万引常習犯村紗水蜜が今回目をつけたのは、駄菓子屋である。バレたら破門という、高いリスク。それに全く見合っていない、低いリターン。一見するとキチガイ沙汰である。しかしこの非合理のからくりこそが、自己嫌悪を払拭し、下賤な目的ではないという逆説的な正当性を与えるのである。
寝静まった命蓮寺、水蜜は布団の中で、明日の犯行計画を脳内で入念に組み立てていく。水蜜にとって、一日のこの時間が堪らなく至福だった。まだ犯されていない犯罪を、自分だけが知っているこの事実。これは新生物を発見した学者のような高揚感をもたらした。
里には子供御用達の駄菓子屋が三つある。一つは新見商店。アイスの当たりがとても出やすいと寺小屋で専ら評判。店内は広く、駄菓子や文房具だけでなく、酒や煙草も売っている。店の前にはガチャガチャがずらりと並んでおり、もの珍しさからか、偶に子供に混じって大人が並んでいる。
二つ目は瑞野屋。店の中は狭いが、駄菓子の種類がやたらと豊富だ。玩具やカードもおいてあり、三つの中では一番人気が高い。子供が駄菓子買いに行こうといったらまずここになる。しかし、実はこの店は上級者向けだ。なぜなら、店のおばちゃんが、子供が店の中を歩き回るのを、よしとしていないからだ。だから、何を買うかあらかじめ決めて置かねばならないし、優柔不断な子は早く決めろと注意される。
三つ目は公園売店。公園の近くにあるからこう呼ばれる。正式な名称は店主も含めて誰も知らない。中は他の二軒と比較するとかなり狭く、品揃えも少ない。但し他に客がいないと、店のおばあちゃんが蜜柑や栗をこっそりくれるので、悪く言う人は誰もいない。
『公園売店は盗んだ時の爽快は格別そうだ。しかし、あの婆は百戦錬磨だ。侮ってはいけない。瑞野屋は種類が多くて盗みやすそうだけど、こちらも婆さんが邪魔。ならば新見商店か』
何を盗むかとその方法。捕まった時に誰に罪を擦り付ける方法など水蜜には抜かりがない。これを一通り頭の中で反芻して眠りについた。
次の日、水蜜は午後の掃除を終えると、計画通り新見商店へと走った。幽谷響子の明朗な「いってらっしゃい!」が足取りを軽くした。店は寺小屋帰り子供たちで賑わっている。じゃれあってお互いの袖を引っ張りあう子達、チャンバラごっこに興じる子達、大仰に天に祈りながらガチャガチャのダイヤルを回す子達。店主は右往左往と対応に追われている。
「すみません、これいくらですか」
「おじちゃん三つ買うから安くしてよ」
この日常のやりとりを水蜜は満足げに眺めていた。『この長閑な風景画の上に、今から墨汁を一滴垂らすのだ』期待で胸が高鳴った。
売り物の鉛筆を床に落とす。それを拾いあげる振りをしながら、水蜜はさりげなく辺りを見渡す。誰もこちらを見ていない。水蜜は一切躊躇なく、鉛筆と傍に掛けてあったビー玉の袋をポケットに突っ込んだ。何食わぬ顔で立ち上がって、再び歩き出す。毎度この時、水蜜は店主の顔を覗きたい欲望に駆られた。しかし、これは危険な誘惑だと承知していたので噛み殺す。そのまま出ていくと怪しまれる為、飴玉四つを購入して、悠々と店を後にした。
水蜜がこのような矮小な悪事の常習犯に至ったのは一体どうしてだろうか。今では平気な顔をして万引きを繰り返している水蜜だが、きっかけは只の偶然だった。
ある日のことである。水蜜が聖白蓮にお使いを頼まれた。一人で里へ行くのが嫌がって、ちょうど参拝道の落ち葉を集めていた響子を、半ば無理矢理連れていく。響子は持たされた手提げをぐるぐると振り回しながら言った。
「へへ、こうやって並んで歩くの久しぶりじゃない?」
「そうですね。早く買って帰りましょう」
返事こそ適当だが、内心水蜜は響子を尊敬していた。愛嬌のよさ、元気の良さ。講堂で聖の教えを聞く度に、水蜜は無垢なものへの憧れを強めていった。その傍に立つことで、自身の両手の赤色を薄めようと試みていた。
二人は商店街を周り、次々と買い物リストを消化していくのだが、その途中である出来事があった。八百屋で会計を済ませた時、丁度響子の足が売り物棚に当たってしまい、蜜柑が一つ手提げの中に転がり込んだのだ。他にも色々買っていたせいか、響子はこのことに気がつかない。こうした一部始終を、水蜜は背後から見ていた。『私がこのまま黙っていたら、響子が万引き犯になってしまう。だけどこの場合、誰が悪いのだろう。私は偶然見ていただけ、悪いはずが無い。だったら響子が悪いのか。悪意は無くても悪さはできる。それならば何て無垢の壊れやすいこと!』
結局、水蜜は黙っていた。指一本触れず白い布地を汚してみせたことに、暗い満足感を覚えた。この経験一つで、純粋は全て無知から来るものだと、頭から決めて掛かってしまった。そして、目の前の灯りが消えたような、酷く惨たらしい気持ちになった。その夜、こっそり手提げから取り出した蜜柑を便所の上で貪り食った。
秘密は生き物を孤独にする。隠し事の存在しない寺での共同生活で秘密を持つことは、水蜜にとってある種の慰めとなった。そしてこの秘密の暗室で、世間の正確な写真を現像するために、徐々に小犯罪を繰り返すことになるのである。里の屑籠をひっくり返す。酒場で気に入らないやつを後ろからぶん殴る。こうした嫌がらせを何度も成功させても、世間は全く変化しない。この無関心を通じて、水蜜は己の考えに自信を付けていった。
気軽にできる犯罪行為で特に水蜜が気に入ったのは万引きだった。『人間、妖怪、ましてや神様だって近頃は殆ど金の奴隷。どんな人情家だって金塊の前では着物を脱ぎ捨てるに決まってる。それに比べて、万引犯の私は! 金を払わずして物を買う。見事にこの檻から脱獄を果たした!』これは半端を嫌がる水蜜の生来の精神的な潔癖症と、殆ど暴力的なまでの聖人信仰の裏返しでもあった。
白蓮の仕事の一つに法話がある。仏教の教えに基づいた話を、一般向けに分かりやすく説くものだ。白蓮はできるだけ多くの人に教えを説く為、法話会を寺の講堂で月に一度開いていた。
参加費は無料で、人妖問わず誰でも参加可。命蓮寺の講堂の収容可能人数は大体三十人程で、お話は約二時間。これが中々に評判が良く、毎月多くの者が白蓮の話を聞きにやって来た。座席が足りず、後ろで立ち聞きをする人がいるくらいの盛況ぶりである。
水蜜もこの法話会を楽しみにしている一人だった。日頃から白蓮に教わってはいたが、その説明は聞きなれない仏教用語が多数出現する難解なものである。そして、後から意味を書庫で調べようとしても、面倒がってそのまま忘れてしまうことが多かったのだ。水蜜は、この会のように分かりやすい話をしてくれと、常々不満を抱いていた。
修行、悪事、修行、悪事と夢遊病患者のような生活を繰り返していた水蜜。その頃聞いた法話の中で、妙に印象的だったものを一つ紹介しておく。
こんな話である。
一人の若い僧が修行をしたいと、禅師永興という高僧の元へにやって来た。この若い僧の持ち物は法華経と、白銅の水瓶、それから縄床だけだった。永興は病気の治療を得意とし、今日より南に住んでいたことから、南の菩薩と呼ばれていた。
修行をして一年が過ぎたころ、若い僧はこの地を発って伊勢を超え、山に籠ると言いだした。永興は餅米の干飯を粉にしたものを二斗持たせ、国境まで寺男を付き添わせた。しかし国境が近づくと、若い僧は寺男に持ち物の殆どを与えてしまい、麻縄と水瓶だけを持って去ってしまった。
二年後、熊野川の上流の山で船を作っていた村人が法華経を読む声を耳にした。不思議なことにその声は何か月たっても絶えることがなかった。村人の知らせで永興が山に入ると、声のするところに死骸がある。麻縄を両手に繋ぎ、岩に吊りかかっている。その傍には水瓶が。紛れもないあの若い僧だった。それを見た永興は大変悲しんだ。
それから三年、村人は再び山中で経を読む声を聞く。山へ再び出かけて行った永興は驚いた。若い僧の白骨にはまだ舌が付いており、腐っていなかったのだ。永興は法華経の御力に違いないと、その体を丁寧に葬った。
普段の法話は、“大晦日の話”や“命は何処へ行くのか”といった親しみやすい話が殆どだったので、この話は何だか白蓮らしくなく、異質で不気味なものだった。帰り道、人々は何故こんな話をしたのか首を捻っていた。『仏教によるによる救いは、かくも直接的なものなのか』この話は自分に向けられたものではないかと水蜜は訝しんだ。しかし、その奥に潜む真意までは分からなかった。
幾月経ったある日のこと。この日、水蜜は珍しく全く眠れなかったので、提灯を片手に、寺の周りを散歩していた。夜風があって、肌寒い。辺りの木々がぬらぬらと不規則的に揺れて、今にも襲い掛かって来そうである。眠気が来るまで、ぶらぶらしようとした水蜜であったが、程よい冷気が頭の靄を払うので、余計に目が覚めていった。
井戸の水を汲み上げ、顔を洗っていると水蜜は何かガサガサと漁るような音を耳にした。自然のものでは断じてない。間違いなく人工的なものだった。『こんな時間に誰だろう。まさか賊だろうか』提灯を握る手に力が入る。心臓が早鐘を打ち始める。怪しげな物音は金堂の方からだった。水蜜は足音を殺して怖々近づいていく。人の気配はそれに応じて強まっていった。
向拝柱に背を預け、水蜜は正体を確かめるべく覗き込んだ。ぼんやりと提灯の明かりが見える。橙の光を反射する銀の長い髪がある。人を見下すような厭味な烏帽子がある。そこにいたのは物部布都だった。足元には細く引き裂かれた新聞紙、折れた木の枝が散乱している。布都は提灯を沓石の上に置き火袋を両手で外すと、憑かれたように蝋燭の火を凝視した。
水蜜は慄然とした。布都がこれから行おうとしているその内容も確かにある。しかし、真に恐怖させたのは、揺らめく火炎を観察する布都のその形相だった。経験上、これから罪を犯そうとする者は、例外なく不安と恍惚の二色に歪む筈だった。しかし、奇怪なことに布都が浮かべていたものは、仏像のような完璧なる無表情だったのである。
『里で見かけた顔とまるで違う。己の凶兆を彼女はひた隠しにしていた! 幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言うけれど、これは全くの逆じゃない、異常者め! ……落ち着いて、村紗水蜜。能面みたいな布都の表情は、単に食虫植物の冷笑に他ならないわ。それより、急いで目の前の凶行を阻止しなければ』
自らを鼓舞しながら、水蜜は布都と一歩一歩と距離を詰めていく。背後に立っても、布都は催眠術にでもかかったようにその場からぴくりとも動かない。夜風は止み、鈴虫も息を殺している。襲い掛かろうとしたその刹那、布都は蝋燭から手を離した。
短い悲鳴を上げる水蜜。提灯を投げ捨て、死に物狂いで蝋燭に跳びついた。体が地に叩きつけられる、痛がっている隙はない。無我夢中で手を伸ばす。幸いなことに、紙に触れる前に掴むことができた。
今度は反対に布都が悲鳴を上げた。突然現れた黒い影に腰を抜かした。先刻まで支配していた例の狂気は、もはやどこかに霧散していた。
水蜜は布都に向かって蝋燭を投げつけた。力んでいたせいか、布都には当たらず明後日の方へ飛んでいく。水蜜は鞭のように体をしならせ、布都に跳びつく。提灯の火は消え、二人は暗闇の中にいた。お互いの顔は良く見えない。水蜜は怒りに任せて拳を振るった。布都も負けじと拳を振るう。殴った、蹴った、引っ掻いた。お互い必死だった。殴れば殴るほど、水蜜は頭が澄んでいくのを感じた。それとは対照的に、布都は頭が霞掛っていくようで、何を殴っているのか分からなくなった。
二人は長い間こうしていた。水蜜の大振りの拳が布都のみぞおちに入る。布都は顔を歪ませ、体を二つに折り畳み苦しそうに息を吐く。そのまま顔面を蹴り飛ばしてやろうと、水蜜が間合いを詰めると、布都が終に音を上げた。
「おぬし、止めろ、止めてくれ! 降参! ついでに後生じゃから見逃してくれ!」
「何言ってんの。放火よ、放火。大罪よ。頭おかしいんじゃないの? リンチよリンチ! その後、巫女にしょっぴかれるといいわ。きっと火炙りの刑よ。でも意外ね。あんたのとこの大将が、こんな指示を……」
「待て誤解だ聞け! 単独犯だ! 我一人でやったのだ。そして、我にはやむを得ない理由が!」
「理由?」
「そうだ! 理由だ! 夢のお告げだ! 石上の御祭神が宣ったのだ! 決して我欲の為ではない! 大義の為だ! 御神は現状を嘆いておった。見よ! 醜悪な神仏習合のこの歪な世を! 混ぜ物をした酒と何が違う。団結を急がねば。今こそ廃仏毀釈を推し進めるのだ!」
「何をいまさら。ここは流刑地みたいなところでしょう。皆で仲良くしてればいいじゃない」
「否! この罰当たり! こん畜生、不届き千万! 何が流刑地! 現世を細き河川に例えるならば、ここは大海なのだ!くたばれ! ともあれ、我は気づかされたのじゃ、この郷に毒が垂れ流されていることに……」
「それだけ? じゃあ、夢にかどわかされて、寝ぼけて燃やしに来たってこと? やっぱり頭おかしいんじゃない。今から命蓮寺の皆を起こして、それからあんたの処遇を……」
「止めろ、それだけは止めてくれ! 我を痛めつけたいならすればいい! 煮るなり焼くなり刺すなりすればいい! しかし、太子様に迷惑をかけるわけにはいかんのだ。頼む、この通り!」
布都は土下座をしようと体を起こすが、足がいう事を聞かない。それでも倒れたまま、額を地面に擦りつける。まるで轢かれたヒキガエルのよう。恥も外聞もないが、あまりに一心不乱で、一方的に不憫さを抱かせるには十分な姿だった。水蜜はどうしたものかと逡巡していた。しかし、悩む暇もなく、提灯が一つこちらに近づいているのを発見する。
「ちょっと! 大騒ぎするから誰か起きたじゃない!」
先ほどまでの疲労はどこへやら。雷に打たれたように布都は飛び起きると、殆ど転がりながら、傍の茂みの裏に隠れた。水蜜は提灯を拾い上げる。散らばった新聞紙を拾い集めて、ポケットに入れる。布都の分裂症を疑う。段々と馬鹿馬鹿しくなる。
現れたのは雲居一輪だった。眠たい目を擦り、睡眠を妨げる音の正体を探りにやって来た。提灯をあちらこちらに向けて、とうとう一輪は水蜜の姿を確認する。賊ではないと安心したら、水蜜の土に塗れた姿に呆気にとられた。
「あんた、そんなにボロボロになってどうしたのよ」
影で聞いていた布都は、一輪の言葉で、この時初めて現実的な危機感を覚えた。恐ろしいまでの楽天家である。水蜜の楽観主義は、露悪に対する信仰心の集積だったが、対して布都は、もっと根っからのものだった。布都の腕が震える、体が震える。逃げ出さなかった自分を心底呪った。
水蜜はわざとらしく着物の裾を手で払った。そして、困惑したように笑いながら一輪に言った。
「すみません。野犬と喧嘩しまして……」
水蜜の日課の悪徳作業に、布都が加わったのは、もはや言うまでもないだろう。布都は、どうして水蜜が、自身のアキレス腱を嬉々として見せてくれるのか不思議がった。この材料を利用して停戦協定を結ぶことも可能だったが、横着者の布都は、水蜜の悪事にすんなり加担した。やってみると案外楽しく、罪悪感が尊敬の念に変貌するのも時間の問題だった。
この頃から、水蜜の犯罪の動機が、布都と出会う前と比べて、決定的に変化した。以前までは、偽善と無知の暴露と非日常の冒険、この二つが主な目的であったが、最近は度重なる犯罪行為のせいで不感症気味になってしまい、後者が目当ての大部分を占めるようになったのである。こうなると、複雑な大義名分も必要なくなってしまう。スリルの為に! ひたすらスリルの為に! 義務を無くした孤独の行きつく先は、社会奉仕なのだろうか。悪意の標的はもっぱら社会的不道徳に限られた。
「今日は道端で寝てる酔っぱらいをぼこぼこにしましょう! お腹を空かせた妻や子供を家に放置して碌でもない! 酒の為に家財を全部、紙屑屋に売り飛ばしてるに決まってます。あんな奴らくたばっちまえばいいんです!」
「ふむ、よいな! やっちまおう、やっちまおう」
こんな調子である。二人は長い棒切れを持って、天誅!と叫びながら、鯢呑亭の周りに屯していた者を叩いて回った。用心深い水蜜は、布都の失敗を生かして、組笠で顔を隠すのを忘れなかった。
二人の会合は里の待合茶屋で行われた。木を隠すなら森の中、会話を隠すなら会話の中というのが水蜜の主張だった。昼間から二階の隅を陣取り、声を潜めて毎日物騒な話をした。適度に暗い店内、中を漂う湿った雰囲気、常に一定数いる目付きの悪い客。偶々会話を耳にした人がいても、気味悪がって聞かぬふりをしたので、秘密が漏れることは決してない。この茶屋は内緒話をするには絶好の空間であった。吝嗇家の水蜜は、お茶一杯で二時間以上粘ろうと努力した。一方布都は、無くなればじゃんじゃんお替りを頼み、水車のように腹に詰めていったため、いつも金欠気味になった。
万引き、闇討ち、架空索道の無賃乗車と悪事を繰り返していった。
「なあ、おぬし、放火に興味はないか? 悪いやつの家に火をつけて周るのじゃ。ばあすでーぱーてぃーの蝋燭みたいに。きっと愉快だぞ」
そのうちに布都は異教徒(仏教徒)の家に火を放ちたいと、うわ言のように呟くようになった。水蜜はそれを聞く度に強く窘めたが、彼女自身もっと大きな犯罪に加担したがっていたのも事実だった。
大犯罪の願望は日に日に募っていくばかりであった。
遅めの昼食を摂り、檀家への法要の案内状を、聖に頼まれていた分だけ書いてしまうと、水蜜は遊びに行くとだけ伝えて、今日も人里へ向かった。辺りに顔見知りが居ないか確認して、茶屋の狭い門を潜る。布都は既に、行儀よく席につき、出された抹茶を舐めるように啜っていた。水蜜が片手を挙げると、待ちわびていた布都は、すぐさまこれに応じた。
いつもならば、水蜜が犯罪計画を話し、布都がこれに注釈を付けていくという形で、会議は進められていったが、この日の水蜜の頭の中に計画の明確な像は無く、ただ漫然と、巨大な犯罪の結晶が、破滅の光を放ちながら浮遊しているのみであった。空想に憑かれていては、生産的な会議などできる筈もなく、口数は減っていった。水蜜の暗い想像が伝染したのか、布都も、煌びやかに燃え盛る楼閣を空中に思い描いた。
押し黙っていると、他の客の会話が否応なく耳に入る。子供のこと、誰かの悪口、噂話。気が散って、水蜜の意識がそちらに向くと、今度は、隣の席の会話がはっきり聞こえてきた。
「全くふざけてるよ、あの業突く張りの金貸しのおやじ。ちょっと返し忘れただけで、利子とか言って、借りた額の三倍吹っ掛けてきやがった。これまで催促しなかったのも、こうなることを予期してだよ。意地汚いね」
「馬鹿だなあ。払わなければいいじゃないか。そんなの」
「俺もそう思ったらな、今度は嫌がらせが始まったんだよ。夜中に借金取りがやってきて、扉を蹴るわ、金返せって大声で叫んでくるわ。ここ毎日、うちの店までやって来て、売り物の漬物を、そのまま素手で掴んで食ったりと、やりたい放題だよ」
「酷い話だな、ほとんど泥棒じゃないか。できれば都合してやりたいが、俺も今、厳しくてね。実は、家賃が払えなくて、長屋から追い出されそうなんだよ」
『何て自己中心的で愚かな人間たち!』水蜜は自分の顔が、優越でにやけていることに気が付き、慌てて居住まいを正して、布都の方へ向き直る。同意を得ようと、目配せを送ると、布都の顔が、怒りで青白くなっていることを発見して、ぎょっとした。
「ちょっと、どうしたんですか」
「村紗、我は許せん。か弱き民からなけなしの金を毟り取る、悪の高利貸しが」
「悪だろうと何だろうと、そういう商売でしょう。借りる方が馬鹿なんです。大方、自殺願望でもあるんでしょう」
「否! 断じて否! 民は騙されておる。それに金貸しは商売とは言わん。天誅だ。我と共に天誅を与えようぞ、村紗殿水蜜殿」
初めは乗り気では無かった水蜜だが、実際に計画を立て、これが今までにない大仕事であると予想できると、一転して火が付いた。次第に布都に同調するようになり、罰を下さなければならないと強迫的な感情が芽生えた。水蜜は玩具を手に入れた子供のように、その企みに夢中になった。
一週間、綿密に下調べを繰り返して、ついに決行の日となった。寝ている最中に火を放ち、金貸しの一家丸ごと焼き殺すだとか、家の者を溺死させて、死骸を軒先にぶら提げるだとか、剣呑な意見が飛び交ったが、大激論の末に、結局泥棒で手打ちとなった。何でも、寝室の箪笥にたっぷり貯めこんでいるそうで、二人の目標は専らそれである。
知ってか知らぬかこの日は満月。丑三つ時、月明りによって引き延ばされた中小二本の黒が、件の屋敷の門扉に映される。鼻掛けに被った手拭いのせいで、照らし出された影法師は毒茸を思わせた。
水蜜は風呂敷から鉤縄を取りだして、築地の向こうへ放り投げる。力一杯縄を引き、しっかり掛かっていることを確認すると、ぎこちない動きで壁をよじ登って、乗り越える。縄を揺らして、人影が無いと合図を送り、布都もそれに続く。
当初の予定通り、布都を見張りに立て、忍び込むのは水蜜一人である。屋敷の玄関には、用心深く閂が掛かっているため、窓から侵入する必要があった。幸い、鑿を硝子と窓枠の隙間に差し込んで、奥に力を何回か加えてやると、音を立てずに、簡単に割ることが出来た。水蜜は割れた穴に、破片で傷つけないよう注意深く腕を差し込んで、内側から捻子を回して錠を外した。
慎重に窓を引いて、体を押し込むようにして入ると、そこは和室だった。がめつい金貸しの家にしては、がらんとしており、寒々しい。折角の床の間には何も飾っておらず、部屋には箪笥が一つあるだけである。抽斗を確認してみると、浴衣の帯が二つのみ。庭を見ると、御影造りに雪見灯篭と、華やかだったため、落差がこの殺風景に拍車をかけた。『実はお金が無いのか? それとも金持ち特有の物惜しみだろうか』障子を開けて、闇へと続く廊下に出る。歩くと床が軋んだので、すり足で行かねばならなかった。
高値で入手した、屋敷の間取り図の細部に至るまで、水蜜は完璧に記憶していた。その為、灯りが無くても、まるで自分の家のように、首尾よく寝室の前まで辿りつけた。耳を押し当て、内部の様子を伺うと、返って来るのは静寂のみで、人の気配はまるでしない。息を殺して引き戸の取っ手に指をかけ、するすると引いていった。
寝室も案の定、地味だった。質素と言えば聞こえはいいかもしれないが、それには外観との統一が不可欠である。煎餅布団の上で男がいびきをかいて寝ている。壁には日捲りと姿見が掛けられている。
抜き足、差し足と、全神経をつま先に集中させて前へと進む。睡眠が浅い性分なのか、男は時折寝返りを打ち、その度水蜜は飛び上がりそうになった。それでもやっとの思いで、奥へ辿りつくと、目の前に出現したのは、豪華絢爛な竜の彫り物が施された、見事な衣装箪笥だった。
その箪笥は、匿われた重罪人であり、木製の鍾乳石であり、魔人の如き異彩を空間に放出していた。水蜜は己の心臓の悲鳴を聞いた。緊張からか、砂浜に投げ出された人のように、強い喉の渇きを覚えた。
終着点の予期から来る恐怖に、行動の活力を奪われかけたが、男の低い寝言で、我に返った。今は敵陣の真ん中であり、一刻も早くここから脱出しなければならない。水蜜は下から順に、急き立てられるように箪笥を開けていく。藍色の粗末な着物、日焼けした書類の束、金目のものは見当たらない。水蜜は焦りから段々と、腹を立て始める。
三段目の抽斗を勢いよく開けたところで、ことは起こった。防犯の為だろうか、大小様々な鈴が入れられており、じゃらじゃらとけたたましい音が部屋一面に木霊したのだ。
「誰だ!」
空気を裂くような鋭い一声。気が付いた時には、水蜜は走り出していた。流れるように、腰に結いつけた柄杓を手に持つと、鼻っ柱目掛けて一発喰らわせる。
「痛っ」
怯んだ隙に、今度は、傍の風呂敷から金槌を取りだすと、脳天に振り下ろした。潰れたトマトのような音を立てて、男は前のめりに倒れた。これら一連の動作は十秒にも満たず、全ては機械的に行われた。
水蜜は一種の錯乱状態に陥っていた。次第に冷静さを取り戻すと、後悔にも似た焦りに襲われた。男に駆け寄り、揺すってみるが、反応が無い。軽くパニックになりかけたが、脈を感じられたので、それで漸く落ち着いた。
箪笥の前に戻ると、再び抽斗の中身を漁り始めた。鈴を掻き分けていくと、底の方に新聞紙で包まれた箱がある。持ち上げてみると、重量があり、金属がぶつかる音がする。新聞紙破くと、漆塗りの小箱が中から現れた。神々しい蒔絵の桜に吸い込まれるようにして、水蜜は蓋を外した。
元来た窓枠を抜け、夜の庭へと出ると、布都が転がっていた石を積み上げて遊んでいた。
「見張りはどうしたんですか」
「大丈夫。こんな時間に出歩く奴などいるまいて」
「全く、こっちは酷い目に遭ったんですよ。いくら、分け前がいらないからって、半端な仕事はしないでください」
「それで、目的のものは見つかったのか?」
「ええ、まあ。それよりも早くここから逃げましょう。長居していい事なんて、何一つありませんからね」
水蜜は門扉に向かって歩き出したが、布都はその場に留まって、動こうとしない。訝しげに布都の腕を掴むと、勢いよく振り払われた。
「なあ、村紗、最後にもう一度聞きたいのだが、本当に我と一緒に、火災を起こす気はないのか?」
「何言ってるんですか。その話は終わった筈です。ほら、駄々こねてないで行きますよ」
布都は草鞋の裏で、作った塔を蹴り崩した。何か言いたそうに見えたので、水蜜は続きの言葉を待っていたが、布都は不気味に黙りこくっていた。
この静寂の天鵞絨を裁断したのは、何かが爆ぜるような音だった。それから何かを焦がしたような臭いである。水蜜は仰天した。夜の闇より遥かにどす黒い煙の竜が、屋敷の裏から出現し、月へ昇って行くのを、目撃したからである。
「なら、我の単独犯じゃな」
布都は寂しげに呟いた。
水蜜は布都を置いて、ひたすら逃げた。途中幾度も、布都の姿を恐れては振り返った。途中幾度も、足がもつれて転びそうになった。犬に吠えられ、虫に集られ。夜道の鈴虫の切れ目のない音色が、布都との繋がりを暗示しているようだった。
やっとのことで命蓮寺に着いても、まるで安心できなかった。水蜜は井戸に腰掛け、火の手が上がらないか、一晩中本堂を見張っていた。不安による、時間の緩慢に苦しめられ、不安による、締め付けるような胃痛に苦しまされた。水蜜は燃えるような目で満月を睨んだ。
永遠にも思えた時間は遂に終わりを告げた。朝日が昇り、空が温かみを持ち始める。白い光が辺りを照らし、雀が鳴き始め、自然は活気で満ち溢れる。夜が遠ざかると、水蜜はやっと、水中から顔を出して呼吸ができたような心地になった。『私は悪夢を見ていたに違いない。太陽の力強さと暖かさ! 一体私は何を恐れていたのだろう。闇で静かに燃える布都の炎の、何て弱々しいこと!』
解凍されたばかりの思考を、巡らせば巡らせるほど、水蜜の中で布都の存在が縮んでいった。『そうだ。悪意という一点では、私は布都を凌駕している。火の手が上がった時、私は家の中で男が気絶していることを、黙っていた。つまり、布都は知らず知らずのうちに殺人を犯したということになる。私の悪意が、布都に意図していない悪事を働かせた。いつかの響子の万引き事件と比較しても、私の立ち位置は、あれから全く変わっていない』
これまでの怯えが嘘のように、水蜜は愉快になった。悪事を無事に終えた解放感に酔いしれた。冷えた朝風に背中を押され、鞠のように跳ねながら自室に戻った。
布団の上で、新聞の包みを解いて、盗んだ美しい小物入れをまじまじと見つめる。障子の薄い紙から入る、淡い光に照らされて、散りばめられた金粉が輝きを放っている。水蜜は儀式的な手つきで、蓋を開けると、小判の山が顔を出した。布団の端から並べると、計二十枚。中々に壮観である。水蜜は、寺の者が起床するまで、何度も箱から出し入れを繰り返して、重さや手触りを楽しんだ。
水蜜の生活で培われた、秘密の保持欲と言うべきものを満たすのは、巨大な犯罪願望から小さな漆の箱にとって代わられた。修行を早めに終わらすと、水蜜は自室に籠って、押し入れに隠した箱や小判を満足するまで眺めた。床に入っても、思い浮かべるものは、犯罪計画ではなく、小判の隠し場所と、その金色の幻影だった。
四、五日経った。水蜜が日課の掃除を怠けて、縁側の手すりに座り、両足をぶらつかせていると、白蓮が、偶々通りがかった。水蜜は奇妙に思った。白蓮が法衣を纏っていたのもあるが、それに加えて、彼女を取り巻いている眩いばかりの覇気が、今日は何故か感じられなかったからである。
「聖、お出かけですか? 顔色が優れないようですが」
「顔に出ていましたか? まだまだ修行が足りないようですね。いえ、里であった先日の大火事を覚えていますか?」
火事と聞いて、急に心臓を掴まれたような気分になった。そのおかげで顔に出さない努力を、水蜜もしなければならなくなった。
「はい」
「その不幸に遭われたお家が、うちの檀家でして、今日のお通夜を、私が執り行うことになったのです。ですから、夕飯は私抜きで食べてくださいね」
「分かりました。道中気を付けてください」
水蜜は自分の返事が、上ずったものになっていないか、酷く心配になった。炎に包まれる仏壇や、焼け跡に横たわるご本尊様を思うと、恐ろしくなった。
「それにしても、弱りました。余り大きな声では言えませんが、亡くなった方は、とても熱心な信徒でして、お布施も沢山頂いていましたから……」
全身の力が抜けていくのを感じた。白蓮のこの一言で、水蜜の心の水に、墨汁が垂らされたのである。それはあまりにも強力で、防ぐ暇などなく、一瞬にして魂を染め上げてしまった。『何が犯罪か。何が解放か。私も知らず知らずのうちに、金貸しの悪に加担していたじゃないか。俗世の泥にどっぷりと肩まで浸かっていたじゃないか』水蜜はふらふらと亡霊のような足取りで、自室に戻った。白蓮は何か声を掛けたが、水蜜には、もう届いてはいなかった。
押し入れを開けて、例の小箱を取りだすと、乱暴に畳の上にひっくり返した。散らばった黄金に、救いを求めるように、水蜜はまじまじと観察した。しかし、いつもの陶酔感は、いっこうにやって来ない。水蜜は追い詰められたように、その理由を必死に探した。日の光に当ててみる。顔を近づけてみる。よく見ると、小判は僅かに黒ずんでいた。『駄目だ、駄目だ! 汚れているのは私だ! お前じゃない、お前はやっと見つけた私の希望なんだ! お前は、私の頭上に鎮座して、未来永劫、美しい光を放ち続けなければいけないんだ!』
水蜜は、小判の黒ずみを、幾度となく親指の腹で擦り続けた。しかし、徒に熱を持つばかりで、その青白い指はいつまでも汚れることはなかった。
寝静まった命蓮寺、水蜜は布団の中で、明日の犯行計画を脳内で入念に組み立てていく。水蜜にとって、一日のこの時間が堪らなく至福だった。まだ犯されていない犯罪を、自分だけが知っているこの事実。これは新生物を発見した学者のような高揚感をもたらした。
里には子供御用達の駄菓子屋が三つある。一つは新見商店。アイスの当たりがとても出やすいと寺小屋で専ら評判。店内は広く、駄菓子や文房具だけでなく、酒や煙草も売っている。店の前にはガチャガチャがずらりと並んでおり、もの珍しさからか、偶に子供に混じって大人が並んでいる。
二つ目は瑞野屋。店の中は狭いが、駄菓子の種類がやたらと豊富だ。玩具やカードもおいてあり、三つの中では一番人気が高い。子供が駄菓子買いに行こうといったらまずここになる。しかし、実はこの店は上級者向けだ。なぜなら、店のおばちゃんが、子供が店の中を歩き回るのを、よしとしていないからだ。だから、何を買うかあらかじめ決めて置かねばならないし、優柔不断な子は早く決めろと注意される。
三つ目は公園売店。公園の近くにあるからこう呼ばれる。正式な名称は店主も含めて誰も知らない。中は他の二軒と比較するとかなり狭く、品揃えも少ない。但し他に客がいないと、店のおばあちゃんが蜜柑や栗をこっそりくれるので、悪く言う人は誰もいない。
『公園売店は盗んだ時の爽快は格別そうだ。しかし、あの婆は百戦錬磨だ。侮ってはいけない。瑞野屋は種類が多くて盗みやすそうだけど、こちらも婆さんが邪魔。ならば新見商店か』
何を盗むかとその方法。捕まった時に誰に罪を擦り付ける方法など水蜜には抜かりがない。これを一通り頭の中で反芻して眠りについた。
次の日、水蜜は午後の掃除を終えると、計画通り新見商店へと走った。幽谷響子の明朗な「いってらっしゃい!」が足取りを軽くした。店は寺小屋帰り子供たちで賑わっている。じゃれあってお互いの袖を引っ張りあう子達、チャンバラごっこに興じる子達、大仰に天に祈りながらガチャガチャのダイヤルを回す子達。店主は右往左往と対応に追われている。
「すみません、これいくらですか」
「おじちゃん三つ買うから安くしてよ」
この日常のやりとりを水蜜は満足げに眺めていた。『この長閑な風景画の上に、今から墨汁を一滴垂らすのだ』期待で胸が高鳴った。
売り物の鉛筆を床に落とす。それを拾いあげる振りをしながら、水蜜はさりげなく辺りを見渡す。誰もこちらを見ていない。水蜜は一切躊躇なく、鉛筆と傍に掛けてあったビー玉の袋をポケットに突っ込んだ。何食わぬ顔で立ち上がって、再び歩き出す。毎度この時、水蜜は店主の顔を覗きたい欲望に駆られた。しかし、これは危険な誘惑だと承知していたので噛み殺す。そのまま出ていくと怪しまれる為、飴玉四つを購入して、悠々と店を後にした。
水蜜がこのような矮小な悪事の常習犯に至ったのは一体どうしてだろうか。今では平気な顔をして万引きを繰り返している水蜜だが、きっかけは只の偶然だった。
ある日のことである。水蜜が聖白蓮にお使いを頼まれた。一人で里へ行くのが嫌がって、ちょうど参拝道の落ち葉を集めていた響子を、半ば無理矢理連れていく。響子は持たされた手提げをぐるぐると振り回しながら言った。
「へへ、こうやって並んで歩くの久しぶりじゃない?」
「そうですね。早く買って帰りましょう」
返事こそ適当だが、内心水蜜は響子を尊敬していた。愛嬌のよさ、元気の良さ。講堂で聖の教えを聞く度に、水蜜は無垢なものへの憧れを強めていった。その傍に立つことで、自身の両手の赤色を薄めようと試みていた。
二人は商店街を周り、次々と買い物リストを消化していくのだが、その途中である出来事があった。八百屋で会計を済ませた時、丁度響子の足が売り物棚に当たってしまい、蜜柑が一つ手提げの中に転がり込んだのだ。他にも色々買っていたせいか、響子はこのことに気がつかない。こうした一部始終を、水蜜は背後から見ていた。『私がこのまま黙っていたら、響子が万引き犯になってしまう。だけどこの場合、誰が悪いのだろう。私は偶然見ていただけ、悪いはずが無い。だったら響子が悪いのか。悪意は無くても悪さはできる。それならば何て無垢の壊れやすいこと!』
結局、水蜜は黙っていた。指一本触れず白い布地を汚してみせたことに、暗い満足感を覚えた。この経験一つで、純粋は全て無知から来るものだと、頭から決めて掛かってしまった。そして、目の前の灯りが消えたような、酷く惨たらしい気持ちになった。その夜、こっそり手提げから取り出した蜜柑を便所の上で貪り食った。
秘密は生き物を孤独にする。隠し事の存在しない寺での共同生活で秘密を持つことは、水蜜にとってある種の慰めとなった。そしてこの秘密の暗室で、世間の正確な写真を現像するために、徐々に小犯罪を繰り返すことになるのである。里の屑籠をひっくり返す。酒場で気に入らないやつを後ろからぶん殴る。こうした嫌がらせを何度も成功させても、世間は全く変化しない。この無関心を通じて、水蜜は己の考えに自信を付けていった。
気軽にできる犯罪行為で特に水蜜が気に入ったのは万引きだった。『人間、妖怪、ましてや神様だって近頃は殆ど金の奴隷。どんな人情家だって金塊の前では着物を脱ぎ捨てるに決まってる。それに比べて、万引犯の私は! 金を払わずして物を買う。見事にこの檻から脱獄を果たした!』これは半端を嫌がる水蜜の生来の精神的な潔癖症と、殆ど暴力的なまでの聖人信仰の裏返しでもあった。
白蓮の仕事の一つに法話がある。仏教の教えに基づいた話を、一般向けに分かりやすく説くものだ。白蓮はできるだけ多くの人に教えを説く為、法話会を寺の講堂で月に一度開いていた。
参加費は無料で、人妖問わず誰でも参加可。命蓮寺の講堂の収容可能人数は大体三十人程で、お話は約二時間。これが中々に評判が良く、毎月多くの者が白蓮の話を聞きにやって来た。座席が足りず、後ろで立ち聞きをする人がいるくらいの盛況ぶりである。
水蜜もこの法話会を楽しみにしている一人だった。日頃から白蓮に教わってはいたが、その説明は聞きなれない仏教用語が多数出現する難解なものである。そして、後から意味を書庫で調べようとしても、面倒がってそのまま忘れてしまうことが多かったのだ。水蜜は、この会のように分かりやすい話をしてくれと、常々不満を抱いていた。
修行、悪事、修行、悪事と夢遊病患者のような生活を繰り返していた水蜜。その頃聞いた法話の中で、妙に印象的だったものを一つ紹介しておく。
こんな話である。
一人の若い僧が修行をしたいと、禅師永興という高僧の元へにやって来た。この若い僧の持ち物は法華経と、白銅の水瓶、それから縄床だけだった。永興は病気の治療を得意とし、今日より南に住んでいたことから、南の菩薩と呼ばれていた。
修行をして一年が過ぎたころ、若い僧はこの地を発って伊勢を超え、山に籠ると言いだした。永興は餅米の干飯を粉にしたものを二斗持たせ、国境まで寺男を付き添わせた。しかし国境が近づくと、若い僧は寺男に持ち物の殆どを与えてしまい、麻縄と水瓶だけを持って去ってしまった。
二年後、熊野川の上流の山で船を作っていた村人が法華経を読む声を耳にした。不思議なことにその声は何か月たっても絶えることがなかった。村人の知らせで永興が山に入ると、声のするところに死骸がある。麻縄を両手に繋ぎ、岩に吊りかかっている。その傍には水瓶が。紛れもないあの若い僧だった。それを見た永興は大変悲しんだ。
それから三年、村人は再び山中で経を読む声を聞く。山へ再び出かけて行った永興は驚いた。若い僧の白骨にはまだ舌が付いており、腐っていなかったのだ。永興は法華経の御力に違いないと、その体を丁寧に葬った。
普段の法話は、“大晦日の話”や“命は何処へ行くのか”といった親しみやすい話が殆どだったので、この話は何だか白蓮らしくなく、異質で不気味なものだった。帰り道、人々は何故こんな話をしたのか首を捻っていた。『仏教によるによる救いは、かくも直接的なものなのか』この話は自分に向けられたものではないかと水蜜は訝しんだ。しかし、その奥に潜む真意までは分からなかった。
幾月経ったある日のこと。この日、水蜜は珍しく全く眠れなかったので、提灯を片手に、寺の周りを散歩していた。夜風があって、肌寒い。辺りの木々がぬらぬらと不規則的に揺れて、今にも襲い掛かって来そうである。眠気が来るまで、ぶらぶらしようとした水蜜であったが、程よい冷気が頭の靄を払うので、余計に目が覚めていった。
井戸の水を汲み上げ、顔を洗っていると水蜜は何かガサガサと漁るような音を耳にした。自然のものでは断じてない。間違いなく人工的なものだった。『こんな時間に誰だろう。まさか賊だろうか』提灯を握る手に力が入る。心臓が早鐘を打ち始める。怪しげな物音は金堂の方からだった。水蜜は足音を殺して怖々近づいていく。人の気配はそれに応じて強まっていった。
向拝柱に背を預け、水蜜は正体を確かめるべく覗き込んだ。ぼんやりと提灯の明かりが見える。橙の光を反射する銀の長い髪がある。人を見下すような厭味な烏帽子がある。そこにいたのは物部布都だった。足元には細く引き裂かれた新聞紙、折れた木の枝が散乱している。布都は提灯を沓石の上に置き火袋を両手で外すと、憑かれたように蝋燭の火を凝視した。
水蜜は慄然とした。布都がこれから行おうとしているその内容も確かにある。しかし、真に恐怖させたのは、揺らめく火炎を観察する布都のその形相だった。経験上、これから罪を犯そうとする者は、例外なく不安と恍惚の二色に歪む筈だった。しかし、奇怪なことに布都が浮かべていたものは、仏像のような完璧なる無表情だったのである。
『里で見かけた顔とまるで違う。己の凶兆を彼女はひた隠しにしていた! 幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言うけれど、これは全くの逆じゃない、異常者め! ……落ち着いて、村紗水蜜。能面みたいな布都の表情は、単に食虫植物の冷笑に他ならないわ。それより、急いで目の前の凶行を阻止しなければ』
自らを鼓舞しながら、水蜜は布都と一歩一歩と距離を詰めていく。背後に立っても、布都は催眠術にでもかかったようにその場からぴくりとも動かない。夜風は止み、鈴虫も息を殺している。襲い掛かろうとしたその刹那、布都は蝋燭から手を離した。
短い悲鳴を上げる水蜜。提灯を投げ捨て、死に物狂いで蝋燭に跳びついた。体が地に叩きつけられる、痛がっている隙はない。無我夢中で手を伸ばす。幸いなことに、紙に触れる前に掴むことができた。
今度は反対に布都が悲鳴を上げた。突然現れた黒い影に腰を抜かした。先刻まで支配していた例の狂気は、もはやどこかに霧散していた。
水蜜は布都に向かって蝋燭を投げつけた。力んでいたせいか、布都には当たらず明後日の方へ飛んでいく。水蜜は鞭のように体をしならせ、布都に跳びつく。提灯の火は消え、二人は暗闇の中にいた。お互いの顔は良く見えない。水蜜は怒りに任せて拳を振るった。布都も負けじと拳を振るう。殴った、蹴った、引っ掻いた。お互い必死だった。殴れば殴るほど、水蜜は頭が澄んでいくのを感じた。それとは対照的に、布都は頭が霞掛っていくようで、何を殴っているのか分からなくなった。
二人は長い間こうしていた。水蜜の大振りの拳が布都のみぞおちに入る。布都は顔を歪ませ、体を二つに折り畳み苦しそうに息を吐く。そのまま顔面を蹴り飛ばしてやろうと、水蜜が間合いを詰めると、布都が終に音を上げた。
「おぬし、止めろ、止めてくれ! 降参! ついでに後生じゃから見逃してくれ!」
「何言ってんの。放火よ、放火。大罪よ。頭おかしいんじゃないの? リンチよリンチ! その後、巫女にしょっぴかれるといいわ。きっと火炙りの刑よ。でも意外ね。あんたのとこの大将が、こんな指示を……」
「待て誤解だ聞け! 単独犯だ! 我一人でやったのだ。そして、我にはやむを得ない理由が!」
「理由?」
「そうだ! 理由だ! 夢のお告げだ! 石上の御祭神が宣ったのだ! 決して我欲の為ではない! 大義の為だ! 御神は現状を嘆いておった。見よ! 醜悪な神仏習合のこの歪な世を! 混ぜ物をした酒と何が違う。団結を急がねば。今こそ廃仏毀釈を推し進めるのだ!」
「何をいまさら。ここは流刑地みたいなところでしょう。皆で仲良くしてればいいじゃない」
「否! この罰当たり! こん畜生、不届き千万! 何が流刑地! 現世を細き河川に例えるならば、ここは大海なのだ!くたばれ! ともあれ、我は気づかされたのじゃ、この郷に毒が垂れ流されていることに……」
「それだけ? じゃあ、夢にかどわかされて、寝ぼけて燃やしに来たってこと? やっぱり頭おかしいんじゃない。今から命蓮寺の皆を起こして、それからあんたの処遇を……」
「止めろ、それだけは止めてくれ! 我を痛めつけたいならすればいい! 煮るなり焼くなり刺すなりすればいい! しかし、太子様に迷惑をかけるわけにはいかんのだ。頼む、この通り!」
布都は土下座をしようと体を起こすが、足がいう事を聞かない。それでも倒れたまま、額を地面に擦りつける。まるで轢かれたヒキガエルのよう。恥も外聞もないが、あまりに一心不乱で、一方的に不憫さを抱かせるには十分な姿だった。水蜜はどうしたものかと逡巡していた。しかし、悩む暇もなく、提灯が一つこちらに近づいているのを発見する。
「ちょっと! 大騒ぎするから誰か起きたじゃない!」
先ほどまでの疲労はどこへやら。雷に打たれたように布都は飛び起きると、殆ど転がりながら、傍の茂みの裏に隠れた。水蜜は提灯を拾い上げる。散らばった新聞紙を拾い集めて、ポケットに入れる。布都の分裂症を疑う。段々と馬鹿馬鹿しくなる。
現れたのは雲居一輪だった。眠たい目を擦り、睡眠を妨げる音の正体を探りにやって来た。提灯をあちらこちらに向けて、とうとう一輪は水蜜の姿を確認する。賊ではないと安心したら、水蜜の土に塗れた姿に呆気にとられた。
「あんた、そんなにボロボロになってどうしたのよ」
影で聞いていた布都は、一輪の言葉で、この時初めて現実的な危機感を覚えた。恐ろしいまでの楽天家である。水蜜の楽観主義は、露悪に対する信仰心の集積だったが、対して布都は、もっと根っからのものだった。布都の腕が震える、体が震える。逃げ出さなかった自分を心底呪った。
水蜜はわざとらしく着物の裾を手で払った。そして、困惑したように笑いながら一輪に言った。
「すみません。野犬と喧嘩しまして……」
水蜜の日課の悪徳作業に、布都が加わったのは、もはや言うまでもないだろう。布都は、どうして水蜜が、自身のアキレス腱を嬉々として見せてくれるのか不思議がった。この材料を利用して停戦協定を結ぶことも可能だったが、横着者の布都は、水蜜の悪事にすんなり加担した。やってみると案外楽しく、罪悪感が尊敬の念に変貌するのも時間の問題だった。
この頃から、水蜜の犯罪の動機が、布都と出会う前と比べて、決定的に変化した。以前までは、偽善と無知の暴露と非日常の冒険、この二つが主な目的であったが、最近は度重なる犯罪行為のせいで不感症気味になってしまい、後者が目当ての大部分を占めるようになったのである。こうなると、複雑な大義名分も必要なくなってしまう。スリルの為に! ひたすらスリルの為に! 義務を無くした孤独の行きつく先は、社会奉仕なのだろうか。悪意の標的はもっぱら社会的不道徳に限られた。
「今日は道端で寝てる酔っぱらいをぼこぼこにしましょう! お腹を空かせた妻や子供を家に放置して碌でもない! 酒の為に家財を全部、紙屑屋に売り飛ばしてるに決まってます。あんな奴らくたばっちまえばいいんです!」
「ふむ、よいな! やっちまおう、やっちまおう」
こんな調子である。二人は長い棒切れを持って、天誅!と叫びながら、鯢呑亭の周りに屯していた者を叩いて回った。用心深い水蜜は、布都の失敗を生かして、組笠で顔を隠すのを忘れなかった。
二人の会合は里の待合茶屋で行われた。木を隠すなら森の中、会話を隠すなら会話の中というのが水蜜の主張だった。昼間から二階の隅を陣取り、声を潜めて毎日物騒な話をした。適度に暗い店内、中を漂う湿った雰囲気、常に一定数いる目付きの悪い客。偶々会話を耳にした人がいても、気味悪がって聞かぬふりをしたので、秘密が漏れることは決してない。この茶屋は内緒話をするには絶好の空間であった。吝嗇家の水蜜は、お茶一杯で二時間以上粘ろうと努力した。一方布都は、無くなればじゃんじゃんお替りを頼み、水車のように腹に詰めていったため、いつも金欠気味になった。
万引き、闇討ち、架空索道の無賃乗車と悪事を繰り返していった。
「なあ、おぬし、放火に興味はないか? 悪いやつの家に火をつけて周るのじゃ。ばあすでーぱーてぃーの蝋燭みたいに。きっと愉快だぞ」
そのうちに布都は異教徒(仏教徒)の家に火を放ちたいと、うわ言のように呟くようになった。水蜜はそれを聞く度に強く窘めたが、彼女自身もっと大きな犯罪に加担したがっていたのも事実だった。
大犯罪の願望は日に日に募っていくばかりであった。
遅めの昼食を摂り、檀家への法要の案内状を、聖に頼まれていた分だけ書いてしまうと、水蜜は遊びに行くとだけ伝えて、今日も人里へ向かった。辺りに顔見知りが居ないか確認して、茶屋の狭い門を潜る。布都は既に、行儀よく席につき、出された抹茶を舐めるように啜っていた。水蜜が片手を挙げると、待ちわびていた布都は、すぐさまこれに応じた。
いつもならば、水蜜が犯罪計画を話し、布都がこれに注釈を付けていくという形で、会議は進められていったが、この日の水蜜の頭の中に計画の明確な像は無く、ただ漫然と、巨大な犯罪の結晶が、破滅の光を放ちながら浮遊しているのみであった。空想に憑かれていては、生産的な会議などできる筈もなく、口数は減っていった。水蜜の暗い想像が伝染したのか、布都も、煌びやかに燃え盛る楼閣を空中に思い描いた。
押し黙っていると、他の客の会話が否応なく耳に入る。子供のこと、誰かの悪口、噂話。気が散って、水蜜の意識がそちらに向くと、今度は、隣の席の会話がはっきり聞こえてきた。
「全くふざけてるよ、あの業突く張りの金貸しのおやじ。ちょっと返し忘れただけで、利子とか言って、借りた額の三倍吹っ掛けてきやがった。これまで催促しなかったのも、こうなることを予期してだよ。意地汚いね」
「馬鹿だなあ。払わなければいいじゃないか。そんなの」
「俺もそう思ったらな、今度は嫌がらせが始まったんだよ。夜中に借金取りがやってきて、扉を蹴るわ、金返せって大声で叫んでくるわ。ここ毎日、うちの店までやって来て、売り物の漬物を、そのまま素手で掴んで食ったりと、やりたい放題だよ」
「酷い話だな、ほとんど泥棒じゃないか。できれば都合してやりたいが、俺も今、厳しくてね。実は、家賃が払えなくて、長屋から追い出されそうなんだよ」
『何て自己中心的で愚かな人間たち!』水蜜は自分の顔が、優越でにやけていることに気が付き、慌てて居住まいを正して、布都の方へ向き直る。同意を得ようと、目配せを送ると、布都の顔が、怒りで青白くなっていることを発見して、ぎょっとした。
「ちょっと、どうしたんですか」
「村紗、我は許せん。か弱き民からなけなしの金を毟り取る、悪の高利貸しが」
「悪だろうと何だろうと、そういう商売でしょう。借りる方が馬鹿なんです。大方、自殺願望でもあるんでしょう」
「否! 断じて否! 民は騙されておる。それに金貸しは商売とは言わん。天誅だ。我と共に天誅を与えようぞ、村紗殿水蜜殿」
初めは乗り気では無かった水蜜だが、実際に計画を立て、これが今までにない大仕事であると予想できると、一転して火が付いた。次第に布都に同調するようになり、罰を下さなければならないと強迫的な感情が芽生えた。水蜜は玩具を手に入れた子供のように、その企みに夢中になった。
一週間、綿密に下調べを繰り返して、ついに決行の日となった。寝ている最中に火を放ち、金貸しの一家丸ごと焼き殺すだとか、家の者を溺死させて、死骸を軒先にぶら提げるだとか、剣呑な意見が飛び交ったが、大激論の末に、結局泥棒で手打ちとなった。何でも、寝室の箪笥にたっぷり貯めこんでいるそうで、二人の目標は専らそれである。
知ってか知らぬかこの日は満月。丑三つ時、月明りによって引き延ばされた中小二本の黒が、件の屋敷の門扉に映される。鼻掛けに被った手拭いのせいで、照らし出された影法師は毒茸を思わせた。
水蜜は風呂敷から鉤縄を取りだして、築地の向こうへ放り投げる。力一杯縄を引き、しっかり掛かっていることを確認すると、ぎこちない動きで壁をよじ登って、乗り越える。縄を揺らして、人影が無いと合図を送り、布都もそれに続く。
当初の予定通り、布都を見張りに立て、忍び込むのは水蜜一人である。屋敷の玄関には、用心深く閂が掛かっているため、窓から侵入する必要があった。幸い、鑿を硝子と窓枠の隙間に差し込んで、奥に力を何回か加えてやると、音を立てずに、簡単に割ることが出来た。水蜜は割れた穴に、破片で傷つけないよう注意深く腕を差し込んで、内側から捻子を回して錠を外した。
慎重に窓を引いて、体を押し込むようにして入ると、そこは和室だった。がめつい金貸しの家にしては、がらんとしており、寒々しい。折角の床の間には何も飾っておらず、部屋には箪笥が一つあるだけである。抽斗を確認してみると、浴衣の帯が二つのみ。庭を見ると、御影造りに雪見灯篭と、華やかだったため、落差がこの殺風景に拍車をかけた。『実はお金が無いのか? それとも金持ち特有の物惜しみだろうか』障子を開けて、闇へと続く廊下に出る。歩くと床が軋んだので、すり足で行かねばならなかった。
高値で入手した、屋敷の間取り図の細部に至るまで、水蜜は完璧に記憶していた。その為、灯りが無くても、まるで自分の家のように、首尾よく寝室の前まで辿りつけた。耳を押し当て、内部の様子を伺うと、返って来るのは静寂のみで、人の気配はまるでしない。息を殺して引き戸の取っ手に指をかけ、するすると引いていった。
寝室も案の定、地味だった。質素と言えば聞こえはいいかもしれないが、それには外観との統一が不可欠である。煎餅布団の上で男がいびきをかいて寝ている。壁には日捲りと姿見が掛けられている。
抜き足、差し足と、全神経をつま先に集中させて前へと進む。睡眠が浅い性分なのか、男は時折寝返りを打ち、その度水蜜は飛び上がりそうになった。それでもやっとの思いで、奥へ辿りつくと、目の前に出現したのは、豪華絢爛な竜の彫り物が施された、見事な衣装箪笥だった。
その箪笥は、匿われた重罪人であり、木製の鍾乳石であり、魔人の如き異彩を空間に放出していた。水蜜は己の心臓の悲鳴を聞いた。緊張からか、砂浜に投げ出された人のように、強い喉の渇きを覚えた。
終着点の予期から来る恐怖に、行動の活力を奪われかけたが、男の低い寝言で、我に返った。今は敵陣の真ん中であり、一刻も早くここから脱出しなければならない。水蜜は下から順に、急き立てられるように箪笥を開けていく。藍色の粗末な着物、日焼けした書類の束、金目のものは見当たらない。水蜜は焦りから段々と、腹を立て始める。
三段目の抽斗を勢いよく開けたところで、ことは起こった。防犯の為だろうか、大小様々な鈴が入れられており、じゃらじゃらとけたたましい音が部屋一面に木霊したのだ。
「誰だ!」
空気を裂くような鋭い一声。気が付いた時には、水蜜は走り出していた。流れるように、腰に結いつけた柄杓を手に持つと、鼻っ柱目掛けて一発喰らわせる。
「痛っ」
怯んだ隙に、今度は、傍の風呂敷から金槌を取りだすと、脳天に振り下ろした。潰れたトマトのような音を立てて、男は前のめりに倒れた。これら一連の動作は十秒にも満たず、全ては機械的に行われた。
水蜜は一種の錯乱状態に陥っていた。次第に冷静さを取り戻すと、後悔にも似た焦りに襲われた。男に駆け寄り、揺すってみるが、反応が無い。軽くパニックになりかけたが、脈を感じられたので、それで漸く落ち着いた。
箪笥の前に戻ると、再び抽斗の中身を漁り始めた。鈴を掻き分けていくと、底の方に新聞紙で包まれた箱がある。持ち上げてみると、重量があり、金属がぶつかる音がする。新聞紙破くと、漆塗りの小箱が中から現れた。神々しい蒔絵の桜に吸い込まれるようにして、水蜜は蓋を外した。
元来た窓枠を抜け、夜の庭へと出ると、布都が転がっていた石を積み上げて遊んでいた。
「見張りはどうしたんですか」
「大丈夫。こんな時間に出歩く奴などいるまいて」
「全く、こっちは酷い目に遭ったんですよ。いくら、分け前がいらないからって、半端な仕事はしないでください」
「それで、目的のものは見つかったのか?」
「ええ、まあ。それよりも早くここから逃げましょう。長居していい事なんて、何一つありませんからね」
水蜜は門扉に向かって歩き出したが、布都はその場に留まって、動こうとしない。訝しげに布都の腕を掴むと、勢いよく振り払われた。
「なあ、村紗、最後にもう一度聞きたいのだが、本当に我と一緒に、火災を起こす気はないのか?」
「何言ってるんですか。その話は終わった筈です。ほら、駄々こねてないで行きますよ」
布都は草鞋の裏で、作った塔を蹴り崩した。何か言いたそうに見えたので、水蜜は続きの言葉を待っていたが、布都は不気味に黙りこくっていた。
この静寂の天鵞絨を裁断したのは、何かが爆ぜるような音だった。それから何かを焦がしたような臭いである。水蜜は仰天した。夜の闇より遥かにどす黒い煙の竜が、屋敷の裏から出現し、月へ昇って行くのを、目撃したからである。
「なら、我の単独犯じゃな」
布都は寂しげに呟いた。
水蜜は布都を置いて、ひたすら逃げた。途中幾度も、布都の姿を恐れては振り返った。途中幾度も、足がもつれて転びそうになった。犬に吠えられ、虫に集られ。夜道の鈴虫の切れ目のない音色が、布都との繋がりを暗示しているようだった。
やっとのことで命蓮寺に着いても、まるで安心できなかった。水蜜は井戸に腰掛け、火の手が上がらないか、一晩中本堂を見張っていた。不安による、時間の緩慢に苦しめられ、不安による、締め付けるような胃痛に苦しまされた。水蜜は燃えるような目で満月を睨んだ。
永遠にも思えた時間は遂に終わりを告げた。朝日が昇り、空が温かみを持ち始める。白い光が辺りを照らし、雀が鳴き始め、自然は活気で満ち溢れる。夜が遠ざかると、水蜜はやっと、水中から顔を出して呼吸ができたような心地になった。『私は悪夢を見ていたに違いない。太陽の力強さと暖かさ! 一体私は何を恐れていたのだろう。闇で静かに燃える布都の炎の、何て弱々しいこと!』
解凍されたばかりの思考を、巡らせば巡らせるほど、水蜜の中で布都の存在が縮んでいった。『そうだ。悪意という一点では、私は布都を凌駕している。火の手が上がった時、私は家の中で男が気絶していることを、黙っていた。つまり、布都は知らず知らずのうちに殺人を犯したということになる。私の悪意が、布都に意図していない悪事を働かせた。いつかの響子の万引き事件と比較しても、私の立ち位置は、あれから全く変わっていない』
これまでの怯えが嘘のように、水蜜は愉快になった。悪事を無事に終えた解放感に酔いしれた。冷えた朝風に背中を押され、鞠のように跳ねながら自室に戻った。
布団の上で、新聞の包みを解いて、盗んだ美しい小物入れをまじまじと見つめる。障子の薄い紙から入る、淡い光に照らされて、散りばめられた金粉が輝きを放っている。水蜜は儀式的な手つきで、蓋を開けると、小判の山が顔を出した。布団の端から並べると、計二十枚。中々に壮観である。水蜜は、寺の者が起床するまで、何度も箱から出し入れを繰り返して、重さや手触りを楽しんだ。
水蜜の生活で培われた、秘密の保持欲と言うべきものを満たすのは、巨大な犯罪願望から小さな漆の箱にとって代わられた。修行を早めに終わらすと、水蜜は自室に籠って、押し入れに隠した箱や小判を満足するまで眺めた。床に入っても、思い浮かべるものは、犯罪計画ではなく、小判の隠し場所と、その金色の幻影だった。
四、五日経った。水蜜が日課の掃除を怠けて、縁側の手すりに座り、両足をぶらつかせていると、白蓮が、偶々通りがかった。水蜜は奇妙に思った。白蓮が法衣を纏っていたのもあるが、それに加えて、彼女を取り巻いている眩いばかりの覇気が、今日は何故か感じられなかったからである。
「聖、お出かけですか? 顔色が優れないようですが」
「顔に出ていましたか? まだまだ修行が足りないようですね。いえ、里であった先日の大火事を覚えていますか?」
火事と聞いて、急に心臓を掴まれたような気分になった。そのおかげで顔に出さない努力を、水蜜もしなければならなくなった。
「はい」
「その不幸に遭われたお家が、うちの檀家でして、今日のお通夜を、私が執り行うことになったのです。ですから、夕飯は私抜きで食べてくださいね」
「分かりました。道中気を付けてください」
水蜜は自分の返事が、上ずったものになっていないか、酷く心配になった。炎に包まれる仏壇や、焼け跡に横たわるご本尊様を思うと、恐ろしくなった。
「それにしても、弱りました。余り大きな声では言えませんが、亡くなった方は、とても熱心な信徒でして、お布施も沢山頂いていましたから……」
全身の力が抜けていくのを感じた。白蓮のこの一言で、水蜜の心の水に、墨汁が垂らされたのである。それはあまりにも強力で、防ぐ暇などなく、一瞬にして魂を染め上げてしまった。『何が犯罪か。何が解放か。私も知らず知らずのうちに、金貸しの悪に加担していたじゃないか。俗世の泥にどっぷりと肩まで浸かっていたじゃないか』水蜜はふらふらと亡霊のような足取りで、自室に戻った。白蓮は何か声を掛けたが、水蜜には、もう届いてはいなかった。
押し入れを開けて、例の小箱を取りだすと、乱暴に畳の上にひっくり返した。散らばった黄金に、救いを求めるように、水蜜はまじまじと観察した。しかし、いつもの陶酔感は、いっこうにやって来ない。水蜜は追い詰められたように、その理由を必死に探した。日の光に当ててみる。顔を近づけてみる。よく見ると、小判は僅かに黒ずんでいた。『駄目だ、駄目だ! 汚れているのは私だ! お前じゃない、お前はやっと見つけた私の希望なんだ! お前は、私の頭上に鎮座して、未来永劫、美しい光を放ち続けなければいけないんだ!』
水蜜は、小判の黒ずみを、幾度となく親指の腹で擦り続けた。しかし、徒に熱を持つばかりで、その青白い指はいつまでも汚れることはなかった。
感情描写のリアリティと文体も相まって、犯罪心理がよりどす黒く輝いているように思えました。
中盤までは先の読めなさにするすると読み進めましたが、終盤の強迫観念を振り払おうとするムラサを見ていると心に訴えてくるものがありますね。
この因果が巡って帰ってくるやるせなさ。そしてそこから生まれる妄執。凄まじい作品でした。
特にあたかもギャグかのように始まった滑り出しから、絶望的なシリアスさに繋がる話の構成は目を見張るものがありました。
また、一文一文も読みやすく、全体として最後までスムーズに読めました。
とはいうものの、話を面白くするために、話の都合で村紗が原作に無い悪性を付与されすぎているのが個人的にはかなり気にかかりました。布都も流石に精神病過ぎるのかな……と感じました。もっとも原作キャラの誰かにこの役を与えないと話の圧力が無くなるので、まあ仕方が無かったのかなと思います。
キャラ解釈が気にかからない人には100点を超える素晴らしい作品だったと思います。
有難う御座いました。
描写があまりにも生々しすぎてなんなのかと思いました
怒涛の勢いで進んでいく物語が素晴らしかったです