塗装が剥がれ落ち、痛んだ箇所が幾つも露出している扉を開ける。蝶番が軋む甲高い金属音と、天井から吊された裸電球の淡い光に、黴臭い空気が迎え入れてくれた。
「お疲れー」
ワンテンポ遅れて、室内から蓮子の声が響く。部屋の中央を陣取っている机の上に何かを広げているようだ。そちらへ注意を向ける前に、空気を入れ換えなければ。
「お疲れ。相変わらず鼻に付く臭いね」
「あらやだ失礼、これでも気をつけてるつもりなのに」
「蓮子じゃなくてこの部屋よ。換気してっていつも言ってるじゃん」
「だってここ最近めっきり寒くなってきてさぁ。嵐山を始め各地で紅葉が絶賛進行中だってニュースでやってるくらいだし」
「厚着すれば良いでしょ。それか、何処かからストーブでも拾ってくれば?」
「旧式の内燃式暖房器具なんて、京都で持ってたらしょっ引かれちゃうわ。メリーはたまに古めかしいよね」
軽口を叩きつつ、出入り口の真逆に位置する窓を開ける。思わずピンと背筋が伸びてしまうような、冷え冷えの空気が頬を撫でた。窓から覗く周囲は鈍い橙色に染まり、ゆっくりと薄暗くなり始めている。
……ここは秘封倶楽部が不法に占拠している部室だ。
建物自体は一応学校の構内に建っているのだが、どんな目的で使用されていたのかは判然としていない。放置されて久しく、結果として私達のような不良学生の格好の餌食となっている。
通称、廃墟。その名の通り、中の状態は悲惨だ。エントランスには年代物の粗大ゴミが山積し、階段の踊り場には何故か様々な石膏像が放置され、廊下は補強材のベニヤ板と放置された穴がトラップとして行く手を阻み、個々の部屋も埃やゴミが溜まっていたりガラス窓が割れていたりと、散々である。占拠する学生は、空き部屋の大掃除から全てが始まる。
実際に、私達も頑張って清掃を試みた。玄関に捨て置かれていた掃除機で埃を吸い上げ、大小様々なゴミを厳しい分類基準に従って仕分け、消臭剤を撒き、新たな家具を搬入した。
しかし、初回の大掃除も、こまめな整理整頓、定期的な掃除さえも水泡に帰すほど、部屋はすぐに元の荒廃模様に帰してしまう。今も足下には、どこからかやってきたのか分からない子供向けの玩具やハンガーが幾つか散乱している。鍵を取り替えてもこうなのだから、もはや怪奇現象の類いだ。まるで、建物全体が荒れ果てることを望んでいるかのように。
蓮子の反対側、窓側に置かれた椅子には、案の定埃がうっすらと積もっていた。ぱっぱと払い、腰掛ける。
「それは……ジグソーパズル?」
「あたりー」
机上には、数多のピースと、厚紙製の箱と蓋一つずつ。彼女の手元には十数個の欠片が組み合わさった集合体があった。
ピースの一つ一つの大きさは、掌で握りしめられる程度。適当に絵の具を撒いたかのように、青地に白い斑模様が描かれている。完成図が想像できない。
「どんな絵画のパズルなの? 完成図は何処?」
ジグソーパズルにはパッケージや蓋、同封されたペーパーなどに答えが印刷されている。それを参照できれば、手伝えるだろう。
しかし、予想だにしなかった返答を彼女は口にした。
「無いよ」
「え? ……あー、ホワイトパズルみたいな?」
絵柄が無い真っ白なパズル。一つ一つの形状のみで組み上げていくジグソーパズル。聞くところによると、尋常ならざる集中力と忍耐力を要するようで、遠い昔には宇宙飛行士の選抜試験にも使われたという。それと同じような物だろうか?
「それよりも、もっと質が悪い物ね。果てしなく広がる青空が描かれたパズルだって言われてる」
「どうして伝聞系なのよ」
途端に彼女の目が光った。そう質問されるのを待っていましたと言わんばかりに。
「このジグソーパズルは、幾ら組み合わせ続けても、残りのピースが減少せず、ずっと未完成のまま。パズルを解かんと勇んで挑戦した人々は、際限の無い作業に精神を病み、ついには発狂してしまうとかなんとか」
なんて物騒なおもちゃだろう。
「狂っても面倒見ないからね」
「この私が簡単に飲まれるとでも?」
「思ってないけど。ま、用心はしてよ。曰く付きであることに間違いは無いんだから」
集中して注視してみると、欠片の一つ一つにうっすらと結界の綻びが見えていた。普通のパズルでは考えられない、マジックアイテム。一体何処で手に入れたのか? きっと裏表ルートだろう。
「そうだ、喉渇いたから何か煎れてよ」
「余裕ねぇ」
物怖じしないのも彼女らしい、か。そう思いつつ椅子から離れ、部屋の隅の狭い台所――前の使用者が搬入したらしいシンクが雑然と置かれているだけ――の蛇口を捻り、電気ケトルに給水し、湯を沸かす。熱々のままマグカップにインスタント珈琲と紅茶を煎れた。そういえば、ここの電気代は誰が出しているのだろうか。廃墟の謎は深まるばかりである。
椅子に戻り、黙ってカップを渡す。お礼の一言も無しに、唇を湿らせつつ作業に没頭していた。
引っ掻き傷と日に焼けた跡が目立つ濃いブラウンの机に、ピースが並べられていく。かた、かた、と乾いた音が響く。将棋盤に駒を打つそれに近いが、響くような硬く高い音でもなければ、洗練されてもいない。試行錯誤、優柔不断の上の一手。数歩進んで駄目なら、同じ歩数を戻って再考。けれど、歩みそのものは何処かおぼつかないが、たとえ不格好でも進み続けた先に完成形が在るのだという、固い信念が垣間見える。
しかし、そんなものは、あるのだろうか?
「…………」
黙々とパズルと格闘している蓮子を横目に、紅茶を口にしつつ、ピースを一つ取る。
歪な形。欠けたところもあれば、はみ出た箇所もある。上下も左右も非対称。
コバルトブルーを下地に、白い雲が点々と描かれている。雲は欠片を跨ぐことは無く、窮屈な枠に収まっている。
まさに、青空を切り取ったかのような欠片だ。
……青空は果てしなく広がっている。山を越え、湖を越え、海を越え、続いている。
このジグソーパズルは、そんな青空を貪欲にも再現しているという。ならば、幾ら取り組んでも完成しないのは当然だ。頭上に広がる空に際限は無いのだから。蓮子の言うとおり、終わりがある、完成する保証が存在している純白のパズルより極悪だ。
人間にとって、終点、結末が無い、或いは到達できない事象は、苦痛そのものだ。故に、その事実をまざまざと突きつけられ続ければ、狂気に陥るのも無理は無い。
「まさに、青天井よね」
「あら、メリーも気付いてた?」
零れた独り言に、彼女が明るい調子を崩さず答えた。何の変哲も柄も無い灰色の厚紙の箱に手を突っ込み、ピースを掴み取って机に広げながら。
「理解した上で取り組んでる蓮子が異常なのよ」
手元のピースに視線を落とす。
……狂わずにこのパズルを完成させる方法は、至ってシンプルだ。
この一欠片のみで、青空だと認識すること。
嵌まることの無い凹凸に、他のピースに繋がる可能性を見出し――浩浩と広がり続ける空を表現しているのだと解釈し、完成とする。すると、実際に組み上げる必要性が消失し、無間地獄に陥らずに済む。頓知というか、難癖、狡猾の類いかも知れないが、これが最も無難な攻略法だろう。
聡明な宇佐見蓮子のことだ。解かないことこそが正解だと、とうに辿り着いているはず。
なら、どうして彼女はパズルと格闘し続けているのだろう?
その様はもはや、底無し沼の中心へ進軍し続けているような行いだ。無謀、自暴自棄。
或いは彼女なら、正気と狂気の境界線、シュワルツシルト半径のギリギリまで漸近し、平気な顔をして戻ってくるのだろうか。真剣に積み上げていた積み木を、ふとした拍子に崩して何事も無かったかのように興味関心を他事に向ける子供のように。
「でもね、メリー。青空だと定義されているのなら、限りがあるのよ。地球の広さは有限なんだから」
「その有限だって、人の手に負えなければ無限と変わりないわ。八百万の概念と同じようにね」
彼女には勝算があるのだろうか。
無限さえも数え上げて――曝いてしまうというのだろうか。
ちょっと思案してみたものの、閃きの片鱗さえ掴めない。
ともかく、彼女には揺るがない意志があった。冷めない熱量があった。過失で足を踏み外したのでは無く、積極的に深淵を跨ごうとしているのなら、止めに入るのも違うだろう。私は彼女の自我ではなく、とっちらかった部室の清掃計画を考えることにして……一向に片付かない事象に取り組もうとする様が、まさに蓮子が無限ジグソーパズルと格闘している様子と重なり、くすりと微笑してしまった。
結局、図書館で借りた文庫本を開いた。作業をしている彼女と共に静かに時を過ごす場合、これが一番邪魔にならないで済むから。
換気扇が回る音。ピースが机に置かれる音。黴臭さの中に混ざる、珈琲と紅茶の香り。ページが擦れる音。蓮子の真剣な息遣いに、私の呼吸音が重なっては離れ、妙なリズムを奏でる。
二人だけの、しじま。
別の部屋には五月蠅い学生が居るだろうに、此処だけは隔絶されているかのように静寂で、故に部室として機能しているのだった。
やがて、太陽が山の向こうへ落ち、夜の帳が降りてきて――。
「出来た!」
蓮子の意外な一言で、没頭していた本の世界から意識を引っ張り上げられた。そして彼女の瞳を見つめながら目をしばたたかせた。何かの節に、適当に切り上げるとばかり思っていたからだ。
「見てよ」
自信に満ちた声で促されながら、机に目線を落とす。
「……これ、って」
「円だからね?」
「分かってるわよ」
食い気味に指摘された。
机の中央に鎮座した、青いピースの集合体。角が取れた四角形のような形状をしているが、ドットの要領で円を表現しているのは、彼女に言われるまでも無く瞬時に理解できた。ピースの凹凸が、逆に円のなだらかな曲線を表現する一助となっている。
まるで、全天球カメラで空を捉えたかのような――。
そこまで理解して、思わず息を呑んだ。蓮子が目指していた完成形はこれだったのかと、腑に落ちた。
パズルという、組み上げられ解かれるという命題から逃げること無く、それでいて四角形であれば無限に広がってしまう袋小路を上手く避け、円という形で青空を表現するとは。
端からパズルの基本概念を棚上げすることを考えていた私では、辿り着けない答えがそこにあった。
ピースは幾つか余っていたが、蓮子が箱に仕舞い、蓋を閉じた後に再び開けると、中身は綺麗さっぱり消えていた。彼女の答えが正しいと示すかのように。
「満足した?」
「ええ!」
私の問いに、彼女はご満悦な様子で答えた。
点と円。主観と客観。違う視点で世界を見ているからこそ、蓮子と一緒にいるのは楽しいのだろう。私の掌に残された一欠片を握りしめながら、改めて思った。
「さ、秘封倶楽部の活動はこれからよ。オールドアダムでまた怪談大会があるって聞きつけたから、開凸しないと!」
「忙しないわねぇ。明日は一限から講義なんだけど? ……ま、簡単な問題よね。蓮子と過ごす時間と、どちらが大切で面白いかなんて」
二人して席を立つ。硬くて古い痛んだドアを開け、部室を後にする。
乱雑な部屋の中で、蓮子が描いた円い青空だけが、美しい調和を保っていた。
「お疲れー」
ワンテンポ遅れて、室内から蓮子の声が響く。部屋の中央を陣取っている机の上に何かを広げているようだ。そちらへ注意を向ける前に、空気を入れ換えなければ。
「お疲れ。相変わらず鼻に付く臭いね」
「あらやだ失礼、これでも気をつけてるつもりなのに」
「蓮子じゃなくてこの部屋よ。換気してっていつも言ってるじゃん」
「だってここ最近めっきり寒くなってきてさぁ。嵐山を始め各地で紅葉が絶賛進行中だってニュースでやってるくらいだし」
「厚着すれば良いでしょ。それか、何処かからストーブでも拾ってくれば?」
「旧式の内燃式暖房器具なんて、京都で持ってたらしょっ引かれちゃうわ。メリーはたまに古めかしいよね」
軽口を叩きつつ、出入り口の真逆に位置する窓を開ける。思わずピンと背筋が伸びてしまうような、冷え冷えの空気が頬を撫でた。窓から覗く周囲は鈍い橙色に染まり、ゆっくりと薄暗くなり始めている。
……ここは秘封倶楽部が不法に占拠している部室だ。
建物自体は一応学校の構内に建っているのだが、どんな目的で使用されていたのかは判然としていない。放置されて久しく、結果として私達のような不良学生の格好の餌食となっている。
通称、廃墟。その名の通り、中の状態は悲惨だ。エントランスには年代物の粗大ゴミが山積し、階段の踊り場には何故か様々な石膏像が放置され、廊下は補強材のベニヤ板と放置された穴がトラップとして行く手を阻み、個々の部屋も埃やゴミが溜まっていたりガラス窓が割れていたりと、散々である。占拠する学生は、空き部屋の大掃除から全てが始まる。
実際に、私達も頑張って清掃を試みた。玄関に捨て置かれていた掃除機で埃を吸い上げ、大小様々なゴミを厳しい分類基準に従って仕分け、消臭剤を撒き、新たな家具を搬入した。
しかし、初回の大掃除も、こまめな整理整頓、定期的な掃除さえも水泡に帰すほど、部屋はすぐに元の荒廃模様に帰してしまう。今も足下には、どこからかやってきたのか分からない子供向けの玩具やハンガーが幾つか散乱している。鍵を取り替えてもこうなのだから、もはや怪奇現象の類いだ。まるで、建物全体が荒れ果てることを望んでいるかのように。
蓮子の反対側、窓側に置かれた椅子には、案の定埃がうっすらと積もっていた。ぱっぱと払い、腰掛ける。
「それは……ジグソーパズル?」
「あたりー」
机上には、数多のピースと、厚紙製の箱と蓋一つずつ。彼女の手元には十数個の欠片が組み合わさった集合体があった。
ピースの一つ一つの大きさは、掌で握りしめられる程度。適当に絵の具を撒いたかのように、青地に白い斑模様が描かれている。完成図が想像できない。
「どんな絵画のパズルなの? 完成図は何処?」
ジグソーパズルにはパッケージや蓋、同封されたペーパーなどに答えが印刷されている。それを参照できれば、手伝えるだろう。
しかし、予想だにしなかった返答を彼女は口にした。
「無いよ」
「え? ……あー、ホワイトパズルみたいな?」
絵柄が無い真っ白なパズル。一つ一つの形状のみで組み上げていくジグソーパズル。聞くところによると、尋常ならざる集中力と忍耐力を要するようで、遠い昔には宇宙飛行士の選抜試験にも使われたという。それと同じような物だろうか?
「それよりも、もっと質が悪い物ね。果てしなく広がる青空が描かれたパズルだって言われてる」
「どうして伝聞系なのよ」
途端に彼女の目が光った。そう質問されるのを待っていましたと言わんばかりに。
「このジグソーパズルは、幾ら組み合わせ続けても、残りのピースが減少せず、ずっと未完成のまま。パズルを解かんと勇んで挑戦した人々は、際限の無い作業に精神を病み、ついには発狂してしまうとかなんとか」
なんて物騒なおもちゃだろう。
「狂っても面倒見ないからね」
「この私が簡単に飲まれるとでも?」
「思ってないけど。ま、用心はしてよ。曰く付きであることに間違いは無いんだから」
集中して注視してみると、欠片の一つ一つにうっすらと結界の綻びが見えていた。普通のパズルでは考えられない、マジックアイテム。一体何処で手に入れたのか? きっと裏表ルートだろう。
「そうだ、喉渇いたから何か煎れてよ」
「余裕ねぇ」
物怖じしないのも彼女らしい、か。そう思いつつ椅子から離れ、部屋の隅の狭い台所――前の使用者が搬入したらしいシンクが雑然と置かれているだけ――の蛇口を捻り、電気ケトルに給水し、湯を沸かす。熱々のままマグカップにインスタント珈琲と紅茶を煎れた。そういえば、ここの電気代は誰が出しているのだろうか。廃墟の謎は深まるばかりである。
椅子に戻り、黙ってカップを渡す。お礼の一言も無しに、唇を湿らせつつ作業に没頭していた。
引っ掻き傷と日に焼けた跡が目立つ濃いブラウンの机に、ピースが並べられていく。かた、かた、と乾いた音が響く。将棋盤に駒を打つそれに近いが、響くような硬く高い音でもなければ、洗練されてもいない。試行錯誤、優柔不断の上の一手。数歩進んで駄目なら、同じ歩数を戻って再考。けれど、歩みそのものは何処かおぼつかないが、たとえ不格好でも進み続けた先に完成形が在るのだという、固い信念が垣間見える。
しかし、そんなものは、あるのだろうか?
「…………」
黙々とパズルと格闘している蓮子を横目に、紅茶を口にしつつ、ピースを一つ取る。
歪な形。欠けたところもあれば、はみ出た箇所もある。上下も左右も非対称。
コバルトブルーを下地に、白い雲が点々と描かれている。雲は欠片を跨ぐことは無く、窮屈な枠に収まっている。
まさに、青空を切り取ったかのような欠片だ。
……青空は果てしなく広がっている。山を越え、湖を越え、海を越え、続いている。
このジグソーパズルは、そんな青空を貪欲にも再現しているという。ならば、幾ら取り組んでも完成しないのは当然だ。頭上に広がる空に際限は無いのだから。蓮子の言うとおり、終わりがある、完成する保証が存在している純白のパズルより極悪だ。
人間にとって、終点、結末が無い、或いは到達できない事象は、苦痛そのものだ。故に、その事実をまざまざと突きつけられ続ければ、狂気に陥るのも無理は無い。
「まさに、青天井よね」
「あら、メリーも気付いてた?」
零れた独り言に、彼女が明るい調子を崩さず答えた。何の変哲も柄も無い灰色の厚紙の箱に手を突っ込み、ピースを掴み取って机に広げながら。
「理解した上で取り組んでる蓮子が異常なのよ」
手元のピースに視線を落とす。
……狂わずにこのパズルを完成させる方法は、至ってシンプルだ。
この一欠片のみで、青空だと認識すること。
嵌まることの無い凹凸に、他のピースに繋がる可能性を見出し――浩浩と広がり続ける空を表現しているのだと解釈し、完成とする。すると、実際に組み上げる必要性が消失し、無間地獄に陥らずに済む。頓知というか、難癖、狡猾の類いかも知れないが、これが最も無難な攻略法だろう。
聡明な宇佐見蓮子のことだ。解かないことこそが正解だと、とうに辿り着いているはず。
なら、どうして彼女はパズルと格闘し続けているのだろう?
その様はもはや、底無し沼の中心へ進軍し続けているような行いだ。無謀、自暴自棄。
或いは彼女なら、正気と狂気の境界線、シュワルツシルト半径のギリギリまで漸近し、平気な顔をして戻ってくるのだろうか。真剣に積み上げていた積み木を、ふとした拍子に崩して何事も無かったかのように興味関心を他事に向ける子供のように。
「でもね、メリー。青空だと定義されているのなら、限りがあるのよ。地球の広さは有限なんだから」
「その有限だって、人の手に負えなければ無限と変わりないわ。八百万の概念と同じようにね」
彼女には勝算があるのだろうか。
無限さえも数え上げて――曝いてしまうというのだろうか。
ちょっと思案してみたものの、閃きの片鱗さえ掴めない。
ともかく、彼女には揺るがない意志があった。冷めない熱量があった。過失で足を踏み外したのでは無く、積極的に深淵を跨ごうとしているのなら、止めに入るのも違うだろう。私は彼女の自我ではなく、とっちらかった部室の清掃計画を考えることにして……一向に片付かない事象に取り組もうとする様が、まさに蓮子が無限ジグソーパズルと格闘している様子と重なり、くすりと微笑してしまった。
結局、図書館で借りた文庫本を開いた。作業をしている彼女と共に静かに時を過ごす場合、これが一番邪魔にならないで済むから。
換気扇が回る音。ピースが机に置かれる音。黴臭さの中に混ざる、珈琲と紅茶の香り。ページが擦れる音。蓮子の真剣な息遣いに、私の呼吸音が重なっては離れ、妙なリズムを奏でる。
二人だけの、しじま。
別の部屋には五月蠅い学生が居るだろうに、此処だけは隔絶されているかのように静寂で、故に部室として機能しているのだった。
やがて、太陽が山の向こうへ落ち、夜の帳が降りてきて――。
「出来た!」
蓮子の意外な一言で、没頭していた本の世界から意識を引っ張り上げられた。そして彼女の瞳を見つめながら目をしばたたかせた。何かの節に、適当に切り上げるとばかり思っていたからだ。
「見てよ」
自信に満ちた声で促されながら、机に目線を落とす。
「……これ、って」
「円だからね?」
「分かってるわよ」
食い気味に指摘された。
机の中央に鎮座した、青いピースの集合体。角が取れた四角形のような形状をしているが、ドットの要領で円を表現しているのは、彼女に言われるまでも無く瞬時に理解できた。ピースの凹凸が、逆に円のなだらかな曲線を表現する一助となっている。
まるで、全天球カメラで空を捉えたかのような――。
そこまで理解して、思わず息を呑んだ。蓮子が目指していた完成形はこれだったのかと、腑に落ちた。
パズルという、組み上げられ解かれるという命題から逃げること無く、それでいて四角形であれば無限に広がってしまう袋小路を上手く避け、円という形で青空を表現するとは。
端からパズルの基本概念を棚上げすることを考えていた私では、辿り着けない答えがそこにあった。
ピースは幾つか余っていたが、蓮子が箱に仕舞い、蓋を閉じた後に再び開けると、中身は綺麗さっぱり消えていた。彼女の答えが正しいと示すかのように。
「満足した?」
「ええ!」
私の問いに、彼女はご満悦な様子で答えた。
点と円。主観と客観。違う視点で世界を見ているからこそ、蓮子と一緒にいるのは楽しいのだろう。私の掌に残された一欠片を握りしめながら、改めて思った。
「さ、秘封倶楽部の活動はこれからよ。オールドアダムでまた怪談大会があるって聞きつけたから、開凸しないと!」
「忙しないわねぇ。明日は一限から講義なんだけど? ……ま、簡単な問題よね。蓮子と過ごす時間と、どちらが大切で面白いかなんて」
二人して席を立つ。硬くて古い痛んだドアを開け、部室を後にする。
乱雑な部屋の中で、蓮子が描いた円い青空だけが、美しい調和を保っていた。
どこからか手に入れた解けないパズルに挑むという狂気が蓮子らしくてよかったです
そしてそれをやってのけてしまう蓮子のかっこよさ。
読んでいてとても楽しく気持ちがよかったです。謎解きをしたくなりました!