前に教授が座っていた。記憶している限り、教授が私に言うことは二種類しかない。何故課題を出さないのか、何故講義中帽子を脱がないのか。そんな平坦な関係の彼が何故私の相席となっているのかということに関して、とくに疑問を持つことはなかった。
私と教授は弁当を食べていた。なんてことはない幕の内弁当だった。私は食に関して煩い方であると自覚しているのだが、何の味もしないと断言できるそのつまらない弁当を、何故か私は文句も言わず食べ進めた。
私は最近アツい新商品のカップ麺が何かという世間話を持ち掛けようとしたが、教授は何故しずかに物を食べることが出来ないのかと苦言を呈し、ペットボトルに籠められたお茶を飲んで溜息をついた。私は食べている時の態度を、食べている時に指摘してくる大人ほど下らないものはないと口答えした。教授は呆れた様子で閉口した。
教授は、では風邪など引かないように、と言い残して席を立ち、私の座っている後ろの車両への扉をあけて消えていった。冬気味だったかもしれないとここで思い出したら、防寒具を身に付けていることにも気づいた。
『大学生って、ただそれだけで白黒しててファッショナブルで、血液すらもガラスみたいに綺麗で気持ち悪いよね。なんでそんなものになってしまったのかしら。ソリみたいな鞄を背負って普通の顔をして歩いている人、冗談なのかと思ってしまうわ』
メリーがそう言っていたのを思い出した。私は確か、こう返したはずだ。
『確かに、コスプレみたいなナイトキャップをかぶって、嘘みたいな金髪金眼で、いつもぐにゃぐにゃふにゃふにゃしたアニメの真実みたいなあなたからすると、そうかもね』
私の座っている前の車両から両親が歩いてきて私の前へ座った。彼氏の一人くらい出来たのかと言ってきた。随分と久々に顔を合わせた気がして綻ばせた顔が一瞬にして冷めたのを感じた。
所詮、私が選んで交友関係としたかったわけでもない、たまたま血が繋がって同じ家に暮らさなければならなかったというだけの他人の癖に、こうまで馴れ馴れしくしてくる理由は一体何なのだろうかと思う。セクシャルハラスメントで訴えたら勝てるだろうか? 産まれたくなかったのにこの世に産まれてしまったことによる多大な苦痛を理由に、両親を訴えた人が実際に居たらしい話を聞いたことがあるのだが、勝ったんだろうか、負けたんだろうか?
一時期はこの二人に感謝せねばならないのだと信じていたこともあったけれど、今はただ、生まれる前に選択が可能なのであれば生まれてこないことを選んだはずだとばかり思う。
私の興味薄さを目敏く感じ取った母が、あなたは昔から無関心で、なんにも話してくれないわねと言ってきた。そんなことはない。色々と喋ってきたと思う。例えば、持っていた積木がすべて一本の柱になるまで積み上げたことをほめて欲しかった時とかに。母はその時おとなりのママさんと、ご近所の夫婦が双方浮気をしているという話に華を咲かせるのに忙しくて、私へひらがなのドリルでもやっていなさいと突っぱねてきた。
そういう小さな積み重ねの末に、両親への興味を少しずつ失っていったにすぎない。私が再びふたりの前で、目を輝かせて興味事の話をしても、なんだそんなことよりああしなさいこうしなさい、と腐してくるのだろうと完全に信頼を置いているのである。私は変えた連絡先も引っ越し先も両親に教えてはいないし、何故この人たちが私の前に座って、最後に会った時と同じようなことをくっちゃべっているんだろうと思った。
両親は、なんだかんだ言ってもね、元気でやっていればそれでいいんだよと言って席を立ち、私の座っている後ろの車両への扉をあけて消えていった。
『ご乗車ありがとうございます。本列車はうんたらかんたら~ってやつだけどね、あれって昔、機械音声の駅員さんでなかった頃は、喧騒の中でも聞き分けやすいように、他にはない特殊なイントネーションを使ってたんですって』
『どんなんだったんでしょうね? ごじょーしゃあ、ありやとーごやんす。みたいな? ほげええ。シンギュラリティねえ』
私の座っている前の車両から私が歩いてきて私の前へ座った。陰気臭い顔ねえ、それでも私なのかしらと言ってきて、二つ持っていた紙カップの飲み物の片方を私にくれた。口を付けてみるとブラックコーヒーだった。反吐が出る。コーラしか勝たん。
あんまりにもぎゅうぎゅうだったから出てきたんだけど、こっちの車両はすいてて良いわねと私は言った。私が前の車両の方へ目を凝らすと、なるほど黒い帽子を被った得意げな顔の女の子たちがすし詰めになっていた。
皆カフェでメリーを待たせてて、急いでるのよと言った。私があんたもそうなのと聞くと、そうなのよねえ、と悪びれない様子で頭を掻いた。同族嫌悪だろうか? 丈夫な灰皿などがあれば今すぐ目の前のこいつを殴打して殺すのだが。
私の不満げな顔を見て取ってか、何をしにこの電車に乗っているのか聞かれた。わからない。ほんのさっきまで、別の場所に居たような気がする。でも、はじめから電車に乗っていたのだという気もする。フラフラとしていたわけじゃない。何か用事があったのは確かだ。私は、少なくともあなた達と違って、メリーを待たせているわけじゃないと答えた。私は私の答えに満足いったのかどうなのか、ため息と遜色ないような生返事をした。
私は、それじゃあこれからも私同士頑張りましょうねと言って席を立った。去り際の背中に、おなじ黒くてカフェインの入ってる飲み物なら今度からはコーラにしなさいと投げかけてみると、振り向きもせずに、コーラ飲みながら食べる甘いお菓子は美味しくないからイヤ。メリーと過ごすならやっぱりコーヒーよと言って、そのまま後ろの車両への扉をあけて消えていった。
『私、どうにも親に対して感謝のない人のことが好きになれないわ。ええ、なんだったかしら、なにかの心理学者だったか、そういうのが言ってた。誰しも、最初はじぶんが存在することの責任を負うことができないけれど、様々なことから抜け出して自由になっていく過程で、その責任を背負っていく必要があるって。だから、いつまでもじぶんの人生のだめなところを親のせいにしてるような人っていうのは、いつまでもずっと子供のままなのよ』
『まあ、あなたの場合は殴られるどころか怒鳴られたことすらなさそうだものね。そういう感性って大事にしたほうがいいと思うわ、嫌味じゃなくてね』
続けて色んな人が私の前に座っていった。
入学してすぐ私を勧誘してきたヤリサーのチャラ男くんがきた。友達として接する分にはちょっと人より脳みそが下半身の方に寄ってるだけで、猫とパチンコと芥川龍之介が好きな普通の好青年である。
私が来た。目に隈を作っていて、卑屈な笑顔が印象的だった。リストカットの痕がこれ見よがしだった。新鮮な傷の一つが、私の服へ血を飛び散らせたので頭に来て、腹に蹴りを入れてやるとゲロを吐いて苦しんだ。いい気分だった。
私が来た。メリーがこの電車の中で消えちゃったのだけれど何か知らないかしらと聞いてきた。明朗快活で物怖じしない態度だった。さっきまで見た私達の中でも抜群に頭に来たので殺してやろうと思ったけれど、私より強そうだったのでやめた。
高校の頃私をハブってきたグループのリーダー格の子が来た。あの時の私はどうかしてた、ごめんなさいといってさめざめ泣いていた。その後健やかなようで何よりですねと思った。
中学生の頃よく相手にしていた野良犬が来た。いつしか見なくなったけれど、野良動物を主食にしてるホームレスが近くの公園に引っ越してきた話を聞いていたので泣き腫らしていたのを思い出した。たしかそのホームレスも、ある日大学生グループからリンチにされて殺されたんだよな。頭をなでてやると、あの頃と同じ様にしっぽをぐるぐると回していた。
私が来た。幼かった。私に、ヒロシゲ35号はこの電車で合っていますかと聞いてきた。
私は動揺した。すると、それに呼応するように車両が雷鳴とともに豪雨に晒され、海の上のようにのたうち回った。直観的に、あ、もうすぐこの不思議なやつは終わるのだなと思った。前の車両の扉が壊れて、沢山の私が流れ込んできた。幼い私が、電車を間違えたかもしれないんです、お母さんとはぐれたかもしれないんです、と懸命に声を上げるのがどこからか聞こえた。
メリーの声が聞こえた。貴女は今夢の中に居るのよ、さあ私の手を掴んでと叫んでいた。そうだ。確かに、こんなものが現実の訳がなかった。なんで今まで疑問に思わなかったのだろうか。自覚すると突然視界が不確かで、あらゆる色が正しくないように感じられた。獏とやらが存在するのならば今すぐに助けてほしい。
他の私たちも同じように思ったらしく顔色が必死の形相となった。車両の天井に、丁度一人通れるかというくらいの隙間が開いて、メリーが顔を覗かせた。
お母さん、お父さん。遊園地に連れてってくれるって言ったよね。ヒロシゲ35号に乗って、遊園地に連れてってくれるって言ったよね。私は覚えてるよ。あれから、結局私が乗っていたのはヒロシゲ35号じゃあなくて、車掌さんが半べその私の面倒を見てくれた。お母さんと引き合わせてくれて、心配で心臓が潰れそうだったというような態度のお母さんが私を抱きしめたっけ。
それのせいで時間の都合がつかなくなってしまったので、お父さんは予定を変更して、近場のちゃっちい科学館に連れてってくれた。プラネタリウムを見た。結局すごく楽しかった。子供心に割高だと感じたソフトクリームも、私が指差したら嫌な顔ひとつせず買ってくれた。あの白い幸せの塊を舌ですくい取って、自分の表情が喜色に満ちるのを感じた。なんで死んじゃったんだよ、二人とも。あれ? 死んだ? お父さんとお母さん、死んだんだっけか?
私たちは皆、一斉に手を伸ばした。私だよ、本当の私は私だよと言って我先と。メリーは目に見えて困惑した。メリーが引き上げられるのはきっと一人だけだったのだ。
私はメリーとの色んな思い出を振り返った。大体、どうでもいい散策だった。先のことを何一つ見通さず、ただ体だけ重ねて小さな幸せを捏造する破滅的な同棲生活のようだった。何がガラスみたいに綺麗な血液だよ。ただの赤い鉄だ、あんなもん。いい加減にしろ。
メリーは決心するように、自分の頬を両手で引っ叩いて、ついに私の手を掴んだ。それはさっき私が殺そうとしてできなかった、明朗快活な私だった。私はきっと私を選んでくれるって信じていたわと言って得意げだった。メリーははいはい、そうですねと呆れ顔だった。私は自分の首から下を見た。血と吐瀉物に濡れていた。日常を取り戻した二人が最後に映って、隙間は閉じた。選ばれなかった私たちが一斉に私の方を見た。私は自分の顔が今まで自覚したことのないほど、絶望と嗚咽に歪むのを感じた。
私のような気持ち悪いやつが宇佐見蓮子のはずないじゃないか。
***
「蓮子?」
何か、そう、アイデンティティがすべて粉々になったのを、一から組み直す作業をするような工事の音が頭の中から聞こえた。
自分の口から涎が垂れていたことを自覚して、袖で拭った。メリーはまあ、と声を上げて、私に差し出してくれていたハンカチをしまった。どうも、京都に着いたらしい。大学の友人を両親の喪に付き合わせるなんてほとほと薄ら寒い行動だと自戒した。
二人そろって即死だったらしい。老人の運転する車がダーツの名手のようにつっこみ、木っ端みじん、老人の方は無事。全自動運転車用の免許で半自動運転車に乗っていたので擁護の余地はほぼゼロになりそうだとか。交通事故って得てしてそういうものよね。下手に要介護とか植物状態とかで生き残られたりしても困るので、正直ホッとした気持ちの方が強い。
「その顔は、また一人で自己嫌悪してるのね」
ご名答。妙にリアルで変な夢を見たことを話すと、ああ、実際、蓮子が寝ちゃってからね、ちょうど線路の上に空いた大きな境界に電車が突っ込んじゃって、乗ってる皆は少しずつ変な体験をしたみたい。うなされてたから何度か起こしたのだけれど、全然目が覚めなくて心配したのよ、と今回のオチを喋ってくれた。
まだぼやけている視界を慣らせようとしていたのを急かされて、手を引かれるようにして早歩きで車両を降りると、ヒロシゲ36号は他人行儀にその扉を閉めて次の定位置へと走っていった。
私の口からは悲しいという言葉がこぼれた。メリーは私の手を握った。どうも私は、これでちゃんと傷ついているらしかった。
「ねえメリー」
「なあに」
夕方だった。私の真っ白なシャツがその色に染まった。血の色ではない。吐瀉物の色でもない。あと、冬でもなかった。機械音声の駅員さんが反対車両に次の電車が来るのを教えてくれていた。
「帰りソフトクリーム食べよ」
あれはヒロシゲ37号かもしれない。
私と教授は弁当を食べていた。なんてことはない幕の内弁当だった。私は食に関して煩い方であると自覚しているのだが、何の味もしないと断言できるそのつまらない弁当を、何故か私は文句も言わず食べ進めた。
私は最近アツい新商品のカップ麺が何かという世間話を持ち掛けようとしたが、教授は何故しずかに物を食べることが出来ないのかと苦言を呈し、ペットボトルに籠められたお茶を飲んで溜息をついた。私は食べている時の態度を、食べている時に指摘してくる大人ほど下らないものはないと口答えした。教授は呆れた様子で閉口した。
教授は、では風邪など引かないように、と言い残して席を立ち、私の座っている後ろの車両への扉をあけて消えていった。冬気味だったかもしれないとここで思い出したら、防寒具を身に付けていることにも気づいた。
『大学生って、ただそれだけで白黒しててファッショナブルで、血液すらもガラスみたいに綺麗で気持ち悪いよね。なんでそんなものになってしまったのかしら。ソリみたいな鞄を背負って普通の顔をして歩いている人、冗談なのかと思ってしまうわ』
メリーがそう言っていたのを思い出した。私は確か、こう返したはずだ。
『確かに、コスプレみたいなナイトキャップをかぶって、嘘みたいな金髪金眼で、いつもぐにゃぐにゃふにゃふにゃしたアニメの真実みたいなあなたからすると、そうかもね』
私の座っている前の車両から両親が歩いてきて私の前へ座った。彼氏の一人くらい出来たのかと言ってきた。随分と久々に顔を合わせた気がして綻ばせた顔が一瞬にして冷めたのを感じた。
所詮、私が選んで交友関係としたかったわけでもない、たまたま血が繋がって同じ家に暮らさなければならなかったというだけの他人の癖に、こうまで馴れ馴れしくしてくる理由は一体何なのだろうかと思う。セクシャルハラスメントで訴えたら勝てるだろうか? 産まれたくなかったのにこの世に産まれてしまったことによる多大な苦痛を理由に、両親を訴えた人が実際に居たらしい話を聞いたことがあるのだが、勝ったんだろうか、負けたんだろうか?
一時期はこの二人に感謝せねばならないのだと信じていたこともあったけれど、今はただ、生まれる前に選択が可能なのであれば生まれてこないことを選んだはずだとばかり思う。
私の興味薄さを目敏く感じ取った母が、あなたは昔から無関心で、なんにも話してくれないわねと言ってきた。そんなことはない。色々と喋ってきたと思う。例えば、持っていた積木がすべて一本の柱になるまで積み上げたことをほめて欲しかった時とかに。母はその時おとなりのママさんと、ご近所の夫婦が双方浮気をしているという話に華を咲かせるのに忙しくて、私へひらがなのドリルでもやっていなさいと突っぱねてきた。
そういう小さな積み重ねの末に、両親への興味を少しずつ失っていったにすぎない。私が再びふたりの前で、目を輝かせて興味事の話をしても、なんだそんなことよりああしなさいこうしなさい、と腐してくるのだろうと完全に信頼を置いているのである。私は変えた連絡先も引っ越し先も両親に教えてはいないし、何故この人たちが私の前に座って、最後に会った時と同じようなことをくっちゃべっているんだろうと思った。
両親は、なんだかんだ言ってもね、元気でやっていればそれでいいんだよと言って席を立ち、私の座っている後ろの車両への扉をあけて消えていった。
『ご乗車ありがとうございます。本列車はうんたらかんたら~ってやつだけどね、あれって昔、機械音声の駅員さんでなかった頃は、喧騒の中でも聞き分けやすいように、他にはない特殊なイントネーションを使ってたんですって』
『どんなんだったんでしょうね? ごじょーしゃあ、ありやとーごやんす。みたいな? ほげええ。シンギュラリティねえ』
私の座っている前の車両から私が歩いてきて私の前へ座った。陰気臭い顔ねえ、それでも私なのかしらと言ってきて、二つ持っていた紙カップの飲み物の片方を私にくれた。口を付けてみるとブラックコーヒーだった。反吐が出る。コーラしか勝たん。
あんまりにもぎゅうぎゅうだったから出てきたんだけど、こっちの車両はすいてて良いわねと私は言った。私が前の車両の方へ目を凝らすと、なるほど黒い帽子を被った得意げな顔の女の子たちがすし詰めになっていた。
皆カフェでメリーを待たせてて、急いでるのよと言った。私があんたもそうなのと聞くと、そうなのよねえ、と悪びれない様子で頭を掻いた。同族嫌悪だろうか? 丈夫な灰皿などがあれば今すぐ目の前のこいつを殴打して殺すのだが。
私の不満げな顔を見て取ってか、何をしにこの電車に乗っているのか聞かれた。わからない。ほんのさっきまで、別の場所に居たような気がする。でも、はじめから電車に乗っていたのだという気もする。フラフラとしていたわけじゃない。何か用事があったのは確かだ。私は、少なくともあなた達と違って、メリーを待たせているわけじゃないと答えた。私は私の答えに満足いったのかどうなのか、ため息と遜色ないような生返事をした。
私は、それじゃあこれからも私同士頑張りましょうねと言って席を立った。去り際の背中に、おなじ黒くてカフェインの入ってる飲み物なら今度からはコーラにしなさいと投げかけてみると、振り向きもせずに、コーラ飲みながら食べる甘いお菓子は美味しくないからイヤ。メリーと過ごすならやっぱりコーヒーよと言って、そのまま後ろの車両への扉をあけて消えていった。
『私、どうにも親に対して感謝のない人のことが好きになれないわ。ええ、なんだったかしら、なにかの心理学者だったか、そういうのが言ってた。誰しも、最初はじぶんが存在することの責任を負うことができないけれど、様々なことから抜け出して自由になっていく過程で、その責任を背負っていく必要があるって。だから、いつまでもじぶんの人生のだめなところを親のせいにしてるような人っていうのは、いつまでもずっと子供のままなのよ』
『まあ、あなたの場合は殴られるどころか怒鳴られたことすらなさそうだものね。そういう感性って大事にしたほうがいいと思うわ、嫌味じゃなくてね』
続けて色んな人が私の前に座っていった。
入学してすぐ私を勧誘してきたヤリサーのチャラ男くんがきた。友達として接する分にはちょっと人より脳みそが下半身の方に寄ってるだけで、猫とパチンコと芥川龍之介が好きな普通の好青年である。
私が来た。目に隈を作っていて、卑屈な笑顔が印象的だった。リストカットの痕がこれ見よがしだった。新鮮な傷の一つが、私の服へ血を飛び散らせたので頭に来て、腹に蹴りを入れてやるとゲロを吐いて苦しんだ。いい気分だった。
私が来た。メリーがこの電車の中で消えちゃったのだけれど何か知らないかしらと聞いてきた。明朗快活で物怖じしない態度だった。さっきまで見た私達の中でも抜群に頭に来たので殺してやろうと思ったけれど、私より強そうだったのでやめた。
高校の頃私をハブってきたグループのリーダー格の子が来た。あの時の私はどうかしてた、ごめんなさいといってさめざめ泣いていた。その後健やかなようで何よりですねと思った。
中学生の頃よく相手にしていた野良犬が来た。いつしか見なくなったけれど、野良動物を主食にしてるホームレスが近くの公園に引っ越してきた話を聞いていたので泣き腫らしていたのを思い出した。たしかそのホームレスも、ある日大学生グループからリンチにされて殺されたんだよな。頭をなでてやると、あの頃と同じ様にしっぽをぐるぐると回していた。
私が来た。幼かった。私に、ヒロシゲ35号はこの電車で合っていますかと聞いてきた。
私は動揺した。すると、それに呼応するように車両が雷鳴とともに豪雨に晒され、海の上のようにのたうち回った。直観的に、あ、もうすぐこの不思議なやつは終わるのだなと思った。前の車両の扉が壊れて、沢山の私が流れ込んできた。幼い私が、電車を間違えたかもしれないんです、お母さんとはぐれたかもしれないんです、と懸命に声を上げるのがどこからか聞こえた。
メリーの声が聞こえた。貴女は今夢の中に居るのよ、さあ私の手を掴んでと叫んでいた。そうだ。確かに、こんなものが現実の訳がなかった。なんで今まで疑問に思わなかったのだろうか。自覚すると突然視界が不確かで、あらゆる色が正しくないように感じられた。獏とやらが存在するのならば今すぐに助けてほしい。
他の私たちも同じように思ったらしく顔色が必死の形相となった。車両の天井に、丁度一人通れるかというくらいの隙間が開いて、メリーが顔を覗かせた。
お母さん、お父さん。遊園地に連れてってくれるって言ったよね。ヒロシゲ35号に乗って、遊園地に連れてってくれるって言ったよね。私は覚えてるよ。あれから、結局私が乗っていたのはヒロシゲ35号じゃあなくて、車掌さんが半べその私の面倒を見てくれた。お母さんと引き合わせてくれて、心配で心臓が潰れそうだったというような態度のお母さんが私を抱きしめたっけ。
それのせいで時間の都合がつかなくなってしまったので、お父さんは予定を変更して、近場のちゃっちい科学館に連れてってくれた。プラネタリウムを見た。結局すごく楽しかった。子供心に割高だと感じたソフトクリームも、私が指差したら嫌な顔ひとつせず買ってくれた。あの白い幸せの塊を舌ですくい取って、自分の表情が喜色に満ちるのを感じた。なんで死んじゃったんだよ、二人とも。あれ? 死んだ? お父さんとお母さん、死んだんだっけか?
私たちは皆、一斉に手を伸ばした。私だよ、本当の私は私だよと言って我先と。メリーは目に見えて困惑した。メリーが引き上げられるのはきっと一人だけだったのだ。
私はメリーとの色んな思い出を振り返った。大体、どうでもいい散策だった。先のことを何一つ見通さず、ただ体だけ重ねて小さな幸せを捏造する破滅的な同棲生活のようだった。何がガラスみたいに綺麗な血液だよ。ただの赤い鉄だ、あんなもん。いい加減にしろ。
メリーは決心するように、自分の頬を両手で引っ叩いて、ついに私の手を掴んだ。それはさっき私が殺そうとしてできなかった、明朗快活な私だった。私はきっと私を選んでくれるって信じていたわと言って得意げだった。メリーははいはい、そうですねと呆れ顔だった。私は自分の首から下を見た。血と吐瀉物に濡れていた。日常を取り戻した二人が最後に映って、隙間は閉じた。選ばれなかった私たちが一斉に私の方を見た。私は自分の顔が今まで自覚したことのないほど、絶望と嗚咽に歪むのを感じた。
私のような気持ち悪いやつが宇佐見蓮子のはずないじゃないか。
***
「蓮子?」
何か、そう、アイデンティティがすべて粉々になったのを、一から組み直す作業をするような工事の音が頭の中から聞こえた。
自分の口から涎が垂れていたことを自覚して、袖で拭った。メリーはまあ、と声を上げて、私に差し出してくれていたハンカチをしまった。どうも、京都に着いたらしい。大学の友人を両親の喪に付き合わせるなんてほとほと薄ら寒い行動だと自戒した。
二人そろって即死だったらしい。老人の運転する車がダーツの名手のようにつっこみ、木っ端みじん、老人の方は無事。全自動運転車用の免許で半自動運転車に乗っていたので擁護の余地はほぼゼロになりそうだとか。交通事故って得てしてそういうものよね。下手に要介護とか植物状態とかで生き残られたりしても困るので、正直ホッとした気持ちの方が強い。
「その顔は、また一人で自己嫌悪してるのね」
ご名答。妙にリアルで変な夢を見たことを話すと、ああ、実際、蓮子が寝ちゃってからね、ちょうど線路の上に空いた大きな境界に電車が突っ込んじゃって、乗ってる皆は少しずつ変な体験をしたみたい。うなされてたから何度か起こしたのだけれど、全然目が覚めなくて心配したのよ、と今回のオチを喋ってくれた。
まだぼやけている視界を慣らせようとしていたのを急かされて、手を引かれるようにして早歩きで車両を降りると、ヒロシゲ36号は他人行儀にその扉を閉めて次の定位置へと走っていった。
私の口からは悲しいという言葉がこぼれた。メリーは私の手を握った。どうも私は、これでちゃんと傷ついているらしかった。
「ねえメリー」
「なあに」
夕方だった。私の真っ白なシャツがその色に染まった。血の色ではない。吐瀉物の色でもない。あと、冬でもなかった。機械音声の駅員さんが反対車両に次の電車が来るのを教えてくれていた。
「帰りソフトクリーム食べよ」
あれはヒロシゲ37号かもしれない。
不思議で不気味でしたが、どこか寓話的で読んでいて楽しかったです
全体の陰鬱なトーンがかえって心地よい浮遊感になっていました。
ただ手法上仕方のないことですが、オリジナルの設定が多くなってしまったこととそれが好みと外れてしまったことで得点での評価は低くなってしまいます。
こういう胡乱な夢で右往左往する感じの白昼夢的作品は結構好きです。
えー蓮子ってもっと素敵では―? とか思いましたがそこらへんも途中で明朗快活なタイプのやつが出てきたところでなるほど可能性世界という感じでいい感じでした。
面白かったです。有難う御座いました。
個人個人の中にある許容しづらい、他人がレッテル貼りしてしまう部分を『見せられている』作品に見えるのです。だからこそ、人によっては粘度の高い嫌悪感を感じてしまうのかもしれませんね。
ご馳走様でした。面白かったです。
親から勝手に選び取られ生まれた宇佐見蓮子と、夢の中ではメリーに選び取られなかった宇佐見蓮子、それでも幸せそうな記憶があってメリーとの日常があって、余計に重苦しさが倍増していたのがエグいようでもありました。
でもやっぱり描写から考えられる蓮子の両親像を思うと、この蓮子の自己嫌悪の激しさが滅茶苦茶に感じられて難儀なもの。面白かったです。
その上に好みから言えば外れてる
それでも100点の作品でした
わからないなりにこの作品のここはどういうことなのかって考えたくなるものでした
宇佐見蓮子って何なんでしょうね