道路に転がっているヤマボウシの実からは、芝生を這いずり回る死にかけのカブトムシの匂いがする。
屏風のように狭い路地を巡るブロック塀を越えて、私有地と公道の境界なんぞ知ったこっちゃないとでもいう風に、彼女は腕を伸ばしている。周囲の白樫やベニカナメモチがこぢんまりと頭を丸められていたものだから、剪定された庭が並ぶ軒先に溶け込めていないその様は尚更目立った。足下の白線を越えていった落実は、軽トラに挽きつぶされたのか、弾けて果汁を引き延ばされた無残な姿を晒しているが、塀の直下では形の整った奇麗なものがゴロゴロ転がっている。
一つ摘まみ上げてみると、ブツブツとした表面に黄金色と唐紅が同居している完熟前のものだった。サクランボをイチゴで包装したような見た目なので、諏訪子が……化けものヘビイチゴだ、とか言って。子供をからかうのによく使っていたのを覚えている。
自分から進んで食ったことはないが、味は、水で薄めた蜂蜜を掛けた硬い杏に似ていて、山の果実の中ではマシな方だ。まあ、悪戯に使われたことから、秋の味覚としてのその重要度はお察しの低さなのだが。見た目が悪いので、大量に収穫した際、山盛りのカゴにある種の嫌悪感を感じるのも、評価の低さに繋がっているだろうか。
摘まみ上げた手元に顔を近づけて、深呼吸と共に鼻腔に風を通す。より正確にこの香りを表現するならば、やはりただのカブトムシではなく、饐えて元気のないものが望ましい。昔、早苗がカブトムシとクワガタを飼っていた時に、小バエと謎の白い虫を大量に湧かせて飼育ケースを丸ごと駄目にしてしまった時があった。その時に、命からがら救出されて、境内の裏のクヌギになんとか貼り付かせてやった一匹。ああいうのが、整備された巨大な河川敷をずりずり動き回っている時の匂いだ。学校のグラウンドを侵食するようなスプロール化芝生ではなくて、青々としていて芝刈りの行き届いた清々しい緑地を、人工的に醸成された甲虫が当てもなく彷徨う光景。
……夏を凝縮した香り、とでも言えば、聞き心地が良いのかもしれない。青々とした葉が茂る季節から、その身体に夏をはち切れんばかりにため込んで、冷たい風と共に落ちてくる。ヤマボウシは、そういう果実だった。
この道を通れば歩行者の通行ルートを塞ぐように実が落ちているのは、ここ何十年と続いていた事だから、私はもう慣れてしまったが。きっと、本来は好き嫌い分かれる匂いなのだと思う。早苗は確か、好きだと言っていたっけ。私も……きっと、好き、だったと思うのだけれど。最近は、はっきりと好きだとは言えなくなってしまった。
それは、多分。ヤマボウシの実が……富士山の方角へと去って行った夏の裾を引っ張って、この地に留めたくなってしまうような、匂いだから。
私には二度と訪れないかもしれない季節に、縋り付くような。匂いだから。
何時から好きじゃなくなったんだっけ。諏訪子が喋らなくなってからだろうか。諏訪湖の眺望がガラリと変わってしまってからか。
それとも……私が老いた時からか。
西南の斜面が宅地として開発され、切り拓かれて行くようになった時は、今後一体どうなってしまうのかと、随分気をやったものだ。今となっては全てが夢の中の事だったかのように思える。何であんなに家が必要だったかを正確に覚えている人間が、どれだけいるのだろうか。
凸凹のアスファルト舗装が織りなす隙間に挟まったヤマボウシの実が、風に揺られるのを見ながら、ブロック塀の小径を抜けて見晴らしの良いY字路に出る。甲斐駒ヶ岳から伸びる緩やかなカーブの端として、諏訪湖の南を形作る山塊を一望できる地点だ。まず眼に入るのは、どでかい特別養護老人ホーム。その向こうに寺。目線を下方向に変えれば、虫食いだらけの宅地の中、その穴あきを埋めるように、介護老人保健施設、ケアハウスが点在している。
改めて眺めると、同チェーンの直営店とフランチャイズ店が国道沿いに立ち並ぶよりも奇妙な立地をしているな、と思う。山腹にある墓場の直下に建っている介護施設など、信仰も死生観も糞も無いといった風体だ。利用者が安らかに亡くなれば、直接テイク・アウトして山に担ぎ上げ、病状が重くなれば救急車でドライブ・スルーに乗って、諏訪中心部の大病院に運ばれていくのだろう。老衰とその付属の病が、流れ作業のようにベルトコンベアに乗って動いていく。それは、当たり前のように神妖が消えゆく世での、私の結末を暗示しているようで。行程が進んでいく様をひたすらに眺めるのは耐えがたいものだった。
ただ、この状況に老人達は不満の声を上げているのかといえば、別にそんなことはなく。小字を構成する門戸が皆無人になり、一つ一つ消滅していく行政区画を前にしても、彼らは足繁く介護施設に通うばかりだ。汗に塗れたぺちゃんこの煎餅布団の中で亡くなる老人はもういない。クーラーを付けずに、扇風機の柔らかな風だけで無理をする老人も、もういない。彼らは皆、清潔なベッドシーツの上で死んでいく。介護施設でも病院でも変わることなく、全てが正しく管理された白い寝台の中で死んでいく。その管理の幅は食事・睡眠は言うに及ばず、建物を丸ごと温度管理する事で、擬似的な気候さえも操るようになった人間の技術の下で、死ぬために生きることを命題として死んでいくのだ。
老人にとって、それが決して不幸では無いことは分かっている。人間も、現実的な問題を前にして社会を回していく為に、最大限の幸福を求めて選んだ結果なのは分かっている。装飾性が排された白い掛け布団の下で亡くなっていても、その死に顔は皆安らかに見えた。少なくとも、老人が一家に一人しか居なかった時代と、同じくらいには。
まずもって根本的に、エスカレーターさえ設置されていない神社にわざわざ歩いて登って、神様を崇め奉るよりも、老人ホームでの生活の方が快適なのだから。私にはどうしようもない。たとえ神様が自動車教習所に通って、介護施設がしているように送迎用のバンを乗り回しても、社の手前には必ず登山道に等しい傾斜と階段があるのだから。風で人を浮かす力さえ無い現状で、バリアフリーで車椅子も楽々入場出来る玄関を完備されては、市場の奪い合いで勝てるわけも無かった。
結局、私を信じてくれた年老いた人々に対して、与えられた神徳は雀の涙程だ。そんなサービスの悪い神に、新規の顧客が来ることも無い。そうして人口減少の傾きそのままに信仰が減っていけば、頭が回らなくなる。頭が回らなくなれば、信仰を維持する為の対策が出来なくなり、更に人足が廃れていく。老いが恐いのはこういう所だと思う。負の循環の中で、自分自身が穴空きに蝕まれていくのを為す術無く耐えるしかない。
どんなに苛立っても、嫌悪しても、むかついても……老いを畏れても。もう現状より更に素晴らしい提案は出てこない。人界の前に、私達神々の問題さえ解決できないのだから、当たり前なのだが。技術専門書を読み込んで官舎に押し入り、私が見える連中の頸根っこを引っ掴んで提言していたのは、もう遠い過去の話。あの好奇心旺盛な私は何処にも居ない。年老いて、死んだ技術に取り残された神は……もはや、何も出来ることは無い。
現代の諏訪に、八坂という神が必要とされる道理は、もう何処にも無くなってしまったのだ。
人気の無い住宅街の奥に広がる黒い水面の上を、一点の白い粒が飛んでいく。はぐれの渡り鳥かなにかだろうか。その点が辿る滑らかな軌跡は、湖面を歩けなくなった今の私にはひどく羨ましく映った。
美しい線を上空に浮かべ、うっとりと穏やかな波を立てる諏訪湖に対峙して。身体が溶け込んでしまいそうな水色の空に手をピンと伸ばしてから、あの白い鳥を目指して、ハンマーのように勢いよく振り下ろす。指先を撫でる空気の渦が押し潰されるのを嫌って、我先にと掌をかき分けて上へと逃げていった。昔なら、これが向かいの霧ヶ峰高原までの山肌を薙ぎ払う風撃に変わっていたはずだが。今はもう、無人となった家屋に立ち並ぶ、手入れ不足で大きく枝を広げた庭木を、そよそよと揺らすだけだ。
果たして、窓を大開きにした換気中ならば、快適な気候に設定された施設の中に居る、この息吹を認識してくれる人々の元にも私の風は届くのだろうか?
……鳥は、少しも体勢を崩した素振りも見せずに、諏訪の空を飛んでいる。私にはもう決して見ることが出来ない景色を、水に映して。飛んでいる。
「はーい、タナカさん、換気の時間です、窓開けますねー」
炊事場で皿を洗っていた職員が、小走りでやってきてかけたその言葉に、車椅子に座った男が返答することは無かった。
部屋の主の返答無いままに扉を開けて、クリーム色の壁に嵌められた引き違い窓を網戸に変えていく。窓を開け始めた直後の、ほんの数ミリ程度隙間が空いたときは、外気との交換で空気が圧縮されて、ビュウ、と勢いづいた音が鳴るけれど。全て網戸になってしまえば、音も無い柔らかな流れが頬を撫ぜるだけだった。
「あー涼しくていいですね、風が気持ち良いですよ」
山の斜面に建てられたこの小さな施設からは、諏訪湖はより一層狭く見える。いや、窓が小さいとか立地の難によるものでは無く、ただ単にすぐ手前の雑木林が荒れ放題で、賑やかな枯れ草達が視界を妨害しているだけなのだが。まあ、自由に歩き回れる人間にとっては、山の斜面にある何の変哲も無い木々草々が湖に割り込む遮蔽物だとは思わないのだろう。
空気の循環が起き始めた部屋の内外で、老いた死の匂いを纏った風は湖の方へと去って行き、山から降りてきた冷えた風が部屋の真ん中に陣取っていた。風は、ベッドの隙間から、野球の映像が流れるテレビの裏にまで浸透していき、目立たない埃を巻き立てて纏め上げ、装飾していく。
ベッド脇にある小机に到達した風によって、コルクのような素材で作られたボードに、水色のピンで刺された写真達がふらりと揺れた。男の家族との写真よりも、この施設で撮られた写真の方がずっと多いように見える。貼り付けられた紙の中には、鉛筆で描かれた男の似顔絵もあったが、きっとこれも、ここの誰かによって描かれたものなのだろう。男の孫はもう、大学を卒業するほどの年齢になっているはずだから。
「一度ベッドに戻りますか?」
二度、三度、声の調子と大きさを変えて、職員が同じ質問を何度か繰り返す。画面の中のピッチャーが二球を放る程度、辛抱強く返答が待たれると、車椅子の背もたれ近くで、震えるように頸が横に動き始めた。
「はーい、じゃ、しばらく風が気持ち良いからねー」
換気のチェック表に丸が入り、まるでさっきまで車椅子の隣にじっと佇んでいた時間が嘘のように、職員は忙しなく次の小部屋へと向かっていく。
室内の音は、おそらくは甲子園の録画映像であろうものを垂れ流すテレビのみに戻っていった。昔、長野代表によく選ばれていた高校がプレイしているので、もしかしたら最近のものでは無いのかもしれない。点数は一点差で負けている。高校球児達は、暑い夏の日の下で、ギラギラと逆転の為の眼を光らせていた。
男は、車椅子に座ったまま、かすれ始めた黒眼をテレビに向けて、何も言わずに回の進行を見つめている。私もベッドの上に腰掛けて、試合の展開を眺めてみた。柔らかすぎるマットレスが、どうにも居心地が悪かった。
手足を跳ねさせ、グラウンドの上で飛び回る様は、まるで鳥だ。諏訪湖の上を、翼を大威張りに広げさせて、旋回していくように。球児達は、永遠にその輝きを保つ事を確信させる煌めきを、高く昇った太陽の力を借りて放っている。
実際、この夏の甲子園球場を映したとき、そこに映る高校生は永遠なのだ。映像メディアが錆び付いた技術になって消え去るまで、番組表から甲子園中継が消えることは無い。自身の液晶にガタが来たと気付くその日まで、毎年毎年延々と。たとえ録画をしなくたって、移ろい続ける若き炎が燃ゆるのを、誰もが目にしていくのだろう。
画面の中身と、その前に居座る私達があまりにもちぐはぐな存在過ぎて、喉を擦ったような笑い声が出る。夏を映す窓を前にして、愚鈍でのろまな老人は、ただその景色を瞳に焼き付けることしか出来ない。これは、いつの日かの夏に行われた大会を記録した録画映像で、現実の諏訪湖には一切合切関係なく、流れゆくままに秋が広まってきているけれど。それでも、汗一つ流さずに、アクセント程度の外気を取り入れる施設の中で、ぼうっとしている老いた身が。可笑しくって、悔しくって。やるせなかった。
この私の寂しい笑い声に湖が答えたのか定かでは無いが、一際強く、音を伴った風が窓から吹き込んでくる。砂埃も交えて、随分機嫌の悪そうな風だ。写真達が煽られてぴらぴらはためくのが気になるので、網戸になっている窓を閉じようと、半分ほど硝子を引き出してから、ふと思いとどまった。職員が見たら、勝手に閉められた窓をちょっと不思議に感じるだろう、と。さすがに車椅子に座った男が閉めるのも、無理がある位置だ。
室内に違和感を残すことはしたくなかったので、一度動かされた窓をもう一度元の網戸に戻そうと、そう思って。黒く変色している縁をガツガツ押しつけながら、硝子を動かしていると。
「……八坂様。そこに、いらっしゃいますか」
男が。車椅子に深く身体を沈めたまま、少しだけ首を窓の方に向けて。途切れ途切れのしわがれ声で、そう呟いた。
「……坊。佐久の、坊。まだ見えているのかい、私の姿が」
「眼は……殆ど見えませんので。風の音を聴きました。八坂様の、風を」
窓の近くの壁にもたれかかった私に、焦点の合わない瞳が向く。その方向は私の顔とはほんの少しズレていて、クリーム色の壁紙の剥がれた灰色部分を見やっていた。お久しぶりです、という声と共に、小さな会釈が顎の下で揺れた。
「にしても。坊……は、ナイでしょう。私のような、爺に」
皺を沢山こさえても、禿散らかしても、骨がピッタリと服に貼り付くように浮いていても。お前達人間は何も変わらない、と言いたかった。きっと、昔の私には言えたのだけれど。
少し口を動かしたことで、痰が絡んだのか。男は、カアーッと喉を震わせて、もごもご唇を震わせる。強い風も収まり、車椅子の周囲ではゆっくりとした時間が流れている。
男はかつて土木建設業に勤め、やや無口ながらも勤勉な人間だった。そして、今となっては……本当に数えられる程しか存在しない、私を信仰している人間でもある。
消えかけていた信濃国の神々が、最後の力を振り絞って抵抗していた冬季長野五輪付帯工事の際、随分と苦労していた様子を覚えている。当時既に数少なくなっていた、『見える人』である工事関係者というだけで、憑かれたり脅されたりするのだから、たまったものではなかっただろう。
あの時代、私は最終的には工事推進派に転身し、反対派の山神どもと文字通りの殴り合いをしたものだが、男のような見える人間が工事に紛れてくれているお陰でどれほど助かっただろうか。重箱の隅をつつくような配慮を盛り込んだ治山施工で、どうにかこうにか土地神達をなだめすかしてくれたお陰か。白馬・大町と長野を結ぶ、オリンピック街道の工事で犠牲者が四桁に達しなかったのは、今でも奇跡だと思っている。
……だからこそ。その信仰に報いる事が出来ない現状が。尚更もどかしく思う。諏訪大社を信仰した最後の世代に、何にも残せずに終わることが。
「今年も……御神渡に行かれないのですか。毎年楽しみに、しているのですが」
この部屋からは、雑木林に邪魔されるせいで、湖面は殆ど見えない。氷が割れていく音も、きっと遠すぎて聞こえない。だから、与えられる神徳は、きっと……今年は御神渡できたんですよ、と珍しげに語る職員の手から渡される地方紙そのものでしかなかった。
けれども。
「無理だろうね。神無月に出雲行きの新幹線に乗る神が、あんな寒い湖の上を渡れるわきゃない」
今の私は、そんなちっぽけなものさえ、与えられないのだ。もう、笑うしかない。笑って欲しかった。笑い飛ばして欲しかった。けれども男はただ、そうですか、と。寂しそうに言うだけだった。
テレビに映る甲子園の映像の音が、やけに大きく聞こえる。ブラスバンドの奏でるチャンステーマが、この部屋には酷く虚無に響く。音楽に乗せて心臓の鼓動を高める者は、もうこの部屋には存在しないのだ。
「すまない」
窓枠にもたれかかっていた私の喉を通り抜けた風は、無意識にそんな声を鳴らした。男は瞼を大きく開いて、心臓が止まったかのように息を止めた。
……ああ、イヤなもんだね。どうでもいい風ばかり届くのは。返されるのは、呆れ顔だろうか、失望だろうか。恐る恐る男の表情を見てみると、そこにあったのはそのどれでもなかった。
男は、薄日が差すような微笑みを浮かべて、
「八坂様が人間の様に感じられたのは、初めてです」
と、言ったのだ。
「それは……」
どういうことだ、と問い返そうとしたその時。ペタシペタシと、外の廊下から足早なスリッパの音が鳴り響いた。
「はーい、タナカさーん、窓閉めますねー」
戻ってきた職員が、窓枠に挟まっている虫の死骸にも構わず、ギャリギャリと硝子戸を閉じていく。風が鳴り止み、室内は全て施設が管理する理想的な気候に戻りつつあった。諏訪に吹く風がかき消えて、全ての粒子が電気で回転するファンによって制動された時、先程の会話は存在しなかったかのように東の空へと流れてゆく。
たしかにこれは、砂埃が入るよりも。山と湖の機嫌に任せたままの、不安定な風よりも。ずうっとずうっと優しい風だ。世界の何処でも、自然条件に左右されず吹く、平等な風だ。
「気持ちよかったですねー!」
うなずく男は、もう私の方向を見ていない。その眼はただ、夏を映す窓が浮かべる、野球中継に向けられている。
「……ええ。良い風が、吹いていたんですよ」
「あらっ。ご機嫌ですねー、タナカさん」
男と職員は、今日の夕飯の献立を話し始めた。どうやら嫌いな類いの流動食が出るらしい。
甲子園では、永遠に続く夏日が照っている。
施設を後にしようと玄関に赴くと、靴箱前のスロープで職員と老婆が引っ張り合いをしているのが眼に入った。勿論、職員の方はただ唐突に玄関に向かおうとする利用者を引き留めているだけで、全力ではなかったのだが。えんじ色のちゃんちゃんこを羽織ったこの老人は、遠慮なくその枝のような手で、靴べらが掛けられた手すりにしがみついている。
きっと、彼女は今までもこうやって玄関に向かって引き留められていて。これからも毎日、スロープの上を足摺しながら、あの外へと続く扉に向かうのだろう。ただでさえ足りない人手を煩わせて、鉄さえ溶かす灼熱の炎天にも、骨身まで凍り付かせる吹雪にも厭わずに、予め定められた風が吹くこの快適な施設を抜け出そうとするのだろう。
彼女は、多分、外に出たい訳じゃあない。ガランとした自宅に帰りたいわけでもないと思う。きっと、扉を探しているだけ。だからこうやって、職員の眼を盗んで縋り付こうとしているのだ。あの輝かしい日々に続く扉。夏への扉に。
雪が降り始めるにはまだ少し早いが、夏はもう完全に八ヶ岳の稜線の向こう側に去ってしまったのだと、諏訪湖から吹く風が教えてくれた。
この地では、西から吹き下ろしてくる風が湖面を襲っては、温度を奪っていく。そうして秋が深まれば、湖の表層と暖かな深層で温度差が発生し、対流が発生する。その間、諏訪に吹く風には、とても寂しい匂いが混じるのだ。深い深い水底から浮かび上がってきた、まだ夏の暑さを覚えて勘違いしているのんびりやの水が、冬将軍の尖兵に突き刺されて泣きべそをかいている。あの夏は何処に行ってしまったのか、と。あの蝉が騒がしい時節は、何処に行ってしまったのか、と。びゅうびゅう、きゅうきゅう、鳴く風が。私の耳元で渦巻いた。
分かってはいるのだ。夏が過ぎれば、冬が来ると言うことは。年がら年中、ぎらぎら太陽が照りつけるなんて、やっていられない。そうして季節が巡れば、湖の対流によって、湖底には大気からの酸素が供給され、表層は湖底に貯まっていた栄養素を受け取る事が出来る。古来より半永久的に続く循環が、この湖を死の匂いから守っているのだ。
この風が示すのは、まず間違いない、生者の向かう方向。私はこの風を迎え入れるべきだった。
だというのに……胸にぽかりと空いた風穴は、湖から届く寂しさを、より深く、より強烈に増幅して、心をかき混ぜる。きつくきつく、段々と私を絡め取っていく暗がりから逃げ出して、東の彼方へと何度駆けていってしまいそうになっただろうか。この悲しみは、独立不撓たる身をもってしても、一人で抱えるにはあまりにも大きくて、凄惨なものだった。
……白馬岳の向こうから迫り来る、白で塗りつぶされた暗幕は、すぐ其処にまで迫っている。
地べたに座り込んでいると、そろそろ尻が寒い季節になった。
背にした幹から落ちてきたヤマボウシの葉は、端から黒く変色していく様に紅葉していく。丁度、こんな黄昏時に、太陽が沈んでいく山の端から闇に染まっていくみたいに。私は、こういう燃え方は昔から嫌いだった。なんとなく、焦がされた痕のように。醜く映ってしまうから。
暗がりが差し始めた、西の稜線が形作る影が、八ヶ岳に向けて伸びきった後、聞き慣れた足音が荒い舗装のアスファルトを渡っていた。
「……八坂様?」
風は吹いていなかった。周囲の乱立する家々に阻まれているのか、夕方のこの小径を吹き抜けていく風は珍しくなっている。だというのに。私が吹かせる風はもう何処にも無いというのに。少女はしっかりとその翡翠の瞳をまん丸にして、ブロック塀の隙間からこちらを見つめている。
「……早苗。学校、終わったのかい」
「ええ……今、帰る所です」
会話のキャッチボールが成立することに、形容出来ない安心感が満ちていく。
「というか、なに、空き家の庭に座り込んでるんですか。不法侵入ですよ、不法侵入」
早苗は赤いランドセルから伸びる防犯ブザーに手をかざすと、ぐいぐい引っ張る仕草をした。どうやら又、漫画か何かから怪しい知識を得たらしい。徘徊老神から犯神に墜ちるまでの覚悟はしていなかったので、しぶしぶ立ち上がって、ヤマボウシの果汁を踏みつけながら、早苗の家路を追い始めた。
チャリ、チャリ、とキーホルダーが足音に合わせてかき鳴らされる。ゆったりした早苗の小さな足取りに合わせて、歩幅を縮めた。緑のつやつやと輝く髪の毛が、日が沈むこの瞬間だけは、闇に溶けていくような烏色に見えた。
「……不法侵入ねえ。よく知ってたね、そんな言葉」
「もう。私だって、もう子供じゃあないんですよ?」
「ん?……そうだったかねえ」
早苗の服装をもう一度見直してみると、目を凝らすうちに、黄色い帽子にランドセルカバーを付けていた姿は、少し袖の余るコートに、肩幅が窮屈そうな傷だらけのランドセルに変わっていた。そう、そうだった。カエルの話やら、ネズミの話やらを聞いて、『よく読めたで賞』なんてスタンプを音読カードにポンポン押していたのは、もう随分昔の話になる。
「ああ?……うん。そうだったね」
「そうですよ。それよりも……一体何してるんですか、八坂様」
「何って?」
「この一週間。私の前に姿も見せずに。一体何処をうろついていたんですか?」
「あー……」
ベビーベッドに横たわる早苗は、あまり泣きわめかず、手の掛からない子供だった、らしい。その実態は、両親が居ない間、私と諏訪子が……長い舌を撒き散らして、ベロベロバーと早苗の頬を舐め回していただけなのだが。
「ちょっと色々。やることがあってね」
「……」
その後も、早苗が一人になった隙を突いては、悪い遊びを教えていたので。早苗の本質を知ったのは、随分後の事になる。
「……溶けかかって、いるように。見えましたよ」
「え?」
「さっき、あの木の下で……後ろのボロボロの縁側と同じ色に、なってました。八坂様」
この子は確かに、あまり泣かない子ではあった。けど、それに隠れていて気が付かなかったのだ。表情に出すことは少ないけれど、独りぼっちになるのを酷く恐れた……
……私によく似た、寂しがり屋だということに。
「イヤですから……私」
諏訪子が動けなくなったときには、もう遅かったのかもしれない。明らかに、私達は距離感を間違えたのだ。
どこかで、諏訪子と私の血を取り違えたんじゃないか、と思うくらい、この子は私に似ていた。同じような気質で寄り合っているだけのそれは、仲間や家族ではない、もっと歪なものなのだと思う。早苗はこうやって、私の事を掛け替えのない大切なもののように扱ってくれるけれど。それさえも私が施した過ちに見えて、素直に受け取る事が出来ない。
消えゆく神を、私を、独りぼっちにしないで欲しい。誰か、人間に見ていて欲しい。
そんな悍ましい欲望が、無意識のうちに早苗に刷り込んでいた洗脳かもしれないと思うと、足下のアスファルト舗装がぐにゃりと凹んでいくようで、心臓が粟立つ思いだった。
「八坂様とお別れなんて。イヤですから」
「ああ……。勿論、私もそんなのはゴメンだ。ずうっと一緒だよ、早苗、私達はさ……」
「本当、ですか?」
「ああ……」
ここ数日で確認した事だが、私はもう、独り言を話す事が出来なくなっていた。つまり、私を信仰する誰かが、私を認識してくれなければ、そこに八坂という神の存在さえ許されない。先程早苗に話しかけられなければ、私は本当に溶け落ちてしまっていたのだろう。
信仰を失った者は、山中の苔生した倒木に座って、ただ待ち続ける。自分の身体を苔が覆い尽くしても、菌糸の巣窟になっても、風が素通りする虚空になっても。ただひたすらに待ち続ける。自分がまるで塵芥のゴミみたいになって、思考までもが樹冠の木漏れ日にありつく下草と変わらなくなったら、ただひたすらに近くを通りかかる旅人の足音を糧にして、命を繋ぐのだと。
昔、諏訪子にそんな話を聞いたことがある。くに、というものが産まれては消えていた時代、土地神達はそのような一種の冬眠を繰り返しては、また人里の領域が近付いてくるのを待って居たらしい。勿論、諏訪子も幾度も冬眠を繰り返していたそうだ。
私は、そんな半永遠を針の筵で過ごすような真似はきっと出来ない、と思っている。諏訪子も、神奈子はヒトマジリだから出来ないだろうねえ、と言っていた。気が狂って、もう二度と元の神格に戻れない奴も沢山居た、とも。
その話を聞いてからは兎に角、そんな不安定なタタリガミに等しい呪いを、早苗に遺す訳にはいかないと思っていた。諏訪子が眠り、私も力を急速に失いつつある事が分かった今、決断の日まではもう幾ばくも無い。私は、私を殺す力さえ失う前に、自身の世界に幕を降ろさなければいけない。
揺れる決意を、どうにか縛り付けて歩いていると、傾斜のキツい坂に差し掛かった時、早苗の歩く速度が急速に落ち始めた。私は元の勢いのまま二、三歩先行してしまい、慌てて振り返ると、早苗の靴の音は止まっていた。
「……早苗?」
優しく呼びかけたつもりだったが、何故か早苗は蛇に睨まれた蛙のように、顔を伏せて硬直してしまう。
「あ……」
蚊の鳴くような声で何か呟いた後、一人で歩けますと言って、早苗は斜面に一歩一歩脚を進めた。けれどもそれは、やけに身体の重心が傾いていて、何か片方の足を庇っているような不自然な歩き方だった。
湖面から反射してきた西日が、必死に歩いて行く早苗を照らす。背中に伸びる翠色の髮が、この世から浮き出る様に目立っていた。
「早苗」
「は、い……きゃっ」
私は早苗の手を引っ張ると、胸の中にその小さな身体を納め、抱きしめた。本当に、その体躯の何処に、そんな強い心を隠しているのか分からない。何故、こんな子が私なんかを背負い込んでしまったのだろうか。
「八坂様……?」
「早苗、今日はおんぶしてくよ」
「え……」
少し焦ったような表情を浮かべた早苗は、
「いいです。一人で、歩けます」
もう、子供じゃないんだし。そう言い訳して、私の腕から逃れようとする。でも、私は放してあげない。ランドセルを一周した腕が、蛇のように早苗の身体に纏わり付く。
「早苗は、おんぶされるの、イヤ?」
放せない。少なくとも、あの幕が諏訪に掛かるまでは。
「イヤ、ではないですけど。でも、私、重いですよ」
「なーに、あの御柱に比べれば。人の子なんぞ、私にとっちゃ風みたいなもんだ」
吹けば飛ぶような小学生が、重いと自己申告して離れようとするけれども、今の早苗は私のものだ。今だけは、今この瞬間だけは、私だけの早苗だった。
「それとも。早苗は、私が……」
狡い言い訳で周囲を遮断しようとしたけれど、口に出る前に早苗が胎の中に飛び込んできた。子供の相撲ごっこにも満たない、軽い身体がそこにある。重いのは私だ。重荷になっているのは、私の方なんだよ、早苗。
恐る恐る背中にかかる手を確認して、足を抱えて持ち上げると、一気に視界が高くなる。ここから、早苗の頭一つ分高い目線で。一体何が見えるのだろうか。
「やっぱり、重いんじゃないですか?」
「いーや?……私は、もう一生このままでも良いくらいだけれど」
私の腰周りでぷらりと揺れている、すらりとした二本の脚の先には、真新しい靴があった。この靴は、確か丁度一週間程前。私が、諏訪湖一周徒歩の旅と名付けた徘徊行為に出掛ける前に履いていたものとは異なっている。本当は、一日で早苗の側に戻るはずだったのだけれど、長引いたせいで靴のデザインを一緒に選べなかった事は全く口惜しい。
早苗は、ここ最近ころころ靴を替えている。数週間で片手の指を越える位の頻度で。それでいて、前までの靴の行方は、私には分からない。家に置いていない事は確かなのだけれど。
きっと、今回の靴は足に合わず、靴ズレが出来てしまったのだろう。だというのに、あの坂に差し掛かるまでこの子は何も言わずに、私に気取らせないペースでここまでの道のりを……
「辛いときは、いつでも言ってくださいね」
「ああ」
「私。心配なんです。八坂様……優し過ぎるから。きっと、辛いことを一杯抱え込んでいるんでしょう。だから、私だけは、邪魔になりたくないんです。八坂様の、お荷物になりたくないんです」
……いや。
小学校から、あのヤマボウシの木の下までは。独りぼっちで歩いていたのだ。
二人二脚。二人一緒に歩を重ねれば、自然に歩くペースは遅くなる。西の山どころか、八ヶ岳にも闇が落ちるくらいになってしまった。きっと東風谷家では心配されている。私は早苗を背負ったままで、ひたすらに石段を登っていた。自分一人でここを登るのもしんどくなってきたのだから、早苗の分で更に辛くなるだろうと予想していたけれど、不思議なことに早苗といる今の方が、脚が軽やかに進んでいる。まるで、風が足の裏から私を持ち上げるかのように。足下の小石を追い払っているかのように。
流れる汗は私のものだが、中心で鳴る心臓の鼓動は二つ分だ。早苗の拍動を借りた血が、私の身体を駆け巡っているような。そんな気分だった。
「八坂様……」
「ん。どした、早苗」
先程から、眠たいのか口数が少なくなっていたが、石段を半分ほど過ぎたところで、背中からうわごとのような声が聞こえた。その微睡みの中の夢を崩さないため、なるべく身体を揺らさないように心がけた。
「あの……カエルさん。賽銭箱の裏に、ずっと座っていた、あのカエルさん。何日か前から、見なくなっちゃいました」
「ああ。冬眠に入ったんだろう」
諏訪子は、喋らなくなってからも、あの境内を跳ね回っては私達を見守っていた。
「死んでないですよね?」
「あの蛙は殺しても死なないくらいしぶといからね。大方あの大きなクヌギの下なんかで、すやすや眠りこけているだろうさ。そのまんま永眠しちまわないか、少し心配だが」
「……お知り合いなんですか?」
「まあね」
本当は、冬の間何処に行ってるのかは知らないんだけど。でも、諏訪子なら、あの社のすぐ近くの土の下で眠っている。きっと、そんな気がした。
「そっか。それなら……カブトムシと一緒で、寂しくないかな」
「カブトムシ……?」
「ああっ、もー。又忘れちゃったんですか。ほら、昔、夏休み中に私が飼っていて……沢山、死んじゃった時があったじゃないですか」
「あー……あれねえ。あったあった。あれ、どうなったんだっけ。あのカブトムシ」
「あの子は今も、境内のクヌギの下に。土の中に、埋まっています」
「え?」
「私が、殺したから」
「それは……」
「いえ。私が……他の子達も、私のせいで、私の不注意で死んだんですけど。でもあのカブトムシは、直接殺したんです。私が。……忘れちゃい、ました?」
「……そう、だったか」
「だから……大丈夫です。八坂様。独りじゃない、から」
「そうか。独りじゃ、ないんだな」
「ええ……大丈夫、です」
鎖骨に這う様に回された早苗の手が。私の頸に、ぎゅう、と抱きついた。
「だから、安心して……」
強く強く、喉を通る風が封ぜられるように。
安曇野から富士へと。東風が吹き抜けた。
霧降宮切久保。雨降宮嶺方。霜降宮細野。白馬村にある三つの諏訪社のうち、二つに雪が降り積もろうとしている。山に降る冷たい霧雨が、今まさに霜へと変わろうとしているのだ。
龍がうねるように空を駆ける雪雲は、雨霰をバケツに詰め込んで此方に叩き付け、冬を届けようとしている。あの雲の先に何があるのかは、分からない。龍の背中から降り積もる白い羽は、私にとって最期の雪かもしれないし、或いはこの先何度か訪れる冬のうちの、ただの一回に過ぎないのかもしれない。
街の音を吸い込み続けた暗幕の中、何処までも五里霧中で、何も出来ない私だが。ただ一つだけ、今この瞬間が永遠に続かない事を知っている。背中に感じる早苗のぬくもりを、守り続ける事は出来ないということだけは、知っている。遅かれ早かれ、別れが訪れるのは避けようがなかった。
……ただ。
もし。もしもの話だ。
この白馬岳から迫り来る、雪の幕の向こうで。もしも夏への扉が開く事が、あったなら。
夢のような、幻想のような……楽園で。早苗と、諏訪子と、共に。また、神遊びをしてみたい。
そんな光景を、夢想することぐらいは許されるだろう。
だってここは。もう誰にも止められずに東方に向かう雪雲に浮かんだ、ほんの幕間に過ぎないのだから。
文章のキレが凄まじくて、読んでて興奮しました。最高です。
神奈子の辛さがひしひしと伝わってきました
人間の様に感じられたとか言われたときはもうだけかと思いました
情景描写が美しく、流れるような退廃が読んでいて気持ち良かったです。
最後の最後には幻想郷に行くことがわかっているため、必要以上に悲しくならないのも良いと思いました。
ヤマボウシの香りがする素敵な文章でした。
とても美しい文章で好きです!
加えて風もまた象徴的な存在として克明に描かれており、何かを運び、何かを動かし、時には擬人的に何かを伝え来る存在として物語の至る所に配置されていたように感じました。そして作中での風の立ち位置は何よりも神奈子の薄れた権威の一つにして、神任せの荒々しささえ削ぎ落とされた、文明的で機械的な、人間による人間の為のモノにまで落とし込まれたものでもあります。それは神奈子の感情を掻き立て、力の滾っていた昔との差を否応無しに突き付けていたのです。柔らかい真綿が神奈子の上に覆い被さって圧し潰すかのように、美麗さと頽廃を両立させた空気感を作り上げていたのだろうな、とも。
神という本来であれば超常的な存在がただの一季節に対して畏れを抱く様も、老人ホームとシェアの奪い合いをしていると自嘲しつつも結局は自らも老人ホームの老人達と同じく死を待つ定めだと認めざるを得なくなっている部分も、敬虔な信徒ですらも感じてしまう人間臭さを強調させるエピソードとして連結しており、作中での神奈子の苦悩が際立っては読んでいる側の精神に波濤のように押し寄せてくるかのようで途轍も無く良かったもの。
確かに、神奈子は諏訪子の言う通り『ヒトマジリ』なのです。それは人の輪に混じって力を振舞う神であると同時に、神奈子の精神性を言い当てている。だからお前は早苗との距離感を間違えたのだと言いたげに。
そして早苗についての描写が神奈子視点で語られている間、その表現は風が循環するかの如くそっくりそのまま神奈子に返ってきているのもまた印象的でした。
早苗が神奈子に対して吐露する本心も、形は違えど神奈子も早苗に対して同じような事を思ってしまっている。更に言えば、早苗も神奈子も互いが互いに一人で居る間の苦悩を伺い知る事が出来ない。彼女達の関係は歪で、もしかしたらいずれ崩れ去る砂上の楼閣かもしれないようで、早苗との団欒は微笑ましくも、どこか寂寥を交えて進んでいくのです。
力を喪えども早苗を軽いと称せる様はきっと本心の描写のはずなのに、神奈子の感情と早苗の体躯との重荷の度合が釣り合ってしまう日が遠くない内に来てしまうと知っているからこそ。おんぶをする為に早苗に伸ばした神奈子の手も、石段を上る時に神奈子に這わせた早苗の手も、等しく相手を束縛する蛇の蜷局のようで。その掣肘もどちらかが斃れた瞬間に呪縛と化す事が確定してしまっているからこそ、その将来を暗示されては沈み行く夜の帳は、どちらかの幕引きさえも感じさせてしまう。
だからこそ、最後の一節があって本当に良かったと思える自分自身が居たのです。全ての暗喩が暗澹たる将来が訪れない事を決定させ、紛れも無くこの物語が東方風神録へと到れるのだという確信めいた感情さえも抱かせるこの描写が、途轍もなく愛おしかったと言いたく。
物語の進行、心情描写、風景描写、どれを取っても諏訪という土地や神奈子というキャラに対しての熱の入り様が凄まじく、こちらの心を非常に揺さぶられました。ありがとうございました、御柱祭を来年に控えたタイミングで読めてとても幸せな作品でした。