魔法の森には感覚を麻痺させる成分を含んだ植物が多く自生しており、そこから発生した瘴気は迷い込んだ者の理性を狂わせる作用を持っている。魔力への耐性を持たない生身の人間であれば、一時間もしないうちに正気を失ってしまうだろう。
深夜、魔法の森の奥地に住む人間の魔法使い、霧雨魔理沙は無言のまま森を彷徨っていた。
彼女は魔法の修業と称し、人間の身でありながらこの狂気の森に霧雨魔法店などという店を構えているのだ。長年この森で過ごした事により、彼女には十分瘴気への耐性がついている。
真夜中にこの森を無防備にうろつくなど、あまりに危険な行為である。
この森には理性を持たない凶悪な妖怪も数多く生息しているし、何より、未だ解明されない謎の怪奇現象等も頻繁に起こる。摩訶不思議の渾沌であるこの幻想郷の中でも、この魔法の森の危険度は格段に高い。
魔理沙も、魔法の森の過酷さは重々理解している筈であった。だというのに、彼女は何の装備も無しに、あろう事か寝間着姿の状態で森の中を歩いていたのだ。
「何処に行くんだ?」
ふいに、誰かに問いかけられる。魔理沙は何も答えなかった。分かりきった事を聞くなと思った。何処に行くかなんて、そんなの、「少なくともここではない場所」に決まっている。だから歩いている。
「そんなに急ぐ事ないじゃないか」
急ぐ必要があった。意味のない質問を繰り返し続けるこいつから逃げないといけない。魔理沙は足早に立ち去ろうとする。
「それ以上は、戻れなくなるぞ」
その言葉を耳にした瞬間、魔理沙の脳内に途方もないほどの空白が広がった。まるで思考の真ん中に波一つ立たない巨大な湖が出現したみたいだ。風もなく、ただひたすら、底の見えない水で頭が圧迫されているみたいで、そう、とどのつまり、何も考えられなくなる。
戻れなくなる、というのは、一体、何処に?
さっきからこいつは何処からの視点で話を進めてんだ。こいつは一体、私の何を知っているというのか? 疑問と同時に、なんだか無性に腹が立った。そもそも魔理沙は、誰かに指図されるのが、死ぬほど嫌いだった。
「おい、いい加減にしなって」
それはこっちの台詞だ、この間抜けっ!
魔理沙は叫んだ――が、どうやらそいつは耳が聞こえないらしい。出来得る限り悪辣に叫んだつもりだった。それこそ、思考内に出現した虚無感の塊みたいな湖に石を投げ入れるつもりで。しかし、そいつは怯む事も無く、むしろ何処か、楽しんでいるかのような表情を浮かべていた。
こいつは、無知な誰かに上から目線で説教するのが好きで好きで堪らないらしい。
「お前さ、一体何がしたいんだよ?」
当初はちゃんと目的もあった気がする。だが、今はとりあえず、お前がいないところに行きたいかな。何か、お前の声、嫌いだ。とうとう、魔理沙は耳を塞いでしまった。霧雨魔理沙にとっての完全装備、この世の何よりも堅い鎧、「私だけの世界」のポーズであった。しかし、声の主は呆れながら、諭すかのように言葉を続ける。
「なぁ、そろそろ戻ろうぜ」
ふと、背中をどつかれるような感覚に襲われた。意識がぐるぐると回転する。思考の湖が物凄い勢いで氾濫し、頭の中でぐちゃぐちゃに暴れている。まるで夢の終わりだ。荒唐無稽過ぎて何も考えたくない。
戻ろう、と言われても、帰る場所なんて何処にもない。はたしてこいつはその事に気付いているのか? 何も知らない癖に、勝手な事ばかり言うな。私の事なんて何一つとして理解していない癖に、偉そうに講釈垂れてんなよ。あんたは、あんたは一体、何なのさ。
魔理沙はついに、声の方へと向き直った。
そこには、霧雨魔理沙、自分自身が立っていた。
……。
「……あれ?」
魔理沙は森の暗がりの合間に薄っすらと入り込んだ眩い朝日によって目が覚める。身体中が朝露によって湿っている。……どうやら、ここは自宅の上のベッドじゃないらしい。
まて、待て、どうなってやがる?
嘘、嘘だろ。
「何で私は外で眠っていたんだ」
どうやら私は、無意識のうちに外を出歩いていたらしい。
・・・
「という訳で、しばらくはアンタの家に泊まらせてもらうわ」
ある夜、旧知の仲である魔法使い、アリス・マーガトロイドが魔理沙の宅にやってきた。ここ最近の魔理沙の奇行を案じての事である。
当の本人曰く、深夜の魔法の森を徘徊している時の記憶は皆無らしい。就寝後、気が付いたら外をうろついているのだとか。
……いや、それは怪異とか関係なく、普通に病気を疑った方がいいのではないだろうか? 魔理沙の行動は、いわゆる夢遊病者のそれである。
何を大袈裟な、という風に魔理沙は頭を掻いた。事実、現時点ではまだ特筆すべき問題などは起こっていない。今のところ、魔理沙は単に無意識のまま深夜徘徊を繰り返しているだけである。何か事件が起きた訳でもない。
だが……冷静に考えれば、それは単に運が良かっただけだ。
ここは解析すらままならない魔術と狂気と正体不明の暗黒が渦巻く森である。そんな場所を何の備えもなく、しかも無意識下でうろついて無事でいられる方がどうかしている。
「それに、最近は物騒な事件も起きているし、警戒はすべきだわ」
アリスはそう言いながら新聞を取り出し、魔理沙の目の前に広げて見せた。
その新聞の一面には凶悪な妖怪が出現し、人々を襲ったという事件が書かれていた。詳しく読んでみると、どうやらその妖怪は人里の付近で散々暴れ回った後、博麗の巫女の手を逃れ、この魔法の森近辺に潜伏しているのだとか。……確かに、思っていた以上に危険極まりない状況らしい。
「無防備な状態でこんなのと出くわしたら、命が幾つあっても足りないわ」
アリスに言われ、魔理沙はごくっと唾を飲み込んだ。我ながらなんて恐ろしい事をしていたんだと、途端に青ざめた表情を浮かべる。これは早急に何とかしなければならない。
「その症状はいつから? 何か心当たりはないの?」
「うぅー、心当たりって言われてもなぁ」
……あるにはある。
しかし魔理沙は、それがこの病の原因に繋がるかどうか、いまいち確信を持てずにいた。
「聞いても、あんま怒るなよ?」
魔理沙はアリスから目を逸らしながら、何処か恥ずかしそうに呟く。
原因は、一枚の写真と、一本のウィスキーであった。
アリスは黙ったまま魔理沙の話に耳を貸した。
ある日の事、魔理沙は自宅で深く飲酒していたらしい。
「物置の整理をしていた時にな、ほら、私の家って色々と散らかっているから、いい加減掃除しようと思って。その時に、これが出てきたんだ」
魔理沙は懐から一枚の写真を取り出す。それは、魔理沙がまだ人里の実家で暮らしていた時の写真であった。今よりも更に幼く、あどけない魔理沙の笑顔がそこに在った。隣には魔理沙の父親と、その弟子であり、現在魔法の森の入り口にて道具屋を営んでいる森近霖之助の姿が写っている。
現在、魔理沙は実家から勘当されている身である。魔理沙の父親が経営する霧雨道具店は人里の中でも指折りの道具屋だ。当然、父親には相応に責任という物が生じる。大手の道具屋の跡取り娘が魔法使い志望の不良娘とあっては、周りの住民達も眉を顰めるだろう。故に、魔理沙は自ら親元を離れ、里から遠く離れたこの森に移り住んだ訳である。
「この写真を見た時、懐かしいって思うと同時に、何だか自分が嫌になっちまってな。つい、その……お酒に逃げっちった。我ながら情けないぜ」
茶目っ気を加えて魔理沙は舌を出す。
……魔理沙は言葉を濁したが、つまり彼女はこう言いたいのだ。
懐かしい家族の写真を見た事で、思わず、決別した筈の実家を想ってしまった。有り体に言えば、ホームシックにも似た感情を抱いてしまったのだ。
ただでさえ一方的に、それこそ逃げ出すように実家を出た筈なのに、未だ心の何処かでこの決断を悔いている自分がいる事に、やるせなさを覚えたのだ。家族との日々と、己の内に渦巻く夢と理想。この期に及んでどっちつかずになってしまっている自分が、情けなくて堪らないのだろう。
「どちらにも振り切れない優柔不断な自分に嫌気が差したって訳ね」
そう、だけど。魔理沙は苦そうな顔を浮かべる。
「何と言うか、お前……察しが良過ぎて逆に会話し辛いよ」
それ故か、魔理沙は一本のウィスキーをガバガバと胃にぶち込み、己の内から溢れ出る憤りや不安感を洗い流そうとしたのだ。挙句、魔理沙は酔い潰れ、意識を失い、目が覚めたら森の中にいたという。
魔理沙の夢遊病が発症したのはそこからであった。
「酔っぱらった拍子に魔力を含んだ瘴気に触れたのが原因ね」
とにもかくにも、実際にその光景を間近で見ない事には何とも言えない。二人は他愛ない話を繰り返しながら就寝の時間を待った。
陽が沈み、アリスお手製のキノコと山菜の洋風丼を食べ、風呂を済まし、後はもう寝るだけとなった。
……しかし、どうにも眠れない。
「当たり前だよ。こんな監視されているみたいな状況で眠れる訳ないよ」
魔理沙は不満そうにごろごろと寝返りを打つ。アリスはベッドのすぐそばに設置されたテーブルに頬杖を突きながら霧雨魔法店の隅っこに転がっていた本のページを適当にめくっていた。
「私の事はあまり気にしなさんな。早く寝なさいよ」
気にするなと言われて気にしない奴はいない。
時刻は、午前0時過ぎ。普段ならとっくに眠りについている時間帯である。魔理沙は途方もない気持ちで何度も寝返りを打つ。寝ようとすればするほど目が覚めてしまう。
アリスは仕方なさそうにため息をつき、本を読みながら静かに口を開いた。
「じゃあ、ちょっと面白い話をしましょうか?」
魔理沙は返事せず、黙ったまま天井を見つめていた。
「これは、とある国のおとぎ話よ」
……『リップ・ヴァン・ウィンクル』の話というのをご存じだろうか?
アリス自身、内容はうろ覚えだったが、確かあらすじはこうだ。
ある男が鉄砲を持ち、猟犬を連れて山へ狩りへと出かける。その男の名前がリップ・ヴァン・ウィンクル。そこで、彼は奇妙な老人に出会う。
彼はその老人から酒をご馳走になった。その酒が美味しくて、リップは次から次へと酒を呷り、泥酔してすっかり眠ってしまったのだ。
……目が覚めると、リップは老人と出会った場所に倒れていた。
不可解な事に、手にしていた鉄砲が錆びており、辺りの景色も来た時とはだいぶ様子が変わっていたのだ。猟犬の姿もなく、リップは不安になって自分が住んでいた街へと戻った。
リップには妻がいた。しかし、そこに妻の姿はなかった。それどころか、自分の家がまるで空き家のように廃れていたのだ。街の様子も何だかおかしい。見知らぬ住民に話を聞いて、リップは唖然とした。
妻はもう二十年も前に死んでいるというのだ。
つまり、リップが山で老人と出会い、酒を飲んで眠ってしまっている間に、何十年という歳月が経っていたのである。
これは日本で言うところの『浦島太郎』のような話だ。
ちなみに……リップが飲んだ酒の名前は……。
話をすべて聞き終わる前に、魔理沙は寝息を立ててしまっていた。
魔理沙の無邪気な寝顔を見ながらアリスはクスクスと微笑んだ。
しかし、アリスはそこで深刻な表情を浮かべながら、先ほどまで己が語っていた話について少し思考する。
……このリップ・ヴァン・ウィンクルの話を魔理沙に置き換えてみよう。
魔法に魅入られた魔理沙は大好きな家族の元を離れ、一人、この薄暗い魔法の森へと足を踏み入れた。彼女はこの森で途方もない時間をかけて魔法の研究を続ける。確実に、着実に、時間は過ぎていく。
彼女が刻む筈だった家族との時間、その全てを犠牲にして、魔理沙は魔法を習得しようとしている。人間が魔法使いになるには相応に時間が必要になる。普通に生き、人らしく過ごしている内にはきっと叶わない願いだ。
魔理沙は、心の何処かで時間の使い道に葛藤しているのだ。
ここは魔法の森、彼女が晴れて正真正銘の魔法使いになる事が出来たとして、この森から出た頃、魔理沙に帰る場所はあるのだろうか?
目が覚めた時、故郷も、家族も、全てが過去になってしまったと気付いた時、はたして彼女の手元に残る物は、それらを支払うに値する物なのだろうか? かけがえのない、何処までも普通の日々を差し出して、家族との時間を放棄して、そうやって得られた物に、納得出来るだろうか?
魔理沙はきっと、唖然としながら、己の選択を悔いるに違いない。
それこそ、一杯の酒で全ての時間を失ってしまった、とある短編小説の主人公、あのリップ・ヴァン・リンクルのように。
だがそれ以上に、アリスには懸念があった。
魔理沙は芯を持っている。多少は揺るぎ、葛藤する事はあれど、己の中で決断し、前に進む信念を持っている。目的の為なら、多少の犠牲は厭わない。魔理沙には、何よりも強い意志が宿っているのだ。
だからこそ、魔理沙は……。
「魔理沙、あなたは……」
いつか、私達(幻想)の事も切り捨ててしまうのかしら?
目的の為なら、必要とあらば、これまで築き上げてきた関係を、魔理沙はすんなりと捨て去ってしまうのだろうか?
……それが出来るから、それが出来たから、彼女はこの森にいるのだ。
そして彼女は、その選択を酷く悔やんでいる。
魔理沙はきっと否定するだろうけど。
・・・
結局、あれから三日ほどアリスは魔理沙の家に滞在したが、例の夢遊病の症状が出る様子はなかった。どうやら、何かしらの条件が必要らしい。
「……このままじゃ埒が明かないわね」
幾度目かの深夜、いつもならベッドに横たわっている時間だが、魔理沙はアリスと共にテーブルを囲んでいた。中央には、アリスが人里で購入してきた安酒と二人分のグラスが並んでいた。
「とりあえず、症状が出た時と同じ状況を作ってみましょう」
魔理沙が夢遊病になった時、彼女は酷く泥酔していたのだという。ならば、同じように酒に酔い潰れてしまえば再び症状が出てくるかもしれないとアリスは提案した。何処までも短絡的だが、手掛かりがない以上、地道に色々な方法を試す以外にない。それに何となく、飲みたい気分ではあった。
二人は慎ましくグラスを鳴らし、少しずつ酒を飲んでいく。安い酒だ。すぐに精神がガタついてしまう。若干頬を赤くしながら、魔理沙とアリスはいつもの通り下らない話で盛り上がった。
「ところで魔理沙、もう実家には顔を出さないの?」
瓶の酒が半分を切ったところでアリスは問いかけた。魔理沙は紅潮し、ほろ酔いになりながらも、アリスのその質問に多少難色を示した。
「何でそんな事聞くんだよ」
「いいでしょ、別に」
不自然な沈黙が訪れる。アリスはジッと魔理沙の顔を見つめるが、魔理沙は何処か居心地悪そうな表情でよそ見を続けた。
「何で黙ってるの?」
「答えに困ってんだよ」
魔理沙とアリス、長年連れ添った仲である。アリスは、魔理沙という人間をよく理解している。彼女が今、何を考えているのかも、何となく分かる。
「親父に会う理由がない」
「……いや、いくらでもあるでしょ。親子なんだし」
そもそも、子が親の元に出向くのに理由は要らない筈だ。しかし、魔理沙は難しい表情を浮かべたまま、グラス片手に唸り続けた。
「あー、ちょっと待ってくれ」
散々迷い続け、グラスに残った酒を一気に呷り、魔理沙はぼやける思考を少しずつ整理しながらつらつらと己の現状について語り始めた。
「あのさ……私って一応、家出娘な訳よ。私が出て行った理由はあくまでも我が儘なんだ。今更どんな顔して家に帰るんだよ。自分で縁を切っておきながら、恋しくなったからって顔を出すとか、それは流石にヤバいだろ」
身勝手過ぎるよ、それ。
魔理沙は簡潔に、さもそれが当然であるかのように言い放った。
彼女が魔法使いを志すようになった経緯は知らない。しかし、それが生半可な気持ちで始めた事ではないのは確かだ。しかし、彼女だって人の子、それも、まだまだ未熟で世間知らずの少女なのだ。どんなに確固たる意志を持っていたって、それを貫徹出来るほどの強さを持ち合わせている訳じゃない。彼女だって、寂しさに圧し潰されてしまいそうな日もある。
「……アンタさ、ちょっと、意固地になり過ぎじゃないの?」
アリスは真顔のまま、しかし、何処か弱々しい口調で返した。
「……何が?」
アリスは空になったグラスをそのままに、魔理沙の瞳を凝視する。
「何だかんだ言っても、アンタってまだ子供じゃん。難しい事考えずに、普通にしていればいいのに。子供が家族に甘えるのって、自然な事でしょ?」
……何だか、話をするのが苦痛になってきた。アリスは今、魔理沙の存在を司る根幹の部分にタッチしているのだ。それも、かなりさりげなく。
「分かんねぇかな? 意志がブレるっつってんだよ」
彼女が実家の父親と縁を切ったのは、何も意地の問題だけではない。彼女にとって、それは己の退路を断つ為の、覚悟のつもりであったのだ。
魔理沙には魔法使いになるという野望がある。しかし、その成就には相応の代償が必要になる。時間や金、労力、それらすべてを一括で支払う場合、彼女が最も手放すべき物は、人里の道具屋の娘、ただの人間「霧雨魔理沙」の未来であった。
「やっぱり……アンタって、ちょっとおかしいよ。普通じゃない」
彼女は、選択肢を断ち切る事でしか己の歩む道を決める事が出来なかった。
「いいんだよ、私はそれで良いの」
幸せな日々が選択の中に存在していると、どうしたって意志がブレてしまう。困ったり、追い詰められた時、全てを放棄して楽な方へ自分を流してしまいそうになる。それが嫌だから、それが怖いから、魔理沙は何処までも徹底して自分を律し、逃げ道を潰してここまでやってきたのだ。
不安定な気持ちのまま歩けるほど、彼女の道は極楽ではない。
アリスはこめかみを抑えながら、力無く呟いた。
「……分かった、もういい」
そう言いながら、アリスは台所へと歩み寄り、半分ほど残っている酒瓶を戸棚に入れた。
「何だよ、今夜はもうお開きか?」
ここまで踏み込んだ話をしたのだ。魔理沙は内心、もう少し、酔いが欲しいと思った。アリスは何らや考え込んだ様子でそれに頷く。
「そうね……じゃあ、締めのお酒に丁度良い物を作ってあげるわ」
アリスはそう言いながら戸棚の奥で眠っていたシェイカーを取り出した。素早く氷を入れ、ホワイト・ラムをベースにコアントロー、レモンを絞り、2:1:1でシェイクする。カクテルグラスに注ぎ、完成である。
「何だかやけに小洒落たものを作ったな。何ていう名前なんだ?」
「……『これで終わり』っていうお酒よ」
何を指しての終わりなのかは分からないが、魔理沙はそっとカクテルグラスを傾け、その柑橘類の香りを存分に味わいながら、ゆっくりと口に含む。
「……終わり……?」
その言葉を最後に、魔理沙はそのままテーブルに顔を突っ伏してしまう。
・・・
おとうさん、わたしね、おはなやさんになりたい。
おとうさん、わたし、おかしやさんになりたい。
わたし、おもちゃやさんになりたい。
おとうさん、ねぇ、おとうさん。
……。
父さん、私、父さんの仕事を勉強したい。
父さん、私も、香霖と同じように、父さんの元で働きたい。
父さん、いつか、私も自分の店を持ちたい。
父さん、私、父さんみたいになりたい。
……。
なぁ、親父。
私は。
・・・
魔理沙の夢遊病の正体が、ようやく分かった。アリスはカクテルに微量の魔力を込め、強制的に魔理沙を睡眠状態にしたのである。
「さぁ、出てきなさい、魔理沙の『本性』……」
その瞬間、眠りについたはずの魔理沙が徐に立ち上がった。
しかしその顔付きは、明らかに魔理沙のソレとは違って見えた。顔自体は魔理沙の物だが、そこに宿る魂は、本来の魔理沙とは完全に異なっている。
アリスは呪文を唱えながら、虚ろな目をしている魔理沙の胸元に腕をかざし、思い切り、彼女の身体を突き飛ばした。
「……ぐえっ!」
魔理沙はそのまま床に倒れ込み、その衝撃で目を覚ました。
「いてて……何するんだよ、アリス……って」
魔理沙は、信じられない物を見た。
魔理沙の目の前に、「魔理沙」が立っていたのだ。
「……どう、なってんだ、これ……?」
同じ場所に、魔理沙が二人いる。明らかに異常であった。しかし、アリスは何処までも冷静な顔を浮かべながら、そっと倒れ込んだ魔理沙に腕を差し伸べた。
「落ち着きなさい、魔理沙。これはあなたの「もう一つの意志」を具現化した存在、ただの幻影よ」
アリスは端的に説明しながら、静かに佇むもう一人の魔理沙の腕に触れる。しかしその瞬間、アリスの手が触れた個所が煙のように揺らいだ。どうやら説明の通り、彼女は実体のない存在らしい。
「よく聞いて、魔理沙。これが、今回の異変の正体よ」
戸惑いを見せる魔理沙に対し、アリスは何処までも冷静に説明していく。
「目の前に立っているこの子は、魔理沙の中に芽生えたもう一つの意志。あなたの無意識が見ている願望が具現化した存在なの」
ちょっと寝ている間にえらく話が飛躍したな、と魔理沙は思った。
……始まりは、魔理沙が自宅で家族の写真を見つけた事にある。
彼女はこれまで、家族から切り離され、自ら孤独になる事で己の意志を固めてきた。だが内心では、父親との和解を望んでいる側面があった。
しかし、強情な彼女の事である。そんな風に都合よく意志を曲げる事など、許せる訳がない。彼女は迷いを拭い去る為に深く酒を飲んだ。
酩酊した状態で、彼女は霧雨魔法店を出た。理由は単純に、酔いを醒ます為に少し夜風に当たりたかった――等だろう。
だが……何度も言った通り、ここは魔法の森、精神に作用する魔力が充満した空間である。本来の魔理沙であれば絶え凌ぐ事も容易だろうが、その日の魔理沙は精神的に弱っており、アルコールで意識も朦朧としていた。
恐らく、それが原因で『彼女』は生まれたのだ。
心身ともにボロボロに弱っていた魔理沙は幻惑の瘴気をもろに吸引してしまい、その影響で彼女の無意識の中に閉じ込められた願望がより鮮明な形となり、全く別の意思となって生み出されたのだ。
本来の魔理沙と、彼女の無意識が生み出したもう一人の魔理沙。二つの意思が一つの身体の中に同時に宿った状態となったのだ。もう一人の魔理沙は、主人格である魔理沙が眠っている時に目を覚まし、己の意思で外を出歩こうとするのだ。これが、突然魔理沙が夢遊病になってしまった理由である。
アリスはそれを見破り、精神を操作する魔法によってもう一人の魔理沙の意思を身体から切り離す事に成功したのだ。
もう一人の魔理沙の思念は眠っている彼女の身体を動かし、己の願望を叶える為に、森の中を徘徊していたのである。その願望というのが――。
「恐らく……この子は、人里にいる父親の元へ帰りたいのよ」
そんなの嘘だ、と魔理沙は声を荒げた。
「デタラメ言うなよっ! 私は、自分で決断してこの森にいるんだっ。自分の意思で実家から飛び出してきたんだ……全部、私が望んだ事だっ!」
魔理沙は額に汗をかきながら、もう一人の自分の幻影を見つめた。
「そうね……あくまで私の推測に過ぎないわ。だけど……」
話を進めている途中で、これまでひたすら寡黙を貫き通していたもう一人の魔理沙が、家のドアをすり抜けて外へと出てしまったのだ。彼女は魔理沙の無意識の元で生まれた思念の結晶、魔理沙の肉体から解放された事により、魔理沙の意思とは関係なく、独自に思考し、自由に行動出来るのだ。
「とにかくアリス、アイツの後をつけてみよう」
魔理沙とアリスは共に外に出て、分離された魔理沙の別思念の後を追う。しかし、その足取りはかなり覚束ない。まるで、ここにいる事自体が間違いであるかのように、何処までも危うい様子であった。
「本当に、あれが私だっていうのか?」
魔理沙はどうにも複雑な気分であった。自分と全く同じ姿形の奴が、何処までも自分とは正反対に振舞っている様というのは、見ていて苦しくなる。
別思念は不安げな表情を浮かべながら夜の魔法の森を歩き続ける。暗がりから聞こえる些細な物音にびくつきながら……まるで、何も出来ない少女のように。
「……無理も無いわよ。あれは、本来のアンタとは違う。魔法使いを志さず、人里で平穏に暮らす事を望んでいた、無力な女の子なのよ」
そんな訳あるか、と否定したかったが、魔理沙は何も言えずに苦悩の表情で別思念の後を追い続ける。
だが、別思念の魔理沙は一向に森の出口を見つけられずにいた。当たり前であった。ここは部外者を容赦なく迷いへと誘う魔法の森だ。不慣れな人間がそう簡単に出歩いていい場所ではない。別思念の魔理沙は途方に暮れ、仕舞いには――。
『……』
それは、普段の魔理沙なら間違ってもしない、弱気の表情であった。何も出来ず、自分で何かを判断する事も出来ず、誰かが手を差し伸べてくれるのをひたすら待っているような、そんな、何処までも甘ったれた顔だった。
「ねぇ魔理沙。これでハッキリしたでしょう? あの子は、アンタの中にあるもう一つの願望を具現化した存在なの」
魔理沙、あれが、アンタの本性なのよ。
藪の中、疲れてしまったように蹲る別思念を見つめながらアリスは言う。アリスの言う通り、魔理沙も本心では、人里に残した家族との絆を、完全に断ち切る事が出来ずにいるのだ。
魔理沙は、過去の選択を悔やんでいる。しかし、魔理沙はそれが嫌で仕方ないのだろう。だから魔理沙は、余計に頑なになってしまうのだ。
アリスにそう言われ、魔理沙は堪らない表情を浮かべた。そして、鋭く舌打ちをしながら、乱暴に別思念の魔理沙の方へとにじり寄った。
「おい……おいっ! 何やってんだよお前!」
あくまでも、相手は魔理沙の無意識が具現化した存在である。そんな不安定な状態でまともに口が利ける筈がない。それでも、魔理沙は一方的に己の無意識に向かって叫んだ。
「認めないぞ、お前みたいな意気地なしが、私の無意識だって?」
こんな、何も出来ないグズが私の本性だってのか?
もう一人の魔理沙は本体の言う事など気にも留めず、その場を動かず俯いたままであった。思考を放棄したように、何もかもを諦めたかのように。
「……なあ、立てよ、ちゃんと立てってばっ!」
私は、こんなとこでウジウジしたりなんかしないよ!
お願いだからシャンとしろよ!
甘えたような顔しやがって。
みっともない。
情けない。
ふざけやがって。
何考えてんだよ。
恥ずかしい。
消えろよ。
お前なんか――。
己の内にある一切の甘えを切り捨てるように、魔理沙は自身の無意識を全否定し続ける。こうなると、何だか両者揃って哀れに見えてしまう。
「魔理沙、もうその辺にしましょう。この子はあくまでもあなたの抑圧された願望の具現に過ぎない。あなたの身体から切り離す事には成功したんだから、これ以上突っかかる意味はないわ」
どうせ放っておけば魔法の森に充満する瘴気に混ざり、いずれ消滅してしまうような存在である。そんな相手に暴言を吐き続ける意味はない。
それに、これ以上、魔理沙の今の姿なんて見たくない、とアリスは思った。
「アリスは黙っててくれ。私にとって、これは重要な問題なんだ」
だってそうだろうが。こんなの見せられて、こんな奴と出会って、これから先……私は、どんな気持ちで自分の夢と向き合えばいいんだ。
魔理沙は平穏な暮らしを、家族との日々を犠牲にしてここに立っている。
いつの日か自ら手にしたその選択を、悔やんでいる。だからこそ許せない。
後悔はない、たとえそれが嘘だとしても、懸命にそう自分に言い聞かせる事で彼女は前に進んできたのだ。
魔理沙は、悔恨がない事に縋り続けていたのだ。
「間違ってるよ、こんな奴。消えろよ、頼むから……」
しかし、冷酷な言葉とは裏腹に、脳裏には実家で過ごした日々が過る。安心に溢れた、穏やかな日々だ。違う。違う。あれはかけがえのない大切な時間だったけど、それでも、あの場所には何もない。何にもならない。
あの場所に居たら、私は何処にも行けない。それは確かなんだ。
「もう、お前の身勝手には付き合いきれねぇよ」
だがその瞬間。
「……身勝手はどっちよ」
アリスが静かに、それでも揺らぎのない刃のように言い放ったのだ。
「……何だよ、いきなり」
突然のアリスの言葉に魔理沙は若干動揺しながらも問い返した。
「私から見れば、おかしいのは魔理沙、アンタの方だっつってんの」
言いながら、アリスはゆっくりと魔理沙の方へと歩み寄ってくる。緩やかながら、怒りに満ちた表情であった。思わず、その場から逃げ出したくなる。しかし、魔理沙はぐっと唇を噛みながらアリスの表情を凝視し続けた。
「私の何がおかしいってんだよ」
「全部よ! 全部! 一方的に自分の意見ばっかり押し付けてないで、少しはこの子の事も理解してあげたらいいじゃないの。聞く耳も持たずに、何でそんな酷い事ばかり言うの? この子は、あなた自身なのに……」
違う! と魔理沙は叫んだ。
「こいつは……何も出来ないグズだっ! 自分の意思じゃ何一つ選択出来ない間抜けだっ! ああクソ、こういう奴見てると腹が立つんだよっ!」
己の頭を搔きむしりながら、魔理沙は侮蔑の眼差しでもう一人の自分を見下ろした。決定的な不和であった。何処までも自分とは違う、容認のしようがない存在。……いや、というより……。
「大体、これは私の問題だろ。何でアリスが怒ってんだよ」
「アンタが見苦しい事ばっかりするからよ! 人一倍繊細なくせに、何でアンタの選択にはいつも『究極』しかない訳? 頭おかしいんじゃないの?」
アリスは自分の頭に人差し指を当てながら吐き捨てる。流石に、いくら何でもそれは言い過ぎだ。魔理沙は憤慨したように声を荒げた。
「意味わかんねぇよっ……お前、さっきから何が言いたいんだよっ!」
「……いい加減、折り合いをつけろっつってんのよ! 意味のない事でいちいち自分を厳しい方向に追い詰めて、意地張って、自分の本音を押し殺して、その結果生まれたのがこの子じゃない! アンタがもう少し素直だったら、こんな事にはならなかったのよっ。……酷いよ、アンタ」
この子が、あまりに可哀想じゃない。
アリスはそう言ってもう一人の魔理沙を見た。
「……私さ、正直言って怖いのよ。アンタのそういうとこ」
アリスは寂しそうに呟いた。非情な言い方になるが、魔理沙は決して才に恵まれた人間ではない。彼女は何処までいってもただの「人間」である。
それ故なのか、魔理沙には目的を成就させる為に、手段を選ばない決断力がある。いや、そうあるべきだと魔理沙は己自身を冷酷に躾け続けたのだ。
だから、彼女は家族を捨てた。人里で生きていく道を切り捨てたのだ。
「だってそうしなきゃ、アンタは何も出来ないんだもんね。自分の夢を叶える為なら、しょうがない事なんだもんね。だって、そうじゃなきゃ……」
恐らく、散々悩みぬいた挙句の行為だったのだろう。魔理沙は非情な決断を下すが、心が無い訳ではないのだ。だから、魔理沙は苦悩しているのだ。
「そうじゃなきゃ、アンタは、霊夢の隣にいられないもんね」
「……っ!」
唐突に、霊夢の名前を出された瞬間、魔理沙の表情は歪んだ。
博麗霊夢、この幻想郷を守護する博麗神社の巫女。
魔理沙が魔法使いなんて荒唐無稽な野望を抱いた最大の原因は彼女にある。
言いたくないが、魔理沙の心は霊夢という存在に囚われている。詳しい話はアリスにも分からない。二人の間に何があって、どういった経緯で今に至るのかは分からない。それでも突き詰めれば、魔理沙の行動原理の全ては彼女に繋がっているのだ。
霊夢という一人の天才を追いかけている時だけ、魔理沙は本当の意味で人生を謳歌する事が出来るのだ。魔理沙自身は決して認めないけれど、霊夢は魔理沙にとっての指針であり、何より大きな『意味』を有している。
霊夢の背負っている宿命は、端的に言って過酷だ。生半可な覚悟で成せるほど優しい道のりではない。そんな彼女の横で胸を張るには、どうしたってそれなりの代償が必要になる。魔理沙にとっての代償は『平穏』である。
「アンタ、その為なら、家族だって捨てる事が出来るんでしょ? 目的の為なら、霊夢の為なら、魔理沙は、何だって差し出すんでしょ?」
「違う、違うって、アリス……私は、そんな……」
言い訳が出来ない。その実、魔理沙はアリスが言う通りの事をやってきたのだ。アリスの言う通り、『究極』の二択で自分を追い詰めて、残酷な道を選び続けてきたのだ。魔理沙は今もなお、家族のとの時間を、平穏を、代償として支払い続けている。それを悔いてはならないと、己を律しながら。
夢の為に、大事な物を捨てなさい。全部、全部、捨てなさい。
大切な物を切り捨てなさい。覚悟とは、そういうものだ。
冷徹に言い聞かせ、それを実行してしまったのだ。
その結果生まれたのが、蹲り、何処にも行けなくなってしまった惨めな自分の姿であった。
「……アンタは、目的の為なら、いつか……私の事も切り捨てるの?」
「やめろって! 聞きたくないよそんなのっ!」
頭をフル稼働させてこの場を濁す言い訳を考える。魔理沙はもう、こんな不毛なやり取りを続けたくなかった。考えても苦しいだけだ。今更、過去の選択のツケを支払わされるなんて、堪ったものではない。
「野望ってのは自分の何もかもを踏み潰してようやく叶う物じゃないか。私は、後悔なんかしないぞ。後悔なんてあってたまるか! だってそうじゃなきゃ……今の『コイツ』みたいになっちまう!」
魔理沙はもう一人の自分を指差しながら、声を張り上げて訴える。
何処にも行けなくなってしまう。そんなの、死んだ方がマシだ。
「さんざん悩んで、沢山、苦しんで、ようやく絞り出した答えなんだよ。それを、今更悔やんだって仕方ないだろ! 正しいかどうかなんて知らないよ。ただ、後悔だけはしちゃいけないんだ。立ち止まってたまるかっ!」
今更、あの決断を過ちにしてしまったら――。
幼いながらもその胸に抱いた、あの覚悟は――?
「あの日の、私の決心は、一体何だったんだ……ッ⁉」
……。
――。
この時、魔理沙は熱くなりながら、頭の片隅で冷静に思った。
いくら何でも、大きな声を出し過ぎた、と。
忘れてはならない。ここは、幻想郷の中でも無法の空間、管理されていない危険が至る所で息を潜めている魔法の森である。
突如、静寂を切り裂くような咆哮が辺りに鳴り響いた。この付近に巣食う凶暴な妖怪である。魔理沙とアリスは互いに背を預けながら身構えた。
「な、何だよ今度はっ!」
闇夜に染まる茂みの奥から、二つの鋭い眼光がこちらを覗いている。完全に二人を獲物として定めている様子であった。
ここは森の中でも比較的穏やかな場所である。
森の中に漂う魔力成分を利用した結界を施してあるのだ。つまり、この結界は魔法の森の瘴気に耐性のある妖怪が対象となっており、森の中に生息する妖怪はこの場所には立ち入れない筈であった。
……その結界を突破出来るという事は、森の中に生息する妖怪ではなく、外部から全くの余所者という事になる。
そこで、魔理沙は以前にアリスに見せてもらった新聞を思い出した。
確か、凶悪な妖怪がこの魔法の森に潜伏しているという話であった。
恐らく、今魔理沙とアリスを睨んでいるあの妖怪の事だろう。よりによってこのタイミングで出くわすとは思わなかったが――この幻想郷の脅威である事は間違いない。今、ここで退治しておくのが賢明だろう。
「アリス、この場でアイツを仕留めるぞ」
「ええ、魔理沙、合図をしたら一斉に仕掛けるわよ」
アリスに相槌を打ちながら、魔理沙は――何故か――自分達の後方で蹲っているもう一人の自分へと視線を移した。ほんの、一瞬だけ。
「……え?」
その時、魔理沙は目を疑うような光景を見た。
先ほどまで力無く項垂れる事しかしなかった魔理沙の別思念であったが、この場に凶暴な妖怪が現れた途端、彼女は突然、徐に顔を上げたのだ。
何も出来ない、何も決断できない筈の彼女であったが、この時、もう一人の魔理沙は、妖怪に対し、鋭い表情を向けていたのだ。
「……嘘」
その様子に気付いたのか、アリスは眉を顰めながらもう一人の魔理沙を見つめた。先ほどまで、立ち止まり、情けない顔を浮かべるしかなかった彼女とは違う。言うなればそれは……それは、まるで。
……まるで、自分の良く知る『霧雨魔理沙』と瓜二つであったのだ。
『魔理沙』は抵抗の術を持たない。しかし、それでも、彼女は妖怪に向って静かに手の平をかざした。本体である魔理沙の、最高傑作の魔法――。
恋符『マスタースパーク』の構えであった。
妖怪が魔理沙達の前に躍り出る。理性を持たない、本能のままに暴れ回るしか能のない邪悪な怪物であった。アリスは無言のまま魔力で糸を放ち、すぐに妖怪を拘束する。威勢の良かった咆哮が呻き声に代わる。
「魔理沙、今よ」
後方に立つもう一人の魔理沙の動きに合わせるように、本体である魔理沙は妖怪に向って八卦炉を高々と掲げ、スペルを宣言する。八卦炉から高濃度の魔力が集結し、一筋の閃光となって夜の森を疾走する。光は鋭い刃となり、眼前に佇む妖怪の心臓を容赦なく穿つ。瞬間、凶悪な影が断末魔と共に消失する。
「……なぁ、お前……」
全てが終わった事を確認し、再度、魔理沙は後方に振り向く。
しかし既に、もう一人の魔理沙の姿はなかった。
「……アリス、これは一体どういう事なんだ?」
魔理沙は唖然とした表情でアリスに問いかけるが、アリスは答えられずにいた。
「……」
アリスは黙ったまま、魔理沙の別思念の事を脳内で何度も思い出す。
あれは、魔理沙が選ばなかった世界の魔理沙、魔理沙が切り捨てた、無力で、何も出来ないもう一人の自分。
であれば――先ほどの行動は――?
魔理沙は、どうして魔法を使おうとした?
平凡な日々を望んだ筈なのに。魔法使いなんて、志してない筈なのに。
「……疲れた」
帰りましょう、魔理沙。
アリスはくたびれたように簡潔に呟く。
魔理沙は納得出来ないような表情を浮かべたが、それでも渋々頷いた。
・・・
魔理沙の家に辿り着いて、しばらく、二人は無言のまま互いを見つめ続けた。……魔理沙は沈黙に耐え切れず、逃げるようにベッドへと潜り込んだ。アリスは何も言わず、すぐ傍の椅子に座り、微動だにしない。
この静けさは何だか嫌いだ。
魔理沙は恐る恐るといった様子で、ようやくアリスに話しかけた。
「あれって……つまりそういう事なんだよな?」
「……いえ、私にはさっぱり分からないわ」
はぐらかすなよ、と魔理沙は語勢を強くする。
「怒鳴らないでよ」
「怒鳴ってないって」
言い合いながら、魔理沙とアリスは先ほどの出来事を思い出す。
あの時、魔理沙の別思念は無力ながら、それでも確かに、あの凶暴な妖怪に立ち向かおうとした。本来の、魔理沙のように、魔力を用いて戦おうとしたのだ。アリス自身、その目で確認したのだから、それは間違いない。
「前提から、間違っていたのかしら」
魔理沙の中にある抑圧された願望の結晶体、それがもう一人の魔理沙の正体だと思っていた。その願望は、魔法使いである事を諦めて、実家に待つ父と共に平穏に生きて行く事――。
しかし、もう一人の魔理沙は行動によってそれを否定したのだ。
「これじゃあいつまで経っても宙ぶらりんのままじゃないか、気持ち悪いよ」
私の無意識が本当に望んでいる事は、一体何なんだ。
魔理沙は途方に暮れた様子で呟く。しかし、アリスの方は何となく答えを既に見つけている様子であった。それを、あえて黙っている。本当は問い詰めるべきなのだろうが……魔理沙はひたすら、力無く項垂れてしまった。
「……色々あったけど、とりあえず今は礼を言うよ、アリス」
このまま眠りについて、何事もなければ今回の異変は無事に解決と言えるだろう。確かに、多少の疑問は残ったが、それでもあまりこの件にいつまでも拘り続けるのは……正直に言って、苦痛でしかない。
「……魔理沙。今夜はもう眠りなさい」
アリスはそう呟き、椅子にもたれながら静かに瞳を閉じた。
「なぁ、アリス……やっぱりアレって、そういう事なんだよ」
ベッドに横たわりながら、魔理沙は体に残った酔いと眠気によってあまり正常に機能しない思考、そこからはじき出された単語を思うままに口にした。
多分、多分だけど、どんな選択をしたって結局、私は私なんだよ。
どの世界であろうと、私は私でありたいよ。そう望んでいる。
今なら確信が持てる。確かにアリスの言う通り、私は非情な人間なのかもしれない。
目的の為なら、どんな手段も厭わない、大切な物だって切り捨てる。
私の正体は、そんな……「人でなし」なのかもしれない。
でもそれで、平気かって聞かれたら、そうじゃないんだよ。
嫌だよそんなの、何にも捨てたくないよ。誰とも離れたくないよ。
認める、認めるよ……。
私は、私の選択は、後悔だらけだ。
自分で選び取った事なのに、それを激しく悔やんでいる。
いくら何でも、情けなさ過ぎる。
その現実を突き付けられるたびに、逃げ出したくなる。
悔やんではいないって。間違っていないって。
何もかも捨て去れる非情な自分に依存していただけなんだ。
私は、結局、何も捨て切れていないんだよ、未だに――。
ああ、こんな自己嫌悪は間違っている。
こんなの嫌だ。こんなんじゃ駄目なのに。
アリス、ごめん、全部聞かなかった事にしてよ。
こんな弱い私なんて、誰も見てくれないのに。
弱いままじゃ、何も出来ないのに。
霊夢の傍にいたいのに――。
ねぇ、アリス、全部、聞かなかった事にしてよ。
こんな私を、私と思わないでよ。
この夜を、無かった事にしてよ。
「それも、人間らしさでしょ」
ぽつぽつと漆黒の雨のように本音を吐露する魔理沙に、アリスは何処までも簡潔に呟いた。
「……アンタも、結局は人間だもん。そういう生き方もあるって事でしょ」
「もっとはっきり言えばいいだろっ、アンタは最低のバカだって! いつもの調子で言えよ! ……何でお前はいつも、こんな時に限って優しいんだっ⁉ お前はいつもそうだっ‼」
魔理沙の声は危ういほどに震えていた。
私は――アリスはそこで言葉を区切る。
「私達(幻想郷)は、アンタを責めたりはしないわ」
果たしてリップ・ヴァン・ウィンクルは過ぎ去った日々に何を想う?
そもそも、その世界には、彼の意思は介在するのか?
「アンタの場合は、それしか選べなかった、ただそれだけなのよ」
Xと、Y、Z――。この話はここで終わらせるべきだ。
「何処までいっても中途半端、でも、それで良いよ」
アンタは、それでいい。それでこそ、魔理沙なんだから。
アリスは何処か安心したように、そして嬉しそうに呟く。
魔理沙は一切返事をしなかった。
頭の中で、あの時のおとうさんの笑顔を思い浮かべる。
おとうさん、わたしね、おはなやさんになりたい。
おとうさん、わたし、おかしやさんになりたい。
わたし、おもちゃやさんになりたい。
おとうさん、ねぇ、おとうさん。
あの時の、父さんの誇らしそうな顔を思い浮かべる。
父さん、私、父さんの仕事を勉強したい。
父さん、私も、香霖と同じように、父さんの元で働きたい。
父さん、いつか、私も自分の店を持ちたい。
父さん、私、父さんみたいになりたい。
あの時の、親父の、悲しそうな顔を思い浮かべる。
親父、……私、霊夢みたいになりたい。
親父、私も、霊夢みたいに、何かを守れる強い存在になりたい。
親父、私も……霊夢みたいな力が欲しい。
親父。
なぁ、親父。
私は、霧雨魔理沙は――。
魔法使いになります。
「おやすみなさい……霧雨魔理沙」
時刻は午前0時52分――。
それは……道理で眠いわけだ。
深夜、魔法の森の奥地に住む人間の魔法使い、霧雨魔理沙は無言のまま森を彷徨っていた。
彼女は魔法の修業と称し、人間の身でありながらこの狂気の森に霧雨魔法店などという店を構えているのだ。長年この森で過ごした事により、彼女には十分瘴気への耐性がついている。
真夜中にこの森を無防備にうろつくなど、あまりに危険な行為である。
この森には理性を持たない凶悪な妖怪も数多く生息しているし、何より、未だ解明されない謎の怪奇現象等も頻繁に起こる。摩訶不思議の渾沌であるこの幻想郷の中でも、この魔法の森の危険度は格段に高い。
魔理沙も、魔法の森の過酷さは重々理解している筈であった。だというのに、彼女は何の装備も無しに、あろう事か寝間着姿の状態で森の中を歩いていたのだ。
「何処に行くんだ?」
ふいに、誰かに問いかけられる。魔理沙は何も答えなかった。分かりきった事を聞くなと思った。何処に行くかなんて、そんなの、「少なくともここではない場所」に決まっている。だから歩いている。
「そんなに急ぐ事ないじゃないか」
急ぐ必要があった。意味のない質問を繰り返し続けるこいつから逃げないといけない。魔理沙は足早に立ち去ろうとする。
「それ以上は、戻れなくなるぞ」
その言葉を耳にした瞬間、魔理沙の脳内に途方もないほどの空白が広がった。まるで思考の真ん中に波一つ立たない巨大な湖が出現したみたいだ。風もなく、ただひたすら、底の見えない水で頭が圧迫されているみたいで、そう、とどのつまり、何も考えられなくなる。
戻れなくなる、というのは、一体、何処に?
さっきからこいつは何処からの視点で話を進めてんだ。こいつは一体、私の何を知っているというのか? 疑問と同時に、なんだか無性に腹が立った。そもそも魔理沙は、誰かに指図されるのが、死ぬほど嫌いだった。
「おい、いい加減にしなって」
それはこっちの台詞だ、この間抜けっ!
魔理沙は叫んだ――が、どうやらそいつは耳が聞こえないらしい。出来得る限り悪辣に叫んだつもりだった。それこそ、思考内に出現した虚無感の塊みたいな湖に石を投げ入れるつもりで。しかし、そいつは怯む事も無く、むしろ何処か、楽しんでいるかのような表情を浮かべていた。
こいつは、無知な誰かに上から目線で説教するのが好きで好きで堪らないらしい。
「お前さ、一体何がしたいんだよ?」
当初はちゃんと目的もあった気がする。だが、今はとりあえず、お前がいないところに行きたいかな。何か、お前の声、嫌いだ。とうとう、魔理沙は耳を塞いでしまった。霧雨魔理沙にとっての完全装備、この世の何よりも堅い鎧、「私だけの世界」のポーズであった。しかし、声の主は呆れながら、諭すかのように言葉を続ける。
「なぁ、そろそろ戻ろうぜ」
ふと、背中をどつかれるような感覚に襲われた。意識がぐるぐると回転する。思考の湖が物凄い勢いで氾濫し、頭の中でぐちゃぐちゃに暴れている。まるで夢の終わりだ。荒唐無稽過ぎて何も考えたくない。
戻ろう、と言われても、帰る場所なんて何処にもない。はたしてこいつはその事に気付いているのか? 何も知らない癖に、勝手な事ばかり言うな。私の事なんて何一つとして理解していない癖に、偉そうに講釈垂れてんなよ。あんたは、あんたは一体、何なのさ。
魔理沙はついに、声の方へと向き直った。
そこには、霧雨魔理沙、自分自身が立っていた。
……。
「……あれ?」
魔理沙は森の暗がりの合間に薄っすらと入り込んだ眩い朝日によって目が覚める。身体中が朝露によって湿っている。……どうやら、ここは自宅の上のベッドじゃないらしい。
まて、待て、どうなってやがる?
嘘、嘘だろ。
「何で私は外で眠っていたんだ」
どうやら私は、無意識のうちに外を出歩いていたらしい。
・・・
「という訳で、しばらくはアンタの家に泊まらせてもらうわ」
ある夜、旧知の仲である魔法使い、アリス・マーガトロイドが魔理沙の宅にやってきた。ここ最近の魔理沙の奇行を案じての事である。
当の本人曰く、深夜の魔法の森を徘徊している時の記憶は皆無らしい。就寝後、気が付いたら外をうろついているのだとか。
……いや、それは怪異とか関係なく、普通に病気を疑った方がいいのではないだろうか? 魔理沙の行動は、いわゆる夢遊病者のそれである。
何を大袈裟な、という風に魔理沙は頭を掻いた。事実、現時点ではまだ特筆すべき問題などは起こっていない。今のところ、魔理沙は単に無意識のまま深夜徘徊を繰り返しているだけである。何か事件が起きた訳でもない。
だが……冷静に考えれば、それは単に運が良かっただけだ。
ここは解析すらままならない魔術と狂気と正体不明の暗黒が渦巻く森である。そんな場所を何の備えもなく、しかも無意識下でうろついて無事でいられる方がどうかしている。
「それに、最近は物騒な事件も起きているし、警戒はすべきだわ」
アリスはそう言いながら新聞を取り出し、魔理沙の目の前に広げて見せた。
その新聞の一面には凶悪な妖怪が出現し、人々を襲ったという事件が書かれていた。詳しく読んでみると、どうやらその妖怪は人里の付近で散々暴れ回った後、博麗の巫女の手を逃れ、この魔法の森近辺に潜伏しているのだとか。……確かに、思っていた以上に危険極まりない状況らしい。
「無防備な状態でこんなのと出くわしたら、命が幾つあっても足りないわ」
アリスに言われ、魔理沙はごくっと唾を飲み込んだ。我ながらなんて恐ろしい事をしていたんだと、途端に青ざめた表情を浮かべる。これは早急に何とかしなければならない。
「その症状はいつから? 何か心当たりはないの?」
「うぅー、心当たりって言われてもなぁ」
……あるにはある。
しかし魔理沙は、それがこの病の原因に繋がるかどうか、いまいち確信を持てずにいた。
「聞いても、あんま怒るなよ?」
魔理沙はアリスから目を逸らしながら、何処か恥ずかしそうに呟く。
原因は、一枚の写真と、一本のウィスキーであった。
アリスは黙ったまま魔理沙の話に耳を貸した。
ある日の事、魔理沙は自宅で深く飲酒していたらしい。
「物置の整理をしていた時にな、ほら、私の家って色々と散らかっているから、いい加減掃除しようと思って。その時に、これが出てきたんだ」
魔理沙は懐から一枚の写真を取り出す。それは、魔理沙がまだ人里の実家で暮らしていた時の写真であった。今よりも更に幼く、あどけない魔理沙の笑顔がそこに在った。隣には魔理沙の父親と、その弟子であり、現在魔法の森の入り口にて道具屋を営んでいる森近霖之助の姿が写っている。
現在、魔理沙は実家から勘当されている身である。魔理沙の父親が経営する霧雨道具店は人里の中でも指折りの道具屋だ。当然、父親には相応に責任という物が生じる。大手の道具屋の跡取り娘が魔法使い志望の不良娘とあっては、周りの住民達も眉を顰めるだろう。故に、魔理沙は自ら親元を離れ、里から遠く離れたこの森に移り住んだ訳である。
「この写真を見た時、懐かしいって思うと同時に、何だか自分が嫌になっちまってな。つい、その……お酒に逃げっちった。我ながら情けないぜ」
茶目っ気を加えて魔理沙は舌を出す。
……魔理沙は言葉を濁したが、つまり彼女はこう言いたいのだ。
懐かしい家族の写真を見た事で、思わず、決別した筈の実家を想ってしまった。有り体に言えば、ホームシックにも似た感情を抱いてしまったのだ。
ただでさえ一方的に、それこそ逃げ出すように実家を出た筈なのに、未だ心の何処かでこの決断を悔いている自分がいる事に、やるせなさを覚えたのだ。家族との日々と、己の内に渦巻く夢と理想。この期に及んでどっちつかずになってしまっている自分が、情けなくて堪らないのだろう。
「どちらにも振り切れない優柔不断な自分に嫌気が差したって訳ね」
そう、だけど。魔理沙は苦そうな顔を浮かべる。
「何と言うか、お前……察しが良過ぎて逆に会話し辛いよ」
それ故か、魔理沙は一本のウィスキーをガバガバと胃にぶち込み、己の内から溢れ出る憤りや不安感を洗い流そうとしたのだ。挙句、魔理沙は酔い潰れ、意識を失い、目が覚めたら森の中にいたという。
魔理沙の夢遊病が発症したのはそこからであった。
「酔っぱらった拍子に魔力を含んだ瘴気に触れたのが原因ね」
とにもかくにも、実際にその光景を間近で見ない事には何とも言えない。二人は他愛ない話を繰り返しながら就寝の時間を待った。
陽が沈み、アリスお手製のキノコと山菜の洋風丼を食べ、風呂を済まし、後はもう寝るだけとなった。
……しかし、どうにも眠れない。
「当たり前だよ。こんな監視されているみたいな状況で眠れる訳ないよ」
魔理沙は不満そうにごろごろと寝返りを打つ。アリスはベッドのすぐそばに設置されたテーブルに頬杖を突きながら霧雨魔法店の隅っこに転がっていた本のページを適当にめくっていた。
「私の事はあまり気にしなさんな。早く寝なさいよ」
気にするなと言われて気にしない奴はいない。
時刻は、午前0時過ぎ。普段ならとっくに眠りについている時間帯である。魔理沙は途方もない気持ちで何度も寝返りを打つ。寝ようとすればするほど目が覚めてしまう。
アリスは仕方なさそうにため息をつき、本を読みながら静かに口を開いた。
「じゃあ、ちょっと面白い話をしましょうか?」
魔理沙は返事せず、黙ったまま天井を見つめていた。
「これは、とある国のおとぎ話よ」
……『リップ・ヴァン・ウィンクル』の話というのをご存じだろうか?
アリス自身、内容はうろ覚えだったが、確かあらすじはこうだ。
ある男が鉄砲を持ち、猟犬を連れて山へ狩りへと出かける。その男の名前がリップ・ヴァン・ウィンクル。そこで、彼は奇妙な老人に出会う。
彼はその老人から酒をご馳走になった。その酒が美味しくて、リップは次から次へと酒を呷り、泥酔してすっかり眠ってしまったのだ。
……目が覚めると、リップは老人と出会った場所に倒れていた。
不可解な事に、手にしていた鉄砲が錆びており、辺りの景色も来た時とはだいぶ様子が変わっていたのだ。猟犬の姿もなく、リップは不安になって自分が住んでいた街へと戻った。
リップには妻がいた。しかし、そこに妻の姿はなかった。それどころか、自分の家がまるで空き家のように廃れていたのだ。街の様子も何だかおかしい。見知らぬ住民に話を聞いて、リップは唖然とした。
妻はもう二十年も前に死んでいるというのだ。
つまり、リップが山で老人と出会い、酒を飲んで眠ってしまっている間に、何十年という歳月が経っていたのである。
これは日本で言うところの『浦島太郎』のような話だ。
ちなみに……リップが飲んだ酒の名前は……。
話をすべて聞き終わる前に、魔理沙は寝息を立ててしまっていた。
魔理沙の無邪気な寝顔を見ながらアリスはクスクスと微笑んだ。
しかし、アリスはそこで深刻な表情を浮かべながら、先ほどまで己が語っていた話について少し思考する。
……このリップ・ヴァン・ウィンクルの話を魔理沙に置き換えてみよう。
魔法に魅入られた魔理沙は大好きな家族の元を離れ、一人、この薄暗い魔法の森へと足を踏み入れた。彼女はこの森で途方もない時間をかけて魔法の研究を続ける。確実に、着実に、時間は過ぎていく。
彼女が刻む筈だった家族との時間、その全てを犠牲にして、魔理沙は魔法を習得しようとしている。人間が魔法使いになるには相応に時間が必要になる。普通に生き、人らしく過ごしている内にはきっと叶わない願いだ。
魔理沙は、心の何処かで時間の使い道に葛藤しているのだ。
ここは魔法の森、彼女が晴れて正真正銘の魔法使いになる事が出来たとして、この森から出た頃、魔理沙に帰る場所はあるのだろうか?
目が覚めた時、故郷も、家族も、全てが過去になってしまったと気付いた時、はたして彼女の手元に残る物は、それらを支払うに値する物なのだろうか? かけがえのない、何処までも普通の日々を差し出して、家族との時間を放棄して、そうやって得られた物に、納得出来るだろうか?
魔理沙はきっと、唖然としながら、己の選択を悔いるに違いない。
それこそ、一杯の酒で全ての時間を失ってしまった、とある短編小説の主人公、あのリップ・ヴァン・リンクルのように。
だがそれ以上に、アリスには懸念があった。
魔理沙は芯を持っている。多少は揺るぎ、葛藤する事はあれど、己の中で決断し、前に進む信念を持っている。目的の為なら、多少の犠牲は厭わない。魔理沙には、何よりも強い意志が宿っているのだ。
だからこそ、魔理沙は……。
「魔理沙、あなたは……」
いつか、私達(幻想)の事も切り捨ててしまうのかしら?
目的の為なら、必要とあらば、これまで築き上げてきた関係を、魔理沙はすんなりと捨て去ってしまうのだろうか?
……それが出来るから、それが出来たから、彼女はこの森にいるのだ。
そして彼女は、その選択を酷く悔やんでいる。
魔理沙はきっと否定するだろうけど。
・・・
結局、あれから三日ほどアリスは魔理沙の家に滞在したが、例の夢遊病の症状が出る様子はなかった。どうやら、何かしらの条件が必要らしい。
「……このままじゃ埒が明かないわね」
幾度目かの深夜、いつもならベッドに横たわっている時間だが、魔理沙はアリスと共にテーブルを囲んでいた。中央には、アリスが人里で購入してきた安酒と二人分のグラスが並んでいた。
「とりあえず、症状が出た時と同じ状況を作ってみましょう」
魔理沙が夢遊病になった時、彼女は酷く泥酔していたのだという。ならば、同じように酒に酔い潰れてしまえば再び症状が出てくるかもしれないとアリスは提案した。何処までも短絡的だが、手掛かりがない以上、地道に色々な方法を試す以外にない。それに何となく、飲みたい気分ではあった。
二人は慎ましくグラスを鳴らし、少しずつ酒を飲んでいく。安い酒だ。すぐに精神がガタついてしまう。若干頬を赤くしながら、魔理沙とアリスはいつもの通り下らない話で盛り上がった。
「ところで魔理沙、もう実家には顔を出さないの?」
瓶の酒が半分を切ったところでアリスは問いかけた。魔理沙は紅潮し、ほろ酔いになりながらも、アリスのその質問に多少難色を示した。
「何でそんな事聞くんだよ」
「いいでしょ、別に」
不自然な沈黙が訪れる。アリスはジッと魔理沙の顔を見つめるが、魔理沙は何処か居心地悪そうな表情でよそ見を続けた。
「何で黙ってるの?」
「答えに困ってんだよ」
魔理沙とアリス、長年連れ添った仲である。アリスは、魔理沙という人間をよく理解している。彼女が今、何を考えているのかも、何となく分かる。
「親父に会う理由がない」
「……いや、いくらでもあるでしょ。親子なんだし」
そもそも、子が親の元に出向くのに理由は要らない筈だ。しかし、魔理沙は難しい表情を浮かべたまま、グラス片手に唸り続けた。
「あー、ちょっと待ってくれ」
散々迷い続け、グラスに残った酒を一気に呷り、魔理沙はぼやける思考を少しずつ整理しながらつらつらと己の現状について語り始めた。
「あのさ……私って一応、家出娘な訳よ。私が出て行った理由はあくまでも我が儘なんだ。今更どんな顔して家に帰るんだよ。自分で縁を切っておきながら、恋しくなったからって顔を出すとか、それは流石にヤバいだろ」
身勝手過ぎるよ、それ。
魔理沙は簡潔に、さもそれが当然であるかのように言い放った。
彼女が魔法使いを志すようになった経緯は知らない。しかし、それが生半可な気持ちで始めた事ではないのは確かだ。しかし、彼女だって人の子、それも、まだまだ未熟で世間知らずの少女なのだ。どんなに確固たる意志を持っていたって、それを貫徹出来るほどの強さを持ち合わせている訳じゃない。彼女だって、寂しさに圧し潰されてしまいそうな日もある。
「……アンタさ、ちょっと、意固地になり過ぎじゃないの?」
アリスは真顔のまま、しかし、何処か弱々しい口調で返した。
「……何が?」
アリスは空になったグラスをそのままに、魔理沙の瞳を凝視する。
「何だかんだ言っても、アンタってまだ子供じゃん。難しい事考えずに、普通にしていればいいのに。子供が家族に甘えるのって、自然な事でしょ?」
……何だか、話をするのが苦痛になってきた。アリスは今、魔理沙の存在を司る根幹の部分にタッチしているのだ。それも、かなりさりげなく。
「分かんねぇかな? 意志がブレるっつってんだよ」
彼女が実家の父親と縁を切ったのは、何も意地の問題だけではない。彼女にとって、それは己の退路を断つ為の、覚悟のつもりであったのだ。
魔理沙には魔法使いになるという野望がある。しかし、その成就には相応の代償が必要になる。時間や金、労力、それらすべてを一括で支払う場合、彼女が最も手放すべき物は、人里の道具屋の娘、ただの人間「霧雨魔理沙」の未来であった。
「やっぱり……アンタって、ちょっとおかしいよ。普通じゃない」
彼女は、選択肢を断ち切る事でしか己の歩む道を決める事が出来なかった。
「いいんだよ、私はそれで良いの」
幸せな日々が選択の中に存在していると、どうしたって意志がブレてしまう。困ったり、追い詰められた時、全てを放棄して楽な方へ自分を流してしまいそうになる。それが嫌だから、それが怖いから、魔理沙は何処までも徹底して自分を律し、逃げ道を潰してここまでやってきたのだ。
不安定な気持ちのまま歩けるほど、彼女の道は極楽ではない。
アリスはこめかみを抑えながら、力無く呟いた。
「……分かった、もういい」
そう言いながら、アリスは台所へと歩み寄り、半分ほど残っている酒瓶を戸棚に入れた。
「何だよ、今夜はもうお開きか?」
ここまで踏み込んだ話をしたのだ。魔理沙は内心、もう少し、酔いが欲しいと思った。アリスは何らや考え込んだ様子でそれに頷く。
「そうね……じゃあ、締めのお酒に丁度良い物を作ってあげるわ」
アリスはそう言いながら戸棚の奥で眠っていたシェイカーを取り出した。素早く氷を入れ、ホワイト・ラムをベースにコアントロー、レモンを絞り、2:1:1でシェイクする。カクテルグラスに注ぎ、完成である。
「何だかやけに小洒落たものを作ったな。何ていう名前なんだ?」
「……『これで終わり』っていうお酒よ」
何を指しての終わりなのかは分からないが、魔理沙はそっとカクテルグラスを傾け、その柑橘類の香りを存分に味わいながら、ゆっくりと口に含む。
「……終わり……?」
その言葉を最後に、魔理沙はそのままテーブルに顔を突っ伏してしまう。
・・・
おとうさん、わたしね、おはなやさんになりたい。
おとうさん、わたし、おかしやさんになりたい。
わたし、おもちゃやさんになりたい。
おとうさん、ねぇ、おとうさん。
……。
父さん、私、父さんの仕事を勉強したい。
父さん、私も、香霖と同じように、父さんの元で働きたい。
父さん、いつか、私も自分の店を持ちたい。
父さん、私、父さんみたいになりたい。
……。
なぁ、親父。
私は。
・・・
魔理沙の夢遊病の正体が、ようやく分かった。アリスはカクテルに微量の魔力を込め、強制的に魔理沙を睡眠状態にしたのである。
「さぁ、出てきなさい、魔理沙の『本性』……」
その瞬間、眠りについたはずの魔理沙が徐に立ち上がった。
しかしその顔付きは、明らかに魔理沙のソレとは違って見えた。顔自体は魔理沙の物だが、そこに宿る魂は、本来の魔理沙とは完全に異なっている。
アリスは呪文を唱えながら、虚ろな目をしている魔理沙の胸元に腕をかざし、思い切り、彼女の身体を突き飛ばした。
「……ぐえっ!」
魔理沙はそのまま床に倒れ込み、その衝撃で目を覚ました。
「いてて……何するんだよ、アリス……って」
魔理沙は、信じられない物を見た。
魔理沙の目の前に、「魔理沙」が立っていたのだ。
「……どう、なってんだ、これ……?」
同じ場所に、魔理沙が二人いる。明らかに異常であった。しかし、アリスは何処までも冷静な顔を浮かべながら、そっと倒れ込んだ魔理沙に腕を差し伸べた。
「落ち着きなさい、魔理沙。これはあなたの「もう一つの意志」を具現化した存在、ただの幻影よ」
アリスは端的に説明しながら、静かに佇むもう一人の魔理沙の腕に触れる。しかしその瞬間、アリスの手が触れた個所が煙のように揺らいだ。どうやら説明の通り、彼女は実体のない存在らしい。
「よく聞いて、魔理沙。これが、今回の異変の正体よ」
戸惑いを見せる魔理沙に対し、アリスは何処までも冷静に説明していく。
「目の前に立っているこの子は、魔理沙の中に芽生えたもう一つの意志。あなたの無意識が見ている願望が具現化した存在なの」
ちょっと寝ている間にえらく話が飛躍したな、と魔理沙は思った。
……始まりは、魔理沙が自宅で家族の写真を見つけた事にある。
彼女はこれまで、家族から切り離され、自ら孤独になる事で己の意志を固めてきた。だが内心では、父親との和解を望んでいる側面があった。
しかし、強情な彼女の事である。そんな風に都合よく意志を曲げる事など、許せる訳がない。彼女は迷いを拭い去る為に深く酒を飲んだ。
酩酊した状態で、彼女は霧雨魔法店を出た。理由は単純に、酔いを醒ます為に少し夜風に当たりたかった――等だろう。
だが……何度も言った通り、ここは魔法の森、精神に作用する魔力が充満した空間である。本来の魔理沙であれば絶え凌ぐ事も容易だろうが、その日の魔理沙は精神的に弱っており、アルコールで意識も朦朧としていた。
恐らく、それが原因で『彼女』は生まれたのだ。
心身ともにボロボロに弱っていた魔理沙は幻惑の瘴気をもろに吸引してしまい、その影響で彼女の無意識の中に閉じ込められた願望がより鮮明な形となり、全く別の意思となって生み出されたのだ。
本来の魔理沙と、彼女の無意識が生み出したもう一人の魔理沙。二つの意思が一つの身体の中に同時に宿った状態となったのだ。もう一人の魔理沙は、主人格である魔理沙が眠っている時に目を覚まし、己の意思で外を出歩こうとするのだ。これが、突然魔理沙が夢遊病になってしまった理由である。
アリスはそれを見破り、精神を操作する魔法によってもう一人の魔理沙の意思を身体から切り離す事に成功したのだ。
もう一人の魔理沙の思念は眠っている彼女の身体を動かし、己の願望を叶える為に、森の中を徘徊していたのである。その願望というのが――。
「恐らく……この子は、人里にいる父親の元へ帰りたいのよ」
そんなの嘘だ、と魔理沙は声を荒げた。
「デタラメ言うなよっ! 私は、自分で決断してこの森にいるんだっ。自分の意思で実家から飛び出してきたんだ……全部、私が望んだ事だっ!」
魔理沙は額に汗をかきながら、もう一人の自分の幻影を見つめた。
「そうね……あくまで私の推測に過ぎないわ。だけど……」
話を進めている途中で、これまでひたすら寡黙を貫き通していたもう一人の魔理沙が、家のドアをすり抜けて外へと出てしまったのだ。彼女は魔理沙の無意識の元で生まれた思念の結晶、魔理沙の肉体から解放された事により、魔理沙の意思とは関係なく、独自に思考し、自由に行動出来るのだ。
「とにかくアリス、アイツの後をつけてみよう」
魔理沙とアリスは共に外に出て、分離された魔理沙の別思念の後を追う。しかし、その足取りはかなり覚束ない。まるで、ここにいる事自体が間違いであるかのように、何処までも危うい様子であった。
「本当に、あれが私だっていうのか?」
魔理沙はどうにも複雑な気分であった。自分と全く同じ姿形の奴が、何処までも自分とは正反対に振舞っている様というのは、見ていて苦しくなる。
別思念は不安げな表情を浮かべながら夜の魔法の森を歩き続ける。暗がりから聞こえる些細な物音にびくつきながら……まるで、何も出来ない少女のように。
「……無理も無いわよ。あれは、本来のアンタとは違う。魔法使いを志さず、人里で平穏に暮らす事を望んでいた、無力な女の子なのよ」
そんな訳あるか、と否定したかったが、魔理沙は何も言えずに苦悩の表情で別思念の後を追い続ける。
だが、別思念の魔理沙は一向に森の出口を見つけられずにいた。当たり前であった。ここは部外者を容赦なく迷いへと誘う魔法の森だ。不慣れな人間がそう簡単に出歩いていい場所ではない。別思念の魔理沙は途方に暮れ、仕舞いには――。
『……』
それは、普段の魔理沙なら間違ってもしない、弱気の表情であった。何も出来ず、自分で何かを判断する事も出来ず、誰かが手を差し伸べてくれるのをひたすら待っているような、そんな、何処までも甘ったれた顔だった。
「ねぇ魔理沙。これでハッキリしたでしょう? あの子は、アンタの中にあるもう一つの願望を具現化した存在なの」
魔理沙、あれが、アンタの本性なのよ。
藪の中、疲れてしまったように蹲る別思念を見つめながらアリスは言う。アリスの言う通り、魔理沙も本心では、人里に残した家族との絆を、完全に断ち切る事が出来ずにいるのだ。
魔理沙は、過去の選択を悔やんでいる。しかし、魔理沙はそれが嫌で仕方ないのだろう。だから魔理沙は、余計に頑なになってしまうのだ。
アリスにそう言われ、魔理沙は堪らない表情を浮かべた。そして、鋭く舌打ちをしながら、乱暴に別思念の魔理沙の方へとにじり寄った。
「おい……おいっ! 何やってんだよお前!」
あくまでも、相手は魔理沙の無意識が具現化した存在である。そんな不安定な状態でまともに口が利ける筈がない。それでも、魔理沙は一方的に己の無意識に向かって叫んだ。
「認めないぞ、お前みたいな意気地なしが、私の無意識だって?」
こんな、何も出来ないグズが私の本性だってのか?
もう一人の魔理沙は本体の言う事など気にも留めず、その場を動かず俯いたままであった。思考を放棄したように、何もかもを諦めたかのように。
「……なあ、立てよ、ちゃんと立てってばっ!」
私は、こんなとこでウジウジしたりなんかしないよ!
お願いだからシャンとしろよ!
甘えたような顔しやがって。
みっともない。
情けない。
ふざけやがって。
何考えてんだよ。
恥ずかしい。
消えろよ。
お前なんか――。
己の内にある一切の甘えを切り捨てるように、魔理沙は自身の無意識を全否定し続ける。こうなると、何だか両者揃って哀れに見えてしまう。
「魔理沙、もうその辺にしましょう。この子はあくまでもあなたの抑圧された願望の具現に過ぎない。あなたの身体から切り離す事には成功したんだから、これ以上突っかかる意味はないわ」
どうせ放っておけば魔法の森に充満する瘴気に混ざり、いずれ消滅してしまうような存在である。そんな相手に暴言を吐き続ける意味はない。
それに、これ以上、魔理沙の今の姿なんて見たくない、とアリスは思った。
「アリスは黙っててくれ。私にとって、これは重要な問題なんだ」
だってそうだろうが。こんなの見せられて、こんな奴と出会って、これから先……私は、どんな気持ちで自分の夢と向き合えばいいんだ。
魔理沙は平穏な暮らしを、家族との日々を犠牲にしてここに立っている。
いつの日か自ら手にしたその選択を、悔やんでいる。だからこそ許せない。
後悔はない、たとえそれが嘘だとしても、懸命にそう自分に言い聞かせる事で彼女は前に進んできたのだ。
魔理沙は、悔恨がない事に縋り続けていたのだ。
「間違ってるよ、こんな奴。消えろよ、頼むから……」
しかし、冷酷な言葉とは裏腹に、脳裏には実家で過ごした日々が過る。安心に溢れた、穏やかな日々だ。違う。違う。あれはかけがえのない大切な時間だったけど、それでも、あの場所には何もない。何にもならない。
あの場所に居たら、私は何処にも行けない。それは確かなんだ。
「もう、お前の身勝手には付き合いきれねぇよ」
だがその瞬間。
「……身勝手はどっちよ」
アリスが静かに、それでも揺らぎのない刃のように言い放ったのだ。
「……何だよ、いきなり」
突然のアリスの言葉に魔理沙は若干動揺しながらも問い返した。
「私から見れば、おかしいのは魔理沙、アンタの方だっつってんの」
言いながら、アリスはゆっくりと魔理沙の方へと歩み寄ってくる。緩やかながら、怒りに満ちた表情であった。思わず、その場から逃げ出したくなる。しかし、魔理沙はぐっと唇を噛みながらアリスの表情を凝視し続けた。
「私の何がおかしいってんだよ」
「全部よ! 全部! 一方的に自分の意見ばっかり押し付けてないで、少しはこの子の事も理解してあげたらいいじゃないの。聞く耳も持たずに、何でそんな酷い事ばかり言うの? この子は、あなた自身なのに……」
違う! と魔理沙は叫んだ。
「こいつは……何も出来ないグズだっ! 自分の意思じゃ何一つ選択出来ない間抜けだっ! ああクソ、こういう奴見てると腹が立つんだよっ!」
己の頭を搔きむしりながら、魔理沙は侮蔑の眼差しでもう一人の自分を見下ろした。決定的な不和であった。何処までも自分とは違う、容認のしようがない存在。……いや、というより……。
「大体、これは私の問題だろ。何でアリスが怒ってんだよ」
「アンタが見苦しい事ばっかりするからよ! 人一倍繊細なくせに、何でアンタの選択にはいつも『究極』しかない訳? 頭おかしいんじゃないの?」
アリスは自分の頭に人差し指を当てながら吐き捨てる。流石に、いくら何でもそれは言い過ぎだ。魔理沙は憤慨したように声を荒げた。
「意味わかんねぇよっ……お前、さっきから何が言いたいんだよっ!」
「……いい加減、折り合いをつけろっつってんのよ! 意味のない事でいちいち自分を厳しい方向に追い詰めて、意地張って、自分の本音を押し殺して、その結果生まれたのがこの子じゃない! アンタがもう少し素直だったら、こんな事にはならなかったのよっ。……酷いよ、アンタ」
この子が、あまりに可哀想じゃない。
アリスはそう言ってもう一人の魔理沙を見た。
「……私さ、正直言って怖いのよ。アンタのそういうとこ」
アリスは寂しそうに呟いた。非情な言い方になるが、魔理沙は決して才に恵まれた人間ではない。彼女は何処までいってもただの「人間」である。
それ故なのか、魔理沙には目的を成就させる為に、手段を選ばない決断力がある。いや、そうあるべきだと魔理沙は己自身を冷酷に躾け続けたのだ。
だから、彼女は家族を捨てた。人里で生きていく道を切り捨てたのだ。
「だってそうしなきゃ、アンタは何も出来ないんだもんね。自分の夢を叶える為なら、しょうがない事なんだもんね。だって、そうじゃなきゃ……」
恐らく、散々悩みぬいた挙句の行為だったのだろう。魔理沙は非情な決断を下すが、心が無い訳ではないのだ。だから、魔理沙は苦悩しているのだ。
「そうじゃなきゃ、アンタは、霊夢の隣にいられないもんね」
「……っ!」
唐突に、霊夢の名前を出された瞬間、魔理沙の表情は歪んだ。
博麗霊夢、この幻想郷を守護する博麗神社の巫女。
魔理沙が魔法使いなんて荒唐無稽な野望を抱いた最大の原因は彼女にある。
言いたくないが、魔理沙の心は霊夢という存在に囚われている。詳しい話はアリスにも分からない。二人の間に何があって、どういった経緯で今に至るのかは分からない。それでも突き詰めれば、魔理沙の行動原理の全ては彼女に繋がっているのだ。
霊夢という一人の天才を追いかけている時だけ、魔理沙は本当の意味で人生を謳歌する事が出来るのだ。魔理沙自身は決して認めないけれど、霊夢は魔理沙にとっての指針であり、何より大きな『意味』を有している。
霊夢の背負っている宿命は、端的に言って過酷だ。生半可な覚悟で成せるほど優しい道のりではない。そんな彼女の横で胸を張るには、どうしたってそれなりの代償が必要になる。魔理沙にとっての代償は『平穏』である。
「アンタ、その為なら、家族だって捨てる事が出来るんでしょ? 目的の為なら、霊夢の為なら、魔理沙は、何だって差し出すんでしょ?」
「違う、違うって、アリス……私は、そんな……」
言い訳が出来ない。その実、魔理沙はアリスが言う通りの事をやってきたのだ。アリスの言う通り、『究極』の二択で自分を追い詰めて、残酷な道を選び続けてきたのだ。魔理沙は今もなお、家族のとの時間を、平穏を、代償として支払い続けている。それを悔いてはならないと、己を律しながら。
夢の為に、大事な物を捨てなさい。全部、全部、捨てなさい。
大切な物を切り捨てなさい。覚悟とは、そういうものだ。
冷徹に言い聞かせ、それを実行してしまったのだ。
その結果生まれたのが、蹲り、何処にも行けなくなってしまった惨めな自分の姿であった。
「……アンタは、目的の為なら、いつか……私の事も切り捨てるの?」
「やめろって! 聞きたくないよそんなのっ!」
頭をフル稼働させてこの場を濁す言い訳を考える。魔理沙はもう、こんな不毛なやり取りを続けたくなかった。考えても苦しいだけだ。今更、過去の選択のツケを支払わされるなんて、堪ったものではない。
「野望ってのは自分の何もかもを踏み潰してようやく叶う物じゃないか。私は、後悔なんかしないぞ。後悔なんてあってたまるか! だってそうじゃなきゃ……今の『コイツ』みたいになっちまう!」
魔理沙はもう一人の自分を指差しながら、声を張り上げて訴える。
何処にも行けなくなってしまう。そんなの、死んだ方がマシだ。
「さんざん悩んで、沢山、苦しんで、ようやく絞り出した答えなんだよ。それを、今更悔やんだって仕方ないだろ! 正しいかどうかなんて知らないよ。ただ、後悔だけはしちゃいけないんだ。立ち止まってたまるかっ!」
今更、あの決断を過ちにしてしまったら――。
幼いながらもその胸に抱いた、あの覚悟は――?
「あの日の、私の決心は、一体何だったんだ……ッ⁉」
……。
――。
この時、魔理沙は熱くなりながら、頭の片隅で冷静に思った。
いくら何でも、大きな声を出し過ぎた、と。
忘れてはならない。ここは、幻想郷の中でも無法の空間、管理されていない危険が至る所で息を潜めている魔法の森である。
突如、静寂を切り裂くような咆哮が辺りに鳴り響いた。この付近に巣食う凶暴な妖怪である。魔理沙とアリスは互いに背を預けながら身構えた。
「な、何だよ今度はっ!」
闇夜に染まる茂みの奥から、二つの鋭い眼光がこちらを覗いている。完全に二人を獲物として定めている様子であった。
ここは森の中でも比較的穏やかな場所である。
森の中に漂う魔力成分を利用した結界を施してあるのだ。つまり、この結界は魔法の森の瘴気に耐性のある妖怪が対象となっており、森の中に生息する妖怪はこの場所には立ち入れない筈であった。
……その結界を突破出来るという事は、森の中に生息する妖怪ではなく、外部から全くの余所者という事になる。
そこで、魔理沙は以前にアリスに見せてもらった新聞を思い出した。
確か、凶悪な妖怪がこの魔法の森に潜伏しているという話であった。
恐らく、今魔理沙とアリスを睨んでいるあの妖怪の事だろう。よりによってこのタイミングで出くわすとは思わなかったが――この幻想郷の脅威である事は間違いない。今、ここで退治しておくのが賢明だろう。
「アリス、この場でアイツを仕留めるぞ」
「ええ、魔理沙、合図をしたら一斉に仕掛けるわよ」
アリスに相槌を打ちながら、魔理沙は――何故か――自分達の後方で蹲っているもう一人の自分へと視線を移した。ほんの、一瞬だけ。
「……え?」
その時、魔理沙は目を疑うような光景を見た。
先ほどまで力無く項垂れる事しかしなかった魔理沙の別思念であったが、この場に凶暴な妖怪が現れた途端、彼女は突然、徐に顔を上げたのだ。
何も出来ない、何も決断できない筈の彼女であったが、この時、もう一人の魔理沙は、妖怪に対し、鋭い表情を向けていたのだ。
「……嘘」
その様子に気付いたのか、アリスは眉を顰めながらもう一人の魔理沙を見つめた。先ほどまで、立ち止まり、情けない顔を浮かべるしかなかった彼女とは違う。言うなればそれは……それは、まるで。
……まるで、自分の良く知る『霧雨魔理沙』と瓜二つであったのだ。
『魔理沙』は抵抗の術を持たない。しかし、それでも、彼女は妖怪に向って静かに手の平をかざした。本体である魔理沙の、最高傑作の魔法――。
恋符『マスタースパーク』の構えであった。
妖怪が魔理沙達の前に躍り出る。理性を持たない、本能のままに暴れ回るしか能のない邪悪な怪物であった。アリスは無言のまま魔力で糸を放ち、すぐに妖怪を拘束する。威勢の良かった咆哮が呻き声に代わる。
「魔理沙、今よ」
後方に立つもう一人の魔理沙の動きに合わせるように、本体である魔理沙は妖怪に向って八卦炉を高々と掲げ、スペルを宣言する。八卦炉から高濃度の魔力が集結し、一筋の閃光となって夜の森を疾走する。光は鋭い刃となり、眼前に佇む妖怪の心臓を容赦なく穿つ。瞬間、凶悪な影が断末魔と共に消失する。
「……なぁ、お前……」
全てが終わった事を確認し、再度、魔理沙は後方に振り向く。
しかし既に、もう一人の魔理沙の姿はなかった。
「……アリス、これは一体どういう事なんだ?」
魔理沙は唖然とした表情でアリスに問いかけるが、アリスは答えられずにいた。
「……」
アリスは黙ったまま、魔理沙の別思念の事を脳内で何度も思い出す。
あれは、魔理沙が選ばなかった世界の魔理沙、魔理沙が切り捨てた、無力で、何も出来ないもう一人の自分。
であれば――先ほどの行動は――?
魔理沙は、どうして魔法を使おうとした?
平凡な日々を望んだ筈なのに。魔法使いなんて、志してない筈なのに。
「……疲れた」
帰りましょう、魔理沙。
アリスはくたびれたように簡潔に呟く。
魔理沙は納得出来ないような表情を浮かべたが、それでも渋々頷いた。
・・・
魔理沙の家に辿り着いて、しばらく、二人は無言のまま互いを見つめ続けた。……魔理沙は沈黙に耐え切れず、逃げるようにベッドへと潜り込んだ。アリスは何も言わず、すぐ傍の椅子に座り、微動だにしない。
この静けさは何だか嫌いだ。
魔理沙は恐る恐るといった様子で、ようやくアリスに話しかけた。
「あれって……つまりそういう事なんだよな?」
「……いえ、私にはさっぱり分からないわ」
はぐらかすなよ、と魔理沙は語勢を強くする。
「怒鳴らないでよ」
「怒鳴ってないって」
言い合いながら、魔理沙とアリスは先ほどの出来事を思い出す。
あの時、魔理沙の別思念は無力ながら、それでも確かに、あの凶暴な妖怪に立ち向かおうとした。本来の、魔理沙のように、魔力を用いて戦おうとしたのだ。アリス自身、その目で確認したのだから、それは間違いない。
「前提から、間違っていたのかしら」
魔理沙の中にある抑圧された願望の結晶体、それがもう一人の魔理沙の正体だと思っていた。その願望は、魔法使いである事を諦めて、実家に待つ父と共に平穏に生きて行く事――。
しかし、もう一人の魔理沙は行動によってそれを否定したのだ。
「これじゃあいつまで経っても宙ぶらりんのままじゃないか、気持ち悪いよ」
私の無意識が本当に望んでいる事は、一体何なんだ。
魔理沙は途方に暮れた様子で呟く。しかし、アリスの方は何となく答えを既に見つけている様子であった。それを、あえて黙っている。本当は問い詰めるべきなのだろうが……魔理沙はひたすら、力無く項垂れてしまった。
「……色々あったけど、とりあえず今は礼を言うよ、アリス」
このまま眠りについて、何事もなければ今回の異変は無事に解決と言えるだろう。確かに、多少の疑問は残ったが、それでもあまりこの件にいつまでも拘り続けるのは……正直に言って、苦痛でしかない。
「……魔理沙。今夜はもう眠りなさい」
アリスはそう呟き、椅子にもたれながら静かに瞳を閉じた。
「なぁ、アリス……やっぱりアレって、そういう事なんだよ」
ベッドに横たわりながら、魔理沙は体に残った酔いと眠気によってあまり正常に機能しない思考、そこからはじき出された単語を思うままに口にした。
多分、多分だけど、どんな選択をしたって結局、私は私なんだよ。
どの世界であろうと、私は私でありたいよ。そう望んでいる。
今なら確信が持てる。確かにアリスの言う通り、私は非情な人間なのかもしれない。
目的の為なら、どんな手段も厭わない、大切な物だって切り捨てる。
私の正体は、そんな……「人でなし」なのかもしれない。
でもそれで、平気かって聞かれたら、そうじゃないんだよ。
嫌だよそんなの、何にも捨てたくないよ。誰とも離れたくないよ。
認める、認めるよ……。
私は、私の選択は、後悔だらけだ。
自分で選び取った事なのに、それを激しく悔やんでいる。
いくら何でも、情けなさ過ぎる。
その現実を突き付けられるたびに、逃げ出したくなる。
悔やんではいないって。間違っていないって。
何もかも捨て去れる非情な自分に依存していただけなんだ。
私は、結局、何も捨て切れていないんだよ、未だに――。
ああ、こんな自己嫌悪は間違っている。
こんなの嫌だ。こんなんじゃ駄目なのに。
アリス、ごめん、全部聞かなかった事にしてよ。
こんな弱い私なんて、誰も見てくれないのに。
弱いままじゃ、何も出来ないのに。
霊夢の傍にいたいのに――。
ねぇ、アリス、全部、聞かなかった事にしてよ。
こんな私を、私と思わないでよ。
この夜を、無かった事にしてよ。
「それも、人間らしさでしょ」
ぽつぽつと漆黒の雨のように本音を吐露する魔理沙に、アリスは何処までも簡潔に呟いた。
「……アンタも、結局は人間だもん。そういう生き方もあるって事でしょ」
「もっとはっきり言えばいいだろっ、アンタは最低のバカだって! いつもの調子で言えよ! ……何でお前はいつも、こんな時に限って優しいんだっ⁉ お前はいつもそうだっ‼」
魔理沙の声は危ういほどに震えていた。
私は――アリスはそこで言葉を区切る。
「私達(幻想郷)は、アンタを責めたりはしないわ」
果たしてリップ・ヴァン・ウィンクルは過ぎ去った日々に何を想う?
そもそも、その世界には、彼の意思は介在するのか?
「アンタの場合は、それしか選べなかった、ただそれだけなのよ」
Xと、Y、Z――。この話はここで終わらせるべきだ。
「何処までいっても中途半端、でも、それで良いよ」
アンタは、それでいい。それでこそ、魔理沙なんだから。
アリスは何処か安心したように、そして嬉しそうに呟く。
魔理沙は一切返事をしなかった。
頭の中で、あの時のおとうさんの笑顔を思い浮かべる。
おとうさん、わたしね、おはなやさんになりたい。
おとうさん、わたし、おかしやさんになりたい。
わたし、おもちゃやさんになりたい。
おとうさん、ねぇ、おとうさん。
あの時の、父さんの誇らしそうな顔を思い浮かべる。
父さん、私、父さんの仕事を勉強したい。
父さん、私も、香霖と同じように、父さんの元で働きたい。
父さん、いつか、私も自分の店を持ちたい。
父さん、私、父さんみたいになりたい。
あの時の、親父の、悲しそうな顔を思い浮かべる。
親父、……私、霊夢みたいになりたい。
親父、私も、霊夢みたいに、何かを守れる強い存在になりたい。
親父、私も……霊夢みたいな力が欲しい。
親父。
なぁ、親父。
私は、霧雨魔理沙は――。
魔法使いになります。
「おやすみなさい……霧雨魔理沙」
時刻は午前0時52分――。
それは……道理で眠いわけだ。
もちろん二次創作なので原作設定からある程度改変ないし変更はされていて然るべきなのですが、魔理沙がこういう方向の性格になるという、この作品独自の説得力が個人的には感じることができませんでした。
特に中盤からの「霊夢に対して抱いている、隣にいるためのマイナスの感情や努力」は、原作に無いかつマイナスである要素を、二次的に付与してあげつらったり、憐憫を感じて楽しむタイプのネタなので、出てきたのが伏線も無く唐突なのも有りかなり違和感を覚えました。せめてこの作品の魔理沙としての説得力として、序盤から多めに霊夢の存在をちらつかせるなどが欲しかったです。
しかしながら解釈は別とした場合、話の構成・起承転結自体は上手いと思いました。もう一人の魔理沙がマスパを打とうとするくだりから、実体の魔理沙があれはそういうことなんだよと強く主張する流れは、この作品の魔理沙として大変上手く描かれているな、と思いました。
また、「実家を捨てたのなら私達も捨てるのでは?」というアリスの視点は新鮮で面白い解釈だなと思いました。
有難う御座いました。