一面の白。
辺りの地面を覆っているのは、墨染桜の白い花びらだ。
薄紅色の萼を交えず、花びらだけが降り積もった様は、まるで雪が積もったようだ。
その花びらに半ば埋もれているのは、白い衣を着た、白い女の顔。
呆然とその光景を見下ろしながら、八雲紫は胸の内で問いかけていた。
わたしは、何度──────
* * *
春の日が傾く頃、陰陽博士・安倍孝重は内裏への出仕から私邸へ帰宅した。朝服を狩衣に着替え、くつろいだ心持ちで書庫の扉を開いた彼は、中を見るなりぎょっとして立ちすくんだ。
誰もいないはずの部屋の中で、女が一人、冊子本を手にして読んでいる。
それだけでも異常事だが、その女が腰掛けているのは、なにもない空中に開いた裂け目のようなものだった。それ以上裂け広がらないようにするためか、その両端が色布の細帯でくくられている。
明らかに人ではない。
身なりこそ落ち着いた壺装束で、白の袿(うちぎ)の下に紫の単(ひとえ)を重ね、緋色の懸帯をした姿はどこかの公卿の姫君のようだったが、その髪は金銅仏もかくやと思われる金色に輝き、うねうねと波打っている。
女は読んでいた冊子本から目を上げると孝重に向かって、
「あら、おかえりなさいませ」
と言って、婉然と微笑んで見せた。
孝重は数瞬、唖然としていたが、辺りを見回して人目がないことを確認すると、しかめ面を浮かべて部屋に入り戸を閉めた。
「まったく、陰陽博士の家で妖物がくつろいでおるとは、世も末じゃな」
「あら、妖物退治など下賤な拝み屋か武士の仕事、陰陽師の本分は天文暦法や忌み祓いにあり──というのが貴方の持論では御座いませんでしたか?」
「だからと言って、妖物に留守宅でのんびり書見を楽しまれているなど、外聞が悪いにも程がある」
孝重は渋い顔のまま宙に座る女に答えると、彼女の手にしている本の表紙を覗き込んだ。題箋に『封魅神呪経』とある。
「ん? なんだ、よりによって、妖魅封じの本なんぞ読んでいるのか。妖物自身が妖物封じの術を調べるとは、世をはかなんで自害でもするつもりか」
「まさか。実はちょっと、封じておきたい化生のモノがいるのですよ」
「なればその法はうってつけだろう。宋の国から渡ってきた、まだ本朝に数冊しか入っていない書物だ」
「確かに効きそうですが、駄目ですわね」
女はそう言ってため息をついた。珍しく物思わし気な女妖の様子に、孝重は興味をそそられた。
「それは封じる相手と同質の能力を持ったものを贄にすれば、どんな相手も封じられる法のはずだが……贄が用意できんか?」
「──と、言うより、『同質の能力を持ったもの』を救いたいのですわ」
「ふむ──?」
「でもまあ、いくらか参考にはなりました」
女はそう言ってにっこり笑うと、読んでいた冊子を閉じて孝重に差し出した。
「その『救いたいもの』が人間だというのなら、次第によっては手を貸せるかもしれんが」
冊子を受け取りながらそう言う孝重に、女妖は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。もしもの時は、お願いいたしますわ」
女は脇に置いてあった被衣(かづき)をかづいて、
「では、ごきげんよう」
というと、するりと裂け目に飲み込まれるように消えた。
それと同時に裂け目も消えて、部屋の中には何の異変も残っていない。
孝重は、やれやれ、と頭を振って部屋を出た。もう書見する気にもなれず、彼は家人を呼んで酒の支度を命じた。
* * *
都から離れた低い山の中。
閑静な寺の周囲にいくつかの民家が並び、そこから伸びる道は西へ向かえば港へ通じ、東へ向かって一と山越せばさらなる霊山の修行場へ通じている。
なにもない虚空に裂け目が開き、中からするりと現れたのは、言うまでもなく先程の女妖──名を、八雲紫という。
日は西の低い山陰に隠れているものの、まだ沈みきっていないと見えて、東側の山上が茜色に染まっている。だがその山の背後の空は、すでに夕闇の藍色を濃くしていた。紫が被衣の下から覗くと、寺の裏山の、夕闇の青に覆われたなかに、遠目にも白く浮かび上がる物がある。
満開の桜の樹だ。
遠く離れていながら、その桜は妙に見る者を惹きつける。
(私には効かないわよ)
紫はそう心の中で呟いて、細い踏み分け道を歩きだした。
──厄介な相手だ。
物の怪としても生まれたばかりで、明確な意志すら持っていない様に見える。だからこそ、その力を無自覚に、際限なく周囲に振りまいて抑えることを知らない。
その存在を知る人妖は、その桜を『西行妖』と呼んでいた。
もとより年ふりた古木であり、長年溜め込んだ霊力もただならぬ物がある。だが、この桜をこれほど危険なものにしたのは、ある男の力を取り込んだからだった。
人の魂を引き寄せ、その身体から切り離すことのできる力を持った男。
その力に気づくと同時に、同じ力が娘にも受け継がれていることを知って、家族も地位も捨てて歌を詠みながら一生を送った男。
その男が晩年に心を寄せ、願い通りその樹の下で眠りについたのが、あの桜──西行妖であった。
まさか男も、桜が自分の力を受け継いでしまうとは思わなかったろう。だが、すでに妖気を帯び始めていたあの桜は、男の持っていた力を取り込み、人の魂を操る力を得た。
そうして毎年、男が死んだ時と同じく満開にその花を咲かせると、魅入られた人間を引き寄せ、その魂を抜き取って死なせているのだった。
紫が進む踏み分け道の先に住んでいるのは、あの男の娘だ。
その娘の名を、幽々子と言う。
奇妙な娘であった。父親から受け継いだ力を、父親以上に自由に使いこなす事ができる幽々子は、紫から見れば人の範疇を半ば踏み出しかけているように見える。
紫は、物事の「境界」を操る妖である。人と妖──鬼神と言っても良い──の境界線上にいる幽々子の存在は、それだけで興味を引くものだった。
だが、二人の関係は興味本位だけの付き合いで終わるものではなかった。
幽々子は、紫の友である。
すでに人の寿命を遥かに超える時を生きてきた紫にとって、愛するもののほとんどは己の片腕としての部下か、さもなくば過去に愛おしく思ったものの代用であり、なつかしき思い出の縁でしか無い。
その数少ない例外の一つが、幽々子であった。
共に語らい、共に風月を楽しみ、共に酒を酌み交わす相手。
紫にとって、幽々子は己の孤独を癒やす大切な存在であった。
その友が、このところふさぎ込んでいる。
原因は西行妖だ。紫が幽々子と出会った初めから、幽々子は己と同じ力を持った西行妖のことを気に病んでいた。そして西行妖が徐々に力を増してくるにつれ、その憂いは深くなっていった。
───なんとかして西行妖を止めなければ。
───これ以上、父上の残した力が人を殺めるのは見たくない。
そう漏らす幽々子を、紫は「かならず封じる方法を見つけてくるから」と言って慰めていた。
(とはいえ、なかなかに難しい相手ですわね)
紫は、西行妖の白い影を横目に見ながら考える。たとえ樹を切り倒したとしても、その力を封じない限り西行妖は幻となって残り続け、人を取り殺し続けるだろう。
宋の国の道士が新たな鬼神封じの方法を編み出したと聞いて陰陽博士の家まで書物を見に行ったが、それも紫の目的にはかなわなかった。
(同じ力を持つもの───幽々子の力だけを何かの形代に移す? あるいは写す? そのための術式を見つけるのと、別の手立てを探るのとどちらが早い?)
計算ずくで答えが出るのなら、それを求めるのは紫には容易いことだ。だが、まだ知らぬ情報を求めるには、常人と同じく手を尽くして探っていくしかない。すでに目指す庵が近づいてきている。ひとまず答えを求めるのは先送りにした。
紫は、幽々子の庵の前に立って声をかけた。
「幽々子、来たわよ」
普通の相手なら、いきなり部屋の中へ現れて話しかけるのが紫の流儀である。だが、近頃もの思わしげな幽々子の様子を気遣って、常人のように戸口から声をかけるようにしていた。紫がこのような気を使うのは珍しい──いや、おそらく唯一の相手が幽々子だった。
「幽々子──いないの?」
返事はない。
入り口の戸は開かれたままで、狭い土間の向こうに目隠しの古びた衝立が見える。その向こうはわからない。
紫は目の端に西行妖の姿を捉えながら、庵の脇へ回った。開け放たれた引戸の中を覗き込む。
「幽々子──?」
土間と衝立一枚で隔たれた一間には菩薩像の軸がかけられ、その前に文机が置かれている。脇には経典の巻子が積まれ、机上には冊子本が一冊置かれている。
(寺に焼香にでも出かけたか、それとも厠にでも立ったか)
そう思って振り向きかけた紫の目の隅が、冊子本の題箋の文字を捉えた。
──『封魅神呪経』。
「幽々子」
血の気が引いた。
と、同時に。
紫の視界の端で、白い光が散乱した。
はっとして振り向くと、否応なしにそれが目に入った。薄闇に白く浮かんでいた西行妖が、霧散しながら消えてゆく。
「幽々子!」
瞬時に虚空に開いた裂け目に飛び込み、この世の隙間を抜けて、紫は西行妖の前に出る。
視界が、一面の白に覆われた。
「!」
降り積もる雪のようだった。ただ、いまだに舞い落ちる白いものは、明らかに粉雪より軽くちらちらと宙を舞っている。
桜の花びらだ。
萼を交えず、花びらの根本にまとう僅かな紅色すら夕闇の青に色を消されて、ただただ白く見える花びらが、地を覆って音もなく降り積もっている。
満開の西行妖が、そのすべての花びらを散り落としたのだ。
呆然とする紫の目が、一面の白の中に、静かに広がる緋色を捉えた。
夜目にも鮮やかな、鮮血の緋色。
喉元に開いた傷口から溢れる血が、白い手に握られた短刀と、白い着物を着た胸元を濡らしている。そのすぐ先には、黒髪に縁取られた白い顔があった。
血の気を失った、紫のよく知る娘の顔。穏やかで、少し寂しげな顔をして目を閉じている。
一歩、踏み出したが、そこで足が止まった。
紫には見えてしまう。
心許した友の、幽々子の亡骸が、西行妖の力を囚えて、その根の奥へと沈めていくのを。
無論、躯が動くわけでも、手の触れられる何かが引きずり込まれているのでもない。
現世ではただ、桜の花びらだけが散っていく。
「幽々子」
名を呼ぶ以外、言葉が出ない。
降り積もる桜の花びらが、血の緋に染まりながらも少しずつ幽々子の体を埋めていく。その顔に降りかかる花びらは、不思議にもあるかなしかの微風に払われ、彼女の顔だけが埋もれずに見えている。
「幽々子──わたしは────」
紫は、心の中で問いかけていた。
わたしは、何度、大事な人を失えばよいのだろうか。
辺りの地面を覆っているのは、墨染桜の白い花びらだ。
薄紅色の萼を交えず、花びらだけが降り積もった様は、まるで雪が積もったようだ。
その花びらに半ば埋もれているのは、白い衣を着た、白い女の顔。
呆然とその光景を見下ろしながら、八雲紫は胸の内で問いかけていた。
わたしは、何度──────
* * *
春の日が傾く頃、陰陽博士・安倍孝重は内裏への出仕から私邸へ帰宅した。朝服を狩衣に着替え、くつろいだ心持ちで書庫の扉を開いた彼は、中を見るなりぎょっとして立ちすくんだ。
誰もいないはずの部屋の中で、女が一人、冊子本を手にして読んでいる。
それだけでも異常事だが、その女が腰掛けているのは、なにもない空中に開いた裂け目のようなものだった。それ以上裂け広がらないようにするためか、その両端が色布の細帯でくくられている。
明らかに人ではない。
身なりこそ落ち着いた壺装束で、白の袿(うちぎ)の下に紫の単(ひとえ)を重ね、緋色の懸帯をした姿はどこかの公卿の姫君のようだったが、その髪は金銅仏もかくやと思われる金色に輝き、うねうねと波打っている。
女は読んでいた冊子本から目を上げると孝重に向かって、
「あら、おかえりなさいませ」
と言って、婉然と微笑んで見せた。
孝重は数瞬、唖然としていたが、辺りを見回して人目がないことを確認すると、しかめ面を浮かべて部屋に入り戸を閉めた。
「まったく、陰陽博士の家で妖物がくつろいでおるとは、世も末じゃな」
「あら、妖物退治など下賤な拝み屋か武士の仕事、陰陽師の本分は天文暦法や忌み祓いにあり──というのが貴方の持論では御座いませんでしたか?」
「だからと言って、妖物に留守宅でのんびり書見を楽しまれているなど、外聞が悪いにも程がある」
孝重は渋い顔のまま宙に座る女に答えると、彼女の手にしている本の表紙を覗き込んだ。題箋に『封魅神呪経』とある。
「ん? なんだ、よりによって、妖魅封じの本なんぞ読んでいるのか。妖物自身が妖物封じの術を調べるとは、世をはかなんで自害でもするつもりか」
「まさか。実はちょっと、封じておきたい化生のモノがいるのですよ」
「なればその法はうってつけだろう。宋の国から渡ってきた、まだ本朝に数冊しか入っていない書物だ」
「確かに効きそうですが、駄目ですわね」
女はそう言ってため息をついた。珍しく物思わし気な女妖の様子に、孝重は興味をそそられた。
「それは封じる相手と同質の能力を持ったものを贄にすれば、どんな相手も封じられる法のはずだが……贄が用意できんか?」
「──と、言うより、『同質の能力を持ったもの』を救いたいのですわ」
「ふむ──?」
「でもまあ、いくらか参考にはなりました」
女はそう言ってにっこり笑うと、読んでいた冊子を閉じて孝重に差し出した。
「その『救いたいもの』が人間だというのなら、次第によっては手を貸せるかもしれんが」
冊子を受け取りながらそう言う孝重に、女妖は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。もしもの時は、お願いいたしますわ」
女は脇に置いてあった被衣(かづき)をかづいて、
「では、ごきげんよう」
というと、するりと裂け目に飲み込まれるように消えた。
それと同時に裂け目も消えて、部屋の中には何の異変も残っていない。
孝重は、やれやれ、と頭を振って部屋を出た。もう書見する気にもなれず、彼は家人を呼んで酒の支度を命じた。
* * *
都から離れた低い山の中。
閑静な寺の周囲にいくつかの民家が並び、そこから伸びる道は西へ向かえば港へ通じ、東へ向かって一と山越せばさらなる霊山の修行場へ通じている。
なにもない虚空に裂け目が開き、中からするりと現れたのは、言うまでもなく先程の女妖──名を、八雲紫という。
日は西の低い山陰に隠れているものの、まだ沈みきっていないと見えて、東側の山上が茜色に染まっている。だがその山の背後の空は、すでに夕闇の藍色を濃くしていた。紫が被衣の下から覗くと、寺の裏山の、夕闇の青に覆われたなかに、遠目にも白く浮かび上がる物がある。
満開の桜の樹だ。
遠く離れていながら、その桜は妙に見る者を惹きつける。
(私には効かないわよ)
紫はそう心の中で呟いて、細い踏み分け道を歩きだした。
──厄介な相手だ。
物の怪としても生まれたばかりで、明確な意志すら持っていない様に見える。だからこそ、その力を無自覚に、際限なく周囲に振りまいて抑えることを知らない。
その存在を知る人妖は、その桜を『西行妖』と呼んでいた。
もとより年ふりた古木であり、長年溜め込んだ霊力もただならぬ物がある。だが、この桜をこれほど危険なものにしたのは、ある男の力を取り込んだからだった。
人の魂を引き寄せ、その身体から切り離すことのできる力を持った男。
その力に気づくと同時に、同じ力が娘にも受け継がれていることを知って、家族も地位も捨てて歌を詠みながら一生を送った男。
その男が晩年に心を寄せ、願い通りその樹の下で眠りについたのが、あの桜──西行妖であった。
まさか男も、桜が自分の力を受け継いでしまうとは思わなかったろう。だが、すでに妖気を帯び始めていたあの桜は、男の持っていた力を取り込み、人の魂を操る力を得た。
そうして毎年、男が死んだ時と同じく満開にその花を咲かせると、魅入られた人間を引き寄せ、その魂を抜き取って死なせているのだった。
紫が進む踏み分け道の先に住んでいるのは、あの男の娘だ。
その娘の名を、幽々子と言う。
奇妙な娘であった。父親から受け継いだ力を、父親以上に自由に使いこなす事ができる幽々子は、紫から見れば人の範疇を半ば踏み出しかけているように見える。
紫は、物事の「境界」を操る妖である。人と妖──鬼神と言っても良い──の境界線上にいる幽々子の存在は、それだけで興味を引くものだった。
だが、二人の関係は興味本位だけの付き合いで終わるものではなかった。
幽々子は、紫の友である。
すでに人の寿命を遥かに超える時を生きてきた紫にとって、愛するもののほとんどは己の片腕としての部下か、さもなくば過去に愛おしく思ったものの代用であり、なつかしき思い出の縁でしか無い。
その数少ない例外の一つが、幽々子であった。
共に語らい、共に風月を楽しみ、共に酒を酌み交わす相手。
紫にとって、幽々子は己の孤独を癒やす大切な存在であった。
その友が、このところふさぎ込んでいる。
原因は西行妖だ。紫が幽々子と出会った初めから、幽々子は己と同じ力を持った西行妖のことを気に病んでいた。そして西行妖が徐々に力を増してくるにつれ、その憂いは深くなっていった。
───なんとかして西行妖を止めなければ。
───これ以上、父上の残した力が人を殺めるのは見たくない。
そう漏らす幽々子を、紫は「かならず封じる方法を見つけてくるから」と言って慰めていた。
(とはいえ、なかなかに難しい相手ですわね)
紫は、西行妖の白い影を横目に見ながら考える。たとえ樹を切り倒したとしても、その力を封じない限り西行妖は幻となって残り続け、人を取り殺し続けるだろう。
宋の国の道士が新たな鬼神封じの方法を編み出したと聞いて陰陽博士の家まで書物を見に行ったが、それも紫の目的にはかなわなかった。
(同じ力を持つもの───幽々子の力だけを何かの形代に移す? あるいは写す? そのための術式を見つけるのと、別の手立てを探るのとどちらが早い?)
計算ずくで答えが出るのなら、それを求めるのは紫には容易いことだ。だが、まだ知らぬ情報を求めるには、常人と同じく手を尽くして探っていくしかない。すでに目指す庵が近づいてきている。ひとまず答えを求めるのは先送りにした。
紫は、幽々子の庵の前に立って声をかけた。
「幽々子、来たわよ」
普通の相手なら、いきなり部屋の中へ現れて話しかけるのが紫の流儀である。だが、近頃もの思わしげな幽々子の様子を気遣って、常人のように戸口から声をかけるようにしていた。紫がこのような気を使うのは珍しい──いや、おそらく唯一の相手が幽々子だった。
「幽々子──いないの?」
返事はない。
入り口の戸は開かれたままで、狭い土間の向こうに目隠しの古びた衝立が見える。その向こうはわからない。
紫は目の端に西行妖の姿を捉えながら、庵の脇へ回った。開け放たれた引戸の中を覗き込む。
「幽々子──?」
土間と衝立一枚で隔たれた一間には菩薩像の軸がかけられ、その前に文机が置かれている。脇には経典の巻子が積まれ、机上には冊子本が一冊置かれている。
(寺に焼香にでも出かけたか、それとも厠にでも立ったか)
そう思って振り向きかけた紫の目の隅が、冊子本の題箋の文字を捉えた。
──『封魅神呪経』。
「幽々子」
血の気が引いた。
と、同時に。
紫の視界の端で、白い光が散乱した。
はっとして振り向くと、否応なしにそれが目に入った。薄闇に白く浮かんでいた西行妖が、霧散しながら消えてゆく。
「幽々子!」
瞬時に虚空に開いた裂け目に飛び込み、この世の隙間を抜けて、紫は西行妖の前に出る。
視界が、一面の白に覆われた。
「!」
降り積もる雪のようだった。ただ、いまだに舞い落ちる白いものは、明らかに粉雪より軽くちらちらと宙を舞っている。
桜の花びらだ。
萼を交えず、花びらの根本にまとう僅かな紅色すら夕闇の青に色を消されて、ただただ白く見える花びらが、地を覆って音もなく降り積もっている。
満開の西行妖が、そのすべての花びらを散り落としたのだ。
呆然とする紫の目が、一面の白の中に、静かに広がる緋色を捉えた。
夜目にも鮮やかな、鮮血の緋色。
喉元に開いた傷口から溢れる血が、白い手に握られた短刀と、白い着物を着た胸元を濡らしている。そのすぐ先には、黒髪に縁取られた白い顔があった。
血の気を失った、紫のよく知る娘の顔。穏やかで、少し寂しげな顔をして目を閉じている。
一歩、踏み出したが、そこで足が止まった。
紫には見えてしまう。
心許した友の、幽々子の亡骸が、西行妖の力を囚えて、その根の奥へと沈めていくのを。
無論、躯が動くわけでも、手の触れられる何かが引きずり込まれているのでもない。
現世ではただ、桜の花びらだけが散っていく。
「幽々子」
名を呼ぶ以外、言葉が出ない。
降り積もる桜の花びらが、血の緋に染まりながらも少しずつ幽々子の体を埋めていく。その顔に降りかかる花びらは、不思議にもあるかなしかの微風に払われ、彼女の顔だけが埋もれずに見えている。
「幽々子──わたしは────」
紫は、心の中で問いかけていた。
わたしは、何度、大事な人を失えばよいのだろうか。