暗い部屋で、一人の少女が上体を起こして座っていた。
目が慣れるに従い、布団の上に座っていて、床は畳で、障子の戸が少し開いているのが見えてくる。
無意識のうちに目を掻いていた。瞼の裏が痒い。恐らくそれで目覚めてしまったのだろうなと彼女は思った。
瞼の上からごしごしと掻いていたのだが、痒みは治らない。
彼女はぼんやりとした頭で、人差し指を目に突っ込んで瞼の裏を掻く。幾分かマシになった。
普通でないことをしている自覚はあった。しかしぼりぼりと瞼の裏を掻くのが止められなかった。しばらくそうしていると、人差し指に変な風に力が入ってしまう。
ぼとり、と布団の上に何かが落ちる。それは彼女の眼球だった。
○
窓から差し込んだ陽光を反射して、埃がキラキラと光っていた。
物部布都は蔵の整理をしていた。重い木箱を床にどかっと降ろすと、一層埃が舞い散って咳き込んでしまう。
この蔵にあるものはそのほとんどが、廟にあったものを青娥が芳香を使ってまとめて放り込んでおいたものである
暇を持て余し蔵の整理を始めた布都だったが、その進みはまさに牛の歩みであった。
廟にあったのは当然飛鳥の御世から持ってきたものであるから、布都にとっては思い出深いものが多かった。したがって一つ箱を開くたびに過去を懐かしむ気持ちになり、一向に作業が進まない。部屋の片付けをしていたら、つい久々に見つけた本を読み耽ってしまうのと同じだ。
「いかんいかん」
懐古に耽溺していた布都であったが、これでは作業が進まないと気持ちを仕切り直した。もっとも誰に頼まれてやっている作業でもないので、急ぐ理由は特にないのだが。
布都は作業を再開し、母屋に持ち帰るものを分別していく。
しかし意外と持ち帰る必要があるものはほとんどなかった。屠自古あたりが一度整理したのかもしれないと布都は思った。
「おっ、これは……」
布都の目についたのは、二本しか弦のない琴であった。
立てかけてあるだけなので蔵に入った時から視界には写っていたはずだが、意識の死角にあったのか、突如この琴が現れたかのような気さえした。
琴など廟に持ち込んだだろうかと記憶を辿ろうとすると、また埃を吸ってしまい咳き込んでしまった。咳で少し頭が揺れたせいか、僅かに頭痛を感じた。
「ふむ……」
布都は琴を手に取ってじっくりと眺める。何となく裏っ返して見ると、そこには雲と太陽の意匠が施されていた。
中々これは粋な代物であるな、と布都は嘆息した。
その雲と太陽は裏面に描かれており、しかも着色されているわけでもなく、溝で表現しているだけだから、演奏中に聞き手が気づけるはずもない。ということは使い手の自己満足のための意匠なのだろう。
素戔嗚尊(すさのお)の持っていた天沼琴(あめぬごと)は天照が作ったもの記述している書物もあったはずだ。太陽が描かれているのは、そのエピソードに由来しているのかもしれない。
興が乗ってきた布都は、琴を爪弾いてみた。
すると、何とも調子外れの間の抜けた音がした。
布都は苦笑した。それはそうだろうと。
見覚えがないので屠自古か神子が廟に持ち込んだものだろうが、どちらにせよ1400年近く放置されていた代物である。それほど長い間、調律おろか手入れもされていないのだから、弦も緩みきってマトモな音が鳴るはずもない。
しかしその割には妙に小綺麗だし、そこまで酷い音というわけでもない気がした。1400年も放置されれば、音が鳴る方が奇跡である。
廟には特殊な結界が施されていたから、副葬品にもその影響が及んでいたのだろうと布都は結論づけた。
「屠自古に持ち帰ってやるか」
布都はそうひとりごちた。
屠自古は琴が好きだった。
教えたのは布都だったが、彼女はあっという間に師を追い抜いてしまった。布都にもミスなく正確に演奏できる腕前はあったが、屠自古のように聞く人の感性に訴えかけるような豊かな表現力は持ち合わせていなかった。布都と違って、彼女は琴を演奏することが純粋に好きだった。それが差として現れたのだろう。
「……はて」
布都は調律しようと琴を手に取ったが、その方法が全く思い出せなかった。何となく体が勝手に覚えているものと思っていたが、完全に期待外れだった。
所詮は朝廷でうまく他人に取り入るためのにわか仕込みの技あったし、ずいぶん昔のことなのだから忘れてしまっても仕方ない。
布都はそう結論づけて立ち上がった。
それから先程見つけた紫色の風呂敷に琴を包んで背負った。いくら狭い幻想郷といえども、琴の調律ができる者くらいいるだろう。
蔵の整理はあとでやれば良い。布都は琴の調律ができる者を探すため、蔵を後にした。
●
布都は山の中を歩いていた。
その背丈は今の布都よりも、頭ひとつ分小さい。髪型もポニーテールではなく、長い髪を結わずにそのまま流している。
息を切らしながらも、木の根っこに足を取られないよう、一歩一歩慎重に地面を踏み締めながら進んでいく。汗が額を伝う。
やがて小川にたどり着いた。彼女は一息ついて、それからあたりを見回した。
苔むした大きな岩の上に、足を組んで座っている青年がいた。背筋を正しているから、眠っているわけではなさそうだ。
「兄上!」
声をかけられた青年は薄く目を開き、布都を認めると少し目を丸くした。布都は小川に転がる岩を伝って彼に近づく。
「布都、危ないじゃないか。こんなところまで……屋敷にいるように言っただろう」
「兄上のいないあの屋敷など……兄上だって、あそこにいたくないからこんな場所まで来たのでしょう」
「ははは、確かにそうだ。これは僕が悪かったね」
あぐらをかいた青年の横に、布都はちょこんと座った。
「何をしていたのですか?」
彼は顎に手を当てながら、首を捻った。
「確認……とでも言ったら良いのかな」
それから何か言葉を付け加えようとしたが、上手く言語化できなかったのか、うーんと唸るだけだった。
「そうだね……じゃあ布都も一緒にやってみようか」
彼がそう言うと、布都は素直に兄の姿勢を真似した。
「目を閉じて、ゆっくり息を吸って、吐くんだ。それから周りの音に耳を傾けて」
布都は兄の言う通り、肺に息を入れてから、ゆっくりと吐き出す。それに合わせて自分の腹が膨らんだりへこんだりするのを感じる。
すると先ほどまで全く気にもならなかった、川のせせらぎや木の葉の揺れる音、鳥の鳴き声が意識の内に入ってくる。
「瞼の上からでも、太陽の明るさを感じるだろう」
木々の間を縫って日の光が差しているのを感じる。目を閉じても完全に真っ暗になるわけではない。夜と異なり、日差しが瞼の上からでも届く。
太陽は今、頭の真上くらいだろうか。
「地面に接している部分に意識を向けるんだ。ひんやりとしているだろう。体に血が流れているのは感じられるかい?」
「何となく……」
「昔のことを思い出すのも良い。どうやって今日自分がここに来たのかを考えるのも良いね」
それからしばらく彼は黙っていた。やがて布都が沈黙を破る。
「何となく気持ちが落ち着いたような気はしますが、他には何も……」
「うん。それが目的だよ」
「たったそれだけのために森の中へ?」
「そうさ。たったそれだけのことだ」
それが重要なんだ、と彼は続ける。
「朝廷でのまつりごとや謀りごとばかり考えていると、何だか複雑すぎて気が滅入ってしまうからね。時々こうやって、ただ自分はここに存在しているだけなんだということを確認するのさ」
そう言って布都に微笑んだ彼の顔は、大分やつれていた。
後に布都は考える。兄に政治は向いていなかったと。能力の高さゆえ何とかやっていけたが、心根が争いごとに向いていなかった。他人を蹴落とす能力が重要な世界で、彼はあまりに優しすぎた。
何より不幸だったのは、半端に能力はあったせいで物部の穏健派の中心人物の一人になっていた点だ。どうしようもない盆暗であれば、物部氏の内輪の権力争いで殺されることもなかっただろう。
「血が体を巡っていて、足は地面に接していて、今は森に囲まれている……まず一個の動物としてここに生きているというところに立ち返り、そこから思考をゆっくり広げていくんだ」
布都の兄がやっていたのは、仏教の坐禅に少し似ていた。しかしこの時代にまだ座禅は渡来していない。
彼が自分なりに考えた気分転換の方法が、たまたま座禅に似ていたのだ。
「兄上、我々は動物ではありませぬ。畜生とは違います。人間、それも神の血を引く一族です。尊き御魂を持つのが我々物部です」
布都は呆れたように言う。
彼には昔からこういうところがあった。物事の考え方が少し周囲とずれていた。それでもやっていけたのは、自然と人から好かれる人物だったからだろう。
「そうかもしれないね」
彼は否定も肯定もしなかった。
それが一層、当時の布都には腹立たしかった。自分相手であれば、もっと自信を持って考えを押し付けて欲しかったのかもしれない。
「さっ、小難しい話は良いから、魚でも取りに行こうか」
そう言って立ち上がる彼に、布都は唇を尖らせた。
「兄上、布都はもう子供ではありませぬ」
「いやいや、魚を取るのが楽しいのは、大人も子供も変わらないよ」
「はぁ……」
渋々という様子で立ち上がる布都だったが、小一時間後には結局魚取りに熱中していた。
この数ヶ月後、布都の兄は一族内の権力争いで命を落とした。布都の子供らしさは一層失われることとなった。
○
布都は林道を歩いていた。歩きづらそうな舗装のない道を、ひょいひょいと進んでいく。
誰かに琴の調律をしてもらおうと飛び出してきた布都だったが、明確にアテがあるわけではなかった。幻想郷において、布都は顔が広い方ではない。とりあえず知り合いに当たってみて、琴の調律ができるものに心当たりがないか聞いてみるつもりだった。
やがて林道は途切れ、墓場に出る。そこで布都は一旦立ち止まった。
山に作られた墓場は段々になっており、その下には命蓮寺があった。
寺に出向くことはそれなりにあるので、仙界の出口を寺に設けたら便利だろうかと布都は思案する。しかし一応とはいえ仏教と道教で対立しているのだから、それはやり過ぎだろう。
布都は墓場の中を進み、命蓮寺の方へ降りていく。
すると寺の裏手の井戸で水を汲んでいる一輪と雲山が目に入った。向こうもすぐに布都の存在に気づき、こちらを見上げた。
彼女は少し声を張って、呼びかけてきた。
「あら布都じゃない。表から入って来なさいよ」
「里のものに妖怪寺と懇意にしているところを見られるのは、少々都合が悪いからのう」
妖怪寺と呼ばれたことを気にするそぶりもなく、「今更でしょ」と一輪は笑った。
階段を降りきり、布都は二人の元にたどり着いた。
雲山は一輪から水の入った桶を二つ預かると、そのままお勝手の方へ消えていった。
「で、その背中のやつは何?」
一輪は布都の背負った紫色の風呂敷に目を留めた。
「ああ。古い琴なのだが、これの調律ができる者を探しておっての」
布都がそう言うと、彼女は目を丸くして、そのあとお腹を抱えて笑い出した。
「どうした?」
「いや、随分とタイミングが良いなって。その道のスペシャリストが、ちょうど来てるのよ」
幸運なのは良いが、そんな笑うものだろうか。布都は首を捻った。
一輪は半笑いで「こっちこっち」と布都の手を引いた。二人は慌ただしく靴を脱ぎ捨て、縁側を進んでいく。
客間に通されると、布都は得心した。広い客間には、お茶を出され、もてなされている少女が一人いた。
琴の付喪神、九十九八橋であった。
「あら、聖徳太子のところの従者じゃない」
持っていた湯呑みをちゃぶ台の上に置いて、八橋はそう言った。
親交があるというわけではなかったが、同じ宴会に出席したことはあるし、二三言は交わしたかもしれない。彼女と布都は概ねそのような薄い関係であった。
「ええと、確か妹の方であったな。九十九……」
「八橋。九の後に八が来るから、姉さんと違って覚えやすいでしょう?」
布都は人の顔と名前を覚えるのが得意な方だったし、少し考えれば名前は出てきただろう。しかしそれよりも早く名乗られてしまった。
このままでは無礼だな、と思って布都は丁寧な所作で頭を下げた。この先頼み事をする相手なのだから、礼儀正しく挨拶しておくべきだ。
「物部布都である。寺にはよく来るのか?」
「あんまり。今日は合同ライブの打ち合わせがしたくってね。響子ちゃんを連れて行こうと思ったんだけど、あいにく留守中で、ちょっと待たされてるの」
一輪が座布団を二枚、部屋の端から放り投げる。布都はその内一つを受け取って、ちゃぶ台を挟んで八橋の前に座った。
「それで布都が頼みがあるらしいんだけど……」
自らも座布団に座りながら、一輪はそう言った。
八橋はそれを手をあげて制した。
「言わずともわかるわ! その背負ってる私の同胞について相談があるんでしょ?」
話が早くて助かる、と布都は微笑む。
風呂敷を解いて、ちゃぶ台の上に古琴を置いた。
「二弦琴……作りもシンプルだし、随分な年代ものなのかしら。でもその割にはそこまでボロボロってわけでもないわね」
「我らとともに廟に封印されていたものだ。術の影響があったのかもしれん」
「ほうほう」
「なるほどねぇ、同じ時代の同郷ってわけだ」
横で見ていた一輪がそう口を挟むのを聞いて、なるほどそんな考えもあるかと布都は感心した。そう思うと、この古びた琴により親しみが湧いてきた。
「まあ任せてちょうだい」
八橋は琴を手に取った。慣れた手つきで彼女は琴を扱う。弦は端っこの方に穿たれた楔に巻き取られていて、それを回すことで弦が引っ張られる。
そういえばそんな風に調律していたことを、布都は思い出した。
「貴女、琴の心得があるの?」
手を止めずに目線を琴に落としたまま、八橋はそう問いかけた。
「教養の一つとしてな。ああ、だがこの琴は屠自古にやろうと思っていてな……飛鳥の時分の話だが、あれは琴を楽しそうに引いていたよ」
「へぇ、それならこの子も喜ぶよ」
八橋が音を調整しているのだろう、弦を爪弾くと、布都は頭の深いところで鈍い痛みが響くような気がした。ただそれも初めのうちだけで、二回三回と音が続くうちに、その頭痛は引いていった。
今の頭痛は何だったのだろうかという布都の思案は、八橋の声で中断した。
「終わったよ」
「もう?」
一輪が驚いて少し大きな声を出した。
改めて八橋がその琴を弾いた。蔵での間抜けな音とは全く違う。穏やかだが、それでいて小気味良い響きだった。
「ありがたい。礼をせねばな……」
そう言って懐を探る布都を、八橋が手のひらを向けて制した。
「良いって良いって! あの怨霊の子にプレゼントするんでしょ? そんな話聞いたらお代なんて貰えないよ」
「ふむ、しかし……」
「ただし今度調律や修理が必要になったらまた私のところに来てよ。それが無理でも、合同ライブには来て欲しいかな」
ひひひ、と八橋は歯を見せて笑い、琴を受け渡した。これはかえって商才があるかもしれないな、と布都は苦笑し、礼を言った。
「あ、終わった?」
いつの間にか廊下にセーラー服を身に纏った少女が立っている。村紗水蜜だ。
「どうしたの村紗」
「響子帰ってきたよ」
村紗はどうやら調律が終わるタイミングを見計らっていたようだ。
「じゃあまたね」
八橋は布都と一輪にひらひらと手を振って、客間を出た。
そのまま客間の入り口に残っていた村紗が布都に声をかける。
「そうだ布都。夕飯うちで食べてく?」
「うーむ……敵である仏門のもとでそれもなぁ……」
「しょっちゅうウチに遊びにきておいて何を今更言ってんのよ」
呆れる一輪に、村紗が付け足す。
「響子は外で食べるみたいだし一人分余っちゃうのよ」
「まあ、そういうことなら……」
面倒くさいわねアンタは、と一輪は布都を軽く小突いた。
●
布都の対面には、蘇我馬子が座っている。
二人がいるのは蘇我氏の屋敷の客間だ。ぱっと見では簡素なつくりにも見える屋敷ではあったが、柱から扉に至るまで希少な素材を使用している。
「逃げ込む先として考えられるのは、そのくらいでしょう」
布都がひとしきり説明を終えると、馬子は満足げに頷いた。
これから後の世で丁未の乱と呼ばれることになる、蘇我氏と物部氏の一大抗争が控えている。その戦に備えて、物部守屋に近しい者が敗戦の際に逃げ込みそうな場所を、布都は馬子に伝えた。神子がそうするよう命じたのだ。
物部氏の中心人物らに対しては、馬子は今後逆らう者が出ないよう、見せしめも兼ねて容赦なく吊し上げるつもりだった。しかし一族郎党皆殺しというような真似はせず、従うものは丁重に扱う予定だ。
一族の団結が固いのであれば、生き残りを許さないような処理もやむを得ないが、布都の分断工作もあり、今の物部氏は分裂気味であった。
「布都殿が味方してくださるおかげで、我々としては非常に助かっているよ」
「我には過ぎたお言葉です」
布都は蘇我氏と近しい豊聡耳皇子の部下であるため、物部の中心からは大分遠ざけられている。
しかし穏健派の中心人物であった人物の妹ということもあり、逆に一族の末端からは信頼が残っている。それどころか生き残った穏健派の中には布都を祭り上げたいという風潮すらある。布都にその気はなかったが、物部内部の情報を得るのには都合が良かった。
話が一通り終わると、馬子はがらりと話題を変えた。
「そういえば、布都殿が拾われ子という噂は……本当ですかな?」
急に下卑た話題になったものだから、布都は少し動揺した。それは宮中で囁かれるゴシップの類であった。
侮辱のつもりか、興味本位か。表情からして見下すような様子は見られない。どちらかと言えば値踏みしているような眼差しだ。
恐らくかの豊聡耳皇子の従者がどんなものか知っておきたいだけだろうと判断し、布都は偽る理由もないので正直に話すことにした。
「まあこの髪の色ですから、そういう噂があるのも存じ上げております。ですが幼い頃の記憶というのは曖昧なもので、我にも確証は何もないのですよ」
物部氏は系譜を遡れば邇芸速日(にぎはやひ)にたどり着く。神の血を引く物部に、白髪の忌子など生まれるはずがない。恐らくはそういった理屈で、物部布都は拾われ子であるという噂が出来上がったのだろう。
筋書きで一番多かったのは、政略結婚の手駒は少しでも多いと考え、貧民街で見つけた器量の良い布都を物部の一員とした説だ。だがこれは白髪が先天的なものだとしたら矛盾する。
他にも都合の悪い妾の子が連れ戻されただとか、歳の離れた兄が孤児を慈愛の心を持って迎え入れただとか、様々な噂があった。
布都自身気になるところではあったが、両親はとうに死んでいたので、聞くことはできない。兄に聞くと、彼は「布都は僕の家族だよ」と優しく微笑むだけだった。それが嘘だったのか本当だったのかは、彼が死んだ今確かめようもない。
「本当のところはわからないと?」
「誰だって物心つく前の話はわからないでしょう。馬子殿だって、本当は橋の下なんかで拾われたのかもしれませんぞ」
「はっはっは、それもそうだ」
少し無礼な発言ではあったが、馬子は気を悪くした様子はなかった。
実際、物心つく前に拾われたのだとすれば、その当人に真偽は断言できない。単なる噂話だとは思うが、絶対に無いと言い切ることは難しい。
「ただ……よく夢を見ます」
「夢を?」
「街の貧しい人間たちの中に、自分が混じっている夢です」
貴族である身にも関わらず、布都はしばしばそういう夢を見た。何度か見るものだから、ひょっとすると単なる夢ではなく、何かしらの体験に基づいているのかもしれない。
そう考えると自分が拾われ子だという下らない噂話も、性質の悪い冗談と切って捨てることができなかった。
噂のせいでそのような夢を見たと考える方が妥当ではあるのだろうが。
因果関係はともあれ、そんな夢を見るせいか、布都は貴族という身分にありながら、貧しい民草を自分と関係ない者たちと割り切ることができなかった。それがなかったら、皆が安心して暮らせる世を作りたいという兄の意思を引き継いだり、神子に忠誠を誓ったりすることはなかったかもしれない。
「ふむ……まあ夢ですから輪廻の輪をくぐる前の記憶が残っているのかもしれませんな」
仏教徒らしい解釈だった。
もっとも、馬子も自分たち同様、仏教を真面目に信じているわけではないと布都は考えていた。
「なるほど。そういう考え方も……」
布都は途中で言い淀んだ。気がつけばいつのまにか、思った以上に心の内を晒してしまっていたからだ。
蘇我馬子という男は恐ろしい。
数えきれないほどの政敵をえげつない方法で葬り去ったし、民衆のことはただの消耗品としか考えていないような人物だ。それなのに実際に相対するとただの好人物に見えてしまい、油断すれば簡単に心の内側に入ってくる。
彼が自らの主君の敵ではなく味方であったのは、幸運だったと言えるだろう。一方で、彼が自在に御せないのは神子くらいのものだから、いつ背中を刺されてもおかしくない。
布都は彼には気付かれぬよう、静かに深く呼吸をした。
そうして会話から意識を少し離した途端、遠くからひそひそと噂話する声を布都の耳は捉えた。
『自分の一族を何人も殺しておいて、よくもまあのうのうと生きていられるものよね』
『あんな穢らわしい女を客人として招くだなんて、馬子様の考えがわからないわ』
ピタリ、と布都の動きが止まった。
それは部屋の外、それも中庭を挟んだ向こうにいる婢(みやつこ)の陰口であったが、聴覚の優れた布都の耳には届いていた。
「どうかされましたかな?」
「いえ、少々足が痺れてしまって」
「ああ。年寄りのつまらない長話に付き合わせてしまい、申し訳なかった」
「とんでもない」
布都は両手をあげて大袈裟に否定した。
もっと上手く取り繕うこともできただろうが、多少気を損ねようとも、馬子は己の感情より損得を優先するため、問題ないと布都は判断した。
「太子殿にもよろしくお伝えください」
布都は恭しく頭を下げて部屋を出た。噂話の主たちが隠れるように部屋の中に戻るのが視界の端に映った。
中庭に面した縁側を歩く。見送りがないのは軽んじられているのか、それとも信用されているのか。
布都は先程の陰口を思い起こした。
別にのうのうと生きているわけではない。日常のふとした瞬間に、帝の前で大失態を犯した貴族が、布都に嵌められたと気づき半狂乱の凄まじい形相で殴りかかってきたのを思い出すこともある。自分が陥れたせいで、首を吊って心中した一家に責められる悪夢に魘されることもある。最近は上手く眠れず、目の下の隈が取れない。
それでも一族を裏切り、どんな汚い手でも使うと腹を括ったのは、神子であれば世を変えられると思ったからだ。兄の理想を引き継いでくれると言っても良いかもしれない。
しかし、もし兄が生きていれば物部を裏切るようなことはなかっただろう。だが兄を権力争いの果てに殺した一族に、最早何の思い入れもない。
ただそうは言っても、死んでいった一人一人の個人に対しては罪悪感を感じることはある。
開いた戸を横切ろうとしたとき、部屋の中から明るい声が聞こえた。
「ちょっとそこの人!」
自分を呼び止めた声の主に目をやると、年端もいかぬ少女が、琴を両手で抱えていた。
「どうした」
「これ、弾ける?」
「まあできなくはないが……」
布都は教養と呼べるものはおおよそ全て修めている。琴を弾くなど朝飯前だ。しかしいきなり弾いてみせろと言われて少々面食らってしまった。
纏っている衣服が良い生地なので、婢の娘の可能性は低い。これは無下に扱えないだろうと、布都は腰を下ろした。
「どれ」
右手で一つ音を鳴らしてみる。静かな部屋の中で、音が反響する。隣の少女の顔を見ると、わくわくが堪えきれないといった様子だ。
それから布都は、左手で弦を抑えながら、右手で爪弾く。左手は滑らかに動き、一音ごとに弦の違う場所を抑える。
歌うのはやめておいた。あまり大きな音は出したくなかったからだ。屋敷の者が何事かと駆けつけてきてしまうかもしれない。
一音一音を丁寧に鳴らしていく。ゆっくりと奏でられた旋律が、部屋に染み渡っていく。少女は目を閉じてその音色に耳を傾ける。
ひとしきり弾ききると、自分が演奏に夢中になっていたことに布都は気づいた。
少女は目を輝かせて布都に羨望の眼差しを向ける。
「すごい……何だか切ないけど綺麗な音色……」
良いなぁ、と身悶えする彼女の姿を見て、布都は変な気分になった。社交辞令の挨拶以外で人に褒められたのはいつぶりだろうか。
神子は布都に賛辞の言葉を送ることがあったが、それは褒めているというより評価しているという表現の方が近かった。
「自分では弾かないのか?」
「でも私、弾き方知らないよ」
「誰だって初めはそうさ。誰か家のものに教わると良い」
あまり長居し続けるわけにもいかない。こうやって屋敷に留まっているのを見られたら、何を言われるかわかったものではない。布都はそろそろ帰らなくてはと思い、立ち上がった。
少女は布都が帰ってしまうのだとわかると、少し寂しげな顔をした。
「帰っちゃうの?」
「ああ」
部屋を出ようとして、布都は立ち止まり、少女の方を振り返る。
「そういえば、お主は何故我に声をかけたのだ?」
琴を弾いてくれと頼むなら、怪しい余所者などではなく、家の者に頼む方が自然だ。
いや、婢の顔の区別がついておらず、余所者だと思わなかった可能性もある。これだけ大きな屋敷なら、それも仕方ないだろう。
そんなことを考えながら布都は少女の答えを待っていたが、彼女の目は泳ぎ、回答をためらっている。
「ええと……その、失礼かもしれないけど……」
先程までの遠慮のない様子とは打って変わって、彼女は顔を俯け、躊躇いがちに口を開いた。
「琴を弾いて欲しかったのは本当なんだけど……貴女に話しかけなくちゃって思ったの」
「我に?」
少女は頷いた。
「何て言うか……貴女、何だか寂しそうな目をしてる気がしたから……」
布都は目を丸くした。
寂しいのだろうか、自分は。
豊聡耳皇子の手足となり、救世のために己の手を血で汚すことに後悔はないはずだ。民草が安心して暮らせる世に導いてくれるのは、あの方以外にいない。
でも、兄がいたらこうはなっていなかっただろう。少なくとも人を殺めたり、男どもに身体を貸したりすることは兄が許さなかったはずだ。
寂しいかどうかはわからない。しかし「こうでなかったら」という思いは、常に心のどこかにあった。
こんな年端もいかぬ少女に心配されてしまうとは、滑稽という他なかった。自嘲が込み上げてくる。
だがその一方で、温かい気持ちが満ちてくる。
この少女は人の気持ちを読み取り、そして寄り添うことができる優しい娘だ。宮中での生活が長かったせいで、半ば人間不信に陥っていた布都だったが、久々に人間の善性に触れた気分だった。
「お主、名は?」
「……言いたくない。言ったら友達じゃなくなっちゃうかもしれないもん」
布都は軽く吹き出した。
もう友人だと思っていてくれているとは。何と嬉しいことだろうか。
「物部布都だ。今度会うときは、名前を教えてくれると嬉しい。かわりに琴を教えるから」
自分でも信じられないくらい優しい声で、布都は少女に語りかけた。
「……うん、またね布都!」
今度会うとき、という再会の約束に反応して、彼女は何度も頷いた。名前を教えるのが嫌だったことは忘れてしまったのだろうか。それほど再会の約束が嬉しかったようだ。
布都は彼女のはしゃぎっぷりを背中に感じながら部屋を出た。
廊下を歩きながら布都は考える。
本当はわざわざ名を聞かなくても、彼女が誰なのか検討はついていた。
子供のものにしては豪奢な服だったから、婢の娘ということはありえない。そしてここは蘇我馬子の屋敷。恐らく彼女こそが蘇我屠自古なのだろう。
あれがやがて豊聡耳皇子の后となる少女か。
布都は先程会ったばかりの彼女の顔を思い浮かべてみた。
まだ流石に小さすぎるため実際の婚姻は数年後だろうが、豊聡耳皇子と蘇我氏の関係性の強化のために、屠自古は妻に迎えられる。
朝廷には女性を人とも思わない者もいるので、彼女の相手が自らの主君であることは、喜ばしいことだった。
「失礼する」
門にいた者に一声かけて、布都は蘇我氏の屋敷を後にした。
道を歩きながら彼女は考える。
夫である神子も、父親である馬子も朝廷の中心人物であり、改革を推進する立場にある。
屠自古はこの先、宮中で人間の醜い部分を沢山目にするだろう。危害を加えられることも十分あり得る。
そんな環境に晒されてしまっては、あの子の他者に共感し、思いやれる優しさはあっという間に擦り切れてしまうかもしれない。
あの子には、できればあのまま育って欲しい。少なくとも自分のようになって欲しくない。
奇しくも屠自古は主君の妻となり、布都との縁が生まれた。大したことはできないだろうが、できる限りあの子を守ってやりたい。柄にもなく布都はそう思った。
○
日が暮れ始め、夕焼けの眩しさに布都は目を細めた。妖怪の山が橙色の光に縁取られている。
布都と一輪は寺の庭を歩いていた。敷き詰められた砂利の上を歩くと、ざりざりと音がした。
「村紗のカレーは少し美味すぎるのう。つい食べ過ぎてしまう」
布都はそう言って自分のお腹を撫でる。いつもより膨らんでいるように見えなくもない。
「本人の前で言ってやりなよ、喜ぶから。色々試してるみたいよ」
二人が他愛のない会話をしながら歩いていると、木魚を叩く音と、それに混じってお経を読み上げる声が聞こえた。
「住職殿は熱心だな。食後からまだ幾ばくも経っていないだろう」
開け放たれた広い部屋の中で、聖白蓮がお経を唱えながら、木魚を叩いている。
二人は何となく立ち止まってそれを見ていた。ぼうっとしていると、布都が少しふらついた。
「大丈夫?」
咄嗟に一輪は彼女の体を支えようとしたが、倒れかけるほどバランスを崩したわけではなかった。
「いや、木魚のように単調な音が少し苦手でな……意識が遠のくというか」
「あー正直聞いてて眠くなるよね」
「仮にも尼僧がそれで良いのか」
布都が呆れたように笑う。二人の声を聞きつけてか、聖は読経をやめて縁側に出てきた。
「布都さん、もう帰ってしまうの。あら、その背中のものは?」
聖も布都と共に夕食を囲んでいた。しかし琴は食事の場に持ち込まず別室に置いていたので、それを彼女が目にするのは初めてだった。
布都は聖の方に背中を向けて、風呂敷に包んで背負った琴を見せた。
「古い琴が見つかっての。先程ここを訪れていた付喪神に様子を見てもらったのだ」
「そうですか……あ、そうだ」
ちょっと待っていて欲しい、という手振りをし、聖は部屋の奥へと消えていった。布都と一輪は何だろうと、二人で顔を見合わせた。
しばらくして聖はとたとたと縁側に戻り、膝をついて布都にあるものを差し出した。
「これを貴女の主人に渡して欲しいのだけれど」
ひしゃげたお手玉のような小さな座布団の上に、鈍い金色をした器が置かれている。聖はその上に箸を置くように棒を置いていた。
彼女が持ってきたのは、よく仏壇に備え付けてある、チーンと音を鳴らす仏具だ。正式には鈴(りん)と呼ばれるものだ。
「これを太子様に?」
「ええ。以前これが欲しいと頼まれまして」
布都は首を傾げた。
これほど寺に馴染んでしまった布都が言えた義理ではないが、仏教は商売敵のはずだ。仏具を欲しがるとはどういう事情だろうか。まさか改宗するつもりはないと思うが。
ここで考えても仕方ない、と結論づけて布都は鈴を受け取った。
「ふむ……まあ、我に任せよ。ちゃんと太子様に届けよう」
「助かります」
聖は目を細めて礼を言った。
手際良く小さな風呂敷に鈴を包み、そして布都に手渡した。
それから寺の裏手まで見送りに来てくれた一輪と聖に小さく頭を下げ、布都は帰途についた。
そうこうしているうちに日が沈んでしまった。とはいえまだ山の稜線はわずかに赤みがあり、裏側に太陽がいるのがわかる。空もまだ夜の黒に染まっておらず、せいぜい紺色といったところだ。足元も見える。
布都は来た道を戻り、またしても墓の中を突っ切っていく。
この時間帯の墓場は不気味だな、なとと考えて歩いていると、妙な音が聞こえた。
「……何だ?」
思わず布都は訝しむ声を出した。何の音だろうか。
厭な音だった。
それほど大きくはないが、人を殴る音に似た鈍い響きだ。
誰かが襲われているのかもしれない。正体を突き止めるべく、布都は音の鳴る方へ向かって、薄暗い墓場を慎重に進んでいく。
立ち並ぶ墓石の列をいくつか通り過ぎると、音の主が見えた。
「芳香……っ!?」
そこにいたのは青娥のキョンシー、宮古芳香であった。
彼女は自分の腕を振り回して、墓石の角に打ちつけていた。布都の声は全く耳に入っていないようで、一心不乱に何度も繰り返し腕を打ち付けている。
墓を壊そうとしているというよりも、自分の腕を壊そうとしているようだった。
墓石は血で赤黒く濡れていた。右腕の方は既にひしゃげていて、骨が飛び出しているように見える。キョンシーだから痛覚はないのかもしれないが、それを差し引いても目を背けたくなるような凄惨な光景だった。唇から呻くような声が漏れており、時折何か言葉を発しているようだが、その内容は聞き取れない。
その異常な光景に呆気に取られた布都だったが、こめかみから冷や汗が滴る感触ではっと我に帰った。
「これ、よさんか芳香!」
布都が芳香を後ろから羽交い締めにする。
しかしキョンシーの力は凄まじく、布都に押さえつけられながらも、彼女は腕を墓石に打ち付けようとする。布都の狩衣のような白装束が、芳香の血で赤黒く汚れる。
何とか芳香に自傷行為をやめさせるよう格闘していると、彼女の呻き声に紛れて発している言葉が聞き取れた。
「これじゃない」と芳香は繰り返しているようだった。
布都にはその意図するところがすぐにはわからなかったが、何か不気味なものを感じた。背中を嫌な汗が伝う。
「まあ、芳香ったらこんなところにいたのね」
異常で不気味な状態にそぐわない、素っ頓狂な明るい声が布都の背後から聞こえた。布都が肩越しに振り返ると、そこには芳香の主人、青娥娘々がふわふわと浮いていた。
「青娥殿っ」
「困ったものねぇ。布都様、そのまま」
布都が押さえつけている間に、青娥は慣れた手つきで芳香の額のお札を貼り直した。
すると電源が落ちたかのように、芳香は急に大人しくなった。
疲れと安心で、布都はその場にへたり込んだ。息を切らしながら、青娥に問いかける。
「青娥殿、これは……」
「うーん、最近腕を新しいのに取り替えてあげたのですけれど、どーにも気に入らなかったみたいなんですよねぇ」
折角綺麗な腕を調達したのに、と青娥は肩をすくめた。
布都は立ち上がり、呆けたように立ち尽くす芳香を見た。両腕はぐちゃぐちゃになっていて、血が滴り落ちている。
自身も何人もの人間を殺してきたし、血を見ることも多かった。だからと言って布都は冷血ではなく、彼女を見て何も思わないというわけではなかった。
「……元々の芳香だった部分は残っているのか?」
布都は青娥には目を合わせず、芳香を静かに眺めながら呟いた。
目の前の非道に怒っているわけではない。自分だって人道はとうの昔に踏み外している。他人を非難する権利はない。
ただ、これでは芳香があまりにも哀れだった。
「うーん、気にしたときありませんでしたが……まあ大体置き換わってるんじゃないかしら」
「それは……もう芳香と呼べないのではないか」
「芳香は芳香ですわ」
凛とした口調で青娥が迷いなく言い切ったので、はっとして布都は彼女の方を見た。
「幻想郷の外では、人の臓器を移植する技術が確立しています。身体を少しずつ他人のものや機械に入れ替えていったとき、どこでその人ではなくなるのでしょう」
「強いて挙げるなら……まあ脳が入れ替わったらもう別人だろう」
青娥が急に例え話を始めて少し驚いたが、布都はその意図を汲んでそう返した。
「では記憶喪失で人格も変わってしまった人は? 私の手にかかれば、記憶や人格をある程度操作することもできます。脳だけに個人の定義を求めるのは、いささか危うい考えですわ」
気がつけば完全に青娥のペースだった。いつの間にか、生徒と教師のような会話が続く。
「では、青娥殿は何をもって個人が定義されると?」
なんとなく、嫌な予感がした。気のせいかもしれないが、僅かに頭痛がする。
青娥はゆっくりと口を開いた。
「わかりませんわ」
「は……?」
布都は呆気に取られた。今まで好き勝手自に講釈を垂れておいて、肝心の答えが「わからない」ではあんまりだ。
「そこに万人が納得できる答えが出せるなら、私は仙道ではなく哲学者にでもなるべきでしょう」
「確かにそれはそうだが……」
布都は少し緊張すらしていたというのに、急に梯子を外された気分だった。
青娥は目を細め、優しく芳香のひしゃげた腕にぶら下がった手を握る。
「まあ、あえて有力な考えを上げるなら、続いているかどうか、でしょうか」
「続いているか?」
「ええ。たとえ身体の部位が全て別人のものに置き換わったとしても、その個人が存在し続けたという事実さえあれば、その人はその人と言い切れるでしょう」
それを聞いて、布都は何かを思い出しそうになったが、鈍い頭痛のせいでうまく頭が回らない。
青娥は「生き物を一つの個体ではなく細胞という極小生物から成り立つ群体と捉えるだとか、他にも沢山面白い考えがありますけどね」とつけたしたが、そちらはほとんど布都の頭には入ってこなかった。
「だからお主はこれを芳香だと断言できると?」
「んー……というより、私が芳香だと思うから、これは芳香なんです」
血で服が汚れることも厭わず、青娥は芳香を抱き寄せ、そして微笑んだ。それを見て、布都は何も言う気がなくなった。
彼女に何か、一般的な道徳を説いたりすることは野暮だろう。何を言われても自分の考えを曲げない、そう言った強靭な芯を彼女は持っている。
「それではお暇しますね」
青娥は頭に差していた鑿を取り出し、地面に円を描く。するとそこには穴が現れ、彼女はそこに飛び込んだ。自分の作り上げた仙界に戻ったのだろう。
「……」
誰もいなくなった墓場で、布都は頭を押さえた。頭痛はその痛みを少しずつ増している。
青娥と話している間に、完全に太陽は沈んだ。真っ暗な墓場に布都は立ち尽くしていた。今宵は新月らしく、夜空に月の姿はない。
布都は懐から呪符を取り出して、それを術で燃やした。宙に浮いた小さな火球が足元を照らす。
そのか細い灯りを頼りに、布都は再び歩き始めた。
●
頭上で蝉が鳴いている。
神子は縁側に座り、布都は庭に立ってその側に控えている。そんな布都に対して、屠自古が詰め寄る。蝉の鳴き声にも負けない大きな声で彼女は怒鳴った。
「おいっ、布都!私の鞠返せよ!」
「屠自古、蹴鞠は男のやるものであってだなぁ……」
鞠が自分のところに飛んできたものだから、布都は咄嗟に自分の背中に鞠を隠した。
元気があるのは良いことだ。しかし年頃の娘が汗だくになって男の遊びである蹴鞠をするなどみっともない。布都はそう考えて、彼女の御転婆っぷりを諌めた。
「まあまあ、私たち以外誰も見ていないのだから良いじゃないか」
神子は笑いながらそう言った。
「そんな……太子様まで……」
「ほーら、太子様もこう言ってるんだから返せよ!」
「あ〜もう……」
頼みの綱の神子に裏切られて、布都は苛立ち混じりに鞠を高く蹴り飛ばした。
「あっ、この……!」
屠自古は罵りの言葉を口にしかけたが、咄嗟に鞠の落下点まで駆け寄り、そのまま蹴鞠を始めた。
どんなもんだい、と布都に向かって不敵に微笑む。
「器用なもんだね」
神子は口元を抑えて笑った。
布都は「太子様からも強く言ってください」とバツが悪そうに唇を尖らせた。
「にしても、屠自古はどうしてああいう風になれたんだろうね」
「すいません、我の教育係として不徳ところ……」
布都が頭を深々と下げたものだから、神子は慌てて言葉を付け足した。
「いやいや、褒めているのさ。化け物の腹の中のような宮中で……あの子は純粋に育った。どうしてかなと思って」
「何故でしょうな……」
布都が屠自古の教育係に収まったのは、本人の希望ではなく神子の采配だった。
近しいところに布都はいたが、彼女を宮中の汚れから身を守れたかというと、そうではない。確かに屠自古がそのまま健やかに育って欲しいと願ったが、そのために何かができたわけではない。
隠れて自分の陰口を叩かれているのは知っているだろうし、口にするのも憚られるような暴言をぶつけられることもあった。親しい友人が暗殺の巻き添えで死んだこともあったし、怨霊に取り憑かれたのか、恨みで狂った男が宮中に押し入り暴れるところも目にした。
恐らく自らの夫や教育係が、えげつない行為に手を染めているのも知っているだろう。
それらを受け入れた上で、屠自古はあのように純粋でいる。あいも変わらず、他人に親身になって寄り添い、一緒になって泣くことができる。ここまでくると、それはある種の才能と言えるかもしれなかった。
「布都のおかげかな」
「我は何も……」
恥いるように布都は目線を落とす。教育係とはいえ豊聡耳皇子の手足である布都は多忙であり、それほど彼女のために時間を割けたわけではない。たとえ時間があったとしても、あの子のためにどれだけのことができただろう。
二人の間に沈黙が降りる。代わりに蝉の鳴き声と屠自古が蹴鞠に興ずる音だけが聞こえる。
何の前触れもなく、神子は静かに口を開いた。
「まだ先になるとは思うけど……青娥の話では用意できる席はやはり三つが限度だそうだ」
「そうですか」
三つの席と表現したのは、尸解仙になれるのが三人という意味だ。
仙人に至る術としては下等に位置する尸解仙化であったが、決して容易な術ではない。むしろ三人も尸解仙にできるほど、青娥の技量は優れていると評しても良いだろう。
「その内の一席は布都にと思っている」
「光栄です」
布都のやや硬い声を聞いて、神子は困ったように笑った。
「青娥が信用できないのはわかるけどね」
「いえ……彼女の人格はともかく、技術は信用しています。ですから、我を毒見役としてお使いください」
布都は尸解仙となることはそもそも反対であった。大陸より現れたかの邪仙を信用できないからだ。仮に彼女が尸解仙に至る技術を持っていても、それをマトモに行使するかは別の話だ。
しかし時間は限られている。神子は不老不死を目指し道教を研究していたが、度重なる薬品や丹の使用によって、かえってその寿命を縮めていた。程度の差はあれ、元々独自に道教の研究をしていた布都もそれは変わらない。
青娥の力を借りることに反対であっても、主人がそうすると決めたのであれば、自分の身体を毒見役とするのが布都としては当然の帰着であった。
「頼りにしてるよ」
「そんな……滅相もない」
布都は頭を下げた。そんな布都に、神子はこう言った。
「残った最後の一席は正直誰でも良いんだが……君が望むなら、屠自古にあてがおう」
ばっと顔を上げてみると、神子の目線は布都に向けられておらず、空を仰いでいた。
「橘大郎女(たちばなのおおいつらめ)や膳大娘(かしわでのおおいつらめ)は……」
挙げられた名前は、神子の他の妃たちの名前だ。
「私は彼女達を平等に思っているよ」
それ以上、神子は何も言わなかった。余計なことは言わずに、布都に選択を委ねようということなのだろう。
布都は悩んだ。本人に選択を委ねるというのもある。しかし屠自古は神子に心底惚れているから、迷いなく添い遂げる方を選ぶだろう。
だから実質的に布都の選択が彼女の運命を決定づける。
思い悩んでいるうちに、はたと気づく。
神子は人の欲の声を聞き取れる力を持っている。自身は人のして欲しいことを汲み取る力が人一倍あるだけだと言っていたが、実際は人智を超えた力と言っても過言ではない良い的中率だった。
そんな能力の持ち主が自分に希望を聞いてきたということは、布都が心の奥底で屠自古にも一緒に尸解仙になって欲しいという欲が聞こえてきたのだろう。
確かにそうかもしれない。屠自古と同じ時間を生きることを望んでいないとは言えない。
しかし一族を裏切り、他者を陥れ続けた自分が、そんな我儘を許されるのだろうか。邪仙の企みが潜んでいるかもしれない危うい術に屠自古を巻き込んでも良いのか。
助けを求めるように神子を見たが、目線は合わなかった。神子は腰に差した宝剣を手慰みに弄りながら、黙って待っていた。返事は後で、とは言わない。
神子は無駄を嫌う。数日間思い悩んで決断するのと、ここで今すぐにここで決断するのも変わらないと考えているのだろう。
確かにそうかもしれないが、少し冷静になる時間が欲しかった。布都は主人に背を向けて、深呼吸した。
「……」
目を閉じてゆっくりと息を吐く。足が地面についていることを確かめる。指先まで血が流れているのをイメージする。蝉の声が聞こえる。動揺でこんな喧しい音すら聞こえなくなっていたのかと、布都は笑いそうになった。
兄の教えてくれた方法だった。あの山での兄との会話を思い返す。
思考の糸が絡まってしまったときは、まず物部布都という人間はここにいるという、最も基本的なところに立ち戻る。初めて自分のせいで人が死んだ夜も、この方法が役立った。
布都はゆっくりと目を開いた。
「……最後の一席は、屠自古にください」
「わかった」
「ただ条件が……」
布都は振り返った。神子は空を見ていた。
「屠自古の意思を聞いて欲しいというのと……それを聞くのは、あの子がもう少し大きくなってからにして欲しいのです」
「わかった。私たちの体もそれくらいは保つだろうしな」
神子は頷いた。
今の屠自古は神子に恋する乙女だ。そのような状況で尸解仙になる決断を迫ったところで、正常な判断とは言い難い。だからせめて、もう少し大人になってから意思を確かめたかった。
特に異論を挟まれなかったことで、布都は胸を撫で下ろした。
この日が実質的に、蘇我屠自古が尸解仙になることが決まった日だった。
○
布都は仙界に戻った後、聖より託された鈴を神子に渡した。
用途を聞いても、神子ははぐらかすばかりだった。経験上、こういうときの神子に何を聞いても無駄と知っている布都は、それ以上は踏み込まなかった。
それから琴を渡すため、屠自古の部屋に向かった。
「屠自古、入るぞ」
「駄目だ」
戸に触れた布都の手がぴたりと止まる。
冷たく言い捨てられたわけではないが、真剣な口調だった。何か逼迫しているような声だった。震えた声で彼女は続ける。
「今、溢れそうなんだよ」
障子越しに、僅かに青白い光が走るのが見えた。
屠自古の稲妻だろう。
彼女は怨霊という、肉体という器を失った身だ。身体を通して実体が存在するのではなく、精神がそのまま実体として存在している。感情が肉体という鎧なしに、そのまま吹きさらしになっているのだ。
普段はお札での調整もあり落ち着いてはいるが、怨霊である彼女は感情が暴走しやすい。時折このように心と体が荒れることがあった。
「ならここで良い」
布都は障子を背に腰を下ろした。
すぐに立ち去るべきだったかもしれないが、気持ちが不安定なときこそ誰かが側にいてやるべきだ。布都はそう考えた。
「……ほっといてくれよ」
屠自古はぶっきらぼうに言い放った。
だが布都は座り込んだまま、全く動かなかった。
「悪感情は一人で抱え込んでいても膿むだけだ」
「何で私に優しくする」
「それはお主が我の……」
何なのだろうか。
布都は言葉に詰まった。
今はもはや教育係ではない。単に同じ人物に惚れ込んでいるだけと言い切るには、あまりに関わりが深すぎる。かといって家族ではないし、血の繋がりもない。友人かと言われればそれも違う気がする。
「お前はそうだよな……」
屠自古の声が深く沈んでいく。
何か二人の関係性に明確な答えがあれば、彼女の心は救われたのだろうか。
「なあ、何で壺を入れ替えたんだ」
「それは……」
尸解仙になる前後の記憶はひどく曖昧で、布都はそのときのことを覚えていなかった。神子も同様だというから、どうにも尸解仙の術はそういう副作用があるものらしかった。
屠自古が怨霊になった経緯は、全て青娥による説明だった。
布都は蘇我氏への恨みが捨てきれず、屠自古の身体となるはずだった壺を焼いていない脆い壺に入れ替え、尸解仙としての復活を阻んだ。
そのように稗田乙女の著作にも記されているが、それも青娥が勝手に答えたものだった。当然だ。自分からそんな深い事情まで、赤裸々に語るわけがない。
だが、全くの嘘であるとは言い切れない。
現にこうして屠自古は怨霊になってしまったのだから、廟の中にいた神子か布都が何かした公算が高い。青娥を疑っていた布都は、術が確かなものなどうか入念な確認をしていた。
だから中にいたどちらかが何かした可能性の方が高いのだ。
まさか神子が自分の妻に危害を加えるとは思えず、青娥は布都が原因だという。であれば、布都としても消去法で自分のせいと考えるしかなかった。
「何で私に優しくするんだ……私はお前がわからないよ」
か細い声だった。
布都はいっそ戸を開いて、屠自古の稲妻でその身を焼かれたかった。しかしそれはただの自己満足で、優しい屠自古が傷つくだけの行為だ。贖罪にすらならない。
「帰ってくれ。余計に惨めになる」
障子の向こうの屠自古は、震えているように見えた。しかし布都にはどうしようもない。
「すまない……」
謝ったのは、何に対してだっただろうか。
この場に残り続けたことか、屠自古の復活を妨げたことか、それとももっと別の何かか。
布都は立ち上がり、屠自古の部屋を後にした。
そしてようやく自分が琴を背負いっぱなしなことに気づいた。すっかり頭から抜け落ちていたが、どのみち今のタイミングでは渡せなかっただろう。
屠自古が落ち着いたら渡そう。布都はそう思い琴を自室に持ち帰った。
●
夜桜が散る中、風情もへったくれもなく、少女たちは酔い潰れていた。花見だと昼から飲んでいたから無理もない。ちらほらと帰り始めるものも出ている。巫女や魔女といった中心人物たちは、へべれけになりながらもな酒をあおる。
そんな彼女たちとは少し離れて、神社の屋根の上に布都と青娥が座っている。二人は静かに酒を酌み交わしていた。
「青娥殿の話は興味深いな。幻想郷の外の話を聞ける者は限られる」
「布都様たちが僧侶たちに復活を妨げられ寝ている間、ずっとあっちこっちをフラフラしていましたからね。年季が違いますのよ」
青娥が口元に手を当てて笑う。二人の会話は、決して険悪ではなかった。
尸解仙になる前は、自分の主に害なす可能性があったため、布都は彼女のことを警戒していた。しかし今ではその警戒も大分緩んだ。最終的には神子の復活に手を貸してくれたのもあるが、何より今更彼女が行動に出る可能性は低いと見ていたからだ。何か明確な企みがあって神子に近づいたのであれば、それを飛鳥時代にやらずに現在まで待つ意味がない。
「先程と似た話ですが、こういう問いもありますわ」
こほん、と青娥は居直った。
「一人の男性が稲妻に打たれました。そのまま沼に倒れ込み絶命するのですが、奇跡が起き、その沼から男性と瓜二つ……どころか記憶も人格も全く一緒の人物が現れます。さあ、この沼から出でた男は、稲妻に打たれた男性と同一人物でしょうか」
ふむ、と布都は口元に手を当てる。
「新しく現れた男の足元には、稲妻に打たれた男の死体が転がっているのか?」
「おっしゃる通りですわ」
「では別人だろう」
「それは何故ですか?」
「何故って……」
直感的には間違いなくそう思うのだが、いざ理由を問われると明快に答えられない。
何とか感覚を言語化しようと、布都は頭を捻る。
「そうだな……もし雷に打たれるも、奇跡が起きて体が治癒され心臓が再び動き出した、という仮定なら別人とはならないと思うのだが……」
「良い着眼点です」
青娥はうんうんと頷いた。
「この話は個人をどう定義するか、という問いに対する具体例です。肉体の連続性があれば同一人物と考えて良い、という一つの考えを補強する例ですわ」
「口ぶりからするに、お主はその考えをあまり支持していないようだな」
「そうですね。私としては、定義なんて人が定めるものなのだから、自分で決めればよろしい、そう考えます」
青娥はそう言って、目を細めて微笑む。
しかし布都には、彼女の瞼の向こうに別の意図があるような気がした。
「自分一人で生きていくならそれでも良いだろう。だが、人によって基準が違ってしまうと、社会は上手く回らない」
「それもまたおっしゃる通りです」
今度は寂しそうに笑う青娥の微笑みを見て、ようやく布都は彼女が何を言わんとしているか理解した。
「そうか……これは我が愚昧であったな」
「仕方ありません」
「……どういう意味だ?」
青娥はその質問には答えず、黙って微笑んでいた。それは嘲笑っているようにも見えたし、寂しそうにも、楽しそうにも見えた。
彼女の微笑みを見ているうちに、布都の頭痛が酷くなっていく。頭蓋の中で早鐘がなるような痛みだ。そのせいで思考がうまく回らない。段々と意識が遠のいていく。
掠れる視界の中、やはり青娥は微笑んでいた。
○
屠自古のことが頭から離れず、また頭痛もあって、布都は中々寝付けなかった。仕方なく部屋を出て、ぼんやりと縁側を歩いた。
布都は夜空を仰いだ。その空に月はなかったが、星が煌めいている。
あれは仙界から外の空が見えているのだろうか。それとも天の蓋に描かれているだけの偽りの夜空なのだろうか。この仙界は神子と青娥によって作られたものであり、あまり細かいことは布都も知らなかった。
アテもなく布都が歩いていると、いつの間にか神子が書斎として使っている部屋の前まで来ていた。
障子を通して明かりが見えた。どうやらまだ彼女は起きているようだった。
「布都、入りなさい」
気配だけで誰か分かったのか、神子はそう声をかけた。
「失礼します」
布都はそう言って礼儀正しく部屋に入り、障子を閉めた。
神子は部屋の奥に向かってあぐらをかいて座っている。部屋には蝋燭が一本だけ灯されており、その明かりで神子は巻物を読んでいた。恐らくは道術の資料だろうと布都は考えた。
「眠れないのかい?」
彼女は振り向かず、背中を向けたまま喋る。
屠自古のことで思い悩んでいることを話そうか悩んだが、一旦は飲み込んだ。
「ええ、少々頭痛が……」
ぼうっとしているせいだろうか。前にも似たようなことを言ったような既視感を抱いた。
神子は昼方、布都が命蓮寺より届けた鈴を取り出した。そして小さな棒を使って、器を叩く。空気が震え、静まり返った夜に響いた。
「あの……何故、仏具を?」
まさか仏教に鞍替えするつもりではないだろうかが、主人の意図がわからず、布都は不安げに問いかけた。
「メトロノームという外の世界の道具を失くしてしまってね、これはその代わりなんだ」
「……?」
どこか聞き覚えのある単語だったが、一体何の話なのか布都にはわからない。
神子は一応言葉を返してはいるが生返事というか、布都に向かって話しているというより、独り言のような口調であった。
しかも会話の最中も、一定の間隔で鈴を叩いている。
小骨が喉に引っかかったような、何か違和感がある。後ろを向いている神子の表情が見えないことが、何故か布都には恐ろしく感じた。
「屠自古のことで思い悩んでいたのだろう?」
まるで心を見透かされたようで、布都はたじろいだ。少し動悸が激しくなる。
しかし冷静になってしまえば、布都が屠自古のことで悩んでいること自体は神子も知っていたので、そうおかしい話ではない。
「はい、何故我は屠自古の壺を壊してしまったのかと……」
布都は正直に打ち明けた。
だが、やはり何か自分の言葉に違和感があった。頭痛が更に酷くなり、布都は頭を手で押さえた。その痛みの中で、廟の中の光景の記憶が一瞬脳裏をよぎる。
そうしている間も、神子は一定の間隔でゆっくりと鈴を鳴らす。その音に耳を傾けていると、意識がぼうっとする。頭痛は相変わらずだったが、それが何故か心地良いもののように感じる。
母の腕に抱かれるような安心感の一方で、嫌な引っかかりを感じる。自分の中のどこかで、その音を聞いてはいけないと警鐘が鳴る。
「尸解仙になった前後の記憶は、曖昧に、太子様も……」
その時のことを考えようとすると、頭が痛くなってくる。
一定の間隔で鳴り続けていた鈴の音は、一回一回の音が永遠に響き続けているようで、頭の中でいくつもの音が重なって鳴り響き続ける。
「ああ、そういう話だったね」
布都はとうとう両腕で頭を抱えてうずくまった。冷や汗が床の上にぽたりと落ちる。歯の隙間から苦しげな呼気が漏れる。
「布都、蝋燭の明かりを見るんだ」
命令されたので何とか面を上げて、布都は暗闇の中に浮かぶ蝋燭の明かりを見た。気を抜けば、明かりに吸い込まれてしまいそうだった。
目を離さなければならない。なのに視線がその小さな火に釘付けになる。
「我は屠自古の、廟から先に、目覚めて……」
何かを口にしなければ意識を失ってしまう。そんな気がして、布都は頭に浮かんだことをそのまま口にした。
思考が頭痛に塗りつぶされる中、またしても廟の中の光景が脳裏をよぎった。そこには砕けた壺の破片が散らばっていた。
「そうか、壺を壊したのは……」
神子が振り向いた。
「布都、太陽はもう沈んだよ」
童話の一節のような、妙な言い回しだった。
初めて聞くはずの言葉なのに、何故か聞き覚えがある気がする。
気がつけば布都は身体のバランスを崩し、頭から床に突っ込んでいた。鈍い音がしたが、痛みは無い。それどころか、身体の感覚が一切なくなっていた。重力すら感じ取ることができず、まさしく夢を見ているような気分だった。
神子の方を見るが、何だか遠くに感じる。まるで深い穴の中から、小さくなった空を眺めているようだった。
その表情は、あの時の青娥と同じ微笑みだった。
☆
鈍い音がした。
きっと布都が気絶して倒れたのだろう。
部屋の中が静まり返ったのを確かめて、青娥は襖を開けた。
蝋燭一本しか灯りのない暗い部屋には、くたびれた様子の神子と、床に倒れて動かない布都がいる。
「終わりました?」
「見ての通りだ」
神子がぶっきらぼうに言い放つ。
「相変わらず趣味が悪い。最初からいたのだろう」
「もしもに備えて待機していたんですよ」
「別に室内にいても良かっただろう」
「嫌ですわ。そしたらまた私にやらせたでしょう。たまには豊聡耳様も手を汚してくださいまし」
神子は首の後ろに手を当てて、「別に嫌だからやらせていたわけではないんだがな」とため息をついてぼやいた。
倒れた布都の横に青娥はふわりと座り、そしてからからと笑った。
「あらあら、おめめが外れちゃってますね。まるで芳香みたい」
確かにうつ伏せに倒れた布都の横に、目玉が一つ転がっていた。
青娥は左手で布都の上半身を起こすと、残った右手で目玉を空っぽになった眼窩にはめ込んだ。そして瞼の上から優しく撫でて、耳元でこう囁いた。
「大丈夫。布都様は木偶なんかじゃないですわ、人間ですよ」
うまく馴染んだのか、青娥が手を離しても目玉は落ちて来なかった。ただ布都の顔は虚ろで、人形のようだった。
「木偶ではない、ね」
「心持ち次第です」
皮肉っぽい口調の神子に、青娥はきっぱりと言った。
阿礼乙女の取材に対して虚実織り交ぜて語った青娥だったが、尸解仙が人間の形を取る必要がないというのは本当のことだった。自らを物部布都だと思うからこそ、その物部布都の姿形を取る。
今の布都のように真の無意識に近い状態ともなれば、自らへの認識すら失い、人としての姿形を保つことができない。
「それで、どうします?」
「わかっているだろう。また尸解仙になる前後の記憶が戻りかけていた。前と同じように、消しておいてくれ」
消してくれ、と神子は言ったが、記憶は完全に消すことができない。
なるべく思い出すことがないよう、脳の奥深いところに埋めるだけだ。山に埋めた死体が獣に掘り返されるように、思い出してしまうこともある。
「しつこいようですが、思い出しかけた記憶も一緒に消さなければ、意味がありません。今日一日の記憶は大分歯抜けになりますよ」
「わかってる。しばらくは布都の側にいて、周りと話の齟齬があったら上手くフォローしてくれ」
「まったく……人使いが荒いんですから」
青娥はため息をついた。
記憶の調整は至難の技だ。下手をすれば脳を破壊しかねない。
元々は芳香のために磨いた技術で、道術と催眠術を複合した、ほとんど青娥のオリジナルの技術だった。神子をもってしても、その術を全て習得することは未だ叶わない。
「記憶の戻る間隔も段々と短くなってきましたね。こんな面倒なことをするくらいなら、河勝様のように後任を探しては?」
「そう薄情なことを言うな」
揶揄うような青娥に、神子は首を振った。
「包丁だって研がなければ切れ味は落ちるし、楽器も調律しなければ音が狂ってしまう。布都は替えの効きづらい貴重な人材なんだから、これくらいの手間は惜しくないさ」
薄情なのはどっちかしら、と青娥は思う。
替えが効きづらいという発言は裏を返せば、替えさえ見つけてしまえば簡単に捨ててしまえるいうことでもあった。
自分が芳香に抱くような愛情を、神子は持ち合わせていないのだ。青娥が同じ立場なら、替えなどきかないと言い切るだろう。
ただその非情さは、神子の特別な才能でもあった。
豊聡耳神子は聖君と呼ぶに相応しい人物だ。
有能な独裁者も、民意を反映できている議会も、完璧に全体の利益だけを追求することはできない。そこに人間がいる以上、偏りが生まれる。
理想を突き詰めていくと、機械仕掛けの頭脳による支配しかないという創作は枚挙にいとまがない。
神子はその機械の支配者に近い。
彼女は自分以外の全てを平等に扱う。そこに偏りはない。特定の誰かやコミュニティを贔屓しないからこそ、真に社会全体の利益のみを追求できる。個人を愛することができないからこそ、全体を愛することができるのだ。
非常に興味深い存在だと青娥は思う。
「そもそも尸解仙化に失敗しなければこんなことにはならなかったんだけどね」
嫌味ったらしく神子が言う。
青娥はため息をついた。
「仕方ないでしょう。何しろ術の途中で邪魔が入って、千年も経ってしまったのですから」
布都は復活に失敗した。
新たな肉体を手に入れること自体には成功したが、精神に異常をきたした。
恐らく肉体の連続性を損なったことにより、自我が崩壊してしまったのだ。青娥はそう分析した。尸解仙の術において、よくある失敗例の一つだ。
雷に打たれ肉体を失った後、沼から新しく生まれた肉体を享受するには、強烈な自我が必要だ。誰が何と言おうと、己は己であると思わなければならない。
布都たちの場合は、雷に打たれて死んでから千年経った後、ようやく沼から復活できたのだ。いくら記憶と魂を引き継いでも、雷に打たれる前の自分を自分と捉えるのはあまりに難しい。
青娥の分析は正しかったらしく、復活の前後の記憶を消すことで、布都の精神は均衡を取り戻した。連続性の切れ目を誤魔化したのだ。雷に打たれたことも沼から生まれたことも、記憶でなく伝聞になってしまえば、自分が自分ではなくなったという実感を取り除くことができる。
「むしろ豊聡耳様に何の問題がなかったことの方がおかしいというか……」
「私の方が異常だっていうのか?」
「そう考える方が筋は通ります。というか十中八九そうです」
尸解仙の術は一度死を迎える上、肉体も取り替えるという技術の面でも倫理の面でも非常に難しい代物だ。
元々そういったリスクがある尸解仙の術が、僧侶たちによる邪魔が入ったせいで千年も中断されてしまったのだ。布都の精神が瓦解したのも無理はない。
むしろ千年の空白を経ても何の支障もなかった、神子の精神力というか、自我の方が常軌を逸している。そう考えた方が理屈に合う。
「まあ何でも良いけどね。後は頼んだよ」
そう言って神子は立ち上がった。
「本当に人使いの荒い……」
愚痴を溢す青娥を背に、神子は部屋を出て自分の寝室への向かった。
青娥はため息をついてから、虚な表情で座る布都に向き直る。返事はないとわかった上で、青娥は彼女に話しかけた。
「さっき墓場で、芳香にいたく同情していましたわね。憐んで下さってお優しいとは思いますが、ご自身も似たような境遇なんですよ……?」
意識のない布都の頬を青娥はそっと撫でて、ふふっと微笑んだ。
青娥は彼女のことを嫌っていなかった。むしろ気に入っていると言って良い。
こう言うと布都は嫌がるだろうが、青娥は自分と彼女は少し似ていると思っていた。謀略の中で生き、人間の汚い面を見続けたが、一方で純粋なものを愛し、幼き日に抱いた憧れを捨てきれないという点では確かに共通しているかもしれない。
神子のために彼女の記憶を弄る一方で、いつの日か彼女が真っ当な死を迎えられることを少しだけ望んでいた。青娥が布都の記憶を刺激するようなちょっかいを出すのはそのためだった。
本気で救おうと思っているわけではない。何か起これば良いなと、サイコロを放る気持ちで彼女が記憶を戻すきっかけを与えていただけだ。
「さ、始めましょうか」
感傷に浸るのを切り上げて、青娥は布都の記憶の調整を始めた。
●
布都はゆっくりと起き上がった。
あたりを見回すと、そこは廟の内部であった。琴をはじめとするいくつかの副葬品に囲まれて、装飾が施された寝台が三つある。そのうちの端っこの一つ布都は上体を起こして座っていた。反対側の台には屠自古が壺を抱えて横たわっている。真ん中にの台には宝剣が置かれていた。
皿は何処だろうと一瞬思ったが、手元を見てみれば自分で抱えていた。
尸解仙の術は剣や竹といった物を依代にして、新しい肉体を得て甦るというものである。復活すると、元の体は依代となった物品になる。つまり依代となる物と死体が入れ替わるのだ。
したがって布都の抱えている皿は、元は布都の肉体だったものということになる。
「目覚めはどうだい?」
背後から声がして振り返ると、そこには神子がいた。一足先に復活を遂げたようだった。
「太子さ……、ま……?」
強烈な違和感があった。
確かに自分の声の筈なのに、何処か別の場所から聞こえてくるようだった。
「布都……?」
神子が不思議そうに布都の顔を覗き込む。
布都は咄嗟に口元を抑えようとした。しかし口に当てられた手の感触すらおかしかった。腕がそのまま顔に溶けて沈んでいってしまいそうな不安に囚われる。高熱を出して魘されている時と似た、不快な浮遊感があった。
風景も色彩がわかるのに灰色に感じ、貧血で倒れる寸前の時のようだった。神子の顔も何だか遠くに感じる。
ひとまず寝台から降りようとした。
足を地面につけるのだが、いまいち力をどう入れて良いかわからない。
かろうじて何とか立ち上がることができたが、持っていた皿が手からこぼれ落ち、そのまま床に落ちて砕け散った。
かつて自分の肉体であったものは、粉々になってしまった。これが自分の身体だったというなら、今ここにいるこれは何だろう。布都の脳内で、怖気がする感覚と、今の自分は何なのかという混乱が、嵐の海のように暴れ狂う。
「 あ ?あ ちが」
全身の血液が逆流しているかのような悪寒に包まる。不快感が胃から込み上げできて、カエルの卵が口から溢れ出してくるのではという感覚に支配される。精神を直接、虫が這いまわっているようですらある。
「術が失敗したのか……布都、落ち着け」
気がつけば神子が見下ろしていた。実際は寄り添って背中をさすっているだけなのだが、遠近感と空間認識が狂って巨人に摘まれているような気分だった。
しかし、かろうじて「落ち着け」という声だけは聞き取れた。
とにかく落ち着かなくては。いつものように兄に教わった方法なら何とかなる。布都はそう考え、呼吸に集中しようとした。
しかし縋りついたその方法は、とどめとなってしまった。
息に集中しようとすると、喉や肺が最初から無かったかのように、全く呼吸ができなくなった。地面の感触を確かめようにも、足の感覚がわからない。
幼い日の記憶を思い返そうにも、それは本当に自分なのかという疑念が先行する。
布都がこれまで頼ってきた土台の部分すら消え去った。
「違う これ ? じゃ ない」
自分の腕を見やると、陶器でできた紛い物のように見えた。ヒビが広がっていく。
涙と血が混じった液体が、目から溢れてきているが、布都は気がつかない。
周りの景色がぐるぐると回りだす。舞踏会で踊っているのを早回しにしたようだった。
布都の自我はほとんど崩壊していた。精神の均衡が失われ、頭蓋の中で苦痛と不快感の嵐が渦巻く。
そんな中で走馬灯のように布都の脳裏をよぎったのは、何の変哲もない笑顔だった。琴を教えてやると言った時の、屠自古の笑顔。
『あの子をこんな目に合わせてはいけない』
かろうじて残った僅かな知性は、屠自古のことを考えていた。
布都は神子を突き飛ばして、屠自古の元へ向かう。
「布都……!」
神子は素早く立ち上がり、布都の方に手を伸ばす。しかしもう手遅れだった。
壺を持って寝台に横たわる屠自古の元へ、布都は突き進む。
そして腕を振り回して、壺に打ちつけた。壺はあっけなく屠自古の手を離れ、床の上に落ちて砕ける。
屠自古の器となるはずだった壺は、破片となって床に散らばった。
布都はバランスを崩してそのまま床に倒れ込み、意識を失った。
○
「布都ー、起きてるかー?」
芳香のどこか間の抜けた声と、どたどたと部屋に向かう足音が聞こえてくる。
布都は重い瞼を開く。障子を通して外の日光を感じる。朝に強いはずの布都だったが、今日は何だか酷く眠くて、布団から出ることができない。
「まだ寝てるのかー?」
障子が開かれて、芳香が現れた。眩しい日の光に布都は目を細める。
「何だこれ?」
芳香の視線の先には、部屋の片隅に置かれた古い琴があった。
「どうしたんだ?」
「……わからぬ」
布都はぼんやりとした頭で記憶を探ってみたが、琴について心当たりはなかった。
誰かが持ってきたのだろうか。琴について考えようとすると軽い頭痛がしたので、布都は考えるのをやめた。
「いらないなら片付けちゃうぞ」
「……構わない」
蔵にしまっておくぞー、と芳香は琴を持ち上げて、部屋を出ていった。
両手が塞がっていたせいだろう。芳香は障子を開けっ放しにして行ってしまった。
体が何だか気怠く、頭にも霧がかかっているようだ。ただひたすら、泥のように眠りたかった。とてもではないが起きて何かをする気にはなれない。
太陽から逃れるように、布都は布団を被った。
そして優しい眠りに身を委ねた。
目が慣れるに従い、布団の上に座っていて、床は畳で、障子の戸が少し開いているのが見えてくる。
無意識のうちに目を掻いていた。瞼の裏が痒い。恐らくそれで目覚めてしまったのだろうなと彼女は思った。
瞼の上からごしごしと掻いていたのだが、痒みは治らない。
彼女はぼんやりとした頭で、人差し指を目に突っ込んで瞼の裏を掻く。幾分かマシになった。
普通でないことをしている自覚はあった。しかしぼりぼりと瞼の裏を掻くのが止められなかった。しばらくそうしていると、人差し指に変な風に力が入ってしまう。
ぼとり、と布団の上に何かが落ちる。それは彼女の眼球だった。
○
窓から差し込んだ陽光を反射して、埃がキラキラと光っていた。
物部布都は蔵の整理をしていた。重い木箱を床にどかっと降ろすと、一層埃が舞い散って咳き込んでしまう。
この蔵にあるものはそのほとんどが、廟にあったものを青娥が芳香を使ってまとめて放り込んでおいたものである
暇を持て余し蔵の整理を始めた布都だったが、その進みはまさに牛の歩みであった。
廟にあったのは当然飛鳥の御世から持ってきたものであるから、布都にとっては思い出深いものが多かった。したがって一つ箱を開くたびに過去を懐かしむ気持ちになり、一向に作業が進まない。部屋の片付けをしていたら、つい久々に見つけた本を読み耽ってしまうのと同じだ。
「いかんいかん」
懐古に耽溺していた布都であったが、これでは作業が進まないと気持ちを仕切り直した。もっとも誰に頼まれてやっている作業でもないので、急ぐ理由は特にないのだが。
布都は作業を再開し、母屋に持ち帰るものを分別していく。
しかし意外と持ち帰る必要があるものはほとんどなかった。屠自古あたりが一度整理したのかもしれないと布都は思った。
「おっ、これは……」
布都の目についたのは、二本しか弦のない琴であった。
立てかけてあるだけなので蔵に入った時から視界には写っていたはずだが、意識の死角にあったのか、突如この琴が現れたかのような気さえした。
琴など廟に持ち込んだだろうかと記憶を辿ろうとすると、また埃を吸ってしまい咳き込んでしまった。咳で少し頭が揺れたせいか、僅かに頭痛を感じた。
「ふむ……」
布都は琴を手に取ってじっくりと眺める。何となく裏っ返して見ると、そこには雲と太陽の意匠が施されていた。
中々これは粋な代物であるな、と布都は嘆息した。
その雲と太陽は裏面に描かれており、しかも着色されているわけでもなく、溝で表現しているだけだから、演奏中に聞き手が気づけるはずもない。ということは使い手の自己満足のための意匠なのだろう。
素戔嗚尊(すさのお)の持っていた天沼琴(あめぬごと)は天照が作ったもの記述している書物もあったはずだ。太陽が描かれているのは、そのエピソードに由来しているのかもしれない。
興が乗ってきた布都は、琴を爪弾いてみた。
すると、何とも調子外れの間の抜けた音がした。
布都は苦笑した。それはそうだろうと。
見覚えがないので屠自古か神子が廟に持ち込んだものだろうが、どちらにせよ1400年近く放置されていた代物である。それほど長い間、調律おろか手入れもされていないのだから、弦も緩みきってマトモな音が鳴るはずもない。
しかしその割には妙に小綺麗だし、そこまで酷い音というわけでもない気がした。1400年も放置されれば、音が鳴る方が奇跡である。
廟には特殊な結界が施されていたから、副葬品にもその影響が及んでいたのだろうと布都は結論づけた。
「屠自古に持ち帰ってやるか」
布都はそうひとりごちた。
屠自古は琴が好きだった。
教えたのは布都だったが、彼女はあっという間に師を追い抜いてしまった。布都にもミスなく正確に演奏できる腕前はあったが、屠自古のように聞く人の感性に訴えかけるような豊かな表現力は持ち合わせていなかった。布都と違って、彼女は琴を演奏することが純粋に好きだった。それが差として現れたのだろう。
「……はて」
布都は調律しようと琴を手に取ったが、その方法が全く思い出せなかった。何となく体が勝手に覚えているものと思っていたが、完全に期待外れだった。
所詮は朝廷でうまく他人に取り入るためのにわか仕込みの技あったし、ずいぶん昔のことなのだから忘れてしまっても仕方ない。
布都はそう結論づけて立ち上がった。
それから先程見つけた紫色の風呂敷に琴を包んで背負った。いくら狭い幻想郷といえども、琴の調律ができる者くらいいるだろう。
蔵の整理はあとでやれば良い。布都は琴の調律ができる者を探すため、蔵を後にした。
●
布都は山の中を歩いていた。
その背丈は今の布都よりも、頭ひとつ分小さい。髪型もポニーテールではなく、長い髪を結わずにそのまま流している。
息を切らしながらも、木の根っこに足を取られないよう、一歩一歩慎重に地面を踏み締めながら進んでいく。汗が額を伝う。
やがて小川にたどり着いた。彼女は一息ついて、それからあたりを見回した。
苔むした大きな岩の上に、足を組んで座っている青年がいた。背筋を正しているから、眠っているわけではなさそうだ。
「兄上!」
声をかけられた青年は薄く目を開き、布都を認めると少し目を丸くした。布都は小川に転がる岩を伝って彼に近づく。
「布都、危ないじゃないか。こんなところまで……屋敷にいるように言っただろう」
「兄上のいないあの屋敷など……兄上だって、あそこにいたくないからこんな場所まで来たのでしょう」
「ははは、確かにそうだ。これは僕が悪かったね」
あぐらをかいた青年の横に、布都はちょこんと座った。
「何をしていたのですか?」
彼は顎に手を当てながら、首を捻った。
「確認……とでも言ったら良いのかな」
それから何か言葉を付け加えようとしたが、上手く言語化できなかったのか、うーんと唸るだけだった。
「そうだね……じゃあ布都も一緒にやってみようか」
彼がそう言うと、布都は素直に兄の姿勢を真似した。
「目を閉じて、ゆっくり息を吸って、吐くんだ。それから周りの音に耳を傾けて」
布都は兄の言う通り、肺に息を入れてから、ゆっくりと吐き出す。それに合わせて自分の腹が膨らんだりへこんだりするのを感じる。
すると先ほどまで全く気にもならなかった、川のせせらぎや木の葉の揺れる音、鳥の鳴き声が意識の内に入ってくる。
「瞼の上からでも、太陽の明るさを感じるだろう」
木々の間を縫って日の光が差しているのを感じる。目を閉じても完全に真っ暗になるわけではない。夜と異なり、日差しが瞼の上からでも届く。
太陽は今、頭の真上くらいだろうか。
「地面に接している部分に意識を向けるんだ。ひんやりとしているだろう。体に血が流れているのは感じられるかい?」
「何となく……」
「昔のことを思い出すのも良い。どうやって今日自分がここに来たのかを考えるのも良いね」
それからしばらく彼は黙っていた。やがて布都が沈黙を破る。
「何となく気持ちが落ち着いたような気はしますが、他には何も……」
「うん。それが目的だよ」
「たったそれだけのために森の中へ?」
「そうさ。たったそれだけのことだ」
それが重要なんだ、と彼は続ける。
「朝廷でのまつりごとや謀りごとばかり考えていると、何だか複雑すぎて気が滅入ってしまうからね。時々こうやって、ただ自分はここに存在しているだけなんだということを確認するのさ」
そう言って布都に微笑んだ彼の顔は、大分やつれていた。
後に布都は考える。兄に政治は向いていなかったと。能力の高さゆえ何とかやっていけたが、心根が争いごとに向いていなかった。他人を蹴落とす能力が重要な世界で、彼はあまりに優しすぎた。
何より不幸だったのは、半端に能力はあったせいで物部の穏健派の中心人物の一人になっていた点だ。どうしようもない盆暗であれば、物部氏の内輪の権力争いで殺されることもなかっただろう。
「血が体を巡っていて、足は地面に接していて、今は森に囲まれている……まず一個の動物としてここに生きているというところに立ち返り、そこから思考をゆっくり広げていくんだ」
布都の兄がやっていたのは、仏教の坐禅に少し似ていた。しかしこの時代にまだ座禅は渡来していない。
彼が自分なりに考えた気分転換の方法が、たまたま座禅に似ていたのだ。
「兄上、我々は動物ではありませぬ。畜生とは違います。人間、それも神の血を引く一族です。尊き御魂を持つのが我々物部です」
布都は呆れたように言う。
彼には昔からこういうところがあった。物事の考え方が少し周囲とずれていた。それでもやっていけたのは、自然と人から好かれる人物だったからだろう。
「そうかもしれないね」
彼は否定も肯定もしなかった。
それが一層、当時の布都には腹立たしかった。自分相手であれば、もっと自信を持って考えを押し付けて欲しかったのかもしれない。
「さっ、小難しい話は良いから、魚でも取りに行こうか」
そう言って立ち上がる彼に、布都は唇を尖らせた。
「兄上、布都はもう子供ではありませぬ」
「いやいや、魚を取るのが楽しいのは、大人も子供も変わらないよ」
「はぁ……」
渋々という様子で立ち上がる布都だったが、小一時間後には結局魚取りに熱中していた。
この数ヶ月後、布都の兄は一族内の権力争いで命を落とした。布都の子供らしさは一層失われることとなった。
○
布都は林道を歩いていた。歩きづらそうな舗装のない道を、ひょいひょいと進んでいく。
誰かに琴の調律をしてもらおうと飛び出してきた布都だったが、明確にアテがあるわけではなかった。幻想郷において、布都は顔が広い方ではない。とりあえず知り合いに当たってみて、琴の調律ができるものに心当たりがないか聞いてみるつもりだった。
やがて林道は途切れ、墓場に出る。そこで布都は一旦立ち止まった。
山に作られた墓場は段々になっており、その下には命蓮寺があった。
寺に出向くことはそれなりにあるので、仙界の出口を寺に設けたら便利だろうかと布都は思案する。しかし一応とはいえ仏教と道教で対立しているのだから、それはやり過ぎだろう。
布都は墓場の中を進み、命蓮寺の方へ降りていく。
すると寺の裏手の井戸で水を汲んでいる一輪と雲山が目に入った。向こうもすぐに布都の存在に気づき、こちらを見上げた。
彼女は少し声を張って、呼びかけてきた。
「あら布都じゃない。表から入って来なさいよ」
「里のものに妖怪寺と懇意にしているところを見られるのは、少々都合が悪いからのう」
妖怪寺と呼ばれたことを気にするそぶりもなく、「今更でしょ」と一輪は笑った。
階段を降りきり、布都は二人の元にたどり着いた。
雲山は一輪から水の入った桶を二つ預かると、そのままお勝手の方へ消えていった。
「で、その背中のやつは何?」
一輪は布都の背負った紫色の風呂敷に目を留めた。
「ああ。古い琴なのだが、これの調律ができる者を探しておっての」
布都がそう言うと、彼女は目を丸くして、そのあとお腹を抱えて笑い出した。
「どうした?」
「いや、随分とタイミングが良いなって。その道のスペシャリストが、ちょうど来てるのよ」
幸運なのは良いが、そんな笑うものだろうか。布都は首を捻った。
一輪は半笑いで「こっちこっち」と布都の手を引いた。二人は慌ただしく靴を脱ぎ捨て、縁側を進んでいく。
客間に通されると、布都は得心した。広い客間には、お茶を出され、もてなされている少女が一人いた。
琴の付喪神、九十九八橋であった。
「あら、聖徳太子のところの従者じゃない」
持っていた湯呑みをちゃぶ台の上に置いて、八橋はそう言った。
親交があるというわけではなかったが、同じ宴会に出席したことはあるし、二三言は交わしたかもしれない。彼女と布都は概ねそのような薄い関係であった。
「ええと、確か妹の方であったな。九十九……」
「八橋。九の後に八が来るから、姉さんと違って覚えやすいでしょう?」
布都は人の顔と名前を覚えるのが得意な方だったし、少し考えれば名前は出てきただろう。しかしそれよりも早く名乗られてしまった。
このままでは無礼だな、と思って布都は丁寧な所作で頭を下げた。この先頼み事をする相手なのだから、礼儀正しく挨拶しておくべきだ。
「物部布都である。寺にはよく来るのか?」
「あんまり。今日は合同ライブの打ち合わせがしたくってね。響子ちゃんを連れて行こうと思ったんだけど、あいにく留守中で、ちょっと待たされてるの」
一輪が座布団を二枚、部屋の端から放り投げる。布都はその内一つを受け取って、ちゃぶ台を挟んで八橋の前に座った。
「それで布都が頼みがあるらしいんだけど……」
自らも座布団に座りながら、一輪はそう言った。
八橋はそれを手をあげて制した。
「言わずともわかるわ! その背負ってる私の同胞について相談があるんでしょ?」
話が早くて助かる、と布都は微笑む。
風呂敷を解いて、ちゃぶ台の上に古琴を置いた。
「二弦琴……作りもシンプルだし、随分な年代ものなのかしら。でもその割にはそこまでボロボロってわけでもないわね」
「我らとともに廟に封印されていたものだ。術の影響があったのかもしれん」
「ほうほう」
「なるほどねぇ、同じ時代の同郷ってわけだ」
横で見ていた一輪がそう口を挟むのを聞いて、なるほどそんな考えもあるかと布都は感心した。そう思うと、この古びた琴により親しみが湧いてきた。
「まあ任せてちょうだい」
八橋は琴を手に取った。慣れた手つきで彼女は琴を扱う。弦は端っこの方に穿たれた楔に巻き取られていて、それを回すことで弦が引っ張られる。
そういえばそんな風に調律していたことを、布都は思い出した。
「貴女、琴の心得があるの?」
手を止めずに目線を琴に落としたまま、八橋はそう問いかけた。
「教養の一つとしてな。ああ、だがこの琴は屠自古にやろうと思っていてな……飛鳥の時分の話だが、あれは琴を楽しそうに引いていたよ」
「へぇ、それならこの子も喜ぶよ」
八橋が音を調整しているのだろう、弦を爪弾くと、布都は頭の深いところで鈍い痛みが響くような気がした。ただそれも初めのうちだけで、二回三回と音が続くうちに、その頭痛は引いていった。
今の頭痛は何だったのだろうかという布都の思案は、八橋の声で中断した。
「終わったよ」
「もう?」
一輪が驚いて少し大きな声を出した。
改めて八橋がその琴を弾いた。蔵での間抜けな音とは全く違う。穏やかだが、それでいて小気味良い響きだった。
「ありがたい。礼をせねばな……」
そう言って懐を探る布都を、八橋が手のひらを向けて制した。
「良いって良いって! あの怨霊の子にプレゼントするんでしょ? そんな話聞いたらお代なんて貰えないよ」
「ふむ、しかし……」
「ただし今度調律や修理が必要になったらまた私のところに来てよ。それが無理でも、合同ライブには来て欲しいかな」
ひひひ、と八橋は歯を見せて笑い、琴を受け渡した。これはかえって商才があるかもしれないな、と布都は苦笑し、礼を言った。
「あ、終わった?」
いつの間にか廊下にセーラー服を身に纏った少女が立っている。村紗水蜜だ。
「どうしたの村紗」
「響子帰ってきたよ」
村紗はどうやら調律が終わるタイミングを見計らっていたようだ。
「じゃあまたね」
八橋は布都と一輪にひらひらと手を振って、客間を出た。
そのまま客間の入り口に残っていた村紗が布都に声をかける。
「そうだ布都。夕飯うちで食べてく?」
「うーむ……敵である仏門のもとでそれもなぁ……」
「しょっちゅうウチに遊びにきておいて何を今更言ってんのよ」
呆れる一輪に、村紗が付け足す。
「響子は外で食べるみたいだし一人分余っちゃうのよ」
「まあ、そういうことなら……」
面倒くさいわねアンタは、と一輪は布都を軽く小突いた。
●
布都の対面には、蘇我馬子が座っている。
二人がいるのは蘇我氏の屋敷の客間だ。ぱっと見では簡素なつくりにも見える屋敷ではあったが、柱から扉に至るまで希少な素材を使用している。
「逃げ込む先として考えられるのは、そのくらいでしょう」
布都がひとしきり説明を終えると、馬子は満足げに頷いた。
これから後の世で丁未の乱と呼ばれることになる、蘇我氏と物部氏の一大抗争が控えている。その戦に備えて、物部守屋に近しい者が敗戦の際に逃げ込みそうな場所を、布都は馬子に伝えた。神子がそうするよう命じたのだ。
物部氏の中心人物らに対しては、馬子は今後逆らう者が出ないよう、見せしめも兼ねて容赦なく吊し上げるつもりだった。しかし一族郎党皆殺しというような真似はせず、従うものは丁重に扱う予定だ。
一族の団結が固いのであれば、生き残りを許さないような処理もやむを得ないが、布都の分断工作もあり、今の物部氏は分裂気味であった。
「布都殿が味方してくださるおかげで、我々としては非常に助かっているよ」
「我には過ぎたお言葉です」
布都は蘇我氏と近しい豊聡耳皇子の部下であるため、物部の中心からは大分遠ざけられている。
しかし穏健派の中心人物であった人物の妹ということもあり、逆に一族の末端からは信頼が残っている。それどころか生き残った穏健派の中には布都を祭り上げたいという風潮すらある。布都にその気はなかったが、物部内部の情報を得るのには都合が良かった。
話が一通り終わると、馬子はがらりと話題を変えた。
「そういえば、布都殿が拾われ子という噂は……本当ですかな?」
急に下卑た話題になったものだから、布都は少し動揺した。それは宮中で囁かれるゴシップの類であった。
侮辱のつもりか、興味本位か。表情からして見下すような様子は見られない。どちらかと言えば値踏みしているような眼差しだ。
恐らくかの豊聡耳皇子の従者がどんなものか知っておきたいだけだろうと判断し、布都は偽る理由もないので正直に話すことにした。
「まあこの髪の色ですから、そういう噂があるのも存じ上げております。ですが幼い頃の記憶というのは曖昧なもので、我にも確証は何もないのですよ」
物部氏は系譜を遡れば邇芸速日(にぎはやひ)にたどり着く。神の血を引く物部に、白髪の忌子など生まれるはずがない。恐らくはそういった理屈で、物部布都は拾われ子であるという噂が出来上がったのだろう。
筋書きで一番多かったのは、政略結婚の手駒は少しでも多いと考え、貧民街で見つけた器量の良い布都を物部の一員とした説だ。だがこれは白髪が先天的なものだとしたら矛盾する。
他にも都合の悪い妾の子が連れ戻されただとか、歳の離れた兄が孤児を慈愛の心を持って迎え入れただとか、様々な噂があった。
布都自身気になるところではあったが、両親はとうに死んでいたので、聞くことはできない。兄に聞くと、彼は「布都は僕の家族だよ」と優しく微笑むだけだった。それが嘘だったのか本当だったのかは、彼が死んだ今確かめようもない。
「本当のところはわからないと?」
「誰だって物心つく前の話はわからないでしょう。馬子殿だって、本当は橋の下なんかで拾われたのかもしれませんぞ」
「はっはっは、それもそうだ」
少し無礼な発言ではあったが、馬子は気を悪くした様子はなかった。
実際、物心つく前に拾われたのだとすれば、その当人に真偽は断言できない。単なる噂話だとは思うが、絶対に無いと言い切ることは難しい。
「ただ……よく夢を見ます」
「夢を?」
「街の貧しい人間たちの中に、自分が混じっている夢です」
貴族である身にも関わらず、布都はしばしばそういう夢を見た。何度か見るものだから、ひょっとすると単なる夢ではなく、何かしらの体験に基づいているのかもしれない。
そう考えると自分が拾われ子だという下らない噂話も、性質の悪い冗談と切って捨てることができなかった。
噂のせいでそのような夢を見たと考える方が妥当ではあるのだろうが。
因果関係はともあれ、そんな夢を見るせいか、布都は貴族という身分にありながら、貧しい民草を自分と関係ない者たちと割り切ることができなかった。それがなかったら、皆が安心して暮らせる世を作りたいという兄の意思を引き継いだり、神子に忠誠を誓ったりすることはなかったかもしれない。
「ふむ……まあ夢ですから輪廻の輪をくぐる前の記憶が残っているのかもしれませんな」
仏教徒らしい解釈だった。
もっとも、馬子も自分たち同様、仏教を真面目に信じているわけではないと布都は考えていた。
「なるほど。そういう考え方も……」
布都は途中で言い淀んだ。気がつけばいつのまにか、思った以上に心の内を晒してしまっていたからだ。
蘇我馬子という男は恐ろしい。
数えきれないほどの政敵をえげつない方法で葬り去ったし、民衆のことはただの消耗品としか考えていないような人物だ。それなのに実際に相対するとただの好人物に見えてしまい、油断すれば簡単に心の内側に入ってくる。
彼が自らの主君の敵ではなく味方であったのは、幸運だったと言えるだろう。一方で、彼が自在に御せないのは神子くらいのものだから、いつ背中を刺されてもおかしくない。
布都は彼には気付かれぬよう、静かに深く呼吸をした。
そうして会話から意識を少し離した途端、遠くからひそひそと噂話する声を布都の耳は捉えた。
『自分の一族を何人も殺しておいて、よくもまあのうのうと生きていられるものよね』
『あんな穢らわしい女を客人として招くだなんて、馬子様の考えがわからないわ』
ピタリ、と布都の動きが止まった。
それは部屋の外、それも中庭を挟んだ向こうにいる婢(みやつこ)の陰口であったが、聴覚の優れた布都の耳には届いていた。
「どうかされましたかな?」
「いえ、少々足が痺れてしまって」
「ああ。年寄りのつまらない長話に付き合わせてしまい、申し訳なかった」
「とんでもない」
布都は両手をあげて大袈裟に否定した。
もっと上手く取り繕うこともできただろうが、多少気を損ねようとも、馬子は己の感情より損得を優先するため、問題ないと布都は判断した。
「太子殿にもよろしくお伝えください」
布都は恭しく頭を下げて部屋を出た。噂話の主たちが隠れるように部屋の中に戻るのが視界の端に映った。
中庭に面した縁側を歩く。見送りがないのは軽んじられているのか、それとも信用されているのか。
布都は先程の陰口を思い起こした。
別にのうのうと生きているわけではない。日常のふとした瞬間に、帝の前で大失態を犯した貴族が、布都に嵌められたと気づき半狂乱の凄まじい形相で殴りかかってきたのを思い出すこともある。自分が陥れたせいで、首を吊って心中した一家に責められる悪夢に魘されることもある。最近は上手く眠れず、目の下の隈が取れない。
それでも一族を裏切り、どんな汚い手でも使うと腹を括ったのは、神子であれば世を変えられると思ったからだ。兄の理想を引き継いでくれると言っても良いかもしれない。
しかし、もし兄が生きていれば物部を裏切るようなことはなかっただろう。だが兄を権力争いの果てに殺した一族に、最早何の思い入れもない。
ただそうは言っても、死んでいった一人一人の個人に対しては罪悪感を感じることはある。
開いた戸を横切ろうとしたとき、部屋の中から明るい声が聞こえた。
「ちょっとそこの人!」
自分を呼び止めた声の主に目をやると、年端もいかぬ少女が、琴を両手で抱えていた。
「どうした」
「これ、弾ける?」
「まあできなくはないが……」
布都は教養と呼べるものはおおよそ全て修めている。琴を弾くなど朝飯前だ。しかしいきなり弾いてみせろと言われて少々面食らってしまった。
纏っている衣服が良い生地なので、婢の娘の可能性は低い。これは無下に扱えないだろうと、布都は腰を下ろした。
「どれ」
右手で一つ音を鳴らしてみる。静かな部屋の中で、音が反響する。隣の少女の顔を見ると、わくわくが堪えきれないといった様子だ。
それから布都は、左手で弦を抑えながら、右手で爪弾く。左手は滑らかに動き、一音ごとに弦の違う場所を抑える。
歌うのはやめておいた。あまり大きな音は出したくなかったからだ。屋敷の者が何事かと駆けつけてきてしまうかもしれない。
一音一音を丁寧に鳴らしていく。ゆっくりと奏でられた旋律が、部屋に染み渡っていく。少女は目を閉じてその音色に耳を傾ける。
ひとしきり弾ききると、自分が演奏に夢中になっていたことに布都は気づいた。
少女は目を輝かせて布都に羨望の眼差しを向ける。
「すごい……何だか切ないけど綺麗な音色……」
良いなぁ、と身悶えする彼女の姿を見て、布都は変な気分になった。社交辞令の挨拶以外で人に褒められたのはいつぶりだろうか。
神子は布都に賛辞の言葉を送ることがあったが、それは褒めているというより評価しているという表現の方が近かった。
「自分では弾かないのか?」
「でも私、弾き方知らないよ」
「誰だって初めはそうさ。誰か家のものに教わると良い」
あまり長居し続けるわけにもいかない。こうやって屋敷に留まっているのを見られたら、何を言われるかわかったものではない。布都はそろそろ帰らなくてはと思い、立ち上がった。
少女は布都が帰ってしまうのだとわかると、少し寂しげな顔をした。
「帰っちゃうの?」
「ああ」
部屋を出ようとして、布都は立ち止まり、少女の方を振り返る。
「そういえば、お主は何故我に声をかけたのだ?」
琴を弾いてくれと頼むなら、怪しい余所者などではなく、家の者に頼む方が自然だ。
いや、婢の顔の区別がついておらず、余所者だと思わなかった可能性もある。これだけ大きな屋敷なら、それも仕方ないだろう。
そんなことを考えながら布都は少女の答えを待っていたが、彼女の目は泳ぎ、回答をためらっている。
「ええと……その、失礼かもしれないけど……」
先程までの遠慮のない様子とは打って変わって、彼女は顔を俯け、躊躇いがちに口を開いた。
「琴を弾いて欲しかったのは本当なんだけど……貴女に話しかけなくちゃって思ったの」
「我に?」
少女は頷いた。
「何て言うか……貴女、何だか寂しそうな目をしてる気がしたから……」
布都は目を丸くした。
寂しいのだろうか、自分は。
豊聡耳皇子の手足となり、救世のために己の手を血で汚すことに後悔はないはずだ。民草が安心して暮らせる世に導いてくれるのは、あの方以外にいない。
でも、兄がいたらこうはなっていなかっただろう。少なくとも人を殺めたり、男どもに身体を貸したりすることは兄が許さなかったはずだ。
寂しいかどうかはわからない。しかし「こうでなかったら」という思いは、常に心のどこかにあった。
こんな年端もいかぬ少女に心配されてしまうとは、滑稽という他なかった。自嘲が込み上げてくる。
だがその一方で、温かい気持ちが満ちてくる。
この少女は人の気持ちを読み取り、そして寄り添うことができる優しい娘だ。宮中での生活が長かったせいで、半ば人間不信に陥っていた布都だったが、久々に人間の善性に触れた気分だった。
「お主、名は?」
「……言いたくない。言ったら友達じゃなくなっちゃうかもしれないもん」
布都は軽く吹き出した。
もう友人だと思っていてくれているとは。何と嬉しいことだろうか。
「物部布都だ。今度会うときは、名前を教えてくれると嬉しい。かわりに琴を教えるから」
自分でも信じられないくらい優しい声で、布都は少女に語りかけた。
「……うん、またね布都!」
今度会うとき、という再会の約束に反応して、彼女は何度も頷いた。名前を教えるのが嫌だったことは忘れてしまったのだろうか。それほど再会の約束が嬉しかったようだ。
布都は彼女のはしゃぎっぷりを背中に感じながら部屋を出た。
廊下を歩きながら布都は考える。
本当はわざわざ名を聞かなくても、彼女が誰なのか検討はついていた。
子供のものにしては豪奢な服だったから、婢の娘ということはありえない。そしてここは蘇我馬子の屋敷。恐らく彼女こそが蘇我屠自古なのだろう。
あれがやがて豊聡耳皇子の后となる少女か。
布都は先程会ったばかりの彼女の顔を思い浮かべてみた。
まだ流石に小さすぎるため実際の婚姻は数年後だろうが、豊聡耳皇子と蘇我氏の関係性の強化のために、屠自古は妻に迎えられる。
朝廷には女性を人とも思わない者もいるので、彼女の相手が自らの主君であることは、喜ばしいことだった。
「失礼する」
門にいた者に一声かけて、布都は蘇我氏の屋敷を後にした。
道を歩きながら彼女は考える。
夫である神子も、父親である馬子も朝廷の中心人物であり、改革を推進する立場にある。
屠自古はこの先、宮中で人間の醜い部分を沢山目にするだろう。危害を加えられることも十分あり得る。
そんな環境に晒されてしまっては、あの子の他者に共感し、思いやれる優しさはあっという間に擦り切れてしまうかもしれない。
あの子には、できればあのまま育って欲しい。少なくとも自分のようになって欲しくない。
奇しくも屠自古は主君の妻となり、布都との縁が生まれた。大したことはできないだろうが、できる限りあの子を守ってやりたい。柄にもなく布都はそう思った。
○
日が暮れ始め、夕焼けの眩しさに布都は目を細めた。妖怪の山が橙色の光に縁取られている。
布都と一輪は寺の庭を歩いていた。敷き詰められた砂利の上を歩くと、ざりざりと音がした。
「村紗のカレーは少し美味すぎるのう。つい食べ過ぎてしまう」
布都はそう言って自分のお腹を撫でる。いつもより膨らんでいるように見えなくもない。
「本人の前で言ってやりなよ、喜ぶから。色々試してるみたいよ」
二人が他愛のない会話をしながら歩いていると、木魚を叩く音と、それに混じってお経を読み上げる声が聞こえた。
「住職殿は熱心だな。食後からまだ幾ばくも経っていないだろう」
開け放たれた広い部屋の中で、聖白蓮がお経を唱えながら、木魚を叩いている。
二人は何となく立ち止まってそれを見ていた。ぼうっとしていると、布都が少しふらついた。
「大丈夫?」
咄嗟に一輪は彼女の体を支えようとしたが、倒れかけるほどバランスを崩したわけではなかった。
「いや、木魚のように単調な音が少し苦手でな……意識が遠のくというか」
「あー正直聞いてて眠くなるよね」
「仮にも尼僧がそれで良いのか」
布都が呆れたように笑う。二人の声を聞きつけてか、聖は読経をやめて縁側に出てきた。
「布都さん、もう帰ってしまうの。あら、その背中のものは?」
聖も布都と共に夕食を囲んでいた。しかし琴は食事の場に持ち込まず別室に置いていたので、それを彼女が目にするのは初めてだった。
布都は聖の方に背中を向けて、風呂敷に包んで背負った琴を見せた。
「古い琴が見つかっての。先程ここを訪れていた付喪神に様子を見てもらったのだ」
「そうですか……あ、そうだ」
ちょっと待っていて欲しい、という手振りをし、聖は部屋の奥へと消えていった。布都と一輪は何だろうと、二人で顔を見合わせた。
しばらくして聖はとたとたと縁側に戻り、膝をついて布都にあるものを差し出した。
「これを貴女の主人に渡して欲しいのだけれど」
ひしゃげたお手玉のような小さな座布団の上に、鈍い金色をした器が置かれている。聖はその上に箸を置くように棒を置いていた。
彼女が持ってきたのは、よく仏壇に備え付けてある、チーンと音を鳴らす仏具だ。正式には鈴(りん)と呼ばれるものだ。
「これを太子様に?」
「ええ。以前これが欲しいと頼まれまして」
布都は首を傾げた。
これほど寺に馴染んでしまった布都が言えた義理ではないが、仏教は商売敵のはずだ。仏具を欲しがるとはどういう事情だろうか。まさか改宗するつもりはないと思うが。
ここで考えても仕方ない、と結論づけて布都は鈴を受け取った。
「ふむ……まあ、我に任せよ。ちゃんと太子様に届けよう」
「助かります」
聖は目を細めて礼を言った。
手際良く小さな風呂敷に鈴を包み、そして布都に手渡した。
それから寺の裏手まで見送りに来てくれた一輪と聖に小さく頭を下げ、布都は帰途についた。
そうこうしているうちに日が沈んでしまった。とはいえまだ山の稜線はわずかに赤みがあり、裏側に太陽がいるのがわかる。空もまだ夜の黒に染まっておらず、せいぜい紺色といったところだ。足元も見える。
布都は来た道を戻り、またしても墓の中を突っ切っていく。
この時間帯の墓場は不気味だな、なとと考えて歩いていると、妙な音が聞こえた。
「……何だ?」
思わず布都は訝しむ声を出した。何の音だろうか。
厭な音だった。
それほど大きくはないが、人を殴る音に似た鈍い響きだ。
誰かが襲われているのかもしれない。正体を突き止めるべく、布都は音の鳴る方へ向かって、薄暗い墓場を慎重に進んでいく。
立ち並ぶ墓石の列をいくつか通り過ぎると、音の主が見えた。
「芳香……っ!?」
そこにいたのは青娥のキョンシー、宮古芳香であった。
彼女は自分の腕を振り回して、墓石の角に打ちつけていた。布都の声は全く耳に入っていないようで、一心不乱に何度も繰り返し腕を打ち付けている。
墓を壊そうとしているというよりも、自分の腕を壊そうとしているようだった。
墓石は血で赤黒く濡れていた。右腕の方は既にひしゃげていて、骨が飛び出しているように見える。キョンシーだから痛覚はないのかもしれないが、それを差し引いても目を背けたくなるような凄惨な光景だった。唇から呻くような声が漏れており、時折何か言葉を発しているようだが、その内容は聞き取れない。
その異常な光景に呆気に取られた布都だったが、こめかみから冷や汗が滴る感触ではっと我に帰った。
「これ、よさんか芳香!」
布都が芳香を後ろから羽交い締めにする。
しかしキョンシーの力は凄まじく、布都に押さえつけられながらも、彼女は腕を墓石に打ち付けようとする。布都の狩衣のような白装束が、芳香の血で赤黒く汚れる。
何とか芳香に自傷行為をやめさせるよう格闘していると、彼女の呻き声に紛れて発している言葉が聞き取れた。
「これじゃない」と芳香は繰り返しているようだった。
布都にはその意図するところがすぐにはわからなかったが、何か不気味なものを感じた。背中を嫌な汗が伝う。
「まあ、芳香ったらこんなところにいたのね」
異常で不気味な状態にそぐわない、素っ頓狂な明るい声が布都の背後から聞こえた。布都が肩越しに振り返ると、そこには芳香の主人、青娥娘々がふわふわと浮いていた。
「青娥殿っ」
「困ったものねぇ。布都様、そのまま」
布都が押さえつけている間に、青娥は慣れた手つきで芳香の額のお札を貼り直した。
すると電源が落ちたかのように、芳香は急に大人しくなった。
疲れと安心で、布都はその場にへたり込んだ。息を切らしながら、青娥に問いかける。
「青娥殿、これは……」
「うーん、最近腕を新しいのに取り替えてあげたのですけれど、どーにも気に入らなかったみたいなんですよねぇ」
折角綺麗な腕を調達したのに、と青娥は肩をすくめた。
布都は立ち上がり、呆けたように立ち尽くす芳香を見た。両腕はぐちゃぐちゃになっていて、血が滴り落ちている。
自身も何人もの人間を殺してきたし、血を見ることも多かった。だからと言って布都は冷血ではなく、彼女を見て何も思わないというわけではなかった。
「……元々の芳香だった部分は残っているのか?」
布都は青娥には目を合わせず、芳香を静かに眺めながら呟いた。
目の前の非道に怒っているわけではない。自分だって人道はとうの昔に踏み外している。他人を非難する権利はない。
ただ、これでは芳香があまりにも哀れだった。
「うーん、気にしたときありませんでしたが……まあ大体置き換わってるんじゃないかしら」
「それは……もう芳香と呼べないのではないか」
「芳香は芳香ですわ」
凛とした口調で青娥が迷いなく言い切ったので、はっとして布都は彼女の方を見た。
「幻想郷の外では、人の臓器を移植する技術が確立しています。身体を少しずつ他人のものや機械に入れ替えていったとき、どこでその人ではなくなるのでしょう」
「強いて挙げるなら……まあ脳が入れ替わったらもう別人だろう」
青娥が急に例え話を始めて少し驚いたが、布都はその意図を汲んでそう返した。
「では記憶喪失で人格も変わってしまった人は? 私の手にかかれば、記憶や人格をある程度操作することもできます。脳だけに個人の定義を求めるのは、いささか危うい考えですわ」
気がつけば完全に青娥のペースだった。いつの間にか、生徒と教師のような会話が続く。
「では、青娥殿は何をもって個人が定義されると?」
なんとなく、嫌な予感がした。気のせいかもしれないが、僅かに頭痛がする。
青娥はゆっくりと口を開いた。
「わかりませんわ」
「は……?」
布都は呆気に取られた。今まで好き勝手自に講釈を垂れておいて、肝心の答えが「わからない」ではあんまりだ。
「そこに万人が納得できる答えが出せるなら、私は仙道ではなく哲学者にでもなるべきでしょう」
「確かにそれはそうだが……」
布都は少し緊張すらしていたというのに、急に梯子を外された気分だった。
青娥は目を細め、優しく芳香のひしゃげた腕にぶら下がった手を握る。
「まあ、あえて有力な考えを上げるなら、続いているかどうか、でしょうか」
「続いているか?」
「ええ。たとえ身体の部位が全て別人のものに置き換わったとしても、その個人が存在し続けたという事実さえあれば、その人はその人と言い切れるでしょう」
それを聞いて、布都は何かを思い出しそうになったが、鈍い頭痛のせいでうまく頭が回らない。
青娥は「生き物を一つの個体ではなく細胞という極小生物から成り立つ群体と捉えるだとか、他にも沢山面白い考えがありますけどね」とつけたしたが、そちらはほとんど布都の頭には入ってこなかった。
「だからお主はこれを芳香だと断言できると?」
「んー……というより、私が芳香だと思うから、これは芳香なんです」
血で服が汚れることも厭わず、青娥は芳香を抱き寄せ、そして微笑んだ。それを見て、布都は何も言う気がなくなった。
彼女に何か、一般的な道徳を説いたりすることは野暮だろう。何を言われても自分の考えを曲げない、そう言った強靭な芯を彼女は持っている。
「それではお暇しますね」
青娥は頭に差していた鑿を取り出し、地面に円を描く。するとそこには穴が現れ、彼女はそこに飛び込んだ。自分の作り上げた仙界に戻ったのだろう。
「……」
誰もいなくなった墓場で、布都は頭を押さえた。頭痛はその痛みを少しずつ増している。
青娥と話している間に、完全に太陽は沈んだ。真っ暗な墓場に布都は立ち尽くしていた。今宵は新月らしく、夜空に月の姿はない。
布都は懐から呪符を取り出して、それを術で燃やした。宙に浮いた小さな火球が足元を照らす。
そのか細い灯りを頼りに、布都は再び歩き始めた。
●
頭上で蝉が鳴いている。
神子は縁側に座り、布都は庭に立ってその側に控えている。そんな布都に対して、屠自古が詰め寄る。蝉の鳴き声にも負けない大きな声で彼女は怒鳴った。
「おいっ、布都!私の鞠返せよ!」
「屠自古、蹴鞠は男のやるものであってだなぁ……」
鞠が自分のところに飛んできたものだから、布都は咄嗟に自分の背中に鞠を隠した。
元気があるのは良いことだ。しかし年頃の娘が汗だくになって男の遊びである蹴鞠をするなどみっともない。布都はそう考えて、彼女の御転婆っぷりを諌めた。
「まあまあ、私たち以外誰も見ていないのだから良いじゃないか」
神子は笑いながらそう言った。
「そんな……太子様まで……」
「ほーら、太子様もこう言ってるんだから返せよ!」
「あ〜もう……」
頼みの綱の神子に裏切られて、布都は苛立ち混じりに鞠を高く蹴り飛ばした。
「あっ、この……!」
屠自古は罵りの言葉を口にしかけたが、咄嗟に鞠の落下点まで駆け寄り、そのまま蹴鞠を始めた。
どんなもんだい、と布都に向かって不敵に微笑む。
「器用なもんだね」
神子は口元を抑えて笑った。
布都は「太子様からも強く言ってください」とバツが悪そうに唇を尖らせた。
「にしても、屠自古はどうしてああいう風になれたんだろうね」
「すいません、我の教育係として不徳ところ……」
布都が頭を深々と下げたものだから、神子は慌てて言葉を付け足した。
「いやいや、褒めているのさ。化け物の腹の中のような宮中で……あの子は純粋に育った。どうしてかなと思って」
「何故でしょうな……」
布都が屠自古の教育係に収まったのは、本人の希望ではなく神子の采配だった。
近しいところに布都はいたが、彼女を宮中の汚れから身を守れたかというと、そうではない。確かに屠自古がそのまま健やかに育って欲しいと願ったが、そのために何かができたわけではない。
隠れて自分の陰口を叩かれているのは知っているだろうし、口にするのも憚られるような暴言をぶつけられることもあった。親しい友人が暗殺の巻き添えで死んだこともあったし、怨霊に取り憑かれたのか、恨みで狂った男が宮中に押し入り暴れるところも目にした。
恐らく自らの夫や教育係が、えげつない行為に手を染めているのも知っているだろう。
それらを受け入れた上で、屠自古はあのように純粋でいる。あいも変わらず、他人に親身になって寄り添い、一緒になって泣くことができる。ここまでくると、それはある種の才能と言えるかもしれなかった。
「布都のおかげかな」
「我は何も……」
恥いるように布都は目線を落とす。教育係とはいえ豊聡耳皇子の手足である布都は多忙であり、それほど彼女のために時間を割けたわけではない。たとえ時間があったとしても、あの子のためにどれだけのことができただろう。
二人の間に沈黙が降りる。代わりに蝉の鳴き声と屠自古が蹴鞠に興ずる音だけが聞こえる。
何の前触れもなく、神子は静かに口を開いた。
「まだ先になるとは思うけど……青娥の話では用意できる席はやはり三つが限度だそうだ」
「そうですか」
三つの席と表現したのは、尸解仙になれるのが三人という意味だ。
仙人に至る術としては下等に位置する尸解仙化であったが、決して容易な術ではない。むしろ三人も尸解仙にできるほど、青娥の技量は優れていると評しても良いだろう。
「その内の一席は布都にと思っている」
「光栄です」
布都のやや硬い声を聞いて、神子は困ったように笑った。
「青娥が信用できないのはわかるけどね」
「いえ……彼女の人格はともかく、技術は信用しています。ですから、我を毒見役としてお使いください」
布都は尸解仙となることはそもそも反対であった。大陸より現れたかの邪仙を信用できないからだ。仮に彼女が尸解仙に至る技術を持っていても、それをマトモに行使するかは別の話だ。
しかし時間は限られている。神子は不老不死を目指し道教を研究していたが、度重なる薬品や丹の使用によって、かえってその寿命を縮めていた。程度の差はあれ、元々独自に道教の研究をしていた布都もそれは変わらない。
青娥の力を借りることに反対であっても、主人がそうすると決めたのであれば、自分の身体を毒見役とするのが布都としては当然の帰着であった。
「頼りにしてるよ」
「そんな……滅相もない」
布都は頭を下げた。そんな布都に、神子はこう言った。
「残った最後の一席は正直誰でも良いんだが……君が望むなら、屠自古にあてがおう」
ばっと顔を上げてみると、神子の目線は布都に向けられておらず、空を仰いでいた。
「橘大郎女(たちばなのおおいつらめ)や膳大娘(かしわでのおおいつらめ)は……」
挙げられた名前は、神子の他の妃たちの名前だ。
「私は彼女達を平等に思っているよ」
それ以上、神子は何も言わなかった。余計なことは言わずに、布都に選択を委ねようということなのだろう。
布都は悩んだ。本人に選択を委ねるというのもある。しかし屠自古は神子に心底惚れているから、迷いなく添い遂げる方を選ぶだろう。
だから実質的に布都の選択が彼女の運命を決定づける。
思い悩んでいるうちに、はたと気づく。
神子は人の欲の声を聞き取れる力を持っている。自身は人のして欲しいことを汲み取る力が人一倍あるだけだと言っていたが、実際は人智を超えた力と言っても過言ではない良い的中率だった。
そんな能力の持ち主が自分に希望を聞いてきたということは、布都が心の奥底で屠自古にも一緒に尸解仙になって欲しいという欲が聞こえてきたのだろう。
確かにそうかもしれない。屠自古と同じ時間を生きることを望んでいないとは言えない。
しかし一族を裏切り、他者を陥れ続けた自分が、そんな我儘を許されるのだろうか。邪仙の企みが潜んでいるかもしれない危うい術に屠自古を巻き込んでも良いのか。
助けを求めるように神子を見たが、目線は合わなかった。神子は腰に差した宝剣を手慰みに弄りながら、黙って待っていた。返事は後で、とは言わない。
神子は無駄を嫌う。数日間思い悩んで決断するのと、ここで今すぐにここで決断するのも変わらないと考えているのだろう。
確かにそうかもしれないが、少し冷静になる時間が欲しかった。布都は主人に背を向けて、深呼吸した。
「……」
目を閉じてゆっくりと息を吐く。足が地面についていることを確かめる。指先まで血が流れているのをイメージする。蝉の声が聞こえる。動揺でこんな喧しい音すら聞こえなくなっていたのかと、布都は笑いそうになった。
兄の教えてくれた方法だった。あの山での兄との会話を思い返す。
思考の糸が絡まってしまったときは、まず物部布都という人間はここにいるという、最も基本的なところに立ち戻る。初めて自分のせいで人が死んだ夜も、この方法が役立った。
布都はゆっくりと目を開いた。
「……最後の一席は、屠自古にください」
「わかった」
「ただ条件が……」
布都は振り返った。神子は空を見ていた。
「屠自古の意思を聞いて欲しいというのと……それを聞くのは、あの子がもう少し大きくなってからにして欲しいのです」
「わかった。私たちの体もそれくらいは保つだろうしな」
神子は頷いた。
今の屠自古は神子に恋する乙女だ。そのような状況で尸解仙になる決断を迫ったところで、正常な判断とは言い難い。だからせめて、もう少し大人になってから意思を確かめたかった。
特に異論を挟まれなかったことで、布都は胸を撫で下ろした。
この日が実質的に、蘇我屠自古が尸解仙になることが決まった日だった。
○
布都は仙界に戻った後、聖より託された鈴を神子に渡した。
用途を聞いても、神子ははぐらかすばかりだった。経験上、こういうときの神子に何を聞いても無駄と知っている布都は、それ以上は踏み込まなかった。
それから琴を渡すため、屠自古の部屋に向かった。
「屠自古、入るぞ」
「駄目だ」
戸に触れた布都の手がぴたりと止まる。
冷たく言い捨てられたわけではないが、真剣な口調だった。何か逼迫しているような声だった。震えた声で彼女は続ける。
「今、溢れそうなんだよ」
障子越しに、僅かに青白い光が走るのが見えた。
屠自古の稲妻だろう。
彼女は怨霊という、肉体という器を失った身だ。身体を通して実体が存在するのではなく、精神がそのまま実体として存在している。感情が肉体という鎧なしに、そのまま吹きさらしになっているのだ。
普段はお札での調整もあり落ち着いてはいるが、怨霊である彼女は感情が暴走しやすい。時折このように心と体が荒れることがあった。
「ならここで良い」
布都は障子を背に腰を下ろした。
すぐに立ち去るべきだったかもしれないが、気持ちが不安定なときこそ誰かが側にいてやるべきだ。布都はそう考えた。
「……ほっといてくれよ」
屠自古はぶっきらぼうに言い放った。
だが布都は座り込んだまま、全く動かなかった。
「悪感情は一人で抱え込んでいても膿むだけだ」
「何で私に優しくする」
「それはお主が我の……」
何なのだろうか。
布都は言葉に詰まった。
今はもはや教育係ではない。単に同じ人物に惚れ込んでいるだけと言い切るには、あまりに関わりが深すぎる。かといって家族ではないし、血の繋がりもない。友人かと言われればそれも違う気がする。
「お前はそうだよな……」
屠自古の声が深く沈んでいく。
何か二人の関係性に明確な答えがあれば、彼女の心は救われたのだろうか。
「なあ、何で壺を入れ替えたんだ」
「それは……」
尸解仙になる前後の記憶はひどく曖昧で、布都はそのときのことを覚えていなかった。神子も同様だというから、どうにも尸解仙の術はそういう副作用があるものらしかった。
屠自古が怨霊になった経緯は、全て青娥による説明だった。
布都は蘇我氏への恨みが捨てきれず、屠自古の身体となるはずだった壺を焼いていない脆い壺に入れ替え、尸解仙としての復活を阻んだ。
そのように稗田乙女の著作にも記されているが、それも青娥が勝手に答えたものだった。当然だ。自分からそんな深い事情まで、赤裸々に語るわけがない。
だが、全くの嘘であるとは言い切れない。
現にこうして屠自古は怨霊になってしまったのだから、廟の中にいた神子か布都が何かした公算が高い。青娥を疑っていた布都は、術が確かなものなどうか入念な確認をしていた。
だから中にいたどちらかが何かした可能性の方が高いのだ。
まさか神子が自分の妻に危害を加えるとは思えず、青娥は布都が原因だという。であれば、布都としても消去法で自分のせいと考えるしかなかった。
「何で私に優しくするんだ……私はお前がわからないよ」
か細い声だった。
布都はいっそ戸を開いて、屠自古の稲妻でその身を焼かれたかった。しかしそれはただの自己満足で、優しい屠自古が傷つくだけの行為だ。贖罪にすらならない。
「帰ってくれ。余計に惨めになる」
障子の向こうの屠自古は、震えているように見えた。しかし布都にはどうしようもない。
「すまない……」
謝ったのは、何に対してだっただろうか。
この場に残り続けたことか、屠自古の復活を妨げたことか、それとももっと別の何かか。
布都は立ち上がり、屠自古の部屋を後にした。
そしてようやく自分が琴を背負いっぱなしなことに気づいた。すっかり頭から抜け落ちていたが、どのみち今のタイミングでは渡せなかっただろう。
屠自古が落ち着いたら渡そう。布都はそう思い琴を自室に持ち帰った。
●
夜桜が散る中、風情もへったくれもなく、少女たちは酔い潰れていた。花見だと昼から飲んでいたから無理もない。ちらほらと帰り始めるものも出ている。巫女や魔女といった中心人物たちは、へべれけになりながらもな酒をあおる。
そんな彼女たちとは少し離れて、神社の屋根の上に布都と青娥が座っている。二人は静かに酒を酌み交わしていた。
「青娥殿の話は興味深いな。幻想郷の外の話を聞ける者は限られる」
「布都様たちが僧侶たちに復活を妨げられ寝ている間、ずっとあっちこっちをフラフラしていましたからね。年季が違いますのよ」
青娥が口元に手を当てて笑う。二人の会話は、決して険悪ではなかった。
尸解仙になる前は、自分の主に害なす可能性があったため、布都は彼女のことを警戒していた。しかし今ではその警戒も大分緩んだ。最終的には神子の復活に手を貸してくれたのもあるが、何より今更彼女が行動に出る可能性は低いと見ていたからだ。何か明確な企みがあって神子に近づいたのであれば、それを飛鳥時代にやらずに現在まで待つ意味がない。
「先程と似た話ですが、こういう問いもありますわ」
こほん、と青娥は居直った。
「一人の男性が稲妻に打たれました。そのまま沼に倒れ込み絶命するのですが、奇跡が起き、その沼から男性と瓜二つ……どころか記憶も人格も全く一緒の人物が現れます。さあ、この沼から出でた男は、稲妻に打たれた男性と同一人物でしょうか」
ふむ、と布都は口元に手を当てる。
「新しく現れた男の足元には、稲妻に打たれた男の死体が転がっているのか?」
「おっしゃる通りですわ」
「では別人だろう」
「それは何故ですか?」
「何故って……」
直感的には間違いなくそう思うのだが、いざ理由を問われると明快に答えられない。
何とか感覚を言語化しようと、布都は頭を捻る。
「そうだな……もし雷に打たれるも、奇跡が起きて体が治癒され心臓が再び動き出した、という仮定なら別人とはならないと思うのだが……」
「良い着眼点です」
青娥はうんうんと頷いた。
「この話は個人をどう定義するか、という問いに対する具体例です。肉体の連続性があれば同一人物と考えて良い、という一つの考えを補強する例ですわ」
「口ぶりからするに、お主はその考えをあまり支持していないようだな」
「そうですね。私としては、定義なんて人が定めるものなのだから、自分で決めればよろしい、そう考えます」
青娥はそう言って、目を細めて微笑む。
しかし布都には、彼女の瞼の向こうに別の意図があるような気がした。
「自分一人で生きていくならそれでも良いだろう。だが、人によって基準が違ってしまうと、社会は上手く回らない」
「それもまたおっしゃる通りです」
今度は寂しそうに笑う青娥の微笑みを見て、ようやく布都は彼女が何を言わんとしているか理解した。
「そうか……これは我が愚昧であったな」
「仕方ありません」
「……どういう意味だ?」
青娥はその質問には答えず、黙って微笑んでいた。それは嘲笑っているようにも見えたし、寂しそうにも、楽しそうにも見えた。
彼女の微笑みを見ているうちに、布都の頭痛が酷くなっていく。頭蓋の中で早鐘がなるような痛みだ。そのせいで思考がうまく回らない。段々と意識が遠のいていく。
掠れる視界の中、やはり青娥は微笑んでいた。
○
屠自古のことが頭から離れず、また頭痛もあって、布都は中々寝付けなかった。仕方なく部屋を出て、ぼんやりと縁側を歩いた。
布都は夜空を仰いだ。その空に月はなかったが、星が煌めいている。
あれは仙界から外の空が見えているのだろうか。それとも天の蓋に描かれているだけの偽りの夜空なのだろうか。この仙界は神子と青娥によって作られたものであり、あまり細かいことは布都も知らなかった。
アテもなく布都が歩いていると、いつの間にか神子が書斎として使っている部屋の前まで来ていた。
障子を通して明かりが見えた。どうやらまだ彼女は起きているようだった。
「布都、入りなさい」
気配だけで誰か分かったのか、神子はそう声をかけた。
「失礼します」
布都はそう言って礼儀正しく部屋に入り、障子を閉めた。
神子は部屋の奥に向かってあぐらをかいて座っている。部屋には蝋燭が一本だけ灯されており、その明かりで神子は巻物を読んでいた。恐らくは道術の資料だろうと布都は考えた。
「眠れないのかい?」
彼女は振り向かず、背中を向けたまま喋る。
屠自古のことで思い悩んでいることを話そうか悩んだが、一旦は飲み込んだ。
「ええ、少々頭痛が……」
ぼうっとしているせいだろうか。前にも似たようなことを言ったような既視感を抱いた。
神子は昼方、布都が命蓮寺より届けた鈴を取り出した。そして小さな棒を使って、器を叩く。空気が震え、静まり返った夜に響いた。
「あの……何故、仏具を?」
まさか仏教に鞍替えするつもりではないだろうかが、主人の意図がわからず、布都は不安げに問いかけた。
「メトロノームという外の世界の道具を失くしてしまってね、これはその代わりなんだ」
「……?」
どこか聞き覚えのある単語だったが、一体何の話なのか布都にはわからない。
神子は一応言葉を返してはいるが生返事というか、布都に向かって話しているというより、独り言のような口調であった。
しかも会話の最中も、一定の間隔で鈴を叩いている。
小骨が喉に引っかかったような、何か違和感がある。後ろを向いている神子の表情が見えないことが、何故か布都には恐ろしく感じた。
「屠自古のことで思い悩んでいたのだろう?」
まるで心を見透かされたようで、布都はたじろいだ。少し動悸が激しくなる。
しかし冷静になってしまえば、布都が屠自古のことで悩んでいること自体は神子も知っていたので、そうおかしい話ではない。
「はい、何故我は屠自古の壺を壊してしまったのかと……」
布都は正直に打ち明けた。
だが、やはり何か自分の言葉に違和感があった。頭痛が更に酷くなり、布都は頭を手で押さえた。その痛みの中で、廟の中の光景の記憶が一瞬脳裏をよぎる。
そうしている間も、神子は一定の間隔でゆっくりと鈴を鳴らす。その音に耳を傾けていると、意識がぼうっとする。頭痛は相変わらずだったが、それが何故か心地良いもののように感じる。
母の腕に抱かれるような安心感の一方で、嫌な引っかかりを感じる。自分の中のどこかで、その音を聞いてはいけないと警鐘が鳴る。
「尸解仙になった前後の記憶は、曖昧に、太子様も……」
その時のことを考えようとすると、頭が痛くなってくる。
一定の間隔で鳴り続けていた鈴の音は、一回一回の音が永遠に響き続けているようで、頭の中でいくつもの音が重なって鳴り響き続ける。
「ああ、そういう話だったね」
布都はとうとう両腕で頭を抱えてうずくまった。冷や汗が床の上にぽたりと落ちる。歯の隙間から苦しげな呼気が漏れる。
「布都、蝋燭の明かりを見るんだ」
命令されたので何とか面を上げて、布都は暗闇の中に浮かぶ蝋燭の明かりを見た。気を抜けば、明かりに吸い込まれてしまいそうだった。
目を離さなければならない。なのに視線がその小さな火に釘付けになる。
「我は屠自古の、廟から先に、目覚めて……」
何かを口にしなければ意識を失ってしまう。そんな気がして、布都は頭に浮かんだことをそのまま口にした。
思考が頭痛に塗りつぶされる中、またしても廟の中の光景が脳裏をよぎった。そこには砕けた壺の破片が散らばっていた。
「そうか、壺を壊したのは……」
神子が振り向いた。
「布都、太陽はもう沈んだよ」
童話の一節のような、妙な言い回しだった。
初めて聞くはずの言葉なのに、何故か聞き覚えがある気がする。
気がつけば布都は身体のバランスを崩し、頭から床に突っ込んでいた。鈍い音がしたが、痛みは無い。それどころか、身体の感覚が一切なくなっていた。重力すら感じ取ることができず、まさしく夢を見ているような気分だった。
神子の方を見るが、何だか遠くに感じる。まるで深い穴の中から、小さくなった空を眺めているようだった。
その表情は、あの時の青娥と同じ微笑みだった。
☆
鈍い音がした。
きっと布都が気絶して倒れたのだろう。
部屋の中が静まり返ったのを確かめて、青娥は襖を開けた。
蝋燭一本しか灯りのない暗い部屋には、くたびれた様子の神子と、床に倒れて動かない布都がいる。
「終わりました?」
「見ての通りだ」
神子がぶっきらぼうに言い放つ。
「相変わらず趣味が悪い。最初からいたのだろう」
「もしもに備えて待機していたんですよ」
「別に室内にいても良かっただろう」
「嫌ですわ。そしたらまた私にやらせたでしょう。たまには豊聡耳様も手を汚してくださいまし」
神子は首の後ろに手を当てて、「別に嫌だからやらせていたわけではないんだがな」とため息をついてぼやいた。
倒れた布都の横に青娥はふわりと座り、そしてからからと笑った。
「あらあら、おめめが外れちゃってますね。まるで芳香みたい」
確かにうつ伏せに倒れた布都の横に、目玉が一つ転がっていた。
青娥は左手で布都の上半身を起こすと、残った右手で目玉を空っぽになった眼窩にはめ込んだ。そして瞼の上から優しく撫でて、耳元でこう囁いた。
「大丈夫。布都様は木偶なんかじゃないですわ、人間ですよ」
うまく馴染んだのか、青娥が手を離しても目玉は落ちて来なかった。ただ布都の顔は虚ろで、人形のようだった。
「木偶ではない、ね」
「心持ち次第です」
皮肉っぽい口調の神子に、青娥はきっぱりと言った。
阿礼乙女の取材に対して虚実織り交ぜて語った青娥だったが、尸解仙が人間の形を取る必要がないというのは本当のことだった。自らを物部布都だと思うからこそ、その物部布都の姿形を取る。
今の布都のように真の無意識に近い状態ともなれば、自らへの認識すら失い、人としての姿形を保つことができない。
「それで、どうします?」
「わかっているだろう。また尸解仙になる前後の記憶が戻りかけていた。前と同じように、消しておいてくれ」
消してくれ、と神子は言ったが、記憶は完全に消すことができない。
なるべく思い出すことがないよう、脳の奥深いところに埋めるだけだ。山に埋めた死体が獣に掘り返されるように、思い出してしまうこともある。
「しつこいようですが、思い出しかけた記憶も一緒に消さなければ、意味がありません。今日一日の記憶は大分歯抜けになりますよ」
「わかってる。しばらくは布都の側にいて、周りと話の齟齬があったら上手くフォローしてくれ」
「まったく……人使いが荒いんですから」
青娥はため息をついた。
記憶の調整は至難の技だ。下手をすれば脳を破壊しかねない。
元々は芳香のために磨いた技術で、道術と催眠術を複合した、ほとんど青娥のオリジナルの技術だった。神子をもってしても、その術を全て習得することは未だ叶わない。
「記憶の戻る間隔も段々と短くなってきましたね。こんな面倒なことをするくらいなら、河勝様のように後任を探しては?」
「そう薄情なことを言うな」
揶揄うような青娥に、神子は首を振った。
「包丁だって研がなければ切れ味は落ちるし、楽器も調律しなければ音が狂ってしまう。布都は替えの効きづらい貴重な人材なんだから、これくらいの手間は惜しくないさ」
薄情なのはどっちかしら、と青娥は思う。
替えが効きづらいという発言は裏を返せば、替えさえ見つけてしまえば簡単に捨ててしまえるいうことでもあった。
自分が芳香に抱くような愛情を、神子は持ち合わせていないのだ。青娥が同じ立場なら、替えなどきかないと言い切るだろう。
ただその非情さは、神子の特別な才能でもあった。
豊聡耳神子は聖君と呼ぶに相応しい人物だ。
有能な独裁者も、民意を反映できている議会も、完璧に全体の利益だけを追求することはできない。そこに人間がいる以上、偏りが生まれる。
理想を突き詰めていくと、機械仕掛けの頭脳による支配しかないという創作は枚挙にいとまがない。
神子はその機械の支配者に近い。
彼女は自分以外の全てを平等に扱う。そこに偏りはない。特定の誰かやコミュニティを贔屓しないからこそ、真に社会全体の利益のみを追求できる。個人を愛することができないからこそ、全体を愛することができるのだ。
非常に興味深い存在だと青娥は思う。
「そもそも尸解仙化に失敗しなければこんなことにはならなかったんだけどね」
嫌味ったらしく神子が言う。
青娥はため息をついた。
「仕方ないでしょう。何しろ術の途中で邪魔が入って、千年も経ってしまったのですから」
布都は復活に失敗した。
新たな肉体を手に入れること自体には成功したが、精神に異常をきたした。
恐らく肉体の連続性を損なったことにより、自我が崩壊してしまったのだ。青娥はそう分析した。尸解仙の術において、よくある失敗例の一つだ。
雷に打たれ肉体を失った後、沼から新しく生まれた肉体を享受するには、強烈な自我が必要だ。誰が何と言おうと、己は己であると思わなければならない。
布都たちの場合は、雷に打たれて死んでから千年経った後、ようやく沼から復活できたのだ。いくら記憶と魂を引き継いでも、雷に打たれる前の自分を自分と捉えるのはあまりに難しい。
青娥の分析は正しかったらしく、復活の前後の記憶を消すことで、布都の精神は均衡を取り戻した。連続性の切れ目を誤魔化したのだ。雷に打たれたことも沼から生まれたことも、記憶でなく伝聞になってしまえば、自分が自分ではなくなったという実感を取り除くことができる。
「むしろ豊聡耳様に何の問題がなかったことの方がおかしいというか……」
「私の方が異常だっていうのか?」
「そう考える方が筋は通ります。というか十中八九そうです」
尸解仙の術は一度死を迎える上、肉体も取り替えるという技術の面でも倫理の面でも非常に難しい代物だ。
元々そういったリスクがある尸解仙の術が、僧侶たちによる邪魔が入ったせいで千年も中断されてしまったのだ。布都の精神が瓦解したのも無理はない。
むしろ千年の空白を経ても何の支障もなかった、神子の精神力というか、自我の方が常軌を逸している。そう考えた方が理屈に合う。
「まあ何でも良いけどね。後は頼んだよ」
そう言って神子は立ち上がった。
「本当に人使いの荒い……」
愚痴を溢す青娥を背に、神子は部屋を出て自分の寝室への向かった。
青娥はため息をついてから、虚な表情で座る布都に向き直る。返事はないとわかった上で、青娥は彼女に話しかけた。
「さっき墓場で、芳香にいたく同情していましたわね。憐んで下さってお優しいとは思いますが、ご自身も似たような境遇なんですよ……?」
意識のない布都の頬を青娥はそっと撫でて、ふふっと微笑んだ。
青娥は彼女のことを嫌っていなかった。むしろ気に入っていると言って良い。
こう言うと布都は嫌がるだろうが、青娥は自分と彼女は少し似ていると思っていた。謀略の中で生き、人間の汚い面を見続けたが、一方で純粋なものを愛し、幼き日に抱いた憧れを捨てきれないという点では確かに共通しているかもしれない。
神子のために彼女の記憶を弄る一方で、いつの日か彼女が真っ当な死を迎えられることを少しだけ望んでいた。青娥が布都の記憶を刺激するようなちょっかいを出すのはそのためだった。
本気で救おうと思っているわけではない。何か起これば良いなと、サイコロを放る気持ちで彼女が記憶を戻すきっかけを与えていただけだ。
「さ、始めましょうか」
感傷に浸るのを切り上げて、青娥は布都の記憶の調整を始めた。
●
布都はゆっくりと起き上がった。
あたりを見回すと、そこは廟の内部であった。琴をはじめとするいくつかの副葬品に囲まれて、装飾が施された寝台が三つある。そのうちの端っこの一つ布都は上体を起こして座っていた。反対側の台には屠自古が壺を抱えて横たわっている。真ん中にの台には宝剣が置かれていた。
皿は何処だろうと一瞬思ったが、手元を見てみれば自分で抱えていた。
尸解仙の術は剣や竹といった物を依代にして、新しい肉体を得て甦るというものである。復活すると、元の体は依代となった物品になる。つまり依代となる物と死体が入れ替わるのだ。
したがって布都の抱えている皿は、元は布都の肉体だったものということになる。
「目覚めはどうだい?」
背後から声がして振り返ると、そこには神子がいた。一足先に復活を遂げたようだった。
「太子さ……、ま……?」
強烈な違和感があった。
確かに自分の声の筈なのに、何処か別の場所から聞こえてくるようだった。
「布都……?」
神子が不思議そうに布都の顔を覗き込む。
布都は咄嗟に口元を抑えようとした。しかし口に当てられた手の感触すらおかしかった。腕がそのまま顔に溶けて沈んでいってしまいそうな不安に囚われる。高熱を出して魘されている時と似た、不快な浮遊感があった。
風景も色彩がわかるのに灰色に感じ、貧血で倒れる寸前の時のようだった。神子の顔も何だか遠くに感じる。
ひとまず寝台から降りようとした。
足を地面につけるのだが、いまいち力をどう入れて良いかわからない。
かろうじて何とか立ち上がることができたが、持っていた皿が手からこぼれ落ち、そのまま床に落ちて砕け散った。
かつて自分の肉体であったものは、粉々になってしまった。これが自分の身体だったというなら、今ここにいるこれは何だろう。布都の脳内で、怖気がする感覚と、今の自分は何なのかという混乱が、嵐の海のように暴れ狂う。
「 あ ?あ ちが」
全身の血液が逆流しているかのような悪寒に包まる。不快感が胃から込み上げできて、カエルの卵が口から溢れ出してくるのではという感覚に支配される。精神を直接、虫が這いまわっているようですらある。
「術が失敗したのか……布都、落ち着け」
気がつけば神子が見下ろしていた。実際は寄り添って背中をさすっているだけなのだが、遠近感と空間認識が狂って巨人に摘まれているような気分だった。
しかし、かろうじて「落ち着け」という声だけは聞き取れた。
とにかく落ち着かなくては。いつものように兄に教わった方法なら何とかなる。布都はそう考え、呼吸に集中しようとした。
しかし縋りついたその方法は、とどめとなってしまった。
息に集中しようとすると、喉や肺が最初から無かったかのように、全く呼吸ができなくなった。地面の感触を確かめようにも、足の感覚がわからない。
幼い日の記憶を思い返そうにも、それは本当に自分なのかという疑念が先行する。
布都がこれまで頼ってきた土台の部分すら消え去った。
「違う これ ? じゃ ない」
自分の腕を見やると、陶器でできた紛い物のように見えた。ヒビが広がっていく。
涙と血が混じった液体が、目から溢れてきているが、布都は気がつかない。
周りの景色がぐるぐると回りだす。舞踏会で踊っているのを早回しにしたようだった。
布都の自我はほとんど崩壊していた。精神の均衡が失われ、頭蓋の中で苦痛と不快感の嵐が渦巻く。
そんな中で走馬灯のように布都の脳裏をよぎったのは、何の変哲もない笑顔だった。琴を教えてやると言った時の、屠自古の笑顔。
『あの子をこんな目に合わせてはいけない』
かろうじて残った僅かな知性は、屠自古のことを考えていた。
布都は神子を突き飛ばして、屠自古の元へ向かう。
「布都……!」
神子は素早く立ち上がり、布都の方に手を伸ばす。しかしもう手遅れだった。
壺を持って寝台に横たわる屠自古の元へ、布都は突き進む。
そして腕を振り回して、壺に打ちつけた。壺はあっけなく屠自古の手を離れ、床の上に落ちて砕ける。
屠自古の器となるはずだった壺は、破片となって床に散らばった。
布都はバランスを崩してそのまま床に倒れ込み、意識を失った。
○
「布都ー、起きてるかー?」
芳香のどこか間の抜けた声と、どたどたと部屋に向かう足音が聞こえてくる。
布都は重い瞼を開く。障子を通して外の日光を感じる。朝に強いはずの布都だったが、今日は何だか酷く眠くて、布団から出ることができない。
「まだ寝てるのかー?」
障子が開かれて、芳香が現れた。眩しい日の光に布都は目を細める。
「何だこれ?」
芳香の視線の先には、部屋の片隅に置かれた古い琴があった。
「どうしたんだ?」
「……わからぬ」
布都はぼんやりとした頭で記憶を探ってみたが、琴について心当たりはなかった。
誰かが持ってきたのだろうか。琴について考えようとすると軽い頭痛がしたので、布都は考えるのをやめた。
「いらないなら片付けちゃうぞ」
「……構わない」
蔵にしまっておくぞー、と芳香は琴を持ち上げて、部屋を出ていった。
両手が塞がっていたせいだろう。芳香は障子を開けっ放しにして行ってしまった。
体が何だか気怠く、頭にも霧がかかっているようだ。ただひたすら、泥のように眠りたかった。とてもではないが起きて何かをする気にはなれない。
太陽から逃れるように、布都は布団を被った。
そして優しい眠りに身を委ねた。
読んでいてぞわっとさせられる、素敵な作品でした。
寺組登場のおかげで、神組の異常さに拍車がかかってます。
お見事でした。ふとじこの複雑な関係性が興味深かったです。
自己定義のまじないによって逆に自己の連続性を見失うというのが本当に不憫で、まじないも漢字で書けば呪いになるとは言えど、よりによって実兄との思い出がこのような末路を生み出してしまったのだと考えると如何し難く。
宴席のシーンも墓場のシーンも、全てを知っている青娥と同じ視点で読むととても居た堪れなさが募るものでした。
そして、屠自古と布都の関係の話がこの物語においての主軸とも言えたと思いますが、本文中においては復活後の屠自古と布都の間における会話は歯切れの悪い所で止まっており、つまるところ屠自古視点からの布都への平時の感情が一切見えなかったと言い換えても良いのでしょう。
逆に言えば、布都は自らの屠自古への情と屠自古が怨霊となっている現状との矛盾に戸惑い、また屠自古も怨霊となっている現状と布都からの情とのギャップに感情の矛先を失っているという点のみ明かされたのと同義で。
平時の描写があれば二人の関係性について的確な単語を充てがえたかもしれないのに、その情報が削られている事によって二人のすれ違いや当惑が強調されているのが読者視点ではとても愛おしく思えたものです。
一方で、布都のその屠自古への情こそがこの状況を生み出した最大の原因であり、そしてそれを布都自身が知覚し得る事がないという事実は、納得できる落としどころであり物語の種明かしとしてこれ以上無かっただけに、より一層二人のすれ違いの物哀しさや修復不可能性を強調させているという点において凄まじい哀惜の念に駆られました。
もし二弦琴の弦の緩みと布都の記憶が連動して描かれていたのだとすれば、これ程残酷な話は無いのではないでしょうか。二人の出会いのキッカケともなった思い出の逸品であるのにも関わらず、それが日の目を見て弾かれる機会は殆んど無いとも考えられるのです。八橋という付喪神を出して楽器は使われてこそだというニュアンスさえも込められて、尚。暗澹たる思いに包まれるかのような読後感さえも味わったものでした。
柔らかい地の文で展開を進められたからこそ、終盤の事実開示の列挙へと至ってからとの落差がより惨く映え、こちらの心を揺さぶらんとする強烈な読み味を放っていた実に良い作品でした。
霊廟組の設定間に存在している不可視の裂罅のようなものを繋ぎ上げた結果がこのような絶妙な物語になったように思え、ふとじこ好きの自分としてもとても楽しく読めたもの。
ありがとうございました、非常に面白かったです。
知らないほうが幸せなことってあるんだなぁ……
そりゃ琴の調律方法だってわからないですよね、その体が覚えてないのだから仕方ない。
終盤で真実が明かされ、今までの情報全てにつじつまが合ったことに「そういうことだったのか」と納得させられました。
同時に、青娥の内心にとても惹かれてしまいました。こういう屈折した情を持っているのは本当に彼女らしくて好きです。
恐ろしくも素晴らしいお話でした。面白かったです。