◆
私、宇佐見菫子は、都会で生きる現代っ子だ。
故に、畳が何畳も敷き詰められているだだっぴろい大広間の真ん中で、正座して人を待つなどという経験は、今現在が初めてだった。ちなみに、足は絶賛痺れています。誰か助けて。
苦悶の表情を浮かべている私と相反するように、中庭の景色は穏やかで。夕日に照らされた桜は、随分と新緑が目立っている。しめ縄が巻かれていて、桜の根元辺りに鎮座している、そこそこ大きな石には、所々に桃色の花弁が散りばめられていた。
風情のあるお庭……。流石、幻想郷の中でも由緒正しい家柄のお屋敷だ。
感心していると、縁側の向こうから、待ち人が漸く現れた。
九代目当主、稗田阿求。そう、ここは稗田家邸宅の一室だ。何やら話があるらしく、人里をぶらぶらしている最中に彼女の侍女に呼び止められ、半ば無理矢理連れてこられたのである。用があるなら自分から出向くのが筋だと思うのだが……。流石、唯我独尊を自称する存在ばかりの幻想郷、その書記を担当していることだけはある……のだろうか?
「ま、待たせたんだから、それ相応に重要で重大な要件があるんでしょうねぇ?」
眉をひくつかせつつ、遠く離れた上座にちょこんと座った書記を睨み付ける。
「申し訳ありません。何分、目的の物を取り出すのに少々手間取りまして……」
「見つけてから呼んでよ!」
「一刻も早く伝えたかったので。善は急げと言うでしょう? ……というか、別に正座して待つ必要はありませんでしたよね?」
「た、確かに……」
思わぬところをツッコまれてしまった。畳の上では正座という先入観があった所為だ。
「兎に角、何の用なの?」
「おほん。これを見たら、きっと目の色が変わりますよ」
稗田さんは意味ありげに断言してから、自身の目前に小さく平たい桐箱を置いた。それが目的の物とやらなのだろうか。彼女はそのまま動かず、話が先に進むことは無かった。ぽくぽくと木魚が鳴らされそうな長い間と共に、私は察する。……取りに来いということですか。
しかし、足が痺れて立ち上がれそうに無かったので、サイコキネシスで手元に引き寄せた。超能力はこういう時に便利だ。無駄遣いとか言わない。
箱を手に取る。オカルトパワーも何も感じない、ただの軽い桐箱。当主へ断りもせず、軽い気持ちで開けてみる。中には、一枚の紙切れが入っていた。
しわしわで、薄汚れていて、かなり古臭い紙であることは容易に分かった。ついでに、書かれている文章を目で追う。
――――――――
夜の竹林ってこんなに迷う物だったかしら?
携帯電話も繋がる気配は無いし、GPSも効かないし、珍しい天然の筍も手に入ったし、今日はこの辺で休もうかな……って今は夢の中だったっけ?
しょうがないわ、もう少し歩き回ってみようかしら。
それにしても満天の星空ねぇ。
未開っぷりといい、澄んだ空といい、大昔の日本みたいだなぁ。
タイムスリップしている? ホーキングの時間の矢逆転は本当だった?
これで妖怪が居なければもっと楽しいんだけどね。
そうか、もしかしたら、夢の世界とは魂の構成物質の記憶かも知れないわね。
妖怪は恐怖の記憶の象徴で。
うーん、新説だわ。
目が覚めたら蓮子に言おうっと。
さて、そろそろまた彷徨い始めようかな。
――――――――
「……何これ?」
「迷いの竹林で発見されたメモであり、数ある未解決資料の一つです。人里で流通している幻想郷縁起からは省かれている部分ですが……」
「確かに、私が鈴奈庵で買ったやつにはこんなもの無かったけど、そうじゃなくて……」
文章中にちりばめられている単語は、明らかにこちら側の世界で使われている物だ。そして、夢の中や夢の世界という、一際目を引くワード。これではまるで、自分と似た状況にある外の世界の人間が書いたかのようではないか――。
「裏を見てください」
混乱し、困惑する私を余所に、書記は先へと促す。一抹の不安を胸に抱きながら、裏を捲る。
そして……我が目を疑った。
『秘封倶楽部 マエリベリー・ハーン』と書かれていたからだ。
秘封倶楽部は、この私が一から考案し名乗っているサークル名であり、私を除けばこちら側の世界では誰も――高校入学当初に人除けとして使ったが、既に忘れられて久しいだろうし――知らない名前だ。
それが、どうして、こんなところに? 嫌がらせ? 質の悪いいたずら? マエリベリー・ハーンとは一体誰? 私の周辺に、そんな名前の他人は居ない。偽名?
「どういう、こと……なの?」
疑問が錯綜する思考回路へ畳み掛けるように、稗田さんは更なる情報を口にする。
「このメモの蒐集時期ですが、私の数代前の時代――数百年前となっています。
私が知りたいのは、貴方が生まれる遙か以前から在る、このメモに書かれた『秘封倶楽部』との関係です。何か知っていますか?」
足の痺れなんて、意識の埒外へと追いやられていた。
蹲るように背を丸め、ただ呆然と、紙を――唐突に現れた謎を、凝視し続ける。
幻想郷に遊びに来られるようになって暫く経つ。その間に出逢ってきた謎や不思議の中で、今突きつけられているこれが、間違いなく最大級のオカルトだった。
◆
桐箱を片手に、稗田家のお屋敷を後にする。何かしら真実が判明するまで、預からせて貰うことにしたのだ。阿求さんは快く承諾してくれた。元よりそのつもりだったのだろう。
先程は、衝撃の情報に面食らい、頭が真っ白になってしまったが、時間が経つと落ち着いてきた。人里の大通りを歩きながら、冷静に分析し始める。
そもそも、数百年前には携帯電話もGPSも存在しないし、あの類い希なる天才物理学者ホーキングだって影も形も無い。秘封倶楽部というワードは、私が思いつく以前、つまり数年前までは、この世に存在していない。にもかかわらず、それが数百年も前に、別世界である幻想郷に残されていた? 冗談も大概にして欲しい。
しかし、仮に書き手の仮定と阿求さんの話が全て真だとするなら、「夢を視るというお手軽な方法で時間遡行し、かつ幻想郷に迷い込んだ現代人――しかも、秘封倶楽部を知っている!――が残したメモ」として矛盾無く説明できてしまう。
ぶんぶんと大きく首を横に振る。
いやいやいや、そんなの、絶対にありえない。妖怪が跋扈する神妙不可思議な世界である幻想郷でさえ、時間の流れは不可逆なのだ。そんな世界の原理原則――過去に戻ることは出来ないという前提、公理を覆してしまえば、文字通り何でもありになってしまう。
それに、夢を通じて幻想郷に来られる現代人が、私の他に存在するというのも、受け入れられない。夢幻病は、私だけの専売特許のはずなのに。
兎に角、このメモは必然的に、ごく最近に幻想郷で作成されたものとなる。
一体全体、誰がマエリベリー・ハーンを名乗っている? 何の目的で作成した?
最も怪しい人物は、メモを渡した稗田阿求さんだ。主犯格、或いは共犯者である可能性は極めて高い。次にあり得そうなのは、カセンちゃんかマミゾウさんだろう。二人共あちらで何度か逢ったことがある。外の世界の知識だって、少しくらいはあるはずだ。それか森近さんか、あとは、あの妖怪……。
では、目的は? わざわざ古めかしい紙を用意して、こちらの情報を盛った文章を書き記し、秘封倶楽部を騙り、私を混乱させる。いたずらや嫌がらせにしては、回りくどすぎる。不平や不満があるのなら、直接殴りかかっていくのが幻想郷流だ。そもそも、稗田さんはもとより、幻想郷の住民に恨み辛みを抱かれる心当たりが全く無い。普段の行動にだって、落ち度など皆無だと思っている。
つまり、悪意を動機に作成された代物では無い可能性が濃厚だ。
日が落ちてきているからか、道の端に展開されていた出店や露店は段々と店仕舞いを始め、子供達が童謡を口ずさみながら帰路についている。だが、私は帰れない。この謎に向き合い、仕掛け人に目処がついたら、問い詰めなければ。
悪意以外での作成理由として考えられそうなのは……誰にも知られず、私だけに何かを伝えたい、とか? このメモは真のメッセージへの道標で、謎を紐解いていくことで、一つの答えに辿り着く、とか?
うん、ありそう。そうと決まれば、具体的に何処がミステリーなのか、集中して深く考えていこう。自然と、歩くスピードが遅くなる。周囲の音が、遠のいていく。
まず、数百年前に発見されたという話。これは先程も考察していたとおり、時系列的にパラドックスを生じさせている。食い違う、あり得ない情報を伝えたいということなのだろうか?
次に、携帯電話もGPSへの言及。電波が届かない……私には容易に伝達できないから、こういう手段を取ったという意味?
「珍しい天然の筍」という記述。天然では無い筍なんてあるの? 筍を養殖しているなんて話、聞いたことが無い。いや、養殖というワードは水産業で用いる単語だ。野菜は栽培するもので、そこに天然だの何だのという区別は存在しない。もしかすると、農薬の有無に関する言及? 無農薬で栽培された事を、天然と称している? 幻想郷には化学的な農薬は無さそうだが……。比喩表現にしても、上手く当てはまるものが思いつかない。
星空への言及は、夜の空に手掛かりがあるということだろうか。時間の矢逆転は、確か物理用語だったような。帰ったら調べてみよう。夢の中、夢の世界というワードは、私の夢幻病を指している?
そして、蓮子とは誰だろう? 目が覚めたらということは、こちら側の世界に蓮子は居る? 蓮子なんて名前、知り合いに居たか……? そもそも、幻想郷で書かれた物に、どうしてこちら側の人間の名前が指定されているんだ? 「目が覚めたら」を「文章を読み終えたら」みたいに解釈すれば、幻想郷内に居る蓮子に逢えと、無理矢理辻褄を合わせられるけど……。
マエリベリー・ハーンという名前……偽名? も謎めいている。こちらは連想できる要素が何もない。
ぐぬぬ。上手いこと意図が読み解けない。他にも何か、この紙に重要な情報が隠されていたりはしないだろうか……。
唸りながら悩み出したその時。進行方向から見覚えのある人物を見つけた。
「あれは……」
ひょろりと伸びた細長い老木のような風貌に、小さな眼鏡、ぼさっとした髪型。森近さんだ。買い出しでもしていたのだろう。あっそうだ、彼に見せたら、追加で情報が得られるんじゃないか? ナイス発想だ。
手を振って駆け寄ると、森近さんも私に気が付いたようで、立ち止まってくれた。
「おや、宇佐見君じゃないか。人里で大人しくしているなんて、明日は雨でも降りそうだな」
「失礼ね、いっつも幻想郷の何処かで騒ぎを起こしているわけじゃあ無いわ。出不精の森近さんこそ、人里に居るなんて珍しくない?」
「霧……いや、旧い知り合いのところに用があってね。君こそ、どうして此処に?」
「稗田さんに呼び出されてさぁ……って、いいからいいから、とりあえずこれ見てみて!」
世間話をするために呼び止めたのでは無い。早速本題に入るため、例のメモを森近さんに突きつけた。
「このメモに、何か仕込まれていたりしない? 炙り出しとか、魔力が込められているとか」
彼の眼は、道具の名前と用途を見極めるのに特化しているが、思考力や観察力だって、特別では無いにせよ秀でている。私では普通のメモにしか見えないが、森近さんなら発見があるかも知れない。
けれど。
「うーん、見たところ数百年前に書かれた、ごく普通のテキストだということしか判らないね。特異な細工が施されてもいない。至って特徴のない、古文書さ」
「――え、書かれた、って……」
彼がさらりと口にした客観的事実は、私の予想を大きく裏切るもので。
「も、勿論、用紙が古いってだけで、書かれたのはごく最近よね?」
頬を引き攣らせながら、一応確認する。
「いいや、劣化状態からして、書いた時期も数百年前だろうね」
しかし、その僅かな望みさえ肯定されなくて。
主犯に脅されて嘘を吐かされているのだと思いたかったが、森近さんが平然と詐欺を行える人ではないのは知っている。
彼が口にしている情報は、確かな事実なのだろう。
だからこそ、今生きている誰かが私に向けた暗号なのだという前提が、お遊びの類い、無邪気なリドルなのだという前提が――或いは、私が縋った思い込みが、あっけなく、水泡に帰してしまう。
目の前が真っ暗になったような気分だった。周囲の音が、鼓動の音が、ノイズが、段々と大きくなり、脳を揺さぶられているような感覚に陥る。
「それにしても、このメモは君と関係があるのかい? 秘封倶楽部と書かれているけれど……」
「……ごめん森近さん、急に呼び止めちゃって。それじゃ……」
「え? あ、ああ……って宇佐見君!? 僕の質問には答えてくれないのかい!?」
一人になりたかった。
静かな場所で、落ち着きたかった。
森近さんには悪いが、無理矢理会話を中断し、どこへともなく歩き出す。矛盾の固まりを、手にしながら。
数百年前の幻想郷で、現代の知識を有した者が、秘封倶楽部を騙り、メモを書き残している。
タイムスリップでもしていない限り、ロジックが成り立たない事象。
テストで解けない問題と遭遇したときとは訳が違う。不可解で、不快で、不吉な質感を伴ったパラドックスは、私の脚に絡まって離さないかのように、すぐそこで強烈な存在感を放っていた。……怖い。久しぶりに、恐怖している。
今はもう、何も考えたくない。人里の明るい雰囲気さえも煩わしい。
私に残された選択肢は、現実に戻り、ふて寝することだけだった。
◆
私が突っ立っている道路は、左右共に何処までも真っ直ぐ伸びていて、彼方には、夜の闇と殆ど同化している山が薄ぼんやりと見えた。
道を挟むように、程々の高さの建物が並んでいる。しかし、殆どシャッターが閉まっていた。当然だ、見るからに真夜中なのだから。とはいえ、アーケードの雰囲気は伝わってくる。
建ち並ぶ店の数々は、伝統とモダン、古とハイカラが混ざり合って、溶け合って、交織されている。相反する要素が融けあい共存している様は一種の混沌であったが、情報量は何処か落ち着いていて。
夜分故に、人通りが殆ど無いからか、辺りはとても静かで。遠くで響く、コンチキチンという独特な祭り囃子が、鼓膜を優しく撫でてくる。情緒的ではあるが、そんな雰囲気を壊すかのように、大気は蒸し風呂の如く暑かった。所謂、熱帯夜か。
特筆すべきは、道端に建っている物だった。
周囲の建物に負けず劣らずな高さを誇る、櫓のような建造物。豪華絢爛な装飾、下部には車輪が取り付けられていて、前後には多くの提灯が吊されており、幻想的な雰囲気を醸し出している。
テレビやネットで見たことがある。確か、山鉾という奴だ。
ということはつまり……。周囲の標識を眺め、確信する。四条通――ここは、京都だ。
関東に住んでいる私からすれば、殆ど無縁な近畿の一地方都市。接点を強いて挙げるなら、中三の修学旅行で行ったことぐらいか。
……そもそも、なんで私は京都に居るんだ? 確か、自宅で就寝していたはず……。つまりこれは、夢? だが、ただの夢、私の記憶が生み出した曖昧な京都では無いようで。
夢幻病と同じような、確かな実存感を伴う、現と地続きな夢――。まさか、こちら側の世界? 夢を介して、現実の京都にテレポーテーションしてしまった?
違う、祇園祭は七月のお祭り。今は五月だ!
それ以上に、何かが決定的に違う。空気が――雰囲気が。まるで、私だけ全く異なる位相に居るかのような、自分だけ流れに逆らっているかのような、そんな違和感が、全身をチクチクと突いている。
その差異の正体は、周囲を観察していると、すぐに明らかになった。
夜空には、常識では考えられないほど頻繁に、そして静かにドローンが飛び回っていて。遠くで垂直に交差する通りを、低床電車が滑るように走っていて。四条通を歩いている僅かな人の手には、私が知っているようなスマートフォンでは無く、空間上に投影されたスクリーンがあって。
まさか。開いているコンビニに駆け込んで、陳列されている食品の賞味期限を確認し、目を見張った。
私が生きている時代よりも後――未来だった。
いつの間にか、時空を越えていた。
コンビニを後にし、山鉾を見上げつつ考える。私が生きているかどうかさえ怪しい未来でも、山鉾の姿は、現代と何ら変わりない。
……まるで、あのメモの内容と同じ状況だ。唯一の違いは、あちらは過去に戻っていて、私は未来に飛ばされている点。
超能力者として、時間操作能力が唐突に身についたのだろうか? だとすれば興味深い話だが、感覚として、自らの意志や力が能動的に作用した現象では無いことはなんとなく分かる。
この曖昧な感覚をどうにか言語化すると、何かに、引き寄せられたかのような。誰かに、手を引っ張られたかのような……。
すると不意に、背後に気配を感じた。同時に、ぞわりと悪寒が走る。
直感で悟った。今此処に居る原因は、後ろに立っている何かだ、と。同時に、振り返り認識してしまえば、何もかもが崩れてしまうような、取り返しのつかない結果が待ち構えていることも。
どちらも、過程や理屈がすっ飛ばされた勘のような代物だったが、その情動にも似た不確かな感覚に焚き付けられて、私は駆け出した。文字通り、夢中で逃げた。
「あ、待て!」
呼び止める声が聞こえたが、知るもんか。四条通を離れ、北に延びる細い通りに入る。だが、このまま走り続けているままでは振り切れない。再び背中を捉えられたらアウトだ。なので、あえてすぐまた別の筋に――錦小路通に入る。これを何度か繰り返せば、撒けられるはず。
しかし。
「京都 は私達の庭なのよ? 残念だけど、逃げられないわ」
行く手を阻むように、人間がひょいと現れた。こちらの考えを読まれていたのか、と驚いた刹那、別の事象でも驚愕した。
茶色掛かった黒髪に、白いリボンが巻かれた中折れ帽を被った少女。そう、逃走を妨げてきた彼女の顔立ちや姿見が、私と酷似していたのだ。
「読みは当たっていたわね。流石」
不意に響く声に、反射的に振り返ると、別の少女が立っていた。
紫色のワンピース、セミロングのブロンドヘアに、白いナイトキャップを被った少女。あの妖怪と、瓜二つな外見。
ドッペルゲンガーを見た時とは比にならないくらいの、嫌悪感、気味の悪さ。まるで、歪な鏡を見ているかのようだったから。それとも、或いは……?
「それほどでも。にしても、妖怪が揺らいで見えるって話、本当だったのね」
「ちょっと、信じてなかったの? 心外だわ」
じわりじわりと、にじり寄ってくる二人。想像の埒外な展開の連続と、全身を襲う不快感。しかし、その暑さとは別の汗が噴き出し、眼鏡はカタカタと揺れる。膝が、笑っていた。
「貴方達、何者なの……?」
過呼吸で震える喉から咄嗟に出た言葉は、率直でアバウトな疑問だった。
独り言めいた声だったが、幸か不幸か、二人の耳には届いていたようで。
「よくぞ聞いてくれました。意思疎通が出来るオカルトなんて初めて!
私の名は宇佐見蓮子! 星を見ると現在時刻が、月を見ると現在位置が分かる眼を持っているわ!」
全身をモノトーンカラーで包んでいる少女――宇佐見蓮子は、私に近づきつつ、自信満々に、堂々と、ノリノリで、そしてハイテンションで答えた。
……蓮子? それって――。
思考が連鎖反応を引き起こす前に、宇佐見蓮子に促され、もう一人の少女が口を開く。
「私はマエリベリー・ハーン。蓮子にはメリーって呼ばれてる。結界の隙間、境界を見る眼を持っているわ」
考えるまでも無かった。想像するまでも無かった。
宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーン。
あのメモのに記載されていた人物。
故に、次に発されるであろう台詞は、分かりきっていた。
やめて、聞きたくない……! 遮ろうにも、言葉が出てこなくて。耳を塞ぎたくても、手は痺れて動けなくて。
「そして私達は、貴方のような不可思議な存在を暴くオカルトサークル、秘封倶楽部よ!」
――未来の世界に、秘封倶楽部が存在している。
受け入れがたい現実、信じられない数々の点を示され、私にはどうすることも出来なかった。声を荒らげることも、拳を振り回すことも、ままならなかった。
どっと押し寄せる、苛立ち、やるせなさ、気持ち悪さ、そして――閉塞感。
「……って、なんで自己紹介する流れになってるわけ? つい乗せられちゃったけど」
「質問にはしっかり答える。それがマナーってものでしょう? メリー。当然、こちらの問いかけにも返答して貰うつもりだけど」
受け入れ難い未来を、ただただ、漠然と認識するしかなかった。後ずさり、ガシャンとシャッターにぶつかって、腰が引け、その場にずるずると座り込んでしまう。動けない。
一体全体、目の前の事実は、何なのだ。
「ねぇねぇ、貴方は――」
秘封倶楽部って、私って――。
「何者?」
見下ろす彼女らの手が届きかけたその刹那、私の意識は途切れた。
◆
同日未明。私は再び、幻想郷に来ていた。
点と点を結ぶために。自身の未来を確かめるために。
未だ上がる気配のない夜の帳に包まれ、ひんやりとした空気が漂う博麗神社の境内で、目的の妖怪は、こちらの行動ぐらいお見通しだと言わんばかりに、佇んでいた。
八雲紫。
事実を聞き出すために、躊躇せず3Dプリンターガンを引き抜き、銃口を向ける。
「……そんな物騒な物、他者に向けてはいけませんよ」
「これぐらいのことをされても、文句は言えないでしょ!」
神社の隅々にまで響くような怒声を飛ばす。就寝中であろうレイムッチへの配慮に欠くほど、冷静さを失っていた。
「貴方に訊きたいことが、山ほどある! 大昔に発見されたメモのこと、未来の秘封倶楽部のこと、宇佐見蓮子と私の関係、そして、マエリベリー・ハーンと貴方の関係! 隠し事全て、吐き出して貰うわ!」
私をドッペル達から助けてくれた紫さん。その優しさは、微塵も思い出せないほど、遙か遠くへ吹き飛んでしまった。
容姿、服装、境界を視る瞳。これだけ似通った要素を有していて、境界の妖怪を連想しない方が無理だ。絶対に、関係があるはず。
切羽詰まっている私に対し紫さんは、ゆらゆらと揺らめく陽炎のような薄い笑みを浮かべている。
「隠し事なんて無い、としたら?」
「その嘘を力尽くで訂正させてやる!」
肩に照準を合わせてトリガーを引く。念力で具現化した弾丸が放たれる。直撃コース。しかし、弾は紫さんが瞬時に展開した隙間に吸い込まれてしまう。私だって、一撃で倒せるとは思っていない。畳み掛けるために、走って距離を詰めつつ、標識をアポートする。
しかし、彼女は応戦してこなかった。それどころか、両の手をあっけなく挙げた。降参のポーズ。振り下げた標識は、紫さんにぶつかる直前で止めた。
「まあまあ。今日は物騒な事をする気分じゃないの」
「私はそういう気分!」
このままでは、腹の虫が治まらない。しかし、相手に反撃する気が無い以上、いくら攻撃したって、防御に全てを割いた妖怪相手に、フィジカルで劣る私が勝てる算段はゼロだ。
「代わりに、別の方法で、悩みを解決してあげましょう」
「……代わり?」
突如、紫さんの真横に、人一人が通れそうな隙間が開かれた。そこに足を踏み入れながら、私に手を差し伸べる。
「彼は誰時のデートに、付き合ってくれるかしら?」
苛立つ私に向けられた言葉にしては、あまりに優しく暖かく、話題から逸脱していた。
◆
隙間の先は、紺色掛かった空間が広がっていた。
神社の境内寄りかは、幾分か明るい。壁に備えづけられた間接照明のお陰だろう。しかし、やや低い天井が圧迫感を強め、実態より息苦しい印象を、私に抱かせていた。
何より奇妙なのは、左右に広がる光景で。
ガラス――否、透明なアクリル板の向こう側には、水が揺蕩っており、そこを大小様々な魚が泳いでいたのだ。
誰が見ても明らかに、水族館の中だ。ただし、説明書きの類いが一切無く、魚類に疎い私では、目の前を悠々と泳ぐ魚が何なのかは判別出来ない。
「ここって、幻想郷には居ない生き物が沢山見られるから、お気に入りなの。たとえばほら、あの魚は……」
困惑する私を余所に、無垢な少女のように瞳を輝かせながら、熱心に解説する紫さん。その妙な熱の入りようと、絶妙な蘊蓄具合に、思わず感心してしまい、つい聞き入ってしまった。が、今知りたいのは魚では無い。本来の目的を想起し、再び問う。
「で! 先程の続きですけど!」
ゆったり歩みを進め、隣の水槽へ移動する紫さんは、すっとぼけた調子で、
「何だったかしら?」
と口にした。
「はぐらかさないでください! 未来の秘封倶楽部のメンバーと、私達のことですよ!」
「そんなに急がなくてもいいでしょう? 日が昇るまで、まだ時間があるのだから。折角の水族館を楽しまないと」
「疑問を解消してくれたらね!」
強固な姿勢を堅持し続けたからか、紫さんは観念したようで、大きく溜め息を吐いてから、ぶっきらぼうに本筋の話題を投げてきた。
「そもそも、未来に秘封倶楽部があると、貴方はどうして思ったの?」
「夢で見ました」
「夢とはまあ、主観的な事象を根拠にするのね」
目線を水槽から外さず、指摘してくる。しかし、それは誤りだ。
「私の夢が特殊なのは知っていますよね? こうして幻想郷――ここが幻想郷なのかどうかはこの際棚上げして――に来ているのだって、現の私の睡眠がトリガーとなっている以上、私にとっては夢の延長線上。夢でもあり、現実でもある。故に、主観だと一蹴するのは間違い……というより、紫さんを含め、幻想郷全ての否定に繋がる」
「主観が誤っているとは口にしてないわ」
紫さんの反論の軸は、主観を論拠とするのは誤りだ、と解釈していたので、その点を肯定も否定もしない口ぶりが、意外で気掛かりだった。しかし、それよりも自身の推理を示すことの方が重要である。話を進めよう。
「私の主観的な話以外にも、ここに、客観的――物的証拠もある」
例のメモを、文字通り紫さんに突きつける。
霖之助さんの鑑定では、正真正銘、数百年の劣化が蓄積されているという。第三者からのお墨付きだ。そこに、未来人の名前が書かれている。秘封倶楽部というワードとともに。
夢で新たに得た情報を元に再考すると、このメモは、何年も先の未来で生きている人間――マエリベリー・ハーンが、何らかの手段で過去の幻想郷に遡行し、残した物ということになる。
「見覚え、あるんじゃないの?」
今でこそ、用いられている単語が現代社会に根付いているから内容をおおよそ解読できるが、無知で無関係な数百年前の人妖では、意味不明だったはず。それが捨てられず残されているのには、相応な動機が存在している――妖怪の賢者が絡んでいるとか――と考えるのが自然だ。
「そうねぇ、肯定しておきましょうか。稗田家に収蔵されている資料は、全て目を通していますから」
メモを一瞥するも、動揺する素振りすら見せない。水槽で漂っている魚のような、のらりくらりと躱す物言いで返事しつつ、先の水槽へと移動していく。
彼女を追いかけながら、背中に向けて疑問を投擲する。
「マエリベリー・ハーンは、どうやって幻想郷に来たの? 時間遡行能力を持っているの? 紫さんは、今と過去、今と未来の境界を操ることが可能なの?」
水槽内に再現された沼。そこでじぃと動かない緑色の蛙を見つめながら、紫さんは淡々と答えた。
「妖怪は今を生きる存在。過去も未来も、干渉するつもりはありません。故に、試してみたこともないわ。行うにしても、術式を考案したり、必要なエネルギー……魔力を溜めたり、相当の準備が必要でしょうね。
能力をこの目で見ていないから推測になるけれど……ハーンという存在が行えたのは、偶然と考えたほうが蓋然性が高いでしょう。サイコロを何度も振り続けていれば、賽の目を連続で当て続けられる状況があり得るのと同じように、ね」
試したことが無くとも、理論上可能であれば、私の推理にも説得力が出てくる。
「とはいえ、その気になれば出来るということは、たとえば、こういうことが考えられるわ。
――今から何年も先の未来で生きていたマエリベリー・ハーンは、境界を操る力が強くなりすぎて妖怪化、人間としては生きていけないから過去へ逃亡。八雲紫となって幻想郷を創り、今現在に至る……とか。
私はさしずめ、宇佐見蓮子の先祖ってところで、好き勝手やらせているのも、全てはマエリベリー・ハーンと出会わせる未来を作るため、とか? 秘封倶楽部は世襲制で、私の子孫が代々会長を務めている、とか?」
全ての点が違和感なく繋げられる推測。頭の中ではじき出した、受け入れがたい青写真。
紫さんは推理を聞いて、異様なほど柔らかい笑みを浮かべて見せた。
「突飛なことや偶然に繋がりを見出し、想像することこそが、人間らしさ。貴方はとっても人間らしい人間ね」
囃すような口ぶりでそう言うと同時に、別の水槽へと足を運んでいく。私の話など、メインでは無いのだと言わんばかりに。
「馬鹿にしてるの?」
背中を睨み付け、発言に楯突きながら、先程見せた笑みを想起する。事実、あれに悪意は感じられなかった。まるで、道端にひっそりと咲いている花を見かけた時のような、温柔で朗らかな微笑。裏表も無い、胡散臭さも無いその表情に、私は無理矢理影を見出そうとする。無駄だと悟っていながらも。
「馬鹿になんてしていないわ。むしろ褒めているのよ。小説家になったらどう?」
「今この瞬間、絶対にならないと決めたわ!」
通路を抜けると、別の水槽が待ち構えていた。映画館のスクリーンのような、特大アクアリウム。サメの仲間やエイ、ウミガメ、その他にも大小様々な魚が悠々と泳いでいる。海をまるごと切り抜いて、その側面を見ているかのようだった。
水槽の前には観覧席がずらりと設けられており、紫さんは丁度真ん中の席に腰掛けた。やや思案して、隣に座る。
沈黙が落ちる。裏で動いているポンプや魚による水飛沫の音が、巨大な群青色の空間に木霊し、独特なメロディを奏でていた。
八雲紫という牙城をどう攻略するか、改めて考えていると、先に彼女の方から動いてきた。
「私が保証できる事実なんて、どうでもいいの。何故なら、問題は貴方の中にあるのだから。
……貴方が、私達と未来の秘封倶楽部に、何らかの結びつきがあると考えるのなら、それは真になるかもしれない」
「はい?」
何を言い出すかと思えば、またも煙に巻くような発言。流石にフラストレーションが溜まってしまう。
「いい加減にして、私は――」
「菫子さん」
苛立ちを滲ませた声が、紫さんが発した私の名前で掻き消される。それだけで、周囲の空気が、一層冷え込んだような気がした。雰囲気に気圧され、口を噤むしか無かった。
「貴方にとっては残酷な事実――受け入れられない、承服しかねる事実だけれど、真実は無限に存在するの。故に、貴方にとって最良の選択肢を選んでいい。貴方が、決めていいわ」
頑なと言えるほど目を合わせないその横顔を睨み付けながら、臆すること無く、反論する。
「真実が無限? そんなの詭弁だわ。自我の数だけ主観があるだけ。客観的な真実は、一つよ。そして私が知りたいのは、客観的な真実。私が決めたわけでは無い、誰かの主観が混じったものでも無い、あるがままの真実よ」
途端、紫さんはまたもくすくすと笑った。
「なんですか」
「私の前置き通りの反応だったから。それに、いつか何処かで、似たようなセリフを聞いた気がして。或いは、いつかまたどこかで聞くことになる、かしら?」
意味深長なくせに、核となる部分は曖昧にする発言。私の神経を逆なでしたいのか、ただ会話を楽しもうとしているのか。それとも、何の意味も無いのか。意図を探るべく閉口し、一言一句を脳内で反芻していると、
「さっき貴方が展開した推理は、証拠が全て真実に繋がっているに違いないという思い込みを元にした、当て推量に過ぎないんじゃないかしら?
それぞれが、全くもって無関係な――互いに独立した、別々の事象かも知れないという可能性を考慮せずに組み立てられている、ね」
仮説の否定。咄嗟の言い返しを封じるかのように、紫さんは言葉を続ける。水槽に目線を向けたまま。
「貴方が言うように、私達と未来の秘封倶楽部の間に、繋がりや関連性が存在しているとして、貴方に発見されたら明らかに混乱させ、反発されるであろうそのメモは、真っ先に存在を抹消しているはずでしょう? デメリットでしかないのだから」
紫さんの横顔から、手元の紙に視線を移す。確かに、こんな常識外れな内容を知って、私が興味を持たないわけが無い。秘封倶楽部が絡んでいれば、尚更だ。
「……でも、こうして聞くことも織り込み済みだとしたら……」
「こんなに反発されているようでは、壮大な計画はあえなく頓挫すること必至ではなくて?」
「うっ……」
思わず、言葉を詰まらせてしまう。紫さんと顔を合わせたのは最近だが、彼女は妖怪の賢者――幻想郷の代表的存在。私のことは深秘異変の頃から知っていただろう。
つまり、どういう性格をしているのか、どのような思考パターンを有しているのか、把握するには十分な時間が経過している。
私が言ったとおり、マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子を出逢わせる未来のために、表や裏で奔走しているのだとしたら、私の気質を慎重に加味して計画を修正し、障害は予め排除するだろう。そこを怠るような存在ではないのは、理解している。
私が想定した過去を有する紫さんにとって、メモを残しておく選択は、百害あって一利なし。即ち、椅子に腰掛けて水槽を見つめている紫さんは、メモで不利益を被る存在では無い。よって、私の想定は間違っていて、未来の秘封倶楽部と私達は無関係である。……一応、筋は通っている。
「……実際、どうなの?」
「そんな悲劇があったら、歴史となって憶えているでしょうね」
何も反論できなかった。推定無罪というわけでは無いが、疑いは保留しても良いだろう。大きく溜め息を吐き、肩を落とす。
……それにしても。
「歴史? 妖怪は長寿で超人的なんだから、余すことなく全て覚えているんじゃないの?」
「人以上の力を有しているからといって、絶対的で永続的な力があるわけではありませんわ。
――妖怪の記憶は六〇年で区切りがつきます。日常的な記憶は消え、非日常、特筆すべき情報が記録となり、歴史となる。故に、菫子さんが考えた悲劇が事実なら、私は歴史として記憶しているでしょう」
記憶だって主観に過ぎない。つまり、私では嘘かどうか証明出来ない、と主張しようとした。しかしそれは、先程自分が話した、未来の秘封倶楽部を視た夢 も纏めて否定する事態に繋がってしまう。
紫さんとマエリベリー・ハーンとの繋がりは、迷宮入りしてしまった。しかし、私と宇佐見蓮子との繋がりはまだ不明瞭で、何より、未来に秘封倶楽部が存在することは、依然としてれっきとした事実。この線をどう確認するか……。また都合よく、未来の夢が視られるのを待つしかないのか……? それとも、超能力者として、未来視でもチャレンジしてみるか? それとも、紫さんを頼るか……。
あれこれ考えている内に、室内は再び静かになる。
数え切れないほどの魚達は、巨大だけれど、行き場がどこにも無い、限られた水槽の中で、同じ場所を延々と、ぐるぐると、泳ぎ続けている。それは、私の思考のようだった。それとも、私が置かれている現状そのものか――。
深海のように沈殿し、不動とも思えた沈黙を破ったのは、またも紫さんだった。
「貴方にとって、未来に秘封倶楽部が存在すると、都合が悪いの?」
「都合が悪いかどうかは、事実を確認してから決めます」
先程彼女が言及したように、自分が気に掛けていたことは全て憶測で、推測で、たられば、可能性に過ぎない。それを曝くのが秘封倶楽部。曝いた結果が私自身にどのような影響を与えるのかは、その後に考えればいい。今まで、ずっとそうしてきた。
「態度は保留している、と? でも、最初の突っかかり方は、純粋な疑問の提示より、不定形な何かに対する嫌悪感を剥き出しているように、私には感じたわ」
指摘され、想起する。確かに、態度としては、せっついていると捉えられかねないほど、前のめりになりすぎていたかも知れない。でもそれは、邂逅したことの無い形態の不思議を前にして、取り乱していただけでは無いだろうか。
私は、何かを憎んでいるのか?
またも思考の堂々巡りを始めた私に対し、紫さんは親身に声を掛けた。
「うーん。菫子さん、私が思うに、貴方の疑問はもっとシンプルに出来ると思うの」
「シンプル、に?」
要領を得ないアドバイスに、目をしばたたかせる。
「たとえば……もう少し近しい未来が確定しているとしたら?
貴方が今何を考えていたとしても、どんな行動をしていたとしても、将来は安寧が約束されているとしたら? 貴方が望む望まないに限らず、恐怖のどん底だったり、運勢が最悪な状態でも、第三者が介入し、強制的に、無理矢理、幸せにさせられるとしたら、どう思うかしら?」
幸せ、幸福、ハッピー。それが、約束された未来。
何を持って幸せとするかは、人それぞれだろう。それでも、普通の人間の理想を混ぜ合わせ、
平均化すれば、安心して生きていける環境が保証されている状態、と定義は出来るだろう。
そんな未来は、喜ぶべきなのだろうか。いくらでも怠惰が許容され、気を抜くことが出来る環境。何があっても最終的にゴールへ辿り着いてしまう、ロードマップ。
それはまるで、目前の水槽のような物だ。
餌は必ず与えられ、醜く激しい争いは決して起こらず、ずっと悠々自適に泳ぎ、生きていける世界。あの魚達は、いつ捕食されるかも分からない、危険に満ちている外界と比べれば、楽園のような世界で生きている。確かに、幸せなのかも知れない。
なら、私は? 私も、誰かに――それこそ、箱庭の外側から食物を与えられ、安全を保証され、友に慕われ、煩わしい人間が誰一人居ない世界で生きていたら、幸福なのか?
違う!
誰かに齎される安心、幸せなど、余計なお世話だ。ありがた迷惑なだけ。
私は、何者かに――外の世界の誰かだろうが、神様だろうが、慈悲を請うつもりは無いし、感謝の念を抱きながら受け取るつもりも無い。
私の未来は、他ならぬ私が決めるのだ。
行き着く先が、明るくとも、暗くとも。
考え事をしていると、いつの間にか紫さんに横顔を覗かれていた。やっぱり、とでも言いたげな笑みを浮かべている。顰め面でもしていたのだろうか。少し恥ずかしい。
すると、紫さんはすくっと立ち上がり、前方の席を乗り越え、ひょいと宙を飛んだ。紫のドレスが優美に棚引く。深い藍色の中へと、融けていくかのように。
そのままゆったりと巨大水槽の前に降り立ち、私を然と見つめながら、紫さんは言った。
「菫子さんには、未来の秘封倶楽部との関係以上に、恐れ、忌み嫌っているモノがある」
「私が、嫌っているモノ?」
「未来が、何かによって、既に決まっているかも知れない、という可能性よ」
◆
再び歩き出した紫さんの後を追うと、不思議な展示室に辿り着いていた。両側の壁が緩くカーブを描いている、円形の部屋。その中に、円柱型の水槽が幾つか並んでいて、形も大きさも様々な海月が、下部のライトにより照らされながら、ゆったり不規則に動いていた。
紫さんはマッシュルームのような形状の海月を眺めていた。背後から近づくと、示し合わせたように話しだした。
「これから訪れる未来は、既に何かによって――運命とでも呼びましょうか――決まっているのかしら? どう足掻こうとも、運命には逆らえないのかしら? 覆水が盆に返らないように。落ちた林檎がひとりでに枝へ戻らないように。
けれどそれは、不幸だと嘆くべきこと? 嫌悪すべき事象? 起こるべくして起こるのなら、たとえ不幸な事象が待ち受けていようとも、心の準備が――覚悟が出来る。右も左も分からず、存在するかも漠然とした希望に縋って足掻くよりも、これからの事象を把握し、覚悟を済ませている方が、幸せでは無くて?」
「……それは、覚悟じゃないわ。諦めって言うのよ」
あるがままを受け入れるのは、寛大では無い。ただ、何も考えていないだけ、思考が停止しているだけだ。私は、狼に付き従ったり、大いなる存在に盲目的に付き従うような、迷える子羊では無い。目前の、循環する水流に流されるまま生きている海月でも無い。
自ら思考し、自ら行動できる存在だ。
「未来は、選択肢を選んだ瞬間に、その数瞬先だけがはっきりするだけ。それ以外は、可能性に満ちている。そう、信じている。何が待ち受けていようとも、何度も何度も、選んで選んで選び抜いて、その時考え得る最良の未来を、自分自身で掴み取るわ」
根拠なんて無い。でも、私は想う。
誰かなんて居なくていい。
運命なんて、決まっていない方が断然良い。誰かに決められているのだとしたら、私はそれを蹴っ飛ばしてやりたい。
敷かれた線路上を転がるのでは無く、自ら道を作りたい。
……つまり、選択の連続――事実の積み重ねだ。事実を選び取るということは、真実を選ぶことに相違ない。図らずも、紫さんがさっき口にしていたことと合致していた。
掴み得た解釈の強度を試すかのように、紫さんは質問してくる。
「未来が未確定なら、世界は選択の数だけ分岐していき、それこそ無数に平行世界が存在するようになると思うのだけれど、どうかしら」
「平行世界、ねぇ……」
未来が――真実が、人々の意志で選ばれるのなら、同様に世界も無限に増えていく。どんなに都合の悪い世界でも、存在するということになる。
つまり、未来に秘封倶楽部が存在する世界も、存在しない世界も、肯定しなければならない、ということだ。
加えて、メモを残した秘封倶楽部と、私が夢で視た秘封倶楽部でさえ、同一であるという保証は何処にも無くなってしまう。……なるほど、点と点が結びつかないかも知れないという紫さんの指摘は、このことだったのか。
しかし、これでは別の問題が発生してしまう。
……モノは、数が少ないからこそ、価値が高まる。
世界が無限に存在してしまえば、世界一つ一つの価値は、相対的に下がっていくばかりだ。極論だが、たとえ、今の自分が最悪な状況に陥っていたとしても、別の世界の自分が幸せなら、それでいいと割り切ることも可能になってしまう。
つまり、今の自分自身を容易に切り捨て、諦めるという選択肢が浮上するのだ。
それは、何かにより確定された未来を受け入れている世界と、何ら変わりが無い。
ゼロも無限大も、数えられない点からすれば、どちらも同じ。
全能の神も、無力な奴隷も、双方別の理由から、何も出来ないのと同じように――。
……確かに、今の私が全てでは無いのかもしれない。
もしかすると、深秘異変を起こさなかった私が居るかもしれない。超能力で世界から注目を集めている私が居るかもしれない。同級生を殺めて、瓦礫の中で一人佇んでいる私が居るかもしれない。世界が無限に存在することを知って、別の可能性世界に何度も渡り続ける私が居るかもしれない。
私が羨む、より良い私が、何処かに存在するかも知れない。
――ひょっとすると、未来の秘封倶楽部に固執しているのは、彼女達が羨ましかったから、というのもあるのかもしれない。この、誰もが違う世界を見ている中で、あの二人だけは、同一の世界を共有している、そんな気がしたから。
現でも――きっと、夢でも。
しかし、私が直面している現実は違う。
認識できる世界は、目前のものただ一つで。
そこに連なる因果は、今ここにいる私自身の選択によって積み重ねてきた物に他ならなくて。
「――ああ、だからか」
世界が無限にあろうとも、真実が無数にあろうとも、他ならぬこの私が選択したから、意味があるのだ。価値があるのだ。
不意に、ドッペルゲンガー達と邂逅した事件を思い出す。あの時の私は、諦めなかった。私自身が偽物である可能性なんて、露ほども疑わなかった。
当時は我武者羅に、ただ勢いで思い込んでいただけ……答えを先に手にしていただけだった。けれどその答えは、無根拠で場当たり的なものではなく、私の中に道筋が確かに存在していたのだ。
瞬間、円柱を照らしていた明かりが消え、先へ続く通路がライトアップされた。一筋の道からは、少し進むと、複数に分岐している。矢印も何も無い。
隣で佇む紫さんを見上げる。こちらの視線に気付いた彼女は、通路を見遣ってから、私に微笑んだ。選べ、ということだろう。
言われるまでも無く、私は選んだ。自信を持って。堂々と。
闇に浮かぶ海月が、手を振っているような気がした。
◆
通路の先は扉が待ち構えており、その先には、海岸が広がっていた。
予想外の到達点に、思わず目をしばたたかせる。打ち寄せる波の音、遠くで鳴く海鳥の声。靴の裏からする、独特な砂浜の触感。海に来たのは、一体いつぶりだろう?
太陽はまだ昇ってきていないが、空は夜の闇が薄れ、薄暗い青に染まっていた。こんな色があるだなんて、私は知らなかった。
「綺麗ね」
紫さんが、私の心情を代弁したかのような言葉を口にした。
磯の香りを思いっきり吸い込む。馴染みの無い匂いに少し口元を緩めてから、紫さんに気になっていた質問を投げかけた。
「無数にある世界は、紫さんにとっては等価なの?」
境界を操る妖怪。物理的な境界から、論理的な境界までをも操作する、唯一無二の存在だ。夢の世界にまで介入してくるし、きっとこちらの世界にだって遊びに来れるのだろう。時間操作の可能性だって、彼女自身、否定はしなかった。
なら、今の世界と、あるかも知れない可能性世界の境界さえ、渡ることが可能なはず。
それは、私が危惧した、世界の選択に繋がってくる。
可能性世界を渡る力。それこそ、都合の良い第三者、上位の観測者、運命を決定する誰かに匹敵する力に相違ないのではないか。
その心配を一笑に付すかのように、紫さんは口を開いた。
「可能性、たらればに想いを馳せられるのもまた、人間の特権ですわ。
今在る自身が最良な選択の上に居ると自負している。それが妖怪という存在。故に、可能性世界には、露ほども興味ありませんわ」
意外な答えに、素直に驚いた。自らの意志で選択しているから、今この瞬間を形作る世界に価値があるという、私が至った考えと同じだったから。
「妖怪は自信家なのね」
「貴方もそうでしょう?」
紫さんも、自分が同様の結論に達していることを見抜いていた。
「じゃあ、そのうち妖怪になったりして」
「霊夢が聞いたら激怒しそうね」
一緒になって笑う。波の音に混じって、浜辺に私達の笑い声が満ちる。同時に、空が、ゆっくりと白み始める。
「今でも、未来の秘封倶楽部との関係は気になる?」
唐突に聞かれたが、もう答えは決まっていた。ゆるゆると首を振る。
「今はもう、気にしてないかな」
私が今、様々な選択を経て秘封倶楽部を設立し、こうして立っているように、彼女達――宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンもまた、幾度も選び取ってきた結果、未来の可能性世界の何処かで、ああして存在しているのだろう。今は素直に、それを尊重したい。
私に遠く及ばないとしても、二人という私には無い点を活かして、今の秘封倶楽部とは似ても似つかない活動をしているのかもしれないから。
「決めるのは、あの二人だもの」
未来に秘封倶楽部が居る、可能性世界。それは今の私と繋がっているのだろうか?
目前に広がる果てしない海だって、世界中何処へだっていける可能性を秘めているが、船の漕ぎ方によっては、北海道に行くかも知れないし、ハワイに行き着くかも知れないし、難破して沈没するかも知れない。
そうであっても、私の行動に変化は無い。強い信念を今一度抱き、果てしない大海原に向かってオールを漕ぐだけだ。
「――でも、そう易々と、まざまざと、乗っ取らせたり引き継がせたりなんかはさせないわ。未来の秘封倶楽部を泣かせるくらい、私が秘密を曝きまくってやる!」
「嫌な先輩ね」
「秘封倶楽部を名乗るくらいなんだから、それくらいで怯まないで欲しいわ」
静かなる群青――Silent Blueは、やがて朝日で紅く燃え、白んできた。世界が明るくなっていく。一点の曇りも、迷いも無くなるように。
いつか現れるかも知れないあの二人にも、この澄みわたる空と海を見て欲しい。そんな思いを馳せる私が居た。
私、宇佐見菫子は、都会で生きる現代っ子だ。
故に、畳が何畳も敷き詰められているだだっぴろい大広間の真ん中で、正座して人を待つなどという経験は、今現在が初めてだった。ちなみに、足は絶賛痺れています。誰か助けて。
苦悶の表情を浮かべている私と相反するように、中庭の景色は穏やかで。夕日に照らされた桜は、随分と新緑が目立っている。しめ縄が巻かれていて、桜の根元辺りに鎮座している、そこそこ大きな石には、所々に桃色の花弁が散りばめられていた。
風情のあるお庭……。流石、幻想郷の中でも由緒正しい家柄のお屋敷だ。
感心していると、縁側の向こうから、待ち人が漸く現れた。
九代目当主、稗田阿求。そう、ここは稗田家邸宅の一室だ。何やら話があるらしく、人里をぶらぶらしている最中に彼女の侍女に呼び止められ、半ば無理矢理連れてこられたのである。用があるなら自分から出向くのが筋だと思うのだが……。流石、唯我独尊を自称する存在ばかりの幻想郷、その書記を担当していることだけはある……のだろうか?
「ま、待たせたんだから、それ相応に重要で重大な要件があるんでしょうねぇ?」
眉をひくつかせつつ、遠く離れた上座にちょこんと座った書記を睨み付ける。
「申し訳ありません。何分、目的の物を取り出すのに少々手間取りまして……」
「見つけてから呼んでよ!」
「一刻も早く伝えたかったので。善は急げと言うでしょう? ……というか、別に正座して待つ必要はありませんでしたよね?」
「た、確かに……」
思わぬところをツッコまれてしまった。畳の上では正座という先入観があった所為だ。
「兎に角、何の用なの?」
「おほん。これを見たら、きっと目の色が変わりますよ」
稗田さんは意味ありげに断言してから、自身の目前に小さく平たい桐箱を置いた。それが目的の物とやらなのだろうか。彼女はそのまま動かず、話が先に進むことは無かった。ぽくぽくと木魚が鳴らされそうな長い間と共に、私は察する。……取りに来いということですか。
しかし、足が痺れて立ち上がれそうに無かったので、サイコキネシスで手元に引き寄せた。超能力はこういう時に便利だ。無駄遣いとか言わない。
箱を手に取る。オカルトパワーも何も感じない、ただの軽い桐箱。当主へ断りもせず、軽い気持ちで開けてみる。中には、一枚の紙切れが入っていた。
しわしわで、薄汚れていて、かなり古臭い紙であることは容易に分かった。ついでに、書かれている文章を目で追う。
――――――――
夜の竹林ってこんなに迷う物だったかしら?
携帯電話も繋がる気配は無いし、GPSも効かないし、珍しい天然の筍も手に入ったし、今日はこの辺で休もうかな……って今は夢の中だったっけ?
しょうがないわ、もう少し歩き回ってみようかしら。
それにしても満天の星空ねぇ。
未開っぷりといい、澄んだ空といい、大昔の日本みたいだなぁ。
タイムスリップしている? ホーキングの時間の矢逆転は本当だった?
これで妖怪が居なければもっと楽しいんだけどね。
そうか、もしかしたら、夢の世界とは魂の構成物質の記憶かも知れないわね。
妖怪は恐怖の記憶の象徴で。
うーん、新説だわ。
目が覚めたら蓮子に言おうっと。
さて、そろそろまた彷徨い始めようかな。
――――――――
「……何これ?」
「迷いの竹林で発見されたメモであり、数ある未解決資料の一つです。人里で流通している幻想郷縁起からは省かれている部分ですが……」
「確かに、私が鈴奈庵で買ったやつにはこんなもの無かったけど、そうじゃなくて……」
文章中にちりばめられている単語は、明らかにこちら側の世界で使われている物だ。そして、夢の中や夢の世界という、一際目を引くワード。これではまるで、自分と似た状況にある外の世界の人間が書いたかのようではないか――。
「裏を見てください」
混乱し、困惑する私を余所に、書記は先へと促す。一抹の不安を胸に抱きながら、裏を捲る。
そして……我が目を疑った。
『秘封倶楽部 マエリベリー・ハーン』と書かれていたからだ。
秘封倶楽部は、この私が一から考案し名乗っているサークル名であり、私を除けばこちら側の世界では誰も――高校入学当初に人除けとして使ったが、既に忘れられて久しいだろうし――知らない名前だ。
それが、どうして、こんなところに? 嫌がらせ? 質の悪いいたずら? マエリベリー・ハーンとは一体誰? 私の周辺に、そんな名前の他人は居ない。偽名?
「どういう、こと……なの?」
疑問が錯綜する思考回路へ畳み掛けるように、稗田さんは更なる情報を口にする。
「このメモの蒐集時期ですが、私の数代前の時代――数百年前となっています。
私が知りたいのは、貴方が生まれる遙か以前から在る、このメモに書かれた『秘封倶楽部』との関係です。何か知っていますか?」
足の痺れなんて、意識の埒外へと追いやられていた。
蹲るように背を丸め、ただ呆然と、紙を――唐突に現れた謎を、凝視し続ける。
幻想郷に遊びに来られるようになって暫く経つ。その間に出逢ってきた謎や不思議の中で、今突きつけられているこれが、間違いなく最大級のオカルトだった。
◆
桐箱を片手に、稗田家のお屋敷を後にする。何かしら真実が判明するまで、預からせて貰うことにしたのだ。阿求さんは快く承諾してくれた。元よりそのつもりだったのだろう。
先程は、衝撃の情報に面食らい、頭が真っ白になってしまったが、時間が経つと落ち着いてきた。人里の大通りを歩きながら、冷静に分析し始める。
そもそも、数百年前には携帯電話もGPSも存在しないし、あの類い希なる天才物理学者ホーキングだって影も形も無い。秘封倶楽部というワードは、私が思いつく以前、つまり数年前までは、この世に存在していない。にもかかわらず、それが数百年も前に、別世界である幻想郷に残されていた? 冗談も大概にして欲しい。
しかし、仮に書き手の仮定と阿求さんの話が全て真だとするなら、「夢を視るというお手軽な方法で時間遡行し、かつ幻想郷に迷い込んだ現代人――しかも、秘封倶楽部を知っている!――が残したメモ」として矛盾無く説明できてしまう。
ぶんぶんと大きく首を横に振る。
いやいやいや、そんなの、絶対にありえない。妖怪が跋扈する神妙不可思議な世界である幻想郷でさえ、時間の流れは不可逆なのだ。そんな世界の原理原則――過去に戻ることは出来ないという前提、公理を覆してしまえば、文字通り何でもありになってしまう。
それに、夢を通じて幻想郷に来られる現代人が、私の他に存在するというのも、受け入れられない。夢幻病は、私だけの専売特許のはずなのに。
兎に角、このメモは必然的に、ごく最近に幻想郷で作成されたものとなる。
一体全体、誰がマエリベリー・ハーンを名乗っている? 何の目的で作成した?
最も怪しい人物は、メモを渡した稗田阿求さんだ。主犯格、或いは共犯者である可能性は極めて高い。次にあり得そうなのは、カセンちゃんかマミゾウさんだろう。二人共あちらで何度か逢ったことがある。外の世界の知識だって、少しくらいはあるはずだ。それか森近さんか、あとは、あの妖怪……。
では、目的は? わざわざ古めかしい紙を用意して、こちらの情報を盛った文章を書き記し、秘封倶楽部を騙り、私を混乱させる。いたずらや嫌がらせにしては、回りくどすぎる。不平や不満があるのなら、直接殴りかかっていくのが幻想郷流だ。そもそも、稗田さんはもとより、幻想郷の住民に恨み辛みを抱かれる心当たりが全く無い。普段の行動にだって、落ち度など皆無だと思っている。
つまり、悪意を動機に作成された代物では無い可能性が濃厚だ。
日が落ちてきているからか、道の端に展開されていた出店や露店は段々と店仕舞いを始め、子供達が童謡を口ずさみながら帰路についている。だが、私は帰れない。この謎に向き合い、仕掛け人に目処がついたら、問い詰めなければ。
悪意以外での作成理由として考えられそうなのは……誰にも知られず、私だけに何かを伝えたい、とか? このメモは真のメッセージへの道標で、謎を紐解いていくことで、一つの答えに辿り着く、とか?
うん、ありそう。そうと決まれば、具体的に何処がミステリーなのか、集中して深く考えていこう。自然と、歩くスピードが遅くなる。周囲の音が、遠のいていく。
まず、数百年前に発見されたという話。これは先程も考察していたとおり、時系列的にパラドックスを生じさせている。食い違う、あり得ない情報を伝えたいということなのだろうか?
次に、携帯電話もGPSへの言及。電波が届かない……私には容易に伝達できないから、こういう手段を取ったという意味?
「珍しい天然の筍」という記述。天然では無い筍なんてあるの? 筍を養殖しているなんて話、聞いたことが無い。いや、養殖というワードは水産業で用いる単語だ。野菜は栽培するもので、そこに天然だの何だのという区別は存在しない。もしかすると、農薬の有無に関する言及? 無農薬で栽培された事を、天然と称している? 幻想郷には化学的な農薬は無さそうだが……。比喩表現にしても、上手く当てはまるものが思いつかない。
星空への言及は、夜の空に手掛かりがあるということだろうか。時間の矢逆転は、確か物理用語だったような。帰ったら調べてみよう。夢の中、夢の世界というワードは、私の夢幻病を指している?
そして、蓮子とは誰だろう? 目が覚めたらということは、こちら側の世界に蓮子は居る? 蓮子なんて名前、知り合いに居たか……? そもそも、幻想郷で書かれた物に、どうしてこちら側の人間の名前が指定されているんだ? 「目が覚めたら」を「文章を読み終えたら」みたいに解釈すれば、幻想郷内に居る蓮子に逢えと、無理矢理辻褄を合わせられるけど……。
マエリベリー・ハーンという名前……偽名? も謎めいている。こちらは連想できる要素が何もない。
ぐぬぬ。上手いこと意図が読み解けない。他にも何か、この紙に重要な情報が隠されていたりはしないだろうか……。
唸りながら悩み出したその時。進行方向から見覚えのある人物を見つけた。
「あれは……」
ひょろりと伸びた細長い老木のような風貌に、小さな眼鏡、ぼさっとした髪型。森近さんだ。買い出しでもしていたのだろう。あっそうだ、彼に見せたら、追加で情報が得られるんじゃないか? ナイス発想だ。
手を振って駆け寄ると、森近さんも私に気が付いたようで、立ち止まってくれた。
「おや、宇佐見君じゃないか。人里で大人しくしているなんて、明日は雨でも降りそうだな」
「失礼ね、いっつも幻想郷の何処かで騒ぎを起こしているわけじゃあ無いわ。出不精の森近さんこそ、人里に居るなんて珍しくない?」
「霧……いや、旧い知り合いのところに用があってね。君こそ、どうして此処に?」
「稗田さんに呼び出されてさぁ……って、いいからいいから、とりあえずこれ見てみて!」
世間話をするために呼び止めたのでは無い。早速本題に入るため、例のメモを森近さんに突きつけた。
「このメモに、何か仕込まれていたりしない? 炙り出しとか、魔力が込められているとか」
彼の眼は、道具の名前と用途を見極めるのに特化しているが、思考力や観察力だって、特別では無いにせよ秀でている。私では普通のメモにしか見えないが、森近さんなら発見があるかも知れない。
けれど。
「うーん、見たところ数百年前に書かれた、ごく普通のテキストだということしか判らないね。特異な細工が施されてもいない。至って特徴のない、古文書さ」
「――え、書かれた、って……」
彼がさらりと口にした客観的事実は、私の予想を大きく裏切るもので。
「も、勿論、用紙が古いってだけで、書かれたのはごく最近よね?」
頬を引き攣らせながら、一応確認する。
「いいや、劣化状態からして、書いた時期も数百年前だろうね」
しかし、その僅かな望みさえ肯定されなくて。
主犯に脅されて嘘を吐かされているのだと思いたかったが、森近さんが平然と詐欺を行える人ではないのは知っている。
彼が口にしている情報は、確かな事実なのだろう。
だからこそ、今生きている誰かが私に向けた暗号なのだという前提が、お遊びの類い、無邪気なリドルなのだという前提が――或いは、私が縋った思い込みが、あっけなく、水泡に帰してしまう。
目の前が真っ暗になったような気分だった。周囲の音が、鼓動の音が、ノイズが、段々と大きくなり、脳を揺さぶられているような感覚に陥る。
「それにしても、このメモは君と関係があるのかい? 秘封倶楽部と書かれているけれど……」
「……ごめん森近さん、急に呼び止めちゃって。それじゃ……」
「え? あ、ああ……って宇佐見君!? 僕の質問には答えてくれないのかい!?」
一人になりたかった。
静かな場所で、落ち着きたかった。
森近さんには悪いが、無理矢理会話を中断し、どこへともなく歩き出す。矛盾の固まりを、手にしながら。
数百年前の幻想郷で、現代の知識を有した者が、秘封倶楽部を騙り、メモを書き残している。
タイムスリップでもしていない限り、ロジックが成り立たない事象。
テストで解けない問題と遭遇したときとは訳が違う。不可解で、不快で、不吉な質感を伴ったパラドックスは、私の脚に絡まって離さないかのように、すぐそこで強烈な存在感を放っていた。……怖い。久しぶりに、恐怖している。
今はもう、何も考えたくない。人里の明るい雰囲気さえも煩わしい。
私に残された選択肢は、現実に戻り、ふて寝することだけだった。
◆
私が突っ立っている道路は、左右共に何処までも真っ直ぐ伸びていて、彼方には、夜の闇と殆ど同化している山が薄ぼんやりと見えた。
道を挟むように、程々の高さの建物が並んでいる。しかし、殆どシャッターが閉まっていた。当然だ、見るからに真夜中なのだから。とはいえ、アーケードの雰囲気は伝わってくる。
建ち並ぶ店の数々は、伝統とモダン、古とハイカラが混ざり合って、溶け合って、交織されている。相反する要素が融けあい共存している様は一種の混沌であったが、情報量は何処か落ち着いていて。
夜分故に、人通りが殆ど無いからか、辺りはとても静かで。遠くで響く、コンチキチンという独特な祭り囃子が、鼓膜を優しく撫でてくる。情緒的ではあるが、そんな雰囲気を壊すかのように、大気は蒸し風呂の如く暑かった。所謂、熱帯夜か。
特筆すべきは、道端に建っている物だった。
周囲の建物に負けず劣らずな高さを誇る、櫓のような建造物。豪華絢爛な装飾、下部には車輪が取り付けられていて、前後には多くの提灯が吊されており、幻想的な雰囲気を醸し出している。
テレビやネットで見たことがある。確か、山鉾という奴だ。
ということはつまり……。周囲の標識を眺め、確信する。四条通――ここは、京都だ。
関東に住んでいる私からすれば、殆ど無縁な近畿の一地方都市。接点を強いて挙げるなら、中三の修学旅行で行ったことぐらいか。
……そもそも、なんで私は京都に居るんだ? 確か、自宅で就寝していたはず……。つまりこれは、夢? だが、ただの夢、私の記憶が生み出した曖昧な京都では無いようで。
夢幻病と同じような、確かな実存感を伴う、現と地続きな夢――。まさか、こちら側の世界? 夢を介して、現実の京都にテレポーテーションしてしまった?
違う、祇園祭は七月のお祭り。今は五月だ!
それ以上に、何かが決定的に違う。空気が――雰囲気が。まるで、私だけ全く異なる位相に居るかのような、自分だけ流れに逆らっているかのような、そんな違和感が、全身をチクチクと突いている。
その差異の正体は、周囲を観察していると、すぐに明らかになった。
夜空には、常識では考えられないほど頻繁に、そして静かにドローンが飛び回っていて。遠くで垂直に交差する通りを、低床電車が滑るように走っていて。四条通を歩いている僅かな人の手には、私が知っているようなスマートフォンでは無く、空間上に投影されたスクリーンがあって。
まさか。開いているコンビニに駆け込んで、陳列されている食品の賞味期限を確認し、目を見張った。
私が生きている時代よりも後――未来だった。
いつの間にか、時空を越えていた。
コンビニを後にし、山鉾を見上げつつ考える。私が生きているかどうかさえ怪しい未来でも、山鉾の姿は、現代と何ら変わりない。
……まるで、あのメモの内容と同じ状況だ。唯一の違いは、あちらは過去に戻っていて、私は未来に飛ばされている点。
超能力者として、時間操作能力が唐突に身についたのだろうか? だとすれば興味深い話だが、感覚として、自らの意志や力が能動的に作用した現象では無いことはなんとなく分かる。
この曖昧な感覚をどうにか言語化すると、何かに、引き寄せられたかのような。誰かに、手を引っ張られたかのような……。
すると不意に、背後に気配を感じた。同時に、ぞわりと悪寒が走る。
直感で悟った。今此処に居る原因は、後ろに立っている何かだ、と。同時に、振り返り認識してしまえば、何もかもが崩れてしまうような、取り返しのつかない結果が待ち構えていることも。
どちらも、過程や理屈がすっ飛ばされた勘のような代物だったが、その情動にも似た不確かな感覚に焚き付けられて、私は駆け出した。文字通り、夢中で逃げた。
「あ、待て!」
呼び止める声が聞こえたが、知るもんか。四条通を離れ、北に延びる細い通りに入る。だが、このまま走り続けているままでは振り切れない。再び背中を捉えられたらアウトだ。なので、あえてすぐまた別の筋に――錦小路通に入る。これを何度か繰り返せば、撒けられるはず。
しかし。
「
行く手を阻むように、人間がひょいと現れた。こちらの考えを読まれていたのか、と驚いた刹那、別の事象でも驚愕した。
茶色掛かった黒髪に、白いリボンが巻かれた中折れ帽を被った少女。そう、逃走を妨げてきた彼女の顔立ちや姿見が、私と酷似していたのだ。
「読みは当たっていたわね。流石」
不意に響く声に、反射的に振り返ると、別の少女が立っていた。
紫色のワンピース、セミロングのブロンドヘアに、白いナイトキャップを被った少女。あの妖怪と、瓜二つな外見。
ドッペルゲンガーを見た時とは比にならないくらいの、嫌悪感、気味の悪さ。まるで、歪な鏡を見ているかのようだったから。それとも、或いは……?
「それほどでも。にしても、妖怪が揺らいで見えるって話、本当だったのね」
「ちょっと、信じてなかったの? 心外だわ」
じわりじわりと、にじり寄ってくる二人。想像の埒外な展開の連続と、全身を襲う不快感。しかし、その暑さとは別の汗が噴き出し、眼鏡はカタカタと揺れる。膝が、笑っていた。
「貴方達、何者なの……?」
過呼吸で震える喉から咄嗟に出た言葉は、率直でアバウトな疑問だった。
独り言めいた声だったが、幸か不幸か、二人の耳には届いていたようで。
「よくぞ聞いてくれました。意思疎通が出来るオカルトなんて初めて!
私の名は宇佐見蓮子! 星を見ると現在時刻が、月を見ると現在位置が分かる眼を持っているわ!」
全身をモノトーンカラーで包んでいる少女――宇佐見蓮子は、私に近づきつつ、自信満々に、堂々と、ノリノリで、そしてハイテンションで答えた。
……蓮子? それって――。
思考が連鎖反応を引き起こす前に、宇佐見蓮子に促され、もう一人の少女が口を開く。
「私はマエリベリー・ハーン。蓮子にはメリーって呼ばれてる。結界の隙間、境界を見る眼を持っているわ」
考えるまでも無かった。想像するまでも無かった。
宇佐見蓮子に、マエリベリー・ハーン。
あのメモのに記載されていた人物。
故に、次に発されるであろう台詞は、分かりきっていた。
やめて、聞きたくない……! 遮ろうにも、言葉が出てこなくて。耳を塞ぎたくても、手は痺れて動けなくて。
「そして私達は、貴方のような不可思議な存在を暴くオカルトサークル、秘封倶楽部よ!」
――未来の世界に、秘封倶楽部が存在している。
受け入れがたい現実、信じられない数々の点を示され、私にはどうすることも出来なかった。声を荒らげることも、拳を振り回すことも、ままならなかった。
どっと押し寄せる、苛立ち、やるせなさ、気持ち悪さ、そして――閉塞感。
「……って、なんで自己紹介する流れになってるわけ? つい乗せられちゃったけど」
「質問にはしっかり答える。それがマナーってものでしょう? メリー。当然、こちらの問いかけにも返答して貰うつもりだけど」
受け入れ難い未来を、ただただ、漠然と認識するしかなかった。後ずさり、ガシャンとシャッターにぶつかって、腰が引け、その場にずるずると座り込んでしまう。動けない。
一体全体、目の前の事実は、何なのだ。
「ねぇねぇ、貴方は――」
秘封倶楽部って、私って――。
「何者?」
見下ろす彼女らの手が届きかけたその刹那、私の意識は途切れた。
◆
同日未明。私は再び、幻想郷に来ていた。
点と点を結ぶために。自身の未来を確かめるために。
未だ上がる気配のない夜の帳に包まれ、ひんやりとした空気が漂う博麗神社の境内で、目的の妖怪は、こちらの行動ぐらいお見通しだと言わんばかりに、佇んでいた。
八雲紫。
事実を聞き出すために、躊躇せず3Dプリンターガンを引き抜き、銃口を向ける。
「……そんな物騒な物、他者に向けてはいけませんよ」
「これぐらいのことをされても、文句は言えないでしょ!」
神社の隅々にまで響くような怒声を飛ばす。就寝中であろうレイムッチへの配慮に欠くほど、冷静さを失っていた。
「貴方に訊きたいことが、山ほどある! 大昔に発見されたメモのこと、未来の秘封倶楽部のこと、宇佐見蓮子と私の関係、そして、マエリベリー・ハーンと貴方の関係! 隠し事全て、吐き出して貰うわ!」
私をドッペル達から助けてくれた紫さん。その優しさは、微塵も思い出せないほど、遙か遠くへ吹き飛んでしまった。
容姿、服装、境界を視る瞳。これだけ似通った要素を有していて、境界の妖怪を連想しない方が無理だ。絶対に、関係があるはず。
切羽詰まっている私に対し紫さんは、ゆらゆらと揺らめく陽炎のような薄い笑みを浮かべている。
「隠し事なんて無い、としたら?」
「その嘘を力尽くで訂正させてやる!」
肩に照準を合わせてトリガーを引く。念力で具現化した弾丸が放たれる。直撃コース。しかし、弾は紫さんが瞬時に展開した隙間に吸い込まれてしまう。私だって、一撃で倒せるとは思っていない。畳み掛けるために、走って距離を詰めつつ、標識をアポートする。
しかし、彼女は応戦してこなかった。それどころか、両の手をあっけなく挙げた。降参のポーズ。振り下げた標識は、紫さんにぶつかる直前で止めた。
「まあまあ。今日は物騒な事をする気分じゃないの」
「私はそういう気分!」
このままでは、腹の虫が治まらない。しかし、相手に反撃する気が無い以上、いくら攻撃したって、防御に全てを割いた妖怪相手に、フィジカルで劣る私が勝てる算段はゼロだ。
「代わりに、別の方法で、悩みを解決してあげましょう」
「……代わり?」
突如、紫さんの真横に、人一人が通れそうな隙間が開かれた。そこに足を踏み入れながら、私に手を差し伸べる。
「彼は誰時のデートに、付き合ってくれるかしら?」
苛立つ私に向けられた言葉にしては、あまりに優しく暖かく、話題から逸脱していた。
◆
隙間の先は、紺色掛かった空間が広がっていた。
神社の境内寄りかは、幾分か明るい。壁に備えづけられた間接照明のお陰だろう。しかし、やや低い天井が圧迫感を強め、実態より息苦しい印象を、私に抱かせていた。
何より奇妙なのは、左右に広がる光景で。
ガラス――否、透明なアクリル板の向こう側には、水が揺蕩っており、そこを大小様々な魚が泳いでいたのだ。
誰が見ても明らかに、水族館の中だ。ただし、説明書きの類いが一切無く、魚類に疎い私では、目の前を悠々と泳ぐ魚が何なのかは判別出来ない。
「ここって、幻想郷には居ない生き物が沢山見られるから、お気に入りなの。たとえばほら、あの魚は……」
困惑する私を余所に、無垢な少女のように瞳を輝かせながら、熱心に解説する紫さん。その妙な熱の入りようと、絶妙な蘊蓄具合に、思わず感心してしまい、つい聞き入ってしまった。が、今知りたいのは魚では無い。本来の目的を想起し、再び問う。
「で! 先程の続きですけど!」
ゆったり歩みを進め、隣の水槽へ移動する紫さんは、すっとぼけた調子で、
「何だったかしら?」
と口にした。
「はぐらかさないでください! 未来の秘封倶楽部のメンバーと、私達のことですよ!」
「そんなに急がなくてもいいでしょう? 日が昇るまで、まだ時間があるのだから。折角の水族館を楽しまないと」
「疑問を解消してくれたらね!」
強固な姿勢を堅持し続けたからか、紫さんは観念したようで、大きく溜め息を吐いてから、ぶっきらぼうに本筋の話題を投げてきた。
「そもそも、未来に秘封倶楽部があると、貴方はどうして思ったの?」
「夢で見ました」
「夢とはまあ、主観的な事象を根拠にするのね」
目線を水槽から外さず、指摘してくる。しかし、それは誤りだ。
「私の夢が特殊なのは知っていますよね? こうして幻想郷――ここが幻想郷なのかどうかはこの際棚上げして――に来ているのだって、現の私の睡眠がトリガーとなっている以上、私にとっては夢の延長線上。夢でもあり、現実でもある。故に、主観だと一蹴するのは間違い……というより、紫さんを含め、幻想郷全ての否定に繋がる」
「主観が誤っているとは口にしてないわ」
紫さんの反論の軸は、主観を論拠とするのは誤りだ、と解釈していたので、その点を肯定も否定もしない口ぶりが、意外で気掛かりだった。しかし、それよりも自身の推理を示すことの方が重要である。話を進めよう。
「私の主観的な話以外にも、ここに、客観的――物的証拠もある」
例のメモを、文字通り紫さんに突きつける。
霖之助さんの鑑定では、正真正銘、数百年の劣化が蓄積されているという。第三者からのお墨付きだ。そこに、未来人の名前が書かれている。秘封倶楽部というワードとともに。
夢で新たに得た情報を元に再考すると、このメモは、何年も先の未来で生きている人間――マエリベリー・ハーンが、何らかの手段で過去の幻想郷に遡行し、残した物ということになる。
「見覚え、あるんじゃないの?」
今でこそ、用いられている単語が現代社会に根付いているから内容をおおよそ解読できるが、無知で無関係な数百年前の人妖では、意味不明だったはず。それが捨てられず残されているのには、相応な動機が存在している――妖怪の賢者が絡んでいるとか――と考えるのが自然だ。
「そうねぇ、肯定しておきましょうか。稗田家に収蔵されている資料は、全て目を通していますから」
メモを一瞥するも、動揺する素振りすら見せない。水槽で漂っている魚のような、のらりくらりと躱す物言いで返事しつつ、先の水槽へと移動していく。
彼女を追いかけながら、背中に向けて疑問を投擲する。
「マエリベリー・ハーンは、どうやって幻想郷に来たの? 時間遡行能力を持っているの? 紫さんは、今と過去、今と未来の境界を操ることが可能なの?」
水槽内に再現された沼。そこでじぃと動かない緑色の蛙を見つめながら、紫さんは淡々と答えた。
「妖怪は今を生きる存在。過去も未来も、干渉するつもりはありません。故に、試してみたこともないわ。行うにしても、術式を考案したり、必要なエネルギー……魔力を溜めたり、相当の準備が必要でしょうね。
能力をこの目で見ていないから推測になるけれど……ハーンという存在が行えたのは、偶然と考えたほうが蓋然性が高いでしょう。サイコロを何度も振り続けていれば、賽の目を連続で当て続けられる状況があり得るのと同じように、ね」
試したことが無くとも、理論上可能であれば、私の推理にも説得力が出てくる。
「とはいえ、その気になれば出来るということは、たとえば、こういうことが考えられるわ。
――今から何年も先の未来で生きていたマエリベリー・ハーンは、境界を操る力が強くなりすぎて妖怪化、人間としては生きていけないから過去へ逃亡。八雲紫となって幻想郷を創り、今現在に至る……とか。
私はさしずめ、宇佐見蓮子の先祖ってところで、好き勝手やらせているのも、全てはマエリベリー・ハーンと出会わせる未来を作るため、とか? 秘封倶楽部は世襲制で、私の子孫が代々会長を務めている、とか?」
全ての点が違和感なく繋げられる推測。頭の中ではじき出した、受け入れがたい青写真。
紫さんは推理を聞いて、異様なほど柔らかい笑みを浮かべて見せた。
「突飛なことや偶然に繋がりを見出し、想像することこそが、人間らしさ。貴方はとっても人間らしい人間ね」
囃すような口ぶりでそう言うと同時に、別の水槽へと足を運んでいく。私の話など、メインでは無いのだと言わんばかりに。
「馬鹿にしてるの?」
背中を睨み付け、発言に楯突きながら、先程見せた笑みを想起する。事実、あれに悪意は感じられなかった。まるで、道端にひっそりと咲いている花を見かけた時のような、温柔で朗らかな微笑。裏表も無い、胡散臭さも無いその表情に、私は無理矢理影を見出そうとする。無駄だと悟っていながらも。
「馬鹿になんてしていないわ。むしろ褒めているのよ。小説家になったらどう?」
「今この瞬間、絶対にならないと決めたわ!」
通路を抜けると、別の水槽が待ち構えていた。映画館のスクリーンのような、特大アクアリウム。サメの仲間やエイ、ウミガメ、その他にも大小様々な魚が悠々と泳いでいる。海をまるごと切り抜いて、その側面を見ているかのようだった。
水槽の前には観覧席がずらりと設けられており、紫さんは丁度真ん中の席に腰掛けた。やや思案して、隣に座る。
沈黙が落ちる。裏で動いているポンプや魚による水飛沫の音が、巨大な群青色の空間に木霊し、独特なメロディを奏でていた。
八雲紫という牙城をどう攻略するか、改めて考えていると、先に彼女の方から動いてきた。
「私が保証できる事実なんて、どうでもいいの。何故なら、問題は貴方の中にあるのだから。
……貴方が、私達と未来の秘封倶楽部に、何らかの結びつきがあると考えるのなら、それは真になるかもしれない」
「はい?」
何を言い出すかと思えば、またも煙に巻くような発言。流石にフラストレーションが溜まってしまう。
「いい加減にして、私は――」
「菫子さん」
苛立ちを滲ませた声が、紫さんが発した私の名前で掻き消される。それだけで、周囲の空気が、一層冷え込んだような気がした。雰囲気に気圧され、口を噤むしか無かった。
「貴方にとっては残酷な事実――受け入れられない、承服しかねる事実だけれど、真実は無限に存在するの。故に、貴方にとって最良の選択肢を選んでいい。貴方が、決めていいわ」
頑なと言えるほど目を合わせないその横顔を睨み付けながら、臆すること無く、反論する。
「真実が無限? そんなの詭弁だわ。自我の数だけ主観があるだけ。客観的な真実は、一つよ。そして私が知りたいのは、客観的な真実。私が決めたわけでは無い、誰かの主観が混じったものでも無い、あるがままの真実よ」
途端、紫さんはまたもくすくすと笑った。
「なんですか」
「私の前置き通りの反応だったから。それに、いつか何処かで、似たようなセリフを聞いた気がして。或いは、いつかまたどこかで聞くことになる、かしら?」
意味深長なくせに、核となる部分は曖昧にする発言。私の神経を逆なでしたいのか、ただ会話を楽しもうとしているのか。それとも、何の意味も無いのか。意図を探るべく閉口し、一言一句を脳内で反芻していると、
「さっき貴方が展開した推理は、証拠が全て真実に繋がっているに違いないという思い込みを元にした、当て推量に過ぎないんじゃないかしら?
それぞれが、全くもって無関係な――互いに独立した、別々の事象かも知れないという可能性を考慮せずに組み立てられている、ね」
仮説の否定。咄嗟の言い返しを封じるかのように、紫さんは言葉を続ける。水槽に目線を向けたまま。
「貴方が言うように、私達と未来の秘封倶楽部の間に、繋がりや関連性が存在しているとして、貴方に発見されたら明らかに混乱させ、反発されるであろうそのメモは、真っ先に存在を抹消しているはずでしょう? デメリットでしかないのだから」
紫さんの横顔から、手元の紙に視線を移す。確かに、こんな常識外れな内容を知って、私が興味を持たないわけが無い。秘封倶楽部が絡んでいれば、尚更だ。
「……でも、こうして聞くことも織り込み済みだとしたら……」
「こんなに反発されているようでは、壮大な計画はあえなく頓挫すること必至ではなくて?」
「うっ……」
思わず、言葉を詰まらせてしまう。紫さんと顔を合わせたのは最近だが、彼女は妖怪の賢者――幻想郷の代表的存在。私のことは深秘異変の頃から知っていただろう。
つまり、どういう性格をしているのか、どのような思考パターンを有しているのか、把握するには十分な時間が経過している。
私が言ったとおり、マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子を出逢わせる未来のために、表や裏で奔走しているのだとしたら、私の気質を慎重に加味して計画を修正し、障害は予め排除するだろう。そこを怠るような存在ではないのは、理解している。
私が想定した過去を有する紫さんにとって、メモを残しておく選択は、百害あって一利なし。即ち、椅子に腰掛けて水槽を見つめている紫さんは、メモで不利益を被る存在では無い。よって、私の想定は間違っていて、未来の秘封倶楽部と私達は無関係である。……一応、筋は通っている。
「……実際、どうなの?」
「そんな悲劇があったら、歴史となって憶えているでしょうね」
何も反論できなかった。推定無罪というわけでは無いが、疑いは保留しても良いだろう。大きく溜め息を吐き、肩を落とす。
……それにしても。
「歴史? 妖怪は長寿で超人的なんだから、余すことなく全て覚えているんじゃないの?」
「人以上の力を有しているからといって、絶対的で永続的な力があるわけではありませんわ。
――妖怪の記憶は六〇年で区切りがつきます。日常的な記憶は消え、非日常、特筆すべき情報が記録となり、歴史となる。故に、菫子さんが考えた悲劇が事実なら、私は歴史として記憶しているでしょう」
記憶だって主観に過ぎない。つまり、私では嘘かどうか証明出来ない、と主張しようとした。しかしそれは、先程自分が話した、
紫さんとマエリベリー・ハーンとの繋がりは、迷宮入りしてしまった。しかし、私と宇佐見蓮子との繋がりはまだ不明瞭で、何より、未来に秘封倶楽部が存在することは、依然としてれっきとした事実。この線をどう確認するか……。また都合よく、未来の夢が視られるのを待つしかないのか……? それとも、超能力者として、未来視でもチャレンジしてみるか? それとも、紫さんを頼るか……。
あれこれ考えている内に、室内は再び静かになる。
数え切れないほどの魚達は、巨大だけれど、行き場がどこにも無い、限られた水槽の中で、同じ場所を延々と、ぐるぐると、泳ぎ続けている。それは、私の思考のようだった。それとも、私が置かれている現状そのものか――。
深海のように沈殿し、不動とも思えた沈黙を破ったのは、またも紫さんだった。
「貴方にとって、未来に秘封倶楽部が存在すると、都合が悪いの?」
「都合が悪いかどうかは、事実を確認してから決めます」
先程彼女が言及したように、自分が気に掛けていたことは全て憶測で、推測で、たられば、可能性に過ぎない。それを曝くのが秘封倶楽部。曝いた結果が私自身にどのような影響を与えるのかは、その後に考えればいい。今まで、ずっとそうしてきた。
「態度は保留している、と? でも、最初の突っかかり方は、純粋な疑問の提示より、不定形な何かに対する嫌悪感を剥き出しているように、私には感じたわ」
指摘され、想起する。確かに、態度としては、せっついていると捉えられかねないほど、前のめりになりすぎていたかも知れない。でもそれは、邂逅したことの無い形態の不思議を前にして、取り乱していただけでは無いだろうか。
私は、何かを憎んでいるのか?
またも思考の堂々巡りを始めた私に対し、紫さんは親身に声を掛けた。
「うーん。菫子さん、私が思うに、貴方の疑問はもっとシンプルに出来ると思うの」
「シンプル、に?」
要領を得ないアドバイスに、目をしばたたかせる。
「たとえば……もう少し近しい未来が確定しているとしたら?
貴方が今何を考えていたとしても、どんな行動をしていたとしても、将来は安寧が約束されているとしたら? 貴方が望む望まないに限らず、恐怖のどん底だったり、運勢が最悪な状態でも、第三者が介入し、強制的に、無理矢理、幸せにさせられるとしたら、どう思うかしら?」
幸せ、幸福、ハッピー。それが、約束された未来。
何を持って幸せとするかは、人それぞれだろう。それでも、普通の人間の理想を混ぜ合わせ、
平均化すれば、安心して生きていける環境が保証されている状態、と定義は出来るだろう。
そんな未来は、喜ぶべきなのだろうか。いくらでも怠惰が許容され、気を抜くことが出来る環境。何があっても最終的にゴールへ辿り着いてしまう、ロードマップ。
それはまるで、目前の水槽のような物だ。
餌は必ず与えられ、醜く激しい争いは決して起こらず、ずっと悠々自適に泳ぎ、生きていける世界。あの魚達は、いつ捕食されるかも分からない、危険に満ちている外界と比べれば、楽園のような世界で生きている。確かに、幸せなのかも知れない。
なら、私は? 私も、誰かに――それこそ、箱庭の外側から食物を与えられ、安全を保証され、友に慕われ、煩わしい人間が誰一人居ない世界で生きていたら、幸福なのか?
違う!
誰かに齎される安心、幸せなど、余計なお世話だ。ありがた迷惑なだけ。
私は、何者かに――外の世界の誰かだろうが、神様だろうが、慈悲を請うつもりは無いし、感謝の念を抱きながら受け取るつもりも無い。
私の未来は、他ならぬ私が決めるのだ。
行き着く先が、明るくとも、暗くとも。
考え事をしていると、いつの間にか紫さんに横顔を覗かれていた。やっぱり、とでも言いたげな笑みを浮かべている。顰め面でもしていたのだろうか。少し恥ずかしい。
すると、紫さんはすくっと立ち上がり、前方の席を乗り越え、ひょいと宙を飛んだ。紫のドレスが優美に棚引く。深い藍色の中へと、融けていくかのように。
そのままゆったりと巨大水槽の前に降り立ち、私を然と見つめながら、紫さんは言った。
「菫子さんには、未来の秘封倶楽部との関係以上に、恐れ、忌み嫌っているモノがある」
「私が、嫌っているモノ?」
「未来が、何かによって、既に決まっているかも知れない、という可能性よ」
◆
再び歩き出した紫さんの後を追うと、不思議な展示室に辿り着いていた。両側の壁が緩くカーブを描いている、円形の部屋。その中に、円柱型の水槽が幾つか並んでいて、形も大きさも様々な海月が、下部のライトにより照らされながら、ゆったり不規則に動いていた。
紫さんはマッシュルームのような形状の海月を眺めていた。背後から近づくと、示し合わせたように話しだした。
「これから訪れる未来は、既に何かによって――運命とでも呼びましょうか――決まっているのかしら? どう足掻こうとも、運命には逆らえないのかしら? 覆水が盆に返らないように。落ちた林檎がひとりでに枝へ戻らないように。
けれどそれは、不幸だと嘆くべきこと? 嫌悪すべき事象? 起こるべくして起こるのなら、たとえ不幸な事象が待ち受けていようとも、心の準備が――覚悟が出来る。右も左も分からず、存在するかも漠然とした希望に縋って足掻くよりも、これからの事象を把握し、覚悟を済ませている方が、幸せでは無くて?」
「……それは、覚悟じゃないわ。諦めって言うのよ」
あるがままを受け入れるのは、寛大では無い。ただ、何も考えていないだけ、思考が停止しているだけだ。私は、狼に付き従ったり、大いなる存在に盲目的に付き従うような、迷える子羊では無い。目前の、循環する水流に流されるまま生きている海月でも無い。
自ら思考し、自ら行動できる存在だ。
「未来は、選択肢を選んだ瞬間に、その数瞬先だけがはっきりするだけ。それ以外は、可能性に満ちている。そう、信じている。何が待ち受けていようとも、何度も何度も、選んで選んで選び抜いて、その時考え得る最良の未来を、自分自身で掴み取るわ」
根拠なんて無い。でも、私は想う。
誰かなんて居なくていい。
運命なんて、決まっていない方が断然良い。誰かに決められているのだとしたら、私はそれを蹴っ飛ばしてやりたい。
敷かれた線路上を転がるのでは無く、自ら道を作りたい。
……つまり、選択の連続――事実の積み重ねだ。事実を選び取るということは、真実を選ぶことに相違ない。図らずも、紫さんがさっき口にしていたことと合致していた。
掴み得た解釈の強度を試すかのように、紫さんは質問してくる。
「未来が未確定なら、世界は選択の数だけ分岐していき、それこそ無数に平行世界が存在するようになると思うのだけれど、どうかしら」
「平行世界、ねぇ……」
未来が――真実が、人々の意志で選ばれるのなら、同様に世界も無限に増えていく。どんなに都合の悪い世界でも、存在するということになる。
つまり、未来に秘封倶楽部が存在する世界も、存在しない世界も、肯定しなければならない、ということだ。
加えて、メモを残した秘封倶楽部と、私が夢で視た秘封倶楽部でさえ、同一であるという保証は何処にも無くなってしまう。……なるほど、点と点が結びつかないかも知れないという紫さんの指摘は、このことだったのか。
しかし、これでは別の問題が発生してしまう。
……モノは、数が少ないからこそ、価値が高まる。
世界が無限に存在してしまえば、世界一つ一つの価値は、相対的に下がっていくばかりだ。極論だが、たとえ、今の自分が最悪な状況に陥っていたとしても、別の世界の自分が幸せなら、それでいいと割り切ることも可能になってしまう。
つまり、今の自分自身を容易に切り捨て、諦めるという選択肢が浮上するのだ。
それは、何かにより確定された未来を受け入れている世界と、何ら変わりが無い。
ゼロも無限大も、数えられない点からすれば、どちらも同じ。
全能の神も、無力な奴隷も、双方別の理由から、何も出来ないのと同じように――。
……確かに、今の私が全てでは無いのかもしれない。
もしかすると、深秘異変を起こさなかった私が居るかもしれない。超能力で世界から注目を集めている私が居るかもしれない。同級生を殺めて、瓦礫の中で一人佇んでいる私が居るかもしれない。世界が無限に存在することを知って、別の可能性世界に何度も渡り続ける私が居るかもしれない。
私が羨む、より良い私が、何処かに存在するかも知れない。
――ひょっとすると、未来の秘封倶楽部に固執しているのは、彼女達が羨ましかったから、というのもあるのかもしれない。この、誰もが違う世界を見ている中で、あの二人だけは、同一の世界を共有している、そんな気がしたから。
現でも――きっと、夢でも。
しかし、私が直面している現実は違う。
認識できる世界は、目前のものただ一つで。
そこに連なる因果は、今ここにいる私自身の選択によって積み重ねてきた物に他ならなくて。
「――ああ、だからか」
世界が無限にあろうとも、真実が無数にあろうとも、他ならぬこの私が選択したから、意味があるのだ。価値があるのだ。
不意に、ドッペルゲンガー達と邂逅した事件を思い出す。あの時の私は、諦めなかった。私自身が偽物である可能性なんて、露ほども疑わなかった。
当時は我武者羅に、ただ勢いで思い込んでいただけ……答えを先に手にしていただけだった。けれどその答えは、無根拠で場当たり的なものではなく、私の中に道筋が確かに存在していたのだ。
瞬間、円柱を照らしていた明かりが消え、先へ続く通路がライトアップされた。一筋の道からは、少し進むと、複数に分岐している。矢印も何も無い。
隣で佇む紫さんを見上げる。こちらの視線に気付いた彼女は、通路を見遣ってから、私に微笑んだ。選べ、ということだろう。
言われるまでも無く、私は選んだ。自信を持って。堂々と。
闇に浮かぶ海月が、手を振っているような気がした。
◆
通路の先は扉が待ち構えており、その先には、海岸が広がっていた。
予想外の到達点に、思わず目をしばたたかせる。打ち寄せる波の音、遠くで鳴く海鳥の声。靴の裏からする、独特な砂浜の触感。海に来たのは、一体いつぶりだろう?
太陽はまだ昇ってきていないが、空は夜の闇が薄れ、薄暗い青に染まっていた。こんな色があるだなんて、私は知らなかった。
「綺麗ね」
紫さんが、私の心情を代弁したかのような言葉を口にした。
磯の香りを思いっきり吸い込む。馴染みの無い匂いに少し口元を緩めてから、紫さんに気になっていた質問を投げかけた。
「無数にある世界は、紫さんにとっては等価なの?」
境界を操る妖怪。物理的な境界から、論理的な境界までをも操作する、唯一無二の存在だ。夢の世界にまで介入してくるし、きっとこちらの世界にだって遊びに来れるのだろう。時間操作の可能性だって、彼女自身、否定はしなかった。
なら、今の世界と、あるかも知れない可能性世界の境界さえ、渡ることが可能なはず。
それは、私が危惧した、世界の選択に繋がってくる。
可能性世界を渡る力。それこそ、都合の良い第三者、上位の観測者、運命を決定する誰かに匹敵する力に相違ないのではないか。
その心配を一笑に付すかのように、紫さんは口を開いた。
「可能性、たらればに想いを馳せられるのもまた、人間の特権ですわ。
今在る自身が最良な選択の上に居ると自負している。それが妖怪という存在。故に、可能性世界には、露ほども興味ありませんわ」
意外な答えに、素直に驚いた。自らの意志で選択しているから、今この瞬間を形作る世界に価値があるという、私が至った考えと同じだったから。
「妖怪は自信家なのね」
「貴方もそうでしょう?」
紫さんも、自分が同様の結論に達していることを見抜いていた。
「じゃあ、そのうち妖怪になったりして」
「霊夢が聞いたら激怒しそうね」
一緒になって笑う。波の音に混じって、浜辺に私達の笑い声が満ちる。同時に、空が、ゆっくりと白み始める。
「今でも、未来の秘封倶楽部との関係は気になる?」
唐突に聞かれたが、もう答えは決まっていた。ゆるゆると首を振る。
「今はもう、気にしてないかな」
私が今、様々な選択を経て秘封倶楽部を設立し、こうして立っているように、彼女達――宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンもまた、幾度も選び取ってきた結果、未来の可能性世界の何処かで、ああして存在しているのだろう。今は素直に、それを尊重したい。
私に遠く及ばないとしても、二人という私には無い点を活かして、今の秘封倶楽部とは似ても似つかない活動をしているのかもしれないから。
「決めるのは、あの二人だもの」
未来に秘封倶楽部が居る、可能性世界。それは今の私と繋がっているのだろうか?
目前に広がる果てしない海だって、世界中何処へだっていける可能性を秘めているが、船の漕ぎ方によっては、北海道に行くかも知れないし、ハワイに行き着くかも知れないし、難破して沈没するかも知れない。
そうであっても、私の行動に変化は無い。強い信念を今一度抱き、果てしない大海原に向かってオールを漕ぐだけだ。
「――でも、そう易々と、まざまざと、乗っ取らせたり引き継がせたりなんかはさせないわ。未来の秘封倶楽部を泣かせるくらい、私が秘密を曝きまくってやる!」
「嫌な先輩ね」
「秘封倶楽部を名乗るくらいなんだから、それくらいで怯まないで欲しいわ」
静かなる群青――Silent Blueは、やがて朝日で紅く燃え、白んできた。世界が明るくなっていく。一点の曇りも、迷いも無くなるように。
いつか現れるかも知れないあの二人にも、この澄みわたる空と海を見て欲しい。そんな思いを馳せる私が居た。
お見事でした。秘封と幻想郷の未来の広がりを感じられる良い作品だと思います。
「謎」を前にした董子に知性を感じました