Coolier - 新生・東方創想話

エイvsイカvs羊

2021/09/15 08:46:04
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 イカに映画を映している。夢だからってなんでもやっていいわけじゃない。いびつなスクリーンとして鮮やかにひかるイカたちを眺めながら、隣で得意な顔をしているドレミーを睨む。彼女の抱えるまるい羊の瞳が、イカを照らしつづけているのがわかる。「まあいいじゃないですか」ドレミーが羊を撫でる。映画が巻き戻されて初めのシーンが現れる。都の中心にひとつのモニュメントがそびえていて、そこにはこう刻まれている――エイの裏側より、イカの表面を見る方が楽しい。
「わかったって」とわたしは諦める。「わたしのせいって言いたいんでしょう」
 ドレミーは首を振って「夢に責任なんてありませんよ。わたしも例外ではなく……」
「ただ、まあ、義務を言い訳にする娯楽も悪くはないって言いたいだけですよ、わたしはね」
 彼女は羊のこめかみをぐりぐりと弄って違う映画をイカに投影しはじめた。エイの裏側より、イカの表面を見る方が楽しい。というキャプションがまたしてもイカの表面に刻まれる。それは今日わたしが口にした言葉でもあった。エイの裏側より、イカの表面を見る方が楽しい――少なくとも、いくらかの月の住民にとっては。もし真偽を確かめたければ、足取りの重たい兎をつけると良い。
 兎は幾度となく左折を繰り返した末にある建物にたどりつく。そこにはいくつもの水槽があって、薄暗い部屋のなかに青く浮かびあがる地球の海の投影を眺めることができる。その片隅に行けば、きみはきっとイカの愛好者たちに出会えるだろう。立方体の海を漂うイカをぼうっと眺めつづける、愛好者たちに。
「あれっ、サグメ様もイカを見に?」と愛好者の兎が問うた。わたしは黙って首を振った。
「ですよね。そんな感じには見えないですもん」
「そんな感じ?」
「あー、えーと、なんていうかー……」
 兎の声はゆっくりと引きのばされて、そのまま途絶えた。独特の緩急だと思った。それが彼女の正直さによるものか、偽装によるものかはわからないけど。
「とにかく、イカを見に来てる人はイカを見に来るしイカを見に来てない人はイカを見に来ないんですよ。トートロジカルですけど」
「うん」
「わかったんですか」
「わかる人にはわかるってことね」
「おおー」
 喋りすぎたな、とわたしは口を押さえる。
「わたし、誰かに説明をわかってもらえたの初めてです。ありがとうございます」
 兎はせわしなくお辞儀をすると「あ、偉い人はエイとかをよく見てますよ。あっちの水槽です」と素早く手を挙げて示した。彼女の発話のスピードはもう初めの五倍ほどになっていた。こういうとき、無口にならざるをえない事情があると知られているのは便利だった。怒涛のような彼女の声に押されてわたしはそこを去った。結局イカもエイも見なかった。あんなに速く喋らないし、偉くもないから。

 エイの裏側より、イカの表面を見る方が楽しい。と刻まれたエレベーターの扉が開く。中には男が一人。わたしたち観客は彼をじっと見つめた。彼もじっとわたしたちを見つめた。しかし観客がそこへ乗り込むことはない。当然だ。扉が閉まり、カットが切り替わる。エレベーターの中の男をわたしたちはさまざまな角度から眺めている……。
「これはまあエレベーターに囚われつづける男の映画ですかね」
「囚われつづけるんだ」
「ネタばらししちゃいました」
「べつに。でも、退屈そうだなって」
「退屈」とドレミーはゆっくり繰り返した。エレベーターにはおびただしい数のボタンが付いていた。最上階は62階らしい。「何かあるかもしれませんよ、これだけあれば」「何か……」
「37」と男が呟く。それは周期的な監視映像の終わる合図だった。カメラが男の後頭部に狙いを定め、侵入していく。男の視界を通じてわたしたちは階数表示を読む。
「28」
 男は数字に関して特異な記憶力を持っていた。たとえば28についてはこうだ。ある暦で28年目に当たる年、彼の故郷で開かれた競技大会にて、登録ナンバー28の選手が通算28回目の入賞を果たす様子をたまたま点けたラジオの中継で彼は聴いた。そのとき彼は28歳で、ちょうど28個目のアルファベット・チョコレートを舐めおわるところだった。けっして愛国者ではなかったが、数字がめぐりあわせてくれたこの奇妙な縁に彼は感謝した。すると、彼の頭の中に古い友人たちの名前が浮かび上がってきた。この体験を話すにふさわしい、愛国者と競技者と司祭の名前が。加えて、彼らの電話番号がみな28で終わっていたことも。こうして彼はこの数字への偏執的な記憶力を自覚したのだった。
 そのため、男はエレベーターに囚われたこと自体に不満は無かった。ただちに記憶を呼び起こしてくれる神聖な配列がつねにそこにあったから。不満があるとすれば、このエレベーターの最上階が64にあと二つ足りないことだろう。64、これも彼にとって重要な数字だった。もちろん日常見かける数字で彼にとって重要でないものなどなかったのだけれども。たとえば母親の享年と今までに食べたパンの枚数がその数字に符合する。(彼は後天的な小麦アレルギーだ)
 しかし、数字が彼の退屈を紛らわせたとしても、わたしたちにとってはそうではなかった。思い入れのない数字が思い入れのない記憶に置換されるだけだから。わたしも彼に倣って何か思い出せないだろうか、と映画を眺めてみる。けれども元より興味の無い映像だ。わたしの想像が喚起されることはない。
「これ、面白いと思って見せてる?」
「そう見えます?」
「ううん」
「じゃあオチだけ見ますか」
 ドレミーが羊をこねると、イカが高速でくねくねしはじめて映像が早送りになった。かなり気味が悪かった。結局、男は本当にエレベーターから逃れられなかった。最上階を除くすべての階層をめぐった後に、エレベーターは男を捕らえたまま逆さまに落ちた。62階は29階になり、床は天井になり、男は屍になった。扉が開き、向こう側から人々が乗り込んでくる。そして何事も無かったかのようにエレベーターは下降していく。62階の先へ。だが、われわれが階数表示をふたたび目にすることはなかった。そこで映画は終わりだった。
「退屈な露悪趣味」とわたしは言った。
「それは映画の感想ですか?」
「他に何があるっていうの」
「わたしの性格かもしれないな、と」
「思ってもないくせに」
「あるいはあなたの性格かも、とも」
「わりとそうかもね」
「すみません。わりと思ってそうですね」
 ぐい、とドレミーの手の中に収まっている羊を押す。確かこの辺りを押すと次の映画に切り替わるはずだ。「やる気だ」「ドレミーがうるさいから」わたしは今夜待ち構えていた彼女の言葉を思い出す。「あなたがあまり眠らないから、新作準新作が山積みになっている」恩着せがましい、と思ったことも。「おすすめしているだけですよ」「だって全部見る人なんていないってわかってるでしょう」「それはひとつも見ない人の言い訳です」「そう? ひとつも見られなくたって構わない人の売り方だと思ってた」あるいは言い訳を売っているのだと思っていた。全部を見ないことの。
 ここのわたしは半分だけの言葉を口にする。もう半分がどうなるかは知らない。おそらくドレミーならたやすく掬いあげる手段を持っているのだろうが、もちろんそんなものをあてにはしていない。
 羊が激しくまばたきを始める。イカが仲間を呼ぶ。羊の光線がめちゃくちゃに飛んでイカの群れに突き刺さる。でたらめな映画の断片を刻み込まれたイカたちがつぎつぎに墜落していく。終末期の伴侶の名を呼びつづける女。ハンプティ・ダンプティのパロディめいた発話。たぶん神様の横顔。感情を獲得しないロボット。ずっと九秒前の字幕。あまりにまずい翻訳。犬。孤立した比喩。ひどく酔った司祭が信徒の左手にマリアの微笑を見る。わたしはこの光景をエンドロールとひそかに名づけた。「ねえ、考えてみてくださいよ」ドレミーは言う。「反応の無い相手に語りかけることの難しさを」ドレミーは言う。「反応を待つことのない言語の無意味さを」ドレミーは言う。意味に満ちた言葉を。
 九秒前の字幕が追いつく。
 エイの裏側より、イカの表面を見る方が楽しい。
 わたしはそれに同意しない。その比較に意味は無い。司祭の神秘体験に意味が無いように。
 それでわたしは、あのはやい兎がイカを見に来る理由を了解した。愛好者たちは飽きていたのだ。都に。秩序に。意味に。裏側に。あるいは、彼らは潔癖に忌避していた。不正を。硬直を。性器を。言葉を。そうでなければ、こんなくだらない映画を現実でも見たいなんて思わない。
 生物の滅びた世界でロボットたちが猛烈に信号をやり取りしている。いったい何をそんなに話すことがあるんだろう、とわたしは思う。(でもそれはまちがいで、そもそも彼らは話してなんかいない。ロボットだから。わたしは部屋の思考実験と檻の冗談を思い出す。視界の限られた主体には、檻の内と外を区別する究極的な根拠を手にすることはできない。)
「根拠なんて考えるまでもないのに」と隣のハンプティ・ダンプティ気取りが言う。「わたしがそう思うからそう。あなたがそう思うからそう。わたしがそう言うからそう。あなたがそう言うからそう。それ以外に何が必要だって言うんですか」うるさい。わたしは羊を捕まえようとする。羊の毛玉がぱちぱちと燃えはじめる。「少なくとも、わたしやあなたにはそうした特権が許されているのに」うるさい。知らない。許さなくていい。許さないで。許すな。
 燃える羊を捕まえる。豊かな羊毛の球のなかで何かが爆ぜつづけているのがわかる。けれどもひとたびそれを抱えてしまったから、羊と一緒にわたしたちも炎となって落ちはじめる。イカたちがかっと炎に照らされて、いっせいに墨を吐いた。墨は炎を襲った。羊を襲った。ドレミーを襲った。わたしを襲った。全部がまっくらになった。
 わたしはようやく口を開いた。
「やっぱり好きじゃない」わたしは繰り返す。「やっぱり好きじゃないな。夢の映画のこういうところ」
「現実の映画も似たようなものですよ」
「そうかな」
「だって何でも自意識と結びつけてくるのが気に入らないんでしょう」
 そうなのかな、とわたしは思う。そして、わからないな、と思う。ならば試しに自分以外のことを意識してみようと考えて、わたしはドレミーの表情を想像する。
「ドレミーが」わたしは切り出す。「全部わかってますって顔してるのが気に入らないのかも」
「見えてないくせに」
「見えてないって見えてないでしょう」
「いまあなたが教えてくれました」
 ずるい、と言いかけてやめる。そして目を擦りかけてやめる。たぶん少し疲れていた。だから何もかも宙づりにして、わたしはドレミーに投げつけた。
「というよりも、どうするの、これ」
「起きて顔を洗えばいいんじゃない?」
「そんな話をしてるんじゃなくて……」
「だって夢なんてそんな話です」
 こういうときだけ、ドレミーは身も蓋もないことを言いたがる。もちろんその外装が冗談だとわたしは知っている。曖昧なことしか言わない人が、どうでもいいことだけ急に断言をするという冗談。しかし同時に知っている。冗談よりも誠実な発話など、ほとんど存在しないということを。
 だから「それでもそんな話じゃないって言いたいなら」とドレミーは続けてわたしの肩を押す。「あなたがそうしてください。そんな話じゃない話に」
 わたしは黙ってされるがままに仰向けになった。
ありがとうございました。
空音
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コメント



0.240簡易評価
2.90奇声を発する程度の能力削除
面白く良かったです
4.100サク_ウマ削除
よくわからなくてふわふわとしていて、不思議な気分になります。好きです。
6.90名前が無い程度の能力削除
それ以外形容し得ないレベルの、夢特有の前後不覚の浮遊感でした。
個人的にはイカの裏側よりもエイの表面の方がすき。
7.100夏後冬前削除
言葉のチョイスが素晴らしい。深海で静かに揺蕩っているような心地になりました。
8.100南条削除
おもしろかったです
不気味でとめどなくて止まらなくて楽しかったです。
エイの裏側より、イカの表面を見る方が楽しい。
9.100名前が無い程度の能力削除
リズミカルな文章が心地よかったです
10.90めそふ削除
何もかも分からない夢でしたね。
11.100名前が無い程度の能力削除
この夢の不可解さが出ていて面白かったです
12.90名前が無い程度の能力削除
wow.
15.80名前が無い程度の能力削除
これはわからない