Coolier - 新生・東方創想話

アンバー

2021/11/23 21:39:27
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町の居酒屋は雑木林によく似ている。
腹を空かした者たちが、賑わいに飢えた者たちが、宴を求めて集まっている。
懐中電灯に虫が群がるように、店の窓からこぼれる光は人々を惹きつける。

「ねえマスター、そろそろおでん始まってんでしょ」
女苑が店主に声をかけた。給仕の女の子が置いていったおしぼりを使って手を拭いている。いつも通りと言わんばかりの小慣れた動き。
私たちは二人並んでカウンター席に座っていた。壁を隣にして私、そのすぐ横が女苑。
壁際のカウンター席はお得意様用の場所だった。お得意様っていうのはもちろん私ではなく女苑のこと。
「マスター呼びはよしてくれよ」
「またまたあ、まんざらでもないくせに」
女苑に茶化され店主はハッハッハと笑る。白髪がちな頭の割にエネルギッシュな人だと思う。
女苑は女苑で顔をほころばせ、ハンドバックから煙草を取り出し火をつけた。

私は手持ち無沙汰に少し首を捻って肩越しに店内を見渡す。
初めての店で、カウンター席で、隣では常連と店主が仲良く喋っているというのは、正面を向き続けるには少々きつい。
狭い店内には数人掛けの大きなテーブルが詰め込まれていた。片手で数えられる程度の数しかない。そのどれもが埋まっていて、数人の男たちが酒盛りに精を出している。
机の上には唐揚げ、焼き鳥、揚げ出し豆腐等々揚げものばかりが並んでいて、その油っこい臭いにこっちが胃もたれしそうになる。ところどころに見える枝豆やきゅうりの漬物が荒野にポツポツ生える雑草みたいだ。
男たちは概ね「おっちゃん」といった見た目。大方がジョッキ片手に大声で談笑している。飲んでいるのは大方ビールだと思う。山吹色のものが好きなのは生き物の性なのかもしれない。
楽しそうだな。シンプルにそう思う。でも、だからどうするというわけでもない。

「ご注文のハイボールです」
給仕の女の子がジョッキを持ってやってきた。
私は仕方なしに机に向き直る。ずっと周りを眺めて過ごそうと思っていたのに。ひっそりと居て居ぬふりをしようと思っていたのに。そうすればいたたまれない気持ちから目を逸らしていられたのに。
女の子はまず女苑にジョッキを渡した。ジョッキの中の液体は店内照明を受けて琥珀色に輝いている。虫たちが愛してやまない樹液の色。
「お姉さんにも。このくらいのサイズがいいですよね」
私にもグラスが渡される。女苑のジョッキの半分もないくらいの大きさのグラス。
頼んだ覚えはないのだけれど。
「サービスだよ。サービス」
店主がカウンターの向こうからそう言った。
断る理由はないしわざわざ断るような気力もない。私は素直にグラスを受け取る。
手渡しがてら、女の子はウインクをした。多分私に向かって。違うかもしれない。
娘さんなのかな。それにしては幼い気もする。どっちかというとお孫さんか。こんな夜中に居酒屋で子供が働いてるなんて。児童福祉もあったもんじゃないな。もとからあるはずもないか。
そう思うとなんだか人ごとじゃない心地がして、この子ことをついつい意識してしまう。
「おーい、注文お願い」
「すぐ行きまーす!」
何処かの席でおじさんが声を上げ、女の子が弾けるようにかわいらしく返事をした。
女の子が去っていくのをぼんやりと目で追いかける。ふりふりとした姿に目を奪われる。長めのスカートと腰巻きエプロンがひらひらと流れる。男ばかりの店内ーー女苑も勘定に含まれているーーで、まさに紅一点だった。蝶々みたいだと思った。夜の林で異彩を放つ鮮やかな蝶々。

ガラガラッ。
氷のぶつかり合う音がし、私は思わずビクリとする。それから心の中で苦笑いする。母親に叱られる子供みたいなビビり方だ。
恐る恐る音のした方を向くと、女苑がお酒を荒々しくを飲み下していた。えらく大きな音を立てるものだと思った。いくら女苑とはいえ。
「相変わらずよく飲むねえ」
店主が囃す。女苑は一息でジョッキを空にしていた。
「まあね。ていうか、どーせサービスするならもっといいもん寄越しなさいよ」
女苑は煙草を持った手で私のグラスを差し、それから「こいつがしみったれた顔してるからなあ」と反対の手で私の肩をバシバシ叩いた。私はしばかれるままに体を揺らす。煙草の臭いが鼻腔と咽頭を刺激した。咳が出そうになるのをなんとか堪える。
「高いお酒はは昨日お嬢ちゃんが全部飲み干しちゃったよ。まあお代を払ったのは周りの男どもだったけど」
店主の言葉を聞いて女苑は叩く手の勢いを強める。私の体も合わせてぐらぐら揺れる。女苑はそういうひとだ。自分の業績を褒められて喜ぶタイプの。
「みんな奢らせてくれ奢らせてくれってうるさいんだもん」
「流石女苑ちゃんだなあ」
「褒めても何も出ないわよ」
「困ったなあ。お店としてはもっとお金落としてくれると嬉しいんだけど」
「心配しなくてもまた浪費させてやるさ」
女苑と肩越しに親指でクイクイと店内を指差し、それから二人はガハハハと笑い声をあげた。
私は椅子からこぼれ落ちそうになりながら二人のやりとりを眺める。女苑の近くにはこういう人ばかりいるような気がする。

こういうとき、女苑はなんというか心の底から楽しそうな表情をしている。私と二人っきりでいるときには見せない顔。
私は自分がここに存在していないような気分になる。樹液の滲み出るクヌギの木に留まれず、ふらふらと辺りを飛ぶ蛾みたいに。

私は雑木林に来ている。



「それにしても女苑ちゃんは毎度バッチリのタイミングで来るなあ。ちょうど昨晩から仕込み始めたところだよ」
店主はおでんの具をいくつか小皿に乗せてこちらに寄越した。大根、煮卵、ちくわぶ、牛すじ。それから深みのある黄褐色の出汁。うま味の利いたいい香りが辺りに漂う。楽しみたくない内心とは裏腹に、唾液腺と胃袋が勝手に活動を始める。
「あたぼーよ。夜の街に私の知らないことなんてないっての。この店のことだってあんたの嫁さんより詳しいんだから」女苑はふふんと鼻を鳴らす。「あ、女房には逃げられたんだっけ」
「かー。女苑ちゃんにそんなこと言われたら悲しくなっちゃうなあ」
店主は大袈裟におでこをペチンと叩く。
それを肴とばかりに女苑は牛すじを貪りお酒をゴクゴク飲みくだす。
女苑の飲みっぷりは私が見ても爽快だった。

女苑は空のジョッキを机の上に置き、私の方を一瞥する。
「あんたもさっさと飲みなさいよ」
女苑は牛すじの串で私のグラスを指差した。
「うん」
私はあんまりアルコール好きじゃないんだけど。
「なんか文句あんの?」
「いや、別に」
別に文句があるわけじゃないけど。
「じゃあいいけど。飲みに連れてきてやってんだから恥ずかしい真似しないでよね」
女苑は前歯でこそぎとるようにして牛すじを串から外し、もぐもぐと口を動かす。

ひどい言い草だと思う。
でも確かにここへ来たのはいつも通り引きこもっていた私を女苑が「ずっと家にいたら腐るわよ」って連れ出したからで、反抗する元気もないからってそれにほいほい従った私はこうして慣れない場所の隅っこで肩を縮こませ、店員さんに声をかけることもできずーーだってずっと忙しそうにバタバタしていて呼び止めるタイミングが分からないしいざ声をかけてその次になんで言えばいいかも私は知らないーーただぼうっとしている。
思い返してたら嫌になってきた。「連れてきてやった」という表現もあながち間違いではない。というかその通りだ。「恥ずかしい真似」という部分も含めて。

落ちた気持ちは目線をも下げさせる。
自分のグラスと目が合った。給仕の子が私用に選んでくれた小さめのグラス。中身は女苑のと同じ綺麗な色をしたハイボール。
これを飲めば私も木の幹に留まれるのだろうか。
そういうことじゃないと頭の中では分かっているはずなのに、お酒が通行税のように思えて仕方ない。
そう、税。つまり私には縁がなくて、というか私が逃げ続けていて、それでいて女苑はいちも容易く支払っているもの。
疎外感が降りてくる。それは黒い雨雲のように私の脳みその全体を覆い、すぐに雨が降り始める。雫が木の葉を叩く音がする。心がぐしゃぐしゃになって泣きそうになる。

ちらりと横を見ると、女苑はもはや私のことなど興味ないようで、いつの間にか牛すじを平らげてしまい大根を箸で切り分けている。
なんだか自分が情けなくて、馬鹿らしくもなった。
ああ、もう。一人でいじいじなにしてんだろう。

「物欲しそうな目で見てもあげないわよ」
私の視線に気づいたのか、女苑がそう言った。
私は反射的に顔を逸らす。机の上のグラスと再会する。依然として琥珀色に輝いている。蜜のように甘いに違いない、見つめているとそんな気がしてきた。そう思うことにした。
私はグラスを手に取る。
氷が溶けてカランと音を立てる。
ままよ。さっさと飲んでしまおう。
私はグラスを口に近づける。それから女苑みたいに気前よく傾けて——。

「うげえ」
思いっきりむせた。
口に含んだまでは良かったけれど、飲み込もうとすると途端にウヰスキーは私の喉を焼いた。強いアルコール臭が頭にがつんとくる。
「ちょっと、姉さん何してるのよ。汚いわよ」
女苑は食べさしの大根を箸で摘んだままこっちに顔を向けた。ひそめた眉と下がった口角が嫌でも目につく。
「ごめん」
もっと甘くておいしいと思っていた。思い込もうとしていた分をさっ引いてももっと甘いと思ってたのに、ハイボールとかいうやつは想像とは裏腹に苦くて薬品みたいな味だった。
「いちいち謝んなくていいから。さっさと零したの拭きなさいよ」
「うん」
グラスから? 口から? どっちからか分からないけど、私はカウンターに溢れたお酒をおしぼりで拭く。

「あー、もう! そっちは後回しでいいの!」私がとろとろ机をきれいにしていると、待ち切れないといった風に女苑が口を挟んだ。「ほら」
そう言って女苑はバッグからハンカチを取り出した。レースがあしらわれた、ふりふりしてるやつ。
女苑はそれを私の胸元にあてがう。ごしごしとこする。どうやら私は自分の服にも零していたらしい。気づかなかった。頬が赤くなるるのを感じる。
「ごめん、ありがと」
「ほんっと私がいないと何もできないんだから」
女苑はそう言いながらやっぱり目も合わせない。でもどういう表情をしているかはなんとなく想像がつく。私と一緒にいるとき、女苑は呆れているかイライラしているか私がいないかのように振る舞うかのどれかだ。

「新しいおしぼりお持ちしましょうか?」
給仕の女の子がまたもや気を利かせてやってくる。
女の子があまりに優しそうな表情をしているので、私は嬉しいやらほっとするやら恥ずかしいやら申し訳ないやら。
それで「えへへ」と歯切れの悪い応答をしていると、
「大丈夫です。こっちでなんとかなりますので」
女苑はやけに強い語調で、いつもは使わない敬語で、それを追い払った。縄張り争いをするカブトムシみたいに。



「がはははは!」「女苑ちゃんは容赦ないなあ」「あいつ気にしてるんだからほどほどにしてやれよー」
後ろの方から男たちの喋る声が聞こえてくる。振り返らなくても分かる。彼らの相手は女苑だ。女苑は宣言通り、居酒屋内を行脚して男たちに金を落とさせている。
私はカウンターに突っ伏して何をするわけでもなくぼんやりとメニューを見つめながら、その熱量を背中で感じている。
やっぱり私はこうしているのがお似合いだ。

「今日は奢ってやるぞ! 嬢ちゃん!」「ちょっとこっち来てくれよ!」
おじさんたちの声が狭い店内に響く。
「じゃあ一番たくさんお金出してくれる人のとこ行こーかな!」
女苑が応え、それからガラガラと硬くて小さいものがぶつかり合う音がした。
多分グラスを振り回してるんだろうな。やっぱり女苑はカブトムシだ。

「盛り上がってますね」
突然の声にちょっとびっくりする。顔を上げると、例の給仕の女の子がカウンターの傍に立っていた。
私は体を起こす気もなくて突っ伏したまま目だけ彼女の方を向く。
「さっきはごめんなさい」
謝罪の言葉はすらすらと淀みなく溢れる。
「いえいえ、謝るようなことじゃないですよ」もごもご話す私に対し、女の子は体の前で両手を振り振り。「皿を割われたり店内でリバースされたりが日常茶飯事ですから」
彼女の困ったようなはにかみに、私はただただ申し訳ない気持ちになる。
「女苑のこともごめんね」
いつもはあんなに噛み付いたりしないんだけど。
「気にしてませんよ。女苑さんはああいう人ですもんね」
女の子は全部わかってますよとばかりに柔らかく微笑んだ。
私はもう泣きそうになってしまう。気づかれていないといいいな。気づかれてないだろうな。私はポーカーフェイスだから。どちらかというとポーカーに負けた顔だけど。

そういえば女苑はこの店の常連なのだ。この子も女苑の荒っぽさには慣れっこなんだろう。もしかしたら実は私より女苑と仲がよかったりするのかもしれない。
そんなことを思っていると、
心配しなくともお姉さんが一番仲良しですよ。女苑さんと」
女の子が小鉢をカウンターの上に差し出した。お皿の淵に辛子をちょんと乗せる。刺激的な香りが再度内臓を活発化させる。体は正直なのが本当に情けない。

それにしても、心の内を見透かしたかのような発言だと思う。長いこと接客業をやっていたらサイコメトリーが身についたりするのだろうか。だったら悟り妖怪も商売上がったりだろうな。
「私からのプレゼントです。初来店のサービスということで。ほらおやっさんもさっきやってたし私からも」女の子はこっ恥ずかしそうに斜め下を向いてそれに「一回やって見たかったんですよね。『私の奢りだ』ってやつ」と呟いた。
えらく少女じみた仕草もするんだな。そう思った。

この子といると胸がちょっと苦しいような気がしてくる。心臓が締めつけられるような感じ。
この感覚がどういう感情に基づくものなのか、なんとなく予想はつくけれど確信はもてない。それはちょうど、お医者さんに「体がだるかったりしませんか」と聞かれたときのようなもの。私のこの気怠さが生来的なものなのか、それともお医者さんが想定しているものなのか私には分からない。
私の胸がきゅっと痛むのがただ慣れない場所で慣れない人と話しているせいなのか、それともいわゆる”そういうこと”なのか、私には判断がつかない。

「あっ」
ふいに女の子が声をあげた。その目線は私の背後に向けられている。
振り返ると、女苑が立っていた。いつの間にか戻ってきたらしい。ひとしきりテーブルを渡り歩いてきたんだろうな。足取りはしっかりしているけどかなり呑んできたみたいだ。珍しく上気した頬にそう書いてある。
「姉さん、ちゃんと食べてる? なんか頼んだ?」
女苑はそう言ってジョッキを半ば放り投げる。一挙手一投足が荒々しく感じられる。
「いや、何も」
私はただ首を横に振る。私は女苑が皆と盛り上がっているのを蚊帳の外から眺めているだけだった。
「恥ずかしい真似しないでって言ったじゃん」女苑はげんなりとした顔で席に着き、それから「あぁ?」と怪訝そうな声をあげた。「なんか料理出てるじゃん。何これ?」
「私の奢りですよ」女苑と私の間に給仕の子が割って入った。「お姉さん、注文するの慣れてなさそうだったので。ほら、こういう場ですし。ね?」
女の子は同意を求めるようにこちらの方を見る。
「え? あ、まあ。うん。そう」
私は肩身が狭くて歯に何か挟まった感じになってしまう。

女苑は何も言わない。
私は心なしかピリッとした空気を感じた。
女の子に遮られ女苑の表情はよく見えない。けれど、いやだからこそ、怒っているのが容易に想像できる。言語化するのは難しいけれど、こういう空気を私はよく知っている。たくさん経験している。言葉と言葉の間というか動きの緩急というか、「あ、ヤパい」って雰囲気がピリッと漂うのだ。酔っ払った顔がさらに赤くなっていくのが目に浮かぶ。

「おっちゃーん! ハイボールおかわり!」女苑は大きな声で注文し、それから「あんたホント余計なことしかしないわね! 余計なお世話よ!」
机をバンッと叩き、勢いよく立ち上がった。小鉢が揺れ、おでんの汁が机の上に飛び散る。案の定、こめかみに血管が浮き出ていた。
「あ、あれ? お気に召しませんでした?」
女の子は目を丸くして、私と女苑の間できょろきょろと首を捻る。
もちろん私はお気に召している。機嫌が悪いのは女苑だけだ。今日は何故かやたらと虫の居所が悪い。女苑が施しを嫌うタイプってのは知っているけれど。
私はどうすることもできないので避難に向けて心の準備をする。

「お気に召すもクソもないわよ! さっきからちょっかいばっか出して!」
女苑は怒鳴りながら女の子に詰め寄る。女の子は気圧されるように仰け反り、私はそれに潰されるかたちになる。
女苑はそんなことお構いなしにぐいぐいプレッシャーをかける。
「そんな、ちょっかいだなんて」
「ちょっかいでしょうが! 何処の馬の骨か知らないけど私が目を離した隙にいちいち粉をかけやがって!」

女苑の声はよく通る。
店内を見回すと、騒ぎに気づいた飲兵衛たちがこちらの方を興味津々に眺めていた。
「おお? 修羅場かあ?」
誰かが酔っ払いらしいすっとぼけた声で茶化す。
「見りゃ分かんでしょ! そうよ!」
女苑は声のした方へ向かってそう叫んだ。
一瞬の静寂。その後「「おおおおおおおお」」とどよめきがあがる。
「嬢ちゃんにも春がきたか!」「相手は誰だ!」「うるせえちゅっちゅしろ!」
店内がにわかに盛り上がる。

「ちょっとあんたこっち来なさい! その腐った根性叩き直してやる!」
女苑は給仕の女の子の腕を掴んだ。群衆のボルテージに背中を押されるように、そのまま店の出入り口へと向かっていく。
「ちょ、ちょっと! 落ち着いてくださいってえ!」
女の子は引きずられながら、やっぱりかわいらしい悲鳴を上げる。
「女苑ちゃん、それくらいにしてくれよ」店主がやれやれといった様子で厨房から出てくる。「毎度毎度そう暴れられちゃあ困るよ」
女の子は涙目ながら安堵の表情を浮かべた。女苑は意にも介さず、といった様子だった。
「あぁ? 何か用かい? この粗チン野郎!」
女苑は女の子を放っぽり出して、今度は店主に噛み付く。
酔っ払いたちのテンションも一段と盛り上がりを増した。

女苑が店主に飛びかかる。
店主は見かけによらず情けない悲鳴をあげる。
客の一人が「まあまあ」と仲裁をしに近づいてくる。
女苑が今度はそいつに殴りかかる。男は腰を抜かしてひっくり返る。
ぞろぞろと店中の客が集まってくる。皆わいわいと囃し立てヤジを飛ばす。喧嘩(というより女苑の八つ当たり)を止めようとする人はほとんどいない。まるでそれが日常だとでもいうように。
店主はカウンターに寄りかかるようにして立っている。私と目が合い、「ダメだこりゃ」というように苦笑した。
給仕の女の子の姿は見当たらない。

町の居酒屋は雑木林によく似ている。
腹を空かした者たちが、賑わいに飢えた者たちが、宴を求めて集まっている。
懐中電灯に虫が群がるように、店の窓からこぼれる光は人々を惹きつける。
樹々に集まった昆虫たちが争うのは樹液を奪いあってのことか、それとも美酒に酔っているだけなのか。

ふと甘い匂いがした。なんの匂いか、すぐに見当はついた。
女苑がいつも付けている香水の匂いだ。名前は知らない。ミルキーで濃厚、高級そうな雰囲気を漂わせ、力強いくせにサラリと抜けていくバニラのようなフレーバー。
タバコやら酒やら油物やらお出汁やら、いろんな匂いに紛れて今まで気づかなかった。
残り香にしてはやけに強く香ると思った。
気になってくんくんと辺りを少し嗅いでみる。
ドキッとした。
甘い香りは私の服や髪やリボンから漂っていた。当然だけど、私が女苑の香水を勝手に使ったなんてことはない。
どういう経緯で何があってこういう状態になったのかは分からない。ただ、女苑はもう私の体に染み付いている。そう思った。

視線を戻すと店の入り口付近は依然飲兵衛たちでごった返していて、その中心に女苑がいるのが辛うじて垣間見える。何人かに取り押さえられながらそれでも暴れようとしている。ひどく酔っ払っているのがよく分かる。
「あの下女を出せ! どこ行きやがった、あいつ!」
酒焼けと叫びすぎのせいで喉が枯れ始めていたが、それでも力の限り吠えている。
それもすぐに酔っ払いたちの騒ぎの中でかき消されていく。

天井から下げられたランプ灯が、そこらじゅうを琥珀色に染めている。

私は雑木林に来ている。
「蛾はむしろ女苑の方では?」などとぬかす輩は油田に沈めます。
ニッケルメッキ
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コメント



0.50簡易評価
1.100めそふ削除
とても面白かったです。
この作品は匂わせ方というのがとても素晴らしかったと思います。女苑がおしぼりを断ったとき、紫苑という視点を通してみても縄張り争いをしているカブトムシの様に見えたとあります。このとき紫苑自体は女苑の様子がそう見えましたが、一体何を縄張りとして争っていたのかはこの時点では自覚出来ていませんでした。しかし読者の視点から見ればこれは明らかに紫苑を巡っていると明記されている様なものであり、はっきりと全て書かないながらも分からせるという手法が素晴らしいと感じました。
また、それは終盤女苑が美宵に対して怒りを表したことも同様であります。何に怒っているか紫苑自身は理解できていません。しかし最後に自分に染み付いた女苑の匂いに気づく訳です。これによって女苑が何に怒りをあらわにしているのか、紫苑がそれを理解できたのかそうでないのか、そこがはっきりと示されていない。その推察の余地を与え方が上手いなあと感じます。そして結局、読者の我々は女苑が紫苑に向ける感情を存分に楽しめています。推察の余地を与えつつ、関係性を存分に描いた満足感を堪能させる。とても良かったです。ありがとうございました。
2.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100サク_ウマ削除
繰り返される「雑木林」の比喩が紫苑の感じている疎外感をよく表しているように感じます。良かったです。
4.100Actadust削除
比喩が終始雑木林で例えられてるの、すごく良いですよね。雰囲気も一環してるし、酒場の喧騒や疎外感がこれ一つで全て表現されていて、没頭してしまいました。
邪険に扱いつつもしっかりと姉を見ている女苑が可愛い。楽しませて頂きました。
5.80名前が無い程度の能力削除
良い雰囲気でした!
6.100南条削除
とても面白かったです
キレ散らかしている女苑と周りの奴らが楽し気でよかったです
女苑なりの甘え方なのかとも思いました
7.100名前が無い程度の能力削除
姉のことが大好きなわがままな女苑がかわいらしくて良かったです。紫苑も思慮深いけど口下手だったり情けなかったり、魅力的でした。居酒屋が雑木林で、客たちは琥珀色の樹液に吸い寄せられていて、そこを見つめるという比喩も素敵でした。
9.100名前が無い程度の能力削除
読みやすい文章と比喩表現が噛み合っており、心理描写も丁寧で大変完成度が高いように感じました。面白かったです。