえ、奇遇。そういえば、僕の“サトノ”も消えちゃったんだよね」
「あら、そう。それで、あなた知らない? わたしのマイと……それからあなたのサトノが、どこに行っちゃったのか」
僕は返答に窮する。視線はまわる衣服をじっとみている。目がまわってきたような、意識がまわってきたような、とにかく窮して窮して、適当に、思ってもない言葉を吐いてしまう。
「……さあ。案外、どっかでふたり仲良く、やってんじゃないかなぁ」
あら、そう。と、女は二度目のそれをまったく同じトーンで吐いて、ランドリーを出ていったようだ。ようだ、というのは、僕は未だに動けずに、窓にくぎ付けでいたから、足音だけしか聞いていないから。実際のところはわからない。けれど心は単純で、あの女との対話が終わったというだけで、緊張の糸をぷっつり切断せしめて、僕にふかいため息と脱力を与えたもうた。脱力のままうなだれて、丸い窓に頬をつける。なかなか、安心する暖かさだった。そして、僕は当たり前のことを考える。
でも、でもやっぱり。あの女は里乃だけれど、僕の里乃じゃなかった。僕の里乃ならきっと、いまに僕の頭をこつんと叩いてきっと言うんだ。ばかね、舞ってば。なんて……。
そして、自嘲気味に笑う僕の後頭部に、鈍い衝撃が走った。こつん、或いはガツン、と。振り向いたとき、そこに立っているのが希望か絶望かなんてわからない。結局人生なにがあるかなんてわからなくて、今後、僕がどのように振り返ってもそれは変わらない。だけどひとつ何かを云うのなら、それはやっぱり。
かみさまかみさま――
――僕はあんたがだいっきらいだ!
個人的につくばは凄く思い入れがある街だったので情景がすぐ目に浮かびました。
つくばは街中は凄く整備されてますが、筑波山の方に行くと本当に田舎なんですよね。
ひたちの海浜公園もネモフィラが咲く頃はいい所なんですけどね。
素敵なお話ありがとうございました!
前半部分はとにかく多くの比喩表現によって描かれた都市部の暗黒面が印象的でした。多分設定的には施設から逃げ出してきた舞とボク(ヨシオ)が路上生活をするというものなんでしょうけど、その描写のリアルさが本当に凄いと思います。そして兎に角舞とボクの関係が分からない。それは終盤で明かされる訳ですけど、それが書かれるまではひたすらに対等な関係でいたいとしか書かれない。そして最後まで彼が誰だったのか分からなかった訳ですけど、前半部分では彼のキャラクターがどういうわけか魅力的に感じました。当初では語られなかったものの時が過ぎて整理がついた終盤で書かれた淡い恋という単語にすとんと納得が出来てしまうものだから、あの絶妙な関係性の書き方は素晴らしいと思います。
後半に入ると一変して平穏な日常がひたすらに書かれます。僕はこだいさんの書く情景描写とそれに続く心情描写が本当に好きなので、この作品でもそういったパートが多く書かれていたことに非常に満足を覚えました。また、そんな平穏な中でもストーリー上のアップダウンはあるわけで、沖縄修学旅行が勘違いだったり、しかし一泊の旅行ではあったことに喜んだりとそういった普通でありながらもちょっとした一喜一憂がしっかり描写されてる事が好きでした。
そして終盤、舞と里乃は遊園地に行く訳なんですけど、その道中で舞は本当の里乃とばったり会ってしまう訳です。路上生活の時点で里乃は舞の幻影であるんだろうなとは思っていたんですが、ネコちゃんとの会話でそれが描写され、そして終盤への伏線になっていました。ただそうやってある程度クライマックスの展開が予想がつけられる伏線が貼られながらも、あの穏やかな日々が一変する瞬間が本当に唐突すぎて、分かってはいても今来るのかと驚いてしまいました。
当時を振り返る舞と本当の里乃がコインランドリーで出会い、そしてここに来て初めて話をします。そしてそれが終わり、本当に全てが終わったと思わせておいて、舞の後頭部に走った衝撃は何だったのでしょうか。どうなんだろう、本当に最後がどのような展開であったか自分でも迷っているのです。案外、二人はどっかで仲良くやってるんですかね。
リアリティのある風景と荒唐無稽な夢の描写が魅力的でした。前半部分は鬱屈とした街の情景に重なって、成長を拒んで堕落しているような辛さがあったのですが、やつの旅立ちを契機に雰囲気が一変して、のどかで温かみのある展開になったのが印象的でした。
ジェットコースターが怖いと作中でありましたが、空想の里乃を守るためにネコちゃんを殺したいと思ったりと舞は常にその変化を嫌っているようにも見えました。それでも否応なしに変化しなければならない環境にあって、舞にちゃんと友達ができて、家族もできて、本物の里乃と出会って、緩やかに成長していったように思えて愛おしいです。
タイトルに蝸牛とありますが、里乃と出会うまでの舞は雌雄同体のようなもので、それまではイマジナリーフレンドを作る子供みたいなもので心が未熟だったのではないかと邪推してしまいます。むしろ成長できていたからこそ本物の里乃と出会えたんじゃないかと、そんな風に考えてしまいます。案外、消えたサトノとマイはかみさまに連れてかれて、あちら側に行ってしまったんじゃないかとも。そんな妄想が掻き立てられる作品でありました。ありがとうございました。
まさに奇縁というべき不可思議な縁に彩られた舞の半生にスゴ味がありました
インナーチャイルドが現実世界の他人と対消滅すること、性分化しながら同性と交際することといった、様々な境界によるコンプレックスが、解決ではなく融和していく様子が、最終的によかったです。