「宇佐見先輩これ貰ってください!」
そう言われてどんと紙包みを押し付けられた。
中を見てみるとビニールの袋に手作りのビスケットが入っている。驚きのハート型だ。
はえーハート形のビスケットだよ。女子力たけぇなぁと驚きながら顔を上げる。
「ありが――、おうふもういない」
キャンパスを全力で走り去る乙女の後ろ姿があった。ふむ、と私はその場に立ち尽くしたまま考える。
私は、女性だ。しかも理系で周囲の人間関係99%が男性で構築されている。
それでありながら一度も彼氏が出来ないのは女性としての魅力が足りないからだと自覚している。
だが、今日はどうだ。
こうして女性の別学部生にいきなりお菓子を押し付けられる始末。
これは性別としてのアイデンティティの崩壊が危ぶまれ――、
「宇佐見先輩!」
「はいなんで、」
「これ受け取ってください!」
と今度は背後から声を掛けられ振り向くが、すでに差出人は紙袋を地に置き走り去っている。
またもや女性である。先輩と呼んだから、後輩の女子学生なのだろう。っていうかなぜ女性なのだ。
何か間違えていないか? 私は途方に暮れ立ち尽くしてしまう。
一体何がどうしてこんなことになってしまったのだ。
左手には大容量の男物書類かばん。大量の紙媒体を扱う学徒にとってとても使い勝手が良くて重宝している。
そして右腕には小ぶりの紙袋が、把握しているだけでも8つ。中身はお菓子。すべて貰い物である。
お分かりだろうか。すでに地に置かれているものを拾い上げられる態勢ではないのだ。
「だれかー、たすけてー」
天を仰ぎ力無い言葉で助けを呼ぶ。
さあ状況を打開する際にこのようにヘルプを出せば颯爽と現れてくれるのが。
「何やってんのよ蓮子」相棒のメリーである。
「メリー、そこにある紙袋を拾って一番上に乗っけてくれないかな。とても屈めなくて――、どうしたのその荷物」
今日はいつもの5倍はフリル増し増しの少女ドレスを着ている。
薔薇が子を産んだらこうなるだろうなという様相である。
朝一緒に家を出たときはそんなドレス着ていなかったはずだ。
いやそれもそうなのだが、メリーの周囲にふわふわと浮遊する無数の小包へ意識が向く。100個は下らない。
シューティングゲームで自機に追従するオプションよろしく、メリーの動きに習って宙を浮いている。
「全部蓮子宛てよ」
「マジかー」悲鳴を上げる。
「モテ期ってやつねおめでとう。異物は私が一人残らず排除するから蓮子は気にしないで」
「ひえー突っ込みどころが多すぎて口が一つじゃとても間に合わないよー」
なぜ女性なのだ。
なぜお菓子なのだ。
なぜみんな揃って今このタイミング贈り物を渡してくるのだ。
なぜメリーのふりふり少女趣味が加速しているのだ。
数々の疑問が脳の処理速度を上回る。
メリーが妖力を扱えるようになった。
それに伴い、メリーはオカルト誌などでよく見る胡散臭いことが大抵出来るようになった。
例えば自分を宙に浮かせたり、周囲の物を触れずに持ち上げたり。
何もないところに刃物を作り出したり、切った髪の毛から自立して行動する物体を作り出したり。
しかし我々は一介の大学生である。どこかの危ない宗教家が信者を集めているわけでもない。
大抵は周囲にはそれをひた隠しにして目立たないように気を付けるべきだろう。少なくとも、私はそう思う。
あんまり目立たないように使った方がいいかもねと、メリーに提案したはずだ。
だがメリーは違った。隠すどころか、これは便利だと宣って実生活へ存分に使い始めたのだ。どのように?
「ホットコーヒーをお二つお持ちしまし、ひゃあ!?」
例えば喫茶店で店員さんが持ってきたホットコーヒーを受け取る際に、妖力で浮かばせて自卓へ動かしたり。
私宛に渡されたビスケットを紙袋から取り出し周囲にふわふわ浮かせ、手を使わずに食べ始めたり。
「あー、気にしないでこの子の仕業だから」
「え? あ、はあ、なるほど」
小説などの創作物だったら目撃した一般人がパニックに陥り騒ぎになるだろうが、実際はそうではない。
店員さんは「……ははぁ、便利ですね。ではごゆっくり」と落ち着き、すぐに業務を再開する。
人間は実際に目の前で起こったことには案外冷静に対処するものだ。
いやもしくは、仕掛けがあって浮いているように見えるだけなのだろう、などと考えているのかもしれない。
平和的日常を送るキャンパスで妖力操作を目の当たりにしても正常性バイアスで異常と認識してもらえない。
「っていうか、なんでそんな見せびらかすようにフワフワさせるの?」
「今日の朝気付いたんだけどね、妖力って使えば使うほど応用が利くようになるみたいだわ」
「なるほどそれで訓練してるのかぁ」
「楽しいってのもあるのだけれど、でも鍛えて損はなさそうね」
メリーが右手を伸ばすと虚空から紫色のクナイが現れた。白く均整の取れた手ではっしと掴む。
そして、無造作に右から左へ振るって見せる。浮いているビスケットがキレイな断面を見せ二つに分かれる。
想像を絶する鋭さ、業物めいた切れ味である。
「ね?」なぜか得意げになるメリー。
「危ないからしまいなさい」
「こっちも見て」
と、自身のブロンド髪の先数センチをクナイで切断。
手のひらで髪を受けふうぅと吐息を当てると次の瞬間には子猫になる。
「バーマン」
「正解」
にゃあと鳴き身軽に着地。与えられたビスケットをぼりぼりと食べ始める。
クナイを虚空へ消し、手を伸ばして子猫を撫でるメリー。
猫の様子は私が見ても生命が宿っているようにしか思えない。
曰く”私がいだく猫の様子を投影した妖力の具現化”らしい。
「紫さんに近づいてきたね」
「全然。足元にも及ばない。もっともっと訓練しないと」
我々秘封倶楽部と八雲紫さんの関係はまた別の機会に話すとする。
「それで、昨晩の妖術の効力ははっきり証明されたみたいだ」
「そうね。メスばっかり寄ってくるのは予想外だったけれど」
「ははは」
「ふふふ」
「今メスって言った?」
「言ってないわよ?」
「はは、ははは」
「うふふふふ」
半妖メリーはちょっと怖い。
昨晩、自宅での事である。
メリーが妖力でやたらと物を浮かばせている傍らで、私は大学図書から妖術魔術の観点から調査を行った。
何か秘封倶楽部の活動に応用できる術は無いかと読み進める。
豚の内臓や調合法、人体実験の細かな記録など、何時間も見つめていて正気度が削られてゆくのを感じた。
窓から外を見ると日付が回ってしまっている。鏡を見るとげっそりとした自分の顔がある。
背後の暗闇から人食い妖怪が現れる。追われ逃げまどい、足を掴まれ転び、喉に牙を突き立てられる。
ぶるる、と首を振る。幻影が振り払われ、鏡の前に立っている自分に戻ってくる。
いよいよもって正気を失いかけている。
このままではまずい。
眠る前に心の平穏を取り戻さなくては。
「メリー、疲れたからそろそろ寝ようと思う」
「分かったわ。今日の報告を聞いた方が良いかしら?」
「都市丸ごととか、周囲数十キロを範囲に術を掛けるとなると、結構準備が必要みたいだね」
「準備って例えばどういう? 例えば生きたままの人の臓物を――」
「違います」
メリーの言葉を遮り、どこかから拉致してきた人間を解体する妄想を振り払う。
「牛とか豚一頭とか用意して、さらに詠唱区域に大きさ比率方角を間違えないように正確に陣を書いて、そこに立って何時間も詠唱したりとか、無理でしょ」
「蓮子の力と現代科学があれば陣を書くくらいまでは簡単だと思うわよ」
「まあそういうレベルのことが書いてある本ばっかりだったんだ」
「選択肢の一つに入れておきましょうよ。人を土地に縛り付ける術とか」
私は話題の先を急いだ。
「でさメリー、何かこういう術があったら倶楽部活動に便利そうだなーってもの無い?」
「惚れさせる妖術」
即答であった。
どうやら正気を失いかけている私は、通常の思考能力を失ってしまっていたらしい。
人の心を惑わし魅了させ、損得利害の思考を忘れさせる。
これ以上に調査の助けになる術があるだろうか。
「結界がいつどこで誰がどのように作られたのかを調べる時って、昔の文章を探るのもあるけれど。結界が張られたのが数日前とか数週間前だった場合って、人を相手にした聞き込みがメインになるわよね。今までもそうだったし、これからもそうだと思うのよ。で、結構危ないことしてきたわよね、変装をしたり悪者から汚れた品を奪ったり。それで情報提供者が男性でも女性でも、信用を得るまでに結構時間と労力を必要だったけれど、惚れさせてしまえば」
「ありがとうメリー、調べてみる」
眠気が吹っ飛んだ。脳が活性化するのを感じる。
再度大学図書データベースへ接続。すぐに見つかった。
「メリー、これなんてどうだろ。見てみて」
メリーが術書を読む。その間に私は顔を洗って歯を磨いて、就寝の準備を整えた。
リビングに戻ってくるとメリーはうつ伏せにぷかぷか浮きながら「ふーむふむ」と言った。
「案外簡単よ、今すぐできるわ」
「なんと、本当に?」
「ええ」
「今、ここで?」
「そうよ」
ふふふ、と意味ありげに笑う。
妖術って言うのはそんなに簡単に習得できるものなのだろうか?
それとも、メリーの実力が既に上級の域に達しているということなのだろうか。
「どの程度の効力があるのか実験してみたい」
「いいわよ。対象は何にしようかしら?」
「な、なにか昆虫かネズミでも用意しようか」
「交尾したら成功なの? それを二人で観察するのね?」
「むむむ」
確かに、と私は言葉を失った。
そんな実験をやる意欲は到底湧きそうにない。
「人を対象にして、感覚に変化があったかヒアリングをする」
「それがいいわね。それで、誰に術をかけるのかしらん?」
「誰か用意するよ」
「秘封倶楽部を知っている友人に、人を魅了させる術の実験台になってほしいとお願いするの?」
私は心底気分が悪くなった。メリーの態度に対してではない。
単純に大切な友人へ実験の説明をする様子を想像して、である。
私とメリーは特別な目を持っており、違法行為である結界暴きを行い、探偵じみた活動をしている。現代の闇に隠れた秘密を暴く秘封倶楽部の活動そのことを知っている友人は、何人かいる。それはその友人たちが事情と問題を抱えており、秘封倶楽部の活動がその問題解決の手助けになり、かつ継続的に力になりたいという友人たちの好意があるからである。詳しい話をしてしまうととても長い話になってしまうのでまたの機会にしよう。
ともあれ、そうした友人たちは今までも秘封倶楽部を助けてきてくれた。
いつしか表ルートと呼んで私自身も頼りにしている。
利害関係だけでは培えない信頼がある。
そうした友人たちを術の実験台にするなど。
「論外」
「でしょうねぇ」
といってメリーがにやにやと笑みを湛え、私を見つめてきた。ますます紫さんに似てきた。
私は頭を掻いた。無論、痒かったわけではない。
メリーが言わんとしていることを理解していたからだ。
「それじゃあ、私たちを知らない人に魅了の術の実験台になってほしいとお願いするのね?」
「数十分後には通報されるだろうね。なんか危ない奴がいるって」
「秘封倶楽部を知らないそこらの人へ通り過ぎざまに術をかけて、後を尾けて様子を観察する?」
「それで事件が起きて責任取る方がよっぽど大変だよ」
壊れた家具の弁償、割れたガラスの修理費用などお金で済むだけならまだ良い。
もし人が怪我なぞしたらお金だけでは済まされない。
例えば、その人はなぜ自分が事件に巻き込まれたか自力で調査を始めるとしたらどうだ。場合によっては何年もかけて執念深く、自分の私生活を投げうってでも真相を探し求めることだってあるかもしれない。秘封倶楽部は罪悪感に苛まれ執念に根負けしていうのだろう。実はあなたが怪我をしたのは、我々の術の実験の為です。
「そっかー、そうよねぇ、じゃあどうしようかしらねぇ」
わざとらしく笑みを浮かべるメリー。
私は決心した。両手を上げ降参のポーズ。
「分かった、分かったよ、ほら私で実験しよう、どうぞ掛けてください」
メリーは薄く笑い人差し指で私を指さした。たったそれだけだった。
自分の体を見下ろすが特に変化がない。
動悸があるわけでも、ムラムラしてきたりするわけでもなかった。
「え、終わった?」
顔をあげるといつの間にかメリーが距離を詰めてきていた。
吐息がかかるほど目の前にいて、ぎょっとして後じさりしようとする。が、メリーの方が早かった。
背に腕を回されハグされる。首筋にキスをされる。すぅとメリーが息を吸い込み私の匂いを嗅ぐ。
いったい何が何やら分からないが、抱きしめ返そうとする。
が、メリーはぱっと私から離れ背を向け歩いて行ってしまう。
「おやすみ、蓮子」
一体全体訳が分からない。
それから、翌朝起きてメリーと二人で大学へ行く。
私は1限のみで、メリーは12限である。
「それじゃあ、また昼にでも」
「あいー」
学食の一席を確保し妖術の書籍を漁る。
あっという間に昼前になる。混む前に昼食を食べ黙々と書籍を調べる。
メリーから連絡が来た。お昼は大学のカフェで食べたいそうだ。
学食は混むからね、よしと荷物をまとめ席を立つ。
そうしてキャンパスを歩いていると声をかけられた。
「宇佐見先輩! これ受け取ってください!」
「えっ!? あっ!? はいあざっす」
「宇佐見先輩!」
「宇佐見先輩!」
「えっ!? えぇっ!? どういうこと!?」
こうして、冒頭の場面に至る。
「ってことで」とメリーがコーヒーを一口。
「蓮子に術をかけたった」
かけたった、じゃないが。
「術は術でもモテる術だよねこれ!?」
「だって誰かにかけるのが嫌だって言ったから」
「ちがうそうじゃない! 私が言ったのは、術者に惚れてしまう術!」
「じゃあ、私がかけたのはなんなのかしらん?」
「メリーが掛けたのは、被術者がやたらとモテモテになる術!」
「同じじゃなくて?」
「ちが、……いや目的のための実験って意味では一緒なのか?」
秘封倶楽部の活動調査に術を応用できるか調べるというコンセプトであった。
自虐ではないが、私のような色気皆無の人間にここまで好意が集まるならば、実験は大成功と言えるだろう。
空間を浮遊するビスケットに手を伸ばし食べる。ふむとてもおいしい。
「じゃあもう十分だね、メリー術解除してよ今すぐに」
「もう既に解除しましたわ。さっきお昼過ぎに会った時に」
「そっか、じゃあもうプレゼントを貰う心配は、」
「宇佐見先輩! チョコレートです贈り物です食べてください!」
「あ、ありがとうそこに置いとい、おうふもういない……」
だだだだ、と走り去る女性の後ろ姿。
耳まで紅潮させながら遠ざかる姿をコーヒー片手に見送る。
「……」
「……」
私はメリーに向き直った。
「ほんとに解除した!?」
「しましたわ」ふふふ、とどこからか取り出した扇子で口元を隠して笑うメリー。
「なんでさっきのはあんなにあんなあれがあんななんじゃい!」
「落ち着いて蓮子、まずなんでそんな狼狽えてるのかしら」
「ひ、ひひひ、人からあれだよ、あんな一方的にあれを向けられると困る」
「好意を向けられ慣れてないのね」
「早く元に戻りたいんですけど?」
「お菓子沢山貰えるのはいいの?」
「それはまあいいけどさ」
「え? いいの?」
「メリーはどうなん!」
メリーは爽やかに笑い持っている扇子を閉じると、「しゅってやつ」首元を横に凪ぐ仕草をした。
要するに、向けられすぎてうざったい、下心などの不愉快な仕草をした者は容赦なく首をはねる。
なるほどメリーは控えめに言って美少女だが容姿が整っているのも悩みようということか。
「メリーはさ、洗ってない犬の匂いがするって言われたことないんだろうね」
「えっいきなりなに、そんなこと言うやつがいるの?」
「宇佐見っていいよながさつで女性と話してる気がしなくてさって、それ褒めてるの貶してるの」
「れんこー」
「理系女はどうせ眼中にさえ映らないんだろうさ……」
「蓮子蓮子蓮子」
「はい」
「らしくないわね、深呼吸」
「すーはー、ひっひっふー」
酸素を取り入れて動悸を整え我を取り戻す。
メリーがこの上なく真剣な様子で言う。
「蓮子はとっても魅力的よ」
「まあメリーはそういうだろうけどさ」
「あと、あたりを走り回った後にそのまま大学に行くのはやめた方がいいわ」
「えっ、別によくね? だめか、はい」
「今日からは私と同じシャンプー使って」
「種類が多いじゃん、全部使うの? あ、そうですかはい」
「服は毎日ちゃんと洗って、ちゃんと乾かして」
「着れればよくね? だめか」
「術は解除してもすぐに影響が無くなる訳ではないわ」
いきなり本題に戻るメリーである。
「なんと、大体無くなるまでどれくらい?」
「3時間くらいかしら」
「マジか」
思わず俯く。頭を抱えて絶望する。
「なんで女性ばっかりなん?」
「そこは蓮子の魅力よ」
「私が男性的ってこと!?」
「そうじゃないわ。蓮子の魅力が女子学生にウケるのよ」
「もっと具体的に言ってよ、それだけじゃ分からない」
「私は気に入らない。キャ―キャー猿みたい。蓮子はコーヒー片手に静かに眺めろと、そう思う」
「いや具体的っていうのはそういう意味じゃなくてさ」
「私よりも本人に聞いた方が早いんじゃない?」
「よしそうしようか」
「宇佐見先輩これを、」
「つかまえたぁ!」
「!?」
こちらに視線を向け紙袋を持ち近寄ってきていたから警戒できた。
素早く手を伸ばし対象を掴む。背丈は同じくらいの女性の学生だった。
しっかりと体の線が出る服を着て、芋っぽくない、とてもかわいいを実践している。
「ねえキミ、今なぜ話しかけてきたのかね」
「これ、チョコを、……渡そうと」
女学生は掴まれていない方の手で口を覆い、目を皿のようにして私を見つめている。
興奮と緊張、額に汗、人に好意を向けるときの様子だ。ふむ、と思う。
「ありがとうあとで頂こう。それでこのプレゼントはどんな意味が?」
「宇佐見先輩が、素敵すぎて、じっとしていられなくて……」
「素敵ってどういうこと」
メリーに視線を向ける。
「自覚無しとはこのことね」と猫を撫でている。
「素敵ってどういうことかね?」
「前からずっと、そう思ってました……」
女学生は荒く呼吸を繰り返し、目尻に涙を湛えている。
本当にこの学生は私に好意を抱き、それを伝えるために行動に移したのか。
「前からというのは具体的に?」
「一目先輩を見た時から……」
「なるほど見た目か」
「違います! 先輩のすべてが好きです!」
「ふむ、あとこのチョコはどこで手に入れたのかね」
「宇佐見先輩用に、配ってます」
「なにぃ!? 配ってるってどういう、」
「ごめんなさい!」
大きく叫ぶなり同時手を振り払い逃げてしまう。
がむしゃらに走りながら「手掴まれちゃったああぁぁ!」と叫んでいる。
「うーん、よく分からないね。配ってるってどういうこっちゃ」私は佇まいを正し、席に戻る。と。
「この、たらしがぁ!」
「あいたぁ!」
メリーに頭を殴られた。
「聞き方ってもんがあるでしょう。あの人は蓮子のことが好きなのよ!?」
「えー、でも術のせいでしょ?」
「ずっと前から好きだったって言ってたじゃない!」
「いやそんなわけないじゃん出任せだよ、術の効力が無ければこんなことになる訳ないし」
私が肩を竦めそう言うとメリーは反論するためか大きく息を吸い、ぴたりと動作を止めた。
「……まあいいわ」と髪をかき上げる。
「さっきのヒアリングでほぼネタは上がってるわよ」
「? いやさっきのだけじゃ推理も推察もできないでしょうが」
「ふふ、事実に震えるときが今から楽しみね」
「ええ? いや教えてよ、全く予想できない」
「人の善意を蔑ろにした罰よ。自分で調べるがいいわ」
どうやらメリーの反感を買ってしまったようだ。
だが、正解を知る人物が身近にいるのならば妙なことにはならないだろう。
さてこれからどうしようかと考える。
大学にいても術の効力がなくなるまで贈り物を貰い続けるだけなのだろう。
コーヒーと一緒に食べるお菓子に困らなくなるのは良いかもしれないけれど。
今日はもう帰宅し静かにしていた方が良いだろうか?
などと考えているとぴんぽんぱんぽーんと、構内放送の電子音があたりに鳴り響いた。
「あーテステス、テステス、こちら生徒会だ! 全学生諸君作業を中断しよく聞け!」
作業も何も今は昼休み中である。
声の響きは怒鳴り声に近く怒気と攻撃性に富んでいる。
こりゃよほどの校則違反をやらかしたやつがいるようだ。
「学校の備品を使った一学生へのファンクラブ活動を許可した覚えは無い! 第二家庭科調理室に居る貴様らの事だ! いますぐ行動を中止し片づけを行い施錠しろ! 盗んだ鍵を管理室へ返却しろ! 代表は16時までに生徒会室へ出頭し事態を説明せよ!」
私はメリーの視線に気づき、そしてかじりかけのビスケットを見た。
ファンクラブ活動、調理室? それってまさか、と思考を巡らせるより早く、放送は後を続ける。
「それと学籍番号11353226! 学籍番号11353226! 今すぐ掲示部に出頭せよ! 以上!」
ブツッ! と乱暴にマイクが切られ、唐突に放送は終わった。
私はコーヒーカップを持ち上げながらはえーと感嘆する。
「なにをそんなぶちギレてるのやら、呼び出された学生は大変だなぁ」
「蓮子、それボケで言ってるの?」
「え?」
メリーがまた薄笑いを浮かべて言った。
「学籍番号11353226って、蓮子のことよ」
小走りで、メリーはふわふわと浮いて、掲示部へ移動する。
大学構内には数多くの掲示板が存在する。講義室変更などを連絡する学生連絡用掲示板、サークル新入部員募集や活動報告などを雑多に張り出すサークル総合掲示板、大学構内で発生した事件事故などを注意喚起する学生諸注意掲示板、新聞部が作成した週次新聞を掲示する酉京都大学学生新聞、生徒会が総合的に統括する生徒会だより瓦版などなど。
特に最後の掲示板について、依存性の高い違法薬物が残留した注射器が見つかったという事件が連日に及んで掲示されたことがあった。警察も構内に立ち入り取り調べを行った。秘封倶楽部も調査を行い見事解決に一役買ったのだが、これはまた別の機会に話すことにしよう。
さて当然のことながら、例え自サークルが所有する掲示板であろうと無断で情報を掲示してはいけない。掲示期間と掲示目的、掲示物明らかにし事前に掲示部へ申請を行わなければならない。掲示部が申請を審査し妥当であると判断した場合のみ、各掲示板へ掲示物を張り出すことができる。
掲示部は学生庶務管理棟2階にある。
3畳ほどの広さのある業務用のエレベーターを待っていると、台車に紙束を載せた事務員さんと居合わせる。紙を満載した台車4つを一人で運んでいる。ちーんと箱が到着する。扉が開くと事務員さんが台車を運ぼうとするが、結構な重労働である。
「お手伝いします。2階で良いですわね?」
メリーがジェダイみたいに手を振ると、3つの台車がふわりと浮かび、箱の中へ順番に乗り込んでくる。事務員さんはその様子を見てぎょっとして、台車と同じようにふわふわと浮かぶメリーを見て、それから合点が言ったようにうなずいた。ややあってから2階に到着。乗り込んだ時同様にメリーは台車を浮かばせ箱から下してあげた。
「助かりました。ありがとうございます」
「いえいえ」
事務員さんはメリーに頭を下げてお礼をすると、箱から降りたところに台車を4つとめ、携帯端末から通話を開始した。B便の者ですお疲れ様です2階に到着致しました、などと言っている。メリーは事務員さんにひらひらと手を振る。廊下を歩くと、20人ほどが並ぶ列が見えてくる。突き当りにいくつか窓口があり、"新規掲示物申請"と看板がある。その隣は"既存掲示物更新"。周囲には立ったまま申請書を記入できる記入台にボールペンとスタンドライトがある。
「おもしろいわねぇ」とメリーが言った。
「初めて来たけれど、こんな時代遅れなことを今でもやってるだなんて知らなかったわ」
「しー! 声が大きいよ! この人たちだって好きで並んでるわけじゃないんだから!」
「あなたの声の方が私より大きいわよ」
周囲で申請書を記入する人や列に並んでいる人はもう慣れているのだろう、ぼけっと虚空を見つめており、我々の失言を気にする様子はない。ふむ、さて私はどうするべきだろうか。列に並んで順番を待っても良いだろうが、別に新しい掲示物を貼りだしたい訳でもない。それに、こんな非効率的な列に並ぶこと自体がばかばかしい。少し離れたところにある大きめの扉を開けてみようか。すみませーん先ほど掲示部に呼び出された者ですけれど―と。だがそれも、列に並ぶ人たちに対する顕示欲を満たせようとしているようで大人げないような気がしてくる。
短く悩んでいると、"新規掲示物申請"の窓口にフルフェイスヘルメットを被った者がのぞき込み辺りを見渡していることに気づいた。生徒会直属警備部の硬質防具だ。私は手を挙げて小さく振った。
「宇佐見蓮子だな?」フルフェイスが言った。
「そうです」
今度は列に並んでいる20人程度の人達も、申請書を記入している人たちも、一斉に顔を上げてこちらを見た。心無しか周囲がざわざわとする。「宇佐見蓮子だ」そうです「あああの不良の爆発事件ばかり起こしてる」むむむ、そうです「警察に捕まったんじゃ」何度かはそうです全て冤罪により無罪でしたが「人食い妖怪に食われて死んだはずじゃ」それは違います。
「そこの扉から中に入りなさい」
フルフェイスが脇の扉を指さした。私は頷き歩を進める。
灰色で鉄の素材の冷たい扉である。これは開けがいがありそうだ。
勇んで取っ手を掴みえいと押すと、――開かない。引っ張っても開かない。
くすくす、と周囲に笑われる。
あっおまえら笑いやがったな! と後ろを振り返った直後。
「蓮子、退いて」
ひゅん、と顔のすぐ横を鋭く素早い何かが通過した。
つづいて、がらがらと何かが崩れる音。
視線を戻し扉を見る、が、私が握っている取っ手しか残っていない。
扉だった物の断片が鋭い断面を残し足元に転がり堆積している。
「この、――非常識な連中が!」
部屋の中から怒鳴り声。目を向けると、腕組をして立つ女性がいた。
白のスーツとロングスカート。茶髪を無造作に伸ばしたショートヘア。腕には生徒会執行部の腕章。
先ほどの構内放送の声の主。生徒会庶務担当の八総 亜実(やそう あみ)である。
我々が所属する酉京都大学には学生達による自治活動会が2つある。
1つは、大学が公式に運動を認めている、"学生自治会"。一年に一度学生たちの選挙により学生自治会長を決める。学生自治会は各委員会活動や部活動の上位に位置する組織で、中学高校で言うところの生徒会と同じ役割である。
2つめは、大学非公認の学生会活動、通称"生徒会"と呼ばれる組合だ。選挙などせず、勝手に集まった有象無象が勝手に権利を主張している。八総が所属しているのはこちら側である。先の放送通りとても威張り散らかしていてやたらめったら権力を握っている。しかしなぜこの勝手に集まった者たちによる生徒会がこれほどまでに幅を利かせ威張り散らしているのか。それはひとえに学生たちの支持率によるものであると言える。
酉京都大学の敷地内には連携型中高一貫校である酉京都大学西高等学校がある。分かりやすく言ってしまえば、敷地内に中学校、高等学校、大学校が一緒になって存在している。中学校時代から酉京都大学の敷地へ登校している学生の割合がとても多い。顔見知りが多いのだ。私は東京出身だし、メリーも大学から京都に来た(これに関してもまた別の機会に話したい)、酉京都大学では少数派でありそして高校からの人間関係の柵に囚われていない。
生徒会のトップである通称"生徒会長"は、酉京都大学西中学校2年生の時に生徒会長へ当選し、以降ずっと生徒会長である。中学3年、高校1年、2年、3年全て生徒会選挙に当選したのだ。そのまま酉京都大学へ入学し、1回生で学生自治会長に当選した。生徒会長はこういった。「私は生徒会長であり、学生諸君の票により学生自治会長の任を頂戴した。だが、私は生徒会長である。学生自治会長は次票数を獲得した4回生の先輩に譲り、私は今まで通り生徒会長として皆さんの期待に応えていきたい」一礼し壇上の席に戻る。大議事堂は若干の動揺と沈黙の後、割れるような拍手の渦となった。
なぜ当選しておいて辞退し存在しない生徒会長という自称に執着するのか全く理解できないが、過半数の支持で舵を切るのが民主主義の根幹である。そして大多数いや圧倒的に支持を得ている点が生徒会長の凄いところである。こうして生徒会長は酉京都大学では認められていない生徒会長となり、生徒会長の指名で任命された者たちにより生徒会執行部が誕生した。大学公認公式の学生自治会と、実際には何の権力も持たない生徒会。混乱のもとになるだけではないかと私もメリーも思ったのだが、3日で明確な差が出た。学生自治会の活動は全く学生たちの支持が得られず悉くが頓挫し、生徒会の政策の数々が驚きの速さで審議を通過した。審議? 違う。これは正真正銘の学生たちによる提案を生徒会が吸い上げ大学運営へ提案し、その妥当性に動き出したのだ。
ちなみに私とメリーは中立である。なぜか? それは後述する。
「きさまら! なぜ扉を破壊した! 生徒会にたてつく気か!」
生徒会庶務の八総が怒鳴り散らす。むむ、と思うが備品を破壊したのは我々である。
私はきちんと両手を体の脇に揃え気を付けの姿勢で言った。
「申し訳ありません。うちのメリーこのあいだ半妖化してなにかと攻撃的で、責任はきちんと、」
「あらあら、ここから入れと言ったのはあなた達ではなくて?」
「ああもう! メリーなんてことを!」
面白い物を見つけたかと言いたげに、メリーが笑っていた。
お手玉をするように8つの紫色のクナイが宙を踊っている。
「貴様らは鍵がかかった扉があったらバラバラにして入るのか!?」
「いえいえ、末恐ろしい生徒会様方からの呼び出しがあった時だけですわ」
「見ろ! いま警備部が解錠しようとしただろ!」
傍らでフルフェイスに青色の全身防具を身に着けた屈強な人がカードキーを片手に立っていた。自身が持っているカードを見て、北野武の座頭市で斬られた障子の様にバラバラになった扉を見て、中へ促すように手のひらをこちらに向ける。あ、どうもこれはご丁寧に。瓦礫を踏まないようにジャンプして中へ進む。
「待て宇佐見!」またもや怒鳴られる。
「取っ手はそこに置け! 修理する時に必要だろうが! そんなことも分からないのか貴様は!」
「あ、これは失敬」
依然握ったままだった取っ手に気づく。
私は頷き、瓦礫の上にそれをぽいと捨てる。ごとんと音が鳴る。
「きぃさぁまあぁ!」
「いちいちうるさいわねぇ、もっと静かに喋れませんこと?」
メリーが空中で横向きに寝て姿勢を変える。
透明のソファーでくつろいでいるかのようだ。
「だいたいそうやってかんかんに大きな声を聞かせるために私たちを呼んだ訳じゃないでしょう。暇じゃないのよ。はやく要件を言ってくれないかしらん。時間の無駄も甚だしいわ。全く話を進めずに叫んでばかり。もう少し頭を使って下さらないかしら。ぶひぶひとまるで躾の成っていない豚のようだわ」
いえ、我々は今日のカリキュラムを終えてあとは自由時間を謳歌するだけです。
とメリーの挑発に軽い頭痛を感じていて、異変に気付いた。
「躾の成っていない豚は、」
傍らの作業机に置いてあった文鎮を手に取り、足早にこちらへ接近してくる。
靴裏に鉄でも打ってあるのだろう、ごつごつごつ、と重厚な足音が響く。
対するメリーはやれやれと頭を振り、刃渡り30センチほどのクナイを手に生成する。
「きさまらのほうだろうが!」
文鎮を振りかぶる。八総は怒りに任せた体捌きで力ばかりがこもっている。
対するメリーは腕を鞭のように撓らせしっかりとクナイの刃が立っている。峰打ちではない!
得物と言い体の使い方と言いこの衝突でどちらが勝つかなど一目瞭然である。
「はいストーップ」
「!!」
しかし文鎮が振り下ろされることはなかった。
もう一人、白スーツを着た者が背後から腕を掴んだのだ。
「そんなもので叩いたら怪我しちゃうでしょ、やりすぎだよ八総」
「! 小田原副会長!?」
顔立ち凛とした女性が八総の腕を掴み確保している。
左肩に”生徒会執行部”の腕章、黒色の髪を一つにまとめ、もみあげが首の位置まで下がっている。
スタイルが良く体の均整がとれており見るからに大人びている。
背丈は高く細身でありながら、腕は筋肉質である。
日常生活に身体錬成のルーチンを組み込んでいるのだろう。
「宇佐見は被害者でありながら事件を収束させる能力があるって、さっき言ったでしょ。その話をするために呼びだしたのに、怒鳴りつけてぶんなぐってどうすんの。ちょっと落ち着きなよ」
「も、申し訳ありません小田原副会長! ついついこの非常識な連中が許すに許せなくて」
「まあ確かに、扉をバラバラにするのはやりすぎだけど」
と腕を離し体を斜めにして、扉の瓦礫を見る。
「午後から掲示部の改修工事がちょうど入ってるから、まあ問題ないでしょ。あの扉も壁も全部取り壊してここら一帯自販機置くし、解体の手間が省けたって考えれば」
小田原はにこりと笑顔を作る。
「不問にします」
「そんなことはどうでもいいのよ」
とメリーが口を尖らせる。
いやそもそもメリーが扉を破壊したのが発端なんだけどね。
「呼び出した理由をお聞きしたいわね」
小田原副会長がすぐ近くの作業台に置いてあった紙を手に取り、こちらに掲げてくる。
私とメリーが揃ってのぞき込む。A4の大きさに横書きでほんの短い文章が書かれている。
メリーが声に出して文章を読む。
「宇佐見先輩ファンクラブ! 魅力の限りを振りまく宇佐見蓮子先輩に思いの丈をぶつけましょう! 贈り物の為のお菓子は第二家庭科調理室にて無料で配布しています! ですって」
「ああぁー!!」思わず悲鳴を上げる。
「なんてこった!」
ばちん! と音が出るほどに私は強く自らの額を叩いた。
「昼前にこれがサークル総合掲示板宛で申請が出されて、先ほど掲示不許可になったんだ。宇佐見ファンクラブなんて聞いたことが無い。そんな倶楽部は実在するのかと調べてみると、当然そんなものは無い。不審に思った掲示部長から生徒会に通報があって、出動するに至った。宇佐見、何か思い当たることはある?」
「チョコとかビスケットとかめっちゃ沢山貰いました」
「具体的には大体どれくらい?」
「お昼休みだけで小包100個近く」
と私はメリーの周囲で浮遊する菓子包みを指さす。
「それ全部貰ったのか!」
「そうです」
「宇佐見、まさかそのお菓子を摂取したり」
「秘封倶楽部が美味しく頂いています」とメリー。
「なんて愚かなことを」
小田原は目を伏せ呆れたようにかぶりを振る。
「へんなものが入っていたらどうするつもりなんだ」
「大丈夫よ、変な物は入っていないわ」
「君になぜそれが分かる」
私、八総、小田原の三人でメリーを見た。
ふわふわと宙に浮かび両手で顎を支える金髪金瞳の女性がいた。
紫色を基調としたフリル満載の少女趣味のドレスに、人間離れした整った顔立ち。
形の良い瑞々しい唇、造形美を感じさせるほど整った顔の輪郭。シミ一つない美しい肌。
お菓子が入ったピンク柄のファンシーな紙袋が周囲を漂っている。
「……分かるの?」
「分かるわよ」
「なら良いんだけど」と論理的ではない納得をする小田原副会長。
メリーは宙に浮いたまま自分の髪を弄びつつ言う。
「生徒会は注意に行ったのかしら」
「行っていない」
「さっきの放送のみ?」
「今のところは」
「なぜ?」
メリーが語調鋭く問いただす。
あ、この流れはまずいぞと私は思った。
メリーは午前中、いやもしかしたら昨晩の時点で予想していたかもしれない。
ファンクラブなる活動で生徒会が動き出し、私を呼び出すことまで。いやこの後の展開も!
「生徒会長に聞いてほしい」小田原副会長が頭上を仰ぎ、穏やかに言った。
「何を考えているのか分からないけれど、私の考えるところは、倶楽部活動多様性の為だと思う。予算が下りないでも大学公認の倶楽部や、学生が勝手に行っている非公認倶楽部を含めたら、とても把握しきれない数があるだろう。君達秘封倶楽部が生徒会の注意無くよく分からない活動を続けられるのも、生徒会長の采配によるものだと考えれば良いと思うよ。例えば――」
と、ここで一息置いて。
「学校図書で魅了の術を調べて、翌日にこの騒ぎだ。さあどうしてくれるんだろうね秘封倶楽部」
鋭い目つきで睨まれた。なぜか、私が。
ぎくりとしているとメリーが言う。
「仰るとおりね」先ほどまでの挑発的な態度はどこへやら。急にしおらしくなるメリー。
「蓮子! お膳立てはできたわ! さあ秘封倶楽部の出動よ!」
「なにがじゃい!? って、やたらと挑発的だったのも全て計算づくか!」
「何が挑発だ! メリーは関係なく元からすべてきさまの仕業だろ!」
「違う! 大体ファンクラブがあったなんて知らなかった!」
「人の心を惑わす術を使ったのは事実なんだろ正直にはけ!」
「そ、それは、そう聞かれるとごにょごにょ」
「ほらみろやっぱりきさまの仕業じゃあないか!」
「責任をとってもらおうか」
「なぜ私が! それこそ生徒会の権力を存分に振りかざせばいいところじゃん!」
「なんだきさま生徒会生徒会と一つ覚えで、ここまで騒ぎを大きくした張本人が調子良すぎる!」
「頭ごなしの解法と、みんなが納得して丸く収まる解法、生徒会は後者を選んだだけだ」
「丸くは収まらない! こんな方法は論理的じゃない! 何もかもが論理破綻してる!」
「論理とは別の問題だ! この数字馬鹿物理オタク! 頭を使え! その行動力と頭脳を使う時だろ!」
「なっ、私は何でも屋じゃない! オタクじゃない! 私の行動力はこんなことのためのものじゃあない!」
「秘封倶楽部を称して人助けをしてるだろ! 沢山の友人を助けてるだろうが!」
「うん、その秘封倶楽部活動の延長で君を支持する女子学生たちを落ち着かせるだけだよ」
「それこそ秘封倶楽部は関係が無い! 秘封は世界の秘密を暴くオカルトサークルだ!」
「一体何が違うというの?」となぜかメリーが隣から言う。
「表ルート関係者は秘封倶楽部の活動に利益がある友人たちだよ」
「今回の女子学生の宇佐見ファンクラブのみなさんたちは?」
「あれは違う。結界ごにょごにょの活動とは関係が無いじゃん」
「ふぅん、じゃあどうして昨日は妖術魔術の研究をしたのかしらん?」
「メリーの妖術の使い道を研究したんだってば。ってかそれ知ってるよねよねメリー!?」
「だから妖術魔術の図書を閲覧した結果が今の騒ぎだろうが!」
「だから妖術魔術の図書を閲覧した結果が今の騒ぎだよね!?」
「だから妖術魔術の図書を閲覧した結果が今の騒ぎなのよね?」
「ぐっ!? ち、ちがう! これとそれとは、う、うぐぐ」
「なにが違うって言うんだ!」
「なにが違うって言うんだい?」
「なにが違うって言うのかしらん?」
なぜかメリーを含めた三方向から追い詰められる。
私は膝から崩れ落ちその場に項垂れる。
頭上から容赦のない追撃が繰り返される。
「宇佐見の仕業だろうが!」
「宇佐見の仕業だろう?」
「蓮子の仕業よねぇ?」
「宇佐見蓮子君、君が悪いのかね」となぜか掲示部長までこっちに来た。
ちがう! いや違くないけれど違う! 合ってるけど違うのだ!
だって私はただメリーに魅了の術を掛けるように言って。
それがなぜか周囲にモテてしまう術になっていて、なぜか女性ばかりが寄ってきている。
男性ならわかる。なぜ女性なのだ。それは私のせいではない。
ファンクラブが作っているお菓子だって毒はない。渡されているのも私だけだ。
備品を不許可で使っているのは問題だが。
作って配っているのも、それが正しい手順を踏んでいないのも、私のせいではない。
それに、術だって解除した。あと数時間すれば事態は収束するだろう。
なぜそれで私がファンクラブの暴走を今から止めに行かなければならない?
そこまでする儀理なんてないし、責任もない筈だ。
そんなことを生徒会に強要される時点で間違ってる。
全く論理的ではない。納得できない。
ただの押し付けに等しい。生徒会の権威乱用、権威放棄、怠惰、まさに横暴だ。
大体秘封倶楽部は世界の秘密を暴く結界暴きが主体の非公認サークルだ。
こんなこと、全然秘封倶楽部の活動目標に即してなどいない。
どうしてこうなった。どうして――。
私はそこに正座する。
中折れ帽子を頭からとり、脇へ置く。
「みなさん」ぴたりと周囲が静かになる。
布擦れの音一つ聞こえない完璧な静寂。
私はその場で土下座をして言った。
「ご迷惑おかけして本当に申し訳ございません。わたしが、全部何とかします……」
おおおー!! と周囲から拍手が湧く。
小田原、八総、掲示部長だけでなく、掲示部員の面々、掲示部に訪れた学生たち、職員のみなさんまで。
周囲に人垣を作り一斉に拍手をして称賛する。流石宇佐見だ! がんばれよ! がんばれ期待しているぞ!
「ありがとうみんな! ありがとう! 頑張るわ! ありがとう! さあ行きましょう蓮子!」
なぜかメリーが声援にこたえながら私を立たせ寄り添い、切り刻まれた出入り口に向かって進む。
掲示部員たちに体を叩かれる。宇佐見コールが沸き上がる。う、さ、み! う、さ、み!
事務所から外に出てコールが止む。
"新規掲示物申請"看板横。
メリーが唐突に歩を止める。
「あ、蓮子、援護が来たわよ」
我ここにあらずの心境で顔を上げる。
銀の長髪を一つ髷にした、袴姿の女の子がそこに立っていた。
顔立ちは幼い。背も低く、私の肩ほどまでしかない。
「聞いていたぞ宇佐見、またまた面白いことをやっておるな」
表ルートの友人、天琉 柄乃(てんる つかの)である。
見た目は小学生だが侮るなかれ、神童と謳われた合気の達人である。
結界の中に閉じ籠っていると言われる気闘邁進会の一派、紅近接格闘族に会うため、結界暴きに協力してくれている。
巨木を片手で薙ぎ倒すような怪力を持つ人食い妖怪たちが数多くうろつく結界内。
秘封倶楽部は探索を行う場合、どうしても対抗手段が必要になる。
天琉が居れば命の心配無く思う存分歩き回ることが出来る。
性格は温厚で親身に話を聞いてくれて、基礎教養もある。
人の痛みに共感できる感受性があり、道徳の概念も備わっている。
とても頼りになる友人である。
「良ければ手を貸すが、いかがかの」
「お願いじまず……!!」
「泣くほどじゃろうか?」
「ぞりゃあもう……!」
「蓮子ったら、みんなから応援されたのが嬉しいみたいなの」
「ぢがいまず……」
天琉に妖怪を撃退して貰った回数は数知れず。
トリフネ再探索計画の時だってまずは天琉に相談した。回答はこうだった。
「目的も無く物見遊山の為にそこで静かに暮らす者を叩けと言うのか。それは賛成しかねるの」
確かにおっしゃる通り。天琉は結界暴きには協力的だが、同時に平和主義者なのだ。
「よしそれじゃあ、先に行け」
「はーいそうさせていただきますわ」
「あとから追いつくからの」
ただ一つ天琉の短所は、基礎筋力が著しく低下している点である。
歩くのがとても遅い。階段を上ることが出来ない。扉を開けることが出来ない。
流動食しか飲み込むことが出来ない。ペンを握ることが出来ない。
寝起きするのも着替えをするのも風呂に入るのもヘルパーさんが必要である。
また、このヘルパーさんが結構変わっている人なのだが、紹介はまたの機会にする。
さてこのような特徴があるので、特に必要が無い場合は秘封倶楽部が先行する。
例によって例のごとく、メリーは私をひょいと持ち上げ脇に抱えた。
「あっ!? 待ってメリー! 天琉も! 天琉も抱えてあげて! 天琉もおおお!」
ぎゅん! すさまじい加速でその場を去る。
掲示部の看板も天琉の姿も見る間に小さくなる。
「ああもう面倒だわ、近道するわね」とメリーが愚痴る。
がらりと窓が開く音。進行方向ががくんと変わり、外へ飛び出る。
高度が上がり学生庶務管理棟をジオラマの様に鳥瞰する。
「あはははは! 楽しいわぁ! 楽しいわね蓮子ぉ! 全て私の思い通りだわぁ!」
砲弾めいた軌道を描き頂点に到達。
青空と雲と太陽を仰向けに仰ぐ。
そして今度は落下が始まる。ぐんぐんと速度が出る。
風圧が激しく耳元で唸る。
「うおおおおお!?」
「あははははは!!」
学生生活実務棟の窓ガラスが激突寸前で開き、廊下に進入。
落下の速度を維持したまま進み、急ブレーキがかかる。
とんと両足で着地。目の前に第二家庭科調理室の扉があった。
「あー、ふぅ、楽しかったぁ。はい到着したわよ。うふふふ」
躁状態のメリーだが、私は軽度のショック状態に陥っていた。
手足が震え、脳裏では高速度の映像が繰り返し流れている。
自身の存在を確かめるため顔に触れる。両手を広げ身体を見下ろす。
五体満足、どこも怪我などしていない。
隣を見ると薄く笑みを浮かべるメリーがこちらに視線を向けていた。
「30秒が経ったわ。流石に落ち着いたでしょう?」
「い、いいえ」首を振る。
「よしそれじゃあ乗り込むわよ」
「なんで聞いてない!?」
メリーが扉に手をかける。
ああ、校内放送では鍵を返せと言っていた。私が掲示部でやったように、こちらの扉も当然電子錠がかかっているはずだ。そう私は予想した。だが想像は外れ、メリーはプラスチックとスリガラスでできた扉を紙細工の様にいとも容易く壁から引き剥がした。そう、剥離である。べきょっ、ぱりんと音がして、あとは歪な形にひしゃげた扉がメリーの右手につかまれ、足元には割れたガラスが散乱した。たったそれだけだった。
調理室の内部が明らかになる。中にいた学生、いや全員が女子学生、が一斉にこちらへ振り向いた。時が止まったかのようだった。各々が生地をこねたりトースターを操作したりしていたが、一様に手を止めこちらを見た。反応は一緒だった。手に持った道具を投げ捨て、黄色い歓声を上げる。耳を劈くけたたましい狂喜の声である。私は両手で耳をふさぎ叫んだ。
「全員聞け! ファンクラブの活動は中止! 中止だ! 全部ちゅうしいぃ!」
室内にいる女子学生がこちらに殺到する。手という手が私の腕、肩、腰を掴み、引っ張られる。数十人に取り囲まれ、一斉に私を持ち上げる。足が浮く。これは、メリーの妖力操作ではない。女子学生達が私の体を持ち上げ、祭りの神輿のように頭上へ掲げる。「やめろ! 下ろせ! 全員話を聞けぇ!」叫ぶが誰も私の声など聞こえていない。興奮の坩堝。人数という圧倒的渦中の力を前に翻弄されるだけだ。わっしょいわっしょいと運ばれていく。「く、くそっ! メリー頼む! 助けてぇ!」と叫んであたりを見ると、天井近くに浮き上がり腕を振って拡声器で叫んでいる。「わっしょい! わっしょい!」おま、おまえええ!
「メリーッ……!! 上に! 私を!」
ファンクラブ員の手が届かない上方へ引き上げてもらおうとメリーへ助けを呼ぶ。
メリーが高度を下げて手を伸ばす。そうだ! 助けてくれ!
「いえーい! 楽しいわね蓮子!」とハイタッチをしてくる。
「そうじゃねえぇ!」
唐突に体を下ろされた。背中に冷たく硬い床の感触。
がばりと起き上がりあたりを見ると、4畳ほどの広さの部屋中央にいるとわかった。
窓はなく、天井には配管がむき出しになっている。倉庫を改造した部屋のようだ。
そして唯一の出口の向こうで女子学生たちがこちらを見ている。口々に言う。
「そこにいれば安全ですので!」「そこにいてください!」
「あとは任せて!」「我々だけでやります!」「任せてください!」
「食べ物も飲み物もシャワーもあります!」「自由に使ってください!」
「ほんの三日ほどです!」「我々に任せて!」「任せてください!」
私のすぐ近くにいるメリーがサムズアップして言う。
「任せたわ! 総員行動開始!」
「はい!」
百人近くの人数がいるのに、ぴたりと息を合わせて返事をする。
そしてあっという間に扉を閉められてしまう。
「あっ」とメリーが言った。
「閉まってから言うのか!?」
「いやそうではないわ」
メリーがふわふわと浮いて扉へ接近。取っ手を掴もうとする、が。
バチィ! と衝撃音と激しい閃光。メリーの右手が弾かれる。
「…………」
メリーが自身の右手を観察する。
痺れるのか、小刻みに震えている。
「だ、大丈夫?」
「いえ、蓮子だけを閉じ込めようと思ってたのだけど」
「えっ? それどういうこと?」
「計算が狂ったかもしれないわね」
扉の外では女性学生たちが叫んでいる。
「宇佐見先輩確保!」「やったわ!」「大きな一歩ね!」
「生徒会から守ったのよ!」「第一目標達成ね!」
「宇佐見先輩を守るために!」「すべては宇佐見先輩の為に!」
えいえいおー! かけ声をあげ、一斉に移動を開始する。
どどどど、奔流となった足音が遠ざかり静寂が訪れる。
私は仰向けに倒れ目を閉じ、息を整える。
衝撃に次ぐ衝撃で精神が疲弊している。この5分足らずの間にたくさんのことが起こりすぎている。
さっきのあのファンクラブは、なんだ。クラブ活動を止めるどころではない。
人数の暴力にさらされて未だに動揺が収まらない。狂気じみている。
「疲れた?」とメリー。
「疲れたっていうか、なんか昼過ぎから常軌を逸してる」
「ふふふ、これでいいのよ蓮子はとりあえずね」
「よく分からないけれど」
「私がちょっと頑張らなきゃだけど、蓮子は休んでて」
「ここから出なきゃ」
「程度は低いけどそれなりの封鎖結界よ。内から開くには時間がいるわね」
「任せた」
「はいはい」
四肢の力を抜き目を閉じ回復に勤しむ。
ややあってから隣で「できた」とメリーが言った。
「見て蓮子、映像がつながったわ」
「ふむふむ?」
片目を開き確認する。空中に妖力による映像ディスプレイがあった。
廊下の風景が映し出されているが、とても視点が低い。
まるで地面にぺったり腹ばいになっているかのようだ。
「私がお昼ご飯食べながら作ったバーマン子猫に視覚共有機能をオーバーライドしたの」
なるほど、視点が低いのは子猫の眼を借りて風景を見ているためらしい。
ざっざっざっと足音が聞こえてくる。映像がそちらを映す。
女子学生がスクラムを組んで廊下いっぱいに幅をとり、こちらに向かって歩いてくる。
子猫は飛び上がり頭上部の窓に乗り廊下を見下ろせる位置についた。
女子学生達の向かう先に人垣が現れた。
フルフェイスに青色の全身防具。生徒会直属の警備部員達である。
身の丈ほどの巨大な盾を並べ廊下を封鎖、ファンクラブの行く手を阻む。
警備部員たちの人垣の向こうで脚立が動き、身軽にそこへ上る白スーツ。
生徒会執行部の庶務担当、印刷部でさんざん怒鳴り散らかしていた八総である。
「とまれ!」変わらない怒鳴り声をあげる。
警備部の封鎖手前10メートルほどを残し、女子学生たちのスクラムは足を止める。
「宇佐見蓮子はどうした!」
「我々宇佐見蓮子ファンクラブが保護した!」
「保護だと!? それはどういうことだ!?」
「生徒会の弾圧から先輩を守るためだ!」
「宇佐見先輩に優しくしろー!」
「放送であんなに怒鳴らなくったっていいじゃないかー!」
「秘封倶楽部を大学公認サークルにしろー!」
「宇佐見がそういったのか!? 宇佐見がそう要求したのか!?」
「お菓子作りくらい別にいいだろー!」
「学校の備品でやるなら許可を取れって言ってんだよ!」
「宇佐見先輩は受け取ってくれただろー!」
「一体何が悪いっていうんだー!」
「宇佐見をここに連れてこい! 説明しろと言え!」
「生徒会に宇佐見先輩は渡さない!」
「そうだそうだー!」
互いが互いに言いたいことを言って議論になっていない。
論点を整理し互いの主張と整理する必要がある。
が、興奮と熱狂に支配され集団心理が働いている。
二つの集団が暴力で衝突するのは時間の問題である。
そこで、我々を軟禁する扉の向こう側に人の気配があった。
くぐもってよく聞こえないが誰かが会話している。
送ってくれてありがとうだとか、いえいえこちらこそだとか言っている。
ややあってから扉がノックされた。
「宇佐見ここじゃろうか」天琉の声だった。まさに天の恵み、勿怪の幸い、渡りに船と言うやつだ。
「閉じ込められたんだ! 助けて!」
「だいぶ早かったわねぇ、どうやってここまで?」とメリー。
「小田原副会長におんぶして貰ったのじゃ」
「やっぱり心配になってここまで来たけど、正解だったね。まさか軟禁されるとは」
「だから言ったじゃん! 私じゃあ制御なんてできないんだよ!」
「いいや違うな宇佐見。掲示部での宇佐見は単に責任逃れをしたいがための態度だった」
だが、と小田原は後を続ける。
「宇佐見かメリーが黒幕だと思ったら、違ったのか」
「黒幕ってどういう意味だよ……」
「だってそうだろ。一番の利益獲得者だし」
「女性に言い寄られて何の利益になるっていうんだ。私は女だぁ!」
「ははは、宇佐見のそういうところ好きだよ。頭は切れるのに自分の長所と周囲の評価が見えてないところ」
「褒めてるのか貶してるのか。貶してるのか!? 貶してるんだな!? くっそどいつもこいつも!」
「親睦を深めているところ申し訳ないのだが、半妖のメリーさんをもってしてもここは開かないのかの?」
そうだった、私は扉にへばり付き向こうに叫ぶ。
「対妖怪機能付きの封鎖結界だ! メリーみたいな半妖じゃない、結界暴きができる人連れてきて!」
「そんな能力者はおらんのじゃ」「そんな能力者はいないね」
「封鎖結界解除に一番手っ取り早い方法は、解除権限所持者を連れて来る事ね」
「じゃあファンクラブの代表者を連れてこないと!」
「それは八総がやってる」「それは八総がやっておる」
「封鎖結界だから中からはどうしようもないよ。外からどうにかしなきゃ」
「メリーさんは何をやっておる」
「なんか式を弄ってる」
「秘封倶楽部がその調子じゃあ、わし達じゃどうしようもないのう。小田原副会長?」
「あ、ごめんちょっと通話する。少し待って」
小田原が携帯端末で誰かと通話をしている。状況を説明しているようだ。
秘封倶楽部はファンクラブが張った対妖怪用の封鎖結界で軟禁状態。
八総と警備部はファンクラブと睨み合っており激突するのも時間の問題。
ファンクラブを止めるには宇佐見蓮子が必要だと思われる。指示を仰ぎたい。
「小田原は誰と喋ってるん?」
「わしに聞くな」
私と天琉は黙り動きを待つ。
ファンクラブの人数は100人以上。
結界は何週間もかけて準備したように見える。
ファンクラブ員の士気は高く、生徒会の警告を聞こうとしない。
そうして何度か返事をした後。
「……えっ!? よろしいんですか?」
大層意外だと言うように、小田原が狼狽した。
「はい、承知しました、それでは」と通話を切るなり。
「天琉、ちょっと私と来てほしい」急ぐ様子で言う。
「誰と話してたのじゃ」
「生徒会長だよ。別件対応中でこっちには来られない。あと宇佐見」
「なに、もう家に帰って休みたいんだけど」
げっそりとする。もう心底うんざりとしていた。精神的な疲労が蓄積している。私は、秘封倶楽部の活動で文化や歴史を調べるのが大好きだ。夢中になれて疲労を感じない。必要になるまで休息しようという気にならない。寝る間も惜しんで倶楽部活動の下調べをしても、全く苦に感じない。
それと比べて今のこの状態は、倶楽部活動と全く関係が無い。大勢の人間から好意を向けられるのは、確かに心地が良い。しかしそれも妖術によるものであって、私の魅力によるものでなければ、真に好意を抱く人によるものでもない。そんなものに充足を感じてしまうほど私の精神は未熟ではない。しかも、あと数時間もすれば収束することは分かっている。ファンクラブの暴走は放置すれば良いと小田原に言わないのは、ただ単にそれを説明しようとするとメリーの妖力習得の経緯に加え、今回の騒動の根幹の原因は妖術の実験によるものであり、計算とは違う術がメリーの気まぐれで私に掛けられたと明らかにしなければならないからだ。
私は疲れ果てた。もういいよ、八総と警備部に任せておけば。そんな心境である。
「事件を解決すればいつでも帰してあげるよ、それよりも」と小田原は前置いて。
「宇佐見、君は自分が置かれている状況を理解していない」
「また脅すつもりか?」
「違う。そこでぐーたらして時間が過ぎるのを待っていれば良いと考えてるだろ。そのままじゃ死ぬぞ」
「水とか食料とか酸素切れとかそういう話をしてる? まあその前に退屈で死にそうだけど」
「違う。はあ、宇佐見、結界に詳しい半妖メリーさんに話を聞いてみろ」
「分かってるわ。私ちょっと忙しいから、生徒会長からの受け売りを聞かせてあげればいいわ」
「菓子作り開始までの瞬発性と言い、事前の計画性が高い。秘封倶楽部を軟禁状態に追い込んだ点も鑑みるに、ファンクラブのトップは勤勉で努力を成就させる継続性と粘り強さがある。あの人数を束ねる手腕も見事だ。十分な脅威だろう。あと封鎖結界の件だが、有名な本から引用すれば、”深い闇、人数、信仰が集まる偶像、強固な封鎖が行われる場所、そして強力な結界。このうちの要素が重なるほど、”」
私ははっとした。
結界内で意欲を削がれだらだらしている場合ではないと気付かされる。
私はその有名な一説の続きを引用する。
「”人食い妖怪は湧きやすくなる”」
「そうだ。どの程度の時間で湧くか分からないが、急いだ方が良いだろう」
一年ほど前に酉京都大学へ1体の妖怪が湧いたことがあった。
発生個所は20講義館、通称精神と時の館の1階にある使用されていない物置きだった。
当時はメリーが同館の2003講義室で授業を受けており、雰囲気の変化に真っ先に気が付いた。私は当日のカリキュラムを終えて暇だったので隣の席で倶楽部活動に関わる資料を整理していたのだが、メリーが私に伝え、私が教授に緊急事態を伝え、行動に移れた。
妖怪は各講義室を次々と襲撃しながら移動し、いずれ飽きたように結界の向こう側へ帰って行った。あの時は対抗するための武器も、人数も、面子も、籠城を行うための部屋の条件も、全てが偶然揃っていた。私が指揮したのだ、部屋を可能な限りで要塞化し、学生たちへ対妖怪戦生存のためのレクチャーを行った。鉄則はたった一つ、全力で逃げろだ。しかし1体の妖怪の侵攻にバリケードは容易く突破され、有り合わせとはいえ殺意豊富な刺突劇薬爆破などの攻撃は無力で豆鉄砲に等しく、トラップは非力で、けが人が何人も出た。死者が出なかったのは奇跡と言えるだろう。
目撃者の証言と事件現場から、今は"小指掛け妖怪の精神と時の館事件"と呼ばれている。
私は半妖でもなければ、武道も極めてはいない。しかし、対妖怪用の知識は少なからず持っている。なのに沢山のけが人が出てしまったのは私の責任だ。自責の念から、この事件の負傷者は全員名前を空で言えるようにしてある。例えば、開かずの間の前に偶然居合わせてしまっただけだった女子学生、什寺さんは被害者のうち最も酷い重傷を負った。顔を剥かれ体をえぐられた。妖怪被害による治療費などの費用は全額国が負担する。また、昨今の治療技術、整形技術は目覚ましい進歩を遂げている。今は治療を終えて傷跡も消えたと、メリーが教えてくれた。健康に日々を送っているらしい。
事件後分かったことだが、妖怪が湧いた物置には簡素な結界が張られていたらしい。
「精神と時の館事件の時は、結界が張られて完全放置で一週間未満だった」
「だが宇佐見がいるそこは、入念な準備と、100人近い人数が結界に関与しているぞ」
緊張の炎が再燃を始めた。
あんな事件がまた起ころうとしている。食い止めなければならない。いま、ここで。
部屋の四方へ視線を巡らせる。改めて観察をして、食べ物と飲料水と、目隠しのカーテンの向こう側にシャワーがあるのが分かった。いずれも必要にはならないだろう。数時間後に無事ここから出るか、そうでなければ妖怪に食われるだけだ。
「メリーに守って貰うと良い、多少は戦えるんだよね」
「相手によると思うけれど」
メリーは子猫に与える式の開発を行っているようだ。
警備部とファンクラブの映像をそばに置き、なにやらぶつぶつと言っている。
「時間との勝負だからね宇佐見すぐ戻るから、祈っててくれ。さあ行くぞ天琉」
「宇佐見、最後になるかもしれないから言うがの、おぬしは良い人間だった。ふふっ」
「なんで過去形なの!? っていうか縁起でもないこと言うのやめてくれる!?」
「ではの」「じゃまたね」
"時間との勝負"なのは私ではなく小田原達の方だと思うのだけどなぁ。
足音が遠ざかる。正真正銘、私とメリーだけになってしまった。
式の作業を続けるメリーへ視線を向ける。
警備部とファンクラブは互いにスクラムの並びを代表の指示で変えている。
いよいよ実力行使やむなしと、突破力がある人を最前に構成する様だ。
警備部の人垣の中でフェイスシールドを上げ、身振り手振りで指示を出している人がいる。
彼はアメフト部のラインマンで、身長205センチ、体重が145キロある。
他も柔道部大将、相撲部主将、プロレス倶楽部代表などと、錚々たる面子である。
あんな人間が横に並び防具を身に着け盾で身構えられたら、突破など到底不可能である。
対してファンクラブのスクラムを見る。
運動などしたことが無い風に見えるか弱い女性集団と言う感じだ。
せいぜい身長160センチ、体重はあっても50前後というところだろう。
「ボーナスゲームだな」喧騒の中でアメフト部のラインマンが言った。
「せいぜい淑女の皆様を怪我させないようにやさぁしく迎え撃ってやろうぜ」
「ははは、まあ今回は余裕だろうな」
「2分も耐えたら向こうがへばるだろ」
「そしたらいつも通り各自確保だ」
「おいお前ら」と八総が腕組をしていった。
「暴徒鎮圧であることは確かだが、当校の女子学生たちであることも事実だ。拘束の際に不埒なことをやったやつはソッコーで処罰するからな。各自スポーツマンシップに則った奮戦を期待する。分かったな!?」
「押忍!」
生徒会直属警備部に所属するには、スポーツ活動で突出した成績を残すことに加え、素行に問題が無いこと、担任監督の推薦が必要などなど、多くの審査をパスする必要がある。心身ともにフィジカルエリート集団なのである。そもそも警備部が出動した時点で大問題なのであるが、鎮圧に参加した学生は活躍に応じて単位が与えられる。警備部員曰く、「これ以上に楽に単位が取れるものは他にないぜ」とのこと。
一般人が想像する以上に大学スポーツは修羅の世界である。技術が無い者、体格に恵まれない者は蔑ろにされ、成績を残せなければ未来は無い。毎日血反吐が出るまでしごかれ、帰宅した後は栄養を摂取し肉体をケアしなければ翌日の部活動に支障が出る。暴力と恫喝と理不尽に塗れながら日々を過ごす。そんな毎日を過ごしながら報われるのは一握りの世界なのだ。
どん、どん、どん。
警備部達が盾を床に叩きつけて鳴らす。
凄まじい迫力である。
「最後通告だ!」八総が脚立に登り叫んだ。
「即時解散せよ! 今ならば反省文で許してやる! これ以上は自身を滅ぼすことになるぞ!」
「宇佐見先輩の為に!」「ためにー!」「我らは宇佐見先輩の為だけにー!」
「蓮子、見て」作業をしながらメリーが言う。
「見てるけど、どちらが勝つかって?」
「確実にファンクラブが勝つわ」
「んな馬鹿な。はね返されて拘束されて終わりだよ」
「いいえ私が言いたいのはそうではなくて」
メリーがディスプレイに指をさす。
ファンクラブの最前で発破をかけている女子学生だ。
きっと代表なのだろう。
「どこかで会ったことない?」
レディース用の三角ニット帽子、スキーをするときに身に着けるようなゴーグルが顔に乗っている。
体つきから女子学生だとは分かるがこれだけでは誰か見当もつかない。
「顔がほとんど隠れてて何とも言えないな」
「あらそう。ならいいわ」
「? どういうこと?」
メリーは淡泊に言ってまた作業に没頭してしまう。
他にやることはないし私は成り行きを見守るだけである。
「さあみんな正念場よ!」「宇佐見先輩の為に!」
「いくわよー!」「えいえい、おー!」「とつげきー!」
「全員構えろ! 一人も通すな!」「応!」
ニット帽を先頭に、ファンクラブの百人近い人数がスクラムを組み一斉に走り出す。
警備部の最前列は腰を低く強固に盾構え、二列目はその隙間を埋める。完璧な布陣だ。
どどどど、圧巻の足音が響きついに二つの集団が激突する。
体格も経験も迫力も劣るファンクラブのスクラムがぶつかる。
瞬間、盾にはね返されて転び、二列目以降の女子学生たちが次々に勢いを削がれる、と思われた。
だが結果は違った。不思議なことが起こった。
先頭中央を疾走していたニット帽を皮切りに。
女子学生たちが警備部員達をなぎ倒し猛進する!
「どわあぁああぁああ!?」
ボウリングボールに吹き飛ばされるピンの様に。
いや猛風に揉まれる木の葉の様に。
あるものは四肢を振り回し壁に衝突し。
あるものは腰を天井に打ち付けて落下し。
あるものは窓ガラスを突き破って廊下から退場した。
若干の混乱と動揺が残り。
女子学生たちの後姿を見送る警備部員達があった。
「な、なんだ、一体何が起きた!? くそっお前ら起きろ!」
仰向けに倒れていた八総が辺りに転がる警備部員を起き上がらせる。
幸いにも突き飛ばされた面々は防具のお陰もあったのだろう、特に目立った負傷者はいないようだ。
「八総! ファンクラブは放送室に向かったわ!」メリーがディスプレイ越しに叫ぶ。
「構内放送で大学中に勧誘をかけて宇佐見親衛大部隊を作るつもりよ!」
「この声、秘封倶楽部の半妖か!? 分かった放送室に行けばいいんだな!?」
八総が廊下を素早く見渡し、そして廊下上部で見下ろす猫がメリーの声で喋っていることに気づく。
通常ならばそんな非現実的な状況に狼狽するところだろうが、瞬時に理解して行動に移す点。
短気ですぐ手を出し怒鳴ってばかりいても、流石は生徒会長に認められただけの事はある。
「私も蓮子も軟禁されてるの! 親衛隊を作ることは賛成だけど、明確な人命危機よ! 止めなさい!」
「くそっ! 聞こえただろお前ら行くぞ!」
猫が素早く身を翻し、走り出した八総の背中に掴まる。
すぐさま機転を利かせて後ろに手を回し、抱っこしてくれる。
「八総あなた、怪我したの?」
「ちょっと頭を切っただけだ」
走りながら頭に触れた手がべっとりと赤く染まっている。
防具を身に着けていなかったのが災いしたらしい。
「警備部を動員させるときは次からあなたも防具をつけなさい」とメリーが軽く手を振る。
「! 傷がふさがった! なるほど恩に着る」
「ファンクラブは体を強化する式を付けてるわ。生身の人間じゃ相手にならないの」
「そ、そうだったのか。気付かなかった」
そ、そうだったのか。気付かなかった。と私も思う。
「結界に封印されながらだと完全な力は出せないけど、あなた達にも似てる術を掛けてあげる」
「……ファンクラブ全員が貴様の様な術使いなのか?」
「いいえ、クラブ代表のニット帽をかぶってる女だけよ」
「そのニット帽は相当の使い手なのか?」
「周囲に力を割き過ぎてる。本人はそこまででない筈」
「どの程度の人数で確保できる?」
「3、4人で包囲すれば強化した警備部員たちで拘束できるはずよ」
「それだけ聞ければ十分だ。おい宇佐見!」
「うおびっくりした。呼んだ?」
いきなり呼ばれてぎょっとする。
「本当に貴様はこの騒動に無関係なんだな?」
「えっ、うーん、部分的にはそうかな。A XOR B AND Cって感じ」
「理系は言ってることが分からん。なんで論理演算子が出てくるんだ。ちゃんと説明しろ!」
「黙秘権を行使します」
「馬鹿にしてるのか!」
「ほらほらいいから、放送室を取られたらもっとひどいことになるわよ」
放送室前廊下に到着した。八総は一度立ち止まり、猫をそっと下す。
放送室前に女子学生たちが陣取っている。向こうからは忙しなく扉を操作する音。
「なんで、なんで開かないのよ!」ニット帽が焦りの声を上げている。
「がんばって!」「あと少しよ!」「あと少しで宇佐見先輩は救われるの!」
「扉を封印したわ」とメリーが言う。
「だけどそう長くはもたない。八総、制圧しなさい」
こちらに気づいた女子学生が一人、わあああと非力な声を上げながらこちらに突進してくる。
八総を守るように警備部員が二人、盾を構えて前方へ躍り出た。女子学生の突進を受け止める。
がぁん! か弱い見た目からは想像もできない程の硬質な衝突音。警備部員の屈強な体がびりびりと震える。
だが、「八総さん! いけます!」見事強化式込みの突進を受け止めた!
「盾だけじゃ制圧は無理そうだな。警棒の使用を許可する」
警備部員二人は腰に手を回し、そこにあった特殊警棒を勢いよく振って展開する。
強化カーボン素材で作られた本物の特殊警棒である。
通常であればあんなもので殴られたら大変なことになる。
打撲や骨折どころではない、骨は砕けきちんと治療しなければ後遺症が残るだろう。
「宇佐見先輩の為に! 宇佐見先輩の為に!」
熱に浮かされたように盾を押す女子学生。
警備部員は今一度八総を振り返り、言う。
「ぐ、こいつ何て力だ……、ほんとに、やりますよ?」
「かまわん」
握る手に力を籠め警棒を振り下ろす! かきぃん――、明らかに肉を打つとは違う、金属質な音が響いた。
警棒は女子学生の肩から20センチほどの距離を浮かせ、見えない壁に阻まれたかのように止まっていた。
「!? なんだこいつ、どうなってる!?」
「護身強化結界だわ」とメリー。
「もっと分かりやすく言ってくれ」
「見えない全身防具みたいなものよ。衝撃を与え続ければ壊れるわ」
「どれくらいの強度がある?」
「厚さ50ミリの鉄板程度かしら」
「ははっ、おーい誰か自動車倶楽部から油圧カッター持って来てくれぇ」
「いやおまえ、50ミリつったら救急隊倶楽部が使うようなプロ仕様じゃねぇと無理だ!」
「まあそうだな。と、くれば」
警備部員が軽口を叩くと、二人同時にぐんと押し返し盾を投げ捨てた。
女子学生は後ろに数歩バランスを崩すが、また再度こちらに突っ込んでくる!
迎え撃つ警備部員の目線は相手の顔や手ではなく、足元だった。
女子学生のタックルに合わせ、素早く体を躱す。
ひゃあと悲鳴を上げてうつ伏せに倒れる女子学生。
筋力は上がっても所詮は運動経験の浅い女性である。
廊下はコンクリートだが、防護結界があるので怪我の心配はない。
警備部員二人が女子学生の背中へ膝を載せ押さえこむ。
「確保! オレが押さえてるから縛り上げろ!」
「えっ!? いやオレが押さえるからお前が縛れ!」
「なんでじゃい、お前が縛れ!」
「ちげぇよオレ、……女の子に触ったこと無くてさ。縛り上げるなんて絶対無理だ!」
「なにぃ!? 奇遇だな! オレもだよ!」
「……」
「……」
「わはははは!」
「わはははは!」
「ふんがー!」
「うわああああ!?」
「うわああああ!?」
女子学生が腕立て伏せの要領で二人を頭上へ吹き飛ばす。
天井にぶつかり重力で落下。ぼとぼとと床にたたきつけられる警備部員。
「まあ、護身結界があるから縛って拘束なんてそもそも無理なんだけどね」とメリー。
そうこうしている間に遠巻きにしていた女子学生たちがこちらに走り寄ってくる。
後ろを追ってきていた警備部員たちも到着した。
隊列も何もない、格闘戦もとい乱闘になった。
きゃーきゃーと黄色い女子学生の声。警備部員達の悲鳴。
何とものんびりとした風景だが、状況は劣勢のようだ。
「やっぱり結界内から、しかも遠隔となると厳しいみたいね、ふふふ」
警備部員が投げ飛ばされ吹き飛ばされている様子を眺めるメリー、なぜか楽しそうである。
と、こちらに振り返って言う。
「さあ蓮子、私たちも余裕が無くなってきたわよ」
「ええー、まさか」
メリーに促されて後ろを見る。
防水カーテンに覆われた向こう、シャワーのスペースで黒い靄が立ち込め始めている。
まだ燻っているだけのように見えるが、歴とした人食い妖怪襲来の前兆である。
もはや数分程度しか猶予はない。
私は宙に浮かぶディスプレイを見る。
ファンクラブの女子学生たちと警備部員の乱闘は始まったばかり。収まる気配はない。
今すぐにでもあのニット帽を捕まえここに連れてきて結界を解除させるなど、到底不可能だ。
あと百秒程度で人食い妖怪が現れる、間に合う筈が無い。
煙が少ない状態で結界の封鎖を解けばまだ襲来を中断させられる可能性はある。
しかしそれももう不可能となってしまった。
まず私とメリーが襲われ命を落とす。妖怪は結界を破壊し大学敷地をうろつき始めるだろう。
確かに天琉などをはじめに、妖怪と戦える人も何人か大学にはいるが、それでも敷地は広すぎる。
小指掛け妖怪の精神と時の館事件、あの悪夢がまた始まろうとしている。
一般の学生などなすすべもなくやられていくだろう。
「メリー……」
私は今生の別れを告げようと話しかける。
せめて八総に現状を共有し、学生生活実務棟から人払いをするよう頼む程度のことはできるだろう。
が、メリーはいつもと変わらない様子で立ち上がり、こちらに手を伸ばしてきた。
「間に合ったわ。蓮子、さあ立って」
「えっ、それってどういう」
「おぉい宇佐見とメリーさんや、まだ生きてるかのぉう?」
「まあ、間に合わなかったらそれまでだけど」
扉の向こうから天琉と小田原の声が聞こえてくる。
友人の声に私は気持ちを取り直した。
天琉が居ればここから出た妖怪を食い止めることもできるだろう。
無論、私とメリーはやられた後に、ではあるが。
「残念ながら生きてるよ。メリーもここにいる」
「困ったときに助けてくれる三銃士を連れてきたのじゃ」
「困ったときに助けてくれる三銃士? ……ごめんそのネタ分からない」
「失礼なことを言わないでくれ。この扉です、お願いします」
「はいはい、頼まれましたよ」
と知らない声が聞こえ扉の前に立つ。
二度、三度とかしわ手の音が聞こえ――。
がらりと扉が開く。
「こんにちはー、結界省生活安全課、三級結界士の東雲 逢埜(とううん あや)でぇす」
見た目30歳中盤程度だろうか。
女性、黒髪を無造作に一つまげにして、目元にはメイクかと思うほどに深い隈。
眉は殆どなく、頬にはそばかすが目立つ。驚きのノーメイクである。
ぼろぼろしわしわの紺の時代遅れなパンツスーツを身に着け、ネクタイも曲がっている。
人差し指と中指の付け根にタバコを挟み、口元を覆うようにして吸っている。
ふうぅと紫煙を天井に向けて吹き、眠そうに言った。
「怪我無い?」
「ありません」
後ろを振り向くと愛想笑いを振りまくメリーが居た。
妖力で表示させていたディスプレイは解除されており、しっかりと二本の足で立っている。
「私たちは無事なんですけど、そこで黒い煙が上がってるんです、何でですかねぇ?」
「ああ、妖怪が湧きそうなんだよ、部屋から出て、下がってて」
「はぁい」
メリーが歩き出し、私の腕を引く。
部屋から出ると天琉がサムズアップし「さばいぶってやつじゃな」、小田原は腕を組んで立っている。
「この中で、」と東雲がだるそうに言った。「妖怪と戦える人は?」
「わしは自信があるのじゃ。沢山戦ってきた」と天琉が手を上げる。
「わたしは、生徒会に報告するためにここで見てます」と小田原。
「あ、もし危険だったら遠くに行ってますけど」と愛想笑いをするメリー。
「日常生活に戻りなさい。大学に用事が無ければ帰って良い。調書は明日とるから」
「はいありがとうございますー」とぐいぐいと私の腕を引っ張る。
通り過ぎざまに小田原が人差し指で私の胸を突いた。
かみしめた歯を見せ不機嫌そうである。
「命令だ、放送室に行け、これ以上騒ぎを大きくするな、事件を収束させろ」
「分かってますとも」メリーが返事した。
「生徒会様じゃあのレベルの暴徒を鎮圧できませんものね」
「早く行け」と小田原は虫を追い払うように手を振る。
私はメリーに引かれるがまま調理室から出る。
廊下を歩き少し離れたところまで行ったら、メリーは髪の毛を千切りふぅと吐息をかける。
猫の形に変わりふわりと着地。三毛猫だ。尻尾がやたらと短い。
「ジャパニーズボブテイル」
「正解」猫の背中を撫で「記録よろしくね」
「にゃあ」
そう言ってメリーはまたもや私を抱えた。
窓を開き、跳躍、飛翔、加速。上昇し大空に躍り出る。
上空でぴたりと速度を止め対空。
満面の笑顔で両手足を広げ、メリーが言った。
「さあ蓮子、最後の大舞台よ!」
「まあ、そうだよねこうなるよね……」
「はい、これ持って。これ付けて」
メリーが空中で私にいろいろな道具を差し出してくる。
特殊警棒、レザーグローブ、口臭ケアのスプレーを口に突っ込まれ、香水を頭に吹きかけられる。
Yシャツを脱がされインナー姿にされる。簡単なアーマーを身に付けさせられる。肘と膝にプロテクター。
ぱぱっとYシャツを戻され、ネクタイをしっかりと締めさせられる。
「らしくないわよ、しゃんとしなさい。ぐいぐい行動するのは蓮子の役目でしょ」
「だってこんなの倶楽部活動じゃないよ。それに、私が行く必要ある?」
調理室に湧く妖怪は結界省の人が何とかしてくれるだろう。
小田原に騒ぎを収めろと言われたが、そろそろ術は切れファンクラブは解散する。
この上空で文字通りの高みの見物と洒落込めば終わる話ではないのか?
「うーん、ネクタイは紺より緑、いや濃い赤にしようかしらね」しかしメリーは私の話を聞いていない。
どこからか取り出したネクタイを私に締め直し、顎に手を当ててうーんと唸る。
「良い感じね。さあさあ、最後は蓮子のトレードマークよ」
メリーが差し出してきた、白いリボン付きの中折れ帽子だ。
「みんな蓮子の到着を待ってるのだから、颯爽としなきゃだめよ?」
「みんなって誰なの……?」
「あ、あとはいこれ」
と一瞬でスキマから全身を覆えるほどの巨大なマントを取り出す。
エナメル質で陽光を跳ね返しテカテカとしている。裏も表も真っ黒。
「ちゃんとつけてね」
「はいはい」
私は手を広げて言われるがまま成すがまま。
メリーはあっという間に私にマントを身に付けさせる。
「なんでマントなんて」
「ただのマントじゃないわ。防刃素材だから、もしもの時はこれで防いでね」
「防刃!? ちょっとまっ、」
私が言い終えない内にメリーが私を抱えて下方へ向けて急加速。
上空から校舎をめがけて急降下する。
ごうごうと風が耳朶を叩く。
すぐ目の前にメリーの妖力ディスプレイが現れた。
「開いた!」
ニット帽が放送室の扉を力づくで破壊した。
素早く放送室に入り込む。精密な放送用機器が並んでいるのが見える。
手早く電源を入れマイク入力のミキサー値を上げ、レコーディングマイクに手を掛ける。
すぅと息を吸う。マイクに向かって声を吹き込む寸前、何かが陽光を一瞬遮った。
ニット帽が放送室の窓を見る。
「なにぃ!?」
降下からメリーに放り投げられる私。
マントを身にまとい勢いそのまま、窓に向かって蹴りを入れる!
直後、足に衝撃。爆発にも似た破砕音。
窓ガラスが粉砕され、細かな破片となる。
放送室の床へ軟着陸。
窓ガラスの破片を踏みつけ滑り、きゅうきゅうと鳴る。減速、停止。
ニット帽はマイクを掴んでいた手を放し後じさりをする。
私は警棒を振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろす。
「ひっ」
ニット帽が身を縮こまらせ、両手で自身を守る。
だが私の目標はきさまなどではない。放送機器のメインマイクだ。
一刀両断。マイクは持ち手の中ほどからすっぱりと折れ、床に転がった。
「生徒会がやめろって言ったのが聞こえなかったのか」
歯を食いしばり威嚇をする。
ニット帽はへなへなとその場に崩れ落ち、腰を下ろす。
「最後通告だって言っただろ。我が身を滅ぼすことになると、言っただろ」
「蓮子、それ八つ当たりじゃない?」と通信でメリーの声が聞こえてくる。
そのとおり。ほぼほぼ八つ当たりである。
ニット帽はゴーグル越しに私を見上げ縮こまってがたがたと震えている。
私は多少いらいらとしているが、もちろんこのニット帽を傷つけるつもりなど毛頭無い。
だがあと一押しだ、と思った。事件が終わるまであとほんの一押し。
「女子学生たちに掛けた術を解け」
待つが、放送室の静寂の中に震える呼吸が聞こえるだけだ。
反応が無い。私はじりじりとしてきた。警棒の先端を向ける。
「解け! 今すぐにッ!」
ニット帽がびくりと肩を跳ねさせ「と、解いたわ」言う。
解いた、こいつは確かにそういった。
これで事件は解決だ。と緊張が解けそうになる。
いや、まだだ。確認を取らなければ。
私は放送室入口開け放たれた扉に向けて叫ぶ。
「八総! やつらの式を無効化した! そっちはどうだ!」
「!? 宇佐見か! 宇佐見がやったのか!」
八総と警備部員達が放送室の入口に現れる。
その表情を見て安心をした。
「ファンクラブ員の軟弱化を確認」
「合わせて戦意喪失、彼女らにもう反抗の意思はありません」
「聞いてのとおりだ宇佐見、お手柄だな」
私はふぅと息をつき肩の力を抜いた。終わった。
くだらない事件がやっと収束した。
メリーが通信で言った。
「私は上空で待機してるわ」
「はあ、了解。メリーもお疲れ様」
なんだか私ばかりが肉体労働を強いられている気がするが、まあいいだろう。
放送室の外では警備部員たちが女子学生集団を空き教室へ移動させている。
八総が放送室前廊下一帯を封鎖し誰も入れるなと命じる。
「八総とそこの二人、こっちに来て」八総の指示が一段落するまで待って、言う。
私は警棒でニット帽をさして言った。「主犯だ。彼女に聞けば全貌がわかると思う」
「そうか」と八総が頷く。「では、話を聞かせて貰おうか。顔を出せ!」
八総がニット帽とゴーグルを乱暴に取り去った。
隠れていた素顔を私は見て、驚きにあっと声を上げた。
ブロントの髪に端正な顔立ち。
整った眉と、金の瞳。
完璧な形を保った唇、美しい顎の輪郭。
メリーと同じ顔がそこで涙を流していた。
「なぜ、……ないの?」
涙ながらに呟く。良く聞こえなかったが、声までメリーにそっくりだ。
「あ? いまなんつった?」と八総が乱暴に問い質す。
「なんで、私を好きになってくれないの!?」
耳を劈くほどの大声で叫ぶ。
素早く動き立ち上がり私のマントの襟をつかみ詰め寄ってくる。
メリーの顔で涙を流し頬を紅潮させ、絶叫する。
「宇佐見先輩に好かれるために顔も変えた! 声だって、喋り方だって変えたわ! 立ち居振る舞いだって、素振りだってすべてあいつそっくりに変えたわ! なのにどうしてあいつは選ばれて私は無視されるの!? こんなの理不尽よ! ねえどうして宇佐見先輩! どうして私を見てくれないの!? 私よ! わかるでしょう!?」
「おい止めろ! 離れろ!」
警備部員が二人がかりで女子学生を私から引きはがす。
屈強な男二人の膂力を前に強化式さえ解除した女性では抗えず、後ろに倒れ尻もちをつく。
「こいつ、あたまおかしいんじゃねぇか」と警備部員。
「まあそう言うな。だが動機は大体わかったな」八総が全く動揺せずに続ける。
「続きは生徒会室で聞く。連れていくぞ」
「待って。最後に、一つだけ」
私が静止を呼びかける。
警備部員が頷き、動作を中断する。
とても嫌な予感がした。
騒動は収束したと言えるが、動機に不明瞭な部分が多々ある。
その不明瞭で薄暗く、しかし目を凝らせば見える暗がりに。
何か理解しうるものが転がっている。
昨今の整形技術は飛躍的に進歩したとは言え、まだまだ高額である。
顔の造形を変え輪郭や鼻の形まで変えるのは女子学生では工面しきれないほどの金額になるはずだ。
さらに声まで手術で変えたと言っていた。そんなこと、出来るものなのだろうか?
「名前を聞いても、いいか?」
メリーの顔をした主犯はさぞ嬉しそうに。
本当にメリーそっくりに笑顔を作り、言った。
「什寺 早矢香(じゅうじ さやか)よ」
瞬間、私は思い出し点と線がつながった。
過去に一度人食い妖怪が大学構内へ湧いたことがあった。
"小指掛け妖怪の精神と時の館事件"である。
死人は出なかったが、けが人が沢山出た。私は全員の名前を憶えている。
あれは、”奇跡的に死者が出なかった”のではなく、"狙ってそうした"のだ。
"「精神と時の館事件の時は、結界が張られて完全放置で一週間未満だった」"
”そして強力な結界。このうちの要素が重なるほど、人食い妖怪は湧きやすくなる”
"結界の完成度が高いのも、ずっと前からこの部屋で君たち二人を軟禁しようと計画していたんだろう"
"「ほんの三日ほどです!」"
「実験したんだな、妖怪が結界内に発生するか否か。それで、一週間程度で妖怪が湧いた。だからそれまでは大丈夫だと思ったんだな。現れた妖怪に交渉を持ち掛けた。死なない程度ならば自分の肉を食べてよいと。その整形手術でメリーの姿を手に入れるために」
いいや、と私は頭を振る。
「メリーを殺害する計画に、妖怪を利用した?」
「ふ、ふふふ、大当たりよ」
大当たりよ、その言い方までメリーそっくりだ。
小指欠けの妖怪は、私とメリーが居た203講義室を執拗に狙ってきた。即席とは言え強固な対妖怪防護結界を扉に掛けたのだ。破られるまでかなりの時間を稼ぐことができた。その間に逃走することが出来た。あの時はまだメリーは人間だったが、十分に術士だった。
「妖怪の死傷事件被害金は国が出すから、整形手術費はそれを利用した?」
「ふふ、その通り」
「だけど、失敗した。メリーは無傷だ」
「そうね」
「そしてお前は妖怪と契約して、妖力を手に入れた?」
「それは、違うわ」
ゆらりと不気味に什寺が立ち上がる。
私に歩み寄ろうとするが、警備部員二人に止められる。
「ふ、ふふふ、結局腕力が全てなのよね。力があれば何でも手に入る……。力が足りないのよ」
什寺が数歩後ろに下がる。反抗心が窺われない様子に系部員二人が成り行きを見守っている。
「ははは! そうよ! どうして気づかなかったのかしら! 力が無かったのよ! ははははは!」
自分の体を雑巾の様に捻り、天井を仰ぎ、大声で笑う。
双眸からは涙が流れ、口は大きく開かれ、白く美しい歯並びが良く見えた。
笑い声は自嘲を湛えており痛々しい。
自らを傷つけている様を見ているようで、唖然としてしまう。
そのため、反応が遅れてしまった。
捻った体の陰になっている方の手が、ポケットから何かを取り出したことに。
その取り出した何かを、高く上へ向けていた口腔へ素早く持って行くことに。
口腔へ滑り込ませる何かが"小指"のように見えたことに。
「ううううう!! 甘露だわああああ!!」
「こいつなにか飲み込みやがった!」八総が誰よりも素早く反応した。
「この野郎!」「吐き出せ!」警備部員二人が什寺へ足をかけ、仰向けに転ばせる。
什寺の口へ指を突っ込み飲み込んだ何かを吐き出させようと躍起になっている。
「レオンって映画でゲイリー・オールドマンが抗鬱剤を飲むシーン、名演技だから見て」
メリーが上空からの通信で全く関係ないことを言った。
違う! 重要なことはそんなことではない!
私は警備員二人の襟首を掴んで後ろに引っ張りながら言う。
「ダメだ! 全員逃げろ! 半妖になる! 什寺は妖怪の小指を飲み込んだんだ!」
警備員がぴたりと動きを止め、互いに顔を見合わせ、そして什寺を見る。
白目を剥きがたがたと全身を痙攣させている。
両手両足は激しく床を叩き、体をくねらせ苦しんでいる。
ああ、と私は頭を抱えた。あの時と同じだ。
あの時もメリーが妖怪の肉を口に含み嚥下し、私の静止はほんの数秒遅れてしまった。
全て手遅れ、時間切れ。私はまた間に合わなかった。人が人をやめてしまう。
ぴたり、と什寺の痙攣が止まる。
だらりと四肢を投げ出し全身を弛緩させている。
放送室内に静寂が満ちる。
「全員伏せろ! 爆発で吹っ飛ばされるぞ!」私は声の限りに警告した。
「そ、そうなのか? 伏せればいいのか!?」八総が半信半疑でうつ伏せに寝る。
「メリー援護! 半妖化に伴う妖力覚醒現象は小型の爆弾だ! 威力は物にもよるが伏せろ!」
「全員肉体強化式、防爆用に防護結界、防音結界、完了。大丈夫気絶はしても死にはしないわ」
「え、いや単に喉に物を詰まらせて窒息しただけだろ?」
「小指ってなに。っていうか、まずは気道確保だろ、掃除機を探すのがさk、」
爆発。
爆音。
爆風。
うつ伏せに伏せる私の背中のすぐ上を凄まじい圧力が通過する。ふわりと体が上方へ巻き上げられる。窓ガラスが吹き飛ぶ。屋内に設置されていた機器が、爆発に巻き込まれた警備部員が、私が割ったガラスの破片が、福引器の中の様にぐるぐると凄まじい速度で室内を動きまぜこぜになる。ただ固く目をつぶって耐えるしかない。ごろごろと全身をぶつけ、やがて落下。
激しい耳鳴りの中で眼を開ける。
音が良く聞こえない。
四肢の感覚があいまいだ。
両手を床につき頭を振って起き上がる。
どこか遠くで誰かが高笑いをしている。
気分が良い、最高な気分だと、興奮している様子で叫んでいる。
「蓮子、35秒よ、35秒耐えるの、それで助けが来るわ」
朦朧とする意識を塗りつぶすように、メリーの声が聞こえる。
後ろを振り返る。什寺が立っていた。
しかし外見が大きく変わっている。
肩口程度までだったブロンドの髪はふくらはぎまで伸び、形の良かった唇は上下に歪んでいる。
双眸は大きく見開かれ瞳孔は縮み、金色に爛々と光っている。両手の指は三倍以上に細く伸びている。
爪は指先からさらに1メートルほどにもなり、鋭く光を反射させている。
長く鋭利な刀剣のようだ。いや、文字通りの鋭い刃なのだ。
そして何より体長が2倍以上に伸びている。
300センチ近い体躯に小さな頭、細く長い手足。
人体の比率を逸脱した歪な外見だった。
結界省が結界暴きを禁止する理由は3つある。
1つ、結界は封印であり、封を行う理由があるため。
交通システムを秩序付けるために道路交通法があるように、結界を使って蓋をしているのはそれ以外の手段が無いからだ。物理的な封鎖や拘束では無力化できない物を封じ込める為に結界士は結界を使用する。ではそれは一体何か。一言で言ってしまうと概念脅威である。日常生活を脅かす概念脅威とは? ”世界全ての物事が生物の命を奪う脅威になりうる”と言う概念である。例えば道路わきに淡い赤色の花が咲いていたとする。一般的な考え方と印象は、心が清い人であればそれを見て癒されたり、珍しい花だなと思う程度だろう。だが赤色とは血肉の色で、コンクリートのヒビという狭い隙間でさえも浸食し植物の根を伸ばす花の生命力はすさまじいものだ。条件さえそろえばどこででも、本当にどこにでも繁茂することが出来るのだろうとあなたは推測する。種を誤って飲み込めば体内を侵されることさえあるかもしれない。ここで、”そんな馬鹿な”、”消化器官内の環境では発芽なんてしない”と考えられれば、それは正常者である。――結界はこのような異常な考えを封印する。例えば植物の妖怪なんてものが結界から現れ退治に失敗したら、あっという間に人類の文明は石器時代に逆戻りだ。
2つ、結界内は数多くの妖怪がおり、妖怪の主食は人間の心であるため。
妖怪は人間の恐怖と畏怖で食欲を満たす。人を殺害し血肉を食らうのは食欲を満たすための副事項であると言われている。妖怪誕生の歴史は、自然崇拝の歴史である。科学によってあらゆる自然現象に説明がついてもなお日本においては信仰における基本概念は一般的に浸透している。一昔前までは集中豪雨や台風で大変な被害が続いていた。このような恐怖を糧にし、妖怪は成長する。科学世紀の近頃になってようやく日本は自然災害による被害を完全に克服したと言えるが、実はこの発展は治水インフラや防災設備の充実によるものだけではない。
そして、最後の3つめ。
妖怪の血肉は人間にとって劇薬であるため。
摂取すると生物の枠組みを超えた身体能力が身につき、概念能力に目覚めることがある。
身体存在は精神の在り方に偏る。執着性趣味嗜好性が外見に大きく影響を及ぼす。
高い依存性と嗜虐志向性凶暴性が思考を上書きする。このため、多くの場合は大量殺人事件に発展する。
よって、結界を暴いてはならない。
結界から妖怪を出してはならない。
妖怪の血肉に近づいてはならない。
「両手に妖力を集中させるわ。受ける場合はそれで防いで。でなければ、即死よ」
意識が靄掛かった様に不明瞭だ。視界がぼやけ、思考がうまく回らない。
爆発の音による耳鳴りがまだ続いている。
まるで安物の耳栓をしながらすりガラス越しに映画をみているようだ。ひどく現実味が無い。
どこか遠くから宇佐見蓮子と言う箱を通し風景を眺めている錯覚に陥る。
周囲を見渡す。八総はうつ伏せに倒れたまま気を失っている。
警備部員の二人は放送機器に四肢を投げ出したまま動かない。
私が逃げ出せばこの三人の命はないだろう。
妙に呼吸しづらい。鼻血が出ていた。ふんと息を吐き呼吸路を確保する。
片目がふさがっていると思ったらどうやら頭を切っており、流れた血が左目を塞いでいるようだった。
コンディション最悪。こんな状態で半妖へ立ち向かうなど、正気の沙汰ではない。
「ははは、せんぱああぁい! 私いまとてもいい気分なのおおぉぉ!!」
半妖化した什寺が両手を広げ絶叫する。
どうしてこうなってしまったのだろう、何がいけなかったのだろうと、諦観にも似た思考が脳裏を過る。
なぜ結界暴きでも倶楽部活動でもない大学生活で、半妖と殴り合わなければいけないんだ。
なぜ一介の大学生が、人間の純粋な脅威たる生物へ素手で対峙しなければならない。
なぜ、なぜ、と自問しながら。
もう一人の自分が叱咤する。
私が、やるのだ。
そう、私が、やらなければ。
小指掛け妖怪の雪辱を晴らす最高の機会ではないか。
この半妖さえ押さえこめばすべてが終わる。
もはや、対抗できる者は他の誰もここにはいない。
私がここに立つ理由はそれだけで十分なはずだ。
可能な限り大きく息を吸い、長く吐き出す。
そしてもう一度吸い込み、止める。
30秒ならば無呼吸で動き切れる。瞬きだって要らない。
集中、全ては集中だ。
今までだって、これからだってそうだろう。
だが今集中しなければ、未来は無い。
括目する。
あと30秒。
什寺が右手を振り回す。長い爪が迫り来る。
ひざを折り頭を下げ大きく前にダッキングして躱す。
持っていた特殊警棒が5つの輪切りになった。投げて捨てる。
什寺が右手を折り返し、左手と合わせて振り回す。
半歩後ろに下がりさらに上半身を仰け反るスウェーでぎりぎり躱す。
鼻先で血に固まっていた前髪がすぱりと切れたのを見た。
「そういえば宇佐見先輩はあああ、ボクシングが好きだったわねええええ!」
什寺が私の足を見る。長い爪を走らせる。
スタンスで構えていた右足を下げ避ける。
裾がすぱりと切れ、ひらひらと舞った。
ボクシングで下半身への攻撃は反則なんだがなぁ。
脳裏でもう一人の宇佐見蓮子が苦笑する。
什寺が振り回した両手をそのまま返し、広げるようにして攻撃する。
上半身を大きくウィービングさせる。同時に、拳に力を入れる。
上体を戻す勢いに乗せ左拳を什寺のわき腹に叩きつけた。
拳が悲鳴を上げる。激痛。
壁でも殴ったような手ごたえ。
全く効いていない。
「は、ははは! きもちいいわああああ!」
窓から青空が見えた。
どこかに星があったのだろう、時間が分かる。
メリーのアナウンスから8秒しか経っていない。
あと22秒。
什寺が広げた両腕を閉じて抱きしめるように、こちらへ飛びかかってきた。
後ろに下げていた左足に力を入れ上体を低くし、わきの下へ躱して通過する。
被っていたお気に入りの中折れ帽子が宙に取り残され、爪に当たって細切れになった。
ああ、一昨日買い替えたばかりだったのに。
と脳裏で愚痴る私へ、案外冷静だなとつっこみを入れる私。
アドレナリンが脳内で充足する。良い兆候だ。
こちらに背を向けていた什寺が振り向きざまに爪を振り回す。
かがんでやり過ごす。すぐ頭の後ろを鋭い爪が通過する。
しゃり、と音がした。後ろ髪が切られたのだろう。
かがんだ姿勢から拳に力を籠め、起き上がる全身を使って什寺の顎を殴りつける。
がごんと音がする。しっかりとした手ごたえ。
だが間髪入れずに向かって左から振りかぶった爪が迫る。
身を低くし、右ストレートを顎に打ち込む。
爪は左前方から右後方へ抜け、私の拳だけが命中した。
そのまま左前方へ抜ける。
窓が見えた。13秒経過。
あと17秒。
永久に等しい。
什寺が左手を返し上半身を切り裂こうとしてくる。
私は左手を後ろに回し、マントの裾を掴み、大きく振りまわす。
漆黒の布地に視界を塞がれた什寺は、なおも腕を振るう。
右から左へ、防刃マントがいともたやすく短冊状に切り裂かれ、布きれと化す。
いや、と思う。役には立った。視界を塞ぐ囮と言う役目だ。
大きく背筋を曲げた什寺の下に潜り込む。
そのまま立ち上がる要領で顎、いや、首を殴りつける。
拳に激痛。壁を殴りつけたかのような感触。やはり全く聞いていない。
ただの人間の筋力では半妖に有効な打撃を与えることはできない。
什寺が振り下ろした右手を返して逆手にし、こちらに振り回す。
身をかがめ脇の下を通過しようとした。が、残った什寺の左腕が追ってきていた。
冷たく銀色に光る爪を防ぐことはできない。後ろに下がることも、前に出ることもできない。
やむをえない。
私は迫る什寺の左腕を出来うる限りの力で殴る。
ぼきっ、ぼきぼきっ、音が聞こえ、ついで想像を絶する衝撃。
体が浮く。吹き飛ばされる。
浮遊感があった後、壁に激突する。
「――!!」凄まじい衝撃に肺の空気が口から抜け出る。
「左腕の橈骨頭、尺骨、手根骨が折れた。痛覚は切ったわ。でも、もう左腕は使わないで」
またギブス生活。憂鬱になる。
吹き飛ばされ距離が開いたために、什寺がこちらに接近するまで2秒。
壁に激突した際に吐き出した分の空気を吸い込み、止める。
軽い脳震盪は右手で頬を叩き無理やり覚醒させる。
「ははははは! 楽しいわねせんぱああああい!」
長くすらりと伸びた歪な足を持ち上げ、前蹴りの要領で突き出してくる。
身を翻し右手方向へ避ける。什寺の足がコンクリートの壁を叩き、穴をあけた。
窓から空が見えた。20秒。
残り、10秒。
拍子木の音を幻聴する。
壁に片足を付けたまま左手の長い爪をこちらに振り回してくる。
上体を低くして下をくぐる。さらに、右手の爪も振ってくる。
後方に大きく飛びずさり躱す。が、私ははたと気づいた。
「! それは――、」
什寺は、片足を壁に打ち付けたままだった。
そして上半身を捻り、両腕を振り回した。
すなわち、蹴りの予備動作そのままの姿勢である。
どちらかに避けようと考えるが、自分は今後ろに飛んだ為に空中にいる。
地に足がつくまでどこにも逃げることはできない。
たった一瞬、たった一度の判断ミスだった。私は脳裏で自嘲した。
無力。
最後に一目でいいから。
メリーの顔を見たかったな。
大振りに振り回された什寺の右足が巨大な切断機のような威力を滾らせる。
空間ごと薙ぎ払う様に、凄まじい勢いで私の腹部に迫る。
「東雲さんと言ったかの、一つお願いがあるのじゃが」調理室にて黒い靄を前に天琉が言う。
「やっこさんが出てきたら2、3聞きたい事があるでの、すぐに攻撃するのはやめてくれるかの」
東雲は人差し指と中指の付け根に煙草を挟み、口元を覆うようにして吸う。
ふうぅとゆったり時間を掛けて吐き出してから短く言った。
「いいよ」
時代遅れのパンツスーツ、上着裏ポケットから携帯用灰皿を取り出す。
ほとんどフィルタ部分だけになった煙草をしまう。
忙しなく逆ポケットから新しい煙草を取り出し大急ぎと言った様子で火をつける。ふうぅ、紫煙を吐く。
「向こうもちょっとは話がしたいだろうし」
「結界省は、妖怪を見つけ次第即退治という訳じゃないんじゃな?」
「会話が出来そうならする。争い無く解決できれば一番いい。ただ攻撃して来たら反撃する。それだけさ」
「分かりやすくて良いのう。ちょっと好きになった」
「生活安全課じゃなくて、危険妖怪管理課とか特殊攻撃課とかはそうじゃないだけさ。さあきなすったよ」
細く伸びた黒い靄が太く大きくなり、その場に停滞した。
沈殿し、固着し、黒い塊になる。やがて手足を形作り、座り込む幼い少女の形に変貌した。
色が付き始める。薄茶色の長袖ワンピースドレス。赤オレンジ色が混ざった毛並み。
頭頂部にはイヌのような耳が生えている。
ふさふさとしたしっぽが背部に見えた。
「おお!」と天琉。
「けもロリじゃな!?」間抜けなセリフである。
小田原は沈黙を守り、東雲は緊張を維持して睨みつけている。
妖怪少女はぱちりと目を開き、ゆったりとした動作で辺りを見渡す。
右を見て、左を見て、瞬きをして、東雲を見ると言った。
「ここに来れば人間が食べ放題って聞いたの」
幼い声だった。人間の女の子と何ら変わりはない。
耳と尻尾の人外の見た目を除けば、可愛らしい少女だった。
「そんな間違いを誰から聞いたんだ」
「おかあさんから。違うの?」
「違う。大体お前のかあさんは人を食ったことがあるのか」
「無いって言ってた。だけど、すごくおいしいって」
「美味しいって意味分かって言ってるのか」
「分からない。だから、知りたくてここに来たの」
「さっき人間が食べ放題だからここに来たって言ってなかったか」
「あれ? そんなこと言ったかしら」
人差し指を頬に当て首を傾げる。
東雲は煙を吐き出し、がっくりとして言った。
「言葉は覚えているが人の真似をしているだけだな。知能が無い」
東雲が不用心に近づき、持っている煙草を差し出した。
「吸ってみろ。これがおいしいってやつだ」
「おいおい!? それはいいのか!?」小田原が叫んだ。
はっと自分の口を押えるところ。思わずつっこんでしまったといった様子。
東雲は口の端を持ち上げて短く笑う。
「かまわんさ。こいつは少なくとも30年は生きてる。ほれ吸ってみろ。こうやるんだ」
東雲が煙草を咥え大きく肺に煙を吸い込む。
ふうぅ、と天井に向けて吐き、「ああー、おいしいなぁ」と言った。
妖怪の少女が煙草を受け取り、慣れない手つきで両手で支え、恐る恐る煙草を吸う。
予想通り激しくむせる。東雲はそこへしゃがみ込み、妖怪少女の背中をさする。
「どうだ?」
「なにこれ! 臭いしなんか咳が出るしぜんぜんちがう! いらない! 返す!」
「おいしいって難しいだろ。お母さんは大人だっただろ?」
「わたしはまだ大人じゃなかった?」
「そうだ。お母さんくらい大きくなったらまた吸ってみろ。ほれ、これをやるよ」
新しい煙草を差し出す東雲。妖怪少女が受けとる。
鼻に近づけ匂いを嗅ぎ、「うえぇー」と悲鳴を上げる。
「これが分かるようになったら人間を食べてもいいってこと?」
「いや、その場合は誰かに”煙草が欲しい”って言うんだな。そうすれば山ほどくれるよ。持ってないって言ったら謝って別の人を探せ」
「なーるほど。なーんだおいしいもの食べられるって期待したんだけどなぁ」
妖怪少女がその場にぽんと立ち上がり、不満げに言う。
「全然楽しくない! 帰る!」
天琉も小田原も、心の中で密かに拍手をした。
結界省安全管理課。素晴らしい手腕である。
「そうか」と東雲は新しい煙草に火をつける。
「今すぐ帰るか? ちょっとお喋りしていかないか。おいしいは分からないかもしれないが」
「ちょっとならいいかも。夜までに帰ればおかあさんに叱られないと思うから」
「すまないが私は忙しくてな。3分ほどだ」
「じゃあ、それでいいよ」
東雲が妖怪少女の隣に座り、背中を撫でながら天琉を見た。
ふむと天琉が口を開く。
「かわいいお嬢さんこんにちは。質問しても良いかね」
「ご丁寧にこんにちは。ぜんぜんいいよ」
「紅一族という妖怪を知っているかい?」
「しらない」と妖怪少女はふるふるとかぶりを振る。
「そうか」
天琉は目を瞑り唇を噛む。
またもや空振り。落胆は隠しきれない。
「残念そう。あなたはその妖怪をどうして探してるの?」
「ちょっと会話をしたくての。武の神髄に触れたいのじゃ」
「ブノシンズイ?」
「そうじゃ」
「それっておいしい?」
「とってもおいしい。みんな探してる。お嬢さんも探すと良い」
「そのホンイチゾクさんが持ってるのね?」
「そうじゃよ。どこかの結界の中のどこかの場所に居るらしい」
「じゃあわたし急いで帰らなきゃ!」
急に笑顔になり耳と尻尾を振りその場で忙しなく足踏みをする。
この妖怪少女の扱いが分かってきたと天琉が笑みを作る。これならば危険は少ないだろう。
「あ、もう一つ答えてもろうてもよろしいか」
「えぇ? いいよ。おいしい話なら」
「妖鍛刀を探してる友人がおってな。持ってる者を知っとるか」
「知らない。そのヨウタントウはおいしいの?」
「妖怪が鍛えた刀じゃ。これもとってもおいしい」
「結界の中にあるのね!?」
「そうじゃよ」
「うわああスゴイ! 結界の中にそんなにおいしい物が沢山あったなんて! 私帰る! ねえ帰して!」
よしと東雲が立ち上がる。
煙草を一口吸い、懐から白亜を取り出し部屋の中央へ移動すると、床に陣を書き始める。
あっという間に完成させ陣の縁へ移動すると、煙草を口に咥えたまま拍手を二回。
陣の中央に淡い光が満ちる。中央の空間に透明の窓があり向こうから木漏れ日が差し込んでいるようだ。
「さあどうぞ。閉じない内に」
妖怪少女は元気よく陣の中央へ飛び込む。
一度も振り返らず、軽やかに窓の向こうへ走り去ってゆく。
頭頂部の耳と尻尾が左右に揺れる。光の中へ消えてゆく。
「おかーさーん! 外の世界全然つまらなかったわ! こっちの方がおいしいものが沢山あるって!」
と少女の声を最後に東雲がぽんと手を打つ。
瞬時に窓は消え、あとは床に書かれた陣だけがそこに残った。
小田原がふぅと心底安心したように息をつく。
「被害が出なくて良かった」
「いや、まだだ」
東雲が鋭く言う。素早く懐から紙包みを取り出す。手のひらほどの大きさ。
朱色の印の上から”妖怪退散 身代御守”と毛筆で書かれている。
「行け、急げ、守れ」と投げ捨てると紙包みは独りでに飛び回り、調理室から外へ出てゆく。
そのとき、である。
どこか遠くから、どんと爆発音が聞こえきた。
数瞬間をおいて校舎ががたがたと僅かに揺れる。
いかに巨大な爆発であったかを物語っている。
距離はそこまで離れていない。
「な、なんだ。花火なんて許可していないが」小田原が怪訝な様子で言う。
東雲が辺りを見渡し広めのスペースにまた別の陣を書き始める。
線がぶれているが形は留めている。先ほどとは違い焦燥している。
「そこの半妖」と東雲が煙草を持つ方の手で指さした。
「40秒で助けに行くと伝えろ。大事な友人なのは分かるが、おまえからは手は出すな。直情型の半妖が逆上した結果半径1kmがキレイに吹き飛んだ記録もある。今回のやつがそれだ。とんでもない被害になるぞ」
「?」「?」
調理室の一角におすわりしていた三毛猫がにゃあと返事をした。
什寺のミドルキックに私の胴体は切り裂かれ下半身とはさよなら、鮮血をぶちまけながら痛みの只中で意識を失い絶命する、かと思われた。歯をかみしめ襲い来る激痛に覚悟する、が予期した衝撃はいつまでもやってこない。後方への跳躍が終わり両足が床につく。状況を確認する。
什寺はこちらに足を延ばし、確実に蹴りの間合いの中にいる。しかし私の下半身はしっかりとつながっているし、痛みも何もない。什寺は歪んだ双眸に狼狽の色を浮かばせている。「はあぁ?」と声を出し、瞬時に足を戻し、今度は腕を振り上げて――。私は躱す姿勢をとるが、什寺は掲げた腕をいつまでも振り下ろしてこない。なぜか?
振り上げられた什寺の腕、肘の個所に紙袋があった。朱色の印、四角形が二つ重なったマークは結界省のロゴだ。その上から”妖怪退散 身代御守”と黒の毛筆で書かれている。それで私は理解した。どうやら生き残ったらしい。
「なんでええぇぇ!」
什寺が腕を振り回す。その予備動作の悉くが紙袋に阻まれ、私に攻撃は届かない。
振り上げた腕、振りかぶる足、そのすべてを紙袋が先回りし私の身を守ってくれる。
だが、と私は思う。腕は二本ある。紙袋は一つだけだ。
「これならどうううう!」
什寺が両方の腕十本の指を広げ一斉に私へ向けてふるってくる。
ですよねぇと身構える。目を見開き血路を探す。どう避ければ良いか短く思案する。
ひきつけて後方へ飛ぶ以外に道はない。
しかしそれでは先ほどと同様次に畳みかけてくるであろう肉薄から逃れることはできない。
うーん、と脳内の私が腕を組む。詰んでるな。
私は信じることにした。自分自身に課された可能性を!
折れていない方の腕を突き出し大声で叫ぶ。
「頼む! 紙袋君ッ!」
かぁん! 高質な音が鳴り、周囲が青色の光に満たされる。
什寺が後ろに仰け反る。二歩、三歩と後方へたたらを踏み壁にどすんと体を衝突させる。
よほどこたえたのだろう、両手をだらしなく下におろし全身を小刻みに震わせている。
「ぐ、ぎぎ、ぎ」噛み締めた口の端から涎を垂らす什寺。
しかし双眸には殺意と嗜虐性が満ちている。
無力化には程遠い。
「ははは! 妖怪退治祈願の紙袋君がいれば我に敵なし! やっておしまいなさい!」
「はあ、勝利を確信すると途端に調子よくなるのは蓮子らしいけれど、その紙袋君とやらをよく見て」
メリーが通信で話しかけてくる。
言われた通り近くで浮遊しているはずの紙袋を探す。
だがどこを探せども見つからない。あれれ、おかしいなぁと頭を掻く。
「足元よ、足元」足元? ふむと足元に視線を落とす。
くしゃくしゃに皴が入り焦げついている紙袋が床に転がっていた。
俊敏に宙を飛び半妖の攻撃を防ぐ以前の面影は失われ、ひどく哀れだ。
私は跪きもはや見る影もない紙袋を抱きしめ慟哭した。
「うわあああ紙袋くーん!」
「紙袋君は犠牲になったのよ」
「君の! 君のことは忘れない!」
「うううぐぐぐ、せ、せんぱあぁい」
痺れが治まってきたのだろう、什寺が爪をカチカチと鳴らし、こちらに接近してくる。
私はため息をつき、床に膝をついたままメリーに聞いた。
「ねえあのさ、そろそろいいよね」
「まあ経ったわね。40秒」
「ああ、御守の霊撃は一発までなんだ」
何者かが私の肩を叩く。煙草の匂いが鼻を衝く。
「こんにちは、結界省生活安全課三級結界士の東雲 逢埜でぇす」
私を庇うようにして立つ。
腕を振るように広げると、懐から10枚ほどのお札が現れあたりへ展開した。
気絶して倒れる八総、警備部員二人、出入り口へ3枚、割れた窓を封鎖するように4枚、そして私。
空中でぴたりと静止し朱色の文字で書かれている。”人間以外通行止め妖怪退治祈願”斬新なお札である。
「言葉はまだわかるか? 什寺 早矢香、現行犯で逮捕する。両手を上にあげろ。腹ばいになれ」
私は小声で言った。「見えてる?」
「大丈夫、しっかり録画してる」
「よし」
結界省結界士の戦い方、逮捕術、手の内を録画できるかもしれない。
「うぐぎぎ、ワタシの、うさみせんぱ、い」
什寺は東雲の登場にたじろいだ様子だったがすぐに体勢を立て直した。
どうやら結界省が登場した事実よりも、私が東雲に庇われている事実の方が気に入らないようだ。
眼球を血走らせあたりに聞こえるほど激しく歯ぎしりをし怒りを全身に滾らせる。
大きく足を持ち上げ、床へ叩きつけるように踏み出す。ずずん、建物全体が揺れた。
逆上。激昂。先に肉弾戦で対峙した際よりも明らかに凶暴性が増している。
「やめろ、その程度じゃ私には敵わないぞ? ふふっ」
東雲が言う。全く緊張のかけらもない声色。
体重のバランスは片足にかけ、下に俯き煙草を吸う。
よほど戦意を感じられる姿勢ではない。余裕の表れだろうか。
「ワタシの、どうして、うさみせんぱい」
什寺が俯き手足を弛緩させる。これは、予備動作だ。
高く飛ぶ前には体を屈ませるのと同じように、強く拳を突き出す前には一度腕を引き付けるのと同じように、周囲の空気が張り詰め緊張する。メリーのような特別な目がなくとも観察することができる。指数関数的に場の妖力が上昇するさまが霧状になって現れ見て取れる。ぱきぱきと凍り付くような音を立てて宙で結晶化する。次々と数え切れないほどの結晶体が什寺の周囲に発生し、浮遊している。
窓から差し込む光を反射させ輝き、場違いながら美しいと感じてしまう。
まるでプラネタリーリングのようだ。
「うううううぅぅぅ」
呻くのと共鳴するように、結晶体で構築された円盤が什寺を中心に回転を始める。
加速を続けすさまじい速度になる。目にも留まらぬ速度で動きを見切るのは不可能だ。
「ぅぅぅううううあああっ!!」
什寺が絶叫する。直後、環を構成していた結晶体の一つ一つが外側に向けてバラバラな方向へ向けて発射される。もし東雲が居なかったら高速で飛来する結晶体に肉体は引き裂かれ穴だらけのボロ雑巾のようになるところだっただろう。東雲本人は殺意と害意を滾らせた結晶体などどこへやら、ふうぅ、と天井に向けて紫煙を吐き出す。
直後、かぁん! と高質な破裂音。今度は見逃さなかった。私や八総や警備部員を守るお札が発光し、青色の波が生まれる。その波はほんの一瞬で部屋の隅々まで広がり、襲い来る飛翔体を全て一つ残らず蒸発させかき消した。これが先ほど東雲が言った霊撃という物なのだろう。
「があぁ!」
間髪入れずに什寺が地を蹴り跳躍、一気に距離を詰め肉薄せしめんとする。逆上した半妖は怯まない。鍛錬した刀剣めいた鋭さを持つ爪を振りかぶり間合いへ入ろうと突進する。狂気の権化と化し目に付く者を傷つけることに全くの躊躇を見せていない。再三の警告にも従わず暴力を続けなおもやめようとしない。
「こんなことになって残念だ」
東雲深く顔を歪ませた。一瞬、自分自身が切り捨てられても良いという発想を得たかのように全身を弛緩させ、だが拳を握った。それが合図であり、引き金だった。東雲の眼前に陣が現れ、空間にぽっかりと穴が開く。穴は向こう側とこちら側を瞬時につなげ、同一の座標とする。まさしく、瞬間移動の連結穴である。そして向こう側から現れたのは。
「ほほう、これが亜空穴か、便利じゃのう」
天琉だった。
迫りくる爪がぐるりと方向を変えなぜか天井に向けられる。足が浮き、什寺の巨体が宙に浮く。高く放り投げられ放物線を描き落下を始める。ぐるんぐるんと抵抗さえできず自転を続ける落下地点には静かに構えをとる天琉がいる。両手を軽く握り拳を什寺に向けている。
「なんじゃおぬし、もとは人か」はたと気づく様子の天琉。
「ならば意識を刈り取るまでで、許してやろうかの」
拳を解き、手のひらを向ける。わずかに息を吸い、だがゆったりとした動作で掌を前に出す。
什寺が落下しながら爪を振り回し、突き出された手のひらを裂こうとする。それを見て首を振る天琉。
「いや、それじゃあダメじゃ」
落下放物線の着地地点にあった天琉の掌と刀剣のごとき頑強さ鋭さを持つ什寺の爪が衝突。一見柔和な幼い未発達の手が爪を粉砕し容易く貫通、その先にある胸部を捉える。巨大な威力で突き飛ばされたかのように半妖の巨体が吹き飛ばされ、天井に激突。重力に負けて床へ落下。そのあとは全身を弛緩させ床に転がる什寺の姿があった。白目をむき力なく口を開き、ぐったりとしている。
「気を籠めなければ、合気で砕けるからの」
構えを解き両手を腰に回し足を揃え、お辞儀をする。
「自信があるとは言っていたが、これほどとは恐れ入った」
東雲が什寺の巨体へ駆け寄り懐から取り出した妖魔封印の札を貼る。
たったあれだけで拘束は完了らしい。「さて、と」と東雲があたりを見渡す。
床材は捲られ、壁紙は剥がれあちこちにヒビが入り、天井材は爆発に巻き込まれ吹き飛び、窓ガラスなどは窓枠を残し跡形もなく割れてどこかへ行ってしまっている。無事で済んだとはいえ、学生会庶務の八総と警備部員二人は床に伸びいまだに気絶したまま。半妖化の妖力覚醒に伴う爆発の威力はすさまじく、放送機器は倒れ壊れ配線がむき出しになっているものもある。室内はひどい有様である。
「ヘルスチェック展開」と東雲が手を叩く。煙草を吸ってから言う。
「気絶してるそこの三人は問題ない。一番怪我してるのは君だ」
東雲が床に座る私に寄り添ってくる。
「怪我してるだろう。わかる範囲で痛む箇所を言ってみなさい」
本物の結界省結界士である。結界暴きと、結界内立入禁止区域不法進入と、結界内の妖怪との不法交流と、結界内からの物品不法取得と、秘封倶楽部活動で行った罪を数え始めればきりがない。そんな必要などどこにもないとわかりながらも警戒してしまう。
「あー、いえどこも痛くないので大丈夫で、」
「蓮子、戦闘の為の痛覚遮断とかその他もろもろを解除するわね、はい解除」
「いたたたた!? ちょっとまって全身がくっそ痛いあだだだだ!」
「!? どうした急に!?」
「治してもらいましょうよついでに。対妖怪のスペシャリストよ。何かあるでしょう」
「あだだだだ!? あだだだだだだ! あだだだだ!?」
「なぜ575なのかね」
痛みで視界が赤く染まる。
人間は本当に痛いときは悲鳴を上げることしかできなくなるものだ。
「私が言ったことを繰り返して。左腕の橈骨頭、尺骨、手根骨が骨折、左後ろ肩部に打撲」
「さ、左腕のと、とう、あだだだ、あっだぁ!」
「ああ、なるほどよくわかった」
東雲が納得したように頷く。
「友人にまた痛覚を遮断させて貰いなさい。いま式を渡すからそれを使うといい。ちょっと強めのお酒を飲んだみたいにくらくらするが、骨折くらいならすぐ直る」
「了解って言って蓮子」
「りょ、りょうかい、だってさ。は、早く痛覚を切って……」
いっその事気絶した方がましくらいの激痛が徐々に和らいでくる。仰向けに寝転がり意識して呼吸を整える。
東雲は拍手をしたあと、こちらに歩み寄ってきた猫を撫でる。あれで情報がやり取りできるらしい、便利だな。
「蓮子、私たちは結界省につかまりたくはないって、東雲に言ってくれるかしら」
「え? うーん、そんなこと言ったって結果は変わらないと思うけれど」
「結界省は、むやみやたらに結界暴き違反者を逮捕したりはしないよ」
東雲が八総の方へ歩きながら先回りするように言った。静かなで穏やかな語調だった。
ぎょっとした。まさかメリーの声が聞こえているわけでもないだろうに。
「調理室での仕事を見ていてくれてただろう。あれが、結界省の仕事だ。誰も傷つかなければそれ以上のことはないんだ。人間も妖怪も、みんな静かに楽しく暮らせればそれでいいはずなんだ。わたしも、煙草を吸って生活できればそれでいいはずだって、本気で信じてる」
あなたはもう少し煙草を控えた方がいいのでは、という言葉は飲み込んだ。
「大切な友人を守るために半妖になったならそれでいい。重大な事件や問題にならないように配慮してくれるならば、結界暴きもそこまで目くじらを立てて注意するつもりもない。自立して、生計を立てて、勉強をして、他の誰かの生活を脅かさないように、ちゃんと生きてくれればいい。そうできない者が出てくるから、そうできない者の為に、結界省がいる。それだけのことだ」
東雲が拍手を2度すると、あたりに浮いていた札が動き出し東雲の懐に戻ってゆく。
くしゃくしゃになった紙袋君も私の懐から回収されてしまった。
次に、起きたまえとかしわ手をして、八総と警備部員を気絶から覚醒させる。
こんにちは結界省の者です。もう安全です。どこか痛むかね?
け、結界省!?
あ、どこも傷みません。
本当に?
オレは眩暈が少しします。
ぱん、どうだね?
治りました。
よろしい。生活に戻りなさい。調書は後でとるから。
立ち上がった八総と警備部員二人はボロボロになった室内を見て驚き、仰向けに倒れる私を見て驚き、少し離れたところに倒れている半妖をみて驚き、そして東雲に急かされて放送室から出てゆく。廊下から調理室から駆け付けた小田原が八総と話をしている。
「すみません気絶していて説明することがありません」
「気絶していた? どれくらい?」
「たぶん、1、2分くらいです」
「結界省の方は中に?」
「放送室の中にいます」
「分かった。ファンクラブ員たちの記録書と報告書作成に移りなさい」
「わかりました」
小田原副会長が放送室に入ってくる。
「うわっ!? すごいなこれは。東雲さんお疲れ様です」
「先ほどぶり。漏電してたりするかもしれないから、気を付けて。そこで天琉君の隣にいるのが、主犯」
「うわっ!? 半妖か。うちの学生なんですかね?」
「什寺 早矢香、君達が称するところの精神と時の館事件の、小指掛け妖怪を召還した犯人でもある」
「なるほど、ところで宇佐見、なぜ君は寝ているのかね」
「見てわからんのか。沢山の骨折、打撲、打ち身に擦り傷に切り傷のけが人だよ」
「この部屋のありさまは宇佐見の仕業だな?」
「違う! そこで寝てる什寺がやったんだよ!」
「毎度毎度爆発が好きだな宇佐見は」
「人聞きの悪いことを言うな!」
メリーが話しかけてくる。
「式の解析を急ぎでやったけれど、怪しい箇所はないと思う」
「まあもうこうなってしまったら結界省に目を付けられたのは織り込み付きで、早く使って」
「酩酊状態になるというのと、肉体疲労が1徹分くらいは溜まるかも」
「はいはいわかったわかった。もう帰って寝るだけだからいいよ疲労くらい、よろしく」
「宇佐見はいったい誰と喋っているんだ」
「小田原に話しかけてはいない。分らんか?」
「んー? ちょっとわからんな」
ふうぅ、と煙を吐き出してから東雲が言う。
「報告を上げるうえで、宇佐見君のことは必ず書かなければならなそうだな」
「ああくそっ、小田原のせいだからな名前がばれてしまった!」
「そんなもの結界省の方にかかれば直ぐに明らかになることだろ」
「ちなみに報告書にはどんなふうに書くんですかねぇ?」
「半妖と40秒近くに渡って肉弾戦を行い、生還。要観察とするって感じかな」
「ああもう! そんなんばっちり普通の大学生じゃないじゃん!」
「あ、宇佐見が誰と喋ってるか分かった。メ、」
「やめろって! ほんとやめろって! そっちはマジで許さないからなマジで!」
「ははははは」
「ははは、じゃないがマジで!」
よし、とメリーが言う。
「準備ができたから、治療の式を当てるわよ」
「おっけー、ああ骨折してもギブス生活をしなくていいなんて夢みたいだなぁ」
「酔っぱらうけれどこれはアルコールのせいではないし、アセトアルデヒドにもならないから、その点は心配しないで」
「心配しないでってそれどういうこと?」
「二日酔いとか、休肝日とかかしらね」
「はははは」
「うふふふ」
「楽しそうだな宇佐見は」
「楽しそうだな宇佐見君は」
「あ、酔っぱらってきた」
「なんでだ!?」
「小田原は関係ない」
「10分もしたらくっつくから、腕を曲げたくなければ動かないでね」
「うへへ、りょうかい、あーよっぱらってきた」
東雲が新しい煙草に火をつけて顔を上げた。
何か虚空を見ていると思ったら、瞬間的にそこへ人が現れた。
こちらも時代遅れの紺のパンツスーツを身に着けている。
赤ぶちの眼鏡に黒めのボブカットで体型はほっそりとしている。
歳は20代前半のように見える。銀色のペンを片手に持ち、あたりを素早く見渡す。
「どうも、瑚踏(ごとう)さん」
「東雲さん、お疲れ様です」
「そこで封印してるのが、主犯の什寺君。隣に座ってるのが素手でやっつけた天琉君」
「お疲れ様です」
「お世話になっていますのじゃ」
「什寺君は結界省が引き継ぎます」
「だいぶ凶暴じゃぞ。目覚めた後の制圧、拘束は大丈夫かの? 良ければわしも共に行くが」
「大丈夫です。向こうは警備も万全ですので」
「そうか、なら安心じゃの」
瑚踏はしゃがんで什寺の肩に触れ、東雲を見て。
「それでは、失礼します」とあいさつを終えるとふっと姿を消す。
什寺の姿も無くなっていた。あと、天琉が纏めていた什寺の砕けた爪も、持って行かれてしまった。
動けるようになったらこっそり貰おうと思ったのだが、抜け目がない。
「よしそれじゃあ私もこれで引き揚げようと思うが、もう少しいた方がいいかい? 質問とかある?」
煙草を大きく吸い吐き出した後、伸びをする東雲。
「什寺は他の女子学生たちにへ何か洗脳めいた術を使ったように見えます。それに関してのフォローは」
「術の練度、効力性見て心配ないと思う」
「もしもの時の連絡先は、結界省でよろしいですか」
「結界省生活安全課に連絡して、私の名前を出してほしい」
「分かりました。宇佐見、何か聞きたいことはあるか?」
「私って、逮捕?」
私は懇願するように言った。
「さっき言った通り、しない」
「友人は」
「しないよ」
「追加で取り調べがあったら、拒否しても良い?」
「宇佐見君は、そんなに結界省が怖いかね」
「どっち」
「任意だから構わないよ」
「什寺はどうなるの?」
「治療するよ。人間社会に戻ってもらわないと。しっかり隔離して様子見かな」
「サナトリウム?」
「詳しいな。でももっとしっかりした施設がある」
「結界省につかまった人で普通に生活してる人っている?」
「たくさんいるよ」
「結界省による逮捕歴のある人の名前と住所教えて」
「だめです」
「なんで教えられないんですかねぇ?」
「オカルトの見すぎだよ」
「なんか疚しいことやってるんじゃないですかねぇ? 脳味噌いじくったり」
「個人情報だからだって」
「なんだろう、嘘つくのやめてもらってもいいですか」
「おい宇佐見、酔ってるのか?」
「それってあなたの感想ですよね?」
「感想以外に何があるっていうんだよ!」
「君は、面白い人だな」
仰向けに寝ているからふらふらとはしないが、私はすでに深い酩酊の中にいた。
世界がぐるぐると回っている。思考がうまく働かない。ただただ、気分が良い。
ああとても良い気分だ。高揚して何もかもが楽しい。ここは良い世界だぁ。
小躍りしたい気分だ。腕が曲がってくっついちゃうからやらないけどね。ははは。
東雲は傍らにいる猫を見てぴゅいと口笛を吹き、指先で呼び寄せる。
柏手一つ、その場に屈み猫を両手で撫でる。
「私の連絡先を渡しておいたから、結界に関して相談したいことがあったら連絡するといい」
「それって具体的に何のことですかね? エビデンスはあるんですかね?」
「宇佐見お前失礼にもほどがあるだろ!? ありがとうって言えよ懇意にしてくれたんだから!」
「まあ私は構わないけどね」
「なんだろう、エビデンスもないのに決定してるみたいに言うのやめてもらえますかね?」
「ふふふ、聞いてたけど面白いわ」
「あ、そうだ、メリーは何か聞きたいことある?」
「宇佐見!? メリーって言ってるんだけど!」
「特にないわ。連絡先貰ったし」
「オッケー、メリーも聞きたいこと特にないってさぁ、あはは」
「ふふ、そうか。では最後に、」と東雲は煙草を一口吸ってから。
「人が半妖化した事件で死者が一人も出なかったのはおそらく3年ぶりだ」
煙草をしっかりと携帯用灰皿へしまい、敬礼する。
「協力いただき感謝します。では、失礼します」
東雲はそう言い、瑚踏と同様にふっと姿を消した。
後には煙草の香りだけが残った。
メリーが周囲一帯に探査を行う。結界省の関係者は見つからなかったらしい。
上空から降りてきて私に容体を尋ねる。酩酊状態で気分が良いです、と答えた。
そのあとは本格的に酔いが回ってよく覚えていない。
後日聞いたところによると、小田原はメリーにこっぴどく叱られたらしい。
什寺がああなったのは学生を管理しきれていない生徒会の責任です。
体を張って事件解決に一役買った蓮子をこれ以上悪く言うのはこの私が許しません。
そもそもあなたはこの事件の全貌をどれほどまでに把握してるの? 言ってみなさい。
全く理解していないようね。未熟者。そんな状態でよくもまあ不遜な態度を取れたものね。
もういいわ。あとで正式に秘封倶楽部から抗議書を送らせていただきます。真摯な対応を期待します。
生徒副会長小田原さん、あなたは蓮子というアクターの重要性を全く理解できていない。
ひとまずこの場では謝っていただけるかしら。それで今日は引き上げて差し上げますわ。
「申し訳ございませんでしたあぁ!」
「よろしい」
「うへへ、あー世界が回るゥ」
メリーにお姫様抱っこされて自宅へと帰還する。
次にはベッドの上で眠りから覚醒した自分がいた。
深夜2時である。東雲が去ってから11時間近くが経過していた。
全身に付着した埃や汗などの汚れは洗い流されている。
全身の切り傷や擦り傷打撲の箇所にはきちんと軟膏滅菌ガーゼに包帯が巻かれている。
下着さえ身に着けていないが、もはや全身が包帯でぐるぐる巻きのミイラ状態に近い。
包帯の上から部屋着を着る。
リビングへ行くとメリーがソファーの上で猫を撫でていた。
「起きたわね。気分はどう。どこか痛む個所はある?」
「とても調子がいいよ。手当てしてくれてありがとう」
「骨折と打撲は結界省から貰った式で治ったから、あとは細かな傷ね」
朝になったらシャワーを浴びて、包帯を巻きなおす必要がありそうだ。
ところでメリーさんや。お昼大学ではふりっふりの少女フリルドレスだったが、家に帰った今現在ではさらにその程度が増しているのはなんなんですかね、と突っ込むのは我慢する。ソファーにドレスの生地が綺麗に広がっており、自分の身の丈ほどもある紫色の巨大な花と喋っているような錯覚に陥る。
「ごはんは炊けてあるわ。味噌汁もあっためて食べて。自分で用意できる?」
「ありがとう。大丈夫」そのドレスでお味噌汁を作ったのだろうか?
牛乳が飲みたいなと思って冷蔵庫を開ける。
保存容器に入れられた大量の菓子類が所狭しと詰め込まれてあった。
とても一人二人で消費しきれる量ではない。大学で友人たちに配ればよいだろう。
「ウィンナー焼くけどメリーは要る?」
「私はいいわ。蓮子だけ食べて」
「あいー」
真夜中だが玉子とベーコンウィンナーを焼きしっかりと食べることにした。
私の分プラス、メリーがちょっと抓んでも良いくらいの量を作る。
これが同棲生活を上手く続けるコツである。
「ちょっと多めに焼いたからメリーも抓んでいいよ」
「ありがとう、ふふふ」
「いただきます」
食事を食卓にならべ夜食にする。
メリーは何か式を組んでいるように見える。
フリル増し増しドレスに身を包み茶毛の猫を撫でながら何か遠くに視線を向けている。
私はその猫を指さして言った。
「メインクーン」
「正解」
「それも作ったんだ?」
「そうよ。試作物だけど」
「よく出来てるよ」
「いいえ、まだまだよ。真のモフモフには程遠い」
「拘りがあることはいいことです」
不意にメリーが手を止め、私の顔を見た。
薄く笑みを浮かべているが双眸には喜びと、不安の陰りがあった。
「また蓮子と一緒に時間が過ごせて私はとてもうれしい」
「大袈裟だなぁ!? いきなりなに!?」
私はご飯を吹き出しそうになった。
「今回は危なかったわ。私も手を出せなかったし」
「今までも結構危ない目には会ってきてるような」
「うーん、まあ、それもそうね」
「じゃあ、それでいいじゃん、これからも」
「次はもっと上手くやるわ」
「あ、そういえば」
私はメリーと一緒にファンクラブの結界部屋に軟禁されたときのことを思い出した。
「メリー、調理室”計算が狂った”って言ってたよね」
「言ったわね」
一連の答え合わせの時間である。
「あれは要するに、メリーはあのファンクラブ員と一緒に移動して什寺を見つけて、ファンクラブの指揮権を奪おうとしたってこと? 私はあの結界の中で安全な場所に閉じ込めておいて戦闘から遠ざけて、メリーが什寺と一騎打ちしようと思ってた? だけど生徒会と警備部がファンクラブと先に衝突しちゃって、ファンクラブの暴走が生徒会管轄になっちゃって、そのあとは結界省も来ちゃって、半妖のメリーは表に出てこれなくなっちゃった?」
「大正解。生徒会が結界省を呼んだのはもう完全に計画外」
調理室の結界は生身の私を拘束するための牢であったが、メリーは私を守るためのシェルターとして利用しようとしたのだ。
「調理室の結界に閉じ込められてた時、什寺のニット帽にゴーグルの顔を見て私に"どこかで会ったことない?"って聞いたのは、この事件が起こる以前にメリーは什寺から何かされていたってこと? なにか嫌がらせ染みたことを? でもその程度の低さにメリーは全く相手にさえしていなかった? それで今後の方針を決める前に、私が整形後の什寺を知っているか確認したってこと?」
「大正解。什寺はここ数カ月間でいろいろと私にちょっかいを出し始めてたけど、素人レベルで私の脅威にはならなかった」
半妖のメリーに掛かればちょちょいのちょいだろう。剣先であしらうというやつだ。
だが、私が什寺を止める方針に転換したために対策を講じることを強いられた。
「メリーが結界に拘束されなければすぐに什寺を倒せるし、外からならば妖怪が湧く前に結界を解除することもできた。そもそもファンクラブが警備部と接触した時点で時間切れなわけだし、メリーはその時点で私を結界から解放して安全なところへ移せばいい」
「そうなるわね」
「あといろいろと考えて、違ったらあれなんだけど」
「どうぞ」
「昨晩メリーは私に術を掛けてはいない。それどこか、メリーはこの一連の事件で最初に術を掛けたのは八総への頭部の出血を治したのが最初であって、次は警備部員達への肉体強化式」
「すばらしい。大正解よ。どういう筋道を立ててそう考えたのかしら?」
「メリーは事前に什寺が私に付きまとっていたことは知っていた。どれほどの程度でストーカー行為をやっていたかは分からないけれど、全てメリーが半妖の能力を使って阻止していた。それで、私の大学図書の閲覧履歴を什寺が見て、魅了の術を習得するために躍起になるに違いないとメリーは考えた。昨晩私が就寝準備を整えてる間に、魅了の術の図書の閲覧履歴を更新して、什寺の学籍番号が記録されることを確認した。だから、メリーは私に防御用の結界を張って、魅了の術に関しては特に何も掛けなかった」
「その通り。流石は蓮子ね」
「什寺は魅了の術を使って、事前に集めていた人員を動員させて、今日の騒ぎを起こした。ただ単に図書を閲覧しただけで何もしていない秘封倶楽部を、何も理解していない生徒会は印刷部で怒鳴って責め立ててきたから、メリーはあんなに怒ったんだね」
「躾のなっていない豚は言いすぎだったかしら」
「メリーが言う分にはまあいいと思うけどね。あと言葉選びがかっこよくて好き」
「明後日にでも抗議書を送るつもりだから、少しは生徒会の蓮子に対する態度は改められると思うわ」
「ん? 扉を壊したのはなんで?」
「あれは、生徒会はどうせ何も分かってないんだろうなっていう動機の、先走り」
「やりすぎだよもぉー」
二人で笑う。
「最後に、昼食一緒に食べたときにさ、なんで女性ばっかりが来るのって私が聞いた時に、"そこは蓮子の魅力”って言ったじゃん。あれってずっと前から什寺が計画を実行するためのメンバーに洗脳を行っていて、それが女性ばっかりだったってこと?」
「ぶぶー! それは違いまぁす!」
「うおびっくりした」
メリーが急に大声を出すのでビビった。
「蓮子、今まで積み上げてきたものをものの見事に崩していくのね。木っ端みじん、焼け野原」
「えー? じゃああのファンクラブの人たちって、什寺が集めた人たちじゃ」
「ありません!」
「どういうこっちゃ」
「蓮子、あの魅了の術の本に書かれていた効力はそこまで強力な物ではないわ。それはいわば、無関心な相手がちょっと話しかけてくれるようになったり、落としたものを代わりに拾ってくれるようになったり、ほんの少しだけ親切になってくれる程度の感情の変化くらいのものよ。だいたい、そんな強力で危険な術が大学図書なんかにあるわけないでしょ。そんなものは禁書で封印物よ」
「説明がつかない」
「つきまぁす。蓮子、あなたはモテるのよ」
「女性に?」
「女性に」
「じゃあファンクラブのあの熱狂はなんだったのさ? ずっと前からあったんでしょ?」
「什寺のカリスマ性と、熱量と、あとは集団心理ね。ほんの一押しされた結果が、あの贈り物よ」
だから、とメリーは言う。
「ねえ蓮子、自分に自信が無いって言うのはやめて。あなたはとても魅力的よ」
「洗ってない犬の匂いでも?」
「そこはちゃんとお風呂に入って、私と同じシャンプー使って、服を毎日洗って」
「男みたいだって言われてるのに?」
「ああもう」
メリーが上方へ一瞬目を向け、頭を振って瞬きをする。
そのしぐさがとても少女染みていて、ああこういうのが魅力というのだ、と思った。
「違うわ。人間っていうのはね、人の痛みを共感出来たり、人へ親切にできたり、利害関係をわきによけて分け隔てなく思いやりが出来たり、継続的に努力が出来たり、そういうことを魅力っていうの。ただ単に容姿が良かったり、胸が大きかったり、そういうことは特徴であって魅力とは言わないの」
「言いたい事は分かるよ。先天的な性格の話でしょ。でもそれは生物の多様性であって、魅力とは別の話だよ。だから私は女性に人気があるのは単なる、」
「何度言っても分からないようね、その言葉の後を続けたら殺す」
「こわい」
笑顔で殺すとか言われると本当に怖いからやめて欲しい。
「あと什寺は、本当に蓮子に惚れていたのよ。他の何物でもないあなたに振り向いてもらうために、努力して術を覚えて、初級の封鎖結界を使えるようになって、小指欠け妖怪に自分の体を抉って食べて良いと、その代わり小指を寄越せと交渉して、他の人間の命は奪うなと要求して、沢山の犠牲を払って準備を重ねて今日の犯行に及んだ。入門用とはいえたった一夜で魅了の術を覚えたのも事実。優秀なのよ」
「でも動機がだめ」
「蓮子あなた、」
「そうじゃない。私の魅力の話じゃない。動機は外に設けちゃだめだという話。私は、世界の秘密を暴きたい。メリーは、自分の眼を有効に使いたいんでしょ。私に振り向いてほしいっていう外発的な動機付けは、裏切られたときに耐えることが出来ない。主観に宿らせなければ、身動きできなくなる時が、矛盾に直面する時が、いつか絶対にやってくる。什寺は力が必要だって言ったけれど、それはあくまで手段であって目的ではない。軸が無いのに行動に移った結果自分を犠牲にすることでしか手段を得ることが出来なくなってしまった、そういうことだと私は思う」
「努力を続けたことそのものを非難するつもりは」
「ないよ。生き方が少しでも違ったら、どこかで仲良くなれたかもね。私からは以上」
メリーは満足したようにうなずき、言った。
「今回の報告に関しては以上です。紫様」
ぎょっとして背筋を伸ばす。後ろを振り向こうとして、――体が動かない。
左手に茶碗、右手に箸を持ったまま、体が金縛りになったように身動きが取れない。
だれかが後ろから私の体に腕を回す。
脇から差し込まれた手が、私の顎を優しく撫でる。
驚くほど冷たい、人の手だとは思えない。
「よろしい」
成人女性の妙に艶っぽい声だ。
香水の香りがする。
「い、一体いつから……?」
「あなたがこの部屋で本を読んでるところからかしら」
「それっていつから!?」
「ふふふ、いつからでしょうねぇ」
科学世紀オカルトの最高峰ともいえる大妖怪八雲紫が、私の肩に顎を置く。
長い金色の髪が私の体に流れる。吐息も分かる。だが顔を見ることが出来ない。
いつもこうだ。いきなり背後に現れ、なんか色々と一方的に話が進む。
私は振り向くことさえできない。よって私はこの八雲紫の容姿を見たことが無い。一度たりとも。
「ちょっと!」とメリーが語気を強めて言った。
「私の蓮子に触らないで!」
「私の蓮子ってどういうこと!?」
「ふふふ、いやですわ。私も蓮子に触りたいもの」
「触れるのは私だけよ!」
「そんなことはない」
「おーい、おふたがたさまぁ?」
「あるわよ!」
「じゃあこうしましょう。今から3分間だけ私は蓮子に触って良い」
「3分間だけ?」
「そうですわ」
「じゃあ我慢します」
「ちょ、なんで私の意見も聞かずに勝手に決めるの!?」
「ふふふ、ああれんこおぉ、すーりすりすり」
八雲紫が私の顔へ頬ずりをする。
数々の結界を作りあげ、妖怪を統治し、月に攻め込んだ経歴を持つ。
今は神々が住まう隠れ里を管理し、人間を度々そこへ神隠しにする。
私が知っているのはせいぜいそれくらいである。
あ、あとはやたらめったら好かれている。
なんとか一目だけでもいいから容姿を確認したい。
渾身の力を籠め謎の拘束に抗おうとするが、全く身動きが出来ない。
出来るのはせいぜい会話と、呼吸と、瞬きと、眼球を動かすことくらいだ。
「メ、メリ―、紫さんの写真撮って写真」
「なんで?」
「隠れ里の場所の手掛かりになるかも。格好とか、服のデザインとか、さ」
「あ、さっき要らないって言ったけど、やっぱりウィンナー1つ貰うわね」
「話聞いてる!? 今すごい大事な場面の筈なんだけど!?」
「紫様もいかが?」
「1つ貰おうかしら」
メリーが爪楊枝をウィンナーに刺し、皿をこちらに差し出してくる。
皿のすぐ上にスキマが開き、八雲紫の手がひょっこり現れる。
そしてすぐに皿へ爪楊枝を戻す。
一連の動作で見えたのは右腕の袖とくらいのものだ。
メリーも度々使うスキマの応用例。
もう見慣れてしまって驚きもしない。
「おいしいわねぇ、蓮子が焼いたの?」
「……そうです」
「どうりでおいしいわけだわ」
「だよねぇ」とメリー。「おいしいっていいよね」
「あ! じゃあ写真は良いから、鏡! 鏡とってメリー! 手鏡があるはずでしょあなたのバッグに!」
「おいしい物を探すのは人生の一つの目標ですものね」
「ところで紫様。今日はどのようなご用件で」
「無視か! 無視なのか!」
「蓮子を撫でに」
「わかるー」
「ふふふ」
「ふふふ」
「うええぇん」
「と言うのが主なのだけれど、器よ」
「はい」
八雲紫はメリーの事を器と呼ぶ。
意味するところは尋ねても答えてくれない。
「半妖の体の調子はどうかしら」
「とても良い感じですわ。思考速度は出ますし、様々なことを同時並行的に考えることが出来ますし、なにより人の悪意に対して嗅覚が鋭くなるのがとても良いです。先回りして頓挫させることも、こちらの利益になるように利用することもできます。妖力を使った術で、人の純粋な好奇心を支援することもできます。とても気に入っています」
「よろしい。今後人外を相手にする際は今の感覚を忘れないようにしなさい」
八雲紫が私の体を引き寄せる。
右手が私の頬を、こめかみを撫でる。
「器のあなたには一度人間に戻ってもらいます。良いわね?」
「分かりました」
「少し心境の変化があるかもしれません」
「構いません」
八雲紫は私の頬を撫でていた手を持ち上げ、メリーに向けて指先を横へ振った。
薄笑いを浮かべていたメリーが数秒かけて真顔に戻る。それからは、面白い変化だった。
自分の服を見下ろし、自分の両手を見て。
その両手で素早く頬を覆った。見る見るうちに顔が赤くなってゆく。
ややあってから勢いよく立ち上がり、速足で歩いて行ってしまう。
「わたしったらなぜあんなことを、ああもうなんでこんな……」
ぶつぶつ言いながらリビングから出ていき姿を消す。
「半妖化すると趣味嗜好が表に出てしまうのですわ」
「あのドレスも言動も、私は結構好きだったけどなぁ」
「じゃあ本人が戻ってきたら言ってあげなさい。むしろフェイバリット! ってね」
メリーはほんの30秒ほどで戻ってきた。服がいつもの部屋着に戻っている。
向かいのソファーに姿勢正しく腰掛ける。しかし顔はまだまっかっかだ。
「忘れて」
「私は半妖のメリーも結構好きだよ。ドレスも、余裕を湛える言動も、」
「やめて! それ以上はやめて!」
「やたらと攻撃的なところも、積極的なところも」
「やめろってぇッ! うぅ、やめ、やめて、……お願いだからぁ」
「ごめん、泣かせるつもりは」
メリーはソファーにうつ伏せに倒れ両手で顔を覆うと涙を流し始めた。
5秒ほどでぱっとまた姿勢を戻し、そこに座る。
「お見苦しいところでした、すみません」
両目にはまだ涙が残っているし顔も赤いけれど。
「躾のない豚って言葉かっこよくてむしろフェイバリッ、うおぉ!?」
メリーが凄まじい剣幕でコップを投げてきた。
私の胸部に当たって胡坐の足元に落ちる。
自由が戻ったら卓上に戻せばよいだろう。
「続けて良いかしら」と紫さん
「はい」「はい」
「環境の程度が上がり、今後は受ける苦難もさらに厳しいものになってくる。こうなってしまったのはひとえに先を生きている我々をはじめとした大人たちの責任です。ですが大部分の先人たちは、たとえ謝罪はしても保障はしないでしょう。賢いあなた達は理解しているでしょうが、私はあなた達が可愛くてかわいくて仕方がない」
ん? わずかにでもないが論理が飛躍しているような気がするのは私だけだろうか?
「昨日昼に会った結界省の結界士が式神を連れていたことは気づいたかしら?」
私とメリーは顔を見合わせた。言われてみれば、東雲は一人では決して気づき得ないことを次々とやってのけた。上空から私を支援したメリーと、メリーの妖力によって作り出された猫の存在、放送室にいる私の危機も、それらをほとんどノータイムで気付き把握し分析し優先順位をつけ即座に対策を講じた。実際私が生き残ったのは東雲の臨機応変な対応があったからに他ならない。ほんの数秒でも反応が遅れていたら私はとっくに木っ端みじんの肉片に成り果てていただろう。
それらの情報を収集分析し東雲に報告と対策の提案を行っていた式神が居たと考えれば、確かに合点がいく。強力だが直情的に力を爆発させていた什寺の対策は、式神が居れば容易だっただろう。リアルタイムに状況を分析出来る式神が居るといないとではそれほどまでに行動判断に差が出ると言う事だ。
「ふふふ、妖術によるサポートの重要性の次は、式神の重要性を学ぶときかしらね。藍、出てきなさい」
「嫌です。今とても忙しいので」
凛々しい声がリビングに響く。紫さんの声が成人女性の艶々しい色気を感じる声だとしたら、こちらは中性的な意志の強さを感じさせる行動派のてきぱきした印象だ。
「居間で家事をしている橙に引き継ぎなさい。もうあの子なら十分熟せるでしょう」
「嫌です。拒否します。あの子に仕事などさせません」
「やらなきゃ覚えないでしょう?」
「運用業務は私だけで十分です」
すぅ、と紫さんが息を吸う。
次の瞬間、すぐ目の前にスキマが開き――。
何か金色の塊が、テーブルの上にどんと落ちてきた。
九尾のキツネだった。
ふさふさとした金色の尻尾、毛並みが揃った引き締まった胴体。
首から鼻先にかけては流麗で形の良い輪郭が形成されている。
テーブルをはさんで座る私もメリーも、ただただその美しいキツネに魅入られ、反応が出来なかった。
目が奪われるとはまさにこのことなのだろう。瞬きさえも惜しいと感じられるほどの完璧な美しさである。
キツネはテーブルの上に素早く起き上がると周囲を見渡し、四肢に力を込めてその場へ立ち上がる。
牙を剥き出し紫さんへ向けて威嚇する。
その動作一瞬一瞬さえも洗練されており完璧な造形美に美術品めいた上品さを感じさせる。
「なぜ外の世界に呼んだのです!? 業務の途中です! 帰してください!」
九尾のキツネが口を開閉し声を発した。
先ほどから紫さんと会話をしている凛々しい声の持ち主は、この美しいキツネだったようだ。
「八雲藍の管理権限を私から八雲紫の器へシフト。八雲橙の管理権限は繰り上がりで私へシフト」
「そ、そんな! こんなことの為に橙へ八雲の名を与えたわけではありません!」
「いいえ、このために八雲を与えたのです。あなたの業務の後釜よ」
「み、認めません! こんな、こんな横暴! なぜ私が器の世話なぞしなければならないのですか!」
「器よ。これがあなたの式神である藍です。指示を出してみなさい」
「おすわり」
先ほどまでは牙をむき凶暴に反駁していたが、メリーが指示すると即座に大人しくなり従順に腰を下ろす。
だが耳も尻尾も力なく垂れ、くうぅんと力なく鳴いている。悲しそうな様子である。
「どうして、なぜこんなことに。私はただ仕事をしたいだけなのに。なぜ外の世界で器の世話なぞ……」
「橙、いるかしら。そのまま聞きなさい」
「はい紫様、ご指示でしょうか」
藍の様子などどこ吹く風。完全に無視し、今度は橙と呼ばれた声が返事をする。
快活で溌剌とした若い女性という印象。滑舌がよく聞き取りやすい。
「藍は外の世界で別に動くこととなったわ。あなたが藍の業務を引き継ぎなさい。マニュアルの保管場所は前に説明した通りよ」
「承知いたしました。問題なく遂行いたします。ただいまマニュアルを読んでおり、5分後に業務開始します」
「よろしい。定常業務を熟しなさい」
「橙! 聞こえるか! 紫様に謀られて器の世話をさせられている! どうにかして助けてくれ!」
「承知しました紫様。万事お任せください」橙は藍の声が聞こえていないようだ。
「ちぇえええええええん!」
うわあああ! とその場に項垂れ慟哭する藍。
「器よ、藍はあなた達が思いつくすべての事が出来るわ。式の使い方を学びなさい」
「あぁ、えーっと、紫さん?」私は身じろぎさえできないまま言う。
「藍が泣いてるけれど、式神を宥めるのってどうすればいいの?」
「放っておけばいいでしょう」ひどいとは思うが、式神っていうのはそういう物なのだろうか。
「ねえねえ紫様、藍の好物ってなに?」メリーはペットかなにかと勘違いしているのではないか?
「ふふふ、キツネが好きな物は大体決まってるでしょう」
私とメリーが顔を見合わせている様子を見届け、紫さんは頷いた。
「この式を使いこなせなければ、秘封倶楽部に未来は無いと心得なさい。では、また来ますわ」
腕が私の頬、体を最後の最後まで撫でながら、後ろに引いてゆく。
そしてふっと体の束縛が無くなり解放されたのを感じる。
後ろを振り返る。ただリビングの壁があるだけだ。
科学世紀オカルト最高峰の大妖怪。
神に匹敵すると謳われる境界の妖怪。八雲紫。
そしてその八雲紫の式神である九尾の妖狐、式神の名前は八雲藍。
それがリビングの机の上でキツネの姿で涙を流し泣いている。
私はルネマグリットを見たときのような超現実的な感覚をリビングの様子に覚えながら、立ち上がる。
傍らに転がるコップを机に戻し、キッチンへ移動。
味噌汁を温めながら冷蔵庫を開き油揚げを取り出す。2つに切って味噌汁へ投入。
すぐにあったまるので、それを浅めの皿に盛り付ける。
リビングに戻ってくる。
いまだにメソメソと泣く藍の前に置いてあげる。
「可哀想に、そんなに泣かないで藍。悲しいよね」と背中を撫でようとしたらキツネの手で振り払われた。
「気安く触るな! 私は、私は、こんなとこ来とうはなかった!」
キツネの見た目で怒鳴られてもかわいいだけだ。という感想に支配されそうになるが頭から振り払う。
このキツネは今まで私たちが出遭ってきたどの半妖よりも、どの妖怪よりも、いやどの生物よりも格が高い。
文字通り一騎当千伝説級の生物であることは疑いようのない事実だ。――いや紫さんは除いて、だが。
「いやあ、分かるよ気持ちは。ひどいよね、もっと気を使ってくれてもいいのにね」
「そうだ! そうなんだ! 紫様は酷い。どうして私がこんな目に遭わなければならない」
「そうよね。部下の気持ちをもうすこーしでもくみ取ってくれれば、断然組織は上手くまとまる筈なのにね」
メリーも隣に来て一緒に話し始めた。いいぞメリー。
半妖から戻ったばかりなのに、上手く人間になじみ始めている。
藍は浅い皿に盛りつけられた味噌汁の油揚げに口を伸ばし、はぐはぐと食べ始めた。
「なぜ部下が動きたいように取り計らってくれない。私は敬意をもって役に立ちたい能力を発揮したいと切に願っているだけなのに。どうしてこんなに蔑ろにされなければならない。外の世界で何をしろと言うのだ。私は悲しい。これほどまでに心が傷つけられたのはいつ以来だろう。ああ、そういえば昔にこんなことがあった――」
「わかる、わかるよー」
「大変だねぇ」
まずは、絆作りからだろう。会話をして、意思疎通を行って。
分かるところと分からないところを、すこしずつ理解していくことから始めよう。
秘封倶楽部のお楽しみはこれからだ。
そう言われてどんと紙包みを押し付けられた。
中を見てみるとビニールの袋に手作りのビスケットが入っている。驚きのハート型だ。
はえーハート形のビスケットだよ。女子力たけぇなぁと驚きながら顔を上げる。
「ありが――、おうふもういない」
キャンパスを全力で走り去る乙女の後ろ姿があった。ふむ、と私はその場に立ち尽くしたまま考える。
私は、女性だ。しかも理系で周囲の人間関係99%が男性で構築されている。
それでありながら一度も彼氏が出来ないのは女性としての魅力が足りないからだと自覚している。
だが、今日はどうだ。
こうして女性の別学部生にいきなりお菓子を押し付けられる始末。
これは性別としてのアイデンティティの崩壊が危ぶまれ――、
「宇佐見先輩!」
「はいなんで、」
「これ受け取ってください!」
と今度は背後から声を掛けられ振り向くが、すでに差出人は紙袋を地に置き走り去っている。
またもや女性である。先輩と呼んだから、後輩の女子学生なのだろう。っていうかなぜ女性なのだ。
何か間違えていないか? 私は途方に暮れ立ち尽くしてしまう。
一体何がどうしてこんなことになってしまったのだ。
左手には大容量の男物書類かばん。大量の紙媒体を扱う学徒にとってとても使い勝手が良くて重宝している。
そして右腕には小ぶりの紙袋が、把握しているだけでも8つ。中身はお菓子。すべて貰い物である。
お分かりだろうか。すでに地に置かれているものを拾い上げられる態勢ではないのだ。
「だれかー、たすけてー」
天を仰ぎ力無い言葉で助けを呼ぶ。
さあ状況を打開する際にこのようにヘルプを出せば颯爽と現れてくれるのが。
「何やってんのよ蓮子」相棒のメリーである。
「メリー、そこにある紙袋を拾って一番上に乗っけてくれないかな。とても屈めなくて――、どうしたのその荷物」
今日はいつもの5倍はフリル増し増しの少女ドレスを着ている。
薔薇が子を産んだらこうなるだろうなという様相である。
朝一緒に家を出たときはそんなドレス着ていなかったはずだ。
いやそれもそうなのだが、メリーの周囲にふわふわと浮遊する無数の小包へ意識が向く。100個は下らない。
シューティングゲームで自機に追従するオプションよろしく、メリーの動きに習って宙を浮いている。
「全部蓮子宛てよ」
「マジかー」悲鳴を上げる。
「モテ期ってやつねおめでとう。異物は私が一人残らず排除するから蓮子は気にしないで」
「ひえー突っ込みどころが多すぎて口が一つじゃとても間に合わないよー」
なぜ女性なのだ。
なぜお菓子なのだ。
なぜみんな揃って今このタイミング贈り物を渡してくるのだ。
なぜメリーのふりふり少女趣味が加速しているのだ。
数々の疑問が脳の処理速度を上回る。
メリーが妖力を扱えるようになった。
それに伴い、メリーはオカルト誌などでよく見る胡散臭いことが大抵出来るようになった。
例えば自分を宙に浮かせたり、周囲の物を触れずに持ち上げたり。
何もないところに刃物を作り出したり、切った髪の毛から自立して行動する物体を作り出したり。
しかし我々は一介の大学生である。どこかの危ない宗教家が信者を集めているわけでもない。
大抵は周囲にはそれをひた隠しにして目立たないように気を付けるべきだろう。少なくとも、私はそう思う。
あんまり目立たないように使った方がいいかもねと、メリーに提案したはずだ。
だがメリーは違った。隠すどころか、これは便利だと宣って実生活へ存分に使い始めたのだ。どのように?
「ホットコーヒーをお二つお持ちしまし、ひゃあ!?」
例えば喫茶店で店員さんが持ってきたホットコーヒーを受け取る際に、妖力で浮かばせて自卓へ動かしたり。
私宛に渡されたビスケットを紙袋から取り出し周囲にふわふわ浮かせ、手を使わずに食べ始めたり。
「あー、気にしないでこの子の仕業だから」
「え? あ、はあ、なるほど」
小説などの創作物だったら目撃した一般人がパニックに陥り騒ぎになるだろうが、実際はそうではない。
店員さんは「……ははぁ、便利ですね。ではごゆっくり」と落ち着き、すぐに業務を再開する。
人間は実際に目の前で起こったことには案外冷静に対処するものだ。
いやもしくは、仕掛けがあって浮いているように見えるだけなのだろう、などと考えているのかもしれない。
平和的日常を送るキャンパスで妖力操作を目の当たりにしても正常性バイアスで異常と認識してもらえない。
「っていうか、なんでそんな見せびらかすようにフワフワさせるの?」
「今日の朝気付いたんだけどね、妖力って使えば使うほど応用が利くようになるみたいだわ」
「なるほどそれで訓練してるのかぁ」
「楽しいってのもあるのだけれど、でも鍛えて損はなさそうね」
メリーが右手を伸ばすと虚空から紫色のクナイが現れた。白く均整の取れた手ではっしと掴む。
そして、無造作に右から左へ振るって見せる。浮いているビスケットがキレイな断面を見せ二つに分かれる。
想像を絶する鋭さ、業物めいた切れ味である。
「ね?」なぜか得意げになるメリー。
「危ないからしまいなさい」
「こっちも見て」
と、自身のブロンド髪の先数センチをクナイで切断。
手のひらで髪を受けふうぅと吐息を当てると次の瞬間には子猫になる。
「バーマン」
「正解」
にゃあと鳴き身軽に着地。与えられたビスケットをぼりぼりと食べ始める。
クナイを虚空へ消し、手を伸ばして子猫を撫でるメリー。
猫の様子は私が見ても生命が宿っているようにしか思えない。
曰く”私がいだく猫の様子を投影した妖力の具現化”らしい。
「紫さんに近づいてきたね」
「全然。足元にも及ばない。もっともっと訓練しないと」
我々秘封倶楽部と八雲紫さんの関係はまた別の機会に話すとする。
「それで、昨晩の妖術の効力ははっきり証明されたみたいだ」
「そうね。メスばっかり寄ってくるのは予想外だったけれど」
「ははは」
「ふふふ」
「今メスって言った?」
「言ってないわよ?」
「はは、ははは」
「うふふふふ」
半妖メリーはちょっと怖い。
昨晩、自宅での事である。
メリーが妖力でやたらと物を浮かばせている傍らで、私は大学図書から妖術魔術の観点から調査を行った。
何か秘封倶楽部の活動に応用できる術は無いかと読み進める。
豚の内臓や調合法、人体実験の細かな記録など、何時間も見つめていて正気度が削られてゆくのを感じた。
窓から外を見ると日付が回ってしまっている。鏡を見るとげっそりとした自分の顔がある。
背後の暗闇から人食い妖怪が現れる。追われ逃げまどい、足を掴まれ転び、喉に牙を突き立てられる。
ぶるる、と首を振る。幻影が振り払われ、鏡の前に立っている自分に戻ってくる。
いよいよもって正気を失いかけている。
このままではまずい。
眠る前に心の平穏を取り戻さなくては。
「メリー、疲れたからそろそろ寝ようと思う」
「分かったわ。今日の報告を聞いた方が良いかしら?」
「都市丸ごととか、周囲数十キロを範囲に術を掛けるとなると、結構準備が必要みたいだね」
「準備って例えばどういう? 例えば生きたままの人の臓物を――」
「違います」
メリーの言葉を遮り、どこかから拉致してきた人間を解体する妄想を振り払う。
「牛とか豚一頭とか用意して、さらに詠唱区域に大きさ比率方角を間違えないように正確に陣を書いて、そこに立って何時間も詠唱したりとか、無理でしょ」
「蓮子の力と現代科学があれば陣を書くくらいまでは簡単だと思うわよ」
「まあそういうレベルのことが書いてある本ばっかりだったんだ」
「選択肢の一つに入れておきましょうよ。人を土地に縛り付ける術とか」
私は話題の先を急いだ。
「でさメリー、何かこういう術があったら倶楽部活動に便利そうだなーってもの無い?」
「惚れさせる妖術」
即答であった。
どうやら正気を失いかけている私は、通常の思考能力を失ってしまっていたらしい。
人の心を惑わし魅了させ、損得利害の思考を忘れさせる。
これ以上に調査の助けになる術があるだろうか。
「結界がいつどこで誰がどのように作られたのかを調べる時って、昔の文章を探るのもあるけれど。結界が張られたのが数日前とか数週間前だった場合って、人を相手にした聞き込みがメインになるわよね。今までもそうだったし、これからもそうだと思うのよ。で、結構危ないことしてきたわよね、変装をしたり悪者から汚れた品を奪ったり。それで情報提供者が男性でも女性でも、信用を得るまでに結構時間と労力を必要だったけれど、惚れさせてしまえば」
「ありがとうメリー、調べてみる」
眠気が吹っ飛んだ。脳が活性化するのを感じる。
再度大学図書データベースへ接続。すぐに見つかった。
「メリー、これなんてどうだろ。見てみて」
メリーが術書を読む。その間に私は顔を洗って歯を磨いて、就寝の準備を整えた。
リビングに戻ってくるとメリーはうつ伏せにぷかぷか浮きながら「ふーむふむ」と言った。
「案外簡単よ、今すぐできるわ」
「なんと、本当に?」
「ええ」
「今、ここで?」
「そうよ」
ふふふ、と意味ありげに笑う。
妖術って言うのはそんなに簡単に習得できるものなのだろうか?
それとも、メリーの実力が既に上級の域に達しているということなのだろうか。
「どの程度の効力があるのか実験してみたい」
「いいわよ。対象は何にしようかしら?」
「な、なにか昆虫かネズミでも用意しようか」
「交尾したら成功なの? それを二人で観察するのね?」
「むむむ」
確かに、と私は言葉を失った。
そんな実験をやる意欲は到底湧きそうにない。
「人を対象にして、感覚に変化があったかヒアリングをする」
「それがいいわね。それで、誰に術をかけるのかしらん?」
「誰か用意するよ」
「秘封倶楽部を知っている友人に、人を魅了させる術の実験台になってほしいとお願いするの?」
私は心底気分が悪くなった。メリーの態度に対してではない。
単純に大切な友人へ実験の説明をする様子を想像して、である。
私とメリーは特別な目を持っており、違法行為である結界暴きを行い、探偵じみた活動をしている。現代の闇に隠れた秘密を暴く秘封倶楽部の活動そのことを知っている友人は、何人かいる。それはその友人たちが事情と問題を抱えており、秘封倶楽部の活動がその問題解決の手助けになり、かつ継続的に力になりたいという友人たちの好意があるからである。詳しい話をしてしまうととても長い話になってしまうのでまたの機会にしよう。
ともあれ、そうした友人たちは今までも秘封倶楽部を助けてきてくれた。
いつしか表ルートと呼んで私自身も頼りにしている。
利害関係だけでは培えない信頼がある。
そうした友人たちを術の実験台にするなど。
「論外」
「でしょうねぇ」
といってメリーがにやにやと笑みを湛え、私を見つめてきた。ますます紫さんに似てきた。
私は頭を掻いた。無論、痒かったわけではない。
メリーが言わんとしていることを理解していたからだ。
「それじゃあ、私たちを知らない人に魅了の術の実験台になってほしいとお願いするのね?」
「数十分後には通報されるだろうね。なんか危ない奴がいるって」
「秘封倶楽部を知らないそこらの人へ通り過ぎざまに術をかけて、後を尾けて様子を観察する?」
「それで事件が起きて責任取る方がよっぽど大変だよ」
壊れた家具の弁償、割れたガラスの修理費用などお金で済むだけならまだ良い。
もし人が怪我なぞしたらお金だけでは済まされない。
例えば、その人はなぜ自分が事件に巻き込まれたか自力で調査を始めるとしたらどうだ。場合によっては何年もかけて執念深く、自分の私生活を投げうってでも真相を探し求めることだってあるかもしれない。秘封倶楽部は罪悪感に苛まれ執念に根負けしていうのだろう。実はあなたが怪我をしたのは、我々の術の実験の為です。
「そっかー、そうよねぇ、じゃあどうしようかしらねぇ」
わざとらしく笑みを浮かべるメリー。
私は決心した。両手を上げ降参のポーズ。
「分かった、分かったよ、ほら私で実験しよう、どうぞ掛けてください」
メリーは薄く笑い人差し指で私を指さした。たったそれだけだった。
自分の体を見下ろすが特に変化がない。
動悸があるわけでも、ムラムラしてきたりするわけでもなかった。
「え、終わった?」
顔をあげるといつの間にかメリーが距離を詰めてきていた。
吐息がかかるほど目の前にいて、ぎょっとして後じさりしようとする。が、メリーの方が早かった。
背に腕を回されハグされる。首筋にキスをされる。すぅとメリーが息を吸い込み私の匂いを嗅ぐ。
いったい何が何やら分からないが、抱きしめ返そうとする。
が、メリーはぱっと私から離れ背を向け歩いて行ってしまう。
「おやすみ、蓮子」
一体全体訳が分からない。
それから、翌朝起きてメリーと二人で大学へ行く。
私は1限のみで、メリーは12限である。
「それじゃあ、また昼にでも」
「あいー」
学食の一席を確保し妖術の書籍を漁る。
あっという間に昼前になる。混む前に昼食を食べ黙々と書籍を調べる。
メリーから連絡が来た。お昼は大学のカフェで食べたいそうだ。
学食は混むからね、よしと荷物をまとめ席を立つ。
そうしてキャンパスを歩いていると声をかけられた。
「宇佐見先輩! これ受け取ってください!」
「えっ!? あっ!? はいあざっす」
「宇佐見先輩!」
「宇佐見先輩!」
「えっ!? えぇっ!? どういうこと!?」
こうして、冒頭の場面に至る。
「ってことで」とメリーがコーヒーを一口。
「蓮子に術をかけたった」
かけたった、じゃないが。
「術は術でもモテる術だよねこれ!?」
「だって誰かにかけるのが嫌だって言ったから」
「ちがうそうじゃない! 私が言ったのは、術者に惚れてしまう術!」
「じゃあ、私がかけたのはなんなのかしらん?」
「メリーが掛けたのは、被術者がやたらとモテモテになる術!」
「同じじゃなくて?」
「ちが、……いや目的のための実験って意味では一緒なのか?」
秘封倶楽部の活動調査に術を応用できるか調べるというコンセプトであった。
自虐ではないが、私のような色気皆無の人間にここまで好意が集まるならば、実験は大成功と言えるだろう。
空間を浮遊するビスケットに手を伸ばし食べる。ふむとてもおいしい。
「じゃあもう十分だね、メリー術解除してよ今すぐに」
「もう既に解除しましたわ。さっきお昼過ぎに会った時に」
「そっか、じゃあもうプレゼントを貰う心配は、」
「宇佐見先輩! チョコレートです贈り物です食べてください!」
「あ、ありがとうそこに置いとい、おうふもういない……」
だだだだ、と走り去る女性の後ろ姿。
耳まで紅潮させながら遠ざかる姿をコーヒー片手に見送る。
「……」
「……」
私はメリーに向き直った。
「ほんとに解除した!?」
「しましたわ」ふふふ、とどこからか取り出した扇子で口元を隠して笑うメリー。
「なんでさっきのはあんなにあんなあれがあんななんじゃい!」
「落ち着いて蓮子、まずなんでそんな狼狽えてるのかしら」
「ひ、ひひひ、人からあれだよ、あんな一方的にあれを向けられると困る」
「好意を向けられ慣れてないのね」
「早く元に戻りたいんですけど?」
「お菓子沢山貰えるのはいいの?」
「それはまあいいけどさ」
「え? いいの?」
「メリーはどうなん!」
メリーは爽やかに笑い持っている扇子を閉じると、「しゅってやつ」首元を横に凪ぐ仕草をした。
要するに、向けられすぎてうざったい、下心などの不愉快な仕草をした者は容赦なく首をはねる。
なるほどメリーは控えめに言って美少女だが容姿が整っているのも悩みようということか。
「メリーはさ、洗ってない犬の匂いがするって言われたことないんだろうね」
「えっいきなりなに、そんなこと言うやつがいるの?」
「宇佐見っていいよながさつで女性と話してる気がしなくてさって、それ褒めてるの貶してるの」
「れんこー」
「理系女はどうせ眼中にさえ映らないんだろうさ……」
「蓮子蓮子蓮子」
「はい」
「らしくないわね、深呼吸」
「すーはー、ひっひっふー」
酸素を取り入れて動悸を整え我を取り戻す。
メリーがこの上なく真剣な様子で言う。
「蓮子はとっても魅力的よ」
「まあメリーはそういうだろうけどさ」
「あと、あたりを走り回った後にそのまま大学に行くのはやめた方がいいわ」
「えっ、別によくね? だめか、はい」
「今日からは私と同じシャンプー使って」
「種類が多いじゃん、全部使うの? あ、そうですかはい」
「服は毎日ちゃんと洗って、ちゃんと乾かして」
「着れればよくね? だめか」
「術は解除してもすぐに影響が無くなる訳ではないわ」
いきなり本題に戻るメリーである。
「なんと、大体無くなるまでどれくらい?」
「3時間くらいかしら」
「マジか」
思わず俯く。頭を抱えて絶望する。
「なんで女性ばっかりなん?」
「そこは蓮子の魅力よ」
「私が男性的ってこと!?」
「そうじゃないわ。蓮子の魅力が女子学生にウケるのよ」
「もっと具体的に言ってよ、それだけじゃ分からない」
「私は気に入らない。キャ―キャー猿みたい。蓮子はコーヒー片手に静かに眺めろと、そう思う」
「いや具体的っていうのはそういう意味じゃなくてさ」
「私よりも本人に聞いた方が早いんじゃない?」
「よしそうしようか」
「宇佐見先輩これを、」
「つかまえたぁ!」
「!?」
こちらに視線を向け紙袋を持ち近寄ってきていたから警戒できた。
素早く手を伸ばし対象を掴む。背丈は同じくらいの女性の学生だった。
しっかりと体の線が出る服を着て、芋っぽくない、とてもかわいいを実践している。
「ねえキミ、今なぜ話しかけてきたのかね」
「これ、チョコを、……渡そうと」
女学生は掴まれていない方の手で口を覆い、目を皿のようにして私を見つめている。
興奮と緊張、額に汗、人に好意を向けるときの様子だ。ふむ、と思う。
「ありがとうあとで頂こう。それでこのプレゼントはどんな意味が?」
「宇佐見先輩が、素敵すぎて、じっとしていられなくて……」
「素敵ってどういうこと」
メリーに視線を向ける。
「自覚無しとはこのことね」と猫を撫でている。
「素敵ってどういうことかね?」
「前からずっと、そう思ってました……」
女学生は荒く呼吸を繰り返し、目尻に涙を湛えている。
本当にこの学生は私に好意を抱き、それを伝えるために行動に移したのか。
「前からというのは具体的に?」
「一目先輩を見た時から……」
「なるほど見た目か」
「違います! 先輩のすべてが好きです!」
「ふむ、あとこのチョコはどこで手に入れたのかね」
「宇佐見先輩用に、配ってます」
「なにぃ!? 配ってるってどういう、」
「ごめんなさい!」
大きく叫ぶなり同時手を振り払い逃げてしまう。
がむしゃらに走りながら「手掴まれちゃったああぁぁ!」と叫んでいる。
「うーん、よく分からないね。配ってるってどういうこっちゃ」私は佇まいを正し、席に戻る。と。
「この、たらしがぁ!」
「あいたぁ!」
メリーに頭を殴られた。
「聞き方ってもんがあるでしょう。あの人は蓮子のことが好きなのよ!?」
「えー、でも術のせいでしょ?」
「ずっと前から好きだったって言ってたじゃない!」
「いやそんなわけないじゃん出任せだよ、術の効力が無ければこんなことになる訳ないし」
私が肩を竦めそう言うとメリーは反論するためか大きく息を吸い、ぴたりと動作を止めた。
「……まあいいわ」と髪をかき上げる。
「さっきのヒアリングでほぼネタは上がってるわよ」
「? いやさっきのだけじゃ推理も推察もできないでしょうが」
「ふふ、事実に震えるときが今から楽しみね」
「ええ? いや教えてよ、全く予想できない」
「人の善意を蔑ろにした罰よ。自分で調べるがいいわ」
どうやらメリーの反感を買ってしまったようだ。
だが、正解を知る人物が身近にいるのならば妙なことにはならないだろう。
さてこれからどうしようかと考える。
大学にいても術の効力がなくなるまで贈り物を貰い続けるだけなのだろう。
コーヒーと一緒に食べるお菓子に困らなくなるのは良いかもしれないけれど。
今日はもう帰宅し静かにしていた方が良いだろうか?
などと考えているとぴんぽんぱんぽーんと、構内放送の電子音があたりに鳴り響いた。
「あーテステス、テステス、こちら生徒会だ! 全学生諸君作業を中断しよく聞け!」
作業も何も今は昼休み中である。
声の響きは怒鳴り声に近く怒気と攻撃性に富んでいる。
こりゃよほどの校則違反をやらかしたやつがいるようだ。
「学校の備品を使った一学生へのファンクラブ活動を許可した覚えは無い! 第二家庭科調理室に居る貴様らの事だ! いますぐ行動を中止し片づけを行い施錠しろ! 盗んだ鍵を管理室へ返却しろ! 代表は16時までに生徒会室へ出頭し事態を説明せよ!」
私はメリーの視線に気づき、そしてかじりかけのビスケットを見た。
ファンクラブ活動、調理室? それってまさか、と思考を巡らせるより早く、放送は後を続ける。
「それと学籍番号11353226! 学籍番号11353226! 今すぐ掲示部に出頭せよ! 以上!」
ブツッ! と乱暴にマイクが切られ、唐突に放送は終わった。
私はコーヒーカップを持ち上げながらはえーと感嘆する。
「なにをそんなぶちギレてるのやら、呼び出された学生は大変だなぁ」
「蓮子、それボケで言ってるの?」
「え?」
メリーがまた薄笑いを浮かべて言った。
「学籍番号11353226って、蓮子のことよ」
小走りで、メリーはふわふわと浮いて、掲示部へ移動する。
大学構内には数多くの掲示板が存在する。講義室変更などを連絡する学生連絡用掲示板、サークル新入部員募集や活動報告などを雑多に張り出すサークル総合掲示板、大学構内で発生した事件事故などを注意喚起する学生諸注意掲示板、新聞部が作成した週次新聞を掲示する酉京都大学学生新聞、生徒会が総合的に統括する生徒会だより瓦版などなど。
特に最後の掲示板について、依存性の高い違法薬物が残留した注射器が見つかったという事件が連日に及んで掲示されたことがあった。警察も構内に立ち入り取り調べを行った。秘封倶楽部も調査を行い見事解決に一役買ったのだが、これはまた別の機会に話すことにしよう。
さて当然のことながら、例え自サークルが所有する掲示板であろうと無断で情報を掲示してはいけない。掲示期間と掲示目的、掲示物明らかにし事前に掲示部へ申請を行わなければならない。掲示部が申請を審査し妥当であると判断した場合のみ、各掲示板へ掲示物を張り出すことができる。
掲示部は学生庶務管理棟2階にある。
3畳ほどの広さのある業務用のエレベーターを待っていると、台車に紙束を載せた事務員さんと居合わせる。紙を満載した台車4つを一人で運んでいる。ちーんと箱が到着する。扉が開くと事務員さんが台車を運ぼうとするが、結構な重労働である。
「お手伝いします。2階で良いですわね?」
メリーがジェダイみたいに手を振ると、3つの台車がふわりと浮かび、箱の中へ順番に乗り込んでくる。事務員さんはその様子を見てぎょっとして、台車と同じようにふわふわと浮かぶメリーを見て、それから合点が言ったようにうなずいた。ややあってから2階に到着。乗り込んだ時同様にメリーは台車を浮かばせ箱から下してあげた。
「助かりました。ありがとうございます」
「いえいえ」
事務員さんはメリーに頭を下げてお礼をすると、箱から降りたところに台車を4つとめ、携帯端末から通話を開始した。B便の者ですお疲れ様です2階に到着致しました、などと言っている。メリーは事務員さんにひらひらと手を振る。廊下を歩くと、20人ほどが並ぶ列が見えてくる。突き当りにいくつか窓口があり、"新規掲示物申請"と看板がある。その隣は"既存掲示物更新"。周囲には立ったまま申請書を記入できる記入台にボールペンとスタンドライトがある。
「おもしろいわねぇ」とメリーが言った。
「初めて来たけれど、こんな時代遅れなことを今でもやってるだなんて知らなかったわ」
「しー! 声が大きいよ! この人たちだって好きで並んでるわけじゃないんだから!」
「あなたの声の方が私より大きいわよ」
周囲で申請書を記入する人や列に並んでいる人はもう慣れているのだろう、ぼけっと虚空を見つめており、我々の失言を気にする様子はない。ふむ、さて私はどうするべきだろうか。列に並んで順番を待っても良いだろうが、別に新しい掲示物を貼りだしたい訳でもない。それに、こんな非効率的な列に並ぶこと自体がばかばかしい。少し離れたところにある大きめの扉を開けてみようか。すみませーん先ほど掲示部に呼び出された者ですけれど―と。だがそれも、列に並ぶ人たちに対する顕示欲を満たせようとしているようで大人げないような気がしてくる。
短く悩んでいると、"新規掲示物申請"の窓口にフルフェイスヘルメットを被った者がのぞき込み辺りを見渡していることに気づいた。生徒会直属警備部の硬質防具だ。私は手を挙げて小さく振った。
「宇佐見蓮子だな?」フルフェイスが言った。
「そうです」
今度は列に並んでいる20人程度の人達も、申請書を記入している人たちも、一斉に顔を上げてこちらを見た。心無しか周囲がざわざわとする。「宇佐見蓮子だ」そうです「あああの不良の爆発事件ばかり起こしてる」むむむ、そうです「警察に捕まったんじゃ」何度かはそうです全て冤罪により無罪でしたが「人食い妖怪に食われて死んだはずじゃ」それは違います。
「そこの扉から中に入りなさい」
フルフェイスが脇の扉を指さした。私は頷き歩を進める。
灰色で鉄の素材の冷たい扉である。これは開けがいがありそうだ。
勇んで取っ手を掴みえいと押すと、――開かない。引っ張っても開かない。
くすくす、と周囲に笑われる。
あっおまえら笑いやがったな! と後ろを振り返った直後。
「蓮子、退いて」
ひゅん、と顔のすぐ横を鋭く素早い何かが通過した。
つづいて、がらがらと何かが崩れる音。
視線を戻し扉を見る、が、私が握っている取っ手しか残っていない。
扉だった物の断片が鋭い断面を残し足元に転がり堆積している。
「この、――非常識な連中が!」
部屋の中から怒鳴り声。目を向けると、腕組をして立つ女性がいた。
白のスーツとロングスカート。茶髪を無造作に伸ばしたショートヘア。腕には生徒会執行部の腕章。
先ほどの構内放送の声の主。生徒会庶務担当の八総 亜実(やそう あみ)である。
我々が所属する酉京都大学には学生達による自治活動会が2つある。
1つは、大学が公式に運動を認めている、"学生自治会"。一年に一度学生たちの選挙により学生自治会長を決める。学生自治会は各委員会活動や部活動の上位に位置する組織で、中学高校で言うところの生徒会と同じ役割である。
2つめは、大学非公認の学生会活動、通称"生徒会"と呼ばれる組合だ。選挙などせず、勝手に集まった有象無象が勝手に権利を主張している。八総が所属しているのはこちら側である。先の放送通りとても威張り散らかしていてやたらめったら権力を握っている。しかしなぜこの勝手に集まった者たちによる生徒会がこれほどまでに幅を利かせ威張り散らしているのか。それはひとえに学生たちの支持率によるものであると言える。
酉京都大学の敷地内には連携型中高一貫校である酉京都大学西高等学校がある。分かりやすく言ってしまえば、敷地内に中学校、高等学校、大学校が一緒になって存在している。中学校時代から酉京都大学の敷地へ登校している学生の割合がとても多い。顔見知りが多いのだ。私は東京出身だし、メリーも大学から京都に来た(これに関してもまた別の機会に話したい)、酉京都大学では少数派でありそして高校からの人間関係の柵に囚われていない。
生徒会のトップである通称"生徒会長"は、酉京都大学西中学校2年生の時に生徒会長へ当選し、以降ずっと生徒会長である。中学3年、高校1年、2年、3年全て生徒会選挙に当選したのだ。そのまま酉京都大学へ入学し、1回生で学生自治会長に当選した。生徒会長はこういった。「私は生徒会長であり、学生諸君の票により学生自治会長の任を頂戴した。だが、私は生徒会長である。学生自治会長は次票数を獲得した4回生の先輩に譲り、私は今まで通り生徒会長として皆さんの期待に応えていきたい」一礼し壇上の席に戻る。大議事堂は若干の動揺と沈黙の後、割れるような拍手の渦となった。
なぜ当選しておいて辞退し存在しない生徒会長という自称に執着するのか全く理解できないが、過半数の支持で舵を切るのが民主主義の根幹である。そして大多数いや圧倒的に支持を得ている点が生徒会長の凄いところである。こうして生徒会長は酉京都大学では認められていない生徒会長となり、生徒会長の指名で任命された者たちにより生徒会執行部が誕生した。大学公認公式の学生自治会と、実際には何の権力も持たない生徒会。混乱のもとになるだけではないかと私もメリーも思ったのだが、3日で明確な差が出た。学生自治会の活動は全く学生たちの支持が得られず悉くが頓挫し、生徒会の政策の数々が驚きの速さで審議を通過した。審議? 違う。これは正真正銘の学生たちによる提案を生徒会が吸い上げ大学運営へ提案し、その妥当性に動き出したのだ。
ちなみに私とメリーは中立である。なぜか? それは後述する。
「きさまら! なぜ扉を破壊した! 生徒会にたてつく気か!」
生徒会庶務の八総が怒鳴り散らす。むむ、と思うが備品を破壊したのは我々である。
私はきちんと両手を体の脇に揃え気を付けの姿勢で言った。
「申し訳ありません。うちのメリーこのあいだ半妖化してなにかと攻撃的で、責任はきちんと、」
「あらあら、ここから入れと言ったのはあなた達ではなくて?」
「ああもう! メリーなんてことを!」
面白い物を見つけたかと言いたげに、メリーが笑っていた。
お手玉をするように8つの紫色のクナイが宙を踊っている。
「貴様らは鍵がかかった扉があったらバラバラにして入るのか!?」
「いえいえ、末恐ろしい生徒会様方からの呼び出しがあった時だけですわ」
「見ろ! いま警備部が解錠しようとしただろ!」
傍らでフルフェイスに青色の全身防具を身に着けた屈強な人がカードキーを片手に立っていた。自身が持っているカードを見て、北野武の座頭市で斬られた障子の様にバラバラになった扉を見て、中へ促すように手のひらをこちらに向ける。あ、どうもこれはご丁寧に。瓦礫を踏まないようにジャンプして中へ進む。
「待て宇佐見!」またもや怒鳴られる。
「取っ手はそこに置け! 修理する時に必要だろうが! そんなことも分からないのか貴様は!」
「あ、これは失敬」
依然握ったままだった取っ手に気づく。
私は頷き、瓦礫の上にそれをぽいと捨てる。ごとんと音が鳴る。
「きぃさぁまあぁ!」
「いちいちうるさいわねぇ、もっと静かに喋れませんこと?」
メリーが空中で横向きに寝て姿勢を変える。
透明のソファーでくつろいでいるかのようだ。
「だいたいそうやってかんかんに大きな声を聞かせるために私たちを呼んだ訳じゃないでしょう。暇じゃないのよ。はやく要件を言ってくれないかしらん。時間の無駄も甚だしいわ。全く話を進めずに叫んでばかり。もう少し頭を使って下さらないかしら。ぶひぶひとまるで躾の成っていない豚のようだわ」
いえ、我々は今日のカリキュラムを終えてあとは自由時間を謳歌するだけです。
とメリーの挑発に軽い頭痛を感じていて、異変に気付いた。
「躾の成っていない豚は、」
傍らの作業机に置いてあった文鎮を手に取り、足早にこちらへ接近してくる。
靴裏に鉄でも打ってあるのだろう、ごつごつごつ、と重厚な足音が響く。
対するメリーはやれやれと頭を振り、刃渡り30センチほどのクナイを手に生成する。
「きさまらのほうだろうが!」
文鎮を振りかぶる。八総は怒りに任せた体捌きで力ばかりがこもっている。
対するメリーは腕を鞭のように撓らせしっかりとクナイの刃が立っている。峰打ちではない!
得物と言い体の使い方と言いこの衝突でどちらが勝つかなど一目瞭然である。
「はいストーップ」
「!!」
しかし文鎮が振り下ろされることはなかった。
もう一人、白スーツを着た者が背後から腕を掴んだのだ。
「そんなもので叩いたら怪我しちゃうでしょ、やりすぎだよ八総」
「! 小田原副会長!?」
顔立ち凛とした女性が八総の腕を掴み確保している。
左肩に”生徒会執行部”の腕章、黒色の髪を一つにまとめ、もみあげが首の位置まで下がっている。
スタイルが良く体の均整がとれており見るからに大人びている。
背丈は高く細身でありながら、腕は筋肉質である。
日常生活に身体錬成のルーチンを組み込んでいるのだろう。
「宇佐見は被害者でありながら事件を収束させる能力があるって、さっき言ったでしょ。その話をするために呼びだしたのに、怒鳴りつけてぶんなぐってどうすんの。ちょっと落ち着きなよ」
「も、申し訳ありません小田原副会長! ついついこの非常識な連中が許すに許せなくて」
「まあ確かに、扉をバラバラにするのはやりすぎだけど」
と腕を離し体を斜めにして、扉の瓦礫を見る。
「午後から掲示部の改修工事がちょうど入ってるから、まあ問題ないでしょ。あの扉も壁も全部取り壊してここら一帯自販機置くし、解体の手間が省けたって考えれば」
小田原はにこりと笑顔を作る。
「不問にします」
「そんなことはどうでもいいのよ」
とメリーが口を尖らせる。
いやそもそもメリーが扉を破壊したのが発端なんだけどね。
「呼び出した理由をお聞きしたいわね」
小田原副会長がすぐ近くの作業台に置いてあった紙を手に取り、こちらに掲げてくる。
私とメリーが揃ってのぞき込む。A4の大きさに横書きでほんの短い文章が書かれている。
メリーが声に出して文章を読む。
「宇佐見先輩ファンクラブ! 魅力の限りを振りまく宇佐見蓮子先輩に思いの丈をぶつけましょう! 贈り物の為のお菓子は第二家庭科調理室にて無料で配布しています! ですって」
「ああぁー!!」思わず悲鳴を上げる。
「なんてこった!」
ばちん! と音が出るほどに私は強く自らの額を叩いた。
「昼前にこれがサークル総合掲示板宛で申請が出されて、先ほど掲示不許可になったんだ。宇佐見ファンクラブなんて聞いたことが無い。そんな倶楽部は実在するのかと調べてみると、当然そんなものは無い。不審に思った掲示部長から生徒会に通報があって、出動するに至った。宇佐見、何か思い当たることはある?」
「チョコとかビスケットとかめっちゃ沢山貰いました」
「具体的には大体どれくらい?」
「お昼休みだけで小包100個近く」
と私はメリーの周囲で浮遊する菓子包みを指さす。
「それ全部貰ったのか!」
「そうです」
「宇佐見、まさかそのお菓子を摂取したり」
「秘封倶楽部が美味しく頂いています」とメリー。
「なんて愚かなことを」
小田原は目を伏せ呆れたようにかぶりを振る。
「へんなものが入っていたらどうするつもりなんだ」
「大丈夫よ、変な物は入っていないわ」
「君になぜそれが分かる」
私、八総、小田原の三人でメリーを見た。
ふわふわと宙に浮かび両手で顎を支える金髪金瞳の女性がいた。
紫色を基調としたフリル満載の少女趣味のドレスに、人間離れした整った顔立ち。
形の良い瑞々しい唇、造形美を感じさせるほど整った顔の輪郭。シミ一つない美しい肌。
お菓子が入ったピンク柄のファンシーな紙袋が周囲を漂っている。
「……分かるの?」
「分かるわよ」
「なら良いんだけど」と論理的ではない納得をする小田原副会長。
メリーは宙に浮いたまま自分の髪を弄びつつ言う。
「生徒会は注意に行ったのかしら」
「行っていない」
「さっきの放送のみ?」
「今のところは」
「なぜ?」
メリーが語調鋭く問いただす。
あ、この流れはまずいぞと私は思った。
メリーは午前中、いやもしかしたら昨晩の時点で予想していたかもしれない。
ファンクラブなる活動で生徒会が動き出し、私を呼び出すことまで。いやこの後の展開も!
「生徒会長に聞いてほしい」小田原副会長が頭上を仰ぎ、穏やかに言った。
「何を考えているのか分からないけれど、私の考えるところは、倶楽部活動多様性の為だと思う。予算が下りないでも大学公認の倶楽部や、学生が勝手に行っている非公認倶楽部を含めたら、とても把握しきれない数があるだろう。君達秘封倶楽部が生徒会の注意無くよく分からない活動を続けられるのも、生徒会長の采配によるものだと考えれば良いと思うよ。例えば――」
と、ここで一息置いて。
「学校図書で魅了の術を調べて、翌日にこの騒ぎだ。さあどうしてくれるんだろうね秘封倶楽部」
鋭い目つきで睨まれた。なぜか、私が。
ぎくりとしているとメリーが言う。
「仰るとおりね」先ほどまでの挑発的な態度はどこへやら。急にしおらしくなるメリー。
「蓮子! お膳立てはできたわ! さあ秘封倶楽部の出動よ!」
「なにがじゃい!? って、やたらと挑発的だったのも全て計算づくか!」
「何が挑発だ! メリーは関係なく元からすべてきさまの仕業だろ!」
「違う! 大体ファンクラブがあったなんて知らなかった!」
「人の心を惑わす術を使ったのは事実なんだろ正直にはけ!」
「そ、それは、そう聞かれるとごにょごにょ」
「ほらみろやっぱりきさまの仕業じゃあないか!」
「責任をとってもらおうか」
「なぜ私が! それこそ生徒会の権力を存分に振りかざせばいいところじゃん!」
「なんだきさま生徒会生徒会と一つ覚えで、ここまで騒ぎを大きくした張本人が調子良すぎる!」
「頭ごなしの解法と、みんなが納得して丸く収まる解法、生徒会は後者を選んだだけだ」
「丸くは収まらない! こんな方法は論理的じゃない! 何もかもが論理破綻してる!」
「論理とは別の問題だ! この数字馬鹿物理オタク! 頭を使え! その行動力と頭脳を使う時だろ!」
「なっ、私は何でも屋じゃない! オタクじゃない! 私の行動力はこんなことのためのものじゃあない!」
「秘封倶楽部を称して人助けをしてるだろ! 沢山の友人を助けてるだろうが!」
「うん、その秘封倶楽部活動の延長で君を支持する女子学生たちを落ち着かせるだけだよ」
「それこそ秘封倶楽部は関係が無い! 秘封は世界の秘密を暴くオカルトサークルだ!」
「一体何が違うというの?」となぜかメリーが隣から言う。
「表ルート関係者は秘封倶楽部の活動に利益がある友人たちだよ」
「今回の女子学生の宇佐見ファンクラブのみなさんたちは?」
「あれは違う。結界ごにょごにょの活動とは関係が無いじゃん」
「ふぅん、じゃあどうして昨日は妖術魔術の研究をしたのかしらん?」
「メリーの妖術の使い道を研究したんだってば。ってかそれ知ってるよねよねメリー!?」
「だから妖術魔術の図書を閲覧した結果が今の騒ぎだろうが!」
「だから妖術魔術の図書を閲覧した結果が今の騒ぎだよね!?」
「だから妖術魔術の図書を閲覧した結果が今の騒ぎなのよね?」
「ぐっ!? ち、ちがう! これとそれとは、う、うぐぐ」
「なにが違うって言うんだ!」
「なにが違うって言うんだい?」
「なにが違うって言うのかしらん?」
なぜかメリーを含めた三方向から追い詰められる。
私は膝から崩れ落ちその場に項垂れる。
頭上から容赦のない追撃が繰り返される。
「宇佐見の仕業だろうが!」
「宇佐見の仕業だろう?」
「蓮子の仕業よねぇ?」
「宇佐見蓮子君、君が悪いのかね」となぜか掲示部長までこっちに来た。
ちがう! いや違くないけれど違う! 合ってるけど違うのだ!
だって私はただメリーに魅了の術を掛けるように言って。
それがなぜか周囲にモテてしまう術になっていて、なぜか女性ばかりが寄ってきている。
男性ならわかる。なぜ女性なのだ。それは私のせいではない。
ファンクラブが作っているお菓子だって毒はない。渡されているのも私だけだ。
備品を不許可で使っているのは問題だが。
作って配っているのも、それが正しい手順を踏んでいないのも、私のせいではない。
それに、術だって解除した。あと数時間すれば事態は収束するだろう。
なぜそれで私がファンクラブの暴走を今から止めに行かなければならない?
そこまでする儀理なんてないし、責任もない筈だ。
そんなことを生徒会に強要される時点で間違ってる。
全く論理的ではない。納得できない。
ただの押し付けに等しい。生徒会の権威乱用、権威放棄、怠惰、まさに横暴だ。
大体秘封倶楽部は世界の秘密を暴く結界暴きが主体の非公認サークルだ。
こんなこと、全然秘封倶楽部の活動目標に即してなどいない。
どうしてこうなった。どうして――。
私はそこに正座する。
中折れ帽子を頭からとり、脇へ置く。
「みなさん」ぴたりと周囲が静かになる。
布擦れの音一つ聞こえない完璧な静寂。
私はその場で土下座をして言った。
「ご迷惑おかけして本当に申し訳ございません。わたしが、全部何とかします……」
おおおー!! と周囲から拍手が湧く。
小田原、八総、掲示部長だけでなく、掲示部員の面々、掲示部に訪れた学生たち、職員のみなさんまで。
周囲に人垣を作り一斉に拍手をして称賛する。流石宇佐見だ! がんばれよ! がんばれ期待しているぞ!
「ありがとうみんな! ありがとう! 頑張るわ! ありがとう! さあ行きましょう蓮子!」
なぜかメリーが声援にこたえながら私を立たせ寄り添い、切り刻まれた出入り口に向かって進む。
掲示部員たちに体を叩かれる。宇佐見コールが沸き上がる。う、さ、み! う、さ、み!
事務所から外に出てコールが止む。
"新規掲示物申請"看板横。
メリーが唐突に歩を止める。
「あ、蓮子、援護が来たわよ」
我ここにあらずの心境で顔を上げる。
銀の長髪を一つ髷にした、袴姿の女の子がそこに立っていた。
顔立ちは幼い。背も低く、私の肩ほどまでしかない。
「聞いていたぞ宇佐見、またまた面白いことをやっておるな」
表ルートの友人、天琉 柄乃(てんる つかの)である。
見た目は小学生だが侮るなかれ、神童と謳われた合気の達人である。
結界の中に閉じ籠っていると言われる気闘邁進会の一派、紅近接格闘族に会うため、結界暴きに協力してくれている。
巨木を片手で薙ぎ倒すような怪力を持つ人食い妖怪たちが数多くうろつく結界内。
秘封倶楽部は探索を行う場合、どうしても対抗手段が必要になる。
天琉が居れば命の心配無く思う存分歩き回ることが出来る。
性格は温厚で親身に話を聞いてくれて、基礎教養もある。
人の痛みに共感できる感受性があり、道徳の概念も備わっている。
とても頼りになる友人である。
「良ければ手を貸すが、いかがかの」
「お願いじまず……!!」
「泣くほどじゃろうか?」
「ぞりゃあもう……!」
「蓮子ったら、みんなから応援されたのが嬉しいみたいなの」
「ぢがいまず……」
天琉に妖怪を撃退して貰った回数は数知れず。
トリフネ再探索計画の時だってまずは天琉に相談した。回答はこうだった。
「目的も無く物見遊山の為にそこで静かに暮らす者を叩けと言うのか。それは賛成しかねるの」
確かにおっしゃる通り。天琉は結界暴きには協力的だが、同時に平和主義者なのだ。
「よしそれじゃあ、先に行け」
「はーいそうさせていただきますわ」
「あとから追いつくからの」
ただ一つ天琉の短所は、基礎筋力が著しく低下している点である。
歩くのがとても遅い。階段を上ることが出来ない。扉を開けることが出来ない。
流動食しか飲み込むことが出来ない。ペンを握ることが出来ない。
寝起きするのも着替えをするのも風呂に入るのもヘルパーさんが必要である。
また、このヘルパーさんが結構変わっている人なのだが、紹介はまたの機会にする。
さてこのような特徴があるので、特に必要が無い場合は秘封倶楽部が先行する。
例によって例のごとく、メリーは私をひょいと持ち上げ脇に抱えた。
「あっ!? 待ってメリー! 天琉も! 天琉も抱えてあげて! 天琉もおおお!」
ぎゅん! すさまじい加速でその場を去る。
掲示部の看板も天琉の姿も見る間に小さくなる。
「ああもう面倒だわ、近道するわね」とメリーが愚痴る。
がらりと窓が開く音。進行方向ががくんと変わり、外へ飛び出る。
高度が上がり学生庶務管理棟をジオラマの様に鳥瞰する。
「あはははは! 楽しいわぁ! 楽しいわね蓮子ぉ! 全て私の思い通りだわぁ!」
砲弾めいた軌道を描き頂点に到達。
青空と雲と太陽を仰向けに仰ぐ。
そして今度は落下が始まる。ぐんぐんと速度が出る。
風圧が激しく耳元で唸る。
「うおおおおお!?」
「あははははは!!」
学生生活実務棟の窓ガラスが激突寸前で開き、廊下に進入。
落下の速度を維持したまま進み、急ブレーキがかかる。
とんと両足で着地。目の前に第二家庭科調理室の扉があった。
「あー、ふぅ、楽しかったぁ。はい到着したわよ。うふふふ」
躁状態のメリーだが、私は軽度のショック状態に陥っていた。
手足が震え、脳裏では高速度の映像が繰り返し流れている。
自身の存在を確かめるため顔に触れる。両手を広げ身体を見下ろす。
五体満足、どこも怪我などしていない。
隣を見ると薄く笑みを浮かべるメリーがこちらに視線を向けていた。
「30秒が経ったわ。流石に落ち着いたでしょう?」
「い、いいえ」首を振る。
「よしそれじゃあ乗り込むわよ」
「なんで聞いてない!?」
メリーが扉に手をかける。
ああ、校内放送では鍵を返せと言っていた。私が掲示部でやったように、こちらの扉も当然電子錠がかかっているはずだ。そう私は予想した。だが想像は外れ、メリーはプラスチックとスリガラスでできた扉を紙細工の様にいとも容易く壁から引き剥がした。そう、剥離である。べきょっ、ぱりんと音がして、あとは歪な形にひしゃげた扉がメリーの右手につかまれ、足元には割れたガラスが散乱した。たったそれだけだった。
調理室の内部が明らかになる。中にいた学生、いや全員が女子学生、が一斉にこちらへ振り向いた。時が止まったかのようだった。各々が生地をこねたりトースターを操作したりしていたが、一様に手を止めこちらを見た。反応は一緒だった。手に持った道具を投げ捨て、黄色い歓声を上げる。耳を劈くけたたましい狂喜の声である。私は両手で耳をふさぎ叫んだ。
「全員聞け! ファンクラブの活動は中止! 中止だ! 全部ちゅうしいぃ!」
室内にいる女子学生がこちらに殺到する。手という手が私の腕、肩、腰を掴み、引っ張られる。数十人に取り囲まれ、一斉に私を持ち上げる。足が浮く。これは、メリーの妖力操作ではない。女子学生達が私の体を持ち上げ、祭りの神輿のように頭上へ掲げる。「やめろ! 下ろせ! 全員話を聞けぇ!」叫ぶが誰も私の声など聞こえていない。興奮の坩堝。人数という圧倒的渦中の力を前に翻弄されるだけだ。わっしょいわっしょいと運ばれていく。「く、くそっ! メリー頼む! 助けてぇ!」と叫んであたりを見ると、天井近くに浮き上がり腕を振って拡声器で叫んでいる。「わっしょい! わっしょい!」おま、おまえええ!
「メリーッ……!! 上に! 私を!」
ファンクラブ員の手が届かない上方へ引き上げてもらおうとメリーへ助けを呼ぶ。
メリーが高度を下げて手を伸ばす。そうだ! 助けてくれ!
「いえーい! 楽しいわね蓮子!」とハイタッチをしてくる。
「そうじゃねえぇ!」
唐突に体を下ろされた。背中に冷たく硬い床の感触。
がばりと起き上がりあたりを見ると、4畳ほどの広さの部屋中央にいるとわかった。
窓はなく、天井には配管がむき出しになっている。倉庫を改造した部屋のようだ。
そして唯一の出口の向こうで女子学生たちがこちらを見ている。口々に言う。
「そこにいれば安全ですので!」「そこにいてください!」
「あとは任せて!」「我々だけでやります!」「任せてください!」
「食べ物も飲み物もシャワーもあります!」「自由に使ってください!」
「ほんの三日ほどです!」「我々に任せて!」「任せてください!」
私のすぐ近くにいるメリーがサムズアップして言う。
「任せたわ! 総員行動開始!」
「はい!」
百人近くの人数がいるのに、ぴたりと息を合わせて返事をする。
そしてあっという間に扉を閉められてしまう。
「あっ」とメリーが言った。
「閉まってから言うのか!?」
「いやそうではないわ」
メリーがふわふわと浮いて扉へ接近。取っ手を掴もうとする、が。
バチィ! と衝撃音と激しい閃光。メリーの右手が弾かれる。
「…………」
メリーが自身の右手を観察する。
痺れるのか、小刻みに震えている。
「だ、大丈夫?」
「いえ、蓮子だけを閉じ込めようと思ってたのだけど」
「えっ? それどういうこと?」
「計算が狂ったかもしれないわね」
扉の外では女性学生たちが叫んでいる。
「宇佐見先輩確保!」「やったわ!」「大きな一歩ね!」
「生徒会から守ったのよ!」「第一目標達成ね!」
「宇佐見先輩を守るために!」「すべては宇佐見先輩の為に!」
えいえいおー! かけ声をあげ、一斉に移動を開始する。
どどどど、奔流となった足音が遠ざかり静寂が訪れる。
私は仰向けに倒れ目を閉じ、息を整える。
衝撃に次ぐ衝撃で精神が疲弊している。この5分足らずの間にたくさんのことが起こりすぎている。
さっきのあのファンクラブは、なんだ。クラブ活動を止めるどころではない。
人数の暴力にさらされて未だに動揺が収まらない。狂気じみている。
「疲れた?」とメリー。
「疲れたっていうか、なんか昼過ぎから常軌を逸してる」
「ふふふ、これでいいのよ蓮子はとりあえずね」
「よく分からないけれど」
「私がちょっと頑張らなきゃだけど、蓮子は休んでて」
「ここから出なきゃ」
「程度は低いけどそれなりの封鎖結界よ。内から開くには時間がいるわね」
「任せた」
「はいはい」
四肢の力を抜き目を閉じ回復に勤しむ。
ややあってから隣で「できた」とメリーが言った。
「見て蓮子、映像がつながったわ」
「ふむふむ?」
片目を開き確認する。空中に妖力による映像ディスプレイがあった。
廊下の風景が映し出されているが、とても視点が低い。
まるで地面にぺったり腹ばいになっているかのようだ。
「私がお昼ご飯食べながら作ったバーマン子猫に視覚共有機能をオーバーライドしたの」
なるほど、視点が低いのは子猫の眼を借りて風景を見ているためらしい。
ざっざっざっと足音が聞こえてくる。映像がそちらを映す。
女子学生がスクラムを組んで廊下いっぱいに幅をとり、こちらに向かって歩いてくる。
子猫は飛び上がり頭上部の窓に乗り廊下を見下ろせる位置についた。
女子学生達の向かう先に人垣が現れた。
フルフェイスに青色の全身防具。生徒会直属の警備部員達である。
身の丈ほどの巨大な盾を並べ廊下を封鎖、ファンクラブの行く手を阻む。
警備部員たちの人垣の向こうで脚立が動き、身軽にそこへ上る白スーツ。
生徒会執行部の庶務担当、印刷部でさんざん怒鳴り散らかしていた八総である。
「とまれ!」変わらない怒鳴り声をあげる。
警備部の封鎖手前10メートルほどを残し、女子学生たちのスクラムは足を止める。
「宇佐見蓮子はどうした!」
「我々宇佐見蓮子ファンクラブが保護した!」
「保護だと!? それはどういうことだ!?」
「生徒会の弾圧から先輩を守るためだ!」
「宇佐見先輩に優しくしろー!」
「放送であんなに怒鳴らなくったっていいじゃないかー!」
「秘封倶楽部を大学公認サークルにしろー!」
「宇佐見がそういったのか!? 宇佐見がそう要求したのか!?」
「お菓子作りくらい別にいいだろー!」
「学校の備品でやるなら許可を取れって言ってんだよ!」
「宇佐見先輩は受け取ってくれただろー!」
「一体何が悪いっていうんだー!」
「宇佐見をここに連れてこい! 説明しろと言え!」
「生徒会に宇佐見先輩は渡さない!」
「そうだそうだー!」
互いが互いに言いたいことを言って議論になっていない。
論点を整理し互いの主張と整理する必要がある。
が、興奮と熱狂に支配され集団心理が働いている。
二つの集団が暴力で衝突するのは時間の問題である。
そこで、我々を軟禁する扉の向こう側に人の気配があった。
くぐもってよく聞こえないが誰かが会話している。
送ってくれてありがとうだとか、いえいえこちらこそだとか言っている。
ややあってから扉がノックされた。
「宇佐見ここじゃろうか」天琉の声だった。まさに天の恵み、勿怪の幸い、渡りに船と言うやつだ。
「閉じ込められたんだ! 助けて!」
「だいぶ早かったわねぇ、どうやってここまで?」とメリー。
「小田原副会長におんぶして貰ったのじゃ」
「やっぱり心配になってここまで来たけど、正解だったね。まさか軟禁されるとは」
「だから言ったじゃん! 私じゃあ制御なんてできないんだよ!」
「いいや違うな宇佐見。掲示部での宇佐見は単に責任逃れをしたいがための態度だった」
だが、と小田原は後を続ける。
「宇佐見かメリーが黒幕だと思ったら、違ったのか」
「黒幕ってどういう意味だよ……」
「だってそうだろ。一番の利益獲得者だし」
「女性に言い寄られて何の利益になるっていうんだ。私は女だぁ!」
「ははは、宇佐見のそういうところ好きだよ。頭は切れるのに自分の長所と周囲の評価が見えてないところ」
「褒めてるのか貶してるのか。貶してるのか!? 貶してるんだな!? くっそどいつもこいつも!」
「親睦を深めているところ申し訳ないのだが、半妖のメリーさんをもってしてもここは開かないのかの?」
そうだった、私は扉にへばり付き向こうに叫ぶ。
「対妖怪機能付きの封鎖結界だ! メリーみたいな半妖じゃない、結界暴きができる人連れてきて!」
「そんな能力者はおらんのじゃ」「そんな能力者はいないね」
「封鎖結界解除に一番手っ取り早い方法は、解除権限所持者を連れて来る事ね」
「じゃあファンクラブの代表者を連れてこないと!」
「それは八総がやってる」「それは八総がやっておる」
「封鎖結界だから中からはどうしようもないよ。外からどうにかしなきゃ」
「メリーさんは何をやっておる」
「なんか式を弄ってる」
「秘封倶楽部がその調子じゃあ、わし達じゃどうしようもないのう。小田原副会長?」
「あ、ごめんちょっと通話する。少し待って」
小田原が携帯端末で誰かと通話をしている。状況を説明しているようだ。
秘封倶楽部はファンクラブが張った対妖怪用の封鎖結界で軟禁状態。
八総と警備部はファンクラブと睨み合っており激突するのも時間の問題。
ファンクラブを止めるには宇佐見蓮子が必要だと思われる。指示を仰ぎたい。
「小田原は誰と喋ってるん?」
「わしに聞くな」
私と天琉は黙り動きを待つ。
ファンクラブの人数は100人以上。
結界は何週間もかけて準備したように見える。
ファンクラブ員の士気は高く、生徒会の警告を聞こうとしない。
そうして何度か返事をした後。
「……えっ!? よろしいんですか?」
大層意外だと言うように、小田原が狼狽した。
「はい、承知しました、それでは」と通話を切るなり。
「天琉、ちょっと私と来てほしい」急ぐ様子で言う。
「誰と話してたのじゃ」
「生徒会長だよ。別件対応中でこっちには来られない。あと宇佐見」
「なに、もう家に帰って休みたいんだけど」
げっそりとする。もう心底うんざりとしていた。精神的な疲労が蓄積している。私は、秘封倶楽部の活動で文化や歴史を調べるのが大好きだ。夢中になれて疲労を感じない。必要になるまで休息しようという気にならない。寝る間も惜しんで倶楽部活動の下調べをしても、全く苦に感じない。
それと比べて今のこの状態は、倶楽部活動と全く関係が無い。大勢の人間から好意を向けられるのは、確かに心地が良い。しかしそれも妖術によるものであって、私の魅力によるものでなければ、真に好意を抱く人によるものでもない。そんなものに充足を感じてしまうほど私の精神は未熟ではない。しかも、あと数時間もすれば収束することは分かっている。ファンクラブの暴走は放置すれば良いと小田原に言わないのは、ただ単にそれを説明しようとするとメリーの妖力習得の経緯に加え、今回の騒動の根幹の原因は妖術の実験によるものであり、計算とは違う術がメリーの気まぐれで私に掛けられたと明らかにしなければならないからだ。
私は疲れ果てた。もういいよ、八総と警備部に任せておけば。そんな心境である。
「事件を解決すればいつでも帰してあげるよ、それよりも」と小田原は前置いて。
「宇佐見、君は自分が置かれている状況を理解していない」
「また脅すつもりか?」
「違う。そこでぐーたらして時間が過ぎるのを待っていれば良いと考えてるだろ。そのままじゃ死ぬぞ」
「水とか食料とか酸素切れとかそういう話をしてる? まあその前に退屈で死にそうだけど」
「違う。はあ、宇佐見、結界に詳しい半妖メリーさんに話を聞いてみろ」
「分かってるわ。私ちょっと忙しいから、生徒会長からの受け売りを聞かせてあげればいいわ」
「菓子作り開始までの瞬発性と言い、事前の計画性が高い。秘封倶楽部を軟禁状態に追い込んだ点も鑑みるに、ファンクラブのトップは勤勉で努力を成就させる継続性と粘り強さがある。あの人数を束ねる手腕も見事だ。十分な脅威だろう。あと封鎖結界の件だが、有名な本から引用すれば、”深い闇、人数、信仰が集まる偶像、強固な封鎖が行われる場所、そして強力な結界。このうちの要素が重なるほど、”」
私ははっとした。
結界内で意欲を削がれだらだらしている場合ではないと気付かされる。
私はその有名な一説の続きを引用する。
「”人食い妖怪は湧きやすくなる”」
「そうだ。どの程度の時間で湧くか分からないが、急いだ方が良いだろう」
一年ほど前に酉京都大学へ1体の妖怪が湧いたことがあった。
発生個所は20講義館、通称精神と時の館の1階にある使用されていない物置きだった。
当時はメリーが同館の2003講義室で授業を受けており、雰囲気の変化に真っ先に気が付いた。私は当日のカリキュラムを終えて暇だったので隣の席で倶楽部活動に関わる資料を整理していたのだが、メリーが私に伝え、私が教授に緊急事態を伝え、行動に移れた。
妖怪は各講義室を次々と襲撃しながら移動し、いずれ飽きたように結界の向こう側へ帰って行った。あの時は対抗するための武器も、人数も、面子も、籠城を行うための部屋の条件も、全てが偶然揃っていた。私が指揮したのだ、部屋を可能な限りで要塞化し、学生たちへ対妖怪戦生存のためのレクチャーを行った。鉄則はたった一つ、全力で逃げろだ。しかし1体の妖怪の侵攻にバリケードは容易く突破され、有り合わせとはいえ殺意豊富な刺突劇薬爆破などの攻撃は無力で豆鉄砲に等しく、トラップは非力で、けが人が何人も出た。死者が出なかったのは奇跡と言えるだろう。
目撃者の証言と事件現場から、今は"小指掛け妖怪の精神と時の館事件"と呼ばれている。
私は半妖でもなければ、武道も極めてはいない。しかし、対妖怪用の知識は少なからず持っている。なのに沢山のけが人が出てしまったのは私の責任だ。自責の念から、この事件の負傷者は全員名前を空で言えるようにしてある。例えば、開かずの間の前に偶然居合わせてしまっただけだった女子学生、什寺さんは被害者のうち最も酷い重傷を負った。顔を剥かれ体をえぐられた。妖怪被害による治療費などの費用は全額国が負担する。また、昨今の治療技術、整形技術は目覚ましい進歩を遂げている。今は治療を終えて傷跡も消えたと、メリーが教えてくれた。健康に日々を送っているらしい。
事件後分かったことだが、妖怪が湧いた物置には簡素な結界が張られていたらしい。
「精神と時の館事件の時は、結界が張られて完全放置で一週間未満だった」
「だが宇佐見がいるそこは、入念な準備と、100人近い人数が結界に関与しているぞ」
緊張の炎が再燃を始めた。
あんな事件がまた起ころうとしている。食い止めなければならない。いま、ここで。
部屋の四方へ視線を巡らせる。改めて観察をして、食べ物と飲料水と、目隠しのカーテンの向こう側にシャワーがあるのが分かった。いずれも必要にはならないだろう。数時間後に無事ここから出るか、そうでなければ妖怪に食われるだけだ。
「メリーに守って貰うと良い、多少は戦えるんだよね」
「相手によると思うけれど」
メリーは子猫に与える式の開発を行っているようだ。
警備部とファンクラブの映像をそばに置き、なにやらぶつぶつと言っている。
「時間との勝負だからね宇佐見すぐ戻るから、祈っててくれ。さあ行くぞ天琉」
「宇佐見、最後になるかもしれないから言うがの、おぬしは良い人間だった。ふふっ」
「なんで過去形なの!? っていうか縁起でもないこと言うのやめてくれる!?」
「ではの」「じゃまたね」
"時間との勝負"なのは私ではなく小田原達の方だと思うのだけどなぁ。
足音が遠ざかる。正真正銘、私とメリーだけになってしまった。
式の作業を続けるメリーへ視線を向ける。
警備部とファンクラブは互いにスクラムの並びを代表の指示で変えている。
いよいよ実力行使やむなしと、突破力がある人を最前に構成する様だ。
警備部の人垣の中でフェイスシールドを上げ、身振り手振りで指示を出している人がいる。
彼はアメフト部のラインマンで、身長205センチ、体重が145キロある。
他も柔道部大将、相撲部主将、プロレス倶楽部代表などと、錚々たる面子である。
あんな人間が横に並び防具を身に着け盾で身構えられたら、突破など到底不可能である。
対してファンクラブのスクラムを見る。
運動などしたことが無い風に見えるか弱い女性集団と言う感じだ。
せいぜい身長160センチ、体重はあっても50前後というところだろう。
「ボーナスゲームだな」喧騒の中でアメフト部のラインマンが言った。
「せいぜい淑女の皆様を怪我させないようにやさぁしく迎え撃ってやろうぜ」
「ははは、まあ今回は余裕だろうな」
「2分も耐えたら向こうがへばるだろ」
「そしたらいつも通り各自確保だ」
「おいお前ら」と八総が腕組をしていった。
「暴徒鎮圧であることは確かだが、当校の女子学生たちであることも事実だ。拘束の際に不埒なことをやったやつはソッコーで処罰するからな。各自スポーツマンシップに則った奮戦を期待する。分かったな!?」
「押忍!」
生徒会直属警備部に所属するには、スポーツ活動で突出した成績を残すことに加え、素行に問題が無いこと、担任監督の推薦が必要などなど、多くの審査をパスする必要がある。心身ともにフィジカルエリート集団なのである。そもそも警備部が出動した時点で大問題なのであるが、鎮圧に参加した学生は活躍に応じて単位が与えられる。警備部員曰く、「これ以上に楽に単位が取れるものは他にないぜ」とのこと。
一般人が想像する以上に大学スポーツは修羅の世界である。技術が無い者、体格に恵まれない者は蔑ろにされ、成績を残せなければ未来は無い。毎日血反吐が出るまでしごかれ、帰宅した後は栄養を摂取し肉体をケアしなければ翌日の部活動に支障が出る。暴力と恫喝と理不尽に塗れながら日々を過ごす。そんな毎日を過ごしながら報われるのは一握りの世界なのだ。
どん、どん、どん。
警備部達が盾を床に叩きつけて鳴らす。
凄まじい迫力である。
「最後通告だ!」八総が脚立に登り叫んだ。
「即時解散せよ! 今ならば反省文で許してやる! これ以上は自身を滅ぼすことになるぞ!」
「宇佐見先輩の為に!」「ためにー!」「我らは宇佐見先輩の為だけにー!」
「蓮子、見て」作業をしながらメリーが言う。
「見てるけど、どちらが勝つかって?」
「確実にファンクラブが勝つわ」
「んな馬鹿な。はね返されて拘束されて終わりだよ」
「いいえ私が言いたいのはそうではなくて」
メリーがディスプレイに指をさす。
ファンクラブの最前で発破をかけている女子学生だ。
きっと代表なのだろう。
「どこかで会ったことない?」
レディース用の三角ニット帽子、スキーをするときに身に着けるようなゴーグルが顔に乗っている。
体つきから女子学生だとは分かるがこれだけでは誰か見当もつかない。
「顔がほとんど隠れてて何とも言えないな」
「あらそう。ならいいわ」
「? どういうこと?」
メリーは淡泊に言ってまた作業に没頭してしまう。
他にやることはないし私は成り行きを見守るだけである。
「さあみんな正念場よ!」「宇佐見先輩の為に!」
「いくわよー!」「えいえい、おー!」「とつげきー!」
「全員構えろ! 一人も通すな!」「応!」
ニット帽を先頭に、ファンクラブの百人近い人数がスクラムを組み一斉に走り出す。
警備部の最前列は腰を低く強固に盾構え、二列目はその隙間を埋める。完璧な布陣だ。
どどどど、圧巻の足音が響きついに二つの集団が激突する。
体格も経験も迫力も劣るファンクラブのスクラムがぶつかる。
瞬間、盾にはね返されて転び、二列目以降の女子学生たちが次々に勢いを削がれる、と思われた。
だが結果は違った。不思議なことが起こった。
先頭中央を疾走していたニット帽を皮切りに。
女子学生たちが警備部員達をなぎ倒し猛進する!
「どわあぁああぁああ!?」
ボウリングボールに吹き飛ばされるピンの様に。
いや猛風に揉まれる木の葉の様に。
あるものは四肢を振り回し壁に衝突し。
あるものは腰を天井に打ち付けて落下し。
あるものは窓ガラスを突き破って廊下から退場した。
若干の混乱と動揺が残り。
女子学生たちの後姿を見送る警備部員達があった。
「な、なんだ、一体何が起きた!? くそっお前ら起きろ!」
仰向けに倒れていた八総が辺りに転がる警備部員を起き上がらせる。
幸いにも突き飛ばされた面々は防具のお陰もあったのだろう、特に目立った負傷者はいないようだ。
「八総! ファンクラブは放送室に向かったわ!」メリーがディスプレイ越しに叫ぶ。
「構内放送で大学中に勧誘をかけて宇佐見親衛大部隊を作るつもりよ!」
「この声、秘封倶楽部の半妖か!? 分かった放送室に行けばいいんだな!?」
八総が廊下を素早く見渡し、そして廊下上部で見下ろす猫がメリーの声で喋っていることに気づく。
通常ならばそんな非現実的な状況に狼狽するところだろうが、瞬時に理解して行動に移す点。
短気ですぐ手を出し怒鳴ってばかりいても、流石は生徒会長に認められただけの事はある。
「私も蓮子も軟禁されてるの! 親衛隊を作ることは賛成だけど、明確な人命危機よ! 止めなさい!」
「くそっ! 聞こえただろお前ら行くぞ!」
猫が素早く身を翻し、走り出した八総の背中に掴まる。
すぐさま機転を利かせて後ろに手を回し、抱っこしてくれる。
「八総あなた、怪我したの?」
「ちょっと頭を切っただけだ」
走りながら頭に触れた手がべっとりと赤く染まっている。
防具を身に着けていなかったのが災いしたらしい。
「警備部を動員させるときは次からあなたも防具をつけなさい」とメリーが軽く手を振る。
「! 傷がふさがった! なるほど恩に着る」
「ファンクラブは体を強化する式を付けてるわ。生身の人間じゃ相手にならないの」
「そ、そうだったのか。気付かなかった」
そ、そうだったのか。気付かなかった。と私も思う。
「結界に封印されながらだと完全な力は出せないけど、あなた達にも似てる術を掛けてあげる」
「……ファンクラブ全員が貴様の様な術使いなのか?」
「いいえ、クラブ代表のニット帽をかぶってる女だけよ」
「そのニット帽は相当の使い手なのか?」
「周囲に力を割き過ぎてる。本人はそこまででない筈」
「どの程度の人数で確保できる?」
「3、4人で包囲すれば強化した警備部員たちで拘束できるはずよ」
「それだけ聞ければ十分だ。おい宇佐見!」
「うおびっくりした。呼んだ?」
いきなり呼ばれてぎょっとする。
「本当に貴様はこの騒動に無関係なんだな?」
「えっ、うーん、部分的にはそうかな。A XOR B AND Cって感じ」
「理系は言ってることが分からん。なんで論理演算子が出てくるんだ。ちゃんと説明しろ!」
「黙秘権を行使します」
「馬鹿にしてるのか!」
「ほらほらいいから、放送室を取られたらもっとひどいことになるわよ」
放送室前廊下に到着した。八総は一度立ち止まり、猫をそっと下す。
放送室前に女子学生たちが陣取っている。向こうからは忙しなく扉を操作する音。
「なんで、なんで開かないのよ!」ニット帽が焦りの声を上げている。
「がんばって!」「あと少しよ!」「あと少しで宇佐見先輩は救われるの!」
「扉を封印したわ」とメリーが言う。
「だけどそう長くはもたない。八総、制圧しなさい」
こちらに気づいた女子学生が一人、わあああと非力な声を上げながらこちらに突進してくる。
八総を守るように警備部員が二人、盾を構えて前方へ躍り出た。女子学生の突進を受け止める。
がぁん! か弱い見た目からは想像もできない程の硬質な衝突音。警備部員の屈強な体がびりびりと震える。
だが、「八総さん! いけます!」見事強化式込みの突進を受け止めた!
「盾だけじゃ制圧は無理そうだな。警棒の使用を許可する」
警備部員二人は腰に手を回し、そこにあった特殊警棒を勢いよく振って展開する。
強化カーボン素材で作られた本物の特殊警棒である。
通常であればあんなもので殴られたら大変なことになる。
打撲や骨折どころではない、骨は砕けきちんと治療しなければ後遺症が残るだろう。
「宇佐見先輩の為に! 宇佐見先輩の為に!」
熱に浮かされたように盾を押す女子学生。
警備部員は今一度八総を振り返り、言う。
「ぐ、こいつ何て力だ……、ほんとに、やりますよ?」
「かまわん」
握る手に力を籠め警棒を振り下ろす! かきぃん――、明らかに肉を打つとは違う、金属質な音が響いた。
警棒は女子学生の肩から20センチほどの距離を浮かせ、見えない壁に阻まれたかのように止まっていた。
「!? なんだこいつ、どうなってる!?」
「護身強化結界だわ」とメリー。
「もっと分かりやすく言ってくれ」
「見えない全身防具みたいなものよ。衝撃を与え続ければ壊れるわ」
「どれくらいの強度がある?」
「厚さ50ミリの鉄板程度かしら」
「ははっ、おーい誰か自動車倶楽部から油圧カッター持って来てくれぇ」
「いやおまえ、50ミリつったら救急隊倶楽部が使うようなプロ仕様じゃねぇと無理だ!」
「まあそうだな。と、くれば」
警備部員が軽口を叩くと、二人同時にぐんと押し返し盾を投げ捨てた。
女子学生は後ろに数歩バランスを崩すが、また再度こちらに突っ込んでくる!
迎え撃つ警備部員の目線は相手の顔や手ではなく、足元だった。
女子学生のタックルに合わせ、素早く体を躱す。
ひゃあと悲鳴を上げてうつ伏せに倒れる女子学生。
筋力は上がっても所詮は運動経験の浅い女性である。
廊下はコンクリートだが、防護結界があるので怪我の心配はない。
警備部員二人が女子学生の背中へ膝を載せ押さえこむ。
「確保! オレが押さえてるから縛り上げろ!」
「えっ!? いやオレが押さえるからお前が縛れ!」
「なんでじゃい、お前が縛れ!」
「ちげぇよオレ、……女の子に触ったこと無くてさ。縛り上げるなんて絶対無理だ!」
「なにぃ!? 奇遇だな! オレもだよ!」
「……」
「……」
「わはははは!」
「わはははは!」
「ふんがー!」
「うわああああ!?」
「うわああああ!?」
女子学生が腕立て伏せの要領で二人を頭上へ吹き飛ばす。
天井にぶつかり重力で落下。ぼとぼとと床にたたきつけられる警備部員。
「まあ、護身結界があるから縛って拘束なんてそもそも無理なんだけどね」とメリー。
そうこうしている間に遠巻きにしていた女子学生たちがこちらに走り寄ってくる。
後ろを追ってきていた警備部員たちも到着した。
隊列も何もない、格闘戦もとい乱闘になった。
きゃーきゃーと黄色い女子学生の声。警備部員達の悲鳴。
何とものんびりとした風景だが、状況は劣勢のようだ。
「やっぱり結界内から、しかも遠隔となると厳しいみたいね、ふふふ」
警備部員が投げ飛ばされ吹き飛ばされている様子を眺めるメリー、なぜか楽しそうである。
と、こちらに振り返って言う。
「さあ蓮子、私たちも余裕が無くなってきたわよ」
「ええー、まさか」
メリーに促されて後ろを見る。
防水カーテンに覆われた向こう、シャワーのスペースで黒い靄が立ち込め始めている。
まだ燻っているだけのように見えるが、歴とした人食い妖怪襲来の前兆である。
もはや数分程度しか猶予はない。
私は宙に浮かぶディスプレイを見る。
ファンクラブの女子学生たちと警備部員の乱闘は始まったばかり。収まる気配はない。
今すぐにでもあのニット帽を捕まえここに連れてきて結界を解除させるなど、到底不可能だ。
あと百秒程度で人食い妖怪が現れる、間に合う筈が無い。
煙が少ない状態で結界の封鎖を解けばまだ襲来を中断させられる可能性はある。
しかしそれももう不可能となってしまった。
まず私とメリーが襲われ命を落とす。妖怪は結界を破壊し大学敷地をうろつき始めるだろう。
確かに天琉などをはじめに、妖怪と戦える人も何人か大学にはいるが、それでも敷地は広すぎる。
小指掛け妖怪の精神と時の館事件、あの悪夢がまた始まろうとしている。
一般の学生などなすすべもなくやられていくだろう。
「メリー……」
私は今生の別れを告げようと話しかける。
せめて八総に現状を共有し、学生生活実務棟から人払いをするよう頼む程度のことはできるだろう。
が、メリーはいつもと変わらない様子で立ち上がり、こちらに手を伸ばしてきた。
「間に合ったわ。蓮子、さあ立って」
「えっ、それってどういう」
「おぉい宇佐見とメリーさんや、まだ生きてるかのぉう?」
「まあ、間に合わなかったらそれまでだけど」
扉の向こうから天琉と小田原の声が聞こえてくる。
友人の声に私は気持ちを取り直した。
天琉が居ればここから出た妖怪を食い止めることもできるだろう。
無論、私とメリーはやられた後に、ではあるが。
「残念ながら生きてるよ。メリーもここにいる」
「困ったときに助けてくれる三銃士を連れてきたのじゃ」
「困ったときに助けてくれる三銃士? ……ごめんそのネタ分からない」
「失礼なことを言わないでくれ。この扉です、お願いします」
「はいはい、頼まれましたよ」
と知らない声が聞こえ扉の前に立つ。
二度、三度とかしわ手の音が聞こえ――。
がらりと扉が開く。
「こんにちはー、結界省生活安全課、三級結界士の東雲 逢埜(とううん あや)でぇす」
見た目30歳中盤程度だろうか。
女性、黒髪を無造作に一つまげにして、目元にはメイクかと思うほどに深い隈。
眉は殆どなく、頬にはそばかすが目立つ。驚きのノーメイクである。
ぼろぼろしわしわの紺の時代遅れなパンツスーツを身に着け、ネクタイも曲がっている。
人差し指と中指の付け根にタバコを挟み、口元を覆うようにして吸っている。
ふうぅと紫煙を天井に向けて吹き、眠そうに言った。
「怪我無い?」
「ありません」
後ろを振り向くと愛想笑いを振りまくメリーが居た。
妖力で表示させていたディスプレイは解除されており、しっかりと二本の足で立っている。
「私たちは無事なんですけど、そこで黒い煙が上がってるんです、何でですかねぇ?」
「ああ、妖怪が湧きそうなんだよ、部屋から出て、下がってて」
「はぁい」
メリーが歩き出し、私の腕を引く。
部屋から出ると天琉がサムズアップし「さばいぶってやつじゃな」、小田原は腕を組んで立っている。
「この中で、」と東雲がだるそうに言った。「妖怪と戦える人は?」
「わしは自信があるのじゃ。沢山戦ってきた」と天琉が手を上げる。
「わたしは、生徒会に報告するためにここで見てます」と小田原。
「あ、もし危険だったら遠くに行ってますけど」と愛想笑いをするメリー。
「日常生活に戻りなさい。大学に用事が無ければ帰って良い。調書は明日とるから」
「はいありがとうございますー」とぐいぐいと私の腕を引っ張る。
通り過ぎざまに小田原が人差し指で私の胸を突いた。
かみしめた歯を見せ不機嫌そうである。
「命令だ、放送室に行け、これ以上騒ぎを大きくするな、事件を収束させろ」
「分かってますとも」メリーが返事した。
「生徒会様じゃあのレベルの暴徒を鎮圧できませんものね」
「早く行け」と小田原は虫を追い払うように手を振る。
私はメリーに引かれるがまま調理室から出る。
廊下を歩き少し離れたところまで行ったら、メリーは髪の毛を千切りふぅと吐息をかける。
猫の形に変わりふわりと着地。三毛猫だ。尻尾がやたらと短い。
「ジャパニーズボブテイル」
「正解」猫の背中を撫で「記録よろしくね」
「にゃあ」
そう言ってメリーはまたもや私を抱えた。
窓を開き、跳躍、飛翔、加速。上昇し大空に躍り出る。
上空でぴたりと速度を止め対空。
満面の笑顔で両手足を広げ、メリーが言った。
「さあ蓮子、最後の大舞台よ!」
「まあ、そうだよねこうなるよね……」
「はい、これ持って。これ付けて」
メリーが空中で私にいろいろな道具を差し出してくる。
特殊警棒、レザーグローブ、口臭ケアのスプレーを口に突っ込まれ、香水を頭に吹きかけられる。
Yシャツを脱がされインナー姿にされる。簡単なアーマーを身に付けさせられる。肘と膝にプロテクター。
ぱぱっとYシャツを戻され、ネクタイをしっかりと締めさせられる。
「らしくないわよ、しゃんとしなさい。ぐいぐい行動するのは蓮子の役目でしょ」
「だってこんなの倶楽部活動じゃないよ。それに、私が行く必要ある?」
調理室に湧く妖怪は結界省の人が何とかしてくれるだろう。
小田原に騒ぎを収めろと言われたが、そろそろ術は切れファンクラブは解散する。
この上空で文字通りの高みの見物と洒落込めば終わる話ではないのか?
「うーん、ネクタイは紺より緑、いや濃い赤にしようかしらね」しかしメリーは私の話を聞いていない。
どこからか取り出したネクタイを私に締め直し、顎に手を当ててうーんと唸る。
「良い感じね。さあさあ、最後は蓮子のトレードマークよ」
メリーが差し出してきた、白いリボン付きの中折れ帽子だ。
「みんな蓮子の到着を待ってるのだから、颯爽としなきゃだめよ?」
「みんなって誰なの……?」
「あ、あとはいこれ」
と一瞬でスキマから全身を覆えるほどの巨大なマントを取り出す。
エナメル質で陽光を跳ね返しテカテカとしている。裏も表も真っ黒。
「ちゃんとつけてね」
「はいはい」
私は手を広げて言われるがまま成すがまま。
メリーはあっという間に私にマントを身に付けさせる。
「なんでマントなんて」
「ただのマントじゃないわ。防刃素材だから、もしもの時はこれで防いでね」
「防刃!? ちょっとまっ、」
私が言い終えない内にメリーが私を抱えて下方へ向けて急加速。
上空から校舎をめがけて急降下する。
ごうごうと風が耳朶を叩く。
すぐ目の前にメリーの妖力ディスプレイが現れた。
「開いた!」
ニット帽が放送室の扉を力づくで破壊した。
素早く放送室に入り込む。精密な放送用機器が並んでいるのが見える。
手早く電源を入れマイク入力のミキサー値を上げ、レコーディングマイクに手を掛ける。
すぅと息を吸う。マイクに向かって声を吹き込む寸前、何かが陽光を一瞬遮った。
ニット帽が放送室の窓を見る。
「なにぃ!?」
降下からメリーに放り投げられる私。
マントを身にまとい勢いそのまま、窓に向かって蹴りを入れる!
直後、足に衝撃。爆発にも似た破砕音。
窓ガラスが粉砕され、細かな破片となる。
放送室の床へ軟着陸。
窓ガラスの破片を踏みつけ滑り、きゅうきゅうと鳴る。減速、停止。
ニット帽はマイクを掴んでいた手を放し後じさりをする。
私は警棒を振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろす。
「ひっ」
ニット帽が身を縮こまらせ、両手で自身を守る。
だが私の目標はきさまなどではない。放送機器のメインマイクだ。
一刀両断。マイクは持ち手の中ほどからすっぱりと折れ、床に転がった。
「生徒会がやめろって言ったのが聞こえなかったのか」
歯を食いしばり威嚇をする。
ニット帽はへなへなとその場に崩れ落ち、腰を下ろす。
「最後通告だって言っただろ。我が身を滅ぼすことになると、言っただろ」
「蓮子、それ八つ当たりじゃない?」と通信でメリーの声が聞こえてくる。
そのとおり。ほぼほぼ八つ当たりである。
ニット帽はゴーグル越しに私を見上げ縮こまってがたがたと震えている。
私は多少いらいらとしているが、もちろんこのニット帽を傷つけるつもりなど毛頭無い。
だがあと一押しだ、と思った。事件が終わるまであとほんの一押し。
「女子学生たちに掛けた術を解け」
待つが、放送室の静寂の中に震える呼吸が聞こえるだけだ。
反応が無い。私はじりじりとしてきた。警棒の先端を向ける。
「解け! 今すぐにッ!」
ニット帽がびくりと肩を跳ねさせ「と、解いたわ」言う。
解いた、こいつは確かにそういった。
これで事件は解決だ。と緊張が解けそうになる。
いや、まだだ。確認を取らなければ。
私は放送室入口開け放たれた扉に向けて叫ぶ。
「八総! やつらの式を無効化した! そっちはどうだ!」
「!? 宇佐見か! 宇佐見がやったのか!」
八総と警備部員達が放送室の入口に現れる。
その表情を見て安心をした。
「ファンクラブ員の軟弱化を確認」
「合わせて戦意喪失、彼女らにもう反抗の意思はありません」
「聞いてのとおりだ宇佐見、お手柄だな」
私はふぅと息をつき肩の力を抜いた。終わった。
くだらない事件がやっと収束した。
メリーが通信で言った。
「私は上空で待機してるわ」
「はあ、了解。メリーもお疲れ様」
なんだか私ばかりが肉体労働を強いられている気がするが、まあいいだろう。
放送室の外では警備部員たちが女子学生集団を空き教室へ移動させている。
八総が放送室前廊下一帯を封鎖し誰も入れるなと命じる。
「八総とそこの二人、こっちに来て」八総の指示が一段落するまで待って、言う。
私は警棒でニット帽をさして言った。「主犯だ。彼女に聞けば全貌がわかると思う」
「そうか」と八総が頷く。「では、話を聞かせて貰おうか。顔を出せ!」
八総がニット帽とゴーグルを乱暴に取り去った。
隠れていた素顔を私は見て、驚きにあっと声を上げた。
ブロントの髪に端正な顔立ち。
整った眉と、金の瞳。
完璧な形を保った唇、美しい顎の輪郭。
メリーと同じ顔がそこで涙を流していた。
「なぜ、……ないの?」
涙ながらに呟く。良く聞こえなかったが、声までメリーにそっくりだ。
「あ? いまなんつった?」と八総が乱暴に問い質す。
「なんで、私を好きになってくれないの!?」
耳を劈くほどの大声で叫ぶ。
素早く動き立ち上がり私のマントの襟をつかみ詰め寄ってくる。
メリーの顔で涙を流し頬を紅潮させ、絶叫する。
「宇佐見先輩に好かれるために顔も変えた! 声だって、喋り方だって変えたわ! 立ち居振る舞いだって、素振りだってすべてあいつそっくりに変えたわ! なのにどうしてあいつは選ばれて私は無視されるの!? こんなの理不尽よ! ねえどうして宇佐見先輩! どうして私を見てくれないの!? 私よ! わかるでしょう!?」
「おい止めろ! 離れろ!」
警備部員が二人がかりで女子学生を私から引きはがす。
屈強な男二人の膂力を前に強化式さえ解除した女性では抗えず、後ろに倒れ尻もちをつく。
「こいつ、あたまおかしいんじゃねぇか」と警備部員。
「まあそう言うな。だが動機は大体わかったな」八総が全く動揺せずに続ける。
「続きは生徒会室で聞く。連れていくぞ」
「待って。最後に、一つだけ」
私が静止を呼びかける。
警備部員が頷き、動作を中断する。
とても嫌な予感がした。
騒動は収束したと言えるが、動機に不明瞭な部分が多々ある。
その不明瞭で薄暗く、しかし目を凝らせば見える暗がりに。
何か理解しうるものが転がっている。
昨今の整形技術は飛躍的に進歩したとは言え、まだまだ高額である。
顔の造形を変え輪郭や鼻の形まで変えるのは女子学生では工面しきれないほどの金額になるはずだ。
さらに声まで手術で変えたと言っていた。そんなこと、出来るものなのだろうか?
「名前を聞いても、いいか?」
メリーの顔をした主犯はさぞ嬉しそうに。
本当にメリーそっくりに笑顔を作り、言った。
「什寺 早矢香(じゅうじ さやか)よ」
瞬間、私は思い出し点と線がつながった。
過去に一度人食い妖怪が大学構内へ湧いたことがあった。
"小指掛け妖怪の精神と時の館事件"である。
死人は出なかったが、けが人が沢山出た。私は全員の名前を憶えている。
あれは、”奇跡的に死者が出なかった”のではなく、"狙ってそうした"のだ。
"「精神と時の館事件の時は、結界が張られて完全放置で一週間未満だった」"
”そして強力な結界。このうちの要素が重なるほど、人食い妖怪は湧きやすくなる”
"結界の完成度が高いのも、ずっと前からこの部屋で君たち二人を軟禁しようと計画していたんだろう"
"「ほんの三日ほどです!」"
「実験したんだな、妖怪が結界内に発生するか否か。それで、一週間程度で妖怪が湧いた。だからそれまでは大丈夫だと思ったんだな。現れた妖怪に交渉を持ち掛けた。死なない程度ならば自分の肉を食べてよいと。その整形手術でメリーの姿を手に入れるために」
いいや、と私は頭を振る。
「メリーを殺害する計画に、妖怪を利用した?」
「ふ、ふふふ、大当たりよ」
大当たりよ、その言い方までメリーそっくりだ。
小指欠けの妖怪は、私とメリーが居た203講義室を執拗に狙ってきた。即席とは言え強固な対妖怪防護結界を扉に掛けたのだ。破られるまでかなりの時間を稼ぐことができた。その間に逃走することが出来た。あの時はまだメリーは人間だったが、十分に術士だった。
「妖怪の死傷事件被害金は国が出すから、整形手術費はそれを利用した?」
「ふふ、その通り」
「だけど、失敗した。メリーは無傷だ」
「そうね」
「そしてお前は妖怪と契約して、妖力を手に入れた?」
「それは、違うわ」
ゆらりと不気味に什寺が立ち上がる。
私に歩み寄ろうとするが、警備部員二人に止められる。
「ふ、ふふふ、結局腕力が全てなのよね。力があれば何でも手に入る……。力が足りないのよ」
什寺が数歩後ろに下がる。反抗心が窺われない様子に系部員二人が成り行きを見守っている。
「ははは! そうよ! どうして気づかなかったのかしら! 力が無かったのよ! ははははは!」
自分の体を雑巾の様に捻り、天井を仰ぎ、大声で笑う。
双眸からは涙が流れ、口は大きく開かれ、白く美しい歯並びが良く見えた。
笑い声は自嘲を湛えており痛々しい。
自らを傷つけている様を見ているようで、唖然としてしまう。
そのため、反応が遅れてしまった。
捻った体の陰になっている方の手が、ポケットから何かを取り出したことに。
その取り出した何かを、高く上へ向けていた口腔へ素早く持って行くことに。
口腔へ滑り込ませる何かが"小指"のように見えたことに。
「ううううう!! 甘露だわああああ!!」
「こいつなにか飲み込みやがった!」八総が誰よりも素早く反応した。
「この野郎!」「吐き出せ!」警備部員二人が什寺へ足をかけ、仰向けに転ばせる。
什寺の口へ指を突っ込み飲み込んだ何かを吐き出させようと躍起になっている。
「レオンって映画でゲイリー・オールドマンが抗鬱剤を飲むシーン、名演技だから見て」
メリーが上空からの通信で全く関係ないことを言った。
違う! 重要なことはそんなことではない!
私は警備員二人の襟首を掴んで後ろに引っ張りながら言う。
「ダメだ! 全員逃げろ! 半妖になる! 什寺は妖怪の小指を飲み込んだんだ!」
警備員がぴたりと動きを止め、互いに顔を見合わせ、そして什寺を見る。
白目を剥きがたがたと全身を痙攣させている。
両手両足は激しく床を叩き、体をくねらせ苦しんでいる。
ああ、と私は頭を抱えた。あの時と同じだ。
あの時もメリーが妖怪の肉を口に含み嚥下し、私の静止はほんの数秒遅れてしまった。
全て手遅れ、時間切れ。私はまた間に合わなかった。人が人をやめてしまう。
ぴたり、と什寺の痙攣が止まる。
だらりと四肢を投げ出し全身を弛緩させている。
放送室内に静寂が満ちる。
「全員伏せろ! 爆発で吹っ飛ばされるぞ!」私は声の限りに警告した。
「そ、そうなのか? 伏せればいいのか!?」八総が半信半疑でうつ伏せに寝る。
「メリー援護! 半妖化に伴う妖力覚醒現象は小型の爆弾だ! 威力は物にもよるが伏せろ!」
「全員肉体強化式、防爆用に防護結界、防音結界、完了。大丈夫気絶はしても死にはしないわ」
「え、いや単に喉に物を詰まらせて窒息しただけだろ?」
「小指ってなに。っていうか、まずは気道確保だろ、掃除機を探すのがさk、」
爆発。
爆音。
爆風。
うつ伏せに伏せる私の背中のすぐ上を凄まじい圧力が通過する。ふわりと体が上方へ巻き上げられる。窓ガラスが吹き飛ぶ。屋内に設置されていた機器が、爆発に巻き込まれた警備部員が、私が割ったガラスの破片が、福引器の中の様にぐるぐると凄まじい速度で室内を動きまぜこぜになる。ただ固く目をつぶって耐えるしかない。ごろごろと全身をぶつけ、やがて落下。
激しい耳鳴りの中で眼を開ける。
音が良く聞こえない。
四肢の感覚があいまいだ。
両手を床につき頭を振って起き上がる。
どこか遠くで誰かが高笑いをしている。
気分が良い、最高な気分だと、興奮している様子で叫んでいる。
「蓮子、35秒よ、35秒耐えるの、それで助けが来るわ」
朦朧とする意識を塗りつぶすように、メリーの声が聞こえる。
後ろを振り返る。什寺が立っていた。
しかし外見が大きく変わっている。
肩口程度までだったブロンドの髪はふくらはぎまで伸び、形の良かった唇は上下に歪んでいる。
双眸は大きく見開かれ瞳孔は縮み、金色に爛々と光っている。両手の指は三倍以上に細く伸びている。
爪は指先からさらに1メートルほどにもなり、鋭く光を反射させている。
長く鋭利な刀剣のようだ。いや、文字通りの鋭い刃なのだ。
そして何より体長が2倍以上に伸びている。
300センチ近い体躯に小さな頭、細く長い手足。
人体の比率を逸脱した歪な外見だった。
結界省が結界暴きを禁止する理由は3つある。
1つ、結界は封印であり、封を行う理由があるため。
交通システムを秩序付けるために道路交通法があるように、結界を使って蓋をしているのはそれ以外の手段が無いからだ。物理的な封鎖や拘束では無力化できない物を封じ込める為に結界士は結界を使用する。ではそれは一体何か。一言で言ってしまうと概念脅威である。日常生活を脅かす概念脅威とは? ”世界全ての物事が生物の命を奪う脅威になりうる”と言う概念である。例えば道路わきに淡い赤色の花が咲いていたとする。一般的な考え方と印象は、心が清い人であればそれを見て癒されたり、珍しい花だなと思う程度だろう。だが赤色とは血肉の色で、コンクリートのヒビという狭い隙間でさえも浸食し植物の根を伸ばす花の生命力はすさまじいものだ。条件さえそろえばどこででも、本当にどこにでも繁茂することが出来るのだろうとあなたは推測する。種を誤って飲み込めば体内を侵されることさえあるかもしれない。ここで、”そんな馬鹿な”、”消化器官内の環境では発芽なんてしない”と考えられれば、それは正常者である。――結界はこのような異常な考えを封印する。例えば植物の妖怪なんてものが結界から現れ退治に失敗したら、あっという間に人類の文明は石器時代に逆戻りだ。
2つ、結界内は数多くの妖怪がおり、妖怪の主食は人間の心であるため。
妖怪は人間の恐怖と畏怖で食欲を満たす。人を殺害し血肉を食らうのは食欲を満たすための副事項であると言われている。妖怪誕生の歴史は、自然崇拝の歴史である。科学によってあらゆる自然現象に説明がついてもなお日本においては信仰における基本概念は一般的に浸透している。一昔前までは集中豪雨や台風で大変な被害が続いていた。このような恐怖を糧にし、妖怪は成長する。科学世紀の近頃になってようやく日本は自然災害による被害を完全に克服したと言えるが、実はこの発展は治水インフラや防災設備の充実によるものだけではない。
そして、最後の3つめ。
妖怪の血肉は人間にとって劇薬であるため。
摂取すると生物の枠組みを超えた身体能力が身につき、概念能力に目覚めることがある。
身体存在は精神の在り方に偏る。執着性趣味嗜好性が外見に大きく影響を及ぼす。
高い依存性と嗜虐志向性凶暴性が思考を上書きする。このため、多くの場合は大量殺人事件に発展する。
よって、結界を暴いてはならない。
結界から妖怪を出してはならない。
妖怪の血肉に近づいてはならない。
「両手に妖力を集中させるわ。受ける場合はそれで防いで。でなければ、即死よ」
意識が靄掛かった様に不明瞭だ。視界がぼやけ、思考がうまく回らない。
爆発の音による耳鳴りがまだ続いている。
まるで安物の耳栓をしながらすりガラス越しに映画をみているようだ。ひどく現実味が無い。
どこか遠くから宇佐見蓮子と言う箱を通し風景を眺めている錯覚に陥る。
周囲を見渡す。八総はうつ伏せに倒れたまま気を失っている。
警備部員の二人は放送機器に四肢を投げ出したまま動かない。
私が逃げ出せばこの三人の命はないだろう。
妙に呼吸しづらい。鼻血が出ていた。ふんと息を吐き呼吸路を確保する。
片目がふさがっていると思ったらどうやら頭を切っており、流れた血が左目を塞いでいるようだった。
コンディション最悪。こんな状態で半妖へ立ち向かうなど、正気の沙汰ではない。
「ははは、せんぱああぁい! 私いまとてもいい気分なのおおぉぉ!!」
半妖化した什寺が両手を広げ絶叫する。
どうしてこうなってしまったのだろう、何がいけなかったのだろうと、諦観にも似た思考が脳裏を過る。
なぜ結界暴きでも倶楽部活動でもない大学生活で、半妖と殴り合わなければいけないんだ。
なぜ一介の大学生が、人間の純粋な脅威たる生物へ素手で対峙しなければならない。
なぜ、なぜ、と自問しながら。
もう一人の自分が叱咤する。
私が、やるのだ。
そう、私が、やらなければ。
小指掛け妖怪の雪辱を晴らす最高の機会ではないか。
この半妖さえ押さえこめばすべてが終わる。
もはや、対抗できる者は他の誰もここにはいない。
私がここに立つ理由はそれだけで十分なはずだ。
可能な限り大きく息を吸い、長く吐き出す。
そしてもう一度吸い込み、止める。
30秒ならば無呼吸で動き切れる。瞬きだって要らない。
集中、全ては集中だ。
今までだって、これからだってそうだろう。
だが今集中しなければ、未来は無い。
括目する。
あと30秒。
什寺が右手を振り回す。長い爪が迫り来る。
ひざを折り頭を下げ大きく前にダッキングして躱す。
持っていた特殊警棒が5つの輪切りになった。投げて捨てる。
什寺が右手を折り返し、左手と合わせて振り回す。
半歩後ろに下がりさらに上半身を仰け反るスウェーでぎりぎり躱す。
鼻先で血に固まっていた前髪がすぱりと切れたのを見た。
「そういえば宇佐見先輩はあああ、ボクシングが好きだったわねええええ!」
什寺が私の足を見る。長い爪を走らせる。
スタンスで構えていた右足を下げ避ける。
裾がすぱりと切れ、ひらひらと舞った。
ボクシングで下半身への攻撃は反則なんだがなぁ。
脳裏でもう一人の宇佐見蓮子が苦笑する。
什寺が振り回した両手をそのまま返し、広げるようにして攻撃する。
上半身を大きくウィービングさせる。同時に、拳に力を入れる。
上体を戻す勢いに乗せ左拳を什寺のわき腹に叩きつけた。
拳が悲鳴を上げる。激痛。
壁でも殴ったような手ごたえ。
全く効いていない。
「は、ははは! きもちいいわああああ!」
窓から青空が見えた。
どこかに星があったのだろう、時間が分かる。
メリーのアナウンスから8秒しか経っていない。
あと22秒。
什寺が広げた両腕を閉じて抱きしめるように、こちらへ飛びかかってきた。
後ろに下げていた左足に力を入れ上体を低くし、わきの下へ躱して通過する。
被っていたお気に入りの中折れ帽子が宙に取り残され、爪に当たって細切れになった。
ああ、一昨日買い替えたばかりだったのに。
と脳裏で愚痴る私へ、案外冷静だなとつっこみを入れる私。
アドレナリンが脳内で充足する。良い兆候だ。
こちらに背を向けていた什寺が振り向きざまに爪を振り回す。
かがんでやり過ごす。すぐ頭の後ろを鋭い爪が通過する。
しゃり、と音がした。後ろ髪が切られたのだろう。
かがんだ姿勢から拳に力を籠め、起き上がる全身を使って什寺の顎を殴りつける。
がごんと音がする。しっかりとした手ごたえ。
だが間髪入れずに向かって左から振りかぶった爪が迫る。
身を低くし、右ストレートを顎に打ち込む。
爪は左前方から右後方へ抜け、私の拳だけが命中した。
そのまま左前方へ抜ける。
窓が見えた。13秒経過。
あと17秒。
永久に等しい。
什寺が左手を返し上半身を切り裂こうとしてくる。
私は左手を後ろに回し、マントの裾を掴み、大きく振りまわす。
漆黒の布地に視界を塞がれた什寺は、なおも腕を振るう。
右から左へ、防刃マントがいともたやすく短冊状に切り裂かれ、布きれと化す。
いや、と思う。役には立った。視界を塞ぐ囮と言う役目だ。
大きく背筋を曲げた什寺の下に潜り込む。
そのまま立ち上がる要領で顎、いや、首を殴りつける。
拳に激痛。壁を殴りつけたかのような感触。やはり全く聞いていない。
ただの人間の筋力では半妖に有効な打撃を与えることはできない。
什寺が振り下ろした右手を返して逆手にし、こちらに振り回す。
身をかがめ脇の下を通過しようとした。が、残った什寺の左腕が追ってきていた。
冷たく銀色に光る爪を防ぐことはできない。後ろに下がることも、前に出ることもできない。
やむをえない。
私は迫る什寺の左腕を出来うる限りの力で殴る。
ぼきっ、ぼきぼきっ、音が聞こえ、ついで想像を絶する衝撃。
体が浮く。吹き飛ばされる。
浮遊感があった後、壁に激突する。
「――!!」凄まじい衝撃に肺の空気が口から抜け出る。
「左腕の橈骨頭、尺骨、手根骨が折れた。痛覚は切ったわ。でも、もう左腕は使わないで」
またギブス生活。憂鬱になる。
吹き飛ばされ距離が開いたために、什寺がこちらに接近するまで2秒。
壁に激突した際に吐き出した分の空気を吸い込み、止める。
軽い脳震盪は右手で頬を叩き無理やり覚醒させる。
「ははははは! 楽しいわねせんぱああああい!」
長くすらりと伸びた歪な足を持ち上げ、前蹴りの要領で突き出してくる。
身を翻し右手方向へ避ける。什寺の足がコンクリートの壁を叩き、穴をあけた。
窓から空が見えた。20秒。
残り、10秒。
拍子木の音を幻聴する。
壁に片足を付けたまま左手の長い爪をこちらに振り回してくる。
上体を低くして下をくぐる。さらに、右手の爪も振ってくる。
後方に大きく飛びずさり躱す。が、私ははたと気づいた。
「! それは――、」
什寺は、片足を壁に打ち付けたままだった。
そして上半身を捻り、両腕を振り回した。
すなわち、蹴りの予備動作そのままの姿勢である。
どちらかに避けようと考えるが、自分は今後ろに飛んだ為に空中にいる。
地に足がつくまでどこにも逃げることはできない。
たった一瞬、たった一度の判断ミスだった。私は脳裏で自嘲した。
無力。
最後に一目でいいから。
メリーの顔を見たかったな。
大振りに振り回された什寺の右足が巨大な切断機のような威力を滾らせる。
空間ごと薙ぎ払う様に、凄まじい勢いで私の腹部に迫る。
「東雲さんと言ったかの、一つお願いがあるのじゃが」調理室にて黒い靄を前に天琉が言う。
「やっこさんが出てきたら2、3聞きたい事があるでの、すぐに攻撃するのはやめてくれるかの」
東雲は人差し指と中指の付け根に煙草を挟み、口元を覆うようにして吸う。
ふうぅとゆったり時間を掛けて吐き出してから短く言った。
「いいよ」
時代遅れのパンツスーツ、上着裏ポケットから携帯用灰皿を取り出す。
ほとんどフィルタ部分だけになった煙草をしまう。
忙しなく逆ポケットから新しい煙草を取り出し大急ぎと言った様子で火をつける。ふうぅ、紫煙を吐く。
「向こうもちょっとは話がしたいだろうし」
「結界省は、妖怪を見つけ次第即退治という訳じゃないんじゃな?」
「会話が出来そうならする。争い無く解決できれば一番いい。ただ攻撃して来たら反撃する。それだけさ」
「分かりやすくて良いのう。ちょっと好きになった」
「生活安全課じゃなくて、危険妖怪管理課とか特殊攻撃課とかはそうじゃないだけさ。さあきなすったよ」
細く伸びた黒い靄が太く大きくなり、その場に停滞した。
沈殿し、固着し、黒い塊になる。やがて手足を形作り、座り込む幼い少女の形に変貌した。
色が付き始める。薄茶色の長袖ワンピースドレス。赤オレンジ色が混ざった毛並み。
頭頂部にはイヌのような耳が生えている。
ふさふさとしたしっぽが背部に見えた。
「おお!」と天琉。
「けもロリじゃな!?」間抜けなセリフである。
小田原は沈黙を守り、東雲は緊張を維持して睨みつけている。
妖怪少女はぱちりと目を開き、ゆったりとした動作で辺りを見渡す。
右を見て、左を見て、瞬きをして、東雲を見ると言った。
「ここに来れば人間が食べ放題って聞いたの」
幼い声だった。人間の女の子と何ら変わりはない。
耳と尻尾の人外の見た目を除けば、可愛らしい少女だった。
「そんな間違いを誰から聞いたんだ」
「おかあさんから。違うの?」
「違う。大体お前のかあさんは人を食ったことがあるのか」
「無いって言ってた。だけど、すごくおいしいって」
「美味しいって意味分かって言ってるのか」
「分からない。だから、知りたくてここに来たの」
「さっき人間が食べ放題だからここに来たって言ってなかったか」
「あれ? そんなこと言ったかしら」
人差し指を頬に当て首を傾げる。
東雲は煙を吐き出し、がっくりとして言った。
「言葉は覚えているが人の真似をしているだけだな。知能が無い」
東雲が不用心に近づき、持っている煙草を差し出した。
「吸ってみろ。これがおいしいってやつだ」
「おいおい!? それはいいのか!?」小田原が叫んだ。
はっと自分の口を押えるところ。思わずつっこんでしまったといった様子。
東雲は口の端を持ち上げて短く笑う。
「かまわんさ。こいつは少なくとも30年は生きてる。ほれ吸ってみろ。こうやるんだ」
東雲が煙草を咥え大きく肺に煙を吸い込む。
ふうぅ、と天井に向けて吐き、「ああー、おいしいなぁ」と言った。
妖怪の少女が煙草を受け取り、慣れない手つきで両手で支え、恐る恐る煙草を吸う。
予想通り激しくむせる。東雲はそこへしゃがみ込み、妖怪少女の背中をさする。
「どうだ?」
「なにこれ! 臭いしなんか咳が出るしぜんぜんちがう! いらない! 返す!」
「おいしいって難しいだろ。お母さんは大人だっただろ?」
「わたしはまだ大人じゃなかった?」
「そうだ。お母さんくらい大きくなったらまた吸ってみろ。ほれ、これをやるよ」
新しい煙草を差し出す東雲。妖怪少女が受けとる。
鼻に近づけ匂いを嗅ぎ、「うえぇー」と悲鳴を上げる。
「これが分かるようになったら人間を食べてもいいってこと?」
「いや、その場合は誰かに”煙草が欲しい”って言うんだな。そうすれば山ほどくれるよ。持ってないって言ったら謝って別の人を探せ」
「なーるほど。なーんだおいしいもの食べられるって期待したんだけどなぁ」
妖怪少女がその場にぽんと立ち上がり、不満げに言う。
「全然楽しくない! 帰る!」
天琉も小田原も、心の中で密かに拍手をした。
結界省安全管理課。素晴らしい手腕である。
「そうか」と東雲は新しい煙草に火をつける。
「今すぐ帰るか? ちょっとお喋りしていかないか。おいしいは分からないかもしれないが」
「ちょっとならいいかも。夜までに帰ればおかあさんに叱られないと思うから」
「すまないが私は忙しくてな。3分ほどだ」
「じゃあ、それでいいよ」
東雲が妖怪少女の隣に座り、背中を撫でながら天琉を見た。
ふむと天琉が口を開く。
「かわいいお嬢さんこんにちは。質問しても良いかね」
「ご丁寧にこんにちは。ぜんぜんいいよ」
「紅一族という妖怪を知っているかい?」
「しらない」と妖怪少女はふるふるとかぶりを振る。
「そうか」
天琉は目を瞑り唇を噛む。
またもや空振り。落胆は隠しきれない。
「残念そう。あなたはその妖怪をどうして探してるの?」
「ちょっと会話をしたくての。武の神髄に触れたいのじゃ」
「ブノシンズイ?」
「そうじゃ」
「それっておいしい?」
「とってもおいしい。みんな探してる。お嬢さんも探すと良い」
「そのホンイチゾクさんが持ってるのね?」
「そうじゃよ。どこかの結界の中のどこかの場所に居るらしい」
「じゃあわたし急いで帰らなきゃ!」
急に笑顔になり耳と尻尾を振りその場で忙しなく足踏みをする。
この妖怪少女の扱いが分かってきたと天琉が笑みを作る。これならば危険は少ないだろう。
「あ、もう一つ答えてもろうてもよろしいか」
「えぇ? いいよ。おいしい話なら」
「妖鍛刀を探してる友人がおってな。持ってる者を知っとるか」
「知らない。そのヨウタントウはおいしいの?」
「妖怪が鍛えた刀じゃ。これもとってもおいしい」
「結界の中にあるのね!?」
「そうじゃよ」
「うわああスゴイ! 結界の中にそんなにおいしい物が沢山あったなんて! 私帰る! ねえ帰して!」
よしと東雲が立ち上がる。
煙草を一口吸い、懐から白亜を取り出し部屋の中央へ移動すると、床に陣を書き始める。
あっという間に完成させ陣の縁へ移動すると、煙草を口に咥えたまま拍手を二回。
陣の中央に淡い光が満ちる。中央の空間に透明の窓があり向こうから木漏れ日が差し込んでいるようだ。
「さあどうぞ。閉じない内に」
妖怪少女は元気よく陣の中央へ飛び込む。
一度も振り返らず、軽やかに窓の向こうへ走り去ってゆく。
頭頂部の耳と尻尾が左右に揺れる。光の中へ消えてゆく。
「おかーさーん! 外の世界全然つまらなかったわ! こっちの方がおいしいものが沢山あるって!」
と少女の声を最後に東雲がぽんと手を打つ。
瞬時に窓は消え、あとは床に書かれた陣だけがそこに残った。
小田原がふぅと心底安心したように息をつく。
「被害が出なくて良かった」
「いや、まだだ」
東雲が鋭く言う。素早く懐から紙包みを取り出す。手のひらほどの大きさ。
朱色の印の上から”妖怪退散 身代御守”と毛筆で書かれている。
「行け、急げ、守れ」と投げ捨てると紙包みは独りでに飛び回り、調理室から外へ出てゆく。
そのとき、である。
どこか遠くから、どんと爆発音が聞こえきた。
数瞬間をおいて校舎ががたがたと僅かに揺れる。
いかに巨大な爆発であったかを物語っている。
距離はそこまで離れていない。
「な、なんだ。花火なんて許可していないが」小田原が怪訝な様子で言う。
東雲が辺りを見渡し広めのスペースにまた別の陣を書き始める。
線がぶれているが形は留めている。先ほどとは違い焦燥している。
「そこの半妖」と東雲が煙草を持つ方の手で指さした。
「40秒で助けに行くと伝えろ。大事な友人なのは分かるが、おまえからは手は出すな。直情型の半妖が逆上した結果半径1kmがキレイに吹き飛んだ記録もある。今回のやつがそれだ。とんでもない被害になるぞ」
「?」「?」
調理室の一角におすわりしていた三毛猫がにゃあと返事をした。
什寺のミドルキックに私の胴体は切り裂かれ下半身とはさよなら、鮮血をぶちまけながら痛みの只中で意識を失い絶命する、かと思われた。歯をかみしめ襲い来る激痛に覚悟する、が予期した衝撃はいつまでもやってこない。後方への跳躍が終わり両足が床につく。状況を確認する。
什寺はこちらに足を延ばし、確実に蹴りの間合いの中にいる。しかし私の下半身はしっかりとつながっているし、痛みも何もない。什寺は歪んだ双眸に狼狽の色を浮かばせている。「はあぁ?」と声を出し、瞬時に足を戻し、今度は腕を振り上げて――。私は躱す姿勢をとるが、什寺は掲げた腕をいつまでも振り下ろしてこない。なぜか?
振り上げられた什寺の腕、肘の個所に紙袋があった。朱色の印、四角形が二つ重なったマークは結界省のロゴだ。その上から”妖怪退散 身代御守”と黒の毛筆で書かれている。それで私は理解した。どうやら生き残ったらしい。
「なんでええぇぇ!」
什寺が腕を振り回す。その予備動作の悉くが紙袋に阻まれ、私に攻撃は届かない。
振り上げた腕、振りかぶる足、そのすべてを紙袋が先回りし私の身を守ってくれる。
だが、と私は思う。腕は二本ある。紙袋は一つだけだ。
「これならどうううう!」
什寺が両方の腕十本の指を広げ一斉に私へ向けてふるってくる。
ですよねぇと身構える。目を見開き血路を探す。どう避ければ良いか短く思案する。
ひきつけて後方へ飛ぶ以外に道はない。
しかしそれでは先ほどと同様次に畳みかけてくるであろう肉薄から逃れることはできない。
うーん、と脳内の私が腕を組む。詰んでるな。
私は信じることにした。自分自身に課された可能性を!
折れていない方の腕を突き出し大声で叫ぶ。
「頼む! 紙袋君ッ!」
かぁん! 高質な音が鳴り、周囲が青色の光に満たされる。
什寺が後ろに仰け反る。二歩、三歩と後方へたたらを踏み壁にどすんと体を衝突させる。
よほどこたえたのだろう、両手をだらしなく下におろし全身を小刻みに震わせている。
「ぐ、ぎぎ、ぎ」噛み締めた口の端から涎を垂らす什寺。
しかし双眸には殺意と嗜虐性が満ちている。
無力化には程遠い。
「ははは! 妖怪退治祈願の紙袋君がいれば我に敵なし! やっておしまいなさい!」
「はあ、勝利を確信すると途端に調子よくなるのは蓮子らしいけれど、その紙袋君とやらをよく見て」
メリーが通信で話しかけてくる。
言われた通り近くで浮遊しているはずの紙袋を探す。
だがどこを探せども見つからない。あれれ、おかしいなぁと頭を掻く。
「足元よ、足元」足元? ふむと足元に視線を落とす。
くしゃくしゃに皴が入り焦げついている紙袋が床に転がっていた。
俊敏に宙を飛び半妖の攻撃を防ぐ以前の面影は失われ、ひどく哀れだ。
私は跪きもはや見る影もない紙袋を抱きしめ慟哭した。
「うわあああ紙袋くーん!」
「紙袋君は犠牲になったのよ」
「君の! 君のことは忘れない!」
「うううぐぐぐ、せ、せんぱあぁい」
痺れが治まってきたのだろう、什寺が爪をカチカチと鳴らし、こちらに接近してくる。
私はため息をつき、床に膝をついたままメリーに聞いた。
「ねえあのさ、そろそろいいよね」
「まあ経ったわね。40秒」
「ああ、御守の霊撃は一発までなんだ」
何者かが私の肩を叩く。煙草の匂いが鼻を衝く。
「こんにちは、結界省生活安全課三級結界士の東雲 逢埜でぇす」
私を庇うようにして立つ。
腕を振るように広げると、懐から10枚ほどのお札が現れあたりへ展開した。
気絶して倒れる八総、警備部員二人、出入り口へ3枚、割れた窓を封鎖するように4枚、そして私。
空中でぴたりと静止し朱色の文字で書かれている。”人間以外通行止め妖怪退治祈願”斬新なお札である。
「言葉はまだわかるか? 什寺 早矢香、現行犯で逮捕する。両手を上にあげろ。腹ばいになれ」
私は小声で言った。「見えてる?」
「大丈夫、しっかり録画してる」
「よし」
結界省結界士の戦い方、逮捕術、手の内を録画できるかもしれない。
「うぐぎぎ、ワタシの、うさみせんぱ、い」
什寺は東雲の登場にたじろいだ様子だったがすぐに体勢を立て直した。
どうやら結界省が登場した事実よりも、私が東雲に庇われている事実の方が気に入らないようだ。
眼球を血走らせあたりに聞こえるほど激しく歯ぎしりをし怒りを全身に滾らせる。
大きく足を持ち上げ、床へ叩きつけるように踏み出す。ずずん、建物全体が揺れた。
逆上。激昂。先に肉弾戦で対峙した際よりも明らかに凶暴性が増している。
「やめろ、その程度じゃ私には敵わないぞ? ふふっ」
東雲が言う。全く緊張のかけらもない声色。
体重のバランスは片足にかけ、下に俯き煙草を吸う。
よほど戦意を感じられる姿勢ではない。余裕の表れだろうか。
「ワタシの、どうして、うさみせんぱい」
什寺が俯き手足を弛緩させる。これは、予備動作だ。
高く飛ぶ前には体を屈ませるのと同じように、強く拳を突き出す前には一度腕を引き付けるのと同じように、周囲の空気が張り詰め緊張する。メリーのような特別な目がなくとも観察することができる。指数関数的に場の妖力が上昇するさまが霧状になって現れ見て取れる。ぱきぱきと凍り付くような音を立てて宙で結晶化する。次々と数え切れないほどの結晶体が什寺の周囲に発生し、浮遊している。
窓から差し込む光を反射させ輝き、場違いながら美しいと感じてしまう。
まるでプラネタリーリングのようだ。
「うううううぅぅぅ」
呻くのと共鳴するように、結晶体で構築された円盤が什寺を中心に回転を始める。
加速を続けすさまじい速度になる。目にも留まらぬ速度で動きを見切るのは不可能だ。
「ぅぅぅううううあああっ!!」
什寺が絶叫する。直後、環を構成していた結晶体の一つ一つが外側に向けてバラバラな方向へ向けて発射される。もし東雲が居なかったら高速で飛来する結晶体に肉体は引き裂かれ穴だらけのボロ雑巾のようになるところだっただろう。東雲本人は殺意と害意を滾らせた結晶体などどこへやら、ふうぅ、と天井に向けて紫煙を吐き出す。
直後、かぁん! と高質な破裂音。今度は見逃さなかった。私や八総や警備部員を守るお札が発光し、青色の波が生まれる。その波はほんの一瞬で部屋の隅々まで広がり、襲い来る飛翔体を全て一つ残らず蒸発させかき消した。これが先ほど東雲が言った霊撃という物なのだろう。
「があぁ!」
間髪入れずに什寺が地を蹴り跳躍、一気に距離を詰め肉薄せしめんとする。逆上した半妖は怯まない。鍛錬した刀剣めいた鋭さを持つ爪を振りかぶり間合いへ入ろうと突進する。狂気の権化と化し目に付く者を傷つけることに全くの躊躇を見せていない。再三の警告にも従わず暴力を続けなおもやめようとしない。
「こんなことになって残念だ」
東雲深く顔を歪ませた。一瞬、自分自身が切り捨てられても良いという発想を得たかのように全身を弛緩させ、だが拳を握った。それが合図であり、引き金だった。東雲の眼前に陣が現れ、空間にぽっかりと穴が開く。穴は向こう側とこちら側を瞬時につなげ、同一の座標とする。まさしく、瞬間移動の連結穴である。そして向こう側から現れたのは。
「ほほう、これが亜空穴か、便利じゃのう」
天琉だった。
迫りくる爪がぐるりと方向を変えなぜか天井に向けられる。足が浮き、什寺の巨体が宙に浮く。高く放り投げられ放物線を描き落下を始める。ぐるんぐるんと抵抗さえできず自転を続ける落下地点には静かに構えをとる天琉がいる。両手を軽く握り拳を什寺に向けている。
「なんじゃおぬし、もとは人か」はたと気づく様子の天琉。
「ならば意識を刈り取るまでで、許してやろうかの」
拳を解き、手のひらを向ける。わずかに息を吸い、だがゆったりとした動作で掌を前に出す。
什寺が落下しながら爪を振り回し、突き出された手のひらを裂こうとする。それを見て首を振る天琉。
「いや、それじゃあダメじゃ」
落下放物線の着地地点にあった天琉の掌と刀剣のごとき頑強さ鋭さを持つ什寺の爪が衝突。一見柔和な幼い未発達の手が爪を粉砕し容易く貫通、その先にある胸部を捉える。巨大な威力で突き飛ばされたかのように半妖の巨体が吹き飛ばされ、天井に激突。重力に負けて床へ落下。そのあとは全身を弛緩させ床に転がる什寺の姿があった。白目をむき力なく口を開き、ぐったりとしている。
「気を籠めなければ、合気で砕けるからの」
構えを解き両手を腰に回し足を揃え、お辞儀をする。
「自信があるとは言っていたが、これほどとは恐れ入った」
東雲が什寺の巨体へ駆け寄り懐から取り出した妖魔封印の札を貼る。
たったあれだけで拘束は完了らしい。「さて、と」と東雲があたりを見渡す。
床材は捲られ、壁紙は剥がれあちこちにヒビが入り、天井材は爆発に巻き込まれ吹き飛び、窓ガラスなどは窓枠を残し跡形もなく割れてどこかへ行ってしまっている。無事で済んだとはいえ、学生会庶務の八総と警備部員二人は床に伸びいまだに気絶したまま。半妖化の妖力覚醒に伴う爆発の威力はすさまじく、放送機器は倒れ壊れ配線がむき出しになっているものもある。室内はひどい有様である。
「ヘルスチェック展開」と東雲が手を叩く。煙草を吸ってから言う。
「気絶してるそこの三人は問題ない。一番怪我してるのは君だ」
東雲が床に座る私に寄り添ってくる。
「怪我してるだろう。わかる範囲で痛む箇所を言ってみなさい」
本物の結界省結界士である。結界暴きと、結界内立入禁止区域不法進入と、結界内の妖怪との不法交流と、結界内からの物品不法取得と、秘封倶楽部活動で行った罪を数え始めればきりがない。そんな必要などどこにもないとわかりながらも警戒してしまう。
「あー、いえどこも痛くないので大丈夫で、」
「蓮子、戦闘の為の痛覚遮断とかその他もろもろを解除するわね、はい解除」
「いたたたた!? ちょっとまって全身がくっそ痛いあだだだだ!」
「!? どうした急に!?」
「治してもらいましょうよついでに。対妖怪のスペシャリストよ。何かあるでしょう」
「あだだだだ!? あだだだだだだ! あだだだだ!?」
「なぜ575なのかね」
痛みで視界が赤く染まる。
人間は本当に痛いときは悲鳴を上げることしかできなくなるものだ。
「私が言ったことを繰り返して。左腕の橈骨頭、尺骨、手根骨が骨折、左後ろ肩部に打撲」
「さ、左腕のと、とう、あだだだ、あっだぁ!」
「ああ、なるほどよくわかった」
東雲が納得したように頷く。
「友人にまた痛覚を遮断させて貰いなさい。いま式を渡すからそれを使うといい。ちょっと強めのお酒を飲んだみたいにくらくらするが、骨折くらいならすぐ直る」
「了解って言って蓮子」
「りょ、りょうかい、だってさ。は、早く痛覚を切って……」
いっその事気絶した方がましくらいの激痛が徐々に和らいでくる。仰向けに寝転がり意識して呼吸を整える。
東雲は拍手をしたあと、こちらに歩み寄ってきた猫を撫でる。あれで情報がやり取りできるらしい、便利だな。
「蓮子、私たちは結界省につかまりたくはないって、東雲に言ってくれるかしら」
「え? うーん、そんなこと言ったって結果は変わらないと思うけれど」
「結界省は、むやみやたらに結界暴き違反者を逮捕したりはしないよ」
東雲が八総の方へ歩きながら先回りするように言った。静かなで穏やかな語調だった。
ぎょっとした。まさかメリーの声が聞こえているわけでもないだろうに。
「調理室での仕事を見ていてくれてただろう。あれが、結界省の仕事だ。誰も傷つかなければそれ以上のことはないんだ。人間も妖怪も、みんな静かに楽しく暮らせればそれでいいはずなんだ。わたしも、煙草を吸って生活できればそれでいいはずだって、本気で信じてる」
あなたはもう少し煙草を控えた方がいいのでは、という言葉は飲み込んだ。
「大切な友人を守るために半妖になったならそれでいい。重大な事件や問題にならないように配慮してくれるならば、結界暴きもそこまで目くじらを立てて注意するつもりもない。自立して、生計を立てて、勉強をして、他の誰かの生活を脅かさないように、ちゃんと生きてくれればいい。そうできない者が出てくるから、そうできない者の為に、結界省がいる。それだけのことだ」
東雲が拍手を2度すると、あたりに浮いていた札が動き出し東雲の懐に戻ってゆく。
くしゃくしゃになった紙袋君も私の懐から回収されてしまった。
次に、起きたまえとかしわ手をして、八総と警備部員を気絶から覚醒させる。
こんにちは結界省の者です。もう安全です。どこか痛むかね?
け、結界省!?
あ、どこも傷みません。
本当に?
オレは眩暈が少しします。
ぱん、どうだね?
治りました。
よろしい。生活に戻りなさい。調書は後でとるから。
立ち上がった八総と警備部員二人はボロボロになった室内を見て驚き、仰向けに倒れる私を見て驚き、少し離れたところに倒れている半妖をみて驚き、そして東雲に急かされて放送室から出てゆく。廊下から調理室から駆け付けた小田原が八総と話をしている。
「すみません気絶していて説明することがありません」
「気絶していた? どれくらい?」
「たぶん、1、2分くらいです」
「結界省の方は中に?」
「放送室の中にいます」
「分かった。ファンクラブ員たちの記録書と報告書作成に移りなさい」
「わかりました」
小田原副会長が放送室に入ってくる。
「うわっ!? すごいなこれは。東雲さんお疲れ様です」
「先ほどぶり。漏電してたりするかもしれないから、気を付けて。そこで天琉君の隣にいるのが、主犯」
「うわっ!? 半妖か。うちの学生なんですかね?」
「什寺 早矢香、君達が称するところの精神と時の館事件の、小指掛け妖怪を召還した犯人でもある」
「なるほど、ところで宇佐見、なぜ君は寝ているのかね」
「見てわからんのか。沢山の骨折、打撲、打ち身に擦り傷に切り傷のけが人だよ」
「この部屋のありさまは宇佐見の仕業だな?」
「違う! そこで寝てる什寺がやったんだよ!」
「毎度毎度爆発が好きだな宇佐見は」
「人聞きの悪いことを言うな!」
メリーが話しかけてくる。
「式の解析を急ぎでやったけれど、怪しい箇所はないと思う」
「まあもうこうなってしまったら結界省に目を付けられたのは織り込み付きで、早く使って」
「酩酊状態になるというのと、肉体疲労が1徹分くらいは溜まるかも」
「はいはいわかったわかった。もう帰って寝るだけだからいいよ疲労くらい、よろしく」
「宇佐見はいったい誰と喋っているんだ」
「小田原に話しかけてはいない。分らんか?」
「んー? ちょっとわからんな」
ふうぅ、と煙を吐き出してから東雲が言う。
「報告を上げるうえで、宇佐見君のことは必ず書かなければならなそうだな」
「ああくそっ、小田原のせいだからな名前がばれてしまった!」
「そんなもの結界省の方にかかれば直ぐに明らかになることだろ」
「ちなみに報告書にはどんなふうに書くんですかねぇ?」
「半妖と40秒近くに渡って肉弾戦を行い、生還。要観察とするって感じかな」
「ああもう! そんなんばっちり普通の大学生じゃないじゃん!」
「あ、宇佐見が誰と喋ってるか分かった。メ、」
「やめろって! ほんとやめろって! そっちはマジで許さないからなマジで!」
「ははははは」
「ははは、じゃないがマジで!」
よし、とメリーが言う。
「準備ができたから、治療の式を当てるわよ」
「おっけー、ああ骨折してもギブス生活をしなくていいなんて夢みたいだなぁ」
「酔っぱらうけれどこれはアルコールのせいではないし、アセトアルデヒドにもならないから、その点は心配しないで」
「心配しないでってそれどういうこと?」
「二日酔いとか、休肝日とかかしらね」
「はははは」
「うふふふ」
「楽しそうだな宇佐見は」
「楽しそうだな宇佐見君は」
「あ、酔っぱらってきた」
「なんでだ!?」
「小田原は関係ない」
「10分もしたらくっつくから、腕を曲げたくなければ動かないでね」
「うへへ、りょうかい、あーよっぱらってきた」
東雲が新しい煙草に火をつけて顔を上げた。
何か虚空を見ていると思ったら、瞬間的にそこへ人が現れた。
こちらも時代遅れの紺のパンツスーツを身に着けている。
赤ぶちの眼鏡に黒めのボブカットで体型はほっそりとしている。
歳は20代前半のように見える。銀色のペンを片手に持ち、あたりを素早く見渡す。
「どうも、瑚踏(ごとう)さん」
「東雲さん、お疲れ様です」
「そこで封印してるのが、主犯の什寺君。隣に座ってるのが素手でやっつけた天琉君」
「お疲れ様です」
「お世話になっていますのじゃ」
「什寺君は結界省が引き継ぎます」
「だいぶ凶暴じゃぞ。目覚めた後の制圧、拘束は大丈夫かの? 良ければわしも共に行くが」
「大丈夫です。向こうは警備も万全ですので」
「そうか、なら安心じゃの」
瑚踏はしゃがんで什寺の肩に触れ、東雲を見て。
「それでは、失礼します」とあいさつを終えるとふっと姿を消す。
什寺の姿も無くなっていた。あと、天琉が纏めていた什寺の砕けた爪も、持って行かれてしまった。
動けるようになったらこっそり貰おうと思ったのだが、抜け目がない。
「よしそれじゃあ私もこれで引き揚げようと思うが、もう少しいた方がいいかい? 質問とかある?」
煙草を大きく吸い吐き出した後、伸びをする東雲。
「什寺は他の女子学生たちにへ何か洗脳めいた術を使ったように見えます。それに関してのフォローは」
「術の練度、効力性見て心配ないと思う」
「もしもの時の連絡先は、結界省でよろしいですか」
「結界省生活安全課に連絡して、私の名前を出してほしい」
「分かりました。宇佐見、何か聞きたいことはあるか?」
「私って、逮捕?」
私は懇願するように言った。
「さっき言った通り、しない」
「友人は」
「しないよ」
「追加で取り調べがあったら、拒否しても良い?」
「宇佐見君は、そんなに結界省が怖いかね」
「どっち」
「任意だから構わないよ」
「什寺はどうなるの?」
「治療するよ。人間社会に戻ってもらわないと。しっかり隔離して様子見かな」
「サナトリウム?」
「詳しいな。でももっとしっかりした施設がある」
「結界省につかまった人で普通に生活してる人っている?」
「たくさんいるよ」
「結界省による逮捕歴のある人の名前と住所教えて」
「だめです」
「なんで教えられないんですかねぇ?」
「オカルトの見すぎだよ」
「なんか疚しいことやってるんじゃないですかねぇ? 脳味噌いじくったり」
「個人情報だからだって」
「なんだろう、嘘つくのやめてもらってもいいですか」
「おい宇佐見、酔ってるのか?」
「それってあなたの感想ですよね?」
「感想以外に何があるっていうんだよ!」
「君は、面白い人だな」
仰向けに寝ているからふらふらとはしないが、私はすでに深い酩酊の中にいた。
世界がぐるぐると回っている。思考がうまく働かない。ただただ、気分が良い。
ああとても良い気分だ。高揚して何もかもが楽しい。ここは良い世界だぁ。
小躍りしたい気分だ。腕が曲がってくっついちゃうからやらないけどね。ははは。
東雲は傍らにいる猫を見てぴゅいと口笛を吹き、指先で呼び寄せる。
柏手一つ、その場に屈み猫を両手で撫でる。
「私の連絡先を渡しておいたから、結界に関して相談したいことがあったら連絡するといい」
「それって具体的に何のことですかね? エビデンスはあるんですかね?」
「宇佐見お前失礼にもほどがあるだろ!? ありがとうって言えよ懇意にしてくれたんだから!」
「まあ私は構わないけどね」
「なんだろう、エビデンスもないのに決定してるみたいに言うのやめてもらえますかね?」
「ふふふ、聞いてたけど面白いわ」
「あ、そうだ、メリーは何か聞きたいことある?」
「宇佐見!? メリーって言ってるんだけど!」
「特にないわ。連絡先貰ったし」
「オッケー、メリーも聞きたいこと特にないってさぁ、あはは」
「ふふ、そうか。では最後に、」と東雲は煙草を一口吸ってから。
「人が半妖化した事件で死者が一人も出なかったのはおそらく3年ぶりだ」
煙草をしっかりと携帯用灰皿へしまい、敬礼する。
「協力いただき感謝します。では、失礼します」
東雲はそう言い、瑚踏と同様にふっと姿を消した。
後には煙草の香りだけが残った。
メリーが周囲一帯に探査を行う。結界省の関係者は見つからなかったらしい。
上空から降りてきて私に容体を尋ねる。酩酊状態で気分が良いです、と答えた。
そのあとは本格的に酔いが回ってよく覚えていない。
後日聞いたところによると、小田原はメリーにこっぴどく叱られたらしい。
什寺がああなったのは学生を管理しきれていない生徒会の責任です。
体を張って事件解決に一役買った蓮子をこれ以上悪く言うのはこの私が許しません。
そもそもあなたはこの事件の全貌をどれほどまでに把握してるの? 言ってみなさい。
全く理解していないようね。未熟者。そんな状態でよくもまあ不遜な態度を取れたものね。
もういいわ。あとで正式に秘封倶楽部から抗議書を送らせていただきます。真摯な対応を期待します。
生徒副会長小田原さん、あなたは蓮子というアクターの重要性を全く理解できていない。
ひとまずこの場では謝っていただけるかしら。それで今日は引き上げて差し上げますわ。
「申し訳ございませんでしたあぁ!」
「よろしい」
「うへへ、あー世界が回るゥ」
メリーにお姫様抱っこされて自宅へと帰還する。
次にはベッドの上で眠りから覚醒した自分がいた。
深夜2時である。東雲が去ってから11時間近くが経過していた。
全身に付着した埃や汗などの汚れは洗い流されている。
全身の切り傷や擦り傷打撲の箇所にはきちんと軟膏滅菌ガーゼに包帯が巻かれている。
下着さえ身に着けていないが、もはや全身が包帯でぐるぐる巻きのミイラ状態に近い。
包帯の上から部屋着を着る。
リビングへ行くとメリーがソファーの上で猫を撫でていた。
「起きたわね。気分はどう。どこか痛む個所はある?」
「とても調子がいいよ。手当てしてくれてありがとう」
「骨折と打撲は結界省から貰った式で治ったから、あとは細かな傷ね」
朝になったらシャワーを浴びて、包帯を巻きなおす必要がありそうだ。
ところでメリーさんや。お昼大学ではふりっふりの少女フリルドレスだったが、家に帰った今現在ではさらにその程度が増しているのはなんなんですかね、と突っ込むのは我慢する。ソファーにドレスの生地が綺麗に広がっており、自分の身の丈ほどもある紫色の巨大な花と喋っているような錯覚に陥る。
「ごはんは炊けてあるわ。味噌汁もあっためて食べて。自分で用意できる?」
「ありがとう。大丈夫」そのドレスでお味噌汁を作ったのだろうか?
牛乳が飲みたいなと思って冷蔵庫を開ける。
保存容器に入れられた大量の菓子類が所狭しと詰め込まれてあった。
とても一人二人で消費しきれる量ではない。大学で友人たちに配ればよいだろう。
「ウィンナー焼くけどメリーは要る?」
「私はいいわ。蓮子だけ食べて」
「あいー」
真夜中だが玉子とベーコンウィンナーを焼きしっかりと食べることにした。
私の分プラス、メリーがちょっと抓んでも良いくらいの量を作る。
これが同棲生活を上手く続けるコツである。
「ちょっと多めに焼いたからメリーも抓んでいいよ」
「ありがとう、ふふふ」
「いただきます」
食事を食卓にならべ夜食にする。
メリーは何か式を組んでいるように見える。
フリル増し増しドレスに身を包み茶毛の猫を撫でながら何か遠くに視線を向けている。
私はその猫を指さして言った。
「メインクーン」
「正解」
「それも作ったんだ?」
「そうよ。試作物だけど」
「よく出来てるよ」
「いいえ、まだまだよ。真のモフモフには程遠い」
「拘りがあることはいいことです」
不意にメリーが手を止め、私の顔を見た。
薄く笑みを浮かべているが双眸には喜びと、不安の陰りがあった。
「また蓮子と一緒に時間が過ごせて私はとてもうれしい」
「大袈裟だなぁ!? いきなりなに!?」
私はご飯を吹き出しそうになった。
「今回は危なかったわ。私も手を出せなかったし」
「今までも結構危ない目には会ってきてるような」
「うーん、まあ、それもそうね」
「じゃあ、それでいいじゃん、これからも」
「次はもっと上手くやるわ」
「あ、そういえば」
私はメリーと一緒にファンクラブの結界部屋に軟禁されたときのことを思い出した。
「メリー、調理室”計算が狂った”って言ってたよね」
「言ったわね」
一連の答え合わせの時間である。
「あれは要するに、メリーはあのファンクラブ員と一緒に移動して什寺を見つけて、ファンクラブの指揮権を奪おうとしたってこと? 私はあの結界の中で安全な場所に閉じ込めておいて戦闘から遠ざけて、メリーが什寺と一騎打ちしようと思ってた? だけど生徒会と警備部がファンクラブと先に衝突しちゃって、ファンクラブの暴走が生徒会管轄になっちゃって、そのあとは結界省も来ちゃって、半妖のメリーは表に出てこれなくなっちゃった?」
「大正解。生徒会が結界省を呼んだのはもう完全に計画外」
調理室の結界は生身の私を拘束するための牢であったが、メリーは私を守るためのシェルターとして利用しようとしたのだ。
「調理室の結界に閉じ込められてた時、什寺のニット帽にゴーグルの顔を見て私に"どこかで会ったことない?"って聞いたのは、この事件が起こる以前にメリーは什寺から何かされていたってこと? なにか嫌がらせ染みたことを? でもその程度の低さにメリーは全く相手にさえしていなかった? それで今後の方針を決める前に、私が整形後の什寺を知っているか確認したってこと?」
「大正解。什寺はここ数カ月間でいろいろと私にちょっかいを出し始めてたけど、素人レベルで私の脅威にはならなかった」
半妖のメリーに掛かればちょちょいのちょいだろう。剣先であしらうというやつだ。
だが、私が什寺を止める方針に転換したために対策を講じることを強いられた。
「メリーが結界に拘束されなければすぐに什寺を倒せるし、外からならば妖怪が湧く前に結界を解除することもできた。そもそもファンクラブが警備部と接触した時点で時間切れなわけだし、メリーはその時点で私を結界から解放して安全なところへ移せばいい」
「そうなるわね」
「あといろいろと考えて、違ったらあれなんだけど」
「どうぞ」
「昨晩メリーは私に術を掛けてはいない。それどこか、メリーはこの一連の事件で最初に術を掛けたのは八総への頭部の出血を治したのが最初であって、次は警備部員達への肉体強化式」
「すばらしい。大正解よ。どういう筋道を立ててそう考えたのかしら?」
「メリーは事前に什寺が私に付きまとっていたことは知っていた。どれほどの程度でストーカー行為をやっていたかは分からないけれど、全てメリーが半妖の能力を使って阻止していた。それで、私の大学図書の閲覧履歴を什寺が見て、魅了の術を習得するために躍起になるに違いないとメリーは考えた。昨晩私が就寝準備を整えてる間に、魅了の術の図書の閲覧履歴を更新して、什寺の学籍番号が記録されることを確認した。だから、メリーは私に防御用の結界を張って、魅了の術に関しては特に何も掛けなかった」
「その通り。流石は蓮子ね」
「什寺は魅了の術を使って、事前に集めていた人員を動員させて、今日の騒ぎを起こした。ただ単に図書を閲覧しただけで何もしていない秘封倶楽部を、何も理解していない生徒会は印刷部で怒鳴って責め立ててきたから、メリーはあんなに怒ったんだね」
「躾のなっていない豚は言いすぎだったかしら」
「メリーが言う分にはまあいいと思うけどね。あと言葉選びがかっこよくて好き」
「明後日にでも抗議書を送るつもりだから、少しは生徒会の蓮子に対する態度は改められると思うわ」
「ん? 扉を壊したのはなんで?」
「あれは、生徒会はどうせ何も分かってないんだろうなっていう動機の、先走り」
「やりすぎだよもぉー」
二人で笑う。
「最後に、昼食一緒に食べたときにさ、なんで女性ばっかりが来るのって私が聞いた時に、"そこは蓮子の魅力”って言ったじゃん。あれってずっと前から什寺が計画を実行するためのメンバーに洗脳を行っていて、それが女性ばっかりだったってこと?」
「ぶぶー! それは違いまぁす!」
「うおびっくりした」
メリーが急に大声を出すのでビビった。
「蓮子、今まで積み上げてきたものをものの見事に崩していくのね。木っ端みじん、焼け野原」
「えー? じゃああのファンクラブの人たちって、什寺が集めた人たちじゃ」
「ありません!」
「どういうこっちゃ」
「蓮子、あの魅了の術の本に書かれていた効力はそこまで強力な物ではないわ。それはいわば、無関心な相手がちょっと話しかけてくれるようになったり、落としたものを代わりに拾ってくれるようになったり、ほんの少しだけ親切になってくれる程度の感情の変化くらいのものよ。だいたい、そんな強力で危険な術が大学図書なんかにあるわけないでしょ。そんなものは禁書で封印物よ」
「説明がつかない」
「つきまぁす。蓮子、あなたはモテるのよ」
「女性に?」
「女性に」
「じゃあファンクラブのあの熱狂はなんだったのさ? ずっと前からあったんでしょ?」
「什寺のカリスマ性と、熱量と、あとは集団心理ね。ほんの一押しされた結果が、あの贈り物よ」
だから、とメリーは言う。
「ねえ蓮子、自分に自信が無いって言うのはやめて。あなたはとても魅力的よ」
「洗ってない犬の匂いでも?」
「そこはちゃんとお風呂に入って、私と同じシャンプー使って、服を毎日洗って」
「男みたいだって言われてるのに?」
「ああもう」
メリーが上方へ一瞬目を向け、頭を振って瞬きをする。
そのしぐさがとても少女染みていて、ああこういうのが魅力というのだ、と思った。
「違うわ。人間っていうのはね、人の痛みを共感出来たり、人へ親切にできたり、利害関係をわきによけて分け隔てなく思いやりが出来たり、継続的に努力が出来たり、そういうことを魅力っていうの。ただ単に容姿が良かったり、胸が大きかったり、そういうことは特徴であって魅力とは言わないの」
「言いたい事は分かるよ。先天的な性格の話でしょ。でもそれは生物の多様性であって、魅力とは別の話だよ。だから私は女性に人気があるのは単なる、」
「何度言っても分からないようね、その言葉の後を続けたら殺す」
「こわい」
笑顔で殺すとか言われると本当に怖いからやめて欲しい。
「あと什寺は、本当に蓮子に惚れていたのよ。他の何物でもないあなたに振り向いてもらうために、努力して術を覚えて、初級の封鎖結界を使えるようになって、小指欠け妖怪に自分の体を抉って食べて良いと、その代わり小指を寄越せと交渉して、他の人間の命は奪うなと要求して、沢山の犠牲を払って準備を重ねて今日の犯行に及んだ。入門用とはいえたった一夜で魅了の術を覚えたのも事実。優秀なのよ」
「でも動機がだめ」
「蓮子あなた、」
「そうじゃない。私の魅力の話じゃない。動機は外に設けちゃだめだという話。私は、世界の秘密を暴きたい。メリーは、自分の眼を有効に使いたいんでしょ。私に振り向いてほしいっていう外発的な動機付けは、裏切られたときに耐えることが出来ない。主観に宿らせなければ、身動きできなくなる時が、矛盾に直面する時が、いつか絶対にやってくる。什寺は力が必要だって言ったけれど、それはあくまで手段であって目的ではない。軸が無いのに行動に移った結果自分を犠牲にすることでしか手段を得ることが出来なくなってしまった、そういうことだと私は思う」
「努力を続けたことそのものを非難するつもりは」
「ないよ。生き方が少しでも違ったら、どこかで仲良くなれたかもね。私からは以上」
メリーは満足したようにうなずき、言った。
「今回の報告に関しては以上です。紫様」
ぎょっとして背筋を伸ばす。後ろを振り向こうとして、――体が動かない。
左手に茶碗、右手に箸を持ったまま、体が金縛りになったように身動きが取れない。
だれかが後ろから私の体に腕を回す。
脇から差し込まれた手が、私の顎を優しく撫でる。
驚くほど冷たい、人の手だとは思えない。
「よろしい」
成人女性の妙に艶っぽい声だ。
香水の香りがする。
「い、一体いつから……?」
「あなたがこの部屋で本を読んでるところからかしら」
「それっていつから!?」
「ふふふ、いつからでしょうねぇ」
科学世紀オカルトの最高峰ともいえる大妖怪八雲紫が、私の肩に顎を置く。
長い金色の髪が私の体に流れる。吐息も分かる。だが顔を見ることが出来ない。
いつもこうだ。いきなり背後に現れ、なんか色々と一方的に話が進む。
私は振り向くことさえできない。よって私はこの八雲紫の容姿を見たことが無い。一度たりとも。
「ちょっと!」とメリーが語気を強めて言った。
「私の蓮子に触らないで!」
「私の蓮子ってどういうこと!?」
「ふふふ、いやですわ。私も蓮子に触りたいもの」
「触れるのは私だけよ!」
「そんなことはない」
「おーい、おふたがたさまぁ?」
「あるわよ!」
「じゃあこうしましょう。今から3分間だけ私は蓮子に触って良い」
「3分間だけ?」
「そうですわ」
「じゃあ我慢します」
「ちょ、なんで私の意見も聞かずに勝手に決めるの!?」
「ふふふ、ああれんこおぉ、すーりすりすり」
八雲紫が私の顔へ頬ずりをする。
数々の結界を作りあげ、妖怪を統治し、月に攻め込んだ経歴を持つ。
今は神々が住まう隠れ里を管理し、人間を度々そこへ神隠しにする。
私が知っているのはせいぜいそれくらいである。
あ、あとはやたらめったら好かれている。
なんとか一目だけでもいいから容姿を確認したい。
渾身の力を籠め謎の拘束に抗おうとするが、全く身動きが出来ない。
出来るのはせいぜい会話と、呼吸と、瞬きと、眼球を動かすことくらいだ。
「メ、メリ―、紫さんの写真撮って写真」
「なんで?」
「隠れ里の場所の手掛かりになるかも。格好とか、服のデザインとか、さ」
「あ、さっき要らないって言ったけど、やっぱりウィンナー1つ貰うわね」
「話聞いてる!? 今すごい大事な場面の筈なんだけど!?」
「紫様もいかが?」
「1つ貰おうかしら」
メリーが爪楊枝をウィンナーに刺し、皿をこちらに差し出してくる。
皿のすぐ上にスキマが開き、八雲紫の手がひょっこり現れる。
そしてすぐに皿へ爪楊枝を戻す。
一連の動作で見えたのは右腕の袖とくらいのものだ。
メリーも度々使うスキマの応用例。
もう見慣れてしまって驚きもしない。
「おいしいわねぇ、蓮子が焼いたの?」
「……そうです」
「どうりでおいしいわけだわ」
「だよねぇ」とメリー。「おいしいっていいよね」
「あ! じゃあ写真は良いから、鏡! 鏡とってメリー! 手鏡があるはずでしょあなたのバッグに!」
「おいしい物を探すのは人生の一つの目標ですものね」
「ところで紫様。今日はどのようなご用件で」
「無視か! 無視なのか!」
「蓮子を撫でに」
「わかるー」
「ふふふ」
「ふふふ」
「うええぇん」
「と言うのが主なのだけれど、器よ」
「はい」
八雲紫はメリーの事を器と呼ぶ。
意味するところは尋ねても答えてくれない。
「半妖の体の調子はどうかしら」
「とても良い感じですわ。思考速度は出ますし、様々なことを同時並行的に考えることが出来ますし、なにより人の悪意に対して嗅覚が鋭くなるのがとても良いです。先回りして頓挫させることも、こちらの利益になるように利用することもできます。妖力を使った術で、人の純粋な好奇心を支援することもできます。とても気に入っています」
「よろしい。今後人外を相手にする際は今の感覚を忘れないようにしなさい」
八雲紫が私の体を引き寄せる。
右手が私の頬を、こめかみを撫でる。
「器のあなたには一度人間に戻ってもらいます。良いわね?」
「分かりました」
「少し心境の変化があるかもしれません」
「構いません」
八雲紫は私の頬を撫でていた手を持ち上げ、メリーに向けて指先を横へ振った。
薄笑いを浮かべていたメリーが数秒かけて真顔に戻る。それからは、面白い変化だった。
自分の服を見下ろし、自分の両手を見て。
その両手で素早く頬を覆った。見る見るうちに顔が赤くなってゆく。
ややあってから勢いよく立ち上がり、速足で歩いて行ってしまう。
「わたしったらなぜあんなことを、ああもうなんでこんな……」
ぶつぶつ言いながらリビングから出ていき姿を消す。
「半妖化すると趣味嗜好が表に出てしまうのですわ」
「あのドレスも言動も、私は結構好きだったけどなぁ」
「じゃあ本人が戻ってきたら言ってあげなさい。むしろフェイバリット! ってね」
メリーはほんの30秒ほどで戻ってきた。服がいつもの部屋着に戻っている。
向かいのソファーに姿勢正しく腰掛ける。しかし顔はまだまっかっかだ。
「忘れて」
「私は半妖のメリーも結構好きだよ。ドレスも、余裕を湛える言動も、」
「やめて! それ以上はやめて!」
「やたらと攻撃的なところも、積極的なところも」
「やめろってぇッ! うぅ、やめ、やめて、……お願いだからぁ」
「ごめん、泣かせるつもりは」
メリーはソファーにうつ伏せに倒れ両手で顔を覆うと涙を流し始めた。
5秒ほどでぱっとまた姿勢を戻し、そこに座る。
「お見苦しいところでした、すみません」
両目にはまだ涙が残っているし顔も赤いけれど。
「躾のない豚って言葉かっこよくてむしろフェイバリッ、うおぉ!?」
メリーが凄まじい剣幕でコップを投げてきた。
私の胸部に当たって胡坐の足元に落ちる。
自由が戻ったら卓上に戻せばよいだろう。
「続けて良いかしら」と紫さん
「はい」「はい」
「環境の程度が上がり、今後は受ける苦難もさらに厳しいものになってくる。こうなってしまったのはひとえに先を生きている我々をはじめとした大人たちの責任です。ですが大部分の先人たちは、たとえ謝罪はしても保障はしないでしょう。賢いあなた達は理解しているでしょうが、私はあなた達が可愛くてかわいくて仕方がない」
ん? わずかにでもないが論理が飛躍しているような気がするのは私だけだろうか?
「昨日昼に会った結界省の結界士が式神を連れていたことは気づいたかしら?」
私とメリーは顔を見合わせた。言われてみれば、東雲は一人では決して気づき得ないことを次々とやってのけた。上空から私を支援したメリーと、メリーの妖力によって作り出された猫の存在、放送室にいる私の危機も、それらをほとんどノータイムで気付き把握し分析し優先順位をつけ即座に対策を講じた。実際私が生き残ったのは東雲の臨機応変な対応があったからに他ならない。ほんの数秒でも反応が遅れていたら私はとっくに木っ端みじんの肉片に成り果てていただろう。
それらの情報を収集分析し東雲に報告と対策の提案を行っていた式神が居たと考えれば、確かに合点がいく。強力だが直情的に力を爆発させていた什寺の対策は、式神が居れば容易だっただろう。リアルタイムに状況を分析出来る式神が居るといないとではそれほどまでに行動判断に差が出ると言う事だ。
「ふふふ、妖術によるサポートの重要性の次は、式神の重要性を学ぶときかしらね。藍、出てきなさい」
「嫌です。今とても忙しいので」
凛々しい声がリビングに響く。紫さんの声が成人女性の艶々しい色気を感じる声だとしたら、こちらは中性的な意志の強さを感じさせる行動派のてきぱきした印象だ。
「居間で家事をしている橙に引き継ぎなさい。もうあの子なら十分熟せるでしょう」
「嫌です。拒否します。あの子に仕事などさせません」
「やらなきゃ覚えないでしょう?」
「運用業務は私だけで十分です」
すぅ、と紫さんが息を吸う。
次の瞬間、すぐ目の前にスキマが開き――。
何か金色の塊が、テーブルの上にどんと落ちてきた。
九尾のキツネだった。
ふさふさとした金色の尻尾、毛並みが揃った引き締まった胴体。
首から鼻先にかけては流麗で形の良い輪郭が形成されている。
テーブルをはさんで座る私もメリーも、ただただその美しいキツネに魅入られ、反応が出来なかった。
目が奪われるとはまさにこのことなのだろう。瞬きさえも惜しいと感じられるほどの完璧な美しさである。
キツネはテーブルの上に素早く起き上がると周囲を見渡し、四肢に力を込めてその場へ立ち上がる。
牙を剥き出し紫さんへ向けて威嚇する。
その動作一瞬一瞬さえも洗練されており完璧な造形美に美術品めいた上品さを感じさせる。
「なぜ外の世界に呼んだのです!? 業務の途中です! 帰してください!」
九尾のキツネが口を開閉し声を発した。
先ほどから紫さんと会話をしている凛々しい声の持ち主は、この美しいキツネだったようだ。
「八雲藍の管理権限を私から八雲紫の器へシフト。八雲橙の管理権限は繰り上がりで私へシフト」
「そ、そんな! こんなことの為に橙へ八雲の名を与えたわけではありません!」
「いいえ、このために八雲を与えたのです。あなたの業務の後釜よ」
「み、認めません! こんな、こんな横暴! なぜ私が器の世話なぞしなければならないのですか!」
「器よ。これがあなたの式神である藍です。指示を出してみなさい」
「おすわり」
先ほどまでは牙をむき凶暴に反駁していたが、メリーが指示すると即座に大人しくなり従順に腰を下ろす。
だが耳も尻尾も力なく垂れ、くうぅんと力なく鳴いている。悲しそうな様子である。
「どうして、なぜこんなことに。私はただ仕事をしたいだけなのに。なぜ外の世界で器の世話なぞ……」
「橙、いるかしら。そのまま聞きなさい」
「はい紫様、ご指示でしょうか」
藍の様子などどこ吹く風。完全に無視し、今度は橙と呼ばれた声が返事をする。
快活で溌剌とした若い女性という印象。滑舌がよく聞き取りやすい。
「藍は外の世界で別に動くこととなったわ。あなたが藍の業務を引き継ぎなさい。マニュアルの保管場所は前に説明した通りよ」
「承知いたしました。問題なく遂行いたします。ただいまマニュアルを読んでおり、5分後に業務開始します」
「よろしい。定常業務を熟しなさい」
「橙! 聞こえるか! 紫様に謀られて器の世話をさせられている! どうにかして助けてくれ!」
「承知しました紫様。万事お任せください」橙は藍の声が聞こえていないようだ。
「ちぇえええええええん!」
うわあああ! とその場に項垂れ慟哭する藍。
「器よ、藍はあなた達が思いつくすべての事が出来るわ。式の使い方を学びなさい」
「あぁ、えーっと、紫さん?」私は身じろぎさえできないまま言う。
「藍が泣いてるけれど、式神を宥めるのってどうすればいいの?」
「放っておけばいいでしょう」ひどいとは思うが、式神っていうのはそういう物なのだろうか。
「ねえねえ紫様、藍の好物ってなに?」メリーはペットかなにかと勘違いしているのではないか?
「ふふふ、キツネが好きな物は大体決まってるでしょう」
私とメリーが顔を見合わせている様子を見届け、紫さんは頷いた。
「この式を使いこなせなければ、秘封倶楽部に未来は無いと心得なさい。では、また来ますわ」
腕が私の頬、体を最後の最後まで撫でながら、後ろに引いてゆく。
そしてふっと体の束縛が無くなり解放されたのを感じる。
後ろを振り返る。ただリビングの壁があるだけだ。
科学世紀オカルト最高峰の大妖怪。
神に匹敵すると謳われる境界の妖怪。八雲紫。
そしてその八雲紫の式神である九尾の妖狐、式神の名前は八雲藍。
それがリビングの机の上でキツネの姿で涙を流し泣いている。
私はルネマグリットを見たときのような超現実的な感覚をリビングの様子に覚えながら、立ち上がる。
傍らに転がるコップを机に戻し、キッチンへ移動。
味噌汁を温めながら冷蔵庫を開き油揚げを取り出す。2つに切って味噌汁へ投入。
すぐにあったまるので、それを浅めの皿に盛り付ける。
リビングに戻ってくる。
いまだにメソメソと泣く藍の前に置いてあげる。
「可哀想に、そんなに泣かないで藍。悲しいよね」と背中を撫でようとしたらキツネの手で振り払われた。
「気安く触るな! 私は、私は、こんなとこ来とうはなかった!」
キツネの見た目で怒鳴られてもかわいいだけだ。という感想に支配されそうになるが頭から振り払う。
このキツネは今まで私たちが出遭ってきたどの半妖よりも、どの妖怪よりも、いやどの生物よりも格が高い。
文字通り一騎当千伝説級の生物であることは疑いようのない事実だ。――いや紫さんは除いて、だが。
「いやあ、分かるよ気持ちは。ひどいよね、もっと気を使ってくれてもいいのにね」
「そうだ! そうなんだ! 紫様は酷い。どうして私がこんな目に遭わなければならない」
「そうよね。部下の気持ちをもうすこーしでもくみ取ってくれれば、断然組織は上手くまとまる筈なのにね」
メリーも隣に来て一緒に話し始めた。いいぞメリー。
半妖から戻ったばかりなのに、上手く人間になじみ始めている。
藍は浅い皿に盛りつけられた味噌汁の油揚げに口を伸ばし、はぐはぐと食べ始めた。
「なぜ部下が動きたいように取り計らってくれない。私は敬意をもって役に立ちたい能力を発揮したいと切に願っているだけなのに。どうしてこんなに蔑ろにされなければならない。外の世界で何をしろと言うのだ。私は悲しい。これほどまでに心が傷つけられたのはいつ以来だろう。ああ、そういえば昔にこんなことがあった――」
「わかる、わかるよー」
「大変だねぇ」
まずは、絆作りからだろう。会話をして、意思疎通を行って。
分かるところと分からないところを、すこしずつ理解していくことから始めよう。
秘封倶楽部のお楽しみはこれからだ。
メリーが紫様によって得た妖力を失ってわれに返り、みずからの行いと格好を恥じらうシーンが可愛らしかったです。
天琉さんすき
半妖メリーが妖怪然としてていいなあと思ってたらゆかりんに更につよつよな妖怪ムーヴをぶつけられたので満足です。よかったです。
(U・ᴥ・U)の臭いがして、人に好意を向けられるとうろたえる宇佐見さんかわいい
みんなメリーさんの妖怪ムーヴに驚かないのがじわる
家庭科室に行くときのメリーの妖怪ムーヴがかっこいい
レオンのゲイリー・オールドマンのシーン、私も好きです
妖怪怖い!骨折怖い!紫様怖い!
なんだかつぎはぎな感想になりましたが、最高でした。みんな(妖怪化したあの人意外)かわいかったです(^.^)