窓拭きのために最も適した季節を選ぶとしたら、この国でのそれは秋になるはずではないだろうか。これは私が長年主張してきたことであり、メリーとも一致した見解だった。
家内の拭き掃除といえば年末の大掃除がまずはじめに思い浮かぶ。しかし窓は両面を持つもので、濡れ布巾を手にして外ガラスを磨く作業は寒い冬向きとは言えない。それは夏も同様である。
気候のいい季節を選ぶなら春も候補に挙がるが、その場合綺麗に拭いた窓が最良の状態を保てるのは黄砂と花粉が降るまでの数日間だけということになる。
やはり窓を拭くなら夏の日差しと台風が去ったあと、空気の澄んだ秋晴れの日を狙うのがいい。おそらく一年に数日しかないそのときが、窓を拭くために逃してはならない機会なのだろう。古い暦に一つ一つ名前がついているように、こうしたささいなことにも相応しい日付や時間というものはあるらしい。
その日、私たちが突然のように思い立って窓を拭き始めたのは、まさにその日が絶好の日和だったからである。かねて二人で話し合ったことのあるこれらの条件が全てそろっていた。その年の最後の台風が京都を通過した翌日だった。
私はうちで持て余していた卓上ライトをひとつメリーに譲り渡すため、彼女のアパートメントを訪れていた。それは調整用のつまみを最大に回してもガスランプほどの明るさしか灯さず、むしろ薄暗い雰囲気を演出するためにあるような製品だった。読み書きの助けとして買った私は全く当てが外れてしまったが、メリーはこれをベランダに面したガラス戸の下に置いた。最近引っ越してきたばかりで花のないベランダに、橙色の明かりが機械的ながらも温みを添える働きをした。旅行で家を空ける間なら夜の防犯にもなるだろう。この結果にメリーは満足げにうなずいた。
「早く暗くならないかな」
ガラス戸越しに見えるベランダの上には爽快なほど青い空が輝いていたので、メリーの台詞は誰にということもなく気の毒な希望に思えた。そしてまた私には、改めて今日の秋晴れというものを意識させるきっかけともなったのだった。
「ちょうど今くらいの時期に、窓は拭かれるべきなんだよね」
そう私が言うと、メリーは「うんうん、ちょうどね」と相槌しながら向きを変えて台所の方へ行く。お茶でも淹れてくれる気かと思っていると、両手に布巾と家具用洗剤を持って戻ってきた。あまりにさっそくのことで私は困惑、しかも布巾は私の分まで含めて二枚あるのだから驚かされた。
気がつけば布巾を手に、つっかけを履いてベランダに出ていた。多くの類型がそうであるように、「窓拭きは秋」という図式もまた、一度信じられると人を従わせる力を持つようだった。
左右に滑る二枚のガラス戸を隔てて外からメリーと向き合うと、私は自分がベランダに舞い込んだ鳩のような気がした。メリーに言うと「それは可愛い」と妙な返事だった。ガラス越しの言葉は水中で聞く声に似て低くこもり、表情もどこかよそよそしく見えた。さっきまでそこにいたメリーの部屋が夕暮れ時のように暗いのも、窓の表面についたほこりのせいなのか。そう考えている私の視界をいきなり、メリーが吹きつけた洗剤の白い泡が覆った。これも不可解な警告の表現のように感じられた。
そうしてまずメリーが三、四度洗剤を吹きつけ、そのしずくが垂れ落ちていくのをしばらく見守った。一つしかない洗剤の容器は窓の内側にあるため、この間私は何もすることがなくメリーと一緒に見守った。「ここは我慢よ」とメリーは言っていた。
泡はしだいに割れて小さくなりながら重力に引かれ、幾筋かに分かれて流れる。透明な窓の上にできた透明な筋は、ガラスそのものが起伏を生じたように見えるほどよく馴染みながら伸びていく。そこをメリーが布巾で塗り広げた。泡が消え、視界がぼやける。
私も洗剤をもらって窓を濡らした。さっさと拭いて終わりにしようかとも考えたが、メリーの言葉を思い出してしずくが流れるのを我慢して待った。一本の筋が下の窓枠まで達するのを確認してようやく塗り広げる。やはり視界がぼやける。窓の奥のメリーは真面目な顔をしてそれでよしというようにうなずいた。どうやら私の作業が追いつくのを待っていたらしい。
「じゃあ、こっちの角のところからいくよ」
そう言ってメリーは私から左上に見える隅のふちに布巾を合わせる。ここから左右に拭きを入れながら、つづら折りに降りていこうというつもりだろう。一つ奇妙なのは、それを私も一緒に、つまり内と外で手を重ねて同時に行うように促しているらしいメリーの態度だった。なにも窓拭きくらいを各々勝手にでもできると私は言いかけたが、ガラス越しにくぐもった声で議論したところで埒が明かないと思い直してやめた。
大人しく従ってメリーと二人の手でガラスを挟む。これははじめ、ひどく気恥ずかしいごっこ遊びといった感じだった。するとメリーの手が合図もなく右に動いて、私もすぐ後を追った。右端まで拭くと間を置かず手を一拭き分下へずらして折り返し、今度は左へと拭きを入れる。出だしはやや遅れた私も、そこから二度目の折り返しに入るところではメリーの呼吸を飲み込んで上手く合わせられるようになった。
おそらく過去に試みた人間は少ないであろうこの窓拭き法は、やってみるとさほど難しくはなく、しかも意外なことに結構面白くもあった。一拭きのうちにガラスを滑る布巾の音が二重に聴こえ、混乱した耳の奥にむず痒いような痺れが走る。そして何といっても拭いた後のガラスは二重に磨かれて綺麗になるのだ。すでに私たちの視界の上辺はそこだけ眠い目をこすり覚ましたように鮮やかさを取り戻し、光沢を帯びている。普通窓拭きのはじめはいくら力を込めたところで裏面の汚れには手が出せず、よく拭けたとまでは実感を得難いものだが、この手合わせ法によれば表裏を一挙に相手にできると、少なくとも主観のうえでは嬉しくなれるのだった。
三折れ、四折れと手を往復させ、上から下へと少しずつ汚れをぬぐい取っていった。埃っぽい視界が一拭きごとにみるみる良くなることは、ちょっと笑いだしたくなるくらいだった。二人とも何も話さず息を合わせて、十五秒程度で窓枠の下まで拭き尽くす。そうして表裏でガラスを拭く音、床磨きのようにせわしくもなく、皿洗いのように無秩序でもない単調なリズムが、二人の行為を何か短いダンスの練習に似た真剣な遊戯にしていた。
「もう一回」
メリーがそう言ったのを、私は当然のことと思って聞いていた。曲げた膝を再び伸ばして布巾を持ち上げ、あの拭き始めの左上隅へあてがう。私の体もまた全く当然らしく動いたので、決してそのためにことさらな煩わしさなどは感じなかったが、頭にはまだ淡泊な部分も残っていたらしい。このとき私は他人事のようにこう考えていた、世間の人々の多くが冬に窓を拭くのはつまりこういうことなのだ、こんな秋の良い日和に窓なんかを拭いて過ごすべきではない。
ベランダに立つ私の顔に柔らかく涼しい風が当たり、ほのかに甘い匂いを運んできた。地上からは子供たちが遊ぶ声が聴こえる。何かしら面白い乗り物があって、交代で近所を乗り回しているらしかった。
しかし私は振り返ったりしなかった。ガラス越しに重ねたメリーの手が動き出すところを見逃すわけにはいかなかった。
左から右、折り返してまた右から左へと、同じ振り付けの反復に意識を集中させる。それが終わると、どちらからともなくまた左上隅に戻ってきている。他にやるべきことなど何も無いかのようだった。
そうして肩が重くなるまで繰り返すと、今度は二人とも顔を近づけあってガラスの表面を丹念に検めていった。近くで見るとガラスには、大まかな拭き方では落ちない細かな黒点や雨の跡が残っている。私たちはこれを上から下へと非常にゆっくりした目使いで探し出し、除去していった。視界を覆うのは、海の上を気球で渡っていくような光景だった。その海はさざ波一つない平らかさで、すぐ下に浮沈する巨大なメリーの顔を透かし見せている。私は気球から覗き込み、漂流するごみを発見すると寸法の合わない巨手を下ろすのだが、それに応じて海面下のメリーも同じように手を出してぬぐおうとしてくれる。反対にメリーが動くときは私もまた応じて同じところを布巾でこすった。ぬぐい取った汚れがいったい表裏どちらに付いていたのか、ほとんど分からない。
さっきまで全体を十五秒で拭き尽くしていた窓とは思えないくらい、この海上での作業は長くきりがなかった。上から下までを隈なく検め終えるには一時間以上かかってしまった。今にして考えると、私たちは間にガラスがなければ前髪も交じりかねないくらい近くで見つめあっていたはずだったが、そうした馴れ馴れしい印象はいくら記憶から呼び起こそうとしても湧いて来ない。あるのは広大なガラスの海の空想ばかりで、その下に沈むメリーとは、耳元の電話機から聴こえる声のように、あくまで遠いものだった。
私たちの接近はむしろ、ようやく細かい作業を終えて顔を引き離し、自分たちの出来栄えを一歩退いたところから眺めたときに起こった。
こんなにも綺麗に拭かれた窓をかつて見たことがあっただろうか。もはや窓とは見えなかった。まるで鏡だった。しかし映っているのはベランダの宇佐見蓮子ではなく室内のメリーなのだった。奇妙だがこの瞬間、私の精神は自身を脱ぎ捨てて彼女の目の中に潜り込んだとしか思えなかった。
「蓮子の目で見てるみたい」
メリーが口を開かなければ、もっと長い時間呆然としていられただろう。
「鏡をでしょう」意味が解ると言う代わりにそう答えたのに、メリーは少し眉根を寄せて「やっぱりそっちからもなの」と嬉しくもなさそうな返事だった。その表情と声には、ベランダへ出た当初のくすんだようなよそよそしさはどこにもなくなっていた。
秋晴れと秘封倶楽部と、おそらくさらにいくつかの条件が満たされることで作られるこの窓は、隣に手付かずのまま並んでいるもう一枚のガラス戸と見比べても明確に、異様なほどの透明度を誇っている。私たちはどうやら、あまりにも一生懸命拭き過ぎてしまったらしい。それは真空が持つ透明さともまた違う性質の非存在感、人間にとっては自分の眼球を直接見ることができないようなものだった。私たちは互いだけをよく見えるようにと専心するあまり一拭きごとに相手の像を純粋に磨き上げ、その上に映り込む自分の影をぬぐい取ってしまったのだろう。
ふと、ガラスに触れたい衝動に襲われた。あるいはそれは、私ではなくメリーの衝動だったのかもしれない。私が動き出すのと全くの同時に対面のメリーもこちらに手を伸ばしていた。例のダンス練習のせいで、もはや行動の起こりがどちらにあるのか判然と分からなくなっていた。
私もメリーも人差し指一本、窓のちょうど中心あたりで突き立てる控えめな接触。意外だったのはガラスが少しの冷たさもなく、体温と同じ温度で指を待ち受けていたことだった。肌にぴったりと馴染む滑らかさで、硬さも厚みもまるで感じられない。メリーの指先と直接触れ合っているかのようだった。
私は、あるいはメリーはぎょっとなって飛びすさった。指の触れていた後の空中には、二人分の指紋がくっきりと魔法の刻印のように浮かんでいた。「ああっ」とメリーが悲壮な声を出した。私も大変な間違いを犯したような気がした。そして、自分がひどく疲れていることにはじめて気がついた。
冷えた空気が急に背中から覆いかぶさってきた。私は思い切って窓を開け「お茶にしましょうよ」と言った。「今日は終わり」
まだ布巾を手にぽかんとしていたメリーはこれにようやく我に返った様子でうなずいた。
私たちは汚れた布巾を始末して手を洗うと、お湯を沸かして紅茶を淹れた。メリーは冷蔵庫から梨を出して剥いてくれた。
テーブルにカップを並べて一息つくと、外はいつの間にか日が沈みかけていた。赤みを帯びた光の差し込む窓は、景色を曲げも伸ばしもせず、また得意げにぴかぴか光ることもない謙虚な透明さで、ひたすら存在しないかのように存在していた。それでも二人の付けた指紋はやはりそこにあった。
メリーは頬杖を突きながら「やっぱり途中で手を出したのが失敗よね」と惜しそうに言う。私は「そうだね」と同意してお茶を飲む。同意したのは特に「途中で」という部分にだった。私たちが指で触れてしまったとき、窓はこれでもまだ拭きが足りなかったのだ。触れる直前まで抱いていた窓への驚嘆の念を思い出せば噓のようだが、そのことは二人ともなぜか確かに思えた。
想像するにもし本当に私たちの窓が完全だったなら、窓はメリーを映す鏡などではなく、もっと真実なメリーそのもののように見えていたはずではないだろうか。そのときには手で触れるまでもなく、すでに内と外の区別は消えていることに気づいたはず……、そんな透明があるのなら見てみたかった。
「蓮子、明日も来れる?」
「明日も行くよ、念のため同じ時間に」
幸い、窓はまだもう一枚残っている。私たちはテレビを点け、みずみずしい旬の梨を味わいながら天気予報を聞いた。この晴れが明日も続くことを確かめたのだった。
窓辺に置かれた薄明りを外から覗き見るように
だからこそ、メリーのプライベートな空間の軒先に入り込んだ蓮子が
外界のことそっちのけでメリーと一緒に窓を拭くことで
メリーの中と外の境界があやふやに溶けていく様子に引き込まれました
二人が鏡写しのように互いの眼で互いを見て、
共同作業の中で互いに深く没入していく
他者と他者が危ういほど接近する様子が克明に描かれ
その美しさと危うさにどきどきしてしまいました
人生の中の春でも夏でも冬でもない風が涼しくなり出す頃こそ、
こうした他者と深く透明な交歓にうってつけの季節なのかもしれませんね
面白かったです
なんで窓拭いてるだけでこんなに面白いんですか
とても読みやすく、綺麗な行動の中に不思議が見える様子が大変良かったです。
面白かったです。