Coolier - 新生・東方創想話

十二年目の結界暴き

2021/10/25 21:39:19
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 田舎道を迷い、ようやく目的の住所に着いたころには、月明かりにすっかり目が慣れていた。
 入り口のわきには白ペンキで丁寧に塗られた看板が立ち、真ん中に黒い手書きの太文字で「診療所」とだけ書かれている。それ以外はどこにでもある民家のような外観だったが、紹介された場所で間違いなさそうだ。
 音符マークの付いた小さなボタンを押すと、家の中からキンコンというチャイムが漏れてくる。遅い時間にもかかわらず、玄関の扉はすぐに開いた。
「紹介は伺ってます。どうぞ」
 そう言って玄関先で出迎えたのは、まるで絵本の世界から抜け出してきたかのような美しい女性だった。女性はふんわりとやわらかい笑みを浮かべると、冬の夜道で冷えきった私を家の中まで通してくれた。
 寄木細工の廊下を進むと、右手に青いステンドグラスの嵌まった開き戸があり、そこで待つようにと彼女に言われた。
 てっきり病院の診察室のような殺風景な場所へ通されると思っていた私は、その部屋の思いがけない質感に驚いた。アンティークランプがほのかに明るく、シックな色合いで統一された敷物や調度品のセンスもすばらしい。なるほど、この応接間なら、下手な診察室よりよほど精神が落ち着きそうだ。
 小さな竹組みの肘掛け椅子に座って待っていると、女性は二人分のカップを持って戻ってきた。かすかな湯気といっしょに珈琲のいい香りが漂ってくる。
 互いの自己紹介が済んだところで、さっそく先生と私のカウンセリングが始まった。
「いきなりだけど単刀直入に聞くわね。あなたの悩みはなんですか?」
 私はちょっと呼吸を整え、膝の上に置いたバッグの口を握りしめた。
「あってはならない記憶、です」
「あってはならない?」彼女は特に考える様子もなく、「そんなものがあるとは思えないけど」
「そうです。あるはずがない記憶です。だからあってはならないんです」
「なぞなぞね。それも簡単な」
「先生」私は体を前に突き出した。先生が目を丸くしている。「私は今日、ここに、たったひとつの答えを求めて来ました。私はこれから先生にある出来事を語ります。それを聞いた先生は、『大丈夫。それはすべて幻覚です。あなたの脳が作り出した偽物の記憶ですよ』と答えるはずです。それは誰がどう考えても明白なことだからです。でも……、あまりにもリアルな夢だった。だから念のため、専門家の口から聞いておきたいんです。失礼な言い方になりますが、私が先生に望んでいるのはたったそれだけなんですよ」
 先生は少し驚いたふうだった。
「そんなに焦ることはないわ。ほら、もっと肩の力を抜いて。それに診断結果は常に、蓋を開けてみるまで不確定よ」
「自明です」
「矛盾ね」先生はゆるやかな動作で珈琲を口に運んだ。「だったら今、あなたはここに居ない。でしょ?」
 私は奥歯を噛みしめた。両手の爪がバッグに食いこみ、黒い光沢の合成皮をぎりぎりと傷つける。
 私の様子を見てとったのだろう、先生はすぐに言葉を継いだ。
「なにはともあれ、その出来事とやらを聞かなきゃ始まらないわ」そして、先生の笑みが少し変わった。「大丈夫よ。悪いようにはしないから」
 先生の笑顔は少女のように明るく、無邪気で、なのにどこか不自然で、それでいて一瞬にして、私の心から逆らう気力をむしり取った。まるで私を操っていた見えない糸が、透明なハサミでちょん切られたみたいだった。
「ほら。珈琲が冷めちゃうわ」
 そう言われて再び先生の目を見たときには、すでにあの一瞬の雰囲気は彼女の笑顔から消え失せていた。今は私を玄関で出迎えてくれたときと同じ、なんの変哲もない柔和な笑みだ。
 私は出された珈琲に初めて口をつけた。想像していたよりは苦くない。
「少し長くなりますよ」
「気にしないで。長い物語は人並みに好きだから」
 私は珈琲味の吐息を吐きだし、事の始まりを思い起こした。
 ……ああ。苦みは遅れて来るタイプか。


 ちょうど二年前の冬だった。
 いろいろあって会社をクビになった私は――いえ、いろいろです。そこはどうでもいいんです。気にしないでください。
 とにかく、金銭的、社会的、精神的に、あらゆる面で不安定な日々を過ごしていた。
 前々から安月給を理由に転職を考えてはいたけれど、また同じようなOL仕事というのも飽きが来ていて、かと言ってやりたいことがあるわけでもなく、そうこうしている内に貯金はどかどかと流れ出ていく。
 そんなある日、いつものように昼間からお酒を飲んで寝ていた私に、珍しく郵便が届いた。
 差出人は不明。真っ白な封筒で、厚みもほとんど感じない。今どき電子メールじゃなくて紙を使ったやりとりなんて、よほど重要な公的書類か、電子空間に足跡を残したくないかの二択。まあ、差出人が書いてない時点でまず間違いなく後者だろう。
 普通なら気味悪がってすぐに捨てていたところだけど、そのときの私は違った。今思い返しても理解はできない。ただ、あのときの自分は、なにか導かれるように体が動いていたように思う。アルコールのせいもあったかもしれない。
 刃物が入っていないか注意しながら封を開けると、出てきたのは一枚の手紙と地図だった。手紙の内容はおおむね想像のとおりで、書かれていたのは詳細をぼかした仕事の誘い文句と、受ける場合の日付と集合場所、それだけだった。怪しいどころの騒ぎではない。しかし文面をざっと読んでみると、どうやら標的は不特定多数というわけでもないらしく、私のずっと前の職場――大学を出てすぐ、ほんの半年ほどだけ所属していた研究職――絡みの話だとわかった。どうも手紙の差出人は、その領域のノウハウが目当てというような書き方だった。
 幸い、このときの私は正常な冷静さを残していた。
 手紙と地図をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放ると、ぐってりと動物のように寝転がり、そのまま我が家で最も神聖とされる小型冷蔵庫の前まで這い進んだ。おいしい飲み物でも飲んで面倒なことは忘れちゃおうという魂胆だ。私は恍惚の表情で扉を開けた。
 そこには一本のお酒もなかった。
 疾風のごとく飛び起きた私はゴミ箱をひっくり返し、さっき捨てた紙のシワを伸ばして、もう一度最初から最後まで穴があくほど読み直した。
「報酬……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃく……」
 一週間後、私は約束の地へ向かうバスに揺られていた。

「……迷った」
 日本の中央、岐阜県は飛驒市。かつて牛肉とニュートリノで栄えたこの町の北端で、私は慣れない紙の地図を手に小一時間以上さまよっていた。
「もうっ、なんで地理コードとか使ってないの? 気が利かないとかいうレベルじゃ……ん? あれ?」
 蓬莱と書かれた看板が目に入った。ここはさっき通った場所だ。一度見た酒造店はすべて覚えているのでまず間違いない。そしてこの店は、私が飛驒に着いて最初に見た建物だ。それが意味することはひとつ。
「あのバス停……最初に降りたとこだ……」
 私はその場で崩れ落ちた。
 よろよろとおぼつかない脚をどうにか使って、バス停のベンチに寝そべった。どうせ人なんて来そうにない。少しこうして休ませてもらおう。
 わざわざこんな山奥まで来たというのに、結局、儲け話もふいになった。しかも原因が方向音痴ときたから笑ってしまう。
 かすかにバスの走行音が聞こえてきた。このバス停に近付いている。
 ……そもそもの話、今回の私は怖いもの見たさが過ぎていた。どう考えたって危険な匂いがぷんぷんしてたし、本当にお金が貰える保証だってない。そうよ、行かなくて正解だった。次に来たバスにもう一度乗って、どこか適当に観光してから京都に帰ろう。選り好みしなければ仕事は見つかる。
 体を持ち上げ、大きく深呼吸をする。綺麗な空気だ。
 ちょうどバスが滑り込んできて、女性が一人降りた。のそのそと立ち上がろうとしていた私の目線は、彼女の持っていたあるものに吸い寄せられた。
 彼女は紙の地図を持っていた。
「もしもしメリー? うん、今着いた。……お土産? なにのんきなこと言ってるのよ。当分は帰れないと思うって言わなかった? ……言わなかった? あ、そう。ごめんごめん。じゃあそういうことだから。また。うん。はーい」
 電話を切った女性と目が合った。
 あとで知った話によれば、彼女は私よりも二つか三つ年上らしいが、見た目はまだ大学生みたいに若々しくて、溢れ出す活気と好奇心が帽子を被って歩いてるみたいな人。そんな印象が最初だった。
「……乗らないの?」
 私はドキッとした。
「えっ、あの……その地図って」
「これ? ああ、あなたもか」
 彼女は私がくしゃくしゃの地図を持っていることに気付くと、すぐに状況を察したようだった。
「私といっしょに行く? あそこなら何回か行ったことあるし、道は大丈夫だよ」
 私はすぐに応えられなかった。
 本当についていっていいのだろうか。今さら言うのもなんだが、こんなうまい話には必ずなにか裏がある。でも、彼女は何度か行ったことがあると言っていた。経験者? 思ったより普通の仕事? わからない。ただ、なんとなくだけど、彼女についていけば安心な気がする。初対面でもなぜかそう感じてしまうほど、彼女の瞳はカリスマティックだった。
「じゃあ……お言葉に甘えようかな」
「うん、決まり」
 私がベンチから立ち上がると、彼女は軽く頷いて、一度大きく伸びをした。その余裕を少し分けてもらいたいくらいだ。
「いやあ、安心しました。てっきりもう間に合わないと思ってましたから。どこか近道とかご存知なんですか?」
 もう一度地図に目を落としたが、やはり土地勘のない私では難しい距離に見える。それでも彼女が今バスを降りたということは、まだ間に合うようなルートがあるのだろう。
「心配ご無用」そう言うと彼女はニヤリと笑い、人差し指で帽子を少し持ち上げてみせた。「この宇佐見蓮子、遅刻の善後策なら論文だって書けるわよ」

 指定の場所――二十五山に着いたとき、遅れは五分ほどだった。
「遅刻術にはいくつかセオリーがあるの。息せき切って急いだ感を出すとか、さもこの時間に来ることが当然だったように堂々と入室するとか。今回はとりあえずプランAでいこう」
 宇佐見さんはそれ以上急ぐでもなく、山肌にぽっかりと開いた巨大な坑の中へ入っていった。
 坑内から這い出る無数の管がマムシの群れのように壁に張り付き、坑道の入り口がまるで魔物の住処の玄関のようになっている。すたすたと先を行く宇佐見さんを追って坑に足を踏み入れると、一歩、また一歩と奥へ進むたび、私を包んでいた日常の空気が洞穴を満たす冷たい気配と少しずつ入れ替わる。私は薄暗い誘導灯の下で身震いをした。
 置きざりにされた作業道具や段ボールを横目にしばらく進むと、片手に杖を持った老人が一人、車にもたれてタバコを吸っていた。
「すみませーん。遅くなりました」
 宇佐見さんが声をかけると、老人は慌ててタバコを消した。
「まんだおったか。待っとってえかったさぁ」
 老人はそう言うと停めてあった坑用車に乗り込み、慣れた手つきでエンジンをかけた。「ほれ、乗ってくりょ」
「あれに乗るんですか?」
「トンネルはまあまあ長いからね。場合によっては、先発組も最終目的地にはまだ着いてないかも。スピード出してもらえば追いつけるかもね」
「なるほど。これがプランAなんですね」
「えっ? あぁ……、うむ」
 トンネルは想像以上に長かった。案内役のお爺さんの話によれば、目的地までの走行距離は約二キロ。坑用車は安全運転が原則のため、急いでも五分はかかるということだった。
「ここって神岡鉱山ですよね? こんな長いトンネルが舗装されてて、今でもなにか掘ってるんですか?」
「鉱山としてはずっと昔に閉鎖されてるよ。今向かってる場所は、たぶん……カミオカンデ計画の跡地かな」
「スーパーカミオカンデですよね。聞いたことあります」
「いいや、ハイパーのほう」
「そんなのあったんですか?」
「計画だけね。二〇二一年に着工したんだけど、いろんな逆風が重なって頓挫したの」
「令和時代ですか……」
「ハイパーカミオカンデの全高は七十メートルもあるから、大規模掘削でスペースを確保するとこまでは進んでたんだけどね」宇佐見さんは腕組みをして、難しい顔で車の天井を眺めはじめた。「その無駄にだだっ広い空き部屋に最近、日本各地の研究施設から最新機材やスパコンを運び込んだ形跡があるの。まあこうなっちゃえば十中八九、私たちの目的地も同じでしょ」
 私はぼんやりと宇佐見さんの顔を見つめたまま、彼女が言ったことの意味を飲み込むのに数秒の時間を使い込んだ。
「えっ、いや、待ってくださいよ。日本各地だとか、スパコンだとか……、なんか話が大きすぎませんか? そんなことができる依頼主って何者なんですか。どうして私なんかが呼ばれるんですか?」
 宇佐見さんは帽子を目の位置まで下げた。ひと休みしたいとでも言いたげだ。
「さあねぇ。ただ、少なくとも私たちが呼ばれた理由はスパコンと同じだよ。ヒューマンリソース。我々は大事な大事なこの国の資源」
「この国の?」
 胸のあたりにじんわりと嫌な予感が湧き上がってきた。ひょっとすると、想像以上に厄介な場所へ向かっているのかもしれない。
 宇佐見さんはそれ以降なにも喋らない。車は滑るように一定の速度を保ち、私たちを乗せたまま深くて暗い地の底に向けて走り続ける。
 今すぐ家でお酒が飲みたい。

 車を降りた私たちはまたしばらく歩いて、小さなスチール扉の前まで案内された。中から白い光と大勢の人間が話す声が漏れてくる。ギリギリ間に合っていたりはしないようだ。
 宇佐見さんは扉に手をかけ、そーっと開けた。プランA、発動。
「なるべく存在感を消して。ニュートリノになった気持ちで行くわよ」
 言われたとおりに従った。
 扉を開けて一歩中へ入ると、そこには宇佐見さんの推測どおり、奈良の大仏を縦に五つは積めてしまうほどの巨大な空間が広がっていた。
 今までいた坑道もとりわけ狭いというほどではなかったのだが、これでは入室というよりも屋外へ出たのかと錯覚してしまう。天井は真っ黒なドーム型で、表面に何百という数のLEDが埋め込まれている。昼でも夜でもない不思議な星空。まるで夢の中にいるような妙な気分だ。
 人が集まっているのは中央ではなく、入り口近くに作られた会議場のような場所だった。壁に大きなモニターがあり、それを見られる位置に細長い液晶テーブルが設置されている。テーブルを囲むのはざっと百人以上。その誰もがざわざわと好き勝手に話をし、困惑している者や呆れた顔をしている者、明らかに苛立っている者もいた。
「まったく理解できん。もう一度説明してくれ!」
 ついに誰かが立ち上がって、モニター前の壇上にいる男に向けて言い放った。
「彼の言うとおりね。もう一度詳しく聞きたいわ」
 隣でニュートリノ化していたはずの宇佐見さんが急に大声を出したものだから、私の心臓は縮み上がった。
 と、ほかの参加者たちも口々に声を上げはじめる。もはや私たちの遅刻など、完全に無かったことになったようだ。
「皆さまお静かに。もう一度説明する」
 壇上の男が端末を触り、モニターに映像が表示された。映っているのはここと似た地下施設らしき場所の写真と、意味のわからないグラフや数値が大量に並んだ資料。
「詳細は手元の液晶テーブルで確認してもらいたい」
 目の前のテーブルを触ると、モニターと同じ資料が表示された。
「重力波シグナル……」
「えっ?」
 宇佐見さんはほんの少し見ただけでなにかを読み取ったようだったが、私には一文字も理解できなかった。
「これは各国の第四世代望遠鏡によって観測された背景重力波のデータだ。全部で十七年分ある。インターネットでも公開されているから、すでに見飽きているという者も多いだろう。そしてこれが……」
 次のグラフが映されるやいなや、そこにいた全員が食い入るように液晶を見つめた。
「その波形に特殊なノイズ除去プログラムを適用して現れた、バイナリ・データだ」
 会議場は重苦しい沈黙に包まれた。
 私と宇佐見さん以外にとってはすでに二度目の説明のはずだが、このデータがよほど受け入れがたいものなのだろうか。
 一人だけ現状を理解できずに場違いな気分になっていたとき、テーブルの奥のほうから手が挙がり、沈黙が破られた。
「わかりきったことだとは思うんですけど、一応質問させてください。この信号には明らかに人為的な規則性があります。それって、つまり……地球外からのメッセージってことですよね?」
 再び議場にざわめきが起ころうとしたのを壇上の男が手で制した。
「まだ一切のことはわからない。某国がこの解析プログラムを開発したのは五年前だが、我が国がこの事実を認知したのはほんの三ヶ月前だ。当然、国際社会は一切関知していない」
 一部の集団から声が上がった。
「情報を秘匿されていたと? GWICの回覧は?」
「GWICの仕事は発表予定の情報の精査であって、すべての情報を開示する責任はない。それに背景重力波のデータそのものは全世界に公開されている。彼の国にも我が国にも違法性はない」
 後ろから声がした。「ブラインドインジェクションやないさんやろか?」あの運転手のお爺さんだった。
「信号は日本のaKAGRAでもキャッチしているのでその可能性はない。第一、ブラインドインジェクション(装置の信頼性をテストするために秘密裏に挿入される偽の信号)だとしたら悪質すぎる」
「あんたはどこからこの情報を?」
「言えない。が、ここの設備を見てなお情報の真偽を疑う者はここにはいないだろう」
 誰も何も言わなくなった。
 なんとなくだが、私にもわかることがある。要はどこかの国が宇宙人からのメッセージを受信したけれど、その事実は情報の独占のために隠されていた。それを知った今回の仕事の依頼人――おそらくは政府に準ずる人たち――が、この馬鹿でかい施設で独自にメッセージを読み解こうとしている。
 荒唐無稽にもほどがある。
 私は隣で真剣な顔をして考え込んでいる宇佐見さんに聞いてみた。
「宇佐見さん、この人たちの言ってることわかります? だいたい私、背景重力波とかいったいなんなのって感じで」
 すると、近くで私の言葉を聞いていた眼鏡の男が手を挙げた。
「失礼。どうも素人が紛れ込んでいるようなのですが、このメンバーはどういった人選ですか?」
 私は男を睨みつけたが、こちらの様子など歯牙にもかけていない様子だ。
「ここに集まっている人間は、全員がなんらかの分野の専門家だ。そこにいる彼女はたしか……ああ、元IFREEだな」
「IFREE? 重力波となんの関係が?」
「人選は当然言語学や物理学の分野に集中しているが、ある事情から一見まったく関わりのなさそうな領域も幅広くカバーしたい。どんな情報がキーになるかは我々にも把握できていないからだ。人選についてもうひとつ付け加えると、なるべく長期間姿を消しても怪しまれにくい人物を優先的にピックアップした。君たちには当分の間、ここか地上の宿泊棟に住み込んでもらうことになる」
 ひときわ大きなどよめきが広がりかけた。
「ある事情とはなんですか?」
 どよめきが怒号に変わるまさにその寸前、機先を制するタイミングで宇佐見さんが声を上げた。
 聴衆はとりあえず話を聞こうという態度に戻り、次の言葉に耳を傾けている。
「受信したのがただの信号ならば我々はここまで混乱しなかった。問題は、重力波の発信源だ」
 モニターに四つの資料が表示された。
「アメリカ、中国、インド、日本の四カ所で観測された重力波の波形とその到達時刻だ。通常、重力波の発信源は、地球上の各望遠鏡に波が到達した時刻の差から求められる。同時に二台の望遠鏡が稼働していれば天球上の円上のどこか、三台なら天球上の二点まで絞れるといった具合だ。そしてこの信号に関しては、各地点への到達時刻に有意な差異が認められなかった。……信号は、宇宙のあらゆる方角からただ一点、この地球のみを目標に発信されている」
 ざわめきは小さくまばらだった。
 彼らの反応が、提示された情報を軽く見たゆえのものでないことは私にもわかる。
 人類ははじめ、自分たちこそがこの世界の中心だと信じていた。しかし自然科学の発展という輝かしい業績の裏で、私たちは暗くて冷たい宇宙の片隅にどんどんと追いやられていった。
 地動説が証明されたとき、人々はどう思っただろう。私は、たまらなく怖かったろうと思う。世界の中心という特別な場所は、自分がそこにいていいんだという無条件の安らぎを与えてくれる。そんな気がするから。
 それでも。
 それでも人間は、甘くて永い、まどろみのような幻想を自ら否定し、絶対零度の現実と向き合った。その対価として得たものが、重力波望遠鏡であり、液晶テーブルであり、自動車であり、高度な医療であり、私たちが暮らす、この社会そのものだ。
 未知の信号は、まるでこの地球が宇宙の中心であるかのように錯覚させる。発信者は本当に別の星の生き物だろうか。私たち人類がメッセージを受信できるまで、実験室のマウスのように育てていたつもりなのだろうか。
 私はそれで構わなかった。それはより発達した科学力を持つ者の特権だと思うから。
 このとき、まだぼんやりとではあったけれど、自分の頭の奥深くで眠っていた正体不明の感覚が意識の表層に上りはじめた。
 もしこの信号が異星人の科学ではなく、もっと別のなにか、宇宙規模の、より大きなものの意思かなにかなのだとしたら。この地球が、本当に世界の中心だとでも言おうものなら。
 私の理性は拒絶する。なぜなら、そんな事実は決して、この世に存在してはならない――
「科学への冒涜だわ」
 その声にハッとして顔を上げると、議場の全員がこちらを見ていた。
 私は宇佐見さんの顔を見た。
 宇佐見さんも私を見ていた。
 今言ったのは彼女じゃない。
 声の主は私だった。
「彼女がそう言いたくなるのもわかる。はっきり言って、この現象は非科学的だ」
 壇上の男の一声を契機に、テーブルを囲んでの大論争が再び息を吹き返した。
「自然現象説は……いや、ないとは思うけど、宇宙のあちこちで起きた連星合体の影響が平均化されたとかは?」
「無い。連星合体のチャープ波は一目でわかる。データにその兆候はない」
「重力波源についてほかにわかっているパラメータは?」
「周波数はデシヘルツ帯。キャッチしたのが時代遅れの地下望遠鏡ばかりなのは第五世代の観測域を外れているからだ。距離がわからない以上、重力波を発生させた物質の質量は推定できない。しかし受信時の振幅は観測限界に限りなく近い。観測感度が最も高い真上からの波でなければ絶対に捉えられない強度だった」
「宇宙じ……その、発信者は地球をぐるりと取り囲んでるって? 常識的にありえんでしょう。いったいなんのために?」
「それを解明するのも君たちの仕事だ。もちろん報酬は期待してくれていい」そこまで言って、男はモニターに新しい資料を出した。「ただ、なにもゼロからやれとは言わない。抽出されたバイナリ・データを元に、すでに判明していることもある」
 資料に並んでいる文字は0と1の二種類。しかし最初に見せられたものとは違い、ところどころに改行やスペースが混ざっている。
「軍用の言語抽出プログラムにかけてみたところ、どうやらこのバイナリは、直接、常用言語に変換する類いのものではないことがわかった」
 画面の資料が更新されると、本日何度目かのざわめきが起こった。今度の文字列は、私にも多少見覚えがある。
「一種のプログラミング言語と思われる。この信号には変数宣言やif文に相当すると思しき文脈が含まれている。だが、今はまだそこまでだ。このプログラムがなにを意味するか。君たちにはそれを暴いてもらう」男は少し間を空けて、聴衆の反応を窺ってから口を開いた。「なにか質問は?」
 口を開ける者はいなかった。
 私は意味不明な専門用語の応酬にすっかり気力を削がれてしまい、今すぐにでも家に帰ってお酒を飲んで寝ること以外なにも考える気がしなかった。
 なんで私はこんなところにいるんだろう。この空間で私が役に立てることはない。じゃあ、私の仕事は? そんなものは無い。……あれっ? 報酬ってなにもしなくても貰えるのかな。いやまさか。そんなうまい話あるわけない。でも、あの人たちはお金なんていくらでも出せそうだ。事情が事情、予備人員でも雑用とかしてるだけで案外……。そうだとしたら、悪い話じゃないかもしれない。
 期間はどれくらいかかるだろう。あの男の人が言っていたとおり、たしかに私は長期間家を空けても困らない。結構長くなるかもしれないな。少なくとも、あのわけのわからない暗号はどこぞの国が五年もかけて手こずっている代物だ。いかにこの人たちが優秀と言っても、解読は容易なことでは「解けた」……解けた?
「すみませーん。解読終わったんですけど」
 その場にいた百を超える視線が一斉に集まった。
 壇上の男も、眼鏡の科学者も、運転手のお爺さんも、そしてもちろん私も、テーブルを囲んでいる誰も彼もが、ぽかんとした間抜けな顔で固まっていた。
 ただ一人、宇佐見蓮子を除いては。
「……なあ、あれ、宇佐見蓮子じゃないか?」
 誰かがそう呟いた。
「宇佐見蓮子?」
「宇佐見蓮子」
「宇佐見蓮子だ」
 湖面に投げ入れた石の波紋が次々と重なり合うように、彼らの囁きは議場全体を包み込んでいった。
「宇佐見ってったら、『シミュレーション宇宙の独立性仮説』の、あの?」
「間違いないって。俺ILCで会ったことあるもん」
「ほら、LS事件の犯人……」
「なんか宗教? オカルト? そっち系の活動してるって……」
「めっちゃかわいい」
「まだWHOに監視されてるはずじゃ?」
「でも頭脳はガチだって。本気でプランク以来の天才だって俺は思ってる」
「大学生のときに教授泣かせたらしいよ」
 まるで収まる気配がない。
 私は宇佐見さんの姿をもう一度よく見返した。そこには台風の目であるにもかかわらず、持参した水筒から紙コップにお茶を注いでいる彼女がいた。
 その姿は良く言えば威風堂々。悪く言えば……なんだこいつ。
 このときになってようやく、私は本当に大変な人物と知り合ってしまったのだと気が付いた。
「静かにしてくれ!」壇上の男が大声を出し、話し声はざわざわと静まった。「宇佐見くん。君はこの暗号が解けたと言ったのか?」
「はい。全部じゃないけど、実質全部。見てもらったほうが早いでしょう」
 宇佐見さんは手元で表示されている資料に指を当て、細長い楕円形のテーブルの奥に向かってスワイプした。画面上を滑る資料がテーブルの反対側の端に届くと、それがそのまま壁の大型モニターに表示された。
 資料の数箇所には色分けした書き込みがあった。
「事前報告で変数宣言とされていた部分。このピンクで囲ったとこね。これは簡単に言うと、粒子の種類を定義してるの」
「素粒子の種類?」
「素粒子もだけど、複合粒子も。ほら、ここの数字が弦のパラメータになってるでしょ。最初に素粒子。このへんは中間子とか、で、こっから原子。そんでこっから……ここ、甲ツ-14の八十五行目までは全部分子かな」
 科学者たちは自分の手元とモニターを何度も見比べ、彼女の説明を理解しようと必死で頭を掻きむしっている。しかし素人の私から見ても、明らかに付いてこれていない。
「それからif文だけど、これは本当にif文そのものね。分岐条件は……この数値。弦の持つ結合定数」
「M理論か!」誰かが叫んだ。
「そういうこと。三つあったif文のなかで適正な物理法則は一番目だけだから、二番以降はまだ受信しきれてないのも含めて切り捨てちゃって大丈夫。この設計図はどんな環境でも使えるように、根源的な物理法則だけで書かれてるみたいね」
「設計図? これは設計図なのか?」男の目の色が変わった。「なんの設計図だ?」
「設計図というか、仕様書というか。残りの部分は言語学者に任せるけど、粒子の並べ方とかそんなのだと思うから。粒子プリンターあるよね? なにができるかは、組み立ててみてのお楽しみってやつかな」そう言って、宇佐見さんはお茶を一口飲んだ。「ほかに質問は?」
 今度こそ、本当に誰も口を開かなかった。
「……決まりだな」男は壇上でそう呟くと、宇佐見さんを指さして言った。「今をもって、彼女を当研究所の副所長に任命する。申し遅れたが、私は所長の玉造だ。次のミーティングは五時間後、定例会は毎週金曜日に行う。以上、一旦解散」

「けっこう組み上がってきましたね」
「まだまだ、完成形はたぶん何万倍も大きいよ」
 瞬く間に二ヶ月が過ぎた。
 宇佐見さんは相変わらずのマイペースだが、ひとたび口を開けばその活躍は凄まじい。専門である量子重力物理をはじめ、古典素粒子物理や重力波天文学、果ては分子生物学にも通じるらしく、この研究所の副所長としてヴィクター・ハントも真っ青の八面六臂ぶりを見せている。
 私はというと、驚いたことに、まだ追い出されていない。宇佐見さんの近くをしれっと歩き、しれっと会議に出席し、しれっと給料を貰っている。
 ……いやいや、本当に何もしていないわけではない。簡単な装置の点検を習ったり、パソコンで資料をまとめたり、掃除したり、宴会の幹事に名乗り出て酒の仕入れルートを牛耳ったり。こうして見るといろいろやっている。いやむしろめちゃくちゃ仕事している。この給料はまったく正当な対価と言えるだろう。
「これはまだ部品のひとつってことですか? プロセッサとか?」
「今のところはそう。でも、あと二日も経てば機能の推測は厳しくなるね」
「どういうことですか?」
 例の暗号は宇佐見さんが示した方向づけが上手くいき、優秀な言語学班と最新鋭プログラムの力であっという間に解読された。それは宇佐見さんの推論どおり、なんらかの装置の設計図だった。
 物理的な書き出しもすぐさま開始された。はじめのうちは粒子プリンターによってミクロな世界での構築が続いていたが、やがて基礎的な構造物が用意できると、少しずつバリエーションを変えつつ量産する要領で、三週間も経つころには生成物の塊が肉眼で見えるまでになっていた。
 私はあいかわらず、技術的な話はほとんどわからないながらも、目に見える変化が現れたのが面白くって、よくこうして生成物を見ながら宇佐見さんの話を聞いていた。
「これ……見える? ここの、細い線のところ」
 宇佐見さんはガラスケースの中の生成物にカメラを近づけ、表面の拡大映像を見せてくれた。
「はい。白金線ですよね? これがなにか?」
「これがどうもねぇ。神経繊維の束なの」
「……えっ?」
 私の脳を久々の困惑がすり抜けた。
「構造的にも組成的にもそうなのよ。しかもおかしいのはここだけじゃなくてね。この設計図は有機物も無機物もまるで区別してないの。あまりにもデタラメすぎるから、さすがの私もこれ以上は見当がつかないってわけ」
 私は改めてケースの中の物体を見た。プリンターで生成された物質がチューブで運ばれ、それをオモチャみたいに小さくて精巧なロボットアームが、ちびりちびりと組み立てている。本体はまだほんの数センチ辺の薄いチップ。その正体が、あの宇佐見さんですらわからない。
 私は急にうすら寒い不安に襲われた。
「宇佐見さん。本当にこれを完成させて大丈夫なんでしょうか」
 宇佐見さんは水槽の小魚とたわむれるようにガラスケースをつつきながら言った。
「大丈夫じゃないとしたら、早く完成させなきゃね」
「どういう意味ですか?」
 宇佐見さんは指を止め、今度は空中でくるくると回してみせる。
「あなたの言う大丈夫じゃない物って、たとえば大量破壊兵器とか超高性能コンピュータとか、要は軍事転用可能なものでしょ? だったらもう、私たちが最初に作っちゃうしか道はないのよ」
「そんなもの、作られないほうが良いに決まってるじゃないですか」
「考えてみてよ。信号は全世界で受信されてる。私たちより五年も早く研究を始めていた国もある。この状況で私たちが完成させなきゃ、どうなる?」
「……ほかの誰かが、完成させる」
「うちの所長も、その上の人たちも、それがわかってるから必死こいてるのよ。異星人の技術だかなんだか知らないけれど、とにかくそれを手に入れた国は、この世界の覇権を握ることになる……かも、ってね」
 宇佐見さんの語り口はあくまでも軽く、現実味や危機感といった実感がすっぽりと抜け落ちているようだった。
 この計画は止められない。だからといって、彼女のように割り切ることは凡人の私には不可能だ。
 頭が重い。
 胸がざわめく。
 おかしなものが見える気がする。
 この不安を洗い流す方法は、ひとつしかない――。
「あっそうだ。寝る前に部屋でちょっとお酒飲む?」
「よろこんで‼︎」
 宇佐見さんからの提案になったが、やることは変わらない。私は装置の隙間や床下のスペースに隠してあった酒瓶を取り出した。
「今日はもう誰もいないし、せっかくだからここで飲みませんか?」
「こんなとこで? だだっ広くて落ち着かないんじゃない?」
「まあまあ。ちょっと待ってくださいね」
 私は壁際にずらりと並んだコンピュータのうち、この施設に元から備え付けられていたデバイスのひとつに触れた。
「実はここ、面白い仕掛けがあるんですよ。照明を落とすので気をつけてください」
 洞穴を満たしていた巨大な光が失われ、稼働中の計器類だけがかすかに赤や緑のランプを灯している。
 私はデバイスの操作を完了した。
「わあっ……!」
 宇佐見さんから感嘆の声が上がった。
 彼女が見上げる先、この巨大地下空間のドーム天井には、見渡す限りの本物の星空が広がっていた。
「すっごい大きさ! しかもこれ、ただのプラネタリウムじゃないみたい」なぜか宇佐見さんは壁の蛍光時計を確認し、頭上の星空と見比べるような動作をしている。「リアルタイムの星空だわ。外にカメラがあって……、天井は全部モニター製だったのね」
「よくわかりますね。私は船戸さん――運転手のお爺さんに教えてもらったんです。あの人、昔からここの職員だったらしくて、いろいろ教えてくれるんですよ。このドームはほんの数年間だけ、プラネタリウムとして使われていた時期があるそうです」
「いやはや。まさか地下六五〇メートルで星空が見られるなんて思いもしなかったわ」宇佐見さんはすなおに感心しているようだった。「メリーが見たらなんて言うかなぁ」
 完全無欠に見えた宇佐見さんを驚かせることができたので、私はなんだか鼻が高い気分だった。
 せっかくだからと、私たちは部屋の中央でお酒を飲んだ。満天の星を見ながら地の底で飲むお酒。思ったとおり、不思議な浮遊感に満ちた唯一無二の体験だった。
「宇佐見さんはぁ、どうしてこの仕事受けたんですかぁ?」
 良い感じに酔いも回って、私たちは互いの経歴について語り始めた。
「うーん。なにか重大なことが起きてるってのは掴んでたし、いち科学者としてこの国のために尽くさなきゃっていう使命感がだね」
「あっははは。うっそだー」
「あ、わかるー? やっぱり」
「わかりますよー。二ヶ月もいっしょに働いてるんですから」
「本当はねぇ。結界の切れ目がありそうだったから」
 私は聞き慣れない言葉に眉をひそめた。「結界の切れ目?」
「あーいやいや、なんでもないの。それより、あなたこそなんでこんなとこに?」
「それはねぇ」私はなんとなく嫌なことを思い出し、手に持っていた瓶を一気飲みした。「ふつーに前の会社クビになったからです」
「おー。IFREEってクビとかあるんだ」
「いや、そのあとの会社です。普通の事務仕事ですよ」
「ちなみに理由とかって聞けるかな」
 私はあの理不尽極まりない事件のことを思い出した。
「聞いてくれます? 私って、見てのとおりお酒飲むじゃないですか。それは会社の人もよく知ってたんですけど、ある日上司から妙な居酒屋の話を聞かされたんですよ。なんでもそこで朝まで飲むと、世にも不思議な世界が見えてくるとかなんとかって。私も最初は意味わかんなかったんですけど……実際行ってみると、まあ、たしかに、なにか変な幻覚も見たような、見てないような」
「記憶が飛ぶまで飲んじゃったってこと?」
「まあそういうことです。それで結局、目が覚めたのが翌日のお昼で、その日の仕事は無断遅刻になっちゃったんですけど」
「えっなんで? 朝まで飲んでそのまま仕事行く気だったの?」
「それで起きたら、目の前にどえらい請求書の束が積まれてて。私はもう泣きながらマスターに謝り倒しましたよ。どうにか今回だけはってことでツケにしてもらって、かくなるうえは私に店を紹介した上司に責任とってお金貸してもらうしかないなって思って出社したんです。で、クビになりました」
「お酒飲むのやめな?」
 一応、少しだけ付け加えると、借金を断られた私が上司に割り箸を投げつけたなどという証言もあとから聞こえてきたのだが、あいにくそのような記憶はない。事実無根と考えられる。
「でも、その居酒屋はちょっと面白そうね」そう言って、宇佐見さんはコップを持ち上げた。「知ってる? お酒っていうのは昔から、異界との交信に利用されていたの。深く酔っぱらった人のうつろな目や尋常ならざる行動を見て、昔の人はそれを神憑りと思ったのね」
 急に話の流れが変わったのを感じ、私の頭は少しだけ覚めた。
「そんなのはただの迷信でしょう。今ではアルコールが脳に与える作用もはっきりと解明されてるし、そんな与太話を信じてる人なんていませんよ」
「もちろん、神憑りはただの化学反応よ。でもだからといって、それが人ならざるものの干渉とは無関係だと、どうして言い切れるかしら」
「なにを……」私は軽い頭痛を感じ始めた。
「そのお店には結界の切れ目があるのかもしれないわ。こっちの世界とあっちの世界の境界が薄くなって、揺らいでいる場所。そういう場所は不安定で、時には大きな危険をともなうの。あなたの身に降りかかった不運も、ひょっとしたらあっちの世界の――」
「やめてください!」私は持っていた瓶の底を激しく床に叩きつけた。「そんな理屈、あるはずがないでしょう」
 宇佐見さんはじっと私の目を覗き込み、なにかを探り出そうとしているようだ。
「こういう話は嫌いだった?」
「無意味ですよ。あるはずのない話なんだから。だいたいそんな理屈がまかり通ったら、この社会は終わりです」
 だんだん頭痛がひどくなってきた。指先の感覚がふわふわと鈍く、感情の制御も利かない。
 ゆっくりと回る視界の端に、黒い影が立っている。
 私はペットボトルの水をコップに注ぎ、目をつぶって飲み干した。
「……私は子供のときから、よく幻覚を見る体質でした」
 そう言って、そっと宇佐見さんの顔を窺った。黙って聞いてくれている。
 私は話を続けることにした。
「まだ七つか八つのころ、私には親友がいました。いつも黒い着物を着ている女の子で、名前は知らなかったけど、歳も同じくらいに見えたし、二人っきりで山の麓まで行っては毎日のように遊んでました。けれどある日、父にその子のことを話したら、真剣な顔をしてこう言われました。『この村にそんな子はいない。それはお前の脳が作り出した幻覚だ』。
 私が生まれ育った村は閉鎖的で、いまだに古臭い慣習が残っています。子どもに幼少期から酒を飲ませるのもそのひとつです。わたしは物心ついたときから毎晩コップ一杯のお酒を飲んでいましたが、それが国の法律を無視した行為だと知ったのも中学に上がってからでした。あそこではそれが普通だったので、今さら良いとか悪いとかは正直よくわかりません。
 医者だった父は私の顔を両手で掴むと、じっと私の目を見てきました。恐ろしい目でした。あの日の父の言葉は底冷えする寒さといっしょに、一言一句覚えています。『よく覚えておきなさい。この村では自分に理解できないことが起きたとき、魔法だとか妖怪だとか、今どき無学なことを言う輩がいるが、この文明社会に、そんなものが存在していいはずがない。お前が見たという黒い着物の女の子だってそうだ。わざわざ非科学的な仮定を持ち出さなくとも、アルコール幻覚症という病気で十分に説明できる。だから心配はいらないよ。この世にはもう、不思議なことなどなにも無い』。
 私は次の日からも今までどおりにお酒を飲みました。それでおかしなものが見えたとしても、ただのまやかしだと学んだからです。黒い着物の女の子もよく家の前に立っていましたが、一切取り合わずに無視していたら、いつの間にか現れなくなりました。
 今でも幻覚は日常的に見ています。でも、もう無視することに慣れました。存在しない偽物の世界のことなんて、いちいち気にするだけ無駄だとわかりましたから」
 私は水と酒を交互に飲んだ。頭痛はまだ引きそうにない。
「物理学者の宇佐見さんなら、わかってると思ってましたけど」
 言いたいだけ話したことで、感情の起伏は多少落ち着いた。
 そうしたら今度は今さらになって、自分が酔いに任せて散々失礼な発言をしていたことにも気が付いた。
 またやってしまった。人と飲むお酒はセーブしようと何度も誓ったはずだったのに。
 しかし、宇佐見さんの顔をおそるおそる見てみると、彼女は微塵も不快そうにしていなかった。それどころか、まるで面白い難問を見つけたときのように、わずかに頬を吊り上げて、どこか興奮しているようにすら見える。
 やっぱり、この人のことはわからない。
「その幻覚って、今も見えてるの? 今、この瞬間も?」宇佐見さんの目が怪しく光った。
「は、はい。たとえば……」私は存在するはずのないものを求めて、頭上の星空を仰ぎ見た。「ああ、あそこ。夜空におかしな模様が浮かんで見えますね」
「模様?」
「なんて言ったらいいのかな。ほら、漫画とかで出てくる魔法陣みたいな」
 それを聞いて、宇佐見さんはなにやら深く考え込んでしまった。
「だから、幻覚ですって。意味なんてないんですよ」
「その模様って、三角形を二つ重ねた形じゃない?」
 背筋がぞくっとした。
「これを見てほしいんだけど」
 宇佐見さんは携帯でなにかのページを開いてみせた。ここに持ち込める通信機器はスタンドアローンが原則なので、キャッシュを読み込んでいるのだろう。
「なんですか……『ビッグバン・オブザーバー』?」
 それは最近打ち上げられたと言っていた、第五世代の宇宙重力波望遠鏡だった。
 宇佐見さんは別の画面を開き、画面上に指で図を描きながら説明を始めた。
「地球上での重力波観測は真空パイプの中でレーザーを干渉させるんだけど、宇宙の場合はレーザーが剥き出しで使えるの。そのおかげで巨大な望遠鏡を簡単に構築できるし、サイズも数百万キロから数十センチまで自由自在に変えられる」
「はぁ」
「ビッグバン・オブザーバーの本体は全部で十二機の衛星。これらが三機ずつセットになって、互いを繋ぐようにレーザーを照射する。つまり、四つの三角形ができる」
 なにを言っているのかわからない。
 頭が痛い。
「それぞれの三角形は百二十度の間隔で太陽周回軌道上に配置される。そして四つの三角形のうちの二つは、同じ位置で重なって」宇佐見さんはスッスッと指を滑らせ、そして、あの模様を描き出した。「六芒星になる」
「あっははは‼︎」
 私は具合が悪いのも忘れて大笑いした。
「あー、おかしい。宇佐見さんってほんと面白い……。それがなんだっていうんですか。私の幻覚がほんとは幻覚じゃなくて、そのビッグバンなんとかのレーザーの軌跡を見てるって? あはは、ありえない」
 笑いすぎて涙が出てくるくらいだった。
 想像力が豊かなのは良いことだと思うけど、これでは想像を飛び越えて妄想だ。
 彼女みたいに頭が良すぎると、凡人には理解できない発想のアクロバットが生まれるんだな。こじつけではあるけれど、たしかに面白い冗談だった。
 笑い疲れてお酒を飲もうしたそのとき、コップを持ち上げた私の腕を宇佐見さんが掴んで止めた。
 私は呼吸が止まりそうになった。
「本当にありえない?」
 彼女の目は本気だった。
「私は知ってるわ。ほかの人と違う目。誰にも見えないものが見える目。そういう目の持ち主を私はよく知っている」
「て、手を放して……」
 ガンガンと頭痛が激しくなった。
 動悸もする。
「覚えてる? 私はさっき、『こういう話は嫌い?』って聞いたの。それなのにあなたの答えは、『無意味です』。あなたは答えているようで、答えていない」
 目が回る。
 まずい。
 なんでかはわからないけど、次に来る言葉がわかる。
 そうだ。この会話の、流れは、まずい。
「私にはわかる。あなただって、本当は――」
 頭が、割れるように、痛『あっちの世界が見たいんじゃないの?』

 それにしても大きな窓だ。
 景色が流れるように過ぎていく。
 あれ? 今のはお父さんの家かな。あ、今のは大学の学生寮だ。
 富士山は大きいな。
――地球外からのメッセージってことですよね?
 他の乗客の話し声が聞こえる。
――乗らないの?
 私なら、もう乗ってるよ。
――この地球のみを目標に発信されている。
――本当にありえない?
――この世にはもう、不思議なことなどなにも無い。
――そういう時はお酒でも飲んで考えるのをやめましょう?
――本当にありえない?
 ……静かになった。
 駅に着いたのかな。乗客が誰もいない。
 揺れがないから気付かなかった。
 窓の外の景色が消えた。なにか文字が浮かんでいたけど、また消えた。天井も床も真っ白になって消えた。
 霧。深い霧か。
 大きな湖だ。
 ここの自然は綺麗だな。人の手が入っていない。
 目の前には大きなお屋敷。どこか懐かしい、真っ赤なお屋敷。
 門をくぐると、どこまでも続く竹林だった。
 月明かりが冷たくて、土の感触が冷たくて、竹の表面が冷たくて、熱い、赤い、炎が揺れる。
 お祭りの提灯だ。
 子どもたちが横を走り抜けていった。
 見たことのない子どもたち。でも、なぜだかたまらなく愛おしい。
 なんでこんなに心が安らぐんだろう。
 子どもたちは手を繋いで駆けていき、祭囃子といっしょに笑っている。
 そうか。
 子どもがこんなふうに笑っているのを、私は今まで見たことがないんだ。
 誰かが私の袖を引いた。
 か弱い子どもの腕で、遠慮がちに引いた。
 なんとなく、誰かわかった。
 振り返れば。
 ただ振り返れば、そこに。
 そこに、今もあの黒い着物で、きっとあの子は、まだあのときのまま――。
「どうして存在しちゃいけないの?」

「はっ……‼︎」
 私は自分の声で目が覚めた。宇佐見さんと酒盛りをしていたはずが、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
 額にも背中にもびっしょりと汗をかいている。なにか嫌な夢でも見ていたのだろうか。
 思い出せない。
 体調はすっかり治っていたが、このままでは風邪をひいてしまう。
 とりあえず上半身を起こしてみたが、なにか妙だ。着ている服に覚えがない。薄水色のシンプルな寝巻き。これは医務室で使う病衣だ。
 部屋を仕切っていたカーテンが開かれ、いつも眠そうに仕事をしている医務室の先生が顔を出した。
「あー良かった、やっと起きたんですね。あら、すごい汗。着替えはそこのかごに、タオルは一番上の引き出しに入ってるので使ってください」
「すみません、私どれくらい寝てましたか? というか、なんで医務室に?」
 先生は眠たそうに目をこすりながら持っていたカルテを見た。
「丸一日と半日ほど寝てらっしゃいましたね。うらやま……いえなんでも。ここに連れてこられたのは宇佐見副所長です。いっしょにお酒を飲んでいたあなたが突然興奮して奇声を発し、かと思えば頭を押さえてうずくまり、今度はなにかぶつぶつと小さな声で独り言を繰り返し続けて、それからふっと気を失ってしまったということです。念のため簡単な検査をしましたけど、特に異常は見つかりませんでしたよ。お酒の飲みすぎでしょう。普通に」
 私は着替えを済ませ、医務室を出た。
 廊下にはほとんど人はいないが、管やら看板やらビニールシートやら、それに剥き出しの岩肌やらがごちゃごちゃしていて、寝起きの頭には情報量が多い。
 私はふわふわとおぼつかない足取りのまま地上の宿泊棟に向かった。
 また失敗してしまった。お酒は本当に減らそう。今度は本当に本当。
 宇佐見さん、どう思っているだろう。面倒なやつだと思っただろうな。私が宇佐見さんでもそう思うもの。
 でも、今回は宇佐見さんもおかしなことを言っていたような気がする。神憑りがどうとか、結界がどうとか。あれはいったいなんの話だったんだろう。
 考え事をしながら歩いていたせいで、曲がり角で人とぶつかってしまった。
「すみませ……あっ」
 立っていたのは玉造所長だった。
「君か。ちょうどいい」
「はい?」
 私は所長に連れられて近くの空き部屋に入った。今は使われていない倉庫で、古い紙の資料や小物が厚く埃をかぶっている。
 ついに来た。
 日頃の研究所への貢献度の低さに加えて今回の失態、十中八九クビだ。もっと貯金しておくんだった。
 心臓をバクバクさせている私の後ろで、所長はドアに鍵をかけた。
「君にひとつ、大事な仕事を頼みたい」
「はい、すぐに荷物をまとめて……仕事?」
 所長は部屋の隅のラックから小さなケースを手に取った。そのケースだけ、なぜか埃が積もっていなかった。
「先日、某国で重力波暗号が解読された。タイミングに鑑みて、我々のなかにスパイがいる可能性が高い」
「スパイ⁉︎」
「大きな声を出すな。君がそうでないことくらいわかっている。ここの職員のなかでも特に簡単に経歴が洗えたからな。そこで相談なんだが、君には研究者たちのなかで怪しい動きをする者がいないか、内側から見張ってほしい」
 そう言って、所長は私に銀色のケースを手渡した。「開けてくれ」
 中のものを見た瞬間、私は衝撃のあまりケースを取り落としそうになった。
「小型だが五発撃てる。使うときは親指の上にあるレバーを下げろ。かなり強く押さないと外せないから暴発の心配はない」
「こ、これ、その、スパイが見つかったら、私が……? な、なにを馬鹿なっ」
「大きな声を出すな」所長はぞっとするほど落ち着き払った声色で繰り返した。「ここで起きたことは罪に問われない。そういうレベルの問題なんだ」
 私は頭が真っ白になり、両腕でケースを突き返した。「無理です! できません!」
「そうか。残念だ」所長はスッと背広の裏に手を入れたかと思うと、黒光りする拳銃を私の眼前に突きつけた。「別の人間を探すよ」
「や、やります! やりますから!」
 私は反射的にそう言ってしまった。
 銃口はしばらく私に向いたままだった。やがて私が心底震え上がっているのを確認すると、所長はやっと銃を下ろした。
「助かるよ。まあ、そう心配するな。なにも君に殺せとまでは言ってない。もしものとき、標的が逃亡できないよう動きを止める程度で十分だ。そのあとはこちら側で処理をする。聞き出さなきゃならないこともあるからね」
 私は経験したことのない生命の危機に腰が抜け、その場にずるずるとへたり込んでしまった。
 所長は自分の銃の銃身を見つめたまま言った。
「ああ、それからもうひとつ。これは正真正銘、君にしか頼めない仕事だ」
「……なんですか?」
 所長の無機質な視線が私の両目を刺した。
「『科学を冒涜する者』たちも、発見次第報告してほしい」
「科学を冒涜する者?」私は聞き返すしかなかった。
「君がここへ来てから、〝結界〟というワードを聞いた覚えは?」
 私は一瞬本当のことを答えそうになったが、首を横に振った。
「結界? 何なんですか? それ」
「名前以外は知る必要も意味もない。それは存在してはいけないものだからね。それを追う者たちも、当然存在してはいけない人間だ」
 宇佐見さんのことだ。
 でも、どうして所長が宇佐見さんを?
 わからない。ここへ来てからというもの、わからないことが多すぎる。
 このままじゃだめだ。
 私は少しでも情報を得ようと、勇気を出して会話を繋いだ。
「そういう人を見つけたら、どうするんですか?」
 所長は手に持っている物をひらひらと振った。「社会のコンセンサスに従わない者はその社会で生きられない。当然の措置だ」
「その人たちがどんな罪を犯しているというんですか?」
 所長は少し言葉を止めた。どう説明すべきか悩んでいるのだろうか。
「この拳銃、どうやって動いている?」
「は?」
「私がこの引き金を引くことで、どこの金具が動き、どのスプリングが伸縮し、どのように雷管が叩かれ、どんなふうに君が死ぬのか。私はどれも興味がない。だが、引き金を引けば確実に弾が出る。それが科学の持つ力だ」所長はため息をついた。「やつらの行いがどんな罪かとか、正直私にはどうだっていい。しかしみんなが困るんだ。君だって困るだろう。もしも放り投げた石が空中で消えたら。飲もうとした酒が水になったら。目の前で脳みそを撃ち抜いてやったやつが、平気な顔をして起き上がったら……」
「そんなのは――」
「そう、科学への冒涜だ」所長は私が言おうとしたことを先に口にした。「二ヶ月前、君が言った言葉だ。やつらはそういう境界を平然と踏み越えようとする。我々が行っているのはむしろ、正当防衛と言っていい」
「でも、そんなことありえないじゃないですか」
 私は意味のわからない震えが止まらなかった。
 宇佐見さんの言葉も所長の言葉も、みんななにかがどこかおかしい。
 所長は私が握りしめていたケースの上にそっと自分の手を重ね、囁くようにこう言った。
「そう、ありえない。常識だ」

 私は喫煙室から出てきた船戸さんを捕まえ、外へ出る車を出してもらった。
 狭くて息の詰まりそうな坑道も、どこにいても絶えず聞こえる大きな換気音ももう耐えられない。今やこの施設のすべてが陰鬱の重毒を吐き出し、頭上に堆積する六五〇メートルの岩盤で私の心を圧し潰そうとしてくる。
 一刻も早く地上に戻りたかった。
「わりゃ、昨日の会議出なんだろ。どしたんか?」
 運転席の船戸さんがバックミラー越しに声をかけてきた。話す気分ではないが、無視するわけにもいかないので、適当に答えておいた。
「会議? あー、ちょっと。でも、どうせ私が聞いても意味のない話ばかりですから」
「そんなことあらすかよぉ! 今回はおりらの作っとるあのよったいな機械に、やっとでコードネームが付いたんやさぁ」
「コードネーム? あの機械に名前が付いたんですか?」
 私の興味が向いたと感じたのか、船戸さんはちらりと視線をくれた。
「そいな。真理の極みと書いて、その名も『真極』。なかなかええと思わんさ?」
「真理の極み、ですか」私はその大層な名前を口の中で繰り返した。「シンギョク……なるほど」
 そうして会話は途切れ、小さな走行音だけが延々と車内に響く。
 この二ヶ月の間、地上と研究所とを何度も行き来していた私は、船戸さんともそれなりに世間話をする仲になっていた。だから私の調子の違いもすぐにわかったのだろう。この老人はさりげなく、しかし確かな雰囲気で、私が欲していた言葉をかけてくれた。
「なにかあったんか?」
 堪えていた涙が出そうになった。
 ここの職員は程度の差はあれ、みんなどこか普通と違う空気を吸って生きている。上に立つ所長からしてあんなことを平気で言うし、研究者たちは取り憑かれたようにあの機械――シンギョクの存在に魅せられてやまない。
 唯一、宇佐見さんだけは尊敬しているつもりだった。それでもときどき、彼女がどうしようもなく別の世界の人間だと感じてしまうことがある。
 こんなふうに寄り添われたのは、いつ以来だろう。
 船戸さんはシンギョク計画以前からここで働いている職員だ。さまざまな意味で、今私が心から信用できるのはこの人しかいないのかもしれない。
 所長は私を買い被っていた。この仕事は、私一人だけでは背負えない。
 私は船戸さんの大きな背中に、スパイの件を打ち明けた。
「そんな……たいていでねぇ」
 船戸さんの表情はよく見えないが、大きく動揺しているのは声色でわかった。人の生き死ににも関わる話だ。私は彼に、自分と同じ心労を背負わせてしまったのだ。
 けれど船戸さんはそんな私に、諭すように声をかけ続けてくれた。
「だしかんよぉ。嬢ちゃんはそんなことせんでええ。せんならんなら、おりがやるさぁ?」
「人を殺すとかは、考えてません。もちろん船戸さんにもしてほしくない。でも、スパイ探しは私が任された仕事だから。私がここにいるために、私がやらなきゃいけないことなんです」
「……そやけど」
「ありがとうございます。聞いてもらえたおかげで元気が出ました。もう平気です。だから勝手なことを言うようですけど、今の話は全部、忘れてください」
 元気が出たのは本当だった。自分一人で抱え込むのと、秘密を共有できる仲間がいるのとでは、心の重みがまったく違う。今は頭の中が整理され、ずいぶん前向きに任務を捉えることができるようになっていた。
 ただ、すべての秘密を打ち明けたわけではなかった。『科学を冒涜する者』の話だけは、船戸さんにもしていない。
 この話ができるのは、この話の意味を理解できるのは、私の知るなかで一人だけ。
 私は宇佐見さんとも、なにかを共有したかった。
 坑道の奥に光が見えた。外の光だ。丸一日と半日寝ていたと言っていたから、今はもう昼なのか。
 私は船戸さんにもう一度丁寧にお礼を言ってから、坑道の出口に向かって駆けだした。
 陽の光が強くなっていく。眩しくて、暖かくて、広々とした外の世界へ。
 あともう少しで出口というとき、逆光のなかに人影が見えた。
 宇佐見さんだ。
 ちょうどいい。宇佐見さんに昨日……いや、一昨日のことを謝って、もちろんお礼も言って、そしてそれとなく、例の件についても話してみよう。
 ひょっとすると、ほかに話せる相手がいないのは宇佐見さんだって同じかもしれない。結界だとかなんだとかの話をしたのは、あくまでお酒に酔った勢いだった。彼女が普段からそういう考えに傾倒していたとしても、あのとき偶然話してしまった私以外に、なかなかそんな話題は振れないだろう。
 もちろん、彼女の理論はナンセンスとしか言いようがない。だけど私なら、それを笑いながら聞いてあげられる。私たちはあのときにもう、ほかの誰からも理解されない酒の肴を共有していたんだ。
「宇佐見さ……」
 そばに駆け寄ろうとした私は、すぐに足を止めた。
 誰かと電話をしているようだったから。
「――そうなの。私一人で見つけたのよ、結界の切れ目らしきものを。それも二つも! おまけに一方は、たぶん私一人でどうにかできるかもしれないの。……うん。そう。いつもの結界じゃないわ。まさにそういうタイプ。たまにはこういうのもアリじゃない? メリーには帰ってからいっぱい話すから。……うん、うん!」
 私はなにも言わず振り返ると、そのまま元来た道を歩き出した。
 太陽は西に傾き、光線の角度が変わる。トンネルの奥のほうから白と黒との境界が、私の足下をすれ違う。

 基本単位構造物の量産体制が整うと、シンギョクの構築は加速度的に進行した。
 シンギョクは現在、甲、乙と仮称される二本の柱状構造物に、丙、丁、戊、己と呼ばれる四つの巨大な箱状機械、そして〝玉(ぎょく)〟と名付けられた直径五十センチほどの真球状物体の、計七部位から構成されている。
 丙、丁、戊、己の四つが比較的洗練された精密機器のような見た目をしている反面、甲、乙の外観は筆舌に尽くしがたい。この二つの柱は人の背丈ほどの高さを持ち、数秒に一度、軽く脈打つ。表面の色は場所によって一定ではない。全体的に赤や黄色が多いが、ときどき灰色の斑点や白いスジ状の部分もある。宇佐見さんの危惧したとおり、これらは生物の筋肉や脂肪にほど近い組成だった。
 甲、乙の建造は数ヶ月前に完了しており、現在この肉柱は、もはや我々の理解の外で自発的成長を開始している。表面から分泌されるひどい悪臭の赤黒い粘液を廃棄する作業は、私の毎週の業務内容に追加された。
 そして、玉。宇佐見さんいわく、これこそがシンギョクの心臓部であり、司令塔にあたるパーツらしい。玉の下部からはごちゃごちゃとした配線が四方八方に伸び広がり、まるでほかの六つのパーツを支配するかのようにそれぞれ繋ぎ合わせている。
 玉には不思議な模様があった。片方は赤、もう片方は半透明の勾玉が立体的に組み合わさったような、奇妙な調和のとれた美しい模様。二次元に投影するとしたら、道教のシンボル、陰陽太極図のように描けるだろう。
 そんなシンギョクの完成が近付くにつれ、研究所メインホールの奥に近寄る人間は目に見えて減った。誰も口に出さなかったが、その原因となった感情は明らかに、あのグロテスクな生体機械に対する血なまぐさい畏怖だった。自分たちが作っていたものは何なのか。こんなものが完成したところで、我々は本当に益を得るのか。夢うつつで働いていた彼らもようやく目を覚ましはじめたのだろう。
 しかし、すべては手遅れだった。
 シンギョク計画発足から二年後の冬、あの運命の夜が訪れる。

「それではみなさん! シンギョク建造のとりあえずの完了と、遊戯室のマッサージチェア新調を祝して……乾杯!」
「乾杯!」
 私はその日もいつもと同じく、畳張りの地下宴会場で乾杯の音頭をとっていた。
 二年。思えば長かった。住めば都というのは案外本当で、今では私も同僚たちもすっかり地底人が板についている。
 しかし寂しいかな、嬉しいかな。そんな生活も近々終わりが来るかもしれない。なぜなら本日昼過ぎ、メインホールの片隅で休むことなく働き続けた一台のロボットアームが、ついにあのアホみたいに長い設計図が指示する最後の部品をシンギョクに組み込んだからだ。
 我々はどの国よりも早くあの信号を形にすることに成功した。今後このチームが解体、もしくは縮小されるのか、引き続きシンギョクの機能解析を続けることになるのか、おそらくは明日の会議で決まるだろう。だったら今やることはひとつ。飲むしかない。
 ということで、私は宇佐見副所長以下数十名の同僚を招いて、「極秘計画完遂超お疲れ様パーティー」を開催したというわけだ。
「宇佐見さ〜ん。ほんとはシンギョクの使い道、わかっちゃってるんじゃないの〜?」
「うわっ。もうそんなに出来上がって。またぶっ倒れても知らないわよ」
「……まあまあ。そんないじわる言わずに」
 宇佐見さんはほんのりと顔を赤らめながら、お猪口の底の丸模様がふわふわと波打つのを眺めていた。そんなカラス除けみたいなのを眺めて、なにが楽しいんだろうか。
「そうねえ。断片的になら、多少わかる部分もあるけど」
「ほうほう?」
「まずあのゴジラみたいにでっかい四つ……丙丁戊己。あれには掘削能力があるみたい」
「掘削? 穴掘りですか」
「そうそう。しかも超小型の反物質ファクトリーも兼ねてるっぽいよ」
「ふむふむ。反物質……反物質ファクトリー⁉︎」
 私の酔いが一瞬で吹き飛んだ。
「構造の雰囲気からの推測だけど、たぶんあの中に周囲の物質を取り込んで、自律的に反物質を生成できるんじゃないかなぁ。あれひとつでノーベル賞が二・七個くらい貰えると思うよ」
「そういうことじゃなくて。そんなもの稼働させたら、この研究所が吹っ飛ぶんじゃないですか⁉︎」
「むしろ二十五山ごと弾け飛ぶわね。まあ、それは大丈夫でしょ。磁場制御機構らしきものもちゃんとあったし、少なくともこの場で自爆するタイプではないと思うよ」
「だといいんですけど」
「玉は前に言ったとおり、全体を統制する中枢器官。甲乙は……わかんないわね」
「やっぱり、宇佐見さんでもわからないんですか」
 宇佐見さんはくいっとお酒をあおると、ぼんやりとしているような、どこか遠いところを見ているような目になった。
「……言っても伝わらないだろうけど、私なりの推論ならあるわ」
「えっ?」
「知ってる? 日本の神様って、ひと柱、ふた柱って数えるらしいの。私にはあの肉の柱が、なにかそういったものを勧請するための――」
 そのとき、宴会場を叩き壊すような爆音と揺れが起こった。
「地震⁉︎」
「卓の下に入れ!」
 部屋の中は一瞬にしてパニックに陥った。今まで経験したこともないほどの揺れが延々と続き、天井からはぼろぼろと埃が落ちてくる。頭上には何百メートルもの岩盤層。崩落すればすべてが終わる。
「落ち着いてください!」私は卓の下で声を張り上げた。「この一帯の飛騨片麻岩は堅固です! 崩落は起こりません!」
 実際に確証があるわけではなかったが、今はみんなを落ち着かせることが先決だった。
 揺れは一向に収まらない。いくらなんでも長すぎる。あまりにも長く揺れ続けるため、この振動の正体がただの地震ではないと勘付く人も現れはじめた。
「この揺れ……シンギョクがなにかしたんじゃないか?」
 依然揺れ続ける部屋の中で、数名の研究員たちは卓の下から出て立ち上がっていた。ここで震えているばかりでは解決しそうにないと各々直感しているようだ。
「私はメインホールに向かいます! 動ける人はついてきてください!」
 宇佐見さんの声に何人かが続いた。私はどうするか迷ったあげく、一度は再び卓の下に戻ろうとした。
 しかしそのとき、背中側に隠していた硬いものが卓の天板に引っかかった。それは二年前のあの日以降、自分の役目として持ち歩いていた所長からの支給品だった。
 あれからスパイは見つかっていない。この非常事態、私がスパイならどうするだろう。――間違いなく動く。そいつは今、この瞬間、シンギョクの様子を確認するためメインホールに向かっているはず。
 ホールに行こうと言い出したのは誰か。
 宇佐見蓮子。
 私は今にも破裂するんじゃないかという心臓の鼓動をなんとか深呼吸で落ち着かせ、彼らに続いて立ち上がった。
 メインホールに到着すると、みんなの予感は的中していた。
 非常電源に切り替わった薄暗いホールの奥、シンギョクの四基のユニットが姿を消して、それらが元あった場所に巨大な穴を穿っている。最初のひときわ大きな衝撃は、掘削能力を持つという丙丁戊己がホールの床をぶち抜いたときのものだろう。
 揺れは多少小さくなったが、まだまっすぐ立つのに苦労する。シンギョクは今も私たちの足下を掘り進んでいるようだ。
「なにがどうなってんだ……」
「誰かシンギョクを起動したのか⁉︎」
「起動もなにも、どうやって動かすのかすらわかってなかったんだよ」
「なんで地下なんて掘りはじめた? なんで……」
 そのとき、一人の研究員が私を見て、なぜかハッとしたような顔をした。
「お前たしか……IFREE(地球内部ダイナミクス領域)出身だったよな?」その声を聞いて思い出した。二年前、最初の顔合わせで嫌味を言ってきたあの眼鏡男だ。「さっきの宴会場でも岩盤の性質に詳しかっただろう。この状況、なにか思い当たることはないのか?」
 たくさんの目がこっちを向いた。
 いきなりそんなこと言われたって、なにも思い付くわけないじゃないの!
 なにか言わなくては。錆びついた知識に油をさして、どうにか今わかりそうな情報を整理する。
「まず、この辺りの地殻は三十キロほどの厚さがあります。真下に掘り進んでるとして、未知のテクノロジーが推進力だとしても、まだかなり表層にいることは間違いない……と思います」
「わかった!」誰かが叫んだ。「宇宙人は地下資源を狙ってるんだ。幹事の姉ちゃん、地球のもっと地下深くにはなにがある?」
「えーっと、地殻より下のマントルにはかんらん岩――ペリドットが多いですけど、宇宙人がそんなもの欲しがるとは思えないし。マントルの下はもう液体金属の外核で、あとは地球の中心、内核くらいしか……」
「浅間さん」
 静かなはずのその声は、地響きの鳴り続けるこのホールにあって驚くほどクリアに響いた。
 混乱していた研究員たちをも一瞬にして黙らせてしまう奇妙な迫力。
 私の名を呼んだこの研究所の副所長、宇佐見蓮子は奇怪なほどに冷静だった。
「外核の密度と粘度、内核の総質量は?」
 私は即座に答えた。
「それぞれ概算で十〜十二グラム毎立方センチ、〇・〇一パスカル秒、一・〇一かける十の二十乗トン」
「ナイス」宇佐見さんは少女のように微笑した。「誰か、そこのコンピュータでビッグバン・オブザーバーが拾ったデシヘルツ帯の重力波データを。例のノイズ除去プログラムも当ててみて!」
 再び慌ただしくなったホールに玉造所長もやってきた。所長はシンギョクのそばの大穴を見てすぐに事態を飲み込んだらしく、指揮をとっている宇佐見さんにずかずかと詰め寄った。
「なにが起きている? これは異星文明の侵略なのか?」
「異星文明? そうであるとも、そうでないとも言えるわね」
「真相を掴んだな?」所長は拳銃を取り出し、宇佐見さんに突きつけた。「言え! シンギョクとはなんだ!」
「言われなくても説明するとこなんだけど……」
 コンピュータを触っていた研究員が声を上げた。「副所長! 信号の抽出完了しました!」
「オッケー。最後は同時刻のほかのデータと並べて、メインモニターに出して」
 唸るような地響きにキーボードを叩く快音が混ざり、ホールの壁に埋め込まれた大型モニターが起動した。
 そこに映し出された三本の波形。
 数秒後、誰かがぽつりと呟いた。
「遅れてる」
 研究員たちが驚愕の表情で顔を見合わせ、そして口々に同じことを言い出した。
「なんでだ⁉︎ ビッグバン・オブザーバーの波形がほかの望遠鏡より遅れている‼︎」
 私はゆっくりとモニターから視線を下ろし、宇佐見さんの顔を見ようとした。
 その表情はモニターからの逆光でわからなかった。しかし、私には肌が粟立つほどひしひしと伝わってくる。
 底知れぬ好奇心と悪魔のような頭脳の持ち主、宇佐見蓮子。私の知る彼女なら、逆光に隠れたそれは焦りでも困惑でもない。
 正体不明を暴いた愉楽。彼女は今、笑っているのだ。
「そう、遅れている。宇宙に浮かぶビッグバン・オブザーバーは、地球上の望遠鏡よりも〝早く〟信号をキャッチするはずなのに。……これで謎は解けたわね」宇佐見さんは私たちの足元を指さし、言った。「重力波源は上じゃない。下よ。私たちの住んでいる、この地球の中心だったんだわ」
 ホールから声が失われ、地響きがよりいっそう大きく感じられた。
 すべての原因が、地球?
 たしかに、それなら説明はつく。発せられた信号が地球上で同時にキャッチされたのも、はるか上空に浮かぶビッグバン・オブザーバーが遅れて感知したことも。
 しかし、そんなはずはない。
 単純すぎる。
「ありえませんよ」当然、反駁する者が現れた。「釈迦に説法ですが、重力波というのは膨大な質量が超高速で加速度運動するときに生じるものです。もし地球の中心でそんなとんでもない現象が起こっていれば、一瞬で木っ端微塵ですよ」
「あなたが考えてるのは通常の観測イベントでしょ? たしかに、検出されるほど大きな重力波はそうそう発生するものじゃない。だから自然と、観測できるのは連星合体のような何億光年も離れたところでの超大規模天体イベントに限られる。だけど考えてみて。重力波の振幅は進んだ距離に反比例するの。つまり波源と観測機が近ければ近いほど、より小規模なイベントでも観測できる可能性は上がるはず。加えて、重力波望遠鏡の感度が最大になるのは真上方向だけじゃない。真下もなのよ」
 まだだ。まだ誰も納得できていない。
 素人の私でもわかる。この仮説は致命的な穴が埋まっていない。
「だからって、地球でなにができるっていうんですか。その辺の岩を振り回す程度じゃ話にもならない」
「地球内部で起こせる可能な限り巨大な質量運動なら、さっき見つかったわ」宇佐見さんは私のほうを見て言った。「液体の外核に浮かぶ巨大な金属の塊を、反物質の対消滅みたいな高エネルギーで思いっきり弾いたら……。かなり際どい計算だけど、超統一のブレークスルーを経た第四世代の観測技術なら可能性はある」
「いや、違う。そうじゃない。百歩譲ってそれが可能でも、問題の本質はそんなところじゃない。非論理的だ! 地球の内部で反物質爆弾? いくら小規模といっても、発生する重力波を何十桁も上回るエネルギーが地表に放出されているはずでしょう。ほかに物理的な影響をいっさい与えず、重力波だけが無から湧き出すなんて……」そこまで言って、彼は突然、電源が落ちたように口籠った。「重力……だけが…………伝播する?」
 ほかにも何人かが顔を上げた。ある者は隣と囁き合い、またある者は口を押さえて考え込む。
 彼らは全員、物理学者だった。
「重力は特別な力よ。私たちの住むブレーンに囚われず、自由に別のブレーンへ渡り歩ける唯一の存在」宇佐見さんは背後のモニターを指さして言った。「この信号ってさ、別のブレーンワールドから送られてきたんじゃない?」
 ホールは混乱の渦に叩き落とされた。
 別のブレーンワールド? それはこの宇宙とは違うものなの?
 異星人どころじゃなくて、異世界からの信号だとでも?
「待ってくれ。整理させてくれ」誰かが目頭を押さえながら手を挙げて言った。「ブレーン理論は実証されてないことが多すぎる。副所長の理論だと、重力波源の位置は我々の地球と同期していることになるのか?」
「そうなるわね」
「つまりそのブレーンワールドは、我々の世界とそっくり同じで、太陽があって、地球があって、こっちの世界と同じ三次元座標上に重なり合っている?」
「まったくの新説だけど、現実がそう示している」
「重力波を発信しているのは、並行世界――パラレルワールドに住む地球人だ、と?」
 宇佐見さんはその言葉を聞くと、シンギョクの中枢――玉のそばまで歩いていった。
「ほぼ合ってる。けど、発信者が並行世界人だというのはちょっと違う」宇佐見さんは玉を眺め、にこやかにこう言った。「発信者はこの子の母親よ。ん? どっちかっていうと父親なのかな」
「この子? この子とは、誰です?」
「シンギョクよ」
 宇佐見さんは当然のようにそう言った。
「玉造所長」急に名前を呼ばれた所長は少し身構えたように見えた。「さっき私に、シンギョクとはなにかと問いましたよね。答えましょう。この子は我々と同じ、れっきとした生き物です」
「生き物だと?」玉造所長は顰めっ面をさらに顰めて、眉間の皺が溝になった。「こんな配線の塊がか?」
「あなたは母親の一人ですよ、玉造所長。ここにいる私たち全員がこの子の母親です。あの信号は私たちへのメッセージなんかじゃなかった。設計図でも、仕様書でもない。あれはこの子にとってのDNAそのものなんです。この生き物はバルクを渡り歩くんです。惑星で生まれ、地下に潜り、その星のコアを揺さぶることでDNAをばら撒いて、別のブレーンワールドの先住民に自らの複製を作らせると、子はまたその星のコアに巣くう。まるで鳥に食べられた果実の種子が川を超えて広がるように、この子たちはブレーンワールドを飛び越えながら生息域を広げている。そういう種類の生き物なんですよ」
 宇佐見さんの理論はとても信じられるものではなかったが、論理的に反論できる者もいなかった。
 誰もがただただ、驚嘆していた。
「はじめに違和感を抱いたのは、信号がM理論で書かれていると気付いたときね。あの書き方こそ、物理定数の違う別の宇宙に届くことまで想定している証拠だった」
 専門的な話は正直よくわからない。けれど、この奇妙な玉が生き物だという結論は、なぜか不思議とすんなり腑に落ちた。
 この子を造る遺伝子は、私たちのまったく知らない世界から、遠い旅路を越えてやってきたということだ。そう思うと、この妙な模様の球体もなんだかかわいらしい動物に見えてきた。
 この子は私たちの手でこの世界に産まれ落ち、そしてまた次の世界へと、種子を繋いでいくんだな。
 そうかそうか。
 ……えっ?
「あのー、宇佐見さん」私はおずおずと声をかけた。
「なに? どうかした?」
「私の理解が正しければ、シンギョクはまた次の世界へ向けて重力波を発信するんですよね?」
「そうそう。そういうことになるの」
「ってことは、この地球のコアが大変なことになるんじゃ……?」
 メインホールが静まり返った。
「……そうかも」
 メインホールが騒乱に包まれた。
「早くシンギョクを停止させろ!」
「停止って、どうやって!」
 パニックになった群衆の一部が私にまで説明を求める。
「大変なことって、具体的にどうなる⁉︎ ここは安全なのか⁉︎」
「えぇっ、あの、本当に内核が揺さぶられるようなことがあったら、地球ダイナモが狂って地磁気が消えて……もちろん地震もめちゃくちゃ起こるし、オントンジャワ級の海底火山……、いやそれより先に、マグマ溜まりをぶち抜いたらこの穴を、たしかキンバリーでは音速のマグマが!」
「あぁもう具体的じゃなくていい! 結果的にどうなるんだ⁉︎」
「あぁもうはこっちのセリフ! 人類は滅亡します‼︎」
「な……なんだって――⁉︎」
 不毛な私たちのことなど視界に入れず、宇佐見さんや所長は冷静に次の対応を考えていた。
「コードはすべて抜けていますが、玉からの統御信号はまだ繋がっているはずです。司令塔の玉さえ破壊すれば、掘削ユニットも止まるはず」
「私がやろう」所長が銃を構えた。
「模様の丸い部分を狙ってください。あそこなら簡単に貫けます」
 玉造所長はなんの躊躇もなく引き金を引いた。初めて聞く本物の発砲音に、私たちは思わず身を縮こまらせる。
 しかし、シンギョクには傷ひとつ付かなかった。
「下手くそ! 全部奥の床に当たってるじゃないの!」
「い、いや、そんなはずは……」
「俺がやりますよ!」そう言って、一人の職員が玉の台座まで歩いていった。「おらっ!」
 男は右足を高く持ち上げ、そのまま玉の丸い模様を目掛けて思いっきり踏み抜いた。
 ――私は今も、そのときの光景が目に焼き付いて離れない。
 それはありえない現象だった。あってはならないことだった。
 男はシンギョクに触れることすらできていない。触れる直前、男の足先は空中に張ったワイヤーで切り裂かれたかのようにスッパリと姿を消して、その消えた腿から下は、シンギョクを挟んだ反対側の床を勢いよく踏みしめていた。
「……は?」男は最初、なにが起きたかわからずに口を半分開けていた。しかしシンギョクにめり込むような形で消えている自分の脚を確認すると、すぐに顔中から冷や汗を吹き出し、そして絶叫した。
「うわああぁっ! 足がっ! 俺の足っ!」
 男は倒れ込んだ拍子に床で背中を強打して、恐怖と混乱と呼吸困難で今にも死にそうになっている。
「お、落ち着け。足なら……大丈夫みたいだ」
 それはさらに奇怪だった。どう見ても切断されていたはずの男の足がすでに元通りにくっついており、血も出ていなければ、ズボンすら破れていない。
 別の職員がおそるおそる玉の表面に手を近づけた。
 しかし、やはりその指は玉に触れることができない。指先が空中で消え、玉の反対側のなにもない空間から、生えるように飛び出しているのだ。
 私はこれまでにない悪寒を感じた。
 これは、違う。
 この研究所に来てから今まで、非常識なことの連続だった。宇宙人からのメッセージだとか、某国のスパイだとか、拳銃だとか、シンギョクだとか、別のブレーンワールドだとか。
 でも、今回のは違う。
 今までに起きた出来事は納得することができた。論理的な説明が可能だった。
 この現象は論理的に解釈できるのか? 科学の力で説明できる?
 もし、それが不可能だというのであれば、私は、あの仕事をしないといけない。取り柄のない私が生きるには、与えられた役割を果たさなくては。
 ありえないものは、存在してはいけないから――。
「すごいわ……本物の結界が張られてる」
 珍しく驚きを滲ませる宇佐見さんの感嘆が、遠のいていた私の意識を呼び戻した。
 ケッカイ? 決壊……あぁ。〝結界〟だ。
「宇佐見蓮子」所長が拳銃の狙いを宇佐見さんに変えた。「やはり目的は結界暴きか」
「なに? 所長そっちの人? 今どう考えてもそれどころじゃないでしょ。社会の秩序と世界の滅亡、どっちが大事です?」
「物事には踏むべきプロセスがある。貴様ら科学を冒涜する者どもの力は必要ない。このシンギョクの位相欠陥は我々政府が、厳正なる科学の文脈に則ったうえで処理を行う」
「ただの言葉遊びじゃない。観測された事象に説明を与えるのが科学でしょう? 人類が失敗と挫折の果てにようやく完璧に見える理論を手に入れたからって、それにそぐわない事象のほうを排除するだなんて、それこそ科学への冒涜じゃないかしら」
「……私ではなく、もっと上の連中に言うんだな」
 所長の腕に力がこもるのがわかった。
「待ってください!」私はほとんど無意識に声を上げてしまっていた。「シンギョクの掘削能力は未知数です。いつ致命的な深度に達してもおかしくない。すぐにでもここが崩落する可能性だってあるし、それ以前に空気供給管が破損するだけでも……。つまり、その、今は一刻を争う状況なんじゃないでしょうか」
 吐き気がするような沈黙。
 所長はいつもの冷めた瞳で、黙って私のことを睨み続ける。
 ちょうどそのときタイミング良く、大きめの振動がホールを襲った。
 所長は天を見上げ、消灯された真っ黒な天井をじっと眺めた。そして静かに目をつぶり、三秒ほど考えてから、ようやく重い口を開いた。
「宇佐見副所長。早急な解決が可能か?」
「少なくとも、あなたたちよりは場数も踏んでる」
 その言葉に所長は小さくため息をつき、ようやく構えていた銃を下ろした。「急いでやれ。ここにあるどの設備を使っても構わん」
「じゃあ、所長の携帯貸してください」
「携帯?」所長は面食らったような声を出した。
「ここで回線繋げるの、所長の携帯だけでしょ? ほら、こっちは急いでるんだから」
「あ、あぁ……」
 所長はしぶしぶではあるが、言われたとおりに携帯を手渡した。
 なにかが始まる。ここから先は、もはや誰にも想像のつかない領域に突入してしまう。
 それは恐ろしい予感だった。
 宇佐見さんが不敵に笑った。
「――もしもしメリー? 私よ私。いや違うって。詐欺じゃないから切ら、切らないで! ほんとに!」
 その場にいた全員があっけに取られた。
 この人はこんな切迫した状況で、いったいなんの電話をかけているんだ?
「急ぎのお願いがあるの。それが今すぐなんだけどさ。メリーって、遠隔で結界破ったりできる? ……いやできるって。絶対できるはずだから! メリーだけが頼りなの! ほら、物は試しで……正確な距離と方角?」
 宇佐見さんはふっと黙ったかと思うと、突然私に向けて呼びかけた。
「浅間さん! 例の天井の仕掛け動かして!」
「天井って……アレのことですか? なんでこんなときに?」
「いいから急いで! 電気が止まったらまずいから!」
 ぐらぐらと不安定に揺れ続けるホールを小走りで横切り、壁際に詰め込まれたデバイスを起動した。幸い、非常電源でも問題なく使えるようだ。
「起動します!」
 私が最後のボタンを押すと、天井のドームモニターに一面の星空が映し出された。
 どこまでも遠く澄んだ、雲ひとつない冬の空。
 そして、その頂点に輝く黄金の月――。
「36.369128, 137.320643! 地表から約六五〇メートル!」
 そう電話口に叫んだかと思うと、今度はきょろきょろと辺りを見回した。
「あとはあれよね。結界を破るには……あっ、お爺ちゃん! ちょうど良かった!」
 振り向くと、私たちの後ろに杖をついた船戸さんが立っていた。こんな危険な場所へいつの間に到着したのか、私はまったく気付かなかった。
「こんなとこにいちゃ危ないですよ! 早く……」みんなのいる宴会場へ、と言いそうになったが、今移動するのは逆に危険だ。とりあえず、私は船戸さんのそばに行って付き添っていることにした。
 そうこうしている私たちに、宇佐見さんが大きな声で指示を飛ばす。「浅間さん! 杖をこっちに投げて!」
「杖? 船戸さんのですか⁉︎」
「いいから早く!」
「でも……」
 この人には杖がないと。
 つい躊躇してしまう私に、船戸さんは自分から持っていた杖を手渡した。
「おりゃぁ大丈夫やさぁ。なにに使うかぁわからんけど、あの人ならあんばようやってくれるやろう」
 私は支えを失った船戸さんに肩を貸しながら、片手で杖を放り投げた。うまく空中でキャッチした宇佐見さんは、なにやら杖の様子をまじまじと観察している。
「……大楢? 榎が良かったなぁ」再び電話口に話しかける。「座標計算終わった? こっちも準備完了!」
 宇佐見さんは左肩と頰の間に携帯を挟み、両手でしっかりと杖を握った。
「いい? 三つ数えたらね」
 いよいよだ。
 固唾を飲んで見守る私たちの視線の先で、宇佐見さんが高々と杖を掲げた。
 カウントダウンが開始する。
「さん……にい……いち……っ!」
 そして、〝それ〟は現れた。
 宇佐見さんが渾身の力で杖を振り下ろすまさにその瞬間、南西の方角からものすごい勢いでやってきたなにかが私の体を突き抜けて、この巨大な空洞を見えない力で包み込んだ。
 まるで透明な寒天のなかに取り込まれたような感触だった。誰かが押さえているわけでもないのに指一本動かせない。瞬きも、呼吸すらも許されないと錯覚する圧倒的な実在感。脳髄が拒絶反応を起こし、身体中の細胞が沸騰するような一瞬の苦悶の内に、私はひとつだけ、確かなことを理解した。
 ――あぁ、『メリー』が来たんだわ。
「ゼロ‼︎」
 ガチャン‼︎ という破壊音とともに、シンギョクに杖が突き立てられた。
 表面のガラス部分を深々と貫かれたシンギョクが、中から真っ赤な液体と紫色の火花を飛び散らせながら、コンピュータがシャットダウンするときのような唸り声を響かせる。
 これがこの生き物の、シンギョクの、死。
 私たちは、玉のかたわらに立つ二本の柱の脈動が、ゆっくりと、ゆるやかに衰えてゆくさまを、ただ黙って見届けた。それはこの二年間、シンギョクとここにいる全員を固く結びつけていた、愛着とも畏怖ともつかない、奇妙で複雑な関係性の結果だった。
 やがて、シンギョクのすべての活動が停止した。
 二十五山の地下研究所に、久方ぶりの静寂が訪れたのだった。
「……揺れが……止まった!」
 そのとき上げられた歓声は、さっきまでの地響きを吹き飛ばして余りある、爆発のような活気と喜びに満ち溢れていた。
「やったああぁ‼︎」
「生きてる! 助かった‼︎」
 メインホールのあちこちで人々が泣き崩れ、握手や熱い抱擁が交わされた。あの冷血漢のような所長でさえ、今だけは口元にほんのり笑みを浮かべている。
「いやぁ、嬢ちゃんもよしたなぁ!」船戸さんが私の肩をぽんと叩いた。
 私は微笑んで、拳銃を抜いた。
「まだですよ」歓声にかき消されないよう、腹の底から声を出す。「まだ終わってません‼︎」
 不思議そうな目線が寄せられる。そして彼らは、私の次の行動に悲鳴を上げた。
 私が宇佐見さんに拳銃を向けたから。
「あなたですよね? 某国に情報を流してたスパイって」
「えっ? スパイ? なんの話?」宇佐見さんはとぼけているのか、目をぱちくりさせて聞いてきた。
「思えば最初から怪しかったんです。あの難解な暗号を一瞬で解読できたのもそう、シンギョクの異変に真っ先に駆けつけようとしたのもそう。知ってるんですよ。宇佐見さんがメリーっていう名前の怪しげな外国人と、いっつも連絡を取り合ってたこと。本当は元からいろんなことを知っていて、この国の設備だけをうまいこと利用したかったんじゃないんですか?」
「はぁ……⁇」
 私は拳銃を両手で構えた。「所長! そうですよね⁉︎」
「銃を向ける相手としては正しい。が、理由が違う」所長が拳銃を構え直す。「本当のスパイはこいつだからな」
 そう言って、所長が銃口を向けた先は。
「……えっ⁉︎ 私⁉︎」
「違う! お前の後ろの爺さんだ!」
 宇佐見さんに向けていたはずの銃が右手ごと捻りあげられ、その銃口は私のこめかみに当てられた。
 私の体を盾にするように所長のほうへ向けながら、船戸さんは慣れた手つきで銃の安全装置を外した。
「所長さん、おりゃぁなんのことやら……」
「言ってることと行動が違うぞ」
 老人とは思えない握力。まったく抵抗することができない。目と首の動きでどうにか後ろの様子を見ると、船戸さんはしゃっきりと背筋を伸ばし、まるで別人のように冷ややかな笑みを浮かべている。瞳に宿る薄暗い光の種類はどこか所長にも近い。
 全身の震えも止められず、私は涙声で一言、こう尋ねる以外できなかった。「なんで……?」
 所長はぴたりと定めた銃の狙いを片時も離さぬまま語り始めた。
「その爺さんは日本人じゃない。五十年以上前から密入国していた産業スパイだ。神岡鉱山の重要施設はここ以外にもいくらでもあるからな」
 背後から声がする。「よわったなぁ。なんでバレたんやろ」
「私がそこの職員にスパイの調査を言いつけた直後、逆に相手の国でもスパイ探しの尋問が始まったという報告があった。我々に情報が漏れているという事実が向こうに漏れたということだ」
「ややこしいなぁ」
「我々がスパイの存在に気付いたことをあの時点で知っていたのは、そこにいる浅間くんと、彼女が重圧に耐えかねてべらべらと喋った爺さん、あんただけだ」
「待って、なんで私が喋ったってこと……」私の背筋をぞわぞわとした不快感が駆け上がる。「まさか、盗聴?」
 所長はなにも答えないが、それ以外に考えられない。渡されたケースに盗聴器が仕掛けられていたのだろう。
 私はいいように利用され、結局失敗していたということか。
「ちょっと、二人ともストップストップ」
 声のしたほうを見ると、宇佐見さんが呆れ顔で手を振っていた。
「なんだ。今はこいつを始末することが最優先だ」
「それは違うでしょ。詳しいことはわからないけど、そのお爺ちゃんがスパイなら生かして帰す以外に手はないじゃない」
「なんだと?」
「だって、その人の国でもシンギョクを作ってるんでしょ? だったら早く今回の結果を伝えさせないと、また人類滅亡の危機を繰り返すわよ」
「……一理あるか」
 私を拘束していた力が弱まった。
「なるほどなぁ。そしたら、おりの次の標的は……」船戸さんは私の手を掴んだまま、握っている拳銃を宇佐見さんのほうへ向けさせた。「宇佐見蓮子じゃ」
「利害の一致だな」そう言って、所長も宇佐見さんに銃口を向ける。
「えっ⁉︎ なんでそうなるのよ!」
 私は銃を構える二人に呼びかけた。「やっぱり、殺さなきゃいけないんですか?」
「この女は危険すぎる。生きていてはどの国にとっても利益にならない」
「なぁ。あぶのうてどむならんわぁ」
 宇佐見さんは珍しく焦っているのか、わずかに頬を引き攣らせた。「働かせるだけ働かせておいて、やり口は城嶺封印から変わってないのね」
「なんのことやら……おいっ⁉︎」突然、所長が動揺の悲鳴を上げた。「なにをしている⁉︎ やめろ!」
「えっ? 私はなにも……」
「その杖だ! 妙なことは今すぐにやめろ!」
 私も宇佐見さんも、シンギョクに突き立てられた一本の杖に目を向けた。
 加工され、艶出しされた茶色い杖の先端に、緑色のひものようなものが垂れ下がっている。それはするすると下へ伸び、とても小さな、かわいらしい花を咲かせた。
「ミズナラの……花……?」
 約一秒、誰もが理解不能ゆえの沈黙に包まれる。
 しかしその直後、宇佐見さんはハッと目を見開いて、この二年間で初めての本気の叫び声を上げた。
「ヤバいっ! 別の結界に穴が開いてる‼︎」
 彼女がこちらへ向かって駆け出したと思った瞬間、シンギョクを支える台座が轟音とともに崩壊し、地面からどす黒い霧のようなものが噴き出した。
「宇佐見! 貴様なにを――」
「私じゃない! あぁいや私なんだけど、故意じゃないっていう意味で! この鉱山に元からあった結界が、さっきのごたごたで破れたのよ!」宇佐見さんは舞い上がる霧を見上げながら叫んだ。「別の世界のゲートが開いた‼︎」
 黒い霧は散ることもなくみるみるうちに濃度を高め、まるで知性を持った生き物のように動く無数の触手に枝分かれした。
 触手のいくつかがシンギョクの残骸、活動の止まった甲乙に触れた。すると二本の柱は次々に霧を吸い寄せ、まるで皮膚のない人体模型が黒い衣服を纏うかのように、表面の質感を変えていった。
 死んでいた肉の柱に微弱な脈拍が蘇る。
 根本が二股に分かれ、両脚に。
 中央の両端が裂け、両腕に。
 そして、柱の上部には――。
「きゃああああぁぁっ‼︎」
 誰かが絶叫した。悲鳴がそこかしこでこだまする。
 それは紛れもなく、人の姿をしたなにか。
 柱の一方は、男になった。
 柱の一方は、女になった。
 私は、存在してはいけないものを見た。
「逃げて‼︎」
 宇佐見さんの叫びに呼応するように、ぎしぎしと膨れ上がった杖がみずみずしい生木になった。
 木は恐ろしい速度で成長し、あっという間に巨木になって、ものの数秒で上方七十メートルの星空に突き刺さり、粉々に叩き壊した。
「うわっ」
 再び揺れに見舞われたメインホールが完全な暗闇に包まれる。電気系統がダウンしたようだ。
「ドアが開かない! 今の揺れでフレームが歪んだ!」
「非常階段だ! 地質調査用の古いトンネルがある!」
 私たちは暗闇のなかをわけもわからず駆け出した。
 打ち捨てられたトンネルは誘導灯もなく、舗装もなく、水が溜まっていた。
 足がもつれて転んだ人間は置いていかれた。しかし不思議なことに、彼らの悲鳴はなぜか決まって、みな数秒で途切れてしまう。
 私は決して振り向かなかった。
 また後ろで声がする。
 また後ろで声が消える。
 私は知らない。
 私は見ない。
 私は聞かない。
 その行為には意味がないから。
 この幻が、現実なわけがないから。
 一心不乱に前だけを見て走った。狂ったように宇佐見さんの背中だけを追った。
 全身に衝撃が走り、冷たい水が肺の中を満たす。
 私の思考は薄片に引き伸ばされた。
 なんでこんなに必死になっているんだろう。走るのをやめてなにが悪いのか。振り向いて、そこになにがある? なにもあるはずがない。なぜなら、全部幻だから。存在してはいけないものは、つまりすべて偽物で、嘘で、存在するわけがないから。
 けれど、なにかが私を引き止める。私に、目を開かせる。
 私はゆっくりと振り返った。
 そこには、闇以外なにもなかった。
――――!
 すべてが遠のいていく最後の瞬間、なんとなく、誰かが私の手を掴んだような、そんな気がした。


「――気が付いたら、私はバス停のベンチで眠っていました」
 長い長い回想を終え、私はカウンセラーの先生に笑ってみせた。
「ね? ありえないでしょう」
 先生は私の目をじっと見つめる。瞳の中に嘘や狂気の片鱗がないか、精神学的見地から探っているのだろう。
 私は最後の追い込みをかけることにした。
「先生、私は最初に言いましたよね。先生の仕事はたったひとつだと。今私が語った偽りの記憶を否定し、私に安心をもたらすこと。それだけでいいんです」私は自分の息が荒くなるのを感じた。アルコールが切れかけているのかもしれない。「さあ先生、言ってください。『それはすべて幻覚だ』、と」
「それはすべて幻覚よ」先生はあっさりとそう言った。……しかし。「でも、幻覚が現実と無関係だなんて、いったい誰が決めたのかしら?」
 私は頭に血が上るのがわかった。「宇佐見さんみたいなことを言わないでください!」
 先生は真面目な顔で話し続ける。「そもそも、人が他人の主観を否定することなんてできないの。どんなにありえなく思えても、主観的体験は必ず記憶と精神に刻まれる。その時点で、その人にとっての主観はその人にとっての真実になりうる。あなたが私に主観の真偽を委ねようとしたこと自体、それが真実でありうることの証明になっているのよ」
「じゃあ先生は、さっきの話が現実に起こったことだとでも言うんですか?」
「ええ」
「人類を滅ぼす球体も?」
「そうよ」
「科学を逸脱した結界も?」
「もちろん」
「それを暴く、存在してはいけない人たちも?」
「……ええ。たしかに存在しています」
「やっぱり、そう言うんですね」
 私は椅子から立ち上がり、バッグの中のものを強く握った。
 私はやらなきゃいけない。
 彼女たちが、この世界で生きていてはいけない人たちだから。
 私はバッグから拳銃を取り出し、先生の目の前に突きつけた。「私の幻を肯定する人がいてはならないんです、マエリベリー先生‼︎」
 先生の顔からは焦りも驚きも感じられない。ただ、薄く微笑んでいるかのような無表情。「やっぱりというなら、あなたもよ。私が蓮子の友人だと知っててここへ来たのね」
「死ぬ前に教えて。あなたと宇佐見さんの目的はなに? この国の科学を破壊すること? 得体の知れない化け物を解き放つこと? あなたたちはどんな大義で、どんな動機で存在しているの?」私は銃の安全装置を外した。「答えてください!」
 私の心はブレていない。彼女がその口でどんな言い訳を並べ立てようと、私はこの引き金を引ける。
 この世界の常識を守るために。あの夜のすべてを、なかったことにするために。
 正しい世界に、異物はいらない。
 指に力を込めようとしたとき、彼女はとうとう、その小さな口を開いて言った。
「秘封倶楽部よ」
 一言。
 たった一言、先生はそう言った。
「……ひふう、クラブ?」
「そう、秘封倶楽部。メンバーは私と蓮子だけの、よくあるただの霊能者サークル。といっても、普通みたいに除霊や降霊とかは好きじゃないの。学生時代にはよく、まともな霊能活動したことがない不良サークルなんて言われてたけど。……ふふ。懐かしいわ」
「なにを言ってるの?」
「あなたが聞いたことに答えてるんじゃない」先生は不思議そうな顔をした。「私には結界の境目が見えるの。だからそういう場所を見つけては、よく二人で飛び込んで遊んでるのよ。結界っていうのはね、実はそれ単体では危険なものじゃないの。むしろ性質の違うものをきっちり分けて、両者の間でいざこざが起こらないようにする安全柵みたいなものね。だから結界に切れ目があると、そこはとても不安定になる。危険な状態になっちゃうの。私たちの活動は、そういう場所から別の世界を覗くこと。それが秘封倶楽部なのよ」
 私には彼女の言うことが、まるで理解できなかった。
「……なんで、わざわざ、そんな危険を?」
 そう聞かれた先生は少し戸惑い、そしてさも当然であるかのように、言った。
「だって、友達と柵を乗り越えるのって、すごくわくわくするじゃない」
 私は迷いなく引き金を引いた。
 サイドテーブルの上のランプが弾け飛び、室内が暗闇に包まれる。唯一の明かりは、扉のステンドグラスを透かして漏れる、かすかで暗い一条の青。
 先生の口元だけが、夜のように蒼く浮かび上がった。
「ふざけないで! わくわくする? そんな……そんな幼稚な理由が、許されるわけ……」
「許される?」青い唇がふわふわと上下する。「許されるって、誰に? あなたに? 社会に? その人に許されなかったら、存在してはいけない? その人は神様なの?」
 額から脂汗が出始めた。「なにが……神様……違う。常識よ。それは常識。非常識なものは排斥される。それが社会のルールだから」
「あなたの常識と私の常識は一致しない。一致することなどありえない。なぜなら、私たちは別々の精神だから。私の常識を育んだ環境と、あなたの常識を生み出した経験。すべてがまるで違う。じゃあ、私たちの存在を許さない常識って、いったい誰の常識なのかしら?」
「うるさい……詭弁よ。屁理屈。あなたはありえない。宇佐見さんもありえない。あの記憶もありえない。全部私の幻」
「まだ幼いころ、あなたは今とは違う常識を持っていたはず。でもその常識は、あなたより大きな人間によって歪められてしまった」
「違う。正された。お父さんはいつだって正しかった」
「あなたはずっと苦しんでいた。父親に教えられた常識が強い強い結界となって、あなたの本当の気持ちは封印された。それはありえないもの。あってはいけないもの」
「もういい……もう」暗闇のなかに異形が見える。
「あなたは自分を騙し続けた。アルコールのせいにして、目に見えているものを否定して」
「やめろ……」お酒が切れる。酔いが醒めれば、みんな消える。
「あなたの主張には厚みがない。世界のためだとかルールだとか言うけど、それは全部心の奥底にある本当の行動理由を覆い隠すために、あなたの無意識が必死でかき集めたこじつけの道具」
「やめてください」なにも心配はない。もうすぐすべて消えるから。
「どうして手紙を開いたの? バス停で引き返さなかったのはなぜ? 卓の下から出てしまったのは? 暗闇を振り返ったのは?」
「やめて。やめて」消える。偽物。アルコールの幻覚。消えろ。全部消えろ。消えろ!
「どうして、おかしなものが見えるのに、お酒を飲むのをやめなかったの?」
 あ、それは、私が。
「だ め」
 私の心が、耐えられないから。
「――怖かったからよね。酔いが完全に醒めたとき、いないことにした友達が見えるのが」
「あああああぁぁぁあっ‼︎」
 閃光が四度暗闇を引き裂いた。
 なにかが床に倒れこむ音。
 顔にかかった、熱い液体。
 眼前の青い光芒は、もうなにも照らしていない。
 すでに弾が出なくなった拳銃の引き金を、私は何度も何度も虚空に向けて引き続けていた。
「……先生?」闇の中に呼びかける。「マエリベリー先生?」
 返事はない。当たり前だ。
 私が今、殺したから。
「うあぁ……っ、あっ……」
 その場に銃を取り落とし、私はなにかから逃げるように部屋を出た。
 家の外では雪が降っていた。高層ビルも街灯もない田舎道の真ん中を、ふらふらとあてもなく歩き続ける。
 茂みを移動するなにかの足も、木の上から私を見張るたくさんの視線も、夜空を漂う人魂の群れも、いつもどおりよく見える。
 酔いはもう、完全に醒めていた。
 私は川辺の土手に腰を下ろした。雪に濡れた土もあまり気にならない。
 いつ以来だろうか。こんなにはっきりとしたクリアな視界で、ありのままの世界を見るのは。
「いい眺めでしょ」背後から声がした。「日本にはまだまだこういう景色が残ってるのよ」
「……やっぱり死んでなかったんですね。マエリベリー先生」
 先生は私の隣に腰を下ろした。「あなたのやっぱりって、ちょっと失礼な使い方だと思うわ」
「ごめんなさい。目が覚めました」私は粉雪の降りしきる川面を見ながら、静かにこれまでを振り返った。「先生も宇佐見さんも悪くない。そんなことはわかってました。悪いのは他人を否定することで自分を守ろうとしていた私です。私はずっと、気付かないふりをしていた」
「別に私は、あなたが悪人だなんて思ってないわ」
「私は宇佐見さんに銃を向けた」
「蓮子は気にしてないと思うけど」
「私は先生を撃ち殺した」
「生きてるわ。ほら」
「この世界に私の居場所なんてない」
「それは違う。あなたは知らないだけ」
「私の目は……いつもおかしなものばかり見えてしまうから」
 うつむいている私の顔を、先生はひょいと覗き込んだ。「私にも見えるもの。でも、私はここにいる。あなたもそう。誰がなんと言おうと、たしかにこの世界を生きている」
 先生の金色の瞳は力強く、優しい。その光はどこか、宇佐見さんにも似ている気がする。
「先生、教えてください」足元の白く冷たい土の上に、ひと筋の雫がこぼれ落ちた。「私は、私たちは、存在していてもいいんですか?」
 先生は、笑って言った。「この世界はいつだって、すべてを受け入れてくれるのよ」
 そのとき、背後から気配がした。
 小さな足音がさく、さく、と、薄雪の上を近付いてくる。
 彼女は私の服の肩の辺りを、遠慮がちに触った。
「きっと許してくれるわ」先生が言った。「今のあなたなら、しっかりと向き合える」
 私は一度まぶたを閉じ、そしてもう一度、ゆっくりと開けた。
 あぁ。私の世界って、ほんとはこんな景色だったんだ。
 呼吸を止めて、振り返る。
 あのころと変わらない、黒い着物の親友がそこにいた。
「ごめんなさい。私はあなたを裏切った」
 彼女は無言で首を振る。
「誓ったわ。もう二度と否定しないって。あなたが存在することも、本当の自分の心も。だから……」ずっと堪えようとしていた涙が、堰を切って溢れ出た。「私を、許してくれますか?」
 少女は両腕を広げて、パッと私の胸に飛び込んできた。
 懐かしい声。懐かしい笑顔。あのころとなにも変わらない。ずっと止まったままだった、本当の世界の続き。
 私はやっと、仲直りができた。


1.

「――というわけで、彼女のアフターケアは私がやっておきました!」
 じゅうじゅうと焼き目のついた飛騨牛をトングでつまみ上げながら、メリーは溜め込んだ疲れを吐き出すようにそう言った。
「いやー、ごめんごめん。まさかメリーのほうに行くなんて思わなかったから」
「ごめんごめんじゃないわよ。こっちは死ぬところだったのよ?」
「だからお詫びに、こんな豪勢な焼肉を奢ってあげてるんじゃないの」
「ほんと、大層な合成だけど」
 蓮子はジョッキに入ったビールを流し込んだ。「でもやっぱり、メリーはさすがだわ。私に暴けなかった結界をあっさりと解いちゃうんだから」
「蓮子はやり方が下手なのよ。あんな意味不明な詰め方したら、彼女の精神は余計に不安定になる一方だって決まってるじゃない」
「いやぁ、いけるかな、と」
「まったくもう」
 メリーは文句を言いながら焼肉に塩をかけ、ごはんといっしょに口に入れた。
「神岡鉱山の結界はどうなったのかな。私とメリーが穴開けちゃったわけだけど」
「誰かがどうにかするでしょ。科学的な文脈で」
「それもそっか。だとすると、あと心配なのは浅間さんの今後ね」
「鉱山も彼女も、結局はあなたが変にいじったせいで不安定になった結界だものね。責任とって、たまに様子でも見に行ってあげたら?」
 そう言われると、蓮子は怪訝そうな顔になった。
「それがね、ちょっと違う気がするのよ」
「違うって、なにが?」
「これは実際に会った私だから感じたことだろうけど、たぶんあの子、私と最初に会ったときにはもう精神が危うかったの」
 メリーも話の内容を思い返した。「たしかに、彼女は最初から矛盾を抱えてたわね。ありえないと言いながら、心の中の本能が抑えきれてない感じ。でも、そんなことってあるかしら。幼少期に親から受け継いだ思想って、そう簡単に疑えるものじゃないわ」
「私もそう思ってたの。でも、実は最近になって、ふと思い出したのよ。十二年前のことを」
「十二年前?」
 蓮子はテーブルの上に身を乗り出した。「大学生のとき、私と二人で初めて東京に行った日のことよ。メリーも覚えてるでしょ? 行きの新幹線を降りたとき、女の子に話しかけられた」
 メリーはもう一枚肉を飲み込んでから答えた。「あー、あったあった。座ってた席が近くて、ずっと私たちの会話を聞いてたのよね。それで……」
「駅のホームで声をかけられた。『話が聞こえてきてたんですけど、東京が霊都だとか、京都の霊的研究だとか、そんなの本気で信じてるんですか〜?』って」
「思い出した。ずいぶん酔ってるみたいな様子で」
「それで、ついムッとなった私が言っちゃったのよ。『そんなにつっかかってくるなんて、あなただって本当は、あっちの世界が見たいんじゃないの?』……って」
 メリーは呆然と口を開いた。「そう……それで、私はその子に……〝私の夢のビジョン〟を見せた」
 二人は顔を見合わせて、とりあえず白米を何口か食べた。
「じゃあ、彼女はあのときの?」
「たぶん……。思い返してみれば、似てたと思う」
「それじゃ結局、今回の彼女の治療は、私たちの十二年越しの後始末だったってこと?」
「そう、つまり……」蓮子は白米を飲み込んで答えた。「完全なマッチポンプね」
 肉の焼ける音が響くなか、二人は同時に苦笑いした。
「ま、まあ、彼女ならもう大丈夫よ。それより蓮子、私あなたに聞きたいことがあったんだわ」
「あ、うん。なに?」
「前の電話で、蓮子は結界の切れ目を二つ見つけたって言ってなかった? あのときはまだ鉱山に結界があるなんて知らなくて、ひとつはその、私たちの不手際でしょ? じゃあ、もうひとつは?」
「そうだった! 危うく今回の本題を忘れるところだったわ!」そう言って、蓮子は鞄の中を探り始めた。
「えぇ、今から本題なの? 私てっきり、もうエピローグなんだと思ってたけど」
「なに妙なこと言ってるのよ。私一人での活動なんて、最初からただの下準備に決まってるじゃない……あ、あったあった」
 蓮子は鞄から取り出したものをテーブルに置いた。それは小さな機械の破片のようなものだった。
「ねぇ蓮子。これってもしかして」
「そう。シンギョクの残骸の一部よ。みんながスパイだなんだとごちゃごちゃやってる間に、こっそり拾っておいたの」
「それで、これと結界の切れ目になんの関係があるの?」
 蓮子はシンギョクの欠片をつまみ上げ、焼肉の煙の中をひらひらとくぐらせた。
「シンギョクは別のブレーンワールドから来たって言ったよね。ブレーンとブレーンの間には、バルクっていう空白の空間が広がってるの。それはつまり、ブレーンワールド同士を隔てる結界であるとも言い換えられる。この機械のDNAには、結界をくぐってきた記憶が残っているはずなのよ」
「じゃあ、蓮子の言う結界の切れ目って……」
「この欠片。シンギョクそのものよ」
 メリーはグラスに入っていたお酒を飲み干した。
「で、それをどうするの?」
「どうするもこうするも、メリーの力でどうにかするのよ」
「いつもそうよね。肝心なところが行き当たりばったり。私知らないわよ? どうにかこうにかできるかどうか」
「できるよ。私たちなら」
 蓮子は空のジョッキを掴んで言った。「さ、そうと決まれば乾杯よ」
「もう二人とも空じゃない。それに、なにに対しての乾杯?」
「空はゼロ。ゼロは始まり」そう言って、蓮子はジョッキを持ち上げる。「我々秘封倶楽部の、次の冒険に」
 メリーはふっと微笑んで、空のグラスを持ち上げた。「次の冒険に」
「乾杯!」

「――お客さま、そろそろ閉店のお時間で……」
 その部屋は閉め切りの個室だった。
 店内には廊下が一本。外との客の出入りは必ずカウンターの前を横切ることになる。
 手洗いも出入り口の側にあるため、その部屋の客はたしかにまだ、店内のどこかにいるはずだった。
 従業員が個室の中を確認したとき、そこには焼肉を食べたあとの皿が数枚と、空のジョッキと空のグラスがひとつずつ、それからテーブルの隅っこに、紙幣といくらかの小銭が置いてあるだけで、人影はどこにもなかった。
 彼は店内をくまなく探したが、別に食い逃げされたわけでもないので、最終的に誰かに報告をするようなこともなく、ただ、こう思っただけだった。
 世の中、不思議なこともあるもんだ。
https://twitter.com/K_T_Takenoko
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白く楽しめました
2.100名前が無い程度の能力削除
こういうの好き
3.100柏屋削除
出所不明の暗号と設計図と続いてコンタクトを思い出したけど違った。
あらゆる方面から危険人物扱いされる蓮子がとても良き。
とても面白かったです。ところでこれ、物語的に続きますよね?(期待の眼差し
4.100名前が無い程度の能力削除
SFとして非常に面白かったです
未知の存在からの信号が実は設計図になっていてそれを元に正体不明の存在を構築していくというのは恐怖と好奇心の両方を掻き立ててくれます
その際に用いる科学的な道具立ても非常に納得感のある構成でよかったです
さらに、信号の発信源が宇宙からではなく地球内部から来ているという展開も、
認識が文字通り転倒していたことに自覚するだけで世界の見え方がひっくり返る「認識論的転回」で、まさにSFミステリーの醍醐味でした
しかもそれが伊弉諾物質で語られたアガルタの風の話を思わせて秘封ファンとしても思わずにやりとしてしまいます
そして重力が別次元に漏れ出ているという実在の科学理論を用いて、別のブレーンワールドに自らの遺伝子を重力波にコーディングして播種し続ける生命体という発想はまさにセンスオブワンダーの極みでした
これが紛うことなき秘封であることは蓮子の「遅刻術」の見事さ(会議に遅刻しておきながら堂々と質問することで場の主導権を握りながら自然と存在を受け入れさせつつ情報を入手する)とか、蓮子のやたらスケールの大きい悪評とか、メリーの能力が最高に進化していたりとかのファンサービス的な描写からも分かります
もちろん表面的なところだけが秘封なのではない。所長の言う科学と蓮子の言う科学が科学の名を冠していても真っ向から対立する思想である点も非常に原作の秘封倶楽部のテーマに忠実だと思いました
あと主人公のオリキャラさんの正体が分かるシーンには思わず笑ってしまいました
まさか黄昏酒場とこんな風につなげられるとは……
欲を言えば、この三倍くらい長くして、もう少しオリキャラではないオリキャラさんの心情や物語を膨らませたり、シンギョクがもっととんでもないことをしでかしたり、蓮メリがもっと派手に暴れたりしてくれてもいいなあと思いました
大人になった蓮メリがレベルアップして変わらず冒険している話としても非常に良かったのでまたそのうちこういう大人蓮メリを書いてくれると嬉しいです
7.100名前が無い程度の能力削除
孤独、好奇心、逆転の発想とSFに求めるべきものが詰まっていてこれこれこれこれこれこれとなってました。やっぱり時間か重力は外せませんね。
さて重力というと大空魔術をどうしても思い出されますが、ここ以外でも秘封ネタが散りばめられていますね。本人よりもオリキャラにフォーカスを当てていることへバランスなのか、尋常でないパワーに支えられた構成の二次創作です。
メリーがめちゃくちゃやってるのがもう笑っちゃいました。原作の成長率そのまま大人になったら確かにこうなるだろうでしょうね…。修羅場を積み伝説が流布されている蓮子も好き……。正しさや科学で動く所長より、好奇心で突き進む二人が一番恐ろしくて、あぁ秘封倶楽部というものに触れていて良かったと思うばかりです。
好きで突き進んでいく人間が最も強く、恐ろしく、楽しんでいる。これが一番秘封倶楽部で大事なところではと感じており、それを描いてくれる作品が大好きです。これからも応援してます。
8.100名前が無い程度の能力削除
色々と好きすぎてどこから言葉にすればいいのか、とにかく最高の作品でした。
12年経過してもまごうことない秘封倶楽部の表現と素晴らしいSFな展開、綺麗な伏線回収、どれを取っても素敵な作品でした。良い秘封を摂取できました。
9.80ぽち削除
SF秘封面白かったです。
12.100名前が無い程度の能力削除
非常に面白かったです。科学と幻想のはざまで揺れているsf的世界観と、何年経ても変わることのない秘封倶楽部の関係性が融和して描写されていて、最初から最後まで楽しめました。
13.100ヘンプ削除
面白かったです。
14.100名前が無い程度の能力削除
壮大な秘封大好き
15.100南条削除
とても面白かったです
素晴らしい話でした
語り部もおとなしい奴かと思ったら割と癖があって素敵でした
16.100水十九石削除
主人公をオリジナルキャラクターに添えてもなお文中から伝わってくる金太郎飴かのような秘封倶楽部的ニュアンスの印象の強さに、王道SFの流れを汲むかのように進められるストーリー、そして強烈な科学世紀観。
どれもが氏の知見に裏付けされたものであろう強い文脈を以て描かれており、一度物理法則を加味して秘封の物語を書いた身としても、自分が死蔵していた知識すらも文脈上でバンバンと行き交う様も含め滅茶苦茶に興奮させられる物語でした。
とりわけシンギョクがどういった生命体なのかという設定。弦ではなくメンブレーンを介した異世界からの侵略生物としての説得力がふんだんに盛られており、SF小説かくあるべしと言わんばかりに生存本能のまま敵対という意識も無く地球に牙を向ける存在としての異質さがとても強烈に表現されていたのだと思えます。
後は元々宇宙素粒子観測装置の置かれていた場所を逆説的に蓮子の能力を発動させるキーとしても利用していた部分。そうやって舞台設定を上手く使うものかと驚愕させられたものでした。

そしてそのような物語でありつつも、オリジナルキャラクターの心情推移を共に展開に組み込んで分かりやすくストーリー然とさせていたのもまた驚嘆で。
蓮子やメリーのようなそちら側でもありながら科学を徹底的に信奉し異物側からの干渉を徹底的に避けているというキャラクター付けの上で、スパイ操作や蓮子の電話の傍聴といったシーンを契機に、強制的に物理法則を冒涜する側と直面せざるを得ない所まで展開上仕向けてからの終盤。
実際東方の話の大概は主観こそが事実足り得るという前提条件がありますが、彼女は自らの主観で封じ込めていた事実に対して文字通り直面させて成長という鞘にキッチリ収めた事で、彼女は酔いを醒まして酔生夢死のラストスペルを潜り抜ける事が出来たのを嬉しくも覚えたものです。
黄昏酒場のバックストーリーを匂わせて『あれ?』と思わせてから実際に苗字が判明し、厳密にはオリジナルキャラクターでない事が分かりはするのですが…まあそういう事なのかもしれません。
あとは『この精神科医の先生は間違いなくメリーだな』という半ば確信めいた物を抱きながら読んでいたのできっとこういう終わり方になるのだろうなと思いながら読めたのも好印象だったり。

ハイパーカミオカンデの着工記念式典、随分と最近だったような気がして調べたらもう半年前という事実に驚愕させられたり、本当にニュートリノ化した蓮子に何事かと思わされたり(質量保存の法則は現役だろうし未解決問題の糸口に勝手になる女)、やはり最後にいつもの秘封倶楽部的な会話を入れた上でNext Dreamの如く締めたエンドだったり、とにかく個々の面白いポイントが多く、劇場版的なニュアンスで気持ち良く楽しませて戴きました。ありがとうございます、面白かったです。
17.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
SFらしい壮大且つ冗談のような規模の世界がなだれ込む感覚が楽しかったです。
蓮子のただ物ではない感と、物語の入りから決着までの活躍も快刀乱麻というふうで気持ち良く描かれていたと思います。
少しばかり、SF用語の意味不明な単語のなだれ込みが、そのまま意味不明な感覚で捉えてしまったといいますか、もう少し一般人からの「何が何だかわからないが兎に角何か凄いことが進行している」という感覚が欲しかったかなと思います。(作中でも少しそういう描写は合ったのですが、もう少しだけ……)
個人的な好みとしては秘封倶楽部の二人は一般人ポジション、あくまで普通の存在という方が好きなのですが……このような、特異で特殊で世界的に(或いは“その手の業界”に)有名な蓮子も、これはこれでいいなと思えました。
原作の二人の話を聴いている語り手を絡めたネタも面白い視点で、オリキャラ乍ら自然に受け入れられ、またキャラとしても面白かったです。
一番好きなところは十年後も変わらず秘封倶楽部をやっている二人、という解釈でした。あの二人はきっとずっとそういうことをしている筈。
個人的に好みから外れているところは多々あれど、総合的には間違いなく100点だと思えました。有難う御座いました。
18.100夏後冬前削除
非常に楽しめました。面白かったです。
19.100牛丼ねこ削除
秘封だしSFだしで、好きなもの盛りだくさん! という感じで大好きです。この作品を読めてよかった。
22.100めそふ削除
とても面白かったです。
こちらとしては科学用語は殆ど分からないのでノリで読み進めていました。まあ漢字から何となくわかるものもあればM理論など全く訳のわからないものもあり、色々とありましたけど、ぶっちゃけ用語の意味がわからなくても全く問題なく読み進められたので満足でした。また、文書が丁寧でとても読みやすかったです。疲れもせずサクサク読めるので個人的にはエンタメとしてとても楽しめました。展開としては正直なところ予想がつくものでしたが、しっかりと物語の王道を踏んでいるという流れであり、特別飛躍などは感じず充分に描写されていてとても良かったです。総じて100点!本当に楽しめました!ありがとうございます
24.無評価名前が無い程度の能力削除
あれはこの子にとってのDNAそのものなんです。
辺りの場面から、もうミスチー肌が止みませんでした。物語の発想展開には正に声を出して唸る出来映えですし、それでいて文脈の構成は配慮有る流暢な作品に読めました。
自身には評価を越えるものですので、無評価にて失礼致します。
映画化希望