畜生界とは地獄である。
厳密に言うとその隣にある世界なので地獄ではないのだが、概ね地獄だと思っていただきたい。
何故このように改めて述べたのか。それは畜生界をさらに地獄に近付ける存在が新たに生まれてしまったからだ。
頸牙組の組長にして畜生界最強の座に君臨するブラックペガサス、驪駒早鬼。運営に関わる諸問題を圧倒的な暴力で解決してきた彼女の組が今、自身の暴力的な問題によって地獄と化していた。
メシがマズかったのである。
◇
「……つまり、黒駒の飯が不味いから助けてくれ、と?」
仙界の神霊廟に住まう生まれ変わった聖徳太子、尸解仙の豊聡耳神子を訪ねていたのは一匹の白い犬だった。
「はい。全くもってお恥ずかしい話ですがその通りでございます」
卓を挟んで神子の対面に座る犬が、目を閉じてゆっくりと頷く。いや、彼を犬と呼ぶには少し語弊があるだろう。尻尾と犬の耳が頭から生えている以外は、人と全く同じ形をしていたからだ。
幻想郷には不釣り合いな黒いスーツ、切れ長の顔に細い眼鏡を掛け、尻尾と同じ白髪をオールバックで整えている。例えるならば、白狼天狗のガラを二十倍悪くしたような人物だ。
「そうか、あの子の右腕が極秘で来るほどにその料理は……」
「それさえなければあの方への忠誠は揺るぎないのですが……」
犬人間の名前はセツという。いわゆる脳筋ばかりの頸牙組では希少な頭脳派の幹部である。畜生界の死者はほとんどが霊魂として飛び回っているが、ごく稀に早鬼や鬼傑組の吉弔八千慧のように人の姿を取っている実力者がいる。彼もまたその一匹なのだ。
さて、話はこうである。
組員の腹は自分で膨らませてやってこその組長だろうと唐突に開眼してしまった早鬼。これからは料理長とも呼べと宣言して組の食堂に居着いてしまう。しかしそれまで早鬼が料理する姿を見た者など一匹も居ないのだから案の定と言うべきか、予定調和にメシマズ組長が誕生してしまった。
食べないわけにもいかず、不味いとも直に言えない組員が悩んだ末に、懐刀を代表として神霊廟に助けを求めたというわけだ。
「んーでも、早鬼ちゃんのお料理って本当に美味しくないのかしら」
「芳香もそう思います」
机の横からふらふらと口を挟んだのは、神子を道教へと誘った元凶の霍青娥だ。便乗したのはお供のキョンシー、宮古芳香。
「確かに。馬の主食は草ですからな」
「まあ調理次第だが、サラダをイヌの仲間が喜んでは食わんよな」
同席していた物部布都、蘇我屠自古も頷いた。馬が長の頸牙組だが、その構成員はオオカミを始めとする肉食獣がほとんどだ。味覚が合わなくて当然だろう。
「……実は、それこそが問題なのですよ」
セツは顔の前で手を組んで大きく息を吐いた。
「大半の組員には受けが良いのです。むしろ不味いと感じている我々の方が少数派という有り様でして」
「ふむ。それでは好みの問題で、私が出る幕は無くなってしまうね」
「はい……ですから論より証拠ですね」
神子の言葉を受けたセツが、鞄から封印していた箱を取り出した。地上の視察で遠出するなら腹も減るだろうと、早鬼が持たせてくれた特大お弁当箱である。
「……私は驪駒様が自分のために作ってくださった事実だけでお腹がいっぱいですので、どうぞ皆さんで」
ものは言いようである。差し出された箱の中にぎっしり敷き詰められていたのは、海苔のような黒い何かに覆われた丸い塊だ。一般的にはおにぎりと呼ばれる代物だろう。一般的なら。
早鬼はこの細身の男が神霊廟全員に行き渡るほどの量を食べると思って詰めたのだろうか。
「飼っていた馬が握った飯か。不思議な気分だよ」
神子が一つ手に取ったのを皮切りに、一同もそれぞれ一個。手の感触は湿気った海苔そのものだのに、胸をよぎる言い知れようのない不安。しかし食べずには始まらないと、五人は『せーの』でおにぎり?にかぶりついた。
「おぶっ」「げえっ!」「かはっ!」「えぅ……」「ぶっふー!」
──ダメだった。
「これは命への冒涜である!」
何でも食うのが自慢であるはずの芳香が吠えた。ゾンビでも怒る不味さだったらしい。
「米が生きてる……口の中で生きてる……」
神子は口を押さえて目を剥いた。しかしどれほどゲテモノでも皆の前で吐き出すまいという皇子の意地で何とか飲み込んだ。
「……具は鮭か? 塩鮭に米が勝ってるおにぎりなんて初めてだぞ」
「はい。ジェノサイドキングサーモンのおにぎりです」
屠自古の怒りに淡々と答えるセツ。畜生界だけあって食材の名前も地獄テイストのようだ。
「これで驪駒様の腕前はよくご理解いただけたかと存じます。だからといって不味いなどとあの方の前で口走りませんように。貴方達は始末したくありませんので」
神子信者の集まりが神霊廟だが、この犬もなかなかに病的な驪駒信者である。だから料理の腕が悪化するのではないか、と一同に疑問もよぎる。
「さて、さらなる問題がありまして、いずれは太子様を招いて自慢の手料理をご馳走したいと、驪駒様はそう仰られまして……」
「黒駒が、私を……?」
神子の目はおにぎりを噛んだ跡とセツの顔の間で泳いでいた。おにぎりでこの破壊力である。これが手の込んだ料理だったらどうなるのか、想像もしたくない。
「論外じゃ! このような物を太子様に食わせるようであれば、例え黒駒でも容赦はせんぞ!」
「これを褒め称える畜生界の味覚レベルはどうなっているのかしら……」
布都と青娥もこの言い草だが、それを一番思っているのが他でもないセツ本人なので何も言えなかった。
「ですからこのセツ、恥を忍んでお頼み申し上げます。太子様の今後の為にも、どうか驪駒様を何とかしていただけないでしょうか!」
肝心の部分が『何とか』という非常に曖昧な言い方になってしまったが、深々と頭を下げるセツの何とかしてほしい気持ちは一同にも十分伝わった。これは何とかすべきだ。
では人選である。しかし、お前の飯が不味いから何とかしに来たと正面から言えば、早鬼が心を病む可能性がある為ちょっとした言い訳が必要だ。それに畜生界が死者の世界である事も踏まえると、白羽の矢が立つのは一人しかいない。
「まあ、そうなるとは思いましたよ。行ってきます」
怨霊の屠自古が、渋々と顔を縦に振るのだった。
◇
『どうして二本足のサルがここに居やがるッ!』
『セツ、テメェ血迷ったか!?』
入室早々、側近のオオカミ霊から罵声が飛んだ。そういう所だからと事前に言われていたが、あまりにもそういう所すぎて屠自古はある種の痛快さすら感じた。
──カッ!
「まあ、待て」
ブーツを打ち合わせる音。それだけで配下がピタリと静まった。流石に組長というだけあって、驪駒早鬼は他の畜生とは違う貫禄に溢れていた。
「まずは視察ご苦労だったな、セツ。その話は後で聞くとして、隣の女性からは懐かしい匂いがするな。もしかしてだが……!」
「ああ、蘇我だ。蘇我屠自古だよ。太子様だけじゃなく私も覚えていてくれて嬉しいよ、黒駒。いや、驪駒様と呼ぶべきかな?」
早鬼は組んでいた脚を直して屠自古に正対した。
「……いいや、私は死してなお甲斐の黒駒でもある。そちらは太子様の傍らにご健在と聞いていたが、よくぞここまで訪ねてくださった。今日は何用で来られたのか?」
「あー……その太子様と物部の馬鹿が私の秘蔵酒を勝手に飲みやがってさあ。腹立ったんでちょっと家出してやった矢先にこのセツと出会ったわけだ」
「はい。驪駒様からお話を聞いておりましたので、きっとお喜びになると思いお連れした次第です」
もちろん嘘である。酒は飲まれてないし、ここに来たのも神子の指令だ。とは言えいくら早鬼が馬と鹿の見分けができない頭扱いであっても、納得させるにはそれなりの理由が必要だった。
「ふふ、太子様は私が思っていたよりお茶目なようだな。では怒りが冷めるまで帰らないおつもりか?」
「そうだなあ、向こうから頭を下げに来るまでは」
「なるほど。それは私にとっても望外の喜びだ。狭いのは申し訳ないが部屋と布団なら用意しよう」
早鬼はそのカウガール風の衣装に似合うクールな笑みを浮かべた。本当は感激で顔が崩れそうになるのを必死に堪えながら。
「ありがとう。突然押し掛けたのにそこまでもてなしてくれるとは思わなかったよ。礼と言ってはなんだけど、飯や掃除ぐらいは手伝わせてほしい」
「飯……つまり普段太子様が召し上がっている食事か。それは私も味わってみたいな。ぜひお願いしよう」
よし。セツはほっと胸を撫で下ろした。
ここまでは計画通りである。上手いこと早鬼が立つ厨房に屠自古を送り、あとは自身の料理が神子には食べさせられないゲテモノである事をやんわりと自覚してくれれば万々歳だ。
もしくは屠自古の腕には絶対敵わないと知って厨房を去るのでもいい。早鬼は組長なのだ。支配者らしく飯は他人に作らせるべきだ。とにかくあの料理をこれ以上生み出さなければいい。
「タカハシ、部屋に案内してやってくれ」
『ハッ!』
「……待った。その前に落とし前を付けなきゃいけない事があるだろ?」
早鬼がオオカミ霊の一匹に命じるも、屠自古はそれを無視して動き出していた。早鬼が腰掛ける革張りの椅子、ではなくその奥にいる者に向けて。
「さっき私に二本足のサルって言いやがったのは……お前か?」
『え……ヒッ』
成り行きを呆然と眺めていた側近のオオカミ霊に掴みかかり、全身からバチバチと火花を散らせる。
「イキがってんじゃねえぞ生肉食いの犬畜生がッ! 目玉か下のタマかッ!? 雷落とされてえのはどっちだオラァ!!」
「蘇我殿ォ!!」
部屋のガラス棚がビリビリと震える。早鬼の声は屠自古の雷以上に雷轟と呼ぶに相応しい衝撃だった。屠自古が自身の方に視線を向けたと見るや、早鬼はすっくと立ち上がってホルスターに手を置いた。
「……部下の非礼は詫びよう。だが頸牙組は一人ひとりが私の一部なのだ。それを捥ぎ取るならば例え太子様でも牙を剥かねばならないが、貴方も我が心の一部である。私は自身の心を撃たねばならないのか?」
早鬼との間に緊迫感が生まれてつかの間、屠自古は手をぱっと開いてオオカミ霊を解き放った。まるで怒りを早鬼に奪われたかのようにその顔は穏やかであった。
「申し訳なかった。ここに居る以上は貴方に従うよ」
「ならば、今の事は水に流そう。明日からよろしく頼む」
「ああ、先の黒駒はまるで太子様のようだった。その雄姿は愛馬にもしっかりと受け継がれていたようで嬉しかったよ」
屠自古の暴走で一触即発の雰囲気となったが、話はそれでお開きとなった。屠自古がオオカミ霊の一匹に案内されて退室した後、早鬼は二人だけで話すからとセツ以外の組員も部屋から閉め出した。彼女を招いた張本人であるのだから、これからこってり絞られるのだろうと誰しもが思ったのだが──。
「セツぅ、どうしよう……蘇我様めっちゃくちゃ喧嘩っ早くて怖い……」
早鬼はめっちゃくちゃ頭を抱えていた。
「す、すみませんすみません! 出会った時はとても良い人そうだったのですが……!」
「よく覚えてるよ……私の事よく撫でてくれてたよ……」
「大丈夫です! 蘇我様も驪駒様に会うのを楽しみにしていましたから、おそらく軽いジョークだったのかと!」
「蘇我様と敵対したら太子様も敵じゃない……本当に大丈夫……?」
「はい、このセツが絶対にそのような事はさせませんから!」
うつむく早鬼をセツが必死になだめていた。元々の黒駒は歴史書にも遺されてしまうくらい繊細な馬だったのだ。畜生界で揉まれてすっかり暴れ馬になったが、三つ子の魂百まで。聖徳太子が関わるとセンチメンタルになる部分は今も変わらず、それをさらけ出せる相手は本当に数少ない。
『客人、蘇我屠自古。怒るととても怖いので、くれぐれも威圧しないように。驪駒早鬼』
このような通達も無抵抗で組員全体に浸透した。屠自古を敵に回してはならない。その恐ろしさはまさに雷のような速度で伝わったのであった。
『潜入成功おめでとうございますっふふ……くくくく、くっ……』
一方、空き部屋の屠自古。
彼女の衣服にべたべたと貼られたお札の一枚から、今にも暴発しそうな笑い声が漏れ出していた。
「お前、笑いすぎ」
『だってぇ……オラついてる屠自古さんが面白くて面白くて……』
声の主は青娥だ。かつて旧地獄の異変解決で役立った遠隔通信式を参考にしたテレフォンお札である。
「うーん、空気が畜生だからかここに居ると気持ちがオラオラになっちゃうんだよ。ヤクザ相手だからこれくらいでもいいかなと思ったんだが……」
『それで殺されたら元も子もないでしょう。ま、元々死んじゃってますけど』
「この体も元はお前が全ての始まりだけどな。とにかく厨房には入れてくれるからオッケーだろ」
『ええ、あの生物兵器だけは何としても阻止してくださいね。豊聡耳様と布都ちゃんも頼むと、ちょっと怖がりながら言ってます。屠自古さんがショックだったみたいですよ』
『こら!』『青娥殿!』
青娥に続いて神子と布都の小さな声も届く。どうやら神霊廟のみんなで札を取り囲んで先ほどのやり取りを盗聴していたらしい。
生きてるくせに他にやることはないのか。屠自古はそう思うのであった。
◇
『おザァスッ!』
「お、おう。おはよう」
翌日、三途の川から庭渡神のコケコッコーが響き渡るほどの早朝。屠自古は早速朝食の手伝いで食堂に入っていた。屠自古を見るや姿勢を正したのは、昨日脅した警護オオカミ霊の一体だと思われる。推測なのはどれも同じすぎて全く見分けられないからだ。
「手伝いに感謝します、蘇我殿。しかしそちらと畜生界の調理はまるで違うだろう。貴方はまず見るところから始めてくれ」
早鬼がベージュのエプロン姿で声をかける。真ん中には大きなニンジンがプリントされた可愛らしいデザインだ。料理にハマっていると聞いていたが、朝早くの厨房という辛い仕事にも参加するのだから情熱は本物のようだ。そこだけなら長の鑑なのであるが。
「ああ、お手並み拝見といこう」
あのゲテモノ料理を作る腕前を、と屠自古は心の中で付け足した。これで味が良ければ何も問題は無いのに。いや、セツの話では美味いと言う組員が大半らしいから、その差が生まれる理由を突き止めれば。屠自古の目は早鬼の一挙手一投足に注目した。
「今日はシンプルに三つ目魚の塩焼きと卵焼きだ。魚は切り身にしてあるのでまず卵から……」
「待て。黒駒、待って」
思わず掌を早鬼の前に突き出した。しかし止めたくなるほど奇妙な物を目の当たりにしてしまったのだからやむを得ない。三つ目魚はどうせ目が三つなだけだからこの際置いておくが、問題は卵である。
手足が生えていた。
「……これは孵化してんのか?」
「はっは、冗談がお上手だ。無精卵が孵化するはずないでしょう」
屠自古の知っている卵はハンプティ・ダンプティではない。ましてこれの手足は歩けるほど長くもなく、容器の中でジタバタと必死にもがいていた。割られる運命を前にして最後の抵抗だろうか。
「卵っていうか尻尾が無い蛙の子供だな。まあこれは白いが……」
『やだぁ。白いおたまじゃくしだなんて屠自古さんがそんないやらしい事を口に出して……』(黙っとれ邪仙!)
発声した札を平手でべちんと抑え込む。歳を取った者の朝は早い。早朝なのに青娥はしっかり起きていたらしい。
「うん? 今誰か?」
「さあ。発情期の猫が鳴いてただけだろう」(屠自古さん、ひどーい!)「それよりこの卵を説明してくれ。なぜ手と足があるんだ」
「生者の世界では違うのか? 畜生界の卵はこういう物だから私はそれしか知らないのだ。すまないな、蘇我殿」
『……うーん。卵とは命の根源ですから魂が拠り所に選びやすいのかしら。だから手足も生えてくると』(あー……卵が付喪神みたいになってるのか)
死人に詳しい青娥らしいシンプルな考察であった。そもそも死者の世界で何が卵を産んだのかも謎だが、とにかく畜生界の卵には手足がある。突っ込むのはもうやめだ。
「で、味は?」
ならば次の問題はそこである。グロテスクな見た目の生き物ほど美味いのはよくある話だ。不気味でも味さえ良ければ大体は許される。
「気になりますか。だったら一つ召し上がってみるといい」
早鬼は卵の一つをコツンと机の角にぶつけた。手足が一瞬だけピンと張り、すぐにぐでっと垂れ下がる。手から小さな器の中に解放されたその中身は、ぷっくりと黄身の盛り上がった新鮮な卵その物だ。
「うむ……」
見た目は美味そうなのに言い知れようのない不安。しかしここで怯えていても話が進まないと、恐る恐る溶いた卵をすすり──。
屠自古は流し台の前で肩を上下させていた。
「あ、歩いた……!!」
何をと思うだろうが溶き卵が口の中で歩いた。そんなはずが無くてもそうとしか言いようがなかったからそうなのだ。
「そうか……蘇我殿の口には合わないようだが、うちはこれでやっているのだ。それも踏まえて今日は見ていてほしい」
悶絶する屠自古を余所に、そこからの早鬼はまさに鬼のような働きだった。足が速ければ手も速い。元々使い慣れているのであろうドスもとい包丁を握り、鍋を振り回し、大勢居る組員の腹を満たさんと次々に料理を完成させていく。何も知らなければこれは間違いなく料理長の風格なのだろう。
しかし屠自古は知っていた。今も食堂の隅っこで、セツを含む数名の動物霊がちびちびとお茶を飲んでごまかしている。屠自古も一度そこに同席し、お互いに無言で大きく頷いた。この料理は人が食べられる物ではない。あれだけ常識外れの素材で作ってまともであるはずもない。メシマズの原因はこれで確定であろう。
ならば、次の疑問も発生する。なぜ動物霊でも食える食えないで二極化するのか、早鬼が厨房に立つまではどうしていたのかだ。
「──その辺りはどうなんよ、セツ」
地獄の朝食タイムと洗い物を済ませ、屠自古はセツと共に借りた部屋へ戻っていた。噴出した謎を解決するなら彼に聞くのが一番手っ取り早い。
「そうですね……あまり美味いと思える物ではないですが、驪駒様が入る前はそれでも食べられる味でした。皆がアレを平気な理由は私にも……」
『おそらく、あの子達は料理じゃなくて情報を食べているんですよ』
お札からさっそく青娥の通信が入った。お喋り好きなだけに禁止されていた状況は辛かったに違いない。
『基本的に死人は味覚も死んでいます。故に自分が何を食べているかの認識で満足感を覚える傾向があるのよね。仏壇のお供え物と一緒って言えば分かりやすいかしら』
「そうなのか? 私は味も分かっているつもりだが」
『屠自古さんは私の調整も入っているから当然ですよ。それと、生前に美食を知っていた死者は死後も味覚がしっかり残る傾向があるの。うちの芳香みたいにね』
『おう。青娥の料理はうまいぞぉー!』
おそらく青娥よりも遠いはずなのに、芳香の声はさらに大きかった。
『はい、ありがとうね芳香。だから、セツさんはきっと愛情の込もったご飯を食べていたのよ、幸か不幸か。一方で早鬼ちゃんは食べてたのは飼葉だから……』
セツはしばし、目を閉じて考え込んだ。彼には生きていた頃の記憶が残っているのだろうか。だが、雪のようにきらきらと光を跳ね返す真っ白な毛皮。それが生前からのものであれば、セツは間違いなく大事にされていたはずだ。
「……可能性はゼロではないでしょう。今はそれだけです」
「そうだな。じゃあ黒駒の腕についてだが、素材がアレでなければ普通に美味い飯が作れると思う。あいつは横暴に見えて細かい部分はやっぱり繊細なんだよ。ちゃんと塩の量とかも計ってたし」
『手足が生えている卵?ですものねえ……』
料理が珍味になる原因として多いのが目分量、長年の経験という名の適当な調味料投入だ。レシピを守る、先達の教えを守るのは大原則である。もっとも、そのちゃんと計量していた塩だって海ではない何かから抽出しているせいで台無しなのだが。
「んで、そんな繊細な調理と比べてそれまではどうだったのか、私は元料理長から話を聞いてきたんだよ。食えば食うほど寿命の減りそうな調味料ドバドバ料理だったらしいな」
「はい。思い出すだけで胃がもたれますよ……」
見た目だけで満腹になりそうな畜生界らしい畜生料理の数々を想像し、セツの眉間にしわが寄った。素材の味を台無しにする前門の虎、生かしてはならない素材の味を生かした後門の狼。彼はこの二つに挟まれ、そして後者に敗北したのだ。
『畜生界では舌がお馬鹿さんだった方が幸せなのかしらね……それはそうと、そんな畜生界の食材っていったいどこで生産しているんです?』
「霊長園でございます。一部の魚介類は三途の川からも仕入れているはずですが」
『はあ、霊長園。埴輪が闊歩している、あの?』
「……ええ。忌々しき埴輪の邪神が支配する、あの場所でございます」
現在の霊長園は埴輪造りを趣味とする創造神が治めている。彼女が創り出した物は全てに命が宿り、一時はその兵力を持って畜生界を完全征服する手前まで来ていた。鬼傑組の策略で博麗の巫女というジョーカーさえ来なければ、今頃は頸牙組も犬型の埴輪になっていただろう。
「何か、畜生界の食材がおかしい理由もお察しだな。魚だけはマシだったのもそれか」
『と言いますか、十中八九それでしょう。どうして埴安神様の領域で育った食材なんか使ってるのかしら』
「奴隷農場はあそこにしか無いもので……」
『申し申し、こちら豊聡耳。農業というのは不安定だ。生産拠点は多すぎるくらいで丁度いいと伝えておいてくれ』
「はっ。玉音として必ずやお伝えします」
神子の声。霊長園では人間霊が奴隷としてこき使われている件は神子も聞き及んでいるが、農民をいかに奴隷が如く働かせるかと考えるのは彼女も同じである。故にそこは触れない。
「何にせよ、見学するのが一番手っ取り早そうだな。行ってみるか、霊長園とやらに」
『頼む、屠自古。私も刺激的な料理はあまり好みでないからね』
話はまとまった。早死にしそうな料理は嫌いな神子のため、生かすべき味を持っている食材を生産できるか霊長園を調査しよう。さあ早速出発だと二人が立ち上がった、そんな折だった──。
「やはり霊長園か。私も同行しよう……」
セツの首がねじ切れそうなほど勢いよく回転した。
何故ならば、この話を最も聞いてはならない人物が扉からすうっと現れたからである。忘れがちだが埴輪と神以外はみな霊魂が畜生界なのだ。
「く、驪駒様ッ!」
そこに居たのは組長の威厳など欠片も残っていない、青ざめた顔の早鬼だった。
「黒駒、どうしてそこに……」
「よくよく考えたら、そちらで普段の料理を供している蘇我殿の口に合わなければ太子様も駄目ではないかと気付いて、一度話を聞こうと……」
思ったのだが屠自古とセツの密談を扉の前で聞いてしまったらしい。打ちひしがれず、そこから一歩踏み込めたのは彼女に残った最後の勇気である。
『あいやー、いったいいつから聞かれていたのですか。お札越しでなければ気付けたものを』
答えはほぼ最初からだ。セツが屠自古の部屋にこっそり入るのを見付けて何事かと聞き耳を立てていた。
「その声は、大陸の仙人様か。太子様もそちらに居らっしゃるのですよね……?」
『あー、うむ。情けない声を出すな、黒駒。部下の前でみっともない姿を見せてはならぬ』
「は、ハイっ!」
虚勢だが早鬼の声に力が戻った。なお、わりと情けない姿も目の当たりにしている神子の部下一同は一瞬だけ遠い目をしていたりする。
「……黒駒、これは単なる私のお節介なんだ。だからセツは責めないでくれ」
「心配ご無用。むしろ貴方に思いやってもらえる部下を持てたと光栄だ」
セツは目を閉じて頭を垂れた。お節介だったとしても、セツの主導無くして畜生界に来るなどあり得ない。早鬼にもそれは分かるのだ。
「……何となく察してはいたんだ。お前も私の料理は不味いと思っていたのだろうと」
「いえ、そんなことは! そんなことは決して……!」
無い、と言いたいのだがそれはあまりにも往生際が悪い。
「ああ、不味いとかそんなこと言ってられる次元じゃないぞ。人の食い物じゃないからな」
「蘇我様ァ!」
『屠自古ォ!』
おにぎりと生卵で二回殺されている屠自古はどうしても言いたかったらしい。早鬼は心臓の前でぎゅっと手を組んだ。
「ぐッ……いや、いい! はっきり言ってくれて感謝する。セツ、お前にだって本当に美味いと思う物を食べさせたい。我慢なんてしてほしくないんだよ」
「ええ、ええ……」
直情的で嘘を嫌うからこそ、自分のせいでセツを嘘つきにしたのが許せなかった。それが自身の腕ではなく食材のせいであったとしてもだ。
『行くのだ、黒駒。行って美食を探し求めろ。そして私達に美味い料理を食べさせてくれ』
「はい……必ずや!」
何となくそれっぽい事を言って誤魔化そうという神子の声に対し、早鬼は深いお辞儀で応えた。今ここに居るのは聖徳太子の関係者のみ。組長の立場を忘れ、あの頃の黒駒として振る舞うことに何の障害もない。
『まあ結局ダメでセツさんも嫌になったらこっちに避難してくればいいですよ。もう同じ不味い釜の飯を食べた仲間ですからね』(青娥殿、言い方!)
これが単なるメシマズ組長の再調教なだけだと邪仙が思い出させてくれる。ともかく、組長直々の視察という大義名分の下に、霊長園の実態調査隊が結成されたのであった。
◇
「……アレか、黒駒」
「アレ、のようだな」
「ええ、間違いなく」
霊長園の頸牙組領を訪れた三人の目に映る、明らかな異質。それは一言で表すならば邪教の儀式だ。
早鬼と大して背丈の変わらない土像が、数体の動物霊に取り囲まれて黒い液体をかけられ続けている。それだけなら勝手にカルトでもやっていろという話だが、大問題な点が一つ。
あろうことかその狂宴は早鬼の畑のド真ん中で行われているのだ。
周囲には働かされている人間霊も居るが、止める気も力も無いので見て見ぬ振りである。止めたところで生活が向上するでもなし、関わっても何も良いことはない。奴隷はルーチンワークでしか動かない。
だからこそ──。
「何さらしとんじゃおんどりゃァアアア!!」
『屠自古ォ!?』
誰もやらないなら自分がやる。屠自古が暴言を撒き散らし、お札の向こうが焦って止める流れも恒例になりつつあった。
何であれ、異常行動を取っていた動物霊達の動きもピタリと止まる。蘇我の雷効果は勿論、驪駒早鬼その人の姿まで目の当たりにして無視できる者は畜生界に居ない。
『っぷふ……屠自古さん、状況説明をお願いします』
「笑うなっつの。んで、土で出来た像に鳥……いや、オオワシ霊が黒い水をぶっかけてる。畑はそれでぐっちゃぐちゃだ」
『墨汁か何かかしら?』
「いや、この油臭さは間違いなく石油だろう。何考えてんだこの馬鹿鳥は」
先程は勢いでキレてみせた屠自古だが、真に怒っているのは自分のシマを珍妙な行為で穢されている早鬼だ。あえて泥を跳ね飛ばす大股でオオワシ霊の下に歩み寄り、そのまま潰してしまいそうな握力で掴みかかった。
「お前ら、剛欲同盟だな。こういう策ですらない卑劣な嫌がらせはいかにも饕餮が好みそうだものなあ?」
『グッ、饕餮様の侮辱は許さん……!』
オオワシも負けていなかった。早鬼に気道を締められてなお殺気が消えていない。
「おい、胃を口から吐き出しそうになったのはテメェらが畑に妙なもんぶち撒けやがったせいか。お前も排泄腔から内蔵引っ張り出されてェか!?」
「蘇我殿、そういった事は私がやるから貴方はもっとお淑やかに……」
「あ、スマン」
蘇我様はそんな事言わない。目の前で起き続けの解釈違いに早鬼の心は泣いていた。しかし今はそこで足踏みなどしていられない。
「……饕餮の目的は兵糧攻めか? 生憎とな、畑に臭水を撒いた程度で参るほどウチの兵はヤワじゃないぞ」
セツは申し訳ない様子で早鬼唯一の死角となる真後ろに移動した。
『それなら土地ごと買収しているわ! 貴重な作物を台無しにするほど饕餮様は愚かでない!』
「なら吐け! 饕餮は何がしたいのだ。言わぬならお前達を瓶詰めにして饕餮に送り付けるまでよ!」
『無駄だ! そんな事をしたところで饕餮様はな、饕餮様はな……!』
オオワシ達がブルブルと震え、背筋が凍るような気味の悪い空気が漂った。屠自古はこれをよく知っている。暗闇の中でもがく魂から滲み出す怨恨そのものだ。それ程にこの霊達は恨みを溜め込んでいるのだと理解した彼女は、距離を取って身構え──。
『出陣の準備をしたまま消息が不明なのだからな!!』
その肩がずるっと下がった。オオワシ達の目に涙が浮かんでいたからである。
『一足遅れを取ったが地上侵略作戦を開始すると告げられたのが二年前……だが体調不良などを理由に延期を重ね、療養として旧地獄へ湯治に行くと告げられ、そしてついには音信不通になってしまわれたのだッ!』
「あ? あー……そういえば、アイツの顔を最後に見たのは何年前だったかな」
『頸牙組は仕方ないが、あろうことか我々剛欲同盟ですら饕餮様の顔を思い出せない者が出てくる始末。そもそも知らない新人までいる! だからこうやって各地に土像を造っているのだ!』
「いや、ならば石油をかけて台無しにしているのは何故だ」
当然の疑問が早鬼の口をついた。それさえ無ければ彼女の料理だってもっと食べ物の味をしていたかもしれない。
『湧き出た石油は止まらないからな!』
そしてオオワシ達の口も止まらない。
『計画に必要だからとせっかく探し当てた油田も、使わければただの面倒で臭い水……貯蔵するにもタンクは限界。だからこれは有効活用なのである!』
「こんな怨念まみれの石油を吸ったら食材もおかしくなるわな……」
石油を吸ったことで生物として死に、無機物にも命を宿らせる埴安神の力とオオワシの怨念がごちゃ混ぜになった結果。それがあのもがく卵などのゲテモノ食材だったのだろう。
「本当に有効活用か? いつまでも出てこない饕餮への八つ当たりではなく?」
「……それも、無くは無いと言えないこともない。しかしこれぐらいの執念を込めなければ行方不明の饕餮様にも届きはせん! あの御方の目に入るまで我々はこの活動を続け……!」
「ナメた事ヌカしてんじゃねえぞボケェ!!」
「蘇我殿ォ!」
「蘇我様ァ!」
『屠自古さんッ!』
組長とその腹心と邪仙が揃って青ざめる程、屠自古の声は霊長園のエレクトリックな空気を揺るがした。
「お前らの計画が何だか知らないがなあ……いつ帰ってくるのか分からないまま二年だ? 上司が目覚めるまでこっちがどれだけ待ちぼうけにさせられたと思ってやがる。千と三百だか四百年だかに比べればまばたき一回分だバカヤローッ!!」
『……ですってよ、豊聡耳の布都様』
(はい、すみません)(その節はどうも青娥殿にもご迷惑を)
札の向こうで小さく神子と布都の謝る声がする。姿は確認できないが、きっと正座をしているに違いない。
「その饕餮って奴の事は知らんがお前らの一番上で慕ってるんだろ!? だったらその日が来るまで信じて待て! 石油なんか地上に溢れさせておけば欲の皮張った奴が勝手に吸ってくれるわ!」
『ハ、ハイ……』
オオワシ達は屠自古の恫喝にあっさりと屈した。元々彼らだってやりきれない思いから及んだ凶行なのである。ちょっと道を正してやればこの通りだ。
「反省したなら後片付けだ! そこの役立たずの豚共、お前らも一緒に掃除しとけよ!」
『ハイ……』
畑の隅で成り行きを眺めていた人間霊にも屠自古の罵声が飛んだ。普通に考えれば何で同類が命令しているのかとなるところだが、彼女のやんごとなきヤンキーな空気には逆らえなかった。
「これにて、一件落着ッ! 帰るぞ!」
「あ、ハイ……」
石油でぐちゃぐちゃな畑の後始末をするオオワシと人間霊を尻目に、屠自古は馬と犬をお供に連れて悠々と帰っていくのだった。
頸牙組長としての仕事を奪われたものの、屠自古が居なければ自身の領地で起きていた蛮行とそれによる腹心の苦しみを知ることもなかった。だからこれは良い結果のはずである。それなのに、早鬼の胸で渦巻く悲しみは一体何なのか。
『少々耳が痛かったが解決したようだね。よくやった、屠自古。それに黒駒とセツも協力に感謝する』
「いえ、こちらこそ太子様に気を遣っていただき真に感激しておりますッ!」
しかし早鬼は単純なので神子の言葉一つで簡単に立ち直るのであった。
◇
「……どうでしょうか」
卵焼きは焦げ目一つなく丁寧に焼き上がっていた。やはり見かけによらず繊細な早鬼らしい仕事である。
万が一に備えて一応匂いも確認するが、臭水が原因と思われるような悪臭は感じない。屠自古は安心して一切れを頬張った。もっとも、これは地上由来で手足のない卵を使ったのだから変な臭いがするはずもないのだが。
「うん、美味い。とても良く出来ているよ」
ほんのりと出汁の効いた関西風の卵焼きだ。いくら腕が有っても味を二百パーセント損ねる素材から開放された早鬼の料理はその真価を存分に発揮していた。
「ええ、合格ね」
屠自古の横で青娥もうんうんと首を縦に振った。どうせ暇だし、暇だとろくな事をしないからと食材のお届けを命じられて地の底まで降りていたのだ。早鬼にバレているので合流も気兼ねなくできた。
「わざわざ地上から持ってきた甲斐がありました。あのおにぎりの作者と同一人物とは信じられないもの」
「ああ、良かった……! セツ、お前は……どうだ?」
「……はい、いつも以上に大変美味しゅうございます」
「まったく、こんな時まで無駄な嘘をつくな。いつもは不味いと思っていた事も顔を見たらはっきり分かったよ」
セツの顔は幸せに満ちていた。ゲテモノを食わされていた時に無理やり曲げていたような作り笑いではない、正真正銘の微笑みがそこにあった。
あの悪魔的集会を潰した後日、早鬼の私室を使って手料理検証会が極秘に開催されていた。見張りも増員したので今後は畑に石油が撒かれたりしないだろうが、クリーンな食材はまだ当分出荷されないので青娥がパシらされた次第である。
「う~ん……この肉じゃがも絶妙な柔らかさで仕上がってるわね。屠自古さんより上なんじゃない?」
「へーへー、どうせ私は大雑把だよ。それでもみんなが美味く食ってくれるんだからいいだろ」
屠自古と早鬼の違いを一言で言うなら主婦と職人だ。時短、節約を良しとする前者と、凝り性の後者。だからと言ってどちらが優れているという話ではない。そもそも二人は幽霊なのだから生きる為の糧を作る事自体が酔狂なのだ。
「それにしても、本人は舌が良くないみたいなのにどうしてこんなに美味くなるのか……」
「いや、そのぅ。レシピは前の料理長に聞いたりセツに頼んでいたので……」
早鬼は恥ずかしいのか横を向き、腰の上で指を絡めて弄んだ。本棚をよく見れば、どこから入手してきたのか地上でも見覚えのある料理本やら、小さな食堂を切り盛りする少年が様々なライバルと料理対決する漫画まで置いてある。
どう見ても勉強家ではなさそうな早鬼が、惚れ込んだ人物に料理を食べさせたい一心で本まで読み込んでいたのだ。
「……あらあら、乙女ですわねえ」
ヤクザだって夢見る女の子にさせてしまう。恋とはそういうものである。
『死してなお私に尽くしてくれる者がいる。本当に私は果報者だよ』『いやいや、それも太子様の人徳なればこそで御座います』
まだ生きていたお札通信から神子と布都のヨイショ会話が聞こえてくる。ゲテモノ料理が来ないと分かったからか、その声はとても穏やかだった。
「何はともあれ、これなら太子様にも食べていただけると保証するよ。いや、大したもんだよ黒駒」
屠自古はにこやかに親指を立てた。確認だが、当初の目的はあの異次元の料理もどきを神霊廟に持ち込ませない為である。何故か早鬼やオオワシ霊のメンタルケアまでする羽目になったが結果オーライだ。
「……いや、その話は一度無かったことにしていただきたい」
赤らんでいた早鬼の顔からすっと血が引いた。
「確かに私は太子様にも食べていただきたかったが……そのせいで同じくらい大事な配下を悩ませていると気付けなかった。そんな独り善がりが作った料理を供するわけにはいかない。それに、作るならやはりこちらの食材を使いたいのだ。それでセツや皆に心から美味いと言わせるのが今の私の目標だ」
「はい、驪駒様……!」
そこに居たのは恋する乙女やセンチメンタルな飼馬ではない、人の上に立つ者としての矜持に満ち溢れた組長、驪駒早鬼だった。
「どうやら果報者はこっちにも居たようだな」
「ええ、全く。お互いに幸せですね」
権力の座に就いただけでは信頼し合う上司と部下の関係は築けない。忠臣は美食と違って金を積めば得られるものではない。尽くす者と長たる者、どちらにも恵まれなければならないのだ。二人は早鬼とセツの間に流れる地獄とは思えないほど心地よい空気を堪能した。
「……さて、私達はこれでお役御免でしょうか。太子様も屠自古さんの料理が恋しくなっている頃でしょうし、ささっと帰って晩ご飯を作りましょ」
「ああ、それなんだが」
「はい?」
伸びをしていた青娥が不穏な空気を感じ取ってぴたりと止まった。会話には流れというものがある。大団円でお開きムードをぶった切る屠自古の発言を警戒しても何ら不思議ではない。
「少し悩んだがこっちに残ろうと思う」
「はい?」
大事なので青娥は同じ台詞を二度繰り返した。
「こっちに来てから私の何かが開放された気がするんだ。ガン付けてくる相手とバチバチ火花を散らし合うあの高揚感、大声で相手を縮こませる爽快感……これこそが私の本当に求めていたものだったのかもしれない」
「はい?」
大事なので三度繰り返した。
「そういう事なんで私は頸牙組に正式に入るから。太子様にもよろしく言っといてくれ」
「た、太子様ぁーーーーーー!」
全くよろしくない宣言に、青娥らしからぬ金切り声が室内にこだました。
『屠自古ォ!』
「なりませんぞ蘇我様ァ!!」
敬愛する聖徳太子の部下が自分の配下に鞍替えなどあってはならない。というかあのノリをずっと続けられたらどっちが組長なのか分からなくなるから勘弁してほしい。早鬼最大級の地雷となり得る未曾有の危機で、それまでのめでたしムードは完全にぶち壊されてしまうのだった。
その後、神霊廟と頸牙組総出で屠自古の説得に当たり、空気に流されただけの一時の気の迷いと思わせることになんとか成功した。とんだ珍事になってしまったが、初めての共同作業を経たのがきっかけとなって二つの勢力の間に僅かながら交流も生まれたのは幸いと言えよう。
雪のように白い犬を溺愛していたと史書にも記されている愛犬家の神子は、時たま訪れるようになった馬と犬の霊にも大層ご満悦だったそうである。
厳密に言うとその隣にある世界なので地獄ではないのだが、概ね地獄だと思っていただきたい。
何故このように改めて述べたのか。それは畜生界をさらに地獄に近付ける存在が新たに生まれてしまったからだ。
頸牙組の組長にして畜生界最強の座に君臨するブラックペガサス、驪駒早鬼。運営に関わる諸問題を圧倒的な暴力で解決してきた彼女の組が今、自身の暴力的な問題によって地獄と化していた。
メシがマズかったのである。
◇
「……つまり、黒駒の飯が不味いから助けてくれ、と?」
仙界の神霊廟に住まう生まれ変わった聖徳太子、尸解仙の豊聡耳神子を訪ねていたのは一匹の白い犬だった。
「はい。全くもってお恥ずかしい話ですがその通りでございます」
卓を挟んで神子の対面に座る犬が、目を閉じてゆっくりと頷く。いや、彼を犬と呼ぶには少し語弊があるだろう。尻尾と犬の耳が頭から生えている以外は、人と全く同じ形をしていたからだ。
幻想郷には不釣り合いな黒いスーツ、切れ長の顔に細い眼鏡を掛け、尻尾と同じ白髪をオールバックで整えている。例えるならば、白狼天狗のガラを二十倍悪くしたような人物だ。
「そうか、あの子の右腕が極秘で来るほどにその料理は……」
「それさえなければあの方への忠誠は揺るぎないのですが……」
犬人間の名前はセツという。いわゆる脳筋ばかりの頸牙組では希少な頭脳派の幹部である。畜生界の死者はほとんどが霊魂として飛び回っているが、ごく稀に早鬼や鬼傑組の吉弔八千慧のように人の姿を取っている実力者がいる。彼もまたその一匹なのだ。
さて、話はこうである。
組員の腹は自分で膨らませてやってこその組長だろうと唐突に開眼してしまった早鬼。これからは料理長とも呼べと宣言して組の食堂に居着いてしまう。しかしそれまで早鬼が料理する姿を見た者など一匹も居ないのだから案の定と言うべきか、予定調和にメシマズ組長が誕生してしまった。
食べないわけにもいかず、不味いとも直に言えない組員が悩んだ末に、懐刀を代表として神霊廟に助けを求めたというわけだ。
「んーでも、早鬼ちゃんのお料理って本当に美味しくないのかしら」
「芳香もそう思います」
机の横からふらふらと口を挟んだのは、神子を道教へと誘った元凶の霍青娥だ。便乗したのはお供のキョンシー、宮古芳香。
「確かに。馬の主食は草ですからな」
「まあ調理次第だが、サラダをイヌの仲間が喜んでは食わんよな」
同席していた物部布都、蘇我屠自古も頷いた。馬が長の頸牙組だが、その構成員はオオカミを始めとする肉食獣がほとんどだ。味覚が合わなくて当然だろう。
「……実は、それこそが問題なのですよ」
セツは顔の前で手を組んで大きく息を吐いた。
「大半の組員には受けが良いのです。むしろ不味いと感じている我々の方が少数派という有り様でして」
「ふむ。それでは好みの問題で、私が出る幕は無くなってしまうね」
「はい……ですから論より証拠ですね」
神子の言葉を受けたセツが、鞄から封印していた箱を取り出した。地上の視察で遠出するなら腹も減るだろうと、早鬼が持たせてくれた特大お弁当箱である。
「……私は驪駒様が自分のために作ってくださった事実だけでお腹がいっぱいですので、どうぞ皆さんで」
ものは言いようである。差し出された箱の中にぎっしり敷き詰められていたのは、海苔のような黒い何かに覆われた丸い塊だ。一般的にはおにぎりと呼ばれる代物だろう。一般的なら。
早鬼はこの細身の男が神霊廟全員に行き渡るほどの量を食べると思って詰めたのだろうか。
「飼っていた馬が握った飯か。不思議な気分だよ」
神子が一つ手に取ったのを皮切りに、一同もそれぞれ一個。手の感触は湿気った海苔そのものだのに、胸をよぎる言い知れようのない不安。しかし食べずには始まらないと、五人は『せーの』でおにぎり?にかぶりついた。
「おぶっ」「げえっ!」「かはっ!」「えぅ……」「ぶっふー!」
──ダメだった。
「これは命への冒涜である!」
何でも食うのが自慢であるはずの芳香が吠えた。ゾンビでも怒る不味さだったらしい。
「米が生きてる……口の中で生きてる……」
神子は口を押さえて目を剥いた。しかしどれほどゲテモノでも皆の前で吐き出すまいという皇子の意地で何とか飲み込んだ。
「……具は鮭か? 塩鮭に米が勝ってるおにぎりなんて初めてだぞ」
「はい。ジェノサイドキングサーモンのおにぎりです」
屠自古の怒りに淡々と答えるセツ。畜生界だけあって食材の名前も地獄テイストのようだ。
「これで驪駒様の腕前はよくご理解いただけたかと存じます。だからといって不味いなどとあの方の前で口走りませんように。貴方達は始末したくありませんので」
神子信者の集まりが神霊廟だが、この犬もなかなかに病的な驪駒信者である。だから料理の腕が悪化するのではないか、と一同に疑問もよぎる。
「さて、さらなる問題がありまして、いずれは太子様を招いて自慢の手料理をご馳走したいと、驪駒様はそう仰られまして……」
「黒駒が、私を……?」
神子の目はおにぎりを噛んだ跡とセツの顔の間で泳いでいた。おにぎりでこの破壊力である。これが手の込んだ料理だったらどうなるのか、想像もしたくない。
「論外じゃ! このような物を太子様に食わせるようであれば、例え黒駒でも容赦はせんぞ!」
「これを褒め称える畜生界の味覚レベルはどうなっているのかしら……」
布都と青娥もこの言い草だが、それを一番思っているのが他でもないセツ本人なので何も言えなかった。
「ですからこのセツ、恥を忍んでお頼み申し上げます。太子様の今後の為にも、どうか驪駒様を何とかしていただけないでしょうか!」
肝心の部分が『何とか』という非常に曖昧な言い方になってしまったが、深々と頭を下げるセツの何とかしてほしい気持ちは一同にも十分伝わった。これは何とかすべきだ。
では人選である。しかし、お前の飯が不味いから何とかしに来たと正面から言えば、早鬼が心を病む可能性がある為ちょっとした言い訳が必要だ。それに畜生界が死者の世界である事も踏まえると、白羽の矢が立つのは一人しかいない。
「まあ、そうなるとは思いましたよ。行ってきます」
怨霊の屠自古が、渋々と顔を縦に振るのだった。
◇
『どうして二本足のサルがここに居やがるッ!』
『セツ、テメェ血迷ったか!?』
入室早々、側近のオオカミ霊から罵声が飛んだ。そういう所だからと事前に言われていたが、あまりにもそういう所すぎて屠自古はある種の痛快さすら感じた。
──カッ!
「まあ、待て」
ブーツを打ち合わせる音。それだけで配下がピタリと静まった。流石に組長というだけあって、驪駒早鬼は他の畜生とは違う貫禄に溢れていた。
「まずは視察ご苦労だったな、セツ。その話は後で聞くとして、隣の女性からは懐かしい匂いがするな。もしかしてだが……!」
「ああ、蘇我だ。蘇我屠自古だよ。太子様だけじゃなく私も覚えていてくれて嬉しいよ、黒駒。いや、驪駒様と呼ぶべきかな?」
早鬼は組んでいた脚を直して屠自古に正対した。
「……いいや、私は死してなお甲斐の黒駒でもある。そちらは太子様の傍らにご健在と聞いていたが、よくぞここまで訪ねてくださった。今日は何用で来られたのか?」
「あー……その太子様と物部の馬鹿が私の秘蔵酒を勝手に飲みやがってさあ。腹立ったんでちょっと家出してやった矢先にこのセツと出会ったわけだ」
「はい。驪駒様からお話を聞いておりましたので、きっとお喜びになると思いお連れした次第です」
もちろん嘘である。酒は飲まれてないし、ここに来たのも神子の指令だ。とは言えいくら早鬼が馬と鹿の見分けができない頭扱いであっても、納得させるにはそれなりの理由が必要だった。
「ふふ、太子様は私が思っていたよりお茶目なようだな。では怒りが冷めるまで帰らないおつもりか?」
「そうだなあ、向こうから頭を下げに来るまでは」
「なるほど。それは私にとっても望外の喜びだ。狭いのは申し訳ないが部屋と布団なら用意しよう」
早鬼はそのカウガール風の衣装に似合うクールな笑みを浮かべた。本当は感激で顔が崩れそうになるのを必死に堪えながら。
「ありがとう。突然押し掛けたのにそこまでもてなしてくれるとは思わなかったよ。礼と言ってはなんだけど、飯や掃除ぐらいは手伝わせてほしい」
「飯……つまり普段太子様が召し上がっている食事か。それは私も味わってみたいな。ぜひお願いしよう」
よし。セツはほっと胸を撫で下ろした。
ここまでは計画通りである。上手いこと早鬼が立つ厨房に屠自古を送り、あとは自身の料理が神子には食べさせられないゲテモノである事をやんわりと自覚してくれれば万々歳だ。
もしくは屠自古の腕には絶対敵わないと知って厨房を去るのでもいい。早鬼は組長なのだ。支配者らしく飯は他人に作らせるべきだ。とにかくあの料理をこれ以上生み出さなければいい。
「タカハシ、部屋に案内してやってくれ」
『ハッ!』
「……待った。その前に落とし前を付けなきゃいけない事があるだろ?」
早鬼がオオカミ霊の一匹に命じるも、屠自古はそれを無視して動き出していた。早鬼が腰掛ける革張りの椅子、ではなくその奥にいる者に向けて。
「さっき私に二本足のサルって言いやがったのは……お前か?」
『え……ヒッ』
成り行きを呆然と眺めていた側近のオオカミ霊に掴みかかり、全身からバチバチと火花を散らせる。
「イキがってんじゃねえぞ生肉食いの犬畜生がッ! 目玉か下のタマかッ!? 雷落とされてえのはどっちだオラァ!!」
「蘇我殿ォ!!」
部屋のガラス棚がビリビリと震える。早鬼の声は屠自古の雷以上に雷轟と呼ぶに相応しい衝撃だった。屠自古が自身の方に視線を向けたと見るや、早鬼はすっくと立ち上がってホルスターに手を置いた。
「……部下の非礼は詫びよう。だが頸牙組は一人ひとりが私の一部なのだ。それを捥ぎ取るならば例え太子様でも牙を剥かねばならないが、貴方も我が心の一部である。私は自身の心を撃たねばならないのか?」
早鬼との間に緊迫感が生まれてつかの間、屠自古は手をぱっと開いてオオカミ霊を解き放った。まるで怒りを早鬼に奪われたかのようにその顔は穏やかであった。
「申し訳なかった。ここに居る以上は貴方に従うよ」
「ならば、今の事は水に流そう。明日からよろしく頼む」
「ああ、先の黒駒はまるで太子様のようだった。その雄姿は愛馬にもしっかりと受け継がれていたようで嬉しかったよ」
屠自古の暴走で一触即発の雰囲気となったが、話はそれでお開きとなった。屠自古がオオカミ霊の一匹に案内されて退室した後、早鬼は二人だけで話すからとセツ以外の組員も部屋から閉め出した。彼女を招いた張本人であるのだから、これからこってり絞られるのだろうと誰しもが思ったのだが──。
「セツぅ、どうしよう……蘇我様めっちゃくちゃ喧嘩っ早くて怖い……」
早鬼はめっちゃくちゃ頭を抱えていた。
「す、すみませんすみません! 出会った時はとても良い人そうだったのですが……!」
「よく覚えてるよ……私の事よく撫でてくれてたよ……」
「大丈夫です! 蘇我様も驪駒様に会うのを楽しみにしていましたから、おそらく軽いジョークだったのかと!」
「蘇我様と敵対したら太子様も敵じゃない……本当に大丈夫……?」
「はい、このセツが絶対にそのような事はさせませんから!」
うつむく早鬼をセツが必死になだめていた。元々の黒駒は歴史書にも遺されてしまうくらい繊細な馬だったのだ。畜生界で揉まれてすっかり暴れ馬になったが、三つ子の魂百まで。聖徳太子が関わるとセンチメンタルになる部分は今も変わらず、それをさらけ出せる相手は本当に数少ない。
『客人、蘇我屠自古。怒るととても怖いので、くれぐれも威圧しないように。驪駒早鬼』
このような通達も無抵抗で組員全体に浸透した。屠自古を敵に回してはならない。その恐ろしさはまさに雷のような速度で伝わったのであった。
『潜入成功おめでとうございますっふふ……くくくく、くっ……』
一方、空き部屋の屠自古。
彼女の衣服にべたべたと貼られたお札の一枚から、今にも暴発しそうな笑い声が漏れ出していた。
「お前、笑いすぎ」
『だってぇ……オラついてる屠自古さんが面白くて面白くて……』
声の主は青娥だ。かつて旧地獄の異変解決で役立った遠隔通信式を参考にしたテレフォンお札である。
「うーん、空気が畜生だからかここに居ると気持ちがオラオラになっちゃうんだよ。ヤクザ相手だからこれくらいでもいいかなと思ったんだが……」
『それで殺されたら元も子もないでしょう。ま、元々死んじゃってますけど』
「この体も元はお前が全ての始まりだけどな。とにかく厨房には入れてくれるからオッケーだろ」
『ええ、あの生物兵器だけは何としても阻止してくださいね。豊聡耳様と布都ちゃんも頼むと、ちょっと怖がりながら言ってます。屠自古さんがショックだったみたいですよ』
『こら!』『青娥殿!』
青娥に続いて神子と布都の小さな声も届く。どうやら神霊廟のみんなで札を取り囲んで先ほどのやり取りを盗聴していたらしい。
生きてるくせに他にやることはないのか。屠自古はそう思うのであった。
◇
『おザァスッ!』
「お、おう。おはよう」
翌日、三途の川から庭渡神のコケコッコーが響き渡るほどの早朝。屠自古は早速朝食の手伝いで食堂に入っていた。屠自古を見るや姿勢を正したのは、昨日脅した警護オオカミ霊の一体だと思われる。推測なのはどれも同じすぎて全く見分けられないからだ。
「手伝いに感謝します、蘇我殿。しかしそちらと畜生界の調理はまるで違うだろう。貴方はまず見るところから始めてくれ」
早鬼がベージュのエプロン姿で声をかける。真ん中には大きなニンジンがプリントされた可愛らしいデザインだ。料理にハマっていると聞いていたが、朝早くの厨房という辛い仕事にも参加するのだから情熱は本物のようだ。そこだけなら長の鑑なのであるが。
「ああ、お手並み拝見といこう」
あのゲテモノ料理を作る腕前を、と屠自古は心の中で付け足した。これで味が良ければ何も問題は無いのに。いや、セツの話では美味いと言う組員が大半らしいから、その差が生まれる理由を突き止めれば。屠自古の目は早鬼の一挙手一投足に注目した。
「今日はシンプルに三つ目魚の塩焼きと卵焼きだ。魚は切り身にしてあるのでまず卵から……」
「待て。黒駒、待って」
思わず掌を早鬼の前に突き出した。しかし止めたくなるほど奇妙な物を目の当たりにしてしまったのだからやむを得ない。三つ目魚はどうせ目が三つなだけだからこの際置いておくが、問題は卵である。
手足が生えていた。
「……これは孵化してんのか?」
「はっは、冗談がお上手だ。無精卵が孵化するはずないでしょう」
屠自古の知っている卵はハンプティ・ダンプティではない。ましてこれの手足は歩けるほど長くもなく、容器の中でジタバタと必死にもがいていた。割られる運命を前にして最後の抵抗だろうか。
「卵っていうか尻尾が無い蛙の子供だな。まあこれは白いが……」
『やだぁ。白いおたまじゃくしだなんて屠自古さんがそんないやらしい事を口に出して……』(黙っとれ邪仙!)
発声した札を平手でべちんと抑え込む。歳を取った者の朝は早い。早朝なのに青娥はしっかり起きていたらしい。
「うん? 今誰か?」
「さあ。発情期の猫が鳴いてただけだろう」(屠自古さん、ひどーい!)「それよりこの卵を説明してくれ。なぜ手と足があるんだ」
「生者の世界では違うのか? 畜生界の卵はこういう物だから私はそれしか知らないのだ。すまないな、蘇我殿」
『……うーん。卵とは命の根源ですから魂が拠り所に選びやすいのかしら。だから手足も生えてくると』(あー……卵が付喪神みたいになってるのか)
死人に詳しい青娥らしいシンプルな考察であった。そもそも死者の世界で何が卵を産んだのかも謎だが、とにかく畜生界の卵には手足がある。突っ込むのはもうやめだ。
「で、味は?」
ならば次の問題はそこである。グロテスクな見た目の生き物ほど美味いのはよくある話だ。不気味でも味さえ良ければ大体は許される。
「気になりますか。だったら一つ召し上がってみるといい」
早鬼は卵の一つをコツンと机の角にぶつけた。手足が一瞬だけピンと張り、すぐにぐでっと垂れ下がる。手から小さな器の中に解放されたその中身は、ぷっくりと黄身の盛り上がった新鮮な卵その物だ。
「うむ……」
見た目は美味そうなのに言い知れようのない不安。しかしここで怯えていても話が進まないと、恐る恐る溶いた卵をすすり──。
屠自古は流し台の前で肩を上下させていた。
「あ、歩いた……!!」
何をと思うだろうが溶き卵が口の中で歩いた。そんなはずが無くてもそうとしか言いようがなかったからそうなのだ。
「そうか……蘇我殿の口には合わないようだが、うちはこれでやっているのだ。それも踏まえて今日は見ていてほしい」
悶絶する屠自古を余所に、そこからの早鬼はまさに鬼のような働きだった。足が速ければ手も速い。元々使い慣れているのであろうドスもとい包丁を握り、鍋を振り回し、大勢居る組員の腹を満たさんと次々に料理を完成させていく。何も知らなければこれは間違いなく料理長の風格なのだろう。
しかし屠自古は知っていた。今も食堂の隅っこで、セツを含む数名の動物霊がちびちびとお茶を飲んでごまかしている。屠自古も一度そこに同席し、お互いに無言で大きく頷いた。この料理は人が食べられる物ではない。あれだけ常識外れの素材で作ってまともであるはずもない。メシマズの原因はこれで確定であろう。
ならば、次の疑問も発生する。なぜ動物霊でも食える食えないで二極化するのか、早鬼が厨房に立つまではどうしていたのかだ。
「──その辺りはどうなんよ、セツ」
地獄の朝食タイムと洗い物を済ませ、屠自古はセツと共に借りた部屋へ戻っていた。噴出した謎を解決するなら彼に聞くのが一番手っ取り早い。
「そうですね……あまり美味いと思える物ではないですが、驪駒様が入る前はそれでも食べられる味でした。皆がアレを平気な理由は私にも……」
『おそらく、あの子達は料理じゃなくて情報を食べているんですよ』
お札からさっそく青娥の通信が入った。お喋り好きなだけに禁止されていた状況は辛かったに違いない。
『基本的に死人は味覚も死んでいます。故に自分が何を食べているかの認識で満足感を覚える傾向があるのよね。仏壇のお供え物と一緒って言えば分かりやすいかしら』
「そうなのか? 私は味も分かっているつもりだが」
『屠自古さんは私の調整も入っているから当然ですよ。それと、生前に美食を知っていた死者は死後も味覚がしっかり残る傾向があるの。うちの芳香みたいにね』
『おう。青娥の料理はうまいぞぉー!』
おそらく青娥よりも遠いはずなのに、芳香の声はさらに大きかった。
『はい、ありがとうね芳香。だから、セツさんはきっと愛情の込もったご飯を食べていたのよ、幸か不幸か。一方で早鬼ちゃんは食べてたのは飼葉だから……』
セツはしばし、目を閉じて考え込んだ。彼には生きていた頃の記憶が残っているのだろうか。だが、雪のようにきらきらと光を跳ね返す真っ白な毛皮。それが生前からのものであれば、セツは間違いなく大事にされていたはずだ。
「……可能性はゼロではないでしょう。今はそれだけです」
「そうだな。じゃあ黒駒の腕についてだが、素材がアレでなければ普通に美味い飯が作れると思う。あいつは横暴に見えて細かい部分はやっぱり繊細なんだよ。ちゃんと塩の量とかも計ってたし」
『手足が生えている卵?ですものねえ……』
料理が珍味になる原因として多いのが目分量、長年の経験という名の適当な調味料投入だ。レシピを守る、先達の教えを守るのは大原則である。もっとも、そのちゃんと計量していた塩だって海ではない何かから抽出しているせいで台無しなのだが。
「んで、そんな繊細な調理と比べてそれまではどうだったのか、私は元料理長から話を聞いてきたんだよ。食えば食うほど寿命の減りそうな調味料ドバドバ料理だったらしいな」
「はい。思い出すだけで胃がもたれますよ……」
見た目だけで満腹になりそうな畜生界らしい畜生料理の数々を想像し、セツの眉間にしわが寄った。素材の味を台無しにする前門の虎、生かしてはならない素材の味を生かした後門の狼。彼はこの二つに挟まれ、そして後者に敗北したのだ。
『畜生界では舌がお馬鹿さんだった方が幸せなのかしらね……それはそうと、そんな畜生界の食材っていったいどこで生産しているんです?』
「霊長園でございます。一部の魚介類は三途の川からも仕入れているはずですが」
『はあ、霊長園。埴輪が闊歩している、あの?』
「……ええ。忌々しき埴輪の邪神が支配する、あの場所でございます」
現在の霊長園は埴輪造りを趣味とする創造神が治めている。彼女が創り出した物は全てに命が宿り、一時はその兵力を持って畜生界を完全征服する手前まで来ていた。鬼傑組の策略で博麗の巫女というジョーカーさえ来なければ、今頃は頸牙組も犬型の埴輪になっていただろう。
「何か、畜生界の食材がおかしい理由もお察しだな。魚だけはマシだったのもそれか」
『と言いますか、十中八九それでしょう。どうして埴安神様の領域で育った食材なんか使ってるのかしら』
「奴隷農場はあそこにしか無いもので……」
『申し申し、こちら豊聡耳。農業というのは不安定だ。生産拠点は多すぎるくらいで丁度いいと伝えておいてくれ』
「はっ。玉音として必ずやお伝えします」
神子の声。霊長園では人間霊が奴隷としてこき使われている件は神子も聞き及んでいるが、農民をいかに奴隷が如く働かせるかと考えるのは彼女も同じである。故にそこは触れない。
「何にせよ、見学するのが一番手っ取り早そうだな。行ってみるか、霊長園とやらに」
『頼む、屠自古。私も刺激的な料理はあまり好みでないからね』
話はまとまった。早死にしそうな料理は嫌いな神子のため、生かすべき味を持っている食材を生産できるか霊長園を調査しよう。さあ早速出発だと二人が立ち上がった、そんな折だった──。
「やはり霊長園か。私も同行しよう……」
セツの首がねじ切れそうなほど勢いよく回転した。
何故ならば、この話を最も聞いてはならない人物が扉からすうっと現れたからである。忘れがちだが埴輪と神以外はみな霊魂が畜生界なのだ。
「く、驪駒様ッ!」
そこに居たのは組長の威厳など欠片も残っていない、青ざめた顔の早鬼だった。
「黒駒、どうしてそこに……」
「よくよく考えたら、そちらで普段の料理を供している蘇我殿の口に合わなければ太子様も駄目ではないかと気付いて、一度話を聞こうと……」
思ったのだが屠自古とセツの密談を扉の前で聞いてしまったらしい。打ちひしがれず、そこから一歩踏み込めたのは彼女に残った最後の勇気である。
『あいやー、いったいいつから聞かれていたのですか。お札越しでなければ気付けたものを』
答えはほぼ最初からだ。セツが屠自古の部屋にこっそり入るのを見付けて何事かと聞き耳を立てていた。
「その声は、大陸の仙人様か。太子様もそちらに居らっしゃるのですよね……?」
『あー、うむ。情けない声を出すな、黒駒。部下の前でみっともない姿を見せてはならぬ』
「は、ハイっ!」
虚勢だが早鬼の声に力が戻った。なお、わりと情けない姿も目の当たりにしている神子の部下一同は一瞬だけ遠い目をしていたりする。
「……黒駒、これは単なる私のお節介なんだ。だからセツは責めないでくれ」
「心配ご無用。むしろ貴方に思いやってもらえる部下を持てたと光栄だ」
セツは目を閉じて頭を垂れた。お節介だったとしても、セツの主導無くして畜生界に来るなどあり得ない。早鬼にもそれは分かるのだ。
「……何となく察してはいたんだ。お前も私の料理は不味いと思っていたのだろうと」
「いえ、そんなことは! そんなことは決して……!」
無い、と言いたいのだがそれはあまりにも往生際が悪い。
「ああ、不味いとかそんなこと言ってられる次元じゃないぞ。人の食い物じゃないからな」
「蘇我様ァ!」
『屠自古ォ!』
おにぎりと生卵で二回殺されている屠自古はどうしても言いたかったらしい。早鬼は心臓の前でぎゅっと手を組んだ。
「ぐッ……いや、いい! はっきり言ってくれて感謝する。セツ、お前にだって本当に美味いと思う物を食べさせたい。我慢なんてしてほしくないんだよ」
「ええ、ええ……」
直情的で嘘を嫌うからこそ、自分のせいでセツを嘘つきにしたのが許せなかった。それが自身の腕ではなく食材のせいであったとしてもだ。
『行くのだ、黒駒。行って美食を探し求めろ。そして私達に美味い料理を食べさせてくれ』
「はい……必ずや!」
何となくそれっぽい事を言って誤魔化そうという神子の声に対し、早鬼は深いお辞儀で応えた。今ここに居るのは聖徳太子の関係者のみ。組長の立場を忘れ、あの頃の黒駒として振る舞うことに何の障害もない。
『まあ結局ダメでセツさんも嫌になったらこっちに避難してくればいいですよ。もう同じ不味い釜の飯を食べた仲間ですからね』(青娥殿、言い方!)
これが単なるメシマズ組長の再調教なだけだと邪仙が思い出させてくれる。ともかく、組長直々の視察という大義名分の下に、霊長園の実態調査隊が結成されたのであった。
◇
「……アレか、黒駒」
「アレ、のようだな」
「ええ、間違いなく」
霊長園の頸牙組領を訪れた三人の目に映る、明らかな異質。それは一言で表すならば邪教の儀式だ。
早鬼と大して背丈の変わらない土像が、数体の動物霊に取り囲まれて黒い液体をかけられ続けている。それだけなら勝手にカルトでもやっていろという話だが、大問題な点が一つ。
あろうことかその狂宴は早鬼の畑のド真ん中で行われているのだ。
周囲には働かされている人間霊も居るが、止める気も力も無いので見て見ぬ振りである。止めたところで生活が向上するでもなし、関わっても何も良いことはない。奴隷はルーチンワークでしか動かない。
だからこそ──。
「何さらしとんじゃおんどりゃァアアア!!」
『屠自古ォ!?』
誰もやらないなら自分がやる。屠自古が暴言を撒き散らし、お札の向こうが焦って止める流れも恒例になりつつあった。
何であれ、異常行動を取っていた動物霊達の動きもピタリと止まる。蘇我の雷効果は勿論、驪駒早鬼その人の姿まで目の当たりにして無視できる者は畜生界に居ない。
『っぷふ……屠自古さん、状況説明をお願いします』
「笑うなっつの。んで、土で出来た像に鳥……いや、オオワシ霊が黒い水をぶっかけてる。畑はそれでぐっちゃぐちゃだ」
『墨汁か何かかしら?』
「いや、この油臭さは間違いなく石油だろう。何考えてんだこの馬鹿鳥は」
先程は勢いでキレてみせた屠自古だが、真に怒っているのは自分のシマを珍妙な行為で穢されている早鬼だ。あえて泥を跳ね飛ばす大股でオオワシ霊の下に歩み寄り、そのまま潰してしまいそうな握力で掴みかかった。
「お前ら、剛欲同盟だな。こういう策ですらない卑劣な嫌がらせはいかにも饕餮が好みそうだものなあ?」
『グッ、饕餮様の侮辱は許さん……!』
オオワシも負けていなかった。早鬼に気道を締められてなお殺気が消えていない。
「おい、胃を口から吐き出しそうになったのはテメェらが畑に妙なもんぶち撒けやがったせいか。お前も排泄腔から内蔵引っ張り出されてェか!?」
「蘇我殿、そういった事は私がやるから貴方はもっとお淑やかに……」
「あ、スマン」
蘇我様はそんな事言わない。目の前で起き続けの解釈違いに早鬼の心は泣いていた。しかし今はそこで足踏みなどしていられない。
「……饕餮の目的は兵糧攻めか? 生憎とな、畑に臭水を撒いた程度で参るほどウチの兵はヤワじゃないぞ」
セツは申し訳ない様子で早鬼唯一の死角となる真後ろに移動した。
『それなら土地ごと買収しているわ! 貴重な作物を台無しにするほど饕餮様は愚かでない!』
「なら吐け! 饕餮は何がしたいのだ。言わぬならお前達を瓶詰めにして饕餮に送り付けるまでよ!」
『無駄だ! そんな事をしたところで饕餮様はな、饕餮様はな……!』
オオワシ達がブルブルと震え、背筋が凍るような気味の悪い空気が漂った。屠自古はこれをよく知っている。暗闇の中でもがく魂から滲み出す怨恨そのものだ。それ程にこの霊達は恨みを溜め込んでいるのだと理解した彼女は、距離を取って身構え──。
『出陣の準備をしたまま消息が不明なのだからな!!』
その肩がずるっと下がった。オオワシ達の目に涙が浮かんでいたからである。
『一足遅れを取ったが地上侵略作戦を開始すると告げられたのが二年前……だが体調不良などを理由に延期を重ね、療養として旧地獄へ湯治に行くと告げられ、そしてついには音信不通になってしまわれたのだッ!』
「あ? あー……そういえば、アイツの顔を最後に見たのは何年前だったかな」
『頸牙組は仕方ないが、あろうことか我々剛欲同盟ですら饕餮様の顔を思い出せない者が出てくる始末。そもそも知らない新人までいる! だからこうやって各地に土像を造っているのだ!』
「いや、ならば石油をかけて台無しにしているのは何故だ」
当然の疑問が早鬼の口をついた。それさえ無ければ彼女の料理だってもっと食べ物の味をしていたかもしれない。
『湧き出た石油は止まらないからな!』
そしてオオワシ達の口も止まらない。
『計画に必要だからとせっかく探し当てた油田も、使わければただの面倒で臭い水……貯蔵するにもタンクは限界。だからこれは有効活用なのである!』
「こんな怨念まみれの石油を吸ったら食材もおかしくなるわな……」
石油を吸ったことで生物として死に、無機物にも命を宿らせる埴安神の力とオオワシの怨念がごちゃ混ぜになった結果。それがあのもがく卵などのゲテモノ食材だったのだろう。
「本当に有効活用か? いつまでも出てこない饕餮への八つ当たりではなく?」
「……それも、無くは無いと言えないこともない。しかしこれぐらいの執念を込めなければ行方不明の饕餮様にも届きはせん! あの御方の目に入るまで我々はこの活動を続け……!」
「ナメた事ヌカしてんじゃねえぞボケェ!!」
「蘇我殿ォ!」
「蘇我様ァ!」
『屠自古さんッ!』
組長とその腹心と邪仙が揃って青ざめる程、屠自古の声は霊長園のエレクトリックな空気を揺るがした。
「お前らの計画が何だか知らないがなあ……いつ帰ってくるのか分からないまま二年だ? 上司が目覚めるまでこっちがどれだけ待ちぼうけにさせられたと思ってやがる。千と三百だか四百年だかに比べればまばたき一回分だバカヤローッ!!」
『……ですってよ、豊聡耳の布都様』
(はい、すみません)(その節はどうも青娥殿にもご迷惑を)
札の向こうで小さく神子と布都の謝る声がする。姿は確認できないが、きっと正座をしているに違いない。
「その饕餮って奴の事は知らんがお前らの一番上で慕ってるんだろ!? だったらその日が来るまで信じて待て! 石油なんか地上に溢れさせておけば欲の皮張った奴が勝手に吸ってくれるわ!」
『ハ、ハイ……』
オオワシ達は屠自古の恫喝にあっさりと屈した。元々彼らだってやりきれない思いから及んだ凶行なのである。ちょっと道を正してやればこの通りだ。
「反省したなら後片付けだ! そこの役立たずの豚共、お前らも一緒に掃除しとけよ!」
『ハイ……』
畑の隅で成り行きを眺めていた人間霊にも屠自古の罵声が飛んだ。普通に考えれば何で同類が命令しているのかとなるところだが、彼女のやんごとなきヤンキーな空気には逆らえなかった。
「これにて、一件落着ッ! 帰るぞ!」
「あ、ハイ……」
石油でぐちゃぐちゃな畑の後始末をするオオワシと人間霊を尻目に、屠自古は馬と犬をお供に連れて悠々と帰っていくのだった。
頸牙組長としての仕事を奪われたものの、屠自古が居なければ自身の領地で起きていた蛮行とそれによる腹心の苦しみを知ることもなかった。だからこれは良い結果のはずである。それなのに、早鬼の胸で渦巻く悲しみは一体何なのか。
『少々耳が痛かったが解決したようだね。よくやった、屠自古。それに黒駒とセツも協力に感謝する』
「いえ、こちらこそ太子様に気を遣っていただき真に感激しておりますッ!」
しかし早鬼は単純なので神子の言葉一つで簡単に立ち直るのであった。
◇
「……どうでしょうか」
卵焼きは焦げ目一つなく丁寧に焼き上がっていた。やはり見かけによらず繊細な早鬼らしい仕事である。
万が一に備えて一応匂いも確認するが、臭水が原因と思われるような悪臭は感じない。屠自古は安心して一切れを頬張った。もっとも、これは地上由来で手足のない卵を使ったのだから変な臭いがするはずもないのだが。
「うん、美味い。とても良く出来ているよ」
ほんのりと出汁の効いた関西風の卵焼きだ。いくら腕が有っても味を二百パーセント損ねる素材から開放された早鬼の料理はその真価を存分に発揮していた。
「ええ、合格ね」
屠自古の横で青娥もうんうんと首を縦に振った。どうせ暇だし、暇だとろくな事をしないからと食材のお届けを命じられて地の底まで降りていたのだ。早鬼にバレているので合流も気兼ねなくできた。
「わざわざ地上から持ってきた甲斐がありました。あのおにぎりの作者と同一人物とは信じられないもの」
「ああ、良かった……! セツ、お前は……どうだ?」
「……はい、いつも以上に大変美味しゅうございます」
「まったく、こんな時まで無駄な嘘をつくな。いつもは不味いと思っていた事も顔を見たらはっきり分かったよ」
セツの顔は幸せに満ちていた。ゲテモノを食わされていた時に無理やり曲げていたような作り笑いではない、正真正銘の微笑みがそこにあった。
あの悪魔的集会を潰した後日、早鬼の私室を使って手料理検証会が極秘に開催されていた。見張りも増員したので今後は畑に石油が撒かれたりしないだろうが、クリーンな食材はまだ当分出荷されないので青娥がパシらされた次第である。
「う~ん……この肉じゃがも絶妙な柔らかさで仕上がってるわね。屠自古さんより上なんじゃない?」
「へーへー、どうせ私は大雑把だよ。それでもみんなが美味く食ってくれるんだからいいだろ」
屠自古と早鬼の違いを一言で言うなら主婦と職人だ。時短、節約を良しとする前者と、凝り性の後者。だからと言ってどちらが優れているという話ではない。そもそも二人は幽霊なのだから生きる為の糧を作る事自体が酔狂なのだ。
「それにしても、本人は舌が良くないみたいなのにどうしてこんなに美味くなるのか……」
「いや、そのぅ。レシピは前の料理長に聞いたりセツに頼んでいたので……」
早鬼は恥ずかしいのか横を向き、腰の上で指を絡めて弄んだ。本棚をよく見れば、どこから入手してきたのか地上でも見覚えのある料理本やら、小さな食堂を切り盛りする少年が様々なライバルと料理対決する漫画まで置いてある。
どう見ても勉強家ではなさそうな早鬼が、惚れ込んだ人物に料理を食べさせたい一心で本まで読み込んでいたのだ。
「……あらあら、乙女ですわねえ」
ヤクザだって夢見る女の子にさせてしまう。恋とはそういうものである。
『死してなお私に尽くしてくれる者がいる。本当に私は果報者だよ』『いやいや、それも太子様の人徳なればこそで御座います』
まだ生きていたお札通信から神子と布都のヨイショ会話が聞こえてくる。ゲテモノ料理が来ないと分かったからか、その声はとても穏やかだった。
「何はともあれ、これなら太子様にも食べていただけると保証するよ。いや、大したもんだよ黒駒」
屠自古はにこやかに親指を立てた。確認だが、当初の目的はあの異次元の料理もどきを神霊廟に持ち込ませない為である。何故か早鬼やオオワシ霊のメンタルケアまでする羽目になったが結果オーライだ。
「……いや、その話は一度無かったことにしていただきたい」
赤らんでいた早鬼の顔からすっと血が引いた。
「確かに私は太子様にも食べていただきたかったが……そのせいで同じくらい大事な配下を悩ませていると気付けなかった。そんな独り善がりが作った料理を供するわけにはいかない。それに、作るならやはりこちらの食材を使いたいのだ。それでセツや皆に心から美味いと言わせるのが今の私の目標だ」
「はい、驪駒様……!」
そこに居たのは恋する乙女やセンチメンタルな飼馬ではない、人の上に立つ者としての矜持に満ち溢れた組長、驪駒早鬼だった。
「どうやら果報者はこっちにも居たようだな」
「ええ、全く。お互いに幸せですね」
権力の座に就いただけでは信頼し合う上司と部下の関係は築けない。忠臣は美食と違って金を積めば得られるものではない。尽くす者と長たる者、どちらにも恵まれなければならないのだ。二人は早鬼とセツの間に流れる地獄とは思えないほど心地よい空気を堪能した。
「……さて、私達はこれでお役御免でしょうか。太子様も屠自古さんの料理が恋しくなっている頃でしょうし、ささっと帰って晩ご飯を作りましょ」
「ああ、それなんだが」
「はい?」
伸びをしていた青娥が不穏な空気を感じ取ってぴたりと止まった。会話には流れというものがある。大団円でお開きムードをぶった切る屠自古の発言を警戒しても何ら不思議ではない。
「少し悩んだがこっちに残ろうと思う」
「はい?」
大事なので青娥は同じ台詞を二度繰り返した。
「こっちに来てから私の何かが開放された気がするんだ。ガン付けてくる相手とバチバチ火花を散らし合うあの高揚感、大声で相手を縮こませる爽快感……これこそが私の本当に求めていたものだったのかもしれない」
「はい?」
大事なので三度繰り返した。
「そういう事なんで私は頸牙組に正式に入るから。太子様にもよろしく言っといてくれ」
「た、太子様ぁーーーーーー!」
全くよろしくない宣言に、青娥らしからぬ金切り声が室内にこだました。
『屠自古ォ!』
「なりませんぞ蘇我様ァ!!」
敬愛する聖徳太子の部下が自分の配下に鞍替えなどあってはならない。というかあのノリをずっと続けられたらどっちが組長なのか分からなくなるから勘弁してほしい。早鬼最大級の地雷となり得る未曾有の危機で、それまでのめでたしムードは完全にぶち壊されてしまうのだった。
その後、神霊廟と頸牙組総出で屠自古の説得に当たり、空気に流されただけの一時の気の迷いと思わせることになんとか成功した。とんだ珍事になってしまったが、初めての共同作業を経たのがきっかけとなって二つの勢力の間に僅かながら交流も生まれたのは幸いと言えよう。
雪のように白い犬を溺愛していたと史書にも記されている愛犬家の神子は、時たま訪れるようになった馬と犬の霊にも大層ご満悦だったそうである。
あふれ出るパロディ台詞に笑わされ、オラつく屠自古の台詞回しに笑わされ。どの部分でも笑わされる大変面白い作品でした。
すべてから解き放たれた屠自古が楽しげでした
センチメンタル驪駒もとてもよかったです