Coolier - 新生・東方創想話

白痴・アガペー・神殺し あるいは神に鞭打つハンプティ・ダンプティ

2021/10/01 21:32:06
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 1

 魔草を煎じた薬茶を啜りながら、パチュリー・ノーレッジは本をめくる。
 彼女が人の身を捨てた大魔法使いでありながら読書という古めかしい形而下的知覚に頼るのは、ひとえに文字を目で追う速度と理解の速度が釣りあうからだった。情報を直接取り込む知覚アプローチでは、彼女の脳では理解が知覚に追い付かなくなってしまう。記憶補強の魔法薬を常飲し該博な知識を持つノーレッジだが、しかしその知性は愚鈍と断じて間違いない。ゆえに彼女はエクリチュールに縋りつく。
 出来の悪い頭でも、知恵を積み重ね、本を積み重ねればやがては月にすら届く。それが亀の歩みだったとしても、時間という制約は魔法使いに存在しないのだから。

 静寂だった図書館に乾いた紙の音が響く。
 本を読むのは嫌いだし、苦手だった。必要に駆られて読んでいる。
 退屈な文章を噛み砕く脳みその片隅で、ぐちゃぐちゃした考えが浮かんでは消える。過去の忌まわしい記憶、本の中身とは関係のない論理学上の稚拙なアイデア、実現性のない偶発的な魔法式の理論、卑俗で人間的な衝動――。
 どうにかそれらを追い払って、目の前の文章に没入しようと試みる。その本はギリシア神話に共有される深層心理について書かれていて、精神分析でそれを明らかにしようとしていた。
 神を愚弄した罪で終わりのない労苦を背負わされるシシュポス。不遜ゆえに地に叩き落とされるイカロス。禁忌を犯し自らの体まで喰らい尽くすエリュシクトン。
 話の多くは示唆性に富んでいて私を苛立たせる。神というのは傲岸だ。理不尽で、暴力的で、サディストだ。ホメロスが語るのもアウグスティヌスが語るのも、等しく愚かで非論理的で、なによりそれは善でない。それが許せなくて魔導を志した。
 許せない、許せない。誰かが私を馬鹿にしている気がする。形而上から私を見て、馬鹿にしてる奴がいるに違いない。
 歯軋りがだんだん強くなって、次に口を開くと思わず唇を噛み締めた。血が出るほどに噛んでしまって、その痛みにハッとする。
 また思考がズレた。いつもこうだ。読書をしていると5秒後には連想ゲームが始まって、連想の最後には怒りで頭がいっぱいになって、そして我に帰るのだ。
 一度こうなるともう思考は纏まらない。癇癪を起こした子供の自分を脳みそから追い出しても、子供の自分を恥じた思春期の自分が占拠し始める。その次は自己嫌悪の倍々ゲーム。羞恥心が八つ当たりに変わった。本をビリビリに引き裂きいてしまいたい。頭をくしゃくしゃと掻き回して、抑えきれない感情は唸り声として漏れ出していく。
「うー、うー、うぅーっ…………うぅーっ! うぅーっ! …………うぅー……」
 頭を沈めて唸る。ああ自分は馬鹿だ。なに怒って、なに泣いてるんだ。何も見たくない。何も聞きたくない。
 唸り声を上げているうちは、この世のなんにもがなくて、誰も私を馬鹿にしない時間が続く。ほかの音が聞こえないのは、安息だ。
「もし、もし。パチュリーさま、どうなされたのですか。なにをお泣きになっているんですか。パチュリーさま、ああパチュリーさま。この小悪魔めがお側に御座います」
 後ろから声がして急に頭が冷えてくる。また見られてしまった。一周回って恥もなんも投げ捨てられて、冷静に死にたくなって、そしたらまたいろんな感情が復活してごちゃごちゃになった。

 パタパタと羽をばたかせる背の低い少女がノーレッジに近寄る。紅涙を絞って染めたような深い赤の髪。
 深き魔界よりノーレッジが掬いとった悪魔の一柱、今は名もなき『小悪魔』である。

 小悪魔は真摯に訴えるような顔でノーレッジを覗き込み、後ろに回り込むと抱擁して言葉を続ける。
「どうかお泣きにならないでください。あなたさまの苦しむお姿で、わたくしの心は引き裂かれます。どうか笑ってください。ただし、苛まれているというなら、どうか、苛まれているという面持をしてください。わたくしがこうやって、すぐさまに駆け付けて、精一杯ご奉仕できるようにさせてください」
 きゅうと優しく抱きしめ、小悪魔は主人に顔を近づける。
 愛しい主人だと小悪魔は思った。腕の中で、泣き濡れた顔をぬぐいながら息を整えている。泣いていたならば、あやさなければならない。
 己の温もりで、少しでもこの主人を温めてさしあげたい。それは嗜虐でも支配欲でもない、善意と慈愛に満ちた――弱者への愛念である。
 これは施しなのだとノーレッジは思う。拒否の選択肢を取れない、悪魔的な施しだ。優しくてふわふわとした抱擁に、ノーレッジはまた別の意味で泣きたくなった。悔しさと、孤独から解放されたあたたかさに泣きたくなった。
「ふふ、落ち着かれましたか? お疲れになっていたのでございますね。パチュリーさまが挫折なされても、誰も咎めません。わたくしが咎めることを許しません。ですから、ねぇ、パチュリーさま…………」
 ノーレッジを包むスラリとした手はローブの下にスルスルと差し込まれ、尖った爪で生肌を優しく撫でる。にわかな手つきにノーレッジは思わず声を上げる。
「……ッ。小悪魔、またあんたはッ……」
 ノーレッジのか細い抵抗に悦びの声が混じっていることを認めると、小悪魔は嬉しそうに感嘆のため息をついた。
「わたくしめは愚かで、矮小な悪魔でございますから。パチュリーさまを安堵させる術は、こればかりしか知らないのです」
 筋肉も贅肉もない、骨と皮ばかりの、魔力で無理やり活動を補った不健康な胸を小悪魔の指は滑っていく。
 肋骨を一つ一つなぞるたび、ノーレッジは声にならない声を漏らす。あばらを鍵盤に見立てた即興曲。その弱々しさは図書館の静寂を強調し小悪魔に満足感を与える。
 ゆっくりと落ちていく指はやがて臀部を這っていき、しかしノーレッジは慎重に自分を抑え、それを掴んで払いのけた。
 情事などは時間の無駄だ。ノーレッジの唯一の取り柄である意地の強さが些事に時間を使うことを許さなかった。自分には目的があって、そのために知恵を磨かねばならない。こんなことをしている暇はない。
 知らずのうち下腹部に籠っていた熱をどうにか無視してノーレッジは小悪魔に命令する。
「……やめて。図書管理に戻りなさい、小悪魔。ヴワルの図書に書は尽きず、ゆえに運営は続けられる…………私に触れるのはやめなさい!」
「お嫌、でしたか?」
 小悪魔の問いを、彼女は努めて無視した。
 怒っていると見せかける顔を作ってノーレッジが振り向くと、目と目が合った。二人は鼻が触れ合いそうなほど顔が近くなる。息遣いが感じられる距離だった。ナルキッソスのように、お互いの瞳に自分自身を認めていた。
 ノーレッジは咄嗟に目を背けた。追いかけるようにすっと小悪魔が手を伸ばして、紫の長い髪に手櫛を入れた。ぼさぼさで何度も引っかかる髪を撫でて、繰り返し繰り返し髪を梳かした。
 耳と手が触れ合い、温かさが伝わる。ノーレッジはしばらく小悪魔の好きなようにさせていた。

 2

 博麗大結界を間借りする形で組み立てられた擬似的な深淵領域――システム・ヴワルは三千世界に渡って本を任意に『幻想入り』させる、ノーレッジの構築した図書集積・管理術式である。その魔力炉は月齢の移り変わりの魔力差で動くルナ・チムニー式を採用している。紅魔館外郭に広く張られた結界は月光を吸い、蒼い光子を運ぶ錬成回路が消灯した図書館を淡く照らしていた。
 安楽椅子が軋んで小さな音を立てる。ノーレッジは脱力して息を吐き出す。
 眠気に揺蕩いながらノーレッジは意識を手放していく。図書館を照らす淡い光も消え、ノーレッジは深い頭の中だけの僧院へ落ちていく。

 夢を、見る。魔法使いではなく矮小な人間だったころ。まだ独りだったころ。
 遠くで音楽が流れている。ベートーヴェンの月光、第一楽章。心が静まり返ったざわつきで満ちていく。
 古くはマギの傍系にあり、ヨーロッパを根城としたノーレッジの家系は緩やかに衰退していた。二十世紀の始まりとともに産まれマンチェスターの田園に育った彼女は、魔術師として一般的なホームスクールのなかで一切の非凡さを示さなかった。
 後にも先にも期待されることはなく、しかし一般的な愛情だけは注がれながら育った彼女が唯一示した理知、あるいは愚昧さは己へ向ける家族の愛を疑うことだった。
 愛を拒絶し、自らをネグレクトに追いやった彼女は自分を慰めるすべを必死で探した。しかし勉学や運動の全領域で兄弟姉妹に劣った彼女は、自尊心を満たすことなくその幼少期を過ごす。
 魔法使いのノーレッジ、幻想郷のノーレッジはみじめな幼少の自分を見つめている。この自分は、原因ではなく結果なんだと彼女は思った。
 幼少の劣等感から今の自分ができたのではなく、生来の愚かさこそが自分のすべてである。その愚かさが幼少の自分を追い詰め、今の自分を苛んでいる。それだけが事実だ。
「おンあるじは赤土からアダムをお創りになり、そのあばら骨からイヴを創られた。しかし蛇が彼らをそそのかし、人間は原罪を背負うことになったのである。ではパチュリー、主は人間をお創りになったとき、やがて彼らが楽園から追放されることをご存じなかったのではないか?」
「いいえ師父よ、全能なる主はご存じでした。であるのならば人が原罪を背負ったことも兄が弟を殺したことも、もとより主の御心のままなのです。すべては主の一人芝居なのです」
 神学上の論難は西洋論理学の修養にして、全能の逆説と予定説はその初歩である。回答そのものに意味はない。師父はその通り何も言わず、わたしの目をじッと見るだけだった。

 ……けれど私はあの目が忌々しくて。あのじッと見る目が。あの目が。それで、それで。だから、だから。

 夢が移り変わる。月光の音楽は第二楽章へうつった。誰かが自分の人生に劇伴をつけているように感じる。この回想シーンは何のためにあるんだとノーレッジは叫んだ。答えはなかった。
 淑女になったノーレッジは後天的な美徳、つまり勤勉さを身に着けた。東方魔術に師事し、広く魔導を修めた。今とおなじくあらゆる雑念が彼女を妨害したが、めげなかった。いくつかの偶然があり、秘跡にまみえ不老を得た。彼女はしばらく浮かれていたが、偶然の産物にすぎないという事実が自身のみじめさを際立たせ、人間不信の偏執が一層増してぶり返した。
「……あらゆる人間は最初の一つの投影にすぎないというのなら。あらゆる問いかけは自己問答で、あらゆる諍いは自己嫌悪。この世は全て一人芝居。すべて、すべて」
 親族知人を殺害すると彼女はイギリスから逃げ去った。

 月光は第三楽章へうつる。劇的な変遷があった。運命が彼女を何度も責め立てて神秘的な闘争を強いた。欧州を渡り歩いた彼女は二度目の世界大戦のさなか、歴史からは秘された紛争に巻き込まれた。極東では歪んだ仙界に迷い込み、生き残るために代償を支払った。行く先々で争いがあった。スペクタクルな生きざまは知恵や魔術的実践をもたらした一方で、彼女の精神が成長することはなかった。人と触れ合い、出会いと別れを繰り返すうちにも臆病さだけが息をしていた。人間不信と孤独からくる妄執はいよいよ狂気の域に達した。彼女を知る者がすべてこの世を去ってなお、彼女は彼女自身を嘲笑する空より投射された影を見た。矛先を形而上へ向けた研究が始まった。

「その腕でフリーか……うちに来ない? 妹と門番以外皆殺しにしちゃって人がいないんだ。司書の地位をあげるからさ、本が好きなんだろ?」
「いいわ。ちょうどパトロンを探していたし……ええ好きよ、本。本が嫌いな魔法使いなんて魔法使い失格じゃないかしら」
 また一つの出会いがあった。それから、それからは――。

 3

「……今の夢、なに? あんたのエロ光線?」
 寝覚めの悪い顔でパチュリーさまはわたしを睨む。魔界流の精神術式で、少し夢見を誘導したことは否定しない。不快にさせただろうか? まぁ、ただの軽い意趣返しだ。私の誘惑は断っておいて、眠る必要のない魔法使いが疲れて眠りこけるとは、むかつく。せいぜい嫌な気分になってほしい。
「子供みたいでした……ぐっすりと満足した寝顔。かわいらしくて、思わず抱きしめてしまいました」
 これは率直な感想だったが、私の主は皮肉と受け取ったらしい。どうしようもないまで拗れた不信の態度は、反骨ゆえであると小悪魔は結論している。
 運び込んだベットから起き上がろうとした主を押し倒し、両手を押さえつける。小悪魔は悪魔としての悪意を奉仕精神、慈愛の行動で持って示す。真なる悪意とは諸感情を無視して悪辣を成す悪鬼悪霊のみが持つ感情であるが、その結果が害であるとは限らない。怠惰へ誘い、色欲を掻き立てることを益と呼べるかは疑問だけれどと小悪魔は自嘲する。
 パチュリーさまは細身だが体躯は長身だ。わたしよりも目線いっこぶんくらい高いだろうか? だが押し倒してしまえば目線は同じだ。
(可愛いなぁ、パチュリーさま、ほんとかわいいっ!)
 主の目を楽しませるように淫靡に舌なめずりを見せつけながら、ローブの上から躊躇なく全身をまさぐってやる。贅肉も筋肉も足りない貧相な体だ。

「いい加減に……しろぉっ!」
 へなちょこなアッパーカットが炸裂して、小悪魔はノックアウトされた。ノーレッジにしてみれば、へなちょこパンチを避けなかったことが忖度に思えて苛立った。
 図書館入口の呼び鈴が鳴る。朝食の呼び出しにしてはいささか早い。いつもの盗人金髪女は呼び鈴を鳴らしたりしない。となれば――あまり歓迎したくはないが――客人だ。

 現れた魔法使いは優雅に一礼して見せて、腕に乗せた人形にも揃って礼をさせた。
「へブル書には『また彼は祭司の長の年ごとに他の物の血をもて聖所に入る如く屡おのれを獻ることをせず』とある。我々は夜空を見上げても、二度同じ星の光を見ることはない。初期条件を揃えたサイコロが、同じ目を出すとは限らない……断言しましょう。世界にループはありえないわ」
 引用が気に入らなかったのでノーレッジはアリス・マーガトロイドのスネにスライディングキックをかました。仕返しにアームロックを掛けられた。
「それ以上いけない……それ以上いけない! 腕が変なほう向いてる! ぎぶぎぶ!」
 パチュリー・ノーレッジは身内により外様に対するほうが積極的で饒舌になる。それは逆説的なコミュニケーションに関する投げやりさの表れであったし、身内に対してこそ猫をかぶっているということなのかもしれない。いずれにせよ歪んだ自尊心が根本である。

「あー、ごほん。招待に応じてくれたことは感謝します……世界が円環構造にないというのは確定的で、かつ重大な示唆よ。それは世界の有限性の証明でもあるのだから……エントロピーの増大則に伴って、悲観的な人と楽観的な人がいました。霧雨魔理沙は前者だったけど、彼女はいまだ人間なのだし、勘定にいれる気はない。八雲紫やわたしは後者。マーガトロイド、貴女はわたしたちに協力してくれると願っているわ」
「何がしたいの?」
「目下はト・ヘンの観測」
「ペトリ皿のバチルスは皿を見ることはできないものよ?」
「それを確かめるためのシステム・ヴワル。この紅魔大図書館よ」
 マーガトロイドはしたり顔でうんうんと頷いた。まるで『お前は試験に合格だ』みたいな態度が気に入らなかったのでもう一度スネにキックした。またアームロックされた。
「ぎぶぎぶ! 折れちゃう! 腕折れちゃう!」
 折れた。

 ノーレッジとマーガトロイドは、自動書庫の昇降機に乗って図書館を降っていく。見渡す限り本、本、本。
 マーガトロイドは戦慄した。その規模もさることながら、その精緻さである。
(驚くべきは図書の収集・集積の術式のほうじゃない。管理術式だ! どれだけ複雑に……なぜリソースが足りる!?)
 大結界を転用した書籍の『幻想入り』システムは己でも組めるだろう。しかしその本を収める本棚はどう用意する? この無際限な空間は? 魔法とは、何もない場所から物資を取り出せる御伽噺の壺ではない。
 創造神の娘であり、魔導の本場たる魔界で神童と謳われたアリス・マーガトロイド。その理解の埒外にある術式に心肝を寒からしめた。
「階層と現在位置の確認を忘れないでね。図書館は理論上、上下左右無限に広がっているから……出口がひとつしかない砂漠のようなもの。遭難したら出られなくなるわ」
「えっ? こわっ…………あー、なるほど。本がサイコロで、文字列が出目。擬似的な深淵領域、システム・ヴワル……この図書館は一種の天体模型ということかしら」
「……理解が早くて助かるわね」
 目の前の埒外を咀嚼して、己の理解の範疇に引き摺り込む。マーガトロイドは必死で脳ミソを掻きまわしていたが、それでも表情には出さなかった。となると、ノーレッジはノーレッジで内心でひどく劣等感を煽られた。
 もとより人心など分からぬのが魔法使いの性であるから、互いの心中を察することはありえない。言語化されることはない、静かな反目だけがあった。

「ひとまず、次の実験の手伝いをしてほしいの。簡単に言うと……とにかく火薬の量を増やして、穴を作れないか確かめる実験。幻想郷でやるにはちょっと爆発が大きすぎるから、夢の世界を使うわ。それで……あなたには火薬の選定をしてほしい。わたしにはちょっと難しい作業だから」
「……ねぇパチュリー。わたしのお母さんに何かを求めているなら、筋違いだと思うんだけど。あの人は確かに魔界の創造主だけど、唯一無二の存在だけど、それでもただの神よ?」
「……それを決めるのは実験結果で、結果を見るのはわたし。それに貴女は優秀な魔法使い。それ以上でも、それ以下でもない」
 ノーレッジはスネを蹴ろうと思ったけれど、アームロックの構えを見て、やめた。

 4

 夢の世界、その辺境。空の色彩はたえず変化し、ひどく歪んでいる。
「実験場の提供に感謝します、ドレミー・スイート。それにイェツラー存在の治験は希少でしたから」
「感謝なら場を設けた紫さんにどうぞ、ノーレッジさん。わたしとしても掃除が捗って助かりますからねぇ」
 空間に『すきま』が開いて、八雲紫が顔を出した。
「感謝の言葉を受け取りにまいりましたわー♪ パトロンとして、ね♪ 進捗はいかが?」
 ドレミ―・スイートが指さす先で、羽衣を纏った人型実体の群れが顕現する。群れは幾何級数に増加していき、夢の一区画を占領していく。
「あれらは……夢の残滓、思念の残りかすと言いますか……部屋をホウキで掃いたときに四隅にたまるハウスダストのようなもの。エセ天使の概念皮を被ってるみたいですし、エンジェルダストとでも呼称しましょう。つまり産業廃棄物なので、好きにしてもらって構いません」
 実体群はさらに膨張し、周囲の構造物を飲み込んで破砕していく。領域に発狂の術式が組み込まれた電波が拡散されるが、ノーレッジたちはそれぞれ指も動かさず術式を弾いた。
「実験を始めましょう」
 ノーレッジは黒板とチョークを具現化させた。
 
「エクリチュールというのは神代のシュメールから変わらず消耗品でした。書を重んじ鎖で繋ぐのは単なる貧乏性か、救いがたいロマンチズムに過ぎません。本を大切に扱えという論説は……大図書館の主としてはお笑い種ですね」
 ノーレッジが黒板に何本も線を引いていく。魔法陣は簡素であればあるほどよい。棒線の一つ一つが個々の召喚術の門として機能する。
「ではその本質とはなんでしょうか? 個人的な所感ですが、再生産性こそが最たるメリットです。情報は無限にコピーができる。相対主義のうねりのなかでなお価値を――意味を――失わない。これほど環境にやさしく、お財布に優しい資源は他にありません。構いませんね? 八雲紫」
 八雲紫は終始、ご機嫌な表情だった。実体群はいよいよ夢の世界の一画を占めるほどに膨れ上がって、その煩わしさは絶え難いほどだった。
 八雲紫が応とこたえるとノーレッジは瞑想に入る。途端に体内のマナが具象化して、無風のはずの夢の世界に強風が吹き荒れる。オーラとして顕現するほどの膨大な魔力――パチュリー・ノーレッジは、まごうことなく大魔法使いである。
「――――」
 魔導書が踊るようにノーレッジを取り囲む。一冊は召喚制御。一冊は射出制御。残りのニ十六冊は爆縮術式の制御を担う。召喚陣が光輝とともに回転しだす。
「――――ッ! 飛んでけッ!」
 召喚陣から射出されたのは、本棚だった。魔導書や歴史書、哲学書がこれでもかと詰め込まれた本棚。百や二百では利かない数の本棚が、曲射を描いて飛んでいく。
「……見た目はアレですが、数が揃うとなかなか壮観ですねぇ……。夢のなかでも稀有な光景です」
「ふふん。本番はこれからよ。…………起爆しなさい、ノーレッジ」

 放物線をえがいた本棚の群れが目標地点の上空に到達する。八雲紫の号令に従って、ノーレッジは腕を大きく振りかぶる。
 それは数千の飛び交う本棚を一つの砲弾に見立てた巨大な本の爆弾。『本に書かれた情報量』を火薬とし、連鎖反応によって魔力反応の爆縮を引き起こす。
 尋常な化学物質では到達しえない高圧の魔力エネルギーがさらに圧縮され、臨界に達したとき――



 ――瞬間、眩い光だけが世界を覆った。


 
「あ、報告レポート書くんでしたっけ?」
 ドレミーが紙とペンを具現化させて筆を走らせる。

 ……『光が落ち着き、視界が戻ると同時に我々は爆風に襲われた。爆縮によって超高圧に引き上げられた魔力反応はコーヒーに溶ける砂糖細工のごとく構造物を塵に返していき……時折その吹き飛んだ断片がわたしの肉を割いていく。爆心地は数十秒立ってなお爆炎の伝播が続いており、エンジェルダストの消失確認は難しい。しかしこの地上に降り立った太陽がごとき熱をもってして消え失せない有機物、あるいは無機物がありえようか? 我々は偉大なる主の恩寵によらず、七曜の智慧と理性によって高次なる破壊そのものを手にした。主の手によらず立ち上がったものはまた主の手によらず倒れるであろう。エリエリレマサバクタニ。どうかこの秩序的な無秩序がわたしとその隣人たちに向けられぬように、アーメン、アーメン……byドレミー・スイート』
「こんなもんでどうでしょうか。うーん、詩人の才能があるかもしれません」
 ノーレッジは疲れたそぶりを見せず爆心地を眺めていて、八雲紫はやはりうさんくさいほどにニコニコと笑顔を浮かべているのだった。

 5

 敬虔なりしキミが神殺しを企てているのなら、それは遠大かつ偉大な自殺に他ならない。神様だって迷惑してると思うぜ? とレミリア・スカーレットは嘯いた。
 キリスト者であったことは一度もないつもりだが、アンチ・キリストのノスフェラトゥにしてみれば人間はみんな敬虔らしい。なんの話だろう。

 結論だけ言うと実験は失敗だった。単純な火力不足である。
 ヴワルの図書に書は尽きず、ゆえに運営は続けられる。火薬はそれこそ無尽蔵に用意できるけど、実験する場所がないのだ。幻想郷は広くて狭い。みんながみんな紅魔館みたいに日夜爆破されてるわけじゃないから、爆発実験はご近所迷惑になってしまう。
「むぅ……いっそ月の都にでも放り投げてみようかしら……」
「お月見ができなくなると神社の宴会が減りそうだ。やめてくれ、パチェ」
 吸血鬼として困ると言わないところが、彼女なりの諧謔なのかもしれない。

「それでさ、私たちは月を見上げても同じ光を二度見ることはない、だっけ? 思うんだけど、完全記憶能力を持ってるわけでもないんだから、一度見た景色だっていつか忘れちゃうもんだよね。そりゃぁ同じものを見れるわけがないよ。記憶は摩耗するんだから」
 友人の引用の誤りをあえて訂正する気はなかった。薬茶の味を砂糖で誤魔化しながら安楽椅子をゆする。
「そのアイデアは……面白いと思うわ、レミィ。示唆に富んでいる。検討する気はないけれどね」
 記憶は摩耗するものだ。曰くだからこそ紅茶を飲む日々が楽しいのだと。なるほど、同じことを繰り返せるのは記憶が摩耗するからなのかもしれない。
 であるならば世界の記憶は、天にまします主の記憶は……摩耗することがないのだろうか? ノーレッジは甘ったるくてまずい薬茶を啜って顔を顰めた。
根幹のテーマは「頭が悪くて、本が嫌いで、でも外では『わたし頭いいし本好きですよ』アピールしてるパチュリー」です。サブテーマは幸運のメカニズムでやってた話とか、ネオプラトニズムと熱力学とか、神殺しとか。
タイトルの『ハンプティ・ダンプティ』は洒落のつもりで付けたんですが、含意については黙秘します。イギリス産まれにしたしマザーグース引用すればいいか! という雑な思い付きが8割かもしれません。
あるちゃん
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コメント



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1.100サク_ウマ削除
拗らせ強度が凄まじくてにこにこ笑顔になりました。とても素晴らしいと思います。すき。
2.100名前が無い程度の能力削除
圧倒される語彙の量と、パチュリーの捻くれた感じの感情がマッチしているようで面白いです
4.100名前が無い程度の能力削除
衒学的!
5.100南条削除
面白かったです
ノーレッジ氏への悪乗りと愛を感じました
6.90めそふ削除
面白かったです。いい悪ノリって感じでした
7.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
8.100名前が無い程度の能力削除
こじらせまくってる幻想少女はいい