Coolier - 新生・東方創想話

オリフィスの首無し鳥

2021/11/26 21:47:09
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 ああ。嬰児の王よ。水子の母よ。



 この身に余る、ご厚意に。重ね重ね、厚かましいとは思いますが。

 再びこうして……この、沖干むことのない水の元で、永遠に続く流れの中で。相見える事がありましたら。

 その時私に、こう問うて頂きたいのです。



 ……『彼女の名前を憶えているか?』、と。






 流れいづる 方だに見えぬ 涙川
 おきひむ時や 底は知られむ

(古今和歌集 都良香)






 ひどく強い雨の降った日のことでした。

 河はどうどうと唸り、黒い水の流れが淵を巻いています。その水には、人の骨や血が遺したものなど欠片さえ残りません。なにもかも、全てが錐揉みの中に溶け込んでしまうのです。河岸は既に普段の姿を留めておらず、ざあざあと、ただただ物言う全てを呑み込んで、雨が降り続いていました。上空には赤雲が渦巻き、熱された真鍮が地に滴り落ちる様子は、まさに前途の地獄を拡張させたかのようで。この先に、少なくとも半分は極楽に通じる道があるなどとは、今は誰一人として思わないでしょう。

 そうして降る、火照った金属の雫の中。熱滴を全身に浴びて、赤褐色の肌が溶けるのも厭わずに、一人歩く少女がおりました。雨避けも使わず、礫と砂利に塗れた岸を歩くには相応しくない棒のような素足に、ざく、さく、と尖った岩の縁が差し込まれていきます。足の裏には、擦り傷と切り傷を混ぜ合わせた、開裂してゆく皮膚の割れ目が増えるばかり。けれども少女は、足を止めようとはしませんでした。

 少女に何か火急の要件でもあるのかと言えば、別にそうでもないのです。ただ、雨の中をふわふわ、ゆらゆらと水母のように漂うだけ。何処に行くとも知れません。誰ぞやが待つとも知れません。何時から歩いているかさえ知れません。

 ただ、礫に足を研磨されながら、ざりざりとその足音を雨に掻き消しているだけでした。



「くそ、どうせ亡者なんか晴れてから纏めて渡しゃいいんだから、一日休みにしてくれってんだ全く」

 死神は、今日も今日とて、安全に配慮される事もなく。岩と水が紛糾する濁流の中を、能力を巧みに使い此岸に辿り付こうとしておりました。彼女が閻魔庁の元から出発した時よりも、少し雨の勢いも弱まっていたものですから、龍鱗のような飛沫が立ち昇る河を突っ切るという自殺行為は幸運にも起こりませんでした。

 空席の帰路は、通常の渡河に掛かる時間に比べれば文字通り一瞬の舟旅なのですが、大質量を持った水の流れは舟首の波切りを容赦なく痛めていきます。一人も乗せていないのに、舵が言う事を聞かずに、河の言いなりになってしまっているのは、全く驚くべき事でした。

「こりゃ水押が限界だぁ、向こう岸まで持つのかね……って」

 愚痴りながら、右に左に揺れる視界で此岸を眺めますと、ひっそりと沈んだ赤黒の中を、ふわふわと漂う赤白がありました。死神はそれを見ると、心底嫌そうに顔を顰めてしまい、ますます岸との距離が遠のくのでした。



「死神か、お久しぶり。大変そうだねぇ。いつもならそのけばけばしい紅毛は彼岸花に映えるけれど。この嵐の中じゃ、さながら頭を割られた亡者のようだ」

 ようやくの思いで舟津に舟を留めて、全身が血泥の臭いに包まれた死神を待っていたのは雨に掻き消されそうな囁きでした。

「あぁ、そうだね。河原にいるガキを見つけたことでもっと大変になったね」

 死神は海藻のように頰に張り付く髪を乱暴に撫で付けると、よろよろとその辺りの適当な大岩に座り込み、

「お前さん、まぁた。脱走したのかい……」

 と、疲れ果てた声で言いました。

「こういう時、賽の河原の子供達は鬼の指示に従って雨宿りする手筈だろう?」

 左右にゆらり、前後にのらり。土踏まずが希薄な水子達の中でも、この少女はとりわけ掴み所のない、水のような存在でありました。普通の子ならば、こうやって見越し入道の背を持つ死神が面前にいれば、それだけでわあわあ、きゃあきゃあと恐れ戦くものですが、少女の場合はこれと言って反応がありません。ただ、じいっと死神を見返しているだけなのです。実力行使にも踏み切れない以上、死神にとっては、ある種上司よりもやりにくい相手に思えました。

「私。約束とか、決まり事とか。そういうのは嫌いなの」

「嫌いィ?……地獄ってのはね、そんな、古代魚の煮付けは嫌いだーとか、好き嫌いが許される場所じゃあないよ」

「だって大味じゃない、あの辺のデカいの」

「……それはいいから。ほら、手ェ出しな。連行するから」

「どうして私から手を握らなきゃならないの?」

「首根っこ引っ掴んでも、お前がグネングネン身体くねらせて逃げるからだろうが!」

「そらあ、逃げるよ」

 少女の皮膚は飴のように河原に滴り落ちていて、そこにはもう、掴み所など何処にも見つかりませんでした。鎖骨や肩甲骨といった取っ掛かりになる骨の影も存在せず、死神が肩を抱き留めようとしても、鰻の如く、つるりと滑って抜け出てしまうのでしょう。

「……はあ。そもそもそこだよ、そこ、気になるのは。何故逃げる。何が楽しくって、こんな天気の河にやって来る?」

「河から離れちゃ、見られないから」

「……見られないって、何がさ?」

「この石達を」

 少女は、黒い水の中に沈んでしまった積み木を指しました。いつもなら、少女の背丈よりも高い石塔がゴロゴロしていたものですが、今となっては一つも見えません。まるで、そこには最初から河の流れしか存在しなかったかのように。

「……石、達。ねぇ」

 積みと、罰。たったそれだけの河遊びを永遠に繰り返す、それ以外に何の選択肢も無い、哀れな憐れな賽の河原の子供達の、遊び道具にして拷問器具。その罪石を、なんとも愛おしそうな目線で、少女は慈しんでいるのです。

 少女の顔は元々屍人の色である上に、この雨で頰の皮がどろどろと溶け落ちているので、生身の人間が見たらさぞや驚き、慈愛の顔だとも考えもしないのでしょうが。死神も少女も、もはやそんなことを気にする身ではありませんでした。

「こんな雨の日に河なんかに来て、石遊びもナニもないんじゃないかねえ」

「べつに、今は遊びでこの濁流を見にきたわけじゃあ、ない」

 水を巻く渦流が河のあちこちで発生し、円運動に捕らえられた石が切削機のように河岸を削っていきます。彼等はまだマシな方で、河底の渦に捉われた小石など、きっとその身を粉に変えるまで、自身が掘った穴に囚われたままなのでしょう。

「流される石達を見届けてやりたいんだ」

「流される、石?」

 死神と少女の目の前では、いくつもの石が失われていきました。

 かつて石塔の頂点として、栄華を極めた石。石塔の構成材にはなれないと、投げ捨てられた複雑な形状の石。今まさに八大地獄から生み出され、水の中でも冷めない熱とともに転がってきた石。

 今この瞬間、すべての石は過去に依らず等しく無価値で無意味で、地を這う暗黒の流れに飲まれていきます。きっと皆、石達は自分はどんな風に流れるのかを想像し、胸を希望で膨らませていて……死神だって、舟津の管理の為に、ある程度は河原に手を加えていたはずです。けれども今は、そんな夢想も治水も全てを投げ捨てて、あるがままの乱流に揉まれるしかありません。そこには確率も選択肢もなくて、ただひたすらに上流から流れてくる運命の中で、河の規模と比せば馬鹿みたいに小さい水飛沫を、ちゃぷちゃぷと上げるしかないのです。

「だって。誰も見送ってくれないなんて、可哀想だろう?」

 少女が見遣る先では、先程まで揺れていた死神の舟が起こした波などとうに下流に押し流されて、岩をも飲み込む圧倒的な水塊が流れ続けます。ずるずると、大石が小石の関堤となっては、やがては堪えきれずに、もろとも下ってゆきました。

「へェ……?」

 その死神の怪訝な様子を見て、少女は肩を竦め、緩んだ脇の下から、赤黒い水がぼとりと垂れ落ち、砂利の下の伏流に溶けていきます。その流れの先には、やはりあの荒れ狂う河がありました。

「死神はいつもそうだよね」

 水霧に掻き消されながら、小さな声が死神の耳に届きます。

「……なんだいなんだい、大分不服そうに見えるが」

「不服……ってわけじゃないけど。ただ……。みんな、みいんな、この三途の河を渡っていく霊魂達には、死神はおしゃべりしたり、死後の旅路のアドバイスをしたり。手厚く付き添ってやっているっていうのにさ。こういう雨降りの石達には知らんぷりして、やれ増水だ破堤だ、騒いでいるのが気にくわない」

「こっちはこの雨の中でも通常業務なんだが」

「そりゃ、お前が普段からサボってるツケだ」

 少し小馬鹿にしたように少女がくすっと笑い、むっとした死神がいじけるように言いました。

「……じゃあ、何。この雨の中でも石にさよなら~、とか声掛けすれば良いわけかい?」

「そうじゃない。そういう訳でもない。だって……それはお前の仕事じゃあない、だろう?」

 少女が背にする河原を攫っていく水の腕が、幾つもの石を抱え込んで、下流へと去って行きます。奔流に圧縮され、沸騰し飛散する泡沫は、黒い水の中で鮮やかに光っていました。

「だから、さ」

 そこで一回話を区切って、少女は足元に落ちている石を拾い上げました。石の重みに崩れた掌は耐えられず、ずぶずぶと石の尖端部が肉に沈み込んでいきます。

「お、おい……」

「いつも通り。こんな荒天の中でも、お前のただ単なる日常のように、適当に仕事して、サボって、ミスして……私を見逃してくれれば良いんだよ」

 めり込んだ部分が手の甲に突き出ると、骨に引っかかる様子も見せずに石はごとりと下に抜け落ちてしまいました。

「私をここに留まらせてくれれば、それで……」

 落ちた石に纏わりついていた肉片が、弾ける雨粒と共に河の澱みへと流れていきます。

「……相変わらず、あんたのことは分からないよ、あたいにゃ」

「そりゃそうだ。分かるように話してないも……の」

 そう言って少女は、くろがねの雨によって蝶番の形を保てなくなった膝を崩れさせ、凹凸激しい河原に半身を横たえました。

 ずるずると、太腿から先を引き摺って、芋虫の様に蠕動し。次々と河に飛び込んでいく、目前の石を大事そうに抱え込む姿に、死神はかける言葉が見つかりません。

「……さて、これで。手も握れない、足も使いものにならない。こりゃあ河から離れるには、死神に見つかって強制送還、ってルートしかなさそうだねえ」

「……あー」

 濡れて隙間が無くなった紅い髪をぐしぐしと掻き回すと、死神は観念したように少女に背中を向けて。

「分かった分かった。あたいが悪かった。石達へのお別れ、ゆっくり楽しみな」

 少女にそう吐き捨てると、一歩一歩グズグズに湿った草履から水を染み出させながら、河から離れていきました。

「ああ、納得してもらえてよかった、前の雨の日からの長い付き合いなんだ」

 なあ、そうだろう、みんな。

 頭の周りに散らばっている一つ一つの石達に頬ずりして、まるで意思が有るかのように言葉を掛ける、ある種狂気的な熱を持つその少女に。死神は、付き合ってられないとばかりに、足早に雨音の中に溶け込んでいきました。

 霧幕の中に消えた影を暫く見送った後、少女は河原に向きなおり、別れの儀式が再び始まります。

 赤い石。白い石。硬い石。平べったい石。宝石のように光る石。形の悪い、不格好な石。

 みな、みんな、流れていきます。少女を岸に置いて。

「……ねぇ?……どうして、ここに残ってくれないんだろうね。どうして、一緒に残ってくれないんだろうねぇ……」

 すぐそこの下流では、氾濫した河の水が、彼岸花を風の速度のままに呑み込んでいきます。瓦礫を吸い込んで現れた黒龍の背には、幾艘かの舟が並んでいました。

「……どうして。一片の意味さえも、遺してくれないんだろうね」

 少女は、小さな掌で、石を包みました。この黒い河原の何処にも存在しないような白が、母指球の皺の中に浮くように。ぎゅう、と、強く強く、握り締めながら。



【ごくそつのおはなしをよくきき、おやくそくをまもりましょう。】






 彼岸花がそよそよと揺れ、風車を柔らかに回す生温い風が吹いた日のことでした。

 河は緩やかに蛇行を形成し、流速の遅い内側の流れに石塔の材料となる河原を湛えています。河岸は、雨の日の姿などすっかり忘れてしまったかのように、渡河待ちの霊や勤務中の獄卒達で賑わっておりました。

 一番水に親しい、舟津が設けられた地点から程近い堤外地では、石積みをするために集まった子供達が、赤い霧に染まっています。皆、手頃な大きさの石を探しては、どんな石塔を建てようかと夢想していました。

「ああ、この石、いいなあ」

「わたし、今度はおっきいの作るの」

 あんなことや、こんなこと。出来たら良いな、と、取らぬ狸の皮算用が飛び交います。そうしてぺちゃくちゃ喋るばかりになった集団には、ずしり、ずしりと石材を踏み砕きながらの、
 恐ろしい足音が近付いてくるのです。

「こうら、お前達!」

 文字通りの鬼の顔を持った獄卒は、角の先までを真っ赤に染めて、子供達に掛かった霧を払うように金棒を振り抜きます。小さな身体を宙に浮かび上がらせる位の衝撃が、地に叩き付けられた金棒から発されると、流石の子供達もたちまち輪を解いて、黙々と塔を建てるフリに戻っていきました。

「エエト、この部分の柱は……」

「もっと平べったい石に交換しましょう」

 自分の石塔の前に戻り、真面目に建設の構想を語る子供達の様子は、最早手慣れた白々しいものです。

「全く……」

 これだからガキは困る、とぶつくさ口にしながら、獄卒が土埃に塗れた金棒を河の水で洗っていると、河の中からぷくぷくと気泡が立ちのぼってきます。逃亡した亡者かと思いつつ、獄卒が水の中を覗き込むと、皿の周りの毛さえ生えそろっていない、産毛だけの髪をもった頭部が浮かんでいました。

「……ごほっ……なあ」

「ああ?」

 ざぱりと水から出た頭は、先程鬼が発した衝撃波に巻き込まれた子供のもの。どうやら先程の一撃で、河の中にまで吹き飛ばされてしまっていたようです。子供は頬を膨らませた拗ね顔を浮かべ、水を吐き出す咳と共に、不満げな声を上げました。

「……なんで俺たちは殴られるのに、あいつは、怒られないんだよ」

 肌が溶けるように滴る水滴を纏う、その指が指すのは、刑場の中心から外れた、大岩の陰。子供達の一団から、独りぽつんとはぐれた胎児が、そこに座っていました。

 胎児の手元には、膝にも達しない高さの、塔とも呼べない石の塊が転がっているだけ。そして、暫く見守っていても、石が高く積み上がっていくこともありません。少し背伸びして、太腿の高さまで伸びると、すぐに石が崩れ倒れてしまうのです。がしゃあ、と倒れて、膝小僧まで伸びてふらついては、崩れ去る。不安定で、留まることを知らない。そんな建造物が延々と建てられていました。飽きられる事も無く、何度も何度も。永遠に。

「いつも、鬼は俺らばっか虐めやがって……!」

 あいつが建ててる石塔が、俺たちの高さを超えたところさえ見たこと無いのに。

 不平等を訴える、その意見。子供の意見。ただそれは、紛れもない事実ではありました。不真面目な子供が鼻をほじっておしゃべりしながら片手間で建てる塔にさえ、あの胎児の石は及んだことがないのです。高さでは無く、クオリティで比べても、石の形や色に凝っているということも無く、同じ水子同士なのにその差は大人と子供のように歴然としています。

 ただ、それに返されるのは鬼の意見。地獄の尖兵の意見。

「……それも獄卒の仕事だからな」

 振り下ろされた金棒から、天国に届くかのような水柱が上がりました。



「ヤア、ヤア、頭でっかちが、頭の大きな塔を建てた……」

 がしゃり。

「宮さん、宮さん、くーびのうーえでグラグラするのはなんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ……」

 ぐしゃり。

 大岩の陰は、時折目の前を通り過ぎていく子供達から石が投げかけられます。日陰の中に蹲る胎児を狙っているのか、その足下にある崩れた石の山を狙って投げているのかは分かりませんが、とにかくその投石は彼がこの刑場に来たときから延々と続いていた仕打ちでした。運が良ければ投石は大岩や他の方向へ逸れていき。当たり所が良ければ、足下の元々無秩序な石達がさらに氾濫し。悪ければ、その身体が礫に打たれる。そんな日々が、彼の日常でした。

 別に、彼が他の子供に何か手を出した、とか。賽の河原で悪いことをした、だとか。そういうことはありません。

 ……ただ、他の子よりも二回りは大きな頭部を持っている、というだけで。



 彼はその大きな頭により発育を阻害され、母の腹の中で亡くなってしまった子供でした。と、言っても、勿論そんな現世での事実は、本人の記憶にはありません。死後の彼に残ったものは、母を苦しめたという罪と、石積みという罰。そして、腹の中の子には見合わない、大人にも比する程に膨れ上がった頭。

 彼は、この河原に来たときからずうっと、他の子供達と同じように石を積んでいるつもりでした。天にも昇るように、より高くあるように。江戸城の石垣の様に、荘厳で美麗であるように。塔を建てているつもりでした。けれども不思議なことに、目の前の塔は膝の高さまで積めば風に乗るオドリコソウの如く震えだし、崩れ去った後には輝きに欠けた臼ぼけた灰色が残るのみ。

 どうして上手く積めないんだろう。その疑問を解消するには、彼は幼すぎました。周りを徘徊する鬼に何故かと問えば、二日程は痛みが残るほど、しこたま鞭を打たれ。背の高さ程の石を積む名人の下に行って何故かと問えば、なんの湿り気も無い、無垢なる悪意が嘲笑となってその身を蝕む。

 いつしか彼は刑場の中心から離れ、喧噪を遠目に彼岸花に囲まれた大岩の陰で石を積むようになりました。質問をせずに、ただ塔を建てているだけなら鬼を怒らせることはないし、他の子供達には自分から関わらなければ、笑われる事も少ない。度を越えて虐めてくる子供には、賽の河原の責務を忘れた者として、天罰が下る。その哀しい事実に、気付いてしまったから。

 だから、彼は今日も、独りで石を積んでいるのです。



「実るほど こうべを垂れる 稲穂かな 落ちたることも なしと思えば……そらっ、落としちまえ、その頭!」

 意地の悪そうな声と共に、また別の石が胎児の手元に投げかけられました。投石は、珍しく太腿付近までに到達していた石塔の根にコツリと当たり、忽ち塔は蜃気楼となって消えてしまいました。それでも彼は打ちひしがれずに、支える力が足りずにだらりと垂れ下がった首をさらに伸ばして、石を拾い集めます。新たな塔の材料となる石を、丁寧に、丹念に。

 賽の河原の中では、情報の更新が行われる事が殆どありません。なにせ、水子自身には現世の経験が無いのですから。獄卒達から現世の流行歌を盗み聞くくらいで、それも風紀の緩い死神くらいからしか聞くことが出来ません。娯楽でさえそうなのですから、胎児への虐め方も又、変わることがありませんでした。はやりの詩に少しのからかいを混ぜて替え歌し、使いにくい屑石と共に投げつける。これはただ、要らない石を捨てているだけだと言い訳しながら。

 何度も何度も、繰り返されたこと。だから、胎児は何も言いません。何も反応しません。すべきことは、ただ散らばった石を拾い集めて、新たな塔を建てる、ただ、それだけ……。

 ぐるぐると。

 ぐるぐると。

 胎児の脳内には、水が留まることで頭蓋骨を突き破る程に深い河を湛えて、その中では大きな渦を巻いています。同じ出来事が何度も過ぎ去り、そして渦の中心に時を同じくして落ちていきます。彼はいつも渦の中に居ました。水際の石が混じる浅瀬の端で回っている、凹んだ円の中をただ彷徨うだけ。それが、母の腹をむやみに痛めつけた罰でした。

「……ねえ」

 ですから。あまりにも、渦の中心に居ることが多すぎて。彼は気が付かなかったのです。

「ねえ、そこの、お可愛い貴方?」

 いつの間にか隣に佇んでいた女の影が、渦を消し去っていたことに。



「実るほど こうべを垂れる 稲穂かな……良い詩、ですよね」

 それは、青い女でした。

 紅い霧、彼岸花、へその緒で繋がれた風車、血に濡れたしゃれこうべ。そんな赤に塗れた赤子だらけの河原で、ただひとりだけ、インドクジャクの羽根の青を唇に点した、女でした。

「……どこが」

 胎児は周りを見渡しましたが、獄卒がこの女に気付いた様子はありません。今も視界の端で、水飛沫を上げながら金棒を振るっています。

「……あなたは、だれ?」

「うふ。貴方のお母さんよ」

「……」

 この女に問うことは意味が無い、と判断した胎児は、再び石塔を建てるために石集めを再開します。けれども、必死に延ばされていた手を、女の声が制しました。

「何故。貴方は苦しむの。何故、貴方は苦しもうとするの?」

 それは、彼自身が今までに幾度と自分にかけた問いかけ。それは、彼自身が、水に締め付けられ萎縮してゆく頭で、精一杯に求めた答え。

「お母さんを苦しめたから。ちゃんと産まれることができなかったから……」

「それは、ここに居る他の子供達も同じ。皆等しく親不孝な子で、世界の誰よりも哀れな水子」

「え……」

「質問を変えましょう。貴方は何故、同じ石塔を建てることを繰り返すの。何故、巡る水の渦中から、抜け出そうとしないの」

 放たれた礫。崩壊する塔。回り続ける風車。

 ぐるぐると、ぐるぐると。脳裏に焼き付けられた風景が、走馬灯となって胎児の網膜に浮かび上がります。

 どうして、この女はこんなことを聞くのだろう。彼は思いました。

 そんなの、僕自身が一番知りたかった事なのに。彼は思いました。

 もしかして……本当に、本当に。この人が僕のお母さんだから。こんな事を言うのかな。きちんと産まれてくれなかった、駄目な子だから……死んだ後に、河原にまで降りてきて……こうやって、僕を責めているのかな。

 ……彼は思いました。



「……私達、人間の脳にはね。いつもいつも、水が流れているのよ」

 責め苦を与えようと回転を続け、削られ続ける胎児の脳に、ふと、柔らかい女の声が響きました。

「ヒトの頭を切り開くとね……あ、勿論、直後は血が止まらなくなるんだけど。でも、血抜きをして、暫くした後に……ゼリーみたいにぷるぷる震える脳味噌の隙間から、じんわりと、ね。水が出てくるの」

 近くに転がっていたしゃれこうべを掴んで講釈を始めた女は、恍惚の表情を浮かべて。物言わぬ頭蓋骨の頭頂を撫ぜました。

「それは、命を繋ぐ水。私達の脳味噌を守る、とてもとても大切な水」

 二人の背後に佇んでいた大岩から、ぽつりと一滴の水が垂れ落ち、胎児の足下で弾けます。そうして散らばった水達も又、河原の石の隙間に浸透し、地下水を経て、三途の河の一部へと戻っていくのでしょう。

「ただ、時折、何かの手違いで……正しい循環が生まれずに、頭に水が溜まることがある。それが、貴方が首の上に抱えたモノ。それが、貴方の運命……水頭症」

「すいとう、しょう……」

「……ふふ」

「何が、可笑しいの?」

「いえね、水頭と、水稲で……さっきの詩を思い出して。私の故郷でも、水稲が主食なんですけど。やっぱり、同じような言葉があるのよね。偉くなった時ほど、頭を下げる気持ちを忘れがちになる……って言葉」

「……い」

「ん?」

 蚊の鳴くような声で囁く、胎児の言葉を聞き取ろうと。女は彼と目線を合わせるようにしゃがみ込みました。

「嫌い、だな、その詩」

「あら。それはどうして?」

「だって。何の意味もないじゃないか。大きくなった頭を下げたって、いつかぽとりと首が落ちるだけ。穂が実ったって、人に食われるだけで、何にも残らない……」

「ふうん……」

 もし、米を作ったことがあるなら。いや、誰かと共に、米を育てる、という経験があったら、きっとその言葉の内容は変わっていたでしょう。けれども、水子にはそんなありふれた経験さえ許されはしなかったのです。

 形を残さずに崩れた塔から、小さな石灰岩の破片が転がり落ちました。女は、それを拾い上げると、唇を上ずらせて、胎児の手を取りました。

「貴方、塔の建て方で困っているのよね?……だったら、こうすればいいわ」

「……え?」



 そこに建ったのは、彼の太ももまでの高さまで積みあがってもぐらつかない、立派な石塔でした。

「実らせるのは頭だけじゃない。いつかその水の重さに耐えられなくなり。首が落ちてしまったとしても、地下深くに残るは偉大なる基礎」

 女が教えたことといえば、別に大したことではありません。ただ、塔を建てる前に、地面の砂利を取り除き、乾いた砂で覆いつくして、細長い棒状の石を埋めてから、それが台座となるように最初の石を据える。ただ、それだけ。

「それは、広く水を吸い上げる強き根。あるいは、母のように植物を慈しむ、肥沃な大地。……誰にも、何者にも邪魔されない、貴方の心に深く根差すいしずえ」

 ですが、彼にとっては、それだけでも十分でした。なにせ、彼はここにきてから一度も、人にモノを教えられたことがないのですから……。

「地下、に……?」

 彼は、自分の足元を踏み固めるように、地団駄を踏んで、土踏まずに砂利を付けました。

「貴方はそれを作りなさい。きっと、これからも、貴方のその頭を以てして、つらい事ばかりが貴方を襲うでしょうけど。同じ塔を何も変わらぬまま建てるよりは、はるかにマシな景色が見えるはずよ」

「……お母さん、みたいなこと言うね?」

「うふふ、勿論違うけれど……そんなこと言われたら、本当に連れて帰りたくなっちゃうじゃあない」

 女の手が、柔らかく、胎児の膨れた頭を撫でます。礫でもなく、雨でもなく、人の手が、彼の頭を撫でました。人の手が、彼の心をくすぐりました。

 乾いた大地に一滴だけ落ちた、水。それだけで、彼にとっては十分でした。誘導水となって地下に湿り気をもたらしたその水は、これから子供が成長していく中ではほんの一滴の雨水にすぎません。けれども彼は、きっとこの生においてその恵みを忘れることはないのでしょう。

「ううん……まあ、あなたが誰でも関係ないか。ありがとう。頑張ってみるよ」

「ええ。しっかり、ね」

「それじゃあ、私はこれで……」

 と、そそくさと何故か急いでいるようにその場を離れる女に、胎児の必死な呼び声がかかります。

「あ、待って!……あの、これ。いつかお母さんに渡そうと思っていたの、あげる」

 大人のポケットにも満たない懐から取り出された、小さな手のひらに握りしめられていたのは、紅く光る、ルビーに似た頁岩。

「……くれるの?……私に?」

「うん。【河原の石、あげる。】」

「あら、あら……まあ!」

 その時初めて胎児は、青に染まった女の身に、紅く染まる頬が点されているのを見て取りました。

「ありがとう!」



【しらないひとと、おはなししてはいけません。】






 どっどどどどうど、どうどうどう。

 どどどうどどうどどうどうどうどう。



 子供たちの騒ぐ声や、舳先が波を切る音。普段はせいぜいそのくらいしか響く音がない賽の河原に、とてつもない轟音が放たれています。それは、雨風の音さえも飲み込んでしまう、余りにも暴力的な響き。水車ぐらいしか動力源がない刑場には耳に毒な、機械の駆動音。

「さて、芳香ちゃん。河原から獄卒たちは消えた?」

「あー。もう残ってないな。全員、水子達の避難誘導で出払ったみたいだ」



【勅命陏身保命】



 と、血文字で書かれた札を額に張り付けられた死体は、ピンと伸ばされた腕でも器用にハンドルを回し、今にも壊れそうなボロボロの軽トラを、女が乗り込む鉄象の後ろに付けました。

「そんじゃ、『三途の河原から雨場ドロボウで石ざっくざく作戦』、いっちゃいましょうか。雨に打たれると金属中毒になるかもしれないから、気を付けて」

「らじゃー」



 強まっていく風雨を物ともせずに、女が操る巨躯は河原を進んでいきます。その足元はキャタピラを履かせていて、悪路の粋を煮詰めたようなガレ場にさえ、無理やり踏んづけた先に道を作り、留まることを知りません。

 小さな石塔も、河原に転がっている大岩も、すべて等しくキャタピラの下に。前に回り、後ろに戻っていく履板は先ほど彼岸花を添えられた可愛らしい石塔を踏み砕いたことなどおくびにも出さずに、新たな周回に入っていきます。転輪の誰もが、巻き込み倒されていく風車への補償を考えずに、環を維持するために献身を続けています。

 誰も彼も、この刑場の意義を忘れてしまったかのように。今はただ、その巨体が石を踏み潰すのを河が見守っているだけでした。

「さあて。この辺がアタリ?」

「事前の調査だとそうだなー」

 死体は測量図を取り出すと、図上の河の瀬と淵を指で繋ぎながら、間違いない、というように頷きました。

「前に漁師の船に乗せてもらった時の観測からみても間違いない。この合流地点近辺の石が、八大地獄から流れてくる死に洗われた、最も高品質な素材だ」

「んじゃ、たっぷり石を貰っていきましょうか……って」

 キャタピラによる前進を止めて、ショベルの駆動操作に切り替えようとした女の眼に、ふと、大岩の陰のあたりに奇妙なものが映りました。

「んん、どした、青娥?」

「あれは……」

 液体として、自在に形を変える金属が降り落ちる中、その形は確かに人間の子供の形状をくり抜いています。地獄が降らした枠に挟まれたその赤子は、全身を艶光る熱水に打たせ、赤褐色の皮膚からは、汗のように血を流していました。

「おや、おや。誰かなぁ、お姉さん。見慣れない顔だけど……」



 なんの表情も読み取れない、虚空を浮かべる少女を前にして。女は、纏っていた羽衣を、綺麗に畳んで膝に乗せました。そうして、手元のレバー右に押し込み、アームとバケットを少女の目の前に差し出して、ぐわららあ、があ、と。手を振るように回しました。

「お初にお目にかかります、私、霍青娥、と申します」

 運転席という厚い鉄の板に守られた女の手は、シミ一つなく、ほんのりと湿って香水の匂いを際立てています。そして差し出された鉄の手も又、コーティングが剥がされ、本体が溶け落ち始めるには長い長い時間がかかるでしょう。

 対して、巨大な機械の前に居座る少女の手は皮膚を失いボロボロで。雨風の勢いのままに、ポッキリと折れてしまいそうです。

 両者の力の差は明確でした。立場の差は明確でした。だというのに、少女はその場を離れようとはしません。いや、それどころか、その小さな眼窟のどこにそんな筋肉を秘めているのか、紅く赤く充血した眼を見開いて、今にも鉄象の脚に嚙みつこうと、姿勢を低くしているのです。

「賽の河原、水子のくにの王……戎、瓔花様、で、御座いますね」

「なあに、急に……随分と丁寧に扱ってくれるねえ、青娥は」

「ええ、そりゃあ、もう……お噂はかねがね。お聞きしておりますから」

 黒い陰を添えた、青い髪の下で、青娥はこうべを垂れました。もちろん、高い位置にある運転席から首を下げても、少女の遥か上空にそれはあるのですが。後頭部の簪から伸びた髪が、女の動きに合わせてひらひらと揺れていました。

 少女は、その赤い背景の境界に随分と力強く抗う青を、じいっと見つめていました。

「偏屈な軟体動物が石の隙間で、ぐにゃぐにゃ遊んでるって、そんな話?」

「いえ、いえ、そんな……」

 女は、ぱちぱちと長いまつ毛を瞬かせて、首を何回も振りまわします。

「今回、私は……貴方様にお願いしたいことがありまして、こうして伺ったのです」

「ほお。お願いねえ?」

「ええ、話せば長くなるのですが。此処に辿り着くまでに幾度も幾度も期待を裏切られ、心を擦り減らし。最早、貴方様のお力添えを頂けなければ、この三途の河に身を投げるしかないという心積りなので御座います……ううっ、どうか、どうか……」

 紅く上気した頰を歪ませながら、青娥はレバーを握る手を基点に操縦席にもたれこんで、肩を震わせました。それにつられて、鉄象がアームを高く掲げ、ぐわっちゃ、ぐわっちゃ、とバケットが風雨に振り回されて音を立てます。まるで、少女を嘲り笑っているかのように。

「なに、なに、泣き落としかな?」

「あら、すみません、こんな、涙塗れの顔で……化粧も落ちてしまいますね、お恥ずかしい」

「ううん。それよりもその涎に溶けた香にはうんざりしているからさ。さっさとお願いってのを言ってごらんよ」

 被食者と捕食者の間合い。弱者と強者の格差。

 嵐の日の賽の河原で繰り広げられている茶番は、ショベルの機体の枠組みを線引きとして、明確に役割の差が引かれているというのに、少女はそこから一歩も引きません。

 女はぴかぴか光る絹のハンカチを懐から取り出して、頬にぽんと押し当てました。

「……実はですね、お願いというのは……この、私の後ろに付き従っております、芳香ちゃんのことなのです。どうかどうか、瓔花様に、このあわれな芳香ちゃんを救って頂きたいのです」

 くろぐろとした青色に塗られた爪が、ぬぼーっと河の流れを見つめていた芳香を指します。

「よしかちゃん?」

「ええ、芳香ちゃん。大事な大事な、私が胸を悼んで産んだ子で御座います」

「よし、か……」

 軽トラの運転席に視線をよこした少女の眼に、新たな血管が落ちました。



 そこから女が語った与太話は、全くつまらないモノでした。

 曰く、この芳香ちゃんは消化管の機能を失っていて、食べ物を食べても消化することが出来ないのだと。そんな身なのに、健気なことに私と食事を供にしてくれるのだと。ゴロゴロした固体だらけの食事を腹にぱんぱんに詰めた芳香ちゃんを、どうにか救ってやる方法は、ないのだろうか……そう考えた先に。

 砂肝。いわゆるなんでも丸のみにする鳥が備える、砂のうのような石を詰めた器官を作ってやって、消化を助けてやることは出来ないか……と考えた。のだと。

「死体には、死で洗われた石が拒絶反応が少なくて、最適なんです。ですから、この三途の河原の石を採集させて頂けな……」

「お前、ほんっとーにつまらないウソつくね」

 この場の誰もが、その言葉を信じていません。ニコニコ笑う女も。眼を血走らせた少女も。ただ、強まっていく河の流れを眺めている死体も。

 誰も幸せにならない言葉のキャッチボールの流れの中で。損失したのは最後の信頼。いえ、もうそんなものさえ、最初から存在していなかったのかもしれませんが。

「まじない師だろう、お前。その、薄汚れたネズミみたいな吐き気のする匂いを悪趣味な香水で隠してさ。呪いに使うための石が目当てだろうと、ハッキリ最初から言えばいいのに」

「あら。バレバレでしたか」

「……全く、わざとらしいんだよ」



 死を吸った石たちは、例えば構造物ごと呪いたい際に利用されるコンクリートの骨材に最適なのですが、現世では早々用意出来るものでもありません。普通の河原では死が薄まりすぎるし、死体が沈んだ湖沼の石などは、逆に怨念が籠りすぎていて、術者の意図通りに呪いを扱う事が難しくなります。

 その点、この三途の河産の石は素材として最適でした。流れてくるものといえば、八大地獄からの死体ばかりで、特定個人の念が籠ることはなく。水子達によって厳選された石は、その子供の純粋な心に感応して、あらゆる意思に対して柔軟に反応する万能のキャンバスに変わるのです。

 当然ながら是非曲直庁によって石の採集が禁じられているのですが、密猟者は後を絶ちません。その密猟者たちが生きて帰れるかは置いておいて。



「……そこまで分かっていて、何故貴方は私に歯向かうの?……かないっこないのは、貴方自身が一番よく分かっているのではなくて?」

「お前に答えることは何もない……出ていきなさい。賽の河原から」

「それは無理なご相談ですわ」

 ますます強くなってきた雨足に呼応するように、鉄象の心臓が早鐘のように鳴り始めます。交渉は決裂し、キャタピラ達は石を踏み潰すのにもうんざりして、目標を目の前の少女へと変更しました。

 ぎゅらぎゅら、じゅらじゅら。

 付着してきた砂利を、瞬く間に後方に置き去りにして、キャタピラは刻一刻と少女に迫ります。燃え溶ける金属が照らしていた少女の顔も、バケットがすっかり覆い隠してしまって。

「さあ、もういいでしょう。そろそろ諦めて退きなさい」

「退かない」

 背水の陣を抱え、強い意志を眼に宿した少女は、まるでアイドルか何かが、照明が落ちた後のステージに立っているようでした。

「何をそんなに貴方が背負うことがあるの。逃げればいいじゃない。誰も貴方を責めない」

「皆、私を責め立てないのは知っている。だから、私は逃げない」

「……理解不能ね」

 添えられるはキャタピラに手折られた彼岸花。雨あられの中、洪水のように押し寄せる黒い拍手。身に纏うは、今にも地面に垂れ落ちようとしている、撥水の役目を果たさなくなった皮膚。

 こんな河原のど真ん中に、いつ、どうやって、こんな素敵な巨大ステージを作ったというのでしょうか。目の前にある巨大重機にだって、きっと出来っこありません。

「……何故、お前はそうやって流れをせき止める。何故、元の流れに返してやらない?」

「それが、楽しいから。手のひらの中で愛でてこそ、いとおしいから。ではないでしょうか?」

 響き渡る潰れた喉から発される美声は、雨粒の合間を縫って、頬杖を付いている操縦席の元に届きます。しかしながら、その必死の声に返されたのは、駆動輪を全開にしてのフルスロットル。

 がっしゃん、がっしゃん、キャタピラの隙間がギロチンのように、降り、地べたを通って、また上がってきます。少女はその視線を何度も切り刻まれながら、ただ履帯の中で騒いでいる転輪を見つめていました。

「……んなの、私だって」

「は?」

 何千何百と落ちてくる履帯の刃を鼻の先まで迫らせて、少女の口から出てきたものは、命乞いでもなく。三途の河を護るという固い宣言でもなく。

「狡いっ……よ!」

 ……ただの、子供じみた嫉妬。他の家の子供が新品のおもちゃで遊んでいる時に発される、あまりにも無垢で、あまりにもこの嵐の河原にそぐわない、人を妬む心。

「……私だって、私だって、私だって、私だって!」

 ですが、それこそが少女を三途の河の王たらしめる感情でした。水子の母として君臨するために、最も必要な感情でした。

「……私だって……皆と遊びたかった。ずうっと一緒にいて欲しかった。この河に……この河原に!」

 少女は、自分を引き裂くキャタピラーが鼻の頭を食い破る直前に、一歩だけ右足を踏み出します。そしてそれが、今日の最後の演目に入る、最初のステップでした。



「お前っ、みたいな、狡いやつには、石はやらない。誰も、何も渡さない、渡してやらな……!」

 ぐしゃ、ぐちゃ、ずしゃ、ずちゃ。

 迸る血潮。喉を刻む絶叫。水しぶきを上げながら喝采する黒竜江たち。

 履帯に切り刻まれ、転輪に押しつぶされ、人という形を失いながらも、少女の身体は確かに鉄象に歯を立て、その足を止めました。少女の身体は何も持てず、支えられないほどか弱い小さな存在でしたが、その蟻の心を満たしていた覚悟の牙は、少しだけ、ほんの少しだけ、巨躯を振り回す象に届いたのです。

「こんの、糞ガキャァ……!」

 履帯に絡まっていく少女の肉体は、最も大事な駆動輪に挟まりこみ、空回りするモーターから煙を吹かせながら、キャタピラの回る速度はどんどん下がっていきます。日当と補償代いくらだと思ってんのよ、と怒鳴りながら、女はとうとう髪の毛も化粧もなりふり構わず、操縦席から出て金属が礫となって襲い来る河原に降り立ちました。

「ちょっ、芳香ちゃん、手伝いなさい!……一旦エンジン止めるから、この邪魔してくる肉の束を引きずり出して……」

「おーい、青娥。それなんだがな」

 麻袋を抱えて軽トラの荷台に立っている死体は、にじんで掠れている河の上流を見つめていました。その死んだ眼には、黒いなにかが映っています。

「呑気に石選別してる場合じゃないわ、早く……っ……?」

「そういえばここ、上流の霞堤の氾濫範囲だった。もうアウトかも」

「は?」

 通常の堤防部分からの越水・破堤を防ぐために『予め切られた』堤防。そこに作られた僅かな傾斜には、完全な堤防だったならばきっと支えきれなかったであろう余剰な水が溜まり、今にも爆発しそうになっていました。

 河川の合流地点付近、そしてよく死に洗われるという石達の宝庫。そう、女が石を漁っていたのは、危険区域のど真ん中。他の箇所を護るために意図的に河を氾濫させ、本流の勢いを削ぐために作られた河原でした。

「それ、早く言っ……」

 慌ててショベルカーを引き返させようとしますが、少女の肉塊に足止めされた機体はいうことを聞かず、もう手が付けられません。雨の勢いと共に増した龍の速度は、半日上がりの死神の舟よりも、遥かに早く、遥かに速く……。

 ……別に、これが天罰だとは言いません。何故なら、女は、葦原の中つ国の流れから外れた、不純物だったから。閻魔様が糾弾するのも、石の密猟に対してだけでしょう。

 ですからこれは、女ではなく。死体と少女が背負っている流れなのです。

 彼岸花を。死神の舟を。大岩を。石塔を。何もかもを腹に収めて、まだ足を止めようとしない黒龍が大口を開けて、何もかもを飲み込んでいきました。鉄象も、種々の石も、女自身も……。



「……ショベルのレンタル料、高かったんだけど……な」

 直撃こそ食らわなかったものの、死体の身体は風呂上りのように重く水を吸い、軽トラの荷台に積んであった獲物も、すっかり龍の口の中に運ばれてしまいました。女に呼び掛けても、答えはありません。きっと、随分と下流まで流されてしまったのでしょう。

「あーあー、こりゃあ酷い」

 ぶつくさ言いながら、微量に残る石の残滓をかき集め麻袋の中に詰めていると、どこからともなく、

「ねえ」

 と、濡れてしわがれた声が届きました。

 死体は何もかもキレイさっぱり洗い流されたはずの河原を見渡します。すると、そう遠くない岩の狭間に、ヒビを浮かべさせた二つのしゃれこうべに挟まれて、肉のついた小さな顔が見つかりました。

「参議篁が、井戸穴から落ちてきて……現世との交流が始まってから……本当に、色々なことがあったけど。私は、皆にとっても感謝してるんだ」

 それは、雨霧の中に溶け込んでいくうわごと。死体の溶け落ちた脳みそは、その言葉からは何も見いだせないはずでした。何も理解できないはずでした。

「私は幸せだった。誰かに憶えていてもらえるっていうのは、本当に有難いことだったんだよ」

 けれども、死体の手は止まっています。さっさと荷物を纏めて、軽トラを動かしてここから逃げ出さなければいけないのに。是非曲直庁の追手も、すぐそこに来ているかもしれないのに。まるで、死体の中にいる何かが腕を引き留めているようで。自由意思に操られているはずのその筋肉が、動き方を忘れたかのように、ピクリとも返事をしないのです。

「ね、え、よしか……っ、良香……。お前は……『彼女の名前を憶えている?』」

 その言葉が引き金だったのか、死体の身体を縛っていたのしかかるような石は、ふっと姿を消しました。そうしてどうにかこうにか喉を動かして、出てきた言葉はあまりにも素朴で、ぎこちない言葉。

「は、て……さて。何のことやら」

 死体には、自分のことも、少女のことも、何もかも。全てが等しく、わからないモノでした。死体の声を聞いた少女は、がくりとその顎の力を失い、目の前に広がる急流にはあまりにも無意味な一滴の雫を、瞳からこぼしました。

「……ごめん、ね。良香。助けて、あげられなくて……元の流れに、戻してやれなくて……」

 そう言い残した後、少女の頭は事切れて。首だけの新たな死体が、三途の河原に転がります。けれども、少女がこの河から逃れられることはありません。クラゲの触手のように僅かな断片から再構築がやがて始まり、数日たてば元の姿に戻って、流れ続ける河を又、見つめることになるのでしょう。なにせ、それこそが少女に課された責なのですから。

 元からいた死体は独りになり、軽トラのドアをばたむと閉めると、雨音に負けるエンジンをふかせ、道なき砂利の上を走りだします。

 黒く、強く、流れる水から。少しでも距離を取るように。視界の端に、あの何もかもをすりつぶす、悍ましい水の姿が映ることのないように、遠くへ。

 遠くへと。



「……謝るのは私の方です。本当に、本当に、申し訳ございません。今はまだ、彼女にも貴方にも合わせる顔がないのです。この私が選んだのは、青娥だったから。……ですから、どうか、また。次の流れで、お会いできるのを楽しみにしております、戎様。その時までどうか、どうか、ご息災で……」



【速度水頭、位置水頭、圧力水頭、損失水頭の和は、同一流線上の二点において、常に一定である】





 らたたたた。

 らったたた。

 霧の合間を縫って現れる、八大地獄の火山が吹き出す噴煙を遥か遠くに眺めて、延々と続くロックフィルダムの堤体の上を、がたぴし揺れる軽トラが走り抜けていきます。その荷台には、麻袋に半分ほどの僅かばかりの石ころと、大きな古代魚が乗せられていました。

「このダム、採石は全部極楽の鉱床からですって。これだから頭の硬いお上は……この地産地消のコンパクト化時代に、馬鹿みたいよ、ねぇ」

「元・公務員としては何とも言えんとこだなー」

 古代魚の口から響く女の声に、運転席に座る死体が答えました。悍ましい凹凸を持っている魚の胸びれには、三途の河の渡し賃である六文にも満たないクズ値の札が付けられています。

「あー、臭っ。ナニ、この謎の液は。ちょっと、芳香ちゃん、助手席のタオル取って、タオル。全く、古代魚の中に入って逃げ延びるなんて、今後は御免……ね?」

 古代魚のカマを下半身に履いたまま助けを求めた女に対して、死体は答えずに、じいっとその滑稽な姿を見つめていました。勿論、前方不注意の無免許運転のままで。

「何、見てるの」

「いいや?……ただ、こうして下半身が魚になった姿を見ると、あの湖に棲んでいる人魚みたいで……青娥なんかでも可愛げがあって、馬子にも衣装だなー、と」

「……まだ可愛げ、とか。そんな言葉を記憶していたのね、芳香も」

「これでも都の試験に通った元・公務員だからなー」

 どろり、と大きな歯から垂れ落ちた液体が染み、女の腰回りは深く深く、青に染まっていきました。



 らったった。

 たったらったら。

 巨大な魚の死体を河に不法投棄した軽トラは、その最大速度をさらに高めて、紅の霧を裂いてダムの上を駆けていきます。

「なー、青娥」

「なあに?……芳、香」

「ありがとうな、戎様のこと」

「あら、何のことやら。私はただ三途の河の石を盗みに来ただけで……」

 河は何も答えません。魚を投げ入れられても、石を盗まれても。

「まあたまたぁ、そんなこと言って。是非曲直庁の反応速度までしっかり確かめてくれてさ。アレならまあ、戎様をしっかり守ってくれるだろうなー」

 石を愛しても。その流れを愛しても。

「……兎に角、私の話はどうでもいいのよ。それよりも……貴方『たち』こそ、本当にこれでいいの?」

 先ほどの魚の死肉が水の中で漁りあいになっているのか、ロックフィルダムの水際の水が、飛び跳ねて岩を攫いました。そうして乾燥しきった堤体の中に、又新たな水が供給されていきます。



【愛しき我が那勢命、如此為ば、汝が国の人草、一日に千頭絞り殺さむ】

【愛しき我が那迩妹命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋を立てむ】



「いいんだよ。これで。大唐の律令でも、ギリシア神話の寓話でも、ましてや欧州の科学者どもが定めた方程式でもなく……私たちが。葦原の中つ国に生きる私たちが決めた約束。私はそれを大切にしたい」

「……その代償として、あの子が差し引き五百の人頭を背負って、流れの損失を埋め合わせることになっても?」

「子は親を選べない。それも又、イザナギノミコトとイザナミノミコトに定められた、戎様の運命だ」

 岩の間隙を縫って、水分はロックフィルダムの中枢へと浸透してゆきます。巌の如き大岩、河原に転がる石、礫、砂と、粒径はどんどん小さくなって圧力をかけ、水分子を粉々に砕き、押しつぶそうと躍起になっています。それでも、水は流れることを止めようとしません。

「……老衰で亡くなる人頭よりも、生まれる赤子の方が少なくなろうとしているこの異常な時代。水頭が、文字通りひっくり返ろうとしている、今でさえも?」

「おや、忘れたのかー?……私は堂々と二股をかけるくらい、自分勝手な極悪人なんだぞ。この国が水の底に沈むなら、それも私たちの運命として受け入れるぐらいの覚悟はある」

 ダム表面でしみ込んだ元の水塊をバラバラにして、それをさらに星の数ほどの砂礫の空隙にくぐらせた後。とうとう浸透水が堤体中央の粘土層に到達し、これからはいよいよ反対側の世界へと。つまり、三途の河の流れとは全く異なる世界の水系へと、水は染み出そうとしています。しかし、最後の関門である粘土たちは手を固く繋ぎ止め、水が通り抜ける道を与えようとはしません。それどころか、水が触れれば触れるほど頑なに染み固まり、隙間を狭めていくのです。

「でも……」

「なあ、青娥はさ」

「……何」

「怖いんだろー。離れ離れになるのが」

「な……」

 是非曲直庁も水害対策の為に堤を作ったのですから、そう簡単に水漏れがあっては面目丸つぶれです。厚い厚い粘土の層は、その意思の表れ。一滴の水さえも逃しはしないという、覚悟の表れ。

「そんなに心配しなくても。次の次の生では、長江も黄河も飛び越えて。青娥に逢いに行くから、さ」

「……芳香、貴方、毎度の生でそういうことしていると、いつの日か本当に身体のパーツをバラバラにされるわよ」

「なあに、大丈夫。水はいつかどこかで、繋がっているものだから」

 粘土層に入り込んだ水の旅路は、まだまだ始まったばかり。阿鼻地獄で苦しむ罪人のように、これから永遠に近い時の流れを、とてつもない圧力と共に過ごすことになります。現世における六千四百年を一日一夜として、その六千四百年を一日一夜として、その又六千四百年を超えた先。中劫と呼ばれし、いにしえより伝わる時間を。

「全く……われてもすゑに……ってやつ?」

「ううん、そんな熱っぽさは私には似合わないんじゃないかー。そういうのは、聖徳王を閨にでも誘った時に、背中に搔き傷でも付けながら詠んでやればいい」

「ちょっと」

「おっと、道の上に石が」



 水はただ、何も答えずに。流れ続けます。

 穿ち明けた光の先にあるものを知らなくても。

 落ち続ける滝の下にあるものを知らなくても。

 巻き続ける渦の中心が、何処に行くのか知らなくても。

 永遠に、変わることなく。



「だからさ~……もっと水のように空虚なんだよな。ジャパナイズ・アンビション、てのは。からっぽで、うつほで……」

「……ワビサビ、ってコト?」

「はい、せーが、その言葉マイナス十ポイント」

「なんでよっ」






 かはべなる いしの思ひの きえねばや 
 岩の中より 水のわくらん

(宇津保物語 祭の使)


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コメント



0.300簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
重厚でどこかコミカルな物語、とても面白かったです。青娥は邪悪だけど浸っていたくなるようなやさしさもあって、そこが素敵でした。お気に入りのシーンは戎との邂逅の際に無意味な嘘をつくところです。
水頭症というモチーフがぴたりとはまっているような感じがしました。
3.100サク_ウマ削除
邪悪な風の又三郎が出てきて思わずヒエッと声がでました。すごい……すごい闇深い。
闇と業と呪詛がマシマシで、それでも営むものものの輝かしさを感じさせる、良い作品だと思います。お見事でした。
4.100Actadust削除
暗い闇の、その中にある光を想像させるなんとも複雑ながら素敵な作品でした。
弱者として青娥に対峙する瓔花が印象的ですね。楽しめました。
5.100南条削除
面白かったです
軽トラと重機が出てきた辺りで耐えきれませんでした
最高でした
6.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです