私の通う大学には「秘封俱楽部」という字面から察するに、如何にも胡散臭いサークルがあった。
サークル案内もなし、学校のパンフレットにも当然記載されていない、活動内容は全くもって不明瞭。私はシツレイながら、恐らく「如何にも陰気な人が所属しているのであろう」と思った。
私がそれを見つけたのは、桜の木から千切れた花びらが地面を乳白色に染めて、生ぬるい風が吉田山から駆け抜ける四月であった。私の通う大学には想像を絶する程の有象無象の公式サークルから非公式サークル、もしくは同好会から野良サークルから秘密結社を名乗る正体不明の集団が広大な構内の様々な場所に潜んでいる。そしてその者達が一番力を入れていることは、四月になると必ず訪れる「シンニュウセイ」と言う生き物をあの手この手で確保することだ。それを俗に「サークル勧誘」と呼ぶ。
そして当時の私も「シンニュウセイ」と言う種族に属していた。
当時を振り返ると、それはとても壮絶な一ヶ月であった。大学の正門、裏口、南口、抜け道までも「サークル勧誘」の包囲網が張り巡らされており、それをあの手この手で切り抜けて、日夜「サークル勧誘」との死闘を繰り広げていた。
基本的には講義が終われば即帰宅、どうしても時間を潰す必要がある時は、「サークル勧誘」の魔の手から逃れるべく百万遍知恩寺の裏に妖怪の如く潜むか、構内の人気がない場所を好奇心に任せて黙々と散策していた。
その時、旧東棟の文科系サークルが集まる場所の一番奥まで迷い込み、なんとなく壁にかかっているサークルを見回っていると「素麵同好会 おてもと。」「生湯豆腐研究会」「更・男汁」など、不可思議なサークルが各を連ねるなか、「秘封俱楽部」と言うドアにかかった木の札に目に止まった。廊下の窓が途切れ、秘封俱楽部と言うサークル部屋の周囲だけが陰に覆われていた。その奥には一応非常口があるらしく、蛍光色の光だけがぼんやりと浮かぶ。
そんな周囲の状況に影響されてか、名前からしてなにかよからぬ俱楽部であろうと推測した。
その木の札は乾ききっており、不思議と貫禄を感じさせた。恐らく何十年も前からここにかかっているのだろう。その証拠に木を吊り下げている紐は頼りなく、今にもほつれて千切れそうになっている。
そんな木の札を何の気なしにジッと見つめていると、その部室内には誰かがいるような気がした。
私は「サークル勧誘」との死闘からの経験で「見つかっては面倒なことになる」と即座に判断して、踵を返した。
私が黒いリボンを落としたことに気が付いたのは白川疎水の自宅付近であった。どうやら通学用で買ったトートバッグから抜け出してしまったらしい。まだ買って日が浅いその黒いリボンは、講義中に髪まとめる為に買った物であり、特段執着もない。無くしたとて、特に問題はなく、本格的に講義が始まる来月辺りに四条河原町にでも行って買えば良いと思いながらも、何となく今日の出来事を思い返してリボンの行方を追った。
四月の夕日はまだ頼りなく、空が赤く染まったかと思うとすぐに尾根の向こう側に引きずり込まれてしまう。叡山電車が夜に沈む街を切り裂きながら走る音が響く薄暗い住宅地の中で、私は思い当たった。正確には思い当ってしまった。
それはあの慌ただしく駆けだした旧東棟の最奥。あの胡散臭いサークルの前を記憶は指し示している。心当たりがあるからには、そこに行くのが妥当であろう。しかし、あんな陰気臭い、しかもよりにもよってあの胡散臭いサークルの前にもう一度行くのは気が引ける。
しかし、落とした場所に心当たりがあるからには、探しに行くのが礼儀だと思う、生真面目な自分が私に言う。
「億劫だなぁ」
私のつぶやきは夜に沈み切らない街頭に落ちて、春風はその言葉を何処か遠くへと運んだ。
次の日。私の足は律儀にも旧東棟へと赴く。
昨日と同じ、陽が差し込む階段を上り、この棟の最奥へゆったりと進む。やがてあの胡散臭いサークルのある階に辿り着き、賑やかな今出川通を見下ろしながら歩いていると、目の隅が一瞬煌めいた。
旧東棟の最奥。そこには窓はなく薄暗いはずなのだが、疑問に思い前方を確認すると、この場には到底似つかわしくない人物が屈んでいた。
「あっ」
私の眼前でブロンドの髪が翻り、その人物は私と目が合うと同時に、私と同じ言葉を発した。
白いふちがくしゃくしゃとなった帽子を被り、背丈は私とほぼ同じ。薄紫のリネンワンピースがよく似合い、ブロンドの髪型とやや私とは違う血筋を感じさせる顔つきをしている。
互いに視線を送り合って少し。私は彼女の右手に持っている黒いリボンに目が向く。彼女もそれに気づいたのか、黒いリボンを見つめて私の方に振り向く。
「ええっと、これは貴方のかしら?」
「えっ、あ、はい」
そう。と呟くと彼女は私の方に近づき、黒いリボンを差し出す。お礼を言いながら受け取ると、彼女の同じ髪の色をした瞳が私の目を映す。
「貴方、もしかしてこのサークルの人?」
「いや、とんでもない。こんな胡散臭いサークル」
「ふふっ。そうよね」
何がおかしいのか、私たちは二人して笑った。それはこの最奥に溜まった陰気を少し減らすような、そんな軽い笑いが人気のない構内に響く。
「良かったら、一緒にこのドアを開けてみない?」
お互いに笑いが止んだとき、彼女は声を潜ませながらそう言った。この子は見た目以上に度胸があるな。そう思いながら、彼女の好奇心に支配された顔を見る。
確かに興味がないわけではない。これは怖いもの見たさだろうか。
「最悪誰かいたら「このサークルってなんですか?」って聞けば大丈夫だと思うし」
「えぇっ……逃げる時は置いて行かないでよ?」
「信用されてないなぁ」
そう言うと彼女は、再度私の目をジッと見つめる。
「私はマエリベリー。マエリベリー・ハーンよ」
そういうと「よろしく」と言った様子で笑みを浮かべる。その間に頭の中で名前を反復しようとして舌を嚙みそうになった。
「私は宇佐見蓮子」
「じゃあ、宇佐見さん。早速」
マエリベリーさんは待ちきれない様子で、既に秘封俱楽部と言う木札がかかったドアに手を伸ばそうとしている。
高鳴る鼓動を感じて、手汗が少し滲み、好奇心が胸に満ちていく。少なくとも私はこの大学に来て、初めて無邪気に笑い、マエリベリーさんも鏡の様に私と同じ笑みを浮かべていた。
そして、私たちはその扉に手をかける。
〇
科学世紀を迎えて今日。私は日本の首都である京都。正確には京都御所と二条城の間にある、丸田町通りある「結界」に関する研究所に通っている。
「結界」とは近年見つかったこの世界の「ほころび」の様な物だ。それが何を意味するものか分からないし、何を隔てているのかも定かではない。それ故に、一般人が無暗に触れることすら禁止されている。
それを聞いた時、私は非常に興味をそそられた。そして、一般人でなければ触れても良いのだと高校生ながら単純且つ直線的な方向に思考が廻り、それを学べる京都にある有名な大学に狙いを定めて地盤を踏み固め、知識と言う火薬と砲身をくみ上げると、そこに一直線に飛んでいった。
四月の春。入学式後の人の波がぶつかり合う喧嘩祭りの様な荒々しいサークル勧誘の魔の手から逃れ、大学生活は結界に関することだけの知識を頭に注ぎ込んだ。そして気が付けば「境界魔」と言う名誉ある陰口を叩かれながらも、大学生から大学院生に立場が切り替わり、そしてこの研究所で結界に関する博士課程を学んでいる。
私は高校生の頃の自分に「私は私のまま、この様になるんだぞ」と胸を張って言える未来を進み、成績も良好、癖のある研究所の人達との関係も良く、強いて言うなら睡眠時間がたまに短いのと、マンドリンをがむしゃらに引く教授の演奏が驚くほど下手なところ以外は不満なところはない。
今日の研究も終わり、研究所の人たちと旧酒場が寄り添う木屋町で酒を飲んだ帰り、私は自宅のある今出川通を目指して歩いていた。研究所からやや遠いが、地下鉄を使えば約十五分で研究所にはたどり着くし、引っ越しを決意するのにも中途半端な場所なので、学生の頃かずっとそこに住み続けている。
六月の風は生温い湿気を含んでおり、それが鴨川からなだれ込んで来る。そんなことを思いながら三条大橋の欄干に体重を預けながら火照った脳を冷やしながら目線を上に向けると、遠くに見える鞍馬山は黒々とそびえ立ち、大文字は墨汁で書かれたように見えた。空には微かに輝く星と、丁度半分に切り分けられた月がこちらを見下ろす。
手に持ったミネラルウォーターをグッと飲み、導かれるままに鴨川の土手に降りて川上の方に向かう。自宅に向かうには、京都本線にある三条駅から電車に乗り込むのが一番早いのだが、明日は休みなので、今夜はそんな気分であった。
夜を滑るようにゆるゆると流れる鴨川を眺めながら、大きな声をだしながら何故か鴨川を横断する男、川辺に沿って等間隔に並ぶカップル、ブブゼラとマリンバの演奏をする自称ミュージシャン、相撲を取る痩せた複数人の男。多種多様な人種が渦巻くこの街は、私の知らない世界があちらこちらにあるような気がして、私はその世界を垣間見るのが好きだ。特に休日前だと様々な世界が入り混じり混沌としている。
そして、それと同時に「結界の向こうにも私の知らない世界があるのだろうか」と夢想してしまう。結界がもしも違う世界への入り口であるなら、向こう側はどのようになっているのか、想像しただけでも好奇心が胸の許容量を超えてあふれ出そうだ。
そんなことを考えていると、いつの間にか加茂大橋が見えてきた。加茂大橋を右に渡る為、私は近くにある階段を使って土手から上がり、鴨川を見下ろすように横断する。その時、視界に違和感を覚えた。
それと同時に右目がこわばり、力が籠る。顔の右側だけに体重が集中するような気だるさを感じながら、自分の体を支える為に加茂大橋の桟橋に手を着いた。脳の奥に頭痛にも似た違和感を覚えながら顔を上げると、目の前にはそれは鴨川デルタと呼ばれる、賀茂川と高野川に両脇を固められ、三角の形をした中州が見えた。
その三角の先端部分に、それはあった。谷底を上から覗き込むような、アスファルトの水たまりを横にしたような歪な空間のヒビは、よく研究所で資料として見る「結界」によく似ていた。しかし、そんな異変を誰一人として指摘する者は居なかった。人通りはまばらではなく、週末と言うこともあって鴨川デルタ付近でくつろぐ人たちも居る。結界に関しては一昔前と違い、一般常識として世の中に認知されており、見つかればある程度騒ぎになるのが世の常だが、そんな雰囲気はどこにもない。
私はどうしようかと思いながらも、その結界から目が離せず、じっとりとした気味の悪い冷や汗が背中を走る。
気が付けば、何故か私はその境界に向かって足を運んでいた。
鼓動が高鳴り、緊張は私の全身を駆け巡り、思考が誤魔化されているような感覚が私を蝕む。賀茂川にかかる出町橋を渡り、鴨川デルタと辿り着く。自分の意志とは無関係に背中を押されるようにして、その結界の眼前までやってきた。そして、私の右手が吸い寄せられるように境界に手を伸ばす。
その時、私の左手が力強く反対方向に引かれた。
「君、危ないよ」
不意に背後から声をかけられると、突然体の力が抜けてその場に倒れ込む。しかし、鴨川デルタの岩肌に私の体が触れる前に、私の体を抱える人が居た。
顔を上げると、そこには息切れをしながら私を見下ろす、黒い生地に白いリボンがよく目立つ中折れ帽子を被った女性が居た。彼女と不意に目が合うと、相手は気まずそうに眼を左に反らす。少し見えた彼女の目は、彼女の後ろに見える夜空と同じ深い水底のような色をしていた。
「もう……やっぱり酒臭い。飲み過ぎだよ、ちょっとおいで」
私を起こすと、有無も言わさず私の手を握り、鴨川デルタにある松の木の下にあるベンチまで彼女は手を引いてくれた。それから「少し待つように」と彼女は何処かに駆けて行った。私はその場で五分程待っていると、彼女は息切れをしながらコンビニの袋を持って私の元へと帰ってきた。
「とりあえず、水」
私は素直に差し出された水を受け取り、それに口をつける。彼女は「やっぱり酒飲んだ後に走るのは駄目だわ」と私と同じように水を飲んでいた。
「あ、ありがとうございます」
「良いよ、別に」
周りの喧騒に潜むように、私たちの間に静寂が流れる。この人は誰だろう。自己紹介をすべきか悩みながらちらりと隣を見る。
身長は私よりも少し高い、白いシャツに黒い丈の長いスカートに歩きやすそうなローファーを履いている。顔は利発そうだが、何処か幼い印象を受けた。
「もう大丈夫?」
「え?あ、はい」
ジロジロ見ていたのを急に咎められていたのかと思ったので、少し声が裏返ってしまう。
「これ、あとゼリーとか、なんかいい感じのが入ってるから」
彼女は私の隣にある袋を指さしながらそう言うと、「それじゃあね、気を付けなさいよ」と言い立ち上がり、出町柳の方へと去っていった。
私はお礼を言いながら彼女の背中を見送り、鴨川デルタの先端に目を移すと、何事もなかったかのように結界は姿を消して、夜が滲むように広がっていた。
翌日。昼前に起きた私は、もう一度鴨川デルタに訪れていた。念のため、持ち運びにはあまり適さない簡易結界探知機をわざわざ研究所から拝借してきたものの、その苦労は報われず、何一つ反応を示さない。
あれは見間違いだったのか。そんなことはないと思いながらも、私はややお酒に弱いところもある自分に自問自答をしながらうんうんと唸っていると。
「君、危ないよ」と昨日と同じセリフが同じ声で聞こえた。
思わず振り向くと、昨夜の女性が私の後ろで快活な笑みを浮かべていた。
昨夜の件について、再度お礼をする。彼女の名前は宇佐見蓮子と言うらしく、私も礼儀に沿って挨拶をすると、宇佐見さんは舌を嚙みそうな顔をした。
「マエリベリー・ハーンさん、ね?」
「そうです」
「じゃあ……そうだなぁ、メリーさんだ」
なにがそうなのか、理解できない略し方をされる。そうしていると宇佐見さんは私の足元に重い腰を下ろす簡易結界探知機を興味深そうに見つめていた。
「メリーさん、それって結界を探すときにつかう機械だよね?」
「あら、よくご存知で」
言おうか、言うまいか。少し悩んで、別に隠し立てすることでもないので、素直に身分を明かし、ついでに先月マンドリン副所長に貰った名刺を渡す。宇佐見さんはそれを丁寧に受け取ると、少し目を見開いた。
「へぇ、メリーさんは結界の研究をしているのね」
「えぇ、まぁ。まだ大学院生ですが」
彼女は嬉しそうに笑いながら、ポケットから年季を感じさせる、手のひらサイズの古い革製の財布を取り出し、その中から名刺を取り出す。
「実は私も結界について調べているの」
「へっ?」
私はやや困惑しながら差し出された名刺を確認すると、そこには「秘封俱楽部代表 宇佐見蓮子」と非常に胡散臭い肩書が書かれていた。名刺をまじまじと見つめる私に宇佐見さんはグイッと足を延ばして私に近寄る。
「こうして会えたのも何かのご縁。少しお茶でも如何ですか?」
これが私と宇佐見さん、いや蓮子との怪しげなファーストコンタクトであった。
〇
何億年と地球を顧みずに開拓を進めた人類は、結果として地球からしっぺ返しを食らったのが約数百年前。これは教科書の知識だ。
世は正に科学世紀。数百年前までは人口が増えすぎたことによる、地球環境の汚染も気が付けば歴史の波に流され、遥か向こう側に霞む。その輪郭を正確に捉えることが出来るのはインターネットや書籍だけとなり、当時の過酷な現状を紡ぐ語り部も、今や0と1が支配するデータへと転身して、この世界にある知識や情報の大半はインターネットの海に漂っている。
私の祖母の時代では批判的であった理論的な地球規模での人口調整は上手くいっているようで、私が産まれる頃には既に一般常識と化していた。それでも思春期の頃の私は「首の後ろ誕生日と言う製造番号を刻まれているようで嫌だ」とよく母親にぷつぷつと文句を言っていたこと思い出した。
「あの頃は青かった。物理的に、主に思考が」
私は拙い言葉で過去を脳裏に浮かべながら、波風の代わりに星々が騒がしい黒い海に浮かぶ故郷の惑星を月面都市から眺める。
私は大学の夏休みを利用して、地球と月面を繋ぐ寝台ロケット「あけぼの」に乗り込み、二日ほど無重力に流されながら目的地である月へと来ていた。二日間に渡り無重力に慣れ切っていた私には、二日ぶりの人口重力により世界の重さを再度堪能することとなり、気分は非常に萎えきっていた。
月にも人が住み始めて約三百年。初めは研究者、もしくは莫大な大金持ちの移民場所であったが、流通システムとスペースデブリの迎撃の安定がきっかけとなり、今では観光地として名高く、人口約一億人が住む賑やかな惑星となっている。無論、その中にウサギは含まれては居ない。
私が月面都市に訪れた理由は二つある。一つは単純に来たかったから、もう一つは文通相手に会うためだ。
きっかけは、小学生の頃である。
私の故郷は東京の片田舎であり、今もなお自動車が一般的に交通手段として使われているようなところだ。
その当時、私の自意識というものは非常にあやふやで、もしかしたらまだ私ではなかったかも知れない頃。小学生の授業の一環で「月にある小学校に手紙を送ろう」と言うイベントがあった。
同学年の子たちのリアクションはまちまちで、男の子なんかは適当に文字を羅列して終える子がほとんどで、女の子も先生から用意された口当たりの良い定型文を書いている子も少なくなった。では当時の私はどうであったのか。
私は当時のことをよく覚えている、かなり興奮していたからだ。
深い夜の向こう側。見上げても見上げ足りない、飛び跳ねても手の届かない遠いところにある、ただ白い輪郭だけを描く月に私の書いた手紙が届くのかと思うと、全身が鳥肌に覆われた様な錯覚を覚えた。それは当時の私には想像もつかないような、とても壮大で、素敵なことだと思った。
「私が手紙を送るけんりをもらえるとは。これはとんでもないことになった」と当時の私は、全国の中で選ばれし非常に幸運な小学生であることを信じて疑わず、武者震いが止まらなかった。ちなみにその数年後、手紙を送るイベントは当時の小学校ではどこでもやっているイベントであること知って愕然としたことも今となっては良い思い出だ。
それはさておき。この手紙を送るイベントは、地球から送られた手紙は月にある小学校にランダムに届けられる。どこの誰かも分からない地球に居る小学生の手紙を受け取った月の小学校の子たちは、その手紙に返事を書いて送り返すのが基本的にワンセットとなっている。その後、帰ってきた手紙をどうするかは受け取った子供に委ねられる。
同じクラスの子の大半は自分の手紙を読んだ知らない子から返事がきても、その内容を確認するだけで終わっていた。正確には私以外はそうしていた。
では、当時自分の手紙が本当に月まで行き、そしてその証拠に月の子から手紙が帰ってきた私はというと。
またもや、大いに興奮していた。
ゲシュタルト崩壊が頻発する程その手紙に目を通して、すぐさま返事を書いた。手紙の内容までは詳しくは覚えてはいないが、さぞ情熱的な内容だったのだろう。当時の月の子からの返信された手紙には、子供故に素直な文章からは困惑が読み取れる。
文通相手の名前はマエリベリー・ハーン。当時の私がその名前が書きにくかったので「メリーちゃんって呼んでも良い?」と手紙に書くと「全然関係ないけど良いよ」と返事が来たので、それ以来メリーと呼んでいる。無論、そんな横着な経緯で愛称を決めたことを彼女は知らない。
そして、私とメリーは互いの時間と想い手紙に込めた。その想いはこの数十年間、一ヶ月に一度、絶やすことなく月と地上の間を行き来して、私たち微かに繋ぐ。そして私は、文字の癖から、文章から、便箋から、切手から、封筒から、私は未だ出会ったことのない親友であるメリーの輪郭をなぞり続けた。
今月もメリーからの手紙が届いた。手紙の封筒はいつもの朝顔のようなさっぱりとした紫色。便箋は枠組みがフリルの模様が書かれているものだ。
私が使うのには気恥ずかしい封筒と便箋だな。そう思いながら、手紙に目を通す。最近私が手紙を万年筆で書くようになったので、メリーもそれを真似して万年筆で書いてみたと誇らしげに書かれており、あとは他愛ない日常が綴られている。そして、今回の旅のきっかけとなったことが書かれていた。
「地球はもう既に夏になりましたか?月の方も地上の季節に合わせて、夏となり非常に暑いです。そのせいか、月にある人口の海には連日スペースデブリと見間違うほどの人で溢れています。温度管理なんて自由自在なのだから、ずっと平温なままで良いのにね。
さて、蓮子の大学にも夏休みはありますか?もし良かったらだけど、夏休みを利用して一度お会いしてみない?蓮子も以前、月に来てみたいって言っていたし、私が案内してあげる。私も地球の京都に行ってみたいから、蓮子に案内してもらいたいし、どうかしら?お返事お待ちしております。
月の案内人 マエリベリー・ハーンより。
地球の京都観光大使 宇佐見蓮子へ。
PS賛成してくれるなら、こちらにお電話してください」
「写真ぐらい貰っておくべきだったかな?」
私はロケットの発着場である第二静海月面空港から出ると、ガラス張りの天井には深海の様な宇宙が広がる。地上の光に遮られ、普段は見えない星が私の目に圧縮したように入り込む。そして私が幼少期の頃から持つ「星を見れば時間が、月を見れば場所が分かる能力」が機能するか確かめ、やや驚く。
月面でも発動するのだな。そんなことを思いながら、地球と同等の重力を感じながら月面都市行きのモノレールに乗り込んだ。地球とあまり変わらない駅構内の慌ただしさは、月に居る特別感を薄ませる。しかし、漆黒の空に瞬く星、月面都市の奥に見える荒涼とした月面、その奥に浮かぶサファイアの様な故郷を眺めると、改めて月面に来たことを実感せざるを得なかった。
彼女のことは声とブロンドの髪であることと、舌を嚙みそうな名前だということしか知らない。むしろそれだけも十分だ。
雑踏を越えて、駅から出る。地球を模したモニュメントが空中で自転して、その中央にある時計が待ち合わせ時間を伝えた。
さて、何処に居るのか。ちゃんと見つけられるか。電話した方が良いのか。
期待と焦りに似た感情が胸で渦巻く。しかしそれは、直ぐに杞憂だと知る。
見知らぬ土地で私の呼ぶ声が聞こえた。
目の前から肩まで伸びた緩やかな曲線を描くブロンドの髪、白いレースで編まれた上着、その下で揺れる朝顔のようなワンピースが揺れる。瞳は髪と同じ金色をしていて、顔は私が想像していた以上に大人びており、思わず胸が高鳴ってしまう。
幼い頃に私の出した手紙は、偶然地球と月の間にある周回軌道に乗り、幾度なく交互に巡った。
そこには0と1が割り込む隙間もなく、膨大な知識が眠るインターネットの海もこの手紙の内容は知らない。
私たちが紡いだ手紙は、数十年の年月を経て、ついに私たちを結びつける。
〇
私は気が付くと、仄暗い水底に居た。薄暗く淀んだ風景が何処までも続き、遠くの方は闇で滲んでいる。海面の方から光は見えないが、不思議と周囲の状況がよく分かった。
妙な浮遊感は心地よく、息苦しくもないので、何処までも海月の様に漂える気がした。
ここは、何処だろうか。
恐らく夢なのだろうが、それにしても酷く寂しい黒々しい水底で、一人で沈んでいるところから始まるなど、他者から見ればさぞ大それた悩みがあるようにも思えるかも知れないが、私に身に覚えはなかった。
体調は至って良好、友人との関係も問題はなく、成績も良い。春には花見、夏にはメロンソーダを飲み、秋には紅葉を楽しみ、冬には肉まんを食べる。そのような平々凡々な私がこの様な不思議な夢を見るのは、我ながら納得は出来なかった。しかし、微弱ながら心当たりはある。それは恐らく生まれながらにして持っている能力だ。
私には「結界」が見える
それは私が住む世界でかなり特別な意味を持つ。そのことが下手に露見すれば、最悪国から保護される程度には貴重な能力だ。
「結界」とは何か。それは違う世界を繋ぐ扉、解いてはいけないパンドラの箱、次元の裂け目等々。様々な憶測が飛び交っているが真実は定かではないし、かく言う私も正直なところよく分かっていない。賢い科学者が首を捻って考えても分からない研究段階のものを、ただの十七歳の学生である私が分かるはずもない。
私はこの能力を周囲には隠して生きてきた。そもそも、こんなことを打ち明けたところで真剣に取り合ってくれる人など居ないだろうし、下手に相手を混乱させるだけだろう。結界が見えたところで、特段苦労することもないのだが、それでも不意に暗がりに浮かぶ周囲を溶かして現れたような結界を目にする度に、何とも言えない恐怖が胸を浸食する。そんな、誰にも共感してもらうことの出来ない、少しの秘密と恐れを分け合える相手が居ないからこの様な夢を見るのかも知れない。そう考えると少しだけ腑に落ちた。
荒涼とした水底には何もなく、泳ぐ生物も居ないので淡水か海水かも分からない。何となく口から吐き出す息が、シャボン玉の様にふわりと頭上に向かって行く。試しにそのシャボン玉を追って上昇を試みるも何処まで浮かんでいくので、泳ぎ疲れた私は結局この水底にゆらゆらと引き戻される。
夢なのだから醒めるまで待てばいい。そう思うこともあったが、ジッとしていると何故か居心地が悪く、とりあえず前に進むことにした。走ることは出来ないので、水底をスキップするようにして暗澹な水中を進む。砂が煙幕の様に舞い上がり、私の足を包んでは離れていく。
最果ては見えず、景色も代り映えもしない。水の流れは時が止まっているかの様に動かず、得られるのは疲労感だけであった。何もない無味無臭の景色は、孤独感すら抱かせない程に無機質であった。
休憩がてら試しに水底を掘ってみたが、辺りが濁るだけで徒労に終わる。
ふと、私の胸に「ここは本当に私の夢の中なのだろうか?」そんな疑問が湧き上がった。
確かに私は他の人には言えない、言っても信じては貰えない悩みがある。しかしそれは「仕方ない」と随分と前から受け入れて生きてきた。心象風景がここまで無機質で隔絶された世界になるような深い悩みではない。
では、ここは何処なのか。こうして第三者的目線で辺りを見てみると、何もかもが疑わしく感じる。水流に動きはなく、頭上から差し込む光もない。生物という気配もなければ、砂を掘り返してもなにもない。まるで広大な水槽にでも入れられているかのようだ。
私は泳ぐのはあまり好きではないし、水槽で生き物も飼ったことがない。ここの風景と私の中にあるものとは何一つとして合致しない。
それに気づいた時、私の右目の力が眼球の中心に収束するのを感じた。これは結界が近くにある時、もしくは私が境界を「見ようと」した時に生じる現象であり、私が苦手とするものであった。
不意に来た右目の違和感に気分を害しながら辺りを見渡すと、丁度視界の左端にコンクリートの割れ目の様な空間が現れる。これが結界だ。
いつもならば、真っ白な半紙に墨汁の雫をゆっくりと垂らしていくかの様な、ゆったりとした足取りで心中が恐怖に染まっていくのだが、今回は少し違った。
誰かが呼んでいる。いや、待っている。と言った方が正しかったのかもしれない。
不思議と怖くはない、私の足は自然とその結界へと向かう。やがて私はその結界の輪郭を、傷口に触れるかのように、そっとなぞった。
私は夜空に居た。
そう表現することが出来るほど、周囲には何もなく、私が立っている場所ですら違和感を覚える程に平らで、雑草や小石すらもなく、地平線の向こうまで無機質な風景が続いている。夜空には不自然な程に星々が瞬き、ふっくらと膨らむ満月が昇り、天体の照明だけが私を照らしていた。
暫く歩いてみると、星空は何処までも続き、遮るものすらない。授業で習った星座の見方を頑張って思い出していると、やがて地面に黒い影がみえた。
それは膝を抱えながら、ぼんやり夜空を見上げる一人の女の子であった。
声をかけるか一拍ほど悩んだが、辺りに隠れる場所もなく、どの様な行動をとっても結局は見つかるだろうと思ったので声をかけた。
「こんばんは」
「はっ?」
その声は明らかに動揺と、警戒心が含まれている。彼女がこちらに振り向くと、星影に照らされた顔は明らかに異物をみるような目であった。
「誰?私の夢の中でなにをしてるの?」
「これは私の夢じゃないの?」
「そんなわけないでしょ」
女の子は苛立ちを隠さないまま、言葉の切っ先を迷わず私に向ける。
「早く出て行って」
「いや、そうしたいのは山々だけど、出口は分からないのよ」
「なんで?勝手に入ってきた癖に」
「それは成り行きと言うか、偶然というか」
「わけわかんない」
そう言うと女の子はあからさまに気だるそうな溜息を吐き、もう一度夜空を見上げる。彼女の言動から察するに、ここは彼女の夢の中だということが分かった。だが、どうして私は赤の他人の夢の中にいるのだろうか。心当たりは先ほど触れた結界だが、もしかすると私は知らないだけで、結界とは夢へと通じる扉なのかも知れない。
女の子は無言のまま星を見ている。その背中からは強固な拒絶と、険悪な空気が流れていた。この状況で話しかけられるほど、強靭な精神力は持ち合わせていないので、私は大人しくその場に座り、彼女と夜空を眺めた。
どれほど見上げただろうか。空を覆いつくす星々の天幕がやがて白み始めた。夜を塗り替えるような朝焼けも、夜明け前の不安定な紫色も空にはなく、夜が白色に溶け行き、地平線が何処までも白色に変わる。それは寝ている時にカーテンの隙間から入り込む陽射しに瞼越しに起こされるような感覚だった。
ふと気が付けば目の前に座っていた彼女が、うつらうつらと頭が前後に揺れていた。そして私も同時に抗うことの出来ない眠気に襲われる。
夢が終わるのだ。
夢が終わるとき、夢の中の私たちは眠りにつく。起きている間は覚えてはいないのは、恐らく夢の記憶と現実の記憶は上手く繋がっていないからだろう。
一応、まだ起きている女の子に「お邪魔しました」と声を掛ける。彼女は無言のまま私に背を向けていた。
人は夢を見る時、見る夢の舞台で目覚める。例え同じ夢だとしても、同じ場所で目覚めることなど今まではなかったのだが。今回はやや事情が異なるようだ。
「……こんばんは」
「……なんでお姉さんまたここにいるの?」
次に夢の中で目覚めた時、私はまたしても女の子の夢の中に居た。
夜空は星達がざわめき、月が優しく地表を包む。しかし、私たちが立つ場所はやはり何処までも無機質で平面的であった。
女の子は溜息をつきながら胡坐をかいてその場に腰を下ろす。何か含みがある瞳で私を睨むようにして見上げると、初めて彼女と私の視線がぶつかる。年齢は中学生ぐらいだろうか、幼さはあるものの、無駄なものをそぎ落としたかのようなさっぱりとした顔つきは、凛々しい印象を与える。そして、彼女の瞳はここの夜空と同じ色をしていた。
「とりあえず、出て行ってほしい」
「それが出来たら苦労しないわよ」
とりあえず女の子の正面に腰を下ろすと、彼女は露骨に私を避けるように座りながら後退した。まだ表情や言葉に刺々しいものは感じるものの、前回の様な強固な拒絶は見受けられない。それは恐らく、私を受け入れた訳ではなく、私を拒絶するだけでは私が居なくならないと思ったからだろう。実際に、彼女から漂う雰囲気は刃物のように鋭い。
「そもそも、どうやって私の夢に入って来たの?」
「それは、夢の中で結界を触って」
一瞬誤魔化そうかとも思ったが、赤の他人である女の子に私の能力を知られたところで別に構わない。それを聞いた彼女は一瞬目を大きく見開いたが、その表情はすぐに訝しげなものに変わる。
「はぁ?嘘でしょ?結界はまだ研究段階だって習ったけど」
「本当よ。私の目は結界を見ることが出来るの。触ったのは今回が初めてだったけど」
「それに、結界のことに詳しくないのに、噓って決めつけるのは良くないと思うの」
女の子の悪態に仕返しとばかりに少し意地の悪い言い方をすると、彼女は私を睨みながら悔しそうに唸る。暫くすると「……変な目の変な人」と負け惜しみとばかりに小さく吐き捨てた。
「つまり、ここにもその結界はあるの?」
「え?」
「いや結界から来たなら、その境界から帰れるんじゃないの?」
「あ、なーる」
人の夢に入り込んだ衝撃で忘れていたが、確かにその手があった。
私は立ち上がり瞳に意識を集中させる。瞳の奥に何かが流れ込んで収束するような嫌な感覚を覚えながら辺りを見渡すも、何処までも隙間なく夜に塗り固められた平面だけが続いていた。念のため夜空を見上げるも、そこには星達が光で返事をするばかりで何もない。
暫く見渡すも、無駄に疲労が溜まっていくだけで成果は一向に上がらない。
疲れて来たので一旦止めようかと思った時。
「……綺麗」と吹けば散ってしまいそうなか細い声で女の子は呟いた。
「ん?何が?」
女の子の方を振り向くも、彼女は何事もなかったかのように自分の足元を見つめている。ここに居るのは私と彼女だけなので、その声の主は彼女のはずなのだが、私の問いかけに対する返答はいつまでも訪れない。
「何か見えたの?」
「……星が、星が綺麗」
「そうだね」
全身が泥の様に重く感じ、思わずその場に腰を降ろして夜空を見上げる。来た時から代り映えしない風景ではあるが、無駄なものがそぎ落とされた清夜は非常に心地が良い。こうしていると、女の子の横顔にはこの夜空の面影があることに気が付いた。彼女の夢なのだから、それは当然のことなのだが。私はそれが酷く美しいものに感じた。
そうして何度か結界を探してみるも、一向に見つからず、気が付けばまた風景が白み始めていた。夢が終わる。
「お姉さん」
女の子から、初めて邪なものが籠っていない声が聞こえた。
「また来るの?」
「たぶん。この夢から出られない限りは」
そう答えると、女の子はにべもない返事を返す。徐々に私の意識が微睡、現実に引き戻される。なんとなしに彼女の方を見ると、少しだけ曇った顔つきをしていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
私はまた、女の子の夢の中にいた。彼女も私がまた現れることを予測していたかの様に、以前と比べると幾分か物腰が柔らかような気がしたが、まだ自分の夢の中に居ることに対して不快感はあるようで表情は芳しくない。
「どうしたらお姉さんはここから出て行ってくれるの?」
「さぁね。結界が見つかってくれたら話は早いんだけど」
今夜もどうしたものかと悩むふりをしてみる。
女の子には悪く思いながらも、私はこの夢を気に入ってしまった。静謐な空間で、熱くもなく寒くもない夜空の下で、ただ星と月だけを見る。そんな時間が私は以外にも好きであった。そして、悪態は付かれるものの、物言いがはっきりとしていて言葉に淀みがない彼女のことも嫌いではない。
どうにかして女の子と仲良くなろうとは思うのだが、私の話題を端的な言葉で、時には無言で片っ端から切り捨てていくので、取り付く島もない。
とりあえず再度結界を探してみたが、一向に見つかる気配はなかった。試しに、ここがどれだけ広いのかを調べたが、女の子が地平線と重なるところまで来ても平坦な夜は何処までも続き、彼女を見失っては困るのですぐさま引き返した。
ここには星と月、それとどこまでも続く夜しかない。
「ねぇ、夜とか星座とかが好きなの?」
「別に」
「ここはどうして夜しかないのか、心当たりはある?」
「分からない」
女の子は座る私の方を見ようともせず、明後日の方向を向いて答える。
「……それはお姉さんが居なくなってくれることと関係あるの?」
「恐らくね」
それから暫く経ち、私がもう一度結界を探しに行こうとした時。女の子は膝を抱えながら、ゆっくりと私の方に体を向けた。久しぶりに見えたその顔は、出会った頃の剣吞な雰囲気はなく、不安と戸惑いが入り混じった表情をしていた。
「お姉さんは、この夜空を見てどう思う?」
「え?」
女の子の思わぬ問いかけに驚きつつも、私は何度も見たはずの夜空を見上げる。そこには何度見ても、何処まで沈んでいきそうな程に深く、静謐で淀みのない湖のような夜空に星と月が浮かんでいる。
「綺麗だと思うけど?」
「そう」
一言だけ呟くと、女の子も私と同じ様に夜空を見上げる。
「私には、数字が見える」
「数字?」
「うん、色々な数の組み合わせが夜空一面に広がっているの」
女の子は顔の表情を変えないまま、夜空を見上げる。にわかには信じ難い話だが、私の目も結界が見えるのだから、彼女が夜空を見て数字が見えることもあるだろう。
「それを見ていると、目の中央に少しだけ違和感がない?」
こちらを見ていた女の子の表情が少しだけ揺れる。
「……ある」
「そうよね。私も結界が見える時、そんな感じだもの」
私は声が聞こえやすいように、ほんの少しだけ座る位置を彼女に近づける。私は女の子が感じている違和感に身の覚えがあった。恐らく、彼女が抱える感情にも。
「その違和感がある場所に、意識を集中させるというか、力を籠めるの。試しにやってみて」
「するとどうなるの?」
「私は結界が見えるようになった」
女の子は座ったまま、少し真剣な表情で夜空を見上げる。
そして、一旦深呼吸をしてから星々を睨むと、女の子の瞳が仄かに煌めく。それは夜空に瞬く星の輝きによく似ていた。私も能力を使うと仄かに目に光を帯びるが、恐らく彼女の光の方が綺麗だろう。
暫くすると彼女はひどく疲れた顔をしながら視線を私に向けた。額には脂汗が浮かび、その凛々しい輪郭をなぞりながら地面に落ちていく。
「何か見えた?」
「……時間と位置が見えた」
「時間と位置?」
女の子は明らかに疲弊したような面持ちで、息を整える様にしてその場に座り込む
「うん。今の時間は朝の六時五十分二十一秒。場所は私の夢の中」
それだけ言うと「しんどい」と呟き、地面に大の字で寝転ぶ。女の子が私の前で気を許した姿を見たのはこれが初めてであった。そして言葉を少しずつ落としていくように語り始めた。
「私ね、これが何なのか分からなくて、少しだけ怖かった」
「うん」
「家族や友達に話ても、だれもちゃんと聞いてくれなくて」
「うん」
女の子の声が、何かを堪えるように、少しだけ途切れる。
「誰も分かってくれようとしないんだって思ったら、少しだけ寂しかった」
「うん」
「……あの、目のこと。変って言ってごめんなさい」
「良いよ、実際に変なんだから。私も貴方も」
私が笑いながらそう答えると。女の子は少しだけ口角を上げて、そよ風のような微かな声で笑った気がした。
そうして暫くすると、夜が白み初め、夢が終わる。
平坦な黒い地平が白に塗り替えられて、煌めく天幕が滲むようにして消えていく。だが一つ違う点があるのは、私にはまだ眠気が訪れてはいないこと。そして、女の子が先に寝てしまったということだ。
私は女の子の方にそっと近寄る。瞼はぴったりと閉じられて、羽音のような寝息が無ければ美しい彫刻の様にも見える程に肌はきめ細かい。
そして、ようやく見つけた「結界」に手を伸ばす。それは女の子のお腹の上にあったのだ。
これに触れれば私はこの夢から出られるだろう。でもそれは、この女の子とも、この夜の夢からも別れることになる。
初めて私の能力を知ってくれて、同じように変な目を持つ人にせっかく出会えたのに、こうしてお互いに名前も分からないまま離れてしまうのか。そう思うと少しだけ寂寥感がこみ上げた。
「まぁ、お互い似た者同士なんだから、そのうちまた会えるでしょ」
私は一度だけ彼女の頭を撫でてから、小さく「お邪魔しました」と言って、その結界に触れた。
〇
科学世紀の今日。偉大なる科学者により「「結界」を証明する式」が完成してからというもの、結界の研究は急激に進んだ。以前までは結界には何人たりとも触れてはならなかったそうだが、私が高校生になる頃には結界を取り扱う研究機関が生まれて、日夜結界内部に入って調査が勧められており、資格があれば境界の調査をしても良いところまで来ていた。
「結界」とは何か。それは新エネルギーとも、世界の綻びとも、次元の新天地とも言われているが、その正体は未だに謎が多い次元の裂け目のようなものである。
結界の内部は、境界が現れる場所によってまちまちで、未来た過去、森林や砂漠、海底から宇宙まで様々な場所に繋がっているそうだが、未だに不可解な点は多く、結界の研究者から様々な文献が出たが、どれもが推測の域を出ない。そもそも「「結界」を証明する式」が出来た経緯も「Dr.レイテンシー」と言うあからさまな偽名を用いて差し出し不明の手紙から始まったそうだが、明らかに欺瞞の匂いがした。
そんな結界に関する文献が多く出回る中で、私が一番興味を惹かれているのが、「結界の女史」という「境界」内部で起こる錯覚、もしくは幻覚症状だ。それは、結界内部を探索するものが時折目にする、ブロンドの髪の利発的な顔つきをした清楚な女性である。初めてその女性を目撃された時には、誰しもが見間違いであろうと高を括っていたのだが、不定期的に、様々な結界内部で目撃件数が増えたので、遂に正式に調査がなされた。
そうして「結界の女史」の正体は、未知の空間に居るという精神的ストレスと結界内部の特殊な磁場によって引き起こされるものだと判断され、そちらの研究は一旦幕引きとなった。しかしその数年後、その研究結果に一石を投じる学者が現れる。
その学者曰く「「結界の女史」の観測、写真撮影に成功した」と言う。
「「結界の女史」の観測」と名付けられた論文は、学会を揺るがせた。もしこれが事実であれば「結界」に住む者、もしくは行き来できる者がいると言うことだ。
だがしかし、それは「絵空事に過ぎない」と一脚されてしまった。何故なら、余りにも綺麗に写り過ぎていたからだ。
その一件により学者には非難が集中。最後まで彼は自身の発言を曲げることはなかったものの、現在ではその研究資料は第三者によりインターネットから削除され、研究資料の全てを学者が持ち去り身なりを潜めたため、現在では見ることが出来ない。
私がその写真と研究資料を見つけたのは、私が大学院生として通っている大学の研究所であった。
その研究所では、結界に特化した研究をしており、実は上記で記した学者もこの研究所に所属していたらしい。
それは、年の暮れ。そこのバンジョーを常に背負う副所長の指示で、大掃除と称した無秩序と混沌の世界と化した資料室の整理を任された時である。研究所からやや離れたところにある資料室は、室内の温度や湿気を書類に適したものにする機能はあるものの、その書類の優しさを人間には分け与えることがなく、非常に冷え冷えとしていた。
盆地特有の冬の猛攻は凄まじく、室内に居るのにも関らず「このままでは、冷凍食品になってしまう」と本気で思っていた。体を動かすことでなけなしの暖を取り、自家発熱だけで冬に立ち向かい、辟易しながら書類の地層を掘り返して、年代ごとに仕分けをしていると、その地表の下から偶然にも「「結界の女史」の観測」を掘り当てた。
私は「これは神の思し召しに違いない」と断言して、密室なのを良いことに何食わぬ顔でその研究資料をくすねた。
頼まれた通りに綺麗に書類を整理整頓して研究所に戻ると三時間は経過していた。副所長に完了報告をする為に研究所に戻ると、研究所の奥深くからコンクリートに染み入るようにやけにご機嫌な弦を弾く音が聞こえたので、私の中に潜むややバイオレンス的な部分が鎌首をもたげる。
それは副所長の居る部屋に近づくにつれて、そのご機嫌な音色は私の中にある鬱憤と共に大きくなっていく。どうやら、私に書類整理を投げつけておいて、自身はぬくぬくとした研究所の自室でご機嫌にバンジョーを弾いていたらしい。外に降り積もる雪に石でも入れて投げつけてやろうかと思ったが、一刻も早く幻の研究資料に目を通すべく、端的に終了報告を行い、副所長の居る部屋のブレーカーを全部落としてから帰路についた。
私の自宅は白川疎水が近くにある。
雪が降っているからだろうか、街全体が雪に音が吸われたかのように静まり返り、仄かに夜の底を白く染める。時折叡山電車が闇を切り分けながら貴船口を目指してきいいん、きいいんと忙しなく走り抜けいった。
私の自宅である「金月洋装アパートメント」は一見、混沌と化した建築物の成れの果て。その火を見るよりも明らかな荒廃っぷりは、ここに潜むのは主に科学世紀に馴染めなかった時代錯誤も甚だしい京都の怪人か、もしくは極端に貧困を極めた故に「達してしまった」者達が最後に行きつく通称「廃墟のアヴァロン」と称される建築物にも見える。
しかしそれは、現在の大家の意向であえてそのような外観のデザインにしているだけで、実際に建物内の鍵は全て生体認証システム、エントランスには人口竹林、中庭は季節の花が植えられており週末には喫茶店が開かれる。それに加えて、部屋は今流行りの次世代式四畳半なので言うことは無い。
雪を払ってから自宅のドアを開けると、事前に起動しておいた暖房器具が部屋全体を快適な温度に引き上げてくれており、思わず笑顔がこぼれる。
手早く入浴を終えて、食事も昨日の残り物を適当に平らげると、待ちに待った研究資料のお披露目の時間が訪れた。
封筒から取り出すと、研究資料はつづりひもでまとめられており、裏表で約二十枚。乱雑な保管方法だったので、所々読みにくい所や、一部ページが破けたり、抜け落ちていたりするころもあったが、私の最も興味がそそられる部分は欠けずに残っていた。
「結界の女史」そう名付けられて、資料に載る一枚のカラーの画像。
三日月が浮かぶ清夜にハイキングでもしているかのような涼しい横顔に、肩までゆるやかに伸びるブロンドの髪、白い帽子をかぶり、藤の花を思わせるリネンワンピース。足首の上ぐらいまでの白い靴下に、茶色いローファーの靴は履いていた。
その写真を見たとき、私の胸の奥から熱湯のような感情がこみ上げる。脳の奥はめまいがするほど何度も考えが交差して、落ち着こうとするも思考はますますがんじがらめになる。
何とか自分の中に渦巻く感情を抑えながら、念願の資料を読み得て、一番に思ったのは。
「彼女に会いたい」と言う、自分でも驚くような答えであった。
確かに、偶然撮られたにしてはあまりに写りが良すぎるし、当時の科学者が疑う気持ちも分かる。だが実際に「結界の女史」という幻覚、錯覚現象は存在しており、この資料に載る彼女と「結界の女史」が同一人物ではないという証明はされていない。何故なら、誰も「彼女の証明」はしようとしなかったからだ。
ならば。私が、彼女の真偽を証明してみたい。そう思った。
光陰矢の如しとは上手く言ったもので、彼女に向けて放たれた私は、大学院生として三年間を必死に過ごした。
結界に特化した学問の勉強、博士課程を全て乗り切り、結界調査における資格の取得、同じ研究所にいる大学院生とバンジョー副所長のバンジョーをマンドリンにすり替え、ついには「「結界の女史」の観測」の資料から、その写真が撮られた境界の割り出しに成功した。
それは京都の北区にある上品蓮台寺。
寺の住職に許可を取り、研究所の仲間たちと境界を観測するための機器を寺の境内に設置するまでに約半日かかり、気が付けば日が暮れていた。
玉砂利を踏みしめる音が夜に響き、簡易照明に照らされた研究員たちがのそのそと境内を動き回る。それはまるで夜に跋扈する妖怪のようにも見えた。
「まるで百鬼夜行ね」
季節は秋の暮れ。当然夜は冷え込み、かじかむ手を温めながら結界を固定するために無機質な機器に触れる。
私は無意識に、この三年間を思い返す。今思えば「彼女に会いたい」という思いだけで、ここまで来た。今回の結界観測も「偶然」を装い「「結界の女史」の観測」の資料を発見したことにして、苦い顔をする副所長を何とか言いくるめて実施にこぎ着けた。無論、私が「彼女に会いたい」と言う為だけに行っているとは誰も知らない。
私の私利私欲のために多くの人を動かし、副所長を欺き、目を疑いたくなるような値段の機器を幾つも借りたのは正直良心が痛まないわけではないが、彼女に向けて射られた矢は、彼女に刺さるまでは止められない。
私の出所不明の感情は何とも表現し難く。近しい言葉で言い表すならば「一目惚れ」だ。
特殊超音波による結界の位置を正確に割り出しに成功したので、その結界の規模と固定値を正確に出す。それが終わると、指向性の電磁波を発生させる機械を結界の方に向けて起動させた。結界に電磁波が干渉したことを告げる数値が出たので、ゆっくりと電磁波の出力を上げて結界に浴びせる。
それから数分程経ったころ、目の前の空間に石を投げ込んだような波紋が幾つも浮かび、空間をかき分けるようにして境界は姿を現す。
夜の湖を思わせる結界が空中に揺蕩う。その結界は小さく、その規模から見て境界内部に入る推奨人数は一人。何故一人なのかと言うと、小さな規模の結界に多くの人間が入れば、その分結界内の質量が増えて、結界を固定値が乱れるとされているからだ。そもそも小さな規模の結界は不安定なので入ること自体危惧されているのだが、私はいち早く名乗りを上げた。
完全に固定された結界を感慨深く見つめる。ついにここまできた。
私は結界の入り口に立つ。バイタルサインを測定する機器、眼鏡式固定カメラ、インカムを装着してやや不自由ながらも、動きに支障はない。
電磁波の操作により、結界は開かれる。私は生唾が喉を通り過ぎるのを待ってから、結界に足を踏み込んだ。
鬱蒼と生い茂る木々、静謐な空気に満たされ、微かに鳥の鳴き声が遠くから響く。
周囲は薄暗いが、夜が近いということは私にとっては好都合であった。
私には生まれながらにして「星の光で時間を、月を見れば今の居る場所が分かる能力」を持つ。それを使って懐に入れた彼女の写真に写る月と、沈む夕日と入れ替わるように現れたまだ薄い月を見比べてみると、やはりこの結界で写真を撮られたということが分かった。
私は撮影された場所へと足を運ぶ。まるで、待ち合わせに急ぐように。
初日、彼女と出逢うことは叶わなかった。
二日目、同上。
三日目、同上。
四日目、同上。彼女が撮られた場所に内緒でセンサーカメラを設置。
……
七日目、センサーカメラに彼女は写っていた。
「は?」
私が驚いたのは、彼女の髪型、髪色はそのままだが、撮影された当初に比べるとかなり大人びており、手元には進々堂で買い物した時に渡されるビニール袋が下げられていた。
私は眩暈がするほど混乱したのだが、さらに驚きの事実が発覚する。それは、センサーカメラを回収するときに、先日まではなかった紙切れが落ちていたのだ。私は急いでそれを確認すると、それは私の卒業した京都の大学構内にあるカフェ「まんどり」のレシートであった。そこには購入日付と学割とすら書いてある。
恐らく。というかほぼ確実に、現在彼女は、京都在住の大学生だったのだ。
私の目の前に、手元にある写真の女性を成長させた姿の大学生がうどんを啜っている。
「それで、私に話とは?」
「実はこの写真なんだけどね」
私は先日撮った写真を彼女に見せると、うどんを啜るのを止めて、目線の動きが怪しくなる。
「……これ、君だよね?」
「ど、どうしてこれを?」
私はとりあえず、今までの経緯を全て彼女に語ると、彼女は「まさかそんな大事になっているとは」と大いに驚いていた。
彼女曰く。結界の中に意図的に行けるようなったのはつい最近で「結界の女史」の件も何となくは耳にしていたが、それがまさか偶然結界を通った自分だとは想像もしていなかったらしい。
「いやぁ、まさかあの正体が私とは……」
「だよねぇ」
私は手元にあるざるそばを啜りながら彼女に目配せをする。
「もし今日の講義が終わったら、私の所属する結界の研究所で少し話さない?」
彼女は一瞬迷ったように唸ったが、内なる好奇心をたぎらせているかのように笑った。
〇
光が列をなして、深い夜に切り込むように滑っていく。それはゆりかごのように、時には乱暴に私の体を揺らすので、中々寝付けなかった。私の同行者は何事もなかったかのように酒を飲んで寝てしまったので、風情の欠片もない醜態を晒しているけれど、とりあえず写真だけは撮っておいた。
東京発の寝台列車「白樺」
東京から京都までを走るこの寝台列車に乗ろうと言い出したのは、今現在夢の中にいる彼女、宇佐見蓮子であった。
話の流れから、私は東京にある蓮子の実家に同行することなり、私は十二分に東京観光を楽しんだのだが、蓮子にとってはただの彼岸参りで終わるのが少々つまらなかったらしく、色々と意見を出し合った結界、独特な風情で今もなお独自の地位を誇示する寝台列車の帰路を選んだ。
随分大量のお酒とつまみを買い込んでいたので、長丁場を予想していたのだが、蓮子はワイン二本と半分を飲み干したところで、微睡に突き落とされてしまった。
残しても仕方がないので、余ったワインを飲みながら、ふと蓮子との出会いを思い返していた。
私、マエリベリー・ハーンは春の暮れ。偶然「秘封俱楽部」という木の札がかかったサークル部屋の前で蓮子と出会った。
秘封俱楽部とは何か。私たちが通う京都の大学にある、如何にもきな臭いサークルばかりが押し込まれた、旧東棟の最果てに位置する場所にそのサークルは存在しており、「この旧東棟屈指の変人が所属しているに違いない」とシツレイながらそう感じた。
何故私がそんなところに居たかと言うと、サークル勧誘から逃げ回っていたからである。
私の通う大学は煩悩の数以上のサークル、野良サークル、交流会、同好会が存在しており、全貌は恐らく大学側も把握できては居ないと思われた。それらが一同に集まるのが、四月の初め、新入生が入学する時期なのだ。
入学式を終えての、これから始まるキャンパスライフに少しだけ胸を高鳴らせる私が初めてみたのは、学生運動末期の混沌の再現かと思われる程に、様々な声とチラシが飛び交い、餌を得ようとする鯉の様に多くの先輩方が新入生に話しかける光景であった。
初めは非日常感があったので、そんな光景も悪くはないと思っていたのだが、それが二、三日続くと流石に飽きる。それでも飽きないのがサークル勧誘一派なので余計にタチが悪い。
幾つか興味がないわけではない。好奇心は比較的強い方なのだが、強引に迫られるとつい逃げたくなるのが私である。
さらに言えば、ありとあらゆる手段を要して迫りくるサークル勧誘一派の魔の手から逃れるのは、ゲリラと戦っているかのようで中々にスリリングだ。まさか教室変更という嘘の情報を大量に流して多くの学生を一つの教室に呼び寄せると、教室を施錠して九十分間に渡り様々なサークルの紹介を行うというアクロバティックな手法を目の当たりにしたときは流石に笑ってしまったが。
それはともかく。そんな大学内でのサークル勧誘に辟易していた頃、偶然逃げ込んだのか旧東棟。大学全ての陰気をここに運び込んでいるのではないかと思うほどに棟全体の空気が淀んでいた。一応今出川通りに面している方にある窓から光は差し込むものの、それ故に影を色濃く映し出す。
なんだかとんでもない所に来てしまった。まるで廃墟を探索しているようで胸が高鳴るのを感じながら、各階をくまなく探索する。使い古された自転車、原寸大のトドの模型、マトリョーシカ式の達磨、大学宇宙陰謀論のチラシの束等々、様々なものが軒を連ねるなか、旧東棟の最果てにそれはあった。
窓すらも途切れ、陽の光が当たらない奥地、非常灯だけが怪しく光る陰気な空気が圧縮されたそこには、「秘封俱楽部」という木の札がかけられた小さなサークル部屋だけがひっそりと佇んでいる。
終りにはもってこいの場所だ。そう思いながら秘封俱楽部と木の札がかかったドアを開けようとしたとき、足元に落ちているリボンに気が付いた。
それはシンプルな黒のリボンであった。道端や他の棟で落ちていても何らかおかしくはないのだが、「この場所に落ちている」ということが非現実的なものに思えた。まるで、この旧東棟に偶然迷い込んだ異物の様な印象を受ける。
それを何となく持ち上げて眺めていると、私の歩いてきた方から「あっ」という声が聞こえ、思わず胸が突きあがる。
平静を装って声がした方に顔を向けると、黒い生地に白いリボンがよく目立つ中折れ帽子を被った私と同い年ぐらいの女の子、立っていた。その目線の先は私の持っているリボンに注がれている。
「ええっと、これは貴方のかしら?」
「えっ、あ、はい」
警戒心を含む返事に「まぁこんな所に居たら、仕方ないか」と納得しながら、彼女に黒いリボンを差し出す。お礼を言いながら受け取ると、彼女の濃い青色の瞳が私の目を映す。
「貴方、もしかしてこのサークルの人?」
「いや、とんでもない。こんな胡散臭いサークル」
「ふふっ。そうよね」
何がおかしいのか、私たちは二人して笑った。それはこの最奥に溜まった陰気を少し減らすような、そんな軽い笑いを。
「良かったら、一緒にこのドアを開けてみない?」
お互いに笑いが止んだとき、私が彼女に提案をした。こんな所に二回も来るぐらいなら、恐らく私と同じ感性をもっていると踏んだからだ。
「最悪誰かいたら「このサークルってなんですか?」って聞けば大丈夫だと思うし」
「えぇっ……逃げる時は置いて行かないでよ?」
「信用されてないなぁ」
そう言うと彼女は、再度私の目をジッと見つめる。そう言えば自己紹介がまだであった。
「私はマエリベリー・ハーン」
彼女は一旦間を開けて。
「私は宇佐見蓮子」
「じゃあ、宇佐見さん。早速」
私の体は宇佐見さんの返事を待つ前に、秘封俱楽部と言う木札のかかったドアに手を伸ばす。
高鳴る鼓動を感じて、手汗が少し滲み、好奇心が胸に満ちていく。少なくとも私はこの大学に来て、初めて無邪気に笑い、宇佐見さんも鏡の様に私と同じ笑みを浮かべていた。
車窓に映る暗い景色に思い出を映す。あの出会いがもう半年も前かと思うと、随分と世界が早回しになったような錯覚を覚えた。
結局、秘封俱楽部のサークル部屋内部は埃と塵が占拠する空っぽの部屋で、どうやらあの木の札だけが捨てられずに残っていたようだ。正直拍子抜けだったが、そのままの流れで秘封俱楽部として私たちが活動を続けている。
車窓の向こう側に幾つもの光が広がったかと思うと、やがて消えていく。夜に身を溶かしていくかのような一抹の寂しさがこみ上げた。私はどこか温もりを求めるかのように、眠りこけている蓮子の頭をそっとなぞる。返ってくるのは返事ではなく寝息だけ。普段は凛々しくも見える横顔も、今は幼さだけが浮かび上がっていた。
もし、あの旧東棟に迷い込まなければ。もし、あのリボンに気付かずに秘封俱楽部のサークル部屋に入っていたら、もしかすると蓮子には会えなかったのかもしれない。
「それは、少し寂しいなぁ」
蓮子に会わなかった私はどのように過ごしているのだろうか。結界が見える能力の話もできず、深夜の墓荒らしも、夢で貰ったお土産の話をする相手も居ない。もしかすると、こうして東京に行って、帰りは寝台列車に乗ることもなかったのかもしれない。
そう思うと私は堪えきれず、猫の様に少し丸まって眠る蓮子の手をそっと握る。
少しでも貴方に近づく為に、こうして出会えたことに感謝をする為に。
ありがとう。
声にならない感謝の言葉は、外を流れる夜と共に消えていった。
私は時折考える。
この大学で貴方と出会わなければ、どのような人間と出会い、どのような人生を送っていたのだろうかと。
しかし、同時に思うことは。
どれだけの人間と出会えなくとも、どんな人生を送っても、きっと私は貴方とは出会っていた。
この科学世紀の下で。
サークル案内もなし、学校のパンフレットにも当然記載されていない、活動内容は全くもって不明瞭。私はシツレイながら、恐らく「如何にも陰気な人が所属しているのであろう」と思った。
私がそれを見つけたのは、桜の木から千切れた花びらが地面を乳白色に染めて、生ぬるい風が吉田山から駆け抜ける四月であった。私の通う大学には想像を絶する程の有象無象の公式サークルから非公式サークル、もしくは同好会から野良サークルから秘密結社を名乗る正体不明の集団が広大な構内の様々な場所に潜んでいる。そしてその者達が一番力を入れていることは、四月になると必ず訪れる「シンニュウセイ」と言う生き物をあの手この手で確保することだ。それを俗に「サークル勧誘」と呼ぶ。
そして当時の私も「シンニュウセイ」と言う種族に属していた。
当時を振り返ると、それはとても壮絶な一ヶ月であった。大学の正門、裏口、南口、抜け道までも「サークル勧誘」の包囲網が張り巡らされており、それをあの手この手で切り抜けて、日夜「サークル勧誘」との死闘を繰り広げていた。
基本的には講義が終われば即帰宅、どうしても時間を潰す必要がある時は、「サークル勧誘」の魔の手から逃れるべく百万遍知恩寺の裏に妖怪の如く潜むか、構内の人気がない場所を好奇心に任せて黙々と散策していた。
その時、旧東棟の文科系サークルが集まる場所の一番奥まで迷い込み、なんとなく壁にかかっているサークルを見回っていると「素麵同好会 おてもと。」「生湯豆腐研究会」「更・男汁」など、不可思議なサークルが各を連ねるなか、「秘封俱楽部」と言うドアにかかった木の札に目に止まった。廊下の窓が途切れ、秘封俱楽部と言うサークル部屋の周囲だけが陰に覆われていた。その奥には一応非常口があるらしく、蛍光色の光だけがぼんやりと浮かぶ。
そんな周囲の状況に影響されてか、名前からしてなにかよからぬ俱楽部であろうと推測した。
その木の札は乾ききっており、不思議と貫禄を感じさせた。恐らく何十年も前からここにかかっているのだろう。その証拠に木を吊り下げている紐は頼りなく、今にもほつれて千切れそうになっている。
そんな木の札を何の気なしにジッと見つめていると、その部室内には誰かがいるような気がした。
私は「サークル勧誘」との死闘からの経験で「見つかっては面倒なことになる」と即座に判断して、踵を返した。
私が黒いリボンを落としたことに気が付いたのは白川疎水の自宅付近であった。どうやら通学用で買ったトートバッグから抜け出してしまったらしい。まだ買って日が浅いその黒いリボンは、講義中に髪まとめる為に買った物であり、特段執着もない。無くしたとて、特に問題はなく、本格的に講義が始まる来月辺りに四条河原町にでも行って買えば良いと思いながらも、何となく今日の出来事を思い返してリボンの行方を追った。
四月の夕日はまだ頼りなく、空が赤く染まったかと思うとすぐに尾根の向こう側に引きずり込まれてしまう。叡山電車が夜に沈む街を切り裂きながら走る音が響く薄暗い住宅地の中で、私は思い当たった。正確には思い当ってしまった。
それはあの慌ただしく駆けだした旧東棟の最奥。あの胡散臭いサークルの前を記憶は指し示している。心当たりがあるからには、そこに行くのが妥当であろう。しかし、あんな陰気臭い、しかもよりにもよってあの胡散臭いサークルの前にもう一度行くのは気が引ける。
しかし、落とした場所に心当たりがあるからには、探しに行くのが礼儀だと思う、生真面目な自分が私に言う。
「億劫だなぁ」
私のつぶやきは夜に沈み切らない街頭に落ちて、春風はその言葉を何処か遠くへと運んだ。
次の日。私の足は律儀にも旧東棟へと赴く。
昨日と同じ、陽が差し込む階段を上り、この棟の最奥へゆったりと進む。やがてあの胡散臭いサークルのある階に辿り着き、賑やかな今出川通を見下ろしながら歩いていると、目の隅が一瞬煌めいた。
旧東棟の最奥。そこには窓はなく薄暗いはずなのだが、疑問に思い前方を確認すると、この場には到底似つかわしくない人物が屈んでいた。
「あっ」
私の眼前でブロンドの髪が翻り、その人物は私と目が合うと同時に、私と同じ言葉を発した。
白いふちがくしゃくしゃとなった帽子を被り、背丈は私とほぼ同じ。薄紫のリネンワンピースがよく似合い、ブロンドの髪型とやや私とは違う血筋を感じさせる顔つきをしている。
互いに視線を送り合って少し。私は彼女の右手に持っている黒いリボンに目が向く。彼女もそれに気づいたのか、黒いリボンを見つめて私の方に振り向く。
「ええっと、これは貴方のかしら?」
「えっ、あ、はい」
そう。と呟くと彼女は私の方に近づき、黒いリボンを差し出す。お礼を言いながら受け取ると、彼女の同じ髪の色をした瞳が私の目を映す。
「貴方、もしかしてこのサークルの人?」
「いや、とんでもない。こんな胡散臭いサークル」
「ふふっ。そうよね」
何がおかしいのか、私たちは二人して笑った。それはこの最奥に溜まった陰気を少し減らすような、そんな軽い笑いが人気のない構内に響く。
「良かったら、一緒にこのドアを開けてみない?」
お互いに笑いが止んだとき、彼女は声を潜ませながらそう言った。この子は見た目以上に度胸があるな。そう思いながら、彼女の好奇心に支配された顔を見る。
確かに興味がないわけではない。これは怖いもの見たさだろうか。
「最悪誰かいたら「このサークルってなんですか?」って聞けば大丈夫だと思うし」
「えぇっ……逃げる時は置いて行かないでよ?」
「信用されてないなぁ」
そう言うと彼女は、再度私の目をジッと見つめる。
「私はマエリベリー。マエリベリー・ハーンよ」
そういうと「よろしく」と言った様子で笑みを浮かべる。その間に頭の中で名前を反復しようとして舌を嚙みそうになった。
「私は宇佐見蓮子」
「じゃあ、宇佐見さん。早速」
マエリベリーさんは待ちきれない様子で、既に秘封俱楽部と言う木札がかかったドアに手を伸ばそうとしている。
高鳴る鼓動を感じて、手汗が少し滲み、好奇心が胸に満ちていく。少なくとも私はこの大学に来て、初めて無邪気に笑い、マエリベリーさんも鏡の様に私と同じ笑みを浮かべていた。
そして、私たちはその扉に手をかける。
〇
科学世紀を迎えて今日。私は日本の首都である京都。正確には京都御所と二条城の間にある、丸田町通りある「結界」に関する研究所に通っている。
「結界」とは近年見つかったこの世界の「ほころび」の様な物だ。それが何を意味するものか分からないし、何を隔てているのかも定かではない。それ故に、一般人が無暗に触れることすら禁止されている。
それを聞いた時、私は非常に興味をそそられた。そして、一般人でなければ触れても良いのだと高校生ながら単純且つ直線的な方向に思考が廻り、それを学べる京都にある有名な大学に狙いを定めて地盤を踏み固め、知識と言う火薬と砲身をくみ上げると、そこに一直線に飛んでいった。
四月の春。入学式後の人の波がぶつかり合う喧嘩祭りの様な荒々しいサークル勧誘の魔の手から逃れ、大学生活は結界に関することだけの知識を頭に注ぎ込んだ。そして気が付けば「境界魔」と言う名誉ある陰口を叩かれながらも、大学生から大学院生に立場が切り替わり、そしてこの研究所で結界に関する博士課程を学んでいる。
私は高校生の頃の自分に「私は私のまま、この様になるんだぞ」と胸を張って言える未来を進み、成績も良好、癖のある研究所の人達との関係も良く、強いて言うなら睡眠時間がたまに短いのと、マンドリンをがむしゃらに引く教授の演奏が驚くほど下手なところ以外は不満なところはない。
今日の研究も終わり、研究所の人たちと旧酒場が寄り添う木屋町で酒を飲んだ帰り、私は自宅のある今出川通を目指して歩いていた。研究所からやや遠いが、地下鉄を使えば約十五分で研究所にはたどり着くし、引っ越しを決意するのにも中途半端な場所なので、学生の頃かずっとそこに住み続けている。
六月の風は生温い湿気を含んでおり、それが鴨川からなだれ込んで来る。そんなことを思いながら三条大橋の欄干に体重を預けながら火照った脳を冷やしながら目線を上に向けると、遠くに見える鞍馬山は黒々とそびえ立ち、大文字は墨汁で書かれたように見えた。空には微かに輝く星と、丁度半分に切り分けられた月がこちらを見下ろす。
手に持ったミネラルウォーターをグッと飲み、導かれるままに鴨川の土手に降りて川上の方に向かう。自宅に向かうには、京都本線にある三条駅から電車に乗り込むのが一番早いのだが、明日は休みなので、今夜はそんな気分であった。
夜を滑るようにゆるゆると流れる鴨川を眺めながら、大きな声をだしながら何故か鴨川を横断する男、川辺に沿って等間隔に並ぶカップル、ブブゼラとマリンバの演奏をする自称ミュージシャン、相撲を取る痩せた複数人の男。多種多様な人種が渦巻くこの街は、私の知らない世界があちらこちらにあるような気がして、私はその世界を垣間見るのが好きだ。特に休日前だと様々な世界が入り混じり混沌としている。
そして、それと同時に「結界の向こうにも私の知らない世界があるのだろうか」と夢想してしまう。結界がもしも違う世界への入り口であるなら、向こう側はどのようになっているのか、想像しただけでも好奇心が胸の許容量を超えてあふれ出そうだ。
そんなことを考えていると、いつの間にか加茂大橋が見えてきた。加茂大橋を右に渡る為、私は近くにある階段を使って土手から上がり、鴨川を見下ろすように横断する。その時、視界に違和感を覚えた。
それと同時に右目がこわばり、力が籠る。顔の右側だけに体重が集中するような気だるさを感じながら、自分の体を支える為に加茂大橋の桟橋に手を着いた。脳の奥に頭痛にも似た違和感を覚えながら顔を上げると、目の前にはそれは鴨川デルタと呼ばれる、賀茂川と高野川に両脇を固められ、三角の形をした中州が見えた。
その三角の先端部分に、それはあった。谷底を上から覗き込むような、アスファルトの水たまりを横にしたような歪な空間のヒビは、よく研究所で資料として見る「結界」によく似ていた。しかし、そんな異変を誰一人として指摘する者は居なかった。人通りはまばらではなく、週末と言うこともあって鴨川デルタ付近でくつろぐ人たちも居る。結界に関しては一昔前と違い、一般常識として世の中に認知されており、見つかればある程度騒ぎになるのが世の常だが、そんな雰囲気はどこにもない。
私はどうしようかと思いながらも、その結界から目が離せず、じっとりとした気味の悪い冷や汗が背中を走る。
気が付けば、何故か私はその境界に向かって足を運んでいた。
鼓動が高鳴り、緊張は私の全身を駆け巡り、思考が誤魔化されているような感覚が私を蝕む。賀茂川にかかる出町橋を渡り、鴨川デルタと辿り着く。自分の意志とは無関係に背中を押されるようにして、その結界の眼前までやってきた。そして、私の右手が吸い寄せられるように境界に手を伸ばす。
その時、私の左手が力強く反対方向に引かれた。
「君、危ないよ」
不意に背後から声をかけられると、突然体の力が抜けてその場に倒れ込む。しかし、鴨川デルタの岩肌に私の体が触れる前に、私の体を抱える人が居た。
顔を上げると、そこには息切れをしながら私を見下ろす、黒い生地に白いリボンがよく目立つ中折れ帽子を被った女性が居た。彼女と不意に目が合うと、相手は気まずそうに眼を左に反らす。少し見えた彼女の目は、彼女の後ろに見える夜空と同じ深い水底のような色をしていた。
「もう……やっぱり酒臭い。飲み過ぎだよ、ちょっとおいで」
私を起こすと、有無も言わさず私の手を握り、鴨川デルタにある松の木の下にあるベンチまで彼女は手を引いてくれた。それから「少し待つように」と彼女は何処かに駆けて行った。私はその場で五分程待っていると、彼女は息切れをしながらコンビニの袋を持って私の元へと帰ってきた。
「とりあえず、水」
私は素直に差し出された水を受け取り、それに口をつける。彼女は「やっぱり酒飲んだ後に走るのは駄目だわ」と私と同じように水を飲んでいた。
「あ、ありがとうございます」
「良いよ、別に」
周りの喧騒に潜むように、私たちの間に静寂が流れる。この人は誰だろう。自己紹介をすべきか悩みながらちらりと隣を見る。
身長は私よりも少し高い、白いシャツに黒い丈の長いスカートに歩きやすそうなローファーを履いている。顔は利発そうだが、何処か幼い印象を受けた。
「もう大丈夫?」
「え?あ、はい」
ジロジロ見ていたのを急に咎められていたのかと思ったので、少し声が裏返ってしまう。
「これ、あとゼリーとか、なんかいい感じのが入ってるから」
彼女は私の隣にある袋を指さしながらそう言うと、「それじゃあね、気を付けなさいよ」と言い立ち上がり、出町柳の方へと去っていった。
私はお礼を言いながら彼女の背中を見送り、鴨川デルタの先端に目を移すと、何事もなかったかのように結界は姿を消して、夜が滲むように広がっていた。
翌日。昼前に起きた私は、もう一度鴨川デルタに訪れていた。念のため、持ち運びにはあまり適さない簡易結界探知機をわざわざ研究所から拝借してきたものの、その苦労は報われず、何一つ反応を示さない。
あれは見間違いだったのか。そんなことはないと思いながらも、私はややお酒に弱いところもある自分に自問自答をしながらうんうんと唸っていると。
「君、危ないよ」と昨日と同じセリフが同じ声で聞こえた。
思わず振り向くと、昨夜の女性が私の後ろで快活な笑みを浮かべていた。
昨夜の件について、再度お礼をする。彼女の名前は宇佐見蓮子と言うらしく、私も礼儀に沿って挨拶をすると、宇佐見さんは舌を嚙みそうな顔をした。
「マエリベリー・ハーンさん、ね?」
「そうです」
「じゃあ……そうだなぁ、メリーさんだ」
なにがそうなのか、理解できない略し方をされる。そうしていると宇佐見さんは私の足元に重い腰を下ろす簡易結界探知機を興味深そうに見つめていた。
「メリーさん、それって結界を探すときにつかう機械だよね?」
「あら、よくご存知で」
言おうか、言うまいか。少し悩んで、別に隠し立てすることでもないので、素直に身分を明かし、ついでに先月マンドリン副所長に貰った名刺を渡す。宇佐見さんはそれを丁寧に受け取ると、少し目を見開いた。
「へぇ、メリーさんは結界の研究をしているのね」
「えぇ、まぁ。まだ大学院生ですが」
彼女は嬉しそうに笑いながら、ポケットから年季を感じさせる、手のひらサイズの古い革製の財布を取り出し、その中から名刺を取り出す。
「実は私も結界について調べているの」
「へっ?」
私はやや困惑しながら差し出された名刺を確認すると、そこには「秘封俱楽部代表 宇佐見蓮子」と非常に胡散臭い肩書が書かれていた。名刺をまじまじと見つめる私に宇佐見さんはグイッと足を延ばして私に近寄る。
「こうして会えたのも何かのご縁。少しお茶でも如何ですか?」
これが私と宇佐見さん、いや蓮子との怪しげなファーストコンタクトであった。
〇
何億年と地球を顧みずに開拓を進めた人類は、結果として地球からしっぺ返しを食らったのが約数百年前。これは教科書の知識だ。
世は正に科学世紀。数百年前までは人口が増えすぎたことによる、地球環境の汚染も気が付けば歴史の波に流され、遥か向こう側に霞む。その輪郭を正確に捉えることが出来るのはインターネットや書籍だけとなり、当時の過酷な現状を紡ぐ語り部も、今や0と1が支配するデータへと転身して、この世界にある知識や情報の大半はインターネットの海に漂っている。
私の祖母の時代では批判的であった理論的な地球規模での人口調整は上手くいっているようで、私が産まれる頃には既に一般常識と化していた。それでも思春期の頃の私は「首の後ろ誕生日と言う製造番号を刻まれているようで嫌だ」とよく母親にぷつぷつと文句を言っていたこと思い出した。
「あの頃は青かった。物理的に、主に思考が」
私は拙い言葉で過去を脳裏に浮かべながら、波風の代わりに星々が騒がしい黒い海に浮かぶ故郷の惑星を月面都市から眺める。
私は大学の夏休みを利用して、地球と月面を繋ぐ寝台ロケット「あけぼの」に乗り込み、二日ほど無重力に流されながら目的地である月へと来ていた。二日間に渡り無重力に慣れ切っていた私には、二日ぶりの人口重力により世界の重さを再度堪能することとなり、気分は非常に萎えきっていた。
月にも人が住み始めて約三百年。初めは研究者、もしくは莫大な大金持ちの移民場所であったが、流通システムとスペースデブリの迎撃の安定がきっかけとなり、今では観光地として名高く、人口約一億人が住む賑やかな惑星となっている。無論、その中にウサギは含まれては居ない。
私が月面都市に訪れた理由は二つある。一つは単純に来たかったから、もう一つは文通相手に会うためだ。
きっかけは、小学生の頃である。
私の故郷は東京の片田舎であり、今もなお自動車が一般的に交通手段として使われているようなところだ。
その当時、私の自意識というものは非常にあやふやで、もしかしたらまだ私ではなかったかも知れない頃。小学生の授業の一環で「月にある小学校に手紙を送ろう」と言うイベントがあった。
同学年の子たちのリアクションはまちまちで、男の子なんかは適当に文字を羅列して終える子がほとんどで、女の子も先生から用意された口当たりの良い定型文を書いている子も少なくなった。では当時の私はどうであったのか。
私は当時のことをよく覚えている、かなり興奮していたからだ。
深い夜の向こう側。見上げても見上げ足りない、飛び跳ねても手の届かない遠いところにある、ただ白い輪郭だけを描く月に私の書いた手紙が届くのかと思うと、全身が鳥肌に覆われた様な錯覚を覚えた。それは当時の私には想像もつかないような、とても壮大で、素敵なことだと思った。
「私が手紙を送るけんりをもらえるとは。これはとんでもないことになった」と当時の私は、全国の中で選ばれし非常に幸運な小学生であることを信じて疑わず、武者震いが止まらなかった。ちなみにその数年後、手紙を送るイベントは当時の小学校ではどこでもやっているイベントであること知って愕然としたことも今となっては良い思い出だ。
それはさておき。この手紙を送るイベントは、地球から送られた手紙は月にある小学校にランダムに届けられる。どこの誰かも分からない地球に居る小学生の手紙を受け取った月の小学校の子たちは、その手紙に返事を書いて送り返すのが基本的にワンセットとなっている。その後、帰ってきた手紙をどうするかは受け取った子供に委ねられる。
同じクラスの子の大半は自分の手紙を読んだ知らない子から返事がきても、その内容を確認するだけで終わっていた。正確には私以外はそうしていた。
では、当時自分の手紙が本当に月まで行き、そしてその証拠に月の子から手紙が帰ってきた私はというと。
またもや、大いに興奮していた。
ゲシュタルト崩壊が頻発する程その手紙に目を通して、すぐさま返事を書いた。手紙の内容までは詳しくは覚えてはいないが、さぞ情熱的な内容だったのだろう。当時の月の子からの返信された手紙には、子供故に素直な文章からは困惑が読み取れる。
文通相手の名前はマエリベリー・ハーン。当時の私がその名前が書きにくかったので「メリーちゃんって呼んでも良い?」と手紙に書くと「全然関係ないけど良いよ」と返事が来たので、それ以来メリーと呼んでいる。無論、そんな横着な経緯で愛称を決めたことを彼女は知らない。
そして、私とメリーは互いの時間と想い手紙に込めた。その想いはこの数十年間、一ヶ月に一度、絶やすことなく月と地上の間を行き来して、私たち微かに繋ぐ。そして私は、文字の癖から、文章から、便箋から、切手から、封筒から、私は未だ出会ったことのない親友であるメリーの輪郭をなぞり続けた。
今月もメリーからの手紙が届いた。手紙の封筒はいつもの朝顔のようなさっぱりとした紫色。便箋は枠組みがフリルの模様が書かれているものだ。
私が使うのには気恥ずかしい封筒と便箋だな。そう思いながら、手紙に目を通す。最近私が手紙を万年筆で書くようになったので、メリーもそれを真似して万年筆で書いてみたと誇らしげに書かれており、あとは他愛ない日常が綴られている。そして、今回の旅のきっかけとなったことが書かれていた。
「地球はもう既に夏になりましたか?月の方も地上の季節に合わせて、夏となり非常に暑いです。そのせいか、月にある人口の海には連日スペースデブリと見間違うほどの人で溢れています。温度管理なんて自由自在なのだから、ずっと平温なままで良いのにね。
さて、蓮子の大学にも夏休みはありますか?もし良かったらだけど、夏休みを利用して一度お会いしてみない?蓮子も以前、月に来てみたいって言っていたし、私が案内してあげる。私も地球の京都に行ってみたいから、蓮子に案内してもらいたいし、どうかしら?お返事お待ちしております。
月の案内人 マエリベリー・ハーンより。
地球の京都観光大使 宇佐見蓮子へ。
PS賛成してくれるなら、こちらにお電話してください」
「写真ぐらい貰っておくべきだったかな?」
私はロケットの発着場である第二静海月面空港から出ると、ガラス張りの天井には深海の様な宇宙が広がる。地上の光に遮られ、普段は見えない星が私の目に圧縮したように入り込む。そして私が幼少期の頃から持つ「星を見れば時間が、月を見れば場所が分かる能力」が機能するか確かめ、やや驚く。
月面でも発動するのだな。そんなことを思いながら、地球と同等の重力を感じながら月面都市行きのモノレールに乗り込んだ。地球とあまり変わらない駅構内の慌ただしさは、月に居る特別感を薄ませる。しかし、漆黒の空に瞬く星、月面都市の奥に見える荒涼とした月面、その奥に浮かぶサファイアの様な故郷を眺めると、改めて月面に来たことを実感せざるを得なかった。
彼女のことは声とブロンドの髪であることと、舌を嚙みそうな名前だということしか知らない。むしろそれだけも十分だ。
雑踏を越えて、駅から出る。地球を模したモニュメントが空中で自転して、その中央にある時計が待ち合わせ時間を伝えた。
さて、何処に居るのか。ちゃんと見つけられるか。電話した方が良いのか。
期待と焦りに似た感情が胸で渦巻く。しかしそれは、直ぐに杞憂だと知る。
見知らぬ土地で私の呼ぶ声が聞こえた。
目の前から肩まで伸びた緩やかな曲線を描くブロンドの髪、白いレースで編まれた上着、その下で揺れる朝顔のようなワンピースが揺れる。瞳は髪と同じ金色をしていて、顔は私が想像していた以上に大人びており、思わず胸が高鳴ってしまう。
幼い頃に私の出した手紙は、偶然地球と月の間にある周回軌道に乗り、幾度なく交互に巡った。
そこには0と1が割り込む隙間もなく、膨大な知識が眠るインターネットの海もこの手紙の内容は知らない。
私たちが紡いだ手紙は、数十年の年月を経て、ついに私たちを結びつける。
〇
私は気が付くと、仄暗い水底に居た。薄暗く淀んだ風景が何処までも続き、遠くの方は闇で滲んでいる。海面の方から光は見えないが、不思議と周囲の状況がよく分かった。
妙な浮遊感は心地よく、息苦しくもないので、何処までも海月の様に漂える気がした。
ここは、何処だろうか。
恐らく夢なのだろうが、それにしても酷く寂しい黒々しい水底で、一人で沈んでいるところから始まるなど、他者から見ればさぞ大それた悩みがあるようにも思えるかも知れないが、私に身に覚えはなかった。
体調は至って良好、友人との関係も問題はなく、成績も良い。春には花見、夏にはメロンソーダを飲み、秋には紅葉を楽しみ、冬には肉まんを食べる。そのような平々凡々な私がこの様な不思議な夢を見るのは、我ながら納得は出来なかった。しかし、微弱ながら心当たりはある。それは恐らく生まれながらにして持っている能力だ。
私には「結界」が見える
それは私が住む世界でかなり特別な意味を持つ。そのことが下手に露見すれば、最悪国から保護される程度には貴重な能力だ。
「結界」とは何か。それは違う世界を繋ぐ扉、解いてはいけないパンドラの箱、次元の裂け目等々。様々な憶測が飛び交っているが真実は定かではないし、かく言う私も正直なところよく分かっていない。賢い科学者が首を捻って考えても分からない研究段階のものを、ただの十七歳の学生である私が分かるはずもない。
私はこの能力を周囲には隠して生きてきた。そもそも、こんなことを打ち明けたところで真剣に取り合ってくれる人など居ないだろうし、下手に相手を混乱させるだけだろう。結界が見えたところで、特段苦労することもないのだが、それでも不意に暗がりに浮かぶ周囲を溶かして現れたような結界を目にする度に、何とも言えない恐怖が胸を浸食する。そんな、誰にも共感してもらうことの出来ない、少しの秘密と恐れを分け合える相手が居ないからこの様な夢を見るのかも知れない。そう考えると少しだけ腑に落ちた。
荒涼とした水底には何もなく、泳ぐ生物も居ないので淡水か海水かも分からない。何となく口から吐き出す息が、シャボン玉の様にふわりと頭上に向かって行く。試しにそのシャボン玉を追って上昇を試みるも何処まで浮かんでいくので、泳ぎ疲れた私は結局この水底にゆらゆらと引き戻される。
夢なのだから醒めるまで待てばいい。そう思うこともあったが、ジッとしていると何故か居心地が悪く、とりあえず前に進むことにした。走ることは出来ないので、水底をスキップするようにして暗澹な水中を進む。砂が煙幕の様に舞い上がり、私の足を包んでは離れていく。
最果ては見えず、景色も代り映えもしない。水の流れは時が止まっているかの様に動かず、得られるのは疲労感だけであった。何もない無味無臭の景色は、孤独感すら抱かせない程に無機質であった。
休憩がてら試しに水底を掘ってみたが、辺りが濁るだけで徒労に終わる。
ふと、私の胸に「ここは本当に私の夢の中なのだろうか?」そんな疑問が湧き上がった。
確かに私は他の人には言えない、言っても信じては貰えない悩みがある。しかしそれは「仕方ない」と随分と前から受け入れて生きてきた。心象風景がここまで無機質で隔絶された世界になるような深い悩みではない。
では、ここは何処なのか。こうして第三者的目線で辺りを見てみると、何もかもが疑わしく感じる。水流に動きはなく、頭上から差し込む光もない。生物という気配もなければ、砂を掘り返してもなにもない。まるで広大な水槽にでも入れられているかのようだ。
私は泳ぐのはあまり好きではないし、水槽で生き物も飼ったことがない。ここの風景と私の中にあるものとは何一つとして合致しない。
それに気づいた時、私の右目の力が眼球の中心に収束するのを感じた。これは結界が近くにある時、もしくは私が境界を「見ようと」した時に生じる現象であり、私が苦手とするものであった。
不意に来た右目の違和感に気分を害しながら辺りを見渡すと、丁度視界の左端にコンクリートの割れ目の様な空間が現れる。これが結界だ。
いつもならば、真っ白な半紙に墨汁の雫をゆっくりと垂らしていくかの様な、ゆったりとした足取りで心中が恐怖に染まっていくのだが、今回は少し違った。
誰かが呼んでいる。いや、待っている。と言った方が正しかったのかもしれない。
不思議と怖くはない、私の足は自然とその結界へと向かう。やがて私はその結界の輪郭を、傷口に触れるかのように、そっとなぞった。
私は夜空に居た。
そう表現することが出来るほど、周囲には何もなく、私が立っている場所ですら違和感を覚える程に平らで、雑草や小石すらもなく、地平線の向こうまで無機質な風景が続いている。夜空には不自然な程に星々が瞬き、ふっくらと膨らむ満月が昇り、天体の照明だけが私を照らしていた。
暫く歩いてみると、星空は何処までも続き、遮るものすらない。授業で習った星座の見方を頑張って思い出していると、やがて地面に黒い影がみえた。
それは膝を抱えながら、ぼんやり夜空を見上げる一人の女の子であった。
声をかけるか一拍ほど悩んだが、辺りに隠れる場所もなく、どの様な行動をとっても結局は見つかるだろうと思ったので声をかけた。
「こんばんは」
「はっ?」
その声は明らかに動揺と、警戒心が含まれている。彼女がこちらに振り向くと、星影に照らされた顔は明らかに異物をみるような目であった。
「誰?私の夢の中でなにをしてるの?」
「これは私の夢じゃないの?」
「そんなわけないでしょ」
女の子は苛立ちを隠さないまま、言葉の切っ先を迷わず私に向ける。
「早く出て行って」
「いや、そうしたいのは山々だけど、出口は分からないのよ」
「なんで?勝手に入ってきた癖に」
「それは成り行きと言うか、偶然というか」
「わけわかんない」
そう言うと女の子はあからさまに気だるそうな溜息を吐き、もう一度夜空を見上げる。彼女の言動から察するに、ここは彼女の夢の中だということが分かった。だが、どうして私は赤の他人の夢の中にいるのだろうか。心当たりは先ほど触れた結界だが、もしかすると私は知らないだけで、結界とは夢へと通じる扉なのかも知れない。
女の子は無言のまま星を見ている。その背中からは強固な拒絶と、険悪な空気が流れていた。この状況で話しかけられるほど、強靭な精神力は持ち合わせていないので、私は大人しくその場に座り、彼女と夜空を眺めた。
どれほど見上げただろうか。空を覆いつくす星々の天幕がやがて白み始めた。夜を塗り替えるような朝焼けも、夜明け前の不安定な紫色も空にはなく、夜が白色に溶け行き、地平線が何処までも白色に変わる。それは寝ている時にカーテンの隙間から入り込む陽射しに瞼越しに起こされるような感覚だった。
ふと気が付けば目の前に座っていた彼女が、うつらうつらと頭が前後に揺れていた。そして私も同時に抗うことの出来ない眠気に襲われる。
夢が終わるのだ。
夢が終わるとき、夢の中の私たちは眠りにつく。起きている間は覚えてはいないのは、恐らく夢の記憶と現実の記憶は上手く繋がっていないからだろう。
一応、まだ起きている女の子に「お邪魔しました」と声を掛ける。彼女は無言のまま私に背を向けていた。
人は夢を見る時、見る夢の舞台で目覚める。例え同じ夢だとしても、同じ場所で目覚めることなど今まではなかったのだが。今回はやや事情が異なるようだ。
「……こんばんは」
「……なんでお姉さんまたここにいるの?」
次に夢の中で目覚めた時、私はまたしても女の子の夢の中に居た。
夜空は星達がざわめき、月が優しく地表を包む。しかし、私たちが立つ場所はやはり何処までも無機質で平面的であった。
女の子は溜息をつきながら胡坐をかいてその場に腰を下ろす。何か含みがある瞳で私を睨むようにして見上げると、初めて彼女と私の視線がぶつかる。年齢は中学生ぐらいだろうか、幼さはあるものの、無駄なものをそぎ落としたかのようなさっぱりとした顔つきは、凛々しい印象を与える。そして、彼女の瞳はここの夜空と同じ色をしていた。
「とりあえず、出て行ってほしい」
「それが出来たら苦労しないわよ」
とりあえず女の子の正面に腰を下ろすと、彼女は露骨に私を避けるように座りながら後退した。まだ表情や言葉に刺々しいものは感じるものの、前回の様な強固な拒絶は見受けられない。それは恐らく、私を受け入れた訳ではなく、私を拒絶するだけでは私が居なくならないと思ったからだろう。実際に、彼女から漂う雰囲気は刃物のように鋭い。
「そもそも、どうやって私の夢に入って来たの?」
「それは、夢の中で結界を触って」
一瞬誤魔化そうかとも思ったが、赤の他人である女の子に私の能力を知られたところで別に構わない。それを聞いた彼女は一瞬目を大きく見開いたが、その表情はすぐに訝しげなものに変わる。
「はぁ?嘘でしょ?結界はまだ研究段階だって習ったけど」
「本当よ。私の目は結界を見ることが出来るの。触ったのは今回が初めてだったけど」
「それに、結界のことに詳しくないのに、噓って決めつけるのは良くないと思うの」
女の子の悪態に仕返しとばかりに少し意地の悪い言い方をすると、彼女は私を睨みながら悔しそうに唸る。暫くすると「……変な目の変な人」と負け惜しみとばかりに小さく吐き捨てた。
「つまり、ここにもその結界はあるの?」
「え?」
「いや結界から来たなら、その境界から帰れるんじゃないの?」
「あ、なーる」
人の夢に入り込んだ衝撃で忘れていたが、確かにその手があった。
私は立ち上がり瞳に意識を集中させる。瞳の奥に何かが流れ込んで収束するような嫌な感覚を覚えながら辺りを見渡すも、何処までも隙間なく夜に塗り固められた平面だけが続いていた。念のため夜空を見上げるも、そこには星達が光で返事をするばかりで何もない。
暫く見渡すも、無駄に疲労が溜まっていくだけで成果は一向に上がらない。
疲れて来たので一旦止めようかと思った時。
「……綺麗」と吹けば散ってしまいそうなか細い声で女の子は呟いた。
「ん?何が?」
女の子の方を振り向くも、彼女は何事もなかったかのように自分の足元を見つめている。ここに居るのは私と彼女だけなので、その声の主は彼女のはずなのだが、私の問いかけに対する返答はいつまでも訪れない。
「何か見えたの?」
「……星が、星が綺麗」
「そうだね」
全身が泥の様に重く感じ、思わずその場に腰を降ろして夜空を見上げる。来た時から代り映えしない風景ではあるが、無駄なものがそぎ落とされた清夜は非常に心地が良い。こうしていると、女の子の横顔にはこの夜空の面影があることに気が付いた。彼女の夢なのだから、それは当然のことなのだが。私はそれが酷く美しいものに感じた。
そうして何度か結界を探してみるも、一向に見つからず、気が付けばまた風景が白み始めていた。夢が終わる。
「お姉さん」
女の子から、初めて邪なものが籠っていない声が聞こえた。
「また来るの?」
「たぶん。この夢から出られない限りは」
そう答えると、女の子はにべもない返事を返す。徐々に私の意識が微睡、現実に引き戻される。なんとなしに彼女の方を見ると、少しだけ曇った顔つきをしていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
私はまた、女の子の夢の中にいた。彼女も私がまた現れることを予測していたかの様に、以前と比べると幾分か物腰が柔らかような気がしたが、まだ自分の夢の中に居ることに対して不快感はあるようで表情は芳しくない。
「どうしたらお姉さんはここから出て行ってくれるの?」
「さぁね。結界が見つかってくれたら話は早いんだけど」
今夜もどうしたものかと悩むふりをしてみる。
女の子には悪く思いながらも、私はこの夢を気に入ってしまった。静謐な空間で、熱くもなく寒くもない夜空の下で、ただ星と月だけを見る。そんな時間が私は以外にも好きであった。そして、悪態は付かれるものの、物言いがはっきりとしていて言葉に淀みがない彼女のことも嫌いではない。
どうにかして女の子と仲良くなろうとは思うのだが、私の話題を端的な言葉で、時には無言で片っ端から切り捨てていくので、取り付く島もない。
とりあえず再度結界を探してみたが、一向に見つかる気配はなかった。試しに、ここがどれだけ広いのかを調べたが、女の子が地平線と重なるところまで来ても平坦な夜は何処までも続き、彼女を見失っては困るのですぐさま引き返した。
ここには星と月、それとどこまでも続く夜しかない。
「ねぇ、夜とか星座とかが好きなの?」
「別に」
「ここはどうして夜しかないのか、心当たりはある?」
「分からない」
女の子は座る私の方を見ようともせず、明後日の方向を向いて答える。
「……それはお姉さんが居なくなってくれることと関係あるの?」
「恐らくね」
それから暫く経ち、私がもう一度結界を探しに行こうとした時。女の子は膝を抱えながら、ゆっくりと私の方に体を向けた。久しぶりに見えたその顔は、出会った頃の剣吞な雰囲気はなく、不安と戸惑いが入り混じった表情をしていた。
「お姉さんは、この夜空を見てどう思う?」
「え?」
女の子の思わぬ問いかけに驚きつつも、私は何度も見たはずの夜空を見上げる。そこには何度見ても、何処まで沈んでいきそうな程に深く、静謐で淀みのない湖のような夜空に星と月が浮かんでいる。
「綺麗だと思うけど?」
「そう」
一言だけ呟くと、女の子も私と同じ様に夜空を見上げる。
「私には、数字が見える」
「数字?」
「うん、色々な数の組み合わせが夜空一面に広がっているの」
女の子は顔の表情を変えないまま、夜空を見上げる。にわかには信じ難い話だが、私の目も結界が見えるのだから、彼女が夜空を見て数字が見えることもあるだろう。
「それを見ていると、目の中央に少しだけ違和感がない?」
こちらを見ていた女の子の表情が少しだけ揺れる。
「……ある」
「そうよね。私も結界が見える時、そんな感じだもの」
私は声が聞こえやすいように、ほんの少しだけ座る位置を彼女に近づける。私は女の子が感じている違和感に身の覚えがあった。恐らく、彼女が抱える感情にも。
「その違和感がある場所に、意識を集中させるというか、力を籠めるの。試しにやってみて」
「するとどうなるの?」
「私は結界が見えるようになった」
女の子は座ったまま、少し真剣な表情で夜空を見上げる。
そして、一旦深呼吸をしてから星々を睨むと、女の子の瞳が仄かに煌めく。それは夜空に瞬く星の輝きによく似ていた。私も能力を使うと仄かに目に光を帯びるが、恐らく彼女の光の方が綺麗だろう。
暫くすると彼女はひどく疲れた顔をしながら視線を私に向けた。額には脂汗が浮かび、その凛々しい輪郭をなぞりながら地面に落ちていく。
「何か見えた?」
「……時間と位置が見えた」
「時間と位置?」
女の子は明らかに疲弊したような面持ちで、息を整える様にしてその場に座り込む
「うん。今の時間は朝の六時五十分二十一秒。場所は私の夢の中」
それだけ言うと「しんどい」と呟き、地面に大の字で寝転ぶ。女の子が私の前で気を許した姿を見たのはこれが初めてであった。そして言葉を少しずつ落としていくように語り始めた。
「私ね、これが何なのか分からなくて、少しだけ怖かった」
「うん」
「家族や友達に話ても、だれもちゃんと聞いてくれなくて」
「うん」
女の子の声が、何かを堪えるように、少しだけ途切れる。
「誰も分かってくれようとしないんだって思ったら、少しだけ寂しかった」
「うん」
「……あの、目のこと。変って言ってごめんなさい」
「良いよ、実際に変なんだから。私も貴方も」
私が笑いながらそう答えると。女の子は少しだけ口角を上げて、そよ風のような微かな声で笑った気がした。
そうして暫くすると、夜が白み初め、夢が終わる。
平坦な黒い地平が白に塗り替えられて、煌めく天幕が滲むようにして消えていく。だが一つ違う点があるのは、私にはまだ眠気が訪れてはいないこと。そして、女の子が先に寝てしまったということだ。
私は女の子の方にそっと近寄る。瞼はぴったりと閉じられて、羽音のような寝息が無ければ美しい彫刻の様にも見える程に肌はきめ細かい。
そして、ようやく見つけた「結界」に手を伸ばす。それは女の子のお腹の上にあったのだ。
これに触れれば私はこの夢から出られるだろう。でもそれは、この女の子とも、この夜の夢からも別れることになる。
初めて私の能力を知ってくれて、同じように変な目を持つ人にせっかく出会えたのに、こうしてお互いに名前も分からないまま離れてしまうのか。そう思うと少しだけ寂寥感がこみ上げた。
「まぁ、お互い似た者同士なんだから、そのうちまた会えるでしょ」
私は一度だけ彼女の頭を撫でてから、小さく「お邪魔しました」と言って、その結界に触れた。
〇
科学世紀の今日。偉大なる科学者により「「結界」を証明する式」が完成してからというもの、結界の研究は急激に進んだ。以前までは結界には何人たりとも触れてはならなかったそうだが、私が高校生になる頃には結界を取り扱う研究機関が生まれて、日夜結界内部に入って調査が勧められており、資格があれば境界の調査をしても良いところまで来ていた。
「結界」とは何か。それは新エネルギーとも、世界の綻びとも、次元の新天地とも言われているが、その正体は未だに謎が多い次元の裂け目のようなものである。
結界の内部は、境界が現れる場所によってまちまちで、未来た過去、森林や砂漠、海底から宇宙まで様々な場所に繋がっているそうだが、未だに不可解な点は多く、結界の研究者から様々な文献が出たが、どれもが推測の域を出ない。そもそも「「結界」を証明する式」が出来た経緯も「Dr.レイテンシー」と言うあからさまな偽名を用いて差し出し不明の手紙から始まったそうだが、明らかに欺瞞の匂いがした。
そんな結界に関する文献が多く出回る中で、私が一番興味を惹かれているのが、「結界の女史」という「境界」内部で起こる錯覚、もしくは幻覚症状だ。それは、結界内部を探索するものが時折目にする、ブロンドの髪の利発的な顔つきをした清楚な女性である。初めてその女性を目撃された時には、誰しもが見間違いであろうと高を括っていたのだが、不定期的に、様々な結界内部で目撃件数が増えたので、遂に正式に調査がなされた。
そうして「結界の女史」の正体は、未知の空間に居るという精神的ストレスと結界内部の特殊な磁場によって引き起こされるものだと判断され、そちらの研究は一旦幕引きとなった。しかしその数年後、その研究結果に一石を投じる学者が現れる。
その学者曰く「「結界の女史」の観測、写真撮影に成功した」と言う。
「「結界の女史」の観測」と名付けられた論文は、学会を揺るがせた。もしこれが事実であれば「結界」に住む者、もしくは行き来できる者がいると言うことだ。
だがしかし、それは「絵空事に過ぎない」と一脚されてしまった。何故なら、余りにも綺麗に写り過ぎていたからだ。
その一件により学者には非難が集中。最後まで彼は自身の発言を曲げることはなかったものの、現在ではその研究資料は第三者によりインターネットから削除され、研究資料の全てを学者が持ち去り身なりを潜めたため、現在では見ることが出来ない。
私がその写真と研究資料を見つけたのは、私が大学院生として通っている大学の研究所であった。
その研究所では、結界に特化した研究をしており、実は上記で記した学者もこの研究所に所属していたらしい。
それは、年の暮れ。そこのバンジョーを常に背負う副所長の指示で、大掃除と称した無秩序と混沌の世界と化した資料室の整理を任された時である。研究所からやや離れたところにある資料室は、室内の温度や湿気を書類に適したものにする機能はあるものの、その書類の優しさを人間には分け与えることがなく、非常に冷え冷えとしていた。
盆地特有の冬の猛攻は凄まじく、室内に居るのにも関らず「このままでは、冷凍食品になってしまう」と本気で思っていた。体を動かすことでなけなしの暖を取り、自家発熱だけで冬に立ち向かい、辟易しながら書類の地層を掘り返して、年代ごとに仕分けをしていると、その地表の下から偶然にも「「結界の女史」の観測」を掘り当てた。
私は「これは神の思し召しに違いない」と断言して、密室なのを良いことに何食わぬ顔でその研究資料をくすねた。
頼まれた通りに綺麗に書類を整理整頓して研究所に戻ると三時間は経過していた。副所長に完了報告をする為に研究所に戻ると、研究所の奥深くからコンクリートに染み入るようにやけにご機嫌な弦を弾く音が聞こえたので、私の中に潜むややバイオレンス的な部分が鎌首をもたげる。
それは副所長の居る部屋に近づくにつれて、そのご機嫌な音色は私の中にある鬱憤と共に大きくなっていく。どうやら、私に書類整理を投げつけておいて、自身はぬくぬくとした研究所の自室でご機嫌にバンジョーを弾いていたらしい。外に降り積もる雪に石でも入れて投げつけてやろうかと思ったが、一刻も早く幻の研究資料に目を通すべく、端的に終了報告を行い、副所長の居る部屋のブレーカーを全部落としてから帰路についた。
私の自宅は白川疎水が近くにある。
雪が降っているからだろうか、街全体が雪に音が吸われたかのように静まり返り、仄かに夜の底を白く染める。時折叡山電車が闇を切り分けながら貴船口を目指してきいいん、きいいんと忙しなく走り抜けいった。
私の自宅である「金月洋装アパートメント」は一見、混沌と化した建築物の成れの果て。その火を見るよりも明らかな荒廃っぷりは、ここに潜むのは主に科学世紀に馴染めなかった時代錯誤も甚だしい京都の怪人か、もしくは極端に貧困を極めた故に「達してしまった」者達が最後に行きつく通称「廃墟のアヴァロン」と称される建築物にも見える。
しかしそれは、現在の大家の意向であえてそのような外観のデザインにしているだけで、実際に建物内の鍵は全て生体認証システム、エントランスには人口竹林、中庭は季節の花が植えられており週末には喫茶店が開かれる。それに加えて、部屋は今流行りの次世代式四畳半なので言うことは無い。
雪を払ってから自宅のドアを開けると、事前に起動しておいた暖房器具が部屋全体を快適な温度に引き上げてくれており、思わず笑顔がこぼれる。
手早く入浴を終えて、食事も昨日の残り物を適当に平らげると、待ちに待った研究資料のお披露目の時間が訪れた。
封筒から取り出すと、研究資料はつづりひもでまとめられており、裏表で約二十枚。乱雑な保管方法だったので、所々読みにくい所や、一部ページが破けたり、抜け落ちていたりするころもあったが、私の最も興味がそそられる部分は欠けずに残っていた。
「結界の女史」そう名付けられて、資料に載る一枚のカラーの画像。
三日月が浮かぶ清夜にハイキングでもしているかのような涼しい横顔に、肩までゆるやかに伸びるブロンドの髪、白い帽子をかぶり、藤の花を思わせるリネンワンピース。足首の上ぐらいまでの白い靴下に、茶色いローファーの靴は履いていた。
その写真を見たとき、私の胸の奥から熱湯のような感情がこみ上げる。脳の奥はめまいがするほど何度も考えが交差して、落ち着こうとするも思考はますますがんじがらめになる。
何とか自分の中に渦巻く感情を抑えながら、念願の資料を読み得て、一番に思ったのは。
「彼女に会いたい」と言う、自分でも驚くような答えであった。
確かに、偶然撮られたにしてはあまりに写りが良すぎるし、当時の科学者が疑う気持ちも分かる。だが実際に「結界の女史」という幻覚、錯覚現象は存在しており、この資料に載る彼女と「結界の女史」が同一人物ではないという証明はされていない。何故なら、誰も「彼女の証明」はしようとしなかったからだ。
ならば。私が、彼女の真偽を証明してみたい。そう思った。
光陰矢の如しとは上手く言ったもので、彼女に向けて放たれた私は、大学院生として三年間を必死に過ごした。
結界に特化した学問の勉強、博士課程を全て乗り切り、結界調査における資格の取得、同じ研究所にいる大学院生とバンジョー副所長のバンジョーをマンドリンにすり替え、ついには「「結界の女史」の観測」の資料から、その写真が撮られた境界の割り出しに成功した。
それは京都の北区にある上品蓮台寺。
寺の住職に許可を取り、研究所の仲間たちと境界を観測するための機器を寺の境内に設置するまでに約半日かかり、気が付けば日が暮れていた。
玉砂利を踏みしめる音が夜に響き、簡易照明に照らされた研究員たちがのそのそと境内を動き回る。それはまるで夜に跋扈する妖怪のようにも見えた。
「まるで百鬼夜行ね」
季節は秋の暮れ。当然夜は冷え込み、かじかむ手を温めながら結界を固定するために無機質な機器に触れる。
私は無意識に、この三年間を思い返す。今思えば「彼女に会いたい」という思いだけで、ここまで来た。今回の結界観測も「偶然」を装い「「結界の女史」の観測」の資料を発見したことにして、苦い顔をする副所長を何とか言いくるめて実施にこぎ着けた。無論、私が「彼女に会いたい」と言う為だけに行っているとは誰も知らない。
私の私利私欲のために多くの人を動かし、副所長を欺き、目を疑いたくなるような値段の機器を幾つも借りたのは正直良心が痛まないわけではないが、彼女に向けて射られた矢は、彼女に刺さるまでは止められない。
私の出所不明の感情は何とも表現し難く。近しい言葉で言い表すならば「一目惚れ」だ。
特殊超音波による結界の位置を正確に割り出しに成功したので、その結界の規模と固定値を正確に出す。それが終わると、指向性の電磁波を発生させる機械を結界の方に向けて起動させた。結界に電磁波が干渉したことを告げる数値が出たので、ゆっくりと電磁波の出力を上げて結界に浴びせる。
それから数分程経ったころ、目の前の空間に石を投げ込んだような波紋が幾つも浮かび、空間をかき分けるようにして境界は姿を現す。
夜の湖を思わせる結界が空中に揺蕩う。その結界は小さく、その規模から見て境界内部に入る推奨人数は一人。何故一人なのかと言うと、小さな規模の結界に多くの人間が入れば、その分結界内の質量が増えて、結界を固定値が乱れるとされているからだ。そもそも小さな規模の結界は不安定なので入ること自体危惧されているのだが、私はいち早く名乗りを上げた。
完全に固定された結界を感慨深く見つめる。ついにここまできた。
私は結界の入り口に立つ。バイタルサインを測定する機器、眼鏡式固定カメラ、インカムを装着してやや不自由ながらも、動きに支障はない。
電磁波の操作により、結界は開かれる。私は生唾が喉を通り過ぎるのを待ってから、結界に足を踏み込んだ。
鬱蒼と生い茂る木々、静謐な空気に満たされ、微かに鳥の鳴き声が遠くから響く。
周囲は薄暗いが、夜が近いということは私にとっては好都合であった。
私には生まれながらにして「星の光で時間を、月を見れば今の居る場所が分かる能力」を持つ。それを使って懐に入れた彼女の写真に写る月と、沈む夕日と入れ替わるように現れたまだ薄い月を見比べてみると、やはりこの結界で写真を撮られたということが分かった。
私は撮影された場所へと足を運ぶ。まるで、待ち合わせに急ぐように。
初日、彼女と出逢うことは叶わなかった。
二日目、同上。
三日目、同上。
四日目、同上。彼女が撮られた場所に内緒でセンサーカメラを設置。
……
七日目、センサーカメラに彼女は写っていた。
「は?」
私が驚いたのは、彼女の髪型、髪色はそのままだが、撮影された当初に比べるとかなり大人びており、手元には進々堂で買い物した時に渡されるビニール袋が下げられていた。
私は眩暈がするほど混乱したのだが、さらに驚きの事実が発覚する。それは、センサーカメラを回収するときに、先日まではなかった紙切れが落ちていたのだ。私は急いでそれを確認すると、それは私の卒業した京都の大学構内にあるカフェ「まんどり」のレシートであった。そこには購入日付と学割とすら書いてある。
恐らく。というかほぼ確実に、現在彼女は、京都在住の大学生だったのだ。
私の目の前に、手元にある写真の女性を成長させた姿の大学生がうどんを啜っている。
「それで、私に話とは?」
「実はこの写真なんだけどね」
私は先日撮った写真を彼女に見せると、うどんを啜るのを止めて、目線の動きが怪しくなる。
「……これ、君だよね?」
「ど、どうしてこれを?」
私はとりあえず、今までの経緯を全て彼女に語ると、彼女は「まさかそんな大事になっているとは」と大いに驚いていた。
彼女曰く。結界の中に意図的に行けるようなったのはつい最近で「結界の女史」の件も何となくは耳にしていたが、それがまさか偶然結界を通った自分だとは想像もしていなかったらしい。
「いやぁ、まさかあの正体が私とは……」
「だよねぇ」
私は手元にあるざるそばを啜りながら彼女に目配せをする。
「もし今日の講義が終わったら、私の所属する結界の研究所で少し話さない?」
彼女は一瞬迷ったように唸ったが、内なる好奇心をたぎらせているかのように笑った。
〇
光が列をなして、深い夜に切り込むように滑っていく。それはゆりかごのように、時には乱暴に私の体を揺らすので、中々寝付けなかった。私の同行者は何事もなかったかのように酒を飲んで寝てしまったので、風情の欠片もない醜態を晒しているけれど、とりあえず写真だけは撮っておいた。
東京発の寝台列車「白樺」
東京から京都までを走るこの寝台列車に乗ろうと言い出したのは、今現在夢の中にいる彼女、宇佐見蓮子であった。
話の流れから、私は東京にある蓮子の実家に同行することなり、私は十二分に東京観光を楽しんだのだが、蓮子にとってはただの彼岸参りで終わるのが少々つまらなかったらしく、色々と意見を出し合った結界、独特な風情で今もなお独自の地位を誇示する寝台列車の帰路を選んだ。
随分大量のお酒とつまみを買い込んでいたので、長丁場を予想していたのだが、蓮子はワイン二本と半分を飲み干したところで、微睡に突き落とされてしまった。
残しても仕方がないので、余ったワインを飲みながら、ふと蓮子との出会いを思い返していた。
私、マエリベリー・ハーンは春の暮れ。偶然「秘封俱楽部」という木の札がかかったサークル部屋の前で蓮子と出会った。
秘封俱楽部とは何か。私たちが通う京都の大学にある、如何にもきな臭いサークルばかりが押し込まれた、旧東棟の最果てに位置する場所にそのサークルは存在しており、「この旧東棟屈指の変人が所属しているに違いない」とシツレイながらそう感じた。
何故私がそんなところに居たかと言うと、サークル勧誘から逃げ回っていたからである。
私の通う大学は煩悩の数以上のサークル、野良サークル、交流会、同好会が存在しており、全貌は恐らく大学側も把握できては居ないと思われた。それらが一同に集まるのが、四月の初め、新入生が入学する時期なのだ。
入学式を終えての、これから始まるキャンパスライフに少しだけ胸を高鳴らせる私が初めてみたのは、学生運動末期の混沌の再現かと思われる程に、様々な声とチラシが飛び交い、餌を得ようとする鯉の様に多くの先輩方が新入生に話しかける光景であった。
初めは非日常感があったので、そんな光景も悪くはないと思っていたのだが、それが二、三日続くと流石に飽きる。それでも飽きないのがサークル勧誘一派なので余計にタチが悪い。
幾つか興味がないわけではない。好奇心は比較的強い方なのだが、強引に迫られるとつい逃げたくなるのが私である。
さらに言えば、ありとあらゆる手段を要して迫りくるサークル勧誘一派の魔の手から逃れるのは、ゲリラと戦っているかのようで中々にスリリングだ。まさか教室変更という嘘の情報を大量に流して多くの学生を一つの教室に呼び寄せると、教室を施錠して九十分間に渡り様々なサークルの紹介を行うというアクロバティックな手法を目の当たりにしたときは流石に笑ってしまったが。
それはともかく。そんな大学内でのサークル勧誘に辟易していた頃、偶然逃げ込んだのか旧東棟。大学全ての陰気をここに運び込んでいるのではないかと思うほどに棟全体の空気が淀んでいた。一応今出川通りに面している方にある窓から光は差し込むものの、それ故に影を色濃く映し出す。
なんだかとんでもない所に来てしまった。まるで廃墟を探索しているようで胸が高鳴るのを感じながら、各階をくまなく探索する。使い古された自転車、原寸大のトドの模型、マトリョーシカ式の達磨、大学宇宙陰謀論のチラシの束等々、様々なものが軒を連ねるなか、旧東棟の最果てにそれはあった。
窓すらも途切れ、陽の光が当たらない奥地、非常灯だけが怪しく光る陰気な空気が圧縮されたそこには、「秘封俱楽部」という木の札がかけられた小さなサークル部屋だけがひっそりと佇んでいる。
終りにはもってこいの場所だ。そう思いながら秘封俱楽部と木の札がかかったドアを開けようとしたとき、足元に落ちているリボンに気が付いた。
それはシンプルな黒のリボンであった。道端や他の棟で落ちていても何らかおかしくはないのだが、「この場所に落ちている」ということが非現実的なものに思えた。まるで、この旧東棟に偶然迷い込んだ異物の様な印象を受ける。
それを何となく持ち上げて眺めていると、私の歩いてきた方から「あっ」という声が聞こえ、思わず胸が突きあがる。
平静を装って声がした方に顔を向けると、黒い生地に白いリボンがよく目立つ中折れ帽子を被った私と同い年ぐらいの女の子、立っていた。その目線の先は私の持っているリボンに注がれている。
「ええっと、これは貴方のかしら?」
「えっ、あ、はい」
警戒心を含む返事に「まぁこんな所に居たら、仕方ないか」と納得しながら、彼女に黒いリボンを差し出す。お礼を言いながら受け取ると、彼女の濃い青色の瞳が私の目を映す。
「貴方、もしかしてこのサークルの人?」
「いや、とんでもない。こんな胡散臭いサークル」
「ふふっ。そうよね」
何がおかしいのか、私たちは二人して笑った。それはこの最奥に溜まった陰気を少し減らすような、そんな軽い笑いを。
「良かったら、一緒にこのドアを開けてみない?」
お互いに笑いが止んだとき、私が彼女に提案をした。こんな所に二回も来るぐらいなら、恐らく私と同じ感性をもっていると踏んだからだ。
「最悪誰かいたら「このサークルってなんですか?」って聞けば大丈夫だと思うし」
「えぇっ……逃げる時は置いて行かないでよ?」
「信用されてないなぁ」
そう言うと彼女は、再度私の目をジッと見つめる。そう言えば自己紹介がまだであった。
「私はマエリベリー・ハーン」
彼女は一旦間を開けて。
「私は宇佐見蓮子」
「じゃあ、宇佐見さん。早速」
私の体は宇佐見さんの返事を待つ前に、秘封俱楽部と言う木札のかかったドアに手を伸ばす。
高鳴る鼓動を感じて、手汗が少し滲み、好奇心が胸に満ちていく。少なくとも私はこの大学に来て、初めて無邪気に笑い、宇佐見さんも鏡の様に私と同じ笑みを浮かべていた。
車窓に映る暗い景色に思い出を映す。あの出会いがもう半年も前かと思うと、随分と世界が早回しになったような錯覚を覚えた。
結局、秘封俱楽部のサークル部屋内部は埃と塵が占拠する空っぽの部屋で、どうやらあの木の札だけが捨てられずに残っていたようだ。正直拍子抜けだったが、そのままの流れで秘封俱楽部として私たちが活動を続けている。
車窓の向こう側に幾つもの光が広がったかと思うと、やがて消えていく。夜に身を溶かしていくかのような一抹の寂しさがこみ上げた。私はどこか温もりを求めるかのように、眠りこけている蓮子の頭をそっとなぞる。返ってくるのは返事ではなく寝息だけ。普段は凛々しくも見える横顔も、今は幼さだけが浮かび上がっていた。
もし、あの旧東棟に迷い込まなければ。もし、あのリボンに気付かずに秘封俱楽部のサークル部屋に入っていたら、もしかすると蓮子には会えなかったのかもしれない。
「それは、少し寂しいなぁ」
蓮子に会わなかった私はどのように過ごしているのだろうか。結界が見える能力の話もできず、深夜の墓荒らしも、夢で貰ったお土産の話をする相手も居ない。もしかすると、こうして東京に行って、帰りは寝台列車に乗ることもなかったのかもしれない。
そう思うと私は堪えきれず、猫の様に少し丸まって眠る蓮子の手をそっと握る。
少しでも貴方に近づく為に、こうして出会えたことに感謝をする為に。
ありがとう。
声にならない感謝の言葉は、外を流れる夜と共に消えていった。
私は時折考える。
この大学で貴方と出会わなければ、どのような人間と出会い、どのような人生を送っていたのだろうかと。
しかし、同時に思うことは。
どれだけの人間と出会えなくとも、どんな人生を送っても、きっと私は貴方とは出会っていた。
この科学世紀の下で。
私的には3が一番好き。
で、月面都市に事故が起こって、連絡が取れなくなって、
政府機関が救出活動に出動するも失敗に終わり
蓮子がオカルトの力を使って月面都市単独突入を行うと、
実はその裏では月人達による極秘計画が、、、って所までは読めた(幻覚
このままでは生殺しです続きを書いてくだい!もちろん全部!
たとえ形は違っても2人は出会うのだと思えて素敵でした