『文々。新聞』
そう刻字された飛翔体が文の後頭部にこつんと当たった。観測の結果、それは飛行機の形状に折られた紙だと判明している。
「おやおや、これは宣戦布告と受け取っていいのかしら?」
「さて、どうでしょう。一発だけなら誤射かもしれないよ?」
「残念だけど、当たってしまったらもう遺憾の意じゃ済ませられないんですよ」
お返しをお見舞いしてやろうと文も机の上を見渡す。しかし一枚ぐらいはあると思ったお目当ての紙面はどこにも無かった。
「……あやや、残念ですが弾切れだったようで」
そういえば先日窓を吹いた時に使った新聞紙がそれだったろうか。そう思うとあの紙切れのタイトルが花果子念報であった気が文の頭に満ちてくるのだった。
「ふふーん。うちのはおかげさまで大人気だもの。いつも品切れでごめんなさいね~」
椅子をぎしぎしと鳴らしてはたてがふんぞり返った。そのまま蹴り倒したら面白いだろうな、という邪な考えも浮かんだが、先輩として流石にそれは大人げない。
「貴方のは単に発行部数が少ないだけでしょうが。余るほど刷ってから大口を叩きなさい」
「新聞として読まれない物を出しても紙の無駄でしょ。アレよ、カンキョーホゴホーがどうたらこうたら」
「記者の端くれならそこはちゃんとしなさい」
烏天狗の射命丸文と姫海棠はたて。二人は共に新聞記者をやっている。かつては一方的にライバル視したはたてが文に(肉弾戦的な意味で)直接対決を挑んだ事もあったが、今では意識しあって切磋琢磨する仲である。
なお、肝心の記者としての評判は揃って芳しくない。そもそもゴシップ、風評被害だらけの天狗の新聞に読者もうんざりで需要がないのである。まともな新聞もなくはないが、供給過多で読んでもらえないのが現状だ。
「……それで、紙飛行機を折るぐらい暇なはたて様が私に何のご用事で。書くネタも無いなら引きこもってないで取材にでも行ってきたら?」
「それは文様も同じでしょー? ペン回しして遊んじゃうくらい」
「ぐぬ」
図星だった。文も書くネタに困っている。どれくらい困っているかというと、善人として評判な白蓮住職の寺をわざわざ悪し様に書いて顰蹙を買う程度に。
「何でもいいから事件とか起きてくれないかなー。例えば、地面から石油がいっぱい涌き出てくるとか?」
「まさか。日本国に今さら油田なんて無いでしょう。そんなのを待つなんて馬鹿馬鹿しい」
「そうよー。新聞記者なんて馬鹿な事をよだれ垂らして待ってるのよー」
はたては本当によだれを垂らしそうな横向きで机に突っ伏してしまう。開き直るほどに彼女はだらけきっていた。
格調やしきたりだらけの天狗組織でよくこんな生き物がやっていけたものだ。文は高下駄を脱いだ足をぷらんぷらんと揺らすはたての姿をぼんやりと眺めていた。
「暇そうだな、そこの二人」
窓の外から呼び掛ける第三者の声。高所にあるから覗かれないなんて常識など天狗には通用しない。
「いえ、とっても忙しいです!」
くの字だったはたての背がぴんと真っ直ぐに伸びた。上司の声はどんな目覚ましよりも気付けになるものである。
「はい、はたては紙飛行機を折るくらい暇なようですよ」
「あっ、ズルい! 龍様~、文だって私に構っちゃうくらい暇でーす!」
大天狗、飯綱丸龍はお互いが相手を売る様に冷笑を浮かべた。しかし年季に差のある二人がこうして気安い関係を築けている事は、上の立場として素直に喜ぶべきか。
「二人仲良く暇だと判断して手伝ってもらいたい事がある。肉体労働でもして一度頭をリセットしろ」
「はいー? それこそはたての方が適任で……」
「はー? いつも引きこもりとか言って馬鹿にするくせに……」
「いいから来い! 大天狗命令!」
龍はいつも無駄に担いでいる三脚をこれ見よがしに振り上げた。天狗なら誰もが恐れる彼女の撲殺用リーサルウェポンである。
一見横暴なようだが、天狗によっては有無を言わさず従わせる事もざらなのだ。冗談を言い合えるだけ龍は寛大と言えよう。
こうなってしまうと素直に従うか、殴られて連行されるかの二択しかない。実際机に向かってぶらぶらするしかなかった二人は、渋々と龍に続いて薄暗い廊下を歩むのであった。
◇
「ふんぎっ! っと……」
文は中身がたっぷりと詰まった木箱をどすんと床に落とした。紙は軽いものというイメージがあるが、そんなの嘘っぱちだ。だって紙しか入ってないのに、この箱は天狗でも難儀するほど重い。
「やだー。文ったらおじさんクサい」
「よく言いますよ。流木を本当にひーこら言いながら運んでたくせに」
「あらごめんあそばせ。ワタクシはお箸より重い物を持ったことがない非力な女の子なのでー、仕方ありませんのよー」
「そのジャラジャラ装飾の付いたケータイの方が箸より重いでしょ。いいから貴方も下ろしなさいよ、後輩」
「はいはい、センパイ」
二人が居るのは窓一つ無い倉庫だ。棚に所狭しと並ぶ箱にはこれまで貯めに貯めた書類や新聞などが溢れるほど詰まっており、見る者をこれでもかと威圧する。
龍が命じたのは倉庫整理に他ならなかった。そして頼んだ本人は、これから会談があると言い訳して早々に去ってしまうのだから困ったものである。
「うわ、見て見て文、五百年前の人事異動が出てきたよ。龍様ってこの時に大天狗になったんだね」
「……だから、そんなつまらない書類なんかに注目するんじゃありません」
「つまらない事はないでしょ? あー、でも文は龍様と仲良かったから気に入らないよね。そしてそんな文も見っけ。あはは、越後方面に飛ばされてやんのぃたっ!?」
平手の指がパシンとはたての後頭部を擦った。
「誰が誰と仲良くて気に入らないですって?」
「ちゃんと聞こえてるじゃない! そんなに恥ずかしがることでもないし。パワハラだー、裁判だー」
「恥ずかしがってもいません。真面目にやりなさいと言ってるんです」
「うっそだー。こういう仕事だと率先して逃げ回るのが文じゃん」
その通りなので先に言葉に詰まったのは文だった。どうにもはたてとのやり取りだと調子が出ない。いや、正確には調子なんか出す必要もないのだ。
「そっちがその気ならこちらも見付けてるんですよ。ほら、貴方の花果子念報、記念すべき第一号が今ここに」
「うわー!? きゃー! やめてー、見ないでー!」
「見てもらう為に刷った物を見ないではないでしょう」
「だってだって、恥ずかしいもん! この頃はまだ念写で撮った写真しかなかったし、文章だって……」
顔を覆う指の隙間から、はたての目がちらりと覗く。
「ぐぬわー! めっちゃ添削したい!」
「本当に良い反応しますよねえ貴方」
長生きした生き物は多かれ少なかれスレてくるものだが、はたてだって人間寿命の数倍は経験を積んでいるにも関わらずこれだ。時としてうざったく感じる事もあるが、肩肘張った付き合い不要の相手で彼女以上はない。文はそう思っているのだが、本人には絶対に内緒だ。
「ご歓談中申し訳有りませんが、口と同じくらい手を動かしていただけると主も喜ぶかと」
当然と言うべきか、仕事をそっちのけでじゃれ合っていれば注意の一つも飛んでくる。ただし、それが効果を成すかは微妙なところだ。なぜなら苦言を呈した人物は上司でなければ部下でもなく、しかし無関係でもないという立ち位置にあるからだ。
「あ、つーちゃんじゃん。何か久しぶりだね、雰囲気変わった?」
「確かに見ない間に何と言うか、角が取れた、って感じがしますね。まあ貴方が角ばっていたら管にも入りにくいでしょうが」
「え、ええ。少しばかりいざこざに巻き込まれまして、まあその、療養を……」
小柄で細身の体にぴったりとフィットする白い民族衣装、そして頭に生えるは狐耳に、ふっくらとした一本の尻尾。管狐の菅牧典、それが少女の名だ。飯綱丸龍のペットである彼女は天狗組織にも我が物顔で出入りしているが、大天狗の影を背後に散らつかせるその言動から可愛らしい見た目に反して評判はあまり宜しくない。
「こほん。私の事はいいのです。お二人にきちんと仕事をしていただきたく見に来たのですから」
「きちんとって……こんなのは空いてる時間にやるものじゃない。龍様だってそこまで期待してないと思うけどな」
「だから、ですよ」
典はわざとらしく意味深な間を作った。
「ここだけの話ですが、大天狗様の一人が隠居のため、上のポストが一つ空く予定なのです。そこへの候補は飯綱丸様にも推薦する権利がありまして、その候補として二人のどちらかで悩んでいるそうです。私が何を言いたいかは……お分かりですよね?」
「大天狗様は私かはたてのどちらかを推薦するつもり、だと?」
文の言葉を受けると、女狐は目を細めて笑顔を返した。
「適正を見たいのならこんな白狼天狗でも出来る仕事なんて任せないでしょう。少なくとも私が大天狗ならば」
「あーあ、文はそういうところがさぁ……」
きっちり上司も部下も下げていく姿勢がとても文らしい、とはたては溜め息をついた。
「主のお心は私にも計りきれませんが、このような仕事だからこそ見えてくる面もあるのかもしれませんよ。そういう事ですので、私に見られながらではやり辛いでしょうし後はお二人でどうぞ」
典は余計なボロが出ない内にそそくさと退出してしまった。最初に述べたように彼女は天狗ではなく大天狗のペットであるから手伝えとも言い辛い。それにしてもである。
「……で、文はどう思う? つーちゃんの話」
はたては古新聞の束にどっかりと腰掛けて呼びかけた。典のお願いは完全に無視して話し込むことにしたらしい。
「どうもこうも、推薦するならもっと管理職に向いてるのを選ぶでしょう。私達がそんな柄ですか?」
「分からないよ? 私はともかく、文は今のポジションも長いでしょ。本当ならとっくにお声がかかってもいいんじゃないの?」
「無いこともなかったけど蹴ってやりましたよ。余計な仕事を覚えたくないですし」
「不良だなあ。気持ちは分かるけどね」
にひひ、とはたては悪戯に微笑んだ。
結論から言ってしまえば典の話に嘘はない。ポストに空きが出ていて、龍が推薦枠に二人の天狗を考えているのも本当だ。ただし、それが文とはたてだとは一言も言っていない。候補でありそうな丁度良い二人が居たのでこの話をしただけである。
昇進に関わるから仕事はしっかりやれ、という典の意見は正論であろう。ただし、二人のどちらかという条件が付いてしまうと余計な意識が、ひいては亀裂が生まれるかもしれない。管狐はそれを愉しみとしているのだった。
「実際、私みたいな万年平天狗より貴方の方が上に立つのに相応しいと思いますよ? 今の重鎮達とは真逆の性格してるし、バランスが取れるわ」
「それ、褒めてるつもり? 私なんかがアレコレ命令してる光景、我ながら想像できないけどなー」
「命令じゃなくいつもみたいに『お願い』すれば良いじゃない。白狼天狗からも人気者だし、案外良い上司になれるんじゃないかしら」
「やめてよー、私だって上から文に何か言うのは御免だもの。距離、感じたくないのは私だって同じなの」
何を思ったのか、はたては上目遣いで顔をずいと文に近付けた。接近する後輩から咄嗟に距離を取ろうとする文であったが、生憎とその後ろは硬い石壁だ。
「綺麗な顔してるよね」
「……はい?」
「実は昔から憧れてたんだよ、高嶺の花のお姉様って感じでさ。文の事を良いなーって思ってる人、私だけじゃないと思う」
「貴方、よくもそんな事を真顔で言うわね……」
人と会うたび嫌な顔をされるなど文にとっては日常茶飯事だ。このようにストレートな好意を向けられると恥ずかしい──と思うほど若くもないが、しかし得意でもなかった。これが酒の席なら適当に流せるものを、よりによって狭く薄暗い部屋で二人きりというのも拍車をかける。
「つまり、文は自分の事を低く評価しすぎだって言いたいの。何だかんだで責任感はしっかり持ってるし、強くてカッコいい立派な天狗だよ。だからあの時だって挑戦状を叩きつけたんだしね」
あの時。新聞記者として撮影中だった文に対してダブルスポイラーとして競い合おうと宣言した時だ。誰よりも相手を認めているからこそライバルとして認識できる。文もあの日以来、はたての記事に影響を受けた紙面作りが増えたのは紛れもない事実だった。
新聞の番付では勿論自分の順位を真っ先に確認するが、その次に探すのははたての位置である。負ければ歯ぎしりし、勝っていればほくそ笑み、かと言って相手が順位を落とすようであれば調子を心配してしまう。
昔は文だって上を見る立場だった。文のすぐ上には現在大天狗として指揮と三脚棒を振るう龍がいて、ずっと彼女を意識しながら活動していた。それが今ははたてに目標とされて下から突き上げられているのだから不思議なものだ。今はこうだがいずれははたてに憧れる新人天狗も出てくるのかもしれない。その日が来た時に彼女がどう変化するかも文は密かに楽しみにしている。
はて、そうだとすると。そこまでの考えに至り、文は気付いてしまった。実は自分の方がはたて以上に対抗を意識しているのでは。そう思った途端、急に文の体がかあっと熱くなりだした。
「まあ、実際に並ぶようになってから分かったけどさー、文って新聞記者としては全然……あぐっ!」
「最後の一言が果てしなく余計よ。このひよっこのペーペー記者が」
「ぁ痛い痛い痛いぃ……」
手の甲の骨が出っ張った硬い部分がはたてのつむじに容赦なくぐりぐり押し付けられた。熱くなったのが馬鹿馬鹿しい。熱よ移れと手に念を籠める。それでも、可愛くないことばかり言うが、ここまで可愛がり甲斐のある後輩が出来たのは文の長い生涯でも初めてだった。
「少なくとも新聞記者としてトップを取るまでは今の地位から動くつもりはありません。仕事も適当な貴方は昇進したところで記者の仕事も普通にやれるでしょう。なので大天狗の座は貴方ということで」
「トップを取るまでって……そんな絶対無理じゃない。ズルいよ」
「だから余計だって言ってるでしょうが。つべこべ言わず面倒なことはあんたがやんなさい。私より可愛くて、人気もあって、度胸があって、新聞も真面目に書いてる! 相応しいのはあんた!」
一つ褒める度にはたての頬を両手でぱちんぱちんと叩いた。言葉が頭へ刷り込まれるよう念入りに熱心に。しかし後輩として彼女なりに遠慮はしていたのだが、何度も叩かれては流石にはたてもリミットを超えてしまう。
「あー、しつこい!」
両手をばっと広げて反撃に出たのだ。
「文の方が私より凄いよ! 美人だし、誰よりも速いし、記事の読者は私より多いし、スリムでスタイルも良い!」
そちらばかりで不公平だと言わんばかりにはたてが文の全身をまさぐりだした。脚から腰、腰から腹、そして腹から胸へと手が上っていく。
「ひょあい!? どこ触ってるのよ!」
「何よこの胸肉は! 私にも少し分けて!?」
「私と大して変わらないでしょう!? 袋綴じでネクタイ挟んでアピールしてたのはどこの誰よ!」
「あ、アレは文が上半分放り出すからでしょー!? 本が発禁になって凄くほっとしたんだからね!?」
二人の上半身を巡って熾烈な攻防が始まった。カラスなのにキャットファイトと言いたいところだが、何しろ天狗なので手のやり取りだけでも目で追いきれない速さ。人間ならプロボクサー級のジャブとディフェンスが繰り広げられる。
「文の方が可愛い!」「いいや、あんたの方が可愛い!」
「はたての方がスリム!」「そんな事ない! 引きこもってたからお腹の肉余ってるし!」
「文のお肌スベスベ!」「いろいろ使ってるだけよ! そっちはお手入れ無しの天然で羨ましい!」
「はたては手が綺麗!」「使い込んでないだけ! ちょっとボロボロでもそんな文の手の方がカッコいい!」
声のトーンは紛れもないケンカなのだが、お互いに相手を褒めて謙遜しあうという珍妙な光景だ。それもこれも単に大天狗の座を相手へ押し付けたいという一心から始まったはずなのだが、もはや普段は言えない相手の良い所を挙げながらの乳繰り合いとなっていたのであった。
◇
「……やはり焼き肉は胡麻ダレだな。お前もそう思わんか?」
「ええ、ええ。真に真に」
その頃、やっと打ち合わせから開放された龍は典を伴って廊下を歩いていた。経費削減の為なら宴会メニューの細かい部分にも口を挟まなければならない。大天狗、いや中間管理職とはそういうものだ。ちなみにだが、典の本当の好みは塩ダレである。
「さて、大して期待はしていないが少しは倉庫も片付いただろうか」
「私も先程様子を見て参りましたよ。案の定私語に耽っておりましたので、このような仕事を真面目にやる者ほど出世するのだと申しておきました」
「それは感心だ。もっとも、あの二人に出世欲が有るとは思っていないがな。それ故に雑用を頼みやすいのだし」
倉庫整理で出世が出来たら倉庫に埃は積もらない。だからこそ文やはたてが適任なのである。龍が本当に大天狗へ推薦したい二人は現在天魔の警護部隊長として精力的に活動中だ。
『文は…………で…………だし!』
『はたては…………の…………よ!』
その大声は分厚い扉の外にまで響いていた。案の定サボっているどころか、整理をそっちのけで言い争いに発展してしまったらしい。
「……期待を遥かに下回ったようだな」
「競争心が裏目に出てしまったようですね……ふふ」
ライバル関係であるのは当然把握しているが、険悪な雰囲気になるような不仲ではないはずなのに。采配は失敗だったかと龍がため息をつく。しかし部下の仲裁も自身の役割だ。そう心を決めて、扉のノブに手をかけた。
「おい! 大声を出す元気があるならそのエネルギーを掃除につか、え……」
流石の龍も言葉を失った。
整理の前よりも散らばった室内。覆い被さるように倒れる文とはたて。乱れた衣服。上気して汗ばんだ肌。誰がどう見てもこれは『お取り込み中』であった。
「……すまん。見なかったことにする」
どんな生物でも食事と交尾を邪魔されたら激怒する。ドラゴンイーターの異名を持つ大蜈蚣の友人からそれを理解している龍は、今目撃してしまった情事を仕事疲れによる幻覚だと思うことにした。何より監督する立場にある彼女は部下が職場で盛っていたなんて事案を処理したくないのである。二人の為にも隠蔽するのが一番楽なのだ。
「どうぞどうぞ、ごゆっくり……」
扉が閉められる直前、典は二人にお節介すぎる一言を向けた。期待した光景とは違っていたがこれはこれで。笑いを堪えるのに彼女は必死であった。
──ドドドド。ドタン。バスン。
いろいろな物を跳ね飛ばして地鳴りのような足跡が聞こえてくる。当然だがごゆっくりなんてしていられる訳がない。
「違いますよ!? これは文が素直じゃないからで……!」
「あんたは余計な事言わないで! 私は整理を続けるつもりだったのにはたてが変な雰囲気にするからで……!」
壊れそうな勢いで扉をバンと開けた二人が互いを指差した。実際には何も期待通りではないのに言い訳の仕方が完全に事後である。
「いや、いいよいいよ。つまらない仕事を押し付けた私が悪いところもあるし。二人が仲良くしてくれたら私も嬉しいから」
「別に仲良くなんてしてませんから!」
「そんな、私と文って仲良くなかったの? それはショック……」
「そういう話じゃなくて、ああもう……!」
文は人当たりこそ良いが基本的に誰にも本心を見せない。そんな文の心をここまで乱す相手が私以外にも現れたなんて。言われた仕事をしなかったのは問題であるが、それ以上の感慨が龍にはあった。
「分かった分かった。それじゃあこうしよう」
龍は肩に担いだ三脚をはたてと文にゴツン、ゴツンと等しく振り下ろした。
「はぐっ」
「ぐはっ」
避けようのない激痛が二人を襲う。仲良く揃って床にうずくまった。
「よし、今ので記憶も飛んだだろう。倉庫の中では何も無かった……そうだな?」
「は、はいそうです……」
「何も起きませんでした……」
悶絶する程の痛みだがこれでも優しい方である。結局はサボっていたのを大目に見てくれているわけで、さらに言えば本気で怒らせた龍の一発を喰らえば今頃意識が飛んでいるのだから。
「ほら、今度は私もやるし整理を終わらせてしまうぞ。ああ典、繊細なお前の体に埃は良くないから帰りなさい」
「はい、お言葉に甘えまして」
典はとてもにこやかな顔で一礼した。体こそ細いがこの中で最も神経が図太いのは彼女である。まして妖怪が埃を吸った程度で病気になるはずもなく、あまりにも過保護。その程度の事は龍だって理解しているが、今は三人だけになりたい気分だったのだ。
「つ、つーちゃん待って……」
「いやいやはたて殿、皆まで言わなくとも分かります。ここでの出来事を私は何も見ていませんとも」
ただし、大声だけはばっちりと耳に残しておきますが。典は心の中でそう付け加えてその場を後にした。
「さて、肉体労働の後に飲む酒が一番美味いな? 今夜は私が奢ってやるからさっさと立ちなさい」
「はーい、頑張りまーす……」
奢りと聞いてはたてがよろよろと立ち上がる。続いて文も膝を伸ばすと、龍を恨めしげな目で睨み付けた。
「部下に奢らせる大天狗様が居てたまるものですか。この頭痛さえ無ければもっと酒も美味しかったと思うのですがねえ」
「殴られたくなければ文も早く出世するんだな。同じ大天狗なら流石に殴りにくいだろうさ」
「ご冗談を。大天狗になる前から私のことをゴンゴンやってたでしょう、龍さんは。今そうなればはたてが拗ねるでしょうし、当分先の話でいいですよ」
「人に押し付けようとしてたのにそれ言う? 文はほんとズルいなあ」
くしゃくしゃに丸められた花果子念報の第一号が文の頭に着弾した。
「それを言うなら私だって拗ねっぱなしだぞ? 早くここに来いよと言っているのにその望みはいつ叶うのやら」
龍は文の足元にわざとらしく荷物を落として埃を立てた。三重の理由で文の表情が曇る。
「止めてくださいよ。私は、いつまでも龍さんのすぐ下にいたいんですよ。分かるでしょう、それぐらい……」
「それねー、分かるー。そういう訳なので龍様、私達はまだまだ平天狗で大丈夫ですから」
「……ふん、当然だ。出世する気がある奴らに倉庫整理なんかやらせないよ。お前達の気が変わるまでは私の下でこき使ってやるからね」
三人は、三様の気恥ずかしさを胸に秘めたまま整理を再開した。上司と部下、先輩と後輩。上下はあれど、その上下関係こそがむしろ心地良い。色恋沙汰とはまた違うが、これもまた一つの親愛の形なのである。
なお、その後。
「あ、はたてさん……射命丸様と交際なさっているそうですね。おめでとう、ございます……」
「ちっがーう! 全くもう、椛までそんなことを!」
文とはたてはしばらく熱愛報道の否定に奔走することとなった。
ここだけの話に留めたつもりでもあれ程の大声で取っ組み合えば誰かに聞かれて当然だが、それにしても噂の広まりが異常なまでに早い。
それもそのはずである。『ここだけの話ですが』という名目で、誰も居ない倉庫で二人きりという噂を会う人会う人に囁く管狐が野放しにされていたのだから。
そう刻字された飛翔体が文の後頭部にこつんと当たった。観測の結果、それは飛行機の形状に折られた紙だと判明している。
「おやおや、これは宣戦布告と受け取っていいのかしら?」
「さて、どうでしょう。一発だけなら誤射かもしれないよ?」
「残念だけど、当たってしまったらもう遺憾の意じゃ済ませられないんですよ」
お返しをお見舞いしてやろうと文も机の上を見渡す。しかし一枚ぐらいはあると思ったお目当ての紙面はどこにも無かった。
「……あやや、残念ですが弾切れだったようで」
そういえば先日窓を吹いた時に使った新聞紙がそれだったろうか。そう思うとあの紙切れのタイトルが花果子念報であった気が文の頭に満ちてくるのだった。
「ふふーん。うちのはおかげさまで大人気だもの。いつも品切れでごめんなさいね~」
椅子をぎしぎしと鳴らしてはたてがふんぞり返った。そのまま蹴り倒したら面白いだろうな、という邪な考えも浮かんだが、先輩として流石にそれは大人げない。
「貴方のは単に発行部数が少ないだけでしょうが。余るほど刷ってから大口を叩きなさい」
「新聞として読まれない物を出しても紙の無駄でしょ。アレよ、カンキョーホゴホーがどうたらこうたら」
「記者の端くれならそこはちゃんとしなさい」
烏天狗の射命丸文と姫海棠はたて。二人は共に新聞記者をやっている。かつては一方的にライバル視したはたてが文に(肉弾戦的な意味で)直接対決を挑んだ事もあったが、今では意識しあって切磋琢磨する仲である。
なお、肝心の記者としての評判は揃って芳しくない。そもそもゴシップ、風評被害だらけの天狗の新聞に読者もうんざりで需要がないのである。まともな新聞もなくはないが、供給過多で読んでもらえないのが現状だ。
「……それで、紙飛行機を折るぐらい暇なはたて様が私に何のご用事で。書くネタも無いなら引きこもってないで取材にでも行ってきたら?」
「それは文様も同じでしょー? ペン回しして遊んじゃうくらい」
「ぐぬ」
図星だった。文も書くネタに困っている。どれくらい困っているかというと、善人として評判な白蓮住職の寺をわざわざ悪し様に書いて顰蹙を買う程度に。
「何でもいいから事件とか起きてくれないかなー。例えば、地面から石油がいっぱい涌き出てくるとか?」
「まさか。日本国に今さら油田なんて無いでしょう。そんなのを待つなんて馬鹿馬鹿しい」
「そうよー。新聞記者なんて馬鹿な事をよだれ垂らして待ってるのよー」
はたては本当によだれを垂らしそうな横向きで机に突っ伏してしまう。開き直るほどに彼女はだらけきっていた。
格調やしきたりだらけの天狗組織でよくこんな生き物がやっていけたものだ。文は高下駄を脱いだ足をぷらんぷらんと揺らすはたての姿をぼんやりと眺めていた。
「暇そうだな、そこの二人」
窓の外から呼び掛ける第三者の声。高所にあるから覗かれないなんて常識など天狗には通用しない。
「いえ、とっても忙しいです!」
くの字だったはたての背がぴんと真っ直ぐに伸びた。上司の声はどんな目覚ましよりも気付けになるものである。
「はい、はたては紙飛行機を折るくらい暇なようですよ」
「あっ、ズルい! 龍様~、文だって私に構っちゃうくらい暇でーす!」
大天狗、飯綱丸龍はお互いが相手を売る様に冷笑を浮かべた。しかし年季に差のある二人がこうして気安い関係を築けている事は、上の立場として素直に喜ぶべきか。
「二人仲良く暇だと判断して手伝ってもらいたい事がある。肉体労働でもして一度頭をリセットしろ」
「はいー? それこそはたての方が適任で……」
「はー? いつも引きこもりとか言って馬鹿にするくせに……」
「いいから来い! 大天狗命令!」
龍はいつも無駄に担いでいる三脚をこれ見よがしに振り上げた。天狗なら誰もが恐れる彼女の撲殺用リーサルウェポンである。
一見横暴なようだが、天狗によっては有無を言わさず従わせる事もざらなのだ。冗談を言い合えるだけ龍は寛大と言えよう。
こうなってしまうと素直に従うか、殴られて連行されるかの二択しかない。実際机に向かってぶらぶらするしかなかった二人は、渋々と龍に続いて薄暗い廊下を歩むのであった。
◇
「ふんぎっ! っと……」
文は中身がたっぷりと詰まった木箱をどすんと床に落とした。紙は軽いものというイメージがあるが、そんなの嘘っぱちだ。だって紙しか入ってないのに、この箱は天狗でも難儀するほど重い。
「やだー。文ったらおじさんクサい」
「よく言いますよ。流木を本当にひーこら言いながら運んでたくせに」
「あらごめんあそばせ。ワタクシはお箸より重い物を持ったことがない非力な女の子なのでー、仕方ありませんのよー」
「そのジャラジャラ装飾の付いたケータイの方が箸より重いでしょ。いいから貴方も下ろしなさいよ、後輩」
「はいはい、センパイ」
二人が居るのは窓一つ無い倉庫だ。棚に所狭しと並ぶ箱にはこれまで貯めに貯めた書類や新聞などが溢れるほど詰まっており、見る者をこれでもかと威圧する。
龍が命じたのは倉庫整理に他ならなかった。そして頼んだ本人は、これから会談があると言い訳して早々に去ってしまうのだから困ったものである。
「うわ、見て見て文、五百年前の人事異動が出てきたよ。龍様ってこの時に大天狗になったんだね」
「……だから、そんなつまらない書類なんかに注目するんじゃありません」
「つまらない事はないでしょ? あー、でも文は龍様と仲良かったから気に入らないよね。そしてそんな文も見っけ。あはは、越後方面に飛ばされてやんのぃたっ!?」
平手の指がパシンとはたての後頭部を擦った。
「誰が誰と仲良くて気に入らないですって?」
「ちゃんと聞こえてるじゃない! そんなに恥ずかしがることでもないし。パワハラだー、裁判だー」
「恥ずかしがってもいません。真面目にやりなさいと言ってるんです」
「うっそだー。こういう仕事だと率先して逃げ回るのが文じゃん」
その通りなので先に言葉に詰まったのは文だった。どうにもはたてとのやり取りだと調子が出ない。いや、正確には調子なんか出す必要もないのだ。
「そっちがその気ならこちらも見付けてるんですよ。ほら、貴方の花果子念報、記念すべき第一号が今ここに」
「うわー!? きゃー! やめてー、見ないでー!」
「見てもらう為に刷った物を見ないではないでしょう」
「だってだって、恥ずかしいもん! この頃はまだ念写で撮った写真しかなかったし、文章だって……」
顔を覆う指の隙間から、はたての目がちらりと覗く。
「ぐぬわー! めっちゃ添削したい!」
「本当に良い反応しますよねえ貴方」
長生きした生き物は多かれ少なかれスレてくるものだが、はたてだって人間寿命の数倍は経験を積んでいるにも関わらずこれだ。時としてうざったく感じる事もあるが、肩肘張った付き合い不要の相手で彼女以上はない。文はそう思っているのだが、本人には絶対に内緒だ。
「ご歓談中申し訳有りませんが、口と同じくらい手を動かしていただけると主も喜ぶかと」
当然と言うべきか、仕事をそっちのけでじゃれ合っていれば注意の一つも飛んでくる。ただし、それが効果を成すかは微妙なところだ。なぜなら苦言を呈した人物は上司でなければ部下でもなく、しかし無関係でもないという立ち位置にあるからだ。
「あ、つーちゃんじゃん。何か久しぶりだね、雰囲気変わった?」
「確かに見ない間に何と言うか、角が取れた、って感じがしますね。まあ貴方が角ばっていたら管にも入りにくいでしょうが」
「え、ええ。少しばかりいざこざに巻き込まれまして、まあその、療養を……」
小柄で細身の体にぴったりとフィットする白い民族衣装、そして頭に生えるは狐耳に、ふっくらとした一本の尻尾。管狐の菅牧典、それが少女の名だ。飯綱丸龍のペットである彼女は天狗組織にも我が物顔で出入りしているが、大天狗の影を背後に散らつかせるその言動から可愛らしい見た目に反して評判はあまり宜しくない。
「こほん。私の事はいいのです。お二人にきちんと仕事をしていただきたく見に来たのですから」
「きちんとって……こんなのは空いてる時間にやるものじゃない。龍様だってそこまで期待してないと思うけどな」
「だから、ですよ」
典はわざとらしく意味深な間を作った。
「ここだけの話ですが、大天狗様の一人が隠居のため、上のポストが一つ空く予定なのです。そこへの候補は飯綱丸様にも推薦する権利がありまして、その候補として二人のどちらかで悩んでいるそうです。私が何を言いたいかは……お分かりですよね?」
「大天狗様は私かはたてのどちらかを推薦するつもり、だと?」
文の言葉を受けると、女狐は目を細めて笑顔を返した。
「適正を見たいのならこんな白狼天狗でも出来る仕事なんて任せないでしょう。少なくとも私が大天狗ならば」
「あーあ、文はそういうところがさぁ……」
きっちり上司も部下も下げていく姿勢がとても文らしい、とはたては溜め息をついた。
「主のお心は私にも計りきれませんが、このような仕事だからこそ見えてくる面もあるのかもしれませんよ。そういう事ですので、私に見られながらではやり辛いでしょうし後はお二人でどうぞ」
典は余計なボロが出ない内にそそくさと退出してしまった。最初に述べたように彼女は天狗ではなく大天狗のペットであるから手伝えとも言い辛い。それにしてもである。
「……で、文はどう思う? つーちゃんの話」
はたては古新聞の束にどっかりと腰掛けて呼びかけた。典のお願いは完全に無視して話し込むことにしたらしい。
「どうもこうも、推薦するならもっと管理職に向いてるのを選ぶでしょう。私達がそんな柄ですか?」
「分からないよ? 私はともかく、文は今のポジションも長いでしょ。本当ならとっくにお声がかかってもいいんじゃないの?」
「無いこともなかったけど蹴ってやりましたよ。余計な仕事を覚えたくないですし」
「不良だなあ。気持ちは分かるけどね」
にひひ、とはたては悪戯に微笑んだ。
結論から言ってしまえば典の話に嘘はない。ポストに空きが出ていて、龍が推薦枠に二人の天狗を考えているのも本当だ。ただし、それが文とはたてだとは一言も言っていない。候補でありそうな丁度良い二人が居たのでこの話をしただけである。
昇進に関わるから仕事はしっかりやれ、という典の意見は正論であろう。ただし、二人のどちらかという条件が付いてしまうと余計な意識が、ひいては亀裂が生まれるかもしれない。管狐はそれを愉しみとしているのだった。
「実際、私みたいな万年平天狗より貴方の方が上に立つのに相応しいと思いますよ? 今の重鎮達とは真逆の性格してるし、バランスが取れるわ」
「それ、褒めてるつもり? 私なんかがアレコレ命令してる光景、我ながら想像できないけどなー」
「命令じゃなくいつもみたいに『お願い』すれば良いじゃない。白狼天狗からも人気者だし、案外良い上司になれるんじゃないかしら」
「やめてよー、私だって上から文に何か言うのは御免だもの。距離、感じたくないのは私だって同じなの」
何を思ったのか、はたては上目遣いで顔をずいと文に近付けた。接近する後輩から咄嗟に距離を取ろうとする文であったが、生憎とその後ろは硬い石壁だ。
「綺麗な顔してるよね」
「……はい?」
「実は昔から憧れてたんだよ、高嶺の花のお姉様って感じでさ。文の事を良いなーって思ってる人、私だけじゃないと思う」
「貴方、よくもそんな事を真顔で言うわね……」
人と会うたび嫌な顔をされるなど文にとっては日常茶飯事だ。このようにストレートな好意を向けられると恥ずかしい──と思うほど若くもないが、しかし得意でもなかった。これが酒の席なら適当に流せるものを、よりによって狭く薄暗い部屋で二人きりというのも拍車をかける。
「つまり、文は自分の事を低く評価しすぎだって言いたいの。何だかんだで責任感はしっかり持ってるし、強くてカッコいい立派な天狗だよ。だからあの時だって挑戦状を叩きつけたんだしね」
あの時。新聞記者として撮影中だった文に対してダブルスポイラーとして競い合おうと宣言した時だ。誰よりも相手を認めているからこそライバルとして認識できる。文もあの日以来、はたての記事に影響を受けた紙面作りが増えたのは紛れもない事実だった。
新聞の番付では勿論自分の順位を真っ先に確認するが、その次に探すのははたての位置である。負ければ歯ぎしりし、勝っていればほくそ笑み、かと言って相手が順位を落とすようであれば調子を心配してしまう。
昔は文だって上を見る立場だった。文のすぐ上には現在大天狗として指揮と三脚棒を振るう龍がいて、ずっと彼女を意識しながら活動していた。それが今ははたてに目標とされて下から突き上げられているのだから不思議なものだ。今はこうだがいずれははたてに憧れる新人天狗も出てくるのかもしれない。その日が来た時に彼女がどう変化するかも文は密かに楽しみにしている。
はて、そうだとすると。そこまでの考えに至り、文は気付いてしまった。実は自分の方がはたて以上に対抗を意識しているのでは。そう思った途端、急に文の体がかあっと熱くなりだした。
「まあ、実際に並ぶようになってから分かったけどさー、文って新聞記者としては全然……あぐっ!」
「最後の一言が果てしなく余計よ。このひよっこのペーペー記者が」
「ぁ痛い痛い痛いぃ……」
手の甲の骨が出っ張った硬い部分がはたてのつむじに容赦なくぐりぐり押し付けられた。熱くなったのが馬鹿馬鹿しい。熱よ移れと手に念を籠める。それでも、可愛くないことばかり言うが、ここまで可愛がり甲斐のある後輩が出来たのは文の長い生涯でも初めてだった。
「少なくとも新聞記者としてトップを取るまでは今の地位から動くつもりはありません。仕事も適当な貴方は昇進したところで記者の仕事も普通にやれるでしょう。なので大天狗の座は貴方ということで」
「トップを取るまでって……そんな絶対無理じゃない。ズルいよ」
「だから余計だって言ってるでしょうが。つべこべ言わず面倒なことはあんたがやんなさい。私より可愛くて、人気もあって、度胸があって、新聞も真面目に書いてる! 相応しいのはあんた!」
一つ褒める度にはたての頬を両手でぱちんぱちんと叩いた。言葉が頭へ刷り込まれるよう念入りに熱心に。しかし後輩として彼女なりに遠慮はしていたのだが、何度も叩かれては流石にはたてもリミットを超えてしまう。
「あー、しつこい!」
両手をばっと広げて反撃に出たのだ。
「文の方が私より凄いよ! 美人だし、誰よりも速いし、記事の読者は私より多いし、スリムでスタイルも良い!」
そちらばかりで不公平だと言わんばかりにはたてが文の全身をまさぐりだした。脚から腰、腰から腹、そして腹から胸へと手が上っていく。
「ひょあい!? どこ触ってるのよ!」
「何よこの胸肉は! 私にも少し分けて!?」
「私と大して変わらないでしょう!? 袋綴じでネクタイ挟んでアピールしてたのはどこの誰よ!」
「あ、アレは文が上半分放り出すからでしょー!? 本が発禁になって凄くほっとしたんだからね!?」
二人の上半身を巡って熾烈な攻防が始まった。カラスなのにキャットファイトと言いたいところだが、何しろ天狗なので手のやり取りだけでも目で追いきれない速さ。人間ならプロボクサー級のジャブとディフェンスが繰り広げられる。
「文の方が可愛い!」「いいや、あんたの方が可愛い!」
「はたての方がスリム!」「そんな事ない! 引きこもってたからお腹の肉余ってるし!」
「文のお肌スベスベ!」「いろいろ使ってるだけよ! そっちはお手入れ無しの天然で羨ましい!」
「はたては手が綺麗!」「使い込んでないだけ! ちょっとボロボロでもそんな文の手の方がカッコいい!」
声のトーンは紛れもないケンカなのだが、お互いに相手を褒めて謙遜しあうという珍妙な光景だ。それもこれも単に大天狗の座を相手へ押し付けたいという一心から始まったはずなのだが、もはや普段は言えない相手の良い所を挙げながらの乳繰り合いとなっていたのであった。
◇
「……やはり焼き肉は胡麻ダレだな。お前もそう思わんか?」
「ええ、ええ。真に真に」
その頃、やっと打ち合わせから開放された龍は典を伴って廊下を歩いていた。経費削減の為なら宴会メニューの細かい部分にも口を挟まなければならない。大天狗、いや中間管理職とはそういうものだ。ちなみにだが、典の本当の好みは塩ダレである。
「さて、大して期待はしていないが少しは倉庫も片付いただろうか」
「私も先程様子を見て参りましたよ。案の定私語に耽っておりましたので、このような仕事を真面目にやる者ほど出世するのだと申しておきました」
「それは感心だ。もっとも、あの二人に出世欲が有るとは思っていないがな。それ故に雑用を頼みやすいのだし」
倉庫整理で出世が出来たら倉庫に埃は積もらない。だからこそ文やはたてが適任なのである。龍が本当に大天狗へ推薦したい二人は現在天魔の警護部隊長として精力的に活動中だ。
『文は…………で…………だし!』
『はたては…………の…………よ!』
その大声は分厚い扉の外にまで響いていた。案の定サボっているどころか、整理をそっちのけで言い争いに発展してしまったらしい。
「……期待を遥かに下回ったようだな」
「競争心が裏目に出てしまったようですね……ふふ」
ライバル関係であるのは当然把握しているが、険悪な雰囲気になるような不仲ではないはずなのに。采配は失敗だったかと龍がため息をつく。しかし部下の仲裁も自身の役割だ。そう心を決めて、扉のノブに手をかけた。
「おい! 大声を出す元気があるならそのエネルギーを掃除につか、え……」
流石の龍も言葉を失った。
整理の前よりも散らばった室内。覆い被さるように倒れる文とはたて。乱れた衣服。上気して汗ばんだ肌。誰がどう見てもこれは『お取り込み中』であった。
「……すまん。見なかったことにする」
どんな生物でも食事と交尾を邪魔されたら激怒する。ドラゴンイーターの異名を持つ大蜈蚣の友人からそれを理解している龍は、今目撃してしまった情事を仕事疲れによる幻覚だと思うことにした。何より監督する立場にある彼女は部下が職場で盛っていたなんて事案を処理したくないのである。二人の為にも隠蔽するのが一番楽なのだ。
「どうぞどうぞ、ごゆっくり……」
扉が閉められる直前、典は二人にお節介すぎる一言を向けた。期待した光景とは違っていたがこれはこれで。笑いを堪えるのに彼女は必死であった。
──ドドドド。ドタン。バスン。
いろいろな物を跳ね飛ばして地鳴りのような足跡が聞こえてくる。当然だがごゆっくりなんてしていられる訳がない。
「違いますよ!? これは文が素直じゃないからで……!」
「あんたは余計な事言わないで! 私は整理を続けるつもりだったのにはたてが変な雰囲気にするからで……!」
壊れそうな勢いで扉をバンと開けた二人が互いを指差した。実際には何も期待通りではないのに言い訳の仕方が完全に事後である。
「いや、いいよいいよ。つまらない仕事を押し付けた私が悪いところもあるし。二人が仲良くしてくれたら私も嬉しいから」
「別に仲良くなんてしてませんから!」
「そんな、私と文って仲良くなかったの? それはショック……」
「そういう話じゃなくて、ああもう……!」
文は人当たりこそ良いが基本的に誰にも本心を見せない。そんな文の心をここまで乱す相手が私以外にも現れたなんて。言われた仕事をしなかったのは問題であるが、それ以上の感慨が龍にはあった。
「分かった分かった。それじゃあこうしよう」
龍は肩に担いだ三脚をはたてと文にゴツン、ゴツンと等しく振り下ろした。
「はぐっ」
「ぐはっ」
避けようのない激痛が二人を襲う。仲良く揃って床にうずくまった。
「よし、今ので記憶も飛んだだろう。倉庫の中では何も無かった……そうだな?」
「は、はいそうです……」
「何も起きませんでした……」
悶絶する程の痛みだがこれでも優しい方である。結局はサボっていたのを大目に見てくれているわけで、さらに言えば本気で怒らせた龍の一発を喰らえば今頃意識が飛んでいるのだから。
「ほら、今度は私もやるし整理を終わらせてしまうぞ。ああ典、繊細なお前の体に埃は良くないから帰りなさい」
「はい、お言葉に甘えまして」
典はとてもにこやかな顔で一礼した。体こそ細いがこの中で最も神経が図太いのは彼女である。まして妖怪が埃を吸った程度で病気になるはずもなく、あまりにも過保護。その程度の事は龍だって理解しているが、今は三人だけになりたい気分だったのだ。
「つ、つーちゃん待って……」
「いやいやはたて殿、皆まで言わなくとも分かります。ここでの出来事を私は何も見ていませんとも」
ただし、大声だけはばっちりと耳に残しておきますが。典は心の中でそう付け加えてその場を後にした。
「さて、肉体労働の後に飲む酒が一番美味いな? 今夜は私が奢ってやるからさっさと立ちなさい」
「はーい、頑張りまーす……」
奢りと聞いてはたてがよろよろと立ち上がる。続いて文も膝を伸ばすと、龍を恨めしげな目で睨み付けた。
「部下に奢らせる大天狗様が居てたまるものですか。この頭痛さえ無ければもっと酒も美味しかったと思うのですがねえ」
「殴られたくなければ文も早く出世するんだな。同じ大天狗なら流石に殴りにくいだろうさ」
「ご冗談を。大天狗になる前から私のことをゴンゴンやってたでしょう、龍さんは。今そうなればはたてが拗ねるでしょうし、当分先の話でいいですよ」
「人に押し付けようとしてたのにそれ言う? 文はほんとズルいなあ」
くしゃくしゃに丸められた花果子念報の第一号が文の頭に着弾した。
「それを言うなら私だって拗ねっぱなしだぞ? 早くここに来いよと言っているのにその望みはいつ叶うのやら」
龍は文の足元にわざとらしく荷物を落として埃を立てた。三重の理由で文の表情が曇る。
「止めてくださいよ。私は、いつまでも龍さんのすぐ下にいたいんですよ。分かるでしょう、それぐらい……」
「それねー、分かるー。そういう訳なので龍様、私達はまだまだ平天狗で大丈夫ですから」
「……ふん、当然だ。出世する気がある奴らに倉庫整理なんかやらせないよ。お前達の気が変わるまでは私の下でこき使ってやるからね」
三人は、三様の気恥ずかしさを胸に秘めたまま整理を再開した。上司と部下、先輩と後輩。上下はあれど、その上下関係こそがむしろ心地良い。色恋沙汰とはまた違うが、これもまた一つの親愛の形なのである。
なお、その後。
「あ、はたてさん……射命丸様と交際なさっているそうですね。おめでとう、ございます……」
「ちっがーう! 全くもう、椛までそんなことを!」
文とはたてはしばらく熱愛報道の否定に奔走することとなった。
ここだけの話に留めたつもりでもあれ程の大声で取っ組み合えば誰かに聞かれて当然だが、それにしても噂の広まりが異常なまでに早い。
それもそのはずである。『ここだけの話ですが』という名目で、誰も居ない倉庫で二人きりという噂を会う人会う人に囁く管狐が野放しにされていたのだから。
この絶妙な距離感、ケンカップルという言葉が良く似合う二人が良かったです。
龍のこういうポジションは大変美味しくて、よい…。
うらやましいくらいにいい職場でした
とても良いあやはたを読ませていただきました。ぐへへ……美味ぇ……美味ぇ!
出世の押し付け合いからの褒め殺し対決からのキャットファイト、まことに素晴らしいものでございました。二人ともがお互いを深く理解し合っているのもまた、とても良かったと思います。
龍、典、椛らとの関係も含めて、天狗たちの関係は魅力的で良いですよね。典はほんと良い性格してるなぁ。
仲良きことは美しきかな。大変面白かったです。